燈火

 病院は嫌いだ。走らないよう、けれど小走りに近い速度で両足を交互に動かしながら山本武は思った。
 白い壁、白い天井、消毒薬臭い空気、薄暗い廊下。行きかう人の姿は少なく、通りがかるストレッチャーを押した看護師に道を譲りながら、山本は沸きあがる焦燥感に苛まれつつ、電話で聞かされた病室を探して視線を左右に動かした。
 静まり返った空気、そこに嫌な予感を抱かずにいられない。病院は元からこういう場所なのだと分かっていても、重苦しい雰囲気に呑まれてしまいそうになる。
 やがて一般病棟から少し奥まった場所にある、特別室の区画に差し掛かる。すぐ隣が看護師の詰める部屋で、部屋の前には中が覗けるように窓がありその向かい側には背凭れの無い長椅子。
 髪の長い細面の女性が座っていた。膝には幼い子供を抱いている。遠目にも彼女が憔悴しているのが分かり、山本は足を止めて息を呑んだ。彼女と膝上の子供には彼も覚えがあり、己の目的地がそこであると容易に知れた。喉を鳴らして唾を飲み下し、一歩前に出る。冷たい廊下に思いの外喧しいくらいに音が響いて、ハッと顔を上げた女性と視線が合った。
「えっと、その……」
 山本が受けた電話は長谷川京子からのもので、あちらもかなり狼狽した様子で綱吉と獄寺が病院に運ばれたという事実だけを伝えるものだった。だから慌てて綱吉の実家に連絡を入れ、偶然荷物を取りに戻っていた彼の母親から病院と、病室とを聞きすのに成功した。彼が病院に到着したのは、夜の九時を軽く回ってから。教えられた病院は彼らの住む町から随分と離れており、タクシーを使う所持金も持たない彼は自宅から自転車で走るしかなかった。恐らく明日の朝には、筋肉痛で悶え苦しまなければならない。
 膝が震えるのは果たして急な運動による疲労からなのか、もっと別の要因なのか。判別がつかぬまま、山本は何を言って良いのか分からず伸ばした手を宙ぶらりんにしたまま、荒く肩で息をした。ガーゼとテープで固定した左頬が、ズキリと痛む。
 山本を呆然と見上げていた女性もまた、告げる言葉を持たず視線を逸らす。胸の中で抱きしめた小さな赤ん坊だけが、普段と変わらぬ感情の読めない瞳で山本を見ている。
「遅かったな」
 小さな唇から放たれたことばに我に返り、山本は自分が悪いところは何も無いはずなのだが、悔しさのあまりに拳を握り締めて俯いた。足元の、白い廊下と己の靴を睨みつけ、何かを殴りつけたい気持ちを懸命に押し殺す。女性――ビアンキの膝から飛び降りた子供が歩み寄り、彼のジーンズの裾を引っ張るので、山本は仕方なく彼を抱き上げた。いつものように、肩に載せて座らせる。
「ふたりは?」
 綱吉の家の居候であるリボーンに問うと、彼は無言で病室の窓を指差した。促されて数歩進み、ビアンキが沈痛な面持ちで両手を握り締めているのを見ない振りをして、窓から中を覗き込む。
 置かれているベッドはひとつで、透明なビニルのようなもので周囲を囲まれている。更になんだか良く分からない機械がいくつか並んで、山本にでも辛うじて分かる心電図では定期的に線が山を刻んで画面を流れていく。ベッドに横たわっているのは、獄寺だった。綱吉の姿は無い。
「ツナは?」
 肩の上に座るリボーンを横目で見ながら問うと、短く隣の部屋にいると教えられる。
「撥ねられたのは獄寺。ツナはそれを見て発作的に過呼吸症状を起こして倒れただけ」
 リボーンが語った直後、背後で座っていたビアンキがビクリと肩を揺らしたが、後ろを向いていた山本は気付かない。気配を読んだリボーンだけが、ちらりと背後を窺ってため息を零す。
「獄寺は……どうなんだ?」
「撥ねられる直前、小型ダイナマイトを使って向かってくるトラックの勢いを相殺しつつ、直撃を避けたお陰で命に別状は無い。衝突する時に身体を庇った右腕が折れて、肋骨にも罅が入っているくらいだな。あとは頭を打っているから、明日に精密検査を受けることになっている。意識は回復していないから、な」
 意味深な言い回しに、山本は自然眉根を寄せて険しい表情を作った。気付いているのかいないのか、赤ん坊に等しい年齢しか刻んでいないはずのリボーンは、しかし老齢の狡猾な人間の如き感情を読ませない表情を貫き、胸の内を明かさない。
「完全に避け切れなかった分、獄寺もまだまだだな」
 聞く人が聞けば激昂しそうなことを口にし、山本はぐっ、と爪が肉に食い込む程拳を握って耐える。相手は分別もまだつかぬ子供だ、堪えろと自分に言い聞かせ、眉間の皺を一層深くさせて。噛み締めた上唇からは、うっすらと血の味が広がった。
 山本の天をも憎む表情にやれやれと、悟られぬよう溜息をついたリボーンは、再び視線を窓で隔てられた先にいる獄寺に向ける。それからゆっくりと首の角度を変え、何も無い廊下の壁を伝ってやがて閉められている扉で止まった。その先に、眠っている相手を思う。
「ツナも、まだまだだな」
「酷いのか?」
 呟きを聞きつけた山本の質問に、扉を見つめたまま、
「一度意識を取り戻した後、記憶が混乱したんだろう、暴れたから鎮痛剤を注射して今は眠っている」
 今度は山本の眉が片方、ぴくりと反応を示す。リボーンの視線が彼に戻った。
「何か知っているのか?」
 それは問いかけというよりも、知っていると確信しての尋問に近い。山本は視線を浮かせ、無機質な反応を返すだけの心電図をなんともなしに見つめる。けれど肩口から追いかけてくる視線からはどうやっても逃れられず、また頬の痛みも、今更呼び覚まされたかのようにずきずきと彼の心を突き刺してくる。
 具体的に何があったのかなんて、現場に居合わせていないのだから山本だって知る余地はない。だが少なくとも、今こういう状態になってしまった原因のひとつに、自分が絡んでいるのは理解できて、だからこそ尚更、山本はことばを選ばざるを得なかった。知らせてよいものなのか、どうなのか。当事者の心情を察すると、黙って胸の奥に潜めておいてやりたいとも、思う。
 だが実際のところは、自分はこの件に関係が無いと逃げたがっているだけなのかもしれない。綱吉に発破をかけたのは山本で、獄寺を殴り飛ばしてまで綱吉と和解するよう諭したのも彼。仲裁のつもりで間に入ったのに、余計にこじれた上取り返しのつかない事態にまで発展させてしまった、その罪から、逃れたいだけの言い訳なのかもしれない。
「俺は……」
 正直に告白して楽になると同時に責められるか、ダンマリを押し通して苦しみを抱えたままでいるか。二者択一。
「悪い。分からない」
 暗い面持ちで首をゆるりと振る。隠し事があるのは表情を見れば分かるだろうに、リボーンは「そうか」と短く返しただけであとは無言。ホッとすべきなのか、問い詰められるのを覚悟していた山本は少々肩透かしをくらいつつ、白いベッドで白い布団に包まれている獄寺に視線を移す。
 彼の姉は疲れきった表情で長い髪を梳きあげ、けれど気丈な立ち振る舞いでそれを悟られぬように動き、山本の隣に並んで冷たくも暖かくも無い窓に手を触れる。指先は、彼女の視線からちょうど獄寺の頭に当たるだろう位置を撫でている。
「……あの」
「ツナに、会っていく?」
 耳に心地よい、年上の女性の声。これが病院の廊下などという場所でなければ、うっとりと聞きほれてしまいそうになるのだけれど、消毒薬に汚染された空気が漂う空間では無理がある。慰めの言葉ひとつでもかけてやりたかったのだが、未だこの世に生まれ出て十五年と経過していない山本には、彼女にかけてやれることばを持ち合わせていなかった。逆に、言うに言い出せずにいた内容を先に聞かれてしまう。
 山本は遠慮がちに、恐縮しながら頷いた。
「会っていくっていっても、寝ちゃっているから顔を見るだけね。起こさないであげて」
 本当は彼女こそ休まなければならないだろうに、顔色の悪さを長い髪で誤魔化して彼女は山本からリボーンを引き取った。山本はそれ以上ここに留まる理由を見失い、頭を下げると踵を返し教えられた病室のドアをノックもせずに開いた。
 背後で、ビアンキが無言のままリボーンを抱きしめる。その声に出されない悲痛な思いが、山本の足を速くさせた。
「失礼します」
 ドアを開けてから、中に綱吉の家族がいるかと思って声をかけたが返事は無い。中は個室で、広々と――違う見方をすれば閑散として、どこか寂しい感じがする。後ろ手に扉を閉めると、予想よりも大きな音が響いて山本はびくりと背筋を震わせた。
 大きな身体をして小さくなりながら背後を振り返り、何もないのを確認して前方に向き直る。半端に引かれたカーテンの陰にパイプベッドの足が見えた。数歩進み、カーテンの端を手で押しのける。点滴の管がまず見えて、その先に細く白い綱吉の腕があった。
 最低限手元が見える程度にまで落とされた照明の中で、綱吉は静かに眠っていた。怪我をしている様子もなく、本当に眠っているだけのようで、獄寺の病室のような物々しい設備は何一つ見られない。ただ据付らしいテレビと小型の冷蔵庫が、申し訳程度に壁際に設置されていた。
 山本はざっと室内を眺めてから、更に歩みを進めて綱吉の眠る顔を見下ろす。薄暗い中でもはっきりと分かる蒼白の顔は生気が感じられなくて、思わず手を伸ばし彼の呼吸を確かめずにいられなかった。
 夢を見ているのか、時々苦しそうに表情を歪めて耐えている姿は直視に耐えず、山本はなおも強く唇を噛んでやがて力なく、ベッドサイドにあった丸椅子に崩れるように腰を落とした。両手で頭を抱き、絶叫を押し殺す。
 綱吉に発破をかけて、獄寺にも発破をかけ、ふたりをうまく仲直りさせたかったのだが、うまくいかなかった。望んでいなかった結末に、山本もまた苦悩し、己の浅はかさを恨む。何故、どうしての繰り返しばかりで答えは見つからない。
「悪い、ツナ、それに獄寺も……」
 どこで狂ってしまったのか、深く息を吐いて山本は天井を仰ぐ。ぴくり、と綱吉の指先が痙攣にも似た動きを見せたのに気付かない。
「俺が、変に唆したりしなきゃ良かったんだろうな」
「山本は、悪くないよ」
 不意に。
 予測不可能なところから聞こえた、小さな声。目尻に熱いものがこみあげていた矢先だっただけに動揺を隠せず、ギョッとした山本が慌てて視線の位置を落とすと、しっかりと両目を開いた綱吉と目が合った。不意打ちに、ポロリと涙が一滴だけこぼれ、急ぎ顔を逸らす。
 綱吉は笑ったりしなかった。ただ少し寂しげに、山本を見上げる。
「悪い、起こしたか」
「ううん」
 右目を擦って涙を払い、取り繕うように上ずった声で言った山本へ、今度は首を振って綱吉が顔を背ける。素っ気無い白壁がそこにはあって、綱吉の視界を埋め尽くす。だけれど網膜に焼きついた光景は消えなくて、見たくない光景に硬く目を閉じる。
 なのに、どう足掻いてもあの瞬間、血に染まるアスファルトと獄寺の腕とが記憶に貼り付いて剥がれない。見たくもないし、思い出したくもないし、胃の中のものは全部吐き出したはずなのに嘔吐感が静まらない。
 泣き尽くせない涙が、また頬を辿って枕を濡らす。
「あのさ、ツナ」
 何かを言わなければと、山本は中空に視線を飛ばしながら言葉を捜す。しかし場を和ませる気の利いた冗談のひとつも言えず、かといって黙り込むのも綱吉に悪い気がして、結局先ほどまで綱吉が見ていた壁に目を向けた。
 その向こう側には、獄寺が眠っている。
「あいつ……獄寺、怪我、大丈夫だって。骨が折れてるって言ってたけど、命に別状はないからって。なんか、良く分かんねーけど、直撃は避けたとかどうとか、言ってた」
 だから、あんまり気に病むなよとは、言えなかった。
 獄寺の症状を初めて聞かされたらしい綱吉は大きく目を見張り、それから山本と同じ方角を向いて心底安堵した顔を作る。声は聞こえなかったが、山本の目には彼の唇が「良かった」と刻むのが見えていた。
 だからこそ山本は、綱吉に告げることが出来なかった。
 獄寺が未だ意識を取り戻しておらず、こん睡状態に陥ったままであることを。我ながら、自分はずるくて弱い人間だと思いながらも、彼は綱吉に追い討ちをかけるかのような真実を語る術を持たなかった。
「お前も、元気出せよ」
 目の前で友人が交通事故に遭った瞬間を目撃してしまったのは、限りない不幸だろう。ましてや相手が、少なからず好意を抱いている相手ならば、なおさらに。そしてショック症状を起こし、病院に担ぎ込まれるような状態にまで精神的に追い詰められていた綱吉に、だからこそ。
 山本はこれ以上、綱吉を傷つけたくなかったし、傷ついて欲しくなかった。なにより、傷ついて苦しむ綱吉を見ていたくなかった。
 彼が――好きだから。
 他の誰より、自分自身よりも、彼が大切だから。
 綱吉にならばどれだけの汚い言葉を投げかけられようと、詰られようと構わない。だがその逆は、絶対に嫌だった。
 黙りこんだ山本をどう受け止めたのか、綱吉は数回瞬きを繰り返し、枕に深く頭を預け、それから小さく頷いた。
「うん、ありがとう」
 ありがとう、ともう一度呟いて。
「俺は平気だから……ね? 山本」
 泣かないで、と言われて初めて、山本は自分が涙を流していたのを思い出す。
「ばっか、ちげーよ。これは、泣いてるんじゃなくってだな」
 ぐいっと乱暴に頬を拭い、赤くなった顔を隠しながら山本は言い訳をしようとして失敗する。ベッドの上で綱吉が目尻を下げて笑い、もう彼が笑ってくれるのならなんだって構わないと思い直すことで自分を慰める。
 笑いやまない綱吉の額を軽く指で弾き、自分も声を立てて笑ってみた。
 何故だか余計に泣きそうになって、山本は更に大きな声で笑った。

 その日はもう遅いこともあり、山本を帰した後リボーンとビアンキも様子を見に来てそれぞれ家に帰っていった。綱吉も特別具合が悪いわけではないので帰ると主張したが、今日一日くらいは病院でゆっくり身体を休めるようにビアンキに諭されて、結局ひとり居残ることに。
 かといって一度目が覚めてしまうとなかなか寝付けない。点滴は看護師が外してくれたので動き回るのに支障ないけれど、時計を見るともう深夜もいいところで、そんな時間帯に病院をうろうろするのも不謹慎だろう。
 仕方なく、ベッドに横たわりながら闇の中で天井を見上げるばかり。
 目を閉じると、嫌でも昼間の光景を思い出してしまう。目が乾燥するのも構わず、瞬きの回数を減らしていても気付けば涙が溢れ出てとまらなくなる。
 会いに行こうか、そう思い起き上がろうとした時もあった。しかし眠っているのを起こすのも悪いし、看護師に見つかって咎められるのも面倒。どうせ明日の朝になれば会えるのだからと、逸る気持ちを抑えて布団の裾を軽く蹴り上げる。
 まずは謝ろう。酷いことを言った、酷い態度を取った、彼に傷を負わせた、危険な目に遭わせた。それを謝って、それから伝えよう。
 君をどう思っているかを、君に伝えよう。
 理解してもらうには時間がかかるかもしれないけれど、ゆっくり、少しずつ歩み寄れればきっとふたりの間にある溝は埋まるのではないかと信じる。自分から突き放して、逃げてばかりではダメだと思い知ったから、勇気を振り絞ってこちらから歩み寄る努力をしようと思う。
 考えれば獄寺はずっと、綱吉に歩み寄ろうとしていたではないか。綱吉が気付けなかっただけで、彼は綱吉の傍にずっといたのに。
 これからは、今までよりも良い関係が築けると思う。だからこそ自分も、元気を取り戻さなければと綱吉は寝返りを打ち布団を被り直した。寝不足の顔を見せたら、獄寺もきっと心配するだろうから。
 目を閉じて視界を闇に閉ざせば、気がつけばうとうととして寝入っていたようだ。夢を見ているのだと分かる空間に投げ出され、綱吉はぼんやりと何も無い虚空を見上げていた。
 光は無く、そこはあの、溝に阻まれた世界とよく似ていた。
 不安材料はもう消え去ったはずなのに、またこんな夢を見るなんて不本意である。綱吉は釈然としないまま、夢だと分かっているけれども出口を求めて真っ暗な空間を歩き出した。足音だけが不気味に響き渡り、手探りで壁にぶつからぬよう広い場所を歩き続ける。まっすぐ進んでいるのか、いないのかも分からない曖昧な世界で、綱吉はふと、誰かが前を歩いているのではと思うようになる。
 視線を落とした先、己の足元に他人の長い影が見えた。やはり誰かいる、ひとりぼっちにも飽きてきて心細ささえ覚えだしていた綱吉は表情を明るくし、前方に目を凝らした。すると真っ暗闇だというのに視界が開け、ぽつんと見慣れた背中が浮かび上がった。
 あ、と思わず口に出してしまうほど唐突で、けれど綱吉の心臓を跳ね上がらせるに十分な背中。良かった、無事だったんだと、まだ実際には会えてもない相手に喜んで、緩みかけていた足取りを速めた彼はその背中を追いかける。
 けれど、届かない。
 もう少しで追いつけるという距離で、急に背中は小さくなり遠ざかる。理不尽に思いながらもまた走って追いかけて、手を伸ばして腕を掴もうとしたら、するりと彼の背中はまた逃げていった。あまりの足の速さに、立ち止まってくれないかと懸命に呼びかけるのに、背中は振り返りもせず、また歩みを止めない。
 徹底的に無視され、徹底的に避けられて、拒絶されて。
 最後、綱吉は動けなくなった。
 ――なんで……?
 呆然と見送る背中は段々小さくなっていく。泣きそうになるのを堪え、もう一度歩き出して後を追うが、やはり互いの距離は縮まらず、逆に開いていくばかり。
 ――待って。待ってよ、ねぇ。
 その背中に呼びかける。声を枯らし喉が潰れるくらいに大声を張り上げるが、まったく反応は見られず綱吉を打ちのめす。肩が抜けそうになるまで腕を伸ばし、もがいて、捕まえようとしても指先は虚空を掻くばかり。
 ――待って、行かないで。置いていかないで!
 悲鳴が。
 絶叫が。
 ――獄寺君!
 全身が引き裂かれそうな思いで、振り絞った声は虚しく闇に溶けて、彼の姿かたちもまた失われ。呆然と立ち尽くす綱吉だけがその場所に残り、世界は再び沈黙に閉ざされる。
 暗く、冷たく、寂しい世界へと――

「――――っ」
 ハッと、意識があると自覚した瞬間に開かれた両目は真っ白な天井を一面に映し出していた。
 自分が目覚めたのだと理解するのに少しの時間が必要で、綱吉は荒い呼吸を繰り返し全身の筋肉へ足りない酸素を送り出す。体中が汗まみれで、夢の中で蹴り上げたらしい布団から両足がはみ出ていた。
 白く清潔なカーテン越しに日の光を感じて、今が朝なのだと知る。首を傾けて、母親が持ってきてくれた自分の目覚ましを見ると午前六時を少し回った頃。日が昇るのが早いこの季節、外は既にかなり明るかった。
 しかし普段ならばまだ眠っている時間である。意識するとまた眠気が迷い込んで来そうだったが、夢見が悪かった所為か心臓の拍動も耳に五月蝿く、眠るのがどことなく怖く感じる。正夢ではないかという一瞬胸に抱いた不安を、そんな筈が無いと否定するものの、確信を得るのに決定打を持たない綱吉は熱い息を吐きながら、もう一度否定を頭の中で繰り返し呟き首を振った。
 光の眩さにさえ涙が出そうになって、重い腕を持ち上げて顔を覆う。
 随分と泣き虫になったものだ、すっかり緩くなったまま元に戻らない涙腺に苦笑を禁じえない。パジャマの袖口が濡れていくのを受け止めながら、綱吉は荒い呼吸を再度数回行い、漸く落ち着きを取り戻す。
 空腹感は無かった、眠る前まで受けていた点滴のお陰だろうか。あとは夕方からずっとベッドの上で眠っていたからかもしれない。動いていなければ、あまり腹は減らないものだなとぼんやり天井を見上げ、考える。
 今日の朝食はどうなるのだろう。緊急的に病院で一泊する羽目になったが、入院したのとは若干状況が異なっているから、もしかしたら病院食は出ないかもしれない。病気や怪我をしたのとも違うので、そもそも病院食を食べる必要性もないわけだが。意識し出すと途端、薄情な胃袋がぐぅ、と音を立てた。
 誰かに聞かれたわけでもないが、罰が悪そうに顔を歪めて綱吉は慰めのつもりで布団の上から腹部をさすった。
 五分ほどが経過しただろうか。退屈は限界に達しようとして、あくびさえ出ない状況に辟易した綱吉は数回目の溜息の末、諦めて身体を起こした。あちこちの関節が嫌な音を響かせ、多少の痛みを伴って綱吉に生きていることを実感させる。顔を顰めながら軽く両肩を回して背筋も伸ばし、首を回すストレッチを行ってから彼はベッドサイドに座りなおす。踵が擦れそうで当たらない絶妙な高さで、ぶらぶらと揺らしているとベッド下に隠されてあった靴に足の裏がぶつかった。
 身体を丸めて覗き込み、引っ張り出すとそれは通学に毎日履いている、少々くたびれ気味のスニーカーだった。
 ほんの少し迷って、綱吉は踵部分が潰れかかっているその靴につま先を突っ込んだ。素足のまま踵を踏んで簡易スリッパにし、立ち上がる。右膝がバキっと言ったが、気付かなかったことにする。
 靴底を引きずるようにして、まずは病室の中を歩き回る。五歩もいけば向かい側の壁に到着してしまう広さしかないが、病院の個室を借りるだけでも結構なお金が必要だろうに、大丈夫なのかと自宅の懐具合を真っ先に心配してしまった。
 真っ白に塗られ、ひとつも汚れていない壁に手を添える。ひんやりとしており、まだ眠っていた身体の細胞が目覚めていく感覚に、瞳を細めた。
 首を回して振り返り、カーテン越しの日差しを見つめて今度はそちらへと歩み寄った。端を摘み、少しだけ引いて外を見る。知らない町並みが広がっていて、小学校の修学旅行で宿泊した宿から眺めた光景を思い出す。高速道路が右前方にカーブを描きながら走っていて、早朝だというのにトラックや乗用車が忙しなく流れていく。
「……ちょっと覗くくらいなら、いいよね」
 自分に言い訳をしながら呟き、綱吉はカーテンから手を離した。まだ本調子とは言い難い身体を引きずり、窓と反対方向に進路を定めてゆっくりと進む。銀色のドアノブは白壁よりもずっと冷たく、扉を開けるのに力が必要だった。
 半分ほど開けて、廊下に身体を滑り込ませる。ツンと鼻を刺激する空気と、刺さるような冷たさ。吐く息が白く染まっていないか確かめてしまいそうで、綱吉は誰もいない廊下に立ち尽くす。等間隔で天井に並ぶ蛍光灯は沈黙しており、廊下の突き当たりにある非常扉の窓から差し込む光が、ぼんやりと景色の輪郭だけを浮かび上がらせていた。
 反対側を向くと、今度は物悲しい光景が一変して、ナースステーションから漏れる皓々とした灯りを廊下が反射している。僅かながら人が動く気配もするのは、夜勤で詰めている人がいるのだろう。誰かが出てくるだろうかとしばらく待ってみたが廊下に動きは無く、安堵なのか分からない吐息を零した綱吉は、ナースステーションと自分が泊まった病室の間にもう一部屋あるのに漸く気付いた。
 最初は何故あんな中途半端な位置に長いすが置かれているのだろうと疑問に思い、近づいたのがきっかけだった。そして壁に窓が設けられ、病室内が覗けるようになっているのだと知る。綱吉が窓前まで来た時にはカーテンがかけられ、中の様子は窺えなかった。
 だが、確信する。この向こう側に獄寺がいるのだと。
 昨晩の山本との会話を思い出し、頭の中で反芻してみる。怪我はしているが、命に別状は無い。彼はそう告げた。だから綱吉は勝手に、彼はもう大丈夫なのだと勘違いしていた。山本が言った「怪我は大丈夫」という意味を、彼自体がもう大丈夫なのだと錯覚した。
 そう信じたかっただけなのかもしれない。後から考えれば、あれは山本の、優しさだったのだろう。
「あら、目が覚めたのね」
 声に振り向くとまだ若い、二十台前半の女性が立っていた。男であれば最低でも一度は憧れを抱くナース服の女性に不意打ちを仕掛けられ、動揺した綱吉はそのままよろり、と身体を傾がせて肩から壁にぶつかってしまった。幸いにも体重がさほど乗っておらず、痛みも小さい。
「大丈夫?」
 しかし元々怪我人、病人を看るのが仕事の彼女は食いついてきて、綱吉は曖昧に笑いながら平気です、と小声で返す。そのまま獄寺がいるだろう部屋の窓に視線を流してカーテンの皺を数えていたら、何故か残念そうにした看護師も気付いたようで、同じ方向に視線を流した。
 それから、かわいそうにね、と小さく呟く。
「え?」
 どういう意味かと、綱吉が問いかける前に、おしゃべりな性格らしい彼女は聞かれてもいない事を教えてくれた。綱吉と獄寺とが親しい間柄であるのは既に周知の事実だったからだろうが、彼女の迂闊さを綱吉は責められなかった。
 責め立てる余裕すら、なかった。
 まずは獄寺が格好いいという見た目を褒めるところから話は始まった。ここは適当に相槌を打ってやり過ごし、綱吉は本題に入ろうとしない彼女を思わず睨みつけてしまった。ただ元から顔に迫力が足りない為か彼女には通じず、諦めと呆れで溜息が出そうになったところで不意に、彼女は声を潜めた。
 でも、このまま意識が戻らなかったら、可哀想過ぎるよね、と。
 綱吉は耳を疑った。両目を見開き、看護師を見上げて呆然となる。彼女は綱吉の変化に一切構わず、今日は午前中に脳波測定を行って調べることや、腕の骨折具合では一ヶ月以上ギブス生活を強いられるだろうと語り続ける。おしゃべりな女性の声は後半以降綱吉の耳に殆ど届かず、どこまで聞いたのか彼自身も分からない。
 ただ放っておけば彼女は永遠に喋り続けていそうで、
「あの」
 上ずった音が、綱吉の声帯を震わせて表に出る。気付けば人差し指だけを立てた右手が、窓の脇にある、閉じられている扉を指していた。
「中、良いですか」
 語尾は上がらない。問いかけではなく、確認。中に入って良いですか、ただそれだけ。
 しかし声と表情から何か薄ら寒いものを感じ取ったのだろう、看護師はぴたりと喋るのをやめてコクコクとしつこいくらいに頷いて返してくれた。
「どうも」
 目礼して綱吉はドアノブに手をかける。音も無く開いたそこから身体を滑り込ませ、中に入り込む。扉を閉める直前、看護師が胸に手を当てて冷や汗を拭う姿が見えた。
「やだ、ちょっと……今すごい、怖かった……」
 十歳近く年が離れている少年の眼力に気圧されてしまったとは思いたくなかったが、思わず口について出たのは本心だろう。聞かなかった振りをして、綱吉はドアを閉めた。
 中は綱吉の部屋よりも白さが薄い気がした。それは、隣の病室よりも物が、特に無機質な機械類が多く並べられているからだろう。耳につく電子音は一定間隔で流れ、呼応するように濃緑のモニタに白っぽい線が浮き上がる。跳ねては沈み、沈んでは跳ねる。そのリズムは至極安定しているように見えて、平常とどう違ってくるのか、専門知識を持ち合わせていない綱吉には分からなかった。
 ベッドを囲んでいるカーテンは半分近くが閉められて、寝かされている人の姿は見えない。浅く息を吐いた綱吉は、音を立てぬように慎重に歩み寄り、居並ぶ機材を避けてベッド脇に立った。
 白い布団に包まれて、獄寺はそこにいた。穏やかな顔をして、呼吸を補助する機械で顔の下半分を覆われているが、表立って目立つ傷跡は見当たらなかった。ただ布団からはみ出ている彼の右腕が、上腕部から指先にかけてギブスで固定されていた。
 本当に、ただ眠っているだけで。
 頬を抓んでやれば、痛みですぐに目を覚ましそうなのに。
 実際に手を伸ばして、閉ざされた瞼に被さる前髪を払いのけ、柔らかい頬に触れて、撫でて。頬を抓るのはさすがに気が引けたので、耳たぶを掴んで軽く、引っ張ってやった。
 反応は、無かった。
「……っ」
 声は出なかった。代わりに涙が一気に溢れ出て綱吉の顔を汚した。嗚咽が漏れて、空っぽの両手で顔を覆い隠す。いやいやと子供のように首を振っても、変化を見せない現実がただ押し寄せてくるばかり。
 全身から力が抜け、綱吉はその場に崩れ落ちた。膝立ち状態で倒れるのだけは回避したが、いっそ床に転がって両手両足を投げ出して暴れてしまいたかった。
 信じない。こんな現実は信じたくない。
 頭を振って綱吉は受け入れがたい現実に拒絶反応を返す。だが安定したリズムで送り出される電子音と、耳を澄ませば聞こえる、呼吸器越しに拡張された獄寺の呼気や、扉越しに感じる人の気配に、夢であればいいという願いは虚しさに打ちのめされる。
「なんで……っ」
 このことばを、この数日間でいったいどれくらい呟いただろう。
 心の中で、独り言として、自分自身に対して。そして獄寺に対して。
 幾度と繰り返しされたことばは、今度も答えを見出せぬまま、静かに朽ち果てていく。積もり重なった灰で、身動きが出来なくなりそうだ。
 扉が開いて、看護師が検診の為に入って来たが、ベッド脇に佇む綱吉に事情を察したのか、何も言わずに静かに扉を閉めて出て行った。
 声を上げて泣きたいのに、声すらも出ない。ただ止め処ない涙に翻弄されながら、綱吉は辛うじて搾り出した声で、獄寺の名前を呼んだ。
 返事は、なかった。

 数えるのも億劫で、カレンダーはなるべく見ないようにしていた。
 朝は目覚ましが鳴るよりも先に目が覚めて、二度寝も出来ぬままベッドの上でぼんやりと時間を過ごす。迎えに来る人がないままに学校に行って退屈な授業を受けて、山本と言葉少なに昼食を片付け、聞いているのかいないのか分からないままに午後の授業を終える。掃除もそこに教室を飛び出してバス停まで走り、本数の少ないバスに駆け乗ってお年寄りに囲まれながら隣町の病院に通う毎日。
 最初はクラスメイトなんかもついてきてくれたが、日を置くに従って綱吉につきあう人はいなくなった。
 彼らを薄情だと詰るつもりはない。人にはそれぞれ生活があり、重きをおくものがある。綱吉はたまたまそれが病院への見舞いであっただけで、他の人は違うのだから。彼だってクラスメイトでも、特別親しい相手でなければ一度顔を出しただけで、以後はよほどでない限り見舞いになんて行かないだろう。
 バスを降りて少し歩くと大きな病院が聳え立っていて、正面の自動ドアを抜けるとまずは外来の患者用のロビーがある。綱吉は手前側にある三階までしかないエスカレーターではなく、もっと上の階まで繋がっているエレベータに乗り込んだ。目的の階のボタンを押し、下から何かが競り上がってくる感覚に耐えながら段々と数字が大きくなっていく階数表記を見上げる。
 ポーン、という軽い音を響かせてエレベータは止まり、綱吉を降ろすと無音で扉は閉まった。病室が居並ぶ廊下は明るく、エレベータホール前のロビーではソファに座った入院患者が、テレビを見ながら雑談している姿が見られた。
 既に毎日訪れている綱吉の顔は知れ渡っていて、励ましや慰めをくれた人の姿も見られる。彼らは綱吉の姿を認めると、気楽な調子で片手を挙げて挨拶をしてくれる。逐一返すのも億劫なので、まとめて一礼して挨拶に代え、綱吉は目的の病室へそそくさと向かった。
 すれ違う看護師たちとも既に顔見知りであり、軽く会釈だけをしてすれ違う。
 綱吉が目覚めたその日の午前中に精密検査を受けた獄寺は、脳波に異常なしと診断されてしまい、意識が戻らない理由は結局分からないままだ。綱吉やビアンキが呼びかけても反応はなく、最悪このままずっと意識不明のままかもと心配していたら、医者はこともなげに、何かきっかけがあればすぐに目を覚ますだろうと楽観的なことを言っていた。
 実際怪我はしているものの、頭へのダメージは殆ど見受けられないのだという。とはいえその全容が未だ解明できていない脳だから油断は出来ないわけで、獄寺は病室をもっと奥にある個室に移しそこで過ごしている。
 引き戸タイプの扉を開け、一歩足を踏み出す。ビアンキが来ていたのだろうか、いつもは閉まっている窓が開放されてカーテンが静かに揺れていた。鞄を下ろしながら綱吉は部屋を見回すが、誰もいない。既に帰った後だろうか。
「こんにちは、獄寺君」
 妙に他人行儀な挨拶だと、自分でも思う。ベッドサイドに近づきながら呼びかけ、鞄を椅子に預けた。枕元の棚には花瓶が置かれ、綺麗な花が咲いている。彩りや種類の趣味の良さで、ビアンキが持ち込んだものだろうと容易に想像できた。昨日も別の花が飾られていたから、毎日買い換えているのだろうか。
 獄寺は、今日も変わらない寝顔でそこにいた。
 最初は間近で見つめるのも辛くて、すぐに泣き出してしまいそうになっていた綱吉だったけれど、時間という薬がじわじわと効力を発揮してきているのか、今では涙も浮かばなくなっていた。その代わり、胸を締め詰められる痛みは酷さを増している。
 綱吉は椅子に置いた鞄を持ち上げて腰を落とした。鞄を膝に載せて口を広げ、中から学校で渡されたプリントを取り出して広げる。複数枚あるそれは課題であったり、学校からのお知らせであったり様々だ。主不在の机に置かれているものを、毎日綱吉が回収して届けている。
 それらを一枚ずつ、眠っている獄寺に向けて広げ、内容を説明していくのが彼の日課だった。返事はないし、反応すら返ってくることはなかったが、言ってしまえば他にすることがなく退屈であり、顔を見て過ごすだけの時間は綱吉の心を締め上げるばかりなので、虚しくても何かをしていたかった。
「あと、今日すごい事があってさ。ほら、獄寺君も知ってるでしょ?」
 バスケ部のクラスメイトが、全国大会への選抜チームに選ばれた。掃除の時間にバケツに足を突っ込んでひっくり返るという馬鹿な奴がいた。学校へ行く途中にある畑の傍で、綺麗に花が咲き乱れていた。
 たわいもない話を、延々と繰り返す。相槌を返してくれる相手がいないのは寂しい限りだけれど、自分が沈黙してしまうとそれだけで空気が重苦しくなってしまう。ラジオでもあれば良いのに、と綱吉は呼吸の合間に思った。
 視線を上げて窓を向く。明日の天気予報は曇りになっていたが、その通りを予見させる曇り空に、太陽だけが妙に赤々と浮かび上がっている。雲がなびく地平線は灰色なのに、太陽だけが赤く染まっている。
「ねえ、獄寺君」
 君は今、どんな夢を見ているのだろう。追いかけても、追いかけても、追いつけなかったあの日の夢を思いながら、綱吉は呟いた。
 視線は窓を向いたまま。ちらちらと揺れ動くカーテンが視界から消えては現れ、彼の意識をぼやけさせる。
「ごめんね、なんか色々。俺、獄寺君に怪我や、命に関わるような真似事を、本当はして欲しくなんかなかったのに」
 結局綱吉が原因で、獄寺は傷を負い、今も意識は戻らぬまま。
「俺、獄寺君が恐かった。でもずっと、その恐い理由が分からなかった。ううん、違う。考えなかったんだ、考えないようにしてた。でも、もう気づいた、解っちゃった。獄寺君が恐かった理由、分かったんだ」
 君はいつも、自分の身体を顧みずに敵にぶつかっていく。自分を巻き込んで、傷つけてでも倒そうとする。その危うい戦い方は、綱吉の望むところではない。ただでさえ誰かを傷つけたり、自分が傷ついたりするのを怖れている綱吉だからこそ、獄寺のように、自ら戦いを求め、敵を呼び寄せる存在は恐怖以外の何物にもなり得ない。
 マフィアの十代目をかたくなに拒むのも、無論自分の意志を尊重されない事への反発心からというのもあるが、大切な友人や、仲間を危険な目に遭わせてしまう環境が何より、好ましくなかった。自分ひとりが傷つき、倒れるのならば、自分が我慢すれば事足りるけれど、今の状態は決してそうならない。本当は戦いたくない相手と拳を交えるのも、単純に勝った、負けた、の問題で片付けてしまうのも、綱吉は嫌だった。
 何より獄寺には、ボンゴレ十代目として在る自分ではなく、ただの沢田綱吉として見て欲しかった。それは、彼が、綱吉が危険に巻き込まれた際には他の何を置いてでも綱吉を庇い、守り、自分が傷を負うのを躊躇わないからで。
 雷雨が町を襲った日に、獄寺が当たり前のように綱吉を胸に抱き込んで庇ったような出来事の、もっと酷い状況がいずれ訪れると、綱吉自身気づいて、それがなにより、恐ろしかった。
 その恐怖を認めてしまったら、本当にそんな日が来ると認めてしまった事に繋がるようで、恐かった。
 だから逃げて、逃げ回って、見ないふりをして、気づかなかったことにして、忘れようとした。無かった事にしてしまいたかった。
 夕暮れ時の少し冷たい風が窓から吹き込み、綱吉の髪を揺らす。西の空に浮かぶ赤い太陽は徐々に、だけれど確実にビルの谷間に沈んで行く。あと少しで面会時間も終わるので、綱吉は帰らなければならない。病院での夕食の時間も早いから、そろそろ獄寺への食事も用意されて運ばれて来るだろう。
「俺さ、獄寺君の事、好きだよ。うん、大好き……だから」
 不意に泣きそうになって、綱吉は口元を手で覆い隠した。
「だから、ね? 俺は、獄寺君に……死んで欲しくない……」
 堪えきれない涙が一粒、頬を伝って綱吉の指先を濡らした。続いて反対側も、彼の手首を薄く濡らす。
 静かに横たわり、微動だにしない獄寺の右の指先が、僅かに痙攣に似た動きを示す。だがそれは一瞬過ぎて、綱吉の視界には入らなかった。
「俺、ごめんね、馬鹿だから気が付くの遅くて。もしかしたら獄寺君は俺の事、愛想尽かして嫌いになっちゃったかもしれないけど、俺はそれでも獄寺君の事、大好きだから」
 袖で乱暴に両目の涙をぬぐい去り、綱吉は無理矢理に笑顔を作って言った。そして口を開けたまま膝の上で待ち惚けしている鞄を片付け、持ち込んだプリント類はベッド脇の棚の、一番上の引き出しに押し込む。
「じゃあ、俺、帰るね。明日もまた来るから」
 もう一度目を擦って最後の涙を拭い、綱吉は窓を閉めようと鞄を椅子に置いて立ち上がった。獄寺に背中を向け、のろまな亀の動きで歩き出す。
 後ろで獄寺の唇が、息を吸って吐くのとは異なる動きを見せているのに気付かずに。
 両手を伸ばし、額を窓ガラスに押し当てるようにして、窓を閉めて。
「……め……」
 微かに耳に届く、風や、廊下からの響く機材を動かしたりする金属音、人の声、足音とは全く異なる音があるのに、漸く。
 気が付いて。
「……じゅ……ぃめ……?」
 振り返る。
 瞬間、膝が抜けそうになるのを必死で堪えている綱吉がそこにいた。タイミングを計ったかのようにドアを開けて入ってきた看護師が気付いて、奇声のような大声をあげながら慌てて廊下に飛び出して医者を呼びつけて、あとはもう、散々だった。
 ビアンキも連絡を受けてすっ飛んできたけれど、彼女が来るまで綱吉は帰れなくて、彼女が来てからも何故か帰して貰えなくて。状況が一番分かっていないのは獄寺本人で、彼はトラックに撥ねられる直前からの記憶が丸ごとすっぽ抜けていた。
 意識が戻った事で更に検査が行われ、どたばたしている間に日は暮れていて、綱吉が自宅に帰り着いたのは結局夜中になろうとしている時間だった。しかも山本が、どうしてだか綱吉の家で彼の帰りを待っていて、「良かったな」と言われて頭を撫でられた途端に現実感が戻ってきて、綱吉は今度こそその場で腰を抜かし、起きあがれなくなってしまった。
 何がきっかけで獄寺の意識が戻ったのかは、よく分からない。何かあったのではないかと医者にも聞かれたが、答えられる筈もなく、綱吉は曖昧に笑って誤魔化すのが精一杯だった。
 ただ、後日。
 幾度かの検査の末、異常なしと診断された獄寺がやっと退院の日取りが決まった、その一日前。
 いつものように放課後の時間を利用して病院を訪れていた綱吉は、獄寺に散歩に誘われて屋上へと出向いた。そこは学校の屋上とは違い、物干し竿が等間隔で並んで真っ白いシーツが干されている手狭感を抱かせる場所だった。
 だが風は絶え間なく吹き、重苦しい雰囲気がある病院内とは開放感からして違っていて、綱吉は思わず足を止めて深呼吸をしてしまった。
「十代目、ここから町並みが綺麗に見えますよ」
 シーツの海の向こう側で獄寺が手招きをして、綱吉もそちらへと向かう。背の高いフェンス越しに、綱吉の住む町が小さく見えた。
 あれから獄寺との関係が何か変わったかと言えば、それは全く、何も無かった。ただ彼は事故に遭った時の状況を綱吉や、他の面々から聞かされて状況を理解し、自分の力量の足り無さにひたすら恐縮していた。
 彼は綱吉が最後に言い放った台詞を、覚えて居なかった。無論綱吉が眠っている獄寺に向かって語りかけた内容も、聞こえていた筈がなく、何も覚えていない。
 それは綱吉にとって、救いであったか、否か。
 結論は彼自身にも、まだ出ていない。確かに寂しくはあるが、以前と変わらぬ接し方が出来るのは有り難かった。
「いよいよ、明日退院だね。学校があるから来られないけど、気をつけてね」
 煽られる髪の毛を片手で押さえ、綱吉は未だギブスが外れないで居る獄寺の左腕を見た。上腕部からがっちりと固定されている為、大分動きづらそうだし日常生活にも支障が出るだろう。予想よりも怪我の治りが早いとかで医者を驚かせていたが、当分は不自由な生活を強いられる事になる。
 だが獄寺は何でもないように笑って、大丈夫ですよ、とことばを返す。
「俺、見た目よりも頑丈ですから」
 にっ、と歯を見せて笑って、彼は右腕を持ち上げる。肘は曲がらないので、白く太い棒が前後に揺れる感じに近い。綱吉は肩を竦め、気丈に振る舞いたがる彼に嘆息した。
 そんな綱吉の横顔を見つめ、獄寺が瞳を細める。
「ご心配、おかけしました」
「本当だよ」
 神妙な口調でしんみり言うものだから、つい綱吉は反発するような事を言ってしまった。
「すっごい、心配したんだから」
 フェンスに両手の指を絡め、視線を遠くに投げつけて、綱吉は身体を前後に揺らす。
「死んじゃったらどうしようって、凄く心配した」
「すみません」
 横目でちらりと獄寺を盗み見ると、彼は綱吉に向かって九十度の角度で腰を曲げて頭を下げていた。思わずぽかんと口を開けたまま見守ってしまう。ゆっくりと顔を上げた彼は、しかしどこか真剣な顔をして、
「でも、俺はあれくらいじゃ死にませんから」
 十代目を置いて、死んだりしませんから。
 瞳の裏にそんな思いを滲ませて、彼は綱吉を真正面から射抜く。ドキリと心臓が跳ねて、顔が赤くなっていくのを自覚して、見られているのが恥ずかしくなった綱吉はまた西の方角を向いた。夕焼けを浴びていれば、顔の赤みはきっと誤魔化せるだろう。
 しかし獄寺の視線を感じて、どうにも落ち着かない。フェンスに絡ませた指を意味もなく動かしながら、頬を撫でる温い風を感じて、いつもより早い呼吸を繰り返す。
「俺、意識が無い間ずっと夢見ていたみたいなんスね」
「夢?」
「はい。暗いばっかりの場所で、俺はそこにひとりで突っ立ってました」
 周囲を見回しても何もなくて、誰かいないかと叫んでも返事はない。歩き続けても出口は見えず、壁にもぶつからない。聞いていて、綱吉は自分が見ていた暗闇の中にある溝を思い出した。
 無意識に、両手に力が入る。フェンスがカシャン、と軽い音を立てた。
 追いかけても、追いつけなかった背中。呼びかけても振り返ってくれなかった背中。心が引き裂かれそうになった、あの暗闇には二度と戻りたくない。奥歯を噛みしめて綱吉は熱い息を吐く。
 その背中に、暖かなものが触れた。自由な側の左腕を綱吉に回して、獄寺が後ろから綱吉を抱きしめた。
 びくっ、と綱吉は全身で震える。ますます強くフェンスにしがみついて、逃げだそうと腰が引けてしまう。獄寺も分かっているのだろう、ややしてから押し殺した声を零した。
「でも、聞こえたんです。十代目の声が、俺を呼んでいる声が聞こえて、俺は……」
 彼はそこで言葉を切った。思い詰めるような間合いに、綱吉は動けない。
 ややあって、獄寺は首を振った。瞼を閉ざし、何かを堪える。
「……嫌なら、逃げてください。前みたいに」
 その声があまりに切迫していて、苦しそうで、綱吉はハッと目を見開いて前方を凝視する。獄寺の顔は、恐くて振り返られない。腰に回された彼の左手が、遠慮がちに綱吉を拘束する。暴れれば今すぐにでも逃げ出せるように、獄寺はギリギリのところで耐えている。
「お願いです、十代目。今拒否してくれたら、俺はもう追いかけません。だから嫌なら嫌と、今ここで、そう言って下さい」
 左の肩口に重みを感じた。獄寺が凭れ掛かり、そこに額を押しつける。ややくぐもった声で苦しそうに紡がれる彼の言葉に、綱吉は目を閉じた。
 目の前の世界が闇に堕ちる。静かな、寂しい景色が広がって、目の前には深く広い溝があった。
 向こう側には獄寺がいる。小さいと感じていた光が、今はとてもとても、大きく見えた。
 綱吉は黙って手を伸ばす。あれだけあった距離が、一瞬で縮まるのが分かった。
 この手がどうか、届きますように。そう祈りを込める。
「十代目……」
「獄寺君、お願いがあるんだ」
 綱吉はフェンスから手を離した。錆びがついた手のひらを見下ろし、ぎゅっと握りしめた。
「危ない事は、これからはできるだけ、しないで」
「……努力します」
 低い声で、実に不安な返事が戻ってくる。それがあまりにも彼らしくて、綱吉はつい笑ってしまった。
「あとね、それから」
 綱吉は獄寺の緩い拘束を利用して、身体を反転させた。背中をフェンスに預けて凭れ掛かる。少し視線を持ち上げると、予想外な事に驚いている獄寺の顔があった。
 こんなに身近から見上げるのは、随分と久しぶりの気がした。
「出来れば『十代目』じゃなくて、名前で呼んで欲しいんだけど」
「え!?」
 それこそ予想外だったらしい。獄寺はあからさまに驚いて、綱吉から手を離して半歩も後ろに後ずさった。あまりの失礼さに、綱吉の表情が険しくなる。唇を尖らせて不満を露わにすると、恐縮した彼は何度も首を横に振りつつ、それは出来ないと繰り返す。
「そんな、十代目のお名前を呼ぶなど、自分には恐れ多いです!」
 両手を振り上げて力説されて、綱吉は苦笑するしかない。
 最早彼の中では、「沢田綱吉」=「十代目」の図式が完成しているのだろう。綱吉が拘っていた「十代目と呼ばれたくない」という思いも、彼の中では的外れな意見だったに違いない。獄寺にとって、十代目即ち沢田綱吉。どちらも同じで、違いなんて無いのだろう。
 獄寺のあまりの狼狽ぶりに、綱吉はつい声を立てて笑ってしまった。
「じゃぁ、さ。一回だけ。ダメ?」
 悪戯っぽく片眼を閉じて尋ねると、暫く黙って考え込んだ獄寺が眉間に深い皺を刻んで、本気で悩み出す。何をそんなに葛藤するものがあるのだろう、たかだか名前を呼ぶだけなのに。
 不思議でならない綱吉は、だから余計に彼に名前で呼んで欲しかった。例え一度きりであっても、それはきっと綱吉の中で永遠に消えない思い出のひとつになるだろうから。
 それに、一度呼んでしまえばそのうち慣れてくれるのではないかとも、思う。「十代目」と呼ぶ彼の声が聞こえなくなるのは、彼らしいところがひとつ消えてしまうようで、それはそれで、少し寂しくもあるけれど。
 カラカラと笑い声をあげる綱吉に、今度は獄寺が不機嫌に顔を歪める。
「では、十代目」
 開いていた距離を詰めて、綱吉に躙り寄った獄寺が低い声で呟く。
「もし俺が、十代目の名前を呼んだら」
 キスをしても、良いですか?
 その突拍子も脈絡もないひとことに、ぴたりと笑い止んだ綱吉が呆然と彼を見上げる。夕暮れ時、逆光を浴びた彼は輪郭がぼやけて顔がはっきりと見えない。残念だな、と思いながら綱吉は赤くなる頬を隠すのも忘れた。
 小さく、頷いた。
「でも次からは、そういう事、言わなくて良いから……」
 掠れた声での反論は、夕闇に解けて、消えた。
 耳の奥で獄寺の声が反響して、消えない。今夜眠れなかったら彼の所為だ、そんな風に考えて、綱吉は静かに目を閉じた。

don’t leave

 Deuilは三人組のバンドであるが、活動はバンドだけ、ではない。
 歌は三人の名前で発表することもあれば、ソロで各自出したりもする。或いは自分では歌わず、楽曲のみを誰かに提供したり、アッシュに関しては料理本を出したりと活動は幅広い。
 ユーリの考え方で、固定概念に囚われないで好きな事を好きなようにやれという方針はバンド結成時から何も変わっていない。最近では特に、三人揃っての活動の方が少ないくらいだ。忙しい時期は人それぞれに異なり、朝から晩まで顔を合わせない日もある。
 もっともレコーディングも出来る施設が彼らの暮らす城の地下に設けられており、そういう日は逆に珍しかったりもするのだが。
 けれどいくら最新鋭の機材を取り揃えているとはいえ、世界中にある全ての機材が用意されているわけではない。高価すぎて個人ではとても所有できない機材も数多いし、そういうものを使いたければやはりどうしても城の外の設備を利用せざるを得ない。大体そういうものに精通しているのがスマイルで、彼はユーリの希望を聞いて次の日には、どこそこの誰々が希望する機材を所有しており、いついつならば借りられるという約束まで取り付けていたりする。
 そういう素早さならば持ち合わせているというのに、彼自身は自分が歌う曲目にあまり関心が無いようで、強く依頼されればソロ活動も断らないが、大体いつも他者へ提供する楽曲作りが主な仕事になっていた。
 だから今日も、ユーリはスマイルが手配してくれたスタジオへ録音の為に外出するというのに、肝心のスマイルはスタジオの住所や電話番号等を書いたメモを渡しただけで、城で留守番。アッシュは既に自分が見つけてきた仕事に出かけており、城内は静まり返っていた。
 ふたり分の足音が、やけに大きく響いて聞こえる。ホールの奥に陣取る古い柱時計が時を刻む間隔に合わせて足が前に進むのには随分前から気づいていたが、今更修正も出来ない。
 何故だか、落ち着かない。
 理由をあれやこれや考える。しかし明確な回答が出ないまま正面玄関の扉まで到達してしまい、悶々とした気持ちのまま、ユーリは思わずその場に立ち尽くしてしまった。と、その背後でやはり同じように足を止めたスマイルが、ゆっくりと前屈みになって手にしていたこげ茶色のトランクを床に下ろした。
 それは、ユーリがこの先数日間、レコーディングの為に城へ戻ることが叶わない故の手荷物。ひとまず三日間を予定しているのでその日数分、必要な着替えや小物、そういった諸々の物が詰め込まれている。
 他に足りないものがあれば、その時に買い足せば済む。今や周囲に物は溢れ返り、必要の無いものと必要なものとの区別も曖昧になってしまっている。外泊となるのでアッシュの手料理は望むべくないが、あちこち食べ歩いてみるのもまた楽しみのひとつとなろう。
 仕事なのだから、あまり浮かれてもいられないのは分かっている。けれど常ならば新しい場所、新しい出会い、新しい歌――そういった楽しみに心躍る出発の時間である筈なのに、今のユーリの心を占めるのは、妙に落ち着かない、形のない不安定な感情だった。
「ユーリ、時間大丈夫?」
 ちらりと背後を振り返り、遠く柱時計の文字盤を見やったスマイルが尋ねて来る。その声に我に返ったユーリは、内心の動揺を悟られまいとして平然とした表情を装いながら、非常にゆっくりと彼の顔を見上げた。
「あ、ああ……そうだな。そろそろ出ないと」
 交通の便が非常に不便な為、専用のタクシーを呼んでいる。もうそろそろ門前に到着するだろうから、城の前で待っていなければならない。いつもならばアッシュが運転手をしてくれるのでその必要は無いのだが、今回彼は別件で不在。スマイルも城に残らねばならない仕事があり、ユーリはひとりでホテルに宿泊する予定だ。
「ユーリ」
「なんだ?」
 スマイルが此処まで運んでくれたトランクに手を伸ばす。膝を軽く折り曲げたところで名前を呼ばれた。
「ホテルの名前覚えてる?」
「私を馬鹿にしているのか」
「違うケド。この前間違えて覚えてて迷ってたデショ?」
「……」
 さらりと、古傷を抉るようなことを言われた。僅かながらダメージを受け、黙り込んでしまう。睨んでやりたかったのだが出来なかったのは、スマイルがふっと視線を外して何も無い空間に顔を背けてしまったからだ。
 視線が絡まない、だからか。不安になる。
「今回はちゃんと覚えている」
「住所も? 似たような名前のホテルがあるから、キヲツケテネ」
 揶揄を含んだ口調にムッとなるが、以前に何度か、本当にホテル名を間違えて覚えて壮大に迷った経験があるだけに、強く反論出来ない。けれど口元をキッと強く結んで力を込めた目で見上げると、肩を竦めたスマイルがごめん、と一言だけ謝って来た。
「これ。一応、メモしておいたから」
 そうやって差し出されたものは、二つ折りにされたB6サイズの紙。訝しげにしながらも受け取って、指の先を間に挟み広げる。左上から順番に書かれている右肩上がりの少々癖がある文字は特徴が強く、一目で誰が書き記したものかわかった。
 顔を上げる。幾らか自嘲気味なスマイルが苦笑いを浮かべていた。
「必要なければ、捨ててイイよ」
 そういわれると捨てづらくなる。ざっと目を通した限り、紙には宿泊先のホテルの住所、連絡先の代表番号、それから録音スタジオの住所や連絡先、ホテルからの経路を示した簡単な略図までびっしりと隙間を埋め尽くしていた。
 まるで母親から買い物を頼まれた小学生の子供のようだ。複雑な気持ちのまま、メモを折り畳む。
「ユーリ?」
「不要だとは思うが……念の為貰っておく」
 目を逸らして呟きながら、紙を懐に入れた。心持ち顔が火照っているのは気のせいではないだろう、頬が朱に染まりすぎていなければ良いのだが。
 すぐ間近でスマイルが微かに笑ったようだ。なんとなく照れくさく、視線を合わせ辛くてそのままトランクを持ち上げ、扉へと向き直ろうとする。その背中に再び、スマイルの声がかけられた。
「お金、余分に持ってる?」
「心配ない」
「財布ひとつにまとめないで、幾つかに分けて持ち運ぶんだよ」
「言われなくても分かっている」
「着替えはちゃんと必要分持った?」
「予定分は持った。足りなければリネンを利用するか、向こうで買う」
「忘れ物、無い? ハンカチ持った?」
「小学生が遠足に行くわけではないんだぞ」
 逐一確認してきて、延々続きそうな予感を抱き、肩越しに振り返って軽く睨む。スマイルの露出する右目がスッと細められ、実に楽しそうに笑っているのが表情で見て取れるものだから、癪に障った。
 遊ばれている、時間が無いというのに。
 分厚い扉越しに、遠く、車が停車するブレーキの音が聞こえた。呼んでおいたタクシーが到着したのだろう。
「忘れ物、本当に無い?」
「無い。あったらあったで、着いてから考える」
 今は出かけるのに気が向いていて、昨夜のうちに準備を終えた荷物の中身を反駁している余裕もない。しつこく尋ねられてもすぐに思い出せるわけはなく、次第に苛立ちが募ってくる。そんなに心配ならば、自分も同伴すれば良いのに。
 けれど仕事を理由に彼は共に出かけるのを拒み、見送る側に立っている。
 ひとりで行かなければならない不安と、一緒に来てくれるのではないかという期待と、余計なお節介だと鬱陶しく思う気持ちとが絡み合って、なかなか「行って来ます」の言葉が出ない。
 口ごもり、背中の方がむず痒くなるような感覚に陥りながらスマイルを見上げると、彼は飄々としたいつも通りの態度で、穏やかに、笑っている。
 そうしてふと、気づいた。今の自分の置かれている状況に、自分が何故こうも慣れないでいるのか。その理由に。
 自分たちは活動が基本的に三人組であり、ソロでの活動が最近活発になって来ているとはいえ、お互い仕事のどこかしら誰かが絡んでいる。現に今回もスマイルはスタッフとして参加しているから、ソロ活動とはいえグループ単位で動き回る場合が比較的多かったのだ。
 つまりは、どこかへレコーディングに出かけるにしても、一緒に行く場合が殆ど。だから今回のような、ユーリがひとりだけで出かける、そんなシチュエーションが限られていた。
 常に隣にいた相手に、見送られるという状況。単独行動を好むスマイルを見送るパターンは今まで多々あったけれど、彼に見送られるという逆パターンは久しく無かった。
 言い慣れない、「行って来ます」のひとこと。
「ユーリ」
 これ以上タクシーを待たせるのも相手に悪い。先方との約束の時間だってあるわけで、早く出かけなければならないのはよく分かっているのだが、足が思うように動かない。じっとスマイルを見上げたままでいると、流石に不審がった彼が小首を傾げた。
 囁くように名前を呟かれ、ユーリは我に返る。
「イイノ?」
 彼が顎をしゃくって示したのは、ホール奥の柱時計。現在時刻までは遠すぎて見えなかったが、足の疲れ具合からして、かなり長い間此処に立ち止まっている自分を思い出す。
 これ以上待たせるのは得策で無い。それは分かっている。
 けれどこうやってスマイルが時間を気にして早く行けと急かして来る行為が、ユーリにとってはさっさといなくなれと言われているような気分になるのだ。無論スマイルにそんなつもりがないのは承知しているが、ならばいっそ、彼が先に部屋に戻ってくれる方がずっと楽なのに。
 臍を噛み、ユーリはトランクの持ち手を強く握り締めた。
「では、な」
 たかだか数日間離れるだけだ、それに会おうと思えばいつだって連絡が取れるし、多少スケジュールがきつくなるものの、抜け出せなくも無い。まるで今生の別れのようだと皮肉げに自分を笑って、ユーリは扉に再度向き直った。右手を添えて軽く押すと、扉は促されるままに重い音を響かせて外側へと開かれていく。
 全開にすればトラック程度なら悠々と入ってこられそうな大きさの扉が、ユーリひとりが通れるだけの幅に開いて止まった。日の光が足元を照らし、薄暗かった場所からの明度の変化に彼の瞳は自然細められた。
「ああ、そうだ」
 歩き出そうとするユーリへ、再び茶々を入れるスマイルの声。今度は邪魔されるまいと振り返らずにやり過ごそうとした彼だったけれど、
「ユーリ、忘れ物」
 そう呼び止められては、振り返らずを得ない。
 扉から身体半分を抜け出した状態で足を止め、スマイルを仰ぎ見る。けれど彼の手は空っぽで、忘れ物と言われそうな代物がどこにも見当たらなくて首を捻る。
 目の前が、唐突に薄暗さを増した。
 ちゅっ、と短く小さな可愛らしい音。
 一瞬反応が出来ず、また状況が理解できなくてきょとんとしている顔を前に、スマイルがニッと三日月の唇を更に細めて笑った。直後、ユーリの顔が真っ赤に染まる。鏡で自分の顔を見る必要性が無いくらい、全身が一瞬にして火照った。
 さながら茹で上がった直後のタコのように。
「すっ、スマイル!」
 ワンテンポどころかスリーテンポ以上遅れて怒鳴り声をあげた時にはもう、危険を予測したスマイルは五歩以上後ろに下がっていた。これでは振り上げた拳も彼に届かない。虚しく空を切った拳の行き場に困り、結局汚れてもいないのに、服の胸元に表面を擦り付けた。
 からからとスマイルが笑う。企みが成功した子供の顔だ。
 扉が半端ながら開いたのに気づいたのだろう、車のクラクションが数回鳴った。トランクの端がはみ出ているし、運転手もそろそろ痺れを切らしそうだ。
 出かける時間だ。
「ユーリ」
 踊るように広いホールを飛び跳ねて、スマイルが言った。
「イッテラッシャイ」
 持ち上げた手を軽く左右に振って、見送りの仕草を。
 我に返ったユーリは、照れ隠しにコホンとひとつ咳払いを。
 そして、しつこく鳴り響くクラクションに負けないよう、胸いっぱいに息を吸い込んで吐き出す。
 顔は自然と、笑みを零していた。

「行って来ます」

Thumb

 コーヒーでも飲もうと思い、リビングに降りていくと先客が居た。
 先客といっても、元々はこの城の主であり自分が所属するバントのリーダーなのだが。
 扉を開けたちょうど真向かいに置かれているリビングソファーに、こちらに背を向ける形で座っている。更にその奥正面壁にあるテレビは、画面は真っ暗で電源が入っていないのは目に見えて明らか。薄く、邪魔にならない程度にクラシック音楽が室内に流されていた。
 眠くなる環境が既に整えられているくつろぎの場に、早々に部屋へ戻るべきか一瞬迷って、当初の目的であるコーヒーだけでも入手しようと、ドアを後ろ手に閉めてリビングに入った。
 ドアの閉まる音を聞いたのか、ユーリが振り返る気配がする。だが声をかけてくることはなく、黙って見送られてしまった。ちらりと後方を窺うと、彼は既に意識を自分の手元に向けてしまっていて、やや俯き加減になりながら頬を撫でる銀の髪を頻りに掻き揚げていた。
 ソファの肘掛が邪魔で、彼の全身は見えない。それを少し残念に思いながら、視線を進行方向へ戻した。
 リビングとダイニングは二間続きになっていて、明確な仕切りは無い。区切るとすればリビングに敷かれている豪奢なカーペットが終わる場所、といったところか。足の裏の感触が柔らかい布地から硬質な木材に代わり、歩く度に小さく木を叩く足音が響き渡る。
 いったい何人が着席できるのか分からない、細長いテーブルの脇を突っ切ろうとしたら、最もキッチンに近い席にアッシュが座っているのが見えた。何かに熱中しているのか、ユーリと違ってこちらに気づきもしない。
 スマイルはやれやれと軽く肩を竦め、構わずに開けっ放しの扉を潜り抜けた。ダイニングから一枚扉を経ただけで、そこはある意味アッシュの城になる。
 右手の壁一面に食器棚、真正面に流し台やコンロが並ぶ調理台があって、入り口から入ってすぐの左手には広めのテーブルと、椅子。細く長い足のスツールで、時間のかかる盛り付けなどはこのテーブルを使い、椅子に座って作業するアッシュを幾度と無く見かけてきた。だが肝心のアッシュは今この場所にはおらず、がらんとしている。
 北向きにあるため日差しも殆ど入らない、明かりをつけないと薄暗くて物寂しい限りのキッチンにそう長居は無用。食器棚の横にある大型の冷蔵庫を開け、作り置きのコーヒーを取り出す。
 ペットボトルの蓋を開けて、水切りの為逆さまに並んでいたグラスをひとつ拝借し、注ぎいれる。後から氷を入れておけばよかったと後悔したが、グラスの縁ぎりぎりまで注いでしまってからではもう遅い。仕方なく、温む前に飲みきってしまおうと、冷蔵庫へはボトルを戻すだけにする。
 グラスは見る間に周囲に薄い水の膜を作り、水滴が上から下へ行くに従って容積を大きくしていく。握り持つ指先だけが冷える感覚は、唇を通して身体全体に広がっていくようだった。
「ふぅ」
 思わず漏れた吐息に、口元を拭って唇を舐めた。まだ大分残っているグラスを軽く揺らし、もう少し明るい場所へと、光に導かれる昆虫のようにキッチンを出る。ダイニングに戻ると、相変わらずアッシュがこちらに背中を向け、巨大なテーブルを前になにやら考え込んでいる模様。時折、濃緑色の髪をガシガシと掻き毟っている。
 何をしているのだろう、ふと気になった。考え事をしているように思えるが、アッシュが机においた肘の向こうに広げられている本は、割に分厚く大判。まさか百科事典でも広げているわけではあるまいと思いながら、彼の方へと歩み寄った。
 距離が狭まるにつれ、スマイルのその姿は少しずつ薄くなっていく。笑っていると何故か口だけが見えてしまう為、意識してあらかじめしっかり唇を閉ざしておく。そうして全く気づかないでいるアッシュの背後に立った時にはもう、彼の姿はすっかり掻き消えて透明になってしまっていた。
 彼の姿だけ、は。
 首を伸ばし、アッシュの身体に触れぬように注意だけして背後から覗き込む。大判の、カラー写真がふんだんに使われているそれは、なんて事は無い。ただの料理本だ。ページの上に大きめの完成写真、下に材料、手順と注意ポイントを示す小さめの写真。しかしアッシュは何が気に入らないのか、頻りにページを捲っては、頭を抱え前のページに戻ったり、目次を開いたりしては唸っている。
「……」
 黙ったまま眺めていたが、あまり面白くない。どうせ今晩のメニューで悩んでいるのだろうが、悩んだ分だけ美味しい料理が出来るわけでもないし。メンバーの嫌いなメニューを除外して適当に選べば済む話だと思うのだが。
 アッシュの、ごつごつした大きな手が引っ切り無しにページを捲っている。よくこんな太く細かい作業がいかにも不得手に見える指先で、あんなに繊細な料理が作れるものだ。バンド活動で絶えずスティックを握り締めている為か、指に何個かのタコが出来てしまっている。中にはすっかり硬くなってしまったものや、潰れてしまった痕も。
 この手があの料理を作り出す……なんだか不思議な気がして、スマイルはつい、ページを捲る彼の手を凝視してしまう。だから、持ったままのグラスの底から水滴が滴り落ちたのが分からなかった。
 アッシュにしてみれば、何故何も無い場所に水滴が降って来たのか、とても疑問だったろう。料理本の上に添えられた手の甲に急に冷たいものが落ちてきたのだから。ぎょっとして、最初雨漏りを疑ったが外はこれでもかと言わんばかりの快晴で、それはありえない。ならば一体どこからと、首を動かさずに視線だけを持ち上げる。
 そうして見つけた、宙に浮かぶガラスのコップ。中身はまだ半分以上残っているアイスコーヒー。水滴に覆われたグラスからは新たな雫が、落ちそうで、落ちなさそうな状態でぶら下がっていた。
「……」
 ふぅ、とアッシュが息を吐く。
「スマイル」
 おもむろに、名前を呼んだ。見えない、けれど確かにそこにいる筈の人物の名前を。それからゆっくりと後ろを振り向いた彼は、少し不満げに歪められた三日月を横倒しにしたような口元を見つけ出す。不自然に中空に浮かぶそれは、他ならぬ”透明になる”という特技を持つ唯一の存在がそこにいるに他ならない。
 表情は口元以外見えない為深くまで読み取れないが、彼が今胸の中に抱えている疑問は、「何故気づかれたのか」という一点に集約されるはず。アッシュは無言のまま、空中に浮かんでいるコーヒー入りのグラスを指で小突いた。
 僅かな振動と抵抗。底部に垂れ下がっていた雫が堪えきれず、机に落ちた。
「むぅぅ」
 スマイルが低く唸る。不覚だったという感じだ。そこまで頭が回らなかった自分が情けなく思えてならないのか。姿が見えないけれど、今にも地団太を踏みそうなスマイルを想像し、アッシュはつい表情を緩めて笑ってしまった。
 途端、見えない指先が笑うアッシュのおでこを直撃する。親指をバネにした反動ではじき出された中指の威力は近距離だったこともあり、強烈で、不意打ち過ぎた。仰け反り気味に椅子に倒れ掛かったアッシュを、今度はスマイルが笑い飛ばす。
「スマイル……っ」
 酷いことをする。怒鳴りかけたアッシュの前で、ぱらぱらと、風もないのに料理本が数ページ先まで捲れていった。
 それがスマイルの仕業であると気づくのに数秒かかり、目を瞬かせたアッシュを前にして数回、前へ行ったり後ろへ進んだり、明らかに自然ではありえない動きをした本はやがてとあるページで止まった。
 宙にあったグラスも、いつの間にかテーブルに添えられている。中身は、空だ。
「今夜はこれでヨロシクー」
 高らかに笑ったスマイルの声がどこからか響き、足音が小さくなっていってやがて聞こえなくなった。
 言いたいだけ言い残し、スマイルは結局姿を見せてくれることなくいなくなってしまった。目を閉じて気配を注意深く探ってみたが、本当に近くには居ないらしい。少しして、リビングにいるユーリが驚きと怒りを半端に混ぜ合わせた声で叫んでいたから、今度は彼にちょっかいを出しに行ったらしい。
 アッシュはやれやれと肩を竦め、空っぽのグラスの縁を指で叩く。透明な音色が微かに鳴り響き、疲れていた気持ちが少し和らいだ気がした。
 テーブルに視線を落とす。開かれていたページの写真を見て、再び彼の口元は笑みに形作られた。

 今夜のメニューは、ハッシュドビーフに決定。

Reflect

 窓から差し込む光は眩しいが、薄手のカーテンに阻まれて優しい雰囲気を醸し出している。直射日光を浴びたなら目を逸らさずにいられないが、屋内で特に何も無い机にだらしなく寄りかかっている分には、まったく非難の対象にならなかった。
 それこそ文字通り、ぐたっという擬音が相応しい態度で、まだ日も高く明るい時間帯だというのに、夢うつつ状態。もっとも彼がまだ日も昇らない真夜中から仕事を開始し、ほんの三時間前まで働き詰めだった事を知っていれば、彼が眠そうにしているのも理解出来よう。
「なんじゃ、若いもんが昼間っからだらしのない」
 この事務所の主であるそこそこに年齢を積み重ねている男性が、白くなった頭から帽子を外し彼の机に歩み寄る。うとうととしていただけの彼は、けれど音も無く背後に忍び寄る存在に、それこそ背中に目があるのかと疑いたくなるほど素早い動きで反応を示した。椅子を後方に蹴り出して油断しきっている老人の意識を一瞬の間そちらに向けさせ、机の天板を弾く反動を利用し上半身を強引に立ち上がらせる。そのままの勢いで右足を斜め後方へ踏み出し、強烈な肘打ちを叩き込もうと――
 寸前で、我に返る。
 パッと見開かれた目に驚きが浮かび、急いで攻撃を繰り出そうとしている自分自身の身体にブレーキをかけようと試みる。だが脳よりもずっと速くに活性化されて鋭敏な反応を示していた肉体は、そう簡単に思う通り停止してくれなかった。
 無駄な肉が一切無い骨ばった腕が老人の顔面を直撃する――筈だった。
 二度の瞬きの間に、その齢からは考え付かない反射神経と速度で老人は、何事もない涼しい顔のまま後ろに数歩下がった。胸を僅かに仰け反らせ、眼前僅か数センチの距離で肘鉄を難なくかわす。
 一瞬後、男はちっ、と何故か悔しそうに舌打ちした。
「危なっかしいのぉ」
 ふぉっふぉっふぉ、と文字通り腹の底から息を吐いて笑いながら、老人は数歩下がり椅子に座る。見た目とは裏腹の俊敏な動きは最早見る影も無く、今自分が殴りかけたものが幻だったのかと疑いたくなった。
 夢うつつの境界線上にあっても背後に迫られた瞬間、無意識に身体が反応してしまうのは以前のままだが、自分の腕が鈍ったのかと思えば実際はそうでなく、この老人が己を上回る実力を有しているだけのこと。その歳であの動き、息ひとつ乱さずにかわされても仕方ないと納得しようとしても、やはり悔しいものは悔しい。
 そのうち一発当ててやる、と胸の内で密かな決意を抱く。そのまま、椅子を引いて座りなおした。
「その袖はどうしたー?」
語尾を伸ばし気味に、老人が聞いてきた。布地も薄いシャツの袖が、何かに擦りつけたように破れているのが目に入ったのだろう。ならば当然、破れの下に隠れている肌が包帯に覆われているのも見えているのだろう。
「べつに……いいだろ」
不機嫌な声で素っ気なく返す。
「ふぅむ。落ち込んでおるとしたら……ふられたか」
 白色の髭が無精に生える顎をなでやって目を細めた老人に、彼は机の上で転がっていたボールペンを掴み勢い良く投げつけた。だがひょいっと軽い動きで首を捻るだけで老人は簡単に避けてしまい、罪も無いボールペンは壁に背中をしたたかと打ちつけて一直線に床へ落下した。
 音だけが大きく響き、怖い怖いと茶化すような素振りで老人は肩を竦める。
「そんなんじゃねーって言ってんだろ」
 またしても当てられなかった自分に腹を立て、不貞腐れた声で反論を試みる。だが老人は何を考えているのか裏が全く読めない顔をして、次の句をにやにや笑いながら待っているものだから、そのうち話をするのも馬鹿らしく、また面倒くさく思えてきた。
 再び舌打ちし、コマ付の椅子を回転させる。机に向き直って頬杖をついたら、俯き加減の視線右斜め前方に昨日までは無かったものが見えた。カーテン越しに差し込む西日を浴びて、きらきらと輝きながら机上に影を落としている。中心部分が影なのに光に溢れ、周囲を縁取るような形で緩い楕円の影。
 ぼんやり眺めていたら、いつの間にか完全に気配を消して老人が背後に立っていた。青色のつなぎ姿を肩越しに感知し、ぎょっとして思わず身を引いてしまう。口元が緊張で強張った。
「なんじゃ、これは」
 昨日までは無かったなと、どうしてその歳でそこまで記憶力がいいんだと愚痴りそうな事を呟く。
 それはクリスタルブルーのイルカだった。掌にすっぽり収まるサイズで、質素で簡素、飾り気が全く無いオフィスの灰色をした机には到底似合う代物ではない。ましてや、彼が自分で購入して来るようなものでもなし。
 まさか拾ってきたわけでもあるまい。老人の疑うような目線に気まずそうに顔を逸らし、なんとか誤魔化しきれるだけの台詞を頭の中から探すが、見つからなかった。
 そうやって無言で過ごしているうちに、老人は何か思い当たる節を見つけたらしく、顎を一度撫でてふむ、と勝手に納得した様子で頷いた。嫌な予感を覚えて背後を振り向くと、後ろ手に手を結んだ老人が自分専用の机に戻っていく最中だった。
「いや、結構結構。若いのぉ」
 ふぉっふぉっふぉ、とまた笑う。一体何が結構で、何が若いのか。言い返してやりたかったが墓穴を掘りそうなのでぐっと腹に力をこめて堪えた。向こうもこちらの墓穴を期待しての事だから、今は言わぬが花。
 しかし腹が立つ。
 握った拳のやり場が見つからず、結局机を叩いて気持ちを落ち着けさせる。深く吐き出した息に、肘をつき机上の影を見やった。
 ガラスのイルカが変わらずに輝いている。要らないと言ったのに、押し付けられた。節くれだった無骨な手に無理やりこれを握らせてきた、細く白い腕を思い出す。
 きっかけは、あの花屋だった。

 

 いつもの通り、夜まだ暗いうちから仕事を始め、昼になろうとする頃には掃除の仕事は完了。ロッカーに汚れた青色のつなぎを放り込み、派遣先であるビルを出る。
 太陽は天頂に近く、日差しは眩しく暑い。都心部に近いオフィス街には街路樹以外の植物は殆ど見当たらず、大通りを挟んで北側の歩道は、打ち水をすれば蜃気楼が浮かびそうな熱を地表に漂わせていた。
 暑い、と口の中で呟く。むしろ熱い、という表現の方がぴったりかもしれない。まだ本格的な夏は遠いというのに、日中の気温は三十度を軽く上回ってくれているようだ。これでは夏本番になった時にどうなるか、考えただけで喉が渇き、首筋から汗が滲み出た。
 こめかみを伝った一筋を手で拭い、恨めしげに空を見上げる。雲ひとつ無い好天は宜しいことだが、確か今の時期は梅雨ではなかったのか。だというのにちっとも雨が降る様子は見られず、そのうち目が眩しさに疲れて顔の向きを戻した。
 目の前の車道には急ぎ足の乗用車やトラックの群れ。来ては過ぎ、来ては過ぎの繰り返し。速度超過ではないかと疑いたくなる車も多く、コンテナを積んだ大型トラックも忙しそうに何台も通り過ぎていた。少し先にある信号が黄色になっていようとも、お構いなしに走り抜けて危うく事故を引き起こしそうな車も、時々いる。腕に自信があるのか知らないが、その行為によってもし本当に事故が起こった時、果たしてその責任をどこまで取れるのか。単純なスリルを求めるだけであったり、時間が逼迫していたりするからという理由だけで、その先にある透明な未来を曇らせてしまうのはあまり、好ましいものではない。
 溜息をひとつこぼし、歩き出す。もう少しすれば自動販売機があった筈で、そこで冷えている缶コーヒーでも購入するつもりだった。左のポケットを布地の上から探ると、裸のまま放り込まれている小銭の感触が指先にいくつも。小銭入れくらい持ち歩けといわれるのだが、硬貨を使う機会も殆どなく、紙幣の釣銭もチップとして持って行かれるパターンが多い海外暮らしが長かった為、なかなか習慣として馴染めないままだ。
 一直線の道路、等間隔で並ぶ街路樹の影だけが灰色の舗装の上に伸びている。時間帯の為かこの暑さに外出を控える人が多いのか、人通りは極端に少ない。折角南向きで日当たりのよい立地条件なのに、道路沿いに並ぶ店舗はどれも、客の入りは芳しく無い様子。喫茶店もサラリーマン風の男性が数名、暑さからの避難なのか上着を脱いでぐったりしている程度。食事時になればそこそこの賑わいを取り戻しそうだが、あと一時間程はこのままだろう。客を待つ店員もどこか疲れ顔だ。
 再度恨めしげに澄み渡る空を睨みつけ、小銭を取り出すべくポケットに指先を突っ込んだ。変に熱のこもった狭い空間に、かつてはトリガーを引いた指が絡む。だが最早戦場は遠く、銃声は耳を劈く事もない。穏やかな日常、僅かな違和感を抱かずにいられない安穏とした空気が生ぬるく、肌に付きまとう。
 これは全て、夢なのだと。
 幻の荒廃した都市を振り払い、握り締めた小銭を引き抜く。掌を広げると、汗がにじんだ肌の上に数枚、銀と茶色の貨幣が重なり合っていた。必要額だけを残し、余りは再びポケットの中へ。緩く首を振り、ビルの壁に張り付くように設置されている自動販売機へと足を向けた。
 毎日のようにそこでコーヒーを買う、ここ最近の日課と化していた。取り立てて特徴の無い、その辺にある自販機となんら変わらない。品揃えが変わっているとか、値段が飛びぬけて安いとかそういうものも無い。
 ただ、自販機の横には白い折りたたみ式の庇が伸びていて、日差しが差し込む軒下には色とりどりの花、花、花。奥へ目をやれば透明なガラスケースに、やはり植物が所狭しと並べられていた。鉢植えを置く棚の向こう側で、小さなジョウロを手に水遣りをしている女性の後姿がある。
 綺麗な艶のある金髪を肩の上で切り揃え、紺色のジャンパースカートの上に店の名前を胸元に載せたエプロンをしている。コーヒーを取り出す為にしゃがみこむついでに様子を窺うと、彼女は店の奥から店員に呼ばれたようで、日本語ではない言語で返事をし、ジョウロを置いて店内に引っ込んでしまった。
 ガコンと音を立てて落ちた缶コーヒーを抜き取り、立ち上がる。それだけの作業しかしていないのに随分と疲れてしまった気分になって、思わず溜息などついてしまった。
 プルタブを起こし、缶を開ける。鼻先に持って行くと飲み口から独特のコーヒーの匂いが僅かに鼻腔を刺激した。缶はよく冷えていて、見る間に水滴が表面を覆いつくす。指先が滑りそうだった。
 ここで缶を空にしておかないと、ゴミ箱があるコンビニエンスストアまで信号をふたつも越えなければならない。だからこの場所に留まって飲むのだと自分に見苦しい言い訳をして、缶を傾ける。
 振り返った道路には相変わらず高速で走り抜ける車の群れ。早い昼休みに突入しているのか、人の姿もちらほらと増え始めていた。食事を、そして僅かな涼を求めて人の足並みは揃って速い。そんな中のんびりとひとり、ビルの壁に凭れ掛かるようにして(実際は熱を含んでとても凭れられるものではない)早足に行き過ぎる人の群れを眺める。
 彼らの顔は一様に疲れ気味で、覇気が感じられない。ただ寝て起きて働いて食べて、日々同じサイクルの上に動くだけならばロボットでも出来るだろうに。
 だが今は自分も、毎日同じ時間に働いて、昨日と同じように今日もこの場所に佇んでいる。彼らと自分と、一体何が違うというのだろう。
 またしても溜息。コーヒーの残りも少しとなり、そろそろこの場を離れなければならない。名残惜しげに缶を振って水音を聞いていると、向こうから自転車に乗った男が、やたらと警鐘のつもりか鈴を鳴らしながら走ってくるのが見えた。
 歩道だというのに、随分と速度が出ている。最初かすかにしか聞こえなかった鈴の音があっという間に近づいて来て、すれ違いざまにぶつかりそうになった女性が迷惑そうに顔を顰める。だがお構いなしに腹の出た男は一直線に道をこちらに向かって進んでおり、危ないなと思いながら残りを飲み干してしまおうとした。
 だが。
「じゃあ、ベルちゃん。御願いね」
「ハイ、行って来マーす」
 右側から、元気の良い若い女性の声が響く。反射的にそちらを向くと、日の光を浴びて輝く稲穂が風に揺れていた。否、金色の髪が軽やかにステップを刻んでいる。彼女は道を驀進する自転車の存在など気づく様子もなく、両手に配達物だろう、ラッピングされた大きな花束を抱えて店を飛び出す。
 男を乗せた自転車も進む、彼女が勤める花屋の前を今にも駆け抜けようと。
「くそっ」
 誰に対する悪態か。握っていた缶を後方へ投げ捨て、気づけば飛び出していた。
 自転車を横倒すか、それとも。一瞬悩み、自転車の進行方向にサラリーマン風の若い男が驚いた顔をして立ち止まっているのを見て、決めた。コンクリートのタイルを強く蹴り、獣の俊敏さで右側へ飛ぶ。
 驚き、そしてすぐに反応できずにその場で停止してしまっている彼女を、飛び出した勢いのまま抱え込んで歩道の端へと倒れこんだ。目の前にサラリーマンの爪先が見える。直後足元で自転車のブレーキ音がけたたましく響き、バランスを崩しかけてふらふらしているそれに乗った男が、一瞬の間を置いて「バカヤロー」といった罵倒を吐き捨てて去っていく。一時その場は騒然としたが、騒ぎの元凶が謝りもせず行ってしまい、後を追う者も当然無くやがて足を止めた人々も本来の自分の目的を果たそうと歩き出す。
 店の奥から飛び出してきた若い女性だけが、悲鳴を上げて駆け寄ってきた。
「ちょっ……大丈夫? 怪我は? 怪我してない?」
 若干パニックに陥っているようで、語尾を跳ね上げる発音で彼女は交互に、上半身を起こし呆然としている金髪の彼女と、左肩を下にして転がっているこちらとを狼狽した表情で見比べていた。
 身体を起こし、頭を振る。僅かに眩暈がした。袖が摩擦で擦り切れてしまっていて、薄手のシャツの下にある肌が露見していた。赤くなっているが、大きな怪我でもない。それから、膝元を見た。
 彼女を抱きこんで脇に飛ぶ際、潰れてしまった花たちが花弁を散らしている。
 放心状態で暫くぼんやり、彼女は目の前を見ていた。それからゆっくりと顔を上げる。
 目が合った、濃い緑の瞳が僅かに震えている。大丈夫かと、声をかけようか悩んだ直後にハッと、その双眸が大きく見開かれた。左右、それから上下に素早く目線を動かし、やがて膝元に散らばっている花束だったもので止まる。アスファルトの上にまで散ってしまった花びらを一枚掬い上げ、声にならない声で溜息をついた。
 後ろで店主から声をかけられ、振り向く。腰を屈めて彼女を覗き込んできた女店主とも目が合い、どうしていいものか悩んだ末、結局何も言えないまま会釈だけを送ってみた。その彼女の目が、戸惑いの中肩の傷に移動した。血が滲み、擦り切れてしまった布地のほぐれた糸に絡み付いているのを見て、自分が痛そうに顔を顰めている。
「大丈夫?」
 少しハスキーな声で問われてから、ああ、と頷いて自分の身体を眺める。痛むが、大騒ぎする程のものではない。それこそ、銃弾が右腕を貫通した時に比べれば、雲泥の差。だが目の前にいる女性2名にはそう映らなかったらしい。
「大変、すぐ消毒しないと」
 片方はおたおたし、片方は声を上げて店へ飛んで帰る。大した怪我ではないから心配要らないし、それよりも配達にいかなくて良いのかと言ってやりたかったのだが、彼女達はまるで聞く耳を持たない。腕を取って引っ張られ店の奥まで連れて行かれると、救急箱を手に戻ってきた店長の女性によって、消毒薬をたっぷり傷口に塗りこめられた。
「いっ……!」
 大概の痛みには耐性がついているとはいえ、素人治療の加減を知らなさ過ぎるやり方には、悲鳴こそあげなかったが大きく息を吸い込んでしまった。喉に空気が引っかかり、眉間に皺が寄る。これならば自分でやった方がまだ良かったと後悔したが、あまり巧過ぎて経歴をとやかく問われるのも、面倒くさい。
「痛かった? ごめんねー、あんまり慣れてなくって」
 言いながら店主が新しいガーゼを傷口に重ね、包帯で巻いていく。肩口で角度があり、やりにくそうな手つきは言われなくても不慣れなのが分かる。ちぐはぐな巻き方で、動かせばすぐに緩んでしまいそうだ。後で、自分でやり直しておこう。心の中で溜息をついた。
 金髪の彼女――ベルと呼ばれていた――はと目だけを動かして探すと、店の前から箒とちりとりを持って戻ってくるところだった。銀色の大きいちりとりを店の中にあるゴミ箱に傾けている、恐らくはつぶれてしまった花束の片付けをしていたのだろう、その表情はどこか悲しげだ。
「あの……花、すみませんでした」
 思えばあの花束は売り物だ。彼女を庇うことに気が向いていたので、間でそれが潰れて売り物にならなくなるという考えは、あの時咄嗟に思い浮かばなかった。弁償をした方がいいだろうか、ぼんやり考えながら頭を下げると、女店主は包帯を巻く手を休め、とんでもないと首を振った。
「気にしないで、仕方ないよ。ベルちゃんが怪我しなかったの、貴方のお陰だもん。むしろ感謝よ」
 それから、ちゃんと見えてなかったけれど、悪いのはあの自転車に乗った親父なんだから、そう呟いて彼女は包帯の半端に余っている端を切った。恐らくは花を裁断するのが本来の用途であるだろう、黒い鋏で。
 箒を片付けた彼女が近づいてきて、心配そうな目で傷口付近を見つめる。既に包帯で覆われて見えるわけではないのだが、傷口がじんわりと暖かくなる感じがした。
「シャツも破れちゃったわね」
「いや、これは……安物だから、気にしないで」
 これは本当だ。服装にはあまり頓着していないから、見かけたどこかの安売りセールでまとめて購入したうちの一枚に過ぎない。愛着も無いし、洗濯のし過ぎでかなり草臥れてしまっていたから、近いうちに捨てるつもりでいたし。
 しかしふたりの女性は納得してくれなかったらしい。折角大事な従業員を助けてくれたのに、お礼もしないのは悪いと言って、店長は聞かない。そのうちにレジから現金でも引っこ抜いて来そうな勢いだったので、傷の手当をしてくれただけで十分ですと言い、慌てて立ち上がった。
「失礼します」
 金が欲しくて助けたわけではない。だが状況に流されていきそうな空気をなんとか抜け出したくて、短く告げて頭を下げた。そのまま踵を返し、店を出るべく歩き出す。
 背後で呆気に取られた感のある店長が、慌てて呼び止めようとする声がしたが、振り返らない。ぱたぱたという足音が近づいてきても、構わずに歩き続けた。
 視界に、眩しすぎる日差しが飛び込んでくる。
「待っテ!」
 矢のような声と、右手に触れた柔らかなぬくもりと。前のめりに倒れ掛かり、膨らんでゆっくり沈んでいく金色の髪。スローモーションのような一瞬後に、見開かれた大きな緑色の瞳が自分を見上げる。
 吸い込まれそうな彩に、思わず息を呑んだ。
「お礼……アリガトウ。これ」
 あの時を思い出したのか、彼女の瞳が一瞬だけ潤む。けれど軽く頭を振って、次に彼女が握っていたものを、指が綻びかけていた掌に押し付けてきた。触れ合った指先とは異なる、硬質の冷たいもの。完全に受け渡されてから軽く手を広げ見ると、それはクリスタルガラスのイルカだった。日差しを浴び、眩しいくらいに輝いている。
「えと……」
 これは、何。
 聞こうとしたが、果たして言葉はどこまで通じるのだろう。かなり達者なようではあるが。
「この前、アリガトウ。私、ベル。アナタハ?」
 けれど彼女がこれを渡した意図は掴めぬまま、微妙に耳慣れぬアクセントで喋りだす。仕方なく助けを求めるように店奥の店長を見るが、彼女は何か含みのある顔で笑って佇んでいる。下方を向きなおせば、金色の中に緑色の宝石がふたつ、輝いていた。
 これは、受け取っておくべきなのだろうか。
「あぁ……ありがとう」
 ひとまず礼を言い、彼女の細くしなやかな指先が肩口の、包帯を巻いている箇所に近づこうとして離れていったので、大丈夫だと告げるように軽く肩を回す。一瞬だけ驚いた風に眼を見開いた彼女だったけれど、ぎこちないこちらの笑みに気づいて優しく微笑んだ。
 心臓が一度、大きく跳ね上がる。自分でも人知れず動揺してしまっているのが分かる程の痛みに、僅かに呼吸が苦しくなった。
「アナタは?」
 返事がなかったのを、言葉が巧く発せられずに聞き取れなかったと誤解したらしい。同じ問いを繰り返した彼女に、生唾を飲んだ上ずり気味の声で返すのが精一杯。
「俺、は……」

 恥ずかしい話、どんな風に名前を名乗ったのか、あまり覚えていなかったりする。

 

 老人が去った後もひとり椅子に腰掛け、ぼんやりとブラインドに遮られた窓を見つめる。日暮れまではまだ少し時間があって、次の仕事も控えているのだから早めに休むべきだと分かっているのだが、何故か動き回るだけの気力が湧き上がってこない。
 ひとつどころに留まっていては己の存在を感知され、命の危機に晒される可能性があった時代とは、随分と変わってしまった。もうあの場所には戻れないし、戻ったところで二日と経たず自分の身体は無残に泥に沈むだろう。
 机の上に、視線を移す。文房具類も簡素で綺麗に片付き、むしろ仕事などしていませんと分かる素っ気無さの机上にひとつだけ、異色を放つもの。
 虹色の影を落とし、きらきら輝くそれは。
 力なく崩れ、机に突っ伏す。手を伸ばし、顔の近くまで引き寄せたそれは日の光を浴びていたに関わらずひんやりとした感触を指先に残す。
 眼を閉じた。
 瞼の裏にチカチカと残る光の明滅に、浮かび上がる仄かな輝き。
 それは、他でも無い――――

some more

 電話が鳴った。
 最初、部屋のカバンに入れたままだった携帯電話からかと思ったが、そうじゃない。一瞬首を捻ってから、慌ててその音が、あまりにも使用頻度が低くて解約を考えようとしている固定電話からの音だと気づいて駆け出した。
 洗濯物がたくさんぶら下がるベランダから、サンダルを後ろに蹴り飛ばす感じで脱ぎ捨てて部屋に戻り、もうワンコールすれば留守番メッセージが流れ出すところでなんとか受話器を掻っ攫った。前方へつんのめった為、電話が置かれている棚の角で反対の肘を打った。痛い。
「もしもし」
 敢えて自分の名前は名乗らず、電話口から聞こえてくるだろう声に集中する。最近は程度の低い詐欺が横行していることもあり、殊更固定電話にかかってくる電話には神経質になっていた。
 以前、年寄りを語った電話で、スギが迂闊にもお金に困窮しているから貸して欲しいという身の上話に涙して、危うく銀行に走りそうになった事もあった。だから余計に、騙されてなるものかという心理が働いてどうしてもギスギスした応対になってしまう。
 ただ、近しい友人は皆、連絡が必要な時は携帯に電話をするかメールを送ってくるので、この電話が鳴るのはどうしても、変な勧誘や押し売りもどきが多かった。
 或いは、他にする事が無いのかと言ってやりたくなるような、暇をしている若奥様を狙っているらしい変態の興奮する呼吸音やら、云々。
 そういう中にごく稀に、とても重要な電話(たとえば大家からの連絡だったり、町内会の連絡だったり)が混じるから、分別が難しくて神経を使わなければならないのが辛い。こういう連絡が来るのは大抵固定の番号にだから、迂闊に解約するわけにもいかず、困っている。月々の定額料金も馬鹿にならないのだ。
「もしもーし」
 今回は無言電話だろうか。忙しい時間を裂いて電話に出てやっているというのに、なんて奴。電話代の無駄だ、今すぐそっちから潔く切れ。
 思わず言いそうになった言葉を飲み込み、もう一度だけ確認して反応がなかったら受話器を置こうと決めた直後、ざざっというノイズが低く走った。
『もしも……おーい、聞こえるー?』
 耳慣れた、けれど少しだけ電子音に変換された違和感を覚える声が聞こえ、下ろしかけた腕を急ぎ支え直す。受話器を耳に押し当てると、電波状況が悪いのか、周囲のざわめきに負けた声が細々と続いて聞こえてきた。
「スギ?」
『おーい、レオ? 聞こえてる?』
 嫌というくらい顔も見飽きた同居人の姿がパッと脳裏に浮かび上がる。今朝早い時間に出かけていった彼が、こんな日の高いうちに何かしら連絡をよこすなんて、珍しい。帰宅の予定は夜半過ぎになると予め教えられていただけに、予定が変更になったのだろうか。
 色々と考えるが、頭が別の方向に向かいそうになった為元から聞き取りづらい電話口からの音声を聞きそびれそうになっているのに気づき、思考をひとまず追い出す。両手で受話器を握り直し、聞こえている、とだけ返した。
 スギはどこにいるのだろう、電話が拾っている周囲の雑音からして、人ごみの中のようだが。ナンバー表示などという洒落た機能を持っていない、留守番電話とファックス機能がついているだけの電話ではこの通話が、どこからのものか知る術が無い。それに大体、何故彼は携帯ではなく家の電話にかけてきたのだろう。
 まさか、自分の携帯電話を無くしたとか言いだしたりしないだろうか。
 思った瞬間、十分あり得そうだと眉根が片方ひくりと持ち上がった。携帯電話の番号もメモリーに記憶させて頭のメモリーには登録させていないのだろう。思い出せるのが固定電話の番号だけだったのなら、納得もいく。
「で、何? こっちだって忙しいんだけど」
 洗濯物を干し終えたら、朝食の片づけをしてごみの分別をして、部屋と風呂場の掃除を簡単にしてから食料の買出し。一度にこれだけの事が出来るのは完全オフの日くらいで、それも月に数回あるか無いか。貴重な時間を無駄にするなど、馬鹿らしい。
 目に入ったごみを摘み、ゴミ箱を足で引き寄せる。変な格好に開脚した身体を転がさないようにバランスに注意している間に、隣にいるらしい誰かとの会話を終えたスギが喋る。
『あのさ、今……だけど、そっち』
「え? ごめん、もう一回」
 雑音がひどい。電話の電波状況以外にも、周囲の雑踏が聞こえ辛さを増徴させているらしい。片耳を掌で押さえ込んで、開けっ放しの窓から流れ込んでくる新聞回収の車をやり過ごすが、それでもまだかなり、スギの声は遠い。
『だから、もうすぐそっちに、……るから』
「ええ?」
 聞こえないから、つい声が大きくなる。こっちの声はちゃんと届いているのだろうか、不安になった。
 つい数時間前まで隣にいた相手が、こういう瞬間、たまらなく遠い場所にいるのだと感じて怖くなる。繋がっている筈なのに、その繋がりを示す糸がとてつもなく細いものになり、少しでも力の加え加減を間違えればぷっつりと、呆気ないほど簡単に千切れてしまう。
 雨の中、呆然と立ち尽くしていた誰かを思い出す。
 切れてしまった糸を結ぶのはとても難しい。切れた片側だけを延ばしても決して届かないから、千切れた先にも手を伸ばしてもらわなければならないけれど、切れたのではなく、或いは手放されただとしたら――そんな風に考えてしまうと、それ以上離れた糸が遠ざかってしまうのが怖くて足を踏み出せない。
 どん詰まりの状況から抜け出せずに、ひとり瓶の底に溜まった泥水の足をすくわれ、動けない。
 黙りこんでしまいそうになった寸前、受話器から反応が鈍いと思ったのだろう、スギの呼ぶ大声が聞こえた。きっと周囲を歩く人は、迷惑そうに顔を顰めて通り過ぎるに違いない、けれどお構いなしに何度も、彼は人の名前を連呼している。
「聞こえてるよ」
 少しだけ電波状況も良くなったらしい。
 受話器から耳を遠ざけても聞こえるくらいになっていて、心から安堵する。こちらの声も向こうへすんなり聞こえたようで、スギの声は若干トーンが落ちた。
「で、何? もう一回」
 聞こえなかったのだと説明すると、ちぇっという舌打ちが聞こえてきた。ここで無言のままに電話を切ってやろうか、考えていたら先に『切るなよ』と言われてしまった。心を見透かされたような気がして、胸がドキッとした。
『てゆーか、お前携帯、電源切ってるだろ』
 鳴らしたんだぞと唇を尖らせているらしく、不貞腐れた声を出すスギに、え? と目を見開く。そんな覚えは無いのだが、そういえば昨日の夜バッテリーが減っているから充電しなければと思っていたような。そういえば、そのあとどうした? 充電したか?
 たかだか昨日の出来事なのに思い出すのに時間がかかって、家に帰る前から順番に自分の行動を辿ってみると、そのどこにも、携帯電話を充電器に差し込む行為が見当たらなかった。途端サーっと顔から血の気が引く。
 よもや自分の失態で固定電話にかかってきたとは考えもしなかった。人間、つくづく自分勝手な生き物だと変なところで身に染みる。
「う……ごめん」
『別にいいけど』
 どこか呆れたような、けれど笑っているスギの声。そういう大事なところがぽろっと抜け落ちるのがいかにもお前らしい、と褒めているのかけなしているのか分からない事を言われた。そういう君は、大事な事どころかどうでも良い事だって簡単に忘れてしまうではないか。たとえば、鍵をどのポケットにしまったか、さっき使っていたライターをどこにおいたか、なんて日常茶飯事。
 君にだけは言われたくない、言い返そうとしたが、先を読んだように会話が再開して結局言えずに喉の奥へ飲み込んだ。
『で、用件なんだけど』
 腰が折れてしまった話を戻す。そういえば肝心の用件をまだ聞いていなかった。
「ん、なに?」
 右の肩と顎を掴んで受話器を挟み持ち、台近くにあるメモ帳とボールペンを引き寄せた。何か大事な用事があるから、わざわざ携帯に繋がらなくってこっちに電話をかけなおしてきたのだと思ったからだ。
 だが、スギから発せられたことばは、想像していたどの類の内容とも異なっていた。
『あのさ、もうすぐそっち、雨降るから』
「はぁ?」
 思わず間の抜けた声がそのまま口から出ていた。
『いや、だから、雨』
 そんなもの、二度言い直されなくても理解できる。空から降ってくる雨粒の大群だ、今更認識を改めるまでもない。
 だがいたって真剣な声で(恐らく顔も真剣だろう)スギは同じ単語を繰り返す。どうやら彼は今駅前の地下道に居て、周囲の賑わいは平常の買い物客以外に地上を歩いていて突然の雨から逃れてきた人々で、余計にごった返してのものらしかった。
 かくいうスギもそのうちのひとりらしく、心配して電話をかけてきたという事。最初電波状況が悪かったのは、地下の為アンテナが遠かった所為もあるのだろう。しゃべりながら移動して、漸く通信状態が宜しい場所を発見し、そこに陣取ったのだと。
『急に降りだしたし、雨降るだなんて聞いてなかったしさ。多分そっちに雲流れてると思うから、もうすぐそっちも』
 時々声が遠くなったりするのは、地下通路と地上を繋ぐ階段から外の様子を窺っているからなのか。
 まさかこんな事を冗談で言うためだけに電話をしてくる筈もなく、だがなかなかすぐには信じがたくて、電話線が延びる限り身体を伸ばして、開けっ放しの窓の外を見やった。
 頬を撫でる風が、心持ち生ぬるく湿気を帯びてきている気がした。空の色は、見え辛いが、洗濯物の隙間から覗くのはやや薄めの鉛色。時折差し込んでいた日差しが今は全く見つけられない。
「あー……降るかも」
 独り言のように呟く。遠い声で、「かも」じゃなくて降るんだと訴えてくるスギが、だからと念押しした。
『今日洗濯して布団干すとか言ってたの、あれやめとけよ』
 濡れた布団でなんか寝たくないからと、あくまでも自分本位の主張をしてスギは電話の向こうで大きく頷いたようだ。横で笑う声がする、遠すぎてよく分からないが、自分も全く知らない相手ではないようだ。時々あちら側で交わされる会話の端に、自分の名前が見え隠れしている。
 その場に自分がいないのに、自分の話題で盛り上がられるのは、気恥ずかしいしとても気になる。悪い風には言われていないと思うのだが、相手にどう思われているのか、永遠の謎だ。
「空大分曇ってきたな」
 やはりひとりごち、顎を撫でた。早く電話を切らなければ本当に降り出しに洗濯物の回収が間に合わないかもしれない。しかしどうにも言い出しづらく、もう少しこのまま、電話を繋げていたい気分も嘘じゃない。
 困った。
『あー、そうだ』
 天の声程優雅ではないが、元気のよい明るさを感じる声が脳裏に響く。
『もうすぐ、さ。帰る』
「はい?」
『なんかさー、予定してたレコーディング、スタジオ予約ミスってくれちゃってたらしくって出来なくなったから急遽オフ。休み差し替えられちゃうけど、こればっかりはなー』
 自分の責任ではないし、スタジオ側の不手際だった為、細かいやり取りはこの際省略するが、振替分の予約を優先的に良心価格で設定して貰えたらしい。結果的には万々歳だが、その帰りに雨に降られたのだという。
 横で、仕事仲間が笑っている。スギは自慢げに勝ち取った使用料金の割引を誇ってみせたが、交渉したのは彼でなく口達者な仲間だったかららしい。スギがそんな高尚な話術を持ち合わせていないのはよく知っているので、笑って頷く。
 不満そうな顔をしているスギがからかわれ、茶化した仲間を怒鳴りつける声が響く。
『だからさ、雨やんだらだけど、もうじき帰る』
 そっちが降り止む頃には、こちらが大雨かもしれないという可能性は、考えていないらしい。それとも道中でビニール傘でも買って帰ってくるのか。
「分かった」
 短く、簡潔に返すと、携帯電話のバッテリーが怪しくなってきたとスギが舌打ちするのが聞こえた。頃合だろうか、向こうからそれじゃ、と告げられる。
「うん、ああ……降りそう」
 最後の呟きに、電話が切れるぷつっと言う音が重なった。
 空は曇天、鈍色が広がっている。もうどこにも青空は残っておらず、低い位置の雲は今にも泣き出しそうだ。西から吹く風に押されているのだろう、その動きはかなり速い。
「片付けるか」
 受話器を置く。肩から力を抜いて息を吐いた。ひとりでいると、どうしても独り言が多くなる。聞く相手もいないのに喋ってしまうのは、心寂しいからなのだろうか。
 緩く首を振った。そんなことはない、と。
 だって、ここはふたりの家で。
 曇り空の下、ベランダに出る。降り出しそうな上空を睨むように見上げ、それから彼方へと視線を投げた。遥か向こう、鉛色の海がなだらかに広がっている。霞がかかったように視界は悪く、どこかで雨が降っていると知れる生ぬるい風が頬を撫でた。
 腕を伸ばし、干したばかりの洗濯物を集める。室内で干すしかなさそうだ、乾燥機などという上等なものは持ち合わせておらず、風呂にもそんな気の利いたもの、備え付けられているはずがない。臭いがつくから嫌だなと眉根を顰めつつも、自然の気まぐれに反抗したところで無駄な話。諦めに似た気持ちで溜息をつき、湿って重い衣服の山を室内に押し込んだところで、ぽとりと軒下のコンクリートに小さな黒いシミが出来た。
 シミは気づけば続々と増え、そのうち元の色がまったく見当たらなくなるまで染め上げられてしまう。勢いづくまでそれ程時間もかからず、あっという間の窓の外は雨のカーテンで視界が完全に塞がれてしまった。どこかで雷が鳴り響く音がする。
「危機一髪」
 ほっと息を吐く、あと数分行動が遅ければ今頃は洗ったばかりの洗濯物が水浸しだっただろう。電話をくれたスギに感謝せねばなるまい。
 もうすぐ、雨が降る、と。
 風に煽られて雨粒が部屋に入ってきそうで、急ぎ窓を閉める。他の部屋も見回ってこよう、この洗濯物の部屋干しは暫くおいておくとして。
 立ち上がる。爪先にTシャツの袖が引っかかったのを外し、隣室へ向かった。
 雨音が響き、うるさい。屋根を激しく打つ雨の勢いは、社会に抵抗する何かを想起させた。ひとり部屋に居残る孤独が骨にまで響く雨音に刺激され、背筋が泡立つ。無意識に腕で身体を抱き、僅かに硬く、唇を噛んだ。
 大丈夫だと、自分で自分に言い聞かせる。
 雨は止む、じきに。
 もうじきだ、もうすぐに。
 それに、それに。

 もうすぐ。
 もうすぐ――

Rustle

 気まぐれにテレビをつけると、嵐が接近中というテロップが丁度上の方に流れているところだった。
「へぇ……」
 そういわれて見れば、窓の外の雲行きはどうも怪しい方向へ向かっている。灰色の重たそうな雲が空一面を覆い尽くそうとしているし、庭木が風に揺すられる度合いもいつもより若干強い気がする。感覚的に、あと小一時間もすれば雨が振り出しそうだ。
 窓辺に寄って半分閉まっているカーテンを引く。午前中は割といい天気で晴れ間も広がっていた筈なのに、こうも素早く天候が変わると少し気味が悪い。
「嵐、かぁ」
 ぽつり呟いて、室内を振り返った。無人のリビングを見回し、それから再び外を眺める。
 この季節、雨が降ってくれないと夏場に水不足の危険性が発生する。緑は立ち枯れて食糧も育たなく不作が続けば、致命的な打撃が経済に及ぼされるだろう。だから雨、嵐はむしろ歓迎されなければならないのだが。
 やはり気持ちとしては、曇り空や雨空よりも、綺麗に晴れた青空を見上げていたい。
 しかし裏腹に雲行きはどんどん怪しくなり、今にも大粒の雨が天頂から舞い降りて来そうだ。部屋の窓は閉めていただろうか、雨が吹き込んで来るのは避けなければならない。
「アッシュ君、洗濯物干しっ放し」
 そしてもうひとつ。
 買い物に出かけた筈のアッシュは、朝の天気予報を見ずに出かけてしまったらしい。そこそこの天気だったからか、曇天の下で不安そうに洗濯物が揺れていた。さっき振り返った時に確認した壁時計は夕刻前を指し示しており、がらんどうのリビングはアッシュがまだ戻ってきていない証拠のようなもの。
 台所の扉は開け放たれ、中は見えないが人の存在は感じない。交通渋滞にでも巻き込まれているのか、普段ならばもう戻ってきていても可笑しくない時間帯なのだが彼の姿はどこにも見当たらなかった。
 まさかユーリに頼むわけにもいくまい。アッシュが帰ってくる前に雨が降りだして、知っていながら洗濯物を放置して濡らしてしまうのも後味が悪い。仕方ないと肩を竦めスマイルは窓を開けた。庭へ降りるのにステップ代わりの石を一段跨ぎ、空気が重たい為か若干背中を丸め気味の芝を踏みしめる。
 物干し台までゆっくり歩き、綺麗に並べられている洗濯物をひとつずつ回収していく。籠も持たずに来たので一度ではとても集めきれず、何度か庭を往復させられた。
 布とはいえ、枚数が増えればそれなりに重くもなる。終わりが見え出した頃には洗濯物を抱える右腕は痺れ、感覚が鈍くなっていた。次もし同じ事をする機会があったなら、迷わず洗面所から洗濯籠を持って来てからやろう、心に刻み込む。
「やっと終わったー」
 窓際に山積みにされた洗濯物に倒れこむ格好で、部屋に身体を押し込む。靴を履いたまま手拍子ならぬ足拍子で、靴裏に付着している土と草を叩き落し、それから窓からはみ出ていた下半身も屋内に招き入れた。
 乾いた洗濯物の肌触りが心地よいが、曇り空の下に長い間あったせいだろう、少し冷たいのが何より残念でならない。そうしているうちに、背後では風が唸るように響き、庭を囲む木々がざわめきだした。
 ぽつり、と色の濃い芝の上に雨粒が落ちてくる。
「っと、危ない」
 慌てて窓を閉め、洗濯物も両手で抱きかかえて部屋の中心近い場所へ移動させた。
 もう少し遅くに作業を始めていたら、降り始めに間に合わなかったかもしれない。流石に畳んで各人の部屋まで運んでやるのはアッシュに任せるとして、それよりも彼はまだ帰ってきていないのか。
 ずっとリビング近辺にいたが、誰かが通った覚えは無い。外を向けば雨はいよいよ本降りの様相を呈しており、そういえば部屋の窓は閉めただろうかと今更思い出す。
「閉まってる……筈。今日あけた覚えは無い、うん」
 本日一日の行動を振り返り、顎に手をやって曖昧な記憶を搾り出し辛うじて自分に頷く。それでも自信がなくて、調べに戻ろうかとしたところで遠く車が止まる音がした。ちょうどリビングを出ようとしたところで、玄関に飛び込んで来る大きな影と出くわした。
 びしょ濡れとまではいかないが、駐車スペースから玄関まで傘を差さずに走ってきたのだろう、灰色のTシャツの肩から胸の辺りが黒く変色して肌に張り付いてしまっている。両手に大事に抱えた買い物袋を庇いながらの踏破だったようで、普段は重力に反して空を向いて立っている髪の毛も、今ばかりは斜めに倒れていた。
「オカエリ」
 ぜいぜいと入ってくるなり肩で息をして苦しそうなアッシュに声をかける。話しかけられて漸くこちらの存在に気づいた彼は、数回瞬きを繰り返した後、あ、と短く声をあげた。
「洗濯物!」
「取り込んでおいた」
「窓!」
「今から見回ってくる」
「庭の水やり!」
「それ、今更必要あるノ……?」
 人の顔を見て真っ先に思い出すのはそれなのか、と苦笑しながら丁寧にひとつずつ答えてやる。
 どうも突然の雨と風に気が動転しているらしい。次第に呼吸も落ち着いて肩の上下具合も穏やかになり出してから、彼はまた数回瞬きし、こちらを見つめる。
「……ただいま、っス」
「オカエリ」
 非常に小声で呟いた彼へ、満面の笑みで返してやった。

 

 城の中を一回りしてからリビングへ戻ると、アッシュが丁度洗濯物を畳んでいる最中だった。
「異常無かったヨー」
 ドアを開ける音で気づいたらいし彼が振り返って目があったので、軽く右手を上げて左右に振りながら言う。了解の意味か頷いたアッシュは再び手元へ視線を落とし、休めた手を再び動かし出す。会話が妙な感じで半端に終了してしまい、行き場をなくした手をひらひら顔の前で揺らして、仕方なく窓辺へと爪先を向けた。
 しっかりと中央であわせられていたカーテンの端を摘み上げ、自分の視界を確保する。アッシュが気にするような雰囲気でこちらを窺ったが、背中で無視を決め込む。
「あ、雷」
 雨はますます勢いを増していて、横殴りの風が木々を激しく揺さぶっている。広葉樹のざわめきがまるで悲鳴のように耳に響いた。直後、どこかで落ちたらしい雷の轟音が大地を揺るがす。
「ひっ」
 それに合わせたような、短い息を呑む悲鳴。
 眉間に皺を寄せ、今のは一体何か想像がつくものの予想したくない気持ちのまま、好奇心だけが勝って後ろを向く。洗濯物の山を前に、アッシュが肩を強張らせて硬直していた。しかし見守っているうちに数秒後また動き出す。そして背後で再び、雷が落ちた。
「ぃっ」
 今度は声を押し殺した感じがするが、肩をピクリと跳ね上がらせて暫く固まっている。眺めていたスマイルは、ふぅんと顎を撫でた。
「アッシュ君」
 呼びかけてみるが反応が悪い。三秒たっぷり経ってから、やっとのことで彼は窓際のスマイルを振り返った。表情が心持ち硬い。そういえば彼は、カーテンを閉めているのにずっと部屋の壁を向いていて、時折雷鳴で明るく照らされる窓をなかなか見ようとしない。
 まさか、とは思うのだが。
「んー、君って、ひょっとして雷怖い?」
「ま、まさかっ!」
 立てた人差し指を向けられたアッシュは大慌てで否定しようとしたが、直後に雷のまばゆい光がスマイルの背後を襲った。一瞬だけシルエットのように浮かび上がったスマイルの姿を最後まで直視せず、アッシュの頭は獣の形となって洗濯物の山に突っ込まれていた。
 ふさふさの尻尾が股の間に逃げ込んでいるが、これはまさしく、頭隠して尻隠さず。
「アッシュ君……」
 さっきまで否定しようとしていた勢いはどこへ行ったのか。
「はっ」
 器用に犬の姿でも人語を話しながら、我に返ったアッシュは恐る恐るといった具合でスマイルの様子を窺ってくる。にっこり笑って手を振り返すと、びくっと過剰な反応を示してからがっくりと項垂れた。如実に落ち込んでいるのが分かる。
「怖いノ?」
 ニヤニヤと口元を綻ばせたまま言うと、さっきよりも更に小さくなったアッシュが控えめに、渋々、気乗りしない感じで、嫌々ながら頷いて返した。
「怖いというか、もう条件反射っス」
 獣としての本性を持ち合わせる彼にとって、野生で暮らしていた時代の名残が身体に染み付いてしまっているのだという。曰く今のように屋根があり、壁があり、嵐の夜でも安全に過ごせる囲いとなる家を持たなかった頃には、落雷の危険性も高く感電死する可能性があった。雨は身体から体温と体力を奪い取り、長期間の雨は狩りに出るのを阻み食料が乏しくなり飢え死にする場合もある。
 単純に雷が怖いのではなく、それは生命本能に準ずる怯え、なのだと。
「いやでも、結局は怖いんでショ?」
「……悪いっスか」
 今までも何回かこんな嵐の日はあったが、そういえばこんな風に間近で接するのは初めてかもしれない。
 不貞腐れた顔で(但し犬の姿のままなのでそう感じ取れるだけで、実際は違うのかもしれない)ぼそりと言い返した彼にぷっと吹き出すと、益々不機嫌に表情を変えたが、続けざまに鳴り響いた雷で飛び上がった。折角綺麗に折り畳んでいた洗濯物の山に頭から突進してしまい、ぐちゃぐちゃにしたは自業自得に嘆いている。
 もともと獣は火を怖がるという程だから、彼の行動も分からないわけではないが。
 普段の巨漢で派手にドラムを叩いている姿から比較すると、あまりにもかわいらしく、面白い。悪いと思いながら、笑わずにいられない。
 すっかり拗ねてしまったアッシュに肩を竦め、窓を横目で見る。カーテンの隙間から覗く空は、若干厚みが薄れた感じがするものの、まだまだ雨は続きそうだ。ただ雷は遠くへ去ったらしく、先程までの落雷ショーはもう見えなくなっていた。
 風はまだ強い、横殴りの雨が窓を打ち、庭木を薙ぎ倒しそうなくらいに靡かせている。木々はざわめき、悲鳴を上げ、一枚のガラスを隔てただけの世界がとても遠いものに思えてならなかった。
 まだこの先数時間、このざわめきは止みそうにない。
「今夜はずっとこの調子かな」
 何気なく呟き、カーテンを閉めた。アッシュはというと、犬の姿のまま洗濯物の山に登りひたすらに落ち込んでいる。きっと毛が抜けて洗濯物に絡んでいるだろうから、また洗い直しだろう。なんと無駄な労力。
「夕食、どうする? ボクが作る?」
 試しに聞いてみると、耳をぺたんと折りたたんで伏せたアッシュがやや恨めしげな顔でこちらを見返した。弱々しく一度頷き、またシクシクと布団ならぬ洗濯物に顔を突っ込む。そんなに心配せずとも、雷様は臍を取りに来やしない。
 無論、彼がそんなものを怖がっているわけでもないのだが。
 やれやれと肩を竦めて首を振り、落ち込みモードから一向に回復しないアッシュへと歩み寄る。膝を折って傍にしゃがみ、彼の柔らかな毛並みをそっと撫でた。
 人型の時とはかなり違う、肌触りが心地よい。ずっとこの姿だったら可愛げがあったのにな、と本来の姿を脳裏に思い浮かべ、目の前の子犬並みに小さくなった彼とを比べる。もしかしたら獣人である彼の本来の姿は、或いはこちらなのかもしれないが。
「なんだったら」
 今日の夕食のメニューは何にしよう。アッシュが買って来た食材を無駄にするわけにいかないから、多少の制限は設けられるだろうが、カレーに使える具財はどれくらいあるだろう。米は無かったはずだから炊くところから始めなけれなばらない。サフランは残っていたか……云々。
 頭の中で色々な事を考えながら、アッシュの背中を撫でる手は休めず、ただの気まぐれで思うところとは違う内容を口に出す。
「今夜一緒に寝ル?」
 ぴくり。
 アッシュの身体が分かるくらい大仰に反応を示した。だが手は休めない。指の間を撫でる毛並みがとても気持ちよく、滅多に犬(本人は狼と主張しているが)の姿で触らせてくれないだけに、今触らなくてどうするのだという勢いだ。
「きゅぅぅ……?」
 まるで縋る様な、それでいて何かを期待するような目でアッシュ犬が顔を上げてスマイルを見上げる。柔らかい肉球の手が彼の膝を叩いた。這い上がる格好で上ろうとするが、後ろ足が洗濯物に滑ってうまくいかない。
 そんなある意味必死なアッシュへ向け、今夜のメニューの計画を大体組み立て終わったスマイルが、にっこりと、それこそ満面の――悪戯を仕組んでいる時の――笑みを浮かべた。
「モチロン」
 洗濯物とスマイルの足の間でじたばたしているアッシュの頭をそっと撫でる。
「その姿でなら、ネ」
 告げるタイミングで彼は右目を閉じた。ウィンクのつもりかもしれないが、隻眼の彼だから単に目を閉じただけにしか見えない。
 口元の意地悪な笑みに初めからアッシュは気づくべきであった。言われた瞬間、頭の上に巨岩が落ちてきたようなショックを受け、顎が大きく、床に着きそうなくらいその場で外してしまった。
 堪えきれず、スマイルが肩を小刻みに震わせてぷぷぷ、と噴出す。
「それでもイイなら、今晩オイデ?」
 笑みを絶やさない口元を片手で覆って、スマイルは漸く立ち上がった。名残惜しげに、最後に一度わしゃわしゃと、抵抗すら忘れているアッシュの頭を撫で回して。
「ああ、ちなみに」
 人型で来たら遠慮なく蹴り飛ばすからね、と爽やかに言い残し、彼は台所方面へと去っていった。
 直後。
 すっかり遠くなったと思われていた雷が、突如として間近に鳴り響いた。地面が揺れるほどの衝撃を感じ、アッシュはその場でジャンプすると尻尾を巻いて駆け出した。スマイルがいるはずの台所めがけて。
 どうやら今夜の嵐が終わるまで、庭の木々のざわめきも、アッシュの心のざわめきも、休まることはなさそうだ。
 

Drowsy

 庭で、アッシュ君が干したのであろう洗濯物と、真っ白なシーツが風に煽られて揺れていたから。

 足元に古びた、けれど弦は張り替えられてまだ新しいクラシックギター。確かスマイルがこの城に来た当初から持ち歩き、愛用しているものだったと記憶している。ちょっとした骨董品であり、そういうものを専門に扱う業者などに見せたら、喉から手が出るほど欲しがりそうなものだと、いつだったかアッシュが言っていたような気がする。
 スマイルには手放す意思はなさそうで、話を聞いてもふ~ん、と相槌を返しただけで会話が終わってしまった事の方が、妙に記憶に残っていた。
 再び足元に目を向ける。
 風で飛び散ってしまったと思われる、数枚の五線譜。おたまじゃくしが踊る前の真っ白な状態が、力なく垂らされた腕と地面の間に挟まれた分だけ、なんとかその場に留まっていた。想像するに、初めはもっと大量の枚数がこの場にあったに違いない。はて、残りは……と試しに顔を上げて遠くを見渡せば、何故か庭を囲む木々の枝に一枚引っかかっているのだけ見えた。他は分からない。
 卵を掴むよりも緩い指の曲がり方で上を向いている掌から零れ落ちたであろう、年輪を刻んだ木製の万年筆が五線譜のすぐ傍に、先端を腕の持ち主に向ける形で落ちている。半ば草に埋もれる形で。
 足元から少し視線を動かした。脚が見える、黒のジーンズに、素足。履いていた靴はどういうわけか片方脱げて近くに。まさか暴れたわけではないだろうが、残る左足の靴も爪先だけに被さっていて、地面をこする踵は生身の肌が晒されていた。
 膝の上には大判の画集、表紙は閉じられている。膝の上に紙を置いただけでは書きにくいから、きっと下敷きの代わりにするつもりだったのだろう、少し力を加えても簡単に折れ曲がりそうにないがっちりとした体裁の本だ。表紙に書かれているタイトルは抽象的な文句であるが、その背景になっているのはどこかの中世都市の写真だから、その類の写真集と思われる。自分の手持ちに覚えがないから、彼個人の所持品だろう。
 更に上、シャツは濃紺と淡い水色との格子柄。胸ポケットが若干膨らんでいる。まさかと思うが、煙草ではないかとふと勘繰ってしまった。入っているものはシャツから透けては見えず分からない、後で問い詰めてやろう。
 上から三番目のボタンまで外されて、襟元は大きく開いている。間から覗くのは白い布だが、シャツではい。全てが透明の彼の身体をそうだと分かるようにする防御壁的な役割を担っている、包帯だ。それは胸元から首までしっかりと隙間なく巻きつけられ、見ている分はとても暑そうだ。しかし涼しい顔をして、彼は下半身を地面に投げ出し、上半身は太くがっしりとした木の幹に預け、首から上をやや左斜めに傾がせながら、暢気に口をぽかんと開けて寝入っていた。
 包帯に覆われてしまっている左目までは分からないが、露出している右目は硬く閉ざされている。眺めの睫毛が時々揺れるのは、夢でも見ているからなのか。一定間隔で聞こえてくる寝息は、ついさっき寝入ったばかりのものではない。後一歩進めば思い切り踏みつけてやれる距離まで近づいても、彼は目を覚ます気配や素振りさえ見せなかった。
「器用な場所で……」
 春の日差しは暖かいが、少々強い。夏本番のそれには劣るとしても、冬の凛と張り詰めた空気に刺す陽光とはまた趣が異なる。しかし彼が寝転がっている場所は大きな枝ぶりの立派な、樹齢は数百年を数えそうな老木であり、彼の頬に時折木漏れ日が落ちるくらいで昼間でありながら屋内のような暗さだった。
 また風が吹く。カサカサと草と落ちた手の間で揺れていた紙が、ついに堪えきれず宙を舞った。僅かに浮いて転がるように、或いは踊るように角を丸めて遠ざかっていく。あえて追いかけるような真似はしなかった、白紙の五線譜を拾いに走る意味はあまり無い。
 膝を折り、傍らにしゃがみこむ。息遣いが間近に迫り、寝入っている顔が更によく見えるようになった。
 木漏れ日を浴びる頬の色は、自分もそうなのだが、決して健康的とは言えない。それは生まれながらの種族の特徴の為でもあるが、彼の場合は、健康的な肌の色というものがそもそも存在しない。だって彼は透明人間であり、最も彼の体調が良い時とは即ち、彼が人の目に触れない、全くの透明になった時と言い換えられるだろうから。
 無論、憶測だが。
 それにしても、よく寝ている。
 最近睡眠不足だったという風な印象は受けなかったのだが、密かに疲れていたのか。ここ数日のスケジュールを思い返し、自分が平気なのだからそんなにハードではなかった筈だと頷く。ならば単に、居心地がよくて転寝をしているだけか。
 手元に転がっている残骸を見る限り、作曲の仕事をするつもりだったろうに。
 彼の周囲を飾っていた白い譜面はもう残り僅かだ。そのどれもが無記入で、まさかこの場所に来て早々寝入ってしまったわけもないから、多少は仕事をした形跡があるだろうに、彼の手が加えられた譜面は行方知れずできっと二度と戻ってこない筈。彼は、少しは眠る前の記憶を残して目覚めるだろうか?
 ぼんやりと横顔を眺め、なかなか起きないものだから悪戯をしてみたくなる。鼻をつまんで呼吸できなくしてやったら、彼はどうなるだろう。苦しさに飛び起きるだろうか?
 想像していたら、いつの間にか顔が綻んでいた。慌てて引き締め、改めて彼を眺める。しゃがみこむ姿勢が少し疲れてきたので、足の位置を変えて立てた膝の上に肘を置き、軽く握った両拳で顎を挟むように置いた。爪先がギターを蹴らないようにだけ注意し、距離をもう少しだけ詰めてみる。
 すうすうと、気持ちよさそうな寝息。
 頭の上で風が揺らす木立の青い音が薄く響く。木漏れ日が手の甲と、膝に踊った。
 暖かい日だが、ここはとても静かで涼しい。転寝したくなる気持ちが少し分かる気がした。
「スマイル」
 耳元で名を囁きかけると、夢の中でも聞こえたのか、むにゃむにゃと口元を動かした。残念ながらはっきりとした言葉ではなかった為に意味までは理解できなかったが、こちらの声はどうやら届いている様子。もう一度名前を呼ぶと、反応して顔がこちらを向いた。
 ただ目は相変わらず閉ざされている。時折睫を揺らして表情を百面相させる、いったいどんな夢を見ているのだろう。その夢に、果たして自分は姿を現しているのだろうか。
 そよそよと吹く風が背中をやさしく撫でる。頭上を仰ぎ見ればそこは黒に近い濃い緑が重なり合い、隙間から零れ落ちる光の粒はまるで水滴のようだ。薄暗く静かだけれど、嫌な感じはせずむしろ心が穏やかに、落ち着く感じだ。
 なるほど、うたたね日和とはこういう日のことを言うのか。
 気持ちよさそうに眠っているスマイルを眺めていると、こちらまで眠くなりそうだ。自然あくびがひとつ漏れ、慌てて口をふさぐが一度起こった眠気、なかなか消え去りそうに無い。
「参ったな……」
 特に急ぎの用事があったわけではない。気分転換に庭を散歩していたら、偶然この場所に出て、眠っている彼を見つけただけ。
「やれやれ」
 こんな場所で昼寝など出来るものかとプライドが意地を張る反面、草の上に腰を落とし彼のように地面に身体を投げ出して眠ってみたいとも思う。相反する感情が胸の中で綱引きをしている中、足がいい加減疲れてきて完全に腰を大地に落としてしまった。曲げ続けていた膝をまっすぐに伸ばし、寝入っているスマイルと平行に並ぶ。
 邪魔だったギターは少しだけ横にずらした。転がっていたペンも、無くならないようにとギターの胴体部分横に移動させる。
 少しだけ開いた足の間に両手を置き、暫くの間その姿勢でじっとしていた。風の音がいつもよりはっきりと、身近に感じて聞こえる。鳥のさえずりがした、向こうの日当たりがよい一角ではアッシュが干したと思われる真っ白なシーツが何枚もはためいている。
 穏やかな日、やさしい時間。
 スマイルはまだ目を覚まさない。
 うららかな日差しを浴び、庭に伸びる芝の色も一層鮮やかに目に映る。眩しさに、右手をひさし代わりに持ち上げて眺めているうちに、またひとつ、あくびが出た。
 カクン、と身体がスマイルの方へと傾く。意識して姿勢を戻したのを覚えているのはそれ一度きりで、それ以後の記憶は呆気ないほど簡単に途切れていた。緩やかな下降線を辿る意識は水に沈む小石のように一定の速度で、やがて波紋を水面に残しそれは完全に表から見えなくなった。

 

 ギターを軽く爪弾く音がする。
 どこか遠い国の音楽のように聞こえ、静かに安定したリズムを刻む音色に耳を傾ける。だがやがて音は少しずつ大きく響くようになり、それが自分のすぐ間近から発せされているのだと気づいたところで、目が覚めた。
 何か硬いものの上に頭がある。いつもベッドで頭を預けている枕とは段違いの硬さで、あまり寝心地が宜しくない枕だ。右肩が上になるように横向きに寝転がっているようで、指を揃えた右手が頬のすぐ前にあった。左腕は身体のラインに沿うように地面に崩れている。
 というか、ここは最早ベッドの上どころではない。左手を左右に揺すれば、熱の去った草の感触が掌一面に広がった。
 水面下で漂っていた意識が少しずつ浮上し始める。今いるこの場所がどこで、何故自分がここにいるのか。何故草を布団にして寝転がっているのか、頭が載っているこの硬いものは何か。右手を軽く揺らしてみると、指先で受け止めた感触は布、硬いと思っていたけれど少しだけ表面は柔らかい感じもする。
「起きた?」
 頭上で、声。
 ふいっと首の角度を変えて真上を見上げる。それでも声の発生源は見えなくて、背筋を伸ばして反り返らねばならなかった。視界の端に僅かに映し出される、藍色の髪。
「スマイル……?」
 ぼんやりとした声だな、と言いながら自分で思った。まだ頭のどこかが眠ったままらしい、揺れた木の葉の隙間から落ちた日差しが直接目に入り、眩しさに目を閉じた。
「オハヨ」
 よく眠っていたね、と彼は言う。先によく眠っていたのはお前だろう、と言いかけてふと、今になってようやく自分の頭があるのは彼の膝の上だと気づく。なるほど硬いけれど表面は少しだけ柔らかいのはその為か、と順番に理解していって最後にガバッと一気に勢いづけて上半身を起こした。
 バネ仕掛けのおもちゃのような唐突な動きに、驚きつつも反応を返したスマイルは大事そうに胸にギターを抱え込んでいた。その角がこちらに当たるとでも思ったのだろう。
「ユーリ、サン……?」
「何故私がこんな場所で寝ていなければならないのだ!」
 思い出した途端、腹立たしく思えてならない。昼寝をするつもりなどなかったのに、気づけばこの有様だ。背中に張り付いた草の切れ端が、身体を揺する度にひらひらと落ちていく。苦笑したスマイルが手を伸ばし、頭の後ろについているものを払い落としてくれた。
「そう言われてもネぇ……」
 困った顔で抱いていたギターを脇に下ろし、スマイルは頬を掻きながら言う。
「ボクが起きた時にはもう、ユーリはここで寝てたし」
 肩によりかかるようにして、だそうだ。このままでは自分が身動き取れないので、でも草の上に放り出すのも忍びなかったから膝の上に頭を載せて、自分は忘れかけていた仕事を再開させていたのだ、と。
 なるほど彼の傍には確かに、僅かに数枚無事だった五線譜と、下敷き代わりの写真集にペンが一箇所に取り揃えられていた。白紙ばかりだったものも、少しだけ作業が進んだのか幾らか書き込みが見える。
 だが釈然としない。不機嫌な表情を崩さずにぶすっと睨んでやる。苦笑を重ねたスマイルが、まぁまぁと手を振って宥めようとしていた。
 そもそもこいつが、こんな場所で眠っているのがいけないのだ。昼寝をするならばベッドの上、仕事をするならば机の前でやれば良いのに、何をわざわざ庭先に出てやる必要があるというのだろう。
「んー……そう言われると身も蓋もないんだけど」
 困った顔で頬を掻く。顔はこちらに向けながら、視線は彼方の宙をさ迷い言葉を捜し求めている風。
「天気も良かったから、外で仕事できたらさぞかし気持ちがイイだろうな~って思って」
 彼の目が空を仰いだ。屋根を成している木々の枝ぶりの間から覗く僅かな空の色は、鮮やかなまでの眩しい蒼。つられて上を向いた耳に、スマイルの声が被さる。
「それに、あそこで」
 庭で、アッシュ君が干したのであろう洗濯物と、真っ白なシーツが風に煽られて揺れていたから。
 物干し台に並ぶシーツの群れを指差し、彼は笑った。
「は?」
「あれ見てたらさ~、なんだかすっごく眠くなっちゃって」
「……よく分からんが」
「んー、でも実際そうだったから他に説明出来ないし」
「そういうものか?」
「ウン。ソンナモノデス」
 にっと歯を見せて笑い、胸の抱え直したギターを軽く撫でる。弦を弾くと、乾いた音が間延びした印象で周囲に広がった。
 風に溶け、流れていく。
「そういうものか……」
 ぽつりと呟く。重ねるように、スマイルがまた弦を掻き鳴らした。

 そんな、穏やかな転寝日和。

AM0:00

 その日は何故か早く休む気になれなかった。
 妙に身体が高揚している、特に日中これといった出来事もなかったはずなのに。
 普通に仕事をし、食事をし、仲間と語らい、湯船に身を浸して気持ちを休め、まるで健康な人間の如きタイムサークルで一日の活動を終えようとしていた時間帯。けれど寝所に入っても頭は冴えており、目を閉じて暫く待ってみても睡魔はちっとも訪れてくれない。何度も寝返りを打って眠気を呼び起こそうと努力を試みるが、逆に目が冴える一方で深まる闇に反し、気分は燦燦と太陽輝く昼間の感じだ。
 仕方なく、ベッドから起き上がる。素足で床に降り立ち、指先から感じ取られる冷たさに眉目を顰め、深く息を吐いて暗がりに染まる窓の向こうを見やった。
 少し身体を動かしてみようか。そうすれば自然と眠りも促されるだろう。
 疲れているはずなのに眠りたがらない身体に肩を竦め、月明かりを頼りに寝間着の上からジャケットを羽織る。靴を履き、寝台から最も近い窓へと近づいた。
 金属の錠を外し、腰の高さにある窓枠に足を引っ掛ける。ひんやりとした空気が室内に流れ込んで来て、銀色の毛先をくすぐるようにかき回した。ひとつ息を吐く、白く濁りはしないがそうなりそうな雰囲気が漂う静けさだ。
 音がしない、聞こえるのは自分の呼吸する音と観音開きの窓に取り付けられた金錆びた蝶番の軋みくらいだ。
 両足を窓枠に乗せ、上の枠に手を添えて身体の向きを反転させる。百八十度入れ替わった視界に灰色の世界と化している自分の寝室が飛び込んできた。僅かな月明かりによって床に自分の影が刻まれている、壁に掲げられた時計はあと小一時間で日付が変わる頃合を指し示していた。
 寝入るには少し早いかもしれないが、今日の労働と明日の予定を計算に入れた上で判断した就寝時間だったのに、なかなか思い通りにいかない。城に暮らす仲間はもう眠ってしまったのだろうか。彼らとて明日の朝は早い、夜更かしせぬように言い聞かせたのは他ならぬ自分なのだが。
 けれど耳を澄ませても、自分以外の誰も呼吸をしていないような静けさだけが際立ってしまい、まるでこの世の中でひとり取り残された感覚に陥りそうになる。
 そういえば、以前にも似たような気持ちを覚えたことがあった。もう随分と昔の出来事だが、瞼を閉ざし思いを馳せれば、つい昨日のことのようにも思えてくる。
 同胞を相次いで失い、ひとり城に取り残されてそれでも尚、生き続けろと強要されて死という眠りを許されなかった日々。ただひたすら眠り続け、いつかこの身が朽ち果ててくれる日を夢見ていた。
 その日はついに訪れなかったのだが。
 唐突に破られた眠りに不快感はあったが、眠る以前には無かった様々な出会いや刺激的な出来事があった。退屈だった数百年に比べれば、この数年という僅かな日数の方が遥かに有益で、実り多く充実した時間だったと言えるだろう。
 今更にまたひとり、固く冷たく、暗い棺桶に横たわって無為な時を過ごしたいとは思わない。
 背中に空気の流れを感じ取る。顎を反り、目を閉じた。意識を背中に集約させ、同時に窓枠を掴む両手を自由にさせる。重力に導かれるままに、後ろ向きに身体はゆっくりと傾く。爪先で壁を蹴った。
 タンッ、と中空でバク転の要領で身体を捻り、タイミングを計って背中の羽根を大きく広げる。下から吹いてくる風を浴び、ばっと一気に闇を裂いた翼が気圧の変化を受け止めながら少しずつ落下を穏やかにさせてやがて完全に空中で停止した。慣れた具合で羽根の動きを操作してやれば、思い通りに闇夜を風が滑る。
 背後を振り返れば城はかなり遠くになり、真上に輝く月は大きく明るい。散歩をするには適した気候だ。
「少し……見て回るか」
 上空から見下ろせば、城は広大な森に取り囲まれているのが分かる。周囲には他に背の高い建造物は存在せず、余計に城の尖塔が天を刺す勢いで聳え立って見えた。彼方北方へ目を向ければ遠くにこの国の主であるものの居城が見える筈だが、夜という視界が限られた条件下にある為か今は見えなかった。
 反対側を向けば、城と似たようなデザインだが外壁の色が白色で統一された建物がある。中心に建つ尖塔の先端には巨大な鐘が吊るされており、遠く離れたこの城にまで時を告げる音色が聞こえるのだ。
 他に目立つものは何もない。が、眼下へと目線を投げ下ろせば、深く黒々とした森の一角に、唐突に開かれた場所がある。広場というのには少々趣が異なるとこの高さからでも分かる。点々と見える灰色のものが何を示しているのか、自分は痛いほど理解できるからだ。
 ふっと吐き出した息が冷たい。もう一枚羽織って出てくるべきだったろうかと北から吹いてくる風に身を震わせながら、城へ戻るコースは取らずに今見下ろした灰色の場所へと爪先を向けた。古びた石碑が見える、表面は朽ちて刻まれた文字はかなり薄くなり、読み取るのはほぼ不可能だろう。長い年月を風雨に晒された結果であり、それはまるで滅び行く種族の行く末そのままのようだった。
 いづれ忘れ去られる存在なれば……
 最後まで時に抗う道を選んだ同胞の思いは痛いほど分かるが、その思いをひとり背負わされた者の苦悩はどうなるのか。ゆっくりと風の抵抗を強めながら地上へと降り立ち、石碑の中で最も大きなものの前に歩み出て見上げる。中央に大きめに刻まれた文字だけが、辛うじて今でも読める状態にあった。
 だが目で追わなくとも、何が書かれているか知っている。毎日のように見上げた日々は遠い過去だ。

『永久に共にあらんことを』

 陳腐な文句だと思う。願ったところで、祈りは通じず夢は果たせぬまま弾けて消えた。それこそ、呆気なく。
 それとも彼らは、死して後も共にある道を願ったのだろうか。最早聞けぬ問いを口に出す術もなく、ひとりその場に立ち尽くす。
 石碑の周囲には大小さまざまながら石碑と、かつては十字架であったろう墓標が見える。石碑は昔からあったが、十字架の墓標を立てたのは自分だ。穴を掘り印として飾りもなく、名も刻まぬ十字を地表に突き刺した。墓標の代わりであったのは確かだが、一度掘った場所を間違って掘り返し、遺骸を傷つけぬようにする為の已む無き手段でもあった。
 そうやっているうちにどんどんと道として使っていた場所にまで穴は増え、結局はこの開けた一角全体が墓場と化してしまったのだが。
 傍目には不気味極まりない場所であろう。梟の鳴き声がする、夜ももう遅い。
 しかしなかなか足が思うように動かなかった。地中に眠る同胞が、お前もこちらへ来いと促しているように聞こえる梟の声に、知らず気持ちが揺れ動く。
「私は……」
 永久に共に。それはかつての自分もまた、仲間と語らいあいながら誓った約束でもある。ならば約束を違え裏切っているのは自分なのか? 
 望まぬうちに眠りを破られたと言い訳し、望んでいながら眠りに就けない状況にあると言い訳している。故に自分は意地汚く、どうしようもない姑息な存在に成り果てているのだと思えてしまって、この墓場を取り巻く森同様に陰鬱な気分に陥ってしまう。
 このままであって良いとは思わない。
 だが、居心地の良い今を捨て去ってしまうこともできない。
 目を閉じれば、この数年で出会った多くの者達の顔が思い浮かぶ。その多くは自分とは種を異にし、寿命も大きく違う。彼らは自分に比べれば遥かに短い時を、けれど自分など比べ物にもならない程に輝いて過ごしている。
 正直、羨みたくなる。何故彼らはそんなにも生き生きと、短い生を謳歌出きるのか。その術が知りたかった。
 エゴだと、心の中の酷く冷静な部分が嘲笑っている。栄えた同胞との時代を懐古しながら、あの場所に戻れぬならばそれと似通った状況に身を置き、そうする事で自分を慰んでいる。記憶の摩り替えだ、と。
「それでも……」
 こんな時奴ならば、なんと言うだろう。
 脳裏に浮かんだひとりの顔に、その嫌味ない笑顔に、思いを重ねる。
 この苦しい胸の内を理解し得る存在など数えるほどいない。そのうちの――自分が果て無き眠りから目覚める元凶であり、今の自分の居場所を与えたに等しい存在であり、同胞無く孤独に耐えながら数百の年月を重ねている人物を、思い出す。
 目を閉じた。奴ならば、きっと、そうだ。
 呆気なく笑い飛ばすだろう。
 悩むだけ無駄だと。過ぎた時間が戻るわけでもなく、死んでいった者達の真の思いが分かるわけもない。後悔したところで一切が徒労となるしかない行為ならば、最初からしない方が良い。生きているものは死んだ者を懐かしみこそすれ、決して追い求めてはならないのだ、と。
「帰ろう」
 我が家へ。
 吐く息と共に呟き、右足を持ち上げる。さっきまで鉛のように重かった足は、随分と軽くなっていて驚かされた。
 背中に意識を向け、折りたたんで小さくしていた翼を広げる。最初はゆっくりと、次第に勢いを付けて周囲に乱気流を発生させる最中、闇の中でも厳かに聳え立つ石碑へと目をやった。
 永久に、共に。
 今も誓いは変わらない、自分がこの地に眠る吸血鬼と同種である限り、決して拭い払えぬ呪縛となって残るだろう。
 それでも、なお、自分は……

 

 帰りは城の正面から入った。 
 中から施錠されている筈なのだが、城の主を自動認識する古めかしい巨大な扉は自ら閂を外し、身を震わせて人がひとり通り抜けられるだけの隙間を間に生み出してくれた。目礼だけをして通り過ぎると、背後でまた扉が勝手に閉まる音がする。
 静寂が戻った城の中は暗い。家人が寝入ってしまった為だと分かっているが、壁の燭台で心細げに揺れる蝋燭の炎だけが足元を照らす唯一の光源となっている。
 正面ホールで一度足を止め、どちらに進むかで一瞬逡巡する。部屋に戻っても眠れる保障は無い、リビングで眠気が起こるまでゆっくりするか。外から戻ってきたばかりで冷えた身体を温める為にシャワーも良いだろう、暖かなミルクで気持ちを落ち着けさせるのも悪くない。
 だが結局どれも妙案と思えず、緩く首を振って休めていた歩みを取り戻す。脇に流れていく古ぼけた柱時計の針が鈍色の輝きを放ちながら、まもなく午前0時を指し示そうとしていた。
 そういえば今日早く休むように言いつけた時、スマイルが妙に頬を膨らませて反抗を試みていた。理由を聞いても答えなかったから一蹴してしまったのだが、今日何かあっただろうか。思い返しながら階段を上るが、自室がある階に着いても何も浮かんでこなかった。
 軽く首を傾げ、部屋へ向かう。今日は何も考えず眠ってしまいたかった。
 眠って……何も考えないままに眠りに就いてしまいたかった。
 だが、予想に反して部屋で待ち構えていたものは。
「遅い」
 ドアノブを持って扉を開けた瞬間、全く想像もしていなかった人の声が室内から聞こえ、思わず吃驚してその場で硬直してしまった。
 戻るべき部屋を間違えたのかと考える、だが見える限りの視界で巡らせた内部は紛れも無く己の部屋。ならば無人である筈の部屋から聞こえてきたこの声は……
「ユーリ、遅い」
 部屋の様子を確認していたら、同じ声で同じ台詞が吐き出された。漸く声の源に目を向けると、背後に窓から差し込む薄い光を背負い、椅子ではなく何故か机に腰掛けたスマイルの姿を見出せた。つま先を椅子の天板に引っ掛け、折った膝の上に肘を置いて頬杖をついている。表情はやや不満げだ。
 早く寝るよう言った張本人が夜にふらふらと外出していたのだから、スマイルの表情の意味は理解できる。だがどうして彼は自分の部屋にいるのだろう、寝るようにとの言いつけを彼もまた、破ってまで。
 コチコチと時計の針が回る音がする。他に聞こえるものがない静寂の中でお互いに見合って、やがてスマイルは視線を逸らし壁の方へと隻眼を向けた。
 慣れ親しんだ自分の部屋だ、彼の視線がどこを目指しているのか確認しなくても分かる。あの方角のあの角度で存在するのは、壁とそこに吊り下げられた時計だけだ。
「眠れないから少し出てきただけだ。日付が変わる前に、ちゃんと戻ってはきただろう?」
 遅いと言われても、平素ならば今くらいはまだ活動時間帯だ。壁時計を顎で示すように動き、スマイルを見返す。
 彼はそれでもまだ不満そうにして、神経質気味に指先で机の角を数回叩いた。だがやがて、諦めたように溜息を吐き出す。
「しょうがないか、今日――いや、まだ明日か」
 もう一度時計を見て時間を正確に確認し、彼は呟いた。妙にこちらの気持ちの高揚を知ったような口調に、眉目を顰めた。
「眠れなくても、ある意味仕方ない、か」
 室内に比べれば明るい窓へと一度だけ目をやり、膝の上に置いていた肘を外して机に寄りかかる。開け放しにしてきた筈の窓はいつの間にか閉められていた。だからこそスマイルは、自分の不在と夜間の外出に気づいたのだろうけれど。
 暖かくなったとはいえ、夜中に窓を開けっ放しにしたままでは身体が冷える。現に外に出ているうちにすっかり身体は冷え切ってしまった。
 ぽりぽりとスマイルが後頭部を掻く。もう片方の腕が彼の背中に回されていた。ちらりと持ち上げられた瞳がしつこい程に時計を確認し、最後はポケットに仕舞われたアンティークの懐中時計を開き、文字盤を見下ろす。
「ま。いいや」
 言いたいことはあるけれど深く追求しないでおこうと、自らに言い聞かせる風な口調で彼は呟いた。頭から腕を下ろし、懐中時計を仕舞いこむ。つま先を伸ばして椅子を斜め前に押し出し、すとんと床に降り立った。
 彼の動きを目で追う。歩幅にして一歩半の距離を間に挟み、スマイルは立ち止まった。
 先程まで背中に回されていた――時計を持っていた――手が前方に現れた。胸の前で軽く卵を握りこめるような形で拳を作り、暫くの間停止。いったい何の意味があるのか分からず、丸められた包帯の手からスマイルの隻眼へと視線を動かそうとしたところで。
 ぱんっ。
 甲高い、何かがはじける音がとても間近から響いた。一瞬遅れで、僅かな火薬の匂い、目の前を踊る色とりどりの細長い薄紙の束、ひらひらと頭上を舞う紙吹雪。
 クラッカーだ。
「……なっ!?」
 いったい、なに。
 耳を劈くような破裂音にまず驚き、降ってくる色鮮やかな紙吹雪に続けて驚く。反射的に身を竦めて肩を縮めこませていたら、ぷっと吹き出すスマイルの笑い声が次いで聞こえてきた。
 笑っている、いたずらが成功した子供のように、声を立てて楽しそうに。
「スマイル!」
 だから怒鳴った、彼の笑い声に負けないように腹の底から。目尻を吊り上げて怒りの形相で、驚かされた事への反感を表現したつもりだった。だが、笑い声は止んでも目がまだ笑っているスマイルにぴっと立てた人差し指を突きつけられ、再び拍子抜けしたような顔になってしまう。
 彼といると、どうしてこんなにも予想外の出来事ばかり起こるのだろう。
「なんだ……」
 人差し指の意味が理解出来ず、もう少し突き出されたら喉に刺さりそうな距離に不安を覚えながら彼を睨む。すると、人の喉下を指していた彼の手は、空中を滑って動き壁の一箇所を示して止まった。
 今度は振り返る。彼の指先が導くものは、壁の時計。
 丁度、午前0時を回った直後の。
「誕生日ってのとは、違うんだけどネ」
 肩越し、近い場所からスマイルの声が耳に響く。
 僅かに低い、深みのある声。夜闇に窓から差す星明りの所為か、それは深海に漂う水音のような声だと、思った。
 一呼吸置き、彼は続ける。
「君が起きた日だから」
 月明かりが差し込む礼拝堂、ただひとり残された者としての生を放棄しようと永い眠りに就いていたあの日。
 ただ無駄に過ごすだけの時間から抜け出した、あの日。
 どれだけの年月が過ぎようと、消え去ることのないあらゆる分岐点となった、あの日。
「そうだったか?」
 いわれるまで思い出しもしなかった、ごくありふれた日常に埋もれてしまった一日。わざわざ記念日になどせずともいいだろうに、彼はそれでも、目覚めてくれてありがとう、と笑う。
 未だに自分は、こうやって生きていることに迷い続けているというのに。
「覚えてたんだと、思ったんだけどナ」
 微かに聞こえる声で呟いた彼が窓の向こうへと視線を流す。ならば自分は無意識に、今は亡き者たちの眠る場所に出向いていたのか。この日を前にして。
「ま、イイケド」
 日付は変わり、自分はまだおきて動いている。それを確かめたかったのかもしれない、その為に彼はこの部屋で待っていたのか。
「いいのか?」
「イイよ。ユーリはまだ、眠ってなかったから」
 二度と目覚めない眠りに落ちてしまわぬように、再び生きる道を放棄してしまわないように。
 確かめたかったのか、彼なりに。
 珍しく弱気でいるらいしスマイルに、思わず薄い笑みが漏れる。
「それで? お前は、私に寝るなとでも言いに来たのか?」
 明日――否、もう今日だが、午前4時半には城を出ないといけない予定だ。今から眠ったところでぐっすり、とまでは無理だろうが、多少寝ているのとそうでないのとでは、仕事をする点で効率が著しく異なってくる。アッシュだけがひとり元気に走り回り、貧血で椅子にぐったり凭れ掛かっている自分の姿は想像に難くない。
 軽く笑ったまま、しかしねめつけるように彼を見上げると、困った顔でスマイルは視線を逸らす。
「そうじゃない……つもりだけど」
 頬を引っかく素振りで懸命に言葉を捜している様子だが、なかなか思うものが見つからないらしい。
「案ずるな。ちゃんと時間には起きるさ」
 もうあの日の自分とは違う。真っ白な明日に怯える子供ではない。やるべきこと、やりたいこと、まだまだ沢山残っている。無責任に放り出すのは性分ではないし、あらゆる色に染められて、染まろうとしている明日が前に広がっている限りは、きっと。
 望むべくして、明日を夢見て自分は目覚めるだろう。
 だがスマイルはまだ部屋を出て行こうとしない。そんなに信用がないのかと言ってやりたくなる。
 溜息をついた。時間も押している、そろそろ本格的に休みたい気分だ。スマイルとて、同じであろう。いい大人として仕事の時間は守らねばならないし、その為の体調管理は全て自己責任だ。
「スマイル」
 髪をくしゃっと掻き揚げる。目の前に月明かりを背負って立つ男の顔を、なるべく近くから見上げた。
「なら、時間になったらお前が起こしに来い」
「ユーリ」
「不満か?」
 普段は自分が寝入っている時に部屋に入って来ようものなら、問答無用で殴り倒してくれてやるのだが、今回は特別多めに見てやることにしよう。肩を竦め、さも仕方がないからと身体で表現してやり、笑う。
 暫くの間そうやって見つめあい、やがて先に目を逸らしたスマイルが、いつものような笑みを口元に浮かべた。
「しょうがないなー。そこまで言うんだったら、起こしてあげなくもないかナ」
「勝手なことを」
 互いに言い合って、肩がぶつかりそうな距離ですれ違う。
 自分は寝台の方へと、スマイルは部屋の出口である扉へと。
 
 振り返りもしない、顔を見合わせる必要もない。ただ一瞬肩に感じたその暖かさが、紛れもない今自分に与えられた現実であると。
 生きる意味のひとつなのだと。
「スマイル」
 彼が出て行く手前、名前を声に出し呼び止める。扉に手を置いて身体半分が廊下に出掛かっていた彼は、一瞬怪訝な面持ちでこちらを振り返った。
 薄明かりの為あまりはっきりとした表情までは読み取れないが、こちらの動向を窺っている。
「おやすみ。また明日」
 もう今日だ、という言葉は野暮なので言わない。
 スマイルは笑った。漸く、安心したように。
「うん、おやすみ、ユーリ。また明日」
 そうして扉は閉じられる。

焔火

 その溝は、底が闇の中な程に深く、向こう側が見えない程の幅の広さでもって、綱吉の前に横たわっている。
 いつだったか、テレビのドキュメンタリー番組で南極の巨大なクレバスの映像が流れているのを見たことがあるが、それに似ている。違うのは、あの映像は白銀世界の光景だったけれど、綱吉が今立っている場所は、己の手元さえ見えない暗闇だということだろう。
 出口もなく、前に進むことも出来ない。右を見ても左を見ても、その溝の切れ目は見当たらず、向こう岸に渡る橋もない。後ろには下がれるかもしれないが、どこに続いているか分からない。
 何故此処に居るのかも分からないで、綱吉は溝を吹き抜ける風が鳴る、物悲しい声に胸を詰まらせる。
 それは悲鳴のようであり、彼を責める声でもある。
 聞きたくなくて耳を塞いでも、指の隙間から、手のひらの細胞さえも通り抜け、声は切なく、哀しげに、綱吉の脳髄に突き刺さる。振り払おうと首を振っても、余計に絡み付いて離れなくなるばかり。
 助けて。声は響かない。応える者もない。
 一切の闇、一切の沈黙。
 目の前に辛うじて見える光は針で突いた穴のように小さく、今にも消えそうな蝋燭の炎の如く弱々しい。
 そこに辿り着ければ暖かいだろうか、救われるだろうか。しかし彼と光との間には、どうしても越えられない溝がある。その場所で尻込みし、足踏みをしている限り、永遠に光には手が届かない。
 痛い程分かっている。分かっている、が、動けない。
 足が竦む、失敗した時の事を考えると恐怖で総毛立つ。
 綱吉は座り込んだ。膝を折り、そこに額を押し付けて背中を丸め、身体を小さくして、震える。
 己はなんて弱いんだろう。弱く小さく惨めな存在なのだろう。最初からダメな人間なのだから、珍しくやる気になって勇気を振り絞ったところで、結局ダメな結末で終わるのは分かりきっている。
 誰かを傷つけたり、自分が深く傷ついたりする前に、自分自身への浅い傷だけで終わらせておけば良かったのだ。
 こんな風に、声を殺して泣く必要なんて無かったのだ。
 ――入ってこないで。
 そうやって、自分を守ってきたのに。
 彼らは――彼は、呆気なく綱吉自分で組み立てたバリケードを突破し、綱吉の心の殻をノックして、返事がないと知るや諦めるではなく、無理やりにドアをこじ開けて破壊した。二度と、扉が閉まらないよう、綱吉が内に引きこもれないように。
 けれど今、再び扉は閉ざされた。小さな鍵穴から漏れる光はか細く、悲しい。
 差し出されたはずの手は、いつの間にか綱吉を、溝のこちら側へと突き飛ばしていた。そしてもう、あの手は届かない。
 彼が好きで、好きで、自覚したら他に何も考えられないくらいに、好きでどうしようもなくて。
 だからこそ綱吉は、この場で踏み止まって、どこにも動けない。
 彼が傷つくのは嫌だ、無論彼以外の大勢の仲間や、友や、大切な人を傷つけてしまうのは嫌だ。それに伴って、自分自身が傷つくのも、嫌だ。
 自分が動かなければ、今のままの時間を過ごせたなら、きっときっと、大丈夫だと思うことで辛うじて、綱吉は自分を支えている。心が折れてしまうのを防いでいる。
 ボンゴレは継がない、イタリアにも行かない、十代目になんてならない。マフィアなんて知らない、喧嘩なんてしたくない、ましてや命を賭けた闘いなんて馬鹿げている。
 自分は戦わない、誰も巻き込まないし巻き込まれたくも無い。そうすればみんなきっと、傷つかない。戦わなくて済む。相手の言い分なんて聞いてやらない、ここは日本、法治国家。自分は矮小な一市民でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
 それ以外に、何も要らない。

 綱吉は膝を抱いてその場に横たわる。
 見上げた空は薄雲が漂い、鳴り響くチャイムの音はどこか他人事のようだった。
「授業、終わっちゃった……」
 呟いた声は乾いている。目が痛くなるまで泣いたのは、果たしていつ以来だろうか。ぼんやりと流れていく雲の行方を追いかけながら、思い返せない記憶に意識を飛ばして、短い時間を過ごした。眩しかった日の光も少し緩んでいるのは、もう夕方ともいえる時間帯が近いからだろう。綱吉の足元遠くでは、今日の授業が終わって漸く帰れると、はしゃいでいる生徒たちの声がする。
 結局昼休みが終わっても教室には戻らず、五時間目が終了しても教室に戻らず、ホームルームもサボってしまった。
 涙も枯れたのか、いつの間にか流れなくなって、ぐしゃぐしゃになっていた顔も少しは落ち着いた。まだ時折鼻をすすり上げなければならないところはあるが、山本がいなくなった直後よりは随分と、心も平静さを取り戻しつつある。
「怒られるかな」
 授業をサボるのは初めてではないが、最近は色々とトラブルも多くて休みがちであり、先生の視線も厳しくなっている。成績が下がる一方なのもどうにかしなければならない、それは重々理解しているのだけれど、獄寺や山本がいる教室に入っていく勇気は、今の綱吉にはなかった。
 想像しただけでも足が震えてしまう。ふたりのどちらかの姿を見ただけでも、瞬間回れ右をして逃げ出す自信ならある。そんなものを誇っても仕方が無いのに、と皮肉げに笑おうとしたけれど、硬直した頬の筋肉が僅かに震えるだけに終わった。
 息を吐く、重い頭を振って身体を起こした。細かい砂埃を払い落とし、両足を投げ出して空を見る。後頭部がフェンスの金網に当たって軽い音を立てた。
 余裕の無い生徒が既に着替えを終えたのか、グラウンドからは部活動を開始する掛け声も響いている。すべてが遠く、ブラウン管一枚を通した向こう側の世界のように綱吉には思えた。
 どこかから飛んできた枯葉が一枚、足の間に落ちている左手の指先で踊っている。くるくると回って軽いステップを刻み、注視しようと首の角度を小さくしたところで風に攫われ、消えてなくなった。
 ため息が重なる。帰らなくてはならない、時間の経過は容赦ない。既に日は傾きつつある、動いていなくても腹は減るもので、夕食の時間まではまだ遠いが、おやつという環境に慣れている身体は鈍い空腹を訴えかけている。ご主人様の精神的状態など、お構いなしだ。
「……」
 頭を掻く、薄茶色い剛毛が指の間を跳ねる。反発されているように感じて、両手を使ってぐしゃぐしゃに掻き回した。爪が皮膚を刺激して軽く痛む、すべてが自業自得で始末が悪い。
 誰かに助けて欲しいけれど、誰にも助けを求められない。獄寺が好きだという感情自体、綱吉でさえ、間違っていると思うのだ。
 けれど彼と知り合ってから自分は変わって、彼のお陰で随分と世界も広がった。過干渉なまでの接触も多かったけれど、おおむね彼は自分に好意的だったし、「守る」と言われた時に心臓が跳ねたのも嘘ではない。
 きっと自分はこの先、彼がいなければ生きていけないだろう。だって今の自分は、彼に出会えたことで大きく変わってしまった後の自分。もう彼と出会う前のダメツナには戻れない。
 だからこそ、ダメなのだ。
 このままでは自分は弱くなる一方で、彼無しの今後を考えるのは嫌で、けれどやはりボンゴレ十代目の椅子は綱吉にとって大きすぎて手に余る。遠慮願いたいナンバーワンの将来。ただそこに、獄寺は常について回る。
 彼はボンゴレ側の人間で、綱吉が正式に十代目の地位を蹴った後どうなるかは、分からない。しかし彼はマフィアとして生きる将来を既に決定済みであり、恐らくは確実に、本当の十代目の側近として働くことになるだろう。それはつまり、綱吉との別れに直結する。
 それが怖い。
 彼が離れていくのが怖い。
 故に、これ以上彼と近づくのも、怖くてたまらない。
「もうみんな、帰ったよな」
 山本は部活だったはずだ。他のクラスメイトもこれだけ時間が経てば帰っているだろう。ホームルームも終わった教室に居残り続ける生徒は、補習を命じられる綱吉くらいなもの。獄寺は……正直、分からない。
 一番会いたくない人物だ。本音では会いたくて仕方が無いけれど、今会えばどんな悪態をついてしまうか分からない。山本が言っていた「誤解」を追求されるのも怖い。きっと言い訳をしてしまう。もしくは逃げるだろう、何かを言われる前に。
 大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせ、綱吉は時間をかけて立ち上がった。ずっと座っていたからだろう、立ち眩みがして前後左右に身体が揺れたが、フェンスに手を置いてどうにかみっともない姿を晒す前に堪える。肩を上下させて荒く息を吐き、転びそうになった時に高まった心拍数を落ち着かせてからフェンスから離れる。
 久しぶりに両足で立つという感覚は、自分が生きている人間だと嫌でも思い出させられる。歩いてゆかねばならないのだ、どんな道であっても、この二本の足で。
 思わずその場で足踏みをし、きちんと動くのを確かめてから綱吉は歩き出した。日の当たっていた屋上から、屋根のある薄暗い空間にもぐりこむ瞬間はガラにも無く緊張して、生唾を飲み込む音がやけに大きく耳に張り付く。
 掃除もろくにされていない階段をゆっくりと降り、ひんやりとした手すりのお陰で噴出しそうな汗はどうにか耐えた。踊り場で折り返して更に下ると、漸く天井の蛍光灯に光が灯っている廊下に出る。人の気配は無く、シンと静まり返っていて薄気味が悪い。
 雨の日の夕方を思い出す。あの日も、時間帯はちょうど今頃だった。
 閉められた窓から夕日が差し込んで、灰色の廊下に四角形の影が並ぶ。二年の教室が並ぶ階まで降りて角から様子を伺うが、ここも上の階と同じように人の気配は感じられず、廊下の電源は切られていた。
 外からの明るさだけでも歩き回るには十分で、特に問題を感じなかったけれど、薄ぼんやりとオレンジ色をした廊下の空気はいつもと違う気がして、別空間に迷い込んだ気分になる。逢魔が時とはよく言ったもので、綱吉はいつ誰と遭遇するか冷や冷やものだ。
 だが不安は杞憂に終わり、閉まっていた教室の扉を開けると、中には誰もいなかった。
 机の上には、置きっぱなしにしていたらしいペンケースを重石に、午後の授業とホームルームで配られたらしいプリントが四枚重ねて置かれていた。三枚は授業で使ったらしいプリントで、最後の一枚は生徒会からのお知らせと太文字で書かれたプリントだった。いずれもざっと目を通しただけでまとめて二つ折りにし、広がらないようにまたペンケースを上に載せる。それから机脇に吊るしておいたカバンをフックから外し、プリントの横に並べた。口を開け、椅子を引いて机の引き出しから取り出した教科書やノート類を取り出して放り込む。最後にペンケースと、プリントを隙間に押し込んで終了。
 照明の消えた教室は戸締りもしっかりとされていて、カーテンの引かれていない窓から見える校庭もまた夕日を受けてオレンジ色に輝いている。窓は閉まっているから外の声はうっすらとしか聞こえないが、サッカー部が所狭しとボールを蹴って走っている横で、陸上部が短距離のタイムを計っているのが見えた。野球部の姿は、無い。
「…………」
 窓に額を寄せ、グラウンドを走り回っている小さな影を目で追いかける。その中に山本の姿が無いかと探してみたものの、今日は体育館を使っているのか、それとも外へランニングに出ているのか、野球部のユニフォームは見当たらなかった。
 僅かに不安に顔を歪め、綱吉はそそくさとカバンの口を閉じると椅子の位置を戻した。最後に、ぐいっと涙で薄汚れているだろう顔を袖で擦る。
 この顔を見られて事情を問い詰められるのも非常に厄介だから、誰にも会わなかったのはむしろ幸いだった。後は忘れ物を取りに来た生徒や、見回りの教師を警戒するだけで済む。足早に教室を出て後ろ手に扉を閉めると、綱吉はいつも使っている正面玄関ではなく、裏門へと向かった。
 正面玄関を使うと、正門へ出るのにはグラウンドを横切らなければならない。部活動真っ最中なので中央横断も難しく、迂回を余儀なくされる。そうすれば人目に触れる時間も増えるし、知り合いに会う可能性も大きくなる。だから人気もなく、普段は閉まっていて使われることのない裏門から学校を出ようというのだ。
 無論裏門は施錠されているので開かないが、鉄門であり柵に足を引っ掛ければ乗り越えられる。学校を途中で抜け出したりする時の常套手段であり、綱吉も過去何度か利用経験がある。授業中の時間帯では教職員に警戒されているが、放課後であれば発見されることもあるまい。
 校舎を出て、ゴミ捨て場の脇を抜けて裏門に向かう。案の定誰もおらず、念の為左右の確認をしてから先にカバンを柵の隙間から道路側へ押し出し、身軽になってから大きく足を開いてつま先を横向きの柵に引っ掛けた。両手でしっかりと縦向きの柵を握り、力を加えて登る。後は楽だ。
 裏門のすぐ外は細い路地で、住宅が何軒か並んでいるが人目は無い。ほっと胸を撫で下ろしてカバンを掴むと、家に続く道へと合流すべく地形を思い出しながら先を行くだけ。
 だが。
 綱吉の足は、大通りに向かう少し手前で失速し、やがて停止した。
 息が詰まり、しばらくの間呼吸をするのも忘れてしまいそうになる。車のクラクションが遠くで鳴り響くのを聞いて、我に返った。そして咄嗟に、踵を返し駆け出そうとして。
「十代目!」
 獄寺の悲痛な呼び声に、全身が凍りつく。
 ああ、何故。何故。
 そればかりが頭の中でこだましている。繰り返される自問と、逃げなければという思いと、逃げてはいけないと叱責する声が三方から綱吉に襲い掛かる。いっそ両手で顔を覆ってしまいたかったけれど、片腕はカバンを持つのに埋もれており適わない。せめて片手ででも、と唇を噛み締めていたらそれより早く、他者の手が彼の二の腕を掴んだ。
 振り返る。近くに、息を切らしている獄寺の顔。
 それだけで、涙がこみあげてくるようだった。
「はな……っ」
「十代目、すみません俺」
 放してという声は獄寺の切迫した声に掻き消された。よく見れば彼の左頬が少し赤く腫れている。遠目では分からない色合いの変化だが、息が鼻先を掠めるこの至近距離では痛いくらいにはっきりと見えてしまった。
 誰にやられたのか。そんな場所、殴られた以外に腫れるはずが無い。
 綱吉の視線がそこにばかり集中しているのに気付いたのだろう、獄寺は綱吉が逃げないのを確認して、手を放した。そのまま肘を曲げ、頬に指を沿わせる。痛いのか、赤色が濃い場所は避けていた。
「誰に?」
「いえ、これは自分が悪いので」
 問いかけると、視線を逸らされてしまった。顔を背けられるのがこんなに辛いものなのかと、屋上で起こした自分の行動を思い返しながら綱吉はまた泣きたくなる。
 彼が俯いてしまったのを、誤解したのだろうか。少し慌てた風に、獄寺はことばを捜しながら綱吉に触れるか触れないかの距離で手を動かす。結局その手は、虚しいばかりに空気を掴んで降りていった。
「山本に……」
「なんで!」
 ぽつりと呟かれた人名に、綱吉は弾かれたように高い声と顔をあげた。車が行過ぎる騒音に僅かに音はかき消されたが、表通りと路地とが交錯しているT字路は案外人通りも多い。自転車ですれ違った買い物帰りらしき主婦が、突然声を荒立てた綱吉を怪訝な顔で見ていく。
 もっとも、当の本人は他人の事など一切視界に入っていなかった。軽く拳を握り、何故、ともう一度こぼす。
 山本が獄寺を殴った。獄寺の性格を考えると、ただ黙って殴られただけで終わるとは思えない。それに、山本も。誰かを殴るなんて、どう考えても彼らしくない。
「……」
 激昂する綱吉を前に、獄寺は吐息を零して眉間に皺を寄せた。理由はあまり語りたくないようだが、このまま沈黙を押し通すのも綱吉の心情を思うと難しい。逡巡しているのが表情によく現れていて、獄寺もまた、いつだって真っ直ぐに突き進む彼らしくない。
 綱吉が首を振る。
「なんで……」
 くしゃりと、左手で己の髪を掻き毟りそのまま左目の上にずりおろす。押し殺した呻きに、目頭が熱くなって既に乾いていたはずの涙がまた、溢れ出しそうだ。
 どうしてだろう。こんなのは、嫌なのに。自分が巻き込まれるのも、誰かを巻き込むのも、自分が傷つくのも、誰かが傷つくのも、見たくないのに。どうして自分の思い至らぬ場所で、大切な人たちが互いに傷つけあわねばならないのだろう。
 間があって、獄寺が観念したように首を振り、肩を落とした。
「俺が、十代目を泣かせたから、です」
 ようやく聞き取れるような音量で、彼はそう言って己の赤い頬を撫でた。冷やさずに放っておけば、もっと赤黒く腫れあがるだろう傷に、山本がどれだけの力を入れて殴ったのかが窺い知れる。声が小さいのも、そんなだから喋り辛いという理由も含まれているだろう。
 一呼吸置かれる。理解出来ないと眉根を寄せている綱吉に、彼は自嘲気味の笑みを浮かべた。
「それで、俺も山本を殴りました。あいつも、……十代目を泣かせたからって」
 綱吉が窺い知る術は無かったが、ホームルーム後に山本は獄寺を呼び出し、校舎裏の誰もいない場所で、まずは一発獄寺を思い切り殴り飛ばした。事情も分からず、それこそ綱吉を残してひとり教室に戻ってきて何食わぬ顔をし、授業を受けていた彼の真意も読み取れず、ただいきなり殴られた獄寺は当然彼に食って掛かった。
 そうして初めて、昼に見た光景が誤解であったことを教えられる。彼は昼休憩が終わってからこの瞬間まで、綱吉があの雨の日に己の腕から逃げ出したのも、その後よそよそしくなってしまったことも、すべて、山本と綱吉がそういう関係にあるからだと思っていた。
 そう思うことで、自分を慰めていた。
 けれど山本は、それは違うと断言した。むしろ彼の方が辛そうな顔で、震える声で、己もまた綱吉を泣かせたと白状する。最初から望みの無い想いだったと今頃気付いたと皮肉げに笑い、どちらもが綱吉を泣かせた、おあいこだから自分を殴れ、と。
「そんなの」
 関係ない、と言いたかったのに言葉が続かない。綱吉は吐いたばかりの息と涙を同時に吸い込み、分かってくれないふたりへの腹立たしさを懸命に堪える。
「十代目?」
「俺は、そんなの……嬉しくない」
 傷つきたくない、傷つけたくない。だのに自分の与り知らぬところで誰かが、自分のせいで傷ついている。目の前の事だけでも手一杯なのに、これ以上余計な考えを抱かせないで欲しい。
 綱吉の知らないところで、綱吉を巡って事象が動き回っている。
 母親がリボーンを家庭教師に招いたことだって、降って沸いたマフィア十代目の地位だって、突然現れたランボやイーピンや、急襲を仕掛けてきた敵であった者たちも。
 いずれもが、綱吉が望んでいた未来とは大きくかけ離れた場所で、綱吉の意志に関係なく彼を巻き込む。
「嬉しくないよ」
 ぐい、と目じりを擦る。皮膚は乾いていて、まだ涙を流していないのに安堵を覚えながら、同時に自分がこうも、女々しいくらいに泣き虫になっているのに気付いて悔しく思う。複雑な顔をしている獄寺は、再び何かを言いかけて手を伸ばし、だけれど触れる寸前にぴくりと指先を痙攣させてまた腕を引く。
 お互いの間にある溝を、大きく意識させられる。
 近そうで、遠くて、浅そうで、深い。決して越えられない、永遠に埋まることの無い溝。
「十代目、怒っています……よね」
 引き戻した手を胸の前で絡ませ、落ち着き無く動かしながら獄寺は視線を浮かせる。どこを見ているのか分からない目線にイラつきつつ、綱吉は少し冷静に自分の感情を顧みた。
 もはや自分でも、怒っているのか悲しんでいるのかの判断がつかない。
 窺うような獄寺の視線にも苛々が募る。直球勝負が得意なくせに、こういう時だけスローカーブでやり過ごそうとしている小ずるいところが嫌だった。
 似合わないくせに。険のある表情で睨み付けると、彼は肩を窄めて半歩下がった。
「怒ってるように見えるなら、そうかもね」
 表情そのままに、棘のある口調で返してこちらも視線を外し、そっぽを向く。横目で盗み見た獄寺は言われた瞬間、叱られた五歳児のようにしょぼん、という表現がぴったりの顔をして俯いた。胸の前の手が、頻りに動き回っている。
「十代目……」
「俺は」
 咄嗟にでかかったことばを、口から飛び出ていく寸前に押しとどめる。だが心細げに瞳を揺らす、気弱な印象を与える獄寺を見ていると我慢が出来なかった。
 ずっと言いたかったことが、堰を切ったかのように溢れ出す。
「俺は、そんな名前じゃない!」
 偶然前から近づいてきていた通行人の男性が、綱吉の突然の大声にビクッと過剰に反応を示した。獄寺もまた、綱吉の変化に驚きを隠せない。
 なにやら不穏な空気を感じ取ったのか、男性はそそくさと足を動かし去っていく。途中で綱吉たちを振り返りはしたが、中学生の喧嘩に関わりたくないのか、すぐに角を曲がって姿を消した。
「じゅうだ……」
「だから!」
 拳を握って上下に振るい、右足を一歩前に突き出して怒鳴る。気圧された獄寺がまた半歩下がって、驚きに目を見開いたまま、やがて真っ直ぐに睨まれるのを苦痛に思ったのか、視線を外して横を向いてしまう。
 何故。どうして。
 ちゃんと見てくれないのか。
 分かってくれないのか。
 受け止めてくれないのか。
 君が好きで。好きで、好きで、たまらなくて。
 だけど君は気づかない。こんなに苦しいのに、こんなにも辛いのに。
 君が居なくなってしまう未来を考えると、胸が張り裂けそうになって、ずっと考えないように、見ないようにしてきたのに。
 綱吉の頬をツ……と涙がひとしずく、零れていく。
「俺は……ならないよ」
 ならない。なりたくない。ボンゴレの後継者にも、マフィアにも、ならない。イタリアなんかにも、行かない。
 生きていくのだ、この町で、この国で、母親や、沢山の友人や、仲間と一緒に。中学を卒業して、高校を卒業して、大学に行くか専門学校に行くかはまだ決めてもないけれど、成人したら社会人になって会社に勤めて、いつか可愛いお嫁さんを貰って、子供も出来て、幸せに、平凡に。
 漠然と思い描いていた未来図には、獄寺の姿が入り込む余地などなかった。
 声が震えている。言いながら、綱吉は懸命に、自分が今のまま、この国で生きていく将来図に獄寺の姿を探した。
 けれど、ダメなのだ。どう探しても、どこを求めても、獄寺の後ろ姿ひとつ見つけられない。自分たちの行く末の乖離に、絶望感が漂う。
「俺は、十代目じゃない……そんなものに、ならない」
 自分で望む未来を手に入れられないのなら、いっそ死んでしまいたい。
 君の居ない未来に、生きる意味なんて何もない。
「俺は、みんなが傷つく姿なんか見たくない!」
 大切だから。愛おしいから。
 血まみれになって倒れていった仲間達、傷つき壊れていく人々。そして何より、悲しみと憎しみに心を震わせて他に何も考えられなくなっていった奴ら。
 一歩間違えれば、自分もそんな存在になってしまうのだと実感し、恐怖した。そんな自分に堕ちたくなかった、そして仲間達をそんな姿にさせてしまう可能性が自分にあるのだと気づいて、余計に恐くなった。
 そして。
『俺が、十代目を守ります。命を賭けてでも……だから、大丈夫です』
 こんなことばは、欲しくなかった。
「しかし、十代目」
「しつこいな! 何度も言わせるなよ、俺はボンゴレを継がないって、十代目にもならない。大体、獄寺君だってなんだよ、そんなに俺をマフィアにしたい? 危険な目に遭わせたい? いい加減にしてよ、もううんざりなんだ!」
 両手を脇へ振り払い、怒鳴る。面食らった獄寺は、けれど初めて食い下がる様子を見せ、胸元に手を押し当てると綱吉の方へ身体を伸ばす。
「ですが、十代目。危険な目になら俺がお守りしますから。それにボンゴレの後継者はもう既に十代目と決まっています、この決定は覆せないのはもうお解りでしょう?」
 そうだ、獄寺の言う通りだ。既にボンゴレの後継者として綱吉は広く深く、本人の意志に関わりないところで知れ渡っている。マフィアにある沈黙の掟は、きっと綱吉を永遠に縛るだろう。それこそ、命の火が燃え尽きる一瞬まで。
 それでも認めたくない。諦めてしまいたくない。
 君の中から、ボンゴレ十代目のレッテルを貼られている自分を取り除きたい。
 獄寺の必死な表情に、心が痛む。狭まらないふたりの間の溝が、どんどんと広がっていくのが解るから、尚更に苦しい。奥歯を噛みしめて綱吉は、ますますあふれ出しそうな涙を必死に飲み込む。鼻の奥が痺れ、握った拳はわなわなと震える。
「うるさいな、守ってくれだなんて俺は頼んでない!」
 命を賭けてでも、なんて。
 命を捨てて守られたって。
 ひとりだけ生き残っていちゃ、意味がない。
「俺は……」
 ぐっ、と息を呑む。獄寺が言いかけたことばを止めて、呆然と綱吉を見た。
「俺は、獄寺君が傷ついて倒れるところはもう見たくない!」
 そうだ。
 マフィアにならないなんて言うのも、自分たちの間にある環境と思考の違いを全面に押し出すのも、十代目と呼んで欲しくないのも、全部、言い訳だ。
 詭弁だ。
 ただ、本当は。
 君が、獄寺君が。
 傷ついて、血まみれになって、倒れて、そのまま。
 そのまま。
 綱吉もまた、唖然とした姿で獄寺を見上げる。彼の、頬が少し赤くなっている顔に、あの日の姿が重なり合う。
 酷い怪我をして、動けないのに無理矢理に操られて動かされ、余計に傷を深め、血を流し、再び倒れ、そして。
 二度と動かなくなったらどうしようと、名前を呼んでくれなくなったらどうしようと。
 君が死んでしまったらどうしようと――それが、恐くて。
「……じゅうだいめ……?」
 叫んだ直後、スイッチが切れたかのように突然動かなくなった綱吉を案じてか、獄寺が呼びかける。その声にハッと我に返って、綱吉は忘れていた瞬きを繰り返し、息を吸い込んだ。
 がくがくと膝が震える。あの時の恐怖が甦り、綱吉を鬩ぎ立てる。
 そう、骸との戦いで感じた、明確な死の恐怖。自分が死ぬ事よりなにより、仲間が、そして獄寺が死ぬ事に抱いた、恐怖。
 何故そうなった? 何故あんな目に遭った?
 全てはボンゴレの名がもたらしたもの、ボンゴレの名に踊らされた者達の哀れな夢。
 目の前の獄寺が差し出す健康な腕は、綱吉の瞳にはあの日大量の血を流して傷だらけになった姿に重なったまま、映し出されている。いやいやと子供のように首を振り、両耳を塞いで逃げ出したくなる。
 そして実際に、綱吉は逃げだした。
「十代目!」
 背後で獄寺の、悲痛なまでの叫びが聞こえたのを振り払う。意識の外に追いやって、少しでも彼との距離を広げたくて、綱吉は走った。
 三叉路を右に曲がり、大通りに面した歩道を少し行った先には二車線の車道を縦に横切る横断歩道。信号は丁度青で、ガードレールの向こう側で停車する車の姿は見あたらない。夕暮れが差し迫る町並みはどことなく物憂げで、辛そうに息を吐いた綱吉は飛んでいきそうな鞄を握り直し、白線の引かれた横断歩道へと飛び出した。
「十代目!」
 獄寺の声が静かな町に響き渡る。しかし振り返らない綱吉の視界には、ゆっくりと点滅を始めた青信号しか入っていない。渡りきるまであと半分、獄寺が横断歩道前に到達する頃にはきっと、信号は赤に変わっている。
 そう信じて、振り切れる筈だと思いこんで、綱吉は足を緩めなかった。
 だから彼は、自分の後ろでどういう光景が繰り広げられていたのかを、知らない。
 知らなかった。
 獄寺が追いかけて、そして名前を呼んだ瞬間、横断歩道までの距離も惜しがってガードレールを乗り越え、車道に飛び出していた事に。
 点滅する信号に舌打ちし、けれど構わず、綱吉を追いかけて走り出していた事に。
 緩やかな坂道になっていた車道の北側から接近していた小型トラックの運転手が、目の前の赤信号に気づく前に運転席横に置いていた携帯電話への着信に気を取られ、つい注意をそちらに向けていた事に。
 誰ひとり、気づいていなかった。
 危ない、という声を誰が発したのかは、解らない。
 綱吉の左足爪先が、車道と歩道とを遮る僅かな段差に接地した。直後だった。
 何かが破裂する爆発音と、何かと何かがぶつかり合う鈍い音が連続して、地響きを伴って綱吉の腹の底にズン、と響いて。
 耳を劈くトラックのブレーキ音と、女性の甲高い悲鳴と、それまで静かだったのに急激に騒がしくなった大通り両側と。
 振り返った綱吉の目に飛び込む、車道を塞ぐ格好で斜めに停止している車、ブレーキを掛けたと思われるアスファルトに刻まれた黒々としたタイヤ痕。
 誰かが跳ねられたぞ、と叫ぶ男の声。
 どこから集まってきたのか、人だかりがトラックを取り囲む。何かが起こったと察した白い乗用車が、青信号の手前で停止して運転手が飛び出して来るのが見えた。
 綱吉は、その場に立ちつくす。
「獄寺……くん……?」
 返事は、ない。
 よろよろと身体の向きを変え、けれど歩き出せず呆然とする綱吉の、視線の先で、トラックの脇からはみ出して見える白い腕が。
 傷ひとつ負っていないように見える腕の下から、目を見張るような鮮やかな赤色が、広がっていく。
「――――!」
 瞬間。
 呼吸が止まる。意識が止まる、沈む。目の前が、真っ暗になる。
 綱吉は反射的に鞄を落とし、両手で口元を押さえ込んだ。迫り上がってくる嘔吐感を堪えていると、今度は両目から止め処なく涙があふれ出す。
 苦しい。息が出来ない。
「おい、大丈夫か」
 大人の男性の声が間近で聞こえた。けれどその姿を見るのさえ叶わない。
 何も見えない、何も解らない。遠くから救急車のサイレンが鼓膜を突き破るくらいにやかましく響き渡るのに、それすらも遙か彼方の世界の出来事で。
 
 綱吉の中で、何かが、音を立てて崩れ落ちた。

Lamppost

「あれ……」
 闇の中、点々と明かりを燈す電信柱の前を自転車で走り抜け、更に左に曲がろうと軽く腰を浮かせてブレーキに力をこめようとしていた時だった。
 曲がろうと狙いを定めていた空間の僅かに手前、街灯に足元を照らされた電柱の前に何か、黒い影が見えた。しかもそれは、どうやら先にこちらに気づいていたらしい。ゴミ袋かと思われた物体はむっくりと立ち上がってこっちを向く。
 何だ? 怪訝に思いながら若干身体を前傾させて目を凝らす。空に月も星も無い曇り空の夜の住宅街、思う以上に暗い場所でなかなか相手の顔を判別するのは難しかったが、見知ったシルエットだと思い至った瞬間、指先を添えていただけのブレーキを思い切り握り締めていた。
 近所迷惑だと怒られそうな甲高い音を響かせ、それでも慣性の為に目算よりも数メートル先で停止した自転車の上で、ぎょっとなったまま背後を振り返った。黒い影はそのまま電柱の前に控えていて、アパートの門柱を思わず通過してしまった自分を眺めながら笑っている。
「やーい、行き過ぎてやんの」
 指まで指されて、こちらとしては気分が悪い。そもそも何故、こんな暗がりの下で立っているのか。自分達が共同で暮らしているアパートは目と鼻の先にある。いくら初夏とはいえ日も沈みきった夜半に外で過ごすには半袖だとかなり冷えるだろうに。
 自転車から降りて手で押しながら、行過ぎた距離を戻ってふと、自分達の部屋を見上げる。昼間出掛ける直前に干した洗濯物がそのまま軒下に連なり、部屋の電気は消えたままだ。夜遅い隣人の部屋の明かりが灯っているのが珍しかったが、それ以上に自分の部屋の明かりが点いていない方が一層奇異だった。
 振り返る。何を見ていたのか気づいたのだろう、目の前に迫ったスギの顔が困ったような、照れたような表情に変わっていた。それでもまだ笑っていて、帽子を被ったままの頭をしきりに引っかいている。
「スギ……」
 まさか、また鍵を失くしたというのだろうか、彼は。
 だがこちらの表情で考えている中身をいち早く読み取ったらしい彼は、へへっと苦笑いを浮かべた後、勢い良く両の掌を顔の前で叩き合わせた。ぱしっと小気味の良い音が周囲に一瞬だけ響き、また静かになる。
 大仏様を拝むような状態でほぼ直角に腰を曲げて謝ってくる姿を目にするのは、果たしてこれで何度目だろう。指を折って声に出して数えてやろうかとも思ったが、自分が空しくなりそうだったのでやめた。代わりに、これみよがしに盛大な溜息をついてやった。
「レオ、ごめん!」
 此処に来てやっとスギが口を開く。また溜息が漏れたのは、その内容がこちらの想像を違えぬものだったからに他ならない。声には出さなかったが心の中で数えた、彼の鍵の紛失回数はそろそろ片手で足りなくなりそうだった。
 一度目は大目に見て、二度目は失くしたと言った翌日に運よく落ちているのを友人が拾ってくれて事なきを得たが、回数が増すと流石に笑って見過ごせなくなってくる。鍵を失くすという事は、それを拾った誰かがこちらの留守の間に勝手をしないように警戒せねばならないわけで、強盗や空き巣に狙われないように鍵ごと取り替えなければならない。その出費はかなりの痛手で、スギもその事は十分分かっているだろう筈なのに。
 何故また失くすのか。
 前回、全額をスギに負担させ、もう失くさないと誓わせた矢先にこれか。
 ふたりで部屋を借りれば、ワンルームをふたつ借りるよりも安上がりになるだろうという事で始めた共同生活だったが、そろそろ見限ってやるべきか。大家にも連絡せねばならないし、鍵の取替え工事の時は家に居なければならないので、既に決めていた予定を大幅に狂わされたりする。
 結論を言えば、金と手間がかかるだけでこちらの得になるような事はひとつもない。
 街灯の下でへらへら笑っている相手は、その事実を十分に認識しているのだろうか。前回の取替え工事費用で自分の懐が苦しいのも分かっているかどうか。
 車を運転していて、駐車違反の切符を切られて金を取られるような感じだ。自業自得なのだが、なにせ額が大きいだけに周囲を恨みたくなる。そんな状況に近い。
 もう溜息しか出ない。
「どこで落としたのさ」
「う~ん、それがさ、よく……」
「ちゃんと探した?」
「いや、その……失くしたって気づいたのが今さっきだったから」
 既に夜も遅い。電車の残り本数は確実に減っていて、今から今日の活動範囲を全部回って探すのは物理的に不可能だった。それでなくとも行動範囲の広いスギの事だ、今日も西へ東へ大移動を繰り広げていたに違いない。
 今日出歩いた場所を思い出させて、明日探しに行かせても見つかる可能性は低いだろう。免許証や財布と違い、所在を明らかにする手段が限りなく乏しいしのだし。
「目印つけてある?」
「でかめの……キーホルダー。赤い奴、これくらいの」
 言いながらスギは指を丸めて五百円硬貨大の輪を作って示す。確かにそんなキーホルダーつきの鍵が机の上に放り出されていたのをつい最近見たから、間違いないだろう。今日一緒だった友人達に見なかったかと確認はしたかと聞くと、一通り連絡を入れているが反応は芳しくないという回答だった。
 前髪をくしゃっと掻き揚げる。これは明日早速大家に連絡の上、鍵交換の手配を電話で依頼だろうか。前回頼んだ業者の名刺はどこに片付けただろう、電話帳に挟んだ記憶があるが、まだそのままになっているか自信がない。
「予定外だ」
 天を仰ぎたくなる気分だったが、顔を上げてもそこには深い闇と、自分達を照らす街灯の明かりが見えるだけ。どこか草臥れた感じのする鈍い明るさに、羽虫が何匹も群がっている。時々身体を体当たりさせているらしい音が聞こえてくるが、こちらに攻撃の矛先を向ける様子はない。
 支えている自転車のハンドルを握りなおし、肩を落とす。
「で、なんで部屋の前じゃなくてこんな場所で待ってたの」
「いや~、だってさ。あそこ、前の通路暗いだろ? 変な奴が待ち構えてるとか思われて逃げられたら嫌じゃん」
 部屋のアパート入り口は、今自分達がいる方角を表側にするとしたら、裏側にある。各玄関の前には小さな明かりが取り付けられているが、向かい側に工場の壁がある為かなり暗い。確かにスギの言う通り、玄関先に蹲る黒い影を確認したら、危険人物が待ち構えているのかと思って警戒してしまっただろう。
 だが、だからと言って街灯の下で待たれるのもどうかと思う。自分が見つけたからいものの、夜道を帰る人が見て不審者と通報されたらどうなっていた事か。空き巣に入る先を探している泥棒、とも誤解されかねない。
 もっとも本当にそういうものを狙っている輩ならば、こんな場所に立ったりはしないだろうが。
 とはいえ、夜半に人待ちで立つ場所ではない。玄関前でなく、階段下で待っていてくれれば良かったのに。
「だってあそこ、明かりなくて暗いじゃん」
 唇を尖らせて口答えして来たスギは、どうやら暗い場所でひとり待つのが嫌だったらしい。子供じゃあるまいし。
「んな事言うなって。ほら、さっさと帰ろうぜ」
 自宅は目と鼻の先であるが、立ち止まってしまってから随分と時間が経つ。自転車を支え続けるのも少し疲れてきた。この意見には同意して、頷いてからスギの方を向いている自転車を方向転換しようと、足元の暗い道路へ視線を何気なく流した。
 視界に、黒々としたアスファルトの上で、街灯を浴びて鈍く輝くものが見えた。
「……?」
 なんだろう、と目を凝らす。深く気にしないものの、自転車で轢きそうな位置にあったため避けようとハンドルを僅かに捻るが、それでも端を踏みつけてしまったらしい。反動で踏まれたとは反対側が浮き上がったのだろう、タイヤが外れると同時に、本当に微かに、金属の音がした。
 金属片にしては、妙な感じがして、少し腰を屈めて自転車のサドル部分真下を見つめる。
「ねぇ、スギ」
 それから、静かに問う。
「君が鍵をなくしたって気づいたのは、いつ?」
「さっきもそれ聞いた」
「うん、念の為確認。いつ?」
「だから、さっき。もうじき着くからってポケットから鍵出そうとしたら、なかった」
 こちらの質問の意図が掴めないのだろう、スギは不貞腐れた顔のまま肩を竦めた。その前で自転車のスタンドを立て、手で持って支えなくても自立出来るようにする。前かごにカバンが入っているので重みから、前輪だけが急角度で左に曲がった。倒れそうに思え、慌てて左手で支えるがその役目を果たすことなく、バランスを勝手に保ち紺色の自転車は安定した。
「レオ?」
 怪訝にスギが名前を呼んでいたが応じず、代わりに膝を折ってさっきタイヤで踏んでしまったものを探す。上方に影が出来るものが現れたため見え難さが倍増していたが、手探りをするまでもなくそれは簡単に見つかった。
 拾い上げる。赤い、キーホルダー。それから。
「げっ」
 下を覗き込んだスギにも見えたのだろう、仕舞ったという顔をした。
「スギ?」
「いや、あの、これはその……」
 赤いキーホルダーの下で、金具に繋がれて揺れるのは紛れもなく、銀色の鍵。見覚えがある形状は、間違いなく自分達が借りている部屋の玄関を開ける為のもの。
 失くしたのではなく、取り出そうとして手をポケットに入れたときに何かの拍子で間違って落として、しかもそれに気づかなかったのだろう。これまでに紛失を重ねてきている彼だから、落としたのではなく失くしたという意識が真っ先に働いたというところか。
 いくら夜で暗いからとはいえ、街灯の下に立っているのだから足元くらい確かめればいいのに。
「面目ない」
 トホホと頭を垂れて肩を落とすスギの手に、強引に鍵を押し込んで自転車を起こす。
「先行って開けて来て。怒ってないから」
 自転車置いてくる、とすっかり冷えてしまっている身体を一度大きく震わせて言うと、スギは急にパッと顔を明るくさせて頷いた。そうして小走りに駆け出す背中に、子供じゃないんだからと溜息を吐く。
「あ、今日の風呂当番お前な」
「えー! 今日はレオの番だろ」
「何か文句ある?」
「……謹んで磨かせて頂きます」
 街灯から離れ、暗がりの元にっこり微笑みかけてやると、ただでさえ陰影が濃く現れるのだ、余程恐ろしい表情に見えたのだろう。顔を引き攣らせてスギは走っていった。
 思わず表情が緩む。
「子供じゃないんだから」
 もう一度呟き、自転車を駐輪所に放り込んだ。