夏の池にも つらゝゐにけり

 寝苦しい夜だった。
 蚊遣りの煙が薄く漂い、息を吸えば鼻の奥がつんとする。慣れたと思った頃にふと強く意識させられて、気に障って落ち着かなかった。
 虫が嫌う臭いのお陰か、蚊が飛び回る不愉快な音は聞こえてこない。その代わりと言ってはなんだけれども、どこかの部屋で、大勢が騒いでいた。
 そろそろ子の刻を過ぎるだろうに、宴会は盛り上がる一方で、終わる気配がなかった。
「脇差の方、かな」
 ごろりと寝返りを打って、小夜左文字はぽつりと呟いた。
 瞼を閉じていても、開いていても、見えるものは変わらない。灯りを失った部屋は暗く、黒一色に塗り潰されていた。
 それでも流石は刀剣男士か、しばらくすれば闇に目が馴染んだ。障子越しに感じる微かな月明かりを頼りにして、家具類の輪郭がぼんやり浮かび上がった。
 時間遡行軍を闇討ちする時には便利な能力だが、余計に目が冴えた。
「どうしようか」
 数回瞬きを繰り返して、彼は仰向けに姿勢を作り替えた。
 天井をぼうっと眺め、薄い枕に散った髪を掻き上げた。結い紐を解いて流れに任せているけれど、癖がついており、とある箇所でくるん、と折れ曲がっていた。
 どれだけ櫛を入れても直らないと、宗三左文字に呆れられたのを思い出した。
 兄刀たちはとっくに夢の中かと想像して、左文字の末弟は胸の上に両手を揃えた。
 木綿糸を織って作った薄い掛け布団越しに鼓動を数え、ちらりと横を窺い見る。
 そこに誰もいないのは分かり切った事実なのに、なにかを期待して、勝手に裏切られた気になって落胆した。
「はあ」
 眠れない夜が、孤独感を深めてくれた。
 兄刀ふた振りが本丸に揃った際、三兄弟で大部屋に移る案もあった。しかし審神者への警戒心が残り、仲間であっても受け入れるのが難しかった当時の小夜左文字は、この申し出を断ってしまった。
 あの時に異なる返答をしていたら、今頃は兄刀と枕を並べ、川の字になって眠っていたことだろう。
 想像していたら、虚しくなった。
「やめよう」
 風の音がして、中庭に植えられた木々がざわめく。
 どこからともなく悲鳴めいたものが聞こえて来たが、小夜左文字は無視した。
 屋敷の建材が軋んだのだろうと推測して、目を閉じた。布団を被り直し、枕に頭を押しつけて、安定する角度を探した。
 何度か身体を揺らし、右肩を下にした。軽く膝を曲げ、両手は胸元に潜ませて、安眠を模索して神経を研ぎ澄ませた。
 バタバタと、足音がした。複数あったものが散り散りになり、四方八方へ広がっていくのが振動で分かった。
「……なんなの」
 なにが起きたのかは分からないが、脇差部屋の宴会がお開きになった、というのは予測がついた。
 終わるのならもっと静かに、迷惑がかからないようにして欲しくて、ついつい文句が口に出た。
 目を閉じたまま眉を顰め、険しい表情を作るが、長くは保てない。
 窄めた口からふっと息を吐いて、小夜左文字はごろり、と身体全部を反転させた。
 左肩を下にして、巻き込んだ掛け布団を胸元で握りしめる。
 その後しばらくは静かだったが、一瞬でも気が立ったのが災いしてか、眠気は一向にやってこなかった。
 待てど暮らせど、眠れない。
「ううう」
 こんなことは久しぶりだった。夏の夜の暑苦しさだけが原因ではない気がして、彼は諦めてのっそり身を起こした。
「ふあ、う~……」
 無理矢理絞り出した欠伸で気持ちを誤魔化し、首を左右に振って額に手を添える。
 深呼吸で苛立ちを薙ぎ払い、復讐に縁が深い付喪神は闇の向こう側を睨んだ。
「誰?」
 廊下と部屋とを区切る襖の向こうを射抜き、誰何の声を上げた。
 息を潜めてはいるが、先ほどから誰かがそこにいる。江戸城内に忍び込んだ時の感覚を呼び覚まして、小夜左文字は慎重に枕元を探った。
 まさか敵に侵入されたとは思わないが、万が一ということもある。丸腰で相手をするのは危険だと、戦いに特化した本能が警告を発していた。
 己の本体とも呼ぶべき刀を、明日着る為に用意しておいた白衣や直綴の上から掠め取った。鞘の上から強く握りしめて、身体の一部と化した短刀をいつでも抜けるよう身構えた。
 殺気を放ち、外に居る存在を威圧する。
 寝間着代わりの湯帷子一枚では防御に心許ないが、一撃を喰らわなければ問題ない。
 鬼が出るか、蛇が出るか。眠れない鬱憤を晴らすには丁度良いと、不埒な侵入者を駆逐すべく、身を低くして唇を舐めた矢先だった。
「まっ、まって。ぼくだよ」
 小夜左文字が放つ殺意に怖じ気づいたのか、甲高い悲鳴が上がった。若干舌足らずに捲し立てられて、虚を衝かれた少年は目を丸くした。
 いつでも抜けるようにしていた刀を下ろし、立ち上がった。布団から畳に降りて数歩といかないうちに、襖の前へと辿り着いた。
 黒色の引き手に指を添えてサッと右に走らせれば、露わになった廊下の片隅に、ぶるぶる震える丸い影が見えた。
 照明の灯らない空間ではあるが、闇に強い付喪神には関係ない。
「謙信、景光?」
 昼の気だるさが僅かに残る空間に蹲っていたのは、長船派に属する短刀だった。
 さらさらの黒髪を両手で抱き潰して、床に尻を置き、膝を曲げて猫背になっていた。たった今しゃがみ込んだという風ではなく、小夜左文字が気付いた時点でもう、この姿勢になっていたようだった。
 寝床で耳にした足音と、その直前に聞こえた悲鳴が同時に蘇った。
 怪訝に首を傾げて見つめる先で、謙信景光は大粒の涙を頬に流した。
「なにをしているんですか」
 時間も時間だ。基本的に良い子の短刀が、ひと振りで出歩いているのは奇妙な話だった。
 世話好きの太刀はどうしたのかと左右を窺うが、それらしき影は見当たらない。複数の足音が聞こえたが、こちらにやって来たのは彼ひと振りだけと思って良さそうだ。
 事情が分からないまま此処にいる理由を訊ねるが、謙信景光はビクビクするばかりで、なかなか口を開かない。
 元から気弱なところがある彼だが、怯え方が昼間よりもずっと酷かった。
 歴史修正主義者を討伐すべく、審神者によって顕現させられた刀剣男士が、臆病でどうするのか。
 肩を竦めて嘆息して、小夜左文字は襖の角を指でなぞった。
「あなたの部屋は、上でしょう」
 謙信景光がどうしてここにいるのかは不明だが、彼の部屋が増築された二階にあるのは知っている。
 時を前後してやってきた、他の長船派の太刀らと同室で、眠る時も一緒だと聞いていた。
 小夜左文字が寝起きしている部屋とは、方向がまるで違う。ここは一階で、短刀ばかりが集まった区画だった。
 本丸は大きく二つの区画に分かれ、南側の棟には台所や座敷などがあった。刀剣男士の私室は北棟に集約され、両者は細長い渡り廊下で繋がっていた。
 私室に関しては、本丸建設当初は刀種ごとの部屋割りがされていた。だが増改築を繰り返し、敷地面積が足りなくなった時点で、この取り決めはなくなった。二階にある部屋の並びは、一部を除いて顕現順になっていた。
 但し身体が大きい薙刀は、急こう配の階段を上れないため、一階の男士と部屋を交換したという特例ならあった。
 今後は三階建て、四階建てになるのかと頭の片隅で考えて、小夜左文字は目尻を擦った少年に嘆息した。
 拭いても、拭いても溢れてくる涙は、胸に抱いた恐怖の現れだ。
 そこまで強い殺気を放った覚えはないが、怖がらせたのは間違いない。些かやり過ぎたとひっそり反省していたら、奥歯を噛んだ謙信景光がふるふる首を振った。
「とめ、て。ほしい」
「……はい?」
「おねがい、します。さよさもんじの、へやに。きょう、だけで、いいから!」
「ちょっと。声が大きい」
 覚悟を決めて、気弱な少年が声を張り上げる。
 それが夜中には迷惑すぎる音量で、小夜左文字は慌てて人差し指を立てた。
 静かに、と仕草で注意して、素早く周囲を見回した。幸いにも両側の部屋は主人が不在で、向かい側の部屋からも特に反応はなかった。
 大部屋を使っている粟田口の短刀たちも、夢の世界を楽しんでいる。
 どこからも物音がしないのを確かめて、彼はほっと胸を撫で下ろした。
「ごめん、……なさい」
「とりあえず、入って」
 愛染国俊は明石国行の部屋だろうし、今剣は岩融のところだろう。
 左右の部屋が無人なのは、いつものことだ。しかしその事実に、これほど感謝したことはない。
 仁王立ちして塞いでいた襖の前から退き、小夜左文字はしょんぼり項垂れている短刀の頭をぽん、と押した。
 手を貸してやる義理はない。立ち上がるきっかけを失い、四つん這いのまま敷居を跨いだ彼を目で追って、念のためと今一度、廊下を窺った。
 結果は、先ほどと変わらなかった。近付いてくる影はなく、様子を窺っている存在も嗅ぎ取れなかった。
 心配性の太刀が隠れている可能性を疑ったが、考え過ぎだったらしい。ぴしゃりと襖を閉めて、彼は室内に視線を転じた。
 謙信景光がどこに行ったかと言えば、ちゃっかり小夜左文字の布団に座っていた。入って良いとは言ったが、放っておけば横になりそうな雰囲気で、あまりの図々しさに顎が外れそうだった。
「それで?」
 必要ないと判断し、灯りは点けなかった。
 摺り足で近付いて、握ったままだった刀を枕元に戻した。乱れていた着替え一式をサッと整えて、その横に腰を据えた。
 謙信景光の方が布団の分だけ高くなり、上段から見下ろされている気分になった。
「……うん」
 これではお互い、居心地が悪い。悩んだ結果、小夜左文字は中腰で布団の端に移った。
「ねてた?」
「いえ。眠れなかったので、それは別に」
 対角線上に並んだ彼を見上げて、謙信景光が恐る恐る問いかける。
 もじもじしながら上目遣いに話しかけてくるところは、粟田口派の五虎退を連想させた。
 皆と同じ、白い湯帷子を寝間着代わりにしているが、彼の帯は黒色だった。裾は踝まで覆う長さがあり、体格より若干大きめのものを羽織っているらしかった。
 今頃になって、眠っていたところを起こしたのでは、と危惧した彼に、失笑を禁じ得ない。
 全てが遅い、と内心溜め息を吐いて、小夜左文字は彼が部屋に戻れない理由を考えた。
「喧嘩でもしたんですか」
 一番可能性が高いのは、なにかしら怒られることをして、自室に戻り難い、というものだ。
 ひとり部屋なら支障ないのだが、謙信景光は小竜景光や小豆長光らと部屋が同じだ。説教に反発し、家出同然で飛び出して来たのでは、と真っ先に考えた。
 けれどこれは、少しおかしいと、言ってから気が付いた。
「ちがうぞ」
 謙信景光もあっさり否定した。布団の上できちんと正座し、腿の上に両手を揃えて、お手本に出来そうな行儀の良さだった。
 もし今が昼間だったなら、兄弟刀と喧嘩した結果の展開と思って支障なかった。けれど外は暗くなって久しく、多くの刀剣男士は寝床に就いた後だ。そんな夜更けに部屋を抜け出す理由として、この考えはあまりに不自然だった。
 朝起きた時、可愛がっている短刀がいないのに太刀らが慌てるところが見たい、という雰囲気でもない。
 見当がつかなくて困っていたら、ミシッと天井の方から音がした。
「ひい!」
 建材が撓み、音を立てただけだ。
 いつもの家鳴りだと、小夜左文字は聞き流したが、謙信景光の方はそうではなかった。
「痛いです」
「あう。ごめん、なさい」
 喉の奥で息を引き攣らせたかと思えば、顔面蒼白になって飛びかかってきた。爪を立てて右腕にしがみつかれ、ただでさえ肉が薄い部分に食い込んだ指が痛かった。
 文句を言って、押し返す。
 謙信景光は意外にあっさり引き下がったが、顔はまだ怯えていた。
 急に落ち着きがなくなって、頻りに上を見ては腰をくねらせた。身体のあちこちを撫で、さすって、最終的に肩を抱いて唇を噛み締めた。
 必死に恐怖を堪え、耐え忍んでいるのが傍目からも良く分かる。
 たかが家鳴りひとつで大袈裟と、小夜左文字は呆れて肩を竦めた。
「なにもないですよ」
 誰かが歩けば床が軋み、風が吹けば軒がざわめく。湿度の違いで梁や柱は微妙に太さが変化して、それで音が鳴る事もある。
 逐一驚いていたら、きりがない。小夜左文字も最初はビクッとさせられたが、今では気にならなくなっていた。
 まだ慣れないでいる短刀に苦笑して、天上を指差した。謙信景光はおずおず頷いて、瞳だけを上に投げた。
「ほんとに?」
「いたら、僕が殺してます」
「おばけも?」
「……お化け?」
 害虫や害獣の類が侵入したのなら、退治するのを躊躇しない。
 蚊遣りの微かな臭いを手で払いのけた小夜左文字は、長船の短刀が放ったひと言に眉を顰めた。
 話が妙な方向に転がった。幽霊や妖怪の類は専門外で、訊かれても答えられなかった。
 黒い澱みがその括りに入るかと自問して、首を捻る。
「僕たち自身が、お化けみたいなものですが」
「さっき」
 刀剣男士は、刀剣に宿った付喪神が顕現したもの。ならば自分たちも妖怪に分類できる、と哲学的な考察に入ろうとしたところで、余所を見た短刀に水を差された。
 謙信景光は俯いて指を弄り、布団の上でひょこひょこ跳ねた。
「ひゃくものがたり、を、してて」
「……ああ……」
 ようやく本題に入った。
 続けるつもりでいた言葉を飲み込んで、小夜左文字は耳に掛かる髪を掻き上げた。
 夜遅くまで騒いでいたのが誰か、分かった。総勢七振り在る脇差の中には、幽霊を斬った逸話を有する刀があり、彼が主導したというのは楽に想像がついた。
 昼の暑さが夜になっても拭えず、寝苦しい日々が続いていた。
 少しでも涼を得ようとして、怪談話を語らいあう場を催したのだ。
 けれど怖がりの謙信景光が何故その席に参加したのかは、判然としない。
 訝しげな眼差しを投げた小夜左文字に、彼はぐっと息を飲み、拳を膝に押し付けた。
「ぼ、ぼくは。こわくなんか、なかったんだ」
「なるほど」
 力強い言葉とは裏腹に、華奢な肩はぶるぶる震えていた。
 声も上擦り、力がない。意気込みが空回りしているのが透けて見えて、小夜左文字は緩慢に頷いた。
 百物語開催の報せを、どこかで耳にしたのだろう。誘われたかして、参加に難色を示していたところ、逆に「怖いのだろう」とからかわれ、つい口車に乗ってしまった、と。
 状況が目に見えるようだった。
 詳細な説明はなにもなかったのに、おおよその事情を正しく理解して、復讐譚を引き連れた短刀は足を崩した。
 右膝に肘を立てて頬杖をつき、続きを促し、冷めた目で謙信景光を見る。
 彼はひく、と頬を引き攣らせて、忙しなく視線を泳がせた。
「でも、さっき。にっかり、が、しゃべってたら。きゅうに、ろうそくが、ひゅうって」
 口を窄めて息を吐き、蝋燭の灯火が突然消えた場面を再現する。
 聞いているだけでも、一瞬目の前が暗くなった気がして、小夜左文字は確かに聞いた複数の悲鳴と、足音を思い出した。
 直前には、強めの風が吹いていた。
 隙間風に灯明が煽られ、炎を維持出来なかったのだろう。冷静になれば簡単に分かりそうなことも、状況が状況だっただけに、判断がつかなかったようだ。
 誰かが代表して悲鳴を上げて、それが隣に次々伝播した。
 緊張状態にあった大勢が一斉に混乱に陥って、収拾がつかなくなった。幽霊に縁が深い大脇差が怪談を語っている最中だっただけに、効果は絶大だっただろう。
 皆が散り散りに逃げて、部屋の布団に潜り込む中、彼だけが部屋に戻れなかったのにも理由がありそうだった。
「ほんまる、の、かいだんは。おばけの、くちじゃ、ないよね?」
 ひとの部屋の前で泣いていた少年は、今もまた、恐怖に目を潤ませていた。
 切羽詰まった表情で問い詰められたが、正直なところ、なにを言っているのかよく分からない。
 意味不明だと首を傾げていたら、悲壮感を漂わせた短刀が天井を指差した。
「おばけが、かいだんの、むこうで。とおったら、ぱくって」
「……聞いたこともないです」
 要はにっかり青江か、同席していた誰かに、そういう話を聞かされたのだろう。階段を上った先でお化けか幽霊が待ち構えていて、そうと知らずに二階に上がると食われてしまう、と。
 待ち伏せしていた何者かに襲撃された人がいた、というだけが、いつの間にか幽霊の仕業になっていた。
 ほら話だと誰が聞いても分かる内容でも、にっかり青江の話術にかかれば、急に真実味が増してくる。
 それで騙されたことが、何度かあった。最近はよく注意して耳を傾けるようにしているが、免疫が低い謙信景光は信じてしまった。
 お化けなどいないと思いつつも、いるかもしれないと疑心暗鬼に陥って、確かめる勇気が持てない。
 それで二階にある部屋に戻れず、こちらに来たのだろう。
 どこかの部屋に潜り込もうと考えたが、夜というのもあり、襖はどこも閉まっている。開けて中を確かめるのも、怪談話を聞いた直後だけに、躊躇した。
 小夜左文字がたまたま起きていて、気配に気付いたから良かったものの、そうでなかったらどうする気だったのか。
 根性試しに挑むのは構わないが、周囲に迷惑をかけるのは止めて欲しい。
「軽率でしたね」
「ううう」
 怖がりの短刀の参加を了解したにっかり青江もそうだし、行かせた長船の太刀らもそうだ。
 皆して無責任だと断じるのは簡単だが、言ったところで始まらないのも事実。
 説教は手短に済ませて、小夜左文字は掛け布団の端を捲った。
「今夜だけです」
「さよさもんじ」
「狭いですが」
 小柄な短刀用の布団は、体格に見合った面積しかない。ひと振りで使うのを目的に作られており、ふた振りが並んで眠るにはかなり無理があった。
 だからといって、追い出すのも心苦しい。
「あ、ありがとう。さよさもんじ!」
 半分だけ譲ってやる旨を伝えれば、謙信景光はぱあっと目を輝かせた。嬉しそうに声を弾ませて、小さな手を取り、強く握って上下に振り回した。
 握手と呼ぶには乱暴だったが、喜びが充分過ぎるくらいに伝わって来た。
 後の問題は、彼の寝相が良いか、どうか。
「庇を貸して、母屋を取られなきゃいいけど」
 すでに修行の旅を終えた小夜左文字と、顕現して一年と経たない謙信景光は、共に出陣したことがない。遠征任務も同様だった。
 練度の差があり過ぎて、極めていない短刀では足手まといになると分かっているからだ。審神者の配慮が働いた形だが、結果として両者が親交を深める機会を奪っていた。
 太鼓鐘貞宗の寝相の悪さを思い出し、ぼそりと言って寝間着の裾を伸ばした。足から布団に潜り込み、横に来るよう促した。
 空いている空間をぽんぽんと叩き、入るよう伝えて、目でも告げる。
 言葉を多く用いないやり方に、謙信景光は最初こそ戸惑っていた。しかしじっとしていても仕方がないと、意を決して飛び込んできた。
「おじゃま、しまーす」
 遠慮がちに言って、指示された場所に身体を置いた。横になってすぐに布団が掛けられて、ホッとした顔で息を吐いた。
 小柄な短刀とはいえふた振りがこうして並ぶと、やはり窮屈だ。掛け布団は幅が足りず、身体全体を覆うには不十分だった。
「ないよりは、いいか」
 追加で袈裟を広げるか迷ったが、起き上がって取りに行くのも面倒くさい。
 枕はひとつしかないので譲ってやれなかったが、苦情は来なかった。
「ヘヘ。えヘヘヘ」
 その代わり、笑われた。締まりのない表情を横に見て、小夜左文字は眉を顰めた。
「なにが可笑しいんですか?」
「こりゅうと、あつきいがいと、いっしょにねるの。はじめてだ」
 不思議に思って問いかければ、そんな返答があった。両手で掛け布団を握りしめて、彼は底抜けに嬉しそうだった。
 ただ小夜左文字には、どうしてそれが嬉しいのか、理解出来なかった。
 初めての部屋で、馴染みのない刀と肩を並べて眠る。それはある意味、冒険だった。
 数日間に渡る遠征任務などで、やむを得ず慣れたが、小夜左文字自身、他者と同じ部屋で眠るのは苦手だった。仲間であっても油断できないと、常に警戒し、緊張の連続だった。
 顕現したばかりの自分に今宵の話をしたら、きっと信じてくれないに違いない。
 そんな事をふと思って、彼は天井に向けていた首を右に倒した。
 謙信景光の黒髪が闇と同化し、輪郭はあやふやだった。鼻筋から下を掛け布団に隠して、表情自体よく分からなかった。
「怖くはないんですか」
「へいきだ。さよさもんじがいる」
 先ほどまで散々怯えて、怖がっていたくせに、寝床に入った途端に元気になった。
 お化けに襲われる可能性が消えたわけではないのに、奇妙に思っていたら、そんな事を自信満々に言われた。
 ごろん、と身体を揺らして、暗がりの中で目を爛々と輝かせる。至近距離で見つめられて、小夜左文字はぎょっとなった後、四肢の力を抜いた。
「僕に退治させるつもりですか?」
「ぼくのかたなは、へやにおいてきた」
 これ以上ない図々しさに、頭が痛くなってきた。こめかみを指で押さえていたら、丸腰の自分は戦えない旨を高らかと宣言された。
「幽霊は、斬ったことがないんですけど」
 山賊なら手にかけた事があるが、実体を伴わないものを相手にした過去はない。
 実際に刃が通るかも不明だ。勝負にならない可能性を口にした途端、なにが面白いのか、声を上げて笑われた。
「だいじょうぶだ。ぼくもない!」
 どの辺が大丈夫なのか、さっぱり分からない。
 彼と喋っているだけで疲労感が押し寄せて来て、お蔭でよく眠れそうだった。
「幽霊より、お化けより。……僕が連れている、黒い澱みの方が、よっぽど怖いですよ」
「さよさもんじ?」
「なんでもありません」
 持ち主に大事にされ、本丸に来てからも多くの太刀に守られ、愛されて来た短刀は、暢気だ。
 人の生き死にの現場に立ち会ったことさえなさそうな、無垢な姿を目の当たりにして、ささくれ立った心がチクチクした。
 我慢出来ず、愚痴が零れた。言ってから嫌な気持ちになって、顔を見られたくなくて、謙信景光に背中を向けた。
 布団を奪わないよう注意しつつ、寝返りを打った。両足を揃って畳に投げ出して、ひんやりした感触で波立つ心を落ち着かせた。
 目を瞑って、息を潜ませる。
「小夜左文字は、こわくなんか、ないぞ?」
 布団を分け合った短刀を拒絶した直後だ。
 恐る恐るといった風情で、謙信景光が囁いた。
 独り言のようであり、小夜左文字に語り掛けているようでもあり。振り返って確かめることが出来ずにいたら、小さな手が肩に伸ばされた。
 掴んで引っ張られるかと思ったが、違った。掛け布団を引き連れて、彼はふた振りの間にあった距離を一気に詰めた。
「なにを」
「ヘヘヘヘ」
 ぴとっと張り付かれて、慣れない体温に背筋が凍った。
 ぎょっとして振り払おうとするけれど、斜め上から覗きこまれて、咄嗟に動きを止めてしまった。
 目を丸くした小夜左文字を間近で確かめ、彼はストン、と布団に身体を沈めた。狭い中で器用に身体を反転させて、背中同士が重なるように姿勢を作り変えた。
 布越しの微熱が、不規則な鼓動を生んだ。
 意図が分からなくて困惑する小夜左文字に、枕を半分横取りした少年はししっ、と歯の隙間から息を吐いた。
「まえに、みつただが、いってた」
 今度は小夜左文字が、肩を浮かせて彼を窺い見る番だった。
 横目で必死に窺うが、耳朶くらいしか見えなかった。謙信景光がどんな顔をしているのか、想像したくてもできなかった。
 接点が少なかったのもあり、彼のことはあまり詳しくない。長船派で、上杉謙信愛刀のひと振りで、好奇心旺盛だが臆病で、甘いものが好き、というくらいしか分からなかった。
 彼が他の刀たちとどんな会話をしているか、想像もつかなかった。
「燭台切、光忠さん……ですか?」
 長船の祖たる刀匠の刀は、他の長船の刀たちに比べると、ずっと早い段階で顕現していた。
 伊達家で共に過ごした短刀、太鼓鐘貞宗については頻繁に言及していた太刀だが、刀派を同じくする刀については聞いたことがない。
 興味を惹かれ、好奇心が疼いた。僅かに声が高くなったのを自覚して、小夜左文字はハッとなった。
 微細な変化に、謙信景光は気付かなかったようだ。
「いってた。さよさもんじは、つよいって」
 合いの手が入ったのに気を良くして、彼は夢見るように囁いた。言葉のひとつひとつを噛み締めて、丁寧に、湧き起こる興奮を抑えながら。
 どういった話の流れで、小夜左文字の話題になったのかを知る術はない。想像を巡らせようにも、材料が乏し過ぎて難しかった。
「僕は、強くなんか」
「さよさもんじがつよくなかったら、ぼくは、ものすごくよわいぞ?」
「……すみません」
 照れ臭くて否定の言葉を口走れば、不満そうに言われた。口を尖らせている彼を瞼の裏に思い描いて、反省して枕に体重を預けた。
 身じろげば、肩が短刀の身体に当たった。布越しの微熱は不思議と心地良く、暑苦しいのに不快さを感じなかった。
「くろい、よどみ? は、みえないし、ぼくにはわからないけど。たいへんなこと、たくさん。そういうのぜんぶ、せおって、たたかってるのは、すごいって。さよさもんじは、かっこいいな」
 山賊に奪われていた時代の出来事や、研ぎ師の復讐に燃え滾る想いなどを『大変なこと』と一括りにされるのは、あまり嬉しくなかった。
 しかし彼は、小夜左文字の逸話と一切関係がない。当事者ではない短刀にとっての認識は、所詮はその程度のものだった。
 とはいえ、彼が燭台切光忠に教わった話を真剣に考え、自分なりの答えを出そうとしたのは、確かだ。
 己のことだけでも精一杯なのに、貴重な時間の一部を小夜左文字のために使ってくれた。その長短は関係ない。知ろうとしてくれた、その事実ひとつがくすぐったかった。
 彼だけではない。燭台切光忠も、当の刀が関知しないところで、色々と慮ってくれていた。
 とはいっても、額面通りに受け止めるには、気恥ずかしさが勝った。
 ここまで手放しに賞賛されたことは、あまりない。慣れなさすぎて、自分の話のはずなのに、他人事のように感じられた。
「格好よくは、ないです」
 その気持ちを正直に吐露したら、謙信景光が急にガバッと身を起こした。被っていた布団を跳ね除けて、血気盛んに吠えた。
「そうか? だって、そのくろい、よどみ? に、さよさもんじは、まけないように、たちむかってる。みつただは、まねできないって、ほめてたぞ」
 四つん這いになって小夜左文字に迫り、荒々しく鼻息を撒き散らす。
 熱風を首筋に感じた短刀は慌てて退いて、行き過ぎて布団から滑り落ちた。
「うわ」
 ガクンと下がった肘に驚き、迫りくる少年を左手で押し返した。
「近い」
 距離感が可笑しい短刀を引き剥がして、乱れた呼吸を懸命に整えた。
 深呼吸を数回繰り返し、憤然としている謙信景光を窺い見る。
 偉そうに腕組みをしている少年は、自虐的な思考に偏りがちな小夜左文字と、真逆と言っても良い性格を有していた。
 頑張り屋で、それを誰かに認めてもらうのが好き。
 だから誰かの頑張りを認め、褒めるのも好き。
 何事にも否定から入る癖を反省して、小夜左文字は右のこめかみをコン、と叩いた。
 胸の奥で渦巻いている、黒々とした感情を宥めた。夜も遅い時間だというのに、昼間の太陽の如く眩しい少年を正面に見据えて、嗚呼、と溜め込んでいた息を吐き出した。
「さよさもんじは、つよいから、くろいよどみも、へっちゃらだろう?」
 根本的なところで、彼の認識は間違っている。しかし全てを理解しろ、と強いる方が酷な話だ。
 白い歯を見せて笑った謙信景光は、輝いていた。その無垢な光に救われた気になって、小夜左文字は小さく頷いた。
「そうですね。幽霊も、お化けも、僕なら倒せるかもしれません」
「きたいしてるぞ」
「ですので、もう寝ましょう。明日も早いです」
「そうだ。ねぼうしたら、あつきにおこられる」
 今まさに、謙信景光を恐れさせていたものたちへの復讐が終わった。
 百物語の席で抱いた恐怖を忘れ去った少年に囁いて、横になった身体に布団を掛けてやった。
 程なくして、心地よさそうな寝息が聞こえ始めた。それに耳を傾けながら目を閉じれば、心地良い風が部屋の中を駆け抜けた気がした。
 あれだけ寝られなくて苦労していたのが嘘のように、意識がスッと闇に溶けて、沈んで行く。
 熟睡とは、このようなことを言うのだろう。お蔭で目覚めは遅くなった。
 ハッとなった時には、外はすっかり明るかった。
 完全に寝坊だった。
 挙げ句に部屋の中には長船、左文字、そして兼定の刀たちが勢揃いして。
 にこにこ笑ってこちらを見ていたのは、悪夢としか言いようがなかった。

影さえて月しもことに澄みぬれば 夏の池にもつらゝゐにけり
山家集 夏 247

2018/09/16 脱稿

げに万世の ためし成けれ

 馬の嘶きが、妙なところで聞こえた。
 馬場はここからだと遠い。出陣の号令もないのに何故、と思って顔を上げた小夜左文字は、密集する庭木の影から突如現れた馬の鼻先に、ビクッと身を強張らせた。
 耳が可笑しくなったのではない、と分かって安心したが、別の意味で緊張させられた。
 本来はこんなところに、馬がいるわけがない。
 常識が覆されて、気が動転した。目の前の存在がにわかに信じられなくて、彼は呆けたまま口をパクパクさせた。
 昼餉の支度を手伝っている時、うっかり醤油の瓶を倒してしまった。短刀自身にはあまり被害がなかったけれど、一緒に調理場にいた打刀の袴に、大量にぶちまけてしまった。
 早く洗わないと、染みになってしまう。
 自分の責任だからと、洗濯を引き受けた。歌仙兼定は気に病まないよう言ってくれたが、押し切った格好だ。
 ごしごし擦るのではなく、醤油が染み込んだ場所に石鹸水をつけ、丁寧に揉みほぐした。範囲が広かったので大変だったが、少しずつ進めていくうちに、濃かった染みはかなり薄くなった。
 この程度なら、ぱっと見ただけでは分かるまい。
 なんとか上手く行って、ホッとした。物干し台の、空いている竿に広げて吊して、ひと段落ついたと汗を拭っていた時だった。
 本丸では、十頭を超える馬を飼育している。厩舎は広く改築されたばかりで、馬場もかなり拡張されていた。
 だから散歩は、基本的に必要なかった。庭を散策している時に馬と遭遇した経験は、ここで暮らして長い小夜左文字でも片手で足りるほどしかなかった。
 まさか、脱走して来たのか。
 ひく、と頬を痙攣させて、凍り付く。
 馬はつぶらな瞳をこちらに向けて、ぶるっ、と大きく身じろいだ。
 ただでさえ、小夜左文字は馬が苦手だ。いや、馬だけではなく、動物全般が苦手だった。
 野生の獣は敏感だから、短刀が引き連れる黒い澱みにもきっと勘付く。禍々しい気配に恐怖した生き物は小夜左文字を忌避し、身の危険を回避すべく、時に荒っぽい行動に出た。
 ずっとそう思って来たし、今もそう思っている。
 本丸の馬は飼育されたものなので、必要とあらば彼を乗せてくれた。
 けれどそうでない時は、殆ど近付いて来ない。餌を与えても、なかなか食べてくれなかった。
 これ以上嫌われたくなくて、出陣の時以外は極力傍に行かないよう心がけていた。
 だというのに、まさか馬の方から寄って来た。迷子なのかと考えるが、気が動転している影響か、声が出なかった。
「う、わ」
 細く、しなやかで、長い前脚が動き、蹄が乾いた地面を叩いた。
 干したばかりの袴に突進しないか不安になり、咄嗟に両者の間に割り込んだ。物干し竿を庇うように両手を広げたところで、木立の向こうから別の影が現れた。
「あっ、小夜君」
 明るく、可愛らしい声を響かせて、秋田藤四郎が笑った。
 ただし笑顔の位置は、いつもよりずっと高い。首を大きく傾けなければならない場所に、桃色頭の少年が座っていた。
 葦毛の馬に鞍を乗せ、そこに座っていた。
 慣れた調子で手綱を操って、警戒を解いた短刀仲間に目を細めた。
 脱走ではなかった。
 もしそうだとしたら、どうやって捕まえて、厩舎まで引っ張って行くかを考えなければならなかった。
 自分の力だけで上手く扱えるとは思えず、かと言って仲間を呼びに行っている間に遠くへ逃げられるかもしれない。急な大声も馬を驚かせることになり、救援要請は慎重を期す必要があった。
 結論から言うと、面倒なことにならずに済んだ。
 密かに安堵して、小夜左文字はゆっくり近付いてきた馬に合わせ、後退した。
 さすがに秋田藤四郎を乗せたまま、洗濯物を踏みつけてはいかないだろう。そこは安心して委ねて、興味津々な様子で覗き込んでくる馬の眼差しから逃げた。
 進路から退き、忙しく動き回る。
「こらこら、どうどう」
 それが面白いらしく、馬は勝手に小夜左文字を追いかけた。
 騎手の命令を簡単に無視した葦毛を叱って、秋田藤四郎は太い首筋を優しく撫でた。
「散歩、ですか」
 勝手に逃げ出して来たのでないのは分かったが、本来の馬がいるべき場所から外れているのは変わらない。
 気分転換に散策させるにしても、鞍まで用意するのはあまりないことだった。
 疑問をぶつけ、首を捻る。
 手綱を引き締め、気まぐれな馬との意思疎通を図っていた少年は、質問に一瞬固まった後、急にぱあっと目を輝かせた。
「そうだ。小夜君も一緒にどうですか?」
「うん?」
「遠乗り。いち兄と主君から、お許しがもらえたんです」
 急に言われて、面食らった。なんのことかと惚けていたら、一番肝心なことを後から付け足された。
 彼は満面の笑みで告げて、手綱を手放し、空を抱くように腕を頭上へ伸ばした。
 不安定な足場で万歳して、うっかり落ちそうになって、慌てて姿勢を安定させる。
 実に忙しない行動に思わず苦笑して、小夜左文字は前後が逆になった文脈を頭の中で紐解いた。
 つまり秋田藤四郎は、かねがね申請していた馬での遠乗りの許可を、今日になってようやく得た。審神者だけでなく、粟田口派の長でもある一期一振にも許されて、晴れて馬を一頭借り受けるのに成功した。
 日本号や次郎太刀なら、祝杯のひとつでもあげよう、と言い出しそうだ。
 だが実際に出くわしたのは、大酒飲みの刀たちではなく、小夜左文字だった。
 唐突な提案にまたも驚いて、藍色の髪の短刀は呆然と立ち尽くした。
「僕、ですか?」
 恐る恐る自分自身を指差し、念のために確認する。
 誘う相手を間違えているのではないか。
 そういう想いを込めてじっと見つめたのだが、高低差があり過ぎたのか、秋田藤四郎には伝わらなかった。
「小夜君のほかに、誰かいましたっけ?」
 彼はてんで見当違いのことを言って、辺りを見回した。右手を庇の如く額にやって、周辺一帯を見渡して、気が済んだところで足元の少年に目尻を下げた。
 午前中に干した洗濯物は、大半が回収された後だった。
 今日は天気が良く、そこそこ風も吹いていた。湿度は高くなくて、絶好の洗濯日和だった。
 歌仙兼定の袴だけが、ゆらゆらと揺れていた。
 居並ぶ空っぽの物干し竿を一瞥して、復讐の逸話を持つ短刀は肩を落とした。
「僕より、ほかの刀を誘った方が」
「ええ? 小夜君、僕とおでかけ、嫌なんですか?」
 遠回しだと通じないと判断し、直接的な表現に切り替えた。
 途端に意味を解した少年は再度的外れなことを言って、傷ついたと言わんばかりの表情を浮かべた。
 顔色を悪くして、瞳を暗く翳らせた。信じ難いと首を横に振り、上唇を噛んだ。
 今にも泣き出しそうな顔をされて、小夜左文字は慌てて胸の前で両手を振った。
「いえ、そんなことは」
 そんなつもりはない、と言えば、直前まで歪んでいた秋田藤四郎の目付きが綻んだ。
 一瞬のうちに切り替えを完了させて、またも満開の笑顔の花を咲かせた。
「じゃあ、行きましよう」
「う……」
 あっけらかんと言われて、小夜左文字は喉の奥で呻いた。
 断ったら、今度こそ大声で泣かれそうだ。彼の精神状態に左右された馬が暴れて、折角洗った袴を蹴り倒されるのは避けたかった。
 逃げ道は用意されていない。誘われた時点で、余所を当たるよう言って場を離れなかったのが悪かったのだ。
 判断を誤った。
 がっくり肩を落として、彼は渋々首を縦に振った。
「僕が乗っても、大丈夫ですか」
 一応は承諾しつつ、悪足掻きも止めない。
 鞍はひとり乗り用で、小夜左文字が座るだけの隙間はなかった。
 厩舎に戻って、ふたり乗り用に交換するのも手間だ。だから、やっぱり自分は遠慮する、と言いたかったが、秋田藤四郎は屈託なく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。それに小夜君、いつも歌仙さんの前に座ってるじゃないですか」
「うぐ」
 たとえ鞍がなくとも、馬には乗れる。
 なんら支障はないと言い切られて、反論出来なかった。
 痛いところを衝かれた。歌仙兼定の操る馬に乗った回数など、ほんの数回しかないというのに、彼は忘れていなかった。
 案外記憶力が良い。時間遡行軍との戦いが始まり、まだ間がない頃の出来事なのに、しっかり覚えられていた。
 当時の小夜左文字は馬への警戒心が強く、乗った途端に暴れられるのを懸念していた。それで慣れるため、との言い分で、歌仙兼定に強引に馬であちこち連れ回されたのだ。
 あまり楽しい思い出ではないので、自分から皆に言うことはない。
 本丸に集った刀剣男士の、半数近くが知らない話を持ち出されて、小夜左文字の顔は自然と赤く染まった。
 馬上で交わした会話の数々までつぶさに蘇って、羞恥心で死にたくなる。
 歯を食いしばってかぶりを振って、彼はこめかみのあたりをとんとん、と二回叩いた。
 頭の中を埋めている過去の記憶を、そうやって追い出そうと試みた。
 効果があったとは言い難いけれど、気持ちを切り替えるきっかけにはなった。深々と溜め息を吐いて、彼は意を決して馬の方へと歩みを進めた。
 自分で広げた距離を詰めて、待ち構えていた秋田藤四郎の手に捕まった。譲られた鐙に爪先を押し込み、ぐっと腹に力を込めて、助けを受けながら馬の背によじ登った。
 嫌がられるかと危惧したが、馬はあっさり小夜左文字を受け入れた。
 特に逃げようとする動きもなく、当たり前のようにふた振りの刀剣男士を担ぎ上げた。
 少しも重荷と感じていないようで、涼しげな表情だった。なにも背に乗せていないのでは、というくらいの態度で頭を左右に振って、少し退屈そうに鼻を鳴らした。
「では、出発しんこーう」
 その馬の手綱を、小夜左文字の両脇から出した手で握って、秋田藤四郎が声高に叫んだ。
 気勢を上げて、前進するよう馬に指示を出す。轡を嵌められた馬は瞬時に応じて、長い脚をゆったり前に出した。
 障害物が多いうちは慎重に。畑へと通じる道に出た後は、通りかかる刀を警戒しつつ、速度を上げた。
 どこへ行くのかは、聞いていない。瞬く間に後ろに流れていく景色を眺めて、小夜左文字は息を飲んだ。
 秋田藤四郎の手綱捌きは、見事としか言いようがなかった。
「はっ」
 広い場所に出て、彼は脚で馬腹を圧迫した。
 合図を送り、全力で駆けるよう促す。すぐさま呼応して、葦毛の馬は軽やかに地面を蹴った。
 馬の背に、羽が生えたようだった。
 衝撃は気にならなかった。頬を打つ風が鋭さを増して、煽られた前髪が一斉に逆さを向いたのが可笑しかった。
「ああ……」
 歌仙兼定は小夜左文字に遠慮して、ここまで高速で馬を走らせたことがなかった。
 彼は緩やかに変化する景色を楽しみ、気になる場所を見つけては、頻繁に馬の足を止めていた。
 しかし秋田藤四郎は、違う。彼は周囲を見るでもなく、ただ前だけを向いて、全身を打つ風の感触を楽しんでいた。
 吹き飛ばされないよう、小夜左文字は太腿に力を込めた。馬の鬣を握りしめて、目を開けているのも大変な気流の流れに身を委ねた。
 嫌なことや、悶々としていたことが、風に攫われて後ろの方へ飛んでいく。
 降り注ぐ陽光が眩しかった。
 緑の稜線がどこまでも続き、時折鼻先を甘い香りが駆け抜けた。それがなにに由来するものなのか、確かめる術もないまま、馬はなだらかな傾斜を力強く蹴り飛ばした。
 このまま進むと、屋敷から離れすぎる。
 遠くへ行きすぎないよう、審神者から言われているはずだ。一期一振だって、日暮れまでには帰るよう、弟刀に忠告しているに違いない。
 だのに秋田藤四郎は、手綱を緩めなかった。
 小夜左文字も、ここいらで引き返そうとは言わなかった。
 どこまでも行けばいい。誰も知らないところへ、誰も知らない景色を見に。
 そう願った直後だった。
「うわ、あっ!」
「あああ!」
 突如彼らの足元が、ぐらっと大きく傾いた。
 衝撃が真下から来た。地面がひっくり返ったのかと思えるくらいの震動に襲われて、小夜左文字も、秋田藤四郎も、甲高い悲鳴を上げた。
 葦毛の巨体が左に傾き、そのまま横向きに崩れ落ちた。重みに耐えきれなかった土の塊がぼろっと砕け、さほど大きくもない段差を滑っていった。
 道らしきものがない中を駆けていた。
 足元に危険が隠れているなど、思ってもいなかった。
 脆くなっていた場所を、踏み抜いたらしい。馬にとっても、手綱を取る短刀にとっても、この展開は予想し得なかった。
「ぐうっ、っつぁ……」
「ぎゃふん」
 鞍に乗っていなかった小夜左文字が真っ先に地面に叩きつけられ、僅かに遅れて秋田藤四郎がすぐ近くに合流した。
 馬がどうなったか気になったが、強かに打ち付けた身体が上手く動かない。当たり所が悪かった場所が折れているのではと懸念したが、痛み自体は時間が経つにつれ、少しずつ引いて行った。
 肘と、手首と、膝を擦り剥いたが、それ以外は無事だった。
 咄嗟に受け身を取れたのが、不幸中の幸いだ。落下した先も、僅かに水分を含んで湿っており、衝撃を多少ながら吸収してくれた。
 薄が一面に根を下ろしていた。
 最初の落下地点から、何度か弾んで、転がされた。その形跡を示すかのように、穂先の長い植物は見るも無残に薙ぎ倒されていた。
「いったた、た……」
 もう大丈夫かと思い、立ち上がろうと仰向けからうつ伏せに姿勢を変える。
 しかし動いた途端、静まり返っていた各部位が抗議の声を上げ、小夜左文字を内側から攻撃した。
 関節のあちこちに激痛が走り、起き上がるどころではなかった。途中まで頑張ったが、根負けして、白旗を上げた彼は大の字に寝転がった。
 空が見えた。
 一面の青だ。白い雲がぷかぷかと泳いで、怖ろしく遠いところにあるのに、とても近くに感じられた。
「吸い込まれそう」
 瞬きも忘れて呆然と見入り、深く、深く息を吐いた。
「小夜君。大丈夫、ですか」
 こうやって屋外で横になり、空を仰ぐ経験はあまりない。
 惚けていたら、頭の向こう側から声がした。
 秋田藤四郎も、簡単には起き上がれないようだ。時々痛みに悲鳴を上げて、やがて観念したか、静かになった。
「死んではないです。ここが極楽なら、分からないですけど」
「そうですね。でも、地獄じゃないだけ、良いと思います」
「うん」
 お互い地面に転がったまま、空を見上げて言葉だけでやり取りする。
 いくらなんでも草むらが広がるだけの地獄はないだろうし、極楽ならもっと華やかだ。
 今回も死にそびれたと四肢の力を抜いて、小夜左文字は左右の手を握り、拡げた。
 感覚を取り戻すついでに、特に痛む箇所を探した。
 呼吸は苦しくない。指を動かした際、連動して肩や肘が痛むこともなかった。
 足も問題なかった。膝は、ゆっくりなら曲がった。擦り切れた場所に血が滲んでいたが、出血自体は酷くなかった。
 頭は冷静だった。
 太陽の眩しさに目を細めて、彼はぐーっと伸びをした。
「僕の所為でしょうか」
 再び脱力して、何気なくぼそっと呟く。
「え? なんですか?」
 小声だったから、秋田藤四郎には聞こえなかったようだ。ガサガサと薄が擦れる音がしたが、視界に桃色頭は現れなかった。
 それで少し、気が緩んだ。
 本丸に暮らす他の短刀たちと、小夜左文字とでは、決定的な違いがある。贈答用として珍重されて、大事にされてきた多くの短刀とは違い、彼だけが所有者を守るのではなく、その肉を、命を切り裂くために使われていた。
 武士の矜持を守るための行為とも違う。
 首級を挙げる為に用いられたわけでもない。
 一度目は、奪うため。
 二度目は、奪われた恨みを晴らす為。
 刀身にこびりついたかつての所有者たちの血は、どれだけ拭おうとも決して取り除けない。
 死に臭いを漂わせた刀を背に乗せて、馬の方もさぞや生きた心地がしなかっただろう。
「僕の、黒い澱みが……。やっぱり、動物には分かるんです」
 吐き捨てるように言って、自嘲気味な笑みを浮かべる。
 あれほど青く澄んでいた空までもが、彼の心理状態に合わせるかのように、雲の範囲を広げて薄暗くなっていた。
 最初のうちは問題なかったが、長時間跨がっているうちに、悪影響が出てしまったのではないか。即効性ではなく、じわじわと侵食し、馬の精神を汚染したのではなかろうか。
 そんな風に考えて、肺の中に残っていた空気を一気に吐き出す。
 溜め込んでいたものを放り出して、ほんの少しすっきりした。鬱屈した感情を表に押し流したことにより、奥底で渦巻いていたものがふっと薄くなって、消えた。
 心が軽くなった。
 それが嬉しくて、微笑を浮かべて目を閉じた。
「いた!」
 だけれど、安らぎの時は短かった。
 突然額に痛みを覚えて、小夜左文字は悲鳴と共に飛び起きた。
 身体の節々を襲う痛みは、どこかへ吹き飛んだ。べちん、と思い切り叩かれて、脳みそが揺さぶられた。
 きっと赤くなっているに違いない。打たれた箇所を左手で庇って、彼は歯を食い縛り、鼻から息を吸い込んだ。
 湿った地面に尻を沈めた短刀の前に、秋田藤四郎が憤然とした面持ちで立っていた。握り拳を作り、怒りで頬を紅潮させて、小鼻を膨らませていた。
 鼻息は、荒い。
 肩幅に脚を広げて仁王立ちになっている少年を呆然と見上げて、小夜左文字は左手を膝に下ろした。
「なんですか」
「僕、そういうこと言う小夜君、きらいです」
 いつになく険しい表情と声に、圧倒された。どんな時でも二コニコ笑っている印象が強い刀なだけに、秋田藤四郎の怒り顔は意外だった。
 初めて見たわけではないけれど、前に見たのがいつだったか、咄嗟に思い出せない。
 面と向かって嫌いと罵倒されたのも衝撃的で、ぐさりと胸に突き刺さった。
 額を打たれたのより、そちらの方がずっと痛い。
 だからなのか、激痛を避けるべく、思考が停止した。意識をそこに向けないよう、本能が危機回避に動いていた。
 呆気に取られて、ただひたすら秋田藤四郎を見上げ続ける。
 反応が鈍いのに焦れて、彼は自身の腿を両手で殴った。
「きらいです!」
 繰り返し吼えて、なぜか糾弾する側が涙で頬を濡らした。ぐす、と鼻を啜り、呻いて、ぽろぽろ零れて止まない涙を次々拭い取った。
 何と答えて良いのか、分からなかった。
 嫌いだと言われた方より、言った方が傷ついた顔をしていた。言葉にならない声を上げて、袖口を湿らせて、秋田藤四郎は何度も、何度もしゃくりあげた。
「あの……」
 あまりにも可哀想に思えて、考えなしに話しかけようとした。
 しかし言葉が出てこなくて、虚しく口をパクパクさせていた時だ。
「ん?」
 ぽとっ、と冷たいものが落ちて来て、小夜左文字は目を丸くした。
 最初は秋田藤四郎の涙かと思ったが、違う。
 位置的に有り得ないと怪訝にしているうちに、ぽとり、ぽとり、と立て続けに鼻先や、頬、足にまで落ちて来た。
 雨だ。
「ええええええ!」
 晴れ渡っていた空が、いつの間にか灰色に染まっていた。
 予期せぬことに、立て続けに二度も襲われた。
 吃驚しすぎて、秋田藤四郎の涙もどこかへ消し飛んだらしい。素っ頓狂な声を上げて、唖然と座り込んでいる小夜左文字の手を掴んだ。
「雨宿り、しないと」
 強引に引っ張り起こして、慌ただしく辺りを見回した。騎手を失った馬も探さなければならないが、みるみるうちに勢いを増す雨から逃げるのが最優先だった。
 薄野原に、そう都合よく建物など存在しない。
 ならば大きな木を、と目を凝らすけれど、それも近くには見当たらなかった。
「小夜君、こっちです」
 こうしている間にも、雨脚はどんどん強まった。
 頭の天辺から足の先まで、ずぶ濡れになるのにそう時間はかからなかった。
 柔らかな地面は水を吸い、一気に緩んだ。ねばねばした泥が足首に絡みつき、短刀たちを底なし沼へ誘おうとした。
「そっちって?」
 避難先に心当たりがあるのか、秋田藤四郎が勝手に進行方向を定めた。
 一抹の不安を抱き、問いかけるが、返答は得られなかった。
 それでなくとも、喋っていたら口の中に雨水が入ってくる。喉が渇いていたが、飲み込むのは憚られて、小夜左文字は俯いて地面に吐き出した。
 泥を跳ね飛ばし、手を繋いだまま走った。頭上はすっかり暗くなり、まるで夜の様相だった。
「雷」
「早く、小夜君」
 それが急に、ぴかっと光った。
 暗闇を切り裂き、雷光が迸る。僅かに遅れてバリバリバリ、と地鳴りを伴う轟音が天を貫き、つい立ち止まりかけたのを制された。
 雷自体は怖くないけれど、屋外で遭遇するのは久しぶりだ。
 しかも今は、退避すべき屋敷が近くにない。避雷針となるものもなく、一帯で最も背が高いのが秋田藤四郎、という状況だった。
 身を隠すのに最適な岩場など、どこにもありはしない。
 臍を庇って丸くなっていた方が安全では、と考えて、小夜左文字は前を行く短刀に目を細めた。
 嫌いだったら、置いて行けばいいのに、彼はそうしなかった。
 見捨てられない性分らしい。
 そういうところに惹かれて、審神者は彼を顕現させたのだろうか。ふと思ったが、真実は藪の中だ。
 バチャバチャと水たまりを蹴散らし、あてもなく彷徨った。周囲は雨で煙り、遠くを見通せない。視界は悪化する一方で、手を離したら相手の位置さえ分からなくなりそうだった。
「どこまで行くの」
 いつまで走れば、この雨から抜け出せるのか。
 不安を通り越し、恐怖を抱いて叫ぶが、返事は得られなかった。
 自分を引っ張っているのは、本当に秋田藤四郎なのだろうか。
 そんなことさえ脳裏を過ぎって、冷え切った身体をぶるっと震わせた。
「あ、あそこです!」
 そんな心配を余所に、先頭を行く短刀が叫んだ。彼方を指差し、一瞬だけ振り返って、安心させようとしてか、ニカッと白い歯を見せた。
 少々不器用な笑顔を向けられて、小夜左文字は瞠目した。
 心を見透かされたようだった。どうして分かるのか不思議でならず、愕然としているうちに、彼らは四方に枝を伸ばした巨大な木の根本に駆け込んだ。
「はあ、はあ……酷い、目に、遭った……」
「びっくりしました」
 完全に雨を防いでくれないが、浴びる量は一気に減った。
 濡れた手で口元を拭い、呼吸を整えて、小夜左文字は太い根の上に倒れ込んだ。
 秋田藤四郎も苦しそうに息を吐き、胸を叩いた。顔を両手でごしごし擦って、冷え切った身体を摩擦で温めた。
 立っているだけで、大粒の雫が衣服からボトボト落ちていく。重くなった繊維が素肌に貼りつき、冷たくて気持ちが悪かった。
 落雷の危険がある場所だが、上空を仰げば閃光は遠ざかっていた。あんなにも激しかった雨脚も、徐々にだが緩み始めていた。
 長引く雨ではない。ざっと降って、さっと通り過ぎていくものだった。
 慌てふためいたのが急に馬鹿らしく思えて、小夜左文字は次第に明るさが戻ってきた空に安堵の息を吐いた。
「小夜君」
「はい」
 遠くを眺めていたら、神妙な顔で名前を呼ばれた。
 思わず真顔で返事をして、彼はもじもじしている秋田藤四郎に首を傾げた。
 寒いのかと思ったが、どうも違うらしい。胸の前で人差し指を弄って、続いて勢いよく両腕を広げて、身体を上下に動かした。
 挙動不審もいいところで、なにがしたいのか分からない。
 きょとんとしながら見守っていたら、深呼吸を三度も繰り返した短刀が、決意の表情で口を開いた。
「さっきは、ごめんなさい!」
 そうして大声で叫び、頭を低くした。
 腰を九十度に曲げて謝罪されて、小夜左文字は目を点にした。
 なんのことか、咄嗟に思い浮かばなかった。謝られることがあったかどうか、直近の記憶をざっと振り返ってみるけれど、それらしきものは引っかからなかった。
 心当たりが浮かばなくて、困惑して、返事も出来ない。
「ええ……?」
 素直な気持ちが、声になって漏れた。秋田藤四郎は顔を上げると、胸の前で両手を叩き合わせた。
「きらいだなんて、言って。ごめんなさい」
 合掌し、顔の前に持って行く。若干早口に捲し立てられて、小夜左文字はようやく嗚呼、と頷いた。
 赤みが引いた額に、意識しないまま触れていた。
 それで尚更ばつが悪い顔をして、秋田藤四郎が唇を噛んだ。
「それに、落馬しちゃったのは、小夜君のせいじゃないです。僕がちゃんと、馬を制御出来なかったからで」
「そんなこと」
「いいえ、僕のせいです。だから小夜君は、あんなこと、言っちゃだめです」
 すべてを自身の責任にしようとしている彼をなんとかしたかったが、きっぱり拒絶された。
 早口に告げられて、割り込む余地が見つからなかった。最後にふんっ、と鼻から勢いよく息を吐いた彼を相手に、頷く以外の返事は許されなかった。
 心優しく、明るく、素直だが、時に融通が利かない。
 あまり目を向けて来なかった彼の一面を垣間見て、小夜左文字はふっ、と頬を緩めた。
 力が抜けた。なにを気取っていたのかと自分に苦笑していたら、秋田藤四郎が突然西の空を指し示した。
「見てください、あそこ。虹です」
 言われて立ち上がり、戻ってきた青空の先に目を凝らした。肉厚の葉から滴る雨粒を避けて、教えられた方角に顔を向け、息を飲んだ。
「綺麗だなあ」
 真っ先に浮かんだ感想を、秋田藤四郎が代弁した。
 隣でビクッとなったのが伝わったのだろう。彼は振り返ると、雨の中で見せたのと同じ笑顔を浮かべた。
 歯を見せて笑うのは雅でないけれど、彼のこの笑い方は、好感が持てた。
「ほんとうですね」
「ああ、どうしよう。消えちゃう」
 万感の思いを込めて頷き、再び空へと視線を送った。
 しかし虹は、思いの外儚かった。鮮やかに色づいていたものは瞬く間に薄くなり、すうっと青空に溶けてしまった。
 秋田藤四郎がふらふら、と前に出て、水たまりを踏んだ。名残惜しげに消えゆく虹を見送って、数秒してからすくっと背筋を伸ばした。
「また、いつか。見られます」
「そうですね。あー、でもその前に、馬を探さないと」
「あれは、違いますか?」
「どれです? わあ、本当だ。おーい!」
 気分を一新させて、慰めようとした小夜左文字に頷く。朗らかに告げて、葦毛の馬の行方を捜し、言われて高く腕を伸ばした。
 それで伝わったかは不明だが、ずぶ濡れで彷徨っていた馬はこちらに首を向けた。よろよろと年寄りのような足取りだったのが、徐々に力強さを取り戻し、一直線に向かって来た。
 屋敷は遥か遠くで、馬がなければ帰るのが大変だ。
 これでどうにか、夕餉には間に合う。ホッと息を吐いて、小夜左文字は嬉しそうに笑う秋田藤四郎にハッとなった。
「虹」
 純粋無垢を形にしたような少年が、不思議そうに目を丸くする。
「小夜君?」
「いえ、なんでもないです」
 きょとんとする彼に首を振って、小夜左文字は現れた太陽に手を振った。

光さす三笠の山の朝日こそ げに万世のためし成けれ
山家集 雑 1178

2018/09/08 脱稿

錦の色を あらたむるかな

 小雨が降りそうな天気だった。
 空は薄灰色に濁り、所々で色が濃くなっていた。太陽は見当たらず、どこにあるのかも探さなければ分からない。ゴロゴロと雷は聞こえないが、いつ響いても不思議ではなかった。
「よい、しょ」
 だからと大急ぎで洗濯物を回収し、持ち主別に分類した後、各部屋へ届けに走った。自身と、自身に所縁を持つ刀の分だけを集めたつもりが、あれこれ紛れており、作業は思ったより手間取らされた。
 覚えのない肌着に首を捻り、所有者の名前を探して裏返したり、目を凝らしたり。
 度重なる洗濯で署名はどれも薄くなり、判読が難しくなっていた。
「あとは、ええと」
 そうやって紛れていた分に加え、江雪左文字、宗三左文字の分は配達が終わった。
「歌仙、いいですか」
 それでもまだまだ残る衣服で、両手が塞がっている。
 閉まっている戸を開けてくれるよう頼んで、小夜左文字は声を高くした。
「お小夜かい? どうしたんだい」
 即座に返事があって、間を置いて襖が開いた。すう、と引っかかることなく横滑りした戸の向こう側で、歌仙兼定が不思議そうに首を傾げた。
 草摺りや胴当ては外していたが、いつでも出陣できる格好だ。もっとも裾捌きが良くなるから、と愛用している、肌にぴったり密着する肌着は身に着けていなかった。
 衿元が大きく開いて、鎖骨の隆起がよく見えた。
 下から覗き込むように見上げて、短刀の付喪神は抱えたものを差し出した。
「雨が降りそうだったので」
 言って、天辺にあるものを取るよう促す。
 空色の瞳から短刀の手元に視線を移して、打刀の付喪神は嗚呼、と頷いた。
「取り込んでくれたのか。ありがとう、お小夜」
「どういたしまして」
 感謝を述べて、全部を引き取ろうと手を伸ばした。だが掴み取る直前でスッと逃げられて、歌仙兼定は眉を顰めた。
 半歩後退した小夜左文字は、怪訝にする男に向かって首を振った。横に二回、素早く往復させて、もっと良く見るようにと両手を揺らした。
「ああ。そういえば、そうだったね」
 彼が今日洗って干したものと、短刀が抱えている洗濯物とでは、量が一致しない。
 全てではなく、一部分だけだと言われる前に察して、打刀は控えめに微笑んだ。
 うっかりしていたと苦笑し、積み重ねられているものから何枚かを選んだ。山を崩さないよう細心の注意を払い、自分のものだと思えるものを引き抜いた。
 明らかに寸法が異なり、短刀のものだと分かるものから排除していく。
「おや、これは?」
「それは、篭手切のです」
 だが中には打刀より小さく、それでいて短刀より大きいものが紛れていた。
 手に取ろうとして躊躇した歌仙兼定に、小夜左文字は一瞬悩んでから答えた。
 篭手切江は最近顕現したばかりの脇差で、眼鏡に洋装姿の少年だ。古くは細川幽齋が所持し、稲葉家に移った後、奇縁があって再び細川家に舞い戻ったという来歴がある。
 この場に在るふた振りは過去に面識がある刀だが、三振りが同時に顔を揃えたのは、この本丸が初めてだった。
「そうか。彼の」
 顎を撫で、打刀が複雑な表情を浮かべた。
 仲が悪いわけではないが、どう付き合って行けばいいか決めかねている雰囲気に肩を竦めて、小夜左文字は話題を変えた。
「歌仙は、これで全部ですか」
「そうだね。助かったよ」
 斜めに傾いでいた洗濯物の山は、随分と小さくなった。
 これ以上崩れていかないように抱え直した短刀に、恰幅の良い打刀は相好を崩した。
 上機嫌に礼を言って、小さく頭を下げた。まだ配達が残っている少年は会釈を返し、敷居の前から退いた。
 くるりと身体の向きを変え、脇差部屋へ向かって歩を進める。道半ばで振り返れば歌仙兼定は室内に戻ったらしく、襖は閉められていた。
「篭手切、いるかな」
 いくつかの部屋の前を素通りし、少し広めの廊下に出て、角を曲がった。これまであまり訪れる事がなかった区画に足を向け、様子を窺いながら歩を進めた。
 刀剣男士の私室は刀種ごとに大きく、ざっくり分けられていた。
 短刀は短刀ばかりで集められ、脇差は脇差ばかりの区画があった。ただし男士の数が増え、二階部分が増築されて以降、そちらに入る刀は種別で分けられていない。
 脇差部屋は、たまたま空き室がひとつ残っていた。お蔭で篭手切江は急な階段を上り下りする必要がなく、良かった、と安堵していた。
 彼が顕現した直後、本丸内をあちこち案内していた時のことだ。
 その頃は彼と歌仙兼定の間に、奈落よりも深い『歌』に関する解釈の違いがあるなど、気付きもしなかった。
「降って来たかな」
 ぽつぽつと雨音がした気がして、軒下から中庭を見る。
 雨粒は細かいので、はっきりと見えない。ただ地面を覆い尽くしている雑草が、落下の衝撃を受け止め、ゆらゆら踊っていた。
 畑仕事に出ていた刀たちは、今頃大慌てで撤収していることだろう。
 農作物にとっては恵みの雨だ。あまり雨脚が強くならないよう願い、小夜左文字は休めていた足を動かした。
 素足で廊下を進み、目当ての部屋の前で首を伸ばす。
「あれ」
 中庭に面した障子は、一尺弱ほど開いていた。
 留守にしているのかと真っ先に疑ったが、そうではない。隙間から覗きこんだ短刀は、畳に転がる細い腕を見つけて、怪訝に眉を顰めた。
「篭手切?」
 だが呼びかけても返事はなく、次第に強まっていく雨音だけが耳朶を掠めた。
 首を右、左と交互に揺らして、小柄な付喪神は抱えた荷物を握りしめた。
「入ります」
 嫌な予感がしたが、そんなことは起こり得ない。
 時間遡行軍が本丸の結界を突破した事例はなく、忍び込んで悪さを働いたとは思えなかった。
 ならば具合が悪いのかと懸念して、障子を横に押し開いた。言い訳として声を張り上げ、洗濯物は右腕一本で抱きしめた。
 真っ直ぐ肘を伸ばした左手で、楽に通れるだけの隙間を確保した。勢い勇んで敷居を跨ぎ、畳の縁を踏まないよう、二歩、三歩と突き進んだ。
 そして。
「寝てる……?」
 ご丁寧に布団の上で横になっていた少年の傍らに立ち、小夜左文字はがっくりと肩を落とした。
 特に何もしていないのに、どっと疲れが押し寄せて来た。こめかみの辺りに鈍痛が走り、馬鹿な想像をしたものと、数秒前の自分を悔やんだ。
 篭手切江は敷き布団の上で、掛け布団は被らずに眠っていた。
 傍には角形の座卓があり、文字で埋め尽くされた帳面が広げられた状態で置かれていた。硬筆が帳簿の真ん中に転がって、大人しく出番を待っていた。
 歌作に励み、頭を捻り過ぎて疲れたのだろう。隅に置かれた茶碗は空で、菓子の包み紙らしきものが数枚、几帳面に畳んだ上で捨てられていた。
 掛け布団を用いなかったのは、ちょっと仮眠程度に考えていたからだろう。
 けれど短刀がこの距離まで来ても目覚めないところからして、眠りはかなり深そうだった。
「起こすのは、可哀想かな」
 寝息は穏やかで、落ち着いていた。くうくうと一定間隔で響き、表情は健やかだった。
 起きている時より幾ばくか幼く見えるのは、彼の顔に、黒縁の眼鏡がないからだろう。
 日中は常に身に着けているものも、さすがに眠る時は外していた。修正だらけの帳面の左下に畳んで置かれていたので、最初から休憩するつもりで横になった証拠だった。
 書き物をしている途中で睡魔に負けたのなら、装着したままになって然るべきだ。
 ぐうたらで、よく座敷で昼寝している明石国行の例を思い出して、小夜左文字は苦笑した。
「ここに、置いて行きます」
 膝を折って屈んで、抱えていた洗濯物のうち、脇差の分を選り分けた。注意しながら寸法を確認し、短刀の着衣とで、山をふたつに増やした。
 今朝自分で洗った枚数は覚えているが、篭手切江のものがこれで全てなのかは、あまり自信がない。起きた後、本人に確認してもらうことにして、彼は書き置きを残そうと目を泳がせた。
 さすがに帳面を破るのは憚られた。ならば、と頭を切り替えて、小夜左文字は座卓横の屑入れに手を伸ばした。
 膝立ちで近付き、天辺に重ねられていた菓子の包み紙を取った。薄い浅黄色の表面をサッと払って、折り目を伸ばした。
 くしやくしやに丸められていたら使い物にならなかったが、この程度なら問題ない。
 再利用できるものは、使わないと損だ。勿体ない、の精神で首肯して、彼は新品同然の座卓ににじり寄った。
 面積の大半を占めている帳面を押し退けて隙間を作り、そこに浅黄色の包み紙を置いた。続けて筆を探し、目を泳がせた。
 篭手切江は毛筆ではなく、墨の補充が必要ない硬筆を愛用していた。
 当然卓上には、墨や硯の類は置かれていない。あるのは細長い硬筆一本だが、小夜左文字はこれを使ったことがなかった。
「お借りします」
 あれば便利なのは、理解している。けれど慣れ親しんだ毛筆に、スッと胸に染み入る墨の匂いも、なかなかに棄て難かった。
 果たして、自分に扱えるだろうか。
 好奇心に負けて手を伸ばし、彼はいつもの調子で筆先を紙面に押し付けた。
「あれ、出ない」
 だが見よう見まねで動かしたところ、洋墨が出なかった。砂に指でなぞったような跡だけが残り、判読は難しかった。
 脇差はいつもこの筆で、すらすらと文字を書いていた。内蔵された洋墨が尽きたのかと思案するが、透明な筆本体の内側には、細長い黒の塊がたっぷり残っていた。
「どうしてだろう」
 上下左右に揺り動かしても、硬筆は反応しなかった。まさか筆先が内部に収納されており、反対側の尻を押さないと出て来ない仕組みだなど、短刀は夢にも思っていなかった。
 首を捻り、不可思議な道具に疑問符を並べ立てる。
 もしやこれには、篭手切江でないと使えない細工が施されているのか。そんな大それたことまで考えて、彼は尊敬の眼差しを傍らに投げた。
「う、ん……うう?」
 そんな情熱的な視線に反応してか、眠っていた脇差が呻いた。
 布団の上で顔を顰め、首を左右に振ったかと思えば、弛緩していた体躯をぴんと伸ばした。仰け反り気味に背中を浮かせ、直後に沈め、畳にはみ出ていた右腕を額に重ねた。
 綺麗な指で黒髪を掻き上げ、窄めた口から息を吐く。
 数秒遅れで瞼がゆっくり押し開かれ、隠れていた瞳が露わになった。
「あ……」
 そのつもりはなかったのに、起こしてしまった。
 申し訳ないことをしたと恐縮し、首を竦めて、小夜左文字はなにも書けていない包み紙を握り潰した。
 証拠隠滅する必要はなかったのだが、無意識にそうしていた。巧く扱えなかった硬筆を帳面に転がして、山盛りだった屑入れを脇へ追いやった。
「あ、あれ。うー……?」
 一方で脇差は何度も瞬きを繰り返し、焦点定まらない瞳を左右に泳がせた。
 膝を折り、ゆっくり上体を起こした。猫背になって後頭部を掻き回し、ぼんやりしたまま動かなかった。
 意識が覚醒しきっていないらしく、双眸は虚ろだ。口は半端に開いて、間抜けも良いところだった。
「篭手切?」
 小夜左文字のすぐ上の兄である宗三左文字も、寝起きはこんな感じだ。しばらくぼうっとして、怠そうだ。放っておくとまた眠ってしまうので、布団から追い出すのが大変だった。
 長兄である江雪左文字は、起床と同時に活動を開始してしまうくらい、目覚めが良い刀だ。小夜左文字もどちらかといえば彼寄りで、半覚醒のままぐずぐずすることはなかった。
 篭手切江の世話は、刀種を同じくする脇差たちが担ってくれていた。朝食前に起こす役目も、物吉貞宗や鯰尾藤四郎たちに任せっきりだった。
 こんな風になるのかと、新鮮な気分だ。
 知らなかったと感嘆の息を吐き、短刀は居住まいを正した。
 畳に正座して、様子を窺い、反応を待つ。
 目覚めたばかりの少年は相変わらずぼんやりして、上半身をぐらぐら揺らしていた。
 安定せず、いつ崩れるか分からない。宗三左文字のようにばたりと倒れ、瞬時に寝息を立てる芸当を披露されるのかと、どきどきだった。
 興味深く観察して、息を呑んだ。
 緊張で固くなっている短刀の気配が伝わったのか、篭手切江が不意に顔を上げた。
「……んん?」
 眉間に浅く皺を寄せて、瞳を真ん中に集めた。目を眇めて睨むように見つめられて、小夜左文字は反射的に竦み上がった。
 許可を得ずに部屋に入った件を責められると危惧し、恐怖を抱いた。開きっ放しだったとはいえ、帳簿をちらりと盗み見てしまったのを詰られるのでは、と懸念した。
 朗らかに笑っていることが多い脇差が、いつになく顰め面でこちらを見ている。
 あまりにも普段と異なる雰囲気に、冷や汗が止まらなかった。
「あ、あの」
 洗濯物を届けに来たが、眠っていたので許しを得る前に入った。
 本当にそれだけで、部屋を荒そうだとか、そんなことは一切考えていない。
 身の潔白を証明すべく、意を決して口を開く。
 その声に右の眉を持ち上げて、篭手切江が渋面を解いた。
「なんだ。小夜でしたか」
 ホッとした様子で呟いて、前傾姿勢で迫っていたのを改め、布団に座り直した。寝ぼけ顔はどこかへ去り、虚ろだった双眸には光が宿っていた。
 にこやかに微笑んで、嬉しそうに白い歯を覗かせる。
 そのあまりの変貌ぶりに唖然として、小夜左文字はぽかんと目を丸くした。
「こて、ぎり?」
「ああ、すみません。眼鏡を取ってもらえますか」
「めがね」
「それがないと、なにも見えなくて」
 絶句していたら、肩を竦めた脇差があらぬ方向を指差した。恐らく座卓を示したつもりなのだろうが、逆とまではいかないものの、大幅に方角がずれていた。
 そうなった原因は、彼の言葉ですぐさま判明した。大いに納得して、短刀は鷹揚に頷いた。
 以前から本丸に住する明石国行や博多藤四郎も、眼鏡を日々着用していた。これが失われると視力が著しく減退し、機能不全に陥るとの話は、頻繁に耳にしていた。
 巴形薙刀はそこまで酷くはないけれど、亀甲貞宗は眼鏡がないとてんで役に立たない。
 篭手切江も彼らの仲間だと思い出して、小夜左文字は言われるまま、眼鏡に手を伸ばした。
「どうぞ」
 特に重要だ、と以前誰かに教えてもらった、硝子部分には触れずに持ち上げる。
 黒縁をそっと挟んで差し出せば、脇差は取りに来ず、ここに置け、とばかりに両手を並べた。
「ありがとう」
 受け取ると同時に恭しく頭を下げ、感謝を表明し、慣れた調子で指を動かした。折り畳まれていた蔓を広げ、寸分の狂いもなく、正確に装着した。
 何百回、何千回と繰り返して来たからこそ、出来る芸当だ。
 何も持たないまま、眼鏡を掛ける動きを真似て、小夜左文字は見慣れた顔に戻った脇差に苦笑した。
「本当に、見えないんですか」
 彼も、彼の兄弟も眼鏡を必要としないので、その感覚が分からない。
 しかも小夜左文字は短刀で、闇に強い。ほんの僅かでも光源があれば大丈夫なので、尚更理解し難かった。
 ようやく短刀に真っ直ぐ向き直った少年は、純粋無垢な問いかけに頬を赤らめ、照れた様子で首を掻いた。
「完全にじゃないけど、まあ、そうだね」
「もし戦場で、なにかの拍子に失ったら、どうするんです」
「それは――……その時次第かなあ」
 視力が弱いのは、欠点だ。間違っても、利点にはならない。
 もし彼と同じだけの実力の刀があって、どちらかしか選べないとなれば、この件が判断基準になるかもしれない。万が一乱戦の中で眼鏡を紛失したら、篭手切江はその時点で戦えなくなるのだから。
 現時点では、そこまで厳しい状況に追い込まれていないから、彼は無事でいられる。
 小夜左文字は今初めて気にしたが、脇差自身はずっと前から頭の片隅にあったのだろう。
 厳しい問いかけには曖昧に返して、黒縁眼鏡を引き抜いた。
 数回瞬きをして、伏していた視線を持ち上げた。
 目が合ったのか、そうでないのか判断し辛い。脇差の眼は常に動き回り、なかなか安定しなかった。
 眉間の皺が一気に深くなり、本数も増えた。
 懸命に焦点を合わせようとしているのが伝わってきて、小夜左文字は成る程、と頷いた。
 彼自身、遠くのものを見ようとして、顔が険しくなることがあった。今の脇差は、それと同じ状況なのだ。
 こんなにも近くにいるのに、輪郭が滲み、掠れ、はっきりとした像を抽出できないでいる。全体的に靄がかかって、ぼんやりして、深い霧の中に迷い込んだ気持ちでいることだろう。
 過去に聞き齧った情報を頼りに想像して、一種の憐憫を抱いた。
 眼鏡を本来の位置に戻した篭手切江は、明らかにホッとした顔をしていた。
 見えないことの不便さは、小夜左文字も心得ている。彼は過去、敵の攻撃を受けた際に瞼を切ってしまい、出血で目を開けられなくなったことがあった。
 あの時は片目だけだったが、遠近感が掴めず、苦労した。燭台切光忠はいつもこんな視界で戦っているのかと知って、一緒に出撃することがあれば、それとなく彼の死角を守るよう行動するようになった。
 その不便さが両目ともに現れるとなると、なかなかに厳しい。
「顕現時の、不具合でしょうか」
「どうなんだろうねえ」
 本当は視力に問題などなく、時の政府側の不手際が原因だとしたら、厄介だ。
 けれど篭手切江は、顕現した時点ですでに眼鏡を装備していた。他の刀剣男士もそうだから、これが彼本来の視力なのだろう。
 現に手入れ部屋に入っても、見える世界になんら変化は訪れていない。
 真面目に思案している短刀に肩を竦めて、脇差は部屋に増えていたものに意識を傾けた。
「届けてくれたんですか。すみません」
「雨が、降ってきたので」
「わざわざ、ありがとう。助かりました」
 足元にあった洗濯物の山に気が付き、そちらに上体を倒した。小ぢんまりしている方ではなく、少し大振りな方に手を伸ばして、一番上にあったものを膝に広げた。
 真新しく、どこも擦り切れていない肌着を確認して、裏側に小さく書きこんだ名前に相違がないかを確かめる。
 やがて彼はうん、と頷き、広げたものを雑に片付けた。
「全部、ありましたか」
「一枚足りない気がするけれど、いいよ。あとで、自分で探します」
 彼が今日、どれだけの洗濯物を出したのか、短刀には分からない。
 きちんと揃っているか問い質した小夜左文字に答えて、脇差の少年は皺が寄っている肌着を撫でた。
 干し方が甘かったのだろう、あまり綺麗に乾いていない。そのうち堀川国広辺りに教えを請おうと決めて、行李に片付けようと立ち上がった。
「小夜?」
 用件は済んだのに、短刀は座ったまま動かなかった。
 まだ何かあるのか首を傾げれば、藍色の髪を左右に揺らして、小夜左文字が背筋を伸ばした。
「そんな硝子板一枚なのに、不思議です」
「あはは」
 神妙な顔をしているからどうしたのかと思えば、眼鏡の構造が気になっていたらしい。
 真剣に言われて、思わず苦笑が漏れた。肩を小刻みに揺らして、篭手切江は伸ばしたばかりの膝を折った。
 片付けは後回しにして、短刀の前に座り直した。抱えていたものを布団に放り出し、空にした手で眼鏡を外して、興味津々な少年の顔へと近づけた。
「なんだか、……ぐにゃぐにゃして見えます」
「あんまりじっと見ると、頭が痛くなるよ」
「篭手切は、それで平気なんですか」
「うん。どうやら僕の身体は、自力で焦点を結べないみたいなんだ」
 短刀なら難なく出来ることも、脇差には難しい。だから道具に頼るしかなく、手放せなかった。
 確かに戦闘では不利益を被るけれど、これがある限り、他の刀に後れを取ることはない。
 自信を持って断言した彼に一瞬ぽかんとして、小夜左文字は直後に破顔一笑した。
「では、あなたと出陣した時は、第一にあなたの眼鏡を守るようにします」
「あー……それは、ありがとう」
 身体が傷つくより、眼鏡を失う方が困る、と思われてしまった。冗談なのか、本気なのかよく分からないひと言に顔を引き攣らせ、篭手切江はひとまず、感謝を述べた。
 できるなら守られる事がないようにしたいが、今の実力差では難しい。
 修行を終えて久しい短刀と、顕現したばかりの脇差とでは、実戦経験の差は大きかった。
 どう考えても、庇われるのは自分だ。
 頼もしい限りの短刀に鼻の頭を掻いて、彼はまだなにか言いたげな少年に首を捻った。
「なに?」
「完全に見えない、というわけでは、ないんですよね」
「うん。一応ね」
 ただ単に視力が弱いだけで、盲目なのではない。眼鏡に頼らなくても、色や形は判別が可能だ。ある程度距離を詰めれば、裸眼でも輪郭を描き出せた。
 寝起きで小夜左文字を睨んでいたのも、見えないなりに見ようとしていただけ。
 決して機嫌が悪かったわけではない。教えられてホッとして、短刀の付喪神は新たな好奇心に胸を高鳴らせた。
「だったら、どれくらいでなら、見えるんですか?」
 他の刀が相手だったら、興味を抱いても、実際口にすることはなかっただろう。
 過去に一時期とはいえ、同じ主の下にあった刀だからこそ、訊けた。
 わくわくするのを止められずにいる短刀に呆気にとられ、篭手切江は間を置いて苦笑した。
「そうですねえ」
 質問された以上、答えてやらなければならない。一瞬遠くに視線を投げて、彼は眼鏡の蔓に指を掛けた。
 ゆっくり引き抜き、左から順に折り畳んだ。硝子の表面を汚さないよう注意しつつ持って、座って待つ少年に向かって上半身を傾がせた。
 目に映る世界は輪郭がぼやけ、色が滲んでいた。大雑把な形は捉えられるけれど、しっかり見ようとすればするほど、境界線がぐにゃりと歪んだ。
 そんな中で躍起になって、眉間に皺が寄った。ぐいぐい迫る脇差の顔が稀に見る険しさなのに臆して、小夜左文字は自然と逃げ腰になった。
「ううん……」
「篭手切」
 お蔭で距離が広がって、折角見えそうだったものが遠退いた。
 喉の奥で唸った彼に短刀はハッとして、尻に力を込め、両手を膝に集めた。
 これ以上は下がらないと決意を表明し、瞼をぴくぴく痙攣させている脇差に向き直った。
「だいたい、これくらい……なら、なんとか」
 互いの前髪が交錯し、吐く息が肌を掠めた。
 額が擦れる近さまで迫られて、短刀は囁き声に騒然となった。
「こんなに、ですか」
「そう。だから眼鏡が曇る風呂場は、大変なんだ」
 ここまで近付かなければはっきり見えないとは、思いもしなかった。なんと不便なのかと驚いて、風呂場での苦労を聞いて笑いたいのを懸命に耐えた。
 眼鏡がないと視界を確保できないのに、肝心の眼鏡が曇ってなにも見えないというのは、滑稽極まりなかった。
 湯気で溢れかえる浴室では、小夜左文字でさえ視界がぼやけることがあった。
 眼鏡をしても、していなくても、なにも見えない。
 刀剣男士ごとにこうも個体差があると教わって、新鮮だった。
「手を繋いであげましょうか」
「それは助かるな」
 誘導が必要なら、手伝おう。馬鹿にするでもなく、真顔で言った短刀に、脇差は嬉しそうに相好を崩した。
 至近距離で見つめ合ったまま、どちらからともなくクスクス笑う。
 よもやその光景を第三者が眺めているとも知らず、暢気に時を過ごした。
 数百年ぶりの再会を楽しんで、昔に戻った気分で額を小突き合わせた。
 直後だった。
「うわっ」
 突然、篭手切江の視界が白いもので覆われた。側頭部にぶつかって、ぱっと広がり、黒髪に降り注いだ。
「い、た」
 弾みで頭突きを喰らって、小夜左文字が仰け反った。ごちん、と骨越しに響いた衝撃に脳を揺らし、咄嗟に右目を瞑り、左目を見開いた。
 がちゃん、と鳴ったのは、脇差の眼鏡が落ちた音だろう。割れていなければいいが、と頭の片隅で考えて、短刀は膝先に沈んだ真っ白い肌着に眉を顰めた。
 なにが起こったのか、すぐに理解出来ない。
 左右に揺れ動く視界を何とか安定させて、彼は荒い息を吐く男に視線を向けた。
 脇差部屋を前にして、打刀が仁王立ちしていた。その額に角の幻が見えて、小夜左文字は驚き、目をぱちくりと見開いた。
「歌仙」
「歌仙ですって?」
 ぶつけられた布自体は痛くなかったが、その後が少々痛かった。蹲って額を押さえた脇差は、膝から落ちた眼鏡を探し、右手を彷徨わせた。
 あれがないと、碌に見えない。配色が鮮やかな男の姿も、ぼんやり滲んで、判然としなかった。
「なにをしているんだ、君たちは」
 苦虫を噛み潰したような顔をしていたら、怒号が部屋中に轟いた。床を踏み鳴らす音が喧しく続いて、ドスン、と激しい振動が足元から襲ってきた。
 他ならぬ打刀が、畳敷きの部屋に入った証拠だった。そのままずんずん近付いて来る。殴られる未来を予見して、篭手切江は身を竦ませた。
 しかし。
「お小夜、お小夜。ああ、なんてことだ。君がこんな男に誑かされるなんて。僕のお小夜が、ああ、なんてことだ。お小夜が穢れてしまった」
 彼は派手な身振りを交え、大袈裟に嘆いた。濡れてもいない目尻を袖で拭って、よよよ、とよろめき、膝を折って崩れ落ちた。
 勝手に哀しみながら身を捩って、呆気にとられて凍り付く短刀にしがみついた。縋りつき、長い袂を引き寄せて、絶句する小夜左文字の顔をごしごし擦り始めた。
 柔らかな絹布なので肌触りは抜群だが、なにせ打刀は力が強い。
「い、たい。痛いです、歌仙。止めてください」
 摩擦に負けた皮膚が悲鳴を上げた。唇が裂ける予感に首を振って、短刀は無体を働く男を押し返した。
 ピリピリする箇所を庇い、踏み潰された白い肌着にも視線を送った。比べたわけではないのではっきりとはしないが、歌仙兼定が投げつけてきたそれは、打刀には少々小さかった。
 届けられた洗濯物をしっかり吟味した結果、脇差の分が混じっていた。
 それで届けに来たのだと察して、小夜左文字は顔面蒼白の男に眉を顰めた。
「そもそも、穢れたって、なんですか。失礼ですよ、歌仙。撤回してください」
 暴力を受ける危険が去ったと知り、篭手切江も気勢を上げた。左胸を叩いて捲し立て、乱入して来た打刀を責めた。
 だが直後、彼はビクッと身を竦ませた。振り返った男の気配があまりにも禍々しくて、圧倒されて息を呑んだ。
「な、……なんですか」
「君、たちは」
 辛うじて残った勇気を振り絞って問えば、憤怒に彩られていた歌仙兼定の表情が急に歪んだ。
 今にも泣き出しそうな姿に、脇差は短刀と顔を見合わせた。いったいぜんたい、どういうことかと首を捻って、百面相が忙しい男に肩を落とした。
「酷いよ。あんまりだ、お小夜。君まであんな低俗な、大衆向けに落ちてしまうつもりかい。僕と一緒に、雅やかな和歌の世界を広めようと、約束したじゃあないか。僕を置いていかないでくれ。君だけが僕に理解を示してくれた。君までいなくなってしまったら、僕はどうすればいいんだ」
 その歌仙兼定は、今度は両手で顔を覆い、わっと喚いた。涙こそ流していないけれど、心の中で泣きじゃくり、鼻を啜って唇を噛み締めた。
 なにやら言い始めた彼に、篭手切江は「は?」と目を丸くした。打刀がいる辺りを指差しながら短刀を見れば、小夜左文字は間髪おかずに手を横に振った。
 そんな約束、した覚えがない。
 眼差しと仕草で返事をし、脇差には見えていないと気が付いて、落ちていた眼鏡を拾ってやる。
 受け取った篭手切江は素早く装着して、大きな体を小さく丸めた打刀に頬を引き攣らせた。
「前々から思っていたんですが。歌仙と小夜って、どういう関係ですか」
「まだ分かっていなかったのか。僕とお小夜は、共に雅さを極めようと誓った、唯一無二の存在だ。貴様のような下賤な風俗に染められた奴が、口を利いて良い相手ではないぞ」
「違います」
「お小夜おお?」
 途端に打刀がガバッと身を起こし、一方的に吠え散らす。けれど最後の最後で冷たく突き放され、否定され、信じ難いと言いたげな形相で四肢を戦慄かせた。
 絶叫が部屋中に轟き、開けっ放しの障子から外へ飛び出していった。
「冗談はよすんだ、お小夜。あんなにも、あんなにも情熱的に、夜通し語り合ったじゃないか。忘れたのかい。忘れてしまったのかい。あの燃え上がるような、白熱した議論を。歌を介して想いをぶつけ合った、あの素晴らしい日々を!」
「なんのことを言っているのか、分かりません」
「そんなあああ」
 脇差が追及する、歌と踊りを組み合わせた歌唱を散々貶されたが、反論する気が失せた。
 少し可哀想になってきた短刀と打刀のやり取りに失笑して、篭手切江は肩を竦めた。

2017/11/1 脱稿

月をば見るや さへさみの神

「はい」
 名前を呼ばれた気がして、小夜左文字は顔を上げた。
 返事をし、腰を捻って振り返る。しかし呼び声がしたはずの障子に影はなく、引き手に指を掛けて入ってくるもの自体が存在しなかった。
 誰もいない。
 きょとんと目を丸くして、彼は首を捻り、立ち上がった。
 空耳を疑いつつも、確かめずにはいられなかった。本当に呼ばれたのだと、心のどこかで頑なになっていた。
 しかし障子を開けて覗き込んだ縁側にも、やはり人影は見当たらなかった。
 西日が射して、軒を支える柱の影が長く床に伸びていた。鮮やかな夕焼けが空の半分近くを埋めており、反対側からは静かに夜が迫ろうとしていた。
 塒へと急ぐ烏の鳴き声が空虚に響き、どこからともなく風鈴の音が流れてくる。
 一枚絵として充分成立する美しい景色を眺めて、短刀の付喪神は俯き、目を閉じた。
「そうでした」
 ぽつりと零し、開けたばかりの障子を閉めた。
 パタン、と左右を隙間なく合わせ、四角く区切られた格子にそっと寄り掛かった。
 そもそも彼の名前を呼んだ男は、今現在、屋敷にいない。出陣しているのではなく、遠征任務に出ているのでもなく、ましてや万屋に買い物に行っているわけでもなかった。
 馬小屋を探しても、畑を覗いても、茶室にも、どこにもいない。
 たった一振りで、己の在り様を見定めるべく、過去へと旅立っていた。
「兄様の時も、だけど」
 たかが数日、されど数日。
 じき帰ってくると分かっていても、万が一の可能性を考えると足が竦み、途端に動けなくなった。
 本丸に暮らす刀剣男士にとって、彼の不在はほんの僅かな時間でしかない。しかし過去を巡る修行の旅は、時として数百年に及ぶこともあった。
 小夜左文字はといえば、短くなかったが、長くもなかった。
 とある左文字の短刀に『小夜』という号を与えた男に寄り添い、晩年の喋り相手を務めた程度だ。
 ひとつの時代の終わりを陰で支え、ひと時代の栄枯盛衰を見送り、新たな時代の始まりを予見して、この世を去った男だ。
 なかなかに業深い男だった。戦上手で、教養深く、文化人としての評価もすこぶる高い人物だった。
 色々な話をした。戦場での武勇伝や、和歌に対する心のありようや、茶の道に対する薫陶や。
 所持する刀にまつわる逸話など、など。
 悪い男ではなかった。
 大勢の人間を手に掛け、戦に巻き込みもしたが、それ以上に多くから慕われていた。
 当時としては珍しく、長生きだった。
 戦場ではなく、床の上で死んだ男だった。
 彼を殺したのは、天だ。寿命という形で名付け親を喪った小夜左文字は、彼のための復讐を許されなかった。
 ならば自分は、この復讐に対する渇望を、どこに向けたらいいのだろう。
 考えて、悩んで、選んだのが審神者だった。審神者の目的である、時間遡行軍の討伐と歴史修正主義者の殲滅こそが、復讐を運命づけられた小夜左文字たる短刀の在り方だと、結論付けた。
 そう告げた時、審神者がどんな顔をしていたかは、覚えていない。
 たとえ拒絶されようとも、彼にはそれ以外、出来ることがないのだ。
「歌仙」
 短刀が新たにした決意に、江雪左文字は黙って抱きしめて来た。
 宗三左文字は静かに頷き、淡く微笑んだ。
 そして歌仙兼定は、少し間を置いて「そうか」とだけ口にした。
 あの時の打刀の表情は、言葉に言い表し難いものだった。笑っているような、泣いているような、怒っているような、寂しがっているような、よく分からないものだった。
 思い出すたびに違う感情が湧いてきて、どれが正しいか判断がつかなかった。仕方なく当の刀に問いかけてみたこともあったが、歌仙兼定は「忘れた」と言って、相手にしてくれなかった。
 今度は小夜左文字が、彼が得た決意を聞く側だ。
 どんな風に出迎えて、なんと言って長旅を労えばいいだろう。
 行き先は、ひとつしか思いつかない。けれど本当に、小夜左文字が思う相手のところへ行ったかどうかは、歌仙兼定が帰ってからでないと分からなかった。
 審神者には、一通目の手紙が届いていた。
 けれど小夜左文字は、それに目を通していなかった。
 彼が旅先で見た光景や、抱いた思いは、無事に帰還した後で直接聞く約束をしていた。
 何時間でも、何日でも、満足するまで語ってくれて構わない。
 だからちゃんと帰ってくるよう、約束した。
 懇願した。
 大きな掌に額を当てて、繰り返し心の中で祈った。
 大袈裟だと彼は笑っていたけれど、旅装束を整えた姿を見ただけで、小夜左文字は胸がいっぱいだった。不安で押し潰されそうで、内心は恐怖で凍り付きそうだった。
 帰って来なかったら、どうしよう。
 もう二度と会えなかったら、どうしよう。
 そういう風に考え易い性質に定められてしまったからなのか、悪い方向にばかり想像した。
 旅先で事故に巻き込まれたら。
 時間遡行軍と鉢合わせしたら。
 不審人物として捕縛されたら。
 意図せずして歴史の改変を行ってしまい、検非違使に追われる事になっていたら。
 旅先で様々な風流に触れ、歴史修正主義者との戦いなどつまらない、と刀剣男士としての役目自体を放棄してしまったら。
 それは小夜左文字が修行の旅に出ている間、本丸に残された仲間が危惧していた内容とほぼ一致した。
 何度経験しても、慣れるものではない。ましてや昔から交流がある刀なら、尚更だ。
 ほかのどの刀よりも歌仙兼定を知っているからこそ、怖くなった。
 彼は歌に傾倒し、文人を気取っている刀だが、前の持ち主の特徴を過分に引き継いでおり、その実戦好きだ。血の気が多く、短気で、気まぐれで、我が儘だった。
 口にすることは稀だが、前の主の奥方も、大切に思っていた。
 もし修行先で、あの女性の臨終の場に立ち会おうものなら、炎をかいくぐっても助けに行くのではなかろうか。
 遠く離れた地に在った前の主に代わって、自分が彼女を助けるのだと、そんなことを言い出しかねなかった。
「大丈夫、です」
 懸案事項だらけだ。彼一振りで修行に行かせるのは、本当は反対だった。
 しかしあの刀は、小夜左文字が出会ったばかりの頃のような、分別のつかない未熟な付喪神ではない。
 なにも心配は要らない。問題ない。時が来ればちゃんと帰ってくる。
 信じてやるよう自分自身に語り掛けて、短刀は読みかけの本に手を伸ばした。
 だが紙面を眺めていても、記されている文字がまるで頭に入って来ない。目が滑って、内容が全く読み取れなかった。
 同じ頁を四半刻近く眺め続けて、諦めて表紙を閉じた。
 障子の外を覗けば、西の地平線は燃えるような茜色に染まっていた。
 部屋の中がすっかり暗くなっていると、今頃認識した。短刀は闇に強く、少々の光があれば事足りる。お蔭で日没間近だというのを、すっかり忘れていた。
「そうだ。夕餉だ」
 今日はほとんど動いていないのに、時間になれば腹が減る。
 戦う道具として、人間に似た器を与えられたまでは理解出来た。しかし斬られれば傷つき、血が流れ、一定時間の睡眠を必要とし、食事を強要する必要はなかったのではと、思わずにいられなかった。
「不便だね」
 誰かと一緒にいる間は意識の外にあったことが、不意に目の前に降って来た。
 ひとり呟き、肩を竦めて、小夜左文字は夜が迫ろうとしている縁側に出た。
 左手で障子を閉め、小さな庭を挟んで向かい側の部屋を窺い見る。
 松の枝に邪魔されて半分隠れているその障子は、昨日から一度も開いていなかった。
「歌仙がいないのって、考えてみたら、初めてだな……」
 これまでにも遠征で数日帰らないことはあったが、任務が終わりさえすれば帰ってくると確定していた。
 今回は、そうではない。歌仙兼定の意志ひとつで、どうとでもなるのだ。
 陰鬱な表情を浮かべ、爪先立ちを止めた。踵を下ろし、目線を本来の高さに戻して、食事を受け取るべく台所に向かおうとした。
「ああ、小夜。よかった」
 その途中、眼鏡の脇差と遭遇した。主な設備を揃えた本丸の母屋と、刀剣男士が暮らす居住区を繋ぐ長い渡り廊の入り口で、前を塞ぐ格好で両手を広げられた。
 こちらを見るなりホッとした顔をされて、短刀は思わず眉を顰めた。何が「良かった」なのか分からず怪訝にしていたら、篭手切江は深呼吸して、左胸を撫でた。
「夕飯なので、呼びに行こうかと」
「嗚呼……」
 本丸に集った刀剣男士は、すでに七十振りを越えていた。
 拡張に拡張を重ねた居住区は二階建てとなり、部屋数は初期の倍近くになった。別々の部屋にいても気配は伝わり、日中は雑多な賑わいに満ちる空間は、知らぬうちにひっそり静まり返っていた。
 食事時になり、大半が食堂を兼ねている座敷に移動済みだった。
 そんな中で小夜左文字が姿を現さないので、心配した脇差が迎えに来てくれたのだ。
 実際のところ、短刀は自分で夕餉の存在を思い出した。けれどぼんやり過ごす時間がもう少し長かったら、まだ部屋で悶々としていたかもしれない。
 心遣いに感謝して、彼は小さく頭を下げた。衿元にやった右手をぎゅっと握って、案外平気そうな少年との距離を詰めた。
「歌仙が心配ですか?」
「篭手切は、平気そうです」
「そう見えますか?」
「はい」
 横に並ぶ直前、囁くように問いかけられた。小夜左文字は視線を動かさず、前だけを見て言い返した。
 右足を軸に身体を反転させ、篭手切江が自身を指差しながら尚も質問を繰り出す。
 ここでようやく彼を見上げて、小夜左文字は真っ直ぐ頷いた。
 この脇差は、小夜左文字や歌仙兼定と同様に、戦国大名細川家に所縁を持つ刀だ。歌って踊れる刀剣男士を自称して、日々訓練を欠かさなかった。
 歌に関する解釈が歌仙兼定とは全く合わず、その点で言い争いになることもあるが、なんだかんだで一緒に居る機会は多かった。
 その打刀が旅に出たのに、脇差は普段と変わらないように映った。
「小夜は、歌仙が心配なんですね」
 終わったと思った会話を、ぶり返された。
 回答を保留していたら、篭手切江はなぜか満足そうに頷いた。
「大丈夫ですよ」
 自分はちゃんと分かっている、という雰囲気が読み取れて、不愉快だ。なにを根拠にしてか、太鼓判を押されて、嫌な感情がむくむくと膨らんだ。
 こんなことで黒い澱みを増幅させたくないのに、うまく制御出来ない。
 はっ、と開いた口を次の瞬間には閉じて、小夜左文字は奥歯を強く噛み締めた。
 顎を軋ませ、溢れ出そうな呪詛の数々を堰き止めた。磨り潰し、飲み込んで、表にしないよう心掛けた。
 それでも、全てを押し留めるのは難しかった。
 口を噤んで顰め面を作った少年に、脇差は眼鏡の奥の瞳をスッと細めた。
「私は、小夜が修行に出ていた時の歌仙を、直接は知りませんが」
 そうして、左手を短刀の肩手前で空振りさせた。頭か、身体のどこかに触れようとしたのを寸前で止めて、行き場をなくした手は腰に押し当てた。
 視線は交錯しない。小夜左文字はちらりと彼を窺って、続きを期待しつつ、右足を前に繰り出した。
 動きを察し、篭手切江も歩き出した。歩幅を揃え、ゆっくりと、時間をかけて長い渡り廊を潜った。
「歌仙は何度か、誰もいないところで振り返ったり、立ち止まってじっと見たりしていたそうです」
 彼が語る在りし日の歌仙兼定の姿を想像するのは、とても容易かった。
「……それで?」
 美しいものや、とても珍しいものを前にした時など、あの打刀は子供のようにキラキラ目を輝かせた。
 特に面白みのない、むしろ醜悪と切り捨ててしまいたくなるものに対しても、好奇心旺盛だった。
 病葉を前にして、摘み取ってしまうのでなく、そういったものが混じる世の無常さに感嘆していた。
 華やかなものも、いつか朽ち果てる。我が世の春と隆盛を誇ったものも、いずれ滅びる運命にあると、彼は重々理解していた。
 千年の時を越えて受け継がれた刀剣だって、定期的な手入れを怠れば、錆びて使い物にならなくなる。
 三十六人を手打ちにした刀は、己が斬った首から流れる血の温もりを覚えていた。命がぱっと輝き、弾けて消える瞬間を、三十六回も目の当たりにして来たのだ。
 そのことを思い出している時の歌仙兼定は、どこかぼうっとしており、話しかけるのを躊躇させられた。
「小夜は修行中、歌仙を思い出したりしましたか?」
「…………」
 突き付けられた疑問に、短刀の足が止まった。
 二歩行き過ぎてから振り返った篭手切江に、小夜左文字は上手く答えられなかった。
 喉を覆う筋肉が痙攣し、声が出なかった。言いたいことがあったはずなのに音にならなくて、喘いでいる間に、内容自体を忘れてしまった。
 地上に在りながら溺れている錯覚を抱き、苦しくて仕方がない。口をパクパクさせるが、呼吸そのものがままならなかった。
 目に見えない蛇が身体中に絡みつき、ゆっくりと締め付けてくる。
 そんな妄想に取りつかれて、指一本動かせなかった。
 どうしてそんな事を聞くのか。そう問いたかったのだと、数秒後に思い出した。
 だが、言葉に出来ない。
 潰れた蛙のように小さく呻いた短刀に、篭手切江は淡く微笑んだ。
「実は私、さっき、歌仙の声が聞こえた気がしたんです」
「え……」
「それで、思い出したんですけど。歌仙がなにかの時に、言ってました。修業中で不在にしているはずの小夜の声が、確かに聞こえた、って」
 僅かに頬を赤らめて、恥ずかしそうに囁く。
 部屋を出る前に起きた出来事がふっと蘇って、小夜左文字は首を竦めた少年に目を丸くした。
 ぽかんと口を開き、間抜け顔で立ち尽くした。唖然としたまま瞬きを繰り返していたら、なにかを気取った脇差が、顎の輪郭をなぞるように引っ掻いた。
 耳朶を抓んで引っ張り、口角を持ち上げてニッ、と白い歯を見せた。
「おかしいでしょう?」
 それは本来、有り得ないことだ。
 歌仙兼定は審神者の許しを得て、修行に出た。本丸にはいない。彼が時間転移の門を潜り、旅立った姿を、小夜左文字はこの目でしっかり見送った。
 だというのに、障子の向こうから、或いはすぐ耳元で、彼の声がした。
 たった一日しか経っていないのに、もう懐かしくて仕方がない。胸が締め付けられ、今すぐ抱きつきたい衝動に駆られるくらい、あの男が恋しかった。
 部屋で耳にしたのは、そんな短刀の心が産み出した幻。
 事実とは異なる、空想の残骸だった。
「それって」
 ところが似たような現象に遭遇したと、篭手切江は告白した。
 あれは幻聴でなかったと信じさせる材料を提供されて、小夜左文字は驚きを隠せなかった。
 呆気に取られた少年に相好を崩し、脇差は改めて短刀の頭を撫でた。五本の指を揃え、丸い輪郭をわしゃわしゃと掻き混ぜた。
「でも、あるみたいです。堀川君も、和泉守さんが修行で不在にしている時に、何度か名前を呼ばれた気がしたって。鯰尾君と骨喰君も、お互いに、似たことがあったって、笑ってましたよ」
 呵々と笑いながら教えられても、にわかには信じられない。
 現実味が湧かないと戸惑っていたら、篭手切江の手が頭上から頬に滑り降りて来た。
 餅のように柔らかな肉を軽く捏ねて、掌全体で包み込んだ。
 微熱の範囲は、歌仙兼定のそれより狭い。宗三左文字や江雪左文字のものよりは、温度が高めだった。
 胸の奥がきゅっと窄まって、錐で衝かれたみたいに痛んだ。
 訳もなく涙が溢れそうになって、小夜左文字は目を瞑って息を止めた。
「大丈夫ですよ」
 旅先で、本丸で待つ仲間に思いを馳せた瞬間、それが本当に届いたかどうかは分からない。
 しかし付喪神が審神者によって顕現させられ、現身に宿って時間を遡るという、おおよそ非現実的な事象が実際に起きているのだ。
 遥か時代を隔てて、虚空に放った思いが天から降り注ぐことだって、絶対ないとは言い切れなかった。
「歌仙は、私たちのことを忘れたりしません」
 くしゃりと笑って、篭手切江は息んで顔を赤くした短刀の頬を軽く抓った。
 むに、と引っ張って伸ばし、パッと放して、眼光鋭く睨まれて素早く後退する。
 攻撃を警戒し、腰を僅かに落として身構えた。だが顕現して一年程度しか経っていない少年は、修行を終えて久しい小夜左文字の敵ではなかった。
「いった!」
 痛烈な蹴りを脛にお見舞いしてやれば、激痛に悲鳴を上げた脇差がその場で飛び跳ねた。
 蹴られた方の足を抱えて一本足になり、勢い余ってずれた眼鏡が落ちないよう、左手で押さえる。
 もれなく彼は体勢を崩して、渡り廊の壁に肩からぶつかっていった。
 二重の痛みに苦悶の表情を浮かべ、鼻を啜って唇を噛み締める。
「なにも蹴ることはないでしょう」
「蹴って欲しいのかと思ったので」
 棒立ちだったらともかく、構えを取ったので、攻撃してくれという意味だと解釈した。
 斜め上を突き破る理屈を捏ねた短刀に、涙を呑んだ脇差はトホホと肩を落とした。
 もとはといえば余計なことをした自分が悪いので、あまり強く言えないのが辛い。本気でなかったとはいえ、弁慶の泣き所を的確に痛打されて、痛みは当分引きそうになかった。
 ズキズキする足を庇って立ち、篭手切江は感情表現が下手な短刀に首を竦めた。
 まだ言っていない話があったはずで、数秒間を作り、瞳を泳がせた。記憶を辿り、手繰り寄せて、気まずそうにしている少年の額を指で小突いた。
 俯かず、前を向くよう無言で促し、母屋までの距離を測った。
「ええと、なにが言いたいかというと。つまり、小夜。あんまり悪い想像ばかりしていると、修行先の歌仙に聞こえてしまうかもしれませんよ?」
 事前にきちんと順序立てず、思いつくまま喋っていたから、結論が行方不明になりかけた。
 暴力沙汰で吹き飛ぶところだった内容を手元に広げて、彼は最後に右目だけをパチン、と閉じた。
 間でぐだぐだになりかけたが、なんどか綺麗にまとめることが出来た。
 あまり暗い顔をして、部屋に閉じこもるのは止めるよう提言した脇差は、しかし思ったほど短刀から反応が返ってこないのに首を傾げた。
「小夜?」
「篭手切は、そういう夢物語を信じるんですか……」
「えええー?」
 ここは「そうですね」と明るい顔をして、同意してくれるものと信じ込んでいた。
 だのに実際に聞こえたのは、些か呆れたような、侮蔑めいたものをごく少量含んだ言葉だった。
 惚けた顔で見つめられて、想定外の態度に頭が追い付かなかった。たまらず抗議めいた声を上げてしまい、短刀からの眼差しは益々冷たくなった。
 良いことを言った気でいたのに、冷や水を浴びせられた。
 そんな風に聞かれると、真面目に考えていた自分が滑稽に思えて、恥ずかしくてならなかった。
 勝手に熱を帯び、火照る顔を手で扇いだ。なにかしら言い返そうとするけれど、残念ながらなにも浮かんでこなかった。
 口笛を吹く要領で口を窄めて一旦余所を向き、みっつ数えてから向き直れば、短刀は先ほどと変わることなく脇差を見上げていた。
 空色の瞳は、太陽が沈んで闇が押し迫っている影響なのか、暗く翳ったままだった。
 平然としているようで、気もそぞろになっているのは皆知っていることだ。無理をしなくて良い、と周囲に気を遣われ、畑仕事から追い返された彼だが、それが却って良くなかったのかもしれなかった。
 忙しくしていた方が、余計なことを考えずに済む。
 だが農作業中にぼうっとして、怪我をされるのを恐れて、周りが先手を打ってしまった。
 もし失敗したとしても、大事になるのは稀だ。起きてもいないことをあれこれ案じて、道を塞いでしまったら、誰も幸せになどなれない。
 歌仙兼定だって、不在中の本丸がどのようだったか、気になるだろう。小夜左文字がどんな風に過ごしていたか、興味を示さないはずがない。
 それを、寂しがって部屋に引き籠もって過ごした、と聞かされて、彼はどう思うか。
 案外喜ぶかもしれないが、責任を感じて暗い顔をするかもしれない。
「私は、歌仙に、頼まれたんだ」
 ひとりぼそっと言って、篭手切江は拳を作った。強く握りしめ、わなわな震わせて、不甲斐ない自分を心の中で責めた。
 打刀は旅立つ前夜、珍しく部屋を訪ねてきた。月が明るく照る中で、彼はひと言、留守を頼むと言って頭を下げた。
 歌仙兼定が任せられている屋敷仕事は、篭手切江ではとても担いきれないものだ。料理は苦手だし、報告書の誤記を修正するのも不慣れなままだ。
 だから、そういう意味ではないと解釈した。あの打刀が常に気にかけ、目に入れても痛くないと感じている短刀のことだと、勝手に自分の中で結論付けた。
 小夜左文字の修行中、歌仙兼定は酷い有様だったという。
 塩と砂糖を間違え、米を墨に下。危うく火事が起きるところだったと、燭台切光忠が喋っているのを聞いた、というのを浦島虎徹から聞かされていた。
 歩けば段差に躓き、壁に正面衝突した。縁側から庭に落ち、風呂に入れば沈んで溺れかけた。
 この期間中に起こった打刀の失敗談は、数え切れない。まるで魂が抜けたような状態だったと、誰かが言っていた。
 そんな時だったという。歌仙兼定が本丸不在中の短刀の声を聞いたのは。
 もっとしっかりするよう、叱られている気分になったらしい。
 酒の席で上機嫌に語っていたこの話が本当かどうか、篭手切江には確かめる術がない。だが真実であったと、信じたかった。
「言霊を、知ってますか。小夜」
「そりゃあ、……はい」
 付喪神である彼らは、古い器物に宿った概念だ。
 刀工や持ち主、置かれた環境や伝来にまつわる逸話などの影響を過分に受けて形成された、象徴的な存在だった。
 本来、付喪神は実態を持たず、人の目に触れる機会もほとんどない。こうして現身を得て現世に降臨するのは、掟破りと言っても過言なかった。
 そうして彼らのように、実体を伴わず、見ることも触れることも能わないが、間違いなく存在するものがある。
 それが言葉だ。
 太古の昔より、言葉は力を持つものと信じられてきた。迅速かつ正確な意思疎通を可能とする道具は、天から与えられた奇跡の贈り物に等しかった。
 だが言葉は、時として相手を傷つける。
 物理的な威力は皆無なのに、腕力に訴える以上の効果を発揮した。
 勿論、傷ついた相手を癒やす力だってある。慰め、労わり、励まし、鼓舞する。言葉は様々な場面で、様々な役割を担い、八面六臂の如き活躍を見せた。
 篭手切江が好む歌は、平坦なことばに抑揚を付け、心躍る韻律に乗せることで、一度に何十倍もの元気を呼び起こしてくれた。
 ことばには、摩訶不思議な力が宿っている。そう信じるからこそ、歌に情熱を注いでいた。
 目には見えないし、存在を認識するのも難しいけれど、言葉には命がある。
 魂が備わっている。
 発信者の想いが込められたことばは、付喪神の成り立ちと相違なかった。
 では、その付喪神がことばを発したら。
 ただでさえ人々の強い思い、祈り、願い、恨みといったものが集まり、形となった存在だ。排出される言霊の熱量も、さぞかし大きなものとなるだろう。
「だから、ね。小夜。歌仙は、大丈夫なんです」
 言霊の影響を受けた側は、その意思がなくとも、耳にした通りの行動を起こしてしまうかもしれない。思考を捻じ曲げられてしまうかもしれない。
 そうと知らないうちに信念を歪められ、全く違った存在に変化するかもしれない。
 篭手切江は、歌仙兼定は心配は要らない、としか言わなかった。
 自分の発言で、修行先で頑張っているだろう男に悪い影響が及ばないよう、務めて明るく振る舞っていた。
 嫌な想像をして、酷い結末ばかり思い描いていたら、それが現実になりかねない。最悪の事態を想定するのは構わないが、そこにばかり囚われて、正しい在り様を見失うのは本末転倒だ。
 誰だって不幸を求めてはいない。
 幸福な未来を得るために出来る、一番簡単なことは、幸せが来ると信じることだ。
 躓いて転んで、ただ痛みに愚痴を零すだけでは終わるのは勿体ない。低くなった視界で、普段は見過ごしているものを発見して、そういう楽しみ方があると気付く方がずっといい。
 物吉貞宗の受け売りだが、あながち間違っていないと思う。
 自分自身に頷いて、篭手切江は小夜左文字に首を傾げた。
 反応を窺い、様子を探る。
 何度か瞬きを繰り返して、短刀は小突かれた額に手を翳した。
「……そうですね」
 一度は顔を伏し、すぐに背筋を伸ばして口角を持ち上げた。
 控えめな笑顔を向けられて、脇差の少年は渦巻いていた不安を吹き飛ばした。
「そうですよ、小夜」
 興奮を隠し切れないまま、力強く頷いた。握り拳を上下に振って、思いが通じた喜びを体で表現した。
 無駄に揺れている彼を眺め、小夜左文字はちょっと怪訝な顔をしたが、指摘はしなかった。考え過ぎで顰め面になっていた脇差が、満開の笑顔を咲かせたのに安堵して、少しだけ軽くなった胸を叩いた。
 掌で押して、拭いきれない不安を奥に押し込めた。
 屁理屈を捏ねられたが、言いたいことは理解出来た。心配して、気遣ってくれたのは嬉しくて、感謝しかなかった。
「歌仙は、大丈夫」
「はい。帰ってきます」
「そうですね。馬鹿面を引き下げて、土産話を沢山抱えて、帰ってきます」
「手厳しいですね……」
 繰り返し言って、弱気な心を鼓舞し、奮い立たせた。
 些か言葉が下品になったが、叱ってくれる江雪左文字はこの場にいない。苦笑を禁じ得ない脇差をちらりと見て、不幸な星の下に置かれた短刀はふふ、と頬を緩めた。
「帰ってきたら、美味しいもの、作ってもらいましょう」
「いいですね。小夜は何が食べたいですか?」
 長旅を終えたばかりの男を労うでなく、働かせようという意見に、脇差は反対しなかった。
 それどころか同調して、妙案だと両手を叩き合わせた。嬉々としながら質問しつつ、自分の場合はと考えて、指折り数え始めた。
「鰊の味噌漬けと、鰤大根でしょう。栗きんとんも美味しかったけど、やっぱり苺大福が一番かなあ」
「苺は、もう季節が終わってしまいました」
「そうだった。残念です」
「その代わり、桃の季節です」
「おお!」
 これまでに歌仙兼定が作った料理や菓子の数々を振り返り、特に気に入ったものを声に出す。
 旬の果物を使った甘味はその期間しか食べられず、時期を外せば欲しくても来年まで待たなければならない。代わりに違う果物が旬を迎えていると教えられて、一度は項垂れた脇差は、にわかに元気を取り戻した。
 ちょっと押しただけですぐに傷んでしまうくらい繊細な果物は、滑らかな舌触りと、ねっとりとした甘みが官能的だった。
 果汁をたっぷり含んでおり、絞って濾せばそれだけで魅惑的な飲み物に早変わり。
 冷やしたものをそのまま、がぶりと丸ごと齧るのも悪くないが、卵黄や牛乳に砂糖などを混ぜたものを添えれば、尚のこと美味しかった。
 歌仙兼定なら、あの果物をどう料理してくれるだろう。
 想像するだけで胸がときめき、ワクワクが止まらなかった。
 幸せな時間を思い描き、篭手切江は涎を垂らした。気が早いと己を戒め、眼鏡を意味なく弄り、表情を引き締めて短刀に向き直った。
「小夜は、なにを作ってもらいますか?」
 打刀が修行から帰ってくる前に、希望の品を整理して、一覧にまとめておこう。
 密かに決めた脇差に訊かれ、本丸で二番目の古参刀はふふ、と頬を緩めた。
 背中に回した手を結び、腰をとんとん、と叩きながら歩き出す。夕餉の待つ本丸の母屋は、もう目の前に迫っていた。
 置いて行かれそうになり、篭手切江が声を張り上げる。
「小夜?」
「水が多すぎてべちょべちょのご飯と、出汁の入ってないお味噌汁です」
 焦って背伸びをした彼に相好を崩し、小夜左文字は待ちきれない様子で言った。
 恐ろしく不味そうな献立にきょとんとして、脇差が目を丸くする。その表情が可笑しかったのか、短刀は藍色の髪を揺らし、楽しそうに身体を捻った。
「歌仙が、初めて作ったご飯です」
 まだ彼らふた振り以外、誰もいない本丸で。
 顕現したてで不慣れな身体に四苦八苦しながら作った食事は、お世辞にも美味しいとは言えないものだった。
 米を炊くのに必要な水の分量は手探りで、味噌汁は湯に味噌を溶かしただけのものではない、と知ったのはしばらく後のこと。
 そこから試行錯誤を繰り返し、今の歌仙兼定が生まれた。あの夜、彼が自ら作ったものを黙々と胃に流し込んだのを知っているのは、小夜左文字だけだ。
 屈辱だっただろう。しかしそこで腐ることなく、料理書を紐解きながら技術を磨き、作れるものを増やしていった彼の功績は計り知れない。
 そんな男が、修行に出た。
 旅先で己の在り様を見極め、新たな力を得て帰ってくるだろう。
 しかし歌仙兼定という刀剣男士の起点となった日の事は、どうか忘れないでいて欲しい。
「それは……とても、豪勢ですね」
 小夜左文字が大事に抱きしめている想いの一端に触れて、篭手切江が言った。
 万感の思いが込められた感想に、短刀は照れ臭そうに首を竦めた。

澪淀む天の川岸波立たで 月をば見るやさへさみの神
山家集 雑 968

2018/07/15 脱稿

葉末に菅の 小笠はづれて

 中庭の小さな池で、秋田藤四郎と毛利藤四郎が水遊びをしていた。
 下穿きだけになって、浅いところでバシャバシャ水を弾いていた。そこに鯰尾藤四郎がそろり、と忍び寄り、隠し持った水鉄砲で一撃を喰らわせた。
 甲高い悲鳴の後に、けたたましい笑い声がこだまする。
 ジジ、と羽を震わせて蝉が飛び、夏の空に吸い込まれていった。
 どこかで風鈴が鳴っていた。簾が作る影は濃く、短い。隙間を通り抜ける風は生温く、涼しさをもたらすどころか、首筋に汗を呼び込んだ。
「暑い」
 溶けてしまいそうだ。
 拭いても、拭いても止まらない汗を諦め、小夜左文字はかぶりを振った。湿気ている髪の毛を両側からぐい、と押し上げて、ただでさえ悪い目つきを一層鋭くさせた。
 睨んだところで、天候が変わるわけではない。
「ふう」
 窄めた口から息を吐き、体内の熱を追い出した。
 焼け石に水だが、なにもしないよりは良い。開き直って、彼は人気の乏しい広縁をてくてく進んだ。
 じっとしていても、動いていても、感じる暑さは同じ。
 賑やかな中庭に背を向けてしばらく行けば、鼻先に癖のある匂いが漂った。
 思わず足を止めて、発生源を探して視線を泳がせる。
 探し回るまでもなかった。左方向に迷わず目を向けて、彼は嗚呼、と肩を竦めた。
 濃い緑色をした蚊遣りの先端に、白い灰が積もっていた。熱源たる赤色は灰色の内側で燻り、じわじわと緑色を侵食していた。
 長時間の使用に耐えるよう、渦巻き型に形成されたそれは、障子を開けたすぐのところに置かれていた。
 蚊の侵入を拒みたければ、隙間風も通らないくらいにぴしっと閉めるべきだ。しかし茹だるような暑さと、蚊に狙われる可能性を天秤にかけて、前者を優先させたらしい。
 風通しを少しでも良くしようとして、開けっ放しだ。
「めずらしい」
 ほぼ全開状態の障子に手を添えて、小夜左文字は薄暗い室内を覗きこんだ。数度の瞬きで目を慣らして、部屋の主を探した。
 巨大な黒い塊は、直射日光を避ける形で丸くなっていた。半分に折り畳んだ座布団を枕にして、上にはなにも被っていなかった。
 右肩を下にして、膝は曲げて腹の近くに。右手は掌を上にして顔の横、左手は胸元に落ちていた。
 藤色の髪を濃い藍色の座布団に散らし、後頭部を縁側に向けている。
 すなわち、小夜左文字の位置からでは表情が見えない。
 ただ反応がないところから、寝ていると思って間違いなかった。
 朝早くに起きて食事の準備を手伝い、いつも通り片付けまで終わらせて、ひと休みといったところだろうか。
 昨日、蜂須賀虎徹らと万屋へ行く約束をしていたはずだが、どうなったのだろう。夕餉の席でたまたま耳にした会話を思い出して、誘われていない短刀は首を傾げた。
 午後からなら良いが、午前中だったら不味くはないか。
 交友関係がさほど広くない打刀を案じて、彼はそろり、敷居を跨いだ。
 風鈴の音がして、僅かに遅れて風が通った。軒下に吊された簾が一斉に揺れて、広縁に散る影が躍った。
 すうっと熱が流れていく。
 細く立ち上っていた蚊遣りの煙が掻き消され、大きく育った灰が受け皿に落ちた。
 その灰の量と、位置で、火が点されてからどれくらい経過しているかの予想がついた。
「牛になっても、知りませんよ」
 そうっと囁き、小夜左文字は打刀の足元に回り込んだ。音を立てないよう細心の注意を払って、慎重に膝を折り、身を屈めた。
 腰を下ろして一旦正座してから、両手を前に出し、四つん這いになった。
 姿勢を低くして、歌仙兼定に顔を近づけた。暗くて見え辛かったけれど、覗き込んだ男はすうすう寝息を立てていた。
 長い睫毛が瞼を縁取り、左右とも同じ方向を向いていた。唇は薄く開かれ、弛緩した表情からは凛々しさが消えていた。
 戦場で見せる荒々しさはどこへ行ったのか、幼い子供そのものだ。立派な体格に見合わない素顔を垣間見て、小夜左文字はふっ、と鼻から息を漏らした。
 声を立てて笑いたいのを我慢して、ゆっくり姿勢を戻した。踵の上に尻を置いて座り直し、この後どうしようか迷って、「ん」の字に身体を曲げている男を眺めた。
 苦しそうな姿勢だが、寝顔からして辛いと感じていないらしい。袴の裾は若干乱れており、寝ながら足をバタバタさせたのが窺えた。
「雅じゃないですよ」
 踝だけでなく、脹ら脛まで見えていた。もう少しで膝小僧がちらりと顔を出すところで、短刀は呆れ混じりに呟いた。
 打刀の口癖を真似て、撓んでいる布を引っ張った。肌の露出を極力減らして、小夜左文字は満足そうにうん、と頷いた。
 足が大きく出ているか、そうでないかだけでも、印象は随分と違った。
 こちらの方が彼らしい。普段からなにかと重ね着の男に相好を崩して、短刀自身は内番着の衿を引っ張った。
 胸元を広げて風を通し、首筋を伝った汗を布に吸わせた。静かに、深く息を吐き、吸って、障子越しの日差しの変化を楽しんだ。
 影は一定せず、常に動き回っていた。誰かの笑い声がこだまする。屋敷で飼育している鶏のけたたましい鳴き声が、こんなところまで響いていた。
「誰か、蹴られたかな」
 鶏小屋の掃除をするのは、厩を掃除するよりずっと大変だ。
 攻撃的な雄鶏が多いし、卵を抱く雌鶏も気性が荒い。鋭い嘴で突かれると、三日は痣が消えなかった。
 そこいらの時間遡行軍より、余程強いのではなかろうか。
 傷つけないよう捕まえるのは、存外に大変だ。しかも向こうは、こちらの気遣いなど素知らぬ顔で突進してくるから、尚厄介だった。
 無意識に古傷をなぞり、左手首に指を這わせた。
 つう、とほんのり日焼けした肌をなぞって、肘の手前で引き返した。
「歌仙」
 打刀はすやすやと眠り、目覚める気配がない。起こすのは可哀想かと思ったが、昼餉まであと半刻を切っていた。
 寝すぎると、夜に起きていられなくなる。これから慌ただしくなるというのに、準備が進んでいるとも思えなかった。
 部屋の中は相変わらず散らかって、多くの物で溢れていた。
 書庫から借りた書物が、文机の横で塔になっている。畳の上に荷物を入れる小さな柳行李が転がっているのが、唯一の旅支度だった。
「後で泣くことになりますよ」
 忘れ物をしても、取りに戻るのは叶わない。
 折角の旅路が嫌な思い出で彩られることのないよう、祈らずにはいられなかった。
「歌仙?」
 小声で説教して、様子を窺うけれど、反応は変わらなかった。
「んん……」
 それどころか小言を拒むように唸られて、小夜左文字は力なく肩を落とした。
「あなたまで、千代金丸さんの影響を受けなくとも」
 最近加入した刀剣男士はのんびり屋で、独特の雰囲気を持つ刀だ。戦を嫌っているところが共通していると、江雪左文字は珍しく興味を示していた。
 ようやく理解しあえる刀が現れたと、兄刀は嬉しそうだった。彼らは色合いもどことなく似通っており、並んで座られると、一瞬どちらがどちらなのか、分からなくなることがあった。
 そんな太刀は、あまり時間を守らない。
 刻限が過ぎていようと焦らず、急かされても聞く耳を持だなかった。
 お蔭でへし切長谷部の機嫌が、ずっと悪い。
 そのうち胃に穴が開くのでは、と言っていたのは宗三左文字だ。
 歌仙兼定まで、へし切長谷部の胃を攻撃しなくても良い。
 嘆息し、遠くを見て、小夜左文字は再び右手を前に伸ばした。
 這うように進んで、男に一層近付いた。畳に放り出された打刀の右手は、手首に対して左に傾き、指先は緩く曲がっていた。
 人差し指から小指まで、四本が綺麗に並んでいた。親指は少し離れた場所から、人差し指に寄り掛かっていた。
 掌は分厚く、少し固い。爪は短く、丸く形作られていた。
「大きいな」
 節くれだった指は長く、しなやかだ。刀だけでなく、筆や、包丁を握って、毎日休むことなく働く指だった。
 昔は、もっと小さかった。
 真ん丸で、触ると柔らかかった。ぷにぷにした弾力が心地よくて、意味もなく弄っては、嫌がられた。
「こんなに、……違うんだね……」
 首を伸ばし、右手を追随させた。左腕で体重を支え、利き手を広げて重ねあわせた。
 中指の先を揃えれば、小夜左文字の手は男の掌中程までしかなかった。
 逆に手首の位置で合わせれば、爪先は男の掌を辛うじてはみ出す程度だった。
 厚みも、太さも、広さも、なにもかもが違う。
 触れ合わせた肌は、しっとり汗ばんでいた。もしかしたら、濡れていたのは小夜左文字の手かもしれない。だが互いの熱が交差するうちに、湿り気は双方に等しく広がって行った。
 目を閉じれば、鼓動が聞こえてくるようだった。
 息遣いをすぐ近くで感じた。大きさがまるで異なる掌を通じて、色々なものが流れ込んできた。
「之定」
 暝目したまま、懐かしい呼び方で彼を呼んだ。
 それに応じるかのように、力の入っていなかった男の手が、前触れもなくきゅっと縮こまった。
「っ!」
 握られた。
 幼い子供の手が、大人の手にすっぽり包まれた。咄嗟に取り返そうと足掻くけれど、僅かに遅く、果たせなかった。
「起きて……」
 ひやりとした汗を背中に流し、見開いた眼に男の蒼い双眸を映し出す。
「んん? ふぁ、ああ~……」
 歌仙兼定は返事の代わりに大きな欠伸をして、瞬きを数回繰り返した。
 最初ぼんやりしていた瞳は、徐々に輝きを取り戻した。睫毛を何度も上下させて、枕にしている座布団の上で緩く頭を振った。
「なんだ、お小夜か。どうしたんだい」
 そこにいるのが誰であるかを確認して、紡がれた言葉は平常通りだった。上擦ったり、焦ったりする様子もない。穏やかで、落ち着いていた。
 寝ぼけてはいなかった。覚醒は一瞬で済まされ、見苦しく取り繕ったりしなかった。
「いえ。ちょっと、様子を見に来ただけです」
 部屋を訪ねたことに、深い理由はない。たまたま通りかかっただけだが、意識しないようにしていただけで、ずっと気にしていたのは嘘ではなかった。
 それらしいことを口にして、捕まったままの利き手を軽く揺らす。
 合図を送ったつもりだったが、歌仙兼定は気付いてくれなかった。
「そう。……進めてはいるつもりなんだが」
「あまり時間、ないですよ」
「分かっている。分かってるさ、それくらい」
 目覚めて早々に説教されるのは、嬉しいことではない。
 口うるさい短刀を制し、打刀は声を荒らげた。苛立ちをひと息で吐き出して、頭を浮かせようとして、すぐに止めて腹から力を抜いた。
 畳に転がり直して、天井を仰ぎ、瞳だけ小夜左文字の方へと移した。
 遠目に様子を窺われて、幼い外見をした刀は頬を緩めた。
「大きくなったんですね」
「うん?」
 何気なく呟いたひと言は、歌仙兼定には要領を得ないものとして響いた。
 何を指してのことか分からず、太くて短めの眉を顰めた。右の瞳を眇めてまじまじと小夜左文字を見詰めて、視線の誘導を受けて自身の右手に意識を向けた。
 今の今まで、手を繋いでいると認識していなかったらしい。
「すまない」
 教えられて初めて知ったと、彼は五本の指を解いた。閉じ込めていた小振りの手を、放り投げるように解放して、後からおずおず近付いてきた。
 指の背でコツン、と甲に触れられて、大胆なのか、臆病なのか分からない態度に目尻を下げる。
「いいえ」
 別に痛かったわけではない。驚いたが、不快ではなかったと告げて、小夜左文字は改めて男の手に手を重ねた。
 どう頑張ったところで、大人と子供の手だった。
「なにをしているんだい」
 大きさを比較する意味が、打刀には見いだせない。
 不思議そうに首を傾げられて、小夜左文字は疲労を訴えていた左腕を前に滑らせた。
 べしゃっとうつ伏せに倒れ込んで、目を丸くした男の綺麗な顔を至近距離から覗き込む。
「昔は、僕の方が大きかったのに、って。思ってただけです」
 その間も、右手は極力男の利き手に被せ続けた。位置がずれた時はすぐさま元通りにして、互いの体温を分け合った。
 寝転がった短刀に言われて、歌仙兼定は一瞬目を大きく見開いた。驚いた顔をして、すぐに頬を緩め、嗚呼、と細く息を吐いた。
「あれから、どれだけ経っていると思ってるんだい?」
 緩慢に頷き、冗談交じりに囁く。
 若干認めがたい事実を突き付けられて、小夜左文字は小鼻を膨らませた。
「僕は、ほとんど変わってませんが」
「縮んだ?」
「歌仙が伸びたんです!」
「いたた、た、痛い」
 いつになく低い声で文句を言ったつもりだが、茶化された。
 馬鹿にされて、許せない。一旦は引っ込めた怒りを三倍にして、彼は重ねた手の、広々とした指の股を思い切り抓った。
 河童なら水掻きがついている場所を、容赦なく抉った。爪を立て、力任せに捩って、男から悲鳴を引き出した。
 鍛えるには不向きな場所を攻撃されて、歌仙兼定は左手でバンバン畳を叩いた。涙目で短刀を振り解こうと暴れて、解放された後は息も絶え絶えだった。
 くっきり残る半月型の跡に息を吹きかけ、恨めしそうに見つめて来るが、小夜左文字は謝らない。
「八つ当たりは、よくない。お小夜」
 奥歯をカチカチ噛み鳴らして、怒鳴りたいのを堪えて打刀が言った。
「今すぐあの頃の大きさになったら、許してあげます」
「無茶を言わないでくれ」
 直後に不貞腐れた声で言い返されて、苦笑を通り越して呆れるしかなかった。
 肩を竦め、彼はまだジンジン痛む指を撫でた。少しずつ薄くなる爪痕を労わって、臍を曲げてしまった少年を指の股から覗き見た。
 小夜左文字は見られているとすぐに悟って、頬の膨らみを大きくした。陸に揚げられた河豚になり、やがてぷすーっと息を吐いた。
 威嚇し続けるのに、疲れたらしい。気が済んだだろう彼に手を伸ばして、歌仙兼定は餅のように柔らかな頬を軽く抓んだ。
 直前まで膨らんでいたから、驚くほどよく伸びた。
「やめてくらはい」
「仕返しだよ」
「六百年前のことじゃないですか」
 感触を楽しんでいたら、手を打たれた。嫌がって逃げたがる彼を許さず、むにむに揉み続けたら、いやに大きい数字を出してこられた。
 打刀的には、指の股を抓られた分の仕返しだった。
 けれど小夜左文字は、そうでなかったらしい。
「ん?」
 訳が分からなくて、手が止まった。その隙に逃げ遂せた短刀は、素早く身を起こし、尻をぺたんと畳に落とした。
 肩で息をして、物言いたげな眼差しを投げて来た。
 彼が言っているのは、遠い昔、歌仙兼定がまだそう名付けられていなかった頃のことだ。之定のひと振りとして細川の屋敷に入り、使い勝手が良い刀として重宝されて、幾人かの血を吸ううちに付喪神としての力が発露した。
 産まれたばかりの付喪神は未熟で、弱々しく、形もあやふやだった。
 大きな体躯を維持するのは叶わず、人間の子供を真似るのがやっとだった。
「……六百年かかったんだよ」
 屋敷には多くの付喪神が在った。けれど子供の姿をしているものは、さほど多くなかった。
 だから之定のひと振りは、背格好が近く、同じ刀の付喪神だった小夜左文字に付き纏った。構ってもらおうと躍起になって、朝から晩まで後ろを追いかけた。
「ちゃんと、指は五本ですね」
「そんなことは、忘れてくれていい」
 上手く人型を保てず、指も四本になったり、六本になったり。
 足が三本あったこともある。古い話を持ち出してこられて、歌仙兼定は真っ赤になった。
 今度は彼がぷんすか煙を噴き、口を尖らせて拗ねた。小夜左文字は声なく笑って、三度、男の手に掌を置いた。
 その華奢な手を、男の手が包み込んだ。丁寧に引き寄せて、自分からも距離を詰めて、肘で支えて上半身を僅かに浮かせた。
 首を前に倒して、目を閉じることなく待ち構える短刀の唇に唇を寄せた。
 睫毛が擦れ合うほどの近さで見詰め合って、口を吸ったまま息を吐いた。
「……っ」
 小夜左文字の舌がびくりと動いたが、外に飛び出しては来なかった。
 歌仙兼定も深追いはしない。頬とは違う柔らかさを確かめて、満足して引き返した。
 少しの間、沈黙が流れた。
 代わりに外で騒ぐ声がして、歌仙兼定の部屋の前を駆け足で通り過ぎて行った。
 畳に寝転がるふた振りの存在に、彼らが気付いた様子はない。直前になにがあったのかも、当然知るわけがなかった。
 遠ざかる足音を拾って、打刀はふっ、と四肢の力を抜いた。掌ではなく、小指で短刀の小指を攫って、折り曲げた関節の間に閉じ込めた。
 しばらくそうやって、ふた振りしてじっと息を殺し続けた。
 蝉の声が複数重なって、簾の向こうでは白い雲が幅を利かせていた。空の青は他の季節より濃く、日差しは眩しかった。
 それらに背を向けて、小夜左文字が一瞬、泣きそうに顔を歪めた。
 表情の変化に、どのような心理が働いたのか。判断材料の乏しさに唇を噛み、歌仙兼定は目を細めた。
「お小夜」
 腹から絞り出した声に触発されたか、短刀が口を開いた。
「之定はあれから、……どうしてましたか」
 質問の意味を一瞬取りあぐねて、打刀が渋面を作る。
 瞳を上向かせて考え込む素振りに、聞いた方が「あ」と吐息を漏らした。
「その、……」
「買い戻される前の、ということかい」
 言い難そうに口篭もった彼に、心当たりを探り当てた男が呟いた。
 言葉が足りなかったのを素直に反省して、小夜左文字はコクリと頷いた。
 彼らは同じ屋敷で共に過ごしたことがあるが、ずっと一箇所に留まっていたわけではない。先に小夜左文字が売られていき、之定のひと振りも一旦外に出た。
 時代が移り、刀剣を取り巻く環境が大きく変化した時、彼は細川の屋敷に戻った。歌仙兼定という号と、瀟洒な拵えを伴って。
「あまり覚えてないな」
 審神者の力で本丸に顕現してから、恐らく初めての質問に、打刀は短く答えた。
 彼方を見て、口を噤んだ。記憶を手繰ろうとするけれど、引き寄せたものは暗闇に沈んでおり、触れようとしても掴めなかった。
 なにもない場所をひたすら掻き回すだけで、徒労に終わった。ひとつも浮かんで来ない。空っぽだった。
 小夜左文字が屋敷からいなくなり、取り残されたという気持ちでいっぱいだった。多くの付喪神が慰めてくれたけれど、心のよりどころとしていた相手の不在は、思いの外堪えた。
 色鮮やかだった景色が急に褪せて見えて、面白みを感じなかった。
 ただ過ぎていくだけの時間に関心が抱けなくて、引き籠もり、閉じこもった。
「でも、ああ……不幸では、なかった」
 下げ渡された時も、なにも思わなかった。
 愛しい短刀がいない場所に居座っても仕方がない。へし切長谷部のような反発は欠片もなく、持ち主の命令には素直に従った。
 長い、長い眠りに就いていたら、急に辺りが騒がしくなった。
 目を開けたら、かっての主の面影が、ほんの少し感じられる男性の掌中に収まっていた。
 大事にされていたのだろうと、懐かしそうに撫でられた。
 語れるような思い出は、さほど多くない。しかし不幸ではなかった。慈しまれ、敬われ、丁寧に手入れされてきたのだから、そこは疑う余地がなかった。
「お小夜は……」
「長くなりますから、今度にしましょう」
 自分のことを語っていたら、相手のことが気になった。
 話を振ろうとしたのだが、やんわりと拒絶された。上手い具合に逃げられて、歌仙兼定はむすっとしながら、短刀の目元を撫でた。
 そこにある傷は、打刀の古い記憶には存在しない。
 手や、足に残された傷の中にも、覚えがないものが含まれていた。
 どうしてそうなったか、小夜左文字は決して語ろうとしない。
 それだけ、苦労があったということだ。艱難辛苦の時代を経て、彼はこの本丸に辿り着いた。
 願わくは、彼の傷が今より増えることのないように。
 密かに祈って、打刀は重い身体を起こした。
「ん~……」
 両腕を真っ直ぐ頭上へ伸ばし、横になっている間に凝り固まった筋肉を解した。肩をぐるっと回して関節を鳴らし、肺の中を一度空にした。
 新鮮な空気で胸を満たし、新たな気持ちで短刀を見る。
「行ってくるよ」
「はい」
 清々しく告げた彼に、小夜左文字は頷いた。膝を揃えて座り直して、急にもじもじし始めた男に首を捻った。
「歌仙?」
 先ほどまでの堂々とした佇まいから一変して、落ち着きがなくなった。
 怪訝に眉を顰めた少年をちらちら盗み見て、打刀は頬を爪で掻いた。ぐーっと後ろに身体を反らした後、勢いつけて前のめりになった。
 どん、と畳に両手を突き立てて。
「お小夜は、その。見送りには」
 口をもごもごさせながら切り出した彼に、小夜左文字はすぐに嗚呼、と頷いた。
 修行に出る際は、ひと振りだけ、門前での見送りが許されていた。
「行きませんが」
「そうか、よかっ……――えええ、どうして!」
 その役を引き受けて欲しそうな男に、さらりと断る。
 当然快諾してもらえると思い込んでいた歌仙兼定は、素っ頓狂な声を上げて目を丸くした。
 顎が外れそうなくらい口をぽかんと開いて、間抜け面が滑稽だった。思わず吹き出しそうになって、短刀の付喪神は咳払いで誤魔化した。
「僕の時、来なかったじゃないですか」
「行ったさ。決まっているだろう」
「いましたか?」
「木立の陰から、しっかり見守っていたさ」
 小夜左文字も以前、本丸を留守にした。己の在り様を見極めたくて、過去へと跳んだ。
 見送りは、江雪左文字だった。言葉は少なかったが、信じて待つと言われて、嬉しかった。
 出発の日取りが一度延期になったこともあり、他の刀たちよりもどたばたしていた。歌仙兼定は最後まで姿を見せなくて、宗三左文字はそれをかなり怒っていた。
 当時を思い出すと、胃の辺りがむかむかした。
「そういうの、見送りって言いません」
「ふぐう」
 ここに来て新たな事実が判明した。思っていたのよりももっと悪い、と繰り出した鉄拳は、躊躇なく男の頬に食い込んだ。
 本気ではなかったが、それなりに痛かったはずだ。
 旅立ちを目前に控えた打刀の頬が、左側だけ赤くなった。誰もが何があったか邪推して、ひそひそ話を繰り広げる造形だった。
「しょうがないじゃないか。お小夜が、もし……」
 ひりひりする箇所を撫で、歌仙兼定が言葉を濁らせた。
 尻窄みに声が小さくなり、実に男らしくない。挙げ句に途中で言葉を切って、口を噤んで俯いた。
 鼻を啜る音が大きく響いて、小夜左文字は盛大に肩を落とした。
「僕は、帰ってきました」
「分かってるさ」
「でもやっぱり、僕は見送りには立てません」
「どうして」
 あの日の別れが、打刀の中で大きな傷となって残っている。
 数百年が経とうと、こうして毎日顔を合わせて言葉を交わそうと、それが癒える日はやってこない。
 不毛なやり取りを続けるのは疲れるだけで、短刀は話題を戻した。しつこく食い下がる男の手を両手で挟み持って、膝に置き、顔を伏した。
「僕だって、……苦手なんです」
「お小夜?」
「どうせなら、行ってらっしゃいより、お帰りなさい、の方が。僕は、好きです」
 歌仙兼定なら旅路を楽しみ、満喫して帰ってくる。全てを投げ出し、出奔するなどあり得ない。
 信じている。疑っていない。土産話を沢山抱えて、にこやかな笑顔を浮かべて暢気に笑ってくれるはずだ。
 それでも、門を出て行く背中を見送るのは苦手だ。
 万が一、億が一を懸念して、追い縋りたくなる。行かないで、と叫んでしまいそうで、それが一番嫌だった。
 復讐とは即ち、執着だ。彼の逸話がもたらす感情は、憎悪だけとは限らない。
 それは確実に、歌仙兼定に良い結果をもたらさない。不幸を呼ぶのが分かり切っている。だから見送りに出ないのが、最善の策だった。
 胸の奥底で渦巻く感情の一部を吐き出して、多少なりともすっきりした。
 左胸をとん、と軽く叩いて顔を上げた短刀は、些か驚いた風に目を点にしている男を見詰め、首を竦めた。
「ここで、待ってます」
 小さく舌を出し、それで許してもらえるよう懇願した。
 広い敷地を持つ本丸の、無数に部屋がある屋敷の、ただひとつの部屋で。
 帰ると信じる男を、ひとり待つ。
 その健気さに、歌仙兼定はぞわっと鳥肌を立てた。僅かに遅れて震えが来て、彼は咄嗟に自分の右手を押さえ付けた。
 意図せぬ動きをしないよう、枷を嵌め、急激に速まった鼓動に脂汗を流した。乾いた咥内に唾液を招き、ごくりと音立てて飲み込んだ。
 下唇を舐め、肩で息をして、食い入るように短刀を見る。
「……分かった」
 それだけ言うのが精一杯の男に、小夜左文字は苦笑を漏らした。
 雅でないと言われている、歯を見せる笑顔を浮かべ、照れ臭そうに頬を赤らめた。
「お小夜、今宵は――」
 あまりの愛らしさに、打刀の理性がぶちっと千切れる。
 ついに箍が外れて声を張り上げたところで、広縁側でガサゴソ音がした。
「あ~、ごほん」
 非常にわざとらしい咳払いまでして、宙に浮いた男の手が凍り付いた。
 首をギギギ、と回して、身構えた短刀から視線を移した。興奮で赤らんでいた肌を一気に白くして、歌仙兼定は申し訳なさそうにしている蜂須賀虎徹を涙目で睨んだ。
「すまない。取り込み中だったな」
 万屋で買ったと分かる荷物をぶら下げて、虎徹の真作が頬を引き攣らせた。
 恐縮し過ぎて、腰が引けていた。笑顔は引き攣り、不格好だった。
「長旅で役に立ちそうなものを、適当に見繕っておいた。お代は要らない。それじゃあ、歌仙。失礼するよ」
 早口に用件を言って、袋を障子のすぐ前に置いた。蚊遣りの灰がぼとっと落ちて、揺らいだ煙が真っ直ぐになるより早く、蜂須賀虎徹は去って行った。
 バタバタと遠ざかる足音を追いかけ、歌仙兼定の首が動いた。
 ちょっと不気味な姿に冷や汗を流して、小夜左文字は惚けている男の頬を、手の甲で軽く叩いた。
「まずは、旅支度です。歌仙」
 片付けと、整理と、選別で嫌になって、昼寝に逃げている場合ではない。
 持って行ける荷物は限られている。経験者として厳しい眼差しを投げかけて、短刀は放り出されていた柳行李を引き寄せた。
「無茶を言わないでくれ、お小夜」
 そんな小さな箱に、どうやって収まり切ると言うのだろう。
 苦言を呈した打刀だが、無視された。いっそ荷車を引いて行きたい、との意見も却下されて、歌仙兼定はがっくり肩を落とした。

旅人の分くる夏野の草茂み 葉末に菅の小笠はづれて
山家集 夏 237

2018/07/14 脱稿

草木もなびく あらしなりけり

 ひらり、はらりと木の葉が舞っていた。
 風を受け、自然と枝から切り離されたのではない。なにかしらの意図を感じる動きを確かめて、小夜左文字は頭上にやった視線を戻した。
 正面に向き直り、木々が密集している一帯に意識を集中させる。
 ひゅっ、と旋風が奔った。ふわりと前髪が浮き上がって、短刀の付喪神は目を細めた。
 口を窄めて息を吐き、慎重に間合いを詰めた。気付かれないよう気配を消し、万が一に備えて体勢を低くした。
 忍び足で少し進んで、視界を遮っていた椎の木を回り込む。
 木漏れ日が頬に触れた。
 息を殺して木の根に身を寄せた彼の瞳に、晴れやかに舞う黒い外套が映った。
 ふわりと大きく膨らんで、華やかな牡丹が露わになった。しかし見えたのはほんの一瞬だけで、すぐに重い布の内側に隠れてしまった。
 銀杏で裾を飾る赤い草摺りが空を叩き、僅かに遅れて灰鼠色の袴が前方に駆けた。膝の裏の輪郭がはっきり現れたかと思えば、ゆとりのある襞によってすぐに覆われて、今度は膝頭の輪郭がくっきりと見い出せた。
 爪先の反り上がった沓が地面を踏み、枯れ色の落ち葉を蹴散らした。滑らないよう、踏ん張りを利かせて持ち堪え、ぐっと低くした姿勢を前方へと伸ばした。
「はああっ!」
 気合いの一声を放ち、歌仙兼定が虚空目掛けて刀を振るった。
 前に出る勢いを利用し、利き腕を横薙ぎに払う。銀の閃光が一直線に駆け抜けて、反射する木漏れ日が真っ二つに切り裂かれた。
 僅かに遅れて、ゆらゆらと落ちる木の葉が中ほどでぱっくり割れた。
 綺麗な二等分とはいかなかったが、断面は鮮やかだ。そして木の葉は斬られたと気付かないまま、横並びになって地面へと沈んで行った。
 見事な一撃に、拍手を送りたくなる。
 それをぐっと我慢して、小夜左文字は剣戟を止めない男に視線を戻した。
 地面に這い蹲って、汗を流す打刀の一挙手一投足に見入った。彼は木の葉を断ち切った後も手を休めず、すぐさま反撃を警戒して後方に下がった。
 ただ周辺に、彼以上に動くものはない。
「せや!」
 雄叫びを上げ、歌仙兼定が身体を捻りながら袈裟切りに刀を振り下ろした。
 片腕で振り抜き、瞬時に上へと切り返した。切っ先を突き付け、襲い来た幻の敵の顎を砕いた。
 打刀の目には、次々と襲来する敵の姿が見えていた――休む暇を与えず、数に物言わせて刀剣男士を圧倒する時間遡行軍の姿が。
 それとも。
 突き上げた腕を即座に後方へ向けて、藤色の髪の男が身体を反転させた。
 利き足を強く踏み出し、ダンッ、と地震が起きそうな勢いで踵を地面に叩きつけた。
 背後を狙った敵の刃を弾き飛ばし、切り返しが間に合わないと悟って即座に柄頭で敵の腕を打つ。左足を高く掲げ、右足を軸に鋭い蹴りを繰り出して、力技に怯んだ敵を跳ね飛ばす。
 足首で打つのではなく、踵を叩きこんだ風に見えた。
 転がすのではなく、吹っ飛ばすのを前提とした動きだった。
 文系を気取っているくせに、戦い方は荒っぽい。しかし太刀筋は洗練されており、歪みがなく、美しかった。
 迷いなく、躊躇なく、敵を確実に倒すのに最短で、最適な手段を選択している。
「でええい!」
 道場での鍛練ではあまり聞くことのない雄叫びは、それだけ真剣に、必死に取り組んでいる証しだ。
 屋敷にある道場は、誰でも出入りが出来る。討ち合いの稽古も見学自由だった。
 誰かに見られるのを意識して、『歌仙兼定らしい』動きを優先させると、どうしても本気になれない。喚き散らしながらの剣戟は見苦しく、雅ではないというのが、彼の言い分だった。
 だからこうして、ひと振りきりでこっそり修練に励んでいる。
 みっともなく叫びながらでも、誰も笑ったりしないというのに。
「不器用な子」
 見栄えを気にしている場合ではなかろうに、その一点がどうしても譲れないらしい。
 ぼそっと心からの感想を述べて、小夜左文字はもぞりと身じろいだ。
 腹這いだったのを改め、上半身を起こした。木の幹を盾にして、一心不乱に仮想的と斬り合う男を窺い続けた。
 大きくはためく外套が肘に絡まり、左腕が思うように前に出せない。
 実戦でも起こり得る事態に陥って、歌仙兼定は咄嗟に左足を横に突き出し、滑らせた。
「っく」
 ズザッ、と積もった木の葉が土くれごと飛び散った。
 地面を抉り、強引に体勢を低くして一撃を避けたのだ。わざと不利な体勢に陥ったが、目標を見失った敵の足を即座に払う事で、状況を五分五分へと強引に引き戻した。
 跳ねた土が打刀自慢の衣装に飛び散り、頬にも黒いものが貼りついた。首筋に光るものがあり、形を歪めて襟足へと駆け抜けていった。
 藤色の髪が軽やかに舞い踊り、紫紺の袖が空を叩いた。
 邪魔と判断したのだろう、左手がその中ほどを押さえつけた。摺り足で後退して、死角にあった木に右肩をぶつけてハッと息を吐いた。
 集中力がぷつん、と切れる音がした。
 雑木林の中での鍛練を選んだのは、不安定な足場、且つ規則性のない狭い空間、というふたつの条件が重なっているためだ。
 戦場が常に大きく開けた、平らな場所で起きるとは限らない。だから最悪の状況を想定して、これに対処できるよう構えておくのが、あらゆる時代を遡る刀剣男士としての務めだった。
 避けられたはずだ。
 しかし目測を誤った。
 大きく見開かれた眼が、歌仙兼定の心境を物語っている。ここが本当の戦場だったら、彼はあの一瞬で斬り伏せられていた。
 骨が剥き出しになるくらい深く傷を負った自身を想像しているのか、打刀の顔色は青白かった。荒い息を吐き、肩を上下させて、懸命に呼吸を整えていた。
 左手を額にやり、右腕を下ろした。
 抜刀したまま棒立ちになって、天を仰ぐ。徐々に首の角度を変えて、俯き加減になったところで、目元を覆っていた手を外した。
 惚けていた眼は、輝きを取り戻していた。
 失敗を反省し、対処方法を模索して、二の轍を踏まないよう戒める。
 ぶつぶつ言っているが、言葉は聞き取れない。両手で刀を握り直して、歌仙兼定は再び構えを取った。
 仕切り直しだ。切り替えの早さに心の中で拍手して、小夜左文字は息を飲んだ。
 刀を正眼に持ち、打刀は静かに目を閉じた。切れてしまった集中力を取り戻そうとしているのか、その状態でしばらく動かなかった。
 真一文字に口を引き結び、表情に緩みはない。
 いつ動き出すか予測がつかなくて、小夜左文字は瞬きする機を見い出せなかった。
 物言わぬ木と同化して、打刀を邪魔しないように心掛けた。
「ふっ!」
 やがて、男が鋭く息を吐いた。
 奥歯を強く噛み締め、唇を震わせた。振り下ろした刀の動きは不自然なまでに小さく、随分と低い位置に狙いを定めていた。
 脇を締め、振り切ると同時に後ろに下がる。反撃を防ぐべく刀を上、下、上、右、と小刻みに移動させて、仮想敵が一旦間合いを取り直そうと離れた隙を狙い、一気に前に出た。
 突きに始まり、飛び退いた敵を追って切っ先を返した。休む暇を与えない連続攻撃を繰り出し、壁際と仮定した木の手前で勢いを緩めた。
 自身の腰の高さで一閃し、一回転して胸元の高さへと柄を叩きこむ。足元に沈んだ敵を踏みつけにして、地面に串刺しにする手前で刀を引いた。
 腕を振り抜きながら後方に跳んで、下段に構え直した上で素早く前に出た。一気に距離を詰め、打ち払う。腰を捻り、避けた敵の無防備な頸を肘で粉砕する。
 動けなくなった敵を盾代わりにして、新たな攻撃を防いだ上で余裕綽々とその首を刎ねる。
 先ほどよりもずっと、攻撃の間隔が短かった。
 連撃を食らうのを想定し、守りに重点を置きつつ、着実に仕留めて行った。自慢の膂力に物言わせて、刀で戦うことに拘っていなかった。
「ふん!」
 風圧で落ち葉が爆散した。それを煙幕として利用して、敵を躱して高く跳ぶ。
 少し先で着地したところで刀を顔の横に掲げ、致命傷狙いの一撃を防いだ。首を守り、目にも留まらぬ乱撃を立て続けに捌いた。
 歌仙兼定ひとりが駆けずり回っているというのに、小夜左文字の目にまで、彼が相対しているものが見えるようだった。
 敵は障害物さえ己の一部として、縦横無尽に飛び回っていた。攻撃そのものは軽く、手数に頼っている節がある。執拗に脚を狙い、機動を削ぐのを優先させている節があった。
 それらを巧みに躱して、歌仙兼定は軽量の敵をついに吹っ飛ばした。
 ぞわっと背筋が寒くなった。
 壁に叩きつけられる自分自身を想像して、小夜左文字は首の後ろに汗を流した。
 空想の衝撃に呼吸が苦しくなって、咄嗟に木の幹を突き飛ばした。崩れ落ちそうになる体躯を必死に繋ぎ止めようとして、柔らかな落ち葉に紛れた小枝を踏んだ。
 本当に微かな変化だった。
「そこかっ!」
 けれど仮想の戦闘空間に埋没し、虚妄の敵を追うのに邁進していた男は、即座に反応した。
 どこまでが現実で、どこまでが空想の産物なのか。
 その境界線を忘れて、立ち竦む小夜左文字に突進した。
 稽古場としていた狭い空間を一瞬で抜け出し、躊躇なく三十六人の首を刎ねた刀を振り翳す。
「――っ」
 黒い沓に踏み躙られた木の葉が多数、仰け反りながら宙を舞った。
 木漏れ日の下で煌めいた刃が、ふっと小夜左文字の視界から消えた。
 光を反射し、短刀をかく乱して視力を奪い取る。
 逃げるのは、可能だった。容易くはない。しかし避けるだけの準備期間は、充分過ぎるくらい用意されていた。
 躱せないわけではなかった。
 怯み、頭が真っ白になって身体が硬直した、というのでもなかった。
 小夜左文字は、曲がりなりにも刀剣男士の端くれだ。審神者に命じられるままに、歴史修正主義者の目論見を挫くべく、幾多の戦場を経験してきた短刀だ。
 それに加えて修行の旅を終え、己の立ち位置を見極めた。
 復讐を忘れることは出来ない。
 だから新たな主人である審神者に敵対する存在を、新たな復讐相手と定めた。
 かっての主のためでもなく、今の主の為だけでもなく。他ならぬ自分自身の存在を守り抜くために、小夜左文字は刀を手に取ると決めた。
 だがこの場で対峙しているのは、敵ではない。
 容赦なく貫き、塵とすべき存在ではない。
「歌仙」
 声には出さず、その名を紡いだ。
 鬼気迫る表情で猛進して来る男に向けて、困った顔で肩を竦めてみせた。
 ぶわっ、と突然の突風が朱を帯びた柔らかな頬を強く叩く。
 藍色の髪が煽られ、左から右へと波を起こした。
 眩い閃光が、小夜左文字の瞳を突き抜けた。
「……くう!」
 ズザザザ、と地面を擦る靴音が間延びして響いた。苦しげに呻く声が短刀の鼓膜を震わせる。ひやっとした物が首筋を掠めて、後を追うようにどくん、と鼓動が跳ねた。
 見開いた双眸を眇め、睫毛を伏し、すぐに持ち上げた。
 目の前に、肩を激しく揺らし、歯を食いしばっている男がいた。革製の渋い柄を折れそうなくらい握りしめて、丁寧に磨かれた刀を小刻みに震わせていた。
 切っ先が空を泳いでいた。
 物打ちが小夜左文字の細い首に触れるかどうか、というところにあった。
 引き留めるのがあと少しでも遅ければ、最高級の切れ味を誇ると言われる之定の刀が肉に食い込んでいた。皮膚を裂き、太い血管を断ち切って、胴と首とを分離させていた。
 骨と骨の間の、僅かな隙間を正確に狙っていた。
 人体の構造を、充分なくらい理解していた。刃が途中で引っかかったり、欠けたりしないよう、寸分の狂いもなく、完璧な位置取りを果たしていた。
 零れ落ちそうなくらい真ん丸に見開かれた瞳が、狼狽えることなく佇む短刀を大きく映し出していた。
 短い間隔で繰り返される呼吸は浅く、きちんと息が吸えているか心配になるほどだった。
 二代目和泉守兼定の刀は未だ小夜左文字の首を前にして、いつでも突き刺せる状態だった。
 位置が悪いので、あの穏やかに波打つ刃文は見えない。
 それを少し残念に思いながら、短刀は仕方なく、自ら後方に下がった。
 間合いの外に出ると離れすぎるので、ふらふらしている切っ先が皮膚に触れない程度で済ませた。打刀が刀を引っ込めるのを待ち、冴えた眼で高い位置を見上げ続けた。
 歌仙兼定はやがて「カハッ」と息を吐き、頭を振った。砕ける寸前だった顎を緩めて、青紫色に染まった唇を解放した。
「おさ、よ」
「寝ぼけるには、少し早すぎ……いえ、遅すぎます」
 か細い声で名前を呼ばれて、少し意地悪く告げる。
 太陽は既に天高くにあり、燦々と地上を照らしていた。
 白昼夢でも見ていたかと笑ってやれば、打刀は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「少しは、避けるか……してくれ」
 苦悶の表情で呟いて、ようやく凍てついた指先に熱を送り込んだ。凝り固まっていた肘の関節を強引に動かして、腕を下ろした。
 敵の血がこびりついているわけでもないのに、足元に向かって軽く素振りして、鞘へと収める。
 淀みない一連の動きを見送って、小夜左文字はふー、と長く息を吐いた。
 余裕あるように振る舞ってみせたが、ほんの少し緊張した。
 今頃になって噴き出て来た汗をさりげなく拭って、彼は顰め面の男に目尻を下げた。
「信用してます」
「重いな」
 不器用な笑みで応じた短刀に、歌仙兼定は深く肩を落とした。苦々しく呻いて、直前まで本物だと気付けなかった自分を叱るように、腰に差した刀の柄を数回叩いた。
 あそこで停止出来ていなかったら、小夜左文字の首は軽やかに宙を舞っていた。
 今は緑が眩しい季節だが、桜が満開の時期であれば、噴き出す鮮血も相俟ってさぞや美しい光景だっただろう。
 痛みも、苦しみも感じることなく、一瞬で終わらせられる。
 それはとても、幸せなこと。
 およそ軽々しく口に出来ない感想を奥歯で磨り潰して、小夜左文字は茶化すように口角を持ち上げた。
「別に、歌仙なら構わなかったんですが」
 しつこく柄を殴っているうちに、打刀の手は部分的に赤く染まった。
 やり過ぎると皮膚が破れかねず、軽く腕を振って制止する。
「やめてくれ。冗談にしては度が過ぎるぞ」
 しかし合間に告げた台詞が宜しくなくて、男は一層声を荒らげ、思い切り刀の鍔を打った。
 ゴリッ、と骨がずれるような音がした。
「……くうっ」
 透かし蝶の縁で手首を削った彼は、抉られる痛みに悶絶し、老人の如くよたよたと歩き回った。
 幸いにも肉は削がれていなかったが、打ち所が悪かったようだ。右手で左手首をぎゅっと掴んで、己の愚かしさにしばらく悶え続けた。
 ひとり相撲に興じている彼に苦笑して、小夜左文字は無事繋がったままの首を撫でた。刃が一瞬触れた気がしたけれど、どこも裂けていなかった。
 血の一滴も出ていないから、あれは錯覚だったのだろう。
 綺麗にスパッと切り捨てられる光景は、自身の目で見たものではなく、鳥が地上を俯瞰するような角度だった。
「歌仙が歌仙でなくなると、なんて呼べばいいか、困りますね」
 三十六人斬ったから、三十六歌仙にちなんで歌仙兼定。
 それがこの打刀の号の由来だ。
 目出度く三十七人目が現れたら、号を変えなければならない。そんなことを何気なく呟けば、男は本気で嫌そうに顔を歪めた。
「お小夜」
 いい加減にするよう、睨まれた。怒気を孕んだ声は低く、重く響いて、短刀の腹の底にズシン、と圧し掛かった。
 太めの眉が中央に寄り、眼光は鋭い。直前まで死地を背にした感覚で刃を振るっていた男は、そこから完全に脱しきっていなかった。
 不謹慎な言葉をこれ以上投げかければ、首を断たれこそしなくても、平手の一発は飛んできそうだ。
「冗談です」
 力いっぱい打たれるのは、遠慮したい。
 先手を打ち、半歩下がった。摺り足で後退して距離を作り、牽制して、目を逸らした。
 歌仙兼定の間合いの中なのであまり意味がないけれど、片手持ちに適した長さの刀は鞘に収まり続けた。
 お互い次に何と言うかで悩み、沈黙が続いて、気まずさからふと遠くを見る。
 温い風が吹いて、雑木林が静かにざわめいた。
 頭上で青葉が揺れて、木漏れ日が降ったり、消えたりを繰り返す。足元が明るくなったかと思えば暗くなって、軽い枯れ葉が転がるように飛んで行った。
 行く末を見守って、小夜左文字は背筋を伸ばした。
 深呼吸して視線を上げれば、歌仙兼定も短刀に意識を戻したところだった。
 目が合った。
 ピリッと首の後ろに電流が走って、小夜左文字は無意識にそこを右手で覆い隠した。
「最後の」
 再び顔を伏し、そこから右に顔を向けた。
 打刀がひと振りで鍛練に励んでいた場所は空っぽで、なんの変哲もない雑木林の一画に戻っていた。
 大量に散る落ち葉の中に、歌仙兼定が真っ二つにした木の葉を見つけるのは至難の業だ。
 けれど確かに、その一枚はあそこに紛れている。
 探す気はないけれど、気になった。
「ん?」
「あれ、誰を想定してたんですか」
 きょとんとしている男を改めて見て、小柄な短刀の付喪神は首を捻った。
 刀を深く振りおろさず、大振りもせず、素早い攻撃に対処を心がけていた。三連続、四連続、または五度を越える連続攻撃を防ぐのに重点を置き、相討ち寸前からの反撃を目論んでいた。
 低い位置からの攻撃を念頭に置いて、先に見た模擬戦闘よりも跳んで避ける回数が多かった。
 足を削られ、機動力が失われるのを嫌っての動きだ。
 それだけではない。牽制にも使えるからと、打刀にしては珍しく足技を多用していた。
 そのような対策が必要な敵が、時間遡行軍や検非違使の中にいただろうか。
 率直な疑問を述べ、藤色の髪の男から返事を待つ。
「う……」
 歌仙兼定はみるみるうちに顔色を悪くして、先ほどよりもずっと渋面を作った。
 右腕で顔を庇いながら頭を抱え込んで、かぶりを振り、恥ずかしそうに身を捩った。
「君は、どこから見ていたんだ」
 隙間から覗き見られて、小夜左文字は苦笑した。
「ここからです」
「そういう意味じゃない」
 途端に歌仙兼定は声を大にし、利き腕を横に払った。顔を真っ赤にして吼えて、数秒してからハッとして後頭部を掻いた。
 今まで以上に恥じらって、目を泳がせて、落ち着きがない。
 頻りに鼻の頭を爪で掻く彼に堪え切れず噴き出して、小夜左文字は遅れて口元を押さえた。
「言ってくれれば、いくらでも相手になったのに」
 手の甲を唇に押し当てた状態で息を吐き、薄い皮膚を震わせながら告げる。
 若干くぐもった声を受け、打刀は深々と溜め息を吐いた。
 彼が戦っていたのは、間違いなく小夜左文字だ。血の味を知る短刀を手に、小柄な体躯を生かした接近戦を得意とする少年を想定して、歌仙兼定は刀を振るっていた。
 時間遡行軍にも驚くほど俊敏な敵がいるが、体躯は決して小さくない。連撃よりも、一撃必殺を優先させており、持久力と体力に優れる大太刀でさえ、簡単に戦闘不能に追い遣れる攻撃力を有していた。
 小夜左文字も、あの槍には散々苦労させられた。
 対峙した時を思い出すと、今でもぶるっと震えが来る。
 鳥肌が立った腕をそっと撫でて、彼は気持ちの整理をつけ終わった男に目を細めた。
「やりますか?」
 笠こそ背負っていないが、刀は持ってきている。
 袈裟を捲り、帯に雑に差し込んだ短刀を見せてやるが、歌仙兼定は頷かなかった。
「申し出は嬉しいが、遠慮するよ」
 長い溜め息の後に言って、刀に預けていた左腕を脇に垂らした。鞘の所為でどうやっても裾が上がる外套を二度、三度と繰り返し払い除けて、耳に掛かる藤色の髪を掻き上げた。
 長さが足りないのですぐに落ちてくるのを承知で、数本をまとめて耳朶に預けた。行き場のなくなった手で首の汗を拭って、尖った爪先に被さっていた木の葉を蹴り飛ばした。
「なぜ?」
 少し間を置いてから問いかけた小夜左文字に、苛立ちと怒りがない交ぜになったような顔をして。
「誰のせいだと」
 恨めし気に告げられて、短刀の付喪神は嗚呼、と頷いた。
 刀を下ろした直後の男にした話が、尾を引いていた。
 木刀や竹刀ならまだしも、触れれば切れる実刀を用いての模擬戦に、歌仙兼定が躊躇するのは致し方がなかった。
 小夜左文字も、胴体に別れを告げる生首の妄想が、生々しく記憶に残っている。
 そういった状況下で刃を交えるのは、危険だった。
 たとえそうならないよう心掛けていても、思い描いた光景を実現しようと、身体は勝手に反応する。
 次は止められるかどうか分からない。波立つ湖面のような眼差しを浴びて、復讐からの解放を望んだこともある短刀は、静かに袈裟を手放した。
 端から擦り切れ、綻びが目立つ布を撫で、草履の裏でほんのり湿った地面を捏ねた。
「では、別の機会に」
「ああ。その時は、よろしく頼むよ」
 けれど模擬戦の申し出だけは、無効にしない。
 日を改めようと提案すれば、打刀は今度は断らなかった。
 深く、はっきり頷かれて、スッと胸が軽くなった。呼吸が楽になり、肩の荷が下りた気分になって、小夜左文字はほうっと息を吐いた。
 表情も自然と緩んだ。それは歌仙兼定も同じで、険しかった目つきは元通りどころか、嬉しそうに細められた。
「喉が渇いたし、腹も減ったな」
「あれだけ動いていれば、仕方がないかと」
「お小夜は本当に、いつからここにいたんだい?」
「歌仙が思うより、多分、ずっと前からです」
「うぐ」
「索敵、もうちょっと、頑張らないとですね」
 物騒な話はこれで終わり、と明るい声で話題を変えた。
 小夜左文字は軽口で応じて、言葉を詰まらせた男を肘で小突いた。
 今回は不注意から勘付かれてしまったが、それがなければ、彼は永遠に短刀の存在に気付かなかった。
 距離があったとはいえ、実際の戦場で、それは言い訳にならない。
 自力では成長が難しい分野を指摘されて、歌仙兼定は唸った。気まずそうに口をもごもごさせて、しつこく突いてくる小さな手を荒っぽく跳ね除けた。
「これでも、頑張ってるんだ」
「得手不得手というものは、誰にもあります」
「慰めないでくれ」
 余所を見ながらぶっきらぼうに言うので、励ますつもりで言ったら、拒絶された。
 実に面倒臭い心理状態の男に嘆息して、小夜左文字は落ち込んでしまった打刀の腰をパシン、と叩いた。
 気を取り直し、新しい話題を探して腕を引く。
 その手を横から掠め取られて、華奢な付喪神は咄嗟に身を竦ませた。
 しかし、奪い返せない。
 長く、しなやかで、それでいて刀を握るのに合わせて鍛えられた指が、細くて繊細な手首に絡みついていた。
 機動、索敵、その他諸々の総合的な戦闘能力で言えば、修行を終えた小夜左文字の方が上だ。しかし腕力だけを切り出せば、打刀が圧倒的に勝っていた。
 柳のような細腕を綱引きし続ければ、いずれ短刀の肩が外れてしまう。
 それは嫌だし、関節を嵌め直すのだって簡単ではない。
 頭の中で天秤を揺らし、小夜左文字は早々に力を緩めた。ここで限界に挑戦しても仕方がないと諦めて、利き手の自由を男に預けた。
 抵抗が弱まって、もっと抵抗されるのを覚悟していた歌仙兼定は、きょとんと目を丸くした。一瞬惚けた顔をして、口をパクパクさせ、痣が出来る寸前だった短刀の手首から指を剥がした。
 貼りついていた皮膚の隙間に空気を送り込んで、手放すではなく、少しずつ位置を後退させていく。
 最終的に、握手のような形になった。掌同士を重ねて、指の位置取りに納得がいかないらしく、何度か角度を変更した。
「歌仙」
 なにがしたいのか、よく分からない。
 四苦八苦している男を薄目で睨みつけて、小夜左文字はしつこく絡んでくる手を爪で弾いた。
「こっち、じゃないんですか?」
 乗り移った体温が消え去らぬうちに、身体を反転させ、男の左側につく。
 トン、と横から体当たりを喰らわせて、打刀が不意打ちに戸惑ううちに彼の左手を取った。手首を交差させて、掌の向きを合わせて、指と指の間に自身の爪先を潜り込ませた。
 するりと忍び込んで、緩い力で握りしめる。
「あ、……ああ。そう。そう!」
 短刀の素早い動きに、歌仙兼定はぽかんと口を開いた。
 そのうちハッと息を飲み、大袈裟なくらい何度も首を縦に振った。
 彼らしくない、動揺しているのが丸分かりの上擦った声だった。必死に場を取り繕おうとして、場当たり的に言っているだけに聞こえた。
 最初はそれを不思議に思っていた小夜左文字は、きゅっと手を握り返されたところで眉を顰めた。体重を預け、寄り掛かった状態からにこにこ笑っている男を盗み見て、違和感めいたものを胸に抱いた。
 気が付けば打刀の腕にしなだれかかり、簡単には離れないよう手を握り合っている。
 歌仙兼定がこうしたがっていると予測して、先回りしたつもりだった。
 けれどもしや、違ったのかもしれない。
 こうしたかったのは他ならぬ小夜左文字自身で、打刀の意図は違うところにあったのかもしれない。
 満面の笑みを浮かべる前、男は意外そうにしていた。鳩が豆鉄砲を食らったかのようにぽかんとして、必死に取り繕っていた。
 但し彼がなにも言わないので、本当のところがどうなのかは分からない。
 随分後になって顔をカーッと赤くして、小夜左文字は手を振り解こうと試みた。
「か、歌仙。手を」
「いやあ、良い汗を流したことだし。どうだい、お小夜。この後、お茶でも」
「はな、えっ、待って。引っ張らないで」
 急に恥ずかしくなって、顔も、身体も、どこもかしこも熱かった。
 狼狽えて声を張り上げるが、歌仙兼定は聞く耳を持たない。悠然とものを言って、返事を待たずに歩き出した。
 つんのめって、転びそうになった。小夜左文字は必死に抵抗したが、無駄な足掻きに終わった。
 打刀の引きずる力は強く、絶対に手放さないという固い意志が指先から伝わってきた。飄々として、涼しげな顔をしているくせに、圧力は凄まじかった。
 このままいくと、本当に荷物のように引きずられかねない。木の根や笹薮がそこかしこに点在して、衝突すれば怪我は避けられなかった。
 血まみれで、青あざだらけになった自分自身を想像し、寒気を覚えて背筋を震わせる。
 止む無く男の歩調に合わせて足を動かせば、強引が過ぎたのを反省したらしく、打刀は足取りを緩めた。
 但し、立ち止まってはくれない。手も放してくれなかった。
「あはは、楽しみだ。お小夜はなにが食べたい?」
「歌仙の、奢り……ですよね?」
 屈託なく笑いかけられて、その無邪気さが憎たらしくてならない。
 ぶすっと頬を膨らませて言えば、彼は勿論だ、と鷹揚に頷いた。
「なにが良いかな。わらび餅、水ようかん……ああ、かき氷も悪くない」
「茶屋ですか?」
「屋敷だと、ふたりでゆっくり出来ないだろう?」
 候補となる甘味を順に口にして、幸せそうに目を細める。
 凛々しさが薄れ、愛らしさが増した。急に幼くなった横顔を眺めて、小夜左文字は嗚呼、と吐息を零した。
 繋いだ手を、大きく振り回された。
 互い違いに絡ませた指が、固く結ばれた鎖のようだった。
「そう、ですね」
 なんとなく部屋を訪ねて、出陣でもないのに戦装束がないのを訝しんだ。道場を訪ねて、来ていないと言われた。林の方へ行くのを見たと教えられて、姿を探した。
 彼を見つけた後、なにをするかは、決めていなかった。
 探していたのにも、格別の理由はない。強いて言うなら、顔を見たかった。
 会いたかった。なんとなく、声を聞きたかった。
 それ以上はなく、それ以下もない。
 目的は果たされた。
 では次に、なにをしよう。
 茶屋に行って甘味を食べて、万屋に寄り道して、ぶらぶらと時間を潰して。
「あんみつが食べたいです」
 桜桃が入っているのが良いと言えば、打刀は大きく目を見張った。
「任せたまえ。良い店を知っている」
 そうして声高に叫んで、力強く胸を叩いた。
 結構な勢いだったが、痛くなかったようだ。堪える素振りもなく、ひと際嬉しそうに笑った彼につられて、小夜左文字も思わず顔を綻ばせた。

いかでかは音に心の澄まざらん 草木もなびくあらしなりけり
山家集 雑 1089

2018/07/08 脱稿

五月の雨に 水まさりつゝ

 じとっと張り付くような空気が辺りを埋め尽くしていた。
 払い除けられるものならそうしたいが、動けば逆に絡みついてくる。鬱陶しい事この上ないが、耐えるより他に術がなかった。
 団扇で首元を扇ぐが、なしのつぶても良いところ。
 軒先に吊された風鈴は動かず、冷たい雨粒を甘んじて受け止めていた。
 気温は程ほどだけれど、連日の長雨で湿度が凄まじい。癖毛の刀剣男士はいずれも頭が爆発して、酷いことになっていた。
 湿気で髪の毛がまとまらず、どれだけ櫛を入れても直らない。宗三左文字も四苦八苦させられており、丸坊主にしたい、とまで言い出す有様だった。
 さすがにそれはやめろ、と小夜左文字以上にへし切長谷部と不動行光が止めに入って、今のところ次兄の髪は無事だ。
 しかしこのような天候が続くようでは、いずれ我慢の限界が訪れるだろう。
 そうならないためにも、なるべく早く晴れて欲しい。
「ああ、嫌だ。いやだ」
「言ったところで栓ないです、歌仙」
 隣でぶつぶつ文句を言っている男に団扇の先を向けて、小夜左文字は静かにするよう訴えた。
 とはいえ、彼の気持ちは分からなくもない。いつ止むか知れない雨に、気は滅入る一方だった。
 初めのうちは誰も意に介さず、この季節はよくある事と解釈していた。しかし雨は一晩中続き、翌日も、その翌日もしとしとと地面を打ち続けた。
 重い色をした雨雲が頭上を占領し、太陽を奪い取ってから今日で四日。
「そうは言ってもね、お小夜」
 窘められても挫けることなく、歌仙兼定は声を高くした。
 大袈裟な身振りを交え、己の発言の正当性を主張する。
「言わなければ雨が止むなんてこと、君は信じているのかい?」
 若干苛々しながら喚き立てられて、短刀はスッと団扇を動かし、耳に蓋をした。薄い和紙一枚が壁となって音を弾いてくれるとは思わないが、なにもしないよりはましだった。
 目に見えて拒絶する態度に衝撃を受け、打刀が黙るという効果もある。
 一石二鳥を狙った少年に、歌仙兼定は予想通り、口をもごもごさせて大人しくなった。
 物言いたげな眼差しが、恨めしそうに小夜左文字を射抜く。
 それに気付かなかった振りをして、彼は襟元に風を送り込んだ。
 団扇を上下に往復させて、生温い風で頸部の湿気を薙ぎ払った。だがその分、手首近辺に熱が発生し、総合的に考えればさほど涼しくならなかった。
「明日には止んでくれると良いんですが」
「昨日も聞いたな、その台詞」
 損得勘定で考える自分を反省して、小夜左文字は団扇を置いた。部屋の隅から軒先を窺えば、後ろから嫌味たらしいひと言が響いた。
「では歌仙は、明日も雨で良いんですか?」
「…………」
 退屈だから、普段は聞き流していることにまで意識が向くらしい。
 短刀自身も些か大人げない返し方をしてしまい、むっと口を噤んだ打刀に苦笑した。
 揚げ足を取られて、面白くないのだろう。なんとか言い返そうと口を開いた彼だが、結局なにも言わずに唇を引き結んだ。
 直後に鼻から荒々しく息を吐いて、胸の前で腕を組んだ。胡坐を作り直し、神妙な顔をして目を瞑って、精神統一を図っているかのようだった。
 良く分からないけれど、ともかく静かにはなった。
「畑、大丈夫かな」
 不貞腐れている男から視線を外して、小夜左文字はぽつりと呟いた。
 種を蒔いた直後の野菜もあり、心配だ。好天に恵まれないと気温が上がらず、苗の生育に影響が出るのは避けられなかった。
 土中の水分が増大した結果、根腐れを起こして枯れてしまう可能性もある。
 冷夏から不作に陥り、飢饉が発生することだってある。
 決して楽観視出来ない状態で、不安が拭えなかった。
「てるてる坊主でも、作るとしようか」
「歌仙?」
「気休めだが、なにもしないよりは良いだろう」
 陰鬱な表情を浮かべていたら、歌仙兼定が不意に口を開いた。
 思わぬ提案に驚いたが、制止する理由はない。右膝を起こし、ゆっくり立ち上がった彼を目で追って、短刀は小さく頷いた。
 部屋の奥に引っ込んだ彼は、再び膝を折って屈むと、戸棚の金具を爪で弾いた。銀杏型をしたそれを抓んで引いて、底の浅い抽斗を棚から取り外した。
「これ、と……これも、もう使わないな」
 手元を見ながら独り言を繰り返し、中から出した料紙を分類していく。
 結局半分近くを不要と判断した彼は、ひと抱えある紙を抱いて戻ってきた。
「足りるかな」
「勿体ない」
「欲しいなら、あげるよ」
「これを僕に、どうしろと」
「てるてる坊主を作るんだろう?」
「……」
 今度は小夜左文字が黙る番だった。
 差し出された紙の表面には細かな文様が描かれ、金や銀の粉が蒔かれていた。試し書きに使うわら半紙とは異なり、最初から装飾が施された高級品だった。
 格の高い人物が寺院に収めた経典などに、このような料紙が使われている。
 てるてる坊主にするには惜しい品質だが、ほかに使い道があるかと問われたら、答えに窮せざるを得なかった。
 歌仙兼定はこの紙に和歌をしたため、厚めの紙に貼って、一冊の本に仕上げていた。特に気に入ったものは軸装することもあるが、床に飾られる機会は稀だった。
 そうやって少しずつ使っているけれど、あれこれと買い集めているうちに、数を増やし過ぎた。
 時が経ち、好みでなくなった紙もある。そういったものを処分する前に、一花咲かせてやろうというのが、今回の彼の計画だった。
「効果がありそうです」
 わら半紙を丸めて、捻ったものよりも、遥かに上質なてるてる坊主になることだろう。
 完成形を想像した小夜左文字は、こみ上げる笑いを隠し切れなかった。
 歌仙兼定もクツクツ喉を鳴らしながら笑って、手始めに一番上の紙をくしゃくしゃに丸めた。一枚だけでは小さいからと、もう一枚追加して、向きあわせた掌の間で躍らせた。
「紐がいりますね」
「そうだね。誰か、裁縫をする刀に聞いてこようか」
「いえ。大丈夫です」
 だが形を作っても、軒下に吊す為の紐がこの部屋にはない。
 材料の不足を指摘した短刀に、打刀が膝を打って腰を浮かせた。それを制して、小夜左文字は自らの頭上に手を伸ばした。
 結い上げた髪の根本に指をやり、左右不揃いの輪を擽った。手探りで位置を測り、見つけ出した端を握って一気に解いた。
 双葉の如く根元で割れていた髪がふわっと広がって、空気の抵抗を受けながら沈んで行く。跳ねた毛先がくるん、と曲線を作り、華奢な肩の上で高く弾んだ。
「お小夜」
 予想していなかったことに、歌仙兼定が目を丸くする。
 この先が思い浮かばないでいる男をクスッと笑って、小夜左文字は首に絡まる髪を軽く梳き、手にした紐の先端を軽く扱いた。
 結い紐は数本の細い紐を縒り合わせ、太さを確保していた。長らく使いこんで傷み始めており、一本くらい引き抜いたところで支障はなかった。
 途中で絡まないよう、慎重に手繰っていく。
 細かな作業に緊張を強いられ、部屋の主である打刀は力みを解こうと肩を竦めた。
「晴れたら、一緒に万屋にいこうか」
「どうしてです?」
「新しいのを贈らせて欲しい」
 互いに手元に集中して、視線は絡まない。
 顔を上げずに訊き返した短刀は、淡々とした返事に一瞬手を止めて、すぐに再開させた。
「なんでもいいのに」
 小夜左文字が粗末な格好をしていようが、歌仙兼定には関わり合いのないことだ。
 だのに彼は、短刀がみすぼらしくしているのを嫌った。同じ屋敷に居た縁がある脇差の篭手切江も、事あるごとに小夜左文字を着飾らせようとした。
 普段はなにかと意見が合わず、口論が多いふた振りなのに、この一点に関してだけは協力を惜しまない。
 着せ替え人形にされる側は、堪ったものではない。だが彼らがいがみ合うくらいなら、大人しくされるがままになる方が良かった。
 髪の結い紐だけで済まなくなる未来を想像して、短刀は解いたばかりの髪を手櫛で整えた。
 無事に引き抜けた赤い糸を膝に置き、残りを使って束ねた髪の根本を縛った。鏡がなく、勘が頼りなので不格好になったが気にせず、打刀が作ったてるてる坊主の根本に糸を巻き付けた。
 簡単に解けないよう、こちらもしっかり結んで、残った糸を抓んでぶらん、とぶら下げた。
「のっぺらぼうは、寂しいな」
「歌仙が描きますか?」
「ここはお小夜に、手本を見せてもらわないと」
 高く掲げられた紙製の人形は頭でっかちで、見栄えが悪い。
 高品質なものを使っているのに出来栄えがいまいちなのに眉を顰め、打刀は後の責任を短刀に押し付けた。
 遜っているように聞こえるが、態度は横柄だ。失敗作だと認めたくなくて、不出来な原因を背負いたがらなかった。
 巻き添えになるのを強要されて、小夜左文字は渋い顔をした。絵心がないのは、短刀も同じだった。
「狡いですよ、歌仙」
「ささ、お小夜。筆をどうぞ」
 返事を保留したつもりが、顔を描くための道具を問答無用で押し付けられた。
 文机の硯箱からではなく、旅歩きの供としている矢立から取り出したものを渡されて、拒み切れなかった。
「どうなっても知りません」
「ああ、勿論だとも」
 どんな顔になっても文句を言うなと釘を刺し、鷹揚に頷いた男を睨む。
 なにか仕返しをしてやりたくて、悩んだ末に、小夜左文字はさらさらと筆を動かした。
 小筆を器用に操り、丸い目に睫毛を付け足した。頭の天辺には、ひょろっと糵のような髪を追加した。
「……ん?」
 横から覗き込んできた打刀が首を傾げて、どこかで見たことがある、と小さく唸った。
「できた」
「まさか、お小夜。これは、僕のつもりかい?」
 下書きなしの一発勝負だったが、案外うまく出来た。
 自画自賛した短刀に頬を引き攣らせて、歌仙兼定は恐る恐る自分自身を指差した。
 冷や汗を流す彼を振り返り、その通りだと深く頷く。
「さあ、吊しましょう」
 珍しく鋭かったと感心しつつ、小夜左文字はそそくさと立ち上がった。
 ハッと背筋を伸ばした打刀に奪われないよう横に逃げて、風鈴が先客として陣取る縁側に出た。とはいえ彼の身長では、吊り下げようにも手が届かず、誰かの協力が不可欠だった。
「やめるんだ、お小夜。そういうのは、風流じゃない」
「文句は聞かないと、先に言いました」
 しかし現状、歌仙兼定の助力は得られそうにない。
 大声で喚き散らした男の顔は蒼白で、唇は土気色だった。
 力技で奪いに来た打刀をひらりと躱し、出来上がったばかりのてるてる坊主を飾る場所を探し、縁側を駆けた。途中で落とさないよう、大事に胸に抱きかかえて、左右を警戒しながら突き進んだ。
「お小夜、待つんだ」
 歌仙兼定も諦め悪く足掻いて、ドスドス足音を響かせた。
 雨の日の午後、やることがなくて引き籠もっていた刀の何振りかが、騒動を聞きつけて廊下に顔を出した。
 そのどこかにかくまってもらおうと考えて、視線を巡らせた矢先。
「うわっ」
 ちょっと目を逸らした瞬間、右からやって来た刀にぶつかった。
「いたた……」
 本丸でも際立って背が低い短刀は、体重も軽い。
 衝突の勢いに負け、小夜左文字は吹き飛ばされて尻餅をついた。臀部を冷たい床で痛打して、目の前に星が散り、しばらく動けなかった。
 急いで逃げなければいけないのに、身体に力が入らない。
「小夜?」
「捕まえたぞ、お小夜」
「歌仙まで。……これは?」
 ぶつかった相手が誰かも、分からないままだった。
 降ってきた声に緩く首を振り、追い付いた歌仙兼定に腕を掴まれ、爪先をぶらん、と宙に浮かせた。
 荒い息を後頭部で受け止めていたら、斜め向かいに佇んでいた少年が腰を折り、足元に落ちていたものを拾って首を傾げた。
「げっ。篭手切」
「なんですか、その言い草。失礼な」
 前と後ろで声が交錯して、ひと呼吸置いてから小夜左文字は理解した。
 ぶつかったのは、眼鏡の脇差だ。しかも衝突の際にうっかり落としたてるてる坊主も、彼に拾われてしまった。
 歌仙兼定が驚き、およそ雅ではない声を上げたのは、その瞬間を見てしまったからだ。
 小夜左文字が描いた似顔絵は、下手ながらも特徴をしっかり掴んでいた。長い睫毛とひと房跳ねた髪で、パッと見ただけでは分からなくても、じっくり眺めれば誰の顔か分かるはずだ。
 篭手切江もずれた眼鏡を正し、紙で出来た小さな人形に視線を落とした。
「……ぶっ」
 直後に手の甲で口を覆ったが、間に合わない。
 隙間から漏れた空気と音に、歌仙兼定は真っ赤になった。
「か、返すんだ。それを。篭手切。早く!」
 猫のように爪を立てて空気を掻き毟るが、間に小夜左文字がいるので届かない。
「ぶはっ、ははは。なんですか、これ。そっくりだ。はは、あはははは」
 そんな大袈裟な反応も手伝って、脇差は益々声を高くして笑った。
 左手で腹を抱え、くの字に身体を曲げて息を切らす。笑い過ぎて苦しい、と頬を引き攣らせて、止めれば良いのにてるてる坊主を顔の前に持って行った。
「ぶふっ」
「笑うんじゃない!」
 どうして辛いのに、また笑おうとするのか。
 彼の心理がさっぱり読み解けなくて、歌仙兼定は半泣きで怒鳴った。
 握り拳を上下に振り回し、危うく当たるところだった。すんでのところで躱した短刀は呆れて溜め息を吐き、両手を揃えて前に出した。
「雨が早く止まないかと、思って」
「それはいい案です」
 掌を上に向けて並べた彼に、篭手切江はひと息ついてから言った。裾の部分がくしゃ、と折れてしまったてるてる坊主を整えて、紐を抓んで短刀に手渡した。
 紙なので、一度ついてしまった折れ目は消えない。
 ただでさえ不格好だったのが、更に悪化した。
 後ろを窺えば歌仙兼定は怒るのに疲れたのか、がっくり肩を落として項垂れていた。
 自分の顔を模したてるてる坊主が軒先で揺れて、雨を被るのが余程耐えられないらしい。悔しそうに口を噛んで、変なところに皺が寄っていた。
「かわいいのに」
「聞こえているよ、お小夜」
 てるてる坊主も、歌仙兼定自体も、年上である短刀から言わせれば愛らしい。
 だが号を得て、身体つきも立派になった打刀は、小夜左文字がいつまでも子ども扱いして来るのが常々不満だった。
 その褒め方は気に入らない、と憤然とした面持ちの彼の前で、篭手切江が首を傾げて目を細めた。
「それ、材料はまだ残ってます?」
「え?」
 短刀の手に鎮座しているてるてる坊主を指差し、歌仙兼定に向かって問いかける。
 虚を衝かれた男は目を点にして、少し置いてから頷いた。
「紙なら、まだ」
「糸がないです」
「なら、もらってきます。それで、私が小夜の顔を描くので、歌仙は私の顔を描いてください」
「は?」
 顔を見合わせた小夜左文字と歌仙兼定を同時に眺め、脇差が妙案だと手を叩き合わせた。
 素早く打刀と、自身を指差して、これで万事解決だと相好を崩した。
「……なぜそうなる」
 けれど残りのふた振りには、それがなんの解決になるのか分からない。
 惚けて立ち尽くす彼らをその場に残し、脇差は言うだけ言って踵を返した。
「歌仙の部屋で、集合で」
「篭手切」
 数歩行ったところで合流場所の指示を出し、どこかへと駆けていく。
 引き留める間もなく行ってしまった少年に唖然として、小夜左文字は歌仙兼定と顔を見合わせた。
「どうします?」
「どうするも、なにも」
 篭手切江はああ言っていたが、全てを聞き入れて、従ってやる義理はない。
 今後の対応を問うた短刀に、本丸最古参の打刀は右手で頭を抱え込んだ。
 爪の先で藤色の髪を軽く引っ掻き、目線を浮かせて遠くを見ながら考え込む。しかし結論は出なかったらしく、しばらくしてから深々と溜め息を吐いた。
「とりあえず、戻ろうか」
「はい」
 ここでじっとしていたところで、なにも始まらない。脇差の考えが読めない以上、放っておくわけにもいかないと、彼は渋々来た道を戻り始めた。
 小夜左文字も同意して、男の後を追いかけた。ちょっと草臥れてしまったてるてる坊主を両手にそっと抱え持ち、傷つけないよう慎重に足を進めた。
 歌仙兼定の部屋は、ふた振りが飛び出した時のまま、静かに主を待っていた。
 彼らが通り過ぎる際に微風が起こり、風鈴がリン、と微かに音を響かせた。涼をもたらすにはとても足りない音色に顔を上げて、短刀は咄嗟に肩を引き、男からてるてる坊主を庇った。
「取ったりしないよ」
 奪い取られるのを警戒し、身構えた彼に、打刀が傷ついたと訴える。
 行き場をなくした手で意味なく腰を叩いて、歌仙兼定は足元に散らばる紙を掻き集めた。
 薄い料紙を束にして、端を揃えて枚数を数える。ひい、ふう、みい、と読み上げる声を聞きながら、小夜左文字は縁側の先が見える場所に腰を下ろした。
 篭手切江が来たら分かるよう目を凝らし、打刀を模したてるてる坊主は膝と胸の間に囲い込んだ。
 しとしと降る雨は勢いを強めもせず、弱めもせず、地面に出来た水溜まりに延々と弧を描き続けた。
 耳を澄ませば、屋根を打つ雨音が喧しい。
 湯屋に続く廊下で雨漏りしていたのは、修繕し終わったのか気になった。けれど疑問に答えてくれそうな刀は、生憎近くにいなかった。
「あとで、見に行こう」
 そこの打刀は料理が得意だが、大工仕事は苦手だ。
 誰にだって得手不得手がある、と言って一切手伝おうとしない男を一瞥して、小夜左文字は肩を竦めて溜め息を吐いた。
「お待たせしました」
 それから数分としないうちに、篭手切江が四角い箱を抱えてやってきた。眼鏡の奥の瞳をきらきら輝かせて、嬉しくて仕方がない、という雰囲気が滲み出ていた。
 なにがそんなに楽しいのか分からないまま出迎えて、彼が持って来たものを斜め後ろから覗き込む。
 赤漆に螺鈿で彩られた箱の中身は、色とりどりの糸を収めた裁縫箱だった。
 上段に針山が据えられ、中段に糸を入れた抽斗が。下段には鋏などの小道具が収納されており、持ち主の几帳面さが窺えた。
「これは?」
「堀川さんから、借りてきました」
「ああ……」
 どこかで見たことがあると記憶を辿っていたら、先に正解を教えられた。
 脇差には家事を得意としている刀が多く、裁縫は主に堀川国広か、物吉貞宗の仕事だった。
 得意げに言った篭手切江は、早速軸に巻き付けられた糸を何種類か取り出した。畳に並べ、歌仙兼定から渡された料紙と比較して、これとこれ、と呟きながら二色を選んだ。
 白色と、黄色を残し、使わないと決めた分は抽斗に戻す。ぐしゃぐしゃ丸めて形を作った紙に、薄ら萌黄が入った紙を被せ、手早く形を整える。
「これで良し」
 早々にてるてる坊主をひとつ完成させて、彼はもうひとつ作って畳に据えた。
 そこに小夜左文字から預かった、すでに顔を描き込み済みのものも混ぜて、満足げに頷く。
「赤、白、黄色。うん。いいですね」
「それになにか意味があるのかい?」
 調子を取りながら歌うように言った脇差に、歌仙兼定が首を傾げつつ訊ねた。
 しかし篭手切江はにっこり笑っただけで、明確な返答は口にしなかった。
 にこにこ見詰め返されて、なんだかむず痒い。意味が分からないと嘆息して、打刀は硯の墨に小筆を浸した。
 千鳥格子のてるてる坊主を手に取って、観念して篭手切江の顔をそこに描き込んだ。本物を前にして、手元と何度も見比べながら、慎重に慎重を重ねて筆を動かした。
 一方の脇差はすらすらと、迷う素振りが見られなかった。
 すっと線を引き、時折小夜左文字を確認しては、微調整を加えて行った。
「出来た」
「見せてください」
 内心どきどきしながら待っていた短刀は、彼の声を聞き、膝を起こして立ち上がった。
 邪魔にならないよう離れた場所にいたが、距離を詰め、背後から覗き込んだ。脇差も勝手知ったるなんとやらで、見やすいように持ち方を変えた。
 筆を置き、満面の笑みを浮かべてふた振りに見せびらかす。
「どうです? そっくりでしょう」
「……これがお小夜か?」
 だが自信満々の彼に対して、歌仙兼定は渋面を崩さなかった。
 目つきは鋭く、逆三角形をしていた。口らしきものはへの字に曲げられ、天辺には髪を結う紐のつもりか、左右で羽の大きさが異なる蝶々が描かれていた。
「そっくりです」
「ええ!」
 どこからどう見ても似ていない、との意見の打刀だが、短刀には、特徴が上手くとらえられていると感じられた。
 それを正直に声に出せば、歌仙兼定は信じられない、と目を丸くして仰け反った。
「お小夜は、もっと美しい顔立ちをしているぞ」
「てるてる坊主如きに、なにを本気になってるんですか」
「そういう歌仙こそ、出来たんですか?」
 やり直しを命じる打刀だが、意見は聞き入れられない。それどころか自身が槍玉に挙げられて、止める間もなく脇差に奪い取られた。
「待て。まだだ。一からやり直させてくれ!」
 必死に申し出るが、こちらも耳を貸してもらえない。
 小夜左文字も一緒にてるてる坊主を覗き込んで、直後に顔を真っ赤にしている男を振り返った。
 彼は恥ずかしそうに身動ぎ、見つめられるのを嫌がってこちらに背を向けた。ぶつぶつ文句を言いながら指で畳を小突き、ぐりぐりと表面を毛羽立たせた。
「いや、なんとなく、……分かる気はしますが」
「眼鏡、だけですか」
「ちゃんと黒子も書いてあるだろう!」
「あ、本当だ」
 彼が作ったてるてる坊主に鼻はなく、口もなかった。代わりに太い線で円がふたつ描かれ、短い横棒で結ばれていた。
 向かって左側の円の下には、小さな点がふたつ。しかしぱっと見ただけでは汚れているようにしか思えず、脇差の目元を彩る黒子だとは、言われなければ分からなかった。
 眼鏡を装備している刀剣男士は他にもいるから、これが篭手切江だとは、説明されないと理解出来そうにない。
「でも三つ並べたら、そうでもないかもです」
「確かに」
 単体ではどの刀かすぐに判別がつかないけれど、残るてるてる坊主と一緒なら、どうだろう。
 助け舟を出した小夜左文字に、脇差はその通りだと頷いて、落ち込んでぐずぐずしている打刀に目を細めた。
「さあ、飾りましょう」
 決して良い出来栄えとは言い難かったけれど、彼なりに頑張ったのだ。
 下手糞だ、などとののしる真似はせず、篭手切江は率先して立ち上がった。
 自分の顔が描かれたものをそれぞれ手に取って、今度は吊す場所を探し、あれこれ意見を出し合う。
 最初は歌仙兼定の部屋の前のはずが、大勢が目に留まる場所が良い、と脇差が言い出した。けれどあまり人目に晒したくない打刀が渋って、最終的に中庭に面した縁側で落ち着いた。
 ここなら部屋が近い短刀や、脇差くらいしか通らない。
「晴れると良いですね」
「ここまでしたんだ。晴れてもらわなくては、困る」
「確かに」
 みっつ並んだ顔が、雨に湿気る空気を浴びてゆらゆら揺れていた。
 効果の程は分からないけれど、御利益はありそうだ。
 明日が楽しみだと笑って、茶でも飲もうと連れ立ってその場を離れる。
 その後この顔入りてるてる坊主が評判を呼び、いつの間にか粟田口や、来派の刀の分まで登場することになろうとは、この時彼らはまだ知らなかった。

思はずにあなづりにくき小川かな 五月の雨に水まさりつゝ
山家集 229

2018/06/03 脱稿

春を尋ぬる 花のあけぼの

 ふわ、と甘い匂いが鼻先を掠めて、ついついそちらに顔が向いた。
 誘われるまま背筋を伸ばし、匂いの発生源へと思いを巡らす。知らず知らず涎が溢れて、小夜左文字はごくりとひと息に飲み干した。
 濡れていない口元を軽く擦り、無意識に浮いていた踵を下ろした。力強く一歩を踏み出し、廊下を進めば、前方に二重、三重の人垣が出来ていた。
「まだかな、まだかな」
「とっても美味しそうです~」
「今日はなんだろうね?」
 七振りか、八振りはあるだろうか。大半が短刀だが、浦島虎徹らしき頭も紛れていた。
 口々に言い合って、台所を覗いていた。食欲をそそる香りは段々と強まって、あちこちからぐうぐうと、腹が鳴る音が聞こえてきた。
 それが自分の腹から響いたような気がして、小夜左文字は咄嗟に腹部に手をやった。袈裟の上から細い体躯を撫でて、遅れて小さく鳴った「くう」という音に顔を赤らめた。
 大量の小豆を、砂糖と一緒に鍋で煮込んでいる匂いだ。
 とろっとした液体は非常に甘ったるく、飲み干した後も咥内に幸せを与えてくれた。
「お汁粉かな」
 想像して、目を閉じた。途端に白玉が数個浮かんだ汁粉の図が虚空に出現し、現実と錯覚して手を伸ばしかけた。
 中途半端なところを彷徨う自身の指にハッとして、再び咥内を埋めた唾液を飲み込む。
 前に向き直れば、二振りずつで列が出来ていた。最後尾につけば、隣に来た後藤藤四郎と目が合った。
「今日も、美味そ~だな」
 途端にニカッと白い歯を見せ、元気よく話しかけられた。
 小夜左文字は黙って頷いて、先頭でそわそわ落ち着きがない少年に視線を移した。
 柱に寄り掛かり、首から上だけを台所に突っ込んでいた。随分と大胆な盗み見を実行中の短刀は、謙信景光に他ならなかった。
「今日は、誰だろう」
 八つ時の甘味作りの当番は、特に決まっていない。以前は三食用意する料理当番の仕事だったが、本丸に籍を置く刀剣男士が増えた結果、手が回らないということで廃止された。
 それ以降は料理好きの刀が、時々気まぐれに作るのみだ。
 これまでは歌仙兼定や、燭台切光忠が中心となっていた甘味作り。
 それがこの頃は、新しく加入したばかりの刀剣男士が、主に務めるようになっていた。
「あの前掛け、似合わねえよな」
 分かり切った疑問を口にした小夜左文字に、後藤藤四郎が胸元を指差しながら言った。
 たったそれだけで答え合わせが済んで、藍色の髪の少年は緩慢に頷いた。
 髪は短く切り揃え、背が高く、肩幅は広い。屈強な体格を有し、燭台切光忠にも引けを取らない腕力を有しながら、大の子供好きで、趣味が菓子作りという太刀。
 顕現してまだ新しい小豆長光は、この類まれな特技のお陰で、あっという間に本丸に馴染んでしまった。
 身体の大きな刀は、小さい短刀たちから怯えられたり、警戒されたりするのが常だ。怖い刀ではないと納得してもらえるのに、早くても三日か、四日は必要だった。
 ところが小豆長光は、その日のうちに受け入れられた。
 燭台切光忠と一緒に台所に入り、作った草餅を大勢に振る舞った。これにより、人妻以外には靡かない言い張っていた包丁藤四郎が、あっという間に陥落した。
 謙信景光が小豆長光を以前から見知っており、慕っていたのも功を奏した。
 怖がりの五虎退が懐いた時点で、粟田口派の短刀たち全振りを攻略したようなものだ。
 というわけで、新参者の長船派の太刀は、驚くほどあっさりと己の立ち位置を確保した。
 連日のように、昼餉後に台所に入って、せっせと菓子作りに励んでいた。
 内容は和風なものから、西洋風なものまで様々だ。燭台切光忠や、堀川国広たちから教えを受けて、熱心に取り組んでいた。
 種類が豊富で、見た目も色鮮やか。
 しかも美味しいとあっては、食い意地の張った刀たちが放っておくはずがない。
 気付けば後ろに物吉貞宗が立っており、行列は長く伸びていた。
「良い匂いですね」
 振り向いた小夜左文字に笑いかけ、幸運をもたらすという脇差が目を細めた。
 あまり話したことがない少年にコクリと頷いて、小夜左文字はひょいっと首を横に伸ばした。
 最後尾がどこなのかを確認して、早めに来て良かったと安堵の息を吐いた。用意した菓子の数が足りず、目の前で売り切れとなる危険は免れたと胸を撫で下ろし、踵を擦り合わせながら姿勢を戻した。
 先頭に立つ謙信景光の身体は、今や半分近くが台所に入り込んでいた。
 下半身だけ廊下に残り、身を乗り出すにしても、乗り出し過ぎだ。
 そのうち体勢を崩し、転がるのではなかろうか。
 余計なお節介と思いつつ、心配していた矢先だ。
「うわああ!」
 案の定、彼は前のめりに倒れ込んだ。
 悲鳴を上げ、派手な音を立てて段差を落ちて行った。一瞬で視界から消えた少年に、後方に続いていた短刀たちは騒然となった。
「大丈夫?」
 鯰尾藤四郎が代表して訊ね、中腰から腕を伸ばした。
「もうちょっとだから、がまん、できるな?」
「ううう。いたく、なんか……ないぞ!」
 小夜左文字には見えない位置から、調理中と思しき太刀の声が響く。
 助け起こされた少年は涙をいっぱいに溜めながらも強がり、背筋を伸ばして廊下に並び直した。
 周囲からはどっと笑いが沸き起こって、小夜左文字もつられて頬を緩めた。当の謙信景光はきょとんとしながら左右を見回しており、それが余計に皆を笑顔にさせていた。
「お膝、大丈夫ですか?」
 五虎退が打って赤くなっている膝を心配し、彼に話しかける。
 すかさず一緒に並んでいた包丁藤四郎が、肌身離さず持ち歩いている鞄から、菓子ではなく絆創膏を取り出した。
 兄弟刀ではないけれど、それに準ずる接し方だった。愛染国俊と蛍丸の間から様子を窺って、小夜左文字は場を包む甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「夕餉が、甘くならなければいいんですけど」
「甘いの、駄目ですか?」
 何気なく呟いたひと言に、後ろに控える物吉貞宗が乗って来た。
「ばっか。焼き魚が甘かったら、嫌に決まってんだろ」
「そうでしょうか」
 横で聞いていた後藤藤四郎が途端に噛み付いて、会話の端緒を開いた短刀は一瞬で蚊帳の外に追い遣られた。
 同じ付喪神とはいえ、味の好みは個々で異なる。辛いものが大好きな刀剣男士がいれば、全く受け付けないという刀剣男士も当然あった。
 小夜左文字は食べられるだけで満足で、苦手な味付けというものは特になかった。
 出されたものは基本的に、全て平らげる。肉には最初、抵抗があったが、今はいの一番に口に運んでいた。
 甘いものも、そうでないものも、どれも美味しい。
 無自覚に口をもぐもぐ動かし、空気を飲み込んで、彼は再び前のめりになった謙信景光に苦笑した。
 反省は一時的なもので、直前の失敗をもう忘れている。
 懲りる気配がない仲間に肩を竦めているうちに、停滞していた行列がゆっくり動き出した。
「さあ、おまたせ」
 壁の向こうから、小豆長光の声がした。
「熱いから、気を付けてね」
 燭台切光忠の声も後に続いて、廊下は歓声に包まれた。
「やったあ」
「あ~、お腹空いた」
「ちょっと、押さないでってば。危ない」
 一部から拍手が起こり、一部からは悲鳴が上がった。背中を押されて転びかけた乱藤四郎が、恐縮する厚藤四郎に手刀を叩きこんでいた。
 甘味は早い者勝ちだから、焦ったのだろう。もっとも後ろから押したところで、順番は変わらないのだが。
 喧しいやり取りを意識の片隅で拾って、小夜左文字は後藤藤四郎と揃って敷居を跨いだ。廊下より少し低くなっている台所の床に爪先を置いて、待ち構えていた太刀に小さく頭を下げた。
「やあ。いらっしゃい」
 中腰になった小豆長光が、小ぶりの椀を差し出して来た。
 一緒に箸を渡されて、受け取って再び一礼した。
 たっぷりの小豆の海に、焼いた餅がひとつ浮かんでいた。ふっくら柔らかく膨らんで、表面が少し焦げて黒くなっていた。
「白玉じゃなかった」
 想像した通り、今日の甘味は汁粉だった。
 けれど思い描いていたものと、完全一致とはならなかった。
 これはこれで美味しいのだが、ほんの少し不満だった。善意から用意してくれたものだというのに、がっかりして、小夜左文字は台所に隣接する板敷きの間に向かった。
 いつもは米俵などが置かれているのだが、使った分の補充がまだらしい。座って寛ぐには充分なその場所に、包丁藤四郎たちが横一列に並んでいた。
「は~、幸せだなあ」
「あち、あひ、あふっ」
 しみじみ噛み締めながら味わう刀があれば、熱々のまま頬張って湯気を吐いている刀もあった。
 舌を火傷したと口を開いた鯰尾藤四郎を笑って、場所を確保した後藤藤四郎が小夜左文字を手招いた。
「物吉も、こっち来いよ」
 汁粉を受け取った後、台所に残る刀と、踵を返す刀はほぼ半々だ。
 自室でならのんびり味わえるが、食べ終えた後の食器を戻しに来なければならず、片付けが若干面倒だ。
 一方台所に居座れば、廊下を往復する手間が省ける。ただし身を置ける場所が限られており、長時間滞在するには不向きだった。
「外で食べても良いんですけど」
「今日は風があるから、無理だろ」
「残念です」
 勝手口の外には薪割りのための空間があり、斧を振り回すのに疲れた仲間が休憩する床几があった。
 そちらを利用すれば、台所の混雑は若干だが緩和された。しかし後藤藤四郎の言う通り、今日は春の嵐が朝からずっと吹き荒れていた。
 耳を澄ませば、轟々と音がする。
 巻き上げられた砂埃が汁粉に入ったら大変で、物吉貞宗はがっかりした様子で肩を落とした。
 窮屈さを我慢しながら、身を寄せ合って座る。
「いただきます」
 手を合わせ、瞑目してから箸の先端をどろっとした液体に浸す。
 廊下で待っている間は強烈だった甘い匂いは、実物を前にした途端、急速に薄れた。
 嗅覚が麻痺してしまったようで、立ち上る湯気を吸ってもそこまで甘さを感じない。代わりに焼いた餅の香ばしさが 鼻腔いっぱいに広がった。
 白玉の妄想を打ち消して、現実を受け入れるべく箸で抓んだ。
「はふ」
 鼻から息を吐き、齧り付く。
 右に座った後藤藤四郎も、左に座った物吉貞宗も、同じように餅から箸をつけていた。
 元は四角形だったが、焼く過程で角が丸みを帯びていた。その一端に前歯を突き立て、むにゅっとした感触を歯茎で味わった。
 歯列に挟まれて薄くなった場所に舌を這わせ、追い打ちをかける格好で噛み千切った。小さくなった欠片を奥歯に預けて、大きな塊は汁粉の椀に戻した。
「んっふー、うめえ」
 餅自体にはさほど味がないが、小豆の甘味を吸っており、ほんのりと甘い。
 後藤藤四郎の歓喜の声を聞きながら咀嚼して、小夜左文字は椀に息を吹きかけた。
 粗熱を取り、表面を冷ましてから少量を啜った。
「ああ、なんという幸運なんでしょう」
 物吉貞宗も甘い汁を飲み、幸せそうに微笑んだ。満面の笑みを浮かべて、いつにも増して嬉しそうだった。
 唇の端に貼りついた小豆の皮を抓んで取り、ぱくりと口に含ませる。
 そんな些細な仕草ひとつにも笑顔を絶やさない彼を横目で見て、小夜左文字は椀の真ん中に浮かぶ餅を箸で押して沈めた。
 汁粉は甘く、美味しかった。それは間違いない。
 だのに彼らのように、全身を使って表現出来なかった。
 餅は何度沈めても、箸を離した瞬間にぷかっと浮いて来た。
 それを十何回と繰り返しているうちに、両脇の短刀と脇差は椀の中身をほぼ空にしていた。
 小夜左文字だけが、殆ど手付かずのまま残していた。
「はしがすすんでいないようだが、あついのは、にがてかな?」
「え」
 訝しむ声が降ってきたのは、ちょうどそんな時だった。
 顔を上げれば、桃色の前掛けを着けた男が立っていた。胸元には豆の模様が描かれており、凛々しい顔つきの太刀には、お世辞にも似合っているとは言い難かった。
 向こうでは甘味を配り終えた燭台切光忠が、使った鍋の片付けに取り掛かっていた。
 空になった椀は作業台の上で山盛りになっており、包丁藤四郎や謙信景光たちも姿を消していた。
「いえ、あの……えっと」
 それほど長い間惚けていたつもりはないが、想像以上に時間が過ぎていた。
 あんなにも混雑していた台所がすっかり閑散としている現実に、小夜左文字は口籠もり、身を竦ませた。
 膝を寄せて丸くなって、程ほどに温くなった汁粉を意味もなく掻き混ぜる。
「小夜は熱いお茶のが好きだぜ。なあ?」
「そうですね。お腹でも痛いんですか?」
 萎縮して黙り込んだ彼を庇い、後藤藤四郎と物吉貞宗が一斉に口を開いた。
 だが結果として、三振りから同時に問いかけられることとなり、小夜左文字は余計に返答に窮し、目を泳がせた。
 身の置き場に困り、脇を締めて益々小さくなった。猫背で甘い汁粉に舌鼓を打って、小豆の粒を椀から減らした。
「ふは」
 一気に半分ほど飲み干して、甘く染まった唇を舐めた。焼いた餅を端に寄せ、角に残る歯型を箸で押して潰した。
 三振りから注がれる視線に首を竦め、言葉を探して口を開閉させる。
「小夜君?」
「ちゃんと、あの。美味しいです。大丈夫です」
 急かされて、慌てて息を吐いた。
 答えになっていない答えでなんとか誤魔化して、彼はもそもそと部分的に薄くなった餅を齧った。
 焼き立てで熱々だった頃は長く伸びた餅は、案外あっさり千切れた。
 ほんの少し固さが増しており、歯応えは充分だった。
 腹が痛いのでもなければ、猫舌でもない。少し気乗りしなかっただけで、汁粉が不味いだとか、体調不良が原因ではない。
 言葉で上手く説明出来ないので、態度で示した。
 咀嚼も碌にせずに飲み込んで、喉に詰まらせて噎せた彼に、小豆長光は複雑な表情を浮かべた。
「さよさもんじ」
「は、い」
 朗々と響く声で、畏まって名前を呼ばれた。
 歯に挟まった豆の皮を舌で穿っていた少年は、すぐ目の前で膝を折り、屈んだ太刀に恐々頷いた。
 尻込みして、後退を図った。しかし座った状態では叶わず、一寸として位置は動かなかった。
 とうに甘味を食べ終えた後藤藤四郎たちも、何故かこの場に居座った。物吉貞宗などは中腰だったのを改め、行儀よく座り直した。
 空の椀に箸を預け、新参者の太刀と、古参の短刀のやり取りを興味深そうに見守る。
 突き刺さる視線が嫌だったが、逃げることも出来なくて、小夜左文字は諦めて肩を落とした。
 小豆長光に向き直り、居住まいを正した。
「きみは、……いや、きのせいならいいんだが。あまり、あまいものが、そう、とくいではないのかな?」
 遠慮がちに投げかけられた質問に、彼は黙って口を噤んだ。
「いや? んなことねえよな」
「ですねえ」
 代わりに後藤藤四郎が答え、物吉貞宗がそれに同意した。会話に割り込まれた太刀は無音で唸った後、噛み締めていた唇を解いた。
「そうなのかい?」
 ひと呼吸置いて気持ちを整え、改めて小夜左文字に向かって問いかける。
 短刀は半分になった餅を汁粉に浸し、箸を置いた。
「嫌い、では、ないです」
 食うに困る人々を見て来たからか、彼は食事に対する執着がひと際強かった。畑仕事を率先して手伝うのだって、食べ物を大事に思っているからだ。
 食材に対する好き嫌いは、ひとつもない。味付けが濃かろうが、薄かろうが、料理当番が丹精込めて作ってくれたものを馬鹿にするつもりはなかった。
 出されたら、必ず食べ切る。米ひと粒だって残さない。
 それなのに、小豆長光が作った汁粉には箸が進まなかった。
 汁粉だけではない。彼が今日まで供して来た数々の菓子に対しても、小夜左文字はあまり嬉しそうにしなかった。
 ひと口齧って、小首を傾げ、最後まで訝しむような表情を崩さない。
 ほかの短刀たちが笑顔の花を満開にする中で、彼だけが異質だった。
「そうでしょうか……」
 初めて指摘されて、とてもではないが信じられない。
 疑わしげに太刀を見返した短刀は、意見を求めて左右に視線を送った。
「それは、うーん」
 見つめられ、物吉貞宗が口籠もった。顎に手をやり、瞼を伏して考え込むが、小豆長光が言うような違いに心当たりはなかった。
 そもそも甘味を前にした時は、食べるのに必死で、周囲をさほど見ていない。
 存外食いしん坊な脇差は小さく舌を出し、後藤藤四郎に向けて顎をしゃくった。
 小夜左文字も、小豆長光も一斉に彼を見た。水を向けられた少年は一瞬ビクッとなった後、頬を掻き、目線を天井に投げた。
「そう言われてもなあ。あ、でも」
「でも?」
 返答に困り果て、言いかけて途中で言葉を切る。
 そこにぐい、と身体ごと突っ込んで、長船派の太刀は唇を引き結んだ。
 菓子作りには自信があったのに、全員を笑顔に出来ないのが余程悔しいらしい。
 大柄の男に詰め寄られた少年は苦笑いを浮かべ、小夜左文字に向かって手を振った。太刀にも離れるよう合図を送って、胡坐を組み、頬杖をついた。
「小夜はさ、万屋でもあんまり、甘いもの買わないよな」
「言われてみれば、そうですね」
「ほう……?」
 人差し指を突き付けて、粟田口派の短刀がびしっと言う。
 貞宗派の脇差は言われて思い出した、と両手を叩き合わせ、初耳だった太刀は成る程、と顎を撫でながら頷いた。
 三方から視線を向けられて、自覚がなかった左文字の末弟は凍り付いた。
「そんな、ことは」
「いいや、ある。絶対ある」
 否定しようとして、先を越された。
 後藤藤四郎は力強く断言して、同意を求めて物吉貞宗を振り返った。
 眼差しで意図を察し、脇差も深く頷いた。両手を握って脇に添えて、直後に明るい色合いの瞳を大きく見開いた。
「そういえば、聞いたことがあります」
「なにをだ」
 黄金糖のような眼を目映く輝かせた彼に向かい、小豆長光が屈んだまま身体を捻った。右手を思い切り床に叩きつけて、表情は真剣そのものだった。
 こうまで切羽詰まる必要があるのかと思いつつ、小夜左文字も脇差を見た。
 彼らが自分自身のことを話題にしているのは分かっているのだけれど、どうにも他人事のように思えて仕方がなかった。
 全く別の誰かについて論議しているようで、少し面白かった。
 勝手にこみ上げてくる笑いをかみ殺していたら、物吉貞宗がにっこりと、微笑みながら見つめて来た。
「小夜君は、万屋のお菓子より、歌仙さんが作るお菓子の方が好きなんですよね?」
「え?」
 その無垢な笑顔に嫌な予感を覚え、背筋を寒くした直後だった。
 不意打ちに等しい発言を受けて、小夜左文字は言葉を失い、文字通り固まった。
 目をぱちくりさせて、息をするのさえ忘れた。やがて苦しくなって、急ぎ鼻から空気を吸いこんで、屈託なく笑う脇差を半信半疑で見つめ返した。
「あー、それ。俺も聞いたこと、ある」
 唖然としていたら、横から別の声が響いた。
 ぎょっとなって首を巡らせれば、後藤藤四郎が不遜な表情で口角を持ち上げた。
 惚けている少年の額をぴんっ、と小突いて、胡坐を崩し、右膝を立てた。
「厚たちと万屋行った時、小夜だけなんにも買わないんだからよ。なんでだって聞いたら、歌仙さんが作った方が美味しいから要らない、だったっけ?」
「むむむ」
「ま、待ってください。そんな話、僕、いつ」
「えー? 一年くらい前?」
「最近の話でないのは、確かですね」
「…………」
 喋っている途中で肩を竦めた彼は、呆れ調子で広げた手を揺らした。
 物吉貞宗も短刀の言葉に同調して、懐かしい記憶を補足した。間違いない、と後藤藤四郎に頷いて、空中に円を描いた。
 斜め向かいでは、小豆長光が眉間に皺を寄せて唸っている。急いで話に割り込んだ小夜左文字は、彼らの返答を受けて頭を抱え込んだ。
 小夜左文字自身が、ふた振りの言うやり取りを全く覚えていなかった。
「嘘じゃ」
「ないない」
 念のため再確認して、逆に追い詰められた。
 間髪入れずに首を横に振られて、彼は眩暈を覚え、身体をふらつかせた。
「おっと」
 崩れかけた体躯を、物吉貞宗がすんでのところで庇った。
 後ろから肩を支えられて、突っ伏すことすら許されなかった少年は両手で顔を覆い隠した。
 歌仙兼定の作る菓子の方が美味しいと、言った記憶は一切ない。
 しかし粟田口の短刀たちと一緒に万屋に出かけ、散々悩んだ挙げ句、手ぶらで帰って来た覚えなら、微かに頭に残っていた。
 それも一度や、二度の話ではない。
 種類があり過ぎて、目移りして決めきれなかったのだ。食べたことのない菓子ばかりで、味が想像出来ず、手を伸ばすのに躊躇しただけだ。
 わざわざ高い金を払い、買ってまで食べたいとも思えなかった。
 それなら歌仙兼定が作ってくれる甘味の方がいいと、そう考えなかったと言ったら、嘘になる。
「ち、違います。あれは別に、歌仙じゃなきゃ嫌だとか、そういうのじゃなくて」
「なるほど。かせんかねさだ、か」
 後藤藤四郎たちの言い方には、語弊がある。
 誤解しか生まない口ぶりに抗議するけれど、小豆長光の耳には届かなかった。
 低い声でぼそっと言ったかと思えば、急に目つきが鋭くなった。怖がりの短刀からも好かれる温和な表情がスッと消えて、戦場で見せるような険しい顔つきが現れた。
 これから一戦交えて来そうな雰囲気に、背筋が寒くなった。
「そうそう。歌仙さんだったら、お汁粉は絶対、白玉だよな」
「っ!」
 小豆長光が作った汁粉に入っていたのは、焼いた角餅だった。
 それがなぜ不満だったのか、後藤藤四郎の何気ないひと言で判明した。椀の中を見た瞬間、がっかりしてしまった理由を悟って、小夜左文字はビクッと肩を跳ね上げた。
 大仰が過ぎる反応に、小豆長光の目が鈍く輝く。
「それで、なのか。きみが」
 ぎょろっと睨まれて、足が竦んだ。
 ほかの男士に比べて箸が進まなかった原因を探られて、短刀は冷たい汗を流した。
「いえ、えっと。小豆長光さんの、も、美味しかったです」
 しどろもどろに否定に走るが、声が上擦っており、説得力はないに等しい。
 己の口下手ぶりを大いに呪って、小夜左文字はすくっと立ち上がった男を目で追いかけた。
「よくわかった」
 明後日の方角を見て、小豆長光が背筋を伸ばす。
 そのまま大股で歩き出した彼に慌てて、短刀は汁粉の椀をひっくり返した。
 箸を蹴っ飛ばしてしまい、ガクンと落ちた膝を強かに打った。
「なんか、やばくね?」
「拾っておきます」
 太刀の鋭い眼光に、後藤藤四郎たちも嫌な未来を想像したようだ。
 立ち去る直前の太刀は、明らかに可笑しかった。甘味作りの大敵として名前が挙がった打刀に、なんらかの危害を加えそうな雰囲気だった。
 彼らが変に煽った所為で、滾る心に火を点けてしまったらしい。
 このままでは歌仙兼定が危ないと、小夜左文字は青くなった。
 飛んで行った箸を片方掴んで、物吉貞宗がそんな彼の背中を押す。
 促され、起き上がり、短刀はもう一振りの短刀と頷きあった。
「俺、こっち、探してくるな」
「お願いします」
 太刀が台所を出て、どちらに向かったかさえ見ていなかった。
 燭台切光忠が呑気に洗い物を続ける中、駆け足で廊下に出て、小夜左文字は後藤藤四郎とは別方向に急いだ。
 左右を確認しながら、どこにいるか分からない打刀と太刀を探し、屋敷中を駆けずり回る。
 時間が過ぎるにつれて焦燥感が募り、脚がもつれそうになった。のんびり歩いていた仲間と何度もぶつかり掛けて、その都度頭を下げて謝って、歌仙兼定の居場所を尋ねた。
「いた!」
 やがて、どれくらい走り回った後だろう。
 大ぶりの花瓶を抱いて運ぶ打刀を廊下の先に見付けて、彼はつい叫んでしまった。
 珍しい大声に、調子良く歩いていた歌仙兼定の足が止まる。
 なんとか間に合ったと、ホッとした。散々駆け回ったせいで息は乱れて、次の一歩に手間取った。
 肩を上下させ、呼吸を整えた。
 それが隙となって表れて、横をすたすた歩いて行った男に反応出来なかった。
 真横を抜けて、前に出られて初めて気が付いた。
「あ」
 しまった、と思ってももう遅く、腕を伸ばしたところで手は届かない。
 引き留めたかったが、間に合わない。
 小夜左文字を楽にやり過ごして、小豆長光は花瓶を抱える男へと歩み寄った。
「やあ、小豆長光。どうしたんだい?」
 怖いくらい真剣な表情の男に、打刀はまるで警戒心を抱かない。いつものように暢気過ぎる挨拶をして、重い花瓶を抱え直した。
「歌仙」
 小夜左文字が注意するよう訴えるが、言葉が足らず、警句にすらならなかった。舌が痺れて動かなくて、上手く発音出来ず、足も鉛のように重かった。
 逃げるよう言いたいのに、叶わない。
「かせんかねさだ」
「ん?」
 あと十歩もあれば届く距離が恐ろしく遠くて、小夜左文字は唇を引き結び、奥歯を噛み締めた。
 前方では小豆長光が、大きな手をぐっと握りしめた。肩を怒らせ、なにかを堪える表情を浮かべ、穏やかに微笑む打刀を高い位置から睨みつけた。
 唇を震わせて、深く息を吸いこんで。
「あ、小夜。……って、やばいやばい」
 立ち尽くす小夜左文字を見つけ、駆け寄って来た後藤藤四郎が蒼白になって飛び跳ねる。
 彼までもがそう感じるくらいに緊迫した空気の中で。
 今にも太刀が、固く握った拳を振り上げる未来を妄想する中で。
「わたしに、おかしのつくりかたを、おしえてくれ。たのむ!」
 現実の太刀は勢いよく腰を曲げ、大声で吼えた。
 両手はピシッと、身体の線に沿って伸びていた。ほぼ九十度を維持して、悲痛な決意を込めて、両目はぎゅっと閉ざされていた。
「……え?」
「は?」
「うん?」
 彼を取り囲む三振りは、それぞれ目を点にして凍り付いた。呆気に取られてぽかんと口を開き、恐る恐る返事を待つ男に絶句した。
「どうだろうか」
 彼らが唖然としているとも知らず、小豆長光が低い位置から打刀に問う。
 それでハッと我に返った歌仙兼定だが、いきなりな申し込みへの戸惑いは消えなかった。
「菓子、が……なんだって?」
 落としそうになった花瓶を掻き抱き、膝も使って体勢を立て直した。身体を小刻みに揺らし、鮮やかな色彩で飾られた陶器を安定させて、小首を傾げ、小夜左文字たちにも視線を向けた。
 小豆長光も短刀を一瞥し、力強く頷いた。握り拳を胸に叩きつけて、湧き起こる悔しさに歯を食い縛った。
「わたしでは、さよさもんじをまんぞくさせられない。だがあなたなら、それができると。でしいりを、おねがいしたい。このとおりだ」
 再び深々と頭を下げて、困惑する打刀に懇願した。
 藪から棒に訴えられた男はヒクリと頬を痙攣させて、同じく予期せぬ事態に戸惑っている少年らを見た。
 名前を出された短刀は顔の前で手を横に振り、後藤藤四郎は数秒してから口を押さえて後ろを向いた。こみ上げる笑いを懸命に耐えて、肩を大きく震わせた。
 打刀にとっては、なにがなんだか分からないままだが、菓子作りを得意とする太刀が弟子入りを申し込んできたのだけは、はっきりしている。
 その動機も、大雑把ながら説明されていた。
 恥ずかしさに耳まで赤くして、小夜左文字が歯軋りする。
 顰め面の少年を遠くに見て、歌仙兼定はしばらくして、ふわっと笑った。
「残念だが、お断りするよ」
 小夜左文字が心から美味しいと思える菓子を作れるのは、自分だけ。
 こんな特権を手放すわけがないと言ってのけた打刀に、太刀は心底残念そうに項垂れた。

2018/05/15 脱稿

さらに又霞に暮る山路かな 春を尋ぬる花のあけぼの
山家集 雑 988

万緑

 チャイムが鳴って、憂鬱な午前の授業がようやく終わった解放感に浸っていた。
 堪えていた眠気は、欠伸と共にどこかへと消え去った。単に授業が理解出来ず、つまらなかっただけの言い訳を彼方へ追いやって、綱吉は椅子の上でぐーっと伸びをした。
「あー……」
 背骨をボキボキ鳴らして、全身に血液が巡る感覚に歓喜の声を漏らす。
 学校で唯一と言い切れる楽しみな時間を前にして、彼は緩む頬を押さえた。
「よし、っと」
 勉強は嫌いだが、友人と机を寄せ合い、互いの弁当を融通し合うのはとても楽しい。
 今日は天気が良いことだし、屋上かどこかで食べるのも悪くなかった。
 満面の笑みを浮かべたまま、がやがや五月蠅い教室を見回した。いつも一緒に食事をしている山本と、獄寺の姿を探しつつ、右手は机のフックに伸ばした。
 母である奈々手製の弁当は、半月型をした通学鞄の中だ。中身が傾いたり、ひっくり返ったりしないよう、登校中は慎重に水平を保って運んできた。
 歯磨きしながらちらりと覗いた中身は、大好物のハンバーグに、唐揚げも含まれていた。昼から御馳走だと胸が弾んで、わくわくが止まらなかった。
 しかし。
「あれ?」
 見当たらない友人を探して泳ぐ視線に合わせたわけではなかろうが、右手もスカッと空振りした。
 確実に指が触れる場所を探ったのに、何も掴めなかった。シンプルな構造の机の、冷たい脚に指の背が掠めたのみだった。
「え?」
 当てが外れて、綱吉は顔を下向けた。嫌な予感を覚えて、奥歯をカチリと噛み鳴らした。
 教科書類を机の引き出しに移した後の、弁当以外は碌なものが入っていない鞄が、どこにも見当たらなかった。
「ええ?」
 訳が分からず、声が裏返る。
 朝のホームルーム開始直前に駆け込んで、確かにここに引っ掻けた。午前中に四教科分の授業があったが、その間は一度も動かしたりしなかった。
 だというのに、在るべきものが忽然と消え失せた。
「ちょ、ちょっと待って」
 動揺のまま、がたっと音立てて椅子から立ち上がった。視線を高くして、改めて教室内部を見渡せば、後方のドア付近にいた女生徒が「きゃっ」と悲鳴を上げて飛び退いた。
 その少女は綱吉ではなく、別のところを見ていた。
 廊下から教室に入ろうとしていた男子生徒も、下を見ながら吃驚した顔で飛び退いた。
 理路整然と机が並ぶ空間では、机上より低い位置にあるものは把握し辛い。
 けれどヒョコヒョコと、不自然なものが揺れているのだけは見えた。使い込まれた通学鞄の、フックに引っかけられていた影響でやや尖り気味の持ち手部分が、リズミカルに踊っていた。
 それが開けっ放しのドアを抜け、廊下へ出ようとしている。
「あ~っ!」
 直後に、こんもりとした黒い塊が見えた。先端が鋭く尖った角らしきものが、そのブロッコリーのような髪の毛から覗いていた。
 綱吉の脳裏に、牛柄を愛用するいたずら小僧の顔が浮かんで、弾けた。
「ランボ、なにしてんだ!」
 それだけで、何が起きているのかが理解出来た。
 沢田家で世話している幼子のひとりが、こっそり学校に忍び込んでいたのだ。
 狙いは、間違いなく綱吉の弁当だ。奈々が鼻歌を奏でながら作業している時、あの少年も台所にいた。
 朝食では出なかった料理を欲しがり、強請っては、断られていた。これは勉強を頑張る綱吉の分だと繰り返し諭され、我慢するよう言われていた。
 しかしあの泣き虫は、諦めていなかった。
 まさかの事態に目を白黒させて、綱吉は慌てて駆け出した。自分の椅子に躓いて転びそうになったが、何とか踏みとどまり、血相を変えて廊下から顔を出した。
「待て!」
 昼休みの混乱に乗じて掠め取ろうと試みたようだが、そうはいかない。
 鞄を頭上に担いで歩く五歳児に皆が怪訝にする中、綱吉は大声で叫んだ。
「ぴゃっ」
 途端に、上機嫌に尻尾を揺らしていたランボが飛び上がった。ぴょん、と鞄を弾ませて、そのまま脱兎のごとく逃げ出した。
 振り返りもしなかった。
 自分がなにをしているのか、充分承知した上での犯行で間違いなかった。
「学校には来るなって、言っただろ。ていうか、オレの弁当返せ!」
 ただでさえ綱吉は問題児扱いで、各方面から睨まれている。
 自発的にトラブルを起こした回数はあまりないのに、気が付けば巻き込まれていて、評価は下がる一方だった。
 これ以上騒動を起こしたら、また色々なところから文句を言われてしまう。
 特に風紀委員会からの風当たりは厳しく、見付かったらただでは済まなかった。
 部外者が校内に侵入したと知れたら、並盛中学校を実質的に取り仕切っている男が黙っていない。
 穏便に済ませたいのが本音だが、ランボは優しく語り掛けて応じてくれる子供ではなかった。となればなるべく早く彼を確保し、学校から追い出すしかなかった。
「なんなんだよ、もう」
 逃げた牛小僧を追って、綱吉は階段を駆け下りた。曲がり角で愚痴を零し、見失わないよう目を凝らした。
 他学年の教室前を突っ走り、ちょこまか逃げ回る弁当、もといランボを捕獲すべく何度も挑戦した。袋小路へ追い込むべく、人気の少ない方へそれとなく誘導した。
 本校舎から特別教室棟へ移り、息を切らし、出口のない一本道で勝ち誇った笑みを浮かべる。
「もう逃げられないぞ、ランボ」
 非常階段に続くドアは鍵がかかっていた。
「う、うわあん!」
 ドアノブをどれだけ回しても、押しても反応しない。罠に嵌められたと気付いてか、ランボは癇癪を爆発させた。
 顔を歪め、地団太を踏んだ。ゆっくり近付いてくる綱吉に向けて、頭から引き抜いた積み木の玩具やらなにやらを放り投げるが、狙いは定まっておらず、避けるのは容易かった。
「さ、弁当を返せ」
 やんちゃ盛りの五歳児は、何事に対しても自分が一番でなければ気が済まない。
 世の中はそんなに甘くないと教えるは、年長者の務めだった。
 壁際に詰め寄って、鞄を取り戻すべく腕を伸ばした。
「うわああん! ツナなんかきらいだー!」
「うわ、ちょう。ランボ」
 しかし最後の悪足掻きと、ランボは両手両足を振り回した。弁当が入った鞄も容赦なく揺さぶって、咄嗟に身を引いた綱吉の目の前で高く、遠くへと放り投げた。
 感情が高ぶった状態だから、コントロール云々以前の問題だ。
 見事すっぽ抜けた鞄は、こういう時に限って全開になっている廊下の窓をすり抜けた。支えを失い、重心が傾いて、開けっ放しのファスナーを越えてチェック柄の包みがちらりと頭を出した。
 中身がぎっしり詰め込まれた重い弁当箱が、一足先に地上目掛けて落ちていく。
「ああああーっ!」
 急いで窓から身を乗り出すが、届くわけがない。
 自分まで転落しないよう手すりを掴んで、綱吉はガサッ、と音を立てた緑の木を呆然と見つめた。
 生い茂る葉がクッションの役目を果たしたが、地上に叩きつけられた弁当が無事とはとても思えない。
「ふ、ふふ~ん。ランボさん、知らないもんね」
「待て、ランボ。お前なあ、覚えてろよ!」
 ショックに打ちひしがれていたら、事の発端となった五歳児が素知らぬ顔で後ろを通り過ぎようとした。
 誰が悪いのかは一目瞭然なのに、反省の色は少しも感じられない。むしろ自分を追い詰めた綱吉が悪い、と言いたげな態度に腹が立ったが、彼を叱るのは後回しにせざるを得なかった。
 早くしないと、昼休みが終わってしまう。
「母さんにも言うからな」
「ぴぎゃっ」
 手すりを頼りに立ち上がり、情けない捨て台詞を残して廊下を駆けた。
 後ろで蛙が潰れたような悲鳴を上げたランボを無視し、転ばない程度に急いで階段を下った。あれだけ天地の区別なく振り回された弁当箱でも、蓋が外れて中身が漏れていなければ、食べるのは可能だからだ。
 昼食抜きのまま午後の授業に突入するなど、考えたくもない。
 それでなくともランボとの鬼ごっこで体力を削られて、空腹は絶頂に達していた。
「なんでオレばっかり」
 言っても始まらない愚痴を散々零して、一階に辿り着いた。屋外に出るには一旦正面玄関へ出向き、靴を履きかえてからでなければならないが、その手間が惜しかった。
「ええい」
 誰も見ていないのを確認して、覚悟を決め、窓枠を跨いだ。銀色のフレームに爪先を置いて、校舎の外に出た。
 まるで二階の部屋を直接訪ねてくる誰かのようだ。
 玄関の存在を完璧に無視してやって来る某風紀委員長を連想して、綱吉はふふっ、と笑みを零した。
「えっと、弁当は、どこ……だ?」
 ささくれ立っていた心が少し和らいだが、落下した鞄と弁当箱を回収するまで安心出来ない。
 きょろきょろと辺りを見回し、頭上を仰いで校舎端の窓の位置を確認する。
 同じような木が一列に並んで植えられており、該当する木まではいくらか移動が必要だった。
「ど、こ、だ。ど、れ、だ?」
 歩調に合わせて言葉を区切り、唄うように足を進めた。
 首を竦め、若干猫背になっているのは、上履きのまま外に出た後ろめたさによるものだった。
 こんなところを風紀委員に見付かったら、ネチネチと嫌味を言われるに決まっている。だから極力接地面を減らすべく、爪先立ちの忍び足で目的地を目指した。
「あった」
 一時は見つからないのでは、と不安に駆られたけれど。
 地面に横たわる平らな鞄のその先に、見慣れたチェック柄の包みは転がっていた。
 まだ中身の無事が確認出来てはいないが、第一関門クリアだと、思わずガッツポーズが出た。脇を締め、握り拳を上下に振った綱吉は、歓喜の表情で目当ての品に駆け寄った。
「あ……」
 だが楽勝に思えた展開は、想像を超える方向に転がった。
 ダメツナにはこれくらいがお似合いと、運命の女神は残酷だった。
「誰だい、こんなところにゴミを捨てたのは」
 彼が辿り着く直前、校舎の裏側から黒い影が現れた。これ以上はない、という絶妙なタイミングでやって来て、凍り付いた綱吉の前でチェック柄の巾着袋をひょい、と拾い上げた。
 臙脂色の腕章が、腕を通していない学生服の袖で揺れていた。
 パタパタと羽音がして、黄色い小鳥が黒濡れた髪に着地する。
「ダイナクショウナクナミガイイ~」
 そうして軽やかに歌い奏でる姿は、時と場合によってはとても朗らかで、笑顔を呼び込むものだった。
 しかし今の綱吉にとっては、緊張を悪化させる要因にしかならない。
 ヒク、と頬を引き攣らせた彼を一瞥して、雲雀は不遜に口角を持ち上げた。
「君の?」
 傍には空に近い学生鞄も落ちている。
 そちらにも視線を向けた風紀委員長に、固まっていた綱吉はハッとなった。
「お、オレの、です。返して……えっと、ください」
 惚けている場合でないと叱咤して、途中詰まりながらも訴えた。両手を伸ばし、掌を見せて、返却を求めて唇を引き結んだ。
 しかし雲雀はすぐには応じず、綱吉を上から下に眺め、緩慢に頷いた。
「残念。拾ったのは僕だから、僕のものだよ」
 赤い紐の巾着袋の中身が何であるか、重さや形状から、ある程度推測は可能だ。
 意地悪く笑って言った青年に愕然として、綱吉は言葉を失い立ち尽くした。
「そんなあ」
 あまりにも横暴が過ぎる発言だが、彼を糾弾しても痛い思いをするだけだ。
 仕込みトンファーで殴られた衝撃を思い出すだけで、ぶるっと全身に震えが来た。骨が砕け、脳みそが飛び出すのではと危惧するくらいの激痛は、可能ならば避けたかった。
 悔しいが、相手が悪い。
 諦めきれないが、諦めざるを得ない状況に追い遣られて、綱吉は泣きべそをかいて鼻を愚図らせた。
「ううう」
 哀しみに浸っていたら、呼応するかのように腹が鳴った。
 きゅるるる、と哀愁を漂わせる音色は雲雀の耳にも届いたようで、彼はぶらぶら揺れる巾着袋と、綱吉の顔を交互に見比べた。
 折しも、昼休み終了を告げるチャイムが鳴った。
 教室に戻るよう促す音色は、ただでさえ傷ついている綱吉の心を容赦なく打ち砕いた。
 帰りの荷物を入れるのに必要だから、鞄だけは回収した。木の葉と砂埃を払い落とし、ぺたんこの腹に押し当てて、拭いきれない空腹を懸命に誤魔化した。
 目尻に浮いた涙もそのままに、とぼとぼと歩きだす。
「待ちなよ」
 意気消沈した姿はあまりにも憐れで、鬼と評される風紀委員長であっても、流石に同情せざるを得なかったようだ。
 呼び止められて、綱吉は時間をかけて振り返った。
 のろのろした動きで、訝しげに雲雀を見る。
 彼は顔の横に巾着を掲げ、いかにも仕方なさそうに溜め息を吐いた。
「拾った側の取得権は、本来の持ち主の半分だったかな」
「……はい?」
「昼休み、随分騒々しかったみたいだね」
「うぎっ」
 回りくどい台詞に、意味が分からずぽかんとなる。
 間抜け顔を晒していたら、近付いてきた雲雀が弁当箱を高くした。重力を無視して逆立っている綱吉の髪を潰しながら巾着を沈めて、輪になっていた赤い紐をパッと手放した。
「うわ」
 もれなく右に傾いた弁当箱が、傾斜を滑って落ちてきた。
 大急ぎで両手を広げ、胸に抱え込む。代わりに落ちた鞄は、雲雀が拾ってくれた。
「応接室使いなよ。特別に許可してあげる」
「いいんですか?」
「空腹で授業に身が入らないまま教室に追い返しても、仕方がないでしょ」
「あはははは」
 思わぬ優しい提案に驚き、夢でも見ている気になった。
 手厳しい指摘には引き攣り笑いで返して、風紀委員長の気が変わらないうちにと、恐縮しながら彼に続いた。
 正面玄関で上履きの底を払い、通い慣れた応接室までの道を行く。始業のチャイムが鳴った後の学校は静かで、大勢が一堂に集まっているのが嘘のようだった。
 本来の用途を外れている応接室には草壁がいて、綱吉の顔を見てびっくりした顔をしたが、特になにも言わなかった。
 委員長の気まぐれはいつものことと受け流して、弁当箱を机に置いた綱吉のために、熱いお茶を煎れてくれた。
「哲、僕にも」
 雲雀は部屋中央の応接セットではなく、窓辺にある執務机に座った。背凭れを軋ませながら部下に命じて、机上にあった書類を手に取った。
「いただきます」
 これ以上ない環境に相好を崩して、綱吉は両手を合わせて目を閉じた。
 昼休みは散々だったが、結果オーライだと自分を慰めて、巾着を開き、弁当箱の蓋を外した。
 だが。
「うわっちゃあ……」
 幸運が続いていたので、うっかり忘れかけていたが、この弁当は実に多難な時間を過ごしていた。
 米飯は片側に偏り、ハンバーグのソースが蓋の裏にべったり貼りついている。そのソースが糊代わりになって、卵焼きを掠め取っていた。
 ポテトサラダはカップ型の容器からはみ出し、唐揚げと一体化していた。プチトマトとハンバーグが仲良く手を取り合っており、赤い球体は斑色の何かに変貌していた。
 蛸の形をしたソーセージは米に埋もれて、窒息寸前だ。
 大量の米粒がデコレーションされた蓋を静かに置いて、綱吉は顔を引き攣らせた。
「すごいね。どうしたの」
「三階から落としました」
「ああ、それで」
 食べ物そのものは原形をとどめていたが、色々と混ざり合って、なかなかのカオスぶりだ。
 湯気を立てる茶を啜った雲雀は成る程と頷いて、傍に控える草壁を手で追い払った。
 意図を汲み、リーゼントの男が応接室を出ていく。
 パタン、と閉まったドアをちらりと見て、綱吉は半分寄越すよう主張していた青年に首を傾げた。
「食べますか?」
 色々な食べ物の匂いが絡み合い、見た目の悪さから食欲は湧かない。
 本来の姿なら涎が溢れていただろうが、この有様では王様気質の雲雀も無茶を言ってこなかった。
「遠慮するよ」
「ですよねえ?」
 切羽詰まっている綱吉ならまだしも、彼はいくらでも食事を手に入れる方法がある。
 草壁に買って来させても良いし、宅配を頼んでもいい。並盛中学校で雲雀に逆らえる人間など、教職員室にだっていないのだ。
 あっさり引き下がった彼に苦笑して、綱吉は箸を抓み持った。蓋に張りついている卵焼きをまず救出して、デミグラスソースの海に沈んでいる米飯からソーセージを引き抜いた。
 最早どうにもならないと分かっているけれど、ぐちゃぐちゃになっている中身を簡単に整え、改めて瞑目する。
 作ってくれた奈々や、ひょんなことから場所を提供してくれた雲雀に心の中で感謝して、意を決して口を開いた。
 ポテトサラダがトッピングされた唐揚げにかぶりつき、トマトにまとわりつくソースはハンバーグの断面に擦りつけた。腹の中に入ってしまえば同じと、いつもと微妙に違う味付けを我慢して、がむしゃらに頬張った。
 ゆっくり食べていると考えてしまうから、咀嚼もそこそこに飲み込んだ。
 食べているうちに、ランボはちゃんと家に帰ったか、心配になった。
 休憩時間になったら家に電話して聞いてみることにして、綱吉は口の端に付いたソースを指で拭った。
 雲雀はといえば、机に向かって真面目に仕事をしていた。複数の書類と向き合って、なにやら難しい顔をしていた。
「なに?」
 じろじろ見ていたら、気付かれた。
「いえ、なんでもないです」
 彼はちゃんと、昼食を食べたのだろうか。
 人の弁当を奪おうとした男だから、まだ食べていない可能性は高いが、空腹で死にそうな雰囲気でもなかった。
 なにを考えているのか、今でもよく分からない。
 白い箸の先をぺろっと舐めた綱吉に、雲雀は緩慢に頷いて返した。
「美味しい?」
「まあ、程ほどには」
 質問されて、微妙な顔で答える。
 ぐちゃっと混ざり合っていなければ間髪入れずに首肯出来だのだが、今日ばかりはそうもいかなかった。
 曖昧な返答で誤魔化して、残り少なくなった弁当を掻き込んだ。喉に詰まりそうになった時は、適度に温くなった茶の力を借りて、窒息だけは回避した。
「けほっ」
 喉の真下を数回叩き、危なかったと冷や汗を流す。
 火照った顔を手で扇いでいたら、ギシ、と金属が軋む音がした。
 座っていた雲雀が、背凭れを手に立ち上がっていた。窓の外で待っていた小鳥のために鍵を開けてやり、そのまま机には戻らず、応接セットへ足を向けた。
 綱吉は弁当を食べ終えたばかりで、彼の意図は不明だ。手早く片付けをしていたら、幅広のソファの真後ろに回り込まれた。
「やっぱりおこぼれ、もらおうかな」
「ええ?」
 胸ほどの高さしかないソファの背凭れに寄り掛かり、声を潜ませて囁く。
 弁当箱は、綺麗にとはいかなかったが空っぽで、今から雲雀が食べる分など残っていなかった。
 ハンバーグのソースを舐めるくらいしか出来ないのに、いったい何を言い出すのか。
 彼の気まぐれは初めてではないが、これほど意味不明な要求はなかった。
「おこぼれって、ヒバリさん」
 蓋をした弁当箱を握りしめ、困惑に眉を顰める。
 戸惑いに琥珀色の瞳を揺らめかせた綱吉を笑って、雲雀は小さく首を振った。
 違う、という意味だろうが、何を指しているのかは分からない。
 当惑する綱吉の表情をじっくり堪能して、雲の守護者は身を乗り出した。
 背筋を伸ばし、ソファに座る未来のボンゴレ十代目に顔を近づけた。鼻息が肌を掠め、咄嗟に仰け反って逃げようとする小動物を追いかけて、凶暴な男は舌を伸ばした。
 れろ、と生暖かい感触が唇の右端を通り過ぎる。
「――へ?」
 なにが起きたのか、すぐに理解出来なかった。
 一瞬で過ぎ去った微熱の正体にクエスチョンマークを生やして、綱吉は僅かに残る湿り気に指先を重ねた。
 呆然と顔を上げれば、ふふん、と鼻を鳴らした青年が一度は閉じた口を開けた。
 ベー、と伸ばされた赤い舌の先端には、小さな楕円の塊が横たわっていた。
 拡大鏡を使わなくても、それがなんであるか、綱吉は知っている。
「ごちそうさま」
 たったひと粒の米を舌先で包み、咥内に戻した雲雀が囁く。
 満足そうに目を眇めた彼に見下ろされて、ハッと我に返った綱吉はみるみるうちに赤くなった。
「ぬあ、あっ、あ、あ~~~!」
 彼が口にしたものがどこにあったのか。
 それをどうやって掠め取ったのか。
 ふたつのことを同時に悟って、綱吉は唇の際に置いていた指を勢いよく上下に動かした。
 未だ残る感触を拭い去ろうとしたが、摩擦熱で余計に意識させられた。
 擦り過ぎてヒリヒリ痛んで、必要以上に赤く染まった肌は簡単に元に戻りそうになかった。

2018/05/13 脱稿

見てし人こそ 恋しかりけれ

 訪ねて行った部屋は、無人だった。
 見事にがらんどうで、誰かが出入りした形跡はない。朝からずっと帰っていないと予想して、ソハヤノツルキは眉を顰めた。
「どこ行ったんだ?」
 首を捻って考えるが、心当たりはない。顎に親指を押し当てて唸ったところで、部屋の主が戻ってくるわけがなかった。
 廊下の左右を確認して、仕方なく開けた障子を閉じた。真後ろから鳥の囀りが聞こえたが、振り返る直前に飛び去ってしまった。
 黒い影がすうっと視界を離れ、跡形もなく消え失せた。
 あと少しで掴めそうなのに、みすみす逃した心境に陥って、大柄な太刀は短い髪をぐしゃぐしゃ掻き回した。
「いや、別に用はないんだけど……」
 当てが外れたと肩を落とし、誰に言うでもなくぽつりと呟いた。退屈だったので暇潰しの相手を探していただけと、心の中でうじうじ言い訳を並べ立てて、猫背になって踵を返した。
 両手を腰に当て、やや不貞腐れた表情で黙々と廊下を行く。
 通りかかった部屋から笑い声がしたが、探している脇差のものではなかった。
「聞いて、……あ、いや。やっぱ、やめとこう」
 鯰尾藤四郎たちなら行き先を知っているかと思ったが、わざわざ部屋に踏み込んで問い質すものでもない。
 必死になっているとは思われたくなくて、ソハヤノツルキは寸前で踏みとどまった。
 ピクリと震えた指で鼻の頭を弾き、後ろ髪を引かれつつ、脇差部屋区画を出た。自室に戻ろうと十字路を右に曲がって、数歩と行かないうちに立ち止まった。
 足音がして視線を上げれば、謙信景光が急こう配の階段を駆け下りてくるところだった。
 手すりがなく、幅が狭い箱階段だが、身軽な少年は途中で躓くことなく、無事一階へと辿り着いた。
「待てって、謙信。置いてくな」
「あはははは。こりゅうのまけー」
「なっ。勝負なんかしてないだろ」
 直後に上から声が飛んで、小竜景光が顔を出した。彼の体格でこの階段はかなり降り辛く、それで手間取っている間に、真ん丸頭の少年は走り去ってしまった。
 高らかと笑い声を響かせて、謙信景光が母屋の方へ走っていく。
 やんちゃな短刀を身内に持った太刀に同情して、ソハヤノツルキは猫背を正した。
「上じゃなくて、よかったぜ」
 天井にぽっかり空いた穴は、彼が顕現した直後にはなかったものだ。
 仲間が増える度に増改築を繰り返してきた本丸だが、最近はついに拡張する土地がなくなった。仕方なく上に空間を広げることとなり、居住棟は二階建てになった。
 だが後から付け加えた階段は傾斜が酷く、一階部分の通行を極力阻害しないためにと、横幅もひと振り分しか用意されていなかった。
 短刀や脇差ならさほど苦にならないが、それ以上の体躯になると、登るのはともかくとして、降りるのには四苦八苦させられた。
 それでも太刀までなら、なんとか通れた。しかし薙刀はさすがに無理があって、協議の結果、静形薙刀は獅子王と部屋を交換する形で落ち着いた。
 鵺を背負ったあの太刀は、ソハヤノツルキと比べるとかなり小さい。
 へし切長谷部いわく、今後は屋外に階段を設置する方向で進めるという話だが、それがいつ実行されるかは不明だった。
 少なくともこの二、三日中に工事が始まる気配はない。
 恐々階段を下りて来た小竜景光にひらりと手を振って、ソハヤノツルキは溜め息を吐いた。
「どうすっかな~」
 内番には任じられておらず、出陣や遠征の予定もない。急ぎの用件は特になく、取り立ててなにかをしたい、という欲もなかった。
 部屋でゴロゴロしてもいいが、今眠ってしまうと、夕餉に間に合わなくなる可能性があった。
 日が暮れるのがすっかり遅くなった空に思いを馳せて、彼は意味もなく首の後ろを掻いた。
 爪を立てて薄く跡を残し、来た方角をちらりと見る。
 これだけ多くの刀剣男士が共同生活を送っているのに、小竜景光以降、居住区の廊下を歩く刀と一度も出会わなかった。
「みんな、どうやって過ごしてんのかねえ」
 出陣できる刀の数は限られており、そこから外れた刀は基本的に本丸待機。畑仕事や馬当番といった仕事を命じられることもあるが、それだって毎日ではなかった。
 料理や掃除も当番制だが、この枠組みから弾かれる日だってままあること。
 料理好きの刀剣男士は当番でなくても台所に引き籠もっているが、ソハヤノツルキは生憎と、包丁仕事が得意でなかった。
 農作業だって、あまり気乗りがしない。
 馬の世話は嫌いではないが、暇潰しにするには、少々内容が重過ぎだった。
 同じように退屈している刀を探して、無駄話に花を咲かせるのが一番気楽で良い。
 しかし出鼻を挫かれたのが影響しているのか、身体が空いている刀に遭遇出来なかった。
「誰か居ねえかな、っと」
 再び猫背になって、ぶらぶらと歩き出した。
 部屋に戻ってもやることがないからと、太刀部屋区画には入らず、日頃縁のない大太刀部屋区画を訪ねてみた。
 けれどここは、脇差部屋区画以上に静かだった。
 石切丸や太郎太刀は、日中は本丸内にある小さな社を拠点としていた。次郎太刀の部屋からは鼾が聞こえた。蛍丸の部屋は襖が全開で、中を覗けば誰もいなかった。
 あの小さな大太刀は、来派の刀といつも一緒だ。今日も愛染国俊らと居るはずで、当てが外れた太刀は深々と溜め息を吐いた。
 兄弟刀が居れば一番良かったが、あの男は可愛がっている短刀を連れ、万屋へ出張中だ。
 共にどうかと誘われたが、邪魔するのは悪いと断った。
「ついてっときゃ良かったか」
 けれど今は、少し後悔していた。変に遠慮せず、提案に甘えておけばよかった。
「あ~、ああ」
 眠くないのに無理矢理欠伸をして、両腕を頭上へ伸ばした。肩の骨をコキコキ鳴らし、首を回して、辿り着いた行き止まりの壁を蹴って百八十度方向転換した。
 この辺りまで来たのは、実は初めてかもしれない。
 行く必要がない場所にわざわざ足を伸ばすのは、馬鹿のやることだ。
 その馬鹿になっている自分を笑って、彼は来た道を黙々と進んだ。
 左右の景色には全く変化がなく、好奇心をそそるものは見当たらなかった。
「ふあ、ああ」
 今度は本物の欠伸を零して目尻を擦れば、前方遥かを仲良く並んで歩く集団が見えた。
 似たり寄ったりの服装をしている刀の背丈は、どれも小さい。
「お出かけかい?」
 粟田口の短刀たちが、こぞってどこかへ向かおうとしていた。
 横一列に並び、廊下を埋めている。歩く速度はゆっくりで、追い付くのは造作もなかった。
 興味を惹かれ、五歩ほど後ろから声をかけた。談笑していた集団が一瞬ざわついて、真っ先に振り返ったのは後藤藤四郎だった。
「うんにゃ。でも天気良いし、その辺ぶらぶらしようって」
 頭の後ろで腕を組んでいた彼は、近付いてくる太刀に臆すことなく笑って言った。
 隣に立っていた五虎退も同意して頷き、露わになっている左目をきらきら輝かせた。
「あ、あの。ソハヤさん、も。御一緒に。どうですか?」
 両手を胸の前でぎゅっと握りしめて、爪先立ちでひょこひょこ揺れながら言う。
 思わぬ勧誘に驚いていたら、乱藤四郎が柑子色の髪を掻き上げた。
「どうせ暇なんでしょ?」
「ぎくっ」
「ぶは」」
 こちらの心を見透かしたかのように、嫣然とした微笑みを浮かべながらの発言だった。
 ドキッとしたのは嘘ではなくて、ソハヤノツルキは反射的に胸を押さえた。咄嗟に顔を背けてしらを切ろうとしたが、あまりにも分かり易い反応に、短刀たちは狙ってやっていると思ったようだ。
 ドッと笑いが起きて、本当のところを口に出せる雰囲気ではなかった。
 もっとも、暇を持て余していたのは間違いない。この際行き先はどこでも良いと腹を括って、彼は粟田口の提案に乗ることにした。
「そうだな。たまには、悪くねえな」
 前田藤四郎や信濃藤四郎たちは、兄弟刀である大典太光世と関わり合いが深い。その延長で、ソハヤノツルキとも喋る機会が多かった。
 包丁藤四郎とは、前の主が同じだ。けれどそれ以外の粟田口とは、あまり親しくしてこなかった。
 屋敷内で度々顔を合わせていても、出陣で一緒になる機会は稀。
 賑やかに、和気藹々と過ごしている短刀たちを遠目にすることはあっても、その輪に加わった経験はなかった。
「じゃあ、あそこにしましょうよ」
 小さい刀に群がられている大典太光世の姿は、これまで幾度となく目撃している。
 あの男の視界はこんな風だったのかと想像して、ソハヤノツルキは手を叩き合わせた秋田藤四郎に首を傾げた。
 あそこ、と言われても、さっぱり見当がつかない。
「あ、いいね。そうしよっか」
「んじゃま、行くとしますか」
 しかし粟田口の短刀たちは、たったこれだけで理解した。乱藤四郎が一番に賛同して、異論なしと後藤藤四郎が右腕を掲げた。
 説明はなかったが、ついていけばなんとかなるだろう。
「おっと」
 彼に続こうとしたら、くい、と袖を引かれた。
 なにかと思って視線を移せば、五虎退が恥ずかしそうに微笑んでいた。
 白い肌を紅に染めて、獣じみた犬歯を表に出した。言葉はないが何かを訴える眼差しに、ソハヤノツルキは困惑して眉を顰めた。
 こういう状況は初めてなので、短刀が何を求めているか、まるで思いつかなかった。
「どうした?」
「えっと、あの……」
 仕方なく説明を求めるが、五虎退は口籠もるばかりではっきりしない。
 後藤藤四郎らはずんずん進んでおり、距離が開きつつあった。
「五虎退?」
「あ、あの。やっぱり、僕」
 怪訝にしていたら、意を汲んでくれないと悟った短刀が摺り足で後退した。
 差し出がましい要望だったと恥じ入り、首を竦める。その傍らで、遠慮を知らない少年が元気よく飛び跳ねた。
「ソハヤさん、手を繋いでも良いですか?」
 あるいは、秋田藤四郎は空気を読んだのかもしれない。
 右手を高く掲げながら質問されて、ソハヤノツルキは目を丸くした。
「手?」
「はい!」
 急な申し出に驚いて、空っぽの己の手を見やる。
 鸚鵡返しに訊き返した彼に、桃色頭の少年はお手本のような返事をした。
 それでようやく、五虎退がなにをして欲しがっていたかが分かった。
「ああ」
 言ってくれればすぐ応じてやれたのに、それが口に出せない性格らしい。
 豪快で大雑把な刀が多い中で、見た目相応の幼さを披露した短刀に相好を崩し、ソハヤノツルキは分厚い掌を差し出した。
「ほらよ」
 右、左と順に伸ばして、片方ずつ掴むよう促す。
 途端にふた振りはぱあっと目を輝かせ、嬉しそうにはにかんだ。
「ソハヤさんの手、いち兄と違って、ごつごつしてますね」
「まあな。お前さんらの兄貴こそ、細っこくて心配になるぜ」
 先に秋田藤四郎がしがみついて、僅かに遅れて五虎退が抱きついてきた。引っ張られた肩の筋が変な風に伸びたが我慢して、小柄な刀に合わせて足を繰り出した。
 じれったくなるくらいゆっくりと廊下を進み、先行する刀を追いかける。
 玄関で待ち構えていた後藤藤四郎には、ニッと歯を見せて笑われた。
「悪いな」
「お前らこそ、大変だな」
 大典太光世が軽々とやってのけていたので甘く見ていたが、これは思ったより大変だ。
 ちょっと気を緩めると短刀を引きずってしまうし、逆に遅すぎると短刀に引っ張られる。左右で異なる動きをする刀を制御しつつ、真っ直ぐ進むのは至難の業だった。
 一期一振は毎日こんなことをしているのかと、感心するしかない。あまり接点がない刀だが、胸の内の評価はうなぎ登りだった。
 短刀の中でも年長組の後藤藤四郎や乱藤四郎も、さぞや手を焼いていることだろう。
 同情を返せば、彼は「ヘヘっ」と笑っただけだった。
「風が気持ちいいですね」
 草履を履いて屋外に出れば、空は見事に晴れ渡っていた。
 雲は少なく、風はそこそこ強い。太陽はとっくに南を通り過ぎて、西に向かおうとしていた。
 足元をすっと影が駆け抜けて、視線を上げれば猛禽の類が旋回していた。
 群れを作らず、単独で狩りを敢行している獣に思いを巡らせているうちに、ドン、と背中を衝かれた。
「こっち、です」
 ぼんやりしていたら、また置いて行かれるところだった。
 肩を捻って首から上だけを後ろに向ければ、五虎退が腰にしがみつき、右前方を指差していた。
 臆病でいつもビクビクしている少年だが、目が合った途端、嬉しそうに破顔一笑した。秋田藤四郎は前に回り込んで勝手に左手を掴み、思い切り引っ張ってきた。
「早く行きましょう」
「お、おう」
 元気いっぱいに叫んで、全力で走り出す。
 うっかり転びそうになったソハヤノツルキはなんとか失態を回避して、草履の底で地面を蹴った。
 踏み潰された青草は、足を外した途端にピンッ、と背筋を伸ばした。よく見ないと分からないくらい小さな花が咲いており、蜜を集める蝶が風に煽られながら飛び回っていた。
 楠の幹に蔓草が絡まり、木漏れ日が地表を彩る。
 だが、じっくり景色を眺める猶予は与えられない。彼らは枝を伸ばす木々の間を抜けて、大きな岩を抱きこむ木の根を飛び越えた。
 こんなところに来た事など、一度もない。
 暇があれば大典太光世と碁盤を囲い、たまに書物に目を通し、それ以外だと道場で汗を流す。
 何もする気が起きない日は部屋でごろごろ寝転がって過ごし、懐が暖かい日は万屋を冷やかしに行った。
 本丸の中を探索しようなど、思いついたことすらなかった。
 短刀たちの声が一切聞こえない日がたまにあるのには、気付いていた。毎日喧しいくらいなのに、珍しいこともあると、不思議に思いつつも原因を探ろうとはしなかった。
 彼らはソハヤノツルキが知らないところで、こんな風に庭を駆け回っていたのだ。
 屋敷の施設を往来する最短経路から外れた道は、とても道と呼べた代物ではなかった。
 短刀たちは獣が徘徊する悪路を慣れた調子で突き進み、鬱蒼と茂る木々の隙間を躊躇無く進む。
 どれだけの回数を往復しているのか、迷う素振りは一度もなかった。
「ソハヤさん、早く。早く」
「ちょ、ちょっと待てって。どこまで行くんだ?」
 昼間だというのに薄ら暗い場所は、闇に弱い太刀にとって恐怖だ。
 だが尻込みするのさえ許されない。短刀たちが放つ強烈な活力に、先ほどから圧倒されっ放しだった。
 行き先は『あそこ』としか聞いていない。
 それがいかなる場所なのか、皆目見当がつかなかった。
 興味はあるが、難路が太刀の体力を容赦なく削り取る。
 短刀たちなら軽々飛び越せる籔も真正面から突破するしかなく、気が付けば洋袴のあちこちに木の葉が貼り付いていた。
 頭に引っかかる枝を払い退け、繋いだ手を頼りに息を切らしてもう幾ばくか。
 そろそろ限界だ、と思い始めた矢先、暗かった視界が急に、眩い光に包まれた。
「とうちゃ~っく!」
 一緒に森から飛び出した秋田藤四郎が、万歳しながら歓喜の雄叫びを上げた。
 勢いを殺し切れず、前のめりに倒れかけた体躯を支えて、ソハヤノツルキは眼前に出現した光景に騒然となった。
「すげえ……」
「ようこそ。僕たちの秘密基地へ」
 先に到着していた乱藤四郎が、両手を挙げて太刀を歓迎する。
 後藤藤四郎は得意げな顔をして鼻の下を擦り、見事に咲き誇る花々の楽園を掌で示した。
 地表を覆う緑に、それを上回る数々の花。赤や黄色、白に紫と、鮮やかな色彩がそこかしこに溢れていた。
 そんな花畑を飛び交う蝶は、本丸とは段違いの数だ。ぶうん、と羽音がして、仰け反った先で見たのは鋭い針を持つ蜂だった。
 なんの準備もして来なかったので、草履履きの足は細かな傷だらけだ。疲れ果て、立っていられなくて座り込めば、むわっと来る土の臭いの後に、様々に混じりあった花の香りが漂った。
「ソハヤさん、これ、どうぞ」
 姿勢を低くして、燦々と日差しを受けて輝く草原を呆然と眺める。
 一旦は場を離れた五虎退が戻ってきて、摘みたてと分かる花を五輪ばかり、まとめて差し出した。
 訳が分からないまま受け取って、困惑に目を眇めた。まさか頭に飾れ、と言われているのかと思っていたら、見ていた後藤藤四郎が何故か腹を抱えて噴き出した。
「ちげえって。こっちの方な、こうやって蜜が吸えるんだ」
 当惑する太刀の心理を読んで、別の花を使って実践してくれた。
 相変わらず言葉が足りていない五虎退を見れば、微笑みながら頷かれた。
「美味しい、ですよ」
「へえ……」
 後藤藤四郎の言った通りだったと知り、教えられた通り花の根本を毟った。
 試しに咥えてみた花は、短刀であれば丁度ぴったりの大きさだったが、太刀がやると若干滑稽だった。
 まるで喇叭を吹いている気分だ。しかも吸える蜜はごく僅かであり、喉の渇きを癒やすにはとても足りなかった。
「この辺の花、全部毟っちまいそうだ」
「だ、駄目です。蝶々さんが、お腹空かせちゃいます」
「いや、しねえって」
 与えられた分を全て吸い終えて、ソハヤノツルキは立ち上がった。低木にびっしり隙間なく咲いている花に近付けば、冗談を真に受けた五虎退が身体を張って前を塞いだ。
 ちょっとした悪ふざけだったのに、こうも真顔で応じられると傷つく。
 顔の前で右手を振った彼に、短刀たちはホッとしたり、笑ったり、様々だった。
 広々とした空間は、本丸の庭からだと全く見えない。
 背筋を伸ばし、遮るもののない青空を仰いでいたら、涼やかな風が頬を撫でていった。
 ざああ、と遅れて木々がざわめき、足元を埋める雑草が身体全部を使って踊った。
 柔らかくてふかふかな緑の絨毯は、少々青臭いのを我慢すれば、寝床として申し分なかった。
 天気のいい日に昼寝をするには、もってこいだ。
「いいのか? 秘密の場所を俺に教えちまって」
 蜜を吸うのは諦め、今一度場所を選んで膝を折った。地面に直接腰を下ろせば、すかさず秋田藤四郎が背中に抱きついて来た。
 近くでもじもじしている五虎退を手招けば、嬉しそうに膝に潜り込んできた。足を揃えて畏まり、満面の笑顔で振り返った。
「秘密、じゃ、……ないです」
「大典太さんも知ってますよー」
「んだよ、それ。俺だけ蚊帳の外ってか?」
「もう、外じゃない、です。えヘヘ」
 思いがけず兄弟刀の名前が飛び出して、拗ねていたら慰められた。
 首を竦めて目を細めた短刀の頭を撫でてやって、ソハヤノツルキは流れる雲に意識を傾けた。
「兄弟以外に、知ってるやつは?」
 その雲のひとつが、探したけれど結局見つからなかった脇差の横顔に似ていた。
 ほかの刀に言わせたら、どこが、と首を傾げたくなる形だったが、そう感じてしまったのだから仕方がない。
 走っているうちは忘れていたことを思い出した彼に、五虎退と秋田藤四郎は小さく唸り、指を折った。
「えっと。謙信君となら、一緒に来たことあります」
「薬研兄さんは、宗三さんと不動君を連れて来たって、前に言ってました」
「へえ」
 名前は出なかったが、一期一振は勿論連れて来られたことがあるだろう。鯰尾藤四郎や、骨喰藤四郎も、恐らくは。
 ソハヤノツルキが知らなかっただけで、案外多くの刀が此処を訪れているらしい。前田藤四郎に手を引かれる大典太光世の姿も楽に想像出来て、なんだかおかしかった。
「物吉は?」
「物吉さんですか? どうでしょう。後藤兄さ~ん」
 気が付けば、訊ねていた。
 ぽろっと零れ落ちた音を拾って、秋田藤四郎が遠くに向かって手を振った。
 後藤藤四郎は尾張徳川家に伝わった短刀で、物吉貞宗との付き合いも長い。ソハヤノツルキが顕現した後も、彼らは特に仲が良かった。
「えっ、あ、いい。やっぱいい」
 太刀の分からない話で盛り上がっている彼らを見ていると、訳もなく不安になった。もやもやしたものが胸の奥深くに絡まって、あまり良い気がしなかった。
 そういった経験が引っかかって、つい声を荒らげた。
 しかし時すでに遅し。弟刀の呼びかけに応じて、後藤藤四郎はこちらに走って来ていた。
「ん? なんだ?」
 まずは秋田藤四郎に話しかけて、気まずそうにしている太刀に視線を移す。
 首を捻る少年は無邪気で、大人げない感情を抱いている自分が恥ずかしかった。
 目を合わせられず、ソハヤノツルキは明後日の方向を向いたまま黙り込んだ。それで再び弟刀に意識を戻した少年は、両手を腰に当て、右膝を軽く折り曲げた。
 爪先で地面を穿った彼に、五虎退が僅かに身を乗り出した。
「後藤兄さんは、物吉さん、連れて来たことありますか?」
「え? なんで物吉?」
 口籠もる太刀に代わって質問して、間髪入れず返された疑問に眉を顰める。
 この場に居ない刀の名前がどうして出てくるのか、一連のやり取りを聞いていなかった短刀に分かるわけがない。だが五虎退だって、ソハヤノツルキの口から強運の脇差の号が出た理由を知らないのだ。
 きょとんとして、振り返る。
 複数の視線を一度に浴びて、ソハヤノツルキは深々と溜め息を吐いた。
「別に、なんとなく」
 観念し、白旗を振った。
 うっかり口が滑っただけで、深い考えがあったわけではない。
 ただこの花畑が、あの少年に似合うような気がしただけだ。短刀たちとも仲がいい脇差だから、きっともう連れて来られていると思って、それを知らなかった自分が悔しかっただけだ。
 頭皮に爪を立て、金髪をがりがり掻き毟った。
 狭隘な心の持ち主と呆れられるのを覚悟して、侮辱に満ちた眼差しを受け止めるべく背筋を伸ばした。
「ふうん。てか、連れて来てねえけど。あいつ、なんだかんだで忙しいし。それがどうかした?」
 歯を食いしばり、打ち首の刑に処される心持ちで構えていた矢先。
 変に力むソハヤノツルキに気付くことなく、後藤藤四郎はあっさり言い放った。
 逆に聞き返されて、見事に空回った太刀はあんぐりと口を開けた。目を点にして後藤藤四郎を見上げていたら、トスン、と肩から背中に向かって衝撃が走った。
「よかったですね、ソハヤさん」
 首から上だけで振り向けば、秋田藤四郎が満面の笑みを浮かべていた。
 にこにこと屈託なく笑いかけられて、独り相撲に興じていたのを自覚した男はカアっ、と赤くなった。
「べっ、別に良かったとか、そういうんじゃ。な、ん……なんでもいいだろ!」
 仰け反り避けて、短刀を引き剥がす。
 膝に乗っていた五虎退を危うく潰しそうになったが、身軽な少年は危機を察し、一足先に脱出していた。
 火照って熱い顔を手で扇ぐが、熱はなかなか引いてくれない。短刀たちに不思議そうに見つめられて、居心地が悪いことこの上なかった。
「物吉さん、連れて来てあげたら、喜んでくれると思いますよ」
「ああ、いいんじゃね? そうしてやれよ」
「……覚えてねえよ、道順」
 一方で少年らは好き勝手言って、羞恥に喘ぐ太刀に涼しい風を送りつける。
 悪気が一切ない発言に小鼻を膨らませて、ソハヤノツルキは起こした右膝に頬杖をついた。
 先ほどからずっと、彼らに振り回されっ放しだった。
 大典太光世も、こんな気持ちになることがあるのだろうか。意外に短刀たちと行動を共にする機会が多い兄弟刀を思い出して、彼は下手なことを言わないよう、口に蓋をした。
 右掌で顔の下半分を覆い隠し、鬼ごっこを開始した三振りをぼんやりと眺める。
 あれこれ無駄に考え過ぎていたのを反省していたら、甘く漂う花の香りがふわっ、と大きく膨らんだ。
「どうしたの? 元気ないけど」
「なんだ、これ」
 軽いものが頭の上に落ちて来て、視線を上げれば乱藤四郎が背後に立っていた。
 彼が被せたのだろう、頭上にあったのは花冠だ。白く、手毬のように丸い花を使って、緑の茎を絡めて輪を作っていた。
 太刀の頭には少々小さいが、あまり大きくすると花の重みで形が崩れてしまいそうだ。なかなか上手く出来ていると感心して、ソハヤノツルキはしゃがみ込んだ短刀の頭に花冠を返却した。
「似合う?」
「ああ、可愛い。かわいい」
「んもう。心が籠もってない!」
 その状態で小首を傾げられて、正直に感想を述べた。だのに信じてもらえなくて、緩く握った拳が一発、肩に落ちて来た。
 殴られたが、痛くない。一応避ける仕草だけして、ソハヤノツルキは破顔一笑した。
 乱藤四郎の柑子色の髪に、白と緑で作った花冠はとても良く似合っていた。色味が引き立ち、ただでさえ少女じみた姿が一層際立っていた。
 これで市中に佇んで、彼が男だと気付ける輩がどれほどいるだろう。
 試してみたい気もするが、乱藤四郎にとっては迷惑な話だ。大人しく言わずに済ませて、彼は足元近くに咲いていた小さい花を一輪、摘み取った。
「ほれ」
「ありがと」
 薄紫色の花だけ残し、葉は毟って短刀の耳元に挿してやる。
 一挙手一投足を見守っていた少年は満足そうに微笑んで、ソハヤノツルキが選んだ花飾りの位置を調整した。
 彼が動く度に、花冠が落ちそうで、落ちない程度に揺れ動いた。
 遠くから後藤藤四郎らのはしゃぐ声がした。五虎退が転んだのだろうか、緑の葉が一斉に宙を舞い、甲高い笑い声がこだました。
 ソハヤノツルキは彼らのように、野を走り回ったりしない。出来ない。
 次にここに来る機会があったとして、その時自分はなにをして過ごすのか。
「ソハヤさん?」
「っ」
 思いを馳せていたら、耳元で名前を呼ばれた。
 一瞬違う刀を想像してしまい、ビクッと身体が震え、反応は大袈裟だった。
 視線を向けた先にいたのは、乱藤四郎だ。けれど真ん丸い瞳が、探したが会えなかった脇差を想起させて、落ち着かなかった。
「あ、いや」
 似ても似つかないのに、重ねてしまった。
 一緒に居るのがあの刀であればと、僅かなりとも思ってしまった自分が恥ずかしかった。
 苦虫を噛み潰したような顔をして、勝手に赤くなる顔を掌で覆い隠す。
 乱藤四郎はそれを黙って見守って、しばらくしてからふふん、と鼻を鳴らした。
「物吉さんじゃなくて、残念?」
「ちっげえよ!」
「あはは。図星だ~」
「ぐ、う」
 藪から棒に言われて、声が上擦った。
 遠くにいた秋田藤四郎が立ち止まるくらいの大声に、乱藤四郎は腹を抱えて笑い転げた。
 もっとしっかり否定したいところだけれど、これ以上は墓穴を掘るだけだ。そもそも見透かされて悔しいやら、照れ臭いやらで、言葉はなかなか出て来なかった。
 中途半端なところで握り拳を揺らし、行き場のないそれを最終的に膝へ叩きつける。
 歯軋りしながら骨と骨をゴリゴリ擦り合わせていたら、一頻り笑って満足したのか、乱藤四郎が深呼吸して目尻を拭った。
「ねえ。良い事教えてあげよっか」
 白い歯を見せて、悪戯っぽく笑った。この時だけ、彼の顔が年相応の少年に見えた。

 屋敷に帰り着いたのは、夕焼けが西の空いっぱいに広がった後だった。
 あと半刻もすれば、太陽は地平線の下に沈むだろう。夕餉の開始まで、もう間もなくといったところだった。
「疲れた」
 出かけたと言っても、本丸の敷地から出ていない。だのに戦場で、時間遡行軍相手に大立ち回りを演じた後よりも疲弊していた。
 身体中から青臭さが漂い、食事よりも先に風呂に入りたかった。爪の先は薄ら緑に染まって、鼻に近付ければ、ぷわん、と酸っぱい香りが嗅覚を刺激した。
 たまらず仰け反り、涙目になって首を振る。
「あいつら、なんであんなに元気なんだ?」
 玄関を入ったところで別れた短刀たちは、腹が減ったと喚きながら台所に突進していった。帰り道も、どこで覚えてきたか分からない歌を大声で歌って、ほぼ休みなしだった。
 体力はある方だと自負していたが、自信を無くしそうだ。
 道中で作った細かな擦り傷の痛みを堪えて、ソハヤノツルキはギシギシと床板を踏み鳴らした。
 本丸の本棟と、刀剣男士の居住区画である北棟は、屋根を持つ長い渡り廊で繋がっていた。
 そこを行く刀の大半は、夕餉を求めて南側の母屋を目指している。ソハヤノツルキのように北に進む刀は少数派だった。
 そういった多くの刀に見られないよう、手にしたものを背中に隠し、慎重に左右を窺いながら道を行く。
「ソハヤ、どうした。もう飯だぞ?」
「知ってる。着替えてくるから」
 途中で兄弟刀である大典太光世と遭遇して、短いやり取りを交わした。
 ひらりと手を振った後で、大柄な太刀に隠れる形で短刀が一緒だったと知り、その仲の良さが羨ましくなった。
 ぺこりと頭を下げて会釈した前田藤四郎は、当たり前のように大典太光世と手を繋いでいた。
「今の俺、臭ぇな」
 太い指に白く細い指が絡む様など、これまで意識したことがなかった。
 果たして自分は、どうだっただろう。過去にどれだけ物吉貞宗と手を繋いで来たか、思い出そうとしても、これといって浮かんで来なかった。
 全く関係ないことを呟いて気持ちを誤魔化し、人気が乏しくなった廊下の先に目を凝らした。乱藤四郎の口車に乗せられた自身の軽率さに肩を落として、さっさと部屋に戻ろうと足を動かした。
 苦心の末にどうにか完成させたけれど、これを手渡すのは、冷静になってみるとかなり恥ずかしかった。
 短刀たちは絶対喜んでくれる、と太鼓判を押してくれたが、いまいち信じられない。
 手先はあまり器用でないと自負しており、実際出来上がったものはかなり不格好だった。
 手本とした乱藤四郎の作品とは、天と地ほどの差がある。
「どうすっかなあ」
 今なら無かった事に出来ると、弱腰な自分が耳元で囁いていた。
 だいたい、柄ではない。ソハヤノツルキという太刀はもっと凛々しく、男らしく、豪胆で、豪快であるべきではないか。
 臆病風に吹かれて、悶々として捗らない。足取りは徐々に緩み、気が付けば廊下が十字に交差する一歩手前で停止していた。
「ソハヤさん?」
「うおっ」
 惚けていたところに、不意打ちで声がかかる。
 完全に油断していた。肉体から抜け出ていた精神が駆け足で舞い戻って、頭を金づちで殴られたような衝撃に背筋が粟立った。
 単に名前を呼んだだけなのに、こうも驚かれると、向こうは思っていなかったに違いない。
 慌てて身体を半分ずらして、ソハヤノツルキは背中に隠し持ったものを握りしめた。
「どうしたんですか? うわ、磨り傷だらけじゃないですか」
 肘を鋭角に曲げて、前方から見るとかなり不自然な姿勢だ。しかしゆっくり近付いてきた少年は別のことに気を取られ、そこまで注意が向かなかった。
 琥珀色の瞳を眇めて、物吉貞宗が白い靴下で床を擦った。
 太刀の手足に残る傷は、大半が塞がった後だ。血が滲んでいた箇所もあるけれど、どれもすっかり乾き、瘡蓋が出来ていた。
 ただし身にまとう衣服はそうはいかず、細い枝に引っ掻けた箇所が解れ、小さく穴が開いていた。
「大丈夫だ。たいして痛くない」
「でも、消毒しないと」
「平気だって」
 覚悟が定まっていない時に限って、どうして前触れもなく現れるのだろう。
 内心の動揺を必死に抑えて、ソハヤノツルキは距離を詰めてくる脇差を制した。
 語気を荒らげ、半分怒鳴るように訴えた。
 太刀を案じてお節介を口にした少年は吃驚して目を丸くして、数秒黙り、控えめに微笑んだ。
「すみません」
 差し出がましい真似をしたと、自責の念に囚われている表情だった。
 要らぬ世話を焼いて嫌がられたのだと勘繰り、後悔している雰囲気だった。
 そんなつもりはないのに、哀しい顔をさせた。脇差は俯き加減で、遠慮がちに腰を引いており、このままそそくさと立ち去られる未来しか想像出来なかった。
「じゃあ」
「物吉、待て!」
 現実に、彼はぺこりと頭を下げ、ソハヤノツルキから目を逸らした。
 下を向き、爪先立ちで小走りに駆け出そうとする気配を察して、咄嗟に引き留めていた。
 言ってからハッとして、本当はどうしたいのかと自分自身に問いかける。
 恐る恐る振り返った物吉貞宗の、寂しさと哀しさが入り混じった眼差しが胸を締め付けた。
「えっと、その。……帽子、取れ」
「帽子ですか?」
 戸惑いつつ向き直った脇差が、ぶっきらぼうな命令に眉を顰めた。
 不審に思いつつも彼の手は頭上を泳ぎ、言われた通り、白い帽子の鍔を掴んだ。髪型を崩さないようそっと外して、これでいいかと言わんばかりに太刀を仰ぎ見た。
 夕暮れ時だからか、琥珀の瞳がほんのり朱を帯びていた。
 なにも聞かずに応じてくれた彼の素直さに感謝して、ソハヤノツルキは意を決し、腹に力を込めた。
「お前に、やる」
「え?」
 ずっと握り締めていたものを、躊躇を振り払って高く持ち上げた。
 素っ気なく言って、ふわふわ頭の上に掲げた。正直言って見栄えの悪い、不格好な花冠を真下に落とした。
 重みをさほど感じなかったらしく、物吉貞宗がぽかんと目を丸くする。
 一瞬迷ってから頭上に手をやった彼は、指に触れるものの正体がすぐに分からなかったようだ。しつこく撫で回した後、指に引っかけて取り外した。
 帽子は脇に挟んで持ち、現れた色鮮やかな冠に息を飲む。華奢な肩が大きく跳ねて、翳っていた肌色は一気に輝きを取り戻した。
「これ……え? ボクに、ですか?」
「他に誰がいるんだよ。つか、要らないなら捨ててくれ」
「ソハヤさんが作ってくれたんですか?」
 踵を浮かせ、身体ごと花冠を上下に揺らした。声色は歓喜に彩られ、兎のようにぴょんぴょん跳ね飛びそうな勢いだった。
 こちらの台詞をさらっと無視して、一方的に捲し立て、詰め寄って来る。
 ぶつかる寸前まで迫られて、距離感を無視した物吉貞宗に呆気に取られた。
「悪かったな。下手糞で」
「いえ。いいえ。うわあ、うわあ。すごい。すごいです、ソハヤさん。嬉しいです。ありがとうございます」
 短刀たちの言った通りになったけれど、素直に全部を受け止めきれない。こんなにも喜ばれるとは想像しておらず、鼻の奥がむず痒くて仕方がなかった。
 照れ臭くて、言葉はつっけんどんになる。けれど脇差は特に気にする様子もなく、少々歪んでいる花冠を大事に抱きしめた。
 白詰草だけだと、色味が乏しい。桜色の物吉貞宗の髪色に紛れてしまって、あまり目立たないのではと懸念された。
 だから土台を作った後で、違う花を隙間に織り込んだ。赤、薄紫、橙、黄色と、野に咲く名前も知らない花を多数、紛れ込ませた。
 出来るだけ派手に、と取り組んでいるうちに、些かやり過ぎたのはご愛嬌だ。
 これも、と秋田藤四郎が摘んできた蛇苺の実は表面が凸凹しており、艶々した表面は赤い宝石を思わせた。
「えヘヘ。嬉しいな。嬉しいなあ」
 十二月の末にある西洋の祭りでは、蔓を輪にして色々なものをぶら下げた飾りがお目見えする。
 雰囲気としてそれを目指してしまった為に、冠としては少々喧しいものになってしまった。
 けれど物吉貞宗は満面の笑みを浮かべ、ソハヤノツルキの前でくるっと一回転した。
 踊るように跳ねて、帽子の代わりに花冠を頭上に戴いた。
 ふかっと柔らかな髪に被せ、両手を放し、目を細めた。
「似合いますか?」
 そうして首を傾げながらの問いかけられて、ソハヤノツルキは。

2018/05/12 脱稿

山桜霞の間よりほのかにも 見てし人こそ恋しかりけれ
紀貫之 古今和歌集 恋一 479