coincidence

 台所で洗い物をしていたら、不注意からガラスのコップを床に落として割ってしまった。
「あちゃ~」
 失敗したと舌を出し、頭に手をやって床の上で粉々に砕け散っているガラス片を前にに途方に暮れる。普段ならばやるはずの無いミスに、自分でも暫く信じられない。
 けれど洗ったばかりで表面にたっぷりと水滴がついていたコップを落としたのは自分、滑りやすかった状態なのだから致し方ないものと割り切ってしまえば簡単なのだろうが、なかなかそうは巧く気持ちを切り替えられないところが、彼の欠点のひとつだった。
 だが割れてしまったものはどうしようもない。時計を逆巻きに回せば時が戻るようならまだしも、既に過ぎ行きた時を羨むほど無駄な行為はない。深々と溜息をつき、アッシュは膝を折ってガラス片を片付けようと手を伸ばした。
「っつ……」
 気持ちが回復し切っていないのに、手を出した報いだろうか。最初に掴もうとしたガラス片の尖った先端が、ちょうど中指の第二関節の腹辺りに刺さってしまった。鋭い痛みの後に、じくじくとした疼く様な感覚が生まれる。生暖かな液体が傷口から流れ出し、半獣として生まれた身、持ち合わせた嗅覚が鉄錆びた匂いを受け止めた。
 伸ばした肘をゆっくりと曲げて、掌を表に返す。広げた五本の指、その真ん中から掌のくぼみにかけて、なだらかに赤い川が出来上がろうとしていた。
「いってぇっス」
 今更ながら呟いて、傷を負ったばかりの指を鼻先に近づける。途端強くなる血の臭いに軽い脳震盪を起こして身体が右側に軽く傾いた。血が苦手というのではなく、単に強烈過ぎる臭いを大量に嗅いでしまった為で、じきに体勢を持ち直したものの、右のこめかみ近辺でぐるぐると何かが回っているような気がしてならなかった。
 指が痛い。思った以上に深くガラスは刺さったらしい、自分の手から視線を床に流せば、ガラスの上に点々と赤い水玉模様が出来ていた。なだらかなカーブを描く表面に滑り、グラスに最初からついていた水滴と交じり合ってそれは範囲を広げ、色を自ら薄めていく。こういうのも自然のアートに分類されるのだろうか、ぼんやりとする意識の中で思った。
「片付けないと。ああ、でもその前にこれ……」
 どうしようかと、再び目の前にやった指を左右に振る。出血の具合は最初よりは勢いを弱めたが、依然ずきずきと痛む。水作業の途中だったし、このままの状態で続けるわけにもいかない。絆創膏はどこに仕舞われていただろう、割れたガラスはそのままにアッシュは立ち上がる。
 記憶を頼りに引き出しを開けていくが、なかなか見つからない。もともと頑丈な体質だし、十分すぎる程慎重な性格で、石橋を叩いて渡るどころか道の真ん中に転びそうな石があったら自分以外の誰かが躓かないようにと、ご丁寧に道から退かせて行くようなタイプだ。怪我をするのも稀で、包帯要らずだとからかわれたのは随分と昔のこと。
 その為か、いざ自分が怪我をした時に消毒薬や包帯がどこに片付けられているのかさっぱり検討がつかない。普段必要としないので、意識的に存在を確認するような真似もしてこなかったのが悪いのか。そもそも、台所に常備されているものとして探し回っている方が間違いだと気づかない。
「えっと」
 見つからないうちに指からあふれ出した血は、シャツの袖口にまで垂れて染みを作っている。反対方向に流れていったものは、支えを失って床に散る。今朝掃除したばかりなのにと恨めし気に考えつつ、漸く薬箱はリビングにあったと思い出す。
 少し前、楽譜を読みながら歩いていたユーリが戸棚の角に頭をぶつけ、摺り傷をおでこに作ったのを、スマイルがリビングで消毒していた。そのスマイルが弄っていた壁際の棚のどこかにあるに違いない。
 思い至ると即行動、身が軽いのもアッシュの特徴だろう。注意深い癖に妙に深く考えずに行動する。ひとつのことに集中し始めると他のことが何も考えられなくなる、と言い換えられるかもしれないが。
 思った通り薬箱はリビングの、見る為に飾られていておおよそ実用的とは言い難い食器の並ぶガラス戸の棚の、一番下にあった。緑と黄色の箱を開け、無事な側の手で中をかき回す。しかし出てくるのは胃薬や頭痛薬といったものばかりで、どこにでもありそうな肝心の絆創膏が見当たらない。おや? と首を傾げたのは最初だけで、どれだけ探しても見つからないでいるうちに、気ばかりが焦り始める。
 指は痛む、指どころか怪我をした右手全体が痺れてきているような感じだ。出血は止まらない、量は減ったが血は確実に流されている。貧血になりはしないと頭では理解できても、このまま止血できずにいたらどうなるのか、嫌な方向ばかりに思考が向いてしまう。
 新品の包帯はあったが、傷を押さえ込むガーゼが無い。袖の染みは次第に大きくなっている。
「どこっスか」
 誰に聞くわけでもなく呟いて、尚一層薬箱を手で荒くかき回す。勢いに押され、箱に入った薬が何個か外に飛び出していったが構わない。見つからない苛立ちが、動きを乱暴にさせる。
 そういえば、遠い遠い昔。まだ自分が幼かった子供時代、ひとり遊んでいるうちに今みたいに、枝か何かで手に怪我をしたことがあった。
 周囲には野草の類が溢れていたし、血止めや化膿止めに使える薬草にも知識があったから、直ぐに見付けられるだろうと高をくくって探し始めたけれど、今みたいになかなか見付からない。
 血は止まらないし、痛みも時間を置くに従って酷くなる。きっと自分はこのまま体中の血を流しきって死んでしまうのだとまで考えて、暗い闇に打ちのめされながら、いつの間にか深く入りすぎた森の中で道を見失い家に帰るにも帰れなくなった。
 最初から家に治療しに帰れば良かったものの、親に心配させたくない気持ちと、自分は平気だという慢心がどこかにあったのは確かだ。しかし後悔したところでもう遅い、日も暮れて余計に動き回れなくなってしまった。
 梟の鳴く声がどこからか聞こえ、獣人でありつつも幼体である以上戦う力は劣る。もしここで野獣に襲われたらひとたまりもない。
 血は止まりつつあったが、気になって瘡蓋になったところを指で弄り、また血が流れ出す繰り返し。痛みは一向に退いてくれない。夜明けまでひとりぼっち、暗闇の森で過ごさねばならない恐怖心に押しつぶされそうになりながら、けれどあの時、自分の横には誰かが居てくれた気がするのだ。
 記憶は幼すぎて、おぼろげにしか覚えていない。輪郭さえあやふやだったが、その人が傷の手当と空腹を癒す為の簡易保存食を分けてくれ、日が昇るまで眠る自分の傍にてくれたのだ。家まで送ってくれはしなかったが森の出口、村へ通じる道の脇までは連れて行ってくれて、名前も聞かぬまま別れた。
 それっきりだ。
 何故今になって急に思い出したりしたのだろう、今まで完璧に、といえるくらいに忘れていたのに。
 自分もついに最期なのだろうか。後日思い返せばばかばかしいと自分で笑い飛ばせそうな内容を真剣に考え込み、覚えた眩暈に額を手の甲で押さえた。
 乾きかけの血の感触が肌に気持ち悪い。
「なに、やってんノ」
 頭上から声が降ってきた。見れば分かるだろう、探し物をしているのだ。非常に苛立っている状況で、飄々としていて考えが読み取りづらい声は余計にこちらを苛々させる。剣呑な目で背を仰け反らせて背後に立って覗き込んできている相手の顔を睨み付けてやった。しかしまったく堪えていない相手はにっ、といつものように口元を横に引いて笑っただけだ。
 細められた隻眼がそのまま床に散る薬と、乱雑にされた薬箱の中身と、アッシュの袖を汚している赤色の順番に向けられていった。やがて前傾姿勢を戻し、顎を撫でてなにやら考え込んだ彼は、ぽんと拍子を打った。
「あー」
 自分で勝手に納得している。スマイルは深く頷いて、床に直接座り込んでいるアッシュの脇に移動した。薬箱が入っていた引き戸の上、引き出しをあけて中に左手を突っ込む。
 直ぐに出てきた彼の手には、二枚つづりの絆創膏が摘ままれていた。
「あっ」
 思わず声に出してアッシュが驚く。構わずに必要のない一枚を千切って引き出しに戻したスマイルは、ごめんごめんと笑いつつ謝罪を口にする。あまり説得力がない。
「なんでそんなところにあるっスか」
 憤然とした顔で思わず抗議してしまう。スマイルは変わらず笑いながら、一枚の封を開け、ぴんと張った絆創膏の粘着面を覆う紙をはがしていた。アッシュに、怪我をしている場所を見せるように言う。
 答えがないのは不満だったが、傷口をいつまでも放置しておくのも嫌で、仕方なく渋々と指を差し出す。痛みばかりが残っているが、血はもう止まりかけていた。塞がりかけてるとスマイルが呟くのを聞いて、そういう台詞もいつだったに聞いた気がすると頭の片隅で思う。
 あの時も、こんな風にしてどうしても見つけられなかった血止めを易々と見出した旅の人に文句を言いつつ、狼人としての生命力の強さを指摘され、照れくさいような恥ずかしいような気持ちになったのだ。
「はい、終わり」
 絆創膏はよく使う為、薬箱の中ではなく取り出しやすい引き出しに別個で置いてあるのだと、後からスマイルは教えてくれた。
 ゴミを丸め、床に散った薬を箱に仕舞い直し、スマイルは薬箱を棚に返す。その間終始無言でアッシュは彼の動きを見守っていた。時折、巻かれたばかりの絆創膏にも目を落とす。四角形の薬剤を含ませたガーゼ部分の中心が、少しだけ赤くなっている。
「前にも……」
 無意識に呟いていた。
 足元でしゃがみこんでいるスマイルが顔を上げて、上から見下ろしていたアッシュと目があった。
「前にも、スマイルにこんな風にしてもらった気がするッス」
「そう?」
 あの時の旅人は、顔も名前も分からないけれど、特徴的な赤い隻眼だけが色鮮やかな憶として残っている。それが右目だったか、左目だったかは定かではないし、隻眼の存在が他にどれだけ世の中に存在するのか、数えようもないのだけれど。
 スマイルは小首を傾げ、思い出そうとしているのだろう、そのままで立ち上がったがやがてゆるゆると首を振った。横に。
「さぁ、覚えてないけど」
「昔、俺がまだ小さな買った頃に、森の中で」
 スマイルに似た人に手当てをしてもらったのだと早口で告げるが、スマイルの答えは同じだった。覚えていない、と。
「偶然デショ」
「そう……っスか」
「うん、偶然だヨ」
 カラカラ笑って、スマイルはゴミを捨てにその場を離れる。アッシュは暫くその場で彼の背中を見つめていたが、やがて諦めたように首を振って台所へと戻った。割れたグラスを片付けなければならない、今度こそ指を切るような真似をせぬよう注意深く、慎重に。
「偶然……っスか」
「偶然デスヨ」
 リビングを出る時の独り言に、どれだけ耳が良いのか、去ろうとしているスマイルが振り向きもせずに相槌を打って来た。
 思わず足が止まり、大きな動作でアッシュは振り返った。
 去り行く背中に、幼い日に見送った旅人の影が重なる。

 偶然?

 ホントウニ? 

Suddnry

 その日は、とても良い天気だった。仕事などせず、どこか適当な場所で午睡を貪りたくなる、暖かな日差しに適度な温さの風が吹く、良い日だった。
 だが悲しいかな社会人である身はそんな自由人の生活を許さず、ただ黙々と手を動かし続ける時間を優先させる。思わず溜息をつきながら、汚れたモップを水の張ったバケツに勢いよく突っ込んでしまった。
 お陰で綺麗にしたばかりの床に水が飛び散り、バケツの周囲どころか着ている薄水色のツナギの裾にまでぬらしてくれた。反射的に脚を引いて避けたつもりだったが、水飛沫の方が若干早かったらしい。びしょ濡れとまではいかずとも、格好悪い染みが足首周りに出来上がってしまった。
「あっちゃー」
 自業自得なのだが、折角苦労して終わらせた作業の一部を、文字通り水の泡にしてしまっただけに、ショックが隠せない。絞れば水が滴るほどの染み込み具合ではないし、床もひと拭きすれば問題ない濡れ方であるが、やはり清掃員としての情けなさは残る。
 と、ここまで考えて首を振った。
 違う違う、自分は決して一介の清掃員などではない。もっと重要で、世の中の影に潜む、格好良い仕事の裏の顔が清掃員なだけであって……やめよう、とてつもなくむなしくなってきた。
 仕方なく、掴んだままでいたモップを持ち上げ、先端から伝い落ちていく雫をバケツの縁に押し当てて絞り、周囲に散った水滴を拭き取る。乾きかけだった床面に、濡れた筋が天井からの光を受けての鈍い輝きが生まれた。
 割と新しいビルだ。バブルがはじけた後の下落した土地に建てられた小洒落たオフィスビルは、表は細く、奥行きは深いため見た目以上に広い。八階建てで、トイレや給水場は共用だが、家賃もさほど高額に設定されていないのか、どの階も部屋は埋まっていた。エレベータには、ひっきりなしに人間が出入りしている。スーツでかっちりと固めている者もいれば、ノーネクタイでラフな格好をしている輩も居る。女性の方が若干多いように感じられた。
 その中で、ひとり草臥れたツナギを着てモップを握り締め、床を磨いている自分。このあまりの落差に肩を落とす日々にもいい加減慣れた。人間とは恐ろしいもので、最初は情けないと思っていた仕事でも、時間が経つにつれて感覚が麻痺するのか、感じなくなってしまうらしい。
「おっと、汚れが」
 バケツの水を交換しに行こうと、取っ手を掴んで踵を返しかけたところで、残っていた磨き残しに気づき反射的にモップを差し向けている自分がココに居る。良いんだ、これでも給料はちゃんと出ているんだし。
 脇の扉が開いて、中からパールピンクのスーツを着込んだ女性が、すらりとした脚を見せびらかすように歩いて出てきた。慣性で扉が閉まるのを待たず、ハイヒールで磨かれたばかりの床を踏み鳴らし、エレベータに向かって進んでいく。取引先にでも出向くのだろう、長いまつげをの彼女はこちらをちらりと見て、真っ赤に塗られた唇を意味ありげに微笑みで形作った。
「お仕事ご苦労様。頑張ってね」
 夜の街にでも居そうな顔立ちと口調で告げ、こちらに軽く手を振って去っていく。こんなオフィスビルで働くよりずっと、パブやバーに居そうな格好をしているくせに、あれで敏腕女社長なのだから世の中色々信じがたい。
 ついでにあの出で立ちにあの顔でもう三十後半というのだから、目に見える範囲だけが真実じゃないというところが、また……
 気がつけばまた溜息が漏れていた。
 今度こそ水を交換に向かう。専用の洗面台で汚れた水を流し、蛇口をひねって綺麗な水を溜め込む間、肩を掴んで回してみると、ボキボキと良い音がした。
「疲れてんのかねー」
 そういえば此処最近は床だったり窓だったりを磨いてばかりで、肝心の自分の腕をさっぱり磨いていない。このままでは鈍ってしまいそうだ、早く次の、本来の仕事が舞い込んで来やしないだろうか。
 表の顔は清掃員だが、その裏には別の顔。金額次第ではどんな仕事だってこなしてやるし、今更偽善者ぶったところで、意味が無いのも知っている。
 バケツの中の水が溢れそうになっているのを思い出し、慌てて蛇口を閉めて余計な分の水は流して捨てた。持ち回れるだけの重さに調整して、縁についた水滴は洗面台に引っ掛けてある雑巾に押し付けた。
 良い天気だった。外に出て昼寝すればさぞかし気持ちも良かろう。サボってやりたいと窓の外から差し込む明るい光を恨めしく思いつつ、さして汚れてもいない床にモップを這わせる。何故こんな場所で床磨きなどしているのだろう、ぼんやりと意識の端で考える。
 血なまぐさい場所が好きかと聞かれたら首を横に振るだろう、生きた心地のしないあんな場所に長く居座っていたらそれこそ気が狂う。だが一度足を踏み入れたらなかなか抜け出せない空気が漂っている為か、次第に現実と幻想の境界線を見失って廃人になっていった同胞を何人も見た。
 自分ではああなるまいと心に誓い、お前はまだ若いのだからという先達の意見を多少の反感を抱きつつ甘んじて受け止め、日の当たる世界の日常に戻ってきてはみたものの。
 時折、焦燥感に似た感覚に襲われるのは、生ぬるい安穏とした空気に毒されつつある自分への警戒心か。
『女でも作って楽しんでみろ。お前はどうも、ぴりぴりしすぎていかん』
 裏を返せばそろそろ足を洗えということなのだろう、まだ戻れる場所にいるのだから、と。
 人の良い顔の、今の仕事を斡旋してくれている老人を思い出す。飄々としているがどうにも考えが読み取れないあの男は、深く立ち入りはしていないが恐らく自分よりもずっと長く硝煙の臭いが立ち込める場所に居て、自分も想像がつかないような経験を重ねているのだろう。そういう経歴を知らない人間が見れば、ただの落ちぶれ気味の年寄りにしか見えないのだから、やはりこの辺も、人は見かけによらないといったところか。
 既に伸び始めている顎の髭を軽く撫で、床に突き立てたモップをつっかえ棒に使い、暫し思案に浸る。床磨きもこのフロアで最後だし、設定されている就労時間の終了までまだ少し猶予がある。
「煙草すいてー」
 地面に水平になるように伸ばした肘に顎を置き、自堕落な体勢のままぼやく。先程出て行った女社長以外ほぼ出入りも皆無の廊下だったから、他に誰もいないと思い油断していたところはあった。
 それにしたって、生ぬるい環境に浸りすぎていたからなのか。槍よりも鋭い感覚で周囲を警戒していた時代は遠い昔に過ぎ去ってしまった後らしい。
「あノ」
「うわっ」
 思いもかげず間近から聞こえてきた声に、上ずった声をあげて飛び上がりそうになってしまった。
 油断しすぎもいいところだ、もし今の光景を爺さんに見られでもしたら、笑い飛ばされるどころじゃなかっただろう。
「あ……」
 だが幸いにして、声があがっただけで身体までは反応しきっていなかったらしい。踏み出しかかっていた足をどうにかおし留め、肩越しに振り返る。表情は警戒心に満ちていたが、そこに居たのは銃を構え無表情に敵を嬲るような下種野郎ではなかった。
 金髪で、目鼻立ちも整い、身長は低くは無いが高くも無く、見上げてくる両目はパッチリと開かれて困惑気味に揺れている。両手で綺麗にラッピングされた大きい花束を抱きかかえ、腕と花の間にはクリーム色のエプロンが僅かに覗いていた。
「えっと、すみまセん。ちょっとお尋ねしタいのですが」
 目が合う。流暢な日本語を話しているが、時々アクセントで引っかかる部分があるので、海外からの留学生か何かだろう。年のころは二十歳そこそこか、年下だ。無精髭の作業着姿をした男に、若干警戒しつつも、他に頼る相手が無いといった素振りで、腕の中の花束を抱えなおす。
 彼女はポケットから、二つ折りの紙を取り出した。中に書かれている文字をこちらに見えるように、片手で広げて示してきた。
「こちらの住所を探しテいるのでスが、このビルに間違いないデすか?」
 書かれていたのは、恐らくは彼女が抱えている花束を注文した客が送り先に指定したであろう住所。番地は確かに間違いないが、ビル名が違う。似ているものの、それは三つ先のビルだ。メモを書いた人物の字が汚い所為で、番地の1と7の見分けがつきにくかった上に、ビル名も前半分が同じの為混同したようだい。
 日本人ならば気づけそうな間違いだが、彼女には難しかったようだ。
「あー、これは此処じゃなくって、あっちの」
 頭を掻いた後、姿勢を正しつつビルの壁――南側を指差してやる。彼女もつられるままそちらを向き、やがて首を傾げた。
「違うんデすか?」
 ああ、アクセントがまた少し違う。
 まっすぐにこちらの目を見て問いかけてくる彼女に、曖昧なまま頷き、もう一度壁の向こうを指差してやった。
「ここじゃなくて、外に出てあっちの方向に……って、そうか。一回曲がらないと無理か」
 直線距離だとそう遠くないのだが、面している通りが違う為に道路を少し進まなければならない。説明しようとして、分かりやすく言い表せないでいる自分がどうにも歯がゆくて仕方が無い。
 とはいえ、この辺りに居を構えているわけでもなく、仕事の往復で通るだけの道の為に詳しく知っているわけでもない。曲がる角にある建物の特徴を教えてやりたくても、ぱっと直ぐに景色は思い浮かんでこなかった。
「えーっと、だから、つまりなんていうか、だ」
 がりがりとさっきよりも強く頭を引っ掻き回し、苛立ちに任せて床にモップを押し付けた。そのまま、床に目立っていた汚れの箇所だけを拭き、綺麗にする。
「ちょっと待ってろ」
 乱暴な口調で金髪の女性がきょとんとする中、バケツを手に給水場へ戻る。開けっ放しにしておいた蛇腹の扉の中にある洗面台にバケツの水をひっくり返し、モップも突っ込んで流水に浸らせる。濁った水が排水溝に流れ、ゴンゴンと白い陶器の洗面台に何度も押し付けて汚れを乱暴に落とし、水気を絞ってバケツと一緒に傍らに立てかけた。
 扉を閉める。鍵は最初から無い。
「行くぞ」
 どうせ終業時間はもうじきだ。着替えなければならないが、帰るわけではないから構わないだろう。どうせ誰も、こちらの見た目など気にしやしないのだし。
 振り向いた先には先程の女性が、待っていろという言葉通りに花を抱えたまま待っていた。自分がどういう状況なのかあまり理解できていないらしい、首を傾げながらこちらと、腕に巻いた細い時計の文字盤を気にしている。配達を済ませれば直ぐに店に戻らねばならないだろうか。道に迷って配達できなかったとなれば、アルバイトも下手すればクビという可能性もある。
 放っては置けなかった。
 先にたって歩き出すが、彼女はその場に突っ立ったままで動こうとしない。こちらの真意を測りかねているらしく、不用意について行ってよいものか迷っている感じだ。
 髭くらいもうちょっとちゃんと剃ってくれば良かったか。思わず舌打ちした。
「連れてってやるから、その住所。道、分かるのか?」
 問いかければ、間をおいて彼女は首を振る。綺麗に肩の上で切りそろえられた金髪が動きにあわせて左右に揺れた。
「分からないんだったら、配達終わらないんだろう? 俺はどうせこれで仕事が終わりだし、ビルの入り口までだが、案内してやる」
 もしかしたら俺の日本語は通じていないんではなかろうか。そんな心配がふと胸をよぎるが、彼女はちゃんと、さっきも質問に首を振って答えたし、最初も日本語で話しかけてきた。やはり間をおいて、逡巡の色を瞳に映し、それからゆっくりと首を縦に振った。控えめな足取りで、磨いたばかりの床を歩き出す。
 ピカピカの鏡みたく反射するくらい磨いておけばよかったか、と膝丈のスカートから覗く細くすらりとした脚を見て、一瞬だけそんな邪な思いが脳裏に浮かび、慌てて首を振って否定する。
「?」
 不思議そうな目で見られてしまい、照れ隠しで勢い良く非常階段のドアを開ける。追いかけて来ようとした彼女には、顎でエレベータを示す。
「そっち使え。俺は階段で良いから」
 警戒されているのは分かるから、密閉空間であるエレベータに二人きりも嫌かろう。返事を待たず、ドアを手放して閉まるに任せ、二段飛ばしで階段を降り始めた。エレベータの位置を示すランプは、上に向かって進んでいたし、なにより八階建ての八階に居たのだ、さっさと降りなければ連れて行ってやると言った癖に置いていかれかねない。
 地上階に出て額に吹き出た汗を拭いつつドアを開けると、前面ガラス張りの表通りに面したロビーはかなり明るかった。
 エレベータホールに置かれた背の高い灰皿の前で、どこと無く不安げに彼女は立っていた。声をかける前にこちらに気づいた彼女は、その瞬間パッと表情を明るくさせる。目が合った、綺麗なガラス細工のような輝きが見えた。
「えと……」
 変だ、妙に気恥ずかしい。なんでこんな、薄汚れた汚いツナギなんて着ているのだろう、自分は。
「いくぞ、こっちだ」
 出入り口を指差し、先にたって進む。頷いた彼女は一歩半後ろをついてきた。
 外はいい天気、昼寝にもってこいの時間帯だけれども何故か落ち着かない。頻繁に振り返っては彼女の存在を確認し、危うく曲がるべき道を行き過ぎる手前で気づいて慌てて戻らねばならなかった。
 まっすぐ行こうとしていたのを急に慌てて引き返した仕草が面白かったのだろうか、一瞬きょとんとした彼女はやや間を置いて、口元に丸めた指の背を持って行ってクスクス笑った。
「え、いや……もうちょっとだから、急ごう」
 年甲斐も無く照れて、自分らしくないと分かっているのだけれどどうしようもないまま、動揺を必死に隠して角の向こうを指差す。彼女は目を細めたまましっかりと頷いた。
 それから十メートルも行かないうちに目的のビルに到着して、入り口横に掲げられている中に入っているオフィスの案内板を眺めながら、階数を教えてやると彼女はたどたどしい口調で、ありがとうとお礼を言って頭を下げた。
「いや、別にそこまで大したことしてねーから」
「はい。ありがトうございマス」
 こちらの謙遜に気づいているのかいないのか、最後ににっこりと笑って彼女は膝丈のフリルスカートを翻し、エレベータホールへ小走りに駆けていった。丁度上から人が降りてきたところで、中が空になった空間に素早く小さな身体を滑り込ませる。目的の階数を押したのだろう、直ぐに両開きの扉は閉められてその姿は壁の中に消えた。
 建物を出て行こうとする人が、やや呆然とした感じでその場に立っていたこちらを怪訝な目で見て通り過ぎる。居心地が悪くて、頭の後ろを引っかくと若干前傾姿勢で背を丸め、ビルを後にする。
 彼女をここで待つ理由は無い、なにせ道を間違えて迷い込んだ子猫を目的地に届けてやった程度の存在だ。向こうもすぐに忘れるだろう、だから自分も、忘れる筈だ。
 だけれど、と名残惜しむように何度もビルを振り返ってしまう。自動ドアは自分が出て行った後、角を曲がって見えなくなるまで誰も通過せず、閉じられたままだった。立ち止まりそうな足を半ば強引に引きずって自分が仕事をしていたビルまで帰る。管理人室を横切るところで、仕事をサボってどこへ行っていたのかと嫌味を言われたが、殆ど聞こえなかった。
 最上階まで掃除すべき場所は全部勤務時間内に片付けている、外に出ていた分の残業代を請求するつもりもない。けれどそういう態度が気に食わなかったのか、相手は別れる時とてもお冠状態だったから、後で爺さんのところに苦情の電話が行くだろう。
「参ったなぁ」
 どうしてしまったのだろう、自分は。
 声に出して呟いて、作業着から着替えて街へ出る。仕事の内容柄、昼の太陽が高い時間帯に身体が空いてしまう。朝早いのがネックだったが、数時間も横になって眠れない日も多かった時期が長かった分、効率的に休息が取れるような体質になった為に特に苦にもならない。むしろこの昼間の、する事も無く時間をひとりで潰さねばならない方が苦痛だった。
 年寄りがよく嘆いている「いまどきの若いもの」とは、大分育った環境も経歴も違うが為に、遊んで過ごすという感覚が身体に馴染まない。
 どうやって寝るまでの時間を過ごそうか。思い悩みつつ、オフィス街から駅へ続く表通りをひとり歩く。周囲にはまだ背の高いビルが沢山乱立しているが、その一階部分には雑貨店や美容室、飲食店が入ったものが多くなってきていた。
 その中に、ふと、思いもがけず鮮やかな色彩で飾られた空間を見つけ出す。今まで毎日のように前を通ってきていた筈なのに、そこにそんな店があるなと視界に収まる範囲内で引っかかっていた部分は確かにあったのだが、意識的に眺めたことは一度も無かった。だのに今日という良く晴れた日の午後に限って、急にその空間がクリアに目に飛び込んできたのだ。
 そんな自分自身に驚きつつ、なお驚いたのは、立ち止まってしまった自分の前に、日の光を浴びて輝く金髪が飛び出してきたからだ。
「うお」
 丁度歩道を挟んだ店の前に、この店の車だろう、白いワゴンが停車していた。そこに向かって、エプロンにフリルスカートの若い女性が小走りに駆け寄り、何かを受け取ってすぐに店に戻っていく――と思われて、急に足を止めた。
 薄水色の花を咲かせた茶色の鉢植えを両手で抱きかかえたまま、彼女はゆっくりと、こちらを振り返る。
「コンニチハ」
 にっこりと微笑み、目を細め、彼女は店の人に呼ばれてまた直ぐにその店に消えていった。
 幻を見たかのような、一瞬の出来事。
 

 公園のベンチに座り、足元を無意味に戯れる鳩の群れをぼんやりと眺めながら、すっかりぬるくなってしまった缶コーヒーを手の中で遊ばせる。
 自分でも何をやっているのだろうと思うのだけれど、他にする事もないし考えることもないし、行く場所もないしあとは帰るだけだし。何かをしたいわけでも、なく。
 ぼんやりと、何も無い場所を見ている。
「あー……」
 気の無い声を吐き出して公園を行き交う人を見ていれば、昼間から自堕落にしているこちらを蔑むような、哀れむような目を向けられていることに気づいた。きっと人には、自分は社会からはみ出して落ちぶれた無職の男に見えるのだろう。
 無精髭を指で撫で、やっぱりもっとしっかり剃ってこればよかったと後悔しても遅い。
 そのうちにポケットに入れていた携帯電話が振動しているのに気づき、引っ張り出して通話ボタンを押し右耳に押し付ける。液晶に表示されている文字は仕事を斡旋してくれている上司――ボスと言わないと怒られるのだが――の老人だった。
『なんじゃ、昼間っから若いもんが。仕事が入ったぞ、お前さんのご希望通りの』
 そういえばあんな床磨きばかりでなく、本業である闇の裏側の仕事をもっと寄越してくれと頼んでおいたのだった。そちらの方が実入りはいいし、何より自分が生きているという実感を見出せるような気がしていたから。
 だが、今は乗り気になれなかった。恐らく数時間前の自分であれば、諸手を挙げて即座に承諾の返事をしていただろうに。
 返事が無いのをいぶかしんだらしい。電話口の向こうの老人も黙り込んで、考え込んでいるのだろう、静かな息遣いが時々流れてきた。
「あのさぁ、爺さん」
『なんじゃ』
 普段「ボス」と呼ばなければどんな状況でも遠慮なく怒鳴りつけてくるのに、今回は神妙な空気を敏感に読み取ったのだろう、茶化す様子も無くこちらの次の句を辛抱強く待ってくれた。
「その仕事なんだけどー……」
 公園の向こう側に視線を流す。見えやしないのに、灰色のオフィス街の中で咲く花々に彩られた空間を探してしまう自分がいる。
「悪いんだけど、昼の仕事もう一本、何でも良い、増やしてくれねーかな」
 今の仕事にバッティングしない程度の時間帯で、自分のスキルが生かせる、それでいて、世間の闇には触れないような仕事が。
『……ふむ。難しいが、探しておこう。すぐが良いのか?』
「なんなら、明日からでも」
 そうか、と深く立ち入って聞いてこないまま、電話は切れた。ツーツーという音を響かせている電話を閉じ、ポケットにしまいこまずに両手の間で挟み持つ。空を見上げて瞼を閉ざし、少しの間考え込んで、立ち上がった。
「なーんてのかなー」
 自分で自分を馬鹿だと思う。こんなのは性に合わないというのも十分分かっているつもりなのだ。
 けれど。

 あの一瞬、目が合った瞬間。
 
 何かが変わるような予感を、確かに自分は、感じたから。

be asking

           もういいかい
 
                                  まぁだだよ

 長い間眠っていた。
 ただ虚無に流れていく時間が空しかったから。
 永劫の時を刻む身体には歳を重ねるという概念が無く、ましてや死に滅ぶなど尚更遠い次元の出来事のようだ。だが、命あるものはいつか絶えると同様、この身体も数百年、千年の後には腐り、朽ち果てるだろう。
 それまで眠って過ごしても良い、そう思って眠りに就いた。
 気づかぬうちに命さえも奈落の底に沈み二度と浮き上がらないよう、密かに願いもした。そうであって欲しい、と。
 誰にも見送られる事無く果てるのは確かに寂しいが、誰かに、自分が想う相手に、決して美しいとは言いがたい己の死に様を見送らせたくなかった。
 孤独には慣れている。否、慣らされた。
 ひとり住まう城の外れ、古木が並び昼尚暗い森の中で唯一開けた、平らに均された地面に無数の穴を掘り、眠りに就いた同胞の名を刻んだ墓標を建てる作業にも、もう疲れた。残されたのは自分だけ、もはや自身の墓標を刻んでくれる存在はない。
 食を断ってからどれくらいの時間が過ぎただろう。地を這ってのた打ち回る苦しみの中、喉の渇きも遠ざかった。このまま血、或いは水を一滴も飲まずに過ごせば先立った仲間の元へ出向けるだろうか。そんな淡い期待は裏切られ、失われた空腹感は絶望となって前身を満たした。
 どうあっても死なせてはくれないのか。ただ種の存続を憂い、嘆き悲しみながら息絶えた長老の苦悶の表情を思い出す。これは呪いか、最も若い自分だけが生き延び、年老いたものから次々とどことも分からぬ天に召された同胞の。
 死に、種を絶やすことだけは許さぬと。
 耳にこびりついた言葉が離れない。同種間の婚姻を繰り返し、その血の尊さだけを求めた狂気の果てが、この結末。仲間無く、種を残す術さえ失われたというのに、どうやって血筋を守れというのか。
 自ら命を絶つことも出来ず、ただ無為の時の中で孤独に過ごす道を強要されて、狂わずにいられる自信は無い。いや既に、自分は狂ってしまっているのかもしれない。その判別すらままならぬ。
 誰もいなくなった城、広すぎる空間。蜘蛛の巣がそこかしこに張り巡らされ、退廃していくのが目に見えて明らかとなっても、動き回って掃除をし、以前の絢爛豪華な姿を維持したいと思わない。
 どうせ綺麗な部屋であろうと、汚い部屋であろうと、生きることを放棄しながら死ねないでいる自分には関係の無いこと。外に出る日もほぼ無くなり、太陽が巡って昼なのか、月が上る夜なのかも分からぬようになり、さながら牢獄に囚われた死刑囚の如く、天井ばかりを見上げる時間が続いた。
 いったい誰が用意したものか、城にいた同胞全てを弔ってもひとつだけ余ってしまった棺おけに横たわり、次第に荒れて行く天井の光景を眺めて過ごす。目を閉じて次に開かれないように祈ったりもしたが、無駄だった。ただ感覚的に、徐々に眠りの間隔が長くなっているような気はしていた。
 起き上がる気力も無い。弱った腕で自分が寝床にした棺おけの蓋を上にかぶせ、完全に目に入る光景を遮断してみた。闇が押し寄せ、全身を包み込む。恐怖はなかったように思う。逆にこれでやっと、静かに安心して眠ることが出来るようになったと、安堵を覚えたくらいだ。
 それからは本当に、眠る一方だった。
 夢など見ない、見てもそれは過去、一族が栄えた時代の日々の記憶。しかしそれも徐々に減り、たまに思い出したように見た夢も相手の顔は識別がつかず、おぼろげな輪郭となって現れるようになっていた。
 そうやって忘れていくのだろう、自分が生きている事実さえやがて消えうせる。
 誰の記憶にも残らぬまま、塵となって消え去ってしまいたかった。
 

             もういいかい

                                   まぁだだよ

 声が、した。
 どれくらい眠っていたのだろう。自分が目覚めているのかさえ分からぬまま随分長い間、横たわってぼんやりしながら考える。まとまらない思考と分裂した記憶がパズルを組み合わせる形で繋がっていくに従って、殆ど白か黒でしか識別できなかった世界に色が戻り始めた。
 それに伴い、自分がまだ生きている現実を直視せねばならなかった。胸の奥底から激しい痛みと苦さがせりあがってくるのが分かる。吸い込んだ空気の冷たさが肺に突き刺さって激痛を生んだ。咳き込みたい、吐き出したいのに衰えた筋力がそれを許さない。ただ全身を、頭の先から足の先まで、引き裂かれそうな痛みが貫く。
 かろうじて視力は生きている。落ち窪み乾ききった眼球で見える範囲の空間を窺う。それすら槍で目を突き刺されたような痛み。ぜいぜいと喉の奥で引きつった呼吸を繰り返し、よろよろと持ち上げた自分の腕を見ても最初それが己の腕だと分からなかった。
 やせ細り、今にも折れて砕けそうな、古木の枝の如く弱りきった棒のそれ。指に肉は無く、皮と骨だけになった自分の姿がザッと、背筋を震わせて脳裏を駆け巡った。
 何故。
 どうしてこんな姿になってまで、自分は生きているのか。
 どうやったら死ねるのか。いっそ誰でも良い、この呪わしい身体を銀の楔で打ち砕いて欲しい。
「……ぅ……」
 低い、地獄の底で苦しむ亡者のような声が漏れた。それが、聞こえたのだろうか。
 背中を預けている棺桶に、僅かな振動が生まれた。地鳴りのような音が耳に入る。力が足りず完全に閉められなかった棺桶の蓋が、ゆっくりと右にスライドしていった。
 ガコン、と最後は落ちたのだろう。ひときわ大きな音が響く。そうして、闇に慣れきっていた双眸に強烈な光が飛び込んできた。隙間から漏れ差し込む細い光などではない、全身を遍く照らす容赦ない輝きに眼球が焼ける感覚がする。瞼を閉ざしたが、薄い皮膚を貫通して真っ白な世界がどこまでも続く錯覚に陥った。
 いったい、どうして。
 誰かいるのだろうか、もはや自分以外誰も住まう者無く、この城がかつて大地を蹂躙した吸血鬼の根城であると知る者であれば決して近づこうとしない、恐らく退廃の一途を辿るばかりの古びた城に、来客など。
 それも、棺桶があるような薄暗い地下の礼拝堂に、何の用があって。
「フム」
 声が、した。
 久しく聞いていない、自分以外の存在の声。しかし光に瞼を焼かれ開くことが出来ない視界では誰なのか分からない。よろよろと持ち上げていた腕を下ろすと、棺桶の縁近くでそれまで無かったものに指先が掠めた。
 触れただけだというのに、鋭い痛みがそこに生まれた。苦しみに顔を歪ませる。見下ろしているであろう存在が、ふむ、とまた頷いたらしい。
「生きてるみたいネ、一応まだ」
 最初は耳障りな音に聞こえたそのことばの意味を正しく理解するのに、少しばかりの時間が必要だった。
「見つけた時はミイラかと思ったケド」
 吸血鬼って凄い生命力なんだねと感心した声が続く。人を馬鹿にしているのかと言いたかったが、相変わらず呼吸は苦しく、痛みを伴って辛い。それで意味が通じることばを発せられるべくもなく、ただ表情を更に苦くして思いを誰か分からぬ相手に伝われば良いとだけ願った。
 通じたわけではないだろうが、暫くの間声が止む。
 直後。
 遠い昔に馴染んだ、甘美な匂いがどこからともなく流れてきた。途端敏感になった嗅覚が、本能そのままに顔をにおいがする方向に向けさせる。それは先程、指先が僅かに触れた存在のある方角だった。
 少しだけだったが身体の向きを動かした反応に満足したのだろうか、遠く微かな衣擦れの音と共に匂いの源は顔の真上に移動した。ポトリと一滴、何かが上唇の左端に落ちる。それは顔の骨格のカーブに従って乾ききった唇をなぞった。
 砂地に水が染み込んで行くが如く、それは血の気を失い完全に土色に変わっていた唇を濡らした。
 更にもう一滴。
 喉が鳴った。僅かに二滴、たったそれだけ。
 だが急速に身体の機能が蘇って行くのが分かる。呼吸器官を動かしていた筋肉の動きが滑らかになり、呼吸が楽になると同時にそれまで苦しめられてきた全身の痛みが和らいで行く。瞼の裏側を焼く光の強さが薄くなり、更にもう一滴を唇に含ませられて漸く、ゆっくりとだが目を開くことが出来た。
 そこにあったのは、見知らぬ誰かの腕。年季が入った袖の先から覗く細い腕の先から、今一度落ちようとしている赤い液体が見える。先程感じた芳しい香りはそこから強く発せられていた。
 無意識に上半身を起こしてそれに近づこうとする。けれど全身を動かしきるだけのエネルギーには足りなくて、頭部が小指の先程持ち上がっただけで力尽きてしまった。
 四滴目が落ちてくる。視界が更に広がった。眼球を動かして周囲を見回せる距離も広がり、真上に伸びる腕の主を見ようと右に寄せた。
 人の姿をしていた。
 一瞬悩んだ末、それは人の形をしている自分と同種の、異形だと判断する。
 顔の半分をやや黄ばんだ包帯で覆い隠している。残る部分も色が常人とは若干異なっており、なにより滴り落ちる血の味で分かる。人ではないが、吸血鬼と同様の力を持ち、数え切れないだけの年月を積み重ねられる寿命を持つ種族だ。細かくは分からないが、唇に落ちてくる一滴ごとに全身にかつての力が戻ってくるのが分かるから、それなりに能力ある一族か、その眷属であろう。
 六滴目が落ちたところで、腕は下ろされた。強い香りが逃げていく、勝手に首がの匂いを追っていった。
 目が合う、隻眼だ。片方は包帯に覆われていてどうなっているのか見えない、だが露出する右目は己のそれよりも彩が強い。紅。表情は硬直しているが、目だけが楽しそうに笑っているように見えた。
「やあ、大分生き返ったみたいダネ」
 まるで数百年ぶりの旧友に会う時の挨拶だ。だが、知らない。初めて会う相手だ。
 こちらのいぶかしみに気づいているだろうに、向こうは漸く口元にも分かる笑みを形作って棺桶の縁に頬杖をついた。時折首を左右に揺らしながら、未だ起き上がれずにいる姿を見下ろす。
「ミイラみたいだったけど、少しはマシになったね」
 口元が歪んだ。その言い草に怒りが胸の中に沸き起こる。しかし長く言葉を発する動作さえ忘れてしまったこの身体は、どうやれば相手に意思を通じさせる音を発せられるのか思い出してくれなかった。悔しくて、僅かな湿り気を残す唇を噛む。細かな皺が刻まれるその隙間に残った鉄の味に、しばし目を閉じた。
 浅い呼吸を数回繰り返し、再度目を開けた時にも男はそのまま、先と同じポーズをしてこちらを見下ろしていた。
 天井近く、埃に埋もれて本来の輝きを失って久しい色鮮やかだったステンドグラスの向こうから、淡い光が差し込んでいる。
それは紛れも無く、自分が暮らした城の礼拝堂であり、あのステンドグラスが唯一、地下にあるこの場所を照らす光源だ。
 あれから、どれくらいの年月が過ぎ去っているのだろう。窺うように、隻眼の男を見上げた。目が合って、男の笑みの色合いが少しだけ異なるものに変わった。こちらの視線に何かを察したのだろうか、顎を置いていた腕の左右を入れ替えた。
「勝手にお邪魔しちゃって申し訳ないと思ったんだけどネ、もう誰も住んでないと思ってたから」
 男いわく、城に住む吸血鬼が滅んだという伝承が語られだしてから、おおよそ二百年が経過しているらしい。城は荒れ果てたが、周辺の住人は未だに不死と謳われた一族が地中より目覚めるのを恐れ近づこうとしなかった。
 そんな中、隻眼の男――スマイルと名乗った――は旅の最中、雨露をしのぐ場所として、荒廃した城に足を踏み入れたという。
 最初はここが、今は亡びし吸血鬼の根城とは知らなかったらしい。だが城内を探索するうちに、噂に名高い地だと気づいたらしい。けれども誰も住んでいないのであれば別段構う事は無かろうと歩き回っていたら、地価礼拝堂に安置された棺桶を発見し、今に至る。
「つまりは、要するに、簡単にまとめると、だね。起こしておいてなんだけど、暫くボクがここにいても良い許可が欲しいんだよね」
 許しがもらえなければ、既にここに暮らしている(とは言い難かったが)人がいるのに、断りもなくずかずかとあがり込み、仮宿としてであっても勝手に部屋を借りるのはマナーに反していると、男はそういうのだ。
 そのためだけに、長年眠りに就き、このまま放置されていたならば永遠の眠りに落ち着けたかもしれない自分を、起こした。
 なんという身勝手な言い分だろう。
「ああ。それで、ついでなんだけど」
 にこやかな毒気を抜かれる笑みを絶やさず、男は傷が出来ている右手を持ち上げて人差し指を天井に向けて立てた。薄い皮膚に、閉じていない傷口から赤い雫が表面張力を破って垂れていく。
 甘美な誘惑が、怒りと共に膨らんでいくのが分かる。無意識のうちに動かしているだろう男の指が左右に振れる度、甘い香りがその場で飛び散って冷静な判断力を低下させる。目覚めたばかりであり、なおかつ数百年という長い間を一滴の水さえ口に含まず過ごしてきた。空腹は絶頂に達する中、たった数滴の血だけで到底足りる筈が無い。
 本能が牙を剥く。もはやとめようとも思わない。
「このまままた寝ちゃってくれても良いんだけどサ。どうせだし、折角だか――」
 何かを言いかけていた男の顔が、一瞬のうちに硬直する。全身を襲った黒い影の正体が何であるかを知る前に、男は己の右肩を抉った鋭い、そして激しく熱い痛みに耳障りな悲鳴を上げた。
 しかしそれさえも久方ぶりに味わう、比べるものを持たない魅惑的な喉の潤いの前に掻き消える。男の悲鳴はやがて静かになった。時折腕や足の先端が引き攣って大きく跳ね、石組みの床を叩くものの、その動きも徐々に小さくなっていく。耳元では荒い男の呼吸が続いていたが、それも暫く経てば聞こえなくなるだろう。
 白かった床石の上には、地中に染み込めない赤い血だまりが広がる。男が着ていたぼろぼろの服を真紅に染め上げるのは、牙を突き立てられ、肉を引きちぎるように裂かれた男の肩口から溢れ出し、止まらない血そのもの。
 ぜいぜいという呼吸が耳の奥に響く。眠りから覚めた直後の食事が、うら若き乙女でなかったのは残念だったが、それなりに力を持つだろう異形の種であるだけにか、男の血もそれなりに美味。喉を潤し、全身に失われていた力がみなぎって来るのが分かる。
 やがて痙攣を続けていた男の指先が地に落ちた。つられるようにして、肉の少ない骨ばった肩を貫いていた牙と、皮を食んでいた
唇を解く。深く刺さっていたためかなかなか外れず、ゆっくりと身を起こす動きに付き従ってきた男の上半身は、こちらが完全に大地に直角に居直る前になって漸く自由を取り戻した。
 どさりと重い音が静かになった空間で妙に大きく響いた。
「死んだか」
 口元どころか顔の下半分が血染めになっているのを、袖を使って拭ってぼそりと呟く。今の発言が果たして本当に自分の声だっただろうかと疑問に思うほど、長い間聞いていない声色だった。思わず喉に手をやり、そこにも生暖かな滑りを感じ取る。
指先で救い上げ、垂れ落ちそうになるものを口腔に含ませた。
 そうやって五本の指を順番に舐めて行き、手首に滴った分にも舌を這わせる。
 数百年ぶりの食事は、少々品を欠いたがこんなものだろう。大の男ひとり分の血液を吸い尽くしたのだから、暫くは食事を探しに出なくても平気そうだ。腹のたまり具合と全身に戻った力の調子に思考を巡らせ、浅く頷く。
「あー……」
 その時だった。
 足元から、地に響く声がした。
 思わずぎょっとなって身構えたまま血だまりの中に沈む死体を見下ろす。全身に流れる血液のほぼ全部を吸い尽くした自信がある、もはやそれは屍でしかない筈。生きていられるわけがない。
 だが、実際はどうだ。こちらの常識の範囲を大きく逸脱し、気だるそうな感じではあるが、男は石床に寝転がったまま、左の腕を持ち上げて血塗れの髪を掻き毟っていた。
 心持ち、先程までよりも血の気が失せている気がする。全身も血が足りていないと分かる青ざめ方だ。しかし既に死んだものと思わせておきながら、男は緩く首を左右に振り、血に染まった己の服をどこか定まらない視点で確認した後、ふらふらと覚束ない動きながら自力で起き上がった。
 ゆっくりと、動作の途中で右に大きく揺らいだが崩れることはない。さながらゾンビが起き上がる仕草そのままといったところか。
 そうやって男は、胡坐をかく格好で座り、背を丸め、やはり焦点定まらない目でこちらを見た。右の肩口にある二つの大きな刺し傷からは、依然として血が流れ続けていた。
 満腹なのでもう甘い匂いに誘われるものの、襲い掛かりはしない。逆に気味悪さで食欲がかなり減退したくらいだ。
 男は相変わらずどこを見ているのか分からない隻眼を宙に漂わせ、数回瞬きをする。それからおもむろに、左手で血が止まらないでいる肩の傷
に触れた。指先で場所を確かめた後、掌を使ってふたつの傷を押さえ込む。そのまま二度三度、揉み解すように動かした。 指の隙間から、圧迫されて表層に近かった血液があふれ出す。泡を吹いてどろりとした塊が零れ落ち、周囲に一層濃い血の臭いが充満する。思わず顔を背けたくなった。
「いっつ……」
 かみ締めた奥歯のその奥から搾り出すような声。硬く目を閉じた男は傷の深さと出血の多さに喘ぎつつ、それでも尚、傷口を手でふさぐ所作をやめようとしない。いったい何がしたいのか、折角拾った命をわざわざ自分で捨てようとしている風にも見える。
 呆然としながら事の成り行きを見守る他無い。既に男の身に纏う衣服は血で染まり、乾きかかっていた場所にも新たに流れ出た血が上乗せされていく。元の色などもはや判別不能、赤というよりも赤黒い色に染め直されてしまっていた。
「うっ……つー、あぁぁ」
 低く呻き、顎を仰け反らせて天井を見上げて痛みをやり過ごし、溜息と共に全身に走った力を抜く。だらんと垂れ下がった右腕の先がぴくぴくと痙攣して血だまりの上で跳ねていた。
「おい」
 流石にこのまま放っておくのも問題があるだろう。原因を作ったのは自分であるが。
 戸惑いつつ声をかけて男へと手を伸ばす。寸前で、隻眼を開いた男はそれまで固く右肩を掴んでいた左手を開いた。
 力なくそれは落ちていく。
「あー……痛かった」
 死ぬかと思った、とぼやいて男はゆるゆると首を振った。こちらは、中途半端に伸ばした腕と浮かせた腰が、行き場を失ってそのままの状態で停止してしまっているのに、全く気にする様子もない。
 痛かったどころか、本当に死ぬところだったのではないか。何をのんきなことをぬかすのか。呆れ顔になり、まじまじと男を見下ろしたところで、さっきまであれほど流血していた肩口の傷がふたつ揃って綺麗に無くなっているのに気づいた。
 太く深く刺さった傷は赤黒く変色し、皮膚の腐敗を促していたというのに、今見てみたらそれらはどこにも見当たらない。
 てっきり左肩と錯覚していたのだろうかと、ありえる筈も無いが可能性だけを頼って反対の肩を見るものの、そちらもまた無傷。改めて右肩を見やれば、恐らく傷があったであろう箇所に薄く黒い痣があるのだけ確認できた。しかしそれは、牙で貫かれたとはとても言いがたいもの。
 わけが分からない。
 ぺたりと床に腰を落とし直して、呆気に取られる。目の前の男は先程までの死体さながらの状態からすっかり復活して、血塗れのまま首を左右にコキコキ鳴らしている。嘘のようだが、本当に傷は消えてしまったようで出血ももう見当たらない。流された血の量は間違いなく失血死を起こすに値する量なのに、そんな気配も微塵と感じさせない。
 常人ではなく、自分と同等の力を内包する種だとは感じていたが、これは少々異常だ。肉体的に優れているとされる狼人種でさえ、吸血種に体内にある血液の大半を奪われれば楽に死に至る。自分は加減などせず、空腹を満たす為に本能を優先させて血を貪った。自分の知る種族の中に、この行為を耐え抜いた存在は無い。
 強靭な肉体を持ち、数百年に及ぶ寿命を持つ異形の中でも何故群を抜いて吸血種が恐れられているのか。それは単純に、その堅牢な肉体を易々と切り裂き、死に至らしめる術を持つ故。血を抜かれカラカラに乾いていても可笑しくないような輩がそこいらに居たならば、今はもう居ない同胞も思い上がらず、傲慢に生きることもなかっただろうに。
 全てはもう遅いが……
「貴様は……いったい、なんなのだ」
 人の城に勝手に立ち入り、人の眠りを自分勝手な理由から妨げ、挙句殺す気で襲い掛かったというのに平然としている。
 何から何まで自分を否定されたような気分に陥り、泣きたい気持ちを懸命に押し留めつつ呟く。それでもこみ上げてくるものが止まってくれそうになくて、手の甲で目じりを押さえた。乾いた血がこびりつく前髪に、指先が掠める。うっすらと視界が滲んだ。
「なにって、まー、そうだね。名前はさっき言ったケド、スマイル」
 まだ本調子が戻らないらしく、時折首をひねりつつ身体の部位を曲げたり伸ばしたりしながら、男がにっと口元を緩めて言った。聞きたいことはそんなものじゃないのに、どこまでも人を小ばかにしたような態度を貫く。腹が立つ。
「不満って顔だね。だけど、悪いネ。仕方ないんだ。ぼくは、何でも無い存在だから」
 意味が分からない。
 口をへの字に曲げて男を睨む。こちらの感情を察したのだろう、カラカラと笑って、男は自分の腕に巻きつけている包帯をゆっくりと外した。
 血に濡れて硬くなってしまった包帯を、一枚ずつ剥がすように解いて行く。隙間にまで入り込んだ血液はかつて白かったであろう包帯のほぼ全面積を赤く染めていた。まだ乾ききっていない内部の血がはがれようとする包帯に張り付き、思わぬ抵抗を見せることもあった。だが確実に包帯は外され、その下に隠されていた腕が露見する。
 最初は怪我でもしているのかと思っていたのだが――
「貴様……」
 唖然とした声が無意識に漏れた。素直な驚きが顔に出てしまい、また笑われる。そういう反応には慣れているのだろう、男は解いた包帯の山を、見えない腕でかき回してみせた。
 そう、男に腕は無かった。
 しかし、恐る恐る手を伸ばして包帯が規則正しい動きを見せるほぼ真上に触れてみる。頭上で男が笑う気配がして、同時に指先に硬い、けれど柔らかい……肉と骨の存在を感じた。
 見えないが、在る。
 在るが、見えない為に、無い。
 実在するが、存在しない。
 在るが、無い。
 故に、何でもない。
「お分かりいただけて?」
 飄々とした態度で、男はどうやら包帯の下から現れた見えない腕を振ったらしい。だが見えない為に分からず、前髪を僅かに揺らした弱い風を感じるだけに終わる。
「お前は……生きて、いないのか……?」
「んー、ワカンナイ」
 赤い包帯が蛇のようにとぐろを巻き、先端が持ち上がったり沈んだり。手品でも見ている気分だが、実際には種も仕掛けもなく、単に男の見えない腕が遊んでいるだけ。試しに聞いてみた問いへの答えも、この男らしく曖昧かつ、意味深だった。
「血は流れてるし、殴られたら痛い。当然、噛まれてもね。さっきは流石に死ねるかと思ったケド……やっぱりダメだったみたいネ」
 男の見えない左腕は、身体の脇へ移動したらしい。袖が動き、見えている右腕が肩をすくめる動作をしていた。
「貴様の身体は、その……全部、そうなのか?」
「ウン」
 逡巡もなく、あっさりと肯定して頷き返されて眩暈がした。 生きているのかどうかも分からない。血は流れているから、生きているに違いないだろうが果たしてその命の概念が自分達と同等かどうか問われたら、まず即答出来ない。そもそも自分の姿が見えないものが、自我を持ち存在を保持していられる事自体が常識を大きく逸脱している。
 この男はどうやって、自分というものを認識し、作り出し、保ってきたのか。
 俄かには信じがたい現実に、戸惑いを隠せない。
 思いが顔に出たのか、隻眼を細めた男が右手の人差し指を唇に押し当てた。静かに、というポーズで停止し、その通り黙って見守っていると、少しずつ、男の姿が薄くなっていくように思えた。
 いや、錯覚などではなく本当に薄れている。
 瞬きを二、三回繰り返した頃にはすっかり男の姿はその場から掻き消え、完全に見えなくなってしまった。けれど腕を伸ばし、試しに男が座っていた場所を探ると、硬いものにぶつかる。いぶかしみながらも掌全体で触れてみれば、それは見えないものの、確かに人の形をしていた。
 新鮮な感動さえ覚える。だから興味津々のまま、つい深く触れすぎていた。
 相手が見えないということは、即ち相手が動いても分からない――無防備な姿を晒す事に繋がるというのに。
「あっ」
 短い声があがった時に気づいたが、遅い。手首を掴まれた、と思う。
 よく分からないまま視界が反転した。完全に予期していなかった出来事に即座に反応を返せず、掴まれた腕を先頭に身体が前のめりに倒れこんだ。一瞬だけ膝立ちになり、引き倒されたと理解する前に透明なクッションに阻まれて、床に激突する筈だった上半身が妙な位置で停止した。寸前、顔に何かが掠めたがその正体も分からない。
 唇に触れたものは、柔らかかったような硬かったような。とにかく一瞬だった為、状況を理解する余裕もない。
 目の前に迫ろうとしていた硬い、今は血に濡れる床に身体が竦んでうまく動かない間に、唐突に中空で自分自身が停止したのだから、無理もなかろう。目を瞬かせ、きょとんとしていると頭の上からくぐもった笑い声が聞こえてきた。
 発生源は見えない。しかし、恐らく今のこの状態を冷静に見つめ返してみると、どうやら前方に引っ張られてバランスを崩し、透明化した男の膝に乗りかかるようにして、胸に凭れ掛かっているらしい――今の自分は。
 逆を返せば抱きついているようなものだ、見えないだけで。この男当人から見れば、随分と自分は滑稽に映るだろう。笑い声を聞いているうちに怒りが再びこみあげてきた。思わず、握り締めた左拳を男の、恐らくは顎に当たるであろう箇所を目指し(聞こえてくる声を頼りにしたから、必然的に顎を狙う形になった)、振り上げていた。
 ゴキッという骨の鳴る音が拳と耳両方を伝い、と同時に楽しげな笑い声が途切れた。どうやら目測だけの狙いも大きく狂っていなかったらしい。一秒の間をおいて、自分を支えていた透明な壁がぐらついた。今度こそ床に激突するかと思われたが、乗りかかっていた男の身体が床との間に挟まってくれたおかげで衝撃は少ない。その代わり、上と下両方からの打撃を受け、男は苦しそうに数回唸ったが。
「まったく……」
 調子に乗ってしまった自分も悪いが、男の戯れも少々度が外れていた。自業自得だと身体を起こす向こう側で、男が顎を手で押さえて床に寝転がっている姿で出現した。
 消えた時とは違い、唐突に。
 何もない空間から突如現れた人の姿に、前知識が無ければ驚いて腰を抜かしていたかもしれない。だが自分は既にこの男が形を持ちながら姿を伴わない稀有な存在だと知っている。こっちは見えなかったから正確にどの箇所に拳がめり込んだかわからないが、男の痛みもだえる姿に、まともに顎へヒットしたと想像する。しかも笑っている最中での一撃だったろうから、もしかしたら舌でも噛んだのか。
 じたばたと踵で床を数回蹴り飛ばし、うっすらと涙目で睨んでくる。
「こっちはけが人なのに、ひどいじゃないかー」
「知るか」
 男の言う怪我を作ったのは自分に間違いないだろうが、肝心の傷口は男が自らの手でふさいでしまった後。説得力に欠ける。
 そっけなく返すと、渋々といった調子で男は、まだ少し痛そうだったが、身体を起こした。背中に血糊がべっとり張り付いている。叩いて落ちるものではないだろうに、軽く数回その背中に男は手を回し、ぱんぱんと自分を叩いた。
 その仕草が可笑しくて、つい顔を緩めて笑ってしまう。目敏く見返してきた男が、悪意が無いと分かる子供っぽい、人なつっこい笑みを作った。
「やっと笑ったネ」
 してやったりとでも言いたげな声の調子だが、気にならなかった。
「そうか?」
「そうデス」
 問い返すと、こっくりと頷いて来た。そうと思って見ていなかったから分からなかったが、男の動きはいちいち大袈裟で、見た目に反してかなり幼い。言葉遣いも……
「んで、話戻すんだけど。暫く部屋を借りても良いかな、じきに出て行くヨ、騒がないし迷惑かけないし。あ、勿論ご飯は自分で作るし、寝床も自分で用意するからお気遣い無く」
 真っ直ぐに指を伸ばした手を胸の前で平行にして、透明な四角い箱をどこかへ移動させる時のような動きをしてから、男は随分前に中断されていた話を引っ張り出してきた。脚を崩し、楽な姿勢を作ってすっかりくつろいでいる。城の主に相対している態度とはとても言い難い。
 顎を指で数回叩き、話を聞く。
「あ、勿論、起こしておいてなんだけど……これはさっきも言ったかな。また寝るようならもう邪魔しないし、起こさないから安心して」
 この台詞を口にする時だけ、男は若干伏し目がちに声を潜めさせた。自分が襲われた時に振っていた話題だから、当然だろう。じろりと凄みを利かせて睨んでやると、小さくなっていた男がびくっと警戒したまま大きく震えた。
 面白い、見ていて飽きない。
 それに、もう一度棺桶に寝転がれと言われても出来そうにない。あの中は非常に寝心地が悪いし、飛び散った血ですっかり汚れてしまった。こびりついてしまった血の匂いを嗅ぎつつ、安眠など出来るわけもない。
 腹も膨れてしまった。朽ちかけの古木同様だった腕や身体も力を取り戻し、眠りに就く以前の状態に近い。完全復活とまではいかないが、それも時間が解決してくれよう。
 何故死ねなかったのかとは、今でも思う。だが不思議と、あれほど臨んでいた終わりが遠のいたというのに、落胆の気持ちは起こらなかった。亡き一族を想えば胸は痛むが、自分が生きている事は素直に喜びだった。
 薄情だと怒るだろうか、それとも長老の意志通り、種の存続を第一として生き延びる道の選択を正しいと頷くだろうか。
 答えを返してくれる相手はもう居ないが。
「好きにしろ」
 言い捨てて立ち上がる。穿いていたスラックスの裾が床の血に貼り付いて嫌がったのを強引に引きはがし、節々痛む各部に顔を顰めながら、背筋を大きく伸ばしてみた。次いで指を曲げ伸ばし、腕を曲げ伸ばし、首をぐるりと回して一瞬だけめまいがした。
 下から見上げてくる男の視線に、目を向ける。先程した返事の内容に戸惑っている感じだ。
 ふっ、と笑う。
「城で暮らす事は許可しよう。私の食事と寝所の用意他をする、という条件で構わないのならば」
 ふてぶてしい態度で手のひらを上向け、天井――即ち城の地上階部分を指で指し示しながら言う。途端、曇り気味だった男の表情がぱっと花開いたように見えた。
「あー、有り難う。やったー、これで屋根のない場所からさよなら出来るー!」
 ばんざーいと両手を上げて無邪気に喜んでいる。いったい今までどんな暮らしをしてきたのか、聞いてみたくなる喜びようだ。
 ついつい呆れてしまい、肩を竦める。それからやや頼りない足取りで、記憶を頼りに長い間踏み締める事のなかった床を歩き出そうとした背中に、やおら男が呼んで歩みを止めさせた。
 振り返る、鈍色の紅い瞳がそこにあった。
「そうそう、もうひとつ、あったんだ」
 立てた人差し指を左右に振り、中断してしまっていた話題が他にもあったのだと笑う。
「名前、教えてくれないかナ?」

 スマイル、と名乗ったその男は。
 その後、数日城に滞在し、現れた時同様予告もなくふいっと居なくなった。
 それから暫くして、また唐突に城に現れて滞在の許可を伺い、了解を得て数日を過ごし、また何処かへ出かけて。
 忘れた頃に戻ってくる、その繰り返し。
 いつしか、それも当たり前になり、スマイルは滞在許可を求めなくなり、またこちらも与えないようになっていった。
 ただ。
「スマイル、いるのか?」
 透明な、どこまでも透明な彼は。
「ココに居るヨ~」
 呼べば、いつでも、どこであっても。

 自然と口元が綻ぶ。
 そういえば、名乗っていなかったのを思い出す。
「私は……」

「呼んだ?」
 今日も人なつっこい顔が呼べば間近に現れる。
「ユーリ」
 楽しそうに、隻眼を細めて笑いながら、彼は私を呼ぶ。
 長く呼ばれていなかった名前を。私は彼を、彼は私を。
「お前は、あの時」
「ん?」
「……いや、なんでもない」
 あの日、夢の中で聞いた呼び声は。

                 もういいかい

                                     もういいよ

Silhouette

           ゆうやけこやけで ひがくれて

 どこかから歌が聞こえてきた。

           やまのおてらのかねがなる

 近いようで、遠い。遠いようで、近いような、そんな曖昧な距離で、子供達が歌っている。
 何人かが、きっと手を繋ぎあっているのだろう。帰り道か、小学生くらいだろうか。

           おててつないでみなかえろ

 夕闇がそこに迫っていた。正確な時間はわからないが、もうすぐ日も暮れて、夜になる。早く帰るんだよ、そう心に呟いて、足元をふっと見下ろした。

 そこにのびる、長い影。
 顔を上げ、振り返った先には住宅の屋根を染めつくす真っ赤な夕日。
 右手に持った買い物袋が少しだけ、軽くなったような錯覚。自分も早く帰らなければと思うのに、もっと眺めていたいと思ってしまう。
 いつだったかに言われたことばが自然と胸の中によみがえった。

           『君の瞳は、夕焼けの色ダネ』

 赤ん坊を怖がらせてしまうような強い赤の瞳が、それまで嫌いだった。けれど初めてそんな風に表現されて、重そうな前髪で隠しているのは勿体無いと言われてからは、以前ほどこの色を嫌いだと思わなくなった。
 やはり勇気がなくて、常に素顔をさらけ出せずにはいるけれど、彼の――彼らの前でなら、平気なくらいになってきた。
 いつか、夕焼け色だと言われたこの両目を、もっと好きになれるだろうか。

           『なんで、隠してるノ?』

 初対面で、不躾に近づいてきて手を伸ばして。下から覗き込みそれで見えなかったからか、濃緑の前髪を断りも無く持ち上げて間近から見つめてきた。
 彼の瞳もまた、自分とは少し色合いの異なるものの、赤。
 それまで殆ど正面から誰かと向き合うことも無かったため、かなり驚いてしまい、情けなくも後ろ向きに倒れてしまったのを昨日のように覚えている。その時庇って胸に抱きこんだ彼の身体が、見た目以上に細く華奢だったのに、更に驚いたことも。
 突然天地の向きが変わった為に彼もびっくりした様子だったが、間もおかずケタケタと楽しそうに笑い出したのが印象的だった。確かに彼の身体は成人男性なのだからかなり重かった筈なのに、中にぎっしり食材が詰め込まれている、この買い物袋みたいに、あまりそうだとは思わなかった。
 気持ちが楽に、心が軽くなった為だろうと今なら考えられる。
 あの瞬間、彼はたったひとことで長年自分が縛られてきたものを取り払ってしまったのだ。
 地面に落ちた自分の影を踏む。さっきよりもまた長く伸びたそれを追いかけながら、住むべき場所へ向かい、ゆっくりと歩を進める。
 この道の先には、自分の帰りを空腹抱えて待っている人がいる。早く戻ってやらなければ、玄関を抜けた瞬間ブーイングの嵐に遭遇しかねない。
 
              ゆうやけこやけでひがくれて

 無意識にリズムを口ずさみ、歌っている自分に気づくが構わない。

              やまのおてらのかねがなる

 もう聞こえない子供達の声は、明日も元気に空の下に響くだろう。

              おててつないでみなかえろ

 早く、帰ろう。日が暮れるより早く、待つ人がいる場所へ。
 そこで自分に微笑みかけてくれる、あの笑顔に今すぐ会いたいから。

髪結

「んむ~~~」
 朝の気配がする。
 目覚ましなどというものから縁を切って随分と経つが、体内時計は相変わらず正確だ。夢と現実の狭間で意識が揺れ、天秤が現実に傾いたところで薄目を開ける。
 頭の先まで被ったケットの隙間から、カーテン越しに差し込む日の光が見えた。首を斜めに傾げれば重そうな置時計が目に入る。時針は七時台を、分針は見えづらいが、三十分付近を指し示している。
 昨晩寝入ったのが夜中の一時過ぎだったから、そこそこ休めた分類だろう。まだ身体は眠気を訴えているが、急速に覚醒していく意識は二度寝を許さない。それは、肌を通じて刺さる、痛いばかりの視線にも起因している。
 もぞもぞと動き、柔らかなベッドの上に身体を起こして座る。肩から被ったケットが背中を滑って後ろに落ちた。絹の上下パジャマにはいつ着替えたのだろうか、と不思議に思いつつ綱吉は大きくあくびをした。目尻に自然と涙が浮かび、まだ重い瞼を擦りながら、先ほどから視線を感じて止まない斜め後方に視線を流す。
 広い室内、窓辺から差し込む薄明かり以外に光源は無く、反対側の壁付近は暗くて視界も悪い。斜に走る影に目を凝らし、息を殺して感覚だけで気配を探すと、不意に綱吉の意識を掠めるものが現れる。窓辺のベッドからは方角で行けば北西、角度で言えば綱吉の右肩の方向に直線状、だ。
 そこにあるのは白塗りのミニテーブルと木組みの椅子。二脚あってテーブルを挟んで向かい合わせに並べてあった筈だ。その片方に、誰かが座って脚を組んでいる。
 黒い影に溶け込むような漆黒の髪、切れ長の瞳もまた闇と同じ。身に纏う衣服も黒か白のモノトーンカラーを好む為、もとより彼は闇に潜むのに都合が良かった。
 だが綱吉は厳重警戒の自室への侵入者に対し、一切の警戒心も抱かぬまま再度、今度は口元を手で隠してあくびを噛み殺した。
「……おはよう、ございます」
 途中で舌を噛みそうになった呂律の回らない挨拶を壁に向かって行い、綱吉は寝癖のついた髪を掻いた。指先に薄茶色の髪が絡みつく、櫛を通さずに乾かしただけで寝入ってしまった報いだろう。そのまま強引に指を下まで運ぼうとすると、斜め後方から呆れるような、咎めるような吐息が聞こえてきた。
「そうやって君は、また無頓着に髪を痛めつける」
 椅子を引く音と一緒に聞こえてきた説教に肩を竦め、綱吉は後方を窺った。食器のぶつかり合う音が小さく響いたかと思うと、絨毯敷きの床に足音を吸収されながら声の主が近づいてきた。朝の光に照らされて、漸く表情が綱吉の目にも映る。不機嫌そうだけれど、それはいつものこと。彼が腹を抱えて破顔する様は、もう知り合ってから十年が軽く経過してしまっているけれど、一度としてないのだから。
「君の髪に枝毛が一本でも出来たら、怒られるのは僕なんだから」
 そう真顔で言って、彼は滑るようにベッドサイドに立つと手にしていた食器を綱吉に差し出す。綺麗に彩色されたソーサラーを受け取ると、載せられたカップから立ついい香りが綱吉の鼻腔をくすぐった。適度に冷まされており、かつ冷たすぎない非常に飲みやすい温度で出された紅茶に、綱吉はホッと息を吐いてそれを口に含む。
 あらかじめ彼の好みに合わせて砂糖が加えられており、渋みも無い紅茶は、寝起きで食物を受け付けない胃でもすんなりと喉を通って落ちていった。
「やっぱり、雲雀さんの紅茶が一番おいしいです」
 弱々しく波立つ小さな水面を見下ろして目尻を下げると、傍らの青年は少しだけ表情を崩したようだ。尖っていた気配が少し柔らかくなり、それが嬉しくて綱吉も頬を緩める。更に紅茶を啜っていると、伸びてきた雲雀の腕が綱吉の跳ねた毛先を撫でた。
「大分、伸びたね」
 細かい傷が無数にあるけれど、パッと見はとても綺麗な指が綱吉の髪を梳く。痛くないように注意深く、絡まりあっている箇所を見つけては丁寧に解していく。まるで撫でられた猫のように背中を丸めた綱吉は、手の中で空になったカップをソーサーに戻し、自由になった手で顎や頬の周辺に指の腹を押し付けた。
 少年から青年に変わっていく時期、思った以上に身長も伸びず、筋肉も、鍛えた割にはあまりついてくれなかった。当然体重も増えないままで見た目の迫力は欠けたまま。己を取り囲む同世代らはどんどんと大人の体格を手に入れているというのに、ひとり愛らしいと表現されてしまうような外見のままというのは、綱吉にとっては非常にコンプレックスだった。
 故にどうにか、少しでもマフィアのボスとしての威厳を出せるようにと色々試してみたものの、これが上手くいかない。
 せめて実父くらいの体格があればよかったのだが、母親に似てしまったのが災いした。見た目以上に力はあるのに、見た目のインパクトが足りず信じてもらえない。体力もそこそこにあるのだけれど、山本や獄寺に比較されると雲泥の差。身長に至っては、山本とはついに三十センチ以上差がついてしまった。
 綱吉に非常に近しい人達は、誰も気にしてやいないのだけれど、綱吉自身は気にせずにいられない。もっと自分に迫力があれば、威厳があればと思いつめて、一度は髭を伸ばそうと試みたのだけれど、これが非常に似合わない上に、元々体毛も薄かった為目立たない。周囲の激しいブーイングもあって、結局映画のマフィア役にあるような髭作戦は取りやめとなってしまった。
 以後筋力トレーニングに励むもめぼしい効果は得られず、最終的に綱吉が取ったのが、髪を伸ばすというものだった。
 だからどうしたといわれそうだったが、他に思いつかなかったというのもある。周囲から可愛いだの、愛らしいだの言われるのに嫌気が差したともいえる。髪を伸ばせば少しは男らしくなると考えたのは浅墓だったと綱吉も自分を顧みて思うわけだが、スキンヘッドにする勇気は無かったのが本音だ。
 そうしたら何故か、後ろ髪が長い姿が好評を博してしまった。
 本人にしてみれば不本意である。だから短髪にしようとしたら、今度もまたブーイングの嵐だ。しかも身内だけではなく綱吉の顔を知る構成員の殆どが反対してくれた。お陰で切るに切れず適度の長さを保ったまま、ここ数年は過ごしている。
「枝毛が出来ても、誰もわからないですよ」
「目の良い番犬がいるでしょう」
「ああ、獄寺君」
 クスクス笑って綱吉は体を起こすと、ベッドサイドのチェストにカップを置いた。まだ髪を弄っている雲雀を、顎を仰け反らせて上向いて見る。
「もっと他の事に目を向けると良いのにね」
 以前、髪に良いトリートメントを見つけたから使ってくれと、風呂場にまで駆け込んできて雲雀から鉄拳を食らった獄寺を思い出す。何故そこまで他人に髪の手入れに気を使うのかと笑っていると、雲雀が絡んでいた髪を力いっぱい引っ張ってくれた。顎どころか背中まで仰け反り、そのままベッド上に仰向けに倒される。
「雲雀さん?」
 瞬きをして大きな目で見返すと、彼は渋い表情で綱吉の顔を覗きこんだ。僅かに息を呑み、綱吉が目を閉じると、その閉じられた瞼にキスが落ちてくる。
 しかしそれ以上の触れ合いは無く、雲雀は無言のまま身体を引いたので、綱吉も腕をつかまれ力を入れられるままに上半身を起こして再びベッドに座りなおした。雲雀に触れられた頬を撫でる。まだ少し暖かい気がする。
 雲雀は綱吉が飲み干した紅茶のカップを、先ほどまで陣取っていたテーブルに運んでいる。白のシャツに黒のベストという出で立ちの彼をぼうっと眺めていたら、「まだ飲む?」と聞かれたので黙って首を振って返した。
 眠気はすっかり消え去ったが、ベッドから起き上がって服に着替える気分になれない。もう少し甘えさせてはくれないだろうかと思っていたら、不意打ちのように雲雀が振り返って目が合ったので、必要ないのに綱吉は顔を赤くして慌ててベッドに倒れこむ。
「綱吉?」
「なんでもないです!」
 怪訝そうに名前を呼ばれ、思わず怒鳴り返してしまった。赤く熱くなった頬を両手で押さえ、高まった心拍数を平常値に戻そうと必死に自身を宥めるが、こういう時ほど上手く行かない。呼吸するのも忘れて唾を飲み込むと、接近に全く気づいてもらえていなかった雲雀が綱吉の肩を掴んだ。瞬間、悲鳴ごと心臓が口から飛び出そうになって、必死で堪える。
 どうしてこう、この男は、気配を殺すのさえ上手いのだろう。
 綱吉の態度に一度はギョッとして見せた雲雀だったが、毎度の事なのでいい加減慣れてしまっている。硬直した綱吉の頭をくしゃりと軽くかき回し、立つように促して先ほどとは反対側の頬にまたキスを送る。渋々といった感じで綱吉は頷き、先に歩いていく雲雀の背中を追いかけて素足のままベッドから降りた。絨毯に踝をくすぐられながら、示される椅子に腰を下ろす。
 目の前のテーブルには先ほどの茶器と、湯気立つ紅茶。朝食前の軽い休息にと数枚のクッキーが乗った皿が並べられていて、少し距離を置いて端の方には整髪料とドライヤー。コードの先は床に設けられた収納式のコンセントに繋がっている。あとは自立式の鏡。
 部屋の照明にスイッチを入れた後、綱吉の背後に陣取った雲雀はというと、櫛を片手に持って、もう片手をとんとんと叩きながら綱吉の肩甲骨部分よりも長い髪を眺めている。
「寝る時、ちゃんと梳いた?」
 しっかりと就寝前の手抜きが見破られ、どきりと胸が鳴った。分かり易い綱吉の反応に、雲雀は肩を竦めて溜息を零す。週に三日は繰り返される会話に、そろそろ飽きてはくれないだろうか。
「君の髪が荒れていると、僕が文句を言われるってさっきも言わかなかったっけ?」
 雲雀の長い腕がテーブル上の寝癖直しに伸びる。液状のそれをスプレーで毛先に満遍なく馴染ませ、下の方からゆっくりと梳いていく。先ほど解しきれなかった、絡んでいる髪も逐一丁寧に解いて行き、髪全体を梳いてから今度は跳ねている部分を真っ直ぐに伸ばす作業に移行した。
 その一連の動きは慣れが感じられ、淀みなく正確に行われている。毎日繰り返されるからというのもあるが、綱吉直々にこの役目を与えられた彼は、律儀にも専門家に師事して技術を学んできたくらいだ。
 最初の頃は嫌がり、渋っていた彼だけれど、もとから妥協を許さない性格が災いしてしまった。それでなくとも綱吉の周囲は常にうるさい。文句を言われるくらいなら、言えないくらいに完膚なきまでに打ちのめすのが、彼の性分。綱吉自身も、雲雀を選んだのは間違いなかったとホクホク顔だ。
「やっぱり雲雀さんにやってもらうのが、一番気持ちいいや」
 両足を伸ばし、左右を互い違いに揺らして綱吉が笑む。
 リボーンはそもそも髪の手入れなどどうでもよく、了平はスポーツ刈りか丸坊主にすべきだと主張するし、山本も適当で良いんじゃないかという。獄寺は自分からすすんで手を挙げたのだが、やらせてみると乱暴に扱って来るので頭皮を引っ張られる綱吉は痛くてたまらない。ランボもやりたがるものの、彼は基本的に不器用だから寝癖よりももっと酷い頭にされてしまった事も。
 結局、消去法でも雲雀しか残らなかったのだ。
「良い迷惑だよ、まったく」
 ぶつぶつと小言をこぼしながらも、雲雀の手は休むことなく綱吉の髪を弄っている。鏡の中の自分を確かめもせず、完全に彼を信頼して任せっきりの綱吉は、楽チンだと鼻歌交じりに、冷め気味の紅茶でクッキーを胃に流し込んだ。
 だから雲雀が、綱吉の髪をどんな風に弄っているのかまでまったく気づかない。
「今日の予定は?」
「えーっと、……確か誰かが主催の昼食会への出席と、どこかの工場視察が午後から」
「なにそれ」
「だって、ここの人たちの名前とか地名、長くて覚えていられないんですよー」
 呆れた、と嘆息する雲雀に振り返って言い訳を試みるが、髪の毛を弄っている最中に首の向きを変えるな、と頭を先に押さえられてしまった。やや前かがみになり、鏡の中に自分が映る。
 色白で、随分と大人びた顔になってはいるものの、アジア人特有の童顔のお陰でこの地では未だに、未成年ではないかと揶揄されてしまう。だから少しでも年かさに見えるようにしたいのに、上手くいかない。
「いい加減、覚えた方がいい。見た目よりも、中身が大人にならないままじゃ意味ないよ」
 雲雀も綱吉のそういう思いを知っているからこそ、手厳しく忠言を繰り出す。櫛を右手に、左手で長い後ろ髪を支えて、跳ねている部分を丁寧に伸ばして。毎朝繰り返される、平穏な日常の光景だ。
「分かってますよー、それくらい」
 唇を尖らせ、綱吉は手を伸ばしクッキーをつまむ。唇で挟んで軽く力を加えると、柔らかなそれは香ばしい香りを残し半分に割れた。口の側に残った分を食み、紅茶で口の中を漱ぎながら飲み干す。後ろ髪を囚われているのであまり身体を動かせないのが辛いが、いつもならばあと数分もすれば終了するはず。
 視界の端でちらりと時計を見て、脚を揺らしながら残りのクッキーをかみ締める。
「分かってないから、言ってるんでしょ」
 ポン、と軽く頭を叩かれた。肩を竦め、綱吉は苦笑いをするほかない。
 そしてふと、思い出したことを口ずさむ。
「なんだか、髪結いの亭主みたいですね」
 綱吉の何気ないひとことに、それまで問題なく動いていた雲雀の手が、不意に止まった。しかし綱吉は気づかず、皿に残っていたクッキーへと手を伸ばす。紅茶を取ろうと前に身体を倒したところで、初めて後ろ髪の拘束が解かれているのに気づいた。
 怪訝に振り返る。雲雀の暗い瞳が、綱吉を見据えている。
 彼の手が、薄茶色の細い毛足に触れた。いとおしむように、手櫛で梳いて優しくなでる。
「じゃあ、僕が髪結いの女?」
 クツクツと喉の奥を鳴らして雲雀が言う。その声色が少しいつもと違って聞こえた気がして、綱吉は肩越しに振り返りながら首を傾がせた。
「君は、その映画を見た事があるの?」
「……ないです、けど……」
 昔、まだ彼らが日本にいた頃。
 よく通っていたレンタルビデオショップの洋画コーナーに並んでいたタイトルだ。特別特徴があったわけではないけれど、そこそこ目立つ位置におかれていたので、覚えていただけ。内容どころか、綱吉はタイトルだけしか知らない。
 たまたま、今の自分の環境がそのタイトルに見合っているなと、簡単に思っただけでしかない。
 しかし雲雀はある意味上機嫌で、そして少し不機嫌な顔をして綱吉を見ている。何が気に障ったのだろうか、困惑したまま彼はじっと、雲雀の目を見返す。
「じゃあ、その言葉の意味も知ってる?」
「え?」
 映画のタイトル以外に意味があるのだろうか。余計に分からなくなって、綱吉は口を真一文字に結び考え込む。雲雀が作業の手を休めてまで話題を繋いでくるのだから、それなりに深い意味はあるのだろうとは思う。しかし、想像がつかない。
 クッキーを摘んだままの姿勢で真剣に考え込み出した綱吉の頭を撫で、雲雀は身を屈めてそのクッキーに噛み付いた。隙だらけの綱吉はまたしても彼の接近に気づかず、最後の一枚の半分を雲雀に奪われてしまう。
 粉くずが綱吉の膝に散った、白い絹のパジャマに茶色い点が浮かびあがる。
「もう」
 人が考え事をしている時に茶化さないでくれと、既に背筋を伸ばして定位置に戻っていた雲雀を非難すると、彼は人差し指の腹で唇をぬぐった後、それを綱吉の唇に押し当ててきた。
 黙れ、のサイン。
「無闇に、よくも知らない単語は使わない方がいいよ」
 静かに指を引き離しながら、静かに告げられる彼の言葉は絶対だ。
 おとなしく頷いて返した綱吉に、雲雀は口角を僅かに持ち上げて不適に、それでいて意味深に笑む。
「素直な良い子には、ご褒美をあげないとね」
 再び彼は人差し指を己の唇に押し当てた。片目を閉じ、意地悪い表情を作って綱吉の髪を撫でる。そうして身を屈め、背後から綱吉の首下に顔を寄せる。耳たぶに雲雀の熱い吐息が触れた。
 思わず身震いしてしまう。緊張で唾を飲み下していると、肩口の雲雀が小さく笑った。
 耳たぶを軽く、啄ばまれる。
「髪結いの亭主っていうのは、ね」
 仕事をしないで妻の収入で生活している、だらしない男のこと、と。
 笑いを押し殺している雲雀の声に、綱吉は瞬間、顔が真っ赤に染まった。
 先ほど雲雀は、自分の事を「髪結いの女」だと称した。だからこの場合、その女房に養われている男が綱吉ということになる。養われてこそいないが雲雀に守られ、過保護なまでに愛されているという自覚がある故に、いたたまれないくらいに恥かしさで頭の先から湯気が出そうだ。
 だらしないとはあまり思いたくないが、現に毎朝雲雀に髪を梳いてもらっている。これはある意味、やはり、だらしない男なのか。
 がっくりとしな垂れていると、今度は耳を舐められた。くすぐったさに身を捩るが、動きすぎると椅子から落ちてしまう。限りがある範囲で逃げようともがいていたら、椅子の背もたれごと後ろから抱きしめられた。
 胸の前で雲雀の両手が交錯し、脇を抑えられる。最初から逃げるつもりはなかったから大人しく拘束されていると、不意に、雲雀が額を肩に押し付けてきた。座っているからこそ明確に感じる彼の重みに、綱吉は数回瞬きし、動くに動けない身体で視界の隅にある雲雀の黒髪を見る。
 顔が見えないのが、どうにも悲しい。
「綱吉は、映画、見ていないんだよね」
「はい……」
 ややくぐもった、低い声に胸がどきりと鳴った。
 雲雀の声が好きだ。不機嫌にしている時は怖いけれどそうでない彼はとても好きだ。声を立てて笑う姿はほとんど見られないけれど、時折とても優しい顔で笑いかけてくれると嬉しくなる。
 群れるのを嫌っていながら、なんだかんだと文句を言いながらも、綱吉が傍に居て欲しい時には常に隣に居てくれる。
 誰よりも強く、気高く誇り高く、そして綱吉を大事にしてくれている。
 そんな彼が、綱吉は好きだ。
「そう」
 古い映画だ。フランスの、物悲しくも美しい恋愛映画。
 幼い日に髪結いの女にときめいた事から、この職業の女を妻にすると決めた男と、そんな男に見初められた女の物語。
 男は深く妻を愛し、妻もまた深く男を愛した。
 けれど、最後は。
 最期は。
「僕のこと好き?」
 唐突に、問われる。
 問うた雲雀は相変わらず綱吉の肩口に額を押し当てたままだ。触れ合う場所は多く、彼の体温を十分に感じられるのに視線が絡まない状況が不満で、綱吉は問いかけにすぐに答えなかった。
 雲雀はいつだって綱吉に意地悪だから、少しくらいは意趣返しをしても罰は当たらないと思う。けれど次に発せられた雲雀の声は、どこか彼らしくなく、不安に揺れていた。
「きらい?」
 そんなことを聞かれたのは初めて、で。
 綱吉は思わず、大きく目を見開いて、それから雲雀を振り返ろうとして自分が両腕ごとしっかりと彼に抱きすくめられているのを思い出す。気づかずに振り解いてしまえばよかったのに、あんなに気弱な声を聞いてしまっては、不用意に動けない。
 半端に身体をひねった体勢で固まってしまい、瞬きをするのさえ忘れた綱吉は、どう返事をして良いのか分からずに唇を開閉して、やがて口の中が乾いて完全に閉ざしてしまった。
 好きか嫌いかを聞かれれば、答えは決まっている。
 だけれど今の今、それを聞かれなければならない理由が分からない。
「……きらいではない、です」
 唾を飲み込む音が耳にうるさく張り付く。落ち着かない心臓と、乾きっぱなしの咥内に辟易しながら、ようやく綱吉はそれだけを答えた。
「そう」
 対する雲雀の返答は、いつものことなのだが淡白で素っ気無く、綱吉の心をざわざわと掻き立てる。穏やかだった水面が風に払われゆっくりと波を大きくしながら波紋を広げていくのに、似ている。
 雲雀の感情が篭らない声が、綱吉を不安にさせるのだ。
「雲雀さんは、俺のこと……きらいですか」
「どうして?」
「だって、雲雀さんが聞くから……」
 首の向きを定位置に戻す。俯くと雲雀の腕と膝に乗る自分の手が見えた。気づかないうちに拳を作っていて、手のひらがしっとりと汗で濡れていた。
 緊張しているのだ。
「きらいじゃないよ」
「じゃあ、どうしてそんな事聞くんですか」
 とても今更で、とてもとても無意味な質問を。
 背後で雲雀の気配が少し薄まる。綱吉にのしかかっていた体重が減少した。遠ざかる体温に引きずられるように、顔を上げる。真上を向くと、雲雀の顔が逆光の中に見えた。
 目を閉じる。逆向きに重ねられた唇は、一瞬で離れていく。名残惜しくて、このまま雲雀が遠くへ行ってしまいそうで、綱吉は腕を伸ばし彼の首を捕らえた。自分の姿勢が苦しくなるのも構わず、椅子に座ったまま雲雀を引き寄せて真後ろに立つ彼にキスを強請る。
 彼は、少し笑ったようだった。
「甘えん坊」
「雲雀さんが変なこと言うからでしょ」
 絡んだ唾液が冷たく跳ねて鼻の頭を掠める。僅かに呼吸を乱していると、頭をくしゃりと撫でられた。雲雀の冷たい指が、柔らかい綱吉の髪を静かにかき回す。
 その細い糸が一本ずつ雲雀に絡みつく、まるで彼を逃さない罠のように。
「人の心は、変わるよ」
 淡々と語る雲雀の声は穏やかで、顔を赤くしたまままだ少し辛そうに息を吐いている綱吉にとっては若干恨めしい。言われた内容に気づいたのはその後で、不穏な空気に眉根を寄せる。
 振り返った先、雲雀の表情は綱吉には読み取れない。
「……」
「綱吉も、僕も、ね」
「変わりません」
 先を続けようとする雲雀を遮り、綱吉はきっぱりと言い切った。
 瞳に迷いはなく、真っ直ぐに見据える力は底知れぬ闇を払う光を湛えている。どれだけの恐怖に打ち震えようとも、どれほどの強敵に合間見えようとも、決して諦めず投げ出さず、救いの手を差し伸べてやまない彼の優しさの源でもある、力強い瞳に。
 雲雀は僅かに肩をすくめ、はにかむように、笑った。
「本当に?」
「本当です」
 俺も、雲雀さんも、きっと、きっと気持ちは、心は、揺るがない。迷わない。狂わない。変わらない。
 今みたいに時には乱れてしまうこともあるだろうけれど、綱吉は自信を持って、断言できる。雲雀は泣き笑いに近い調子で表情を崩し、黒い髪を掻き揚げた。
「その根拠のない自信が、うらやましいよ」
「でも、うそじゃないですから」
 変わらない、変えたくない、変えないで。一度でも疑ったり、少しでも迷ったりしてしまうと、途端に答えは手元をすり抜けて水底に沈んでしまう。だから綱吉は、迷わないし、疑わない。
 信じている。
 最後まで信じている。
 この十年、変わらなかった想いをそう簡単に否定してしまいたくもない。
「……まったく」
 首を弱く振って、雲雀は額に手を置いたまま呆れたように笑った。
「なら、前言撤回して欲しいな。髪結いの亭主も、女房も、どこにも居ないって」
 綱吉がそういうのならば信じると、常に綱吉の心を震わせる低い声で告げ、雲雀は彼の首に両腕を絡ませた。右の耳たぶに甘いキスを落とし、猫がやるように頬を押し当てて擦り寄る。
「いませんよ、どこにも」
「なら、いい」
 薄く笑って、それから。
 ありがとうと、囁く声は綱吉の耳にも届かず、彼ひとりの心の中にしまわれる。
 髪結いの女は、何故信じてあげなかったのだろう。こんなにも呆気ないまでに、簡単で、単純で、優しい答えを、どうして自分から手放して暗い水底に捨ててしまったのだろう。
 雲雀にはその気持ちが分からない。分かりたくもなくて、だから綱吉に否定させた。
 信じられる、信じる。君の想いは永遠に変わらない。そして、自分の心もまた。
 永久にともにあると。
「綱吉」
「なんですか?」
「……なんでもないよ」
 静かに雲雀は離れて行き、彼を見上げようとした綱吉がふと、時計の文字盤が示す現在時刻に気づく。一瞬にして顔が青ざめ、気づいた雲雀もまた、「おやまぁ」と大げさなまでに肩を竦めてみせた。
 明らかに、八時を回っている。とっくの昔に通り過ぎて、行き過ぎてしまっているくらいだ。
「やばい、どうしよう!」
「もうサボっちゃえば?」
「そんな事できるわけないじゃないですか!」
 必死になりすぎてつい怒鳴り声をあげながら、綱吉はばたばたと椅子から立ち上がってクローゼットに向かう。置き去りにされた雲雀はというと、嘆息しながら大慌てで着替えの準備をしている綱吉を見守るばかりだ。
 腕をゆるく胸の前で組み、右手を顎にやって、ふむ、と頷く。
 果たして彼は、いつ気づくだろう。
「じゃあ僕は戻るよ」
 茶器を片付けて盆に載せ、ヘアメイクの道具一式は部屋の決められた位置に戻し雲雀が言った。短い返事と、有難う御座いましたという礼のことばに、黙って笑いを押し殺し、雲雀は盆を持って歩き出す。
 クローゼットから手頃なシャツを引っ張り出して来てパジャマを脱ぎ捨て、ボタンが掛け違いにならぬよう注意しつつも急ぎ気味に着替えをしていた綱吉は、全身が映る大きな鏡越しに、肩を小刻みに震わせて笑いをこらえている雲雀に気付いた。何かおかしかっただろうか、と振り返ろうとして。
 視界の端を飛び跳ねた、己の後ろ髪に、目を見張る。
「…………」
 まずは、絶句。
 それから。
「ひばりさ~~~~~~んっ!?」
 片手で扉を開けた男の背中に向かって、届くわけもないのに、綱吉は髪を結んでいた薄茶色のゴムを外して放り投げる。その瞬間、きれいに三つ編みにされていた後ろ髪が毛先から解けて広がった。
「残念。よく似合ってたのに」
 そんな台詞を残し、彼は部屋を出て行った。
 それはそれは、この十年間、数える程しか見たこともない上機嫌な顔をして。

Window

 風が吹いていた。
「……?」
 自室へ戻ろうと、暖かな湯気を放つマグカップを手に歩いていたユーリはふと、前髪を揺らす空気の動きに気づいて目を細めた。
 思わず足を止めて上目遣いに細い銀の髪が揺れる様を眺めてしまう。どこから流れ込んできているのか、春先を表す涼しいけれど心地よい風に、軽く首を傾げる。マグカップから漂う白い湯気もまた、煽られて左右にゆらゆらと揺れ幅を広くさせていた。
 上から、ではない。近くもないが、そう遠い場所でもなさそうだ。両側を壁に遮られ、右側に等間隔で並ぶ古めかしい木の扉は、見る限りでは全て綺麗に閉まっているように見受けられる。ただ奥へ行くほど、今ユーリが立っているホールの螺旋階段に近い位置からでは薄暗く、果てが無いような印章を抱かせる。
 自分が長年、それこそ人が聞けば気が遠くなるであろう時を過ごして来た自分の城でありながら、昼間でもなお暗く闇の翼を広げている空間は、ふと何かの拍子に意識の端に思い浮かべてしまうと背筋がぞっと凍りつきそうになる。
 彼は首を振った。この先は奈落の底ではない、二度とは戻れぬ罪人の堕ちる地獄の坩堝とは違う。
 少しだけ風が止む。ユーリは手にしていたマグカップを持ち上げて、中のカフェ・オレに唇を浸した。飲み込む必要があるほどは口に含まず、乾いてしまった咥内に水分を呼び込む程度にカップを緩い角度で傾ける。
 ほっと息が漏れた。
 落ち着いてから廊下を見ると、目が慣れたお陰もあるだろう。廊下は先程感じたような禍々しさを失い、毎日自分が見て、通過する場所に戻っている。目を凝らせば、薄明かりの中でひとつだけ他と違い、半分ほど開け放たれた扉があった。
 恐らく風は、そこから流れてきているのだろう。
 また風が吹く。
 あんな部屋の窓を開けた覚えはない。扉を開け放ったままにしておいた記憶もない。犯人は自分でないことだけ確認し直して、ユーリは胸元のマグカップを見下ろした。今度こそちゃんと、喉を上下させてしっかりと中身を胃に流し込む。カップの上辺ぎりぎりまで満たされていたカフェ・オレを半分程度に減らして、漸くとめた足を再稼動させた。
 居住空間の廊下を埋める赤い絨毯は道の途中で切れてしまった。つまりはそこから先は普段使用頻度が少なく、あまり出向かない場所ということになる。城主でさえ滅多に足を向けない場所、そんな部屋の扉が勝手に開くわけがない。
「誰かいるのか?」
 古びた真鍮のノブを引き、中に向かって声を放つ。けれど返答は無く、代わりに開け放たれたドア真正面にある窓から入ってきた風が盛大にユーリを歓迎してくれた。長く洗濯されていないらしいやや黄ばんだ感じのある草臥れたカーテンが、踊り子のように右へ左へ裾をはためかせている。
 それは書庫へ続く書斎。窓辺に置かれた机には、古い革表紙の本が数冊平積み。一冊自体がかなりの分厚さをしているので、ユーリの肘くらいの高さになっているものの、実際にそこにあるのはたったの三冊でしかない。
 その隣に、広げられた古書。風が吹くたびにページが煽られ、こんな状況になる以前に広げられていたであろうページはとっくに忘れ去られた後だ。黒い万年筆も、机の縁ぎりぎりの箇所で辛うじて引っかかり停止している。あと数回風を浴びれば、間違いなく床に落ちるだろう。
 窓は東側に向いているので直接日光は入ってきていない。だが明るい日差しは室内を無灯火でも十分な空間を生み出しており、ユーリの目にはしっかりと中の状況が理解できた。
 広い背凭れを持つ、色合いも古めかしい年代物の椅子に腰掛けている部屋の利用者は、座り心地もさほど宜しくないだろうに、硬い木の座に身体を預け居眠りに勤しんでいた。まだ意識があった頃には万年筆を握っていたであろう左手が、肘置きの外側にはみ出ている。やや右に傾いでいる身体は、きっと肘置きがついていない椅子であったならとっくに床の上に転がり落ちていたに違いない。
 思っているうちに、机にあった万年筆が床に沈んだ。跳ねもせず、僅かに落下地点より壁側に転がってとまったらしい。机の影に入ってしまってユーリの現在地からは見えなくなった。
 部屋は適度に暖かく、吹き込む風も心地よい。遠くからどこかの教会の鐘の音が聞こえる。こんな日はホワイトランドからの音も響いて来ていそうだ。
「やれやれ」
 全く起きる気配のない椅子の主を後ろから眺め、腰に手をやったユーリは呆れ顔で肩をすくめた。
「風邪を引いても知らんぞ」
 ひとりごちるが、無論相槌や合いの手を返してくれる存在は無い。
 そういえば朝見かけたとき少し眠そうにしていたな。また夜遅くまでテレビでも見ていたのだろう、仕方の無い奴だ。そんな風に頭の中で考えつつ、ユーリは三歩前に進み出た。手を伸ばせば椅子に届く距離で、一度止まる。
 マグカップを壁に並ぶ背の低い棚の、開いている隙間に押し込む形で置いた。埃が薄く積もっている、今度大掃除でもさせよう。
「スマイル」
 空色の髪の青年は、呼び声にも反応しない。ちょっとでもバランスが崩れたら床に激突という危うい体勢のまま、しっかりと眠りこけている。起きた時どこかの関節が痛んでいやしないだろうか。
 熟睡しているのを表すかのように、時々首が外れそうなくらい身体が前方に傾き、けれど寸前で勢いよく戻るを繰り返す。眺めていて特に面白いわけでもないが、退屈もしない動き方だった。ジェンガを思い出させるスリルさがある。
 マグカップからはもう湯気は立っていない。すっかり冷めてしまったものを今更飲もうともさして思わず、白い陶器の縁に残る自分の唇の跡をなんとはなしに見下ろした。
 風が吹き、前髪がさらわれる。
 ああ、この場所は昼寝をするには確かにもってこいの場所かもしれない。誰も来ないし、静かで、暖かく、心地よい。もうひとつ椅子を持ってこさせよう、そのうちに。
 どこに片付けたかどこかの部屋に、年代物のロッキングチェアがあった筈だ。長く使っていないので痛んでいるかもしれないが、手入れをさせて日干しをして、この部屋に運ぼう。うん、我ながら良いアイデアだ。
 浮き上がって踊る髪を右手で抑え、ユーリは寝入る背中へ視線を戻す。丁度スマイルの身体がカクン、と右に小さく崩れたところで、肘置きにだんだん頭が接近している。だのに右腕は肘置き内側にあるままだから、かなり窮屈そうだ。
 それでも目を覚まさないところが、彼らしいというか、馬鹿と言おうか。
 寝不足ならばこんな場所で読書に勤しまず、部屋に戻ってベッドに倒れこんでおけばいいのに。そうすれば目覚めた直後の筋肉痛と関節痛に悩まされる必要もないし、風邪を引く確率も格段に下がるだろうに。
「スマイル、起きろ」
 起きないと襲うぞ。
 普段口にする事の無い台詞を考え無しに言ってみる。
 反応なし。
 少しムカッと来た。
「本当に襲うぞ」
 いつも散々好き勝手してくれているお返しをしてやろうか。底意地の悪い笑みを浮かべ、ユーリが重ねて言う。
 反応無し。
 かなりムッと来た。
「後で泣き言を言っても聞かないからな」
 距離を詰めて胸を反らし、少々声高に威圧的を装って言った。
 反応ナッシング。
 ぷちん、と理性の箍と言おうか、何かが切れる音がした。
 そこまで自分を無視するとはいい度胸。寝ている相手に向かってそこまで怒る必要性がどこにあるのかと言われたら反論も出来ないが、今のユーリにはそんな冷静な判断をするだけの余裕もなかった。
 もともと我が強く自己主張激しいユーリである、他人に無視され続けるのは我慢ならない。たとえ、眠っている相手であろうと、なかろうと。とにかく自分がせっかく声をかけてやっているのに起きない奴が悪い、そんな考え。
 横暴だといわれそうだが、本人は気にしない。兎にも角にも、スマイルが目を覚まさないのがひたすら腹立たしい。
「……警告はしたからな」
 密やかに囁き、ユーリの口角が片方だけ緩やかに持ち上がった。忍び寄って距離を詰め、スースーと寝息を立てているスマイルの右斜め横に移動する。
 吹き込む風が背中を、そしてうなじの周辺を撫でた。やや長くなってきている後ろ髪の先が首筋をくすぐり、どことなくくすぐったい。
 ユーリは息を潜め、スマイルの無防備に晒されている首筋に顔を寄せる。目の前に彼の、濃い空色の髪の毛が広がった。
 薄く唇を開き、鋭利に尖った牙を露に。けれどその先端が皮膚を突き破り熱く滴る血液に到達する事は無かった。代わりに、髪の隙間から覗く白い耳たぶに淡く牙を立てる。
「いっ……」
「狸寝入りも程ほどにしろ」
 呻くようにもらされた声は、寝起きのそれとは異なって明らかに意思が通っている、意識もはっきりしていると分かる声色だった。噛んだ箇所を舌で軽く撫で、ユーリはじろりと横目でスマイルを睨む。開かれた隻眼は、しっかりとユーリを捕らえ、見つめ返していた。
「ばれてたか」
「気づかぬわけがなかろう」
 あんなにもわざとらしく、眠っていると装って椅子から落ちかける演技をしていて。普通そこで意識が無ければ、とっくに床の上で転がっていたはずだ。僅かに腕にこめられた力による筋肉の動きを服の上からでも察して、とっくにスマイルが目を覚ましていることなど知っていたと言う。
 少しだけ、本当に寝ているのかと思ったのは内緒だが。
「ちぇ、もう少しだったと思ったのに」
 いったい何を期待していたのか、頭をかいたスマイルは肘置きにやった腕に力を預け、斜めになっていた身体を垂直に戻した。頭がぶつかりそうになった為、ユーリもまた身体を退いて避ける。生ぬるい風が、開いた窓から流れこんで二人を包んだ。
 春の匂いが、した。
 一瞬の間ユーリは言葉も無くその場で立ち尽くし、スマイルもまたどこか呆然としたまま椅子の上でユーリを見上げる。
 果たして先に腕を伸ばしたのはどちらだったのか。
 濃い影が床に落ちる。ユーリのつま先が蹴ったらしい万年筆が転がり、更に机の下奥へと姿を隠した。
「目は覚めたのか」
「そりゃ……誰かさんの目覚めのキスがあれば完璧だったんだケド」
 茶化すように笑う男の上に、銀の雨が降る。
 驚きに見開かれた右の瞳はやがてゆっくりと微笑みに変わり、そして静かに閉ざされた。
 二人分の体重を受け、古びた椅子が軋みをあげる。穏やかに風が吹いた。
「完璧か?」
 ふっと合間に息を漏らし、ユーリが尋ねる。
「デスネ」
 口を真横に引いて、スマイルは楽しげに笑った。

waiting

 締め切り前の気晴らしという口実で出かけた市街地。
 雑多に色々なものが交じり合い、原型の分からない色で溢れかえっている空間を遠巻きに眺めてみる。
 本屋には行ったし、レコードショップにも行った。目当てのものは本屋だと二件目で発見、レコードは結局入荷待ち状態で手に入らず。
 城に戻っても仕事の山がドンと待ち構えているだけだから、正直すぐ戻る気になれない。ぼーっと目の前を通り過ぎていく人の波を、通りに面した喫茶店の窓側席から眺めて時間をつぶしていた。
 携帯電話が震えたのは、そんな最中。
 ポケットからの振動に数秒遅れてのろのろと腕を動かし、取り出す。既に振動は止んでいて、二つ折りの表面に埋め込まれた小さな液晶画面がつい今しがた、メールが届いたと示すランプがゆっくりとした速度で点滅していた。
「……?」
 誰だろう。電話の着信ではないので送り主の名前まで表示されない。無視を決め込もうかと思ったが、気づいてしまったものを放置するのもやや気持ちが悪いため、いかにも仕方ないと言わんばかりの態度を表面に出すことで自分に言い訳し、携帯電話を開く。
 大き目の液晶パネルに、新着メールがあると告げるマークと文字。対応するボタンを左の親指でおすと、アニメーションが展開されてメール画面が開かれた。
 自動的に最新の着信メールが表示される。ユーリからだ。
 珍しい。思わず視力を残している右目をサングラスの奥で見開く。文面は、彼らしくとても簡潔に、スクロールする必要も全くなかった。
 ただ『今どこにいる』とだけ。 電話をかけてくれば良いものを、その方がこちらも返信をする手間が省けるというのに。
 だが電話できない状況にあるのかもしれない。まさか誘拐されて、身代金を要求する電話を城に入れている犯人の後ろで、手を縛られた状態で監禁されているわけでもなかろうが。
 そんな事をすれば、まず犯人の命が危ないなと、想像上だけの誘拐犯に少しだけ同情しつつ、テーブルに肘をついて現在地を端的に告げる文面を打ち込んだ。駅の名前と同一の町の総称だけを記入したメールを送信し、じきに返事が来るだろうから携帯電話も畳まず、窓辺に置く。
 ウェイトレスが半分も減っていない冷水の補充にやってきたのでやんわりと断っている間に、二通目のメール着信を知らせる振動がテーブルの上で響いた。ポケットの中に入れていた時とは違い、白い化粧材の上で身悶えする騒音が周囲に良い迷惑なのですぐ取り上げる。
 残念そうにウェイトレスが戻っていく背中を見送り、早速文面を開き見た。
『丁度良い、今から行く。どこにいる』
 これには、おや、と思った。
 ということはユーリも出先なのだろうか。しかし用件を告げずにどこにいるのかだけを聞いてくるその真意が読み取れない。何か直接の用があれば電話をしてくるだろうし、出かける時ユーリは何もいっていなかった。
 どうしたのだろう。今まで城の外で待ち合わせをするなど殆どなかったのに。
「めずらし」
 呟きつつ、再び肘をついて返信画面を呼び起こした。だが最初の一文字を打ち込もうとして、ふと手が止まる。
「ふむ……」
 考え込んで、開いている右手が自然と顎を撫でていた。立てた人差し指が顎と頬の境界線を数回神経質そうに叩く。色の濃いサングラス越しでは画面のバックライトがついていても消えていても大差なく、うーんと唸ってから一度携帯を閉じた。
 背面液晶パネルが数十秒点灯したあと、静かに沈黙した。
 空のコーヒーカップの縁を指で小突く。カタカタと音も立てずに揺れたあと、これもまた黙りこくった。
 それから約一分後、考えがまとまったのか再び携帯を広げ、素早く文面を打ち込んで返し、コーヒーの注文書と買ったばかりでまだ広げてもいない本の入った紙袋を手に、立ち上がる。それまで足元で遊んでいたロングコートの裾が動きに合わせ、大きく膨らんですっと真っ直ぐに形状を戻した。
「有難う御座いました」
 レジに向かう道すがら、店員からそう声がかかる。果たしてあちらは、こちらの正体に気づいているのだろうか。
 無理だろうな、と毛先までしっかり黒に染まった前髪を見上げ、小さく笑む。支払いを済ませて店を出たところで、三通目のメールが来た。
『今から行く。動くな』
 簡潔すぎる文面に、合流せねばならないかの理由を読み取る余地は無い。
「やれやれ」
 携帯電話で顎を叩き、動くなと言われてもな、とひとりごちる。
 密やかに、微笑みながら。

 ユーリを見つけるのは上手いと、我ながら思う。
 こんなことを言うと変な奴だと思われかねないから普段言うことは無いが、ユーリにはオーラというか、そういう独特の空気がある。輝いている、とも言えるだろうか。
 よく後光がさして見えたとか、彼女だけが世界から浮き出て見えたとかあるけれど、そういうのとは違うと思いつつ、同じなのかもしれないとも思う。とはいえ、ユーリが希少種のヴァンパイアだからという理由も無きにしも非ずで、結局分からない。ユーリだけを人ごみから見分けられるという程度だから、吸血鬼独特の匂いでもあるのかもしれない。
 今日もまた、待ち合わせに指定した場所に大勢の乗客の中から彼だけを見つけ出せた。
 これといった特徴があるいでたちではない。一応芸能人(人か?)である為、周囲に正体がばれないようにしなければならないから、テレビ画面に映る彼とはまるで別人を思わせる、目立たない服装をしていた。
 紺色のデニムジャケットに明るいパールホワイトのシャツ、ハンティング帽の下はこげ茶色のウィッグだ。瞳の色をごまかす為に、薄く色の入った眼鏡をかけている。やや緩めのカーゴパンツに、靴までは見えなかったがスニーカーか何かだろう。カチッとしたモノトーンカラーの服装が目立つ彼にしては、随分とカジュアルな選択だ。誰かに着させられたのかもしれない。
 若者の町に自然と溶け込んでおり、注視しても彼がユーリだと、彼を知るものであってもすぐには分からない筈。そうでなければ変装の意味はないのだし。
 けれど自分には分かる。分かってしまう、理由も無いままに。
 ユーリは駅を出てすぐのバス乗り場とタクシー乗り場が併設されている箇所に出向き、周囲をきょろきょろと見回した。人通りも多いために立ち止まると肩をぶつけられたりして、嫌な顔をしつつ背伸び気味に周辺の様子を窺っていた。
 そのうちにファッションビルの近くまで人ごみに流されてしまい、急ぎ戻ってきてバス乗り場前の小さな待合公園に建てられた時計台を見上げる。自分の腕時計とも現在時刻を見比べて確認し、また誰かを探す素振りで視線をあてどなく漂わせる。
 誰を探しているかは分かりきっている。この場所を指定したのは自分だ。
 待ち合わせをしてユーリの所在に気づいておきながら、こちらから声をかけないのは我ながら悪趣味だと思うが、普段どうやって彼が自分を見つけ出しているのかにも興味がある。これで見つけてもらえなかったら、それこそ悲しいを通り越して辛いが。
 遠巻きに彼を眺める。時折人の流れに邪魔されて姿が見えなくなる事もあったが、ユーリも待ち合わせ場所を確認しながら何度か時計、それから携帯電話を眺める。程なくしてポケットから緩い振動を感じ取り、広げてみると案の定彼からのメッセージだった。
『どこにいる』
 簡素すぎる文面は、急いでいるからなのか。
 返事として、約束した場所にいることを書き記し、送信ボタンを押す。一分もしないうちに着信を感じ取ったユーリが文章を読んだらしく、慌てて顔を上げて周りを見るが、こちらの存在に気づく様子は無い。
 姿を消しているわけではない、ちゃんと見えるようにしている。
「鈍いなぁ……」
 そんなに分からない格好をしているつもりはないのに、ここまで気づいてもらえないのはやはり傷つきそうだ。しかしここで立ち上がって彼に手を振るのも、何に、かは分からないが負けたような気がするので我慢する。
 早く気づいて欲しい、ユーリの方から。
 ぼくはここにいる、そう心の中で強く願う。この思いが彼に伝わればいいのに。沈黙した携帯電話を右手に握りしめ、静かに祈るように隻眼を閉じた。
 町の雑踏は遠のき、闇が落ちてくる。黒いロングコートに黒のレザーパンツ、黒い手袋と瞳を隠す強い色のサングラス。SPか何かを思わせるいかつい出で立ちでありながら、背景に溶け込んでいる為か周囲の人々はあまり意に介す様子がない。ここはごちゃ混ぜの町、異文化が雑多に展開し、それぞれの特色を打ち出しながらも他と融合し、独特の進化を遂げた場所。
 カジュアルの中にクラシックが潜み、黒の中に白が広がる。
 誰も誰かに気づかない。そういう場所にいる自分を、彼は果たして、見つけ出せるだろうか。
「趣味悪いな」
 ひとり自虐的に笑い、脚を組みかえる。地面に落ちる側のつま先が投げ捨てられた空き缶に当たった。
 中身を失い、また行き場も定まらない空き缶が音も無くコンクリートの上を滑っていく。自転しながらも、どこへ行けばいいのか分からない動きはふらふらしていて、先程のユーリを思い出させた。
 と、その缶が誰かの足に当たって急に止まった。行く末を見守っていた視線が、自然壁となった足の持ち主へと移動する。
 細い華奢な脚、パールホワイトのシャツ、紺色のジャケット。見慣れない黒の髪、それを押さえ込むハンティング帽。
「あちゃ」
 思わずしまった、という顔になってしまった。呟き声も聞こえたらしく、目の前のユーリはいかにもご立腹という表情で胸をそらし腕を組み、仁王立ちしていた。背後から怒りのオーラが真っ赤に燃えているように見える。
「あー、えーっと……」
「待たせてすまなかったな。なかなか、誰かが見つからなくて随分と探させてもらった」
 ああ、これは怒っている。完全に、完膚なまでに怒っている。思わず手で顔を覆い肩を落として俯いてしまうほどに、ユーリの怒りの表情は直視するにはきつすぎる。
「いえ、その、なんていうか」
「まさかこんなに奥の見つけにくい場所にいるとは思わなかった。すまなかったな、長いこと……人を見ていて楽しかったか?」
 しかも自分を探しているユーリを遠くから観察していた行動までしっかり読まれている。確かにこのタクシー乗り場奥にあるビルの谷間の花壇前は、待ち合わせの場所にしていた範囲のぎりぎり中に入っているけれど、肝心の広場からはかなり見えにくく、また此処からだと広場の動きがつぶさに見て取れた。
「いえー、だから、あの……」
 ゴメンナサイ。
 素直に頭を下げて謝る。両手の平を合わせて謝罪のポーズを形作る。
 腰に手をやったユーリはふん、と鼻を鳴らし、にやりと笑った。
「そうだな、待たせてしまった償いとしてお前には一緒に来る権利を与えてやろう。喜べ」
 最初からどこかに連れ出そうとして自分を呼んだのに、ユーリは言い方を換えて断れないように逃げ道をふさいだ。しかも表情から、あまり自分にとっては喜ばしくない場所へ連れて行かれるのだと感じ取れる。背筋に冷や汗が流れた。
「喜べ?」
「……ハイ」
 俯いて小声で返事をする。しっかり聞き取ったユーリはひときわ満足そうな顔をして笑った。
 
 結局、ユーリが何故呼んだのかの理由に関しては、出向いた先で直ぐに分かった。
 彼お気に入りのショップでは、最新モデルが多数並んでおり、その荷物持ち。
 一軒だけなら良かったものの、それが三軒、四軒と続き、帰りこそタクシーを拾ったが、その間もずっと、大量の紙袋は膝の上、腕の中。
 満足げな表情で座席に揺られるユーリの横顔を眺めながら、疲れたと深い溜息。
 けれど、嫌な気分ではなかった。むしろ……
「なんだ、気持ちの悪い」
 少し嬉しそうに笑っている、見た目こわもてファッション自分に、ユーリが呆れた声で言った。
「べつに~?」
 言葉とは裏腹に、思い出して笑みが漏れた。
 
 だって、ユーリは。
 見つけてくれたから。

on the road

「なんていうか、さ」
「ぅん?」
 突然、彼は足を止めて爪先を茶色いブロックで覆われたの地面に押し付けた。ぐりぐりと足首をねじり回し、俯いて先に呟いた言葉から先を続けない。まるでいじけているみたいだ。
 彼が立ち止まったのに気づくのに一秒半ほど遅れたから、自分との距離は二メートル離れてしまっている。彼が声を発しなければ、きっとこのまま歩き続けていただろう。現に右足が半端にでかかった状態で止まっている。流石にそのポーズで、しかも首から上を後ろに振り向けた状態で立ち続けるのは骨だから、さっさと足を戻して身体ごと彼に
向き直ったが。
「どうしたのさ」
 首を傾げつつ、問いかける。先程まで後方にいて、今は自分の目の前にいる青年は、言いたいことを表現することばがうまく見つからないのか、困ったように視線を地面にさ迷わせていた。
 傾げていた首を戻す。
「何もないなら、先行くよ」
「そう!」
 暫く待ってみたが、彼からまともに意味がつかめる声は返ってこない。こうしている間も貴重な時間は刻々と流れていく、予定を思い出し、言った。
 途端、凄い勢いで顔を上げた彼が大声を張り上げた。
 頭突きされるわけでもないのに、勢いに負けて身体が反射的に仰け反って足が半歩下がる。しかし彼はこちらの動揺などまったく意に介する様子なく、両拳を握りしめて肩を怒らせ上下に何度も動かす。
「そう、まさしくそれに他ならない!」
「はぁ?」
 意味が分からない。
 彼のことばが意味不明なのは今に始まったことではないので特に気にしないが、状況と、
恐らく彼が「それ」として指し示しているだろう自分が発した言葉とが噛み合わない。
 眉間に皺を寄せて怪訝にしていたら、彼もまた言葉足らずなのに気づいたらしい。姿勢を戻してコホン、と咳払いをする。気まずいらしい。次の声は幾分音が小さかった。
「いや、だからさ……なんていうか。なんで俺達、歩いてんの?」
「なんでって」
 そういわれても困るのだが。
 ここに地面があり、道がある。道の先に目的地がある。目的地に到達するためには進まなければならない。進むためには歩くしかない。故に自分達は歩いている。
 他に理由などあっただろうか?
 順番に反論のしようがない意見を述べてやると、彼は拗ねた顔で頬を膨らませる。そうやって「かわいい」と言われる年代など、とっくの昔にあっさりと通り過ぎただろうに。
 無意識に溜息が漏れた。
「じゃあ、何」
 明らかにこちらの意見は筋違いだという顔をして睨んでくるので、話が続かないし、先を進むことも出来ない。仕方なしにこちらから折れた態度を示して聞き返す。
「いや、だからなんで俺達、歩いて進んでんの?」
「君が」
 道はなだらかな斜面。左側を向けば雄大な海がどんと構えており、その少し手前に灰色に汚れたガードレール。片側一車線、合計二車線の道路の中央には上り下りを区別する白いラインが見える。黒っぽいアスファルトから十五センチほどの段差を経て、今自分達が立っているのは歩行者専用道路。
 街道沿いに設けられた遊歩道は、最近整備し直されたばかりのようで、まだ綺麗な茶色のブロックが隙間なく、丁寧に並べられていた。等間隔で植えられている樹木はまだ細く若いが、新緑が目立ち目にまぶしく、美しい。
 交通量はそう多くなく、すれ違う人の姿は殆ど見られない。郊外へ向かう道路を時々速度超過
の車が走り抜けていったりするが、これといって目立つものもない、隣町へ続く平凡な道路。
 目的地はこの坂を上りきった先。都市部からあふれ出した人々の為に山の斜面を切り崩して作られた新興住宅地がこの道の向こう側にあり、今日はその中にる公園で花見をやる予定。
 主催者は、彼――スギだ。
 必要な荷物は車持ちの参加者が積み込んで持ってきてくれる手筈だし、手弁当はもちろん歓迎。場所取りは、公園近くに住んでいる参加者が朝からビニールシート持参で構えてくれていて、出かける前に「場所確保OK」のメールも届いていた。
 開始は集まり次第だけれど、一応参加の目安として十一時と決めていた。
 時計を見る。もうあと十分もない。
「スギ、君が、公園前のバスを待つ時間が勿体無いって言ったんじゃなかったっけ?」
 日曜日の昼前である為にか、バスの運行本数は思っていた以上に少なかった。走ってみたのだけれど、丁度信号を待っている間に乗りたかったバスは行ってしまい、次の便は二十分後だった。
 ならば、次のバス停まで歩いた方が早いんじゃなかろうか。
 そう彼が言い出し、今に至る。
 ちなみに次のバス停に着く前に、脇の道路でバスが走っていくのを確認している。バス停とバス停の距離を甘く見てた。この道路は、丘の上の住宅地まで本当に、何もないのだ。
 何もないところで人は降りない。駅前から公園までたったバスで二駅なのに、間にあったのは海岸へ降りる為の細い階段がある場所で、そこにはかろうじて海水浴客相手が中心の民宿が何件かあったものの、バス待ちの人の姿はなかった。
「それは、どうだけど……」
 上り坂なだけに、歩くのもつらい。斜面が急でないからそれほどでもないだろう、自分達は若いのだ。歩き始める前に抱いていた根拠のない自信は既に崩れ去り、額と首筋には汗も浮かんでいる。
 そして、こうやっている間も時間は止まってくれない。
「主催者が遅刻って、格好悪いね」
 自分だけでもバスを待てば良かったか。己の付き合いの良さを今更に恨みつつ、言っても仕方のない事とあっさり諦める。
「そんなこと言うなよ~」
 情けない声を出して彼は肩を落とした。本人もバスを待てば良かったと思っているのだろう。これ以上責めるのもかわいそうか。
 再び溜息が漏れた。腰に手を当て、頭を掻く。今更どうこう言ったところで無駄なのは分かりきっているし、立ち止まり続けていたら遅刻が大遅刻になりかねない。後悔は後にして、今は一歩でも前に進むのを優先すべきだ。
「スギ、いくよ」
「レオ~」
「情けない声ださない」
 これが長年コンビを組む相方でなければ、さっさと見捨てて自分だけでも先に行っているだろうに。やはり自分は、付き合い良すぎるのだろうか。
 心の中でひっそり嘆いていると、坂道を登る車線の、下から大きな動くものが迫ってきていた。
 確認するまでもない。それはバスだ。特徴のない道を走るに相応しく、目立たない色で装飾されて壁面に少しだけ広告のペイントが施されている。高い位置にある窓から、数人の乗客の頭が見えた。
 ちらりと一瞬、見慣れた茶色い頭がふたつ、並んでいたような錯覚。
「あー」
 気のせいだろうと思おうとしていたのに、脇でスギが大声を出す。既に過ぎ去り、ゆるいカーブを曲がってじき見えなくなったバスのお尻を指差して、「リエサナコンビ!」
 その略し方はどうかと……
 こっちは情けなさに涙が出そうになっているのも知らず、スギは数歩前に飛び出して、悔しげに地団太を踏みバスに向かって罵声を上げる。正確にはバスに乗っていたかもしれない、ふたりの女性に向けて。本人を前にしたら到底言えそうにない言葉を投げつけ、握った拳を天に突きつけたあと、大きなスローイングで振り下ろした。
 ぜいぜいと肩で息をしている。疲れるだけなのだから、やらなければいいのに。
「さっきのバス停で待てば良かったのか」
 既に背後に見えない、海岸へ通じるバス停を思う。待ち時間で疲れた足を休ませるのも良策だったのに、途中まで歩いてきたのだから最後まで歩き通してみせるという変な意地が先にたったのが悪かった。
 じりじりと地上を焦がす太陽の光は、夏本番のものとは比べるまでもないが、暖かな日差しは確実に汗を促し、疲労を増幅させてくれる。
 プップー、と車のクラクションがしたのに直ぐに気づけなかったのも、太陽を恨めしげに見上げていた瞬間だったからだ。虚を突かれ、大仰に振り返ってしまう。後方から、速度を落としたオープンカーが近づいて来ていた。
 真っ赤な車体に、左ハンドル。歩道から遠い側の運転席に座って片手でハンドルを操っている姿に見覚えがあった。毛先だけ色が異なる金髪に、鋭角のサングラス。カーステレオからはテクノが流れ、キザに決めているけれどもそれを感じさせない雰囲気があった。
「よっ」
 停車こそしないがかなりの徐行運転で歩道に幅寄せたオープンカーの主が、薄い笑みを浮かべて左手をあげる。
「ショルキーさん」
 そういえばこの人にも声をかけたのだったか。茣蓙敷きの花見には似合わない派手な色使いのジャケットを難なく着こなしている彼をまじまじと見上げる。放っておいたら置いていかれるので、仕方なくのろのろ運転の車に合わせ、自分達も歩き出した。
 そして五歩も行かないところで、
「なぁ、どうせ行く先同じなんだから乗せてってくれよ!」
 スギが言った。言うと思った。
 後ろでこっそり溜息をついて呆れているこちらの気も知らず、スギはガードレール越しにショルキーさんに近づく。けれど返された言葉は実にそっけないものだった。
「悪いな。俺の助手席はレディー限定なのさ」
 そう言って、軽く手を振り彼はギアを替えてアクセルを踏み込んだ。エンジン音が鳴り響き、一瞬の暴風をその場に残して車は行ってしまった。
 あの人らしいといえば、らしいのだけれど。少しばかり淡い期待を、自分も抱いていたようで、これには少々落胆させられた。スギに至っては、地団駄踏み鳴らし悔しがっている。根に持ちそうだ。
「仕方ない、歩こう」
 とても人に聞かせられない罵詈雑言を吐き出しかねない勢いのスギの背中を撫でるように叩いて、止まっていた足を動かす作業に戻る。遅刻なのは明らかなので、これが大遅刻
にならないのを願うのみだ。幹事が到着しないから始められなかったというのを八方から言われるのも辛い。
 渋々といった感じでスギは頷き、重い足取りで坂道を登る。 街道沿いの坂道は、街路樹の影もまだ薄く、横から照りつける日差しに汗は止まらない。春先だというのに、日焼けしそうだ。長袖を着てきたが、首筋や背中に浮いた汗で張り付くシャツの感触が、たまらなく気持ち悪い。
 これ、乾いても汗臭いだろうな。それで周りに誰も寄ってこなかったら嫌だな。そんな事を考えていると、斜め後方から明るい、妙に元気な声が聞こえた。
「あっれー? お前ら何やってんだ?」
 見ての通り歩いているんです。そう言い返したくなったのをぐっとこらえ、足元ばかり見ていた目線を持ち上げる。ぜいぜい言ってハンドルにしがみつくような格好で、ペダルを必死に踏み込んでいる人の後ろに立つ空色の髪の若者が、楽しそうな顔をして風を浴びていた。
 背中に背負う大き目のリュックに、全体が収まりきらなかったらしい、巨大ぬいぐるみのようなものがやや苦悶の表情を浮かべつつ、頭だけをのぞかせている。ステップに立っ
ている彼は、そんな辛そうな前後の人と、宇宙人に全く構うことなく、追い越しざまに手を振ってくれた。
「おっさきー」
 とても横を見る余裕のないテンガロンハットの青年が、辛そうに息を吐いて太ももに力をこめるのが見て取れる。
 呆然と見送ってしまった自分達をのろのろ運転で追い抜いた自転車は、時折左右にふらつきながら坂道を這い蹲るようにして上っていった。
「あれは……乗せてくれとはいえないな」
「だね」
 マコトさん、哀れ。
 次第に小さくなっていく背中に、同情を覚えずにいられなかった。
 一気に疲れてしまった気がして、肩からも力が抜ける。だらんと両側にだらしなく腕をたらし、まるで乞食にでもなった気分で道を進む。目的地までもうちょっとだろうか、漸く終点が見え隠れし始めた。
 その頃には少し元気を取り戻していて、遠くを眺め、きらきら輝いている海に目をやる余裕も出始めた。
 住むにはいい環境だと思う、市街地にはちょっと遠いから、買い物は大変だろうけれど。
「レオー、俺らも車買おうぜー」
「君の運転じゃ乗りたくない」
 買う買わない以前の問題である。運転できないわけではないが、落ち着きがなくそそっかしいスギの運転は時々、とても心臓に悪い。
 それに、市街地の中にある公園に花見をするのに、車で大量に押しかけたら近所迷惑ではないか。駐車場もないのに。それを考えると、車で来るのは控えるように言っておいたのに、車で来たショルキーさんには罰として、帰りの助手席にはレディーでなくゴミ袋を乗せていってもらおう。意趣返しの思惑に、スギも賛成だと声高に叫んで頷く。なんだ、元気じゃないか。
 そうこうしている間に、公園の柵が見えるようになった。葉をいっぱいに茂らせている常緑樹の隙間から、薄紅色の桜がちらちらと目に入る。遠く、もう既に始めてしまっているのか、人の騒ぎ声も聞こえてきた。
「幹事形無しだな、俺ら」
「だね」
 桜の木々の下で各自持ち寄った料理や飲み物を振る舞い、おしゃべりに花を咲かせる。男女半々だろうか、二十人くらいの人の群れを公園入り口から眺め、腰に手を置いたスギがやや自嘲気味の口調で呟いた。汗を袖口で拭きつつ、相槌をうつ。
 中のひとりが、こちらに気づいて立ち上がり手を振る。呼応するように他の皆もこちらを振り返り、口々に、「なにやってんだ」「遅刻だぞ」「罰ゲームよろしく~」などと好き勝手言い放題。苦笑いのまま、スギと顔を見合わせてしまった。
「行くか」
「だね」
 お互い向き合ったまま、頷く。
「主役は遅れて現れるもんなんだよ!」
「誰が主役だ、誰がー」
 スギの大声にサイバーがジュース片手に大声で言い返し、どっと周囲から笑い声が溢れた。
 桜の花びらが舞う、光を受けてきらきらと輝いているように見える。
 幸せだな、と思いながらぼくもまた、人の輪に加わった。

ticktack

 カッチ、コッチ。
 カッチ、コッチ。
 規則正しく、駆け足になったりも、のろのろ運転になったりもしない。
 焦ることなく、迷うこともない。
 カッチ、コッチ、カッチ、コッチ。
 毎日、同じ時間をかけて同じ回数回り続ける。飽きもせず、嫌がりもせず。
 ああ、お前はなんて働き者なのだろう。どこぞの誰かを見習わせてやりたいと、心底思ってしまう。
 思って、まるでプログラムされた通りに動き回るロボットの如く、生真面目に働いているどこぞの誰かを想像し、気持ちが悪くなった。いや、やはりあれはアレでいいのだろう。
 だが、それにしても、やはりお前は働き者だ。
 そう改めて感じ取りつつ、ユーリは枕元の棚に行儀よく置かれている目覚まし時計の頭を撫でた。その天頂にある黒い、他よりも若干素材が違っている出っ張りを指で軽く擦る。
 スイッチは、入っていた。最初は。
 律儀に、目覚まし時計は毎朝、その所有者を眠りから呼び起こす為に働いている。今日もまた、壮大な音を、部屋の外にまで鳴り響かせていた。
 ものの五分ほど前迄は。
 だが今は静かだ。ただ秒針が、少しばかりいびつな動きでもって時を刻んでいるばかり。
 ベル音は、正確に測っていたわけではないので若干の差異はあろうが、十分ばかり鳴っていたように思う。そう感じただけで、実際はもっと短かったかもしれない。
 鳴っているなと感じたのが今から十と数分前。音が止まないなと思ったのが、今から五分と少々前。
 部屋を尋ね、耳元で大音響を奏でている時計と格闘しているかと思いきや、全く目覚める様子がない男を見つけたのが、それから一分半後。その同時刻に、小刻みに振動して懸命に頑張っている時計を休ませてやった。
 夢の中で休暇を楽しんでいる男は、未だ目覚める気配が無い。
 あな、なさけなや。
 諦めとも落胆とも、それから怒りとも取れない溜息がついこぼれる。あれほどの音を聞きながらぐっすり眠り続けるこの男、果たしてどうしよう。
 感心すべきか、怒るべきか。それとも、そこまで深い眠りに落ちるほど疲れているかもしれない彼を慰労すべきか。
 悩む。
 だが、とユーリは左手の下にある時計を見た。
 立っている位置からでは文字盤が斜めになって見えるその針が示す在時刻は、計画では出発予定まであと一時間といくらか。いっそ置いていってやろうかと気持ちよさそうに眠る男の顔を見下ろし、思う。
 だがそれでは仕事の予定が大幅に狂う。なんとしても、この短時間に彼を覚醒させなければならない。
 時計の針の音が、プレッシャーを与えようとしているわけでもなかろうが、やたら大きく耳元に響いて聞こえる。
 二度目の溜息が漏れた。
「起きろ」
 肩を掴み、軽く左右に揺すってみるが反応は無い。もとより最初から、あんな騒音を間近にしながら目覚めなかっただけに、効果があると期待していなかったが。
「う~~ん」
 むにゃむにゃと、何か言ったようで言葉になっていないことを口にするだけ。高いびきをかいていなかっただけまだマシだったろうか、と思い悩む。もしそんな風だったら、時計の音を止める前にベッドごと蹴り飛ばしていた
かもしれない。
「こら、起きろ」
 太陽は既に顔を出して久しい。万人の活動時間帯だ。
 自分達が本来夜闇にまぎれて生きる存在だとは重々承知の上で、けれど人と交わりながら生きていくと方向を定めたときから、朝目覚め夜眠る生活に身体も適応できるよう努力してきたではないか。
 今彼を起こさなければ、夜まで起きてこないような気がする。彼を仕事に連れていかなかったら、仕事に支障をきたすし、自分達の信頼にも関わる。沽券に関わる。
「起きるんだ、起きろ」
 なおも激しく肩を揺さぶるが、効果は芳しくない。いっそ寝かせたまま車に押し込んでやろうか。罰として朝食は抜きで。
 聞こえてくる時計の音が、確実に時間が無駄に流れていることを如実に物語る。常に一定感覚で響く音に、気ばかりが焦ってしまいそうだった。
 ああ、もう。仕方ない。
 ユーリは目覚まし時計を取った。顔の前まで持ち上げ、裏側のねじを回す。刻々と変動する三本の針とは違い、設定された場所から動かない唯一の針を動かして、現在よりも一、二分先に設定しなおした。それから時計の頭のボタンを押し、凹んでいた楕円形を突出させた。
 これで準備完了。動き続ける時計の文字盤を満足げに見下ろして頷いたユーリは、ベッドで大の字になって寝転がっている男の、寝入るときとは大分位置がずれてしまっている布団の端を捲った。引っ張り、足の先がはみ出して、頭の先までがすっぽり覆われるくらいに移動させる。
 そうしてユーリは、予約時刻を変動させた目覚まし時計を男の、耳元に直接置いた。しかも大音響が直接耳に触れるように、ご丁寧にスピーカー部を顔の向けて。
 思わずにやりという笑みがこぼれる。そのまま、身体を引くと同時にユーリは掴んでいた布団を手放した。男の顔が、布団の下に隠れて見えなくなる。不機嫌を誘う時計の秒針も、聞こえなくなった。
「私は忠告したからな」
 最初に起きておけばよかったものを。呟き、ユーリは踵を返して部屋を出た。
 数分後、甲高い目覚まし時計のベル音と、数秒の間をおいて絶叫が場内に轟いた。
 驚いたアッシュが顔を上げて声のした方角を壁越しに見やったが、リビングで優雅にお茶を飲んでいたユーリはいたって平然と、無反応を貫き通した。
 少しだけ、楽しそうな顔をしてはいた、が。

shiny

 うららかな日差しが心地よい。長かった冬が漸く終わりを迎え、緩んだ水が大地を潤す季節がやってきた。
 暑すぎず、寒すぎず。時折吹く風はまだ若干冷たく感じられるが、それもさほど苦ではない。胸いっぱいに息を吸えば、どこかで芽生える緑の匂いが感じられるような気がした。
「ん~~」
 気持ちがいい。こんな日は仕事などせず、のんびりと過ごすのが一番楽しいに決まっている。
 花見に出かけるのも良いだろう、桜の開花宣言は先日出されたと聞くから、もうそろそろ各地にある名所は花盛り、人盛りに違いない。わざわざ人ごみの中でかけて花をめでる趣味はあまりないのだが、テレビのニュースで放送されているのを見ると、一度くらいは桜の下に茣蓙を敷き、宴会を催してみたいと思えるから不思議だ。
 やろうと思えば出来るかもしれない、ただ周囲が大騒ぎになりそうだが。
 その光景を思い浮かべ、輪の中心に立っている自分を想像し、似合わないなと口元を緩めて笑む。
 頭上から降り注ぐ光は柔らかで、このままここで過ごしていたら寝入ってしまいそうだ。
 本当、仕事などなければ良いのに。
「スマイル」
 世の中、なかなか思う通りには事が進まないのが常。目を閉じて午後の陽気にあくびを噛み殺した瞬間を待っていたわけでもなかろうが、見事なタイミングで頭上から声が降ってきた。ワンテンポ遅れて、顔に影がかかる。
 薄目を開け、確認するまでもない影の主の顔を見上げる。逆行の為に殆ど輪郭しか分からないが、不機嫌そうにしているのだけは伝わる。重力に引かれた髪が氷柱のように真下へ一直線に滑っていた。
 左手を持ち上げ、そのつややかな毛先に触れようと動かす。だが寸前で逃げられ、同時に暗がりを作っていた影も退いた。再び春の太陽が直接自分の顔に落ちてくる。
 開けていた隻眼を反射的に閉ざす。
「スマイル、起きろ」
 その仕草を、寝入ろうとしていると誤解したのだろう。ユーリがさっきよりも少しだけ苛立ちを覚えた声を出した。膝を折ったのか、かすかに衣擦れの音が響く。間もなく、自分を揺すろうとする彼の手が肩に触れた。
「もう時間?」
「まだだが、本番前にも打ち合わせもあるのだし、勝手に出歩くな」
 本日はラジオ収録の日。道路が思ったよりも混んでいなかった為、予想より早くスタジオのあるビルに到着してしまった自分達は思いがけず時間が余ってしまった。仕事の道具くらいしか持ってこなかったし、テレビ収録ではないからメイクの手間も必要ない。何をするでもなく、ただぼーっとしている時間は、けれど惜しいし勿体無い。人よりはるかに長く生きてきて、これからも長い時を生きていくだろう自分であっても、無為に流れて
いくだけの時間は遠慮願いたいと思っている。
 何かすべきこと、やりたいこと、そういったものに消費されない時間ほど、無駄なものはない。
 だからひとまず考えた。時間が余ったとはいえ、一時間少々後には仕事を始めなければならないから、遠出も出来ない。近場をうろうろ歩き回るにしたって、見回るところは限られてくるし、充実した時間を過ごすには足りない。控え室でテレビでも見て過ごしても構わないが、今朝の新聞をチェックした限りでは特にコレといって興味をひく番組に引っかからなかった。もしそんな番組があったとしても、予約タイマーで録画の準備は整えて来ている。別の仕事をする、これが一番の理想だろうが最近漸く根詰めの作業から開放されたばかりで、また真っ白の五線譜と睨めっこは当分御免被りたい。
 息抜く暇もなくここ数日は過ごしてきた。更に仕事の予定は数ヶ月先までカレンダーびっしりに埋め尽くされている。愚痴を言うつもりもないが、流石に気晴らししなければやっていけない。
 そこで自分が選んだ時間の潰し方が、屋上に出ての日向ぼっこだ。
 コンクリートジャングルの中、8階建てのビルとはいえ周囲には此処よりも遥か頭上を仰ぐビルが数棟並んでいる。屋上全体が日向というわけにはいかなかったが、方角が良かったおかげでなんとか暖かい場所は見つけられた。そこにひとり、敷物も挟まず寝転がる。
 ユーリが来たのは、それからものの十分もしない頃だった。
 せっかくの一休みを邪魔されたのだから、こちらとて少々機嫌を損ねたくなる。しかしユーリを怒らせるのも得策でない為、彼の手が本格的に肩を掴んで来る前に左手で押し返した。そのまま、支えにして背中を起こす。
 その瞬間に大きく、生理的な涙まで流れそうになるあくびが出たのはご愛嬌だ。
「眠いか」
 あくびの大きさに驚いたらしいユーリが問う。彼は右の膝をコンクリートの床に立てる形で傍らにしゃがみこんでいた。
「ん? あー……まぁ、そうだねェ」
 春眠暁を覚えずと言うし、と苦笑しながら返すと、意味を理解しあぐねたユーリが不思議そうな顔で首をひねった。
「日本の、昔の人のことばだよ」
 要するに春は眠いってコト、といい加減な知識を彼に教え込み、もう一度小さなあくびをこぼす。目じりをこすると、指先の包帯が僅かに湿った。
 万年寝不足――否、眠りが浅くあまり眠りを必要としない身体なので寝不足に陥ることも殆どないのだが、やはり春だからか。こうやって日の当たる場所に座っていると、眠くなってくる。
 きっと此処に布団を敷いて眠れば熟睡できるだろう。日が暮れてしまえば一気に冷え込みそうだが。
「昨日も遅くまで起きていたのか」
 けれどユーリは随分と真剣な顔をして問いかけてくるものだから、違う違う、と笑いながら手を顔の横に振る。単純に気分の問題で、昨夜遅くまで起きていたのは本当だが、仕事の時間に入ればこの眠気もきれいさっぱり取り除かれよう。
 仕事とプライベートは分ける。一応これでも、プロのつもりだ。
「眠いのなら、休むか?」
 それでも尚しつこく聞いてくるユーリに、肩を竦める。人の話を聞かないと言うか、頑固というか。
 もっとも、それが彼の利点のひとつでもあるのだろうが。
「大丈夫ダヨ。それより、何? 用事?」
 先程、収録開始の時間はまだだとユーリ本人が口にしていた。本番前の打ち合わせの時間も先に確認してある。余裕はあると判断したから、屋上へ暇つぶしに来たのだが、その時間より前にユーリが呼びに来るのは想定外だった。
 時間が危うくなれば、アッシュなり、誰かが呼びに来るだろう、とは考えていたけれど。
 左手を床においたまま首から力を抜く。仰け反った体勢で背筋が緊張した。首の後ろで、骨が軋む音が自分にだけ聞こえる。疲れているのだろう、眠気を覚えるのは、或いはやはり身体が休息を求めているからなのかもしれない。
 こちらがくつろいでいる姿を見て、少しは安心したのだろう。立てていた膝を緩め、ユーリもまた陽光で暖められたコンクリートに直接腰を落とす。
「いや、なに。大した用件でもないのだが」
 それからややもったいぶった素振りで、コホンとわざとらしい咳払いをする。
 彼は右の膝を伸ばした。まっすぐ、黒い影が近い場所でコンクリートに映し出される。頭上高くまで腕を伸ばし、指を絡め合わせて背筋を伸ばす。この陽だまりを心地よいと感じたのは、何も自分だけではない証明だった。
 そのまま、いい天気だとなんともなしに彼は呟く。
 会話は途切れてしまったが、別段構うことなく自分もまた、ビルの隙間から僅かに見える街の景色を眺めた。蜘蛛の巣の隙間を縫うように張り巡らされた道路を、気忙しく乗用車やトラック、タクシーが行き交う。その間をすり抜けて人々も余裕のなさそうな顔で歩いたり、走ったり。表情の微細なところまでは読み取れないにしても、俯いている人が多いのだけはなんとなく分かった。
 まるでマッチ棒のような人の群れ。彼らの頭上に変わることなく満遍なく光を降り注いでいる太陽は、果たして彼らを見下ろし、何を思うのだろう。
 春の温もりに包まれながら、彼らは春という季節に気づかないまま時を過ごすのか。
 なんともったいないこと。
 永久に続くかもしれない時を生きる自分でさえ、四季折々の顔をまばゆく見せてくれるこの大地は日々新たな発見に彩られ、飽きることを知らない。移り変わり巡り変わる景観をこの先どれだけ眺められるだろうかと、想像するだけでも胸が高鳴るというのに。
 やはり、近いうちにひとりででも抜け出して、どこか桜でも見に行こうか。
 味気ないモノクロの町並みをひとしきり眺め終えた後、天頂を仰ぎ見てその眩しさに右目を閉ざし、思う。
「仕事が終わってから、時間はあるか?」
 不意に問いかけられ、即座に反応が出来なかった。「あ?」と間の抜けた声とも取れない息を漏らし、薄目を開けて傍らを向く。ぼやけた視界に、陽光を浴びても平然としている吸血鬼の姿があった。
 輪郭が朧な姿が、まるで溶けて灰になってしまう姿を想起させる。慌てて首を振った。
「時間?」
 何故そんな事を聞くのだろう。仕事が終われば、時間がある無しに関わらず自分達は一緒に、アッシュの運転する車に乗ってユーリの城に帰るのではなかったのか。
 問うた当人であるユーリは、いたって真剣な顔をしてこちらの返答を待っている。今か今かと、身体を前後に軽く揺すっている姿は、彼の実年齢から考えるととても子供っぽい動きだ。年相応にしてみせろと言いたくなるが、どうせ怒られるだけだろうし、彼がそうそう簡単に変わる筈もないので黙っておく。
「別に……何かあるの?」
 今日は仕事の予定が入ると知っていたから、他に予定は組み込んでいない。時間が余ればそのときはその時でどうするか考えるつもりだった。そして現在、その通りにしている。夜も同じだ、収録が終われば城に戻って食事をし、眠りに就くまでテレビを見るか、本を読むか、作曲でもするかのどれかだ。
 何かしなければならないことは、収録の仕事以外持ち合わせていない。
 そう答えてやると、ユーリは「そうか」と安堵した顔で頷いた。そして伸ばしていた足を戻し、膝を折って立ててそこに抱きつくような姿勢にかえる。
「いや、なに。大したことではないのだがな」
 先程も聞いたような台詞をもう一度口に出し、ユーリは一旦視線を外して宙にさ迷わせた。言いにくいことなのであればこの場で言わなくても構わないのに。そう提案しかかった自分を遮るようにして、
「スタッフに聞いたのだが、ここからそう遠くない公園に、桜が咲いている場所があるそうだ」
 それで? と視線でユーリに先を促す。妙に得意満面な顔になって笑っているユーリが、一瞬だけ時計を見た。
「収録が片付いたら、皆で行ってみようかと思ってな。地元の者しか来ないような場所らしい。スタッフと、さっき控え室前の廊下でスギとレオにも会ったから、一緒にどうかと誘ってある」
「へぇ」
 騒ぐのはあまり得意でないユーリにしては、珍しい提案である。意外だと思っていたら、顔に出ていたらしく睨まれた。
「で、どうする?」
「ユーリは行くんでショ?」
「無論。主催が行かずしてどうする」
 確かにその通りだから、反論はしない。へぇ、と再度相槌を打って頷き、自分もまたユーリのように折った膝を胸に抱き込む。少しだけ日が翳り、屋上にかかる隣のビルの影が長くなっていた。
 この場所だけは穏やか過ぎるくらいだが、耳を澄ませば遠くパトカーか救急車のサイレンが聞こえる。車のクラクションやブレーキ音、エンジン音に排気音。世界は音に満ち、その半分は雑音や騒音の類なのだろう。その中で彼の声だけが、心地よく耳に響き入る。
 願わくば、彼の声、彼の歌だけを聴いて時を過ごせたら良いのに。
「お前は、どうする?」
 囁くような誘う声。
 ふっと、口元が緩んで自然笑みがこぼれた。
「ユーリが行くのに、ぼくが行かないでどうするの?」
 顔を向けて返すと、即座に安心したような、うれしそうなユーリの顔が目に飛び込んでくる。
 ああ、これもまた、この世界に生きる自分が覚えた変わり行く時の流れの中で眺めていたいものの、ひとつなのだ。心の底から思いが溢れてくる。
「ユーリ」
 その名前を、音に紡ぐ。
 世界中の何よりも、純粋で綺麗な音だと、思う。
 なんだ? と小首を傾げる彼に少しだけ身を預け、柔らかな箇所に唇を落とす。彼は少し驚いたようで、大きく眼を見開いた。その一瞬一瞬の表情の変化さえも見逃さず、瞳の奥に焼き付ける。
「目は閉じておけ、馬鹿者」
 離れた途端、冷たい声で言われ、両腕で突っぱねられた。立ち上がり、服についた汚れ軽く叩き落し、ユーリは今度はしっかりと腕に巻いた時計の文字盤に目をやった。表面のガラスを指で小突き、頷いてこちらを見る。
「行くぞ、時間だ」
「は~い」
 余韻の欠片も感じさせてくれないユーリの態度に少しばかり傷つきながらも、いつものことだと笑って、自分もまた立ち上がった。背筋を逸らして首を回せば、やはり疲れているのか骨があちこちで軋む感触がする。腕をぐるぐる回している間に、先に歩き出したユーリが出入り口の扉前で早くしろ、と急かしてきた。
「今いくー」
 慌てて踵を返し、駆け出す。既にユーリの姿は暗がりの屋内へと消え去り、静かな空間に軽い足音だけが響きそれもやがて聞こえなくなる。半分開いたままのドアを開け、立ち止まって背後を振り返った。
 太陽はまだ高い。だが次に屋外に戻る時、その姿はもう地平の彼方で眠りに就いた後だろう。暖かな光という腕が、背中を押してくるようだ。
「また、ね」
 明日、会おう。太陽にそう告げて、ビルの中に足を踏み込む。
 夜の桜もきっと、綺麗だろう。ならば今度、空き時間にユーリをつれて昼の桜も楽しみに行こうか。
 きっと、今日とは違う顔を見られるだろう。それを、楽しみにしながら。