燻火

「なー、ツナ」
 昼下がり、屋上のフェンスにもたれかかりながら昼ごはんのサンドイッチを頬張っていた綱吉は、同じくおにぎりを口に運ぶ手前の山本武にこう聞かれた。
「獄寺と、なんかあったのか?」
「え?」
 予想していなかった不意打ちの質問に、綱吉は思わず手からサンドイッチを落としそうになる。自分の歯型が残ったタマゴサンドが目の前で跳ねるのを大慌てで抱きとめ、同様を隠せないまま山本を見た。
 涼やかな表情の彼は、けれど瞳だけが真剣で、綱吉の適当なごまかしを許そうとしない。 
「……ないよ、何も」
 やや間を置き、綱吉は残り半分になっているサンドイッチに噛み付いて声をくぐもらせた。さっきまでは普通においしいと感じていたのに、今は何の味も感じられない。柔らかい具材を噛み潰すのも億劫になり、残りも全部口に押し込んで一気にコーヒー牛乳で胃に流し込む。
 喉の奥で塊が抵抗を試み、僅かにむせたが強引に飲み下した。綱吉の一連の行動を静かに見ていた山本も、おにぎりの最後のひとかけらを食べ終え、指についた米粒を舐め取る。視線はあくまでも綱吉にあったが、その綱吉は最後まで彼と目をあわそうとしなかった。
「本当に?」
 問われても黙って頷くだけ。明らかに「何か」あったと分かる態度なのに、頑ななまでにそれを表明するのを拒んでいる綱吉に、最後は山本も折れるしかなかった。肩を竦め、諦めた顔で空を見上げる。
 数日前の雷雨からは想像もつかない快晴ぶり。雲ひとつない空に眩しく太陽は輝き、遮るもののない屋上は暑いくらいだ。空っぽになった手を庇代わりにして南の空にある太陽を眺めた彼は、その手の影に隠れて綱吉とは反対側の空間を盗み見る。
 その場所には、数日前までならば、もうひとりいた。
 しかし今はいない。
 獄寺隼人。綱吉を「十代目」と呼び彼を慕う人物だ。山本とも同じクラスで、何かとつるむ機会も多く昼休みも大抵いつも一緒に過ごしていた。その彼が、ある日を境にぱったりと姿を見せなくなった。
 いや、学校には来ている。授業も、真面目にとは言い難いが出席している。呼べば無愛想ながら返事もするし、受け答えもしっかりして今までとなんら変わった様子は見られない。強いて言うなればやや不機嫌の度合いが上がっているくらいか。
 そして、一番変化のあった人物。山本の前にいる、沢田綱吉。
 地味で目立たず、特別勉強が出来るわけでも運動が得意でもなく、どちらかといえば両方とも並み以下で、それゆえに「ダメツナ」とまであだ名が付けられていた彼。しかしとある出来事をきっかけに頭角を現すようになり、相変わらず勉強も運動もトントンだが、内向的な性格は改められすっかり明るく活発な性格になっている。
 友人も増えた。山本もそのひとりだ。獄寺も、そのはずだ。
 だがその綱吉と獄寺との間が、ここ数日ギクシャクしている。獄寺は綱吉に構いたがっているのだけれど手を出せず、綱吉もまた、獄寺を意識して避けている気がする。
 気がするだけ、かもしれないのだが。ふたりは教室で顔を合わせれば挨拶もするし、別の誰かから二人揃って話題を振られた時もちゃんと話を聞いて、受け答えもする。だが綱吉は獄寺に近づかない。獄寺もまた、綱吉が取ろうとしている距離を重んじているのか、自分から前に出ようとしないで引っ込んでしまっている。
 最初の頃は喧嘩でもしたのかと思っていた山本だったが、日が経っても変化の兆候は見えず、それどころか悪化している感じさえする。
 でも綱吉は、その理由や原因に触れて欲しくないようで、獄寺の話題を極端に嫌がり、他の話に摩り替えてしまう。
 山本的には綱吉とふたりきりで居られる時間は嬉しいのだが、綱吉が本調子でないのは喜ばしいことではない。不本意だが獄寺を含めた三人組でいるのが、自分達は楽しめたし、綱吉も元気が良く明るかったと認めざるを得ない。
 なんとかしてやりたいのだが、綱吉がこの調子ではなんとかするどころか、どうにもならない。時間が経てば経つほど状況はきっと悪くなる一方で、すれ違いが続けばやがてふたりは自然と離れていくだろう。関係は二度と戻らない、どちらかが歩み寄ろうとしても、片方が逃げていては話にならないからだ。
 そして今の綱吉は獄寺から逃げていて、獄寺は追いかけようともせず綱吉の背中ばかりを見ている。
 傍から見たら滑稽で、何をやっているのかと言いたくなる。だがふたりはきっと真剣なのだろう、そして他者にばれていないと思っている。
 それが尚更、山本の目には滑稽に映った。
――喧嘩中のカップルじゃあるまいし。
 口の中に残った握り飯を、お茶を飲むことで一緒に押し流し、山本は一息つきながらコーヒー牛乳のパックを弄っている綱吉を眺める。物思いに耽っているのか、俯き加減の視線は手元ではないどこかを見ているようだ。山本が見ているのにも、さっぱり気づく気配が無い。
 考えているのだろうか、獄寺のことを。
 そう思うと胸の奥がざわざわと波立つのが分かって、山本は手の中のペットボトルを握り潰す寸前まで力を込める。ペキパキと拉げる音が小さく響き、我に返った綱吉が山本の手の甲をつついた。心配そうな顔をして、見上げてくる。
 頼りない、心細そうな目だ。不安で内面が揺れているとはっきり分かる瞳の色に、山本は心の中で吐息を零す。そんな顔をしながら、他人の心配までしなくて良いのに。
「山本?」
「ツナ、ついてる」
 握っていた手の力を緩め、山本は綱吉の頬をくすぐった。屋外だから風に乗って埃やらなにやらが飛んでくる、小さな糸くずのようなゴミが彼の頬に張り付いていた。
「え? どこ?」
 指摘された綱吉は、驚いたように目を見開いて、自分もまた腕を持ち上げ己の頬を掻いた。しかし鏡も無いためなかなか上手くいかない。山本は肩を竦めると、僅かに身を乗り出して綱吉に顔を近づける。無警戒に彼の接近を許す綱吉の甘さに、ちょっかいをかけたい気持ちを押し殺しつつ、山本は傷をつけないように注意しながら短く切った爪で、張り付いていたゴミを削ぎ落とした。
 背後で、扉が開く重い音が響く。
「あ」
 他に声が出なかったという感じの、感嘆詞ともなんとも判別がつかない呟きが短く続いた。その聞き覚えのある声色に、綱吉は山本の影から身体を横にずらし彼の背後に視線を投げる。山本もまた、片腕をコンクリートの床について前に倒した上半身を支えながら、首から上だけで振り返った。
 校則違反どころか年齢的に法律違反の煙草の箱を手に、ひとりの男子生徒が立っている。
 着崩した制服、真ん中で分けて両サイドに流している少し長めの髪。胸の前で煙草を箱から抜き取ろうとしていたのであろう手が、行き場を失ってやがて力なく脇に落ちていった。煙草の箱が、音も無く握り潰される。
 彼の目には恐らく、山本が綱吉に圧し掛かる格好に映ったはずだ。綱吉もやましいことをしていたわけではないから、逃げもせず、怯えもせず、無条件に山本を受け入れている。しかも何も悪いことをしていないのに、綱吉は獄寺の姿をその目にした瞬間、彼と目があった直後、反射的に顔を逸らしてしまった。
 山本の目の前で、獄寺が奥歯を噛み締めて苦々しく、それでいて痛々しい表情を作り出す。
「よう、獄寺。一服か?」
 既に彼の喫煙を止める気が無い山本が、この気まずいばかりの空気を和ませようと平常を装って彼に声をかけた。が、どうしたことか獄寺はキッと山本を睨み、そしてまだ顔を背けたままでいる綱吉を、今にも泣き出しそうな子供の顔で見て、それから全てを振り切るかのように踵を返した。足音を響かせ、開けたばかりの扉を抜けて階段を駆け下りていってしまう。
 その音は段々と小さくなり、山本が三度息を吐くうちに聞こえなくなった。
「なんだ……?」
 山本はそろそろ苦しくなってきていた姿勢を戻しながら、目の前で沈痛な面持ちをしている綱吉との距離の近さを今更思い出した。慌てて身体を引き、元の位置に座りなおす。膝先で、倒れたペットボトルが転がった。
「ツナ?」
「え?」
「獄寺の奴、なんか勘違いしたかも」
「勘……違い?」
 いぶかしげな表情で綱吉が首を傾げる。まだどこか、心此処にあらずの雰囲気をかもし出している。
 言わなくても良いし、山本の自意識過剰な勝手な思い込みかもしれないので、断定が出来るものではないし、本当は違うかもしれないので、はっきりと言ってのけるには山本も多少の勇気が必要だった。獄寺に確認したわけでもないのに、と。
 だから出来れば言いたくはなかったのだけれど、綱吉は首を反対に傾げて、
「なにを?」
 いつもの綱吉なら、きっと気持ち悪がるなり笑い飛ばすなりで冗談と受け取ってくれるだろう。しかし今はそうじゃない、やや臆した山本は視線を浮かせて頬を掻き、どうやって誤魔化そうかと思案する。
 けれど綱吉の真っ直ぐな目は彼の誤魔化しをすぐ見抜いてしまうだろう。そんなところだけが、彼は妙に鋭いから。
「だから、なんてーか、ほら……俺と、ツナが」
「俺と山本が?」
「つまりその……アレしているみたいに見えたのじゃないか、って思ってさ」
「アレって?」
「アレだよ、あれ。だから……キス?」
 わざと語尾を上げる。あくまでも想像の領域だと強調するつもりで。
 だけれど綱吉はそう受け取らなかった。目を丸くして、薄く開いた唇から息を吸うのを忘れ、硬直し、青ざめたかと思うと急に赤くなる。
「え……?」
「だ~か~ら、獄寺がそう見間違えたんじゃないか、て話」
「俺、山本とキスした?」
「いやそうじゃなくて、してないだろ?」
 あの時山本は身を乗り出して綱吉の側に顔を寄せていて、綱吉も全く逃げておらず、後ろに立った獄寺の位置からではふたりが重なり合っていたように見えたはずだ。その状態を見て獄寺が逃げ出したから、山本としては彼が、妙な誤解を抱いてしまったのではと想像しただけに過ぎない。
 だが、今彼の前にいる綱吉の反応は、どうにもおかしい。首を捻りながら山本は眉間に皺を寄せた。冗談と取るか、真剣と取るかで判断もまた違ってくるのだが、綱吉のこの態度のどちらでもない雰囲気がある。確認しようとしている、とでも言おうか。
 山本は己の口元に指を置き、ふと思いついた自分の意見に、僅かに驚く。
 確認? いったい、何を?
「なぁ、ツナ」
 人差し指の先が、下唇に触れる。そこから漏れ出る空気は、出来ればこのまま飲み込んでしまいたかった。
 だのに止まらない。山本自身、声が僅かに震えていた。
「お前、獄寺とキスした?」
「――――!」
 咄嗟に。
 綱吉が山本から距離を取る。後ずさる。背中をフェンスに押し付けてなお離れようと、靴の裏が何度も床を蹴り飛ばした。
 一目で分かる動揺ぶりに、山本は更に驚く。綱吉は嫌々と子供のように頭を振り、両手で耳を押さえ込んでやがてそれ以上後ろにいけないと理解するとその場で膝を折り、間に頭を挟むようにして背中を丸め、身体を小さくする。
「違う、違う……してない」
 かすれる声は風に乗って、即座に遠くへと流れて行く。消え入りそうな綱吉の震える肩を掴もうとした山本の手は、少しの間中空をさ迷った後結局引き戻されて綱吉の体温に触れる事はなかった。
「そんなの、してない……」
 懸命に否定している綱吉に、もう山本はかける言葉が見つからなかった。ふたりの間に何が起こったのか、大体の予測はついたけれど、それはそれで、知らなければ良かったと山本は唇を噛む。なにより、綱吉をこんな風に怯えさせた自分に、そして獄寺に、怒りがこみあげてくる。
 ふたりがギクシャクし始めた前日、あの雨の日。部活をサボって綱吉と一緒にいてやれば、彼はこんな風にならずに済んだのだろうか。最早取り戻せない時間なのに、ああしておけばよかった、こうすれば良かったという考えが堂々巡りを始めて、山本を苦しめる。噛んだ唇の鈍い痛みと鉄の味に、山本は胸の中にある全てのものを吐き出したい気持ちを懸命に抑え込む。
 言えばきっと、綱吉をもっと苦しめるのが分かっているから。
 足元から昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く。スピーカーを通して放射状に広がっていく音を、他人事のように耳で受け流した山本は、行き場の無い怒りをぶちまけるかのように、握った拳で硬いコンクリートを殴った。
 骨が軋み、皮膚が裂けて血が流れる。驚きに目を見開いた綱吉が慌てて両手を伸ばし、身体ごと彼の腕を抱きこんで止めて漸く山本は殴るのをやめる。破れた皮膚の間から溢れた鮮血が、綱吉のシャツを少しだけ汚した。
「山本!」
 咎めるような、責めるような瞳で綱吉が縋る。荒く息を吐いた山本は、今度は自分が泣きそうになって、綱吉に首を振った。無事な手を使い、綱吉を引き剥がし、昼食のゴミを拾って立ち上がる。
「悪い、ツナ」
 拳は痛んだが、平気なふりをして綱吉に笑いかけ、山本は一度だけ空を仰ぎ見た。
 どこまでも澄んだ色をした空は彼には眩しく、吹き抜ける風はとても冷たい。
「山本……?」
「獄寺と、ちゃんと話ししろよ。お前だって、このままは嫌だろ?」
 傷を負った拳を庇い、山本は綱吉に無理矢理作った笑顔を向けた。
 今ここで彼を抱きしめたり、慰めたりするのは可能だろう。けれどそれでは、永遠に綱吉の、心の底からの笑顔は戻ってこないように思う。正直悔しくてならないが。
 綱吉の視線が宙を泳ぐ。行き場を失ってさ迷う瞳は不安に揺れたままだ。
「何があったかは、聞かないから、さ」
 代返はしておいてやる、と軽い調子で言い、山本は踵を返した。獄寺が出て行った時のまま、ぼんやりしている扉を抜けて階段を下りていく。建物の内部に入ってしまった彼の背中は、居残った綱吉の視界から完全に消えてしまった。
 綱吉は視線を落とす。無機質なコンクリートに、山本が残した血痕が薄く残っている。痛々しく、胸を締め付けられる
 どうすれば良いのだろう。
 どうすればよかったのだろう。
 あの日、雨の夕方。

『俺が、十代目を守ります。命を賭けてでも……』

 囁かれたのは、甘いことば。優しい誘惑、そして束縛。
 綱吉を掻き抱く腕は、綱吉のそれよりもずっと太く力強く、彼の身体ごと心を抱きしめる。痛いくらいに引き寄せられ、その胸に顔をうずめながら、彼の体温を感じながら、けれど綱吉は必死に、彼の背中に回されそうになる腕を抑え込むのに必死だった。
 理由は、分からない。だけれどここで彼を完全に受け入れて、許してしまうと、とてつもない事になってしまう気がした。
 自分は今ギリギリの境界線に立っている。それもとてもとても細い橋の上を渡っているようなものだ。少しでもバランスが崩れると真っ逆さまに落ちていく。落ちたらきっと、もう戻れない。
 それが怖い。怖くてならなかった。
『十代目……』
 耳元で囁かれる声は綱吉の背筋を震わせ、熱を呼び起こす。ぞわぞわする感覚は、自分が自分であるのを忘れ去らせようとしているようだ。
 獄寺の腕が動く。きつく拘束されていたのが僅かに緩み、綱吉はほうっと息を吐きながら少しだけ開いた獄寺との距離を眺めた。獄寺が首に巻いたペンダントのごてごてした飾りが遠ざかり、上から幾つかボタンが外されているシャツの、隙間から覗く彼の肌を見て綱吉の頬に朱が走る。
 自分は今、何を想像した?
『十代目』
 鼓膜に反響する獄寺の声に、頭がくらくらする。平常心を取り戻せ、と懸命に心の奥底で呼びかけるなにかに、綱吉は上手く応えられない。
 雨の音が遠い。冷えた頬を冷えた指が這う、撫でられたのだと気づいて顔を上げると、鼻先を他人の吐息が掠めた。
 すぐそこに、獄寺がいる。
 綱吉は漸く理解した。窓の向こうで、稲光が強く輝く。浮かび上がった目の前の獣に、一瞬で体温が急降下した。
 あと本当に数ミリ、だったように思う。一度大きく目を見開き、息を吸った綱吉は、次の瞬間目を閉じて思い切り、獄寺を突き飛ばしていた。
 本の崩れる音が地鳴りのように響き、綱吉は転げるようにしてその場から離れる。床に散っていた紙を踏み、危うく本当に倒れそうになったのを堪え、近くにあった自分の鞄を無意識に引っつかむと後ろを振り返ることなく駆け出した。
 逃げたのだ。
 背後で獄寺の呼び声が一度だけ聞こえたけれど、振り返らなかったし足も止めなかった。むしろ振り払うように綱吉は歯を食いしばって走った。
 気がつけば、自分の家の前に、傘も無かったので全身びしょ濡れで立っていた。心配する母に適当な言い訳をして、リボーンには怪しまれたけれど誤魔化し、その日は何も考えたくなくて夕食と風呂を終えるとすぐに寝た。
 寝て、何もかも忘れてしまいたかった。
 朝目が覚めた時には、全てが無かったことになっていると願った。
 だけれど現実はずっと容赦なく、世知辛くて、厳しい。眠れなくて、眠っても直ぐに目が覚めて、ゆっくり休むどころか悶々としたまま殆ど一睡も出来てない状態で朝が来た。雨はすっかり止んでいた。
 学校を休もうとしたけれどリボーンは許さず、あくびを堪えながら登校していたら待ち構えていたらしい獄寺に会って。
 綱吉は、また逃げた。
 逃げて、学校に逃げ込んで、教室に寄らずにトイレの個室に駆け込み、鍵を閉めてひとり篭もって、ワケが分からないまま綱吉は泣いた。
 どうすれば良かったのだろう。
 どうするのが良かったのだろう。
 混乱する頭で考えて、考えても分からなくて、分からないから余計に泣けてきて、そもそも何故自分が泣いているのかも分からなくて。
 授業開始のチャイムが鳴っても、綱吉はその場所から動けなかった。
 獄寺の声は未だに耳の奥で、壊れたレコードのように同じ場所を繰り返している。
 守る、命を賭けてでも。彼はそういう、事も無げに。十代目を守ると、いとも簡単に、当たり前のように。
 でも違う、違う。欲しいのはその言葉ではない。
 十代目などと呼ばないで欲しい。守って欲しいとは思わない、そもそも頼んでもいないではないか。なのに彼は親切を押し付けてくる、綱吉にマフィア十代目の椅子諸共に。
 彼に十代目と呼ばれるたびに、綱吉は意識させられる。そして考えさせられる。
 欲しいのは十代目などという呼び名でも、その椅子でもない。マフィアのボスになんかなるつもりはないのだから、彼にそんな呼び方で呼ばれたくない。
 彼はあちら側の人間であり、自分とは元々住む世界が違う。今はただ、ふたりの暮らしていた世界がたまたま交差しただけで、いつかは分かたれてしまうだろう。その分岐点は、正式に、綱吉が十代目の地位を拒んだ時だ。
 流されるままにここまで来てしまったが、いずれ答えを出さなければならない時期は来る。その時首を振る向きによって獄寺との関わりも大きく違ってこよう。
 獄寺はいずれ、国に帰る。綱吉が十代目にならなかった時、彼は新たな、真のボンゴレ十代目についていくのだろうか。
 頭では分かっている、理解している。それが彼の為に一番良い方法だというのも納得できる。だのに、心が追いついていかない。
 一度だけ彼は帰ろうとした。あの時も悲しかった。だけれど今、もしあの時と同じことが起きた時、自分は、きっと、あの頃よりもずっとずっと、心が締め付けられて痛むだろう。行って欲しくないと、言えないまま、あの背中を捜してしまうに違いない。
 マフィアの十代目なんて真っ平御免、その気持ちに変わりない。
 しかし、そのマフィアである獄寺に、マフィアを辞めて傍に居てとはいえない。この世界は、一度足を踏み入れたら二度と抜けることは適わない。
 

『俺が、十代目を守ります。命を賭けてでも……だから、大丈夫です』

 きっと、彼のその言葉に嘘偽りはない。彼ならば本気で、命を捨ててでも自分を守ろうとするだろう。
 だから綱吉は、その時が来るのが怖い。
 怖くて仕方が無い。

『お前、獄寺とキスした?』

 山本の問いかけに、答えられなかった。
 言われなくても、気づいている。分かっている。だけれど認めてしまいたくない。
 山本は言った、獄寺が誤解してしまったのではないかと。恐らくはそうだ、でなければきっと彼は逃げたりせず、山本に突っかかってきたに違いない。以前ならば。
 以前の自分達の関係なら。
 あの日から綱吉の心の中で燻っている炎は、チリチリと彼の心を焦がして少しずつ痛みを強くし、余裕を奪い去っている。時間が経てば経つほど痛みは増して、綱吉は呼吸をするのさえ苦しくてならない。
「……だよ……」
 もう授業は始まっただろうか。校庭で笛を吹く音が遠く風に乗って運ばれてくる、屋上に近い音楽室からはピアノにあわせた合唱が。その軽やかな音色に、綱吉の嗚咽が混じってやがて掻き消える。
「……き、だよ……」
 綱吉は両手で顔を抑え、空を仰いだ。涙で滲む世界は指の隙間から溢れる光でキラキラと、目が潰れてしまいそうなくらいに輝いている。
 喉から搾り出した声は綱吉からあらゆる力を奪い取り、誰かに届くこともなく霧散した。
「すき…………だ……よ」
 こんな気持ち、気づかなければ良かった。
 畜生、と悪態をつく。蹴り上げた爪先は虚空を掻いて床に叩き落された。噛み締めた奥歯に、ツンと鼻の奥が痛い。
 自分達はどこで間違って、すれ違って、行き過ぎてしまったのだろう。
「ごく、でら……くん……っ」
 喘ぐように呼んだ名前に、応える声は――無かった。

a Smorker

 目聡くそれを見つけられたのは、ほぼ奇跡に近い。
 人外の、獣としての嗅覚がその結果を導いたとしたら、それはとても皮肉なのだけれど。
 

「スマイル」
 城のフロントロビーにあたる場所ですれ違った彼に声をかけ、呼び止める。ナンデスカ、と振り返った彼に、特に変わったところは見られない。
 あくまで表面上は。
 けれどいつもと、少しだけ違う場所がある事を既にアッシュは勘付いてしまっていて、無表情
にも思われる薄い笑みを浮かべた彼を目の前にし、やや呆れ気味にスマイルの胸ポケットの
僅かな膨らみを指で指し示した。
 一瞬だけスマイルの固まる。そのほんの刹那の動きで、アッシュの予想は正しかったのが知れた。
「何のことかな?」
「それ、出してみるっス」
「いやん、セクハラ」
「冗談は程ほどにしないと逆に格好悪いっスよ」
 スマイルのポケットを指先で軽く数回突っつくと、彼は身体をくねっと捻らせたポーズでさりげなく胸元を庇って隠した。その態度にますますアッシュは呆れ、溜息交じりに自分の長い前髪を掻きあげた。
 赤い、血の色よりも濃い瞳がふたつ、射貫くようにスマイルを見下ろす。
 獰猛な肉食獣を思わせる色合いに、小さく舌打ちしたスマイルは仕方ないといった風情で体勢を戻した。態度から、嫌な相手に捕まったと思っているのがばればれで、少なからずアッシュは傷つく。
 だが感傷に浸ってもいられない。
「スマイル、出すっス」
「えー」
 掌を上にして広げ、スマイルの側へ差し出す。反射的に唇を尖らせて不満を口に出した彼の表情は子供のように素直だ。
「どうしても?」
「どうしてもっス」
 しかもこの期に及んで見逃して欲しいと懇願するあたりが、更に子供っぽい。
 いつもどこかでスマイルにアッシュが甘いのを彼自身が知っているからの、計算に基く動きなのはアッシュだってもうとっくに気づいているのだが、こうやって素直に甘えたような態度で接してくる彼はある種新鮮なので、ついつい許してしまいたいと心がぐらつきそうになる。
 だが、だめだ。今これ以上この場で彼を行かせてしまっては、せっかく注意しているのも全くの無駄。心を鬼にすると瞼を閉じて誓い直したアッシュは、再度強く、スマイルへ手を差し向ける。
「出すっス」
「むぅ」
 重ねて繰り返し言って聞かせ、強固に譲らない。そこにあるものを出さない限り先へは行かせないと身体を張って壁を作り彼の行く先を封じ込む。玄関入ってすぐの場所で捕まってしまった為に、広いロビーの一角といえスマイルには、後に戻る道はあっても先に進む道は閉ざされてしまったようなもの。
 外から帰ってきたばかりだというのに、逃げるだけの為にまた来た道を戻るのも、個人のプライドが
許しはしない。
 反撃のつもりかアッシュを睨み付けて来るが、そんなもの痛くも痒くもない。ただ此処で本気でスマイルが
逃げの体勢に入ってしまうと、アッシュとて追いかけるのは至難の業。先手を打っておくべきだろう、とアッシュは彼の、それでもまだ胸ポケットを庇おうとしてか若干斜め前に出ている右肩を封じ込めた。
 すなわち、左手で彼の方をまず捕まえる。咄嗟に身を竦ませて逃げようという動きに移行しかかるスマイルを更に左手で追いかけて、しかし拘束するのではなく隙の出来た瞬間を狙い、彼の胸ポケットから小さな箱を引き抜いた。 
 赤い、前面に白抜きでブランド名が書かれている箱。シンプルで飾り気のないデザインは、他でもない彼が愛用している――とうの昔にユーリから禁煙令が出されてとっくにやめていなければならない――煙草だ。
 あっさりと煙草を奪われ、その後開放されたスマイルはますます顰め面を作り、拗ねた様子で足元の床を一度二度、蹴りつけた。
「物に当たるのは良くないっスよ」
「て言うか、なんで分かるのかな」
「臭い。さっき外で吸ってきたばかりっスね?」
「一時間くらい前ダヨ……」
 吸ってきた事はもう否定せず、だが見抜かれたのがよほど悔しいらしい。更に床板を踏み鳴らし、帰ってきて
早々アッシュに出会い頭で擦れ違ってしまった運命を嘆く。
「傷つくっスねー」
「返して」
「だめっス。これは没収」
 言いながら手を伸ばしてきたスマイルをかわし、手に持った煙草を奪い返されぬよう頭よりも高い位置にまで持ち上げ、アッシュは首を振って拒絶を表す。それでも尚あきらめないスマイルが、背伸びをしながら必死にくらいついてくるものの、身長差は歴然としており、無駄な徒労と終わる。
「ユーリに言うっスよ」
「ぐ」
 それでもなおあきらめきれない様子のスマイルに、仕方ないとばかりに切り札を口に出す。
 他でもなくスマイルはユーリに一番弱くて、そのユーリが一番スマイルの喫煙に反対している。彼の言うことならば大抵、多少の無茶でも聞き入れてしまうスマイルだから、一時しのぎかもしれないがアッシュがその名前を出すことで諦めてくれる場合も多い。
 案の定、あの銀の髪の青年を思い出したのか、スマイルは苦い顔をして伸ばしていた手を引き戻した。
「黙っていて欲しければ、おとなしく諦めるっス」
 だがこのひとことが余計だった。ぴくりと反応した彼が、難しい顔をして隻眼の視線を左右斜め上下に揺らし、考え込む。
「スマイル?」
「うー……じゃぁ、ユーリに言っても良いならそれ、返してくれる?」
 そんなところで悩まないで欲しい。
 がっくりと脱力してしまったアッシュを尻目に、スマイルは本気で悩んでいる様子。うーんともむーん、ともつかないうめき声を搾り出しつつ、顎にやった指を神経質そうに揺り動かして中空を睨んでいる。
 このままでは、ユーリに知られてもいいから今その煙草一本が欲しい、と言い出しそうな雰囲気だ。それではせっかく優位に持ち込んだ状況がまたぐらつくことになる。
「とっ、とにかくこれは没収っス。ユーリにもちゃんと報告しておくっスから、しっかり叱られて反省するっス」
「えーー」
 約束が違うじゃないかとスマイルは声高に叫び、握りこぶしをアッシュの胸に何度もぶつけてくる。けれど狼人間として強靭な肉体も持ち合わせているアッシュにはほとんど効果なく、殴っている本人が空しいだけ。
 ぶすっとした顔でちぇ、と舌打ちし、負け惜しみにアッシュの脛を蹴り飛ばす。
 流石にそれは少々痛かったアッシュが顔を顰め、その様子に彼は少し気が晴れたのか満足そうにいやらしい笑みを作る。
「スマイル……」
「てか、アッシュ君鼻良すぎ。流石犬」
「俺は犬じゃないっス」
 幾度となく否定し続けている事をいまさらに繰り返し、はぁ、と溜息。
「スマイルも、いい加減諦めたらどうっスか? どうせバレるっスよ」
 アッシュだけでなく、ユーリもああ見えてかなり敏感だ。僅かな違いも見逃さない観察眼は、彼らの人気をゆるぎない不動のものにするに一役買っている。ユーリあってのDeuilであり、また彼の力が強いからこそ、今後も自分達は大丈夫だと思えるのだから。
 スマイルでさえ、ユーリの前ではロクな口答えも許されない。ユーリの前に立つとスマイルも、アッシュも、等しく耳を垂れるばかりだ。まぁ、ユーリはユーリでしっかりしているように見え、案外妙なところで抜けていたりするから、どういうところでバランスは取れているのだとも思うのだが。
「そんなに臭うかなぁ……一応時間見て取れたと思ってたのに」
 自分の袖に鼻を近づけ、くんくんと嗅いでみるがスマイルには分からない。もとより煙草の臭いに慣れきっている彼に分かるはずはないのだが。
「臭いっスよ、まだ」
「うそぉ」
「嘘言ってもしょうがないっス」
 信じられないという顔をするスマイルに呆れ、息も若干臭いがすると教えてやる。
 ふぅん、と相槌を打った彼の顔が、若干、怪しい色に染まった。
「ねぇ、アッシュクン?」
 一瞬の見間違いか、アッシュを呼んだ彼の声は普段と何も違わないトーン。けれど少し音量は絞る感じで、内緒の話でもしたいのか、立てた人差し指を自分の側へ何度も曲げ伸ばししている。近づけ、というしぐさだ。
 そこでまんまと、怪しみつつも顔を寄せていってしまうのはアッシュの素直さを表していて、美点だが、同時に一番の欠点。狼人間として鋭敏な嗅覚を持っている彼の鼻先で、あろう事かスマイルは、先程から煙草のにおいが目立つと指摘されている息を、肺からいっぱいに吐き出したのだ。
 強襲にあい、反応が鈍ったアッシュはこれもまた胸いっぱいに吸い込んでしまい、顔が梅干を食べたときのようなくしゃ顔になる。息を吸えばいいのか吐けばいいのか分からず、苦しくて顔を赤くしたり青くしたりさせながら必死にもがくその隙をついて、スマイルはアッシュが握ったままでいる赤い小箱を奪い返した。
「も~らい」
 もともとは彼のものなのだから、その台詞は変なのだが、スマイルは気にしない。勝ち誇ってうれしそうに笑い、未だ玄関先で苦しんでいるアッシュにざまあみろと見送りつつ、バックステップでホールの奥へと向かう。住み慣れた場所であり、どの方角へ進めば階段があるのか、知り尽くした動きだった。
 が。
「う~~…………ぁ」
 長く呻いた後、漸く呼吸できるようになったアッシュが、身体を丸めつつスマイルを涙目で睨む。嗅覚が麻痺したような感覚の中、薄く滲む視界で逃げいくスマイル以外のものを見つけた。
 短い呟きを聞いたわけではないだろう。しかしスマイルもまた、背中にひんやりと、決して立ち入ってはならない禁域がその場にあるような、恐ろしい気配を感じ取り、足を止める。
 振り返ってはいけない。今すぐにそのまま向いている――すなわちアッシュがいる方向へ逃げるべきだ。本能が、直感がそう告げている。しかし足はまるで接着剤か何かで床に貼り付けられてしまったかのように持ち上がらず、動かない。懸命にもがいてみるが、指一本さえピクリともしない。金縛りにあったかのようだ。
 背中が冷たい汗で濡れる。早くどうにかしなければならないと分かっているのに、硬直したままの身体は必死に命令を下す脳の意思に反し続ける。
 視界の中で、アッシュが自分は知らないとぞいう顔を作っていた。その表情からも、背後にいるのが誰であるかが容易に読み取れた。
 いったい、いつからそこにいたのだろう。
「ほう……スマイル、随分とうれしそうだな。いったい何をアッシュから貰ったのか、私にも教えてくれないか」
 口調は至極丁寧、優しげ。しかし……
 凍りついた笑みでスマイルは声がした方向を恐る恐る振り返る。予想が裏切られることを百万、百億分の一の確率であっても期待したのだが、あえなく夢や希望は打ち砕かれた。
 そこに立っていたのは間違いなく、他の誰でもない、我らがリーダー。
 銀色の髪と白い肌、鋭い牙に真紅の瞳。闇夜を切り裂く漆黒の翼を持ち、その甘美な歌声は世の全てを魅了する。
 怪しげな微笑みを湛え、すらりとした肢体を佇ませて、ユーリはそこにいた。
 細めた目は表面上笑って見えるが、その内側に渦巻く感情がどのようなものであるかなど、言葉にしなくてもひしひしとスマイルに伝わり、真綿で首を締め付けるように彼を圧迫する。スマイルの隻眼に、ユーリの背後に真っ黒い闇が渦巻いて見えるのは、気のせいだと思いたかった。
「いや、これはその、あの、なんていうか……」
 言葉につまり、視線を宙に漂わせスマイルはしどろもどろに受け答えしようと試みるが、うまくいかない。呂律が回らなくなった舌を噛んで、その痛さに俯いた。
 今この場で床が抜けてくれないだろうか。そんなことさえ思いながら。
「で? なにを貰ったのだ?」
 ユーリの声は先程とかわらず、穏やかに、にっこりと微笑む彼はもはや地獄の修羅に等しい恐ろしさだ。
 だらだらとスマイルの全身全部の汗腺から汗が溢れ出す。一度振り返り、ユーリの視線に居竦んだ状態から一歩も動くことが出来ず、言い訳をする力もその微笑に全て吸い取られてしまった。
「う……えと、そのぉ……」
 助けてくれる人を求めて瞳だけで周囲を見回すが、とばっちりを恐れてかアッシュが台所方面へ逃げていく後姿が消える瞬間が見えただけ。広すぎる城に暮らすのがたった三人、というのが命取り。
 ユーリの笑顔がスマイルに迫る。細められた目だけが、笑っていない。
 直後、スマイルの絶叫が音響効果も格段に宜しい玄関ホールに響き渡る。

 その夜食事の席にスマイルの姿はなく。
 また、城の外、屋根の上から吊るされたロープの先端に、頭を下にして簀巻きにされたスマイルがぶら下がっている姿を何人かの夜の住人が確認したという。

 

a trifle

 のんきに鼻歌を歌いながら、リビングの扉を開けたのは丁度陽も翳り始めた夕方の五時ごろだったかと思う。今日の夕食の献立のチェックと、誰も使っていないようであればテレビを占領してやろうという程度の魂胆で足を踏み込んだ場所は、しかし誰かが使っていた形跡が目の前に見られ、スマイルを少しばかりがっかりさせた。
 テレビこそ電源が入っていなかったが、壁際のオーディオ機器からは静かめのゆったりとしたメロディが流れ出ている。隻眼を細めて窺えば、ソファ向こうのテーブルには何か作業中らしき、万年筆と五線譜にメモ書き用だろうか、ノートが広げられておかれていた。外からの明かりだけでは明るさが足りないのか、天井のライトには既に光が灯っている。
 けれど広いリビングを見回しても、この場所にいたであろう存在の姿は見つけられない。だが明らかに少しだけ席を外していると分かる作業途中で放り出されたテーブル上に、じき戻って来るだろと予測だけして、スマイルはテレビを見ようとソファの前に回り込んだ。
 書きなぐりが目立つ五線譜の下に埋もれていたリモコンを発掘し、スイッチを入れる。だがテレビ本体の電源がきられてしまっているようで暫く反応せず、面倒くさいと感じつつスマイルは立ち上がる。リモコンよりも本体側の電源を落とした方が待機電力が減るからという理由で、こんな事をしてくれるのはアッシュだろう。姿の見えない相手を若干恨めしく思いつつ、テレビの前まで歩み寄る。
 ガコン。
 硬いもの同士がぶつかり合う、痛そうな音が聞こえた。
 思わず足を止めて周囲を見回して確認するが、自分が音の発生源でないのだけは確実。なんだろう、と首をひねっているうちに、またひとつ、さっきよりは控えめな音が響いた。
 今度は注意しながら聞いたので、なんとなくであるものの、どこからの音かが分かった。軽くまげていた腰を伸ばし、怪訝な面持ちでそちらを向く。すなわち、リビングから間続きのダイニングより更に向こうにある、一枚扉を隔てた先――台所を。 
 アッシュが暴れたのだろうか。身体の大きい彼だけに、転べばそれなりに大きい音も響くだろう。大した考えも持たずにスマイルは再び、テレビをつけようと構える。
 けれどその手がスイッチを押す手前で止まった。なんとなくであるが、引っ掛かりを覚えるところがあった。己の直感を信じるであれば、どうにも変な感じがするのだ。
 スマイルは伸ばしていた指を曲げ、腕を持ち上げ頭を軽くかきむしった。お人よしというか、妙に神経質というか。自分の性格を呪いつつ、彼はつま先を大きく方向転換させた。長テーブルがどんと構えているダイニングを通り抜け、閉まりの悪い扉のドアノブをつかみ、僅かに力をこめて引いた。ぎし、と古めかしい音を立てて扉は思うよりもすんなり開かれる。
 中は、薄暗かった。
 もともと北向きに作られているから、窓からの明かりはそう期待できない。だから常に誰かが使用する場合、台所の電気は必須だった。しかしそのライトが今は消えている。夕暮れも遠い台所は、もう既に夜の闇に近い状況にあった。
「もしも~し?」
 自分でも我ながら間抜けだと思うのだが、明るい場所から入った所為で未だ目が慣れぬ中、うかつに足を踏み込むのも憚られる思いから若干語尾が間延びした声で内部に呼びかけを試みる。返事は直ぐになく、あまりにも静かなものだから、てっきりバランスが悪くおかれていたものが床に落ちた音だったのだろうと思い直しかけていた頃。
 台所の作業台としておかれている、シンクと背中合わせの形でおかれているテーブルの辺りで、もぞもぞと何かが動く気配があった。ついびくっと片足を引き加減で構えてしまったスマイルだが、テーブルに置かれた白い、どちらかといえば血色の悪い手に心当たりを覚え、安堵の息をそっと吐き出す。
「ユーリ」
 その名を呼ぶと同時に、テーブルの向こう側からにょっきりと、でも表そうか。銀色の髪を持つ青年が生えてくる。否、姿を見せた。心持ち不機嫌そうな、嫌な場面を見られたと表情が告げている。
「なんだ」
「ナンダロウネ……。凄い音がしたから来ただけなんだケド」
 凄みを利かせたつもりらしい返事に、若干釈然としないままスマイルはことばを紡ぐ。その調子でユーリの立つ側へ回り込むと、案の定彼の足元には倒れた、脚の長いスツールが転がっていた。
 足を伸ばし、つま先でスツールを構成している細い金属部分に持ち上げ、椅子を正しい姿勢に戻した上で、
「落ちたノ?」
「うるさい」
 聞けば、一蹴されてしまった。苦々しい表情で顔をそらしている彼は、右手に何かをつかんだまま、ぶつけた箇所なのかその肘近辺を左手で押さえ込んでいる。だが座っていた椅子から落ちる理由は何なのか。居眠りでもしていたというならば話は分かるが。
「何やってたのサ……」
 理由を言いたがらない彼に渋って、スマイルはユーリに手を伸ばす。右手に後生大事に握り締めているものの正体が、原因であろうとは直感的に感じ取っていた。
 反射的に身を引こうとするユーリより一瞬早く手首を取る。痛がらない程度の力加減に気を配って彼の手の中のものをあらわにさせた。
 それは、
「電球?」
 訝しげに、ユーリの顔を覗きこむ。決まりが悪そうにしながら、彼は傍にあったスツールの足を軽く蹴り飛ばした。それは僅かに揺れたものの、倒れるには至らず恨みがましい音を立ててふたりの耳を不快にさせた。
「コーヒーを飲もうと来てみたら、チカチカしていたから……新しい電球もあるようだったし、交換しておこうと思って、だな」
 このまま黙秘も貫けないと悟ったのだろう。渋々ユーリは握っていた電球を、転がり落ちないように注意しながらテーブルに置く。根元が黒くなって煤けており、それはずいぶん長い間働いて、働き終えたものの姿だった。
「椅子に上って外していたんだが、立ち位置が悪かったらしくなかなか届かなくて……外し終えた瞬間バランスが崩れてしまってな」
 それで、咄嗟に掴んでいた使用済みの電球が割れないように庇い、背中と腕から落ちたというわけだ。
 台所の明かりが点いていなかった理由がようやく判明し、スマイルも納得する。けれど同時に疑問も浮かんで来た。ユーリならば、その背中に生える翼を使えば何も椅子という道具を踏み台にしなくても高い場所に手が届くではないか。
 率直な疑問を口にしたスマイルに、ユーリは周りを良く見ろ、と台所空間をぐるっと指で指し示した。
「……ナルホド」
 今度こそスマイルは納得し、深く頷かざるを得なかった。
 ユーリの翼は大きい。普段は小さく収納されているが、実際に空を駆ろうとするならば今のサイズの十倍かそれに近いサイズまで広げなければならない。両翼までの長さは軽く彼の身長を凌駕しており、そんなものがこの狭い――とはいえ、一般家庭の台所に比べればはるかに広いだろうが――広げられた場合、どうなるか。
 想像に難くない。
 ユーリの身長では、背が高めのスツールの上に立ち上がってめいいっぱい腕を伸ばしても、ぎりぎり天井に指先が届くかどうか、だろう。よくぞ外すだけ外せたものだ。光が届かない分床面よりも薄暗さが濃い上を見上げ、ぼんやりとスマイルは考える。
 その状態のまま、彼はユーリに向かって広げた手を差し出した。
「?」
 真意が読み取れず、ユーリはスマイルの顔と包帯に覆われている手とを交互に見比べる。その間も、彼の手は何かを掴もうとしているのかしきりに曲げ伸ばしが繰り返されていて、海底のイソギンチャクを思わせた。
 ものの十秒は経過しただろうか。反応のないユーリに痺れを切らし、スマイルが彼を見下ろす。
「電球」
「……さっさと口で、そういえば良いだろう」
 自分が交換に行くから新しい電球を渡せ、というポーズだったらしい。言われてようやく気づいたユーリは悪態をつきつつ、テーブルの端においておいた新品の、まだ封も切られていない電球に手を伸ばした。包装を剥ぎ、割れやすい電球部分を慎重に持ってスマイルに手渡す。根元を掴んだスマイルは、スツールが倒れないようにゆっくりとバランスを計りながら、左膝を座席部分に載せ、爪先で中空を蹴る動作を繰り返し靴を床に落とす。右足分は靴底を床に押し当てこすりつける摩擦で脱ぎ捨てた。
 一気に高い位置にある椅子に上る。立ち上がって下を見下ろせば、ユーリの心配げな表情が暗がりの中読み取れた。
「机に立ってやれれば楽なんだけどねぇ」
 ぼやきと取れる呟きをこぼす。食べるものを並べるためのテーブルに土足、否靴を脱いでいたとしても足を載せるというのは常識的に憚られて、ユーリはプライドもあってか許せなかったようだ。そんな彼の前で自分が机に載ってみせようものなら、足蹴にされるどころでは済まないかもしれない。
 臍の辺りに力を入れて体勢が崩れないように気を配りつつ、天井に右手を押し当ててそれを支えにし、左手で持った新しい電球を、天井に作られた窪みの中に向きを注意させながら押し込む。金属同士がこすれあう感覚が指先から伝わって、それを頼りに見えない場所での作業に意識を集中させる。いっそ右目も見えないようにして感覚だけを頼りにやった方がよさそうだ。そう思って目を閉じようとしたら、下からユーリの不安げな声が聞こえたので、やめた。
 電球の溝を天井の穴にしっかりと奥まで噛み合わせ、外れないかだけの確認を電球の頭部分を軽く掴み、左右に促して確かめる。ようやく空になった左手も天井に押し当てると、低い位置にいるユーリがさっきとは違う、複雑な顔をしているのが遠くに見えた。どんな顔をしているのかと、強いて言葉で表現してみせるとしたら、自分が苦労させられた高さに平然と手を届かせてしまうスマイルへの、羨望というよりは妬みに近い感情に、自分自身で戸惑っていると言ったところだろうか。
「よっ」
 短い掛け声をあげ、スマイルは椅子から飛び降りた。その瞬間、あ、と声を出したユーリが咄嗟に身を引いたのだが、逃げる場所が宜しくなかった。スマイルも後から考えれば、降りる方向を先に教えておけばよかったと思うのだが、飛んだ方向が丁度、ユーリが逃げようとした先と体半分ほど重なってしまっていたのだ。
 空中で身体をひねり避けようとがんばってみたものの、所詮は椅子から下へ降りるだけの距離しかない。右肩がユーリに当たる感触に顔を顰めつつ、スマイルは避けようがないまま床に転がった。すんでのところで、ユーリを下敷きにしないよう彼の頭部に腕が回せたのだけが、幸いとしか言いようがない。
「いてて……」
 ユーリを抱き込むような格好で落ちた為に、肘を思い切り強打してしまった。指先が麻痺したようにジンジンと鈍い痛みを発し動かせない。
 しかしかばわれた側には関係なかったようで、最初の数秒間だけはびっくりした顔で直ぐに反応できなかったユーリだが、数回の瞬きの後、我に返って、
「重い」
と、ひとことだけ。苦悶で顔を顰めているスマイルの胸を押し返し、自分の上から追い払ってしまった。
 さっさと立ち上がり、服の埃を払う。再び倒れてしまったスツールを本来の位置に戻し、壁のスイッチを押して交換したばかりの電球がちゃんと点くかの確認を。その頃にはもうスマイルも、どうにか起き上がれるようになっていて、打ってしまった肘を庇いつつ机に凭れ掛かる。使い古しの電球を、用済みになった新品電球が入っていたケースに押し込んだ。
 カチカチと数回明滅した後、天井からまばゆい光が一斉に降ってきた。いきなりの眩しさに隻眼を閉じた上、瞼を通り越して感じられる光をも遮ろうと無事な左腕を持ち上げて目を庇ったスマイルに、ユーリは小さく笑ったようだ。
「直ったようだな」
 光の下で元気な吸血鬼もあったものではないが、彼は嬉しそうに言って、壁の時計を見やった。思った以上に手間取ってしまったと、時間を気にして舌打ちする。
 そういえば、とスマイルはここで、普段この時間ならば台所の主と化しているアッシュの姿がないことに今頃になって思い至る。どこへ行ったのかと問えば、呆れた声が返ってきた。
「アッシュならば、今日からソロコンサートでホテル住まいだろう」
 言われてから、そういえばそうだったと思い出す。部屋のカレンダーにだって、しっかりと自分で、アッシュは今日から居ないという旨を書き込んでいるくせに、忘れるとは。
 迂闊だった。
「え、じゃあ今日の晩御飯は?」
 昼は外で済ませて来たので、朝食を準備し終えたアッシュがそのまま出かけてしまった事など、まったく気づかなかった。午前中ずっと城にいたならば、もっと早く彼の行動スケジュールを思い出していたであろうに。
「さぁな。好きなものでも作ればいい」
 カレーなど得意であろう、と他人事のように言ってのけたユーリは胸を張ってふんぞり返っている。自分は作る気など全くありません、と態度が示している。スマイルは頭を掻き、溜息を吐く。
 まいったなぁ、どうしよう。
 思考は回って一巡して、壁の時計を見上げて腹の空き具合を確かめる。ちらりとユーリを盗み見て様子を伺うと、さっさと結論を出せとスマイルを軽く睨んでいた。
 だから彼は明るくなった天井を仰ぎ、今度は頬を掻く。
「ユーリぃ」
 語尾が間延びした声で呼んでみた。
「ぼくの好きなものでイイ?」
 アッシュも居ない。夕食の時間が近いとはいえ、一日はまだ長い。
「カレーで構わないぞ」
「いや、それじゃなくて」
 淡々と返される言葉に首を振って、真剣な表情で彼を見据える。ちょっと予想外だったらしく、ユーリの顔が僅かな驚きに彩られる様を見下ろして、問う。
「ユーリ、食べてもイイ?」
 ガンッ。
 ユーリのつま先が直後スマイルの腹部にめりこみ、彼は本日二度目の、床への落下を余儀なくされた。

insanity

 春が来る。
 淡い薄紅色に染まった空から、はらはらと降り注がれる小さな花びら一枚一枚が、まるで天から舞い落ちる季節外れの雪のようで見つめるうちに自分がいる場所が果たして現実か、夢の中の幻想なのかが区別もつかなくなりそうな。
 そんな春が、また今年も巡ってくる。
 吐息は霞み、穏やかな日差しと、それでいて吹き付ける風の思いの外の冷たさというアンバランスさも手伝って、ふわふわと足下に綿を一枚挟み込んだような、危うさが全身の気怠さを拡大させているようでもある。
 冬を乗り越えた芝が灰色に近い枯れた姿から新たな目を息吹かせ、頼りない芽を懸命に伸ばそうと空を目指している。到底届かないと分かっているのかいないのか、それでも必死になって両手を広げている姿は滑稽さを通り越し、むしろ哀れにも思われる。だが彼らにとってはその行為は至極自然の行動であり、哀れに感じるのは上から見下ろすしかない自分たちの身勝手な思考に過ぎない。
 再び、空を見上げる。
 見事に咲き誇る桜は、この一時期を過ぎればその存在を忘れられるに等しいただの巨木でしかない。だからこそ、例え一年の大半を無視されようとも、春にだけは人々の関心を招きその樹下に招こうとして、狂おしいばかりの花を咲かせるのか。
 よく言う話には、桜の木の下には死体が埋まっているのだという。桜はその死体の血を吸って、淡い色を花びらに浮かせるのだと。
 そんな現実離れした話が生まれたのも、ひとえに桜という花が、咲く姿に狂気を呼び起こしそうな雰囲気を含んでいたからか。
 スマイル、と。 
 不意に呼ばれた声に振り返る。
「やぁ、ユーリ」
 どうしたの、と重ねて声を紡ぎ、半身を捻るだけの姿勢から足を一歩踏み出して完全に身体ごと向き直る。
 城の窓辺で、物憂げな瞳を数回瞬かせた彼は、春だけに見事な花を咲かせる巨木をぼんやりと見ていた。そして、絶えず降り注ぐ花びらの中に佇むスマイルをも、また。
 けれど彼の瞳がかつてのような輝きを宿しておらず、彼の目に映る世界が果たしてスマイルの前に存在し、スマイルが見ているものと同じものであるかは、最早分からない。
 ふと、彼が薄い唇を震わせて何かを呟いた。
「ユーリ?」
 聞こえなかったスマイルが名前を呼ぶが、ユーリは反応しない。何処を見ているのか、外された視線は彼方を向いていてスマイルは一歩彼へと踏み出した。しゃく、と足裏に枯れ葉と散った桜と、芽吹いたばかりの芝が入り交じる感触が触れる。
 直後吹いた風に、桜が煽られて渦を巻いた。
「うっ」
 細かい砂やなにやらも一緒に巻き上げられ、瞬間的にスマイルの視界を奪った。左腕を反射的に持ち上げて隻眼を庇い、裂けるような音を耳に響かせる風が過ぎるのを待つ。
 その間僅か数秒の出来事だったに違いない。けれど次に瞼を開けた時には、彼の前からユーリの姿は掻き消えて無くなっていた。
「ユーリ……?」
 年甲斐もなく自分が焦りを感じていると声の調子が露骨に教えてくれる。きょろきょろと左右に視線を振り回してか細く頼りない、抱きしめればぽきりと折れてしまい兼ねない身体を探す。
「ユーリ!」
 二度目に呼んだ声は荒っぽく乱暴な口調になっていた。奥歯を噛みしめて、誰にも表せない感情を喉の奥へ押し戻してもう一度呼ぼうと、冷たい空気で熱波を孕む胸を冷やす。
 丹朱の瞳を細め、挑みかける風に城の、開け放たれたままの窓を睨みつけて下唇を噛んだ。彼のいた場所は空白のままで、色が抜けてしまった写真のように物足りなさと切なさが同居して見える。
「…………ユーリ」
 けれどそれに気づいてしまった途端、声からは気力と迫力が失せ、ただの呟きとして足下に転がっていった。
 あはは、という笑い声がそれに重なる。
「っ!」
 速攻で振り返り、スマイルは片方だけが生き残っている眼をこれでもか、という程に大きく見開いた。
 咲き誇る桜の下、ユーリが何を思ったのか空色の傘を広げて立っていた。
 声を立てて笑う姿は、まるで無邪気な子供のようでもある。くるくると両手で握った傘を片方の肩で支え、くるくると回しながら降ってくる桜の花びらを受けてははじき飛ばし、遊んでいた。
「ユーリ?」
 何をしているのだろうか、とじっと彼の動きを見守ってみるが、どうにも理解しがたい。大体この晴れ渡った空の下、傘を広げる理由がつかみ取れない。
「ユーリ、今は雨なんか降ってないよ」
 思わず口をついて出た言葉に、二秒後しまったとスマイルは口に手を当てて悔やむが、時既に遅く。傘を持ったユーリがゆっくりとした動作で振り返って、そこで初めてスマイルが近くにいるのに気づいたような顔をして、笑った。
 なにを言うのか、と。
 雨が降っているではないか、と。
 そう言い返し、ユーリは傘を軽く前後に揺らして降り積もっていた花びらを落とす。その間にも大樹からはぐれた花弁が無数に地表に降り注ぎ、確かに光景としては雨が降りしきる様に似ていない事もない。
 だが……。
 スマイルは再度、浅く唇を噛んで俯いた。爪先が埋もれてしまいそうな桜の散り方は、哀れに儚い命のあがきとさえ思えて、涙が出そうだった。
 スマイル? 
 名前が呼ばれる。その声は過去の記憶となにひとつ違わない、ユーリの姿そのままなのに。
 何が悪かったのだろう、何がいけなかったと言うのだろう。
 どこかで、なにかが狂った。たったひとつの歯車がずれただけで、それまでの全てが崩れ落ちた。
 ただ今となっては、その歯車がどこにあったのかも分からない。小さな、僅かなゆがみが少しずつ少しずつ、全てをずらして壊して行った。
 最初のきっかけは、露と消えた過去の過ちは、最早手元に戻らない。
 雨ならば、降っているだろう。
 不思議そうにユーリが言う。スマイルは鷹揚に、やや間をおいてから頷いた。
「そう……そうだネ。うん、降ってる」
 青と、薄紅色の混ざる空を見上げてスマイルは本当に言いたかった言葉を無理矢理飲み込ませた。
 雨とは縁の無さそうな空がどこまでも高く広がっている。
 桜は足下に佇むふたりなど何処吹く風で、花弁を雨のように降らせ続けている。
 ユーリの笑い声がこだまする。それはどこか遠く、彼方の声の如くスマイルの耳に響いて消える。
 全身を包み込む桜の、感じない筈の薫りに噎せそうになって前髪に引っかかっている花弁を指で追い払う。
「春は、……嫌いかもね……」
 ぽつりと呟き、右目を片手で隠す。
 スマイル?
 間近で囁かれた声に指の隙間から覗けば、ユーリがスマイルの頭上にも傘が届くように手を伸ばして立っていた。銀色の細い柱を挟んで、眩しい笑顔を浮かべるユーリが其処に、確かに立っている。
 いつもと変わらない、違わない笑顔で。
 雨が降っているのに、どうしてお前は私のように傘を使わないんだ?
 莫迦だなと、屈託のない笑顔で言われて、何とも言い表しがたい表情をかみ殺しスマイルは泣きそうな笑顔で彼に応えた。
「そう……うん、そうだネ」
 ぼくは、莫迦だからこんな簡単な事も分からないんだよ。返して、自嘲気味な笑みを形作ればユーリは仕方のない奴だな、と更に微笑む。
 まったくお前は、私が居ないとダメなんだから。
 そうやって語るユーリに、スマイルはいよいよ顔を伏せ、残っている右目を硬く閉ざした。
 スマイル?
 耳の中にいつまでも木霊する、柔らかく呼びかける声。
 風が吹き、巨木の枝が激しく揺すぶられる。流れてきた雲の群れが太陽を隠し、日差しが陰った午後の庭が暗がりに導かれる。
 絶えきれず枝々から離れた花弁が儚く空を舞う。スマイルの頭に、肩に、それらはぶつかりながら地面に積もり、彼の爪先ならず踵までをも埋め尽くして彼をその場に固定する楔に変わる。
 もう数年、或いはそれ以上なのか。使われなくなって、とうに朽ちて原型とを留め無い、傘だったものの成れの果てと思われる鉄さび色の濃い細い骨組みが地面の緑と桜色とに染められ、彼の前に横たわっていた。
 探し求める人の姿は、霞に消えて見つけられない。
 スマイルは声を押し殺し、引き千切れるのさえ厭わない強さで唇を噛んだ。
 風が桜を不可思議に煽り、踊らせる。
 視界は全て血の色に染まり、彼の目にはもう、なにも映らない。
 映さない。
 ただ、風が哭く。

春は狂気

Smart Fantasia

 久方ぶりに繰り出した街は、今日が週末という事も合ってかかなり混み合っていた。
 空を見上げれば澄み渡る冬の空、しかし浮かれ気分の街の姿は寒々とした雰囲気と熱波のような空気とが入り交じる不可思議な空間と化していた。
 道を行く男達のうち、背中を丸めてなるべくショーウィンドーや今日という日のために特設で設けられたワゴン販売に目を向けようとしない類は、今日が早く終われと心の中で想っている輩に違いない。逆に、しまりのない顔をして鼻の下を伸ばし、或いは楽しそうに語らいながら女性を連れて歩く男は、今日という日の恩恵に預かった男なのだろう。
 聖バレンタインデー。
 世の女性がそわそわと落ち尽きなく、また男達も気もそぞろになる一日。
 すっかりイベントとして定着してしまっている為に、この季節に合わせて販売される限定チョコレートも数多く、甘い物好きとしては別の意味でも楽しみなイベントなのかもしれないが。
 若い女性が群がって品定めをする一角に目をやり、ユーリは小さく溜息を吐き出す。
 彼の視界にちょうど、近年は平均身長も高くなってきているとは言え、まだまだ小さい女性の中に紛れて頭ひとつ分もふたつ分も大きい姿が映ったからだ。
「馬鹿者が……」
 仕事が午前の段階で片づき、昼以後夕方までの時間が空いてしまったので、ならばちょっと買い物に出向かないかとアッシュに誘われてのこのこついてきてしまった自分を恨みそうになる。彼はスマイルにも声をかけていたのだが、向こうは用事があるから、と断ったらしい。
 だからユーリにアッシュの矛先が向いたわけなのだが、何処へ連れて行かれるのか教えて貰えぬままついて来た先が、この甘ったるい薫りと女性の香水臭、時にはけんかになりそうな喧噪に溢れた場所。今日のために特別に設けられたチョコレート売り場だった。
 冬の寒空の下、開かれた場所で風通しも宜しいというのに熱気がむんむん立ちこめて湯気まで昇っていそうで、近づけば確実にはじき飛ばされるに違いないからとユーリはひとり、離れた柱に寄りかかってアッシュの買い物が終了するのを待つ。
 彼くらいならば、自分で買わずともどこかの雑誌に「○○のチョコレートが食べたい」と言えば、山のような商品がファンから送りつけられてくるだろうに。わざわざ自分で買いに行く必要性が何処にあるのか、ユーリには疑問だった。それでなくとも、女性ばかりのワゴンの間を、男がひとり両手にチョコの箱を抱えて進むのは異様だというのに。
 あれが自分に近付いてきたら、周囲の女性陣が奇異の目で見つめる先に自分も含まれるようになるのだろう。想像して顔が青くなりそうで、額に手をやったユーリは緩く首を振りひとり先に逃げだしてやろうかと本気で考え始める。
 スマイルのように、用事を理由にして断ってしまえば良かったと後悔したところで最早時既に遅し。有名洋菓子店の綺麗な包装紙に包まれた箱を籠にいっぱい詰め込んで、嬉々とした顔でレジに並ぶ身長180センチ越えの男を遠くに見やり、再度溜息を零してユーリは変装用にと被っていた帽子を目深にさせた。
 もう既にアッシュの正体に気づき始めている女性もいる。彼の甘い物好きは業界外でも有名なので、レジに嬉しそうに並んで待っている彼を邪魔しては悪いという空気が周囲にあるようだ。けれども彼がひとたび会計を済ませ、踵を返した瞬間、果たしてどうなるか。
 自分に助けを求めてくれたりするなよ、と山のような女性に取り囲まれて逃げ場を失う自分たちを思い浮かべ、ユーリはこっそりとアッシュに気づかれぬように柱から離れた。
 後ろで、海外ブランドメーカーのチョコレートが売り切れとなったという声が聞こえ、同時にブーイングの嵐が発生していた。そこはさっきアッシュが三箱ほど買い込んでいた店でもあって、あの男が来なければ少なくとも三人の女性にはチョコレートが回っていたのかと考えると、罪作りな男だなぁ、と笑ってやりたくなる。
 けれどいい加減甘ったるい薫りが立ちこめる場所に居続けるのも苦痛で、頬に冷たい風を感じ取れる場所にまで進み、深呼吸を二回ほど繰り返した。
 肺の中にまで入り込んでいた感覚のあるチョコレートの匂いを追い払い、伸び気味だった髪の毛を上向けて放り込んだキャスケット帽のツバをもとの高さに戻す。帽子に収まりきらなかった短い後ろ髪が襟足を擽り、寒風が吹きつけるたびに心許なげに揺れて皮膚の薄い肌を掠める。
 この季節だと言うのに窓を全開にした車が、大音響で音楽を鳴らしながら走り去っていった。巻き上げられた排気ガスに咳き込みそうになって、どこか殺伐とした街の光景を少しの間立ち止まって眺める。
 肩をぶつからせて進む人も居るけれど、その過半数はぶつかった相手に対して謝罪の言葉も無い。バレンタインという日である事も手伝ってか、寂しげな背中も心持ち普段より多いような気がした。
 色つきのファッショングラスを揺らし、ユーリは視線を反対側へと逸らした。
 道の両脇を埋める華やかな商店の間に、明るい色遣いの店がある。今や何処へ行っても見かける、全国チェーンのコンビニエンスストアだ。その店の軒下や窓にも、バレンタインの文字が躍っている。
 今やお祭り騒ぎになっている感のある、本来は厳粛で神聖だったはずの日も形無しだ。そんな風に考えながらユーリは後ろに目を向け、大事なドラマーがどうなっただろうかと一瞬だけ危惧した。けれど人混みは絶えず、もう視界に小さく遠く見えるだけの特設会場入り口に特別変化は起こっていない。騒々しいくらいに鳴り響いていたラブソングのメドレーも聞こえなかった。
 なんとかうまくやり過ごしたのだろう。それとも、ユーリとは反対方向に逃げたのか。どちらにせよ自分に被害が来なければ構わないかと思い直し、ユーリは胸からひとつ重荷が下りた気がして肩から力を抜いた。
 そして何気なく、ただそこにあったからという理由で、普段ならば足を向ける事のないコンビニエンスストアの自動ドアを潜った。
 入って直ぐのレジで、客足が途絶えた直後だったのか安堵の息を漏らしていた店員が即座に営業用の笑顔を作ってユーリを迎える。
「いらっしゃいませー」
 やや語尾を伸ばし気味の発生で、女性特有の高い声が店内に響き渡った。ユーリはちらりと彼女に目をやって、すぐに逆側の商品が並べられている棚に意識を移す。入って一番目がつきやすい場所に、隙間が多くなっているものの、色とりどりにラッピングされたチョコレートが並んでいた。
 ピンクのリボンが棚を飾り、バレンタインの文字がそこかしこに散りばめられている。今は何処へ行ってもこんな調子だな、と軽く笑ってユーリはその場を離れた。
「…………」
 だが、意識は何故かその場に留まって、ちらちらと気づけば視線を送っている始末の自分に気づいて顔を顰める。
 理路整然と並べられたものに必要性を感じないまま手に取っては戻す、を繰り返して、店の中を順番見て回る。気がつけば大量のスナック菓子が飾られた棚の前に居た。
 少し視線を逸らせば、季節に関係なく売られているチョコレートも目に入る。
「……………………」
 浮かんで消えた顔に、ユーリははっとなって慌てて首を振った。それこそ、店員が怪訝に思う程の勢いで。
 だが、早く立ち去ろうと意識を急かしても何故か足の裏が接着剤で固定されたかのように床から離れない。
 ちらり、と退屈そうにあくびをかみ殺している店員を盗み見て、ユーリは僅かに力を込めて奥歯を噛みしめた。商品の陳列棚に向け、右手をまっすぐに伸ばす。
 そうしてまず手に取ったのは、最近発売されたばかりの新味のポテトチップス。続けて手にしたのは、三角形の形をしたスナック菓子。イチゴ味の棒状菓子、そして漸くチョコレート。それもホワイトチョコとビターチョコで、同じものをひとつずつ、左腕を胸の前で輪にした上に積み重ねた。
 さぞかし、チョコレートは菓子を買うついでだぞ、と主張するかのように他にも幾つかの、到底自分は食べなさそうなものを適当に見繕って行く。やがて山はユーリの顎に届きそうなところにまで達し、チョコレートはその中腹に収まったところで持ちきれなくなってユーリは颯爽とレジへ向かった。
 店員が半端でない量を抱えたユーリにぎょっとするが、一瞬で表情を整え義務的な動きで商品の金額をレジスターに打ち込んでいく。その間にユーリは後ろポケットから財布を取り出し、札入れに収まっている紙幣の数を数えながら次第に額が増していくデジタルの数字をぼんやりと眺めた。
 店員がチョコレートに手を伸ばした時にだけやや緊張を表すが、素早く計算済みの一角に紛れさせられたそれらに、割れ知らずホッと安堵の息を漏らしていた。
「お会計、三千八百六十二円になります」
 淡々とした口調の店員に告げられ、素早く札を四枚出し、釣り銭を受け取って袋に大量の菓子が詰め込まれていくのを見守る。サングラス越しの真剣な表情に気づいたわけではないだろうが、最後の方にやや怪訝な顔をした店員にじっと見つめられ、ユーリは無意識に被っていた帽子のつばをおろした。
「ありがとうございましたー」
 語尾が間延びした声の店員に見送られ、ユーリは足早にコンビニエンスストアを出た。暖房が効いていた店内から一歩外に出た瞬間、冬の風に見舞われてコートの前を片手で押さえ込む。
 そういえば置いてきてしまったアッシュは、どうなったのだろう。
 十数分前まで居た場所を振り返るが、喧噪は未だ見て取られない。恐らく無事であろう、と右手に重たい袋を持ち直し、時計を確認しようと携帯電話をポケットから引っ張り出した。
 気づかなかったが、着信の歴がある。少し遅れてメールも。
 道の端に寄って確認すると、どちらもアッシュからで、騒ぎになってしまったから先に帰る、という旨だった。今日はアッシュの出した車で来ていたから、実際はユーリが見事に置いて行かれた結果だったが、下手にアッシュについて回っていた女性ファンにユーリまでもが捕まるのは宜しくないし、仕方ない判断だろう。
 さて、ではどうしようか。
 タクシーを拾って帰るか、途中まで電車を使うか。兎も角この場から少し歩かねばなるまい。大袋ひとつになんとか詰め込まれた菓子の山の重さをずっしりと右手に覚え、ユーリは歩き出そうと携帯をしまった。
 そうして、何気なく流れた対向車線その先。歩道沿いの、小さな店。
 例に漏れずバレンタインカラーで彩られた狭い入り口の両側を埋め尽くす薔薇の色から、花屋であろうと容易に知れる、その店の前で。
 見知った背中を見た。
 この場所からはとても、話し声は聞こえてこない。忙しなく走り抜けていく車列に紛れ、時として姿が隠れて見えなくなる背中をサングラス越しに凝視して、目が逸らせない。
 花屋の店員、もしかしたら店主なのかもしれない。まだ年若い女性と談笑するその姿。何を話しているのかは分からないけれど、時折ユーリからは見える女性が口元に手を当てて笑っているから、話も弾んで盛り上がっているのだろう。
 ふたりはユーリの存在にまったく気づいていない。そしてユーリが見つめる前で、後ろで長い黒髪をひとくくりにした女性は、一旦奥へ引っ込んでから直ぐに戻ってきて、ユーリのよく知る背中の人物に向けてなにやら差し出した。
 小さいものだったが、この日に女性が男性に贈るものなど限定されている。
「…………」
 けれどあの男は、甘いものが極端に苦手だ。
 きっと受け取らないに違いない。ユーリは胸の奥にもやもやしたものを抱えながら、少し先の信号が赤になった為に停止する車に紛れて見えなくなりそうな光景を見つめ続ける。
 だが、男はユーリの期待に反して、女性が差し出したものを丁重な態度で受け取り、なにやら一言二言、恐らくは礼の言葉だろう、告げて笑ったらしかった。
 女性も少しはにかんだ笑顔で応じる。
 その瞬間、ユーリの背後で雷鳴が轟き極寒の嵐が吹き荒んだ。
 握りしめた袋がかさかさと音を立てる。今すぐにこの場でこの中身をぶちまけて踏み潰して破棄して行ってやりたかった。罵詈雑言を吐きつけて詰り、二度と顔を見せるなと絶縁状を突きつけてやりたかった。
 けれど、足が動かない。
 全身が麻痺したかのように、指先一本として動こうとしない。
 涙をこぼさなかっただけが、辛うじて救いか。
 信号が赤から青に切り替わる。停止していた車が一斉に走り出す。景色が歪み、遠くが見えなくなって霞むようだった。
 人の波がそれに拍車をかける。奥歯を噛んだユーリは俯いて踵を擦ったまま後退し、ぶつかった花壇に引っかかって、そのまま力の抜けた膝が崩れるに従いすとんと腰を落とす。
 目深に被った帽子をそのままにして下を向けば、打ち捨てられた空のペットボトルが転がっているのが見えた。
「……だって」
 彼は、男で。
 自分も、男で。
 それに、世間的に言う恋人同士というような関係でも無くて。
 ただ同じバンドに居るメンバーで。
 それ以外ではなにもなくて。
 それだけの関係で。
 だから。
 彼が、誰から、何を貰おうと、自分には関係ない。
 筈、なのに。
 だったら、何故こんなにも。
 自分はショックを受けているのだろう。
 ぐちゃぐちゃにかき乱された気持ちが一向に落ち着く様子を見せなくて、浅く唇を噛んだユーリは上げた踵でペットボトルを踏み潰そうとした。しかし円柱形に近い形をしているそれは彼の足裏を滑り、あらぬ方向に転がっていってしまう。
 往来の真ん中に紛れていこうとするそれを見送り、拾いに行くべきか逡巡した矢先、黒のロングコートが視界に飛び込んできた。腰を屈め、焦げ茶色の手袋のまま町中のゴミを拾って脇のゴミ箱に放り投げる。緩い放物線を短い距離で描いたそれは、綺麗に籠の中に収まって居を定めた。
 ユーリの視線がゆるゆると持ち上げられる。どこかでも見たコートと手袋の色に、染色された髪の毛と濃い色のサングラスが加わる。
「ユーリ、見つけタ」
 こんなところで何をしてるの、とユーリが両手で持って僅かに広げた膝の間に下げているコンビニエンスストアのビニル袋を不可思議そうに見つめて、彼は言った。
「……別に」
「アッシュクンから連絡来たよ。ナニやったの、彼」
 ポケットからメタリックブラックの外装の携帯電話の頭だけを見せ、スマイルはユーリが座る場所の隣に立った。
 一見すればやや柄の悪いサラリーマンのような格好をしている。ネクタイこそ締めていないが、オフホワイトのカッターシャツに鼠色のベスト、同色のジャケット。パンツも揃いで、爪先が僅かに覗く黒の靴は綺麗に磨かれて傷ひとつ無い。
「チョコレートを買い占めて、世の女性陣に恨まれたのだろう」
 頬杖をついてスマイルからそっぽを向き、ユーリは素っ気なく答える。半分正解のようで不正解な回答に、スマイルは真に受けたわけではないだろうが、アッシュらしいと声を潜め、肩を震わせて笑った。
「寒くないノ?」
 そうしてふと、思い出したように聞いてくる。
 更に彼の視線は、ユーリが持っている袋の中に注がれていた。
「随分と買い込んであるケド……これ全部、ひとりで食べるノ?」
 身を低くして袋の端に人差し指を引っかけ、口を広げて中を覗き込んだ彼の言葉に、まさか、と返したくなるのをぐっとユーリは堪えた。関係ないだろう、と突っぱねてみるものの、スマイルの手は袋から離れてゆかず、逆に上に重ねられたものを押しのけて下に詰められているものまで確認しようと動いていく。
 横から加えられる力に袋の重みが増して、ユーリは咄嗟に左手だけを放してしまった。その為余計に広がった袋の中身が溢れて、慌てて受け止めようとしたスマイルの左手の上に、幾つかの小さな菓子が転がっていった。
「もう、ナニやって……」
 自分が不躾に手を伸ばした所為だというのは無視して、小声で呟いたスマイルが、袋の持ち手をユーリに返すついでに外に出てしまった菓子を戻そうと、真上から覗き込んだ刹那。
 ユーリもまた、スマイルの視界に入ったものに気づいて慌てて袋を持ち上げ、スマイルの反対側に持って行って胸に抱え込んだ、が。
 もう遅い。
「…………」
 袋に菓子を戻そうとした姿勢で停止していたスマイルが、やや間をおいてユーリの顔を見つめる。視線を逸らしていても感じる目線に、ユーリは果たしてどう言い訳しようかで頭がパニック状態に陥りそうだった。
 これは、今後作業に入った時用の夜食だ、とか。
 アッシュに頼まれた奴用のおやつだ、とか。
 スタッフに配る差し入れだ、とか。
「こここれは、だからつまりその、スタッフの皆にくく配ろうと」
「わざわざコンビニで買って?」
 それもユーリ自らが足を運んで?
 混ぜっ返すスマイルの弁に言い訳が続かなくて、ユーリは下唇を噛んで彼をねめつけた。サングラス越しでも瞳が笑っているのがよく見えるのが余計に悔しい。
「ぼくに?」
「ちがう」
「じゃあ、誰に」
「スタッフに!」
「……あ、そう」
「…………」
「スタッフにねー、ふーん」
「なんだ」
 意味ありげな視線を向けられ、ユーリの表情が不機嫌を露わにした。
 よいしょ、と立ち上がったスマイルが、左右の指先を絡め持って背中を反らし、その場で大きくのびをする。雲間から覗いた太陽が逆光になってユーリの視界を白に染め、スマイルの見慣れた背中を隠そうとしているようだった。
「ひとつ忘れているみたいだし、教えてあげようか」
 振り返ったスマイルの表情が見えない。
「あのさ、ユーリ」
 ぼくも、一応、スタッフのひとりなんですが?
 自分自身を指さして笑った彼に、さぁっと音を立ててユーリの顔から血の気が引いた。
 そこまでして、たかだかコンビニエンスストアで買った菓子のひとつが欲しいのか。
 世の男どもが必死になる姿が重なって見えた気がして、ユーリはつい、ぷっと吹き出した。凝り固まっていた頬の筋肉が弛み、自然と笑いがこみ上げてくる。
「……ダメ?」
「いいや、その通りだったな。確かに貴様の言う通りだ」
 変に意識したり、不要な思いを込めたりしなければ良いだけの話だ。ただ今日だからと特別な感情が優先させられてしまって、ぎくしゃくしてしまう。
「だったら、これは貴様が持て」
「はいはい、持たせていただきますとも、女王陛下」
「一言多い!」
 袋をスマイルに尽きだしてユーリが立ち上がった途端、軽口を叩いたスマイルの横っ面にぼかっ、と容赦ない鉄拳を叩き込む。丁度この光景を目撃した通行人の何人かがくすくす笑うのが聞こえ、恥ずかしくなったユーリは慌てて大股で歩き出した。
「待ってよ~」
 置いて行かれた格好のスマイルが大急ぎで追いかけてきて、それが余計にユーリの恥ずかしさを増長させる結果となり、早足が次第に駆け足に変わる。そして大通りの角にさしかかったところで追いついたスマイルが、手際よく客待ちのタクシーを拾ってふたりして乗り込んだ。
 きっと仕事先には、アッシュがしこたま買い込んだチョコレートが山を成しているだろう。甘い香りに毒されてしまっている筈のスタッフにしてみれば、ユーリの差し入れも菓子ばかりとは言え、有り難いものになるに違いない。
 後部座席に並んで収まった直後から、スマイルは早速袋の中身を再度確かめ始める。そうして、行き当たった二種類のチョコレートを片手ずつに持って交互に見やって、真剣に悩み出した。
「どちらも同じだろう」
「いや、結構違うような……」
 結局彼はスタジオに到着するまで延々悩み、到着してタクシーを降りてからも延々悩み続け、最終的に至った結論は。
 両方ポケットの中にこっそり頂戴、だった。
 果たして彼が本当にそれらを食べたかどうかまで、ユーリは確認しなかった。どうせ無理だろうと分かっていたし、どうするのかと待ちかまえていたら彼はユーリが止めても彼の前で包みを破いて本当に食べただろう。
 そうなれば彼が気分を悪くさせるのは必然で、そうなると仕事にも差し支える。だからユーリはもう何も言わず、彼の好きにさせてやった。
「そういえば」
 あの時、花屋の前で店員とおぼしき女性から渡されていたものはいったいなんだったのか。思い出した疑問をユーリがスマイルに投げかけると、細い通路を渡った先にある控え室の扉を開けたスマイルが、意味ありげに笑った。
「ただいまー」
 しかし直ぐに視線を前方に戻して、先に戻っている筈のアッシュやその他のスタッフに向けての挨拶に入ってしまって、ユーリの問いかけへの回答は寄越さない。不審に感じたユーリが首を傾げつつも、仕方なくスマイルに続いて室内に足を踏み込んだ途端。
 男臭い中に異質としか表現のしようがない薫りが、中に充満しているのが分かった。
「あ、ユーリ。届け物っス」
 さっき、黒髪をひとくくりにした女性が受付窓口まで届けてくれたのだと、簡単に説明を加えてアッシュが両手に持って近付いてくる。
 それは、色鮮やかに見事な大輪の花を咲かせている、真っ赤な薔薇の花束で。
 反射的にスマイルを探したユーリだったが、彼はコンビニエンスストアの袋を広げて他のスタッフに差し入れだと引き渡している最中で、そちらの話に忙しいのかユーリの視線にまるで気づこうとしない。
 だが、アッシュの告げた女性の特徴は、まさしく。
 だとしたら、スマイルが店員から受け取っているように見えたのは、バレンタイン特有のものとは全くの別物だというのか。
 ユーリの、完全な早とちり。
 勘違い。
「ユーリ?」
 差出人の名前が無いのだけれど、とアッシュが少し気にしたように言ったが、ユーリは心配ないと苦笑をかみ殺して花束を受け取る。
 鼻腔を擽る甘く濃い芳香に、笑った。
 もしかしたら最初から、彼はなにもかも計算の上であそこに居たのだろうか。それとも、考えすぎだろうか?
 答えは分からないけれど、やっと振り返ったスマイルに向けて彼にだけ分かるように花束を揺らして見せると、スマイルはホッとしたような照れくさそうな顔をして、微笑んだ。

Snowfall

 夜の空は、昼間の面影を残し紫紺色に染まってもなお、天の色が見て分かる程に澄んでいた。空気は透明で儚く、虚ろであり純粋で、冷たく厳しいがそれでいて、時にとても優しい。
 冬の大気に解けてしまいそうで、吐く息の白さに目を見張ったユーリは首が疲れるに構わず上を向き続けていた姿勢を正した。
 今年のクリスマスは雪と縁がなかったらしい。それでなくとも今年はまた随分と暖かな日が続き、冬を思わせる冷え込みも数が限られていて、クリスマス当日が近づいてもあまりそういう気分が沸き起こってこなかった。カレンダーを見て、広告媒体などがやけに甲高くけたたましい声で季節を強調した台詞を述べるのをぼんやりと聞き流し、それで漸く、ああ、もうそんな季節なのだな、と思うに至る。
 そんなでも当日を間近に控えれば自然と心は浮き足立ち、毎年恒例のパーティーの準備やらなにやらで気忙しさも倍増するから、それでやっと、クリスマスが近づいているのだと自分でも認識出来る。
 だが終わってみると実に呆気ないもので、たった数時間の為に費やした貴重な時間と手間暇を思うと割に合わない気がする。だが既に帰路についている大勢の招待客が、別れの挨拶で楽しかったと口々に言ってくれたので、決して無駄だったわけではないと自分に言い聞かせ、そしてまた少し時間が流れた。
 夜闇は深く、どこまでも果てしない。吸い込まれそうな漆黒の世界にあって、星々の輝きは小さいながらも力強く、見守る月の輝きは優しい母親の微笑みに似ている。
「ユーリ」 
 呼ばれて微かに振り返れば、明かりの漏れるリビングの窓から直接庭に降り立つ男の足だけが見えた。
 少し前までの喧噪を思えば嘘のように静まりかえった室内の片づけを、三人揃って始めていた筈なのにアッシュが台所で食器の洗浄に入り、大量のゴミを回収場所へ運びにスマイルが居なくなった隙に、気を取られて外に出ていたユーリである。辛うじて彼は、コートだけは引っかけてきたものの、冬の夜は想像以上に冷えていて、たかだか城の前に行くだけでも足の先が凍るかと思ったスマイルは、戻った先で姿を見つけられなかったユーリが庭の中でぼんやりと輪郭を浮かべさせているのを見つけ、肝が冷えた。
「ナニ、してるノ」
 冷えるでしょ、と薄着の彼を叱って手を伸ばしたスマイルがユーリに一瞬だけ近づき、また離れる。赤いマフラーを首に緩く巻き付けられ、身に刺さる冷気から一部遮断された彼は、その温もりにホッとした顔をして表情を緩め、無言のまま空を仰いだ。
 つられ、スマイルも白い息を吐きながら上空を見上げる。
 昼間から変わらず雲の少ない晴れた空に、ぽっかりと浮かぶ月。周りを飾る星々に、一種のツリーを想起させられた。
「今年は、雪が降らなかったな」
 妙に感慨深く、感情のこもった声でユーリが呟く。空を見上げ続ける彼へと視線を流したスマイルは、ああ、と頷いて足裏の枯れ草を踏みつけた。
 微かな鈴の音が聞こえた気がしたのは、きっと自分たちが近くに居るからだろう。昼間の出来事を思い出し、ポケットに入れたままの鈴をズボンの上から確かめて改めてユーリを見つめる。
 もう電源が切られてしまい、自ら輝くのをやめてしまった巨大なクリスマスツリーは、しかし依然其処に在る。明日になれば色とりどりの飾りも外されて、来年の冬が来るまで存在自体も忘れられたかのようにひっそりと佇むだろう樅の木も、今日ばかりは特別だからと胸を張っているようであった。
「皆、立派だと言っていたな」
 スマイルがユーリ越しに見ているものに気づき、顎を引いた彼が小さく笑った。
「ぼくは飾り立てただけだよ」
 誰かが育てたわけでもなく、樅がひとりでに、気丈に生え育っただけだ。スマイルはそんな彼を、少しだけ着飾らせただけ。肩を竦めたスマイルは、だったら部屋の飾り付けだって皆褒めてくれていたではないか、と水を向ければユーリははにかんだ、照れくさそうな笑顔を浮かべるに留めた。
 アッシュの料理も皆舌鼓を打ち、一切れ残らず平らげて行った。
 パーティーだけならどこか、外で会場を借りてやれば手間も要らず楽なのだが、招待客の多くがアッシュの手料理を楽しみに来ているので、どうしても城の一角を利用せねばならない。無駄に広いスペースを持つ城の飾りやらなにやら、毎年飽きもせず続けてこられたのも、来てくれる人が居てそのいずれもが、ささやかな持て成しを心から喜んでくれるその表情を見るのが楽しいから、に他ならない。
 でなければ、一度試みただけで終わっていただろう。アッシュはどこかの会場へ貸し出し、ユーリはひとり冷たい棺桶の中で聖夜を沈黙で通すだけだった。
 クリスマスパーティーをしたい、と最初に言い出したのはスマイルだった。お祭り好きの彼が、ただ自分が騒げたらそれで良いという感じで周りを巻き込んだ企画が、思いがけず大事になり、その翌年も、また翌年も……と今まで繰り返されている。
 スマイルが居なければ、きっと何も動かなかっただろう。この庭に、こんな立派な樅の木が背を伸ばしているのにも気づかず、ユーリは寂しい日々を送っていたに違いない。
 そして大抵の年、この日は雪が降っていた。積もりはしなくても、窓の外をはらはらと舞う雪の光景が彩りを添えてくれていたのに、今年はついに最後まで無かった。
 だからだろうか、物足りなさを感じるのは。クリスマスだと言うのに、いまいちその気分に浸れないのも。
「降らなかったな」
 もう一度呟いて、ユーリは何も無い空間を蹴り上げた。
 明るい城内から漏れる光を受け、ツリーの下の方に飾られている金銀のボールや陶器で出来た天使が淡く輝いている。暗い闇の中に潜むべき吸血鬼が、こんな風に聖夜を祝い純白の雪を心待ちにするのは、空の遙か高い場所に鎮座している神様から見れば、さぞかし滑稽に映るだろう。
「そうだねぇ」
 相槌を返し、スマイルは一歩半、ユーリへと近づいた。
 ズボンのポケットで銀の鈴が鳴る。微かに、己の片割れを呼んで囁きかけている。気づいたユーリが微笑んで、自分もまたコートの中に手を入れて胸のポケットから小さなものを取り出した。
 彼の銀色の携帯電話に結ばれた赤い組紐に、スマイルは半ば引きつった感のある笑みを作る。どうやら彼は本気らしいと、明日には部屋の机の引き出しにでも置き去りにしていくつもりでいたスマイルは、微かに遠い目をする。
 ならば自分も、無くさぬよう、そして忘れぬようにどこかに結びつけておくべきだろう。考えて、考えつくのがユーリと同じ答えだというのが情けないところだったが。
 ものは大事にするが、それほど執着しないスマイルがひとつのものを持ち続けるのはそれなりに苦痛だったりする。目に見えるものしか信じられなくなっては、目に見えない自分はどうなるのか。だから見えないものを何よりも大切にしたがるスマイルには、ユーリが鈴に固執する理由が分からない。
 けれど彼がそう望むのであれば、叶えてあげたいと思う。部屋に戻ってまず真っ先にすべき事を決め、スマイルは目の前に示されたユーリの鈴を人差し指で弾いて彼に返した。
 近くに在るのに会えないでいる鈴の、どこか悲しげな音色が静かな夜に吸い込まれて消えていく。この切ない声は、天の神に果たして、どこまで届くのだろう。
「ユーリは」
 雪。
 まるで降ってきた時のように掌を上にして胸の前に差し出して、スマイルが空を見上げる。僅かな雲が西の空に見つけられるが、それも雪を地上にもたらす色をしていない。
「そうそう、クリスマスプレゼント」
 指を丸めてぎゅっと手を握り、ポケットに戻したスマイルが言う。半端に切れた会話に意識を揺らしたユーリは、脈絡の無い台詞の繋がりに困惑しつつもスマイルの向かい、首を捻った。
 昼間のやりとりがあったのと、パーティーの主催者として招待客をもてなすという仕事が忙しかった為、すっかり忘れてしまっていたと言ったスマイルに、ユーリはますます眉間に皺を寄せる。
 彼にしてみれば、完全に、スマイルは何も用意できていないと思っていた。自分がそうだったのだから彼もそうなのだろう、という勝手な思いこみから来ている根拠の無い勘違いだったわけだが、思えば確かに、彼はどこか抜け目ない性格の持ち主である。どれほど忙しかろうとも、少々の暇を片手に、プレゼントのひとつくらい用意立てていても何ら不思議ではない。
「あるのか?」
 思っても居なかっただけに、ユーリは驚く。
「まー……ネ。でも要らないっていうのなら、別に良いんだけど」
 スマイルにしてみれば、ユーリの態度はむしろ、自分からのプレゼントは必要ないみたいなポーズにも思えて、少々意地悪く言ってみても罰は当たらないだろう、という気分。さすがにユーリの性格上、此処で「要る」とは言わないが、どこか期待に満ちた双眸を見られただけでも結果的に、スマイルは満足を覚えてしまう。
 安上がりだな、と自分を自分で笑って、スマイルは更に一歩、ユーリに近づいた。
 寒そうにしながらも、彼の次の動きを見守っているユーリが面白くて、ついついスマイルは、膝を軽く折り曲げて身を屈めユーリに顔を近づけた。
 虚を突かれた彼の柔らかな唇に触れようかという瞬間、斜め横から飛んできた鉄槌がスマイルの側頭部をはじき飛ばした。つんのめったスマイルは、目の前で数個の星が飛び交う中で顔を赤く染め、肩を荒く上下させながら寒さ以外の理由で赤くなっている拳を握るユーリの姿を見た。
「ユーリさん、痛い」
「痛くしたのだから当然だ!」
 折角の良いムードも台無しの大声で怒鳴り、彼は更にもう一発食らっておくかと構えを取る。そればかりは首を何度も振って丁寧にお断りして、スマイルは殴られた箇所を静かに労って撫でつつもう片手を使い、コートのポケットをまさぐった。
 拳をおろしたユーリが見守る前で、彼が取り出したのは古めかしい懐中時計。竜頭を押して蓋を開け、薄明かりに晒した文字盤の現在時刻を読み取り、顎に手をやった彼は何か考え込む素振りを見せて隻眼を空に流した。
「スマイル?」
「あと四分半……」
 時計の蓋を閉ざして呟き、再びポケットに戻した彼にはユーリの呼びかけなど聞こえていない。半眼して唇に押し当てた親指を軽く嘗め、僅かに遠くなった気がする星明かりに耳を峙てている。
 彼が呟いた数字の意味が分からず、置いてけぼりの気分を感じながらユーリは巻かれたマフラーに手を置いた。柔らかな手触りに、自分に吐き出した息が重なって少し心が温かくなった気がした。
 左耳のピアスが、ちくちくと鈍い痛みを先程から訴えかけている。マフラーの端を掴んで耳を覆うようにしてやると、コートの袖から銀色のブレスレットが頭を覗かせる。
 吐く息が純白に染まりそうだった。
「あと三分」
 カウントダウンを続けるスマイルが、目を閉じて爪先で何度か地面を叩いた。誰かに合図を送っているようでもあり、リズムを刻んでいるようでもある。
「スマイル、さっきから何……」
「しっ。黙って」
 何を数えているのかと問おうとしたユーリの唇に、スマイルの包帯に包まれた長い人差し指が軽く押し当てられる。口を開く寸前だった為、危うく彼の爪先を噛んでしまうところだったユーリは、一瞬虚を突かれたあと、長く伸びた鋭利な武器となる牙に彼を招かぬよう、スマイルには分からない程の微細な配慮で静かに唇を閉じた。
「あと、二分」
 呟いて彼は、またしてもユーリから視線を外して空を見上げる。離れていった指先の名残を、自信の手でなぞって消え去った微かな温もりを欲して息を吐くユーリ。闇に紛れた形のない白さは、スマイルに届く前に掻き消えて跡形も残らない。
 用意してある、と言われたクリスマスプレゼントの正体もまだ明かされていない。焦らされてばかりの自分を感じ、ユーリは闇の中でひっそりと存在を主張する樅の木を仰ぐ。
 照明も落とされ、見上げる存在はもうユーリとスマイルくらいしか居ない。数時間前までは主役だったのに、舞台が終わればこんなものか、と一過性の流行を思い起こさせて、悲しくなった。
「あと30……」
 一際大きく深い息を吐き出し、スマイルが緩く首を振った。樅の木から注意を移し、怪訝な面持ちのまま彼を見返したユーリの前が、唐突に黒一色に染まった。
 いや、違う。突然両手を広げたスマイルが、予告もなくユーリに抱きついたのだ。彼の肩口に埋もれたユーリの目が反射的に障害物を感じて閉じられたから、視界が闇に包まれただけであって、自分が目を閉じていると気づいた彼は慌てて深紅の双眸を見開かせる。
 温もりが、すぐ其処にあった。
 ガーネット色をした左耳だけのピアスが、ちくちくと痛い。小さな、爪の先も無い大きさの宝石が泣いているようで、常からず感じている蠱惑的な薫りさえも露と消す程の痛みに、ユーリは浅く下唇を噛みしめる。
 ポケットの中で鈴が鳴っている。聞こえない程に微かな音色で、何かを祈り唄っている。
「ご、よん、……」
 スマイルの声が耳の真横から聞こえてくる。けれどこの体勢で、この位置からでは彼が今どんな顔をしているのか見えなくて、ユーリは彼の服を引っ張りながら軽く藻掻いた。
 けれどスマイルは許してくれず、余計に背中に回された両腕の拘束を強めてきて、だから余計にユーリは彼がコートの下に着ている黒のセーターが伸びてしまいそうなくらい、引っ張らなければならなくなる。
「にぃ、いち……」
 耳の横で、カウントダウンは続いている。
 ゼロ、と言ったのは果たしてスマイルだったのか、それともユーリだったのか。
 遠い空で、荘厳な鐘の音色が鳴り響く。ちょうど、十二回分。
 

「Merry Christmas!」

 

 聖なる前夜が終わり、聖なる日がやって来た。
 その瞬間に緩められた腕、見合わせた顔でふたり、肩を揺らして笑って、叫ぶ。
「ユーリ、クリスマスプレゼントだよ」
 そう言ってスマイルがユーリに上空を見上げるように、立てた人差し指を真上に向ける。促されて星々の煌めく筈の空を仰ぎ見たユーリの広い視界で、微かな、白い小さなものたちがはらはらと舞い降りてくる。
 それは最初、とても数が少なく朧気だったけれど、徐々に数を増して次々と空から地上へと降り注がれる。高い空からの長い旅を終え、地上を訪れたそれらは役目を終えた樅の木に見守られながらふたりの両脇を過ぎて大地に吸い込まれていく。
「ゆき……?」
「それも初雪デス」
 驚きを隠せず、呆然としながら空を見上げ、絶えず降り注がれる白の結晶に手を差し伸べるユーリの姿にスマイルは満足げに頷いた。まるで自分がこの日の、この時間、あのタイミングを狙って降らせたのだと言わんばかりの自慢げな態度で、いくら何でも彼が……と思うのだが。
 少し考えて、こいつならばやってのけるかもしれない、と思い直した。
 調子が良く、破天荒で荒唐無稽で、口達者の大法螺吹きで、けれど自分が言った事には最後まで責任を持ち絶対に約束は破らない。
 確かに、彼ならば天上の神さえも説き伏せてしまえるかもしれない。天候さえも自在に操り、思い通りの世界を演出してしまえるかもしれない。
 大袈裟でなおかつ恐ろしい考えだったが、彼だったら、と思えてしまえるところが彼の凄いところでもあるのだろう。
「凄いな」
 はらはらと降りしきる雪の白さに目を奪われ、掌に触れてスッと解ける一瞬の冷たさに頬を緩める。
「凄い、な」
 重ねて繰り返し、いつの間にか空一面を覆う雪雲から落ちてくる冬の結晶が地上に降り注ぐ景色に見入る。雪の花が舞う世界に、沈黙していた樅のツリーが白く染め上げられ、新たな空からの贈り物で着飾らされる様がとても綺麗。
 淡い光で地上が包まれ、次第に粒を大きくさせる雪が地表に触れても解けずにそこに留まり出し、やがて薄く白化粧が施されていく。このまま一晩降り積もった雪は、明日には城を覆い尽くして、白銀の世界を陽光に晒すだろう。
 たった数時間で様変わりした世界の様に、ユーリはきっとまた目を見張り、驚き感動するに違いない。
 コート一枚では寒くなってきた大地で、まだ雪の降りしきる世界を見上げ続けているユーリをスマイルはそっと抱きしめる。今度は背中から、優しく腕を回して彼を閉じこめる。
「気に入ってくれタ?」
「ああ、凄い。だが、どうせだしパーティーの最中でも良かったのではないか?」
 皆がもっと喜んだだろうに、と既に昨日となった日の出来事を口に出したユーリに、スマイルは赤いマフラーに顔を埋め、やや拗ねた声を出す。
「それじゃ、ユーリだけへのプレゼントにならないじゃない」
 君のために用意したんだから、と見えないけれどきっと唇を尖らせているのだろう。彼の言い分も分かるので、その気持ちがむず痒く背中に鳥肌が立ちそうだったユーリは笑って誤魔化した。
「そうか?」
「ソウデス」
 笑みを含んだ声で問うと、余計に拗ねた声で返される。今度こそ声を立てて笑い返し、ユーリは彼が額を押しつけている首に巻いたマフラーを前から引っ張ってスマイルの顔を起こさせる。そして緩い締め付けであったのを良いことに、彼は胸の前で結ばれていたスマイルの腕を解かせた。
 胸ポケットの中で、ちりん、と鈴が跳ねる。軽やかな音は、まるでユーリの今の心を反映しているかのように澄んでいて、そして何かを企んでいる色を含んでいた。
 空中に両手を左右に放り出され、慌てて引き戻した時にはもうユーリはスマイルの前から半歩退いたところに逃げていた。
「ユーリサン?」
 行き場を失った手を握ったり開いたり繰り返し、スマイルは小首を傾げる。腰の後ろに回した手を結ばせて、ユーリは雪化粧が始まったツリーの頭を見上げた。今はまだ雪帽子を被っただけの樅の木も、朝には真っ白いコートを羽織って真っ白の雪靴を履いて立っているに違いない。
 ツリーを片付けるのは飾り付けをしたスマイルの仕事なのに、自分で作業を大変にさせるとは。根回しが良いくせに、肝心なところでひとつ抜けているのが、やはりこの男らしかった。
「ユーリ」
 含み笑いで肩を揺らしていると、怪訝に思ったスマイルが重ねて名前を呼んで来る。
「どこまでもお前らしいのだな」
「? ぼくは、どこまでもぼくのままだヨ」
「まったくだ」
 どことなくかみ合わない、けれど表面上でふたりとも滑り合わせて深くまで踏み込まず、会話を一度終わらせて、ユーリはさっきよりも白さが増した息を長い時間かけて吐き出した。
「冷えてきたな」
「うん、そろそろ中に戻ろうか?」
 空から舞い降りる雪の姿を見上げ続けるのも飽きないが、雪という視覚的体感的効果も相俟って一層強く感じるようになった冷気には負ける。これで風邪を引いては元も子もないからと、スマイルはユーリを誘って明るい屋内を指さした。
 そして返事が無いのを同意と捉え、先に立ち踵を返して歩き出す。
 微かな城内からの光を反射し、薄く積もった雪の上に残される足跡が浮かび上がる。一歩、二歩、三歩……増えていく彼の居た名残を数えながら、ユーリは吐いた息の白さに目を閉じた。
 ポケットの上から鈴の形を確かめる。指先で強く握りしめ、もう庭の端、城の広間へ続く窓に片手を置いて開けようとしていた彼の背中目がけ、ユーリは走り出した。
「スマイル!」
 大声で名前を呼び、半身を乗り出して部屋に入ろうとしていた彼をその場に押しとどめさせる。肩越しに振り返った彼が、駆け寄ってくるユーリを見つけて出しかけた足を引っ込めて身体ごと振り返った瞬間、ユーリがスマイルの胸に突進した。
 ラグビーのタックルにも似た勢いそのままに彼にしがみつき、スマイルを驚かせる。
「ゆ、ユーリ?」
 身を反り返し、衝撃を後ろに逃しながらもしっかりユーリを受け止めたスマイルがうわずった声を出した。直後、しっかりと背中にまで回した手を結んだユーリが顔を上げ、スマイルの隻眼を紅玉の双眸でまっすぐに見つめた。
 じっと、何かを訴えかける瞳に言葉を失ったスマイルへ、背筋を伸ばしユーリは爪先を立てた。
 ふっ、と熱い息を彼へ吹きかける。
 一瞬の触れあい。閉ざされたユーリの瞼と睫の長さに見入ってしまったスマイルが、目を閉じるタイミングを損じてしまう程の、刹那の出来事。
「お返しだ」
 こちらは何も用意できていなかったからな、と言い訳じみた言葉を舌に載せ、ユーリははにかんだ笑みを浮かべた。
 半開きの窓を背に、スマイルの手がユーリの頬へそっと伸ばされる。
「スマイル?」
 気づかぬうちに積もっていた髪の上の雪を払い落とされ、すっかり冷えて悴んでいる肌を何度も撫でられる。
「メリー・クリスマス」
 耳元で囁かれた。
 ユーリも同じ言葉を返してやろうと、唇を開きかける。
 けれどその声は、深く重なり合った影の中、雪の降る音に吸い込まれて消えた。

True Chime

 空は澄み渡り、千切れた白い雲が西に僅かに見える以外はどこまでも晴天が広がっている。天頂は高く、吹き荒れる風も無く静かでとても穏やかな日差しが地上に降り注がれていた。
 おそらくは暖房の効いた暖かい室内に在って、曇りひとつ無い窓ガラスから外を見上げるだけならば今のこの季節を、初夏か初秋の一日と錯覚しても別段おかしくないと思われる。けれど吐き出す息は若干ながら白く濁り、忘れた時に西から東へと駆け抜けていく一陣の風に煽られでもすれば、たちまち全身の毛が総毛立って身も震える、そんな真冬の昼間なのだ、今は。
「う~、寒い」
 溜息と共に吐き出せば、寒気が増した気がしてスマイルは羽織った黒のジャケットごと自分の身体を抱きしめた。けれどそうしたところで厚みが増すわけでもなく、腕の外側が寒さに晒されただけで意味が無いのも分かっている。頼りない足下に半眼して、彼は若干色を無くした唇を嘗めた。
 濡れた場所からまた冷えて、凍えそうになってから今の行動は失敗だったと反省しても遅い。暖めようと吐いた息の白さに辟易して、堂々巡りの思考に自分で呆れて、彼は休めていた手を再び動かし始めた。
 動いている間は、そして色々と考え事をしているうちは、この冬の寒空の下にいる自分を忘れていられる。しかし何を隠そう、目の前に存在している巨大な樹木への飾り付け自体が、他ならぬ冬を連想させるものであるだけに、スマイルの気分は紛れるどころかますます滅入ってしまいそうだった。
「寒いよぉ……」
 愚痴ったところで誰かが聞いて相槌を返してくれるわけも無く。冷えた空気に解けて消えてしまった自分の声に重ねて溜息を零し、手の中の鮮やかで目に痛い原色のモールをこの季節でありながら緑濃い、細い針のような葉を茂らせる樅の木に絡ませていく。
 地面は遙か、数メートル下だ。脚立の最上段に腰を下ろしながらの作業は、突風が吹き荒れれば身体ごと揺さぶられ、危険極まりない行為であるものの、今日に限って風も無く至極快適。これでもっと気温が高く日差しも暖かければ文句も出ないのだけれど。冬の恒例行事のセッティングとあっては、間違いなくこの作業は夏場にするものではない。
 人一倍働く生真面目の代表格アッシュは、例の如く台所に引きこもって今晩の豪華な食事の支度に余念がない。一ヶ月以上前からレシピを考えていたとかで、ノート数冊分のびっしりと試作品から完成品までの作業工程云々が記されていた。最初の二ページをめくったところで読む気力を無くしたスマイルは、恐らくクリスマスケーキも焼かれている台所にだけは決して近づくまいと心に決めた。レシピノートの一番目には、数段重ねの派手なケーキが下手なイラスト入りで記載されていたからだ。
 朝食後顔を合わせていない健気過ぎる狼男の顔を思い出し、きっと嬉々としてホイップクリームを泡立てているに違いないと想像して、瞬間スマイルの全身を鳥肌が覆った。考えるだけでも卒倒しそうな甘さを持っているだろうケーキから、半径十メートル以内には入りたくもない。他の料理ならまだ平気だが、極悪な甘さのアッシュお手製ケーキだけは絶対に、二度と口にしないと心に誓ってから、もう随分と経つ。
 ユーリの城の、広大な敷地内に広がる庭。その一角。
 広葉樹から針葉樹まで幅広く、ほぼ無節操に秩序らしい並びも見あたらない好き勝手に植えた、或いは土地の所有者の意図せぬままに種が飛来して根付いたのかもしれない植物の中に、樅の木は大きく背高に育っていた。針葉樹であり、特別目立った外観もしておらず美しい花を咲かせるわけでもないから、他の季節には滅多に注目される事も無いのだけれど。
 時節柄、冬のこの一時期だけ、多数聳える数多の樹木を押しやって見目寂しい限りの樅が表舞台に押し上げられる。
 いわゆる、クリスマス・ツリーとして。
 樹齢果たして何百年かも分からない樅の木は、頭の先が地上三階部分にまで達しようかという高さだ。当然ながら飾り付けも、脚立か梯子を利用しなければ不可能。ユーリに命じられるままに、ひとりで朝食後すぐに始めた作業だったが、電飾を巻き付けるだけで楽に三時間を消費させられた。
 上から下へ流れるようにして電飾を巻く為に、数十メートルという長さを持った小さな電球を繋ぐ電線を持って、脚立を登って枝に引っかけ、また降りて場所をずらして電飾を持ち上げて枝に引っかけ、また降りて……の連続。上り下りだけでも相当の体力が必要で、漸く電飾が終わり次の飾り付けに入ったばかりだというのに、スマイルのやる気は当初の五分の一以下にまで低下していた。
 本当はジャケットの下に厚手のセーターも着込んでいたのだが、作業道中で暑くなり脱いでしまっていた。前ファスナーを首の位置まで上げて風を防いでいるが、その下は薄手のシャツ一枚。動きを緩やかにし出した途端、噴き出た分の汗も冷えて寒さが余計に厳しく感じられるようになってしまっている。
 心持ち、吐く息の白さが濁りを強めている感じがしてならない。
「はぁぁ……」
 どうしてこんな事をしているのだろう、と、一日ぽっきりしか出番が無いツリーを組み立てつつ、スマイルは思ってしまう。怠さを訴える左腕に鞭打って、膝に乗せた段ボール箱から球体の飾りを取り出して枝に外れぬよう引っかけた。
 明日は全身筋肉痛かもしれない。いや、今夜から既に歩くのも億劫なまでになってしまっているかもしれない。何もかも投げ出して、部屋に引きこもってギャンブラーZのビデオでも見に走ってしまおうか、とさえ思う。
 だがそんなことをしてしまえば、もれなくユーリから超弩級の雷が放たれるのは目に見えて明らか。吸血鬼のくせに十字架のお祭りが好きだなんて、というのは禁句だ。前にそんな趣旨の事を言って、直後に鉄拳が降り注がれた記憶は生々しすぎて思い出すだけで後頭部の痛みが甦りそうになる。
 緑と赤のモールを絡ませたリースを右手に飾り付け、ひとまず彼の前に広がっている一区画は完了。腕を伸ばして届く限りという広くあるようで実際はかなり狭いスペースを埋め尽くす緑と、それに負けない彩りを放つ装飾品の並びに、我ながら巧く出来たものだと少し背を仰け反らせて距離を稼ぎ、自画自賛して頷く。こうでもしなければやっていられないと、空っぽになった段ボール箱を遠慮無く三メートル近く下の地面に放り投げ、座っていた脚立の最上段から腰を浮かせたスマイルは右足を踏み板に直角に置き直し、左足を持ち上げて脚立上部から外した。
 底辺の短い二等辺三角形、もとい縦長の台形をした脚立の片側に立ち位置を移動させ、慣れきった足取りで十段以上ある脚立を軽業師さながらの動きで降りていく。久方ぶりに降り立った地面は冷え、靴底を通してでも冬の大地を感じ取る事が出来そうだった。
「ふいー」
 疲れた、と呟いて流れてもいない額の汗を拭う素振りをする。横倒しになって角が若干へこんでしまっていた先ほどの段ボール箱を拾い上げ、既にいくつか積み上げられていた、同じような扱いを受けた段ボールに重ねる。そして疲れを訴えかけて久しい肩をぐるぐると何度も回し、骨の鳴る音にうんざりしつつ振り返った先で、空になった箱以上に残されている、数えるのも嫌気がさす程の段ボール箱を見てがっくりと肩を落とした。
 もう嫌だ、と毎年思うのだけれど毎年、何故か最後まできっちりと言い渡された仕事を果たしてしまう自分が恨めしくあった。
 飾り付けは一日がかり、ツリーがきらびやかに皆の注目を集めるのは夜間のほんの数時間、片付けは更に短く大雑把。冷静に見れば虚しい限り。
 けれどそれなのに、毎年毎年、がらくただらけの倉庫から重い段ボールを十数箱も引っ張り出してきて、寒空の下脚立の上で総合計にして十数時間という長丁場を愚痴と文句を吐き出しつつも完璧なまでにこなしてしまうのは、ひとえに全て。
 彼の為。
「ぼくってイイ人~」
 こんな慈善事業、お金を出して頼んでもやってくれる人は一握りにも達しまい。それを無償でやってあげている自分は、なんて偉いのだろう。半ばやけくそになりながら声に出して呟き、新たな段ボールを見繕ってスマイルは巨大かつ重い脚立を一旦畳み、次の区画へと移動させた。
「あっつ」
 先ほどまでとは正反対の言葉がつい口をついて出たが、自分で言及せずにスマイルは片手で段ボールを落とさぬようにしっかりと握りしめ、もう片手と両足を交互に動かして器用に脚立を登っていく。
 暫くの間、耳に自分がスチールを踏みしめる音だけが微かに聞こえ、そこに重なって自分が吐き出す呼吸音が身体の内側から響いてくる。よいしょ、と短いかけ声を呟いて脚立の最上段に到達すると、片足を浮かせて天板を跨ぎ、日差しのお陰で若干暖かくなりつつもスマイルの身体を癒してくれるまでには至らない踏み板に腰を落とす。
 空を飛べるユーリが手伝ってくれたならば、もっと作業も捗って楽になっただろうに。しかし寒空の下で彼を働かせるには忍びなく、それでなくとも人手不足で屋内の飾り付けもせねばならないとあっては、彼をそちらに向かわせる以外無い。
 アッシュの料理が一段落してくれれば、という淡い期待は露となって消え去る運命にある。彼だって十数人という大人数の来客をもてなし、その肥え太った胃袋を満足させるだけの料理を用意するという重要任務が与えられているのだ。
 そもそも、この恒例パーティーの準備をたった三人でやろうという方が間違いだ。それでなくとも今年は忙しく、なんとか直前に時間を用意できたものの到底間に合うとは言い難い余裕の無さ。朝から気忙しく働いても、夕刻の招待券に記した時間に片づけまで完了しているか、時間との競争である。
「あー……まったくもう」
 ちらりと肩越しに、危ういバランスの上に成立している脚立から眼下の城内を伺う。大きな窓が庭に面していると言っても、この高さからでは内部に視線を達せられる筈が無い。先程脚立を降りた時には、白い泡状のスプレーで色々な絵柄を浮き上がらせた窓の向こう、微かにユーリの姿を見た気がしたが、結局声をかけなかったのもあって視線が重なる事もなかった。
 一人きりの作業は退屈で、飽きる。放り出してしまいたいという気持ちはまだ山盛りで、油断すれば膝に載せて片手で押さえている段ボール箱が落下という憂き目に遭いそうだ。まだかなりの量が残っている箱の中身は、金銀のボールから、笛を吹いたりハープを奏でたりする天使の姿を模した人形、原色眩しいモールに、円形のリースなど様々。
 そんな中、飾り付けを開始しようと箱を漁っていた手が、他のものよりも幾分小さな金属を見つけ出した。指先に引っかかった紐を引っ張ってがらくたに近いツリーの装飾品から救出したそれは、銀色の小ぶりな鈴だった。赤の組紐が結ばれていて、その組紐の先端でまったく同じデザインのもうひとつの鈴と結ばれている。
「鈴……?」
 鈴ならば、神社の賽銭箱上に吊り下げられているそれと遜色ない大きさをしている、別のものがあった。しかしスマイルが見つけたこれは、その辺のショップで売られていても別段不思議でない、親指より多少大きめの掌サイズだった。ともかく、この巨大ツリーに飾り付けるものとしてはあまりにも不釣り合いで、なおかつ頼りなく、弱々しい印象を与えてくれる。
 だからか、鈴がこの場に存在している事自体があまりに奇異に思えて、試しに顔の前まで持ち上げて左右に軽く揺すってみた。
 ちりん。
 夏場の気怠い暑さの中で密やかに奏でられる風鈴の音色を思わせるような、軽やかな音が薄く大気を震わせて響いた。しかし双子のように赤い組紐で結ばれた鈴から聞こえてきた音色は、何故かひとつ分だけだった。
「……れ?」
 はて、聞き間違いか。首を捻ったスマイルはもう一度、風にそよぐ常緑樹の枝振りを思わせる動きで鈴を振った。けれどやはり、聞こえてくる音はひとつ分。
 これは一体どうしたものか。鈴は確かにふたつ同時に揺れているのだが。両者が擦れ合って響く音とも違い、銀の鈴は不可思議な現象をスマイルの前に提示してくれている。謎解きをしている時間は彼に許されていないのだが、かといって見過ごせる程彼も融通が利く性格をしていなかった。
「むぅ」
 低く唸り、顎に片手をやって考え込んだスマイルは、ものは試しと固く結ばれていた組紐を解くことにした。しかし寒さの為に悴んだ指先は思うように動かず、しかもこれが結ばれたのは年単位で遡る必要性がありそうで、頑強な結び目に思わぬ苦戦を強いられる。
 身体が自然と左右に振れ、脚立の左右におろした足が天板を踏むのにも力が籠もる。膝に載せた箱が心許なく所在なげにしていた。
 数分後漸く、スマイルは爪の先で結び目を解すのに成功した。固く絡まり合っていた紐の一角が崩れ、こうなればもうお手の物とばかりにスマイルは紐を外して双子の鈴を個々に別たせた。
 しかし、勢いが余ったのだろう。それぞれの手で握っていた鈴を左右に大きく広げて持った瞬間、バランスを崩した段ボール箱がまず先に三メートル強の高度から落下した。
「あぁ!」
 慌てて掴もうと伸ばした左手から、するりと、赤い、結び目の名残が蛇のように捩れている組紐までもが落ちていく。そうして危うく、前に身を乗り出したお陰で自分までもが落下しそうになり、寸前で持ちこたえて僅かに前後に傾いだ脚立に肝を冷やしたスマイルは、どうにか無事の自分に安堵の息を吐いた。右手に残った鈴を胸元に戻し、おや? とまたしても首を捻った。
 音がしなかったのだ。
 耳の横に持って行って揺すってみる。曲がりくねっている組紐を指に絡めて何度も、しつこいまでに振ってみたが、ぴくりとも言わない。先程まで奏でられていた軽やかな音色は、過去のものとなってしまったようだ。
 スマイルは脚立越しに、落とした卵が割れる時に近い音を立てて拉げてしまった段ボール箱を小さく見つめた。灰色と茶色の中間、若干灰色に近い、枯れてしまった芝の隙間に埋もれ、双子の片割れはここからでは見つけられない。
 どちらにせよツリーの飾り付けをするには、箱を持ってあげなければならないのだ。手元が鈴ひとつを残して空になってしまった現状に肩を竦め、スマイルは脚立を降りた。地面にひっくり返っている段ボール箱の中身の惨状に溜息を二倍にして、落ちた反動で跳ね返って転がったのであろう、樅の木の根本近くに落ちていた赤紐の鈴を拾い上げる。
 ちりん、と。
「あれ?」
 さっきは鳴らなかった鈴が、ふたつ揃った途端にまた鳴った。耳に心地よい音にけれど眉根を寄せて顔を顰め、スマイルはひとつ息を吐いた。
 結ばれていた組紐の先端を重ね、ふたつ並べて揺らした鈴はまるで再会を喜ぶかのように嬉しそうに鳴り響く。しかし片方を樅の木の、随分下に伸びている枝の一本に引っかけて自分は後退して脚立よりも遠くに立ち、鈴を揺らしてみてももう音はしなかった。また戻って、枝の側で揺らせば鈴は密やかな音色を大気に刻む。
 口をへの字に曲げ、スマイルは頬を掻いた。
 つまりこれは、ふたつ揃って始めて音を鳴らす鈴なのだ。片方だけでは鳴らず、ふたつ近づけさせねば音は出ない。だからまるでさくらんぼのように紐の先端を結んでひとくくりにされていたのだろう。
 こんなものが何故ツリー飾りの中に紛れていたのかは分からない。がらくた入れと思われて放り込まれたのかもしれないが、そもそもこんな、何の役に立つのかも分からないものを買ってくる酔狂に心当たりはない。
 あるとすれば……自分くらいだろう。考え至って悲しくなり、スマイルは双子鈴をポケットに押し込むと気を取り直し、ぶちまけられている段ボールの中身を片付けにかかった。無事なものとそうでないものとを分け、脚立上での作業に戻る。
 太陽が西に傾き、赤い色が微かに地平線を彩り始めた頃、漸く彼の仕事は終わった。

 肩を回すと、ボキッという不吉な音が連続してあちこちから聞こえた。足は棒で、空箱で出来上がった山を振り返るのも嫌になる。けれどパーティー開始の時間はもうじきで、片付けが終了して漸く準備完了の為まだここで倒れるわけにはいかない。
 畳んだ脚立を横倒しにし、肩に担いで元あった倉庫の裏へ戻す。空箱は重ねて、やはり倉庫へ逆送致。割れてしまった飾りはゴミ袋に入れて裏口に集めておき、処分はアッシュに任せる事にする。
 そこまでやってやっと人心地つき、もう頭上まで持ち上がらない肩をもみほぐして労ってやりつつ、庭に戻ったスマイルは完成したばかりのツリーの前で佇む人影を見つけた。
 寒くないのか、腕まくりしたシャツ姿の背中には深緋色の一対の蝙蝠羽根がぱさぱさと緩い風を起こして絶えず動いている。どこかぼんやりと、見惚れているのか今朝方までとは一転したきらびやかさを放っている樅の木の変わりように言葉も無いようだ。
「ドウ? 凄いでショ」
 腰に手を当て、疲れもそこそこに声をかける。夕暮れが押し迫り薄暗くなり出している空の下、少し早いが電飾のスイッチも入れられて淡い光があちらこちらで控えめに明滅している。赤や青、それ以外の色が交互にランダムに光り輝き、夜闇が空を覆えばさぞかし、幻想的な空間を演出してくれる事だろう。
「ああ、確かに凄いな」
 大変だっただろう、とねぎらいの言葉と共に振り返ったユーリの顔にも若干ながら疲れの色が読み取れる。彼も彼で大変だったのだろう、後から覗いた城内は、ツリーにも負けず劣らず綺麗に装飾がなされていた。華美過ぎず、また控えめすぎない見事な仕上がり具合に、ユーリも自慢げに胸を反り返してくれた。
「アッシュクンは?」
「あっちも、もうじき終わるそうだ。あとは盛りつけだけだと言っていた」
「そっか。なにはともあれ、お疲れサマ」
 まだ本番はこれからなのだけれどね、と膝を折ってその場でしゃがみ込んだスマイルは、頬杖をついてユーリを見上げ笑った。彼も折り曲げていた袖を伸ばし、再び立派なツリーに視線を流す。スマイルも倣って、樅の木へ目を向けた。
 そしてふと、ズボンのポケットに異物を感じて腰を少しだけ浮かせる。忍ばせた指先が固く冷たいものに振れ、取り出せばあの双子の鈴。
 軽く鳴った音に気づき、上を見ていたユーリが足下のスマイルに目を向け直す。
「なんだ?」
「うーん、よく分かんないんだケド」
 目線の高さにやった鈴を揺らし、スマイルが呟く。興味惹かれたユーリも、片足を退いて姿勢を低くする。
 赤い組紐を掴み、ユーリの前で鈴を鳴らしてやってからスマイルは彼に片方を渡した。理由も分からぬまま受け取ったユーリの前で彼はまた鈴を揺らす。
 ちりん、と春の草原を駈ける緑風に似た音色がふたりの間で流れた。
 やおらスマイルは立ち上がり、ユーリにそこに居るよう言って彼から離れていく。十歩ほど行ったところで足を止めて振り返り、顔の前で彼は鈴を揺らした。
 音はしなかった。
「?」
 ユーリもまた手の中の鈴を振ってみた。けれどスマイルが持つ鈴と結果は同じで、しきりに首を捻った彼は何度も、最終的には振り回す勢いで鈴を扱ったが、音はついぞ鳴り響かなかった。
 顔を上げ、紅玉の双眸が遠くに佇むスマイルのしたり顔を思わず睨んだユーリは何故か悔しくて、もう一度二度、鈴を繋ぐ組紐を上下に激しく揺すった。しかし銀の――ユーリの髪色よりも金属の質感が当然ながら強く冷たい感じの鈴は彼の手に跳ね上がるものの、鈴特有の音色は聞こえてこない。
 そうしているうちにスマイルが間近まで戻ってきていて、彼がふっと息を吐くと同時に胸の前で小さな鈴を優しく揺らした。
 ちりん。
「……え」
 ユーリが聞こえた音に驚いた表情を作り、目の前に迫ったスマイルの顔を見つめ返す。スマイルは隻眼を細めて微笑み、再び、鈴を揺らした。ユーリの手に握られる鈴に向かい合うようにして。
 ちりん、ちりん……
 軽やかな音がふたつの鈴の間に響く。ふたつの鈴から、ひとつ分だけの音。漸く気づき、ユーリは空いた手を顎にやって思案気味に、珍しそうに鈴を眺めた。揺れる鈴は短時間離れていただけなのにその離別を悲しみ、また巡り会えた奇跡に感謝しているかのように、嬉しそうな音を奏でている。
「な、ものを見つけたんだ」
 ツリーの飾り付けの途中に、と付け足して説明し、スマイルはユーリから鈴を回収する。もう二度と離れないように、解いていた赤の組紐を結び合わせてやっていると、まだ思索に耽っている表情をしていたユーリがふと、顔を上げてスマイルに言った。
 そういえば、と。
「今年は忙しくて、お前達へのプレゼントは用意できなかったのだが」
「あー、イイよ。期待してなかったし」
 忙しかったのはスマイルも同じだ。なにせ同じバンドで活動しているのだから。しかしリーダー職にあるユーリへの負担はただのしがないベース担当とは違っており、スマイルは彼から何かしらの記念品を貰えるとは最初から思っていなかった。
 さして残念がる様子もなくあっさりと言ってのけたスマイルに、やや不満げに頬を軽く膨らませたユーリだったけれど、スマイルが双子の鈴をポケットにしまおうとするより先に、スッと掌を上にして彼へ右手を差し出した。怪訝そうに細められたスマイルの丹朱色の隻眼へ、幾ばくかの意趣返しも含ませて、
「どうせ貴様も、何も用意できていないのだろう? ならば、その鈴を私に寄越せ」
 今時分、買い物に行く時間が無くても、カタログを広げる程度の余裕があれば十分な通販、という手段もあるというのを考えていないのだろう。ユーリの予想に反して、それなりのものをきちんと、こっそり準備していたスマイルは彼の言葉に一瞬息を詰め、手の中の双子鈴とユーリの顔を見比べてしまった。
「スマイル?」
「あ、聞こえてる。でも、なんで、コレ?」
 彼の口ぶりから想定するに、ユーリは勝手な想像でプレゼントを用意立てていないスマイルからの代理のクリスマスプレゼントとして、ふたつ揃わないと鳴らない鈴を欲している。けれどこんなものを求めて、一体どんな意味があるのだろう。
 分からないと首を捻っていると、理由は良いからとユーリにせっつかれた。
「本当に、こんなのでイイの?」
「ああ、それで良い。……いや、違うな」
 広げられた掌に載る小さな、多くのがらくたに紛れてしまえば永遠に見つけ出せなくなりそうな、心細ささえ感じられる双の鈴を、ユーリは両の手で大事そうにそっと取り上げた。一瞬だけ触れた肌から、温もりが伝わってそして逃げていく。
「これが、いい」
 愛おしむような顔をして鈴を一度胸元に引き寄せて抱き、彼はスマイルによって結ばれたばかりの赤い組紐を解いていった。白い指先は城内の飾り付けをしていた所為か僅かに汚れ、この場所が寒い事も手伝ってか若干赤く染まっていた。
 痛々しさを感じさせる指先の動きを目で追いかけ、彼が何をしたいのかを知ろうとスマイルはあれやこれや、頭の中で考える。けれどこういう時に限ってユーリが何を思っているのかさっぱり分からなくて、その間に彼は紐の端で結び合わされていた鈴を再び引き離した。 
 離ればなれになるのを嫌がってか、鈴がひときわ寂しそうな音をひとつ零す。けれどユーリは構うことなく、組紐の曲がった端をそれぞれの手に持って、右腕を伸ばした。
「これは、お前にやる」
 ちりぃん……
 ユーリの声に、鈴の音が重なる。
 差し出された鈴に、隻眼を見開いたスマイルは反射的に出した手で鈴を受け取って、困った風に小首を傾げさせた。
「ユーリ?」
「お前が持っていろ。こちらは、私が貰っておく」
 ずっと、ずっと、肌身離さず持っていろ。
 命令するのか、願っているのか、切望しているのか。どれでもなく、どれでも当てはまりそうな、感情の混ざり合った声でユーリは僅かに瞳を揺らし、言う。
「何故?」
「さあ、な」
 問いかけても彼は答えをはぐらかし、足の裏で枯れた芝を踏み締め、俯いてから唐突に顔を上げ、空を見上げる。
 澄み渡る空の色は変わらず、ただ陽光は西へ大きく傾ぎ庭に伸びる影は長く細い。冷え込みはこれから日が暮れるに従って厳しさを増すだろう、シャツ一枚という格好を今更に思い出し、ぶるっと身震いしたユーリと困惑を未だ解けないで居るスマイルとの間で、もの悲しい鈴音がした。
 心が引き裂かれるような、そんな痛み、が。
 チクリと胸の奥で疼く感情を、拳を握ることでやり過ごし、ユーリは暖かな屋内に戻ろうと踵を返す。
 大丈夫、大丈夫。
 鈴の音はまた必ず響く。自分が此処にいて、彼が其処に居る限りは。
 そして。
 去りゆくユーリの背中を釈然としない思いで見送っていたスマイルは、自分が吐き出した息の白さに驚きながら疎らな雲と鮮やかな朱色に染まる西の空を振り返った。その頃ユーリもまた彼を振り返り、巨大なクリスマス・ツリーを不釣り合いな夕焼けを背景にしているスマイルの、今にも薄れて消えてしまいそうな姿を見つめてふと、泣きそうに顔を歪めさせていた。
「スマイル」
 夕焼けよりも鮮やかで、濃い色をした瞳を見たくて、ユーリは彼の名前を呼ぶ。応じて彼に向き直ろうとするスマイルに向けて、半分以上無理をした笑顔を作って、
「Merry Christmas , Smile」
 右手に冷たい鈴を握りしめ、叫ぶ。
 一瞬虚を突かれた顔になったスマイルも、数秒後に破顔する。
「Merry Christmas , Yuli !」
 彼らしい笑顔にやっとユーリも頬の緊張を緩めて心から笑顔になり、早く戻って暖まろうと腕を大きく振りかぶらせてスマイルを誘う。ちょうどアッシュが作業に一区切りつけたようで、湯気立つ紅茶のポットとカップを載せた盆を持ちパーティー会場であるリビングに姿を見せていた。
「お疲れ様ッス」
「う~、寒かった」
 綺麗に飾られた室内をぐるりと見回して、凄い、凄いと連発させたアッシュに、ツリーの出来も褒めてくれとスマイルがせっついている。夕焼け空の下で霞んでいた彼の姿は、もう其処に見つけられない。
 ユーリは黙って、掌の鈴を握りしめた。
 ふたつ揃わねば鳴らぬ鈴。
 ならば、いつか君を見失っても。
 鈴の音はきっと、君を、探し出すから。
 見つけ出すから…………

Cool Morning

 ひんやりとした空気が頬を撫でる。風こそ無かったが澄み渡った空の色に吸い込まれそうで、首が痛むのも構わず空ばかり見上げているうちに鼻の奥がむずむずとしてきた。
「くしゅっ!」
 我慢できずに露出する片目を閉じて身体を前屈みにさせる。吐き出した息が遠くに飛んでいくのも見送れず、溜息と共に目を開いて前を向いて、誤魔化し加減に鼻の下を指で擦ってみた。風邪を引いたつもりはないが、早朝の冷え切った空気は肌に優しくないようだ。
 庭に出るには大げさだと思っていた黒のロングコートの前を重ねて身体を丸め込ませ、しかし視線は飽きずに空を追いかける。
「寒いなぁ」
 もう暦は冬なので寒いのは当然の事象だから、今更改まって口に出して述べるべき感想ではないのだろうけれど、それでも言わずにはおられない程の冷え込みだ。少し前まで、昼間の日が照っている時間などは上着無しでも平気だったのに。
 明け方で、まだ日が昇ってからそれほど時間が経過していないからかもしれない。けれどそれだけで説明してしまうには少々厳しすぎる肌寒さに、コートの隙間から忍び込んでくる冷気を堪えつつスマイルは長い時間をかけて息を吐いた。
 そして喉に鋭く突き刺さりそうな空気を吸い込んで、一気に吐き出す。
 薄く白に濁った吐息が現れて、すぐに解けて消えていった。二度三度それを繰り返し、寒い、と再度呟く。
 昨日、遅い時間だったけれど寝入る前に窓からカーテン越しで見た空は星が綺麗で、月も輝いていた。風のない穏やかな夜で、予想通りに今朝も清々しく晴れた空が一面に広がっているのだけれど。
 放射冷却だろうな、と足下の枯れてしまった芝の残骸を見下ろし、心の中で呟いて、彼は、そういえば、と斜め後方を振り返る。庭木に水をやるために蛇口から引かれた水色のホースの先端が突っ込まれた、ホースよりも少し弱い色をしたバケツに張られていた水の表面が薄く凍っていた。
 確認しようと足を戻してバケツを真上からのぞき込むと、薄氷が何枚か水の中に漂っていた。もうじき解けて無くなってしまいそうだけれど、今朝方の気温が摂氏零度まで下がっていた他ならぬ証拠であり、再度見上げた空に白い吐息が幾つも浮かんで行った。
 細かく千切れた雲さえ見あたらない一面の青空は久しぶりで、凛と張りつめた空気は心地がよい。これでもう少々気温が高ければ過ごしやすくて良いのだけれど、と愚痴を言ったところでどうしようもなく、緩く首を振ったスマイルは深呼吸をして朝の澄んだ空気を胸一杯に吸い込んだ。
 身体の隅々まで冷気が染み渡り、まだ眠気を残している部分が呼び起こされていく感じがする。どこかぼんやりしていた意識がはっきりして、数回の瞬きを繰り返せばもう気象直後の気怠さはすっかり消え失せていた。
「ん~~~」
 良い天気である事に変わりはない。昼が近づけばこの寒さも少しは和らぐだろう。天気予報で今日は一日晴天が続くと言っていた言葉は嘘では無さそうで、乾燥した大気から雨を感じさせるものは何も受け止められなかった。
 腕を頭上まで持ち上げて大きくのびをし、前後左右に軽く揺すって目を閉ざす。闇の向こう側に感じられる光に安堵して、つい上機嫌に鼻歌が漏れた。
 人気のない庭、そもそも居住者の数が極少の城。アッシュが台所で朝食の支度を開始しているだろう事は、時間帯からして想像がつくがもうひとりの住人、もとい城の主は恐らくまだベッドの中だろう。
 煮詰まっているのかどうなのかは本人に聞いたわけではないので分からないが、最近夜も遅く朝がいつにも増して遅くなっているユーリの部屋をちらりと持ち上げた視線の先で見上げ、窓がしっかり閉められているのを確認し、スマイルは若干口角を持ち上げて笑った。
 どうせだし、折角だし、構わないだろう。
 一度決めてしまえば後は実行あるのみ。ユーリの安眠を邪魔しない程度に一応気を配りつつ、スマイルはお気に入りのヒーローもののテーマソングを口ずさみ始めた。
 最初こそは控えめに、庭を一周する散歩もどきの相方にという程度だったけれど、誰にも邪魔されずに広大な空の下でライブが出来るとあって、次第に握り拳片手に歌声もヒートアップして行くのに本人はまるで気づかない。調子よく、腕を振ってリズムを刻み、必殺技のかけ声には力一杯叫んで。
 台所でフライパン片手に目玉焼きに挑戦中だったアッシュが顔を上げ、目の前の窓から外を伺いスマイルが楽しそうに姿を見つけ、苦笑いともとれる表情で肩を竦めていたのにも当然、気づかない。
 無論、場内のベッドで気持ちよく眠っていたユーリの耳にもその大声が聞こえているという事実にさえ、彼は気づいていなかった。

「ん……」
 どうにも次の楽曲の歌詞が巧くまとまってくれず、悩んでいるうちに時間が過ぎて必然的にベッドに倒れ込む時間も遅くなってしまっていた最近、ユーリは疲れも手伝って眠りが浅くなっていた。
 どちらかといえば昔からそうだったのだけれど、このところは眠っても夢と現の境界線を行ったり来たりしているようなもので、寝返りを打つたびに意識が覚醒に近い場所まで登ってまた沈む繰り返しに近い。
 今も小一時間ほど前に一度目が覚めて、けれど目を開けないまま横になっているうちにまた眠ってしまっていたらしい。薄目をあけ、遠くの壁に微かに見えた時計で現在時刻を朧気に認識したユーリは、自分が眠っていたであろう時間を大まかに計算しようとして出来なかった。
 まだ意識の大部分が眠ったままだ。けれどもう一度眠りに落ちようと身体に働きかけようとしたところで、耳に入ってきた自然界から発生されるものとは大きく異なる騒音に眉根が寄る。
「……なに」
 この不機嫌極まりない調子外れの歌は。
 辛うじて聞き覚えのある歌詞とメロディーに、実に機嫌良く楽しそうに歌っている声。もぞもぞと被っている布団を押しのけて上半身を起こしたユーリは、直後に襲ってきた冷気にぶるりと身体を震わせた。
 剥いだばかりの毛布類を引き寄せて肩から被り、薄手の寝間着という自分の服装に今更気がつく。眠っていたのだから当たり前なのだが、それにしてもこの寒さはどうした事だろう。
 薄日が差し込んでいる窓から外を見て、白いカーテン越しにすっきりと晴れた空に目を細める。再び時計に目をやって、本来ならもう活動時間であってもおかしくない現在時刻に片手で額を覆う。最近寝坊が増えてきていた自分だったから驚きはしないが、こうも連日続くと自分で自分に呆れてしまう。
 誰も怒らないからついつい甘えてしまうのだけれど、今日はもうこれ以上布団に逆戻りする気にはなれなかったので、起きる算段をとろうとユーリは肩にのしかかるずっしりと重い布団の端を掴んでおろそうとした。
 だが、やはり寒い。
 一晩ですっかり冷え込んでしまった室内の空気はユーリをベッドから降りるのを拒否させるに十分過ぎて、彼は決意したもののなかなか達成出来ずに手持ち無沙汰のままもう数分、その場に留まってしまう。外から聞こえてくる歌声はまだ止まず、全シリーズのオープニングを歌い尽くすつもりなのか、一曲終わってもすぐに次の歌が始まるといった具合だった。
「……安眠妨害」
 彼の歌声で目が覚めたのだから文句のひとつでも言ってやって然るべきだろうか。けれど窓を開ければ今よりずっと冷たい空気にさらされる事になるのは間違いなく、暖かな布団にくるまれている今から脱出さえ出来ないでいるユーリが果たして、ベッドを降りてやはり冷たい床を素足のまま進めるのかさえ、かなり疑問。
 素早く視線を床に走らせたユーリは、ベッドサイドに昨夜眠る前に脱ぎ捨てた自分の靴を見つけ、そろりと膝を曲げていた右足をゆっくりと伸ばした。
 白い血の気の乏しい爪先が布団からはみ出し、冷えた床板に触れる直前に手探りならぬ足探りで見つけた革靴に突っ込まれる。ひんやりした感覚が皮膚に突き刺さったが、これしきで悲鳴を上げるのはプライドが許さず、奥歯を噛んで堪えたユーリはもう片方にも同じようにして足を通した。
 足首から入ってくる冷気に骨の芯が痛む感覚がしたが、思い切って立ち上がった。肩から担いだ毛布を一枚だけ引きずってマントのように羽織り、端を前で掴んで落ちないように支えてやると、思ったよりも暖かい。そのままベッドから離れれば毛布の端が床を擦るがまったく気にせず、ユーリは窓を遮っているカーテンを引いてどこまでも澄み渡る青空を改めて視界に納めた。
 施錠を外して観音開きに外側へ開くと、風はなく予想した程冷たい空気は駆け込んでこなかった。だがやはり寒い事に変わりなく、吐く息が一気に白く染まって彼を驚かせた。
 地表から流れてくる歌声もさっきよりもはっきり、大きく聞こえるようになる。身を乗り出して下を覗けば、踊りこそしていないけれど手振りを交えて高らかに歌っている存在の頭が小さく見えた。
「朝っぱらから、迷惑な奴め」
 お陰ですっかり目が覚めてしまったではないか。苦々しく笑ったユーリは傍目から見ればみっともない布団をマントにした今の自分に構わず、窓枠に手を置いて更に前のめりになり、身を乗り出した。
「スマイル!」
 そして、寝起きの頭に少々響きそうな大声で呼びかける。直後、ぱたりと歌声が止んだ。
 ユーリの声に、頭上を振り仰いだスマイルが唖然とした面持ちで口を半開きにさせている。きっと本人は、ユーリが聞いていた事など夢にも思っていなかったのだろう。或いは自分が地上からかなり高度のあるユーリの部屋まで届いていないとでも甘く見ていたのか。
 滅多に見られないスマイルの間抜けな表情に、ユーリは安眠を邪魔された悔しさが少し晴れた気がして表情を緩める。自身の重みで後ろにずれて行きたがる毛布の端を掴み直し、肩まで持ち上げてやろうと膝を折り、窓から身を乗り出した状態で身体を上下に揺すった。
 が。
「あ」
 まだ完全に、目覚めている意識ほど身体は覚醒しきっていなかったようだ。
 毛布がずるりと右側に大きく傾いてずれ落ちて行き、慌てて掴もうと窓から乗り出している身体を支えていた右手を浮かせたのが悪かった。
「ユーリ?」
 下から見上げていたスマイルも、窓辺のユーリがおかしな動きを取ったのに気づく。目を細め小さな姿を必死にとらえつつ、不穏なものを感じて足は自ずと城の壁に向かう。
「うあっ、と……」
 上半身の殆どが窓の外に出た状態で、窓から落ちようとしていた毛布の端を無事捕まえるのに成功し、ユーリ自身も安堵で油断していたところがあったのだろう。例え掴めたとしても、それを屋内に引き戻さない限り重力に引かれ、毛布の大部分は窓から落ちていくという現実にまで頭が回らなかった。
 ずるずるとユーリの肩を乗り越えて落ちていく毛布を掴んだままの右手が、毛布自体の重みに今度は引っ張られる形に変わる。咄嗟に左手が窓枠を掴んだが、完全に手遅れだった。
「ユーリ!?」
 スマイルの悲鳴が矢のように飛んでくるのを、ユーリは我ながら情けない格好だと自嘲気味に笑って聞いた。右手の指先から掴んでいた毛布が一足先にとすり抜けていったけれど、浮き上がってしまった両足が踏ん張りきれる筈もなく、左手一本で身体を支えられるわけもない。
 まだ夢の中に居る感覚が全身を包み込んでいて、ユーリには緊張感や緊迫感といったものが薄皮一枚隔てたところにある気がしてならなかった。地上数十メートルはある高さからの落下で、無事で済むはずがないと分かっているのに理解がそれに追いつかない。
 悲痛な声が聞こえてくるが、馬耳東風が如く身体の両側を流れていくばかりだ。
「――…………」
 ただ、なんとなく、だったけれど。
 たとえ窓から本当に落ちていたとしても、自分はきっと大丈夫だろう、と。
 見上げた空は、どこまでも青くて、澄んでいた。
 衝撃はその直後に、全身――特に背中に襲ってきた。
「っ……!」
 けれど声にならない悲鳴をあげたのは落ちた当のユーリではなかった。
 ひらひらと上から、先に落ちたはずの毛布が風の抵抗を受けて舞い降りて来て、空ばかりを見上げていたユーリの視界を塞いでしまった。顔に直撃したそれを鬱陶しげに追い払い、腰の横に持ち上げた手を戻したら触れたのは地面にしては随分と柔らかな感触。
 目を細めてじっくりと見つめれば、それは他ならぬスマイル本人だった。腹を上にして、ユーリの下敷きになり苦悶の表情を浮かべている。ユーリの固い背骨と肩胛骨の下に存在する蝙蝠羽が肋骨を強かに打ち付けたようで、呼吸困難に陥る寸前になっていた彼の顔色は普段以上に青白く染まっていた。
 慌てて飛び退くと、漸く楽になった呼吸に脂汗を浮かべていたスマイルが低く呻く。
「ったぁ……」
 落下するユーリを受け止めようとして受け止め損ねた彼は、何度も胸を大きく上下させてユーリを少しばかり不安にさせた。けれど数分経たないうちに目覚ましい回復ぶりを発揮してくれ、まだ微かに痛みを残すものの彼は身を起こし、寝間着に素足で革靴という出で立ちのユーリに盛大な溜息をついた。
「なんだ」
「いや……どうせなら、羽根使って自力で降りてきて欲しかったかな、て」
 ユーリの背中には立派な一対の翼がある。自力飛行が可能な、大きな羽根が。
 距離が短くて間に合わなかったとしても、羽根を広げさえすれば空気抵抗でダメージは軽減出来た筈だ。そうなればスマイルだってもっと楽に受け止められただろうし、ここまで痛い思いをせずに済んだ。スマイルは、ユーリが自力で抵抗を試みるくらいはしてくれると思っていたから、何の動きも見せてくれなかった彼を受け止め損ねて下敷きになってしまったのだ。
 全部今更なのだけれど言わずにおられなかったらしいスマイルの苦情に、しかし曲げた膝に肘を置いて頬杖をついていたユーリはあっけらかんと笑って、
「お前が下に居たからな。必要ないだろう?」
 現にこうしてちゃんと受け止めてくれたではないか、と怪我ひとつしていない自分の身体を揺らして言ってのける。スマイルは絶句し、次に言おうとしていた台詞も吹き飛んでしまった。
 片手で頭を押さえ、首を振る。
「それに、お前があんなに大声で歌ってさえいなければ、こんな事にはならなかったのだぞ?」
 そもそもの発端を口に出し、自分は悪くないと胸を反らせるユーリにスマイルは閉口してしまってもう何も喋る気になれなかった。確かにそれはそうかもしれないが、と、今頃になって自分が羽目を外して大声で歌っていた現実に思い至り反省しきり。
「……しゅっ!」
 俯いてのの字でも書こうかとしていたら、目の前でくしゃみが聞こえた。視線を持ち上げるとユーリが鼻の下を指で擦っていて、小首を傾げていたら目が合った。
 冬の朝、寝間着一枚で屋外、空の下。
「寒いぞ」
 当たり前だろう、とスマイルが言ってやろうとしていたところで、ユーリの両手が問答無用でスマイルの胸倉を掴んだ。
 いや、正しくは彼の来ていたロングコートを。
「スマイル、万歳」
「え? あ、はい」
 命令口調で早口に告げられ、理由も意味も分からず、けれど反射的に従ってしまったスマイルが両手を頭上にまっすぐ伸ばす。黒色が彼の視界を走り抜け、そして消えた。
 冷たい空気が一瞬後、スマイルの全身を包み込んで針のむしろに飛び込んだ錯覚が彼を襲った。対するユーリは、今し方スマイルから抜き取った黒のロングコートを肩から被り袖を通して膝の下までを完全に包み込む。
「うむ、暖かい」
「いやそうじゃなくってー!」
 満足げに呟かれた一言にスマイルは絶叫するが、ハイネックのセーターを着ている分まだ寝間着姿のユーリよりは暖かい筈の自分に彼は視線を泳がせた。両手で身体を抱きしめ、なんとか寒さを和らげようと掌を擦り合わせたりして努力するが、あまり効果は現れてくれなかった。
「ユーリ」
「…………」
「ユーリ?」
 気がつけば、ユーリは下を向いて動かない。不審に思って顔を近づけると、実に整った寝息が微かに聞こえてきた。
 さすがのスマイルも絶句し、この状況で眠ってしまえるユーリに呆れを隠せない。
 だがそれだけ、彼も疲れているのだろう。頑張れば頑張るほど根を詰めすぎるリーダーの姿に肩を竦め、もう少し自分たちを頼ってくれても良いのに、と自分にもたれかかってきたユーリを抱き上げスマイルは立ち上がった。
 驚くほどに軽い身体に、むず痒い感情が呼び起こされる。この細い身体をもっとちゃんと、倒れないように支えられるようになれたら良いのに、と一瞬だけ泣きたい気持ちが浮かんできてスマイルはごまかすように空を仰いだ。
 冬の空は、相変わらず澄み渡って静かだった。

that Day

 欠伸を噛み殺し、眠い目を擦ったユーリは気を抜くと左右に揺らいでしまいそうになる両足を叱咤して廊下を歩いていた。細く長い通路は永遠に続く闇の中に溶けて消えてしまいそうで、終わりがないように思えてしまうのが不思議だ。明け方に間近い時刻が、その印象を後押ししているようでもある。
 窓は閉ざされ、時折壁に据え付けられた燭台から、頼りない炎が蝋燭の上で揺れているばかり。己の手元さえも曖昧な輪郭しか映し出せない瞳を細め、この時間になってから漸く完成を見た楽譜の束で顔を仰ぐ。
 バサバサとひとまとまりに重ねられた紙が端を擦れ合わせ、やや不快な音を刻み込む。眠そうな顔をしていたユーリは更に剣呑な表情を表に刻み、整った眉目に深い皺を作り出した。
 そんな顔でいたら、ずっとそんな顔のままになっちゃうよ。
 いつだったか、不機嫌を隠そうとしないユーリの眉間に指を突き立てた男が笑いながら言った台詞を思い出す。そんなに酷い顔になっているのだろうかと、自分では決して見えない自分の顔を想像してユーリはスコアの端で頬を掻いた。
「ん?」
 この城でユーリ以外の、昼間でも自由に動き回ることが出来る存在はもう既に就寝している筈で、だからユーリの足音以外に物音は響いて来るわけがないのだが。もっともユーリが今歩いてきた廊下の中央には真っ赤な絨毯が敷かれていて、その上を行く限り足音が沈黙する城内に反響するのもあり得ない。
 だとすれば、今ユーリの耳が捉えた、何か固いものが擦れ合う音は何だったのか。
 音の発生源を探り、ユーリは視線を巡らせる。だが暗い城内に頼るべき明かりは乏しく、吸血鬼の瞳といっても限度はある。アッシュのような百メートル先で落ちる針の音まで聞き分けられる聴力も持ち合わせておらず、自然と瞳は細められて眉間の皺は益々厳しくなった。
 吸った息を吐かずに留め、注意深く周囲を窺う。
「……下?」
 廊下と何もない空間を遮っている手摺りに片手を置き、翼があるので落ちても平気なのだが咄嗟に反応出来ないのも困るので、なるべく注意深くしながら階下を窺う。吹き抜けを囲む形で伸びている楕円の廊下から身を乗り出したユーリは、まだ耳を澄ませば微かに聞こえてくるような、来ないような、そんな音を拾い上げようと必死になった。
 目を閉ざし、奥歯にやや力を込めて噛みしめる。
 がたん、ごと。
 やはり、音はする。自室へ戻る為の道のりをひたすら進み、間もなく目的地に到達しようとしていたユーリは、しかし逡巡してスコアを潰れぬ程度に握って腕を組んだ。
 音が階下から発せられているものだと判明した時点で、何処の部屋からのものかも曖昧ながら判別がついた。いや、というよりもそれ以外に考えようの余地がない。
「まだ起きているのか」
 自分は棚に上げ、舌打ちついでにユーリは呟く。言うか早いか、彼の背中で唐突に風が膨らんだ。
 平時は小さくコンパクトに、羽ばたかせても頬を撫でる微風程度しか生み出せない翼が、今や彼の身体を包み込める程の蝙蝠羽に進化していた。先端に鋭い爪を持った赤い漆黒の翼で、冷たい夜の空気を打つ。
 そのまま彼は、右手を預けていた手摺りに左の爪先を登らせた。右足で床を蹴り、己の肢体を中空に投げ放つ。ばふっ、と広げた布が空気抵抗で膨らむ時に似た音が彼の耳元で爆発して、視界を180度反転させたユーリは重力に導かれるまま逆立った髪を梳き流すとワンフロア分の距離を落下した。
 正しくは、手摺りを乗り越えてひとつ下の廊下の天井に当たる、裏を返せばさっきまでユーリが居た階の廊下の裏側にあった出っ張りに指先を引っかけ、そこを軸に逆向いていた身体を正位置に立て直した。そうすれば自ずと彼の足裏は二階部分の廊下を隔てる手摺りの上に降ろされ、掴んでいた天井飾りを離しても背中の翼が絶えず風を操作しているのでもう落ちる心配も無い。
 渦巻く風を、けれども徐々に小さくさせてユーリはまた半眼した。もっと詳しく音の発生源を探るべく注意深く周囲を窺い、唾を飲む。
「やはり」
 彼処か、と呟いてユーリは真ん中で潰れてしまっていたスコアを広げて皺を軽く伸ばした。薄暗い燭台の灯では心許ない為、作業の途中で諦めて今度は縦に丸めて持つことにした。
 最後に風を膨らませた翼はユーリが本来そういう役目は持たない手摺りの上から廊下へ降り立った瞬間、普段のサイズに縮小されてコンパクトに形を変える。名残なのかぱさぱさ乾いた調子で風を生み出そうとするが穏やかな微風は残念ながらユーリには届かなかった。
 丸め持ったスコアで自分の肩を叩き、ユーリは大股に数歩進んで音が聞こえて来た部屋の扉を探した。
 階段は遙か向こうに。端的に言ってしまえば、階段を迂回するだけの距離と手間を惜しんだユーリの先程の行動だ。
 上の階よりも更に薄暗さを増している廊下を、だが歩き慣れている為に淀みなく進んでユーリはひとつの扉を見つけ出す。誘っているのか招いているのか、偶然か、わざとか。この場で思案巡らせたところで分かるはずのない数センチの隙間を作り出す、閉まりきっていない扉から漏れ出す光が、室内にいるだろう存在が未だ活動中であると教えてくれる。
 音合わせと編曲を兼ねた練習で、まだもう少しと粘るユーリに閉口した挙げ句、早々にミーティングルームを抜け出したのは他ならぬ部屋の主ではなかっただろうか。そう言えば妙にそわそわして落ち着かない様子で、心此処に在らずと言った感じで視線も一カ所に集中していなかったように思われる。
 集中力の切れた相手を長時間拘束したところで、良い結果が導き出せるとは思えないとスマイルの退室を許したユーリではあったけれど。踵を返した彼から、そうなった原因をもう少し追求しておくべきだったろうかと今更に後悔する。
 うきうき、という擬音が似合いそうな足取りだったスマイルを思い出してユーリは臍を噛んだ。出来るだけ気配を殺し、静かに半開きの扉へ指先を引っかける。僅かな隙間に爪先を挟ませ、ねじ込ませる時の反動で扉が作る空間を広げようと言うのだ。
 そうしてなんとか中がうかがえるまでに隙間を広げて、ユーリは紅玉の瞳を細め、中を覗き込んだ。堂々と戸を開けて中に踏み込んでも構わないのだが、時間的にそう言った好意も憚られる感じがして、引け目が先立った結果だった。
 そうっと眺めた両側を闇に阻まれた景色は、視界が焼かれそうな明るさに満ちていた。部屋の中央近く、半分隠れてしまった場所の床に直接腰を下ろしたスマイルの肩が見えて、集中しているのかユーリが扉口に居るのにも気付かず、振り返りもしない。よくよく目を凝らしてみると、胡座を組んでいるらしい彼の膝の傍にはなにやら、細かい部品らしきものとそれらを組み立てるに必要なペンチやらニッパーの姿が見えた。
 またプラモデルか、とユーリは嘆息する。そう言われてみれば、先日彼が巨大な荷物を抱えて帰ってきた事を思い出す。両手で抱えても足りない程の大荷物の中身まで具体的に聞いていないが、恐らくは今彼が部屋中に広げているものがその正体だろう。
 片手で額を押さえ、ユーリは綺麗な眉目に皺を新たに刻み込ませる。
「まったく」
 どうして彼は、こうも遊ぶことを優先させるのだろう。ユーリにはさっぱり分からない彼の趣味に唇を浅く噛み、このままでは徹夜をも辞さないだろうスマイルの寝不足具合を天秤に掛けた。夜明け後の仕事も込み入っている、少しでも休んでおかないと途中で倒れたところで休みは許されないのだ。
 体調管理もれっきとしたプロの仕事のひとつ。例え自分の趣味の為であっても、仕事に万全を尽くすという天秤の片側を天井高くまで持ち上げるには足りない。
「スマイル」
 名前を呼び、ユーリは僅かな隙間だけを作り出すに留まっていた扉を思い切り押し開けた。
 目の前に目映い光が溢れて広がる。網膜を焼かれそうな感覚に一瞬だけ息を詰まらせたユーリではあったが、息を呑んで吐き、決意の思いも含めて一歩室内に踏み込んだ。
 声に漸く気付いたスマイルが、自分の膝からもはみ出しそうな大きさをしたプラモデルを手に驚いた風情で振り返る。まだ完成には遠そうな、下半身だけがなんとか形を成しているそれは、彼が愛して止まないアニメに登場する巨大ロボットらしかった。
「げっ、ユーリ」
 扉口からゆっくりと近付いてくる存在を改めて認識し、スマイルはしまったと言わんばかりの表情を浮かべて直後失言した自分の口を押さえこんだ。しかし時既に遅く、しっかりとその耳で聞いたユーリはこめかみ近辺の筋肉をヒクつかせながら右手に拳を作った。
 二秒後、逃げようかと腰を浮かせたもののまだ完成半ばのロボットを手放すわけにも行かず、半端な体勢で狼狽えていたスマイルの脳天にユーリの鉄槌が下される。ズガンと頭蓋骨が陥没していそうな音がして、大事に胸に抱え込む直前だったギャンブラーZの下半身部が衝撃の反動で床に落下する。
「あ~~~~~~~!!!?」
 明け方までまだ少しという時間帯にお構いなしでスマイルが悲鳴を上げる。これは今頃恐らく夢の中にあるだろうアッシュにも聞こえたのでは無いかとユーリは危惧したが、あの神経図太いだけが取り柄のような狼男がこれしきで目を覚ますとも考えにくい。現に数分待っても廊下を何事かと騒ぎながら駆けてくる存在は現れず、無意識に安堵の息を漏らしていたユーリは、落下の際にぶつけた部位が壊れてしまったらしい巨大プラモデルを前にうちひしがれているスマイルを見下ろした。
 彼は、自分が殴られた場所よりも、作っている最中のプラモデルが壊れた方が余程痛かったらしい。溜息が漏れる。
「まったく……」
 呆れてことばも出ない。胡座を崩して膝を床に押しつけた前傾姿勢を作るスマイルが、弾け飛んでしまったパーツを探して必死の形相で這い蹲っている。この熱意をもう少しばかり、バンド活動に差し向けてくれれば楽なのだが、とリーダーとしての苦悩を思い出したユーリの巡らせた視線のその先に、見慣れぬものが置かれていた。
 スマイルの机の上、四角と三角を組み合わせた奇妙な形をしている。レンズらしきものが全面に付属していて、まだ床で四つん這いになっているスマイルの臀部を爪先で蹴り飛ばしたユーリは、彼の無言の怒りを受け流し机上の物体を指さした。
「あれは?」
「……どれ。ああ、ポラロイド」
 そこまでショックだったのか、片方だけが露出している瞳の目尻にうっすらと涙まで浮かべていたスマイルが、投げやり気味に振り返ってユーリをひと睨みした末、指し示された方角に視線をやってやはり投げやりに呟いた。
「ポロ……?」
「ポラロイド。ああー、もう。どこ行っちゃったんだよ~」
 即座に正しく言い返せなかったユーリに、重ねて告げ、スマイルは地団駄を踏むように床を結んだ拳で叩いた。細かな部品が一瞬だけ宙に浮き、いくつかが転がったり倒れたりした。
「ポラ……?」
「ポラロイド! ポラロイドカメラ。知らないの?」
 苛々した声でスマイルが繰り返し言い、やっと見つけたパーツを掌で大事に掬い上げる。もう見失わないよう、組み上がっている部品の間に並べて置き、彼は立ち上がった。
 大股で机に向かって進み、ユーリが凝視していた物体を手に取る。裏返してなにかのボタンを操作したかと思うと、唐突に彼はレンズが嵌った方向をユーリに向けた。
 かしゃっ、というシャッター音が小さく聞こえた。一瞬の閃光に瞳が焼かれ、網膜の奥に光りの残滓が刻まれたユーリはムッと口角を下向けて唇を噛み、スマイルを睨んだ。
 だが意に介した風情もない彼は、手にした箱を今度は自分の側へ向けて中から出てきた紙を引っこ抜いた。真っ白い長方形の、紙というには少々厚みがあるそれの端を抓み、前後に振って風を浴びせている。
「?」
「ん、出てきた」
 首を傾げているユーリの手前、二分ほどしてからスマイルは手首の運動を止めて抓んでいた紙を彼へ差し出した。裏側は依然真っ白だったが、表側は違っていた。
 長方形の紙に、正方形で色が出ていた。中央から少々外れてしまっていたが、しっかりとユーリの輪郭を形取った色が、だ。
 朧気に映し出されているそれは、渡された方向のままに手にとって初めて分かったが、どうやら写真の……印画紙のようであった。片面だけの特殊なインクを塗布されたそれは艶を含んで光を反射し、徐々に浮き上がる色の不可思議さを助長していた。
 方向を反転させてゆっくりと、はっきりと映し出されてゆく自分自身の一瞬前の姿に、ユーリは僅かながら驚きの表情を作り出す。
「これは」
「だから、ポラロイドカメラだって言ってるでしょうに」
 しつこいな、と嘯いてスマイルは手の中の箱をユーリへと押しつける。上部に埋め込まれている銀色の丸いボタンを指差し、それからファインダーの在処を教えてフラッシュのランプを示した。
 やり方は普通のカメラとほぼ同じだが、違うのはその瞬間に焼き付けが行われる事。フィルムではなく直接印画紙をセットする為、両手の平に乗せてもはみ出る大きさなのだと簡単に説明したスマイルは、試しに押してみてごらんと、ユーリから手を離した。
「…………」
 大体こんなもの、どこから出してきたんだと半信半疑のままユーリはカメラを構えて言う。素早くカメラのレンズから身体を逃したスマイルは、一度にプラモデルを大量に買った店で、おまけとして貰ったのだと軽い調子で応える。
 それでもしつこくレンズでスマイルを追いかけるユーリは、こんな高価なものをよくくれてやる店があったものだな、と微妙な呆れを口に出し、逃げ切れずにシャッターを押されてしまったスマイルが、そんなに高価なものではないと頭を掻いて呟いた。
 ポラロイドカメラの側面から、先程同様に印画紙が輩出される。待ちきれない様子でそれを引っこ抜いたユーリだったが、表にも裏返してみても、何も印刷されていないのにまた首を捻った。
「不良品」
「…………」
 失敗したではないか、とカメラごと白紙の印画紙をスマイルに押しつけようとしたユーリが唇を尖らせたのを受け、彼はカラカラと声を出して笑い顔の前で手を振った。
 床に胡座を組み直して座ったスマイルが、最初に撮影したユーリの写真と今渡された白紙の印画紙を揃えて持ち、新しい方を何度も風に揺らした。湿っていたそれが乾燥するに従って、徐々に、画像が現れ始める。
「直ぐには出てこないよ。待たなきゃ」
 辛抱が肝心、と少しだけ色を滲ませてきた写真をユーリに返す。彼の前で膝を折ったユーリは、言われた通り確かに遅れて現れだした画像に、けれど口をへの字に曲げてまたスマイルへ突っ返した。
「写っていない」
 お前が、と言う。
 ひょっと首を伸ばして逆向きに見える小さな四角い窓を覗いてみれば、確かにそこに刻まれている景色はスマイルの部屋そのものに違い無い。だが、ファインダーを覗くユーリの目には、他ならぬスマイルが、少々斜めになっていたものの、確かに映っていたのだ。
 だのに、一瞬を刻んで記録するカメラという媒体は、スマイルの存在を透過した。
「ま。ネ」
 仕方がないでしょう、とこともなげに笑ってスマイルは自分に差し向けられた印画紙を押し返す。
 だって自分は透明人間なのだから、と。
 少しだけ表情を曇らせ、けれど分からないように誤魔化した曖昧な笑みを口許に浮かべて、彼は。
 スマイルは。
 ユーリは視線を伏した。膝の上に置いたカメラを両手で抱き直し、何を思ったのかまたスマイルに向かってシャッターを押した。
 フラッシュが目映く輝く。不意を突かれて逃れる術もなく真正面から受け止めざるを得なかったスマイルが、呆然とした面持ちでユーリを見返していた。その前で吐き出された印画紙を力一杯無駄なまでに振り回して乾かし、薄く現れた床に散らばるプラモデルのパーツばかりの光景に奥歯を噛んだようだった。
 だん、と膝で力任せに床を打つ。三度目に焚かれたフラッシュでそろそろ目の奥が白く染まりつつあったスマイルは、どうしたものかと困惑気味に頬を引っ掻いた。
 彼が写真に写らないのは、何も今に始まったわけではない。写ろうと思えば全く出来ないわけではないのだが、意識して強く自分の存在を強調せねばならず、長時間持続させるのは膨大なエネルギーが必要となり、スマイルは嫌っている。別に自分が写らなくても良いではないかと思うのだが、全員揃わないとダメだと言い張るユーリに渋々従っているのが現状だ。
 本当はテレビにだって出たくないのだが、やはりユーリがどうしてもと言うのでつきあっている。そして時々放送収録中に集中力が途切れ、突然画面から姿を消してしまう失敗も一度や二度ではない。
 謳うのは好きだ、ライブも好きだ。だが、殊更自分が透明だと思い知らされる映像媒体は、嫌いだった。
「ユーリ」
 もういい加減諦めなさいと、ポラロイドカメラの中に収められている印画紙が尽きるまでスマイルを映し出そうと躍起になっている彼に呟く。肩を竦め、隻眼を緩めるが最後まで彼は、ユーリの撮影に甘い顔をしてやらなかった。
 そのうちシャッターをしても無反応になったカメラを、やり場の無い怒りを抑えきれなかったユーリは力任せに床へ叩き付けた。元々無償で手に入れたものであるから、付属されていた印画紙以外はスマイルも用意していない。
 床の上にプラモデルのパーツ、部屋の光景だけが映し出された写真、そして壊れてしまったおもちゃのようなポラロイドカメラが散らばった。
 肩を上下させて大きく息を吐いたユーリは、何故かこみあげてくる涙を必死で噛み殺し、赤くなった鼻の先を擦って喉の奥に蟠る空気を体内奥深くに押し込む。
 スマイルが、ユーリの癇癪の被害を受けた哀れな機械を拾い上げ、労るようにそっと両手で包み込んだ。凹んでしまった部位に指を這わし、優しい手付きで撫でやる。
「ユーリ」
 少しだけ咎める語調を含ませて、スマイルが重ねてユーリの名を呼んだ。
「五月蠅い」
 出所が出所なだけに、引っ込みがきかない不機嫌を自分自身でさえ持て余して、ユーリは喉奥に引っかかる声を無理矢理音に乗せて吐き出した。気を抜くと泣きそうになっている自分が分かるだけに、腹筋に込めた力が余計に声色を低くさせている。
 スマイルが大袈裟に溜息を吐くのを目の前にして、我慢しきれずユーリは唐突に立ち上がった。追いかけて上向く彼の視線から逃れるように顔を背け、次々に形を露わにさせていく写真にひとかけらとして現れない人影の本体を思い切り蹴りつけた。
「あたっ!」
 それこそ不意打ちに等しく、避けきれなかったスマイルが固い革靴の先端で脇腹を抉られて仰け反った。抱えていたカメラがまた床に落ちて、哀れにも破壊が進行してしまったようだ。何の非もないのにあんまりな仕打ちに、物言わぬカメラもややお冠といったところか。
 ユーリはけれど振り返りもせず、
「寝る!」
 言わなくても良いだろうにわざわざ大声で宣言して、スマイルの部屋を出て行った。それこそ室内に突如吹いた嵐の如く彼の部屋を荒らし回っただけのユーリに、いったい何をしに来たのだろうと今頃になってスマイルは首を捻る。
 乱暴に閉ざされた扉の音に首を竦め、思い出したように壁の時計を見やった彼はやっと、現在時刻を認識してそれでか、と舌打ちする。
 すっかり色々なものが散らばって原形を留めない部屋を見回し、彼は見慣れないものを部屋の片隅に見つけた。
 丸められた紙の束、広げてみればそれはユーリの字で細かく、何度も修正した痕が目立つスコアだった。時には乱雑な筆跡も見えるが、読みやすくまとめられているそれを端から順に目で追っていき、スマイルは嘆息する。
 悪いことをしたな、と心の中で呟いても聞く者は居ない。
「明日謝ろう」
 これを返すついでに、悪かったとひと言だけ。それでユーリが納得してくれるかどうかは分からないが、バンドリーダーとしての重圧に負けぬようにひとりでも必死に足掻いている彼を、決して莫迦にしたつもりはないのだと伝えておきたい。
 散らばった十数枚の写真を一枚ずつ拾い集め、ひとまとめにしてスマイルはそれをスコアの間に挟み込んだ。一番上に、最初にスマイルが撮影したユーリの写真を置き、残りは意味も無い風にしか見えないスマイルの部屋の写真を重ねて。
 そしてスマイルは、スコアごと写真に手を翳す。握った指先を直ぐに開いて、代わりに隻眼を細め、閉ざした。
「いつか。……いつか来る、何時かに」
 今のこの時に在る自分の代わりに、ユーリに笑いかけてあげて欲しい。
 祈りを込めて、スマイルは固く拳を握りしめた。
 翌朝ユーリの部屋にはいつの間にか、スマイルの部屋に置き忘れたスコアとポラロイドカメラで撮影した写真、そしてどうやったのか元通りに修復されたカメラ本体が置かれていた。
 とても眠そうに起きてきたスマイルに珍しく怒ることなく、ユーリはただ寡黙なまでに自分の仕事を推し進める。途中の休憩時間にこっそりとスマイルの部屋を覗いたユーリは、とっくに完成を見ていると思っていた巨大ロボットが夜明け前の時と変化無い姿で転がされているのを見つけ、すとんと胸の奥に凝り固まっていた塊が落ちるのを実感する。
 その日のうちに下げられたスマイルの頭に、緩い拳で一応殴打はしておいたものの、それ以上は何も言わずユーリはスコアと一緒に、写真の束も棚の一角に片付けた。

 そうして、やがて。

 いつか。

 何時か、が。
 

 空虚になった空間で、ユーリはひとり、乱雑に積み重ねられる一途だった棚の片付けを始めていた。
 もう手をつけることもなくなったスコアの山を前に、あの頃は楽しかったような気がすると、空っぽの心が感慨深げに呟くのを他人事のように聞く。
 誰ひとり残らなかった城に佇んで無為に流れる時間を過ごす。最早彼に笑いかける存在は無きに等しく、己以外の声さえも随分長い間耳にしていなかった。ただ義務的に動かされる手が掴む、紙の束が擦れ合う音だけが静寂に包まれた空間に痛い。
 呼吸する音さえも遠い過去の産物のようで、これが透明人間の気持ちだろうかと、既に姿を見失って久しい存在を思い浮かべ、久方ぶりにユーリは口許に笑みを浮かべた。
 自嘲気味な、自虐的な微笑みが乾ききった空間でひび割れを起こす。
 そんなユーリが掴んだスコアから、間に挟まっていたのだろうものがバラバラとこぼれ落ちてきた。
 十センチ四方程度の長方形をした、白い紙。いや、嘗ては白かっただろう、今は変色してしまって茶煤けている安物の印画紙だ。
 木の葉が散るように床に落ち、いずれも裏返って背中を向けているそれらを、何の気概も無しにユーリは一枚抓んだ。
 裏返す。
 そして、目を見張った。
「…………っ」
 声にも、ならない。
 ただ、涙が。
 とっくに涸れ尽くし、最早喜びも悲しみも、一切の感情が自分自身の中から抜け落ちてしまっていると思っていたユーリが、長く忘れていた驚愕を表情に刻み込み、紅玉の双眸を見開いて掌の中、変色してセピア色に変わってしまっている写真を凝視する。
 それは、本当ならば何も、誰も写っていなかった筈の写真。
 息を呑む。声が声にならず、上擦った喉が嗚咽を漏らし涸れた筈の涙が頬を濡らした。口許を片手で押さえたユーリは、続けて残りの写真も裏返し、その度に目を見開いては細め、を繰り返した。
 何もない、ただ誰もいない部屋を写した写真には。
 確かに、其処に在った人の姿があった。
 薄く茶に焼けた印画紙に、辛うじてしがみつくようにして彼は、うっすらと優しい笑みを浮かべて、其処に居た。
「……ルっ!」
 此処にいた。
 こんなところに、彼はいた。
 写真は一切残らなかった、映像もかき消えていた。自分の存在の一切を否定してから、彼は唐突に、ある日ユーリの前から姿を消した。
 そして二度と、戻らなかったのに。
 彼は、居たのだ。ずっと、こんな近くで。
 ユーリに笑いかけてくれていた。
 見つけた、お前を。
「馬鹿者……が!」
 写真を胸に掻き抱き、ユーリは床に突っ伏した。衝動で棚に収まっていたスコアが次々と彼の身体に降り注がれる。まるで彼を、白い世界に埋め尽くしてしまおうとしているように。
 ユーリは目を閉じる。
 瞼の裏で、完成したばかりの巨大ロボットを抱いてた彼が誇らしげに笑っているのが、見えた。

a Day

 夜半過ぎまで降っていたらしい雨は、明け方には止んだらしい。まだ少し濡れている地面を蹴り飛ばし、早朝の冷えた空気の中、スマイルは薄く靄が立ちこめている空を見上げて息を吐いた。
 雨に洗われた空気が思いの外気持ちよくて、気がつけばただの散歩が随分と遠くまで足を伸ばしてしまっていたらしい。いつもの朝食の時間には間に合わないだろうな、とまだシャッターが閉じられている店舗の前を早足で通り過ぎながら、時々聞こえてくる住人の生活音を耳にして思う。
 それも次第に人気が薄れ、住宅地を抜けて静かな空間を突き抜けたあとは、もう見渡す限りの森が両脇に広がるようになって、その間を突き抜ける一本道は太陽の光も遠く朝の時間帯であってもかなり薄暗い。昼間でもなお暗い道を、ひとり寂しく歩くのは多少気が滅入るという物であり、スマイルの足取りも徐々に、本人も意識していないままに駆け足に近いものに変わっていく。
 両側の森が不意に途切れ、長い年月を経て踏み固められた道が僅かながらのうねりを持ち、唐突に現れた原野とも呼べる何もない空間に突如として現れるところで、スマイルの足取りがやや緩まる。右手には一度途切れた森がまた別の空間となって地平線まで埋め尽くしている。黒々とした様相はどの時間帯でも姿が変わる事はない。あれは、死者が集う森なのだ。
 道の続いていない方角にしばし見入った後、スマイルは数度の深呼吸を繰り返してから今彼が立っている道が続く先に目を向けた。隻眼を細め、辛うじて陽光が東側から差し込んでいる一帯を見やる。
 段々の雲の隙間から差し込む無数の光の筋に照らされ、何もない空間――荒れ果てた荒野に突きだした崖の上にそびえ立つ古城がシルエットを浮かび上がらせている。ある種幻想的であり、そして言いしれぬ恐怖を抱かせる姿に改めて息を呑み、スマイルは隻眼の不自由な視界の中にその様を刻み込ませる。
 習慣的に時計を持ち歩かない為、現在時刻が分からない。だが現在の季節と太陽の高さと方角から類推するに、午前八時をやや通り越したばかりだろうか。もしかしたら、もっと遅いかもしれない。
 どちらにせよ、規則正しい生活を心がけているアッシュからしてみれば、朝食の時間には大遅刻だ。心優しい彼だから、きっとスマイルの分はより分けて残してくれているだろうが、果たしてどうだろう。ユーリの好物が揃えられているメニューだったなら、結果は分からない。
「遠出し過ぎたネ」
 自分に向かって舌を出して呟き、安めていた足に元気を送り込んでまだ当分辿り着けそうに無い城までのなだらかな坂道を上り始める。坂の中腹には背の低い外壁が崖の端まで続いていて、合計すると門は三つ通過せねばならない。そのいちいちはいずれも固く閉ざされている為、開けるのも一苦労だしそれぞれが独自に意志めいたものを所有しているものだから、余計に始末が悪い。
 部外者や好まざる存在を駆逐するにはもってこいだが、スマイルまで追い出そうとする時があって、それはそれで困りもの。いったいどういう基準で通行を許可する人を選んでいるのか、一度聞けるものなら聞いてみたいものである。
 今日は、幸いにも門はご機嫌なようで二つ目までは無事に何事もなくクリア出来た。
 雨が降っていたからか、今日の空は雲が多い。千切れた綿雲が、羊の群れのように連なって西から東の空を埋め尽くしているのが見上げられる。顎を仰け反らせて顔をやや上向きにさせながらぼんやりと歩いているうちに、最後の門が見えてきて、しかも直ぐに気付かず危うく正面衝突してしまうところだった。
 慌てて出した爪先を引っ込め、背が低いとは言ってもスマイルの身長よりは遙かに背高の城門を見上げる。切り出した立方体の石を積み上げて頑強に組まれたそれは、ちょっとやそっとの衝撃では壊せそうにない。門も、長年の風雨に絶えて老朽化など程遠い姿で構えている。
「開けて~」
 小首を傾げながら語りかけるが、門はぴくりとも動かない。
 大体そうだ、他のふたつの門は楽に通り過ぎられるのだけれどこの門だけが、最後の砦宜しくスマイルの行く手を封じてくれる。アッシュも偶に通行禁止を言い渡されてしまって、冷凍食品が溶けてしまうまでの時間と競争しながら城まで駆け足を強いられていた。
「……開けてクダサイ」
 姿勢を正して語りかけても、門は微動だにせず。スマイルはどうしたものか、と頭を掻いた。
 出ていく時は語りかける前から人ひとり分の隙間が空いていて、素通りだった。しかし誰かが閉めたわけでもないのに戻る時には、門は固く閉ざされている。試しに手で押してみたが、思った通り接着剤で固定されている以上に堅固に閉じられていて動かなかった。
 これでは城に帰れない。朝食にもありつけないし、昼から予定されているミーティングと音合わせのセッションにも参加できない。そうなったら、困るのはスマイルだけではなく同じバンドを組む他の面々、特にリーダーであるユーリの責任は甚大なものになるだろうに。
 わざとらしく声に出して呟いて、開かない門の前で右往左往してみせる。城主であるユーリには極端なまでに甘い門の妖精は、暫く沈黙した後控えめにスマイルひとりが身を捻らせて漸く通り抜けられるかどうか、という隙間を作り出した。古い木が軋む音を響かせ、スマイルが城門を越えると同時に、門は再び固く閉ざされる。
 もっとも、スマイルは透明人間で壁抜けも出来てしまうから、わざわざ正面から行かなくても帰れる事は帰れるのだ。けれど毎回、律儀に道を通って門を抜けるのは、毎度繰り返される門との一方的なことばのやりとりを楽しんでいるからかもしれない。
 物言わぬ、その場から動けぬ門をからかって楽しむのは傍から見れば滑稽で、意地が悪いものに思われるかもしれない。
「でも、ま、それだけあのコタチもユーリが大事って事でショ」
 三番目の門を抜ければ、城までは一直線だ。道は緑の草で周囲を覆われ、季節の花が秘やかに咲き乱れている。残っている道のりを一気に駆け上って、スマイルはしかし、正面玄関であるやはり巨大な観音開きの扉の前を素通りした。
 食堂へはそちらから入るより、リビングに面している庭の窓から入った方が近いからだ。広い城の正面を回り込み、芝が一面を覆う庭に足を踏み込ませる。
 背の高い並木が庭と森との境界線に立ち並んでいる手前、夏場には隆盛を誇った芝も綺麗に刈り揃えられ、すっかり小さくなってしまっていた。部分的に色がくすみ、枯れ始めているものも混じっている。冬が近付くに連れて、その範囲は広がっていく事だろう。
 だが案ずることはない。冬を越えて春が巡れば、再び根は元気付き濃い緑を空目指して伸ばしていく筈だ。
「あ、みっけ」
 城の角から庭を覗き込んだスマイルは、狭い視界に小さく、慌ただしく動き回る姿を見つけ出した。目を凝らさなくてもそれが誰だかは分かる。ユーリがあんな風にちょこまかと働いているわけがない。消去法から行っても、アッシュしか居ない。
 彼はスマイルの存在にまるで気付く様子なく、頻りに空の様子を気にして何度と無く上を見上げていた。ちょうど彼の前には裸の物干し竿が三連になって居並んでいるから、一度は止んだ雨が戻って来やしないかと危惧しているものと思われる。
 スマイルも気勢の失われつつある芝を踏みしめて歩き出し、腰の後ろで両手を結んで上空を仰ぐ。細切れの雲はゆっくりと風に押し流されて東へ向かっており、西側を見れば水色よりも薄い色をした空が雲間から覗いていた。
「オハヨ」
 湿った洗濯物を詰め込んだ籠を両手に抱きかかえ、まだ思案顔をしているアッシュの後ろに素早く回り込んで呼びかける。案の定彼は驚いてくれて、抱えていた洗濯籠を放り出す寸前まで飛び上がって仰け反ってくれた。
 ケラケラと声を立てて笑い、スマイルは心臓をばくばく言わせているアッシュを指さして腹を抱える。気配を殺すのが得意なスマイルに後ろを取られるのはいつものアッシュも、心臓に悪いから止めて欲しいと恨み言を呟いてその場でしゃがみ込んだ。飛ばしてしまった籠の一番上に載せていた服を広い、土に汚れたそれを広げる。アッシュのTシャツだった。
「スマイル~~?」
「ゴメンゴメン」
 また洗い直しではないかと、目尻をつり上げて、しかしさほど怖くない怒り顔を浮かべたアッシュに詰め寄られても、スマイルはまだ当分笑い止みそうになくて、先にアッシュが疲れて折れる。シュンと肩を落として、Tシャツを他の洗濯物とは別の籠に放り投げた。
「あ~……だから、ゴメンって。お詫びに、良いこと教えたげるからサ」
 だが見るからに大柄の男が両肩を落として項垂れている姿は想像以上に不釣り合いで、失礼ながら気持ち悪いと思えてしまう。苦笑して肩を竦めたスマイルは、力づけるつもりで彼の落ちた肩を叩いた。
 それでも今まで散々酷い目に遭わされ、また騙されてきているだけに、アッシュがスマイルに向ける目は疑心に満ちている。
「……傷つくなァ」
 今回は嘘じゃないのに、と唇を尖らせて反論を試みた彼に、アッシュはどうだか、と鼻を鳴らした。
 庭に陽光を浴びた物干し竿の影が伸びる。足下のそれを爪先でなぞり、スマイルは羊雲が埋め尽くす空を指さした。立てた人差し指で、少しずつ広がっている雲間の色をアッシュに示す。
 空色の絵の具を更に白色で薄めたような色が、西から広がりつつあった。雲の色は漂白されたシーツのように白く、厚みがそれほど無いのか陰影の灰色に乏しい。風の流れに従って東を目指す雲は高く、雨を呼ぶ雷雲とは程遠い姿をしているのを、ひとつずつ説明していく。
 秋の空は高い。雨上がりで汚れが落ちた風は冷たく、澄んでいて気持ちがよい。
「ぼくの朝ご飯、残してくれてル?」
「それは、はい」
 雨音が聞こえなくなったと同時に目が覚めた。まだ薄暗い世界で、靄が立ちこめる幻想的な光景に目を奪われた。水たまりが消えて無くなるまでの僅かな時間を楽しみたくて、外に出た。
 雨上がりの町並みを眺めるのが存外に面白くて、ついついあちこちに目を奪われている間に考えていた以上の時間が過ぎ去っていた。予定しなかったコースにはみ出てしまった自分に気付いたけれど、最初から決められたコースなど何処にも在りはしないと思い直して、ゆっくりと帰ってきた。
 閉じられた城門をあれやこれや、試行錯誤を繰り返して通して貰う楽しみも忘れなかった。直線ではない道のりをのらりくらり、登るのは好きだ。
「今日は晴れるヨ」
 自信を持って、スマイルが断言する。聞いていたアッシュは、唐突に切り替えられた会話から再びもとの話題に強引に戻された現実に面食らい、数回瞬きを繰り返す。きょとんとした顔で彼を見返し、またスマイルの失笑を買った。
「西の空、明るいでショ。地上はそうでもなくても、上空は結構強い風が吹いているみたいだし。雨雲は、完全に東へ逃げたと思うよ」
「それは……分かってるっス」
 一体スマイルは何を言っているのだろうか。そう言いたげな顔をしたアッシュに、え、と今度はスマイルの側が拍子抜けした表情を作ってしまった。空に向けていた腕を肘で曲げて引き寄せ、僅かに自分よりも上の位置にあるアッシュの顔を見つめ返す。
 彼もまた困惑気味に、頬を掻いて、それからふーっと長い息を吐いた。
「えっと、スマイルは……何の話をしてるっスか?」
 どうやら根本的なところでお互いの間にずれが存在していたようだ。まずそこから訂正していかないと、どんどん話が変な方向へ流れていって余計に分からなくなってしまいかねない。
 アッシュの台詞に、スマイルは腕を完全に降ろして首を傾げた。
 頻りに空を見上げていた彼を遠くから見たスマイルは、てっきり彼が洗濯物を干すのに空模様を気にしているものだと思い込んだ。だがひょっとして、この時点で誤解が生じていたのであれば、どうだ。スマイルの思いこみは間違いで、アッシュが空を見上げていた真意が別にあるのだとしたら。
 会話が絡まないのも、無理無い。
「えー……っと。アッシュクン、さっき、空……」
「ああ、彼処の木に巣が出来たみたいで、鳥が何度も飛んでくるのが見えたから、洗濯物を汚されないかなって思ってたんスけど」
 言って、アッシュは物干し竿が並ぶ一角からほど近い木を指さした。言われてみれば確かに、中型の鳥が巣を作っていた。時々こちらの様子を窺って、鋭い眼光を向けてくる。
「巣を移動させてやった方が良いかな、って考えてたんス、けど……あれ? スマイル?」
 うっかり勘違い爆発。スマイルは自分の浅薄さを恨みたくなって、その場で膝を折って頭を抱え込んだ。訳の分からないアッシュだけが、スマイルの変化について行けず狼狽えている。
 今度からは相手が何を考えているかを確かめてから話題を振るようにしよう、そう数秒後には破り捨てられそうな誓いを立て、スマイルは知れず赤くなった頬を両手で叩いた。
 薄めた水色だった空が、少しずつ色を濃くしている。雲が途切れ、西は一面の青空に切り替えられつつあった。
 ユーリの城の庭に巣を張った鳥が、一際高い声をあげて翼を広げた。風が吹き、力強く羽ばたいた鳥が数秒後には首が痛くなりそうな程に高い空まで登ってしまった。
 止まっていた時間が、動き始める。
「スマイル、洗濯物干すの、手伝ってくれないっスか?」
 昨日の雨で乾かなかった分も、今日は庭に出して太陽熱で乾かしきってしまうのだとアッシュは小さく笑って教えてくれた。依然膝を抱えて蹲っていたスマイルも、顔だけを上げて面倒くさそうに彼を見返す。
「えー?」
「雨、もう降らないんスよね?」
 声の調子で嫌だと伝わっても、アッシュは簡単に諦めてくれなかった。スマイルが忘れたがっている話題を掘り返してきて、彼の表情に苦虫をかみつぶした色を浮かべさせる。
「一仕事した後のご飯は、倍美味しいっスよ?」
 立って、と促しアッシュは置いていた籠を両手で抱えるとスマイルに押しつけて来た。渋々立ち上がった彼は、拒みきれなかった籠を胸の前で受け止める。水の匂いが鼻腔を掠めた。
 雨で濡れていた物干し竿の表面を雑巾で軽く拭き取って、アッシュはスマイルに持たせた籠から山の一角を崩して皺だらけのシャツを引き抜く。それを丁寧に両手で広げ、軽く皺を伸ばし、竿に並べていく。
 こなれた手付きはスマイルも目を見張って、彼の動きに押される格好で少しずつ竿の前を移動する。ものの五分としないうちに、何もなかった物干し竿が濡れた洗濯物でいっぱいになった。
 並び順をちゃんと計算に入れているのか、アッシュの手を離れた洗濯物はひとつの大きなオブジェのパーツを形成して、均等に太陽光を浴びるように整えられる。籠が軽くなるに従って綺麗に干されていく洗濯物を眺め、スマイルは感嘆の息を漏らした。
 普段何気なくやっているように思われたものでも、実は熟練の技術が必要なものは世の中沢山存在している。自分ではこうは出来ないな、と素直に感心してスマイルは心の中で、アッシュの評価を若干持ち上げてやろう、と決めた。
「これが終わったら、コーヒー煎れるっス。そしたら、今日何処まで行ってきたかとか、教えて下さいっスね」
 あとシャツ数枚を残すだけになった洗濯籠の底を見下ろしたスマイルの後頭部に、アッシュの声がぶつかる。
「ん~、どうしよっかナ~」
 取り立てて面白いものを見たわけでもないし、特別素敵な場所を訪れてきたわけではない。気が向くまま、足が赴くままに歩き回ってきただけで、だからここで勿体ぶってやる必要性は何処にも無いのだけれど。
 なんとなく素直に教えてやるのも惜しい気がして、首を揺らしながらスマイルはケタケタと笑った。
「なんでっスか、教えてくれても良いじゃないっスか」
「でもネ~、アッシュクンだしネ~」
「どういう意味っスか、それ!」
「どういう意味だろうネ~?」
 カラカラと喉を鳴らして笑う。最後の洗濯物を干し終えたアッシュが、スマイルから空っぽの籠を奪い返してその縁で彼の頭をやや荒っぽく小突いた。思わず仰け反ってしまった彼が、恨みがましい目でアッシュを睨むがそれより早く、彼の狼男はすたすたと歩き出しており、慌てたスマイルが背中を追いかけて走る。
「置いて行かないでよね!」 
 両手を振り上げ、叫びながらスマイルはアッシュの背中にタックル。
 赤い籠が、澄み渡る青空に舞った。

 今日もまた、特別何も無い今日がやってくる。
 けれどそれは、いつの日か特別になるかもしれない、そんな、一日。