Nothing

 それは、何もない一日の、なんでもない出来事。

 予定されていた写真撮影が、先方の都合により急遽延期となったという連絡が入ったのは、当日の僅か二日前。
 忙しいスケジュールに無理を言って組まれていた、丸一日使用しての撮影がキャンセルとなった事に、ユーリはかなり憮然としていた。ならば他に何か急ぎでも組める仕事があるかどうかと、アッシュに指示して今後の予定を前倒しできるものが無いかどうか一通り調べさせたのだけれど、こういう時に限って、先方のスケジュールも立て込んでいて上手く行かない。
 結局寸前になっても唐突に降って湧いた仕事の空白を埋めるのは叶わず、ぽっかりと口を開けたままの一日は見事に何も予定が無い一日、にすり替わった。
 前もって用意されていたオフであったなら、何か計画も立てられただろう。何処かへ行こうか、映画でも見に行こうか、そんな事を考えながらオフまでの日数を指折り数えて楽しみに待つ事だって出来たはずだ。
 だが、今回は違う。予め計画的に組まれていたスケジュールの一端が崩れ、そのしわ寄せが後々に訪れる。ゆっくり骨休めをするのには、気分的にもあまり不向きな、本当に唐突なオフだ。
 直前まで埋め合わせ出来る仕事を探して奔走していたのもあるだろう、その日が訪れてもユーリは不機嫌極まりない顔をして起きてきた。
 一日の始まりとなる朝食も、押し黙って事務的に手と口を動かすだけ。おはようの挨拶もなく、黙々と食卓に並べられた料理を片付けていくユーリに、食後のコーヒーを楽しんでいたスマイルも怪訝な顔をして、アッシュと顔を何度も見合わせていた。
 無論ユーリも、そんなふたりの様子にまったく気付いていないわけではなかったが、自分が計画的に、それも芸術的と胸を張りたくなる程に(あくまでユーリの観点で)立てられていたスケジュールが、これを契機として一気に壊れていく方が余程気にくわなかった。
 しかもこちらには何の落ち度もなく、向こうが勝手に一方的に延期を申し出てきたのならば、尚更だ。
 あちら側の言い訳、もとい言い分がまるで分からないまで子供ではないが、釈然としないのも事実。必然的に、行き場を持たない怒りは鬱積して、ユーリの中に溜まっていく一方。
 触らぬ神に祟りなしではないが、アッシュは綺麗に平らげられた料理の皿を回収すると、そそくさと台所に避難していった。スマイルもまた、広げていた新聞を最後まで読み終えたのか、綺麗に折り畳みテーブルの端に置く。
 白磁のカップをソーサーへと戻し、短くも深い息を吐いた。
 ユーリの視線が自然と彼に向く。ちょうどスマイルもまたユーリの方へ顔を向ける最中で、はたりとふたりの視線が空中でぶつかり合った。
 ふっと、スマイルが人を小馬鹿にしたような笑みを口角に浮かべた。
 当人にそのつもりは無かったかもしれないが、どうにも気分がぎすぎすとしていたユーリには、見慣れすぎているスマイルの笑みも嫌みなものにしか映らない。むっと、刹那、ユーリの表情が険しくなる。
 おや、とスマイルが小首を傾げた。だがそれすらも、余裕をひけらかす素振りに思えてしまって、たかが一日予定が開いただけと言われればそれまでで、こうも気にする必要性も無いだろうと、本当は分かっているユーリなのだけれど、不機嫌が輪を掛けて彼の心を締め付けた。
「…………」
 無言で睨み付けてやる。益々スマイルは眉根を寄せ、訝しむ顔を作り、ユーリを見返してくる。テーブルに添えられる格好で載っていた彼の左手が、たぐるような動きで天板を這った。
 歩いても数歩必要な、縦に無駄に長いテーブルで、お互い離れて座っているのだからその手がすぐさま間近に迫るなどあり得ない事なのに、ユーリは無意識に嫌悪を現して椅子を退いた。瞬間、ぴたりとスマイルの手は停止し、逡巡するように爪先がよく磨かれた天板を数回引っ掻いた後、主の胸元に戻っていった。
「ユーリ」
 本日初めて、名前を呼ばれた。その事実に密かに驚きを覚えつつ、ユーリはサラダボールに最後まで残っていたミニトマトにフォークを突き立てた。
 ユーリがダイニングに入ってきた段階で、既にスマイルはコーヒーブレイクに突入していたから、随分とゆっくりした食後の楽しみである。もしくはユーリが食べ終えるまで気長につきあうつもりだったのか、どちらにせよユーリには分からない。
 鋭利な銀フォークは、艶やかな表皮に覆われた丸いトマトを貫くのに失敗していた。狙いを定めていなかったのが悪いのか、球体の表面に弾かれてボールの底辺を穿つだけに終わった。ミニトマトもまた、吸収できなかった衝撃に反対側の内壁まで飛ばされて底を転がる。
「ユーリ?」
 お早う御座いますと、不機嫌な顔を隠しもしなかったユーリに声を掛けたのはアッシュだけ。それも、城主の不機嫌を悟った瞬間に、時として利口な彼は普段通りを装いつつもどこかよそよそしい態度を取るようになっていて、まるで腫れ物に触る感じだった。
 静かな空間に響く、スマイルの低めのテノール。不協和音を奏でる、ボールの底を何度も何度も打つフォーク。
 それでも捉えられないトマトに、苛立ちを覚えてしまう。更に無視を決め込まれてもしつこく食い下がってくる、スマイルの呼び声に苛々が余計に募った。
 放っておいてくれれば良いのに、と思う。どうせ今日一日、自分たちは特別なプランも無く時間を潰さねばならないのだから。
 人に構わず、自分だけの時間に移行すればいい。アッシュは料理が、スマイルにだって趣味は沢山ある。それらに勤しめば、今日のような何も予定が無い一日など、あっという間に過ぎていってしまうだろう。
 ただひとり、無趣味に近いユーリを除いて。
 無趣味、では無い。正確には。だがそれに近い。唄を唱い、曲を書き、奏で、自分を高みまで連れて行く。それが今現在のユーリの、唯一と言っていい数少ない趣味だ。
 唄うこと、エンターテイメントを極める事。その一過程に、本来今日行われるべきだった撮影も含まれる。
 生き甲斐をひとつ奪われたような感覚に近い。或いは間断なく埋められたスケジュールをすべて、予定通りに攻略していく楽しみを邪魔された、というのか。
 ぽっかりと突然目の前に開けられた、何もない一日、何もない時間。どうやって過ごせばいいのかも分からず、困惑している。そしてその困惑を認めたくなくて、苛立っている。
 がっ、と一際大きな音を立てて、半円形をしたひとり用のサラダボールが激しく波打った。縁にこびりついていたドレッシングが数滴、天板に飛び散る。一度は畳んだ新聞をまた広げ、根気よくテーブルの前に居を構えていたスマイルも、何事かとユーリを振り返った。
 底を中心に傾きつつ回っていたボールも、次第に失速して僅かな揺れを残しつつも大人しくなっていく。その中心には、ユーリの右手に逆手で握られたフォークが直立不動で突き立てられていた。
「ナニ、してんの」
「…………」
 呆れた声でスマイルが問う。だがユーリは案の定返事をせず、漸く三本に別れたフォークの先端に突き刺すのに成功したトマトを引き上げると、無表情に口へ放りやった。
 五度ほど咀嚼して、嚥下する。最後の最後でやっと一仕事を終わらせたフォークは、勢い余った影響か、真ん中の先端部分が僅かに曲がってしまっていた。
「なんでもない」
 あとでアッシュに怒られるだろうか。ややブルーな気持ちに陥って、ユーリはフォークを皿に戻した。生温くなってしまっている水を一気に煽り、喉を潤すがさっきの勢いがまだ残っていたようで、テーブルに戻す時またしても天板が凹みそうな衝撃で置いてしまう。強かに打ち付けた小指の外側が、ちりちりと痛んだ。
 遠くでスマイルが溜息を吐いている。視界の片隅で見届けたユーリは、荒々しい仕草で立ち上がった。膝の後ろで椅子を押し空間を作って、ぐいっとさっき飲んだ水気が残る唇を手の甲で拭う。
 後ろ足が傾いて倒れそうになった椅子が、寸前で持ち堪えたもののぐらぐらと前後に、不安定に揺らいでいた。
「ユーリ」
 スマイルの声がしつこいくらいに彼を呼ぶ。だけれど涼やかな調子のスマイルの口調は、ただでさえ意味もなく苛ついているユーリの心を余計に揺さぶるばかりだ。
「……ナニ、そんなに怒ってるノ?」
「怒ってなどいない」
 吐き捨てるように言い返す。強く拭いすぎた唇がひりひりと痛んだが、構わず浅く前歯で噛んでユーリはスマイルを睨んだ。
 座ったまま、テーブルに肘を立て頬杖をついているスマイルの隻眼が冷ややかに彼を見上げていた。見透かしたような、悟りきったように映る表情に、ユーリは奥歯を軋ませる。
「嘘」
 だのにスマイルは、そんなユーリの理由も分からない苛立ちを一蹴してしまう。鋭く尖った刃を容赦なく突きつけて、なんとか薄皮一枚で隠そうとしているユーリの胸の内を裂き、露わにしようと試みている。
 切れたユーリの内壁から鮮血が流れるのも、意に介せず。
「嘘……ダヨ。どうしてそんなに、不機嫌な顔してるの」
 何も知らないくせに。
 何ひとつ理解もしていないくせに。
 何もない一日を、何も持たないユーリが過ごすのがどれほどに苦痛で、辛い事かを知りもしないくせに。
 勝手なことばかり、言う。
 奥歯を強く噛んで、ユーリは殊更剣呑な目つきで隻眼の透明人間を睨み付けた。だが彼は、元が透明であるからか、まるで気に留める素振りも見せず、涼しい顔をしてユーリの視線を受け流している。
 その余裕ぶりが、いよいよユーリの心境を切羽詰まらせて打ちのめす。
 彼の足が片方、後ろに下げられた。行く先を塞いでいた椅子ががたりと音を立て、角度を変える。一度下げられたスマイルの視線が、再びユーリの顔まで持ち上げられる前に彼は踵を返し、方向転換を済ませていた。
 背を向けて、荒々しい態度で大股に歩き出す。
「ユーリ」
 それでも尚、しつこくスマイルはユーリの名前を呼び続けた。
 けれど、苛立ちだけが先立っている彼には、その声は腹立たしさを助長させるだけの産物でしかなかった。
 間繋ぎのリビングへと移動する途中、痺れを切らしたユーリが一度だけ立ち止まった。鬼の形相で、振り返る。
「なにも無いと、言っているだろう!」
 そう、何も無いのだ。
 ユーリが怒りを覚える理由も。
 スマイルに苛立ちを募らせる理由も。
 彼を糾弾し、罵声を投げかける理由も。
 食器や椅子やテーブル云々に怒りをぶちまける必要性も。
 唐突に与えられた休日を、有意義に過ごすべきだと思う気持ちも。
 本当は、なにも、無い。
 何もない。
 だから。
 不安になる。
「…………」
 革張りのソファに行き着き、ユーリは深々と息を吐いた。歩いている間ずっと忘れていた呼吸を漸く取り戻した気分で、胸の中に鬱積していた様々な多くのものを、一息のうちに外へ追い出して、目を閉じた。
 そのまま身体から力を抜き、抵抗に逆らわずソファのクッションに身を委ねる。弾力のあるソファの上で背中が軽く弾んだが、それも重みに負けてじきに沈んだ。
 目覚めてまだ小一時間しか経過していないのに、一日が終わった頃と同じくらいに疲れてしまった。両手を顔の前で交差させ、目を覆い天井の小さなシャンデリアから降り注がれる光を遮断してユーリは再度、息を吸って吐いた。
 その都度全身に脱力感が襲って、凝り固まっていた思考と筋肉とが同時に砕けていく錯覚さえ抱いてしまう。
 行儀が悪いと思いつつ、投げ出した足をソファの肘掛けに乗せ、本格的にソファに寝転がった。片腕だけを下ろし、脇に垂らすと指先が僅かに床に敷いた、柔らかな毛並みの絨毯に擦った。
 なにを、しているのだろう。
 なにが、したかったのだろう。
 ひとりで予定通りに行かないのに苛ついて、思い通りに行かないと怒って、周囲に当たり散らして。
 思い返せば、今日のような日は今まで数えるのも億劫なまでにあったではないか。彼の日、永久とも思える眠りに就いたあの日までは、毎日が予定もなにひとつ組まれていない空虚な時間だったではないか。
 思い通りに行かない方が、世の中にはずっと多いのに。
 ひとりになって冷静に考えるだけの余裕が辛うじて戻ってきた瞬間、ユーリの頭の中にはぐるぐると、色々なものが巡り巡って現れては消えていくようになった。その大半は先程の、自分自身が起こした一連の行動に関しての反省面ばかりで、怒りが静まった分凹んだ穴に陰鬱な気分が宛われている感じだ。
 なんでもない、なにもない一日。
 裏を返せば、何をしても構わない一日。何もしなくても許される、一日。
 ああ、考えてみればこんな日は随分と久しぶりだ。バンドを組むようになってからは、毎日があわただしく過ぎていって、ゆっくりと自分だけの時間を持つ事もなかなかままならなかったのだから。
 スマイルにも随分と悪い事をしてしまったな、と専らユーリの鬱積した感情の矛先になっている人物を思い出し、口角を歪める。テーブル前に居た時にはしつこいまでに名前を呼び続けていた彼も、リビングまでは追いかけて来なかった。だから今こうして、ユーリはゆっくりと考える時間を持てたのだけれど。
「あ、スマイル」
 庭への通り道になっている広いリビングの一角を、恐らくは洗濯物を干しに向かう最中なのだろう、アッシュの声がした。ユーリは瞼を覆う片腕を少しだけずらし、唐突に視界に飛び込んできた光の眩しさに数秒停止した。
 気配だけを辿ると、どうやらアッシュとスマイルは並んで立っているようだ。場所までは特定できないが、ソファからはそれほど遠くない。彼らはユーリが眠っているとでも誤解しているのか、音量を下げようともせず普段通りの声で喋っている。
 ソファの背もたれが邪魔をして、目を開けてもユーリの位置からはふたりを窺う事は出来ない。
「ユーリ、結局なんだったんスか?」
 最後まで理由が分からなかったらしいアッシュに問われ、スマイルは乾いた調子で低く笑った。途中、アッシュが胸に抱いた洗濯籠を抱き直したのだろう、小さなかけ声が混じる。
「ん~~……」
 数秒間考え込んで、スマイルは、きっとわざとらしく腕を組んで顎に手をやっているのだろう、そして小首を傾げてアッシュを下から悪戯っぽく見上げるのだ。
「なにもないから、だって」
 聞こえてくる声、に。
 ソファに隠れる格好になっているユーリの胸が、どきりと鳴った。
「……何スか、それ」
「さぁ?」
 カラカラと笑って、スマイルはアッシュの追求をはぐらかす。見えないけれど、手でアッシュを追い払う動作をしているようだ。渋い表情のまま、蚊帳の外に追い出された狼男は抱えている籠の中身を片付けてしまおうと庭へ繋がる窓に向かって歩き出した。
 足音がひとり分だけ、床に響く。僅かな間を置いて、もうひとり分も動いた。
 リビングセットを大きく迂回し、ソファの前まで回り込んで、後から来た足音は止まった。
 薄くユーリが目を開く。だらしなく垂らした左腕が、頼りなく空中で揺れていた。
「ユーリ」
 飽きる程聞いた声が、そのたびに新鮮な響きを内包してユーリの耳に届けられる。名前を紡がれただけなのに、起きあがるように促された気がして、気怠い身体をゆっくりと起こした。肘置きから両足を下ろし、座り直す。
「はい」
 そう言って、顔の前に差し出されたのは真っ白な陶器のマグカップ。さっきスマイルがコーヒーを飲んでいたのと同種の、しかし大きさはあれよりも一回り上のカップからは、白い湯気が何本も天井目指し登っていた。
 反射的に受け取って、だがこれは何かと視線と小首を傾げる仕草で問い返す。スマイルはやはり白磁の、こちらはコーヒーカップを持って、さっきまでユーリが足を置いていた肘置きに浅く腰を下ろしていた。
 優雅な動きで、まだ熱いコーヒーを口に含ませる。その、返答をはぐらかす態度に煮え切らないものを感じつつも、ここでまた怒りを覚えるようでは自分に進歩無いと思い直し、飲み込んだ。両手で持ち直したマグカップに息を吹きかけ湯気を乱し、背を丸め気味にして透明度の高い紅茶を飲む。
 良い茶葉を惜しみもせず使ったのだろう、薫り高い味が咥内に一気に広がって染みこんでいく。その熱も手伝って、内側から解されていく感覚だ。
 我知らず、ホッと安堵の息を漏らしていたらしい。傍らで中腰に立つスマイルが、ふっと微笑んだ。
 それは、テーブルに座っていた時に見た笑顔となんら違いは無いのに、あのとき感じた皮肉さや嫌みっぽさは微塵も無かった。
「ユーリ?」
 じっと顔を見つめていると、不審に受け止められたのかスマイルが語尾を上げ気味にまた名前を呼んだ。
「なんでもない」
「……ソ?」
 素っ気なく、そっぽを向きながら言い返す。しかしスマイルはそれ以上の言及をせず、コーヒーを静かに啜るものだから、ユーリはどうにも落ち着かなくてスマイルとは反対側を見つめながら、音を立てて紅茶を飲み込んだ。
 窓の外ではアッシュが忙しく動き回っている。
 今日が休日なのだと、改めて実感する。
 空になったマグカップの底に残る茶葉の屑を眺め下ろし、ユーリは持て余し気味のカップをゆらゆらと揺らした。
「時に、ユーリ」
 今日はお暇デスカ?
 ゆっくりと、香りを楽しみながらコーヒーを味わっているスマイルが、不意にそう言った。
「ちょっと遠いんだけど、古い映画を何本か連続で上映してる映画館があるんだ。折角だし、今日行こうと思って」
 世間は平日で、都心から離れている町に建つ古い映画館が混み合う事も無い。
「もし、時間があって気が向いたなら……」
「行く」
 一緒にどうか、と言おうとしたスマイルの声を遮り、ユーリは言った。空っぽのカップをテーブルに置き、下からスマイルの顔を見上げて真っ直ぐな瞳を向けている。
 意表を突かれたスマイルは一瞬だけ沈黙し、それから残っていたコーヒーを飲み干した。
「待っていろ、支度してくる」
「あ、ハイ」
 なにも今すぐ行くとは言っていないのに、気の早いユーリはさっさと立ち上がってソファから離れた。ちょうど籠を空にしたアッシュが窓を越えて屋内に戻ってくるのも重なって、扉をくぐり抜けるユーリの背中をスマイルと共に見送った。
 心なしか、ユーリの背中が上機嫌に踊っているように見えた。
「……どうしたんスか」
 さっきと随分な変わりように、心底分からないとアッシュは首を頻りに捻る。彼にふたつのカップを押しつけ、スマイルは笑った。
「何も無いが無くなったから、じゃナイ?」
 意味が分からないとアッシュがスマイルの顔を見返す。けれど、彼は笑うばかりで何も教えてはやらなかった。
 

 それは、何も無い一日の、なんでもなかった出来事。

Slowly

 目が覚めると、真っ白い天井が目の前に広がっていた。
 ――…………アレ
 腰の横で背中を預けている堅いものに手を置き、上半身を起こして左右を順番に、交互に見回す。
 真っ白だ。四方が壁に覆われた、正確に計る術は無いけれど、恐らくは正方形をしているだろう箱の中に自分が居た。
 いつの間に、どうやって。それ以前に何故自分が此処にいるのか、それすらも分からないし、思い出せなかったけれど、目の前にある現実を否定するほど矛盾して無意味なものは無い。だからあっさりと現状を受け入れて、首を横に振った。
 堅い場所に横たえさせられていたからだろう、身体のあちこちが凝り固まってしまっている。右側に傾けた首は三十度と行かないうちにばきぼきっ、と不吉な音を響かせ、それ以上先に進まなくなってしまった。
 ――うーん……
 あまりにも手を置いているものが堅いので、表面をさすりながら改めて視線を下に落としてみた。じっくり見ていなかったわけではないのでその正体も悟りきれず、確認の意味を込めて傍らに沈めた視線は、石膏ボードを更に堅くした印象を抱かせる真っ白い方形に跳ね返され、在らぬ方向へと転がっていってしまった。
 慌てて拾い直し、再度視線を膝の下に流した。今度は思いがけない抵抗を受けぬよう、慎重に。
 床と……いや、床や壁と同じ材質で作られているのだろう。真っ白く、弾力がまるで無い。表面は滑らかで、撫でると指先を一度も引っかけぬまま遠くへ行ってしまいそうになる。
 試しに握った拳の背で叩いてみたら、思った以上に痛みが返されて無意識に舌打ちしていた。
 吐息をひとつ零す。カラカラと音もなく床を滑り転げ下り、真っ白な方形の部屋を宛てもなく彷徨ってそれは角に嵌り、そのまま動けなくなったようだ。
 継ぎ目さえ目を凝らさなければ分からない程に、色の無い空間。いや、色は確かに「白」が存在しているのだが、この一色切りしかないとやはり色が失せているように思えてしまう。
 むしろ眩しくさえ感じて、照明装置がひとつもない筈なのに不可思議に明るい部屋で寝台にしていたものから立ち上がった。
 振り返ると、其処に確かにある寝台となっていた長方形の出っ張りも、白い壁と床に同調してしまって影すら映さず、見失いそうになった。歩き回ってそのうち引っかけやしないだろうかと思案して、はて、と首を捻る。
 何故、影が無い?
 真上を見上げ、照明装置が無いのを確かめる。けれど真っ白い壁自体が発光しているのかどうなのか、視界は頗る良好で真っ白具合が目に痛い程。
 ――360度全方向から光を当てれば影が消えるって聞いた事はあるケド……
 もしそれを実現したら、発光の際生じる熱で光を当てる対象物がやけどを負ってしまう。だから照明家は極力、影が出ないように限られた方向から照らす光で被写体を飾るのだ。
 どうやらそれとは違う方法で、この部屋の照明は維持されているらしい。瞼を閉じたくなる光量具合にまたしても舌打ちして、さっきまで寝転がっていた床と同化してしまっている棺桶のような寝台に腰を下ろす。その境界線を探すのに、目の前にあるのに手探りで形を確かめてしまって、自分の行動の滑稽さに失笑が漏れた。
 ――さて。
 ここが何処なのか。動転していても始まらないことだし、冷静になって考えてみる。足を組んで腕も一緒に組み、けれどその姿勢はありきたりすぎてすぐに飽きて、重ねた膝の上に肘を置き、頬杖をついて背を丸める。
 目を凝らしても、目を閉じて気配を探ってみても、この部屋は密閉されていて出口も、窓も見当たらない。空気穴くらいはあるかもしれないが、どう考えても自分の身体をねじ込むには足りない大きさだろう。
 盛大な溜息を吐き出して、足を解いた。左右に広げ、どれくらいの幅があるのかも想像できない寝台に背中を下ろした。やはり堅い。そして、冷たい。
 ――えーっと……だから、うん。
 こんな場所に自分から足を運んだ記憶は無い。そもそも出入り口が無い部屋に、どうやって入ると言うのだろう。
 だから、これは。
 結論だけを言ってしまえば。
 ――夢、ダネ。
 自分は夢を見ている。そして夢の中で自我を持ち、考えている。これは夢だ、と。
 夢の中身で今居る場所が夢の中だと考えるのもまた珍妙な話だが、他に思い当たる節はなにひとつとしてないので、そう結論づけてしまう事にする。
 途端、それまで辺りを埋め尽くしていた白が心持ち、薄くなった気がした。
 だとすれば、この白さは自分自身の夢の深さを現すのだろうか。夢を夢と自覚して、眠りが解けようとしている。そう考えた途端、また白さが薄らいだ。最初よりも大分薄暗く、頼りなくなってくる。
 ふと、何の脈絡も無く向いた方向に、うっすらと何かが浮かび上がっていた。
 ――……?
 なんだろう、と腰を上げた。中腰から背中を伸ばして完全に立ち上がる。暗さが増した方形の部屋は、まるで天井が低くなり、迫ってきているような錯覚を感じ取らせる。そんな筈はないだろうと、上向いてみたものの、灰色になりつつある壁は変わることなく境界線を曖昧にしたままで、どこが限界なのかさっぱり分からない。
 溜息が零れた。前髪を梳き上げ後ろへ流し、爪先で床をひとつ叩く。苛立ちを覚えたところでなにが変わるわけでもない。諦めにも似た感情を胸の片隅へ押しやって、先程見つけた朧気に浮かぶものに視線を投げた。
 隻眼を細め、そのものをよく観察する。
 ――出口?
 それは扉だった。真鍮の取っ手がつけられた木造の、重そうな扉。
 さっきまで無かった。記憶を反芻させてみるが、それは間違いない。部屋が薄暗くなってから出現したのだとしたら、この扉を潜ればこの夢は終わって目覚めるのか。
 そう言えばさっき、目覚めるところからこの夢は始まったのだった。夢の中で目覚める夢を見る、なんという矛盾。笑いさえ出てこない。
 くしゃりと髪を掻きむしり、腕を伸ばし円形に象られた真鍮の取っ手を握る。力を込めて感触を確かめ、一息の間に右に回した。手前に引く。何の抵抗も無く、扉は開かれた。
 呆気ないほどで、拍子抜けする。けれどこの場所にいつまでも留まり続けるわけにはいくまい。そうしている間にも部屋の灯りはどんどん沈んでいって、もう夕暮れ過ぎの闇に近い色になりつつあった。
 振り返りもせず、扉をくぐり抜ける。なにかが、瞬間、光った気がした。
 咄嗟に両腕を交差させて顔を庇う。閉ざした瞼の先に熱を感じ取り、肌を擽る風を浴びた。
 腕を下ろし、目を開く。視界に飛び込んできたのは、何処かの街。いつだったか訪れた気がするが、殆ど覚えていない街だ。もしかしたら来たことなど一度も無いかもしれないが、どこもかしこも今となっては似たような形状をした造りになっているので、あまり気にならない。
 ついきょろきょろと見回していると、すぐ前を車が超特急で走り抜けていった。 
 ――うわっ。
 慌てて足を引っ込め、後方へ数歩下がる。車はこちらに気を回す事なくそのままの速度を保って視界から消えた。よく見れば自分は、歩道の外側に立っていて、交通ルールを守っていないのは自分だったのかと急ぎガードレールを跨いで歩道へ戻った。
 間近を、人が通り過ぎていく。ひとりの人、複数の集団。急ぎ足の人、ゆっくり歩く人、沢山。
 けれど。
 誰ひとり、こちらを見ない。
 ――…………。
 ああ、そうか。まだ此処は夢の続きなのか。
 妙にすとんと納得してしまい、いい加減にして欲しいとうんざりしつつ、ガードレールに腰を下ろした。
 元々座る為に備え付けられているわけでは無いものなので、座り心地が快適とは到底言い難いのだけれど、どうせ夢なのだからズボンが汚れるのも気にしなかった。無機質に、風景にとけ込んで過ぎ去っていく人々や後方の車の列へ目線を投げかけつつ、ひとつとして返される事の無い現実……否、これは夢なのだけれど、夢の中に現実に、時々凹みそうになった。
 こんな事、今に始まったわけじゃないのに。
 透明人間。
 そんなものが実在する事を知っている人間は、果たしてどれくらいの数になるのだろう。知識として知っていても、そんな存在がすぐ隣に居る、とは考えないに違いない。
 だって、気づけないから。
 そして気づけない側に、罪はない。だって、人の目は透明なものを映し出す事が出来ないから。
 ならば罪は、透明な存在にあるのか。
 けれど自分は最初から透明な存在であって、それ以外のものではないのだから、こちらに罪があると訴えられても困る。
 ゆっくり、ゆっくりと時間は過ぎていく。夢の中で流れる時間と、現実に流れているであろう時間は異なるのだろうか、ぼんやりと人の波を見守りつつ思う。
 深く考えたところで、どうせ本当に目覚めたら忘れてしまうに違いない。けれどまとまらない思考はぐるぐると巡るばかりで、少しも落ち着こうとしない。
 ああ、自分はいったいいつまでこの無駄な夢を見続けなければならないのだろう。
 辟易して、欠伸が出そうになった。
 そして薄い灰色をした曇り空の頭上を仰ぎ、両腕を伸ばして背筋を伸ばす。
 何も握らない虚空を掴んだ拳を戻し、胸に抱いて瞑目した。思い溜息を足下に幾つも積み重ね、揃えて下ろしていた両足のうち、右膝を寄せて額を押し当てる。崩れそうになりそうなバランスを危ういながら保ち、退屈に変化に乏しい光景に見入る。
 車道とは反対側の乱立するビル。人混みが途絶えた瞬間に見える窓ガラスには、薄汚れたガードレールが連なるばかり。
 ――夢の中ででも、ぼくは透明なままなのかい?
 何も映し出してくれない窓ガラス。其処に在るものだけを反射して、それ以外は無視を決め込む。
 空気のような存在、という表現は綺麗だけれど、哀しいよね。
 心の中でささやかに自分を笑って、立てた膝に思い切り額を押しつけた。痛みでしか自分の存在を実感できない。それが泣きそうになる程悔しい。
 けれど泣いたところで現実が変わる筈もないと知っているから、無駄な涙は流せなかった。それよりも早く、この悪夢から抜け出そう。
 袋小路の迷路に放り込まれた気分だ。
 夢から覚める方法なんて学んだ事も無いから想像も付かないが、夢の中で何か衝撃を受ければ可能だろうか。けれどこの場所でさえ、自分は透明人間で、意識しなければ有機物無機物関係なく、すり抜けてしまうのだから、衝撃を受ける以前の問題だ。今はこうしてガードレールに腰掛けているのだって、気を抜けば落下してしまいかねないのに。
 ――うーん……
 どうしようか。
 堂々巡りの思考が行き詰まって喘いでいる。頬杖をつき直して投げやりな視線を前方に差し向けて、立てていた膝をそのまま横倒しにするとさながら座禅を崩した体勢になる。少々バランスが取りづらいものの、どうせ夢の中だ、転んだところで怪我をするわけでもなし。
 開き直りの気持ちで腹立たしさを押し殺す。
 何度目か知れない溜息。うつむき加減で狭まった視界を、こう言うのも問題有りと自分でも思うのだが、見覚えのある足が通り過ぎていった。
 ――……っ!
 がばり、とすっかり猫のように丸めてしまっていた背中を反らして顔を上げる。もう目の前は通過してしまっていて、後ろ姿、その背中しか見えないけれど見間違える筈がない、よく知ったその姿。
 と、言うか。
 変装も何もしないままに町中を歩き回っちゃダメでしょうユーリ!!
 夢だという事も忘れて、そんな説教臭い内容が真っ先に数多の中を駆け抜けて行く。すっかり居場所を定めてしまっていた腰を上げ、ゆっくり歩いていく銀髪の青年を大急ぎで追いかけた。
 ――ユーリ!
 だけど。
 自分は、透明人間で。
 伸ばした腕はスッと空を掻き、彼を捉える事も、声を届かせることも、なにひとつ、叶わなかった。
 冷たい現実が押し寄せてきて、バケツいっぱいの氷水を頭からぶちまけられた、そんな気持ちになった。
 心の奥底まで冷えていく。歩みは、自然と止まった。
 ユーリは歩いていく。その背中は、振り返らない。
 握った拳を胸に押し当てる。痛くはない、涙も出ない。こんなこと、もう分かり切っているのに。
 何故、今更打ちのめすような真似をする!?
 両拳で両目を覆った。熱を孕んでいたが、涙はそれでも溢れてこない。噛みしめた奥歯が軋み、嗚咽が漏れた。
 助けて、と。
 言いたくなる。
 そんなことばに、どれだけの意味があるのだろう。自分がこんな姿をしている事も、それ以外のなにものにもなれないことも、もう嫌と言うほど思い知らされて、受け入れさせられた事実だというのに。
 それでもまだ、足りないと言うのか。
 誰かここから連れ出して。誰かぼくに気付いて。
 此処にいる、此処に居るのに!
 ――うっ……
 泣かない、泣きたくない。もう認めて受け入れるしか出来ない現実に、これ以上振り回されていたくない。分かっている、充分過ぎるくらい分かり切っているのに。
 誰も気付かない、当たり前だ。自分は、誰の目にも映らない。
 気付けない人間に罪は無い。そしてこの姿で生まれてきた自分自身にも罪はない。
 ならば、いったい誰を責めれば良いと言うのだ。
 助けて。思い出して。見つけて。連れ出して。連れて行って。
 違う、そんな事言えない。言ったこともない。どうせ叶わない、だから望まない。
 なにも変わらない、変えられない。だからもう良い、構わない。このままで良い、放っておいて。
 助けて。見つけ出して。救い出して。忘れないで。傍にいて。
 ――ぼくに気付いて。
 ひとりだけで良い。百人も要らない。
 ひとりだけで構わない。他に誰もいらない。
 贅沢なんて言わない。ひとり居ればいい。
 ――ユーリ!
 遠くなっていく背中を睨み付ける。恨みたくなる、夢だと分かっていても止められない。
 噛みしめた唇が切れて血の味が広がる。こんなところまでリアルな夢なんて、見たくもなかった。
 ゆっくり、ゆっくり。
 ユーリの背中が人波に消えていく。もう捉えられない、届きもしない。
 最初から、届くはずがなかった。
 その場に項垂れる。人の流れはその間も止まらない。この身体を意図せずにすり抜けていく人までいる。痛みも何も感じないのだけれど、さすがに鬱陶しく思えたのでまたガードレールに避難した。
 ずっと下を向いたままで、自分の爪先ばかりを力のない瞳で見つめ続ける。どうしようか、なんてどうでも良くなった。
 どうにもならないから、もう、どうでも良い。
 あの真っ白な、四角い部屋から出てこなければ良かった。そうしたら、こんな気持ちに陥る事もなかっただろうに。けれどそれすら今更で、後の祭りだ。
 救われない。なにもかもから、見捨てられた。
 もう良い、それでも。どうせ最初から、なにかに期待していたわけじゃないのだから。
 もしかしたら、と思うことも何度かあった。けど、結局は全部こうなるんじゃないのか。夢でこうなのだから、現実も、大差ない。
 ――…………
 救われたいと、思わないわけではないけれど。
 寄せた膝に頬を預け、どうしようもなく身体を小さく丸めて黄昏れてみる。夢の中でも夕暮れは訪れるのだろうかと、日が暮れる素振りもない薄曇りの空を一度だけ仰いだ。
 ユーリ、と。
 音も無く唇だけを動かして、呟いて。
 冷え切った心の中が、それでも細い糸に縋るのか僅かな温もりを感じた。同時に溜まらなく哀しくなって、苦しくなる。
 まだ信じようとしている。信じたがっている、己の心が。
 とても浅ましく思えて、寂しくて。
 だから、落としっぱなしの視界に二本の足が揃って立っているのにも気付くのが遅れた。苛々した調子で、怒り心頭気味な声が予期せぬまま、つむじを見せている後頭部に落とされた。
「なにをしている!」
 は? と、間の抜けた顔で首を持ち上げる。
 仰いだ視界に、艶のある銀色の髪の毛と血行の悪そうな白い肌が、鬼の形相を作って睨んでいた。
 え、と。
 ことばに詰まる。
 何故、と問おうとしているのだけれど、一瞬完全に停止してしまった思考を再起動させるのはそう容易いことではなかった。混乱した回路がショートを起こし、ぐるぐると壊れたレコード宜しく同じ場所を何度も駆け回っている。
 腰に手を当て胸を反らし、いつものような偉そうな唯我独尊を態度で表現している彼に、丸くした隻眼を漸くいつものサイズに戻して、けれどまだことばは出てこなかった。硬直した身体が、思うように機能してくれない。
 どうしよう。さっきまでとは違う意味で困惑が広がり、対処出来ずに居る。
 彼はふんぞり返ったままこちらを見下ろしている。居たたまれない気持ちが先立って、回らない舌をどうにか動かそうと何度かに分けて息を吸った。
 その手前、彼が。
「ほら」
 手を。
 透明である筈の、自分に、向けて。

 雲間から、光が差した。




「スマイル?」
 声に揺り動かされ、強張っていた身体から力を抜き同時に瞼を薄く開く。
 ――アレ?
 なにか、が。
 あったような気がしたのだけれど。
「スマイル?」
 もう一度同じ調子で、けれどさっきよりか幾分訝しげな感情を含んだ声で名前を呼ばれた。
 頭を振り、漠然としている頭をひとつまとめに仕上げる。何度も連続して瞬きをし、瞼が痛くなりそうな寸前で止めて片手を側頭部に置いたまま、顔を上げた。
 すぐ近くに、どことなく不審げなユーリの顔がある。
「…………あー…………」
「あ、じゃ無い」
 ばこり、と痛みはないが音だけは派手に殴られ、刹那のうちに視界が床一面に覆われた。だがじきにまた顔を上げ、改めてまじまじと、物珍しそうにユーリの顔を見つめてしまう。
 それこそ、見つめられる側のユーリが若干頬を染めながらも眉根を寄せる程に。
「どうした」
 リビングのソファで寝転がっているスマイルを見つけたのは、つい先程で。夢でも見ているのか、うなされているわけではないもののどこか苦しげな表情をしているものだからつい、声を掛けて揺り起こしてみたのだけれど。
 それと、この穴が開きそうな程見つめてくる視線に、繋がりはあるのだろうか。考えたところで、所詮第三者のユーリには分からないのだけれど。
 ソファの前で、まだ横向きに身体を伸ばしているスマイルの傍に膝を折ってしゃがみこんでいるユーリに、随分と長い間魅入っていた彼であるけれど、やがて意識が正常に覚醒したらしく、激しかった瞬きも収まって、彼は思案気味に顔を顰めさせた。
「スマイル?」
 首を傾げながら、ユーリが問う。
 ああ、とスマイルは緩慢に頷いた。そうしてゆっくりと身体を起こし、ユーリが膝を折る手前、ソファに浅く座り直す。
 本来の役割を取り戻した柔らかな、黒い革張りのソファが表面を撓ませた。
「……えっと」
 どこか、ことばを探すように視線を迷わせながらスマイルが舌先で音を転がす。
「ずっと、居た?」
「ずっと、ではないが」
 人の寝顔をまじまじと眺め続ける真似はしないと、やや口角を持ち上げ気味にユーリが返す。そう、とスマイルは相槌を短く返すだけで会話は一旦途切れた。
 気まずさがユーリを理由も無く襲い、起こしてやるべきではなかっただろうかという思いがわき起こる。ならば自分は、早々にこの場を立ち去ってやる方が親切だろう。眠るのならばベッドに行けと言いたいところだが、一度寝入った場所ならば二度寝もしやすいかもしれないと思って。
 踵を浮かせつつも深く座っていたユーリは、長らく負担を受け続けていた膝を労りつつ、立ち上がろうとした。
 けれど。
「ありがとう」
 一瞬、聞き間違いかと、そう思うような単語が、彼方を向いたスマイルの唇から紡がれたようで。
 耳を疑って、変な中腰の体勢で固まってしまったユーリへと、スマイルは、だけれど、さっきまでとは明らかに違う、どこか晴れ晴れとしたようなすっきりしたような、綺麗な笑顔を浮かべた。
 そして、ありがとう、と。
 もう一度、今度こそユーリにしっかり届く声で告げた。
 ありがとう、と。
 ただ、それだけを。
「……そうか」
 暫くユーリは黙って考えていたようだけれど、最終的に考えても分からないという結論に達したのだろう。やんわりと微笑んで、それだけを告げた。そして膝に負担ばかり掛かる姿勢を直して、二本足でしっかりと立ち、こんなところで眠るんじゃない、としっかり説教するのだけは忘れず、スマイルの額を小突いた。
 スマイルは、まだ笑っていた。
「そ……だね。ゴメン、気をつける」
 しんみりと頷いた彼を、ユーリはまだ訝しんでいたけれどこれ以上はどう頑張ってみたところで彼の口からは何も引き出せないと、性格から悟っているのだろう。ユーリは何も言わず、ソファを離れた。
 壁際に並ぶチェストに飾られたコンポの電源を入れ、片付けるのを忘れられ、納められたままだったCDを再生させる。静かに、ゆったりとした音楽がリビングに満たされていく。
 スマイルは、コンポの前で今再生されている曲を調べようとその辺に山を成しているケースを裏返しているユーリの背中を見つめた。ソファにもたれ掛かり、朧気にしか覚えていない夢の内容を思い出す。
 思い出そうとすればするほど、中身が曖昧に、薄まっていく夢だけれど、最後に差し出された手だけはどうしても、忘れられそうにない。
 あの手、それだけが手に入ったのだ。
 百人も要らない。ひとりだけ、居てくれたらいい。
 スマイルは無言のまま、自分自身の掌を見つめた。虚空を潰すイメージで、握りしめる。
 ありがとう。音を零すことなく、唇だけで紡ぎ出す。
 聞こえるはずがないのに、ユーリが振り返り、重なり合った視線の末ふたりして、意味もなく笑った。
 涙が、出そうだった。

StrowHat

 日差しが眩しい。なだらかな坂道を登りながら、自然上向く視線の先に燦々と輝く太陽を見つけ、口許が無意識にきつく結ばれていく。だがじきに持ちこたえられなくなって力も弛み、広げられた唇の隙間からこぼれ落ちるのは、熱を孕んだ溜息だ。
「暑い、ネ……」
 独り言を呟き、額に手を翳す。日差しから隻眼を庇い、ついでとばかりに浮かんでいた大粒の汗を指先に弾かせた。
 目指す場所はもうじきで、あと数歩坂を上りさえすれば狭い視界でも見つけられる筈。怠さを訴える腕を下ろし、手首から先を何度か前後に大きく揺すって、再度空を仰いだ。
 鳥が、翼をいっぱいに広げて滑空する影が日差しの傍らを過ぎった。瞳を細めその様を小さくなるまで見送り、巡らせた視線を戻してまた溜息が零れた。
 あつい、と口に出す。そうしたら余計に暑さを感じるのはよく言われている事だが、あながち嘘じゃないなと今度は首筋を拭って休めていた足を動かし出した。
 ズボンと肌との擦れ合う熱が、生温い空気を間に発生させて気持ち悪さも甚だしい。何故こんな服装を選んでしまったのかと、出かける前の自分を思い出し恨めしく思いもするが、それも今更だ。ここで脱ぎ捨ててトップレスを気取っても、恐らく見咎める存在は無いだろうが、そこまで開放的な気分にもなれない。
 数度目、溜息。重い足取りを交互に事務的に繰り返し、漸く到達した丘陵の頂。
「あー……」
 疲れた、と背を屈めて膝に手を置く。噴き出た汗が幾つか、足下の土に染みこんでいくのを見送った。
「っつい」
 長く吐きだした息の最後で、少しだけ勢いを取り戻して姿勢を直した。真っ直ぐに身体を伸ばし、広く枝を四方へ伸ばしている、それほど背は高くないが緑の葉をいっぱいに茂らせている古木を見据える。
 深く根を下ろし、いつからこの場所に聳えていたのか、誰も知らない、恐らく古木自身さえも覚えていない年月を過ごしているだろう樹下に、けれど。
「…………」
 地表に盛り上がり、また沈んでいる濃い色をした太い根の間に身体を小さくして、まるで守られるように座っている存在があった。この暑い中、身体を丸め、照りつける日差しを避けて幹に頭を寄せている。
 ノースリーブの黒いワンピース、肩で切りそろえられた艶のある黒髪。今は閉ざされているが、深海の色よりも濃く黒真珠よりも鮮やかな色をした双眸と、夏の日差しを浴びて一層際立つ白さを秘めた、絹織りの肌。
「おや、まぁ」
 なにもこんな天気の日に、外で昼寝をしなくて良いものを。
 踏みしめた柔らかな草は、倒れる時己の身体を互いに擦れ合わせるけれども、音はさほど大きくない。ここのところ晴天続きで、多少潤いに欠けるのか、乾燥した感じは受けるが床を歩くとは格段に違う、柔らかな感触を足裏で感じ取り、古樹へと歩み寄る。
 息を殺して気配を断ち、片腕を伸ばして木の幹に置いた。穏やかに眠る少女を真上から覗き込む。
 高い位置から下ろした視線では、自分の影が邪魔をして少女の表情は読み取りづらい。だがとても心地よさそうに、夏場の昼、この茹だる暑さも苦にならないのか、とても平和な寝顔を浮かべているのだけは伝わってくる。
 警戒感の欠片も無い寝姿に、先程までとは別の溜息が溢れ出た。身体を支えるつっかえ棒にしていた腕を戻し、膝を揃えて曲げてその場に屈んでみた。
 距離が狭まり、寝息さえ聞こえてきそうだった。とても起こしてやるには申し訳ない、熟睡ぶりである。こんなにも近い場所に他人が在るというのに、少しも目覚める素振りが見られない。
 日差しは四方に広がる枝が遮ってくれている。木立の影は遮蔽物がひとつもない緑の丘と比較しても、汗が退く程度には涼しい。木漏れ日を揺らす風も、随時とは行かないが適度に吹き付けていて、熱を浚い取って去っていく。
 とはいえ、やはり屋外。冷房完備のコンクリートの箱とは違い、自然がもたらしてくれる涼しさにも限度はある。実際、眠っている少女の鼻筋にも小さな汗が粒を浮かべ、時々深く息を吐き出している。
 だからなにも、こんな日にこんな場所で昼寝をしなくても良いだろうに。
 腰を落とし、座り直してその場で胡座をかいた。膝に肘を置いて、だが頬杖をつくのは肌を触れあわせた場所から汗が噴き出てくるだろうと思い直し、結局両手は腰の後ろ、乾いた草の上に置かれた。
 首から力を抜いて、だらりと背中側に落とす。天頂を向いた隻眼に、流れていく雲に時折遮られた光の粒子が容赦知らずで降り落とされる。
 夏、だ。
 文句なく、暦の上も間違いなく、夏、だ。
「暑いなぁ……」
 だのに、目の前ではそんな暑さをものともせず、すやすやと眠る少女の横顔。時折陰りを浮かべ、けれどまだ幸せそうに、眠っている。
「暑そうなんだけどなぁ……」
 結局無意識のうちに頬杖をついてしまっていて、思い出した時にはもう遅い。汗で若干湿る掌に音のない舌打ちをして、首を回し、片腕を伸ばした。
 何気なく、気紛れに少女の露出する肩の上に翳して五指を広げてみる。そこから熱気が発生しているわけでは決してないのだが、急激に接近した他者の気配を敏感に察したのか、彼女は表情を歪め、ぐずった。
 まだ目覚めない。だけれどある一定の範囲内には鋭敏な反応を返す様子に、瞳は自ずと細くなる。
 余程深い眠りのようだ、昼の休息にしてはやや大袈裟なくらいに。
「ま、夜は確かに寝苦しいケドね」
 腕を引き戻し、呟く。口に出してから、まるで自分に対して言い訳しているような気がして、ムッとなった。
 迫っていた気配が去ると、少女はまたあの穏やかな表情を取り戻す。もう一度試してやろうかという、意地悪い考えが全く脳裏に浮かばなかったわけではないが、実行する気力はもう残っていなかった。
 どうせ結果は違わないだろう。そしてより警戒心を呼び起こした少女は、眠りの世界から引きずり出される。
 短絡的な逃避方法だが、この年代の少女には、察するに余りある数多の事があるのだろう。そっとしておいてやるのが、大人がしてやれる、せめてもの手助けだ。
 自分から助けを求めて来ない限り、直接手は下さない。時と場合に因るだろうが、多くの問題は自分の力で解決しなければ根本的に、何も変わったりはしない。助言はしてやれるだろう、けれど最終的に決めるのは本人であらねばならない。
「……あついなぁ」
 額の汗を拭い、呟く。地面に下ろした片手に乾ききった草が絡んだ。手繰り寄せて掴めば、簡単に千切れてしまう。
 重さも感じさせない緑色を、軽く肘まで持ち上げて放つ。風に誘われるがまま、それは少しの距離を舞って、羽根よりも無骨な動きをしながら落ちていった。
「暑い、よね」
 さっきからそればかりを口にしている。けれどその回数ほど、自分がいつの間にか暑さを感じていないのにも気付いている。
 やはり迷信だったのだと、不覚にも笑みが零れた。
 少女の横顔へ、改めて視線を落とす。袖無しで、それなりに薄い布地を使っているようだが、色からして夏に向いているとは到底言えない服装を、不躾にならない程度に見つめ直した。
 波立っている裾部分から覗く、細い足首にはどこかで切ったのか、細い筋が赤く走っていた。傷の場所や具合からして、草の仕業だろ。紙と一緒で、普段はまるでそんな素振りも無いくせに、時々思いがけない攻撃を仕掛けて鋭利な傷を残してくれる輩だ。
 撫でてやりたいところだが、さっきの様子を思い出して踏みとどまる。それに、傷自体も酷くないし、血だって止まっている。傷跡は残るまい。
 ああ、けれど。
 いつも何処か儚げに、遠くの空ばかりを何かも分からないなにかを求めて眺めている姿からは繋がり辛かったけれど。
 この子だって、ちゃんと生きているわけだ。自分と違って。
 ややシニカルに笑って、腰を浮かせる。
 自分の特等席は先客に占領されてしまっている上、古木も彼女の方が良いらしい。角度を変える太陽の向きに関わらず、安定した影を供給させている樹木の幹を小突いて、そのまま後ろ向きに数歩進んだ。
 日差しが、身体を包み込む。
 決して優しくは無い夏の照りつけに、隻眼を細め、閉ざす。
 呼応するようにして、彼の身体は空に溶けていく。
 空の色に染まっていく。
 やがて。
 一陣の風が吹き、すべては泡沫の夢と消えた。

 
 夏の日差しが照りつけている。
「ん……」
 もぞ、と身体を動かすと狭い場所に身体を丸めて押し込めている為、身動きが取りづらくあちこちが堅いものにぶつかった。
 それでもなんとか上半身を起こし、まだ半分眠ったままの目を交互に擦った。指の背で瞼を痛まぬ程度に撫で、小さく欠伸を噛み殺し、もう一度瞼を擦って完全に眠気を頭から追い出した。
 だが不自然な体勢で長い間横になっていたからだろう、節々が痛みを訴え、また凝り固まっている部分が動くたびに不気味な音を響かせる。
 だが、少なくとも五体満足のままでいるようだ。
 広げた両手を見下ろし、引き寄せた時に微かな痛みを発した右足と揃えて両足首をスカートの先から見つめる。
 まだ、この身体はここにあって、繋がっていて、動いている。
 喜ばしいことであり、残念でもあって、曖昧な吐息をその場で落とし、先程感じた痛みの発生源を探して右足を捻ってみた。
 踝の斜め下辺りに、うっすらと赤い筋が出来ていた。傷口は浅く、血も完全に固まっていて、既に塞がりかけている。
 けれどどこで傷を作ったのか、まるで心当たりが無くて首を捻った。
 ふぁさり、と。
 その時、予期せぬ物音が耳元間近で聞こえて、微量の風を渦巻かせながらなにかが、傍らに置いた手の上に落ちていった。
 驚き、そしてそのものを見て目を見張った。
 多分、眠っている時に頭の上に被せられたのであろう。そして起きあがった時にも気付かぬまま、暫く被ったままでいたらしい。落として初めて、その存在に気付いた。
 それほどの存在が希薄で、軽く、自然なもの。
「誰……」
 自分が持ち込んだものでは無い。見た覚えさえ無い。
 手に取ってみると、その軽さが分かる。丸く膨らんだクラウン部分を軽く握った拳で叩いて凹ませ、裏側から押して形を直し、淡いピンク色をしたリボンを指で弄る。
 真新しい、麦わら帽子。
 こんなものを自分に贈りつけてくる存在は、幾つか思いつくがどれも違うような気がする。そもそも、自分が此処にいる事を知る存在は皆無に近いのに。
 けれど誰かがこれを置いていったのは確かで、間違いない。他に誰もいないこの場所で、自分以外の誰かに贈られた帽子だと考えるのにも、無理がある。
 それでも、理由が無い。
「……でも」
 誰か、居た。
 そんな気がする。
 確信を抱く程に強いものではないけれど、誰かが、傍に、居た。
 誰が?
 帽子を胸の前で持ち、立ち上がった。急に動いた所為で、貧血に似た立ち眩みが一瞬だけ全身を襲って、膝が弛み、力が抜ける。
 そんな時に限って、一際強い風が吹き付ける。
「あっ」
 悪戯妖精が引き起こした突風は、切り揃えた前髪を激しく揺さぶった。スカートの裾が捲れあがり、浚われそうになって慌てて両手を下ろして押さえ込む。
 帽子、が。
 一瞬の虚を突かれ、持つ手の意識を他に向けた途端、風は誰のものかも分からない麦わら帽子を奪い去った。まるでそれが、自分のものだと主張しているようで、風に巻き上げられ空に流されていく帽子の行方を目で追い、何故か哀しい気分に晒された。
 あれは自分のものだと、決まったわけではないのに。
 木立が枝を揺らし、葉が擦れ合って音を立てる。流れていく風に、何処へ向かうのかも分からない麦わら帽子の色だけがぽつんと異質で。
 緑の中に在る、黒い自分が重なる。
 視線を逸らし、俯いた。握った拳を胸に押し当てて、言い表す術の無い感情を持て余したまま唇を噛んだ。
 しかし。
 ふぁさっ、と。
「ちゃんと、捕まえておかないとダメでショ」
 黒髪の毛先を浮かせる、頭の上へのささやかな衝動。同時に降ってくる、からかう声。
 え、と顔を上げた先、逆光に目を細めた世界でシルエットだけになった姿が浮かび上がる。
 逆さまに被せられてしまった所為で、ツバの先から垂れ落ちるピンク色のリボンが見える。こんな服装で、似合う筈が無いのにと、向きを直して心の中で笑った。
「うん、やっぱり似合うヨ」
 だのに彼は満足そうに、顎に手をやって何度も頷いている。そんなわけないよ、と小さな声で呟いてみたけれど、囁き声は風に流されて消えていった。
「何か言った?」
 片方だけの視線を向けてきた彼に、うぅん、と首を振って、ツバをやや前に倒す。そうしたら、ちょうど彼の視線から顔が隠れて、ほんの少し赤くなっているのもばれずに済むから。
 遠くへ行ってしまった筈の麦わら帽子。
 今はこんなにも近くにある。
 空の中に浮かんだ、ひとつだけ違う色。
 それさえも似合うと、当たり前のように言ってしまう人がいる。
 気付かない間も、傍にいてくれた。
 それが素直に、嬉しいから。
「暑いねぇ」
 そんな事無いよ、と言ったら、そうかな? と首を傾げていたけれど。
 どうしてか、は言わない。
 口に出したら全部が嘘になる。だから胸の中で、大事に抱きしめる。
「夏、だねぇ……」
 うん、と頷いて太陽を見上げた。
 今夜なら、少しは眠れそうな気がした。

端午

 ゴールデンウィーク中は、家族旅行で出かける人も多いのか町中は静まりかえっている。会社も休みなのか交通量も全体的に少なめで、大通り沿いにあるレンタルビデオショップ帰りの綱吉は信号待ちをしながら、走りすぎていく自家用車を見送りつつ、考える。
 家族連れでどこかへ行くのだろう、父親がハンドルを握り、母親は助手席、後部座席には子供達が笑顔で並んでいる車が心持ち多い。逆にトラックなどは少ない。
 青信号に変わったので、横断歩道を歩き出す。すれ違う人はおらず、昼間だというのに寂しさを感じる交差点を足早に通り過ぎて、彼はすぐ先の角を曲がった。
 連休中であってもどこかへ出かける予定もなく、普段の週末同様に自宅に居候している子供達の相手をして、母親の手伝いをして、大量に出された宿題を片付けて。出かけるといっても近所のコンビニエンスストアや、今のようにレンタルショップに足を向ける程度。遊園地やら、行楽施設に遊びに行く予定は一切入っていない。
 山本は連休でも部活動は変わらずあるようでそちらが忙しく、獄寺は実家から呼び出しを受けたとかで海外へ。おみやげを買って来るとは言っていたが、変な置物だったら受け取りは拒否出来るだろうか、少し心配になる。
 ハルも学校のイベントがあるようで、連休前に一緒に遊べないと言って子供達を残念がらせているのを心苦しそうにしていた。京子に至っては予定すら聞いていない、誘う理由もなければそんな勇気もない。
 だから結局、自宅に引き籠もる他、綱吉に道はない。ひとりで遊園地に行っても仕方がないし、子供達を連れて行くにしてもひとりでは面倒を見切れないのは明白。小遣いにだってゆとりは無い。
「あーあぁ」
 大きく溜息をついて、空を見上げた。恨めしくなる程の快晴に、五月初旬とは思えない陽気。半袖でも充分まかり通れる気温で、長袖で出歩いていた綱吉はそれを僅かに後悔していた。短い距離をゆっくりと歩いていただけなのに、背中にじっとりと薄く汗が滲み出ているのが解る。
 吹く風も生温く、決して心地よいとは言えない。しかしそんな風を受けて、彼の頭上では大きな鯉のぼりが悠然と泳いでいた。
 この辺りは綱吉の住む区画とは違い、古くからの住民が多く、大きな庭を持つ平屋建ての家が数軒並んでいた。そのうちの一軒に、小さな子供がいるのだろう、庭先にポールを立てて吹き流しと三匹の鯉を泳がせている家があった。
 高いコンクリートの壁で庭の様子は一切見えないが、頭上高い位置にある鯉のぼりは近い位置からでもよく見える。父親、母親、子供、と教わった下へ行く程小さくなる鯉の姿は、仲の良い家族を想起させた。
 綱吉の家には、一度も飾られた事がない。
 幼い頃から父親が不定期でしか居着かず、また完全に姿を見かけなくなって久しい。季節のイベント事にも疎く、また一緒に暮らしている母親もあまり執着が無いようで、沢山売っていたからと柏餅を買ってくる年もあったが、基本的に何かをやろう、という意識は感じられない。
 だから綱吉も、そういうイベントはあまり自分と縁がない物と割り切った考え方をせざるを得ず、余所の家は余所の家の事だから自分には関係ないと、なるべく見ないようにしてきていた。
 だが、問答無用で視界に飛び込んでくるものは、どうあっても避けようがない。そして、見てしまうとやはりどうしても、心で納得していたつもりでも、羨ましく思えてしまうのは人間としての性だろう。
「……」
 こんな大きな鯉のぼりを欲しいとは思わないが、こうやって毎年必ず庭に飾ってくれる父親がいる家庭は、少しだけ、ねたましい。
「あーああ」
 再度大きな溜息をついて肩を落とす。考えたところで仕方がないのに、最早後ろ姿さえ朧気にしか覚えていない父親を恨めしく思っても意味がない。居ない人に愚痴を言ったところで仕方がない。
 家に帰ろう、そうすれば考えなくて済む。額に手を置き、ゆるゆると首を振る。
 自宅で待っている子供達も、日本の風習でこどもの日があるのを知らないのだろう。知っていたらきっと大騒ぎだ、下手に教えない方が自分の身の安全も保証されるというもの。さっさと忘れてしまうに超した事はない。
 止めていた足に力を入れ、綱吉はけれどまだどこか、ぼんやりとしたまま俯き加減に前方に延びる道を進み出す。己の足先ばかりを映す視界に、他人の爪先が見えたのはそんな一瞬。
 え、と思う間もなく、前傾気味だった綱吉の頭が何かにぶつかって止まった。柔らかいけれどしっかりとして、綱吉の体重を受けてもびくともしない。そして下ばかりを見ている綱吉の目には、綺麗に磨かれた黒い革靴。綱吉の薄汚れたスニーカーも一緒に見える。
「え、と……」
 これは、正直自分で認識するのもすごく恥ずかしい以外の何物でもないが、もしかして自分は、ぼんやりとしすぎていた所為で、通行人と正面切ってぶつかってしまったのだろうか。
 でも大体、普通、避けてくれるものではないのか。いくらこちらがぼーっとしていた分悪いとはいえ、こんな悪戯のようなことを仕掛けてくる人なんて、よほど性格が悪いとしか思えない。
 気候の穏やかさから来るのとは違う汗が首筋を伝い落ちていく。顔を上げるべきか、このまま下を向いたまま逃げ出すべきかで悩み、考え、どっちも選択できずにその場で硬直したままの綱吉は、口の中がカラカラに乾いていくのを実感しながら、流れる汗を拭いも出来ず、瞳だけを左右に動かして必死に言い訳を考えている。
 と、そんな彼を見越したのだろうか、頭上から聞き覚えのある溜息混じりの声が、落ちてきた。
「で? 君はいつまでそうして僕に頭をぶつけたままでいるつもり?」
 皮肉を含む薄笑いの声に、綱吉の視線が揺れた。ほぼ反射的に身を引き、脊髄反射で構えを取ってしまうのは最早仕方のない事。
 目の前に居た人物。艶がかった黒髪に、切れ長の細い目、休日だというのに相変わらずの学生服姿で、学ランは袖を通さず肩に羽織っただけの彼。綱吉の中学を実質的に支配し、挙げ句この周辺地域一帯でも名を知らぬ者は潜りだとさえ言われている、強権の持ち主。
 雲雀恭弥。一年ほど前の綱吉であれば、姿を見るどころか名前を聞くだけで震え上がっていた人物だ。
「別に、好きでぶつかったわけじゃないです」
 それが今や、目の前にしても普通に口答え程度なら出来るくらいになっている。予想もしない関わりの結末には、綱吉自身も驚きを隠せない。
「大体、気づいてたんなら避けてくれれば良いじゃないですか」
「君が、気づいてなかったみたいだったから、避けなかったんだよ」
 唇を尖らせて反論を試みる綱吉に、雲雀は少しも悪びれた様子もなく、ポケットから抜き取った左手を口元にやって、笑いを押し殺して綱吉に言った。思わず口をぱくぱくと、金魚のように開閉してしまった綱吉に、彼は更に喉を鳴らして笑った。
 からかわれている、明らかにそうだと解る彼に、綱吉は地団駄を踏む。
「そもそも、僕に気づかない君が悪い」
 左腕を伸ばして人差し指を立て、綱吉の額を押した雲雀の台詞はあまりにも不条理な唯我独尊的思考だったが、下手に逆らって彼を不機嫌にさせても、綱吉に良い事はひとつもない。頬を膨らませるのが精一杯の抵抗で、最終的には綱吉が折れて彼の言い分を認める他ないのだ。
 突かれた額を抑え、綱吉は上目遣いに彼を睨み付ける。だがその視線を無視して上向いた雲雀に、つられるようにして見上げた空には、あの大きな鯉のぼりが緩慢とした動きで泳いでいる。時々煽られて形を乱すものの、地平とほぼ平行に、川を泳ぐのと同じ動きを見せる布の鯉は、今日という日を表す象徴として綱吉の目に映る。
 季節から置き去りにされていると、綱吉に強く意識させる、憎きもの。
「欲しいの?」
 それなのに、食い入るように見入ってしまっている綱吉へ、傍らの雲雀が不意にそんな事を言う。
「え?」
 横を向いた綱吉の声が上擦っていたのに、雲雀は果たして気づいただろうか。彼は綱吉から再度他家の鯉のぼりを見上げている。その横顔は何を考えているのかさっぱり読み取れない。
 どう答えて良いのか解らず、綱吉は顎を引いて口を閉ざした。
 彼に家庭の事情を教える義理はない、そもそも鯉のぼりを見上げていただけで何故「欲しい」のかと問えるのかが解らない。そんなに自分は、物欲しげな目であれを見ていたのだろうか。
 横目で見た鯉のぼりの姿は、確かに、幼い頃は欲しいと強く願ったけれど叶えられなかったものに他ならず。しかし現在、中学生にもなった自分には、そこまで執着心があるかと問われれば、答えは否だ。
 否と、言い切れる筈なのに。
 雲雀に、即答で、欲しくないと、返せなかった。
 そんな自分が浅ましく思える。雲雀なら、この人なら、或いは、叶えてくれるのではないかと、心のどこかで淡い期待を抱いている。それが解るから、綱吉は自分の小ささが恥ずかしくなる。
「まあ、さすがに僕でも、あれは無理だけど」
 肩を竦めた雲雀の声に、綱吉は彼を見た。ひょっとして自分は、彼に遊ばれていただけなのかと勘ぐったけれど、雲雀は相変わらず表情から感情が読めない飄々とした素振りで広げた手をポケットに押し込んでいた。
 綱吉は何も言わず、雲雀を見ている。その彼は少し顔の角度を傾け、前を向いたまま瞳だけを綱吉に向けた。同じ男であってもドキリとさせられる流し目に、綱吉は思わず半歩下がってしまった。心臓を直接掴み取られた錯覚に陥り、理由もなく、この場から逃げ出したくなる。
 どうしてだろう、頬が赤く染まって、熱い。
「で?」
 綱吉の変化など一切構わない雲雀の、ハスキーボイスが五月の風に流される。
「欲しいの?」
「……」
 どう答えて欲しいのだろう、この男は。無理だと言われたばかりの鯉のぼりを、それでも欲していると言える程綱吉は豪気ではない。
 だが、熱に浮かされた思考が、少しだけ綱吉を素直にする。
「俺んち、父親いないから……こどもの日とか、祝った事全然ないんで」
 鯉のぼりどころか、五月人形も無かった。ダメツナと休日まで遊んでくれる親しい友人も、居なかったから、チャンバラごっこなんて真似もした事がない。最近でこそ友人が増え、騒がしい子供達相手に色々な遊びを体験するようになっているけれど、ひとり遊びになれていた幼少期でそういった記憶は、皆無。
 我ながら寂しい子供時代だと、自嘲気味に笑ってしまいたくなる程に。
「兜とか、鯉のぼりとか、正直、ちょっと、羨ましいっては、思います」
 視線が脇に流れる、雲雀を直視しては言えなかった。こんな惨めな自分を彼に知られるのは嫌だったのに、一度舌の上を滑ったことばは、止め処なくあふれ出てしまう。
「ふぅん」
 雲雀の相槌は素っ気なさを通り過ぎて、無感情だ。しかし変に同情されたりするよりはずっと良い、少なくとも今の綱吉には彼の無関心ぶりが嬉しかった。
「じゃあ」
 言いたい事は言ってしまった綱吉が、胸の奥に溜まっていた息を吐く。一緒に違うものが出て行った気がして、少し気持ちが軽くなったのを感じた。
 雲雀が間髪入れず、綱吉の肩を押す。
「おいで」
 意味が分からず前に倒れ掛けるのを、足を出して堪えて綱吉は雲雀の背中を見上げる。
 有無を言わさぬ強引さで、彼は綱吉の都合など一切無視し歩き出していた。足の長さから違う彼との距離は一瞬で広がって、綱吉は慌てて駆け出す。「来い」と言われたからには、ついていくしかあるまい。彼を無視して家に戻ったりしたら、後でどんな酷い目に遭わされるか。
 想像するだけで寒気がして、早足で彼に追いつき、斜め後ろをついていく。雲雀は大通りへ戻る道を無言で進み、角を曲がって、綱吉が先程用事を済ませたレンタルビデオショップの前を素通りした。
「あの、雲雀さん」
 何処へ行くのだろう、人通りの少ない道を進むうちに不安が胸を過ぎる。青信号を渡って、五台は並ぶスペースがある駐車場を抱えたコンビニエンスストア前で漸く、彼の歩調は少しだけ弛んだ。どうやら、ここが目的地らしい。
 駐車場は、いつもなら複数台の車が並んでいるのだけれど、今日は珍しく一台も停まっていない。ガラス張りの店内では、制服を着た店員が暇そうにレジの中で雑誌を読んでいるのが見えた。
「雲雀さん?」
「待ってて」
 雲雀がコンビニエンスストアで買い物をする、というのはあまりにも似つかわしくなくて変な顔をしてしまいそうだった。前を行く彼を見上げると、そう言われて仕方なく綱吉は店の入り口横で待つ。
 こういう場所がそぐわない彼の買い物姿を見るのはなんとなく嫌で、綱吉は店を背に立つ事にした。背中で両手を結び、背筋を伸ばして空を見上げる。白い雲と青い空のコントラストはこの季節ならではの鮮やかさで、目に眩しい。走りすぎていく乗用車の表面に反射された陽光に目を細め、することもないので前の道を通った車の数を無意識に数えていた。
 その数が十六台目を数えたところで、雲雀が店を出てくる。
 手には何故か経済専門の新聞紙、それから白いビニル袋。彼はその袋を綱吉に問答無用で押しつけると、徐に新聞を広げた。
 まさか読むのではなかろうかと不審に思っていると、その予想は見事に外れた。彼は複数枚重なっている新聞の大半をはぎ取ると、店の外に並んでいるゴミ箱にいきなり放り込んだのだ。そして手元に残った大判一枚きりの新聞紙を、いきなり逆三角に折り始める。
 何をしたいのかさっぱり予測できない。混乱する綱吉は、袋の中身が何であるのか確認するのも忘れ、通り過ぎる人が怪訝な顔をしているのも構わず、新聞紙を数回折り曲げ、畳む作業を繰り返す。
 やがてそれは、菱形になり、両側が上に折り返され、角が出来、菱形の下部分が上部分に重なるように折られ、反対側も処理をされ。
「え……?」
 真ん中に手を入れて空間が作られると、雲雀は唐突に、それを綱吉の頭に載せた。
 癖毛のお陰できちんと頭に被るところまではいかなかったけれど、出来上がったそれは、幼稚園児が作って喜んでいそうな、新聞紙で出来た、兜飾りに他ならず。
 目を丸くした綱吉に、仏頂面の雲雀が、有無を言わさず彼からビニル袋を奪い取る。
「君には、それくらいで丁度良いよ」
 ほら、と袋から出したものを突きつけられた。受け取ったそれは、二本セットでパックに入った粽。
「丁度良いって……」
 どうしてだろう、胸の奥がちくちくする。バカにされているのだろうか? そうじゃないと解っているのに、素直に喜べないのは何故だろう。
「俺、そんな、子供じゃないですよ」
 そう言いながら、被せられた新聞紙の兜の両端を掴んで、目が隠れるくらい深くまで被り直しているのは、何故だろう。
 目頭が熱くなって、雲雀を真っ直ぐに見返せないのは、何故だろう。
「子供じゃ、ないですってば……」
 嬉しいのに、嬉しくないはずがないのに。
 口答えしてしまうのは、強がった態度を取ってしまうのは。
 きっとこの場所では、素直に、彼に甘えられないからだ。そう思う事にする。
「雲雀さんこそ、子供みた……いひゃぃいひゃい!」
 泣き笑いのまま言おうとしたら、いきなり彼の右手が綱吉の左頬をつねった。思い切り頬の肉を引っ張って、捻る。驚きと痛みに呂律が回らなくなって、最後まで上手く言わせて貰えなかった。
「いいんだよ」
 静かな声が降る、青空にキラキラと輝く瞳が、綱吉を優しげに見下ろしている。
 悔しい、そんな顔をされたら、もう何も言えない。
「今日は子供で、いいんだよ」
 許されるし、許してあげるから。そう告げる瞳に、綱吉は顔を伏せた。
 ならば、良いのだろうか。子供みたいにはしゃいで、彼の好意に甘えて、喜んでも、良いのだというのか。
 堪えていた涙が一筋こぼれ落ちる。彼の指はそっとそれをすくい上げ、優しく頭を撫でてくれた。
 こどもの日に初めて食べた粽の味は、少しだけ、しょっぱかった。

Piece

 昨日、袋に入った四角形の大きな荷物を半ば引きずるようにして帰ってきてから、一度も部屋を出てこないのだと最初に聞いたのは、朝の起き抜け、朝食を摂ろうと席に着いたその時だった。
 最初は誰を指して言っているのか分からず、フォークを取ろうと伸ばした手を中空に留めて、怪訝に眉を寄せてしまった。そんな自分を、アッシュは縋るような目で見つめながら胸の前で手まで結んでみせる。さながら祈るかのように。
 其処まで来て、彼が言っている存在があの、気紛れな透明人間に他ならないと漸く気付く。他に城の住人が居ないのだから消去法からしてもスマイルしか思い当たらないのだが、すっかり失念していたユーリは咳払いをしつつ、そのうち出てくるだろうから放っておくようにだけ言った。
 その時はまるで気にも留めず、アッシュも心配が過剰すぎるだけだと自分を戒め、会話はそこで終了を見たのだけれど。
 話題に上った本人はその後も順調に姿を現さず、また、彼の部屋の扉も内側から開かれる事は無かった。そして既に、日も暮れかかった夕刻過ぎである。
 朝食どころか昼食にも出てこなかった。気にしていなかったからユーリは知らなかったが、よくよくアッシュから聞けば、彼は昨日の夕食にも顔を出さなかったらしい。買い物から帰ってきたのが昨日の昼を回った頃だったようだから、そこから逆算しても、既に丸一日が経過している。
 さすがに一日食べなかったからと言って乾涸らびるような真似は起こらないだろうが、此処に至って少々不安になってくる。アッシュの縋るような目線も背中に突き刺さる。
 ユーリは盛大に溜息を吐き、広げていた芸術雑誌を膝の上で閉じた。靴を履き直し、リビングのソファから立ち上がってくつろぎの時間を自ら終了させる。だが億劫なのに違いなく、あまり気乗りしないまま部屋を出た。
 見送るだけのアッシュを恨めしく思いつつ、広い玄関ホールの端で一度足を止めて天井を仰ぎ見た。遙か頭上に輝くシャンデリアは、西日を浴びて目映い輝きを放っていた。
 再び足を動かして、階段を上る。スマイルが使っている部屋まではそう遠くないが、ユーリ本人の部屋よりは若干距離があった。アッシュの部屋とは階段を挟んで反対側に当たり、ユーリの部屋の真上にも当たる。
 ひとつ余分に階を行き、手摺りに手をやって一呼吸置く。視界に収まる、閉めきられた扉に目を細め、やや憂鬱気味な気持ちを殺しつつ残る数歩を一気に詰めた。軽く拳を握り、その背で樫の木の一枚板で出来ている扉をノックする。
 一度。間を置いて更に二度。
 されど返事は無く。
 まさか室内に居ないのではなかろうか、と万が一以上にあり得そうな展開が脳裏に過ぎり、ユーリは顔を顰めさせた。
 スマイルの放浪癖は知れたもので、油断をして目を離すとすぐに居なくなって数日は連絡も無しに帰ってこない時が、今までにも度々あった。その都度厳しく言いつけて叱るわけだが、何を言っても右から左に流れていくばかりで、反省はしても改めるつもりはないようだ。
「スマイル!」
 中に向けて呼びかけてみても、返事がないまま。もう二度、さっきよりも強めにドアノックを続けてみたが、無反応は変わらない。
 少しの苛立ちがユーリの胸に漣を呼び込む。爪先で強く床を叩き、彼は一向に変化を見せないドアノブに、結んでいた掌を解いて差し向けた。握り、力任せに回して押す。
 扉は最初から施錠されていなかった。だから呆気なく、簡単すぎる程に抵抗らしい抵抗も見せずに開かれた。勢いばかりが空回りして、加えた分の力をそのまま受け止めたドアが向こう側に開くと同時に、引っ張られる格好でユーリもまた、身体を突っ張らせて上半身だけが室内になだれ込む珍妙な姿勢を強いられてしまった。踏ん張った分、床に揃えていた爪先がその場から動けずにいて、もう少し勢いが余っていたらそのままドアに引き倒されていただろう。
 慣性の法則で戻ってきた扉により、ドアノブを掴んだまま突っ張らせた腕もなんとか胸元にまで引き寄せられて、漸く震える膝に預けっぱなしの体重を均等に配分させられるようになる。安堵の息を漏らし、一瞬の出来事に噴き出た汗を拭ったところで、ユーリは室内に漂うひとつの気配に気付いた。
 部屋の、ほぼ中央。それぞれの壁際に配置されるベッドと机の、その中間。
 ジーンズの裾をまくり上げ、素足を投げ出し床に直接腰を下ろしている、その姿。
 窓さえも閉め切って久しいらしく、換気の成されていない室温は廊下よりも幾ばくか高いようで、湿度もありムッとしている。咳き込むまでは行かなくても、居心地が宜しいとは到底言えそうにない状況に加えて、昼間でも薄暗い照明は案の定、部屋の灯りにスイッチを入れていないが為に発生しているようで、ユーリは口許をへの字に曲げた。
 入って直ぐの壁を探る。指先に固い感触を覚えた刹那、丁度スマイルが座っている場所のほぼ真上に据えられたライトが数回明滅を繰り返した。パッと、明るい光を放ち数秒後それは落ち着いた。
 此処まで来ても、肝心のスマイルは俯いたまま自分の左右に大きく広げた足の間そのやや前方に視線を向け、時折考え込んでいるのか顎に丸めた指先をやってなにやら唸っている。
「スマイル」
 わざと無視しているのかとさえ思えてきて、腹立たしさを隠さないユーリは荒々しく床を踏み鳴らした。大股気味に、彼が座す場所へ向かって歩き出す。扉は開け放ったまま、辛うじてそこから流れ込む空気により若干であるものの、部屋の空気も清められつつあった。
 固く握られた拳が微かに震えている。スマイルはそれでも顔を上げず、己の股間に広げたものに意識を散らしながら背を丸め、腕を伸ばした。
 彼の指先に拾われたもの、小さなピース。
 ユーリも近付くにつれ、はっきりと視界に収まるようになった物体に気がついた。
 床に無数に転がっているゴミみたいなものたち。そのいずれもが似たような、けれどひとつひとつが異なる形状をし、また違った絵柄を描き出しているものである事に。
 四角形のそれぞれの辺に突起、或いは窪みを持った厚紙から切り抜かれた物質。スマイルの前方に、見えやすいようにとゴミ箱を支えに斜めに立てかけられた箱の蓋。薄い水色を敷き詰めたシート状のものに散らばる、箱に描かれた絵柄の部分部分たち。
「パズル……?」
 熱中している彼の真後ろに立ち、見下ろしてユーリは呟いた。
 それは完成にまではまだ遠そうな、巨大なジグソーパズルだった。両幅がそれぞれに1メートルは楽に超えるサイズで、縁部分は辛うじて繋がっていて四角形は出来上がっているものの、内側は小島が幾つか出来上がっているだけ。同じような絵柄が連続している為、苦戦は免れないだろう。
 完成図である箱の蓋を再度見て、ユーリは苦笑した。なにも、こんな作りづらそうな絵柄を選ばなくても良いだろうに、と。
 そして熱中しすぎて食事も、恐らくは睡眠も削らなくても良いはずなのに、と。
「スマイル」
 いい加減気付いて貰いたくて、ユーリは呼びながら彼の肩を叩いた。途端、ビクッと大袈裟に反応し、全身を震わせてスマイルは飛び上がらんばかりに驚き振り返ってきた。
「わっ!?」
 呼びかけたユーリの方こそ驚いてしまう程の反応に、彼がどれだけ集中していていたのかが窺い知れて、怒るに怒れなくなってしまう。だけれど余計な心配を自分たちにさせた分は反省してもらわねばならないので、ユーリはひとまず、彼の肩に置いていた手でスマイルの頬を思い切り、抓っておいた。
「いっ……だだだだ!」
 ばしばしとスマイルの手が床を何度も叩く。しかし彼も、ユーリが何故わざわざ自室に出向いて来たのかを瞬時に悟っているらしく、抵抗もそれくらいで右目に涙を浮かべつつユーリの手業に必死で耐えた。
 パズルのピースがいくつか、振動に煽られて浮き上がったり沈んだり、摩擦で場所を横にずらしたりと忙しく動き回る。もとより不安定な置き方をされていた箱の蓋が、バランスを崩し、音を立てて倒れた。
 それで我に返ったユーリが、赤くなっているスマイルの頬から慌てて手を離したのだが、強く抓りすぎたのか彼の肌には包帯の隙間に、ユーリの爪痕が薄く残ってしまった。痛そうに、スマイルが腫れ気味の箇所に手をやって大事そうに撫でる。
「痛むか」
「痛くなかったら嘘デショウ」
 表面を何度か撫で、それ以上は無意味とスマイルは身体を反転させてユーリの側に向き、胡座をかいた。尤もすぐに片膝を立て、崩してしまったが。
 ユーリもまた、腰を落として完全に座らずとも視線の位置を低くしてスマイルと並べ、膝に肘を置き頬杖をつく。視線は自然、床に散らばる無数のピースに流れていく。
「幾つだ?」
「5014」
「随分と半端だな」
「売ってる奴で、一番大きかったからネ」
 パズルの総ピース数にはさして興味が無かったのだと、両手を広げたスマイルは肩を震わせて笑った。ただとにかく、大きいものが欲しかっただけなのだと。
 図柄にも特に拘りはなかったらしい。店に飾られていた数少ない大型作品で、一番マシに見えたものを選んだだけなのだと。飾る為の額も一緒に購入したようで、成る程、それで大荷物か。
 昨日の、巨大な袋を引きずって帰ってきたというアッシュの弁を思い出し、納得してユーリは頷いた。
「だが、何故今更ジグソーなど」
「ナントナク」
 案の定の解答に、脱力する気も起こらずユーリはそうか、と小さく返すに留めた。腰を捻ったスマイルが、遠くに飛んでしまっていた一片を拾いまだ組まれていないピースの山へと放り投げた。
 紙片の行方を見届け、ユーリは足を崩し今度こそ完全に床に身体を落ち着けさせ、顎をしゃくった。未完成のパネルを示し、
「それで、丸一日使って、あれが限度か」
 枠組みだけがなんとか出来上がっているものの、穴あきだらけなのには違いない。
「ユーリは、一晩でコレ、完成させられる?」
「無理だな」
 矛先を変えたスマイルの質問に即答し、ユーリはむしろ胸を反らしてふんぞり返ってみせた。スマイルが苦笑し、でショ? と髪を掻き上げながら言う。
 ふたり、暫く顔を見合わせあって、それから声を立てて笑った。
「食事時くらい手を休めて下りてこい。眠っても居ないのか?」
「あー……ゴメン。ていうか、今何時?」
 言われて空腹な自分を思い出したらしいスマイルが、腹に手をやって視線を上げた。壁際の棚に置いた時計が指し示す時間に、指を折ってなにやら数え始める。それから、不意に持ち上げた隻眼でユーリを見つめて、
「ところで、ひとつ質問」
 肩の高さまで手を挙げ、小学生が教示を求めるかのような態度で以て、問うてきた。
「さっき、丸一日って言ったよネ」
 それに引きずられスマイルは自分も、一晩、という単語も用いたのだけれど。
 会話の流れを思い出し、現在時刻を加味して計算して、結論。
「あの……今日、何日?」
「阿呆」
 腕組みをしたユーリに渋面で言われ、スマイルは乾いた笑いを口許に浮かべた。どうやら時間の感覚が麻痺する程にパズルに熱中していたらしく、その莫迦さ加減にユーリも呆れるほか無い。
 自覚していなかったのだからなお悪くて、こめかみを押さえたユーリは奥歯を噛みしめると、膝を打った。
「熱中するのも良いが、もしここで私が来なかったら、お前はどうなっていた?」
 そのうち倒れていたかのしれない。アッシュが気付き、ユーリは確かめに来て今回は事なきを得たが、次回もそうなるとは限らない。外音や時間の経過にも気付かないほどなにかに集中する事は時に必要だが、極端すぎるのは困る。
 スマイルはその極端さに、自分で気付いていない。
 ユーリは言いながら、自分の傍に転がっていたピースに指を置いた。加工された紙の表面が肌に密着し、手を引いてもそれは暫くくっついて来た。
 ぽとりと落ちるそのピースを今度は抓んで、もう赤みの引いた顔をしているスマイルを見る。
「大体、何故ジグソーパズルなのだ?」
「…………」
 今度は何となく、などといった誤魔化しめいた返答は寄せられなかった。代わりに少しの沈黙があり、スマイルは座ったまま身体を反転させてパズルの台座に向きを直した。
「暇潰し」
「暇を持て余すような時間が、貴様にはあるのか?」
 レコーディングも終わって夏のツアーにもまだ間がある。しかし各自、間断なく仕事の予定は組まれていて、徹夜でパズルに取り組むような時間的余裕は無いはずだ。毎日しっかりと休息を取り、ツアーを乗り切る為の体力も備えておかなければいけない大事な期間でもあり、スマイルがやっているのは自殺行為にも等しい。
 厳しい物言いを崩さないユーリの声を背中で受け、スマイルは深く息を吐いた。急ごしらえの言い訳が通じる相手ではないと、知っている筈なのに。
 彷徨う指先が、薄い茶色の線が走るピースを拾い、枠内のある箇所に押し当てられる。音もなくそれは、パネルの一部に組み込まれて他と混じり合い、分からなくなってしまった。
「個」から、「全」へ。
 一瞬にして存在の在り方を変えたピースに、言い得ないなにかを感じ取ってユーリはつい、視線を外して遠くを見た。
 意図された動きであったとは思えないが、深読みしてしまう自分になんとなく嫌気を覚え、ユーリは舌打ちする。
「なんて言うのかな、集中する道具が欲しかったってのもあるし……」
 続いて別のピースを拾い上げ、それが収まるだろう場所を探すスマイルが呟く。それが先程、一旦は途切れた会話の続きなのだと数秒遅れで気付いたユーリが顔を上げた先で、拾われたピースはまた、完成への小さな一歩としてパネルに押し込まれていく。
「やる?」
 ことばを返せないでいる彼に、スマイルははにかんだ笑いを浮かべて其処らにあったピースを幾つか拾い、ユーリへと差し出した。バラバラと彼の膝元に、数枚の紙片が上下逆になったものも含めて小さな山を作り出す。
 顎を引いておかれたパズル片を視界に納め、それからスマイルを見返した時にはもう彼はユーリに背を向けていて、再度奥歯を噛んだユーリは反射的に、置かれた紙片を彼に投げつけてやりたい気持ちに晒された。だが罪もないものに当たる自分を想像すると憚られて、指先で山の頂点を弾き飛ばすに留める。
 飛んでいったパズル片はスマイルの手元まで転がっていって、次に抓むものを求めていた彼の指先に引っかかった。
「あ……」
 そのまま拾われ、行く先を求め宙を迷うパズル片。だがユーリが固唾を呑んで見守る中、それは特に宛われるべき場所が無かったようで、すぐにまた床に戻されてしまった。同時にユーリの肩も落ちる。
 膝を立てて床を這うように前に進み出、スマイルとは別の方向からパズルに向き直ったユーリは、つい今し方スマイルが戻したピースを抓みあげた。細かい絵柄にじっと見入り、横倒しになったままの箱を引き寄せてそれと比較させる。
「ユーリ?」
「此処……この辺り」
 大まかに予想を立て、まだ何も出来上がっていない空間にピースを置く。神妙な顔をしての行動に、手を休めて見守っていたスマイルがぷっと噴き出した。
 音を聞いて顰めっ面を作ったユーリになおのこと笑って、スマイルは小さく肩を竦めると同時に腰を浮かせ、腕を伸ばし倒れていた箱をまたゴミ箱の縁に引っかけた。手を離してバランスの具合を確かめ、パネルの隙間に手を置いて慎重に身体を戻す。
「食事は」
 今頃アッシュは、どうなっただろうかと知る術のない事の展開を危惧しているだろう。ここでユーリまでもがパズルに囚われたら、それこそミイラ取りがミイラになるを地でいく行為だ。
 だが、パズルの出来具合が全く気にならないのかと問われれば、その限りではなく。
「ん~……もうチョット」
 新たに拾い上げたピースを片手に眉目を顰めるスマイルが、心半ば此処に在らず状態で声を返す。さっきまでよりも遙かに見やすくなった完成図を睨み、親指の先よりもやや大きい程度でしかないピースが描く絵柄の落ち着け場所を模索している。
 ユーリもまた、両手を何もない場所に着けて彼の一挙手一投足を見守る体勢に入っている。
「一晩中……いや、一日中やっていて、飽きないのか」
 ふと、問いかけてみる。スマイルは視線を上げぬまま、
「飽きるよりも、意地になってるっていうか」
 出来上がりを早く見たい、という気持ちも働いている。こんな、完成図が予め用意されているものが簡単に仕上げられないのか、というプライドも動いている。
 けれど、それ以上にも増して。
「ひとつのものがバラバラになって、それがまたひとつに戻っていくっていうのがネ」
 見ていて、楽しい。
 自分がその作業をしているのだという自負が、心地よい。
 最初から用意されているものではあるけれど、それでも自分の力でひとつの世界を完成させるという、その道筋が嬉しい。
 ただの一時の、勝手な思い上がりであるとは分かっていても。
 組み立てられていく四角形の限られた世界に、自分が求める世界の完成を重ねて、夢を見てしまう。
 自分の中に常にある、なにか物足りない、探しているけれど見つからない、足りないピースが埋まるような、そんな錯覚を欲してしまっている。
 古い、ふたつの円を並べた世界地図。まだ今ほどにこの惑星の形状が熟知されていない頃に作られた、けれど当時としては画期的であったろう地図。
 今はもう、使われる事もなくただの観賞用としてだけ、そして世界がこんな形をしていたのだと思われていた時代があったのだと、連綿と続く時間の先に待つ人々に教える為だけに存在している、世界地図。
 或いは、彼の世界そのものか。
 ならばこのパズルを組み立てるという行為は、彼にとって、一度砕けてしまった世界を作り直すその所作に他ならないと。
「……まさか」
 深読みのし過ぎだと、唇に曲げた人差し指を押し当ててユーリは胸の中だけで笑った。だが自分が思い描いていた以上に笑いはぎこちなく、ユーリの心を凍てつかせる。
「ユーリ?」
「お前は、これが完成したらどうするのだ?」
 不自然だと感じたのだろう、顔を上げたスマイルの問いを遮る風に先手を取ってユーリは早口に訊いた。呆けたような表情をし、彼はピースを全部取り出して遠くに放り出されている箱本体を指さした。
 ユーリの位置からでは背伸びをしなければ見えないその中には、銀色の密閉された袋入りの糊が残されている。
「どうするって……固めて飾るヨ?」
 また崩して、作り直すという道もあるにはある。だがそれでは、同時購入した専用フレームの意味が無い。少し考えれば分かるだろうユーリの問いかけに、スマイルは首を傾げつつも律儀に答えた。
 だが、少しだけ間を置いてああ、とひとりでに相槌を打って。
「完成したら、だケドね」
 例えば、と掌にピースをひとつ載せて転がして、ユーリの前に示し、五本の指を折り曲げて握りしめた。紙片は彼の手に阻まれ、当然だが見えなくなる。彼はその状態で手首を二度三度上下に揺らし、包帯に絡まれた指を揃えて広げた。
 ユーリの前で、確かに其処にあったはずのピースが、彼の手の上から綺麗に消え去っていた。
 え、とユーリが目を瞬かせる。素直な驚きを隠そうとしない彼の反応ぶりに、スマイルはとても満足そうに笑って頷く。そしてまた手を、最初と同様に握り今度は手首の動きを逆にして数回揺らした。
 生唾を飲み込んで見守るユーリの前に再度開かれた掌には、あの無くなっていたピースが転がっていた。
「……小狡い手でも使ったか?」
「ナイショ」
 残っている手の人差し指を唇に押し当て、隻眼のくせにウィンクをしてみせたスマイルがカラカラと笑う。透明人間の彼ならば、小さなパズルの1ピースくらい消してみせるのも造作ないに違いない。
 騙されたという思いも何処かしら感じつつ、ユーリは緊張していた全身の筋肉から力を抜いた。深く息を吐き出し、どうにも難しく考えてしまいたがる自分の頭を軽く小突く。
 目の前に広げられた、未完成の世界地図。それを組み立てようとしている自分たち。
 スマイルの指がまたひとつ、ピースを的確に枠の中へ埋め込んでいく。輪郭を現し、着実に出来上がっていこうとしているそれ。
 すべてのピースが揃う時、この作業は終了する。世界は形を成し、それ以上の変化も見せずまた進化も衰退も無く、ただその場に留まり続け、沈滞する。
 またひとつ、彷徨いの末に安寧の地を見出したピースが全体の中に組み込まれ、個々の存在を主張しなくなった。
 それはそれで、決して間違いではない。むしろ必然であり、パズルが組みあがるのに必要な行為だ。だが見ていて、なんとなく哀しくなるのをユーリは否めない。
 スマイルの指先が着実にパズルを作り上げていく中で、彼が拾っていくピースのどれかが自分であり、彼の中ではいずれ自分も、彼の世界を構成するだけのただの一片でしかあり得ないようになるのではと、そんな風に考えてしまう。
 だから。
 だったら。
『完成したら、だケドね』
 そう言って戯けてみせたスマイルを思い出す。
 もし、パズルが完成しなかったら?
 彼の世界も、完成しない?
 莫迦な事を、と自分でも思う。けれどまとまらない思考に、心が追いつかない。
 ユーリはくしゃりと自分の髪を掻きむしった。指の間から逃げていく銀糸に、苛立ちを隠せないまま臍を噛んだ。
「もうチョットしたら、下りるよ」
 そんなユーリを、スマイルはいつまでも作業を止めない自分に腹を立てているのだと勘違いしたようだ。淡々とした口調で、けれど手は休めずに動かし続け、短く告げる。違う、と言いそうになったユーリはけれど浅く唇を噛んだだけに留まり、再度掻きむしった髪に鈍い痛みを頭皮に覚えて顔を顰めさせた。
 見れば指の間に数本、色素の薄い髪の毛が絡まっている。
「あ~、抜けちゃったんだ」
 誰の所為だ、と怒鳴りたくなるのを必死で押さえ込み、ユーリの手を覗き込むスマイルを見下ろす。無防備に晒された項に、そっと片手を添えてみた。
「?」
 不穏な空気を感じ取ったスマイルが反応を起こす前に、ユーリの指先が素早く彼の毛先を絡め取り、力任せに引っ張った。
「っ!」
 ぶちっ、とユーリが自分の髪を引き抜いた時とは比べものにならない音を立て、スマイルの頭皮から二、三本どころではない髪がユーリの手元に残された。はらはらと舞い散るその様は、哀れという以外の表現も思いつかない。
 スマイルも、激しい痛みを訴える後頭部を両手で抱え込み、頭を膝の間に落として懸命に堪えているのが見ているだけでも充分に伝わってきた。小刻みに震える身体が、痛みの度合いを物語っていていい気味だ、とユーリは少しだけ胸がスッとする。
 スマイルにとっては、理由も分からない衝撃だっただろうが。
「ユーリ!」
「五月蠅い。さっさと終わらせろ」
 据わった紅玉の眼に睨まれ、果敢に抵抗を示そうとしたスマイルの怒声も直ぐにしぼんだ。有無を言わせぬ気迫を感じ取り、スマイルはすごすごと握っていたピースをパネルに落とした。バラバラと、揃わない形が重なり合って無秩序に並べられる。
 未だ完成には遠い地図。
 けれどいずれ、すべてのパーツを揃えてひとつとなる地図。
 進むことも戻ることもない、それ以下でもそれ以上にもない世界地図。
 彼の、世界。
 のろのろとスマイルが立ち上がった。まだ痛むのか、頻りに首の付け根を気にして何度も手でさすっている。やりすぎただろうかと、足下でもはっきりと分かる数本の濃紺色をした糸をぼんやりと眺め、ユーリは彼の背中を見送った。
 開け放ったままの扉で一度立ち止まり、振り返る。
「ユーリ?」
「今行く」
 呼びに来たユーリが、スマイルが出て行くのに部屋に残るのもおかしなもの。促されて頷いた彼は、汚れてもいないスラックスをはたく仕草をして両膝に力を込めた。片手を床に置き、バランスを取りつつ立ち上がる。
 支えにした右手と床の僅かな隙間に、一枚のピースが潜り込んでいるのを承知で。
 ユーリが立ったのを確認し、スマイルは壁のスイッチを押して電気を消した。俄に暗がりに変わった室内でユーリはほんの一瞬たじろぎ、慌てて彼を追いかけて部屋を出た。
 握りしめた右手に、世界の中心を捕まえたまま。
 後日、やはり数食分の食事を忘れるという失態を犯したスマイルであったけれど、どうにか完成まであと僅かというところまで地図を完成させた。
 けれど肝心の部分が足りないとアッシュ相手に愚痴を零すのをユーリは聞き逃さない。ぴくりと微かな反応を示したユーリに、目聡く気付いたスマイルはふぅ、と諦めに似た吐息をついた。
 本当のところ、パズルには万が一ピースを紛失した時にはその部分だけ送って貰えるよう、製造元への連絡先を示した葉書が同封されていたのだけれど。
「使えないよネぇ……」
 完成まであと一歩、という枠に収まったパズルを前に、スマイルは葉書をひらひらと揺らした。
 狙ったとは思えないのだけれど、足りないのはちょうどパズルの真ん中で。
 やれやれ、と肩を竦めて、それから声を立てて笑う。両手を投げ出して、背中を丸めて床に寝転がった。
 終わらないパズル、完成しない世界地図。
 最後のピースを持っているのは、誰?
「当分、ぼくの世界も完結してくれそうにない、か」
 それも楽しそうで良いけれど。
 呟いて、両足も投げ出して床に転がる。右目を閉じて、包帯に覆われる左目に浮かぶのはあの銀の髪。
「参ったネ」
 当分どころの話ではないかもしれない。もしかしたら永遠に、自分は最後の1ピースを囚われたままなのかもしれないと、不意にそう思った。
 けれどそれは、同時に。
 詰まるところ、裏返せば自分もまた、ユーリの1ピースを捕まえたまま、という事。
 くっ、と喉の奥を鳴らしてスマイルは笑った。
 どうやらお互い、完全な地図の完成は想像出来ない程に遠い未来のようだ。
「参ったネェ……」
 床に転がったまま頭を掻く。髪を引っこ抜かれた場所はもう痛まなかったが、名残を感じて撫でてみる。
 掌にも載るような世界の一片。欠けた世界。
 ならば探してみるのも、悪くない。
「覚悟、しといてヨ?」
 瞼を開く。照明の明るさに眼を細め、スマイルは微笑んだ。
 起きあがり、巨大なパズルの全景を視界に納め、パネルの地色がそのままでている箇所を指先でなぞってみる。
 しっかりと糊付けされ固められた図柄。古い世界地図。未完成のパズル、行方知れずの1ピース。
 この世界、そのもの。
 壁に掲げ、見上げるたびに思い出すのだろう。そして、夢を見る。
 いつか、この地図を完成させる日が来ることを。
 いつまでも、この地図が完成しないであろう事を……

Somehow

 かたかたと、薄っぺらなキーボードを叩く指先がふとした瞬間に停止する。
「ん~……」
 眉間に皺寄せ一瞬考え込んでから、宙で制止させていた指先をまた規則正しく動かして四角形の液晶モニタに文字を打ち込んでいく。
 時々消しては、また書き連ね。殆どバックスペースキーを使わずに打ち込んでいく様は手慣れていて、どこかぼんやりとした視線を彷徨わせている先は手元でも、またモニタでも無かった。
 ただ、遠くを。
 或いは、近すぎる記憶の反芻を、か。
 止まってはまた動く一連の所作を連綿と滞ることなく続けていくうちに、いつしか斜め前方の窓は白みだし、僅かな光を床に投げ放つような時間帯になっていた。緩慢な仕草で頭上を仰ぎ、棚の上にある置き時計を眺めればもう、夜明けも過ぎた頃。
「どうりで……」
 眠いわけだ、と小さく欠伸を噛み殺して目尻を擦る。思えば一睡もしていない夜が知らない間に開けてしまっていて、何故だか時間を無駄にしてしまった気分に陥りそうになった。
 だが御陰で、なんとか間に合いそうだ。
「保存、と」
 キー操作だけでファイルの保存を選択し、画面を消して電源を落とす。ぱたんをモニタの上辺に指をかけて前に倒せば、ノートサイズのパソコンが机にこぢんまりと身体を丸めた。コンセントに差していたケーブルも引き抜いて軽く丸め、傍に置いて椅子を引く。
 立ち上がるついでに、両腕を頭上にやって大きく伸びを。
 同じ姿勢で長時間座っていたものだから、身体の節々が凝り固まって痛みを発している。そのひとつひとつを揉みほぐしてやる余裕はなくて、大雑把に身体を前後左右に揺すって骨を鳴らし、もう一度、今度は大きな欠伸をしてこの場から踵を返した。
 意識すると眠気が襲ってくるから、なるべく考えないようにしつつ部屋を出て、廊下に足を踏み出す。夜明けを迎えているとはいえ、活動している人間はまだごく僅かな時間である。もとより人の殆ど居ない城内は静まり返っていて、冷たい空気が充ち満ちていた。
「雨、止んだんだ」
 そういえば、と窓から差し込んでいた仄かな光を思い起こして呟く。梅雨に入り、連日続いていた雨空が一旦休暇を申請したようで、まだ確かめたわけではないが空は久方ぶりの晴れ間が覗いているに違いない。
 想像して、大した事でもないのに気分が明るくなる。
 だが浮かれ気分と睡眠不足のまま階段を下りようとしたところで、世界は一変した。
 ふかふかと柔らかな絨毯が敷かれている階段のセンターラインで、どことなく頼りなげだった足が滑らかな起毛の表面に浚われる。浮き上がった爪先はそのまま踏ん張り続ける事さえ出来ず、跳ね上がり、自然傾いた視線が高すぎる天井のシャンデリアを捉えた。
 直後。
 衝撃。
 見えていたシャンデリアが一瞬にして、数メートル以上遠ざかった。
 強かに打ち付けた背中と後頭部に息が詰まり、悲鳴さえ上げられない。階段の出っ張りに何度もぶつけた腰がぎしぎしと不協和音を奏で、目の前に無数の星くずが両手を取り合い輪になって踊っている。
 ひくひくと痙攣した爪先がぱたりと床に落ち、さながら階段最下段で寝そべっているかのような体勢で暫く、動けなかった。
「いたひ……」
 辛うじてそう呟くのだけが精一杯。目の前を飛び交う星々を追い払う気力さえ乏しく、いっそ、このまま此処で眠ってしまおうかという投げやりな思考さえ浮かんだが、直後に弾けて消えた。
「何やってるっスか」
 正面玄関が開く重く物々しい音が微かに響いて、僅かしか出来上がらない隙間に身体を斜めに滑り込ませたアッシュが、呆れた声を出したからだ。
 新聞を取りに行ったその帰り、城内に戻った途端目にしたものが階段で寝そべるスマイルの姿だったのだから、驚かない方が可笑しい。もし気付かずに階段を登りでもしていたら、顔面を踏み潰しかねない位置にいただけに、何をしているのかと怪訝に思ってしまう。
 だが呼びかけにまともな返事もせず、ひらりひらりと辛うじて持ち上げられた肘から先を力無く振るばかりの彼に、まさか、という想像も芽生えて来る。
 そんな筈は無かろうと思うのだが、念の為近付いて、顔を真上から覗き込んだ。
「落ちた……っスか」
「起こして」
 返事の代わりに、両手を前にならえ状態で突き出されてしまった。
 アッシュは苦笑し、取ってきたばかりの数紙分ある新聞を脇に挟んで持ち替えた。落とさぬよう注意しながら、自分に向けられたスマイルの手を取る。
 そのまま自分の側へ勢いをつけて引っ張った。
「っと」
 軽く膝を曲げて腹筋に力を入れ、スマイルのアッシュの手を支えに立ち上がる。よろめき掛かった身体は、崩れる前に目の前に立つ狼男の胸板に頭を突っ込む事で回避する。突っ込まれた側は、咄嗟に受け止めようとして挟み持っていた新聞をその場に落としてばらまいてしまったけれど。
「何やってんのサ」
 素早くアッシュから身を翻したスマイルが、床の上に散った新聞の束を見下ろして肩を竦めた。自分は棚に上げる変わり身の早さに苦虫を噛み潰したような顔を作ったアッシュは、手早くそれらをひとまとめに掬い上げた。だが薄い紙は衝撃で隙間が出来上がっていて、乱雑に束ねられると最初畳まれていた位置とは違う場所に折り目が出来上がり、嵩張る。
 この新聞を読むのはもっぱらスマイルだから、傍らで眺めるばかりの彼の表情も渋いものに変化する。誰の所為でそうなったのか、小言のひとつも言いたい気分でアッシュは溜息を盛大に吐き出した。
 揃え直した新聞を手に、階段に背を向ける。即ちスマイルにも背中を向けて、彼は作業途中で一旦足を遠ざけていた台所に向かい歩き出した。
 けれど、早足気味に進む彼の後ろを、ひょこひょこと階段落下の際に打ち付けたらしい右の臑を庇いながら、スマイルも一緒に進んでいて。追いかけてきているはずはないと知りつつ、奇妙な感覚でアッシュは台所へのドアを潜った。
 後ろで歩きづらそうにしているスマイルの為に、ドアは閉めずにノブから手を離す。持ってきた新聞は、入って直ぐの作業台を兼ねるテーブルに投げ出した。
 三社分の新聞が段々になってテーブルを滑って止まる。アッシュは着地の確認もせず、コンロの預けっぱなしだったケトルの火を止めた。カチリ、と若干固い音が静かに響く。
 遅れてキッチンに顔を出したスマイルは、いそいそとテーブルに近付いてスチール製の脚が長い椅子に腰を下ろす。至極当たり前の所作で、放り出された新聞を引き寄せて一紙を広げた。
「アッシュクン、珈琲頂戴」
「足は平気なんっスか」
「思いっきり濃い奴がイイ」
 まるでかみ合わない会話のキャッチボールに、嘆息してアッシュは壁の棚からスマイル専用のコーヒーカップを出してきた。サーバーにドリッパーを被せ、今沸かしたばかりの湯を通し、カップも一緒に温める。
 最初の頃こそは不手際が目立ったアッシュだったけれど、もっぱら珈琲派のスマイルの影響を受け、今やすっかり煎れる手際も上達してしまっていた。
「足は」
「もう平気」
 打った時はそれなりに痛かったけれど、と椅子に腰掛けたまま地に着かない爪先をぶらぶらと揺らしてスマイルが答える。但し視線は、新聞紙面を辿るばかりで、アッシュに投げつけられる事はなかったが。
「寝不足っスか」
「気がついたら朝だった」
「……それを徹夜って言うんスよ」
 暖めるだけだった湯をサーバーから捨て、新たにケトルで湯を沸騰させる間にフィルターの準備をする。呆れた口調で返したアッシュに、久方ぶりにスマイルは顔を上げ、口をへの字に曲げた。
 そのくせ、隻眼がまだ眠そうにしているから表情にギャップがあって変と言えば、変。
「それで、夜通し掛かって完成したっスか?」
「御陰様で」
 思い出すと眠気が戻ってくるらしい。欠伸を零したスマイルが嫌みを口に出したが、軽く笑い飛ばしてアッシュは笛吹きケトルの警笛に身体を反転させる。スマイルは再び、新聞に細めた目を落とした。
「後々回しにするから、こういう事になるんっス」
「君に言われると、ぼくも終わりだネ」
「…………」
 普段、楽曲の締め切りにてんてこ舞いになっているのはアッシュの方。だが今回は珍しくスマイルが一番提出が遅くて、本日の締め切りを前に貫徹を強いられた。本人にしてみれば、徹夜をする予定は毛頭無かったのだけれど、気付けば太陽が昇る時間になっていた、という言い訳なのだが。
 若干優れない顔色に、背後を伺ったアッシュがやれやれと溜息を吐いた。
 コーヒー豆の封を開け、フィルターに必要量を落とし先程暖めておいたドリッパーに少しずつ湯を注いでいく。さほど待つ必要もなく、香しい珈琲の匂いがキッチンに広がり始める。
 つられたかのように顔を上げたスマイルと視線が合って、笑いかけるとふいっと顔を逸らされてしまった。だからついつい、苦笑い。
「でも、完成したみたいで良かったっスね」
 こうして下に下りてきて、毎朝の日課である新聞と珈琲に手を出そうとしているのだから、なかなか達者。だが空きっ腹に珈琲は、健康に悪い。
 アッシュはサーバーに濾過された珈琲が溜まっていくのを待つ間、すっかり休めていた朝食の準備に戻る事にした。だがその手間の片隅で、片手鍋に注いだミルクを温め始める。
 スマイルは最初の新聞を読み終え、二紙目の第一面に意識を集中させているところだった。書かれている内容は大差ないはずなのに、新聞個々の特徴や方向性に寄って若干、論調の展開方法が違っているのだという。アッシュにはその辺の細かい面は気にした事もなく、具体的にどこがどう違っているのか、説明をされても理解できない。
 乾いた紙を捲る音が断続的に聞こえてくる。他にはコンロの上で踊る鍋の中身が煮える音や、サーバーに滴る滴が跳ねる音。アッシュが包丁で食材を刻んだりする音が、互いに混じり合ってキッチンというテーマで音楽を構築している。
 決して耳障りではなく、朝のヒトコマを切り取ったかのようなメロディーだ。
「眠……」
 ぼそりと零す。細かい文字を追うのにも、目が疲れている為掠れてしまって読みづらい。眼鏡を持ってくるべきだったと今更後悔しても遅いのだが、噛み殺した欠伸のついでに奥歯を軋ませて、新聞を捲る。
 やや変則的な配置で並ぶ記事のひとつひとつを目で追い、内容を頭に放り込めるだけ押し込んで、反芻と咀嚼はまた今度。切り抜きで保存しておこうと思うような記事はなかなか見当たらず、毎日の習慣で読み連ねているばかりの新聞に、退屈を覚えようとしていた頃。
 白い湯気が渦巻くコーヒーカップが、テーブルの縁近くにまで押し出された。
 陶器の底辺とテーブルの表面が擦れ合う音に、新聞から顔を出す。またしてもぶつかり合った視線を、今度は躱さずにスマイルはそのまま下へとずらしていった。
 お気に入りのカップに注がれた液体は、しかし期待していた濃い珈琲とは色からして異なっていた。
 薄い茶色。少しだけ細かい泡が浮かんでいて、カップの内側の縁に貼り付いている。
「……なんで」
 俄に不満を露わにしたスマイルだったが、しれっとした顔でアッシュは人差し指を天に向けて立てた。知った顔で、目を細める。
「徹夜明けに、珈琲は胃に良くないっス」
 しかも空腹の中に珈琲だけというものは、胃の具合を悪化させる事はあっても、良くなる可能性はまず無いだろう。立てた人差し指を揺らしながら説教を垂らすアッシュを恨めしげに見上げ、スマイルは暖かな湯気を放つカップの外側を新聞紙の端で小突いた。
 へにょりと曲がった新聞に、唇が歪む。
「ヤダ、煎れ直して」
「駄目っス」
 即答で、満面の笑顔で拒否された。益々スマイルの顔は渋さを増して、頭の上にはいくつもの黒い煙が燻り始める。
 だが、喉が渇いているのも事実。空腹に濃いめの珈琲は、胸焼けを起こす原因になるのも勿論知っている。自分に分がないのも分かり切っているので、強気で出られないのが辛い。
 ちぇ、と舌打ちする。
「甘くない?」
「砂糖は入れてないっス」
「…………」
 カフェオレは、滅多に飲まない。どうにも甘いイメージがあるから。
 結局抵抗しきれず、スマイルは爪先をぶらぶら頼りなげに揺らして手を伸ばした。新聞を広げたままテーブルに置き、カップを引き寄せる。両手で抱き持って、まだかなり熱いうす茶色の液体に息を吹きかけて少しだけ冷まして、唇を寄せる。
 行儀悪く、音を立てて啜って、飲む。
 ほっこりとした、安堵を覚える温かさが食道を滑って胃に落ち着き、そこから全身の隅々にまで広がっていくのが分かる。若干残っていた節々の痛みも、一瞬で癒えて消え失せた。
 吐き出した息までもが暖められていて、振り子になっていた足が自然と止まった。
「どうっス?」
 忙しなく動き回りながら、それでも後ろに気をやりつつ問いかけたアッシュ。両手の平でカップをしっかりと包み込んで、スマイルはやや自嘲気味に笑った。
「ちょっと、アマイ」
 そう言いつつも、言い終えると同時に残っているカフェオレを一気に飲み干して。
 何気ないままに、窓の外を見る。
 昨日予想した通り、空は晴れている。梅雨の中休み、随分と懐かしさを覚える空の色に、欠伸が漏れた。
「イイ天気みたいダネ」
「でも、天気予報だと明日からまた雨らしいっス」
「え~~」
 アッシュに言っても仕方ないのだけれど、不満を隠しもせず頬を膨らませ、スマイルはテーブルに突っ伏した。新聞紙に両肘を置き、顎を預けてだらしなく凭れ掛かる。肩越しに振り返ったアッシュが、笑った。
「てるてる坊主でも作って吊しておくっスか?」
 顔半分を覆う包帯に新聞の印字が転写するのも構わず、左の頬をテーブルに押しつけている彼を茶化す。ふて腐れた呻きで声とも言えない声を発し、以後スマイルはすっかり黙り込んでしまった。
 邪魔される事も無くなり、アッシュは朝食の支度に意識を集中させる。
 窓の外を見上げれば、スマイルの言った通り良い天気。新聞を取りにポストのある外に出た時も、頭上は白みだした空が朝焼けで鮮やかに輝いていた。長く続いた雨で、大気中の塵も全部地上に洗い流されたのだろう。空気も凛としてすがすがしい朝だった。
 こんな天気が今日一日で終わってしまうのかと思うと、確かにスマイルの不満も分かる。心の中で勿体ないな、と呟いてアッシュは、フライパンのスクランブルエッグを菜箸で盛大にかき混ぜた。
 ごとり、と音がした。
 やや大きめの物音に、背を一瞬震わせたアッシュはフライパンを掴んだまま背後を仰いだ。見ると、作業台のテーブルに突っ伏していたスマイルの右腕が、椅子の脇に垂れていた。
 音の発生源は、左の手を枕に依然俯せになったまま。右手だけが前後に頼りなく揺れていて、身体を起こす気配は微塵もない。
「えと……スマイル?」
 コンロの火を消し、恐る恐る近付いて腰を屈め、距離を詰める。中身が空になったコーヒーカップが曲げた指の背に当たり、居場所を少しだけずらした。
 微かな音をも聞き逃さぬよう、聴覚を常に意識しながらスマイルの影になっている横顔をそっと窺う。
 整った寝息、が。
 流石の彼も、眠気には勝てなかったか。引き金は、アッシュが用意した暖かなカフェオレだったかもしれないけれど。
 疲れている時の特効薬は、他の何よりもまず、休むこと。
 自然と、アッシュの表情が緩み穏やかになる。気持ちよさそうに寝入っているスマイルに気を遣って、なるべく静かにカップだけを回収しシンクの水桶に浸けた。再度振り返り、完全に夢の中の住人となっているスマイルを見下ろす。
 体勢がさっきよりも若干角度を増していて、呼吸が苦しくないように気道を確保しつつ、横向いていた。
「こんなところで寝て……風邪引いても知らないっスよ」
 苦笑が漏れて、悪態をつきつつ呟く声もスマイルには届かない。込みあがってくる笑みを口許にやった手で隠し、それほど開いてもいない互いの距離を大股に進んで埋めた。
 部屋で休むよう注意しようと手を伸ばすが、気持ちよさそうに眠っている顔を間近で見てしまうと、起こすのも忍びない気持ちに駆られてしまう。だがテーブルに突っ伏したままでは、体勢も決して楽じゃないだろう。
 それでもはやり、折角身体が求める休息に辿り着いた彼の安眠を邪魔するのは心苦しくて、逡巡した挙げ句アッシュの手は辛うじて、スマイルの眠りを刺激せぬ程度の力でもってその髪に下ろされた。
 優しく、撫でる。寝癖こそ無かったが、いつもの元気良さが感じられない毛先の具合に、どれだけ彼が根を詰めて仕事に取り組んでいたかが知れる。だから尚更、起こしてやるのも申し訳なくて、困惑した表情を浮かべたアッシュはそのまま何度か、彼の髪を撫で続けた。
 悶々と考え込んで、視線は計らずとも窓の外へ。
「う~~~ん……」
 夢でも見ているのか、唇を曲げたスマイルから小さな声が漏れ出る。
 アッシュは声を立てずに表情だけで笑って、膝を軽く曲げた。撫で続けた髪に顔を寄せ、掬い上げた前髪から覗く額にそっと、触れるだけのキスを落とす。
「もう暫く、オヤスミナサイっス」
 耳元で低く囁いて、離れる。
 心なしかスマイルの表情も和らいだように感じられて、アッシュはそれだけで嬉しくなった。

雷火

 西の空の雲行きが怪しくなっていると気づいたのは、五時限目がもうそろそろ終わりそうな、憂鬱な午後。どうやっても頭に入ってこない英文法を、ただ促されるままノートに複写させられる退屈な時間に、ばれぬようあくびを噛み殺して何気なく窓の外を見やり、雲の流れ方が異様に速いのを目にした為だ。
「……?」
 家を出る前、ただ見るとも無しに電源だけが入っていたテレビの、星占い直前の天気予報では、今日は一日すっきりとした青空が広がると謳っていた。ピンクのスーツを着込んだ予報士のにこやかな笑顔が思い出される、今頃彼女は空の動きを見て何を思っているだろう。
 降るだろうか。降水確率も低く、傘など持って来ていない。恐らく他のチャンネルの予報を見ていた人も同じではないだろうか、今朝の登校風景で傘を持って歩いている人は皆無だった。
 とはいえ、専門の知識を持っているわけでもなく、本当に降るかどうかも分からない。ただ予感が、胸の奥底でざわめいている。
「じゃあここを……沢田、答えてみろ」
 どことなく落ち着かない雰囲気に足をもぞもぞとさせていると、余所見をしているのを目聡く見つけた教師が、教科書ごと腕を伸ばして綱吉を指名する。静まり返っていた教室内が一瞬ざわつき、ノートを取る手を休めた級友が一斉に綱吉に目線を向ける。
 咄嗟に自分が教師に当てられたのだと気づけなかった綱吉は、挙動不審に慌てて周囲を見回し、教師の刺さるような視線に気づいて大急ぎで立ち上がった。広げていた教科書の間に置かれていたシャープペンシルが衝撃で転がり落ちる。それが余計に綱吉を慌てさせて、教室の一部からはクスクスという笑い声が発生する。
 頬を赤く染めて、穴があれば入りたい気分に陥った綱吉は、指名された問題の回答など無論頭に浮かび上がるはずもなく、
「あ、あっ」
と上ずった声を零しながら腰を曲げ、床に落としてしまったシャープペンシルを拾おうとした。だが急いでいる時ほど見つからないもので、最初に落ちたはずの方向に素早く目を走らせたけれど、肝心のものが見当たらない。どこへ行ってしまったのだろう、と反対側に手を伸ばしかけたところで、不意に視線の端から目的のものが差し出された。
 何事かと瞳だけを動かし、シャーペンの根元を見る。先端をつまみ持つ指には見覚えがあって、顔を上げると椅子に座ったまま屈んでいる獄寺と目が合った。
「It is important for me to study」
「へ?」
 早口で耳慣れない言語を告げられ、きょとんと目を丸くした綱吉に、獄寺は素早くもう一度同じ言葉を繰り返した。シャープペンシルも同時に綱吉に突きつけられ、反射的に受け取ってから漸く、彼が綱吉に、教師の問いかけに対する答えを教えてくれているのだと知る。
 急ぎ机に向き直って、広げていたページのもうひとつ次のページに、今獄寺が発音したのとほぼ同文が掲載されているのを見つける。違うところは、文中に括弧が設けられており、その部分を埋めなさいという指示がついているところだった。
「ええと、ふぉ、ふぉー……?」
 首を傾げつつ、これで正解なのか不安を覚えながら、酷くたどたどしい発音で答える。英語教師は眉間に皺を寄せ、神経質そうな動きで眼鏡を押し上げると、ただ一言「宜しい」とだけ告げた。ホッと胸を撫で下ろし、綱吉は脱力して椅子に崩れるように座った。
 彼を振り返っていた生徒も、英語教師が咳払いしたところで姿勢を戻し、新たに板書される黒板の文字をノートに写し取る作業に戻っていく。
 床に落ちた際に付着したらしい埃を取り払い、自身もシャープペンシルを握ろうとした綱吉だったが、何気なしに窓とは反対の教室側を振り返る。
 綱吉にはついていくだけでも必死な中学生のカリキュラムは既に終了しており、今更机に向かって勉強する必要性が全く無い生徒が、退屈そうに頬杖をついているのが見えた。少し長めの、色素の薄い髪の毛をセンター分けにして、今は煙草の変わりにシャープペンシルの尻をせめてもの慰めにと口に咥えている。視線は黒板ではない場所に向けられていて、しかしその方角には何も無い。
 明らかにやる気を感じさせない態度を、最初こそ先生陣も注意していたが、改善される余地がないと知れると誰も気に留めなくなっていった。成績がよければ多少問題行動が目立っても許容されてしまう。問題児でもないが成績もよろしくない綱吉にしてみれば、少し羨ましくも妬ましくもある。
 とはいえ、今は彼に助けられた。
 もう一度教師に指名されないよう注意深く獄寺に視線を送り続けていると、そう鈍くない彼は程なくして気づいた。宙を浮いていた視線が前方に戻り、それから綱吉に向けられる。目が合い、獄寺の口からシャープペンシルが落ちた。
 ありがとう、のつもりで顔の前で両手を立てて笑いながら小さく会釈する。獄寺は今度は自分が落としてしまったシャープペンシルの行方と、綱吉の視線とどちらを優先させるべきかで迷い、結局どっちつかずの間に綱吉は姿勢を前向きに戻してしまった。
 既に黒板の左端から右側まで埋められていたチョークの文字を、雑になりがちな字でノートに写し取っていく。英語教師がチョークを黒板に押し当てる音と、それにあわせる格好で居並ぶ生徒達の字を書く音が重なり、そればかりが静かな教室に流れ続ける。
 雲行きは依然怪しいままで、閉められた窓を叩く風の音も少しだけ強くなっている。何人か気づく生徒も出てきて、顔を上げては不安そうに眉根を寄せる姿がちらほらと見受けられた。
 雨が降らなければ良いのに、そう思っているうちに授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。一気に騒がしさが戻った教室に、更に英語教師のやや不機嫌な声が重なって、日直の号令の下起立礼が形式的に行われる。他の皆よりもワンテンポ遅れて綱吉も立ち上がって頭を下げ、椅子に座らずに机の上に散らばっていた教科書とノートをひとまとめに片付けた。
 何気なしに振り返る。丁度同じようにノートを閉じていた獄寺が気づき、再び目があった。逸らす理由も見当たらないので、僅かに目尻を下げて笑いかけ、作業に戻る。そのまま流れで窓の外へと目を向けると、さっきよりもずっと暗い色をした雲が空に立ち込めていた。
「降りそうだな」
 窓枠に手を添えて眺めていると、頭の上から声が降ってくる。人の気配を感じて上を向くと、綱吉より頭ひとつ分背の高い山本が、綱吉の背中から覆いかぶさるようにして立っていた。綱吉の視界には山本の顎から鼻筋に掛けてがよく見えた。彼は綱吉の手より二十センチほど離れた場所に大きな手を置いて、綱吉が見ていた方角を見つめている。西の空から広がってきていた雲は、もう少しで学校の真上まで到達しそうだ。
「降るかな」
 山本から視線を戻し、彼の身体にすっぽり隠されてしまった状態のまま綱吉が呟く。どうだろうな、という独白めいた呟きが聞こえた。
「山本は、傘持ってきてる?」
「いや。ツナは?」
「持ってない」
 窓に額がぶつかりそうな距離まで詰めて、空を上目遣いに見やる。こちらの心配を余所に、雲の流れは依然速度を落とすことなく町を覆い尽くそうとしている。
「てめっ、こら山本。十代目から離れろ」
 しかし雷は違う場所で真っ先に落ちたようで、飛んできた声に振り返ると分厚い山本の胸板に視界が塞がれてしまった。その山本もまた、綱吉から離れる事無く首から上だけを振り返らせている。仕方なく背中を丸めて姿勢を低くし、山本の腕の下から背後を覗き込むと、案の定そこには激高した獄寺の姿があった。
 人を指さしてはいけないと教わらなかったのだろうか、人差し指を山本へ突き立てて、さっさと離れろと怒鳴っている。
「おーっと、そういやもう次が始まるか。じゃあな、ツナ」
「うん」
 しかし山本はいつものように、獄寺の怒りの意味を正しく理解していないようで、暢気に壁際の時計を見上げるとさっさと身を翻して自席へと戻っていく。ひらひらと振られた手に、手を振って返し、綱吉はまだ眉間に深く皺を刻み込んでいる獄寺を見る。
 視線に気づいた彼は、居住まいを正して綱吉の前で畏まる。背後では六限目の始まりを知らせるチャイムが鳴り響き、間もなく教師が入って来るだろう。騒々しかった教室内も生徒が席に戻るにつれて静まりかえる。
「獄寺君」
「あ、はい」
「授業、始まるから」
 何か言いたそうで、けれど綱吉からの言葉をまず先に待っている獄寺に、綱吉は溜息を零しながら座るように促す。逐一綱吉に命じられなければ動けないような彼はあまり、好ましくない。
 言ってから自分も席に座り直し、まだ机の上に残ったままだった教科書を片付けて、数学の教科書を取り出す。ノートも交換し、シャープペンシルの芯を出しては引っ込め、引っ込めては押し出して教師が来るまでの短い時間を潰す。
 綱吉を十代目と言って、信を寄せて来る獄寺。綱吉と親しい山本に、何かと喧嘩を売っては受け流されて肩すかしを食らっている彼。綱吉の為ならば恐らく燃えさかる炎にだって飛び込みかねない、向こう見ずで直情的な、獄寺。
 いつだって傷だらけになりながら、笑って、死ぬかもしれない事にでさえ突っ込んでいってしまう、彼。
 嫌いではないのだけれど、綱吉は時々彼がとても恐ろしい。
 黒縁眼鏡の中年教師が入って来て、日直の号令が下される。淡々と始められた授業に意識を集中させた綱吉は、時折感じる斜め後ろからの視線を振り切るように、より一層授業に聞き入った。
 校舎よりもずっと高い空の上では、不穏な音が立ちこめ始めていた。

「あー、こりゃ降るな」
 長いようで短かった授業が終わり、ホームルームも終わって帰り支度をしていた綱吉に、素早く帰り支度を終えた山本が近付いて来て言った。彼の視線は窓の外に向けられており、短い一言ではあったが綱吉には充分意味が通じた。
 クラスメイトも一様に外を気にしている。今にも降り出しそうな鉛色の空は見るからに気を重くし、不安を加速させてくれる。
 何人かは置き傘があるようで、持ってて良かったと胸をなで下ろしているが、大半の生徒はそうではない。降り出す前に一刻でも速く家に帰ろうと、慌ただしく鞄に教科書類を詰め込んで教室を飛び出していく。
「山本は、部活?」
「ああ、外で出来るかどうか分かんねーけど」
 手で窓に触れる。五限目終了時よりも少し冷たさを増した気がするひんやりとした感触に、思わず身震いがした。
「顔は出さないとな」
 雨が降りそうなので部活を休みます、なんていう理由は通用しない。すっかり真面目に野球少年をやっている山本は、少し照れたように笑って目を細めた。綱吉も、彼が好きな野球に戻れたのを嬉しく思い、笑いながら頷き返す。
「ツナは?」
「一昨日の課題提出出来てなかった奴、終わったから、出してから帰るよ」
 立てた鞄から二つ折りのプリントを取り出し、山本の前で軽く揺らす。化学の授業で提出時間に間に合わなかった為、宿題にされてしまったプリントだ。綱吉の成績の悪さは教師陣でも有名だから、焦らせても仕方がないと心優しい先生は配慮してくれたらしい。
 居残りを命じられるよりはずっとマシだからと受諾したのだけれど、他の宿題も山積みであった為思ったよりも手間取ってしまった。明日にはまた化学の事業があるのだからその時に提出でも良いのだけれど、嫌なものはさっさと手放してしまいたい。既に終わっているものならば、尚更に。
「そっか。あの先生、いつもどこかほっつき歩いてるから、すぐに見付かるといいな」
「本当だよ」
 肩を竦め、綱吉は盛大に溜息をつく。化学教諭は変人でも知られており、職員室にあまり居着かない。化学準備室に入り浸ってなにやら怪しい研究をしているという噂もあり、出来ればお近づきになりたくない人でもある。しかも机の上は常に物が散乱しており、いつ雪崩が起こってもおかしくない。
 先生がいなければ机にプリントを置いて帰れば良さそうだが、あの先生の場合、本人に直接手渡さないと、他の大量の荷物に埋もれて行方不明になりかねない。折角苦労して提出したのに、先生側で無くされた上に提出出来ていないと判断されるのは非常に困る。
 山本の心配に心の底から同意して、綱吉はプリントを鞄に戻した。山本も手を振って教室を出て行く、彼を見送って流した視界に獄寺の不機嫌そうな顔が混じり込んだ。
 既に帰り支度を終えているらしく、退屈そうに椅子に座っている。綱吉と目が合うと、慌てて視線を逸らしたけれど、彼がずっと綱吉と山本の会話を気にしていたのは丸わかりだ。
「ツナ君、またね」
 綱吉のアイドルである京子が手を振って去っていく。思わず頬が弛んだ綱吉も手を振り替えし、鞄を取って立ち上がった。
 背後、窓の向こう側でごろごろと雲がうなり声を上げる。振り返った綱吉の視界には落雷の輝きは見えない。
「早く帰りましょう、十代目」
 痺れを切らした獄寺が綱吉までの距離を三歩で詰めて言った。
「ああ、うん」
 不穏な音を響かせている外に意識を半分奪われたまま、綱吉は生返事をする。獄寺が有無を言わせずに綱吉の手から鞄を奪い、自分の物もあわせて、当たり前に持つものだから、綱吉はそれ以上言わずに彼について歩き出した。
「いいよ、自分の分くらい持つ」
「いえ、十代目のお手は煩わせませんから」
 既に充分気を煩わされているのだけれど、とは言えなかった。獄寺の真剣な表情と声に、綱吉はいつだって気圧されて強く言い返せない。素直に甘えてしまえばいいのに、すっかり卑屈に歪曲してしまった性格が、それを許さない。
 山本の親切心は素直に受け止められるのに、獄寺のそれはどうしても心の底から受け容れがたいのは、初対面時に彼に抱いてしまった恐怖心に起因しているのは、綱吉も自覚している。
 ただ、単純にそれだけが理由だと聞かれると、自分自身でも納得が出来ない。何故、こうも自分は彼が恐いのか。彼の親切、優しさを真正面から受け容れられないのか。
「ああ、ごめん。獄寺君、ちょっと寄るところがあるから」
 真っ直ぐに正面玄関に向かおうとする獄寺の背中に言って、少し急ぎ足で、開いてしまっていた彼との距離を詰めて追い越す。
「すみません、十代目。職員室でしたか?」
「うん、いるとは思わないけど」
 やはり山本との会話を盗み聞きしていたらしい獄寺が、すんなりと綱吉の目的地を言い当てる。綱吉の返事が渋いのは、目的の教諭の放浪癖を心配しての事だ。
 そして案の定、足を向けた職員室には荒れ放題の机が鎮座しているだけで、椅子に座る白衣の姿は見あたらない。積み重ねられた本やプリントの山が雪崩を起こさないか、恐々としている隣席の教諭に話を聞いても、持ち受けのクラスのホームルームが終わって戻ってきてから、すぐ何処かへ行ってしまったらしい。
 空模様は雨こそ降り出していないが、今すぐに降り出しても可笑しくない色合いになっている。教室を出た時よりも鈍色の度合いが増している。
 一礼をして職員室を後にし、待ち構えていた獄寺に首を振って答え、手にしていたプリントを鞄に戻す。そのまま鞄を獄寺に奪われる前に自分でしっかりと握り、不満げにしている彼には気づかない振りをして、歩き出した。
 目指すは、二階の特別教室棟。実験室や準備室が並んでいる一角で、普段の授業では殆ど足を向ける事もない場所だ。廊下の明かりもあまり点灯させられておらず、昼間でも薄気味が悪くて、用事が無ければ近付きたくない。しかも今は空模様も怪しく、薄暗さが一層濃い。
「俺が行って来ましょうか」
 綱吉の歩調が鈍るのを受けて、獄寺が後ろから提案してくれたが、こんな事で怖がっていると思われるのも、男として癪に障る。首を振って彼の申し出を断り、綱吉はさっきよりも大股に廊下を進んだ。獄寺がつかず離れず、三歩後ろをついてくる。
 廊下は他に歩く生徒もおらず、足音が不気味に反響を繰り返して消えていく。これが深夜であったなら、肝試しに最適だなと思われた。
「そういえば」
 獄寺がふと、気晴らしになればという気持ちからか、口を開いた。
「この先の教室で、有名な怪談があるらしいっすね」
 綱吉はつい、握りしめた拳で彼を殴りつけたくなった。
 よりによって、その一番触れて欲しくない話題を振ってくるのかと、怒りがこみあげてくる。
 それはこの中学でも有名な怪談で、内容はどこにでもある、化学室で実験中に爆発を起こして大やけどを負い、それが元で死亡した生徒が学校を恨んで夜な夜な実験室に現れるというものだ。色々なパターンがあって、生徒も男女両方の話があるが、中核は大体同じ。最近聞かされた内容では、その化けて出た生徒が硝酸を掛けてくるというもの。自分と同じように火傷を負わせて、顔の皮を垂れ下がらせて苦しむ姿を見て笑いながら消えていくのだという。
 勿論冗談の類だとは思われる。綱吉だって本当の事だとは思っていない。だけれど薄暗い廊下、人気のない教室、降り出しそうな空、反響を繰り返す自分のものだけではない足音。時間帯が深夜ではないだけで、いつそういう化け物が飛び出してきても可笑しくない。
「十代目?」
「ああ、もう。うるさいなぁ」
「大丈夫ですか? 声が震えてますが」
「獄寺君が変な事思い出させるからだろ!」
 怒鳴りながら振り返ると、獄寺の顔は思ったよりも近くにあった。綱吉の様子がおかしいのを心配し、距離を詰めていたらしい。目を丸くしている彼の綺麗な顔が目の前にアップで広がっていて、悔しいかな、同じ男として羨ましく思えてしまう。
 女生徒からの人気も高く、成績優秀、運動神経も抜群で、実家はお金持ち。何から何まで完璧な彼が、どうして平凡以下の、何をやってもダメな自分と一緒に居てくれるのか。自分の為に、命を擲つような真似を平気でやって。
 そんな事を、して欲しいわけじゃないのに。
 獄寺が心底心配してくれているのが解るから、綱吉は自分が怒鳴ってしまったのを悔いて、情けなく思って顔を伏せる。最終目的地は目の前で、急にしおらしくなってしまった綱吉の態度の変化に狼狽した獄寺が、ほらほら、と鍵の掛かっていなかった化学準備室のドアを開けて綱吉の背中を押した。
 乱暴な扱いで準備室に押し込まれた為、若干前につんのめりながら綱吉はドアから数歩先で立ち止まった。
 職員室の机と大差ない、乱雑に積み上げられた書籍の山が床からいくつもの柱を形成し、人がひとり通るのもやっと。両側の棚にも所狭しと、何が入っているのか解らない薬品が並べられている。奥には机がふたつ並んでいるが、どちらも職員室の机より酷い有様で、人の姿は皆無。ここも外れだったかと、綱吉は鞄ごと大きく肩を落とした。
「いませんね。実験室の方でしょうか」
 綱吉の後ろから身を乗り出して机を見た獄寺が言う。もぞもぞと動いているから、なんだと思って彼を振り返ると、獄寺はちょうど綱吉の脇を通り抜けて前に出ようとしているところだった。
 実験室へは綱吉の前方、先生の机が並んでいる壁際の先に扉があって、そこから出入りが出来る仕組みになっている。無数に置かれた機器、瓶に入った薬品や居並ぶ書籍類。それらの行列を崩さずにすれ違うのはかなりの労力を必要として、獄寺が肩をぶつけた、何か解らない液体が入っているビーカーが危うく床に落ちるところだった。
「あぶねっ」
 慌てて手を伸ばして傾いたビーカーを押さえ、落下を防ぐ。その咄嗟の動きに驚いた綱吉が、半歩下がって背中を本棚にぶつけた。後頭部が、はみ出ていた本の角に直撃する。
「あいたっ」
「十代目?」
 大丈夫ですか、と獄寺が振り返る。その直後。
 視界が光に包まれ、網膜が焼かれたかと思う衝撃が綱吉の脳髄を直撃した。目の前が真っ白に染まり、獄寺の影さえも見えなくなる。
 至近距離で落雷があったのだと気づくのに、二秒半の時間が必要だった。というのも、その時間の後に、光に遅れて轟音が頭上から降ってきたからだ。
「ひっ」
 綱吉が肩を大きく竦め、全身を硬直させる。喉を擦って漏れ出た声は恐怖に怯み、直後の呼吸が停止しているのだと獄寺に教える。
「十代目!」
 手を広げ、腕を伸ばす。僅かな距離でしかないのに、綱吉との間に広がっている空間が非常に彼にもどかしく思えた。
 校舎全体が震えるような近距離での落雷、屋上には古びた避雷針が設置されているので直撃を受けても平気なのだが、綱吉にも獄寺にもそんな事は即座に理解出来ない。虚空を掻いた綱吉の手が獄寺の上着を掴む。獄寺の手もまた、綱吉の肩を抱いた。力任せに引き寄せる。
 第二の光線が窓の外を焼いた。綱吉は無我夢中で目の前の獄寺にしがみつき、顔を胸に押しつけて眩んだままの瞳がこれ以上焼かれぬよう、力一杯に瞼を閉じて堪える。獄寺も綱吉を己の胸の抱え、衝撃の全てから彼を庇い、膝を折って抵抗するのも忘れている綱吉ごとその場にしゃがみ込んだ。
 周囲を囲んでいる本が雪崩を起こす。ばさばさと音を立てて崩れる本が、獄寺の身体のあちこちにぶつかって床に散らばる。落雷音がそれを覆い隠して余りある音量で轟き、ふたりの鼓膜を打ち震わせる。
「うぅぅー」
 力一杯に抱きしめる腕に力を込められ、綱吉が苦しそうに呻く。気づいた獄寺が腕の力を緩めると、ホッと胸をなで下ろした綱吉が息を吐いたが、直後にまた、先程よりも少し遠ざかった光が床に窓の形をはっきりと描き出し、ほぼ反射的に綱吉は獄寺の胸元に顔を埋めていた。
 雷は決して苦手ではないのだが、こんなにも近い場所への落雷は、生まれて初めてだった。
「十代目……」
 獄寺の声が耳元で低く響く。背中に回された腕から、頭ごと身体を抱きしめる身体から伝わる体温と、心音が心地よい。
「大丈夫です、十代目。俺が、ついています」
 優しく、諭すように、静かな声が綱吉の心に染みこんでいく。
 雨が降り出したようだ。落雷音はまだ続いているが、徐々に遠ざかっていく。代わって窓を叩く無数の雨音が激しさを増している。音しか聞こえないが、きっと雨のカーテンで外の景色は一気に霞んで見えなくなってしまっているに違いない。
 バケツをひっくり返したような豪雨に、教室内の空気が冷えていく。冷静さを少しずつ取り戻した綱吉が、数回瞬きをして顔の位置はそのまま、瞳だけを上向ける。
 獄寺は遠くを見ているようだった。
「獄寺君……?」
「俺が、十代目を守ります。命を賭けてでも……だから、大丈夫です」
 綱吉の呼び声は、彼に届いたのだろうか。抱いた綱吉の頭をそっと撫でた彼の指は、僅かに震えていた。
 彼のことばには、きっと嘘はない。綱吉を包み込む腕の力強さ、暖かさは紛れもない本物であり、安心出来るものだと綱吉は感じている。実際今の自分は、彼の腕の中で、幼い日に母に抱きしめられた時同様の安堵を覚えている。
 だけれど、同時に不安の影を感じずにいられない。
 綱吉は瞳が乾燥するまで瞬きを忘れて、獄寺を見上げた。彼が気づいてくれないか、それだけを願って。
 けれど獄寺は綱吉を抱きしめ直し、その肩口に顔を埋めただけで、綱吉の視線には気づかなかった。
「獄寺君……」
 囁きは、彼に聞こえないのだろうか。いや、聞こえないままであって欲しい。切に願い、綱吉は目を閉ざす。
 抱きしめられる腕の暖かさに眠ってしまいたくなる。何もかも考えずに済む、夢の世界に沈んでしまいたい。
 問えぬ問いは、胸の中に淀んでやがて消える。拾い上げられる事のないまま、きっと自分たちは答えを出せぬまま、時を過ごすのだろう。
 守られる側と、守る側との境界線は、高く、深く、狭まる事もなく。そう、きっと綱吉が彼を恐いと思っているのは、彼が明確に、答えを示してしまう日が来ると解っているから。
 自分たちがいつまでも、どっちつかずの、曖昧な関係を続けていられないと、無意識に気づいてしまっているから。

 ねえ、獄寺君。
 君が、守りたいものは、ダメツナな沢田綱吉?
 それとも、……ボンゴレ十代目としての沢田綱吉?

 落雷が呼び込んだ炎は、綱吉の胸の底で、静かに、燻り続ける。

Humidity

 梅雨の曇り空が広がっている。ガラス一枚越しに見える景色はどんよりと重く灰色で、それだけで陰鬱な気分が増す。
 幸いにしてまだ雨は降り出していないものの、それも時間の問題だろうと雲の厚みから想像がつく。数日続いていた雨の、漸く隙間をついての曇り空はしかし、今まで降り続けていた分の湿気を吸った空気が熱を含んで身体にまとわりつくものだから、不愉快極まりない環境を生み出している。
 いっそ、除湿でもかけるかな、と垂れ流し状態のCDが流れる空間でひとり、物思いに耽る。締めきっている部屋は自分の体温だけでも徐々に室温を上げていくので、窓を開けての換気が求められるがいつ降り出すか分からない雨を思うと、二度もこの場から立ち上がって戻ってこなければならない手間が非常に面倒くさい。
 だが壁の、天井に近い場所に設置された空調を稼働させるスイッチは窓よりも更に遠い場所に設けられている。二度手間と、一度で足りるが窓を二往復するのと大差ない距離の移動を天秤に掛けると、結局どちらにも傾かない。
 つまりは、現状維持。
「……むぅ」
 低く唸る。湿気が肌に貼り付く感覚が全身を覆っていて、今立ち上がればそれだけで汗が噴き出しそうだ。
 じめじめとした空気は鬱陶しい。
「だー、もう!」
 握っていた万年筆を頭上に掲げて、振り下ろす。ペン先が潰れるのを嫌って、さすがに床に突き立てるような真似はしなかったが、黒インクが散って真っ白な原稿用紙の上に幾つかの染みが浮き上がった。
 湿度の高さを言い訳にするつもりはないが、何のネタも思い浮かんでこなくて頭の中がぐるぐる訳の分からないフレーズに埋め尽くされてしまっている。ひとつひとつを拾い上げ、抓んで並べて行っても意味のある言葉にはならず、自分には作詞の才能などひとかけらも無いのではないかと、卑屈な気持ちがいっぱいに広がっていく。
 頭を掻きむしった指先に数本、抜けた髪が絡まって床に落ちた。握りを解いて白紙に転がした万年筆が、ペーパーウェイトの角に当たって転がるのを止め、斜めに寝転がる。
 自分の部屋に引きこもると別の欲望に負けてしまいそうになるからとだだっ広いリビングに出てきて、気持ちがリラックスして集中できるように、緩やかなメロディーラインの曲を選んで流していても。
 いくら頭を悩ませ、必死に詩作に取り組もうとしても。
 なにもかもが、空回り。
 何でも良いから八つ当たりしたい気分で、座っているソファにあったクッションに拳を押しつける。ぐりぐりと手首を回して捻り込むと、方形を象った物体が、判別つかない形状に変化していく。
 だけれど、こんな事をしている余裕が自分には無いのも分かっているので、ふと我に返った途端自己嫌悪に陥りたくなるのだ。
「う~~~……」
 両手で頭を抱えて膝に落として、身体を丸め込ませると自分がとても小さくなった錯覚が起こっていっそ、このまま逃げ出してしまおうかとさえ思う、締め切り前日の午後。
「逃亡しよっかナ」
 幸か不幸か、自分は透明人間でよっぽどでなければ透明化した自分を人は見つけ出せないだろう。たかだかアルバム用の楽曲ひとつになにもそこまで、と言われてしまえばそれまでだけれど、当人にしてみれば必死なのだ。
 なにせ、締め切りに厳しいリーダーが真上に居る。一曲でも遅れようものなら、もれなく雷が局地的嵐を伴って襲ってくるだろう。
「はぁ」
 口を開けば溜息ばかりで、気分は滅入るばかり。
 他に要請されていた曲は、一応仕上がっている。残るテーマはあとひとつ。
“優しい気持ち”
「漠然なんだもんナー」
 自分が優しい存在だとは、贔屓目に考えて眺めてみても到底思えない。第一に優先すべきものは自分にしかなくて、他は結果的に二の次なのだ。自分の身の安全が保証されない場合なら、容赦なく他を切り捨てるも辞さない。
 実際そうやって生きてきた。根本的な考え方は今も一切変わらないし、変えられないだろう。だって、自分は生きている。少なくとも、まだ今は。
 だから具体的に、優しい気持ちというものがいかなるものなんかがつかみ取れずに居る。
「こういうのは、アッシュクンのが得意でしょうに」
 どうしてユーリは自分に、このテーマを与えたのだろう。顔を上げ、何も書かれていない、インクが飛んだ痕だけが小さく端の方に残る紙を取った。顔の前で縦にして眺め、首を捻る。
 考えたところで、他人の気持ちなど読み取れるはずがないのだけれど。
 薄っぺらな紙を前後に揺らすと、先端部分が頼りなげに柳のように震えてしなだれる。背を丸めて頭を下げて行く仕草が今の自分に似ていて、つい皮肉げに口角を歪めると自分に向かって垂れ下がる紙の角を下唇で受け止め、先端部分だけを咥え込む。目の前のテーブルに、すっかり冷め切った珈琲のカップが見えた。
 新しいのを注いで来ようか。窓の開け閉めや冷房のスイッチには億劫になって立ち上がるのも拒否していたのに、意識すると乾いてならない喉の具合にだけは、身体は正直だ。
 ソファのごつい革張りに手を置き、じっとりとした掌の感触と貼り付いて来る革の感触に目を瞑って堪え、立ち上がる。長い間じっと座っていたからその格好で固まってしまっていた膝が歪な音を立て、穿いているジーンズの分厚い生地が体内に抱える熱の放出を邪魔しているのがありありと伝わってきた。
 だがまさか此処で脱ぎ捨てるわけにもいかず、何故今日みたいな天気の日に、こんな服装を選んでしまったのかと自分の浅はかさを恨みたい気持ちを抑え込み、スマイルはもう飲む気も起こらない珈琲のマグカップを片手に踵を返した。
 ふたりで座っても充分横幅にゆとりが残るソファを迂回して、繋がっているリビングからダイニングへ移動。更に距離を伸ばして台所の扉をくぐり抜ける。
 キッチンの主であるアッシュが、雨が降り出す前に済ませて来ると買い物に出かける前、用意してくれていた珈琲がまだ残っていたはず。なんとなく頼りない記憶に縋りつつ、視線を巡らせて保温ポットを見つけると、安堵の息を零した。
 なんとか残り一杯分は確保出来て、冷え切っていた分を捨てると注ぎ直す。鼻腔を擽る香りに、少しだけだが心がほぐれた気がした。
「落ち着く……」
 立ったままで行儀が悪いが、堪えきれずひとくちだけをその場で飲んで、喉を伝い全身に染み渡っていく感覚がするコーヒーをしばし堪能。だがこのカップを持ってリビングに戻った途端、待ち受けているだろう未だ白紙の原稿を思うと、爪先が勝手口を向いてしまいそうだ。
 今逃げたところで、締め切りが引き延ばされるわけでもなし。覚悟を決めて、なんとか見られるものを絞り出すしかあるまい。ユーリのお小言は喰らうだろうが、間に合わなかった時の事を思えばまだ多少は、マシだろうから。
 気が重いが、やるしかあるまい。他に道は残されていないのだからと自分を叱咤激励して、スマイルは両手で包み込んだマグカップを大事に抱えながらダイニングスペースへと戻った。
 そうして、古めかしさだけが目立つ長方形の縦に長すぎるテーブルを脇に眺めつつ、リビングスペースへと足を踏み込んだところで。
 こちらに背を向けているソファの、さっきまで彼が座っていた場所に、銀色のボールが置かれている事に気付いた。そういえば空調がいつの間にかオンになっていて、あんなに鬱陶しいと感じていた湿度が若干下がっている。
「…………?」
 小首を傾げつつも、作業道具は全部ソファの前に置かれたテーブルに広げたままなので、行かずを得ない。段々と両者の距離が狭まるにつれて、三人は座れるはずのソファの真ん中にどんと構えて座っているのが、他でもないこの城の主でありバンドのリーダーであるユーリだと知れる。
 銀色のボールがソファの背もたれに載っているように見えたのは、単に自分が隻眼であるが故の距離感の測り辛さが原因のようだ。
「ユーリ?」
「…………」
 何の用があるのだろうかと、顔の前に抱えたカップを持ち上げ、陶器の縁に口を付けまだ暖かい珈琲を啜る。名前を呼ばれた事に単純に振り返って顔を向けたユーリが、俄に表情を険しくさせた。
「随分と好調なようだな」
 ひらり、と皮肉を口に出したユーリがスマイルに突きつけたのはあの、依然真っ白から変化無い原稿用紙。
「あ、いやその……」
 単刀直入に言われてしまい、返すことばも見当たらず視線を適当な方向に流したスマイルが、手の中のマグカップを小刻みに震わせる。波だった黒々した液体が、防波堤にぶつかっては砕けて渦を成していった。
 しどろもどろになって答えられないで居る彼に、ユーリは嘆息して微妙に他よりも湿った感じのする紙を手放し、テーブルに放った。空気抵抗を全面に受けて、ゆらゆらとそれは儚げに落ちていく。
「そんなに、難しいか」
 ユーリだって、他は順調に仕上げてきているのに、たったひとつだけスマイルの手元に残されたままになっているテーマには気付いている。自分が与えた課題だ、まだ表立たせてはいないものの、彼の構想ではアルバムのラストに収録させるつもりでいる曲、が。
 メロディーは大まかに決定している、あとは其処に乗せる歌詞が出来上がれば、直ぐにでもアレンジに取りかかるつもりでいたのだが。
 まさかこんなところでスマイルが躓くとは思っていなくて、ユーリとしても意外としか言いようがない。
「なんて言うかねぇ……曖昧スギ」
 ユーリが求めているものは、なんとなくだが理解できる。だがそれをかみ砕き、自分なりのことばに変換して並べ直す作業が捗らない。自分が考える優しさというものが、万人に共通する感覚だとは到底思えないのも、躓いた石を大きくさせている。
 下手に長く生きてきただけに、当たり前過ぎる感覚が麻痺してしまっているのだろうか。
「間に合いそうか」
「微妙」
 飾らない問いかけに苦笑って答え、スマイルはユーリの座るソファに自分も腰を下ろした。もうひとくち珈琲を啜り、鼻の下に絡みつく湯気を手で追い払う。横顔を、じっとユーリが見ていた。
「ナニ」
 視線に気付かぬはずがなく、問いかけの目を向けると彼は僅かに瞳を揺らし、口許に曲げた人差し指を押し当てた。
 スマイルが半分ほど飲んでしまった珈琲をテーブルに置く。陶器の底辺が硝子板の天板と擦れ合い、やや不愉快な音を空間に零した。
 いつの間にか、流していたはずのCDも全曲奏でられたのか音が消えていた。
 静まり返った広い室内に、互いの呼吸する音だけが辛うじてか細く響き合う。そうやってどれくらい、ふたりして黙りこくっていただろうか。
 ふと流した視線が窓の外を捉える。
「雨だ……」
 水分を多量に吸った雨雲が、ついにその重みに耐えられなくなったのだろう。最初こそは雨足も弱かったけれど、ものの数分としないうちに外はバケツをひっくり返したような豪雨に変わる。
 ムッとした空気が厚みを増した。窓ガラスを大粒の雨が激しく叩き、一気に喧しくなる。
「また降り出したか」
 ユーリもまた視線を窓辺に流し、溜息と共に呟きを漏らした。呆れているようで、諦めてもいるような口ぶりに、スマイルが薄く笑う。即座に、何が可笑しいのかという声が飛んできて睨まれる。
 お手上げポーズで両手を肩の高さまで上げたスマイルは、けれどまだ少しだけ笑みを残した表情で、雨が降り出す前に帰還を果たせなかったアッシュを不憫だと言った。あいつは車だから多少の雨でも平気だろう、とユーリが返す。
 そこで会話が途切れて、また沈黙が場を制する。雨の音ばかりが、耳朶を打って痛い。
「ユーリは」
 ぽつり、と。
 意識せぬまに唇が動いていた。
「なんだ?」
「どうして、このテーマを選んだの」
 ソファに身体を沈めて、天井を仰ぐ。
 何も思い浮かばない思考、まとまらない思い。巡り変わり行き変わることば、全部がしっくり来なくて書いては破き、丸めて投げ捨てる日々。その間も、今みたいに雨が降っていた。
 身体にまとわりつく湿度、苛々するだけの心。求められる“優しさ”からどんどんかけ離れていく感情に、余計に苛立ちばかりが募って袋小路に迷い込む。
 知らず掴んでいた自分の腕に爪を立て、それでも感じられない痛みに奥歯を噛んだ。複雑そうな目で横顔を見つめるユーリに気を配る余裕さえ、残っていない。
「それほどに、難しいか」
 何を思い悩み、嘆く必要があるのだろう。
「遠くばかりを見ようとするのは、お前の悪癖のひとつだな」
 骨が軋みそうなまでに強い力で握っていた腕に手を伸ばし、ユーリは強張った指の一本一本を丁寧に解いていってやりながら呟く。柔らかい、不快でない温もりを抱いた声で。
 珈琲が立てる湯気が霞む。雨は一向に止む気配が無い。低く微かに、空調が動く音が鈍く響いている。
「たまには、自分の足下でも見てみたらどうだ?」
 遠くばかりを見ていたら、転ぶぞ? 
 含みのある物言いで笑ったユーリが、スマイルの手を両膝に綺麗に揃えて置いた。行儀良く座っている風になった彼にまた笑って、頬杖をつく。
「後はお前次第だ。貴様のそれが終わらぬ限り、私達は何も出来ぬのだから」
 心してかかれ、とプレッシャーを与えるばかりの台詞を吐き捨ててユーリは一定でないリズムを刻む雨音に耳を傾け、目を閉じた。呆然とスマイルが見つめているのが気配だけで伝わってくる。
「……ユーリ」
「寝る」
「はい?」
 何が言いたいのか、よく分からなかったスマイルが具体的な答えを欲しがって呼びかけるのを遮り、ユーリはさらりとひとこと、告げた。
 聞き間違いかと目を丸くするスマイルの肩に、ソファのなめらかな革を滑り台にして上半身を傾がせて、ユーリは彼に凭れ掛かる。唐突に増えた上半身にのし掛かる重みに、隻眼を丸くしたスマイルがぎょっとなって後退ろうとした。
 だがそうすると、もれなく支えを失ったユーリがソファに横倒しになるのは明白で。
 動くに動けなくなったスマイルは、全身の筋肉を硬直させた。あまりのコチコチ具合に、ユーリが苦笑する。
 目を閉じたまま唇だけで笑い、腰を若干浮かせて居心地の良い格好に体勢を直して更にスマイルに体重を預けた。どこか及び腰になっている彼の、落ち着かない心情が触れあう箇所から伝わってくる。
 例えば、こんな風に安心しきって身体を預けられる相手が、優しくないと言えるのか。嫌ならば避けても構わない、あまりに一方的過ぎる押しつけを甘んじて受け止め、受け入れている彼の態度が優しくないとどうして言えるのか。
 足下を見れば、些細な優しさが河原の石みたいに敷き詰められている。大きな石はないけれど、その代わりにせせらぎに撫でられ続けた角の無い小石が隙間無く、足下を支えてくれている。
 灯台もと暗し、ということばを彼に教えてやりたい気分のまま、ユーリは雨音に耳を傾ける。
「スマイル」
「……ナニ」
 些か不機嫌な声が返されて、薄く瞼を持ち上げたユーリは何もない天井をぼんやりと見上げ、首の角度を変えた。視界が変化し、頬骨がスマイルの鎖骨の出っ張りにぶつかる。
「唄」
 CDはもう流れていない、雨の音ばかりでは寂しすぎる。
 このままでは眠れない。
 だから、唄を。
「ギャンブラーZで良いのなら」
「殴るぞ?」
 淡々とした返答に、即座にユーリがにこやかな表面上の笑顔を作って拳を握った。冗談だよ、と頭を自由の効く側の手で掻いて、スマイルは視線を遠くにやった。
 窓ガラスと屋根と庭の地面を打ち付ける雨の音、変化が見られない空調の低音、一秒ずつを確実に間違えず刻み続ける時計の針。
 アッシュはまだ帰らない。あれほど不快極まりなかった湿気が遠退き、適度な環境が周辺に生み出されつつある。
 優しさ、というものが何であるのかは実のところ、まだ良く分からない。
 けれど少しずつ、ユーリに唄って貰いたいものが靄のようになって頭の中、集まり始めていた。
「じゃあ……」
 雨の日の、例を挙げるとしたら今日のような日に。
 ただ一緒に居られるだけの、お互い傍に居るのを許し合える距離感を。
 或いはそれさえも、一種の優しさなのだと言うのなら。
「聴いていてくれる?」
「貴様次第だな」
 重さを感じる肩を揺らし、今にも寝入りそうなユーリに注意を促し問いかける。素っ気ない返事は、けれどユーリなりの照れ隠しも含んでいると知っているから、特に気にする様子もなくスマイルは深く、息を吸った。
 視点を切り替えれば、なんて簡単な事。
 脳裏にメロディーを思い浮かべる。一本線でしか描かれていなかったオタマジャクシが、輪を作って踊り出し、そこに軽やかな風の足音や水のせせらぎ、森のざわめきが重なり合って、ひとつの音を導き出す。
 ああ、思い出した。唄を作るとは、こういう作業だったのだと。
 何かを生み出そうと藻掻くのではない。心の底から自然とわき上がってくる透明な水を、揃えた両の手で掬い上げる。溢れ出る水は、空高く舞い散らして光に透かそう。
 とても単純で、簡単で、けれどとても難しい。
 優しい気持ちは漠然としたままだけれど、今の気持ちをことばにするのは出来る。真っ先に聴いて欲しい人も、手を伸ばせば触れられる場所に居てくれる。
 隻眼を閉じた。とても近いところに居るユーリが、もっと近くに居る感じがする。
 吸い込んだ息をゆっくりと吐き出した。
 拳を固くしていたユーリが、肩から力を抜きソファに落とす。赴くままに垂らした手首が予期せず、スマイルの手の甲に重なった。
 お互いことばにすることもなく、指先を絡め合う。
 眠る、と言っていたユーリが紅玉の瞳を露わにしたまま、雨の降りしきる外を濡れた窓越しに見つめていた。頭の中でひとつずつことばを選び、繋げているのだろう、スマイルが時々眉間の皺を深くして低く唸っていた。
 リズムを取っているのか、彼の爪先が時々床を叩いて上下する。
「聴いて、ユーリ」
 これが正解かどうかは分からないけれど、と前置きしたスマイルがわざとらしい咳払いをして、真面目な声で言うからつい笑ってしまって、頭を預けたままだった肩を突っぱねられた。激しく前後した枕代わりに、声を立てて笑って身体を浮かせる。
 座り直し、彼と向き合った。
「寝ないの?」
「お前の唄が退屈だったら、眠るさ」
 聞きようによってはあんまりな台詞をさらりと吐き捨て、先を促しユーリは裏返した掌をスマイルの側へと突き出す。やや渋い顔をして、けれど自分から話を振った手前撤回するわけにも行かず、スマイルは頬を軽く引っ掻いて嘆息した。
 深呼吸を二度ほど。
 雨はまだ降り止まない。微かに、車のブレーキを踏む音が聞こえた気がした。
 意を決し、身体の奥から溢れてくる感情を音に乗せて空に浮かぶ、見えないの弦を爪弾いた。なるべく丁寧に、独自にアレンジした柔らかなメロディーを。
 それは子守歌。
 ユーリが目を閉じ、聞き入った。両手一杯の荷物を抱え、雨の中車からダッシュで城内に駆け込んできたばかりのアッシュも、密やかに奏でられる歌声に気付いて足を止める。
 まだ完成とは言えないけれど、今出来る精一杯を唄にして。
 拍手は無かったけれど、歌い終えた時のスマイルの心はついさっきまでのモヤモヤとした苛立ちが一気に消え失せて、妙にすっきりした気分に満ちていた。
 隣を見れば、失礼な事にユーリがそのままの姿勢ですやすやと寝入っていて、船をこぐ最中に自然と傾いだ身体がまた、スマイルの側へと倒れてきた。
 今度はそれを、真正面から受け止めて、前髪を濡らしたアッシュがリビングに入ってくるのを振り返って出迎える。
「オカエリ」
「タダイマっス」
 眠ってしまったユーリを起こさぬよう、なるべく声を潜めて笑い合って、窓の外を何気なく見た。
 雨足が少しだけ弱まった気がする。
「オヤスミ、ユーリ」
 規則正しい寝息を零す彼をそっと抱きしめて、有り難う、と耳元で囁く。
 きっと、明日は晴れ。

Tedium

 軒を打つ雨音だけが断続的に窓を超え、響いてくる。
 閉めきったはずの室内は、しかしその僅かな隙間からさえ外気が流れ込み、微かにだけれど感じられる、水の気配。
 恐らく一歩外に出たならば、バケツをひっくり返したような豪雨が全身を襲うに違いない。傘を頭上へ広げたところで、全身濡れ鼠は避けられないだろう。
「雨の匂いがする」
 呟くと、背中越しの彼は身体を軽く横に揺すり、そうだな、と低い声で相槌だけを返してきた。
「暇だね」
 更に呟くと、また、そうだな、とだけが返される。
 彼はちゃんと人の話を聞いているのだろうかと、勘ぐりたくなる一瞬。だけれどまともに相手をして貰うにはそれなりの勇気と、根性と気力が必要な相手だけに胸の内だけで溜息を吐き、自分は膝の上で半端に広げていた新聞の端を折った。
 小さく、ページをめくる上質紙の擦れる音がする。
 椅子は顔を上げればすぐそこにあるというのに、何故かふたりして、今日は床の上。
 床といっても柔らかな毛並みの絨毯が敷き詰められた場所だから、直接フリーリングに座っているわけではない。クッションはそれなりに効いていて、身体への負担も少なくともすれば、横になって寝転がりたくなるくらいだった。
 そこを、ふたり、背中合わせに。
 壁時計を見上げれば、夕刻にさしかかろうとしている頃合い。だがテレビも、ラジオも一切の雑音を放つ器具は沈黙を保たれたままで、在るといえば窓を打つ不揃いな雨の音か、自分たちの呼吸する微かな空気の摩擦音。そうして、それぞれが好きに手をつけていた活字に埋まる紙面の擦れ合う音くらい。
 特に言葉で示し合わせたつもりはなかった。ただ、今日は床に座りたい気分だった、その程度。
 最初はリビングに、新聞を片手にしたスマイルが居ただけだったはずなのに。
 いつの頃からか、ユーリが来て、手にしていた本を膝に広げて彼の背中を背凭れ代わりにしていた。
 もっと居心地の良い場所は他にいくらでも、数え上げればキリがないほどにあるだろうに。
 お互い、口に出したりしないものの、分かっているはずなのに。
 何故か、この場所から離れがたい。
 そんな雨の日の午後。
 今夜半まで降り続くという予報を数時間前にテレビで見た雨は、今も時折勢いを増しながら屋根を、軒を、庭先を激しく打ち鳴らしながら騒いでいる。大地を潤すはずの天からの恵みも、こう連続して大量にもたらされれば、渇きを覚える緑も喉を溢れさせてあっぷあっぷだろう。
「暇だねぇ」
 立てた新聞の縁を口に当て、再度呟く。
「……そればかりだな」
 先程とは違う返答に、へえ、と先を促すような感覚で相槌を打って返すと、彼は開いていた本に栞代わりの紐を通し、閉ざした。
 一応は人の話を聞いていてくれたらしい。そんなところに感心していると、間を置いて咳払いまでした彼が、閉ざした本の分厚い革張りをした表紙に爪を這わせた。表面に、薄く細い線が走る。
 見る人が見れば高値が沸騰しそうな古書を易々と扱う彼の手癖に、口許が自然と歪んだ。
「なら、曲のひとつでも仕上げてはどうだ」
 問いかけ、というよりは静かな細波にも似た命令形。ちらりと後方を窺う視線に気付かぬ素振りを通し、それと気付かれぬよう気を配しながら肩を竦める。
「君が唄ってくれるなら、喜んで」
 曲のひとつやふたつ、あっという間に紡ぎ出してみせましょう。戯けた口調で告げると、後ろから逆向きに降りてきた拳に後頭部を痛打された。反射的に首を引っ込め、同時に舌が出る。
 誰も見ていないのに、こういう表情を作ってしまうのは自分の性分だろうかと、密かに空しさまで感じつつ。
 ただ、背中越しに感じる体温と存在が相変わらずの調子で、退く気配さえ感じさせない事に安堵した。
「馬鹿な事を」
 呆れた声で返されるのが、嬉しい。無視されないで相手をして貰える事だけでさえ、心が躍る。
 こんな風に思えるようになるまで、随分と回り道をしたけれど。
 一緒に居られる事がこんなにも幸せだなんて、知らなかった。
「ケチ」
「貴様が贅沢なだけだろう」
 静かな声で返される。そこに雨の音が重なる。
 自然が奏でる二重奏が、知らず心地よくて目を閉じる。
 瞼を下ろせば自然と沸き起こるのは眠気で。
「ユーリ」
 名前を呼ぶと、なんだ、と声が返る。
「眠い」
 単刀直入に告げると、返事は無くて代わりに溜息だけが深々と宙を抉った。
 薄く笑む。折りたたんだ新聞をカーペットに寝かせ、膝を伸ばすとそれこそ壁か何かに凭れる時の感覚で、ユーリの背中に上半身に与する全体重を預けてやる。
「スマイル?」
 重いから退け、と言いたげな口調だったユーリが、けれど静かになった。返事が無い事を訝しむようで、気配をじっと窺ってくる。 
 だからついつい、いたずら心が刺激されて、胸の上で組んでいた腕を解いて床に落とした。軽い力でもって、仰向けの体勢を一瞬で裏返す。
 ついでに、その横向く方向と距離を利用して、頭部を軸にし、身体を転がして。
 収まったのは。
「スマイル!」
 咎める声にもお構いなしに、やや盛り上がった中間の隙間に頭を預けて、居場所の安定を図る。
 薄目を開けてにんまりと笑めば、目の前に映るのは一面、ユーリの怒っているのかどうなのかさえ微妙な表情。
「暇だネ」
「なら、ベッドなりどこにでも行け」
 だから退け、と閉じた本の角で額を打たれてしまった。かなり痛いが、へこたれずに笑いかけると、今度こそ呆れたようでユーリは一度閉じた本を再度、開いた。
 顔の前に影が落ちる。導かれたようで、目を閉じる。
 雨の音が聞こえる。紙をめくる音が間近で響く。
 ふれあった箇所から、互いの体温が伝わり合う。呼吸する微かな振動が響く、存在を限りなく近い場所で感じる。
「ネ、ユーリ」
 隻眼を開けて、本の背表紙に隠された彼を窺う。返事は無かったけれど、紙を捲る指の動きが止まったので、彼は少なくとも、無視するつもりはないのだと理解して、安心を覚える。
 腕を伸ばした、真上にまっすぐに。
 視界を遮る邪魔なハードカバーを曲げた人差し指で引っかけ、どかせる。そうやる事で漸く現れたユーリの顔に、柔らかく微笑んで。
「暇、だネ」
 同じ言葉を何度も繰り返して。
 憮然とした感のあるユーリへ、更に笑いかける。
「デモ」
 退屈、じゃないよ、と。
 短く告げて、手を放す。
 ユーリは窓の外を見た。そして、開いたままの本をゆっくりと下ろし、自らの膝を枕にして悠然と寝転がる存在の額に落とす。
「ユーリ……」
「うるさい、黙れ。眠らないのなら、起きろ」
 ゴンゴン、と堅い表紙で何度も広い面積を小突かれる。
 とすると、眠るのなら此処に居座っても良いと言うのだろうか。
 曲解かもしれないが、押しつけられる本を手で押し返して真下から顔を覗き込むと、一瞬だけ掠めた視線は慌てたように外へ向けられてしまった。その逸らし方がまた大仰で、堪えた笑いを堪えきれずに漏らしてしまうと、また眉間の隙間を狙って本が振り下ろされた。
 小気味のいい音が響く。
「暇、だねぇ」
 感慨深げに呟いた。
 返事は無い。
 雨の音は止まず、勢いを休める素振りも無い。
 壁の時計が新たな時間を指し示し、仄暗い音を奏でた。
「だが」
 目隠しの本を捲り、ユーリが久方ぶりに声を返した。
「偶になら、な」
 特別何もせず、お互いぼんやりと過ごす日も悪くないと。言葉少なに表して、ユーリはまた顔を隠してしまった。
 もったいないと覗こうとしても、巧みに誤魔化されて届かない。
 ちぇ、と舌打つと、肩を竦めて笑われた。
 雨の匂いがする。
 特別な事などなにひとつない、よくある日の午後。
 ゆっくりと時間は過ぎて行く。
「ユーリ」
 またいつか、こんな日が巡ってくるかもしれない。その時、自分たちは今と同じように隣で、間近で、傍で、こんな風に過ごせているかどうかさえ、分からないけれど。
 それでも。
「なんだ」
 降りてきた彼の手がスマイルの髪に触れる。指で梳ってやると、心地よいのかスマイルはそっと隻眼を閉ざし、交代で薄く唇を開いて、笑った。
「これからも、ヨロシク」
 戯けた風に装っても、言葉は酷く真剣で。
「気が向けば、な」
 意地悪なユーリの返答に、唇を軽く尖らせたものの、裏側に隠された思いにまで気付かない愚鈍さは持ち合わせてないから。
 スマイルも、ユーリも。
 雨にかき消されそうな微かな笑みを、お互いに浮かべあった。
 明日もこのまま、隣に居られますように。