Marlboro

 仕事の合間、いわゆる空き時間。
 手持ち無沙汰に待つだけも飽きるので、気分転換にあちこちぶらぶらしてみる事にした。
 そうして結局、辿り着くのはビルの屋上。晴れやかな空が頭上一面に広がる、風も強くあまり過ごしやすいとは言い得ない空間。
 最後の段差を登り切り、狭い踊り場を一直線に横切って封鎖されているはずの扉を、押す。
 呆気ないまでに抵抗もなく向こう側へ開かれた扉の、先に。
 遠く、鳴り響く救急車の声と。
 薄く棚引く煙が見えた。

 
「あれ?」
 第一声が、それ。
「んぁ?」
 声に、振り返るつなぎ姿。
 がしゃん、とその足下にあった金バケツが音を立てた。動いた時に爪先かなにかで蹴ってしまったのだろう、洗われたばかりなのか重そうな雑巾がひらりともせず表面に張り付いている。
 不機嫌そうに歪められた口許で、けれど相変わらず天へ上る細い煙を吐き出し続けているものが、ひとつ。
 目深に被った帽子の鍔を持ち上げ、彼は珍しい来訪者を日光の下で意味深に観察しているようでもあった。
「よぉ」
 決して初対面ではないのだけれど、言うほど親しくもない知人を漸く認識してあちら様は馴れ馴れしい素振りでもって片手を挙げた。
「珍しいな」
 後ろ手に扉を押し、勝手に轟音を立てて閉まるのを見送りもせずにコンクリートの地面を蹴って進む。彼はにやにやと笑いながら、バケツの傍に立てかけていたモップが倒れそうになったのをあわてて受け止めた。
「サボり?」
「休憩と言いやがれ、休憩だっつの」
 間近に進み出てから問うと、彼は銜えていた煙草のフィルターに近い部分を指で摘み、煙を盛大に吐き出しながら悪態を吐く。凭れ掛かっている、ビルの屋上をぐるりと囲む鉄柵を片手で掴み、バランスを取りながら彼は背を大きく仰け反らせた。そうやって、肺にため込んでいた空気を煙と一緒に空へ送り返す。
 燃え尽きた灰は、ぽとりと彼の足下へ。
「自分で掃除しなよ」
 ビルが契約している清掃業者のマークを背中に背負っている彼に呟き、自分は両肘を柵の外側に引っかけて前屈みに凭れる。頬杖をついて退屈な町並みを眺めていると、隣の彼はこれ見よがしに、煙草を美味そうに吸っては満足な顔をして煙を吐き出してくる。
 ムッとなって、対抗意識を燃やしたわけではないけれど、無意識のうちに手が胸元のポケットをまさぐっていた。
 残り短くなった煙草が彼の足下に捨てられる。火種を爪先で踏み消し、掃除するのは誰だと思っているのかと自分で勝手にぼやいているのが聞こえた。
 その間に漸く探し当てたものを、指先で器用にポケットから穿りだして掴み直す。箱の蓋を開けて、真っ先に見えたブルーメタリックのジッポを取り出して、それから。
 次なるものを目指して突っ込んだ人差し指は、しかし虚空を探るだけで何物も見つけ出す事が出来なかった。
「……アレ?」
 隣で二本目に火をつけていた彼が、怪訝な表情でもって様子を窺ってくる。片手を風よけの壁にしていた彼の、視線だけが手元の箱を注視して。
 嫌な結論に至ったのか、途端渋い顔を作る。
「要るか?」
「モチ」
 ほらよ、とそれでも一度は仕舞いかけていた自分の箱を抜き取って差し出して、彼は嫌々ながらも蓋を親指で押し上げた。
 暴かれた中身は、まだ半分ほど手つかずのまま。
 けれど。
「えー……マルボロ?」
 赤と白をメインに、黒文字で書かれた銘を読み取って、差し出された側の自分が不満を口に出す。
「駄目かよ」
「ダメっていうか……うーん……」
「なら自分で買って来い」
「売ってるんだったら、そうするんだけどネ~」
 ビルの中にいくつか置かれている煙草の自動販売機。けれど自分がもっぱら好んで吸う銘柄は、その中に並べられていないのだ。外に買いに出れば手に入らない事もないだろうが、そこまでするのもまた、億劫。
 数秒間考えて、色々暗中模索する事もあり視線を天に浮かせてまた沈め、結局のところ、差し出された箱から一本だけ飛び出たそれを摘んでしまうわけだけれど。
 すかさず安物の百円ライターが火を点し、致せり尽くせりのままいつもとはほんの少し違う苦さが喉を通り、身体の中に浸みていた。
 吸い込みすぎた空気に噎せて、咳が出る。
「そんなに不味いかよ」
「そゆワケじゃないんだけどネ」
 気を悪くしたように口角を歪めた彼に片手を顔の前で立てて謝り、吐き捨てかけた煙草を掴んで保護したまま、ふたくちめを喉に通す。さっきよりかは幾分マシになって、渋み以外の味が広がっていくのが分かった。
 だがやはり、舌が違和感を訴えて来る。
 微細な違いであるはずだが、慣れない。
「しかし、良いのか? お前さん、確か禁煙中って話聞いたぜ」
 背中をぐっと逸らしたまま、鉄柵に体重を預け彼が尋ねる。器用に吐いた煙をドーナツ状にして、目元は薄く笑んでいる。 
 真似てみたが、巧く行かない。
「見つからなきゃ良いのデス」
「知らね~ぞ、俺は」
 お前のトコのリーダーはおっかないんだろう、と何処で聞きつけたのか知らない事を口に出し、けたけたと笑って彼は燃え尽きた吸い殻をコンクリートに落とす。灰が砕けて飛び散って、一本目のそれを汚していた。
 走らせた視線の片隅で眺めて、自分はポケットに潜ませていた小型の携帯灰皿を広げてそこに灰を落とす。良いのか、と目線だけで問うと、どうせ掃除をするのは自分だから、と開き直った感の台詞を吐き捨ててくれた。
 呆れて笑ってやると、向こうも同じような表情で肩を竦める。
「君こそ、見つかったらヤバイんじゃない? 腕利きの、スナイパー君?」
 戯けた調子で重ねて言ってやると、瞬間彼の目つきが鋭いものに変わる。しかし本気のそれでない事くらいお互い承知の上で、現に彼が掴んだのはバケツに端が突っ込まれたモップの柄。その一番の凶器は、汚水にまみれた先端部分だろう。
 脅す体制で引き抜こうと力を込めた彼の袖がまくられた腕を見やり、ジリジリと後退してみせると一緒になって、煙も揺らぎ一瞬だけ斜めになる。
「二本目は無いと思え」
「あ、言えば分けてくれたんだ」
 既に残り少なく短くなってしまっている煙草を軽く指で弾き、意趣返しで言われた事を茶化してみせたら、彼は案の定ムッツリと不機嫌を顔に出してモップを握る手に力を込めてくれた。
 冗談だよ、と小声で言い返さねば、本気で濡れたモップが頭に振りかざされたかもしれない。冷や汗を覚え、煙草を吸う。
 落ち着かせようと肺いっぱいに息を吸い込み、煙と共に吐きだして、前歯で短いフィルターを浅く噛む。慣れない味ではあるが、離れがたく名残惜しい。
 こうも依存症になるとは。自分でも予想出来なかった結末に、自然と笑みが零れ落ちて、傍らの彼に怪訝がられた。
「時間は良いのか」
「ん~……まだ平気」
 仕事があるのだろう、と知りもしない人のスケジュールを気にする彼の腕時計を強引に脇から覗き込み、文字盤の時針と短針を読み取ってあっけらかんと返す。自分のを見れば良いだろう、ともっともな事を言われたが、生憎と時計は持ち歩いていない。
 そう言ったら、携帯は持っているくせに、と舌打ちされた。
「……ダメ?」
「ダメ以前の問題だろうが」
 まったく、と独りごちて彼もまた時計を眺めた。安物の時計を覆う薄い硝子に、天頂よりもやや傾いた日の光が反射する。
 目の前に広がる光景は、一向に変化を見せない灰色に染まった人工の、無機質な空間を彩っていて少しだけ寂しい。
 最後の一息を吐きだして、煙草は揉みくちゃにされながら携帯灰皿に落とされた。
 手持ち無沙汰になった両腕が、柵を乗り越えて空中で意味も無く踊る。
 舌の上に僅かに残るマルボロの味だけが、いつもと少しだけ違って思えた。
「君はなんで此処に居るの」
「居たら悪いのか」
「全然」
 会話にもならないたわい無いやりとりを繰り返し、指の隙間を抜けていくビル風に時々身を竦ませる。
 三本目に火をつけた彼が、飛ばされないように帽子を片手で押さえつけたまま、なにも無い空を見上げた。狭い青空を渡鳥の影さえ、そこには無い。
「たぶんお前さんと理由は同じだ」
 なにも無い場所で、なににも縛られない場所で、なににも気を惑わされず、なにかに邪魔される事もなく。
 煙草でも吸って、ひとり、ぼんやりと過ごす時間を持ちたくて。
 気付けば足は上を目指し、階段を上って扉を押し開いていた。
「んじゃぁ、似たもの同士って事で」
 頂戴、と掌を上にして差し出すと。
 途端、ペシッと弾かれた。
「ケチ」
「二本目は無いつっただろうが」
 吸いたがっている存在を前にして、自分だけが悠々自適に楽しむのは良いらしい。うっすら浮かべた満足そうな笑みを睨み付け、せめてもの嫌がらせとして、彼の仕事道具であるバケツを、蹴ってみた。
 小気味の良い音、とは言い難いが金物の音が空に伸びて吸い込まれていった。
 ビルの谷間を抜ける風が唸り声を上げて通り過ぎていく。煙は揺らぎ、直ぐに紛れて霞み、見えなくなる。
 呆気ない幕切れは、もの悲しい。
「救急車は、間に合ったのかな……」
 何気なく向けた視線の先は、此処よりも遙かにある歓楽街と、その手前に群がる無数のビルたち。
「さぁて、ね。俺の知ったこっちゃねぇ」
 まだ長さの残る煙草を惜しげもなく指ではじき飛ばし、落ちた火種を踏みつぶして彼が嘯く。
「間に合ったところで、どうにもならねぇさ」
「それは、君だから言えるコト?」
 お仕事道具は大事に扱ってあげようね、と再度爪先でモップの差し込まれたバケツを小突いてやる。市販されているものよりも柄が少しだけ太く、根本がずんぐりしているそれを顎でしゃくると彼は眉間に皺を寄せ、帽子を目深に被り直した。
 今更だろうに、と歯を見せて笑ってやると今度は自分が、頭を小突かれた。
「世の中、利害の一致だけで動いてるもんだぜ」
「なら、利害が一致したところで」
 何処をどう崩せばそういう展開に行くのか、またしても、しかも今度は揃えて両手を差し出され、彼は握った拳を代わりに押しつけてやった。曰く、火のついた煙草を押し当てられるよりは良いだろう、と。
 ちぇ、とつまらなさそうに宙を蹴り上げると、軽く笑い飛ばされる。
「金払うなら、考えてやるぜ?」
「いくら?」
「福沢諭吉」
 聞き返すと、即座に言ってのけられて、唖然とする気も起こらない。
「ぼったくり甚だし!」
「譲ってやろうって言ってるんだ、人の好意はありがたく受け取れ」
「そのどこが好意なのさー!」
 お互いにぎゃんぎゃん吠えていると、周囲も見えなくなるものなのか。
 気がつけば、自分たちの真横には、長い影をコンクリートの伸ばし悠然と構えるサングラスの男が立っていて。
 二人揃ってはっと我に返り、新参の彼の顔を認めた瞬間そのままの姿勢で固まってしまったのだけれど。
「続けろよ、面白いから」
 飄々とした態度を崩さずに、掌を見せて先を促された。
「MZD……」
「俺のコトは気にしなくて良いから、続けろよ。見ててやるから」
 いったい彼は何をしに、いやそもそもいつから此処に居たのだろう。まるで気配を悟らせて貰えなかった事に多少のショックを覚えつつ、見やったMZDがあちこちのポケットを、なにやら捜し物でもしているように漁っているのに気付いた。
 KKもまた、帽子の鍔を直しつつ、MZDを窺う。
 漸く目的のものを見つけたらしく、安堵の表情で取り出した箱を開いた彼は。
 しかし、二秒後に硬直する。
「……まさかとは思うが」
 空しくジッポを開閉する音が場に漂う。KKの乾いた笑い声に、MZDの視線が泳いだ。
「持ってるか」
「ぼくは持ってないヨ~」
 煙草の空箱を握りつぶし、やや苛立たしげにズボンのポケットに押し込んだMZDの問いかけに、すかさずスマイルが答える。指先は、無論KKを向いていて。
 げっ、となった彼は慌てて首を振るが、残り本数にまだ余裕があるのはスマイルに既に確認されている。逃げようが無く、鉄柵にまで追いつめられて結局降参した。
 喉を鳴らして笑い、ちゃっかりとスマイルもご相伴に預かって、KKの煙草は一気に残り本数が心許なくなってしまった。半泣きになりつつ、もう駄目だからなと念押しして彼は後ろポケットへ煙草を捻り込んだ。
 三本の煙が空に靡く。
「ったく……煙草増税だっつってんのに」
 ぶつぶつ文句を言いつつ、腹一杯の息を吸い込んでKKが地団駄を踏んだ。
「ああ、そういやニュースでそんな事も言ってんな」
 長い煙を吐き出しつつ、柵に凭れて座り込んだMZDが相槌を打つ。
「じゃあ、今度は君にぼくが煙草を奢るよ」
「それよりも、福沢君を今すぐ寄越しやがれ」
「ヤダ」
 KKを挟んでMZDとは反対方向に腰を下ろすスマイルが笑って、即座に茶々を入れるKKに舌を出して返す。ひらひらと頭上で振られた手は、自分がやられた時同様に、たたき返してやった。
 見ているだけのMZDがケタケタ笑い、彼の足下で丸くなった影が肩を竦めた。
「しっかし……マルボロかよ。安いの吸ってんなぁ」
「ほっとけ!」
「だよねぇ。どうせなら、赤よりも金色のが……」
「いや、それは関係ないだろ」
 ぽつり言ったスマイルに、ふたりから同時にツッコミが飛んできて苦笑が漏れる。
 見上げた雲の隙間に、ジャンボジェットの機影が見えた。
「時間は?」
 KKが尋ねてきて、スマイルは今度こそ自分の携帯電話を取り出して開いた。小さな液晶画面に、着信有りの文字が明滅している事に今更ながら、気付く。
 時間はちょうど、数分前。発信元は、言わずもがな。
 タイミングを同じくして、三人がくつろいでいる屋上の扉が物凄い音を立てて外側に、それこそ弾け飛んでいくのではと怯える程に、力任せに開かれた。
 鬼の形相で立っていたのは、スマイルの携帯を数分前に鳴らした人物に他ならず。
 スマイルの口から、銜えていた煙草が支えを失って落ちた。
「……言わんこっちゃねぇ」
 呆れと笑いを同時に浮かべた表情でMZDとKKが見送る前で、スマイルはユーリに引きずられて行った。脳天に、これから収録があるのに大丈夫なのか心配になる、巨大なたんこぶまで作って。
 少しだけ閉まりが悪くなってしまったらしい扉が、やはり強引に閉められて場が静まる。扉の向こうから今しばらくはユーリの怒鳴り声が聞こえてきたけれど、それも直に聞こえなくなった。
 最後の一息を吐き切って、KKは腰を上げた。足下に積み上げられた煙草の吸い殻を、バケツに差し入れたままのモップの先に絡めて拾い集める。便乗したMZDが自分の吸い殻をその中に紛れ込ませ、ズボンの埃を払いながらやはり立ち上がった。
「ごっそさん」
「ツケとくぜ」
 ひらりと手を振ると、不適な笑みを浮かべてKKが人差し指を立て、MZDを狙う仕草で片目を閉じた。
「倍返しにしてやるよ」
 真顔で言えば、冗談に受け止められて笑い飛ばされる。
「じゃあな」
 手を振り、MZDも去る。結局彼も、何をしに来たのか分からない。
 ただ、分かるのは。
 無意識に煙草の入ったポケットをまさぐり、KKは目に見えて分かるその凹み具合に肩を竦めて自分に笑った。
 世の中のはみ出しものは、こんななにもない寂しい場所に集まりたがる。
 モップを肩に担ぎ、バケツを持ってKKも閉め忘れられた扉を目指し歩き出した。
 口の中に残る、マルボロの苦みに少しの未練を覚えながら。

lie×lie

 年が変わる前に買ったカレンダーの、その日にユーリは忘れないようにといち早く丸印を入れていた。カレンダーを捲るのはアッシュの仕事だったが、月頭のその印がなされた日は、その月が来るまで誰にも気付かれない。
 いや、もしかしたら彼らは忘れないかも知れないけれど、去年はまんまと自分だけ知らないまま騙されてしまったので、今年こそは騙されないように、という意気込みも込めて。
 赤印の日は着々と近付いてきている。思えば、こんな風に何かを企んでその日がやってくるのを待ちわびたことなど、片手で余る程しか無かった気がする。
 眠っている時間が永かったからな、と腕組みをして考えに耽りつつユーリは目の前から窓の外を見上げた。
 ゆっくりと、しかし確実に季節がひとつ巡りつつある。今日から春、といった明確な区切りは何処にも現れないけれど、月が変わるだけでも気持ちはそれなりに変わるものだと最近気付くようになった。
 通り過ぎていくばかりの時間に眼を向けるようになれば、虚無に埋め尽くされていたはずの世界が不思議にも広く、色鮮やかなものに映る。季節毎に咲き乱れる花の違いや、食べ物の味もほんの僅かずつ変わっていって。
 ああ、こうやって人間は年月を重ねて歳をとり、視界を広げて行くのだと。あれらと同じには到底なれないと知りつつも、ほんのちょっとだけ、羨ましさを感じてしまう。
 明日は、月変わりの初日。
 四月一日。
 嘘の準備は、整った?

 朝起きて、何気ないフリをしたまま普段通りの行程を順番にこなしていく。
 食事を摂って、珈琲を啜りながら新聞を広げ読み、持て余した時間を散歩に浪費して、ちょっとした買い物に出る。
 その買い物で、頭の中で組み立てていた計画を実行すべくとある店により、予め予約して置いたものを代金と引き替えに受け取って、城へ戻る。
 今日は寝坊したらしい奴が若干寝癖の残る頭を掻きむしりながら、ようやく食後の珈琲に手を出しているところに遭遇しても、何食わぬ顔を装って台所のアッシュを訪ねた。
「ユーリ、それは?」
「仕返しの小道具」
「は?」
 一年越しの仕返し、と言えば暇な事をする奴も居るものだと自分でも思うが、あの時はそれなりに驚いたし莫迦にされたような思いもあったから、やはり仕返しは必要だろう。一方的にからかわれたままでは、自分の沽券に関わる。
 綺麗にラッピングされた箱をユーリから受け取って、中身に大まかな予想を立てたアッシュがやはりまだ分からない、という顔をしている。もしこれが自分への贈り物だったならどんなにか良かっただろう、と考えているのかもしれない。
 作業台のテーブルに箱を置き、リボンを丁寧に解いた狼男の手が慎重に箱の蓋を取り除いた。気をつけて帰って来たユーリの苦労の甲斐あってか、中身は店で飾られていた時と寸分違わぬ姿形を保ったまま、箱の台座に鎮座していた。
 ごくり、と甘党の男が喉を鳴らす。
「貴様にも後で分けてやる」
「……それは嘘じゃないっスよね」
「ああ、嘘だ」
 ひとり分としては少々大ぶりの、丸いケーキ。飾り付けは控えめながら、硬くホイップされたクリームが全面に塗られて甘い香りが台所中に広がりつつある。季節のフルーツが内部にぎっしり詰め込まれているらしく、店員が受け渡しの時に説明してくれたのを思い出した。
 生唾を飲んでそんなぁ、と情けない顔をする狼男はこんな時だけ、とても小さく見えるのが不思議。このまま退化して狼と呼ぶには語弊がありそうな姿に戻りはしないかと、少々心配になってユーリはケーキの蓋を慎重に閉めた。
 嘘と断言されてしまい、目の前でお預けを喰らった犬が恨めしげな目線でユーリを見ている。口にやった指の先が涎で濡れていそうで、盛大な溜息を吐いたユーリは肩を竦めた。
「仕方がないな」
 どうせ自分ひとり、と、仕返し相手だけで食べきれるとは思っていない。ホールの四分の三以上は、彼の口に運ばれる結果は買う前から目に見えていた。
 最近評判が良いと聞くケーキ屋の、この春の新作なのだそうだ。そういう情報にも耳聡いアッシュが知らないわけはないはずで、もしここで食べさせてやらなければ来年、自分が彼に仕返しを受けそうな予感がする。
「但し、後からだからな」
 先ずは、仕返しを実行してから、とアッシュにケーキを切り分けるように言い聞かせてからユーリはそっと、ドアを開けてリビングに場所を移しくつろいでいるスマイルの姿を探した。
 何を企まれているのかも知らず、暢気に欠伸をしている。眠そうに目尻を擦り、興味無さそうにテレビのチャンネルを弄っている。そのうちに、マグカップが空にでもなったのか電源を切ってソファから立ち上がった。
 慌てたようにユーリが扉を閉める。ちょうどアッシュが、四分の一に切り取ったケーキを皿に移し替えたところだった。隣には香りの良い紅茶が添えられている。
 ユーリは何食わぬ顔を装ってテーブルの前に据えられていた、飾り気も無いスツールに腰を下ろした。皿に載っているケーキの、切れ目から溢れんばかりになっている果物に視線をやって、これは甘そうだ、と臍を噛む。
 甘いものは嫌いでないが、好きでもない。四半サイズでも辛そうだ、と考えているとテーブルの対岸に居るアッシュが非常に恨みがましい眼を向けて来ていた。睨み返すと、きゃんきゃん鳴いて遠ざかる。
 扉が開いて、差し込んだフォークで掬い上げたスポンジ生地から雪のような白い粉砂糖を零れた。甘く握った金属器が、薬指に嵌めた銀の金輪に擦れて微かな衝動を生む。
「うっ」
 台所に爪先を入れたところで、そんな風に呻いたのは白磁のマグカップを胸に抱いたスマイルに他ならず。
 彼は扉を半端に開けた状態のまま、気分悪そうな顔をして室内を覗き込んだ。いや、彼の顔色は元から悪いのだけれど。
「なんか、甘いんですケド……」
「何をしている、入ってくれば良いだろう」
「いや、だから……ネ?」
 匂いからして甘いものを嫌悪するスマイルの反応も分からないでないが、ユーリの鼻はとっくにこの甘さに慣れてしまって麻痺していた。だから平然と言い放つ。向こう側でアッシュが苦笑していた。
 ケーキの残りを大事そうに冷蔵庫へしまい込み、ついでだからと昼食の仕度でも始めようというのか食材を幾つか手にとって。手招きをしてアッシュにおかわりを注いでもらおうとしたスマイルだけれど、今手が放せないから自分でやってくれと彼に言い返され、渋面を作った。
 ユーリはフォークを機械的に動かし、甘いケーキを口に運ぶ。だが思ったよりも甘さは控えめで、フルーツの味ばかりが先に立つ感じがする。
 これは美味しいと言うべきか否か、判定に苦慮しつつユーリはちらりとスマイルを見た。どうにか台所に入ったものの、テーブルに置かれた物体に気付いてげっそりとしている彼に、自然笑みがこぼれる。
「貴様も食べるか?」
 そう言って、フォークに差したスポンジと、それを多うクリームたっぷりを見せつけるように彼へ示せば当然ながら、スマイルは勢い良く首を横に振った。
 ユーリの笑みが深くなる。
「見た目ほど甘くないぞ。果物ばかりで、むしろ物足りない感じだ」
 それは本音から出た感想で、聞かされたスマイルはムッと眉根を寄せて顔を顰めた。さりげなく聞き耳を立てているアッシュが、後で午後のデザートになるだろうケーキの残りを思って冷蔵庫へちらりと視線を向ける。
「ホントに?」
 勘ぐりを止めないスマイルに嘘じゃない、と強調して告げたユーリがほら、と自分が使っていたフォークに乗るケーキの欠片を更に彼へと突き出す。まだ渋面を崩さないスマイルが、だけれど断り切れないという顔をしてユーリへ躙り寄った。
 爪先がテーブルの脚に当たる。
「口を開けろ」
「…………」
 命令されて、間近に顔を寄せたスマイルが無言のまま口を開けた。すかさず、ユーリはその中へフォークを差し込む。唇が閉じられると同時に引き抜き、銀フォークの端には生クリームがこびり付く。
 数回の咀嚼。その間、全員が固唾を呑んで見守っていた。
 しばしの沈黙が漂う。ユーリの予想では、この後スマイルはケーキの甘さに苦しみ、ユーリは彼が騙されたと言って笑い飛ばしてやるつもりだった。
 けれど。
「………ああ」
 ごくりと喉を鳴らしてケーキを呑み込み、口許を拭ったスマイルは顔色も変えること無く息を吐きだして。
「本当だ、そんなに甘くない」
 ユーリもアッシュも呆気に取られる感想を、平然と舌に載せて。
「え?」
 まさかそんなはずはないだろう、とユーリは慌てて手元のフォークでクリームの表面を削り取り、口に入れた。
 甘い。控えめとは言え、甘味系一切がダメのスマイルが平気で居られる程度とはとても思えないのに。思わずアッシュと顔を見合わせてしまったユーリの横顔へ、スマイルはにこりと満面の笑みを返した。
 空のままのマグカップを音を立ててテーブルに置いて、さっきよりももっとユーリに詰め寄って顔を寄せて。
 不気味な程に感情のない笑みのまま、囁きかける。
「あのさ、ユーリ」
 これは、もしかしなくとも。
 怒らせた、だろうか?
「ぼく、」
 勿体ぶった調子で間を置きながら、喋る。アッシュが息を呑んだ、もしかしなくともスマイルは怒っている。
「君、嫌い」
「……え」
「ユーリなんか、大嫌い」
 キッパリと断言して、彼は離れる。マグカップをテーブルに残し、彼は振り返りもせず台所を出ていった。勢い良く扉を閉めて、その後は気配さえ辿れない。
 へなへなとユーリは全身から力が抜けて椅子にへたり込んだ。床にフォークが落ちる。跳ねた生クリームが散ったが彼はそんなところに気を配る余裕など何処にもなかった。
「あ、の……ユーリ。ほら、ほら今日はエイプリル・フールっスし!」
 先に我に返ったアッシュが取り繕うように、冷や汗を噴き出しつつ必死になって両手を振り回しながら言って聞かせるけれどそんなことば、少しも説得力がない。あの時のスマイルの眼は本気で、心底怒っているのだと知らしめた。
 ユーリの唇が青ざめたまま、震えている。奥歯がカチカチと小刻みに鳴って、座っているのもやっとだった。
 自分のことばが彼に届いていない事を悟って、アッシュも静かになる。どうしようか、と心の底から困ってしまって、スマイルが残していったマグカップを洗おうと手を伸ばした。
 瞬間、ガタガタっとけたたましい音を立ててユーリが椅子を薙ぎ倒し立ち上がった。落としたままだったフォークを踏みつけて、荒々しい態度で台所を出ていく。
 或いは泣くかと思ったのだが、逆だったのか。どちらにせよ、修羅場は覚悟しておかなければならないだろうか。だったら自分の出る幕ではないし、出来るなら巻き込まれるのも御免だと、アッシュは残されたケーキの皿と床のフォークを交互に見やった。
 まずは床の生クリームを片付ける事から始めようか。そう考え、雑巾を探し彼は視線を巡らせた。

 案の定、探せばスマイルは洗面台の前に居た。
 濡れた口許を、同じく濡れた手で拭っている。邪魔になるのか左手の包帯だけが剥かれ、白い渦が床に出来上がっていた。咥内にあった唾を吐き出した彼は、背後から迫る気配を察知して前傾姿勢のまま首だけを捻った。
 やや剣呑な色を含んだ隻眼が鈍く輝いている。まだ怒りは解けていないようだったが、それはユーリもまた同じ。冷静に考えてみれば、あれしきの事でどうして「嫌い」と面と向かって言われなければならないのか。
 笑い飛ばしてやるつもりだったのに、そんな気持ちは遙か彼方へとすっ飛んでいってしまった。残るのは理不尽な怒りばかり。
 確かに先に騙したユーリも悪いだろうが、それだって去年散々自分がからかわれて笑われた事に対するささやかな復讐心が起因。元を辿ればスマイルが悪いという思考に行き当たるので、ユーリも引くに退けないままこめかみに青筋を立てている。
「何」
 ラックから引き抜いたタオルで顔を拭いて、鏡に向き直ったスマイルが低い声で問うた。感情の抑揚の無い冷えた声に、しかし立ち止まる事もなくユーリは距離を詰める。タイル張りの床に散った飛沫を爪先で潰して、目の前まで行って。
 ぐっと喉に力を込めて彼を睨みつける。若干スマイルが身長もあるため、どうしても見上げ気味になって迫力に欠けてしまうのが難点であったが、気にしない。
「スマイル」
 怒気を孕んだ声で名を呼んで、剣呑な瞳を揺らすスマイルを見詰める。
「……嫌いで結構。私とて、貴様など」
「ユーリ」
 口許を再度タオルで拭ったスマイルが、冷えたままの声で呼び返した。柔らかな布地越しに、少しだけくぐもった音色は音の響きも良い空間で思いの外伸びて消えた。
 なんだ、と目くじらを立てたままユーリが片眉を持ち上げる。スマイルは顔半分を覆う包帯に更に、付け加えて口に押し当てたままのタオルの所為で読みづらい表情のまま、其処に立って何処かを見ていた。
 何もない壁を振り返ってしまったユーリが、怪訝な顔つきで視線を戻す。そうするともうスマイルは何処か分からない場所から彼へと目線を戻していて、尚かつ薄い笑みさえ目許に浮かべている。
 緩められた隻眼に、訝みを隠せないユーリ。
「ぼくが、甘いもの嫌いなのは知ってるよネ」
 それも匂いだけで吐き気を催したがる程に重度だという事は、仲間内だけではなく甘いものが食べられないなんて人生の半分を損してるよね、と肩を叩かれるくらい知れ渡っている事。
 勿論ユーリも知らぬはずが無く、ましてや口に入れたらどうなるかなど。目を閉じて思い描くまでもなく、簡単に予想がつくだろうに。
 今、この場所で彼が何をしていたのか、も。
 透明なグラスが水滴を垂らして逆さまに置かれているのを横目で見て、ユーリは頷いた。
「彼処で、吐いて欲しかった?」
 口に入れたものを、あの場で吐露していたら。
 想像して、ユーリは今度は首を横に振る。
「でショ?」
 にっこり、と。
 スマイルが笑って、ユーリはズドン、と頭の上に落ちてきた見えない石に首根っこが折られそうな重みを感じながら肩を落とした。
「ああいう、迂闊な事をするユーリは、嫌いだよ」
「……だが」
 あの時のスマイルは、今の会話にあったような理由だけで怒っているようには見えなかった。顎にやった丸めた手に視線を伏したユーリを間近から見下ろして、スマイルは嘆息する。
 悶々と考え出したら止まりそうにないユーリの、鮮やかな銀糸を眺めやって指先が完全に乾いているのを確認してから、そっと爪が当たらないように梳ってみた。さらさらと、抵抗も無くそれは彼の指の隙間を流れていく。
「ね、ユーリ」
 握っていたタオルを降ろす。鋭い牙を指に押し当てている彼の手を包帯に巻かれた腕で留めて、綺麗な肌に囚われた金輪にそっと、触れるだけのキスをする。
 そうやって漸く顔を上げてくれたユーリに、柔らかく微笑みかけて。
「嘘を吐くのって、体力いるでショ」
 一時のごまかしの嘘でも、計画性をもって練られた予め用意された嘘であっても。
 ちょっとした冗談のつもりでも、誤解を受けたまま放置すれば嘘は真実にすり替わっていつまでも根を残す。本意で無かった事が、本人の手を離れた場所で勝手に一人歩きを始めて止まってくれない。
 誰も嘘の理由や、真意には気付かない。その嘘を吐いた本人が、心根を晒さない限りは。そして嘘を隠し通そうとすればするほど、見苦しい嘘が塗り重ねられていって益々、元に戻れなくなる。
 気がついた頃には、遅すぎて。
 ただ、苦しい。
「なーんで、エイプリル・フールなんて日があるんだろうネ」
 諸説はあるが、有名なのはノアの箱船。中世ではその日だけ、君主と愚者が入れ替わったという説もある。だが、真実は分からない。誰が始めたのか、何故その日だけ嘘が許されるのか。
 ただ、もしかしたら。
「覚えておいて。今日の嘘が明日には本当になる事だって、あるんだってコト」
「……済まなかった」
「イイヨ、謝らなくても。騙されたぼくも悪い」
「いや、私が変に意固地になっていただけで」
 嘘を吐くことによって、真実を告げる苦労を和らげたり。
 嘘を吐く事の辛さを身に滲みて思い知ったり。
 そういう役目が与えられているのかもしれないと、身勝手に感じた。
「今度からは、もうちょっとかわいげのある嘘にして欲しいナ」
「善処する」
 来年こそは、と。密かに心の中でユーリが誓ったのはまた別として。
 穏やかに笑んで、顔を上げた彼はしかし視線の向こうで、ふと遠くを見やったスマイルの横顔に首を捻った。あれは、何かを考え込んでいるときの表情に似ている。
 今日は四月一日、日付が変わるまであと半日以上残されている。
「ねぇ……ひとつ質問だけど」
 顎に手をやって撫でて、どことなく上の空な彼が呟く。なんだ、と問い返せば細められた隻眼がユーリの双眸を捕らえる。
「ユーリって、そんなに、さ」
 ぼくのこと、嫌い?
 あんな意地悪で嫌がらせでしかない嘘を仕込むくらいに。嫌われていないのなら、精神的ダメージどころか肉体的ダメージも大きい、不得手な食材を使いはしないだろうに。
 急に話題を引き戻して来たスマイルの意図を計りかね、ユーリはそれは悪かったと思っている、と唇を尖らせた。上目遣いに睨むと、緩んだ隻眼が僅かに笑っている気配を流しているのに気付く。
 ああ、もしかしたらこれも、エイプリル・フールの続き?
 不機嫌を追いやったユーリが、肩から力を抜いて溜息を零した。何をそんなに、拘ってくれなくても良いのにと思うが、どうせだから最後まで茶番につき合うのも悪くないだろう。
 もとは、自分が始めた事なのだし。
「そうだな」
 肩を竦めて両手を外側に向けて広げる。態とらしい落胆の様子をスマイルが晒して、それが殊更可笑しくてユーリは笑いが止まらない。
 少々予定は狂ったが、彼を笑い飛ばす事は充分出来そうだ。
「美味かっただろう? 貴様の為にわざわざ作らせたんだ、光栄に思え」
「美味しかったヨ……」
 とってもね、と思いだしたのか幾分常から悪い顔色を更に悪化させ、スマイルは視線を宙に泳がせた。だから、今の回答は間違いなく嘘。
 クスクスとユーリが声を零して笑う。
「あー、もう。やっぱりユーリってば、ぼくの事キライなんだ……」
 天を仰いで大袈裟に顔を手で覆い、スマイルが愚痴る。それから指の隙間に瞳を覗かせて、隠した表情に笑みを象らせた。
 降ろされた彼の手が、ユーリの右手を拾う。薬指に嵌められた、銀の輪。
「なら、コレ……返して?」
 要らないんでしょう? と問いかける。直後ユーリの表情が陰り、一瞬だけ凍り付いた。
「え……だって、これは」
「嫌いな相手から貰ったものなんて、必要無いでショ?」
 そう言って彼はユーリの指を飾るそれを二本指で挟み、引き抜こうとする。慌てたユーリが肩ごと腕を引き戻して逃れたけれど、にこにこと悪びれもせず目の前で微笑んでいる彼の姿に、茫然とユーリは立ち尽くした。
 信じられないと、目を見開く。スマイルが、小首を傾げた。
「嫌い、なんでショ?」
「だからって、これは……」
 右手ごと身体で庇ったユーリが、怯えた眼で彼を見据え返す。しかしスマイルは冷たい笑顔のまま表情を変えてくれず、早く、と急かして手を伸ばしてくる。今度こそ身体を捻って逃げて、ユーリは背中を壁にぶつけた。
 行き止まりであると知り、絶望に似た想いに打ちひしがれる。
「ちが……だって、今日は」
 エイプリル・フール。嘘をついても構わない、一年で唯一の日。
 でも、だからといって。
 必ずしも、嘘を吐く必要だって無い。
「もう止める!」
 身体を丸め込ませ、ユーリは叫んだ。泣きたい気持ちを懸命に堪え、声だけを振り絞り身体を戦慄かせて怒鳴った。
「もう嘘なんて、やめる!」
 嘘を吐くのも、吐かれるのも。
 疲れるし、哀しいし、悔しいし、痛いし、辛い。
 ぷっ、と頭上で噴き出す声がした。顔を上げると、広げた手で口を覆って肩を小刻みに揺らしたスマイルが、必死になって笑いを堪えている姿があった。
 最初から、全部企んまれていて。
 今年もまた、ユーリは最終的に彼にからかわれた事になる。
 いつもはケースに仕舞われていた指輪が、取り出した覚えもないのに机の上に置かれていたのも。
 ユーリがケーキを持って帰ってきた時、通りがかったリビングに居たスマイルがなにも言わなかったのも。
 差し出されたケーキを迷いもせず口に運んだのも。本気で怒っているように見せかけてみたり、一度は許したように見せかけて、埋めたはずの穴をもう一度掘り返してみせたり。
 全部。
「スマイル!!」
「は~い♪」
 心底愉しそうに笑って、スマイルは振りかざされたユーリの拳から飛び退いて逃げた。
「貴様、最初から仕組んで!」
「だって、ユーリがこそこそ企んでるみたいだったし? これは何か、お返しをしなくちゃな、って思っただけだもん」
 少しも反省の素振り無く言ってのけ、カラカラと笑い声を立てる。眉間に皺を寄せたユーリが、指輪の飛び出た部分を凶器にすべく拳を硬く握り締めた。前に出した足に力を込めて、踏み込む。
 威勢も立派に、懇親の力を込めた一撃は。
 残念ながら目的地に到達することなく、逆に囚われて止められてしまった。その上、しっかりと手首を拘束されて、力いっぱい引きよせられる。
 踵が浮いて、爪先立ちになったユーリが前傾になってバランスを崩した。倒れる、その手前でつっかえ棒代わりに立ちはだかるスマイルの胸に肩口から沈んで。
 顎を掬われる。一瞬だけ視界が陰り、反応できずに見開いたままの目の前で、目を閉じたスマイルの顔が近付いてきていた。
 反射的に身を竦めて、目を閉じる。
 触れあうだけのキスは、ほんの一瞬。直ぐに離れて、彼独特の香りも感じ取る前に掻き消されてしまった。
 拘束が解かれる。鈍い痛みを残す腕が、脇へと垂れ下がった。
「うん」
 舌を出して自分の唇を舐め、スマイルが視線を宙に投げ飛ばす。
「やっぱり、嘘だったネ」
 何が、と最早起こる気力も失せたユーリの前で彼は無邪気に目尻を垂らした。
「甘い」
「…………」
 はあ、と。
 ユーリが溜息を吐く。
 自分の僅かに湿った唇に指を当て、味などしないだろうにと声に出さず呟く。
 そして。
 当分嘘は吐くまいと心に誓い。
 最後に油断しているスマイルの腹へ、渾身の力を込めて膝蹴りを叩き込みユーリは踵を返した。
 後ろで、いつまでもけたたましい笑い声を上げながら、そのくせ痛みに呻いているスマイルを置き去りにそう広くもない洗面所を後にする。
 大股に数メートルの距離を進んでから立ち止まり、静かになった背後をちらりと窺って、追い掛けてこない事を確認してからそっと、自分の右手を抱き上げた。
 薬指に輝くそれに、眼を細める。
「まあ、良いか」
 自分にだけ聞こえる音量で囁いた。
「嘘の本音は、聞けたからな」
 今年はこれで勘弁してやろう、と瞳を細めてユーリは笑った。
 来年こそは、悟られぬようもっと念入りに罠を仕掛けて。今度こそ、彼を笑い飛ばすのは自分なのだと決意新たにユーリは歩き出した。
 直ぐ後ろで、姿を消したスマイルが聞いているのにも気付かずに。

Sink

 ちらりと、膝の上に広げた本から持ち上げた視線で何気なく窓を見た。
 光の射し込まないカーテンが、受け止める風も無く垂れ下がっている。白のレース地も外の薄暗さを受け、やや鈍い色に映った。
 外は雨。朝から、否、昨日から降り続けるそれは勢いを多少弱めたものの、未だ止む気配が一向に見られない。気紛れに取り上げたテレビのリモコンのボタンを押して、映し出された映像を幾度か切り替える。偶然時間帯が重なって、報じられていた天気予報ではまだ当分、この鬱陶しいばかりの雨は続くのだと言う。
 スーツに分厚い黒縁眼鏡、七三分けの髪型という典型的なキャスターが今後の予報を告げ、指示棒で天気図を指し示し解説する様をぼんやりと眺め、コマーシャルが挿入されると同時にユーリはテレビの電源を切った。
 握っていたリモコンを誰も居ないソファへ放り投げ、膝の上でくつろいでいる本を捲る。爪の先で貼り合わさっていた頁を剥がし、やや丸まってしまった角を抓んで右から左へと流す。
 だけれど、折角開いた続きを読み進める事なく彼の瞳は再び、虚無の窓辺へと流れていた。
 BGMで流しているクラシックは本当に静かで、自身の呼吸音に重なって殆ど気にならない。傍らの肘置きに沈めた右腕を支えに改めて窓辺に向いて、細めていた目を更に細める。
 雨音が微かに聞こえてきていた。クラシックの穏やかな曲調を乱す無粋な音であるはずなのに、ふたつが混じり合う不協和音でさえ今は心地よさを覚えてしまう。窓や壁、張り出した軒を叩く、空から降ってくる数多の声に耳を傾けると尚更音ははっきりと響いて、胸の奥を擽るかのようだ。
 瞼を閉ざす、視界をゼロにしてユーリは身体から力を抜いた。柔らかなクッションのソファに益々身体を沈め、広げたまま放置状態の本も結局栞も挟まれずに閉じられた。
 耳を澄ませば雨の音。一定のリズムではなく、バラバラに個性を主張しながら、それでいてアンバランスさの中に秘めた感覚があって。
 吐息を零す。それさえも自然の音楽の一端を担っている感じがして、ユーリは知れず口許を綻ばせた。
 昨日の昼前から止まずに続く雨は、今夜遅くを過ぎなければ終わりを迎えないと言う。もしそれが本当なら、明日の朝はきっと空気も澄み渡り、清々しい空が拝める事だろう。
 大気中に含まれる不純物すべてが、雨によって洗い流される。いわばこの雨は、空の洗濯なのだ。
 自分で思いついた単語に笑みを隠せず、我ながら恥ずかしいことを考えてしまったと頬を掻いた彼は、薄く瞼を開いて天井からのシャンデリア光も弱いリビングの一角を見つめる。今は誰も居ない城は酷く静かで、いつもなら心細ささえ感じてしまうのだけれど今日はこの雨の御陰で、常に雑音が見にまとわりつき多少気が紛れている。
 流していたCDはいつの間にか終わり、複数枚セットしておいたチェンジャーが自動的に次を読み出して数秒後には、違う曲がスピーカーから奏でられていた。一瞬だけ逸れた思考を引き戻し、閉じたものの膝の上に鎮座したままでいた本をリモコンの上に無造作に重ねて置く。ユーリの細い爪先が、分厚い本の重厚なカバーの表面を軽く削った。
 押し掛け同居人は双方とも外出中のはず。確かめたわけではないが、朝から気配が感じ取られないから多分そうなのだろう。
「アッシュは仕事として……」
 軽くなった膝の上に頬杖を移動させ、右を上にして脚を組む。前方に投げ出された爪先を持て余し気味に揺らして、ユーリは視線を斜め上方へ浮かせた。
 行き先不明者を若干一名、脳裏に思い浮かべてすぐに掻き消した。
 どうせ放っておいても、そのうち帰ってくるだろう。恐らく夕食の時間帯には。さして食事に興味も執着も持っていないようではあるが、三人揃って食事を囲むのを好む世話好きの料理人の意向を今のところ、彼は甘んじて受け入れているようだった。
 だから夕方を過ぎれば彼も、アッシュも帰ってくるはず。根拠もなく思い、ユーリは浮かせた視線を落とした。
 前を向いたままだと、自分の爪先だけが見える。真正面に大画面テレビが置かれているが、娯楽番組にはそもそも興味ない。どうでも良い番組を無駄に流し見するのも気が進まないから、結局真っ黒い画面はそのまま放置された。
 ふと見上げた壁時計は、郭公が鳴くにはまだ早い時を指し示している。振り返った先の窓の外は、絶え間ない雨が降り続く。
 しとしと、と。
 一体どういう了見でそんな擬音が生まれたのか、首を捻りたくなる雨が止まない。水の匂いは締め切られた窓の僅かな隙間を縫って、彼の鼻腔にまで届けられる。
 湿っぽい中に混じる微かな緑の匂いは、季節に芽吹くものたちの産声だろうか。
「止まないな」
 彼らは出先で、この雨に濡れていやしまいか。無用な心配を思い浮かべ、ユーリは数回瞬きをしてから揺らしていた爪先を引き戻して足を組み替えた。
 頬杖を外し、両手の指を互い違いに絡ませて膝の上に置く。伸び上がり、逸らせた背中をソファに委ね天井を仰いだ。視界に飛び込むシャンデリアの眩しさに、即座に瞼は降ろされる。
 退屈だ、と心の中で呟いてみた。
 一人きりの寂しさは、まだ雨の音に紛れて遠い場所にある。
 けれど、手持ち無沙汰のこの余りに余る時間だけは、彼方へ放逐しようにもどうにもならない。常ならば多忙の極みにあって気にもならないのに、こんな日に限って思い出してしまうから。
 雨の所為もあるかもしれない。この不定なリズムは心を掻き乱し現実を遠ざけるけれど、同時に落ちつきを取り払って陰鬱な気分を呼び込んでしまう。自分が果たして本当にこの場に在るのか、そんな疑問さえ諸手を挙げて引きよせて。
 余計な事を考えてしまいたくなる。普段ならまるで気にしないような事にまで思いは巡って、疲れるばかり。
 今度は盛大に溜息を吐いて、起こし気味だった背中を再度ソファへ押し込んだ。ずるずると身体を沈め、そのまま上半身を横倒しに倒れ込む。
 革張りの匂いが鼻を突く。けれど目を閉じて数回呼吸を繰り返せば、それも直ぐに慣れた。
 雨は止まない、ずっと降り続けている。
 それでも枯れない沢山の水は、あの澄んだ空のどこにあったのだろう。その空から降る雨は、何処へ行くのだろう。
 もしかしたらこの雨は、永遠に止まないかもしれない。水音は静かに、だがきっと窓の外では派手な音を響かせているのだろう。ぬかるんだ大地にはいくつもの大きな水溜まりが出来、溢れている。
 そうしていつか、この地表は雨に埋もれて水底に沈むのだ。今でさえ、こんなにも世界は水に満たされて包まれている。
 焦げ茶のソファに身を委ね、ユーリは目を閉じる。意識を窓の外にだけ向くよう仕向けて、雨音を片方の耳で拾い集めれば、自分が水の中で、むしろ深淵の海底で眠っている風に錯覚する。
 穏やかで静かで、安心出来る。そこになだらかな調子のクラシックが重なり合って、緩やかな睡魔がユーリを包み、見えないヴェールが彼の肩から身体へ降ろされた。
 西の空では、僅かながら分厚い雲間から微かな光が覗き始めている。やや弱まりかけている雨足を振り切って、水溜まりを器用に飛び跳ねて避ける足音に、ユーリは気付かないまま浅い眠りに沈んでいった。

「ただいまー!」
 頑丈で重い観音開きの正面玄関ドアを蹴り破る勢いで開いて、彼は大声をあげた。高い天井の玄関ホールは音響効果も抜群で、彼の少し高い声はよく響き城内を反響して吸い込まれていったが、残念なことに彼の元気溢れる帰還を知らせるの喇叭は誰にも聞き取って貰えなかったようだ。
 暫く待ってみたものの、反応は皆無。おや? と首を捻った彼は、胸元を抱えたまま口をへの字に曲げてむっつりと頬を膨らませた。
 もぞもぞと着込んだジャケットの前が不自然に動く。
「ああ、ちょっと待って」
 誰も出てきてくれないから、濡れそぼった前髪から垂れ落ちる雨の滴を拭うタオルも自分で用意するしかなさそうだ。早く着替えないと、身体が冷えて最悪風邪を引く事だって考えられる。
 そんなにヤワな体質をしているとは思わないが、このままでいる事は残りふたりの同居人もいい顔をしないだろう。出かける時にはちゃんと持っていたはずの傘は今現在彼の手元になく、代わりに男でなくとも誰しも一度は憧れを持ちそうな豊満な胸元が出来上がっていた。
 もっとも、そういうバストはこんな風にもぞもぞと落ち着きなく自分から動く事はないだろうが。
 水気を吸ってかなり重くなっている前髪を掻き上げる。額に貼り付いていた分も一緒に掬い上げて後ろへ流すと、巻き付けていた包帯が緩んで一部がずれてしまった。覆っている左目の睫毛までもが濡れ、逆立っている感じがする。
「びっちょびちょだネ……」
 自分の姿に改めて苦笑して、彼は抑え込んだままの胸元を解放した。途端、するりとジャケットの中にあった膨らみが下降して消滅する。狭くなっている裾から身を捻って現れたのは、濡れ鼠ヨロシク、濡れ猫が一匹。
 雨が降っていたけれど、本日発売の限定フィギュアがどうしても欲しくて出かけたまでは良かった。その時はちゃんと傘だってしっかり持っていて、止まない雨を躱して街に出たのに。
 肝心のフィギュアは目の前で売り切れてしまって、意気消沈したまま気を紛らわせようと立ち寄った本屋では、入り口の傘立てにおいた傘を盗まれた。似たような色と形をした傘が残されていたから、間違われてしまっただけかもしれないが、御陰で彼はこの冷たい雨の中走らなければならなくなった。
 コンビニでビニール傘を買っても良かったのだ。他にも傘を扱っている店はいくつか在った。けれどどうにも新しい傘へ即座に手を出すのは負けた感じがして癪に思えて、結局何も買わずにバス停まで走った。
 そうして見つけたのが。
 雨漏りするバス停の下、並んで置かれたゴミ箱に身体を突っ込んで過ごしている猫。
 多分毛並みは白いのだろうが、野良である事や雨に湿っている事もあってやや色もくすんで灰色っぽい。愛嬌のあるやや気の抜けた顔をして、ゴミ箱の縁から顔を出しバス停に駆け込んできた彼を見上げていた。
 この時既にびしょ濡れに近かった彼を不思議そうに眺め、小首を傾げさえする。笑われているような気がして、ムッと来たからバスが来るまでの十数分の間、猫を相手に散々遊んでからかって過ごす事に決めた。
 だけれどいざ、猫の首根っこを抓んで持ち上げようとしたところ。
 伸びたから。
 むにょ、と、幾ら何でも柔らかすぎるだろうと言いたくなる軟体動物的構造で猫の身体が伸びたものだから。
 瞬間的に思考能力がダウンして、目の前が白くなる。その間も摘み上げられた猫は不思議そうにするばかりで、あまり猫らしからぬ鳴き声でか細く鳴いてみたりした。
 ああ、これはひょっとしてお仲間なのだろうかと。
 こんな同類は聞いたことも見たこともないけれど、最近また珍種発見騒動が勃発していたりするから、こういう類もあり得るかもしれないとくらくら来た頭を押さえ込み、なんとか平静さを取り戻して首を振る。その間さえ、猫は暢気に間延びした声で鳴いていた。
 緊張感の欠片も無い光景に脱力感が否めない。どれだけの時間そうしていたのかも分からず、ひっ掴んでしまった猫を手放すタイミングも逸したまま気付けばその薄汚れて濡れた猫を抱え、ジャケットに押し込んでバスに乗り込んでいた。
 行き先不安なバスに暫く揺られ、乗り継いで降りた先で棄てていっても多分構わなかったに違いない。野良猫なのだから、どこでだってそれなりに適応力を発揮して生きていけるだろう。
 緊迫感のない顔をまじまじと改めて見つめ、雨を凌ぐ箱から放り出された彼は空を仰ぎ、一面の鈍色に溜息をつく。
 猫が鳴いた、ジャケットの隙間からやや苦しそうに顔を覗かせて。
 気の抜けた鳴き声が雨音に霞む。バス停から居城まではかなり距離があり、傘無しで行くには少々骨だと思われた。しかし走る以外方法はない。此処まで来てしまっては後戻りも出来ないし、傘を手に入れようにもそういう店は見渡す限りどこにも存在していなかった。
 人気もなく、車も無い。偶然を装って迎えに来てくれる存在も、今日は現れなかった。
 ほんの少し待ってみる事にしたが、次のバスが来る事も無く雨の中佇むという不毛な時間が無駄に流れただけに終始する。胸に抱えた猫が寒そうに震え、毛羽立った隙間から数滴の水が飛び跳ねた。
「……走るしか無いかー」
 諦めを含んだ声で呟き、鉛色の空を恨めしげに見上げて彼は足許の土を蹴った。寒いのか大人しくしている猫を服の上から優しく抱きかかえ直し、吐いた息を大きく吸って静かに降ろした瞼を決意の思いを込めて、見開く。
 直後、駆け出した。
 水溜まりを連続ジャンプで躱しつつも、タイミングが狂って膝上まで泥を跳ねさせた事も数回。降りしきる雨が容赦なく彼に打ちつけ、跳ね上がり気味だった毛先も総じて垂れ下がり大きな雫を簾のように連ねた。
 身体が芯まで冷えていくのが分かる。ズボンは裾どころか全体が泥水に汚れて地色を失い、羽織っていたジャケットをすり抜けた水気は背中全体に広がって、シャツが肌に貼り付いて来る。靴の中にも水は潜り込み、一歩前へ進むごとにびちゃびちゃと土踏まずの隙間で移動を繰り返していた。
 それでも自分の頭を庇うよりも、ジャケットの中に抱えた猫を優先させた前傾姿勢で、なんとか視界だけを確保させつつ誰も行き交わない雨の道を走る。
 そうしてやっと目の前に開けた城の重厚な扉を勢い良く押し開き、帰還を告げる雄叫びを挙げたのに誰も返事をしてくれなくて。
 ジャケットの裾を握り、軽く絞ればその場に小さな水溜まりが数個出来上がる。彼の足許で、同じように四肢を突っ張らせた猫が低く唸って全身を振り回した。
 逆立った毛並みから、一斉に水滴が放たれる。多少はマシになったかもしれないが、完全に身体を乾かすに至らなかったのが不服らしい猫が、また間の抜けた声で鳴いて彼を見上げた。
「タオルよりお風呂が先……かな」
 自分もこのままの格好ではいられない。袖から腕を抜いたジャケットも洗濯しなければならないだろう、濡れたままの服は兎角気持ちが悪いの一点張りで、貼り付いているシャツの喉元を抓み広げ、彼は天井を仰ぎながら溜息を零した。
 髪を掻き上げる、その指の隙間からまた新たな雫がいくつも滴っていく。足許の水溜まりは既に小さいどころの騒ぎではなくなっていて、大きなものが彼と猫を中心に徐々に範囲を広げて行こうとしている。
 この場所も、このまま放置して置いたら怒られるだろうか。
「やっぱりお風呂が先、先」
 床から視線を逸らし、彼は誤魔化し半分に唄うような声で言ってひょいっと猫を抱きかかえた。濡れた彼を嫌った猫がいやいやと首を振って逃げようと試みるが、がっしりと両脇から抱きしめられて叶わない。
「さ、お風呂お風呂~。沸いてなかったらシャワーだネ」
 ついでだから綺麗に洗ってあげるよ、と必死の抵抗を試みる猫に笑いかけ彼は濡れた足跡を引きずって風呂場へと向かって歩き出した。
 まるでナメクジが通った跡のような、濡れた一本筋が彼を追い掛けて続いていった。

 暖かな感触が手元に在って、向こう側からすり寄ってくる。それが思いの外柔らかくて気持ちよいものだから、こちらとしても引きよせて表面を撫で感触を楽しんでしまう。
 夢心地のままに何度も撫でる仕草を繰り返し、やがてくすぐったがり始めたそれが逃げようと藻掻くのを押し留め、抱きしめる。
「う、ん……?」
 柔らかすぎて、表面が凹む。伸びた、掌の上で。
 中途半端なところで漂っていた意識が水面に向けて傾く。感触を確かめつつ手の動きは休めないまま、ぼんやりと朧気な頭を緩く振って暗闇の視界を開かせる。
 眩しさに細められた世界に瞬きを幾度か。慣れるに従ってシャンデリアの明かりはギリギリまで絞られ、最初に感じた程明るいわけではない事を知る。柔らかな感触は以前手元にあるが、自分の現状を把握するのに意識が先だってその存在は一瞬だけ忘れられた。
 ゆっくりと、気怠い身体を起こす。不自然な姿勢でソファに横になっていたからだろう、変な風に寝癖がついた髪を掻きむしってぼんやりと周囲を見回す。
 なにも変化ない、寝入る前と同じリビングだ。違うのは雨の音が若干遠くなっているのと、無駄に流しっぱなしだったCDが止まっていた事と、あと。
「起きた?」
 頭に真っ白いタオルを載せて髪を拭いている、押し掛け同居人がひとり。袖無しのシャツを一枚だけ羽織り、左目以外に包帯を巻いていない姿。露出した腕からは仄かな湯気が昇っていて、彼が風呂上がりだと楽に想像出来た。
 連想するのは、この雨の中濡れて帰ってきたのだろうという事。
「傘はどうした」
「盗まれちゃった」
 寝起きの低い声で尋ねれば、彼は軽く肩を竦めてタオルを頭から外し苦笑した。
 ユーリが態とらしく溜息をついて、馬鹿者が、と呟く。貶されているというのにスマイルはへこたれた様子もなく暢気に笑っていて、余計にユーリを陰鬱にさせた。
 額を押さえ、ソファに斜め座りになっている身体を立て直そうと右腕を後ろに這わせる。力を込めて、柔らかなクッションに体重を預け腰を浮かせようとして。
 むにゅっ、と。
 明らかにソファではない柔らかすぎる、それでいて暖かく妙に生々しい感触が広げていた掌全体に伝わって。
 さぁっとユーリの顔から血の気が引いた。
 間の抜けた緊張感の欠片も感じさせない猫の鳴き声が、だけれどやや不機嫌そうな色を含ませてユーリの手元で、伸びた。
「うわぁっ!!」
 なりふり構わずユーリは仰け反り、押しつぶしてしまう寸前だった物体に仰天して目を見開きみっともなくも、悲鳴を上げた。
 背後でケタケタと笑うスマイルの声。
「なっ、なっ……なんだこれは!」
 目の前には、真っ白い毛並みの猫。やや太り気味だが愛嬌の感じられるつぶらな瞳が非常に可愛らしい。
 ただ、ユーリが押し広げた箇所が伸びてさえいなければ。
「何って、ネコ」
「見れば分かるそれくらい!」
「じゃあ、良いじゃない」
「良くない!」
 普通の猫がこんなにも柔らかく、弾力に富んで伸びるなんておかしいではないか。至って真剣に論弁するユーリに、再度笑ってスマイルはタオルを肩にひっかけると開いていた距離を静かに詰めた。
 ソファの上で猫が鳴く。首根っこをひょいっと掴んで、代わりに彼がそこへ腰掛ける。ユーリの隣へ。
「……どうしたのだ、それは」
「バス停で拾った。明日、晴れたら返してくる」
 理由は特にない。雨が降っていて、猫が居て、そこにバスが来た。だから連れて帰ってきた。飼うつもりはないし、彼処を住処にしていた猫かもしれないから近いうちにもと居た場所へ返しに行く。
 膝に置かれ、頭を撫でられると伸びていた猫は気持ちよさそうに身体を丸めた。こうしていると普通の猫なのに、と横から覗き込むユーリの視線に気付いたらしい。スマイルは口許を緩めたまま、寝入ろうとしている猫の首根っこをまた掴んだ。
 上に腕を掲げる。当然ながら猫の頭も引きずられて後を辿るが、後ろ足は依然スマイルの膝にあった。両者の視線が絡む高さにまで持ち上げられているというのに。
 気持ち悪そうにユーリが顔を歪めさせた。露骨に嫌な顔をした彼を笑って、スマイルは玩具にしてしまった事を猫に謝り、再び膝に落ち着けさせた。
「何処まで行っていたのだ?」
「ん~……街まで」
「その様子だと、目的は達せられなかったようだが」
「アタリ」
 首に回したタオルの端を弄って遊ぶスマイルの、どことなく弱った感じがする笑みを眺めユーリは窓の外を見た。組んだ足の爪先を手持ち無沙汰に揺らす。
 雨はまだ止んでいないようだ。若干外が明るくなっている気もするが、気のせいかも知れない。
 外を窺って気にしているユーリの横顔を今度はスマイルが眺め、タオルを肩から外しまだ湿り気を残している前髪を撫でるように拭った。猫の背も一緒に撫でて、今日一日中ひとりで城に籠もっていただろうユーリの心境を想像する。
 まず間違いなく、それらは楽しい時間ではなかっただろう。
 ふぅと息を吐く。なんだろうと振り返ったユーリの頭に、今外したばかりの水の匂いがするタオルを落とす。
 唐突に視界が白に埋められ、即座に払いのけようとしたユーリの手を上から押さえ込み、スマイルはソファにくつろいだ姿勢のまま上半身だけを伸ばした。
 目を閉じていても分かる場所に、唇を重ね合わせる。
 水の匂いと、タオルの味。向こうも同じものを感じ取ったようで、不味いと文句を言って離れた途端タオルは引き剥がされて床に捨てられた。踏みつけられこそしなかったが、現れたユーリの目は少しだけ怒りを含んでいる。
「なんで怒るかな、そこで」
「今、貴様は、これで! 頭を、髪を! 拭いていただろう!」
 言われてみればその通り。洗濯されて乾いたばかりのものならばまだしも、あれは使用済み。間違っても清潔なものだとは言い切れない。
 ユーリが怒るのも、無理ない。
「ゴメンナサイ」
「二度とするな」
「はーい」
 殊勝な返事だけを返し、スマイルは落とされたタオルを拾い上げるとソファの肘掛けに引っ掛けた。猫の背を慣れた手つきで撫で、しどけなく濡れた雨の庭を見やる。
「明日こそは、晴れると良いんだけど」
 偶の雨は心躍るが、こうも続かれると気が滅入る。
 ぽつりと呟かれたことばに、ユーリも相槌を返して頷いた。
「晴れたら、まずこの子をバス停まで返しに行って」
 それから街へ出て、今日は逃した獲物を探して歩き回るのだ。無くした傘も探してみよう、もしかしたら間違いに気付いた人が返してくれているかもしれない。あの本屋にも立ち寄って、雨の所為で駄目にしてしまったジャケットも、新しいものを仕入れに店を巡ってみよう。レコード屋も回って、お気に入りを探すのも悪くない。
 指折り数え明日の予定を諳んじていく彼の顔を盗み見て、ユーリは伸ばした指先でそっと猫の首許を撫でてみた。柔らかく、暖かい。生き物の鼓動が伝って来る。
 クスリとスマイルが笑った。
「一緒行く?」
 控えめな笑みのまま小声で囁かれ、理解するまで三秒ほど瞬きと共に必要としたユーリが直後、は? と首を捻った。
 失敬な、とスマイルが唇を尖らせる。
「だ~か~ら~、明日、晴れたら」
 一緒に出かけようよ、と誘っているのに何故そんな簡単な事を理解してくれないのだろうこの人は。いや、この吸血鬼は。
 間を置いてユーリが手を打つ。ああ、と呟いて。
 窓の外は未だ雨。けれど勢いも嘗てほど無く、雨音も徐々にだけれど弱まりつつある。明日は、晴れるかもしれない。
 晴れたら良い。水底に沈んだ気持ちを引き上げて、乾かしてくれる太陽が昇ればいい。
「そうだな」
 出かけてみるのも、悪くない。
 何気なく呟いて、ふと横を向けば満面の笑みを浮かべているスマイルが居る。
 それが何故か悔しくて、ユーリはそっぽを向いた。僅かに紅潮した頬を隠して、悪態を付く。
「言って置くが、晴れたら、だからな!」
 背中の向こうで、スマイルが堪えきれない笑みを必死で堪えているのが分かる。だから尚更悔しくて、益々顔を赤くしてユーリは怒鳴ってやろうと勢い任せに彼へ振り返った。
 刹那。
 吐息が絡まる。
 口付けられたのだと気付くまでに、また少し時間がかかった。閉じられている間近にある隻眼の、伏せられた睫毛を数えているうちに眠くなりそうでユーリもまた、目を閉じた。
 きっと明日は晴れるだろう。そうしたら揃って出かけよう。
 水底に沈んでしまった気持ちを引き上げて、もっと気楽に構えながら過ごそう。
 ちゅ、と音を立てて一度離した唇が名残惜しくなってまた口付ける。
 雨はもうしばらく降り続くだろう。
 膝の上で、猫が眠そうに欠伸をして一声鳴いた。

Hot Labyrinth

 時折小春日和の陽射しが地表を明るく照らすとは言え、未だ季節は冬の盛り。時間も過ぎれば木枯らしが吹き付ける、厳しい寒さが戻ってくるに違いない。
 だが街を行き交う人たちの群れはそれぞれに暖かなコートに身をくるみ、どこか忙しなげに歩いている。時々浮かれたような、軽い足取りで去っていくのは良いことでもあった人たちか。
 まあ、今日という日を考えればそれも無理ないことかも知れない。
 あまり優れているとは言えない顔色を色濃いサングラスで隠し、裾の長いコートを翻してアスファルトを踏みしめる。
 店頭や街頭のスピーカーから流れてくる音楽はいずれもアップテンポで、軽快なリズムが人の脚を早めさせている。色に例えるとしたら、それは「赤」に他ならないだろう。
 片思いに揺れる乙女心を描いた詩を唄っている女性シンガーの声に、恋人との甘い語り合いを模した男性ボーカルバンドの曲が重なっていた。背後を走り抜ける車から響くのは、海外アーティストの豪奢な声色。
 それらの音楽が色とりどりに混じり合い過ぎて、原曲を聞き分けるのさえ苦労してしまう。街中に響くおもちゃ箱をひっくり返した喧噪に吐息を零し、彼は大股に進むと角のビル全フロアを使って展開している大型書店に脚を踏み入れた。
 一変して、世界は静かなクラシック音楽が控えめに奏でられた場所へ移動する。時折学生らしき集団が屯していたりはするが、主に客はひとりずつ訪れているようで、レジの近辺を覗き殆ど静かなもの。
 たかだか壁一枚を隔てただけで、こうも世界が変わるものかと珍妙な感心を胸に抱いて彼は自動ドア脇の案内板に目をやった。
 背の高い彼でさえも首を上向けねばならない階の説明版に目をやって、若干ずれ落ちてきたサングラスを指で押し上げる。視線を巡らせてエレベータを探し出し、そちらへ向かった。
 途中、平積みされた新刊本や売れ筋商品を並べたコーナーを通りがかり、煽り文章につられてつい立ち止まってしまう。興味惹かれたものを幾つか手にとって広げてみたが、どれも購入に踏み切る程のものでは無さそうで、元あった場所に綺麗に整えてから戻した。金融に関する書物が並んだコーナーで、熱心というかむしろ必死の形相で文章を追い掛けて立ち読みしているサラリーマン風の男がいて、苦笑を誘った。
 書物から得た知識は確かに自身の血肉となり得るけれど、それだけでなにもかもが上手くいくわけではない。実行力と決断力こそがなによりも重要であろうに。
 レクチャー本を数冊手に、レジへと向かった男の背中を見送って彼は丁度ドアを開けたエレベータへと乗り込んだ。無人の箱でボタンを操作し、最上階からひとつ下を目指す。数十秒という時間を経て、目的のフロアは目の前にあった。
 一角は参考書や赤本の羅列する書架。だが奥には手前側とはまるで趣も違う、やはり無数の本が並べられていた。
 いや、それらを本と言うべきか。平積みも殆どされず、扱われている項目ごとに分類されて書架に押し込められているそれらは、分厚さからしてみれば他と比べ値段は跳ね上がる。
 彼は少し悩んで、とある棚の前で脚を留めた。ポケットに押し込めていた黒の革手袋を嵌めたままでいる手を持ち上げ、適当に一冊を引き抜く。
 考える事もなく広げたページには、両面を使って映し出された満点の星空。左端に小さく、撮影場所を説明した文章が記載されている以外はすべて、写真。
 夜の星、といった類のタイトルが付けられていて、飾り気は全くない。いっそ潔いまでの素っ気なさに苦笑して、彼は写真集を元あった場所に戻した。続き、同じ写真家の作品らしい別のものを引っ張ってみる。
 同じ感性で撮影されているからか、どこか似通った感のある写真ばかりが並んでいて面白味に欠ける感じは否めなかった。写真家が悪いのではなく、見上げれば余程詳しくない限り、星々の並びも同じに見える眼しか持ち得ない存在には眺め続けるには、少々辛いところがある。
 彼は溜息混じりに首を振り、隣の書架に目を流した。
 隣のフロアから、参考書を探しに来た学生らしき数人の談笑が聞こえてくる以外、ここには殆ど音がない。分厚い紙を使っている写真集は、捲るたびに間に挟み込まれた空気が抜ける感触だけが残る。
 レジで退屈そうにしている店員が、あくびを噛み殺しながら奥まったコーナーに居座る彼を、物珍しげに眺めていた。黒塗りのサングラスとコート、手袋と黒一色に身を固めた出で立ちは、物々しさまで雰囲気にまとわりつくためかこういう場所だと浮き上がってならない。
 人目を避けたい職種ではあるのだが、普段ブラウン管に現している自分の性格とキャラクターからか、未だにこの格好で出歩いても正体を見破られた経験は無かった。
 数冊の写真集を吟味してから、うち二冊を手元に残して他は棚へ戻した。本当は一冊だけにするつもりだったのが、探しているうちに古い、欧羅巴の町並みを写し取ったモノクロ写真集を見つけてしまい、つい自分用にと購入を決めてしまう。もう一冊は青空と雲、それから緑の樹を巧みに写し取った写真集。
 飾り気もなにもない、寄せることばさえ少ない空の写真。だが悪くない。
 彼はこの二冊を取ると、退屈を持て余していく若い店員が待つレジへ向かった。ズボンの後ろポケットから財布を抜き取り、会計を済ませる。興味津々を目に現した店員が、ひょっと札入れの中身を覗き込んできて眩暈を引き起こしかけていたのは、笑って見過ごすことにする。恐らく店員は彼のことを誤解したまま一生を終えるだろう。
 袋に入れて貰った本を受け取り、釣り銭もしっかりと財布に戻して今度はエレベータではなく、エスカレータで階を降りていった。途中で何かに出逢えるかも知れないと想起しての事だったが、結局足取りは濁る事無くスタート地点へ戻された。
 有り難うございました、という女性店員の明るい声に背中を押され、外へ出る。陽射しは穏やかで、風も無く気持ちがよい。これでこの喧噪がもう少し大人しかったなら良かったのに、と考えても無駄な事を思いつつ次の目的地へ進む。
 とは言っても、特別此処に居かねばならない、という場所は無い。右手に提げた袋の重みを感じ取りつつ、書店からさほど遠くないビルへ入った。
 途端感じたのは、咽せ返り吐き気さえ覚えてしまいたくなる程の甘い香り。
 ああ、そういえば今日はそんな日だったか、と。今更ながら失念しかかっていた今日という日のイベントを思い出して微かに痛みを訴えるこめかみに指をやった。
 複合商業ビルの一階フロアではこの期間だけワゴンが広げられ、無数のチョコレートが販売されていた。色めき立つ女性陣はそのいずれにも群れを成し、時には恐ろしいまでの意欲を発揮しながらチョコレートを吟味し、物色している。
 彼処には近付くまいと心に決め、遠巻きに眺めた。本来の今日という日の定義からは逸脱しているが、きっと誰もそんな事に構うつもりはないらしい。今日でなくても良いだろうに、今日だからと彼女たちは必死になっている。
 聖バレンタインデーと、人が呼ぶ今日だからこそ。
 尤も自分は極度に甘いものが不得手だから、匂いだけでも御免被りたい。去年は去年で、せめてもの心づくしと必死にもてなして貰えたものの、有り難迷惑だったところはある。言えば向こうは、哀しい顔をして悪かった、と謝罪するだろうから言いはしなかったが。
 何故チョコレートに拘るのかが、分からない。商業資本の宣伝効果に踊らされているだけだと言うのに、人々は好んで自分から踊りたがるようだ。
 騒々しい特設会場に背を向け、雑貨屋が入った階までエスカレータを利用して昇る。趣味の良い食器が並ぶコーナーを探して出向き、真っ白い陶器のマグカップをふたつ購入。贈り物ではないと伝え、包装も最低限で済ませた。
 レジ打ちの女性が、本屋での男性店員とはまた違った反応を示していて、試しにサングラスのまま口許に柔らかな笑みを浮かべてみせた。すると、背後に控えていた別の店員までもが微かだったものの、黄色い悲鳴を上げて色めきあっていた。
「……ありがとう」
 受け取るときにもさりげなく囁くと、彼女たちは爪先立ちで胸のまで両腕を擦り合わせ、興奮気味の声で「有り難うございました!」と叫ぶ。きっと、今日の日にチョコレートを贈る相手が居ないのだろう、彼女たちには。
 騒々しいだけの街から、さっさと静かで穏やかなあの住処へ戻りたい。溜息を零し、再びあの甘い匂いが立ちこめるフロアをそそくさと去る。眩暈だけが残った。
 そうして駐車場に停めて置いた自分のバイクを起動させ、荷物をシート下にある荷物を入れる空間に放り込んで跨って、公道に出て帰宅の一途を辿ろうとした最中。
 幾分落とし気味のスピードの御陰で周囲もある程度把握できていた道のりで、ふと、どこかで見た光景が通り過ぎる。
 それはちょうど一年前、仕事から帰って城への道を今と同じようにバイクに跨り急いでいた時。あの日と同じ道を今進んでいることに気付いて、だったら、と信号でUターンしてみせた。案の定、去年と同じ場所にその店は残っていて。
 女性店員は、あろう事か彼の事をしっかり覚えていた。
 ヘルメットを脱ぎ、店の前ガードレールの外にバイクを停止させた彼を見て、にこやかに微笑みかけた彼女は真っ先にひとこと。
「薔薇、ありますよ?」
と、言ったのだ。
「……記憶力良いんだ」
 以後この店を訪れた事はない。一年も前の事なのに、とぼやきながらバイクのキーを抜いた彼に、店員はクスクスと口許を隠しながら笑った。
「だって、お客さん。お店の薔薇の花全部買い取って行ったの、お客さんが最初で最後ですもの」
 あの時は吃驚したけれど、それが余計に印象深く記憶に残される事になったらしい。だからなのか、今日訪れた時店の前は真っ赤に色付く薔薇で溢れかえっていた。
「どうされます? また全部になさいます?」
「……からかわないでよ」
 いくらなんでも、二年連続で花屋の薔薇を買い占めるわけにも行くまい。
「適当に……そうだな。ピンクとかって、ある?」
「勿論。今年は特に、種類を多く用意してみたんですよ」
 ひょっとしなくても、自分はこの店で薔薇を買うことを来年以降も余儀なくされてしまったのだろうか。背中に冷や汗を一滴垂らしながら、彼はバレンタイン用に仕入れられたであろう薔薇の数々に目をやった。
 こうも数が揃うと、匂いがきつい。チョコレートとはまた違う鼻につく香りに眉根を顰めながら、店の奥でピックアップした本当に淡いピンク色の薔薇を花束に仕上げていく店員の手元だけを眺める。
 流石に手慣れたもので、速い。薔薇の根本にはさみを入れ、棘を取って纏め上げていく。束ねられた根本にはリボンを。ピンクばかりだと飽きるからか、他の色合いも控えめに混ぜていき、完成までに要した時間はものの五分と掛からない。
「はい、お待たせしました」
 そう言って店員は、にこやかに微笑んで出来上がったばかりの花束と一緒にカードを差し出してくる。金額を告げられ、受け取った花束を胸に抱き財布を取りだして支払いを済ませる。
 深々と腰を低くして頭を下げた店員に見送られ、バイクに跨りキーを差し込んで捻る。落とさぬように薔薇をシートの後ろに挟み込んで、渡されたカードに目を落とした。去年とは色も形も違っているそれは、どうやら毎年作り替えられる店オリジナルのものらしい。但し文面は、バレンタイン特製なのか去年と変わらず。
 片手で広げたカードを畳むと、コートの前合わせに差し込んで胸ポケットに押し込める。まだ見送っている店員に苦笑して、アクセルを思い切り捻った。
 轟音をあげて駆け出したバイクで、風を浴びながら帰路を急ぐ。もう寄り道する気も起きず、周囲に目を配る余力も与えず前だけを睨んで。
 城は静まりかえり、街の喧噪が嘘だったかのような錯覚を覚えたくなるまでに沈黙している。買い物の荷物を抱えて中へ入り、まず先に自室へ向かって薔薇の花束をベッドの上に置いた。包装を解いたマグカップの取っ手を片手でまとめて掴み、写真集は自分の分だけ机に放り投げてもう一冊は花束の横に置いた。
 脱いだコートは皺になるのも構わずに椅子の背もたれに引っ掛けて。革手袋も一緒に椅子の上に。
「ユーリは部屋、かな」
 彼が帰ってきた時誰も出迎えに現れなかったが、広すぎる城内では来訪者の気配を探るのも一苦労。ましてや、呼び鈴を鳴らしもしない相手など無視されるだけ。
 城主はここ数日、春から始まるツアーの企画立案と新曲に必死で部屋に籠もりっぱなしだ。今日が何日で何曜日あるか、も覚えていないに違いない。
 自然と苦笑が浮かんで、肩を竦めるとマグカップを落とさぬように揺らしながら部屋を出た。夕暮れ間近の時間帯、台所の主ことアッシュは夕食の買い出しで留守にしているようだった。
 誰も居ないリビングと食堂を抜け、最小限の照明だけが灯っている広いキッチンを訪れる。買ったばかりのマグカップをシンクに置き、値札のシールを丁寧に剥がして泡立てたスポンジで綺麗に洗う。まさか買ってきたものをそのまま使うわけには行くまい。
 水気を払い、完全に乾くまで逆さまに置いてから彼はくるりと身体を反転させた。居並ぶ食器棚を見上げ、食材が仕舞われている棚の前で膝を折った。
 主にこの場を使用しているアッシュの性格を反映してか、非常に分かりやすい整理の仕方をされている棚を僅かに漁って、彼は目的のものを発見するに至る。もうひとつの捜し物も直ぐに見付かって、彼はふたつの瓶を横並びに作業台のテーブルに置くと今度はコンロに向かう。
 ケトルに水を入れて火に掛け、換気扇を回してから乾かしていたカップをひっくり返した。まだ僅かに残っている水気をタオルで拭って、スプーンを抓み形も大きさも違う瓶の前にカップを置き、蓋を取る。
 大人しいとはいえ、漂った甘い香りに一瞬だけむっと表情を煙らせた。なんとか堪え、大さじで三杯の茶色い粉末を片方のマグカップに移し替える。残り少なくなっている瓶の中身を集めるため、円形の瓶を傾けて数回、底をテーブルで叩いた。
 粉が舞い上がり、鼻腔に甘い匂いが広がって彼はつい咳き込んだ。溜息が自然と溢れて、肩を竦めると甘い粉をまとわりつかせているスプーンを一旦水で洗い流した。
 その間に、ケトルはしゅうしゅうと白い煙を吐き出すまでになっていて、伸ばした指でコンロの火を止めると彼はもう片方の瓶を開けた。
 今度は独特の苦みを持つ香りが漂ってきて、漸くホッとした顔を見せた彼はそれで少し気を良くし、いつもより多めに砕かれた粉を真っ白なマグカップへ放り込んだ。湿気にやられないようしっかりと蓋を閉め、熱せられたケトルの取っ手を掴みふたつのカップへ湯を注ぎ込む。
 あっという間に、台所に豊かな香りが二種類、不器用に混じり合って広がった。
「これで、持っていく前にぼくが匂いに負けて零したら死ぬよね……」
 香りだけで既に咽せたくなるのに、頭からかぶりでもしたら気を失うだけで果たして済むだろうか。それでなくとも、熱湯を注ぎ込んでいるので火傷は免れないだろう。場所が階段なら、落下の衝撃で打撲もあり得る。
 そこまで考えて、止めた。頭を振る。可能性は幾らでも列挙できるが、確実にそうなるとは言えない。むしろ、起こらないようにすべきなのに。
「さ、て……お仕事頑張っている人に差し入れしにでも行きますか」
 一息で吐きだし、彼はテーブルを軽く叩いて自分に気合いを入れた。目の前で、湯気を立てるマグカップから甘い香りが大気に溶けていた。

■□■

 ふう、と息を吐く。机に立てていた肘が気怠げに、ぱたりと倒れた。同時に握り続けていた万年筆も放りだし、疲れを隠せない身体を背もたれに放り投げた。
 ぎしぎしと年季の入った椅子が軋む。壊れてしまいそうなのに未だ一度として修理の手を加えたことの無い椅子が、健気に投げ出されている細い肢体を支えた。
 机上、そして床のあちらこちらにまで散らばった元は白かったはずの紙。丸められたり、また延ばされたり、千切られたりと形状を変えているものもちらほらと見受けられ、彼が一体どれだけの時間をこの部屋で、机に向いたまま過ごしていたのかを想像させてくれる。
 彼は片腕を力無く脇に垂らしたまま、眉間を数回指で揉み扱いた。そんな事をしたところで、疲労感が消え失せるはずはないのだが特に目の疲れが酷くて、何もしないで放っておく事も出来なかったのが正しい。
 数回瞬きをして、目を閉じる。果たして期日まで何日残っているのだろう、考えたくもなくて彼は首を力無く振った。
 コンコン、と二度ドアが遠慮がちにノックされる。
「ん……?」
 薄く瞼を開けて音を確認するが、振り返る事も、ましてやドアを開けてやることも億劫過ぎて彼は無視することに決めた。どうせ大した用事ではないだろう、腹は空いていないし時間的にまだ夕食にも早すぎる。
 だがドアの外に居る存在は、そんな彼の思惑を無視してまたもノックを繰り返す。連続で二回、間を置いてもう一度。音は苛ついているのか少しずつ大きくなっていって、放っておけば一時間後にはドアを殴り破る勢いでも持ちそうだ。
 そんな事をしてきたら、即刻城から追い出して二度と足を踏み入れられないようにしてやるのだが。破壊された自室の古めかしいドアを想像して、くっと奥歯を鳴らした彼は前方に投げ出していた両膝を少しだけ曲げ、寄せた。
 垂らしているだけでも思わぬ力が必要となるらしい。関節に僅かながら痛みを覚え、両方を膝に置いた彼は首を伸ばすと背骨が食い込んでいた椅子から身を離した。乱雑な机の上が目に入る。投げ出したまま乾燥するに任せていた万年筆を取り戻してインク瓶に添えつけられているキャップに突き刺し、勢い任せに椅子を膝裏で押した。
 立ち上がる。多少ぐらついた椅子も結局倒れるなどという間抜けな結末を回避させ、幾分不満顔で彼を見上げていた。
 再度ドアがノックされる。今度は一度きり、けれど少しだけ強めに。
「まったく」
 今頃なんなんだ、と波だった声で彼は呟き椅子の脚を爪先で蹴り飛ばして扉口へ向かった。今が休息――煮詰まった挙げ句の休憩でなければ、きっと来訪者など無視を貫いていただろうに、残念ながら彼は現在、四方八方行き詰まって息苦しさを覚えている最中だった。
 腹立たしさを隠しもせず、彼は真鍮のドアノブを握ると右に捻って勢い任せに引いた。途端、新たに現れた空間に突如として、白いけれど微妙に視界を遮る煙を漂わせたものが現れる。
 ギョッとして片足を反射的に引いて腰を落とした彼の耳に、暢気な声が響く。
「やぁっと開けてくれた」
 ホッと安堵の息と共に流れ出た声は、聞き慣れてしまって真新しさを感じなくもなった存在のもの。室内でへっぴり腰になりかかっていた彼は、しかし半秒後に我を取り戻しキッと、強く不躾な来訪者を睨み付けた。
 カラカラと、まるで気にした様子もなく相手は笑う。
「ユーリ、お仕事大変?」
 お前が何もしないからこっちに割り振りが回ってきているんだと、言いたかった事をぐっと呑み込んだのはリーダーとしての責任感と、自尊心から。愚痴を吐くのは自分のステータスとして許し難い。喉の奥に引っ掛かっている台詞をぐっと呑み込んでいるところに、先程ドアを開けた時に自分の鼻先にあったものが改めて差し出された。
 暖かな湯気を立てているそれは、真っ白いマグカップ。形と色の同じものが、未だドア外に立っている相手の、もう一方の手にもあった。
「……はい。お疲れさまのユーリに、差し入れ」
 どうぞ、となおも差し出してくるので受け取ってしまい、彼は渡された暖かなものと、差し出してきた顔とを交互に見やった。
 甘い香りとその暖かさに、どこかにあった心の中に棘が溶けていく感じがする。
「これは?」
「疲れてる時には、甘いものが良いんだってサ」
 ぼくは御免だけどね。そう呟いて、彼は手元に残ったカップを両手で支え直した。そちらはどうやら、ユーリの手に収まっているものとは中身が違うらしい。匂いからして、珈琲かその辺だろう。
 ユーリは再度、自分の手の中にあるカップと液体を見下ろした。視界が煙りそうな白い湯気はそこそこに、濁った茶色の液体がたっぷりと注がれている。顔を寄せれば甘ったるい匂いが鼻腔に広がって、匂いだけでも嫌悪感を覚えるという程の甘味嫌いのスマイルがこれを此処まで持ってくるのだって、かなり苦労だったろうと思った。
 それなのに、わざわざ。
 考えるとおかしくて、ぷっと噴き出してしまう。
「ナニ」
「いや……いただこう」
 笑みを抑えつつ、感謝の意を込めてカップを軽く持ち上げて告げ、ユーリは踵を返した。特に勧めはしなかったのだが、スマイルも続いて室内に入ってくる。そして散らばっている床を眺め、困ったように顔を歪めた。
「片付けでもしていってくれるか?」
「あー……うん。遠慮しマス」
 固い笑顔で呟いて、彼は手近な所にあった別の椅子に腰掛けて珈琲を啜った。ユーリもまた、蹴り飛ばした御陰で角度が変わっていた椅子に浅く座りマグカップを傾ける。
 甘い香りと味が舌の上に熱と共に広がっていった。
「ココア……?」
 身体が温まって行く感じがする。同時に閉塞感に囚われていた思考能力が解放され、焦燥感や疲労感が緩んでいく。
 ああ、確かに疲れている時にこれは悪くないかも知れない。いつもならば、こんな甘いだけの飲み物には手を出さないのだけれど。新たな発見をした気分で、ユーリは尚もカップの中身に舌鼓を打った。
「美味しい?」
「悪くない」
 ただ、素直に答えるのは何故か癪に障って、問いかけにはこんなことばでしか答えられなかったけれど。思いは伝わっているのか、呆れた顔でスマイルは苦笑していた。
 椅子へ深く座り直して、両手で程良い暖かさを保つマグカップを包み込むように持つ。
「あんまり根詰め過ぎない方がイイヨ、ユーリが先に参っちゃう」
「肝に銘じておこう」
 ふっと笑んでココアに目を落とす。渦を巻いた茶色い液体はどろどろとしていて、見目は悪い癖にユーリの心を解してならない。コクン、と喉を鳴らしてひとくち飲み干すと斜め向かいからの視線に気付いた。
 スマイルがじっと、柔らかな表情で彼を眺めていた。
「なんだ?」
「ううん、なんでも」
 問いかけても彼は首を振り、真っ白いマグカップの珈琲を煽るだけ。どこか不満を覚えて、ユーリは釈然としないままココアが冷め切る前に全部呑んでしまった。
 舌先に甘さだけが残る。底の端に溶け残った粉の濃い塊を視界に収め、空になったカップをどうしよう、と首を捻る。顔を上げ、持ってきた本人に片づけを任せようとしたところ。
 スマイルは、忽然と姿を消していた。
「……なっ」
 絶句する。人に押しつけるものを押しつけるだけしておいて、あとは放置か。思わず抱いていたカップを落としそうになり、まだ新しいはずのそれを慌てて掴み直す。
 中腰になっていた姿勢をどうすることも出来ず、一旦座ってから悔しそうに髪を掻き上げ、ユーリは舌打ちの末もう一度立ち上がった。今度こそ転げそうなまでに椅子の脚を蹴り飛ばして、荒っぽい足取りでドアを潜り抜ける。
 背後で声を潜め笑う気配があったが、振り返りはしなかった。
 階段を下りて台所へ出向く。買い物から帰ってきたばかりらしいアッシュが先に居て、袋から食材を取り出し冷蔵庫に移し替えている最中だった。
「どうかしたっスか?」
 ユーリ自らが台所に出向くのは珍しい事で、床の上に膝をついていた彼が前髪に隠れ気味の目を向けて来る。そしてユーリが持っている、見覚えのない陶器のカップに眉目を顰めさせた。
「いや、スマイルが」
「スマイルが?」
「ココアを……だな」
 持ってきてくれたのだがそれだけで、片付けまで面倒を見てくれなかったから自分で来るしかなかったのだと、どことなく言い訳めいた口振りでユーリは呟いた。内側に残る粉っぽい茶色ラインに目を落とし、縁取りを指でなぞる。
 片膝を浮かせたアッシュが、僅かに目を見開いた。
「ココア……っスか」
 そういえば、確か今日は。
 記憶の片隅に眠っていたカレンダーが甦ってきて、アッシュは成る程、とひとり勝手に得心する。不満顔のユーリがむっとして彼を睨んだ。
「ユーリ、今日は何日だったか覚えてるっスか?」
「今日?」
 台所にまでカレンダーは吊されていなくて、ユーリは困ってしまう。日付の感覚がすっかり遠退いてしまっていて、確か二月の中旬に差し掛かろうとしている頃だろうとは辛うじて理解したが、具体的には分からない。
 本気で悩んでしまっている彼を見下ろし、立ち上がったアッシュは空っぽになった袋を畳みつつユーリの置いたマグカップをシンクに降ろした。すると先に、別のものが置かれていて彼はまたしても、一瞬だけ目を見開く。
 まったく同じものが、もうひとつ、そこに。
「素直じゃないっスねぇ」
 呆れた声で呟いて、アッシュは白いマグカップを横並びに端へ追いやった。
「アッシュ?」
「今日は、バレンタインっスよ」
 聞き取れなかった声に名前を呼んだところへ、そう返される。咄嗟に事態が結合せず、ユーリは渋い顔で彼の背中を睨んだ。だが、アッシュが蛇口を捻ってマグカップを簡単に洗い出してから、漸くユーリは、今日という日のイベント内容を思い出した。
 俄に顔が赤くなる。
「だ、だからってそれがどういう……」
 ユーリはスマイルにココアは貰ったものの、チョコレートやそういう類の品は受け取っていない。口ごもりつつも反論を試みたユーリだったけれど、水を止めたアッシュが手を振って水気を飛ばしてから振り返った先で、
「でも、ココアもチョコレートも元々は同じものっスよ」
 どちらもカカオの実を加工して作られるもの。含みのある笑みを浮かべて言うものだから、ユーリは益々焦って顔を赤くして、拳を握りなんとか言い返そうとするものの、まともな文章はなにも頭に浮かんでこなかった。
 にこにことアッシュが楽しげに笑っている。それが余計に悔しくて、ユーリは歯ぎしりをすると乱暴に床を踏みならした。踵を返し、ずんずかと台所を去っていく。後ろ手で閉められたドアは、勢い良く爆音を掻き鳴らしてくれた。
「……壊れてないっスよね」
 だからついつい、アッシュはそんな心配をしてドアの蝶番を覗き込んで優しく撫でてしまった。
 そのドアを破壊しかけたユーリは、リビングを抜けて広い玄関のエントランスホールに出るまで歩調も荒く、上気した頬は別の意味で赤く染まっていた。けれど誰も居ない――いや、最初からこの城には殆ど人は居ないのだけれど――玄関まで辿り着き、その冷えた空気に触れた事でなんとか、のぼせ掛かっていた思考レベルを平常値まで落とすことに成功した。深々と息を吐く。
「考えすぎだ、馬鹿者」
 果たしてアッシュに言ったのか自分に言ったのか、どちらとも付かない呟きを零しユーリは口許を隠す。舌の上で、忘れ掛かっていた甘さがじんわりと広がる。
「こんな事をしている余裕など、無いのだぞ私は」
 まだ熱い顔を押さえ込み、懸命に言い聞かせて止まっていた足を動かす。階段を登り、閉め忘れていたはずなのにきちんと閉められている自室の扉に疑問を抱くことなく、開ける。
 瞬間。
 鼻先を擽った、ココアとはまた違う甘い匂い。
「……なんだ?」
 首を捻り、先程とどう変わったのか分からない部屋を見回す。違和感を受けた理由は、そう、あれだけ床を埋め尽くしていた紙ゴミが無くなっているのだ。
 束にされ、不要と判断されたらしいものは黒いダストボックスに押し込められている。残りは机の上に。いつの間にか、誰かの手によってユーリの部屋は綺麗に片付けられていた。
 誰か――そんなもの、今更答えるまでもない。だが、この甘い香りは。
 改めてユーリは自分の部屋を見回した。扉を閉め、薄暗さを増した部屋を奥に進む。そこには寝台があって、枕許には花が飾られていて。
 花?
 そんなもの、自分で飾った覚えはない。更に近付いて、正体を探る。十本ほどの薔薇が包まれた花束が、暫く使われていなかったユーリの寝台、枕許に置かれていた。淡いピンク色の花弁をいっぱいに広げたそれから、甘い香りが絶えず放たれている。
 眩暈がした。
 花束の下には青色の、空の写真集が添えられていて。両方を手に取り、ユーリは堪えきれない笑みを零してカーテンに遮られ、今は外も見えない窓を振り返った。
「恥ずかしい奴」
 心の底から、笑う。
 だが、そんな彼だからこそ。
 自分は。

「     」

Forest

 休暇を利用して訪れた山間のロッジは、緑豊かな森に囲まれた場所にひっそりと佇んでいた。
 借り受けた鍵を使い、訪問者も疎らなはずの中に足を踏み入れる。だが近くに管理人が住み定期的に手入れをしているとかで、思っていた以上に綺麗に片付けられていた。数歩進んでも、無粋な埃の足跡など生まれてこない。
 長かったレコーディングも無事に終了し、長かった引き籠もり状態からも漸く解放されて。だから直ぐにあの薄暗い城に帰るのもどこか憚られた気分になったから、丁度良いタイミングで現れた知人が、ならば、と教えてくれたのがこのロッジだった。
 暫く行く用事もないし、好きなだけ使ってくれて構わないとまで言われて管理人にも予め向こうが連絡を入れていてくれたらしい。隅々まで掃除が行き届いていた屋内に、台所を真っ先に目指していた料理人兼ドラムスの彼は食材が買い足されている冷蔵庫を発見し、歓喜の声を挙げ小躍りを果たしていた。
 やれやれと、騒ぐ声に何事かと様子を観に行ったふたりは互いに肩を竦めあい、当分彼はあのまま悦びに浸したままで放置しておこう、とことばを交わすことなく決める。
「今夜は奮発するっスよ!」
 けれど扉口で笑い合ったままで居たら目聡く発見されて、腕まくり状態で叫ばれた。
「期待してるヨ」
「そのことば、しかと聞いたからな」
 ガッツポーズで決め込むアッシュに苦笑して、ふたり思い思いに声を掛け台所を後にする。気の利く管理人の心配りに声に出さないものの感謝を覚えながら、一旦リビングとダイニングを兼ねている広間へ戻った。
 そこに、持ち込んだ自分たちの荷物がどっさりと置かれているからだ。
「これを、部屋に運ばないと」
「……アッシュを呼んでこい」
 なにせ三人分の荷物だ。レコーディングの泊まり開けともあって、汚れ物も相当な量になって嵩張ることこの上ない。見るからにうんざり、という顔をしているユーリに苦笑って、スマイルはやれやれと首を振った。
「偶には、自分で労働なさい」
 せめて自分の荷物くらいは、とぴしゃり言い切って彼はまず自分の鞄に手を伸ばした。横で、むっつり顔のユーリが依然不満を隠そうともせず突っ立っている。だがこれらを各自、二階にある寝室へ運び込まないことには今日を終わらせる事は出来ないのだ。
 仕方なく、無言で歩き出したスマイルの背中を追い掛けてユーリも自身の荷物に手を伸ばした。のそのそと運び、階段を登って二階へ向かう。
 部屋はふたつあって、それぞれにシングルベッドがふたつずつ。うち、スマイルは気を遣ってか奥側の扉を開いていて、御言葉に甘えユーリは手前側の部屋に入ると即座に鞄を放りだした。
 横倒しになった鞄のポケットから、入れたままだった鍵が飛び出して床に落ちる。
「ナニやってるの……」 
 背後から呆れた声が聞こえて、振り返れば扉に凭れかかったスマイルの姿。ばつが悪くなって、むすっと表情を曇らせると彼はカラカラ笑い、手を振った。
「ぼくとアッシュは向こうの部屋で寝るか」
 立てた親指で扉の外を指さして言った彼に、そう、と生返事を返す。余計な気を回されているのか、どうなのか。安堵して良いのかがっかり思うべきなのかでさえ悩み、ユーリが返答に窮している間にスマイルは部屋を出て行ってしまった。階段を下りていく足音が微かに聞こえる。
 恐らく、台所で奮闘しているだろう奴の荷物も運んでやるつもりなのだろう。微妙な不機嫌さを覚えつつ、残っている自分の鞄も引き取りに行かねばならず、ユーリもまた踵を返した。
 途中、その階段で案の定ふたり分の荷物を両手で抱えたスマイルとすれ違う。
「あ、そうだ。ここの裏の森、小さいけど湖があるんだって」
 後で散歩に行こうね、と告げて彼はせっせと階段を登っていった。間もなく姿は見え無くなり、ユーリは少しだけ難しい顔をして階下を見下ろした。そこには、取り残されたかのような彼の荷物がぽつんと、ひとつだけ。
 同時に運ぶには重いからと、後回しにしてしまった鞄。傍まで行って、思わず蹴り飛ばしてしまいたくなる衝動を抑え込み、彼はなんとか引きずりつつそれを二階まで運び込んだ。
 カーテンの引かれた僅かに暗い寝室で、ひとまず汚れ物とそうでないものとを分けて片づけを簡単に済ませる。小一時間もすればアッシュの、夕食を告げる声が響くだろう。それまでどうやって過ごそうか。
 先程掛けられたスマイルの台詞を思い出すが、自分が考えていた以上にこの身体は疲労を蓄積しているようで外に出る気分にはなれなかった。清潔なシーツに包まれたベッドに身を投げ出し、先程床に散らしてしまった鍵を手繰り寄せて顔の前に垂らす。
 銀色のそれは、本来自分たちが帰るべき場所を開ける為のもの。そんなもの必要ないような場所にそびえ立っているのに、形に拘ったのは自分だ。
 これがあればいつだって自分は彼処に帰ることが出来る。これを持っている彼らも、きっと自分のところに帰ってきてくれる。
 陳腐で見窄らしい考え方だったが、これを作った頃の自分はそれなりに必死だったから。今となっては、思い返すだけで恥ずかしくなる記憶だけれど。
 天井に向かって軽く放り投げたそれを、空中でキャッチする。右手で強く握り込んで、溜息が零れた。
 銀色の金属は冷たい。ふと首を傾けて覗いた、カーテン越しの空は曇っていた。
「……雨でも降るのか」
 感慨もなく呟く。天気予報などいちいちチェックを入れないから、明日の天気など知らない。晴れようが雨が降ろうが、自分の生活にはさして影響がないからだ。尤も、やはり雨が降れば少々気持ちも沈み、陰鬱な気分になったりもするけれど。
 掴んでいた鍵を頭上に置き、そのままの姿勢で目を瞑る。多少苦しい体勢ではあったが、敢えて受け止める覚悟でもう一度深く吐息を零した。
 少しの間、眠ろう。自分に言い聞かせ、身体から力を抜く。
 間もなく、ロッジの外は闇に落ちて。アッシュの呼び声が響くまで、ユーリは微動だにする事なく、様子を見に部屋を訪れたスマイルが身体にケットを掛けてくれた事にも気付かずに眠り続けた。

 ざあざあ、と。
 ああ、雨が降っているのだと意識の片隅が音の理由をそう認識する。
 真っ暗な闇の中にあって、けれど音だけがざあざあ、ざあざあ、と。
 間断なしに続く雨音は屋根を、壁を、地上を激しく打ちつけて止まない。風も吹いているのか、時折轟々という木々の間を抜ける呻り声が響いた。
 鳴き声のようだ、とさえ。
 そこに来て周囲が暗闇に包まれているのは自分が瞼を閉ざしたままであるからだと気付き、気怠い感覚を無理に奮い立たせ低く呻いた。薄く瞼を開き、だが直ぐに閉ざしてまた開く。
 瞬きの回数は四度を数え、五度目にして小さな欠伸と共に目を見開く。周囲は、けれど薄闇に閉ざされものの輪郭も朧にしか分からなかった。
「ん……」
 持ち上げた右手の甲で目を擦る。再度瞬きをした後に、突っ伏していた枕から顔を上げて上半身を起こし、ずり落ちたケットに顔を顰めさせた。被った覚えのないそれを手繰り寄せ、肩にかけ直し周囲を見回してみた。
 見知らぬ光景に眉目を歪めさせて、寝ぼけ眼のまま再度室内を眺める。
「……ああ、そうか」
 ぼんやりと考えてから、頷いた。ここは住み慣れた城でも、レコーディングの間使っていたホテルでもない。
 数日の暇を過ごすために借り受けた、森の中のロッジだ。
 雨は降り続けている、かなり激しく。一方的に嬲られているであろう大地は重い水を吸ってぬかるみ、泥の海を各地に散らばらせていることだろう。一時の嵐であれば良いのだが、とどこかぼんやりとしたままの意識で考える。
 折角の休暇を、雨で終わらせてしまうには惜しい。かなりの苦しいスケジュールで無理をさせてしまった仲間たちに、しっかりと骨休めをして貰う為にも。
 だのに、そんな気遣いを無駄にしたがる自然の残虐さは冷たく彼を包み込む。
 ぱたり、とユーリは俯せに枕へ鼻先を沈めて倒れた。僅かに遅れて、肩から外れ落ちたケットが柔らかな仕草で身体に舞い降りてくる。彼はその端を掴み、ずるずると力のない動きで引きずって頭の半分まで覆い隠した。
 掴んだ端は離さずに、拳にだけにありったけの力を込めて、柔らかすぎて手応えの乏しい布を握り込む。きつく皺の刻み込まれたそれを胸に抱き、彼は膝を折って身体を縮めこませた。
 身を丸くし、胎児の姿勢で枕に顔を押しつける感じに伏せる。片方だけ塞がれた耳が、ほんの少しだけ雨音を遠ざからせた。
 けれどまだ聞こえる、遠く近く、風が吹き荒ぶ声が悲鳴のように聞こえてくる。
 壁一枚を隔てただけの距離で、最早家族同然とも言える仲間が眠っているだろうに、その吐息は掠りもしない。存在は希薄で果たして本当に彼らが其処にいるのかどうかさえ、疑わしく感じてしまっている自分が居る。
 ただ雨が降り、風が吹き荒れ、世界が暗くて。
 ひとりぽっちでいる、それだけで。
 不安が波となって押し寄せてくる。
 ユーリはきつく唇を噛んだ。同時に抱き込んだケットで全身を包み込む。頭の先まですっぽりと深く被り、益々身体を丸めさせて膝が胸の高い位置にぶつかった。
 大丈夫、嵐は直ぐに止む。雨もいつか雲を切らせて光が覗く。ぬかるんだ大地も、新しい緑が芽吹く。
 だから、だから大丈夫。
 理屈も理由もなくそればかりを心の中で反芻させて、意識しなくても壊れたレコードのように繰り返されるまで強く刻み込んで。
 ユーリはきつく瞼を閉ざした。雨音を避けて、耳を塞ぐ。意識を闇に投げ降ろす、沈黙だけを求めて。己の呼気さえ胸に障る気がして、息を潜めた。
 雨はまだ止まない。
 夜はまだ晴れない。
 朝が嫌に遠く感じられて、見えない星を数えながらユーリはやがて色のない夢へ落ちていった。

 真っ白なカーテンの引かれた窓からは、朝の陽射しが眩しすぎる程に差し込んでいる。
「ぅ……」
 身動ぎをして、いつの間にかケットからはみ出し露わになっていた頭を数回揺さぶり、ユーリは低く呻いた。
 ちょうど窓は東側に大きく広がっていて、遮光カーテンを閉めることを忘れていた為に容赦なく朝日が彼の部屋を照らし出していた。床のフローリングに反射した光が天井にまでゆらゆらと、白壁を更に白く染めあげていた。
「うぅ……」
 更に呻き、ユーリは突っ伏したベッドの上で両腕の筋を引きつらせた。握り込んだ拳でスプリングを叩き、力を失って広げられた手がシーツを掻く。合計八本の筋が浅く広がって直ぐに消えた。
 眩しい、と閉じた瞼の裏側にまで忍び込んでくる光に彼は眉根を寄せる。もう少し眠っていたい気分なのに、邪魔をするものを追い払いたくて、何も無い空間に擡げさせた左腕を振り回した。
 当然無形物の光を払い去るのは不可能で、分かっているはずなのに寝起きの頭は平静な判断力を著しく欠いていた。肘を付いた腕がそのまま前方に倒れる。指先が寝転がったユーリの頬を掠めて過ぎ、漸く彼は薄くだったが瞼を開いた。
 直後に、瞳を焼く勢いで飛び込んできた朝日に息を呑んで声にならない悲鳴を上げたが。
 反射的に竦ませていまった身体を包んでいたケットごと掻き抱き、飛び起きて後込みした先で目の前に展開する光景に意識を持って行かれた。
 慣れ親しんだ自室とは違う造りの、優しい空気を湛えた部屋に。
「朝……」
 とは言え、厳密にそのことばが指し示す時間帯には少々遅かったのだけれど。気にすることもせず、ユーリは数回瞬きをして首を振った。依然として眠ったままでいる意識の一部を強引に呼び覚まし、こめかみを軽く押さえてから抱きしめていたケットを今度は蹴り飛ばす。
 辛うじて脱ぎ捨てられていた靴を爪先に引っ掛けて立ち上がり、ツカツカと進み出てカーテンの端々を取った。
 一気に、左右へ開く。
「っ……!」
 目映い。瞬間瞳を開けている事が出来なくて、目を閉じる。きつく唇も塞いで堪えて、数秒待ってから徐々に強張った身体の力を抜いて息を吐く。溜め込んでいたものを全部出してしまう気持ちで、瞼を持ち上げた。
 嵐は一晩中続いたのだろう、窓の直ぐ外に続くバルコニーの床は水溜まりが出来上がっていた。排水溝は飛んできたらしき落ち葉で塞がれていて、なかなか上手く雨水を追い出せないでいる。そこかしこにもまだ元気な緑の葉が、しどけなく濡れて散っていた。
 鍵を外し、窓を開ける。靴をしっかりとはき直して、薄手のシャツにスラックスという寝入る前の、昨日ここに到着した時のままの服装で外へ出た。
 凛とした空気に、濃い緑の薫りが混じる。空気中の不純物が、昨晩の雨嵐ですっかり洗い流されたからだろう。深い森に囲まれた場所独特の木々の涼やかな香りが、呼吸する度に胸の奥にまで広がっていく。
 ユーリは深呼吸をした。自然と両手が左右に広がる。背中の翼がぱさぱさと、幾分湿り気の残る大気を叩いた。
 爪先が、窓枠を越える。ふわりと、彼の軽い身体が宙に浮いた。
 雨上がりの空は果てまで澄み渡り、洗濯を終えた雲が真っ白い両腕を伸ばしている。心地よい風は柔らかく彼を包み、無意識に彼を空へ運ばせた。
 軽く、バルコニーの手摺りを蹴って二階から、跳び上がる。ばさり、と大きく広がった両翼を巧みに操って抵抗を生み出させ、生い茂る緑を眼下に彼は空を駆けた。 
 甦る記憶は、昨日。スマイルが教えてくれた、森の中にあるという湖。
 天空にあって360度パノラマの中にある彼は、直ぐにそれを見つけだした。顎を引き、何もない空のただ中で彼は見えないものを蹴りつけて勢いを持たせると、漆黒の翼を広げて滑空する。
 さながら、巨大な鳥の如くに。
 湖は昨晩の雨で増水しているらしく、周辺から流れ込んだらしい雨水も手伝って若干濁っていた。常ならば透明度もかなりあるだろう事を予想させる、手入れも行き届きながらなるべく自然の姿を残そうと努力されている湖の水面に、彼は身体を滑らせた。
 足を伸ばし、だが靴の先が触れるか触れないかギリギリの距離を保ち、さほど広くもないが狭くもない湖に立つ。正しくは浮いているのだが、端から見れば水の上に立っているように映るだろう。
 僅かに波が押して寄せる湖畔をくるりと眺め回し、一呼吸を置いて空を見上げた。
 湖は森のただ中にあって、けれどその頭上にまで森の木々は腕を伸ばして来られない。自然、ぽっかりと開かれた空間がそこに出来上がっていて、だからこそ上空から見下ろした時すぐに見つけ出せた。
 惜しむらくは、同じ晴れ渡る空であっても雨上がりでさえなければ、紺碧の空が湖面に映えさぞかし美しかったであろうに、と思う事くらい。
 再度俯き加減に瞼を伏し、ギリギリ掠めたらしい爪先から広がる水紋の波長を見下ろした。昨夜の嵐にしてやられたらしい、まだ若い葉を残しているのに折れてしまっている枝が、ふよふよと波に手繰られながら流れていた。
 まるでユーリの存在を避けるかのように、枝は浮き沈みを繰り返しながら通り過ぎていく。しかし太くなっている根本に近かっただろう千切れた白い部分の影に、土気色の中不釣り合いな色が紛れているのに気付き、彼は眉根を寄せた。
「…………」
 漂い去っていく枝を、首を捻って見送る。羽がバランスを取りながらぱさぱさ言っている中で、微風にさえ煽られる若葉の緑が不自然に動いた。
 人、が。
 否。
 人の形に似せられたもの、が。
 ぎょっとする。向こうもユーリの視線に気付いたようで、怯えた色をサッと浮かべ頭に傘代わりで被せていた青葉を立てに持ち直し、姿を隠した。尤も、辛うじて木の葉一枚よりも大きい体躯が災いして、頭隠して尻隠さず。
「…………なんだ?」
 自問を声に出してみるが、答えなど導かれるはずもなく。
 目を凝らし見て、風に折られた枝を船に湖を宛てもなく彷徨うそれが鮮やかな赤い花輪を頭に飾った、とても小さな人型の存在であると知る。正体までは分からないが、世の中吸血鬼が堂々と朝から散歩に出るような時代だ。ああ言うものが居ても、なんら不思議はない。
 淡い蒲公英色の髪は左右に分けられて、波のように緩いウェーブがかかっている。雪のような白いワンピースを着て、黒い大きな目を不安げに揺らしていた。
「ふぅむ」
 顎を撫でやってユーリは小さく呻く。対応に苦慮している事を悟られたのか、害意無いと判断されたのか、枝の船の親指姫は手にしていた若葉を降ろした。
 だけれどそれはそもそも、枝から真っ直ぐ伸びて必死に千切れ落ちるものかとしがみついている葉だった。小さな彼女に押しつけられていた一枚葉は、途端反動を利用して彼女へしっぺ返しを試みる。
 ぺしんっ、とさほど強くないはずの伸び上がりたがる葉の反撃を顎に受け、小さな小さな親指姫は呆気なく仰け反った。
「あ……」
 ぼんやりしている間に、少女の姿をしたそれは湖に投げ出される。ユーリは慌てて、背中の羽をふたつばかり強く羽ばたかせた。
 水面を蹴り、飛沫をその場に残して腕を伸ばす。どうやら泳げないらしい彼女が、それでも流され続ける枝に衝突する直前に掬い上げた。
 ばしゃばしゃと藻掻いていた彼女を大事に両手で包み、湖面から距離を取る。一瞬何が起こったのか理解しかねたらしい小さな少女は、ぐっしょりと水を吸った蒲公英色の髪を左右に振って水気を飛ばした。どこかぐったりした顔をして、遠くなった地表を見下ろしている。
「平気か?」
 驚かさないよう気を配って声をかけると、細い肩を震わせて彼女は振り返った。コクン、と一度縦に首を振る。
「そうか」
 なら良かったと、指先で小さな少女の頬に残る雫を拭ってやる。親指の先ほどしかない頭が、衝撃に僅かだがよろめいた。
 こうしてみると、本当に親指姫そのもので。
 いったい何なのだろうと首を捻る。その中も、彼女は再度俯いて地面に視線を走らせていた。
 やがて何かを見つけたらしい。細い指がユーリの指の腹を小突いた。
 あそこ、と身を乗り出した彼女が指し示した先に目を凝らす。高度を下げ、湖に羽ばたく羽の風で波が起こる距離まで行って漸く、湖畔の草の間から顔を覗かせる存在に気付いた。
 なんと、親指姫がもうふたり。
 真っ白なワンピースは同じだけれど、片方は鍔の広い帽子を被っている。もう片方は月桂樹の冠に似たものを頭に巻いていた。髪型も少しずつ違っているが、顔は似通っていて彼女たちが姉妹か、或いは同族かが容易に知れた。
 距離が迫るにつれ、手の中の彼女は早く早く、とユーリを急かす。空から舞い降りた黒い羽の吸血鬼に、地上の彼女たちは最初怯えを含んだ視線を投げかけていたけれど、胸の前で軽く指を曲げた掌に、探し求めていた仲間の姿を見つけて草間から飛び出してきた。
 普段よりも増水しているはずの湖に近付き、波に攫われぬよう注意しながら両手を振り回して呼びかけているようだった。声は聞こえなかったが、必死さは伝わってきて意地悪する理由も無く、ユーリはなるべくゆっくりと湖畔へ降り立った。
 湿った草の感触が靴の裏に伝わってくる。羽を畳むと同時に膝を折り、腕を伸ばして朝露に濡れた草を避けた手を広げる。
 ひょこ、と顔を出した親指姫は、振り返りもせず駆けてくる仲間たちの元へ行ってしまった。三人揃うと両腕を広げて抱きあい、歓びを身体で表現しその場で何度か飛び跳ねた。
 ユーリは立ち上がり、平時の穏やかさを取り戻しつつある森の中の湖を見た。周囲に聳える木々の中には、嵐の直撃で被ったらしい被害の痕がそこかしこに見当たった。
 もしかしたら、と足許でともすれば草の間に見失いかねないサイズの少女達を眺める。
 花輪の少女は昨晩の雨の中、ひとり湖に取り残されてあの瞬間までひとり、仲間と離ればなれに夜を明かしたのかもしれない、と。ならば先程の、視線が絡んだ瞬間の彼女の怯えにも理由が付く。
 ただ唐突に現れた彼女から見れば巨人が如き存在に驚いただけかもしれないが、暗く荒くれる風と雨の冷たい夜を一人きりで不安を胸に過ごして来たのであれば、恐怖も尚更だっただろう。だから再会を果たせた事を、あんなにもはしゃぎ合って喜んでいる。
 やれやれとユーリは小首を振った。
 昨晩の嵐は、自分でさえも心細さを覚えさせ要らぬ不安を頭に過ぎらせた。彼女の小さな身体に押し込められていた恐怖はいかばかりか計り知れず、だからこそ彼女たちの喜びも胸を伝って哀しいくらいに分かってしまう。
「良かったな」
 呟き、自分のことばに照れを覚えてユーリは頬を掻いた。森の隙間から差し込む太陽の光は薄暗かったが、思ったよりも高い位置から降り注がれている事に今更気付く。
 帰ろうか、そろそろ。自分が居なくなっていることに、ロッジで待つ仲間達も気付いているだろう。あまり心配させるのは良くないな、と薄く笑む。
 ユーリは踵を返した。くるりと踵を軸に方向転換する。ロッジまでの帰り道を知るわけでもないのに、歩いて帰るつもりだった足は、けれど予想外な力に引き戻された。
 とてもささやかな抵抗。たとえて言うなら若草の先を結んで作った罠に足を引っかけたような、そんな感じ。ちょっと力を加えたなら呆気なく解けてしまうだろう力が、ユーリのスラックスの裾を掴んでいた。
 仰々しさをそのまま態度に表し、ユーリは下を見る。露に湿った草の隙間から、少女が三人、彼を見上げて大きな目を更に丸くしていた。
 うち、ユーリが助けた花輪の少女がこっち、と彼方を指さす。
「え?」
 なにがなんだか、よく分からない。彼女は指さすと同時に何かを紡いで口を開いたが、音は放たれず声は聞こえなかった。だけれど、残るふたりも同じ方角を見やって懸命の力で裾を掴み、引っ張り続けている。
 その程度の力で彼を動かすことなどできるはずないのに、必死で。
 呆れてしまい、ユーリは吐息を零した。髪を掻き上げ、腰を屈める。広げた両手で左右から挟み込み、今度は三人揃えて掬い上げた。
 最初は驚いた仕草をみせて逃げたがった彼女たちだが、彼を何処かへ導きたがっているのは彼女たちだから直ぐに抵抗は止んだ。物珍しげに、慣れない視線の高さにおっかなびっくりとしつつ、胸の前に近付いてユーリにぺこり、と小さな頭を下げる。
「どちらだ?」
 問えばことばは通じるらしい、日が射す方角とは逆を指し示される。共に歩いていくのも悪くなかったのだが、生憎とコンパスの差は著しい。ユーリの一歩が、彼女たちの十歩に相当するのだから。
 水を掬う手の形は疲れるからと、途中で胸の前で緩く腕を組んだ隙間の少女達を乗せユーリは森の中を進む。初めて歩く道は不慣れだったが、時折通りやすい道を教えられなんとか一度も転ばずに、森を抜けた。
 辿り着いた先は、一面の花畑。
「………………」
 思わず吐きかけた息を呑み、白を中心に緑とのコントラストを描く淡く鮮やかな絨毯に彼は見惚れた。降ろしてくれ、と小突いてくる少女のリクエストに応対するのも遅れ、些か調子崩れのまま彼は膝を折った。
 恐らく此処が、彼女たちの本当の住処なのだろう。それとも遊び場なのか。
 降ろされた先から駆け出し、花畑の中に白いワンピースは消えていく。小さな背中をみっつとも見送って、ユーリは汚れてしまった膝を払いながら立ち上がる。
 ここでもうひとつ、吐息を。
 空を仰いだ。相変わらず真っ青で、真っ白い雲が隙間を広くぷかぷかと、優雅に。高い太陽はこの場所からだと間近に思えて、目を細め庇代わりに疲れ気味の腕を持ち上げた。紅玉の瞳をスッと細める。
 くいっ、とスラックスの裾がもう一度引かれて。
 戻ってくるまいと思っていた存在をみっつともその場に見つけて、彼は少なからず驚いた。
 親指姫は三人とも、それぞれの手にそれぞれ違う色の花を摘んで抱えていた。
 花輪の子は髪を飾ると同じ赤色の花。
 帽子の子は自分の髪と同じ蒲公英色の花。
 蔓冠の子は身に纏う服と同じ真っ白の花。
 それぞれに、一本ずつ大事そうに抱えてユーリの裾を引き、しゃがむ事をせがんでいる。
「…………」
 困惑を隠せぬまま、ユーリは身を屈めた。即座に顔の前へ突き出される三色の花と、少女の顔。大きな目をまん丸くして、彼に真正面から挑みかけて見つめている。
 受け取れと、そう言うのか。
「……あ、ありがとう」
 放っておくといつまでも差し出されたままになりそうで、ユーリは自分の直感を信じ例を述べて空の手を差し伸べてみた。案の定彼女たちの手から、摘まれたばかりの花が渡されて握らせられる。
 色違いの三本の花。小さくて、まるで彼女たちの分身のような、そんなあどけなく純粋な花。
 辿々しかった最初の礼を、受け取ってから改めて言い直すと照れくさそうに少女達は微笑んだ。クスクスと笑っている、その顔が可愛らしい。
「有難う」
 顔に近づけて花の香りを楽しむ。密やかに、春の陽射しの匂いがした。

 花畑から苦労してロッジまで帰り着く。空からなら一瞬だった距離も、地上から行くとなると迂回せねばならない場所が多すぎて、しかも道を見失い行ったり来たりを繰り返してしまった。
 こんな事なら最初から空の道を行けば良かったと後悔しつつも、柔らかい陽射しの中で大地を踏みしめるのも、時として悪くないと思ってしまったから途中で投げ出すのも癪で。結局十五分もかからない道のりを倍以上かかって、ユーリは借宿まで帰ってきた。
 手の中には、握りつぶさぬよう軽く握られた三本の花。少女達には身体と同じサイズであっても、やはりユーリには少し小さい。
 淑やかに咲く花をもう一度眺め、彼はドアを押し開けた。入って直ぐにある広いリビングからはテレビの喧噪が展開されて、中央のテーブルを囲みスマイルとアッシュの姿もあった。幅広のソファをひとりで占拠してくつろいでいるスマイルが、ユーリに気付き手を挙げる。
「オカエリ」
「お昼ご飯出来てるっスよ」
 にこやかに微笑み、アッシュがテーブルから離れる。彼の手には空っぽの皿が握られていて、恐らくそこにはスマイルの分の昼食が盛られていたのだろう。
「何処行ってたノ?」
 崩していた姿勢を正して座り直したスマイルの傍まで行くと、当然ながら問われた。
「散歩」
 間違いではない回答を返し、ユーリは両手で花を庇い持ちつつ視線を巡らせる。どこかにこの花を生けさせられるものは無いだろうかと、探す。どこか落ち着かない素振りを絶やさない彼の背中を見上げ、頬杖をついたスマイルがふっと穏やかに笑んだ。
 膝を打ち、彼は立ち上がる。
「お腹空いたでショ。座ってなよ」
 代わりに自分が座っていた席をユーリに譲って、誰も見ていないテレビも消すと彼はアッシュが去った台所へ姿を消した。まず先に、サンドイッチを盛りつけた皿と紅茶を盆に乗せたアッシュが出てくる。
 スマイルは、と視線で問うが彼は肩を竦めただけで答えを寄越してはくれない。不審に思いつつ、だが空腹なのも確かでユーリは左手に花を握り直し右手を伸ばした。
「先に、コッチ、ね」
 けれど、いつ戻ってきたのか唐突に姿を現したスマイルがサンドイッチとユーリの手との間に、透明なグラスを置いて。
 軽い音が小さく響いた。
 酒杯なのだろう、冷酒でも入れるのか底は浅いが幅広の花模様が描かれた硝子のグラス。その半分までに水が注がれ、ユーリの爪先が当たった衝撃で波立っていた。
「え……」
 咄嗟の事に理解力が追いつかず、ユーリは顔を上げてスマイルを見た。行儀悪く腰半分をテーブルに乗り上げて座っていた彼が、グラスの縁を指で辿らせて愉しげに笑ってみせた。
「違う?」
「あ、いや」
 違わない。今一番欲しくて、探していたものがこういうものだったから。
 けれど、何故彼が知っているのか。
「湖、綺麗だった?」
 グラスの水を揺らしながら、彼はそれをユーリの方へ押し出す。同時に囁かれたことばに、ユーリは目を丸くして瞬いて、むぅと唸ってからそっぽを向いた。
 見ていたのならば、先に言えば良いのに。けれど彼らはきっと言わないだろう。口に出さず、でもこんな風に分かってくれる。
「今度は、ぼくらも誘ってよネ」
 散歩に、行こうね。そう呟いてスマイルはテーブルから降りた。衝撃で揺らいだサンドイッチの端が倒れる。目尻を吊り上げたアッシュに御免、と笑いながら謝ってスマイルはリビングを出ていった。
 ユーリは握られっぱなしで、少し元気が無くなっていた花を花瓶代わりにグラスに生けた。
 赤と白と、黄色。たったそれだけなのに部屋が急に明るくなったように感じられ、ユーリは知らず微笑んでいた。
「明日、帰ろうか」
 期日は決めていなかった休暇。終わりを唐突に告げられアッシュは驚きを隠さなかったけれど、反対はせずに黙ったまま頷いた。
 帰ろう、あの場所に。慣れ親しんだ、懐かしい我が家に。
 あの鍵を使って。
 きっと、今日のように彼らは待っていてくれるだろうから。
 彼らもまた、あの鍵で帰ってきてくれるだろうから。
 ユーリはグラスの上から花を撫でた。優しい陽射しを受けて育った花が、頭を垂れてまるで笑っているようだった。

Nap

 ちらりと覗いた窓の外は悔しくなるくらいの快晴。これで気温がもう少々高ければ、庭に出て日向ぼっこにでも勤しんだだろうに、と歯ぎしりをしたくなるくらいの。
 一面の青空と、ぷかぷかと浮かぶ真っ白い雲。洗濯したての様相を呈する空に肩を竦め、眼下にちらりと見えた物干し竿に居並ぶシーツの群れに苦笑した。そういえば朝からアッシュが頑張って、城中のシーツを剥がして回っていたっけ。
 その御陰で惰眠を貪る休日を邪魔されてしまって、生あくびも抜けきらない頭を掻きむしり暇を持て余して、城を闊歩している。行く宛ては特になく、けれど最終的に向かうのは退屈しのぎには持ってこいの黴臭くもある部屋。
 壁一面を埋め尽くす書棚に埋もれた、無数の書籍が乱立する空間。土気色に染まり、苦手な人間であれば五分たりとも居座りたくないと言いそうな、書室である。
 日溜まりの陽気は暖かく、窓一枚を隔てればそこそこに暖かい。太陽が傾いて角度が変わってしまいさえしなければ、きっと窓の下で昼寝を実行していたに違いない空を再度、別の窓から見上げて今度は頬を掻いた。
 靴裏が一定のリズムを刻み床で踊る。軽快な調子は最後まで崩れることなく、やや薄暗さが目に障る城の静まりかえった一角まで進んで止まった。
 そしておや? と首を傾げる。
 ドアが半開きだった。
 一応閉められている事は間違いない。だがきっちりと最後まで閉まりきらず、ノブを回さずとも引くだけで重厚な色合いの扉は開かれてしまった。入れるはずだった力を持て余し、ドアを開けてからノブを回すという意味のない行動に出てしまった自分を苦笑う。
 先客がある事は先に予想できて、自分自身の特性から驚かせてみようと言う気心が真っ先に働いた。御陰で自然と歩調はは忍び足になり、呼吸を控えめに気配を殺して室内に踏み込む。
 壁一面を覆う書架は壮観で、一ミリも余すことなく押し込められた今の時代では貴重であろう書物の群生にいつ訪れても圧倒させられてしまう。ひっそりと静まりかえっている空間は聖域にも似た面持ちを持っており、我知らず気持ちが引き締められた。
 ひたりとした空気に湿気の乏しい霞んだ空気を鼻先に感じつつ、扉を後ろ手に音もなく閉める。周囲を注意深く探って、けれど予想していた先客の存在を感じ取ることは出来ずに知らず首を捻ってしまった。
 ひょっとすれば、もう出ていった後なのかもしれない。古い建物だから扉の建て付けも悪くなっていて、ちょっとしたコツが無ければ扉もしっかりと閉まらなくなってしまっている場所が多々見受けられるくらいだ。書庫の扉はまだそんな事は無かったのだが、と怪訝に思いつつも感じ取れない他者の気配に疑問符を浮かべ、歩を進める。
 さて、今日はどの書架を攻略してみようか。
 数部屋が壁を貫いて続いている広大な書庫は、壁という壁を書籍が埋めている。端から攻めて行っても、最終地点に到着するのはかなりの年月が必要とされるだろう。
 ここまで集積させた過去の城主達の有閑自適な生活を想像し、羨ましさを感じつつ先だって訪れた時に読み終えた書籍の棚を記憶から引き出して爪先を向けた。葛折り状に並ぶ書架の迷路を抜け、入り口とは対岸の最奥――分厚いカーテンで覆われる窓の並ぶ壁へと進む。
 そして途中で彼の足は止まった。
 部屋の奥、恐らく最初は扉から一直線に進むことが出来たのであろうが今となっては増えすぎた書籍を整理するために増やした棚の数々に邪魔され、入り口から見えなくなってしまっている壁に向き合う格好で置かれた机の前に。
 古めかしい焦げ茶色の椅子に深く腰掛けつつも、背凭れに本来の機能を果たさせないまま。
 そして本来、そういう役目を担う目的で建造されたはずのない机に絡めた両腕を置いて。
 そんな事をさせるために有るはずではない腕を枕代わりにして、すやすやと場違いな寝息を立てている背中が。
 机の前にはぴたりと寸法を合わせたように造られた窓が、分厚いカーテンを開けて顔を覗かせている。窓硝子の外からは、小春日和の穏やかな陽射しが絶えず差し込んでいる。空気は温められ、外との温度差が信じられぬ程心地よい空気がこの場に漂っていた。
 日溜まりの中に置かれた机は、今や絶好の昼寝場所に様変わりしていた。
 成る程、これでは確かに気配を感じ取ることが出来ないわけだ。妙な納得を覚え、彼は深く頷いてから自分の口許が殊の外にやけている事に気付いて慌てて表情を引き締めた。 
 けれど、その気持ちは分からないでもない。気持ちよさそうな陽射しは自分も感じていた事で、あの机に座っていたなら自分もつい油断して、うたた寝をしでかしていたかもしれないと思う。だが、室温は湿気を溜め込まないよう常に低温を維持されているのでいくら窓辺であっても、多少の肌寒さを覚えるのは必然。
 このまま眠らせてあげたい気持ちはいっぱいだったが、放置して置いて彼が風邪をひくなりして体調を崩すのも避けたいところ。
 一瞬だけ、悩む。
「う~ん……」
 態とらしく腕を組んで首を捻らせて、小さく唸る。
 窓辺の机の一帯だけが、外から差し込む光の御陰で明るく輝いているように映る。陰気な雰囲気が漂う書庫の中で、彼の眠る其処だけが綺麗に思え、出来るならこのまま保存しておきたい気分にさえさせられた。
「ユーリ……」 
 試しに名前を呼んでみて、返事が無いことを確かめる。心地よさそうな寝息は一定のリズムを保っていて、彼の夢がそう浅くない事を教えてくれた。
 ちょっとした振動程度で目覚めないだろうと予測する。
 彼は自分が羽織っている上着に指をかけた。前合わせのボタンを外したまま、単に袖を通しているだけの少々分厚い生地を使ったシャツを素早く脱ぎ、左腕に引っ掛ける。
 眠っているユーリの肩から掛けてやろうと数歩開いていた距離を忍び足で詰め、シャツの肩部分を掴んで軽く広げて彼の背後に迫った。
 そうっと息を殺し、自分の腕を枕にして居眠っているユーリの肩越しに彼の横顔を覗き込む。
 シャツを広げて持ったまま、けれど動きは停止した。
 ユーリが腕の下に敷いているもの。握っていたものが眠った時に力緩んで落ちたのであろうペンが転がっている、ノート。書き連ねられた文字は見ただけでは、作詞途中かなにかだろうと思わせたけれど。
 最上段の一文が、違和感を呼び起こす。
 それは、今日の日付。冬の最中、暖かな陽射しを窓から受け止める小春日和の穏やかな日。
『良い天気だ。アッシュは朝早くから洗濯物に勤しんでいるようで、人が気持ちよく眠っているというのにシーツを洗うだとか言って叩き起こしてくれた。まったく、勝手極まりない奴だ。だが久々に朝早くから目覚めるというのは……』
 そこまで目を素早く通して、そこから先はユーリの身体が邪魔をして読めない事に小さな落胆を覚えてしまう。悪気があって盗み見たのではないと自分に言い訳をして、彼は小刻みに揺れるユーリの肩に着ていたシャツを被せた。
 空気の抵抗を徐々に小さくして、若干膨らんでいた布地もやがては沈み彼の体格に添った形に落ちつく。ユーリの目覚める気配は未だ遠く、落ちついた寝息が途切れることなく続いていた。
 アッシュに叩き起こされた事で睡眠が足りていなかったのだろう。それに加え、この暖かな陽射しを浴びたのだ。うたた寝を催すのも無理は無い。
 肩を竦め、彼は未だ机に身体を預け眠りに就いているユーリを見下ろすと首を回し、視線を巡らせた。書室であり書庫でもあるこの部屋には、書籍以外の不要なものは殆ど置かれていない。装飾品も無いに等しい色味の薄い室内で家具らしい家具と言えば、ユーリが使っている机と椅子くらいなもの。
 居場所を落ち着ける為の椅子ひとつ余っていない部屋の様相に改めて呆れかえった彼は、だが視界の端に見つけたものに隻眼を細め口許に緩やかな笑みを浮かべた。
 それから更に視線を上向け、以前部屋を訪れたときに読み連ねた書籍が並ぶ書架とは違う場所を眺める。焦げ茶色の背表紙に金で箔押しされた文字を素早く読み取って、爪先に力を込め腕を伸ばす。
 指先に引っ掛かった相当の分厚さが有る本を取りだし、胸に沈める。音もなく、吐息を零す。
 ユーリは当分目覚めそうにない。そして自分は、肌寒いのは否めないが此処へ暇を潰すために訪れた。
 当初の目的を果たさずして、此処を出ていく事も出来まい。
 言い訳めいた理屈に自分で笑みを零す。彼は手に取った本を大事そうに抱えたまま、目聡く発見した本来書架の上段に手を伸ばすために使われる、僅か三段しか無い脚立へ爪先を向けた。
 一段目に足裏を置き、平たくなっている最上段に腰を据えるともう片足を組んで膝に今手にしたばかりの書籍を広げた。表紙からして分厚いそれは、保存状態がすこぶる良かった事を証明しているかのように古いはずの紙もさほど変色していない。虫食いも無きに等しく、彼を喜ばせた。
 窓から差し込む光は変わらず、穏やかに暖かい。雑念を引きよせる余計な物音も一切無く、注意を払いさえしなければユーリの寝息も気にならなかった。ただ自分の呼吸する音だけが耳に五月蠅いくらいで、それに次いでページを捲る紙の擦れ合う音が邪魔に思える程度。
 時間は穏やかに、けれど確実に流れていく。陽射しのぬくもりは変化乏しかったものの少しずつ角度は変わり、窓の影が落ちる床は色合いを刻々と変化させる。
 やがて、どれくらいの時間が経過したのかも分からない頃になって。
 頭を預け続けた腕が痺れ、感覚が消え失せている事が苦痛になったユーリが短い呻きを数回漏らした。
 朧気な視界と意識を揺らし、瞬きを繰り返す。眠っている間は薄かった呼吸を深くして新鮮な空気を肺へいっぱいに送り込み、感覚が無い指先をどうにか痙攣じみた動きでもって折り曲げて、彼はやっと、重い瞼を完全に開いた。
 咄嗟には状況が理解できず、淡い靄に封じ込められた記憶をどうにかして引っ張り出してきて彼は自分が、書室の机で眠ってしまったことに気付いた。身につけているシャツの袖の輪郭や皺までがくっきりと片頬に刻み込まれて、指で触れただけでもその凹凸ぶりが分かる。まさか涎まで垂らしては居ないだろうかと疑って、その袖ぐりで顎のラインを横切らせてからほう、と息を吐いた。
 それから漸く、前傾だった姿勢を背凭れに添わせる形で上半身を起きあがらせた。
 シャツが、ずり落ちる。
「……?」
 感じた違和感に、ユーリは肩越しに振り返った。右肩分だけがずり落ちていたものの、動きの少なかった左肩にはまだちゃんと残っていた自分のものではないシャツに気付いて、掴み取る。特徴的な匂いが微かに鼻腔をくすぐった。
 それが誰の匂いであるか、誰何するのは最早愚問に等しい。
 ユーリは眉根を寄せると半身を捻った状態で後方を疑った。
 果たして、彼は視界の片隅に脚立を椅子代わりにして腰掛けていて。ユーリが目覚めた事はとっくの昔に気付いていたらしく、開いている本で鼻筋から下の表情を隠しつつも、現れている隻眼だけで笑っていた。
 カッと、ユーリの頬に朱が差す。だがここで勢い任せに感情的な罵声を上げていたのでは彼の思うつぼであろうことは、夢半分から脱した意識の警告が働き寸前でブレーキがかけられた。奥歯を噛みしめつつも、椅子の上でいつまでも腰だけ捻ったままでは苦しいからと姿勢を正し、しかし椅子は向きを変えず左腕を背凭れに載せる格好になってユーリは、視界に収まる彼を見据えた。
 軽くだが、睨み付ける。
「いつから居た」
 疑問符を今更必要とはしないで、問う。肩を揺らして彼は笑い、持っていた本を降ろすと表紙と、それから読み終えた場所までのページをそれぞれ親指と人差し指で挟んだ。裏表紙を閉じ、本を立ててユーリが見えるようにする。
「えーっとね」
 これくらい? と彼が示したのは、厚みが親指の長さくらいはありそうな書籍の三分の二近く。
 それから。
「あと、コレ?」
 行儀悪く脚立の一段目に置いていた足の爪先で指し示した、床に平積みされた書籍群。その数、ざっと三冊。分厚さはいずれも、彼が最初に示したものと同等。
 最初に彼の手元を見て、それから足許に視線を落として再度彼の顔を窺い見て、ユーリは最後に長い長い溜息をひとつついた。すっかり寝癖が出来上がってしまっている前髪を、大仰な態度で掻き上げる。
 窓の外を盗み見て、太陽の位置を換算した。
「そうか」
 妙に納得した顔で、呟く。
「その程度か」
 どうやら思った程長時間居眠りしていたわけではなさそうだと、彼の速読ぶりを思い返し、頷いた。一方の彼は、もう指でページを押さえておく必要が無くなったとして、読み終えた場所の頁を開き膝の上に安定させる。
「なにか面白いものでもあったか?」
 彼がこの部屋を度々訪れている事は以前から承知していたので、ユーリもさして驚かない。むしろユーリが訪れる事の方が希で、アッシュに至ってはこういう部屋は苦手なのか足を向けることは滅多になかった。
 書室の主がジャンルに拘らなかったのか、単に横着だっただけなのか。ジャンルも多岐に渡り種々揃っているこの部屋は、自分の興味有る分野が並んでいる書架を見つけさえすれば絶好の暇つぶしポイントでもあった。そして彼は、首を捻りたくなるまでの幅広い趣味を持っていた。
 ユーリの問いかけに、彼は脚立の上で姿勢を崩さずに足許に積んだ本を指さした。
「カール・マルクスとL.F.C.フラーと、クラウゼヴィッツを順番に読んだら、頭が混乱したくらいかな」
 それはいったい、どういう選択基準で書棚から取り出したのか。聞きたい気持ちはあったものの、どうせ自分が呆れる結果しか得られないであろう事も楽に想像できてしまい、ユーリは吐き出し掛けた息と一緒に疑問を呑み込んだ。代わりに、眉間に人差し指を突き立てて刻まれる皺を揉みほぐす。
 カラカラと、彼は笑って。
「面白いか?」
「まー、退屈しない程度には」
 そこそこ面白いよ、と呟いて彼は読みかけの本のページに紐を挟んで閉ざした。積み上げている本の上にそれを置き、脚立から降りる。
「ユーリこそ、珍しいネ」
 仕事なら自室で済まるユーリが此処を訪れるのは、大抵資料が必要になった時くらいだ。後は、静かすぎる空気に触れたいときか、誰にも邪魔されたくない時か。
 問われ、ハッとなりユーリは机を振り返った。広げられたままのノートを思いだし、今更ながら慌てて閉じる。そこそこの厚みを持つ重そうな表紙に刻まれている文字は、彼の立ち位置からだと見えない。
 それなのにユーリは両腕で今し方まで広げたまま放置していたそれを必死になって隠し、彼に怒鳴り声で問う。
「読んだのか!?」
「ナニを?」
「だから、だから……これ、を」
 立てた人差し指で重厚なノートと言うのは少々仰々しいそれを小突き、ユーリが重ねて問う。上目遣いの視線を受け、彼は苦笑った。
「読んでないヨ」
 見たけど。
 むしろ、見えたのだけれど。
「それ、作詞ノートか何か?」
 分かっている癖に意地悪い笑みを浮かべたまま聞く彼に、ユーリは一時の安堵を浮かべそうだ、と答えようとした。
 けれども。
「今日の日付で始まる歌詞なんて、珍しいよネ~」
 非常にわざとらしい口調で、表情で、隻眼を細めた彼の台詞に。
 一瞬だけことばを失って、ユーリは。
 三秒後、頬を紅潮できる限界点まで真っ赤に染めて、手元にあった万年筆を尖った先を前にして彼へ一直線にダーツの要領で放り投げた。
 それは見事に床と水平な線を描き彼目掛け飛んでいったが、軌道が余りにも一直線過ぎたが為に楽に躱されてしまった。スカン、と空ぶったそれは書架に収められた一冊の背表紙に突き刺さり、カクンカクンと揺れてやがて落ちた。
「読んでいるではないか~!」
 恥ずかしさも極まったらしいユーリの怒鳴り声に、彼は実に愉しげな笑みを崩さず他にも床で造られた平積み状態の書籍の山をすり抜け、ユーリの元へ進んでいく。その間もユーリは黙っていたわけではなく、掴めるものはなんでも手に取り放り投げていたのだが、それは部屋を荒らすだけの無駄な行為に終始した。
 やがて疲れ切った様相で肩を上下させたところで、彼が到着を果たす。
「スマイル……」
 悔し紛れに睨み付けても効果は薄い。
「油断大敵ってことば、知ってるよネ?」
 不敵に笑って告げる彼に、歯ぎしりしたものの返す言葉も見当たらなくてユーリは臍を噛んだ。確かにこの場合、見える位置に日記を広げたままにした自分が悪いのだろう。だが、それだって誰かが訪れるとは予想していなかったからの行動であり、盗み見た彼にだって多少の非はあるに違いない。
 棘のある視線に肩を竦め、彼は吐息を零す。
「最初の数行だけだってば、見えたのは」
 他はユーリの躰が邪魔をして見ることも叶わなかった。それに、もし全部が読めたとしても彼はきっと、その先を求めたりはしなかっただろう。
 興味がないわけではない。けれど、誰にだって他人に知られたくない部分はある。そういう隠しておきたい、けれど如何なる方法でか吐露してしまいた気持ちが有ることも嘘ではなくて、だから困るのだけれど。
 日記は、えてしてそういう自分だけでは抱えきれない癖に、他者に告示するには憚られるものを書き記すものに近いから余計だ。
 ただ、やはり。
「ユーリが日記つけてるなんて思わなかったから、吃驚はしたケドね」
「……似合わないとでも言いたいか?」
 ジト目で睨み上げられ、彼は慌てて首を振った。ただ浮かべていた薄笑いは、説得力を著しく減退させたけれど。
 コホン、と咳払いをひとつして、ユーリは彼から視線を外した。机上に置いたままの分厚い日記帳――表紙に書かれている「Diary」の文字に指を這わす。
 細めた瞳が、いつになく優しい。
「こうしておけば、残るだろう?」
 自分の時々の考えを、想いを、願いを、記憶を。思い出の数々を。
 ただ乱雑に、無造作に書き連ねていくだけで良い、整理する必要はない。記録ではなくて、覚え書きでもなくて、これは日々の自身がその瞬間で生きていた事の証なのだから。
 それ以外でもなく、それ以下でもそれ以上でもなく。
 ただそれだけの事を、自分の生きた証明を。
 だから毎日じゃない、間隔は一定でなく思い出して気が向いたときに。そして時には、どうしても書き記して置きたくなった時にだけ開くページ。
 形に顕す事で、形を持たせる。曖昧で淡く儚いものでしかない記憶を遺す為の、ひとつの手段。
 そうして自分が過去に在ったことを、確かなものにする。自分が確かに在ったのだと、思い出させてくれる。
 例え自分自身が消えてなくなったとしても、それでも自分は在ったのだと記憶を遺す為に。
 いつか、自分を思いだしてくれる誰かの為に。
 世界の総てが壊れたとしても、自分の存在を残すために。
 日記の表面をなぞり、ユーリは微かな息で呟いて瞼を降ろした。
 窓からお光は絶えず穏やかで暖かい。光に包まれ、彼は一律の呼吸を乱すことなく、遠い――恐らくは日記に書き連ねられている自身の過去に思いを馳せているのだろう。
 スマイルは窓の外を見た。光に溢れかえった世界は眩しすぎて、直視が難しかった。
「でもぼくは、君が残れば良い」
 日記はつけた事がない。つけようとも思わなかったし、これからつける気も起こらない。
 ユーリは目を開けた。椅子に腰掛けたまま、目の前に立つ男をぼんやりと見上げる。けれど彼は変わらずに窓の外を、景色が映らない光だけの世界を見据えたまま、遠くを睨んだまま。
 僅かに自嘲気味とも思える笑みさえも浮かべて。
「世界が壊れても、ぼくらを囲む人たちがひとり、またひとり消えて行くとしても。日々が巡らなくなったとしても。当たり前の日没が訪れなくなったとしても」
 たとえ、そうなったとしても。
 君さえ残れば。
 スマイルはことばを切った。瞬きをして、窓辺からユーリへゆっくりと視線を、降ろす。
 重なり合った瞳の向こう側で、やがて彼はひっそりと、微笑んだ。
「ぼくの命は、君の中に残る」
 持ち上げられた左腕が緩い拳を作り、人差し指が立てられて、そしてユーリの胸を刺す。
「ぼくが、残る」
 軽く触れるだけだったのに、ユーリは全身がぐらつく程の衝撃を受けた錯覚に襲われ目を見開いた。
 何かを言いたくて震える唇を開いた。けれど音は繋がらなくて、喉の奥に引っ掛かったそれらは明確な単語を形作ることなく塊となって、やがて押しつぶされた。
「……ネ?」
 拳を解き、優しい笑みを浮かべたスマイルの顔を茫然と見上げ、やっと意識が集約され手元へと戻ってくる。再構築されたそれらが、傍若無人な彼への怒りに切り替わるのに時間は掛からなかった。
 キッと目尻をつり上げて、今度は自分で造った拳で彼の鳩尾付近に力を込めないパンチを叩き込む。
「言わせておけば、好き勝手な事ばかり言う!」
 難解な書物に頭を埋めすぎて、どこかおかしくなったのではないか? そう言い返すのがやっとで、ユーリは彼に知られぬよう口腔内で舌打ちして一瞬だけ視線を漂わせた。
 噛みしめた奥歯がギリ、と鈍い音を響かせる。振動は自分の中だけに留まり、彼には伝わらない。
「そう、貴様の思惑通りに行くものか」
「そうかもネ」
 カラカラと喉の奥を震わせて笑って、彼はユーリの拳を押し返した。両手で彼の手を包み、その輪郭を辿って、離す。
「でも、嘘じゃないでショ?」
 確信を込めた表情で、彼は。
「ユーリはぼくを、忘れない。チガウ?」
 狡く、尋ねて。
 ユーリの首を力無く振らせる。横に、数回。俯いて、悔しそうな顔をさせて、そしてその様を見下ろして満足そうに笑って。
「そして、ぼくは君を忘れない」
 ユーリの座る椅子に近付いて、腰を屈め、伸ばした腕でユーリの躰を挟み込み後方の机に指を置いて。
 顔を寄せて、俯いている彼に頬を押し宛てる。肌を通じて流れ込んでくる命に、安堵さえ覚えて、彼は。
「ぼくの中に、君は遺る」
 何があっても。世界が壊れても。ぼくたちを知る誰もが姿を消しても、居なくなっても。太陽が沈まなくても、暗闇が薄れることを忘れても。
 だから。
「ユーリ」
 頬ずりをして、顔を上向かせて、そっと唇を重ねて。
 震える感覚に、少しだけ切なさを覚えて尚更深く、口付ける。一度離れて、またくちづけて。
「本当に?」
 合間に囁かれたことばに返事はせず。
 ただ互いを貪り合うようなくちづけに、ふたり揃って酔いしれた。

愁嘆

 命を賭けても、守りますと彼は言った。
 命など賭けなくていいから、生きていて欲しいと彼に言った。
 彼は黙って、笑うだけだった。

「やはり此処か」
 冷たい潮風が髪を揺らし、頬を叩くように撫でて通り過ぎていく。
 同じように抑揚もなく冷たい声が後ろから流れて来て、綱吉は背後に立つ人物の存在を確認する。振り返らずとも分かる、よく知った声。
 綱吉は返事をせず、黙ったまま前方を見据え続けた。眼前に広がる青い海は穏やかで、頭上を照らす太陽も眩しい。けれど何故かこの場所は、暗く沈んだ空気に包まれている。
 遠くから鴎の、どこか物悲しい鳴き声が聞こえる。群れをはぐれたらしい鳥の鳴き声は、胸を打つ哀しさに満ちて苦しくなる。
「……」
 背後の彼は無反応を貫こうとする綱吉にそっと溜息をつき、音もなく気配も隠したまま、彼との距離を幾ばくか詰めた。綱吉は動かず、その場に佇み続ける。
 一際強い風が吹き、綱吉の背中を軽く押す。よろめいた綱吉が半歩ほど前に出るものの、彼をそれ以上先へ進むのを阻むものがある。己の足元に視線を落とし、そこから続く異質なるものを視界に納め、綱吉は薄い唇を噛んだ。
 乾いた土の上に突き立てられた、真っ白い十字架。慰みに掛けられた花輪はすっかり色も抜けて朽ち、風が吹くたびにカサカサと音を立てて端から崩れていく。
 顔を逸らしたかったのに、全身が竦んでしまって視線を動かせない。
「気は済んだか」
 淡々とした声、突き放すように言われて綱吉は更に唇を噛み締める。目の前に突きつけられた現実を未だ受け入れられずにいるというのに、その言い方は酷いと思う。
 けれど言い返すことさえ出来ず、ともすれば溢れそうになる涙を堪えるのに必死で、綱吉は黙ったまま静かに首を振った。
「そうか」
 背後の彼は静かに呟き、そしてふたりの間に沈黙が戻る。
 既に亡いと聞かされた瞬間の衝撃は未だに胸の奥で燻り続け、どこを探しても居ない彼の背中を求めてあちこちを走り回った。ベッドで目を覚ました時、身体の痛みより何より耳から飛び込んできた報せに我を失い、仲間を傷つけ困らせたのも覚えている。
 けれどあの一瞬、隣に居たはずの綱吉は、彼の最期の時を覚えていない。だからきっと自分は騙されていて、嘘をつかれていて、きっと探せば通路の角から笑って姿を見せてくれるに違いないと、まだ心のどこかで、信じている。
 一般市民を巻き込んでの戦闘を極端に嫌う綱吉を狙っての敵対勢力による奇襲は、卑怯というほか無い。辛うじて市民への被害は免れたものの、綱吉の命もギリギリのところで無事だったけれど、それ以上に彼の精神に与えられたダメージは凶悪すぎた。
 自分が死ねばよかったとさえ口走った綱吉を殴り飛ばしたのは、彼の教育係りとして長い間綱吉の傍にいる人物。今は真後ろに立っている、リボーン。
「お前を守って散った命だ」
 低い声で囁かれる。そんな酷いことを言わないで欲しくて、綱吉は唇を噛んだまま首を何度も横に振った。茶色の癖毛が揺れて、思いのほか近くに居たリボーンの帽子の鍔に当たる。
 リボーンは何も言わない。堪えきれなくなった涙が綱吉の頬を伝い、彼は嗚咽を漏らさぬよう懸命に息を殺す。一度溢れてしまったものは止め処なく流れ出て、彼の頬に川を作る。
 認めたくない現実は目の前でこうやって彼に真実を告げ、受け入れがたい宿命を彼は拒否したくて瞼を閉じる。
 思い浮かべたい彼の笑顔はひとつ残らず朽ち果てて、色を失い闇ばかりが覆っている。遠く水平線の彼方にある懐かしい故郷で、共に過ごした時間は何にも代え難いもののはずなのに、彼の居た場所だけが真っ暗に塗りつぶされている。
 いつも笑いかけていてくれたのに、その笑顔さえ思い出せない。
 自分だってなんて酷いのだろう。こんな命など、守る価値すら見出せない。
 生きているのが辛くて、哀しくて、どうしようもなくて、感情の行き場も見つけられず綱吉はただ涙を流すばかり。
「泣くな」
 リボーンが言う。
 初めて出会った時は本当に赤ん坊で、両手で抱きしめるとすっぽり胸に収まってしまう大きさだったのに、いつの間にか彼はすっかり大きくなって、今では綱吉を楽に見下ろしてしまえる。喉仏が出て声変わりも済み、気がつけば彼は立派な大人になっていた。
 いつまでも背も低く、身体も小さいままの自分だけが置いていかれている気がして、綱吉はしゃくりをあげる。
 置いていかれたという感覚が全身を包み込んでいる。置いていかれた、とさえ思う。
 そんな事は無い、そんなはずは無いと分かっているのに。彼は、彼らは、いつだって足踏みをしてばかりの綱吉を辛抱強く待って、その手を伸ばし捕まえて、綱吉と一緒に歩いてくれていたのに。
 もう二度と隣で歩けない。その事実に、全身の血が沸騰しそうになる。
 綱吉の両頬を涙がはらはらと流れる。背中に感じた僅かな衝撃は、リボーンが綱吉に、頭を預けたからだろう。布越しに彼の体温は伝わらない。元から体温が無いのではと思わせる冷徹な彼が、珍しく、綱吉に体重を掛けて寄り掛かる。
「泣くな、ツナ」
 もう一度、呟かれる。
 その声はおおよそ彼らしく無い、微かに震えている。
 感情を感じさせない、本当に人形ではないかと疑って信じたくなる彼から、もしかしたら初めて聞いたかもしれない、生身の人間らしい声。
 けれど懇願されても涙は止まらなくて、綱吉は幾度と無く首を振り、堪えきれなくなった嗚咽を漏らす。
 腰から回された腕が綱吉の臍の前辺りで結ばれる。顔を伏せ綱吉の背に頭を預けたまま、リボーンは静かに綱吉が泣き止むのを待つ。
 俯いた綱吉から零れ落ちる涙が、その彼の握られた拳に落ち、跳ね返っていく。このまま涙の海に沈んでしまいそうな白い手は、まるで彼が神に祈りを捧げているように見えた。
 信じる神など持ち合わせていないであろう彼が、いったい何に対し、何を祈るというのだろう。
「泣くな」
 彼はもしかしたら、泣いていたのかもしれない。それとも、涙を流せない彼の代わりに、彼の分まで綱吉が涙を流しているとでも言うのか。
 このまま目が干乾びて腐ってしまうかもしれない、それでも尽きない涙に、綱吉は奥歯を噛み締め首を振り続ける。
 全てが涙で歪み、何もかも洗い流してしまえるなら。
 これが悪い夢だったら、どんなに良かったか。
 風が吹く、十字架に掛けられた花輪が揺れる。忘れないでくれと訴えかけて、カサカサと音を立てて崩れていく。
 綱吉が身をよじった。リボーンが頭を浮かせ、やや丸めていた背中を伸ばし今度は綱吉の右首筋に顔を埋める。綱吉に回した腕に力を込め、まるでどこかへ行ってしまいそうな彼を束縛し、閉じ込めてしまいたがっている。
「ツナ、泣かないでくれ」
 どうすれば良いのか分からないと、震える声のリボーンが繰り返す。そんな事、綱吉にだって分からないのに、年下ぶって甘えないで欲しい。
 顔も見せないで、ただ縋り付くだけで、こんな時だけ甘えてこないで欲しい。
「頼むから……」
 違う、泣いているのは自分だけではない。君こそ泣いている、泣いているではないか。
 心の叫びが聞こえる。
 痛い。
 苦しい。
 哀しい。
 寂しい。
 悲しい。
 辛い。
 ……会いたい。
 ぽっかりと空いた胸の空洞、そこを埋めるものはもうきっと手に入らない。二度と戻らない時間を悔やんでも無駄な事と、頭で理解しても心が追いつかない。
 顔が痛くなるまでに涙を流しても、そこから何かが産まれてくるわけではない。それでも止まらない涙と、声にならない叫びに、胸が張り裂けて潰れてしまいそうだ。
 会いたい。
 返して。
 会わせて。
 止め処ない涙に世界が狂ってしまえばいい、このまま自分は壊れてしまえばいい。二度とこんな思いをしないように、最初から心など押し殺して消し去ってしまえたらどんなに楽になるか。
「……俺がっ」
 搾り出されたリボーンの声が、波打ち際で仲間と再会を果たした鴎の鳴き声を打ち消す。
「俺が、もっと早く気づけていたなら」
 違う、と綱吉はなおも強く首を振る。
 彼は悪くない、彼を責めようとは思わない。責めたくも無い、そうすればきっと綱吉は楽になれる、けれどそれでは何も解決しない。
 誰も笑えなくなってしまう。
 悲痛な声、己を責める彼など初めてで、震える足に力を込めてともすれば崩れそうになる身体を懸命に支える。
 二重三重に張り巡らされた罠は周到で、誰も気づけなかったことを責めるつもりはない。完全にこちらの裏をかいた作戦は見事なものであり、それは悔しいが認める。あちらだって必死なのだ、こちらと同じように。
 ただ、被害の大きさを厭わない作戦内容には賛同できない。奴らは卑怯だった。それが全てを物語っている。
 報復をすべきだという意見も出ている、目には目をの精神を貫いて復讐を果たすべきだと語気を荒立てる同胞も少なくない。彼らを押し留められるのは綱吉だけであり、これ以上の悲しみの連鎖を引き起こさないためにも、まず誰よりも、綱吉がひとりの大切な仲間の死を認め、憎しみを断ち切らなければならない。 
 だから哀しみの涙は、この場所に捨てていく。
「俺が、代わりに……盾になっていれば」
 違う、違う、そうじゃない。
 過ぎた時間は変わらない、終わってしまった日々は巻き戻らない。もしも、の世界はどこにもなくて、求めたところで虚空を指先がかすめるだけ。
「泣かな……で」
 掠れた声で綱吉が、やっとの思いでそれだけを呟く。
 泣かないで。どうか、泣かないで。
 リボーンの硬く結ばれた両手に己の手を重ねる。涙で湿った肌は冷たく、突き刺さるように痛い。指先まで白く染まった皮膚は、力を込め過ぎて血流も悪くなり、このまま砕け散ってしまいそうだった。
「俺が……今度は俺が、守るから。あいつの分まで、俺がお前を、守るからっ」
 違う、そうじゃない。そんな思いのまま泣かないで、どうか泣かないで。
 守ってもらわなくても良いから。前に立って欲しいわけじゃないから。
 綱吉は首を振る。この想いが伝われば良い、そう思って彼の手を上から握り締める。強く、強く、いっそひとつになってしまえ。
「泣かないで……」
 枯れることを知らない涙が光を受けてキラキラと輝く。水面を駆ける鴎の群れは、ここからどこへ向かうのだろう。

 命を賭けてでも、守り抜く。彼はそう言った。
 命など賭けないで、最後まで一緒に居て。彼にそう言った。
 返事は、なかった。

Transparent/2

 すっかり冷え切ってしまった身体を引きずって、屋内へ戻る。
 広すぎる城内全体に暖房を行き届かせる、などという無駄な事はもうひとりの押し掛け同居人が許すはずが無く、壁ひとつが風を遮ってくれているものの、まだそこは寒かった。
 袖を通さぬまま、冷たいコートの襟首を右手で握って床に擦らせて歩く。ずりずりと段差に行き当たる度に、分厚い布地は塊を成して足よりも先に落下して行きたがった。
 はあ、と吐く息はまだ白い。外に居た頃よりは白さが留まる時間が若干、短くなった気はするがその程度だ。現実は変わらない。
 この場所も、寒い。
 寒い。
 俯く。考える事は同じ世界だ、ぐるりぐるぐる、回り続ける。どれだけ首を振り、忘れようと打ち消しても結局は無駄な事。
 自分が今の自分であり続ける限り、決して現実は変わらない。直面している世界は無くならない。
 考えるだけ無駄な事。けれど考えなければ、自分は自分で居られなくなる。
 スイッ、と爪先の向きを変えて平らになった床を行く。滑るような動きは、大気の抵抗をこの身が受け止められずに居るからに他ならない。
 自分はあらゆるものが見えるのに、あらゆるものは自分を映し出さない。
 玄関ホールの大時計前を通り抜ける。城中に重厚な音色を響かせる大時計の、文字盤を守る分厚いガラスでさえ何も映し出してはいなかった。
 ほう、と息を吐く。
 それだけが白い。
 閉められていた扉を潜った。ノブを握って開けずとも、壁をすり抜ける事は容易だった。ただ意を決し、迷いを抱かずに壁へ身を押しつければ良いだけだ。
 しかし握っていたコートだけが、思考回路から除外されてしまって壁に遮られてしまった。空っぽになってしまった右手をリビングに到達してから見下ろし、閉められたままのドアの外で置き去りにされているだろうそれを想像した。
 無機質な大気が支配する。ここは、暖かかった。
 人が集まる場所だからだろう、角に造られている暖炉には火が入り赤い炎がチロチロと舌を巻いている。時折投げ込まれた薪の爆ぜる音がした。
 部屋の中をぐるりと見回してみる。もう白くない息に気付いて、感覚だけが届く腕を抱いてみる。そこには誰も居なくて、再度確認してもやはり誰も居なくて。
 まさか自分のような存在が他にも居るのではなかろうかと、そんなあり得ない話を勘ぐってしまってから、皮肉気に唇を歪めさせてみた。
 居るとしたら、此処ではなくて彼処だろう。
 リビングから間続きの食堂を越えて、その先にある台所に視線を走らせた。同時に休めていた足を動かす。
 一枚しかない扉は閉められていたが、構うことはなかった。こんな板一枚が自分の通行を妨げるとは、端から予想していない。
 全身の力を抜き、身を潜らせる。
 一瞬だけ闇に染まった世界も、直に天井明かりが眩しい台所に切り替わった。一般家庭とは比べものにならない程広いそこで、奥側に並ぶコンロを前に鼻歌を奏でている存在が、ひとり。
 或いは、一匹。
 彼の名前は心の中で呟くに留めて、完全に全身を台所に移し替えるとやはり内部をぐるりと確認してしまった。
 配置は昨夜遅くに珈琲を煎れに来た時と何も変わっていない。巨大な業務用の冷蔵庫、五つも並んでいるコンロ、流し台。中央に作業台代わりのテーブル、壁を埋める食器棚。水色ポリバケツの群生と、その傍に勝手口。
 彼は気付かない。
 テーブルにはサラダボールに山盛りにされたレタスやトマトや、色鮮やかな野菜。ドレッシングはフレンチ仕上げか。
 使い込んだフライパン片手に、器用に卵を割る彼の背中を暫く壁に凭れて眺めた。気をつけなければまた壁に沈んで、リビングへ逆戻りしてしまう。
 朝食のおかずは、サラダ以外にどうやらお決まりの目玉焼きのようだ。トースターに押し込められた食パンが、香ばしい匂いを放っている。
 壁から離れた。数歩で埋まってしまう距離を進み、今度はテーブルに凭れ掛かる。手を伸ばし、サラダボールのミニトマトを摘み上げようと指を宙に放った。
 爪の先で掠ったトマトのへたを、抓む。
「駄目っスよ」
 振り返らない彼が、唐突に、言った。
「え」
 驚きのあまり、掴んでいたトマトを落としてしまう。それはコロコロと丸い形を利用してテーブルに転がって、積み上げられていた皿の端にぶつかり停止した。床への落下は免れたものの、これをこのままサラダボールに戻すのは少々気が引けるものとなる。
 けれど、そんな事に気をやっている余裕は殆どなくて。
 フライパンに蓋をして目玉焼きを蒸すところまでやったアッシュが、困ったように肩を竦めながら振り返った。彼の眼には映らない、誰も居ないはずの場所に向かって改めて呟く。
「ダメっスよ、スマイル」
 摘み食いは許さないっス。
 ちっちっ、と指を振って舌を鳴らした彼のことばに、耳を疑った。
「え……なんで」
「摘み食いは、行儀が悪いからに決まってるからっス」
「……あ、いや。そっちじゃなくて」
 問いたい先を誤解され、苦笑を禁じ得ないままスマイルは首を振った。無論、彼に見えるはずのない仕草だった。
 テーブルまで近付いて、丁度スマイルとは反対側に立った彼は転がってしまったトマトを拾った。即座に踵を返し、シンクの蛇口を捻って流水にトマトを浸す。
「じゃあ、何っスか」
 会話は続けるつもりらしい。律儀に聞き返してきた彼の広い背中をぼんやりと眺め、彼が再度振り返るのを待ってからスマイルは口を開いた。
 心なし緊張しているようで、乾いてしまった喉に無理矢理出した唾を何度も流し込んだ。
「どうして……ぼくだって分かったの」
「スマイルじゃないんスか?」
 問いかけに、またしても的はずれな事を言い返されてしまってスマイルは閉口した。
 そんなはずがない、自分は自分のままだ。別の名前で呼ばれていた頃も確かにあったはずだけれど、今の自分は“スマイル”に他ならない。
 緩やかに首を振る。彼には見えないはずなのに、アッシュは低く笑った。
「スマイルっスよ。あんな事するのは」
 水気を軽く振って切ったトマトをサラダボールに戻し、彼はフライパンの蓋を取った。湯気が沸き上がり、程良い焼き加減の目玉焼きがお目見えする。器用にフライパンを傾けて皿へ移し替えた彼が、それをスマイルが立つ場所の前に置いた。
 まるで彼が見えているかのように、ピンポイントで狙って。
 スマイルは顔を上げた。アッシュを見た。
「なんでぼくが、此処にいるって分かるの」
 問いかけなのに語尾が上がらない。本気で分からないのだという事が声の調子から知れて、アッシュはその事か、と漸く理解した。
 クン、と鼻を鳴らす。
「匂いが、するっスから」
 狼の血流を汲む彼は、人間などよりも遙かに聴覚と嗅覚が鋭敏だった。僅かな変化も逃さない獣の習性を受け継いでいるアッシュにとって、室内に潜り込んできた新たな匂いが誰から発せられるものかを見抜くことなど、造作もない事。
 ひとにはそれぞれ、固有の匂いを持っている。微弱な違いではあるが、アッシュにはそれが分かる。
 それに、自分以外の呼吸する音も。気配も。
 スマイルが此処に居る事を証明するものは、探せば幾らでも見つけられるのだ。ただ視覚にだけ頼りたがる、目に見えるもの以外を信用しない人々には難しい事かもしれないが。
 光を透かし、風さえも通してしまうなにものの抵抗をも受け取らないスマイルの希薄さを、アッシュは呆気なくうち破る。
 ありのままを認めて、看破する。
 彼にとっては、それが当たり前だから臆することも、不思議に思うこともなく受け入れる。
「スマイルは、そこに居るっスね?」
 違うっスか? そう問われて首を横に振った。
 アッシュが微かに笑う。空気が揺れた。顔を上げると、二つ目の卵焼きに取りかかろうとしている彼が左手で真っ白い卵を握り、コンロへ向かおうとしているところだった。
 追い掛けようとして、自分の前にテーブルがある事に気付く。意識した瞬間、腰がテーブルの縁にぶつかった。衝撃に皿がカチャカチャとぶつかり合って音が響いた。
「スマイル?」
 振り返ったアッシュの声に顔を上げると、一瞬だけ間があって、次に彼は前髪に隠れがちな目を細めて愉快そうに笑った。
「何やってるっスか。焦らなくても、もうちょっとしたら朝ご飯の準備終わるっス」
 だからゆっくり待っていてくれと頼みこんで、彼は片手で割った卵をフライパンへと落とした。一方のスマイルは、彼が何を言っているのかすぐに理解できずに困惑し、視線を手元へ流してみた。
 直後に理解する。
 テーブルにぶつかった衝撃から身体を庇おうとしていた右手が、体重を支えるために天板に添えられていた。左手は中途半端な位置に浮いて、もう少し高度を下げれば目玉焼きの乗った皿にぶつかるところにあった。
 アッシュはスマイルが、待ちきれずに目玉焼きを摘み食いしようとしている風に誤解したのだろう。ああ、と頷いてスマイルは痺れそうになっていた左手を脇に下ろした。
 何事に関してもプラスの、前向きな方向へ考えるのが彼の良いところだろう。少々思いこみが激しいところはあるけれど、それもマイナスにはならない。誰だって、自分が正しいと思いたがる。
 仄かに湯気を立てている目玉焼きを見下ろす。料理免許も取得している凝り性の彼の手に掛かれば、ありきたりな料理でさえとても美味しそうに見えるから不思議だ。
 本当に摘み食いをしてやろうかと考え至って、不意に。
 何故彼があんなにも細かく、自分の行動を読みとれたのだろうと不思議に感じた。スマイルはずっと、透明になったままだったのに。
 だ、けれど。
 微妙な違和感も確かに自分の胸にはあって、首を捻る。
 いったいその正体はなんなのか、分かり倦ねスマイルは腕を組んだまま捻った首を横へ流した。視線がついて回り、壁に並ぶ食器棚のガラス戸を見る。
 自身の姿が、そこに映っていた。
「あ」
 あんぐりと、間抜けな顔で口を開けてスマイルは組んだ腕をぱっと解いて、けれどそれらはまたしても半端な位置に停止して空気を掴んだ。
 いつから、と巡った思考はアッシュに笑われる手前まで引き戻される。あの時、テーブルにぶつかった時だろう。そう言えばアッシュが笑う前、若干の間があった。
 あれはつまり、唐突に姿を現していたスマイルに彼も驚いたからだろう。これには、自分でも笑うしかなかった。
 前髪ごと額を抑え込んで、視線を伏す。自然とこみ上がってくる笑いを堪えきれず、喉を鳴らして笑っているとアッシュが怪訝な顔をして、眉根を寄せた。
「どうしたっスか……」
 彼にとっては、スマイルが唐突に笑い出したように見える。薄気味悪ささえ感じているような彼の顔を指の隙間から盗み見て、エプロン姿の彼にまた笑う。
 彼にはお気に入りなのかもしれないが、スマイルの目からすればあまりにも似つかわしくない、ポケットが沢山ついている薄いオレンジ色のエプロンだ。元々それは、アッシュへの嫌がらせのつもりでスマイルが冗談半分に贈ったものだったのだが、彼は予想に反してかなり気に入ってくれてしまったらしい。
 以後台所に立つときは、必ずと言って良いほどそれを身につけてくれている。彼曰く、ポケットが多くて使いやすいから、だというが。
 本当だろうか?
「アッシュ君」
 顔を上げて、手を下ろし笑い直す。空いた手を背に回して腰の後ろで結び合わせて、テーブルの向かい側に立つ彼を見上げて。
「外、すっごい寒かったんだよ」
 早朝の冬の空気は凛と冷えて、気が引き締まる思いがした。大気さえも凍える冬の朝に身を晒せば、朧でおぼつかないこの身体も、一緒に固く結ばれてくれるかもしれないと浅はかな事さえ考えた。
 何もかもが透き通って澄んでいる中に立てば、自分の孤独さが紛れる錯覚を抱いた。
 澄み渡る空と、一体になれる予感がした。
「そうっスね、寒かったっス」
 ゴミ捨てに行った時に既に外の寒さを体感したらしいアッシュが、相槌を返す。にこりと微笑んで。
「でも、煙草は良くないっスよ?」
 ぴしゃりと切り捨てる事も、しっかりと忘れずに。
 言われた途端、やはりばれるのかと彼の嗅覚に舌を巻いてスマイルはばつが悪そうに視線を逸らした。
「それ、ユーリっスか」
 横を向いたことで前方に突き出された、スマイルの切れた口端を指さしてアッシュが尋ねかける。スマイルは答えず、視線を遠くへ流した。
 無言を肯定と取ったアッシュが、吐息を零す。
「食事は、別々が良いっスか?」
 変なところに気を回して呟く彼に、笑い返せなかった。スマイルは黙ったまま頷き、深々と溜息を吐き出す。
 長い前髪を梳き上げたスマイルの横顔を暫く見つめてから、アッシュは焦げた匂いを僅かながら放っているフライパンを思い出して慌てたようにコンロに向き直った。
 喧嘩をしたのだろうという想像は楽にされてしまうらしい。まだ新しい傷痕の、乾いた血に指を添わせて、スマイルは胸の中の蟠ったものに舌打ちをした。
“可哀想”なのは、自分なのか。それとも、別の誰かか。
 そう思うことで自分を慰めているのは、いったい誰か。
 忙しなく動き回るアッシュをぼんやりと眺める。傍にあった背もたれのないスツールに腰を下ろし、この場所で落ちつく事を決め込んでテーブルに肘をついた。
 少々冷め加減になっている目の前の目玉焼きが、早く食べてくれと訴えかけてきている。テーブル上を見回して、サラダボールに添えられていた大きなフォークを引き抜いた。
 ソースもなにも要らない。ドレッシングにまみれたフォークを目玉焼きに突き刺して、引き上げる。
「あっ!」
 アッシュが気付いて声を上げた時にはもう、半熟で柔らかな黄身が薄皮を破られてどろり、と流れ出した後だった。いい具合に肉厚に焼き上がっている白身には、くっきりと歯形が。
「ん、いける」
 美味しい、と呟いて笑いかけてもアッシュは許してくれなかった。
「摘み食いは駄目って言ったじゃないっスか!」
「抓んで無いヨ、フォーク使ってるもん」
「屁理屈っス!」
 ほら、と目玉焼き残り半分が刺さっているフォークを掲げてみせたスマイルの頭上に、アッシュの怒鳴り声がけたたましく響き渡る。けれどスマイルはカラカラと声を上げて笑うばかりで、少しも反省の様子をみせない。
 アッシュが怒鳴れば怒鳴るほど、彼は楽しそうに笑う。
「別の場所で朝ご飯しても良いって、言ったのはキミ」
 ぱくりと目玉焼きを食べつくし、空になった皿をアッシュに差し向けてスマイルがことばを重ねていく。言い合いになった場合、勝敗は勝負が開始される前から半分以上決しているのが常だった。
 アッシュはいつだって、口だけではスマイルに勝てない。そうしている間にも、フライパンでは目玉焼きが燻った煙を上げ始める。
 いい具合に焼けたトーストが、自分から軽快な音を立ててトースターから跳び上がった。
 手探りでバターを探し、サラダボールをフォークでまさぐってレタスを頬張り、スマイルは暢気なマイペースで朝食を片付けて行く。アッシュの混乱ぶりなど、まるでお構いなしだ。
 すっかり焼け焦げてしまった目玉焼きは、どう考えてもユーリに出せるわけがない。トホホ、と涙目で項垂れる様があまりにも似合わない巨躯を頬杖ついて眺め、スマイルはまた笑った。
 彼に聞こえないように、細い声で囁く。
「君と、先に出逢えていたら良かったのかもしれないね……」
 誰よりも、とは言わない。
 現実は変わらない、そして恐らく結末も。願ったところで、過去は行きすぎたまま引き戻せやしない。
 残るのは真実ではなく、事実。目に映るものだけ、歴史に名を残すのはいつだって見え、掴め、確固たる形を成したものだけ。
 隻眼を伏し、霞みそうな右手を見下ろして呟やかれたスマイルの声。その瞬間、アッシュはぴくりと片耳を反応させたけれど、何も言わずに聞き過ごした。
 トーストを手に取った彼へ、冷蔵庫を開けたアッシュがパック入りの牛乳とグラスを差し出す。短い礼を述べて受け取ったスマイルにささやかに微笑んで、彼はコンロへと向き直った。
 スマイルの傷を舐めるような真似は、結局彼には出来なかった。

SnowBlind

 雪が降る。深々と、音もなく静かに。白い雪は地表の汚れすべてを覆い尽くして隠そうとするかのように、人々のエゴや欲望を浄化しようと必死になっているかのように、雪は降り続けている。
 朝方一度止んだ雪は、昼前にまた本降りになり夜を迎えた今も絶えず降り続けている。庭に作られた巨大雪だるまも、頭の上に新雪を積もらせて頭が重そうだった。崩れてしまうだろうからと、スマイル個人所有のカメラで記念撮影を終えた後帽子になっていた逆向きに被せられていたバケツだけは取り除かれていた。今それは雪だるまの足許にあって、降り止まない雪を中に抱き込んでいる。
 あの小さな双子の雪だるまだけが、ユーリの手によって冷凍庫へと保護されていた。アッシュは嫌がったけれど、城主の命令に逆らい続けるはずがない。業務用の巨大な冷蔵庫の一角は綺麗に片付けられ、今はこぢんまりとした雪だるまがふたつ、並んで鎮座している。恐らくあれは、この先も当分あそこに在り続けるだろう。
 居場所を失った食材は常温で保存するわけにも行かず、使い道が今のところ無さそうなものだけを狭まった冷凍庫に押し込んで、残りは今夜の食事に出される事になった。昼過ぎからアッシュは台所に引き籠もり、クリスマスの特別メニューに腕を揮っている。
 リビングの角に並ぶ豪勢過ぎる音響設備からは、静かなチャッペルの趣を醸し出す音楽が流されていた。絶え間なく。
 自動的にCDを組み替えるコンポが時折響かせる電動音以外はまるで違和感を抱かせない静かな空間で、窓辺に佇んだユーリは飽くことなく外を眺め続けていた。
 陽が暮れて、窓に自分の姿が映るようになっても。ガラス窓に添えた右手が冷たさに痺れ、感覚が遠くなっている事にもまるで構わずに。
 流石に服は着替えた、いつまでも夜着にシーツを纏っているわけにいかない。スマイルが適当に選んだ服が、自室のベッドにそのまま残されていたから、それに袖を通して。
 黒のハイネックセーター姿の自分を、鏡になった窓に見つめて半透明な姿の向こう側を凝視する。
 白に染まる世界。一年でただ一日だけの、聖なる夜に降る雪はまるで、地上に蔓延るあらゆる罪を許し浄めようとしている風に映る。
 だがそれすらも、思い上がり甚だしい神々のエゴだろう。
 罪は消えない、永遠に。そこに生きるものたちが在り続ける限りは。
 伏した瞳に爪先が見え、靴の先で軽く窓を蹴ってみた。強い風が吹いているのか、庭木が左右に激しく揺れ動いていた。リズムを刻みながら、風雪に耐えている彼らの強さが羨ましくも思えた。
 きっと自分であったなら、一晩冷たい風に晒されるだけで根本からぽきりと呆気ないくらいに折れてしまうだろうに。彼らは毎日毎晩、夜風の冷たさを、昼の照り付けに堪えているのだ。
 せめてもう少し強くあれたなら良かったのに。自分さえも信じられず、ましてや他の誰かに縋りつきながらすべてを委ねるのに恐れを抱いている自分が嘘に出来たなら。
 もっと楽だっただろうに。
 冷たい窓に額を押しつけ、瞼を閉ざした。荘厳な聖歌は深いハーモニーとなって後方から響いている。胸を締め付けるその歌声は、涙が出そうなくらいに優しくそして痛い。
 血が通わない指先を軽く握り、胸に押し当てる。揺れた左の手首に嵌めたブレスレットが、袖に掠めた。
 銀色だが柔らかな色合いのそれは、窓とはまた違う冷たさを放っている。光沢のある輝きは褪せる事なく、ユーリの手元で放たれ続けてきた。
 普段は感じることがない不安が、この季節になると毎年と言っていいほど必ず巡ってくる。考えても栓のない、永遠に終わりが来ないメビウスの輪は心を迷わせて疲れさせる。やがて身動きがとれなくなって、時間に置き去りにされるのか。
 そんなはずはないと、囁く声は毎年聞かれるけれど。揺るぎない自信と確信は、抱けないまま時は過ぎる。
「…………」
「そんなに見つめ続けたら、窓に穴が開くヨ?」
 窓に映るのは自分の姿だけ。けれど間近で降った声に振り返れば、真後ろの空間が少しだけ歪んで見えた。
 聞き慣れた軽口、戯けた調子。そしてとても深く、穏やかな声。
「貴様か」
 透明なまま背後に立つなと、毎回口を酸っぱくして言い聞かせているのに彼はちっとも守ろうとしない。不意打ちを狙っているのだろうか、近付きすぎた気配はしかし振り向きざまに繰り出されたユーリの握った拳に衝撃を受け、離れていった。
 彼が透明であった為、ユーリからはいったい拳が彼の何処に当たったのか分からない。ただ骨のある箇所だったようで、自身の拳も少々痛んだ。想像するに、腰骨の辺りか。もう少しずれていたら危なかったかも知れないと、そんな事が一瞬頭を過ぎって消えた。
「痛いな~、もう。ユーリってば、相変わらず乱暴なんだから」
 案の定腰骨に当たったらしい、さほど強い力を加えたわけでも狙ったわけでもないのでそう痛いものになったはずはないのだが、スマイルはぶつぶつ文句を口にしつつ、透明化を解除して姿を現した。
 朝、雪にまみれた服とはまた違っている。濡れてしまったので着替えたのだろう、今は紺色のデニム地のシャツを着ていた。そして、いつもつけている左耳のピアスが無かった。
「人の後ろを取ろうとした貴様が悪い」
 自業自得だと言い放ってつれなくあしらおうとするユーリの、つっけんどんな態度にスマイルはいつもと同じで表面だけの笑みを浮かべた。
「気を付けマス」
「どうせ」
「どうせ?」
「守らないくせに」
 視線を逸らしたまま、けれど先程よりは瞳に威勢を込めずユーリが呟きを零す。ぽりぽりと、気力が削がれてしまった彼を見下ろしてスマイルは頬を掻いた。そしてやおら手を伸ばし、断りなくユーリの頬に手を当てる。
 指先で細いラインをなぞり、耳朶まで辿って全体を押しつけてきた。
「冷たい」
「貴様の指がな」
「違う」
 確かにスマイルの手自体も冷たかった。けれどそれ以上に。
「ユーリ、冷たい」
 ずっと窓辺に佇んでいたからだろう。暖房が効いているとは言え、外と室内を隔てている薄い窓硝子一枚の傍にずっと居たのでは意味がない。指摘され、ユーリは引っ込めていた自身の手を背に隠した。
 感覚が未だ麻痺したままの右腕に、左手首に嵌めたブレスレットが当たる。
「いつから此処に居た?」
 問われても答えられない。
「風邪でもひきたいワケ?」
 まさかね、と自分で言った事をすぐさま否定して返すスマイルを見つめ上げる。彼は不遜に笑んで、触れている右手を離した。
 体温が逃げていく。そこだけ暖かさを取り戻しかけていたのに、一瞬で熱は雪降る外の寒さに奪われて前以上の冷たさが胸の奥から沸き上がってくる。
 反射的に、ユーリは背に回していた両手を伸ばしそうになった。けれど握ったままだった右指が上手く動かなくて、躊躇が生まれる。中途半端になった手は虚空を漂い、また脇に垂れ落ちるだけだった。
 俯いた視線が霞む。何を求めていたのか自分でも分からなくなって、吐きだした息を呑み込んだ瞬間。
 スマイルが、ユーリを掻き抱いた。
 伸ばした両腕がしっかりとユーリの背に回り、離さないという意思表示のつもりか固く結び合わされる。肩口に頭を押し込められたユーリが、驚愕を隠せぬまま茫然と向こう側の壁と天井のつなぎ目を見つめた。
 深々と雪は降る。世界を白に染め上げ、始まりも終わりもない時を招き寄せる。
「ユーリ」
 触れあった場所が、服の上からでも分かる熱が、泣きたいくらいに痛い。

「ユーリ」
「……何」

「泣かないで」
「泣いてなど居ない」

「嘘」
「嘘じゃない」

「嘘だよ、泣いてる」
「泣いてなどいないっ!」

「泣いてる。心が、泣いてる」
「っ……」

「否定しないの?」
「したところで、どうせお前は信じない」

「そう……だね。信じない、君のことばは」
「…………」

「ユーリはウソツキだから、だから、信じない」
「貴様にだけは言われたくない」

「だって」
「なに」

「だって、ユーリはぼくの言葉を、ちっとも信用してない」
「それは……」

「ぼくを信じられない?」
「そうじゃない」

「なら、信じたくないだけ?」
「……そうじゃ……」

「ないって、違うって言い切れる?」
「………………」

「ぼら、やっぱりユーリはウソツキだよ」
「どうしてそうなる」

「今朝、君は頷いたのに」
「……」

「ぼくはずっと、君の傍に居るよ?」
「……だが」

「うん、未来の事は分からない。絶対、なんてことばに保証はないよね」
「…………」

「でもね、それでも」
「スマイル」

「今は、ぼくを信じてみて」
「……今だけ?」

「お試し期間中デスから」
「巫山戯ているのなら、離せ」

「真面目だよ」
「どこが!」

「あのね、ユーリ」
「……なに」

「君ってさ、かなり我が侭だよね」
「悪かったな」

「ううん、悪くないよ。ユーリらしいな、と思う」
「……貶されている気分だ」

「まさか。でもね、ユーリ、君はひとつ忘れてる」

 ぎゅっと、強く抱きしめられる。
 背に回された腕が、腰が折れそうなくらい強く力を込めてくる。痛いと悲鳴をあげそうになったユーリを遮るように、スマイルが呟く。
 彼の方が泣きそうなくらいの声で。
 近すぎて互いの表情が見えないようにして、彼は。
「ぼくだって、我が侭なんだよ」
 君に負けないくらいに我が侭で、自分勝手で、自分ではどうしようもないくらいに。
「ねえ、ユーリ。答えてくれないかな」
 君と一緒に居たいと思っているのは、ぼくが勝手に思いこんでいる独りよがりなのかな?
 君は迷惑に思っているのかな。本当は一緒になんか居たくないのかな。君の傍には居ない方が良いのかな。
 不安に揺れる声がユーリの耳朶を掠めていく。
「ユーリ、教えて」
 微かに震えている彼らしくない声に、ユーリは息を呑んだ。答えなければならないと分かっているのに、喉の奥でことばが詰まって音にならない。
「ぼくは、迷惑……?」
 違う、と。
 言えなくて、ユーリはぼやけてしまった白い境界線を瞼の向こう側に隠すと、やっと解れてきていた手で彼の肩を怖々と抱いた。
「……ああ、そうだな」
 迷惑な話だ、確かに。
 首根から頭にかけてを軽く数回叩いて、込めすぎている力を抜かせてからユーリは漸く、はにかんだように笑う事が出来た。お互いの距離が開いて、双方の視線が絡み合うようになってから、なんだかおかしくなってくる。
「どうしようもなく、迷惑な話だ」
 大体お前は、人の安眠は妨害するし隙を見せればすぐに抱きついてくるし、要らぬちょっかいは出してくるし、必要外の出費は多い上に荷物はどれも大きかったり嵩張ったりして場所をとるし、重いし。好き嫌いは実のところ多い上、曲の趣味も一方的で偏って挙げ句万民受けしないものばかりで。
 どうしようもなく、手間が掛かって世話が焼けて、その上更に。
 傍に居ないと、落ち着かないだなんて。
「迷惑三昧だ、貴様は」
「……ドーモ」
 言いたい放題言われてしまい、最早反論する気力も起こらなくてスマイルは力の抜けた顔でそっぽを向いた。ユーリが笑う、カラカラと声を立てて。
 やれやれと、間を置いてスマイルは気を取り直し肩を竦めた。改めてユーリを真正面に見つめ、腰に手を置く。
「んじゃ、迷惑ついでに受け取ってくれる?」
 ポケットに潜り込ませた指が挟んで取り出したもの、とても小さな赤い石。
 瞬間、漂ってきた蠱惑的な香りにユーリは立ち眩みに似たものを覚えた。怪訝そうにスマイルを見つめる、笑っている彼が顔の横で見せたものはどうやらピアスらしかった。片耳分だけしかないそれは、色合いだけならばガーネットのようでもある。
 しかし違う。
 片手で頭を押さえたユーリの細められた紅玉色をした双眸を満足そうに眺め、スマイルは袖から覗く真新しい包帯が巻かれた手首をこれ見よがしに示してみせた。
「貴様……嫌がらせに近いぞ、それは」
「そうかもしれないね~。でも、これくらいしないと君は、ダメだろうから」
 受け取ってくれるよね、とにこやかな笑顔で問われ首を横に振る事は出来なかった。なにより、漂う匂いが彼を誘って止まない。
 スマイルの手によってユーリの左耳に嵌められたピアスからは、絶えずユーリにとっては魅力的な他にことばでの表現のしようがない香りが漂っている。
「……落ち着かない」
「そうだろうね~」
「楽しそうだな」
「だって、さ。これで、さ」
 スッと近付き、頸部に触れるだけのキスをされて。軽く歯を立てられて、表面を吸われて。最後には舐められた。
 ぞくりとした感覚が背筋を走り抜ける。膝が震えた。
「君はぼくの事、一瞬でも忘れられなくなる」
 言ったでしょう? とスマイルは嗤った。
「ぼくは、我が侭なんだよ」
 ひょっとすればユーリよりも万倍、自己主張の激しい我が侭な性格なのかもしれないね、と他人事のように言って彼は濡れた唇に自分の人差し指を押しつけた。
「迷惑な」
 心なしか重くなったように感じる左耳に触れ、ユーリは呟く。指先から伝わってくる波動は、暖かく柔らかい。
 落ち着かない、けれど安らぐ。
「私からの返礼も決まったようなものだな」
 ピアスが外された彼の左耳を見上げ、意味ありげに微笑むと彼もまた、企み顔で笑い返してくる。
 傍にいる、ずっとずっと傍にいる。
 ことばを嘘にしたくない、どうか信じて欲しい。絶対などということばに保証は無いけれど、守り続ける誓いをここに刻む。
 滴り落ちた真っ赤な液体に舌を這わせ、表面を優しく舐め取りながらスマイルはユーリの手に口付けた。何度も、何度も。
 指に掬い上げた暖かさが残る鮮血を集めて、凝縮させる。固く、小さく練り上げて形にしていく。目に見えない不可思議な力を込めて、この世界でたったひとつきりの奇跡の石を創り上げる。
 赤く染められた唇に指をなぞらせ、引きよせられるままにユーリは爪先を伸ばした。赤に沈んだ指先を彼の左耳に押しつければ、似通っているけれど微妙に色合いが違う揃いのピアスがそこに生まれる。
 僅かに沈んだ感じのする濃い赤と、目を見張る程に鮮やかな色合いを醸し出す赤と。
 互いの瞳の色に似た真っ赤な宝石が、ひとつずつ。それぞれの、左の耳に。
「ユーリ」
 そっと、名前を紡ぐ。大切なものを守る腕を伸ばし、もう一度その細い身体を抱きしめる。
「傍にいる」
 決して離れない。離れろと命じられても、こればかりは聞き入れられない。これは、自分の我が侭だから。
「スマイル」
 力の抜けた声でユーリが彼を呼んだ。
「さっき、貴様は私を我が侭だと言ったな」
 それが君らしい、とまで。つまりはスマイルにとって、我が侭を言わないユーリはユーリではないのだ。
 何かを企んでいる目つきで真下から見上げられ、スマイルは一瞬だけ隻眼に影を奔らせる。しかしユーリは気付かなかったフリを通して、口許を不敵に歪めさせた。
 爪先立ちになって、触れるか触れないかの距離で彼に囁きかける。舌先で踊る熱を孕んだ吐息が、煙のように白んで刹那のうちに消え失せる。
 窓の外は一面の銀世界。地表を埋め尽くすだけでは飽き足りず、地上に有るものすべてを覆い尽くして沈めてしまおうとしているようなそんな雰囲気さえあった。
 他にもう、なにも見えない。雪の白さに眼を焼かれ、まさに目も当てられない。
 軽く口付けて、笑った。
「お望み通り、我が侭を言ってやろう」
 触れあうだけのキスが返される。自分が付けた傷は既に殆ど塞がっていたけれど、ユーリを惑わせる芳しい香りはまだそこにこびり付いたままだ。更に左耳から絶えず放たれる、蠱惑的な匂いが拍車を掛ける。
 挑戦的な瞳で、軽く睨んだ。
 スマイルが困ったような顔をして、けれど笑い返す。
 キスの合間に囁いた。彼にだけ聞こえる声で。
「私の、傍に居ろ」
 返事は無かった。代わりに、次のことばをキスに奪われた。