闇とかこへる 霧にこもりて

 ふわりと、微かに甘い香りが鼻腔を擽った。
 凛と静まり返った空間に、色を伴わない匂いだけが通り過ぎて行く。風はなく、無駄な物音が悪戯に聴覚を刺激することもなかった。
 お蔭ではっきりと、目に見えない存在を認識出来た。深く息を吐き、歌仙兼定は満足げに口元を綻ばせた。
「躑躅か」
 そういえばこの辺に咲いていたと、姿の見えない艶やかな花を思い浮かべて囁く。
 吐息に混ぜ込んだ小声は低く掠れ、あまり遠くまで響かずに消えていった。
 空を見上げれば、月は影も形も無い。薄墨を広げたような雲が一帯を覆い尽くしており、星明かりは疎らだった。
 遙か遠くに常夜灯としている石灯篭の火が見えるが、それがこの場所まで影をもたらすはずもなく。
 足元さえ判然としない暗闇に佇んで、打刀の付喪神は芝居じみた仕草で肩を竦めた。
「悪い虫に、なってしまいそうだ」
 本丸に集う刀剣男士の大半は寝床に入り、朝が来るのを夢の中で待っている。近侍に命じられた静形薙刀は寝ずの番を決め込んでいるが、近くを通りかかった時はかなり眠そうだった。
 こっくりこっくり舟を漕いでは、突然覚醒して、はっと背筋を伸ばしていた。
 あれは傍目から見ると滑稽だが、自分がやっている時に他者に見られるのは、かなり恥ずかしかった。
 今宵は何も見ていない。今後の為にも己の口に蓋をして、歌仙兼定はぼんやりとした暗がりに目を凝らした。
 短刀ほどではないにせよ、打刀である彼もまた、夜目が利く方だ。しかし周囲を注意深く探っても、艶やかに咲き乱れる躑躅は見当たらなかった。
「おや?」
 現在地の認識を誤ったらしい。爪先で雑草繁る地面を叩いて、彼は眉を顰めた。
 道を間違えたつもりはなかったが、知らないうちに、闇に惑わされたようだ。
 陽の光の下であれば、なかなか起こりえない事だ。珍しい経験に苦笑を漏らして、歌仙兼定は気の向くままに歩みを再開させた。
 本音を言えば、夜の躑躅の蜜を吸う、悪い虫になりたかった。こんな時間から甘露に舌鼓を打ち、闇に濡れる花を愛でてみたかった。
 期待は裏切られた。
 花の方から、丁寧に遠慮を申し出られたようなものだ。或いは静寂を友とする夜が、花の安眠を守るべく、帳を降ろしたのか。
 どちらであっても、風流であるのに変わりはない。
「ふふ」
 楽しい想像に胸を膨らませ、障害物に注意しながら足を操る。月のない空の下での散歩は、いつだって危険と隣り合わせだった。
 それでも外に出ようと決めたのは、ただの気まぐれでしかない。
 眠れなかった。布団を敷いて横になってはみたものの、どれだけ待っても睡魔は訪れない。妙に頭が冴えており、目を閉じてじっとするのは苦痛だった。
 要らぬことをあれこれ考えては、結論に至らぬまま次の思索へと突入した。長く忘れていた出来事を不意に思い出したり、朝が来てからすべきことを繰り返し確認したり。
 そんなことをしているから余計に眠れなくて、痺れを切らして布団を蹴り飛ばした。
 気分転換をして睡魔を呼び込もうと、読みかけだった書物を広げた。文字を追っているうちにあわよくば、というのが狙いだった。
 けれど三行目に入る前に、これ以上読み進めると寝ないまま朝になってしまう危険を察知した。
 尚悪い事に、欠伸が出るどころか、益々目が冴えていた。書物を読むのに必要な灯りを得るべく、有明行燈の火を蝋燭に移し替える手間を経たのも、眠気を遠ざける一因になっていた。
 眠りたいのに、その逆の行動ばかりしている。
 部屋にいると徹夜で読書の誘惑に駆られ、危険は増すばかり。ならば思い切って室外に出た方が良いと、そういう流れだった。
 台所を覗くか、厠へ向かうか。
 隣室で高鼾中の和泉守兼定を叩き起こすのも悪いので、まずは手っ取り早く話し相手になって貰おうと、近侍が控える部屋に向かった。
 それで遭遇したのが、半分寝て、半分起きている状態の静形薙刀だった。
 起こしてやるのが先輩としての責務な気はしたが、自力で頑張ってこの危機を潜り抜けるのも、良い経験となるだろう。
 そういう理由で近付かず、散策に転換したのだが、要はあまり親しく無いので、会話の題材に困るとの判断だ。
 これが良く見知った短刀だったなら、喜んで乗り込んで行ったのだが。
 つれなく追い払われる未来まで想像して、栓なき妄想に苦笑する。常に頭の片隅に居座っている小さな影を思い浮かべて、歌仙兼定は照れ臭さに頬を掻いた。
 あの幼い見た目の少年も、今頃は夢の中に違いない。その内容があまり良いものではないとしても、だ。
 復讐の逸話を有する短刀は、それこそが己の成すべきことと言って疑わない。主の懐に収まり、主を守り抜く存在でありながら、その主の命を逆に奪った因果により、性質が変容してしまったのだ。
 粟田口に代表される短刀たちのような、大らかさや無邪気さは、左文字の短刀には見受けられなかった。
 常にもの悲しげな表情を浮かべ、或いは抑えきれない怒りを瞳に滾らせている少年だ。出会ったばかりの頃は彼がどうしていつも怒っているのか分からなくて、今思えば無粋な質問を、度々投げつけもしたものだ。
「……あの頃の僕は、お小夜にとって、良くない虫だったろうな」
 躑躅の香りに誘われながら、様々な植物が集まっている庭をさまよい歩く。時間が潰れて、程よく身体が疲れるのを願っているだけだから、目的地など特に決めていなかった。
 結果として布団を敷きっぱなしの部屋に戻れたら、それで構わない。
 常夜灯の光から離れ過ぎないのだけ気をつけて、歌仙兼定は爪先に当たった小石を脇へ払い除けた。
 草履の先端で跳ね飛ばし、進路を平らにしてから細長い雑草を踏み潰した。夜の時間を邪魔された草花は鬱陶しげに打刀の足に絡みつき、湿っぽい体躯を押しつけてきた。
 空気は程よく温く、寒さは感じなかった。
 夏はまだ遠く、冬は欠片すら残っていない。上着も羽織らずに出て来たが、一枚重ねていたら、暑さで嫌になっていたはずだ。
 考えあってのことではなかったけれど、良い判断だった。自画自賛して笑みを零し、彼はすっかり遠くなった躑躅の香りを、名残惜しげに振り返った。
 結局、花自体は見付けられなかった。ここに来るまで、度々甘い香りに誘われたが、ついぞ姿を現してくれなかった。
 なんとつれないのだろう。まるで会いに行くとの文を女に寄越しておきながら、いつまで経ってもやってこない男のようだ。
 思い焦がれ、探し求め、待つのだけれど、向こうは霞のように消えて実態を掴ませない。手を伸ばしても指の隙間からすり抜けて行ってしまう思いは、歌仙兼定にも覚えがあるものだった。
「やれやれ」
 直前まで小夜左文字のことを思い浮かべていたから、尚更だ。
 透明な水に手を添えて掬ったつもりでいて、気がつけば全てが零れ落ちている。そしてくだんの短刀は、水自体も透明ではなく、真っ黒い泥だと指摘するのだ。
 あなたがそうだと信じ込んでいるものは、僕にとってはまるで違うものです。
 いつ、どういう状況だったかは忘れたけれど、そう言われたのを覚えている。
 どのような文脈で、どのような流れで出たひと言かも覚えていない。ただこの指摘はグサリと胸に突き刺さり、未だに抜けない棘と化していた。
「お小夜」
 遠回しな断りの台詞だとの理解は、気付かなかった振りをして奈落の底へと放り投げた。
 この好意は、刀剣男士としての利にならない。逆に迷いを産み、審神者への忠義に仇為すことにもなりかねない。
 知っている。
 分かっている。
 それでも簡単に捨てきれないし、消せる感情ではない。だからこそ千年を超える時の中で、恋の歌は尊いものとして伝えられてきたのではないか。
 彼を愛おしいと思うようになったのがいつかも、記憶は曖昧だ。
 出会って、離れて、また出会って。
 会えなかった時間の分だけ、恋しさが募った。再会を果たした暁にやりたいこと、話したいことを数えているうちに、数百年が過ぎた。
「身の憂きを いはばはしたに なりぬべし……」
 言葉にすれば中途半端になり、けれど言わずにいれば胸が焦がれる。
 複雑怪奇な心情を詠んだ歌に想いを託し、甘ったるい香りに後ろ髪を引かれつつ、次の一歩を踏み出した。
 悪い虫になりきれない自分の中途半端さに下唇を噛んで、気晴らしのつもりで天を仰いだ。
「はあ」
 口を開けて短く息を吐き、鼻から吸い込んだ。四肢に蔓延る熱を放出し、肩の力を抜いて、若干猫背になった。
 部屋に居ても、外に出ても、答えの出ないことばかり考えてしまう。
 月明かりもない暗い夜のうちだから、頭の中まで黒く沈んでしまうのだ。肉体よりも精神的な疲弊を覚えて、歌仙兼定は屋敷に戻ろうかと視線を上げた。
 常夜灯の頼りない光を右奥に見て、現在地を素早くはじき出した。来た道を戻るのも味気ないと、少し先にあるはずの分岐を経て行こうと即座に決めた。
 本丸の庭園は広い。徐々に拡張が繰り広げられて、近頃では藤棚が整備されたり、梅林の中に東屋が作られたりと、時間遡行軍との戦いとは関係無いところで妙な力が加えられていた。
 風流な景色が四季を通じて楽しめるから、歌仙兼定としては願ったり叶ったり。もっとも恩恵を預かりたければ、日々の手入れに協力するよう求められており、問答無用で駆り出されるのが難点だった。
 藤棚作りで両手を傷だらけにした記憶が蘇った。
 設計図通りに組み立てたはずなのに、格子が綺麗な四角形の連続にならなかったのは、何故だろう。
 花が咲いてしまえば関係無いが、冬の間、陽の光がそのまま地面に落ちていたのを見た時は、気になって仕方が無かった。
 赤や白の花がみっしりと咲き誇り、巨大な鞠のようになっている躑躅も良いが、長い花房が風に揺れる藤の花も美しい。
 昼間の光景を思い描き、顔を綻ばせた。朝が来たら瞼に焼き付けに来ようと決めて、石灯篭の光を確認した。
 寒くはないけれど、日中に比べれば気温は下がっている。自覚がないまま徐々に体温を奪われていたと知り、彼は薄絹の寝間着の上から両腕を撫でた。
 この様子なら、無事に眠れそうだ。ほんのり湧き起こった眠気を増幅すべく、わざと欠伸を零して、往来の多さから雑草が生えなくなった小道に進路を切り替えた。
 嫌なことは忘れて、夜の静寂を楽しむのに専心した。鼻歌を奏でたりはしないが、それに近い心境で調子良く歩を進めた。
 やがて茅葺きの茶室が現れ、水の跳ねる音がした。この時間でも眠らない魚が泳いでいるのか、軽やかな花の香とは違う、青草や土と混じり合った水の匂いがした。
 間もなく丹塗りの太鼓橋が見えてくる。光に溢れた景色を瞼の裏に呼び出し、目の前に広がる薄闇に線描したような光景と重ね合わせた。
「……む?」
 本来なら、ぴったり重なり合うはずだ。計算が狂った藤棚とは違い、一部のずれもなく、歪みも出ないはずだった。
 ところがどこかが変だと、本能が告げていた。違和感を覚えて、彼は出しかけた足を戻した。
 背筋を伸ばし、池に架かる太鼓橋をじっと見る。なにが違っているのか必死に考えていた矢先、正解の方が先に動き出した。
「歌仙?」
 向こうの方が、打刀よりも遙かに夜目が利く。
 それでも若干自信なさげに名前を呼ばれて、歌仙兼定のぞわっと全身に鳥肌を立てた。
 背筋が寒くなり、内臓がぎゅっと縮んで真ん中に集まった。圧迫された心臓がドドド、と小刻みな音を響かせて、首筋に冷たい汗が流れた。
 呼吸が止まり、吐き気を覚えた。喉の低い位置を胃酸に焼かれて、気持ち悪さから叫び出したい衝動に駆られた。
 瞠目し、立ち竦む。
 一方で橋の中腹に蹲っていた少年は、欄干を助けとしてゆっくり立ち上がった。
 信じられない気持ちで首を振るが、実際にはそれほど動けていなかった。居ると思っていなかった存在をその場に見出して、愕然としつつも、冷静な部分が状況判断に務めていた。
「お小夜、どうしたんだい」
 優しく質問したかったのだけれど、詰問の体になってしまった。
 動揺が隠しきれない低く掠れた声に、短刀の付喪神は自嘲気味に微笑んだ。
「歌仙こそ」
 草木も眠る時間帯だ。起きている者は他に居ないと、互いに思い込んでいた。
 油断した。気付くのが遅れた。
 間抜けな顔をしていたに違いない。あんぐり開きっ放しだった口を慌てて閉じて、打刀は気を落ち着かせるべく深呼吸を繰り返した。
 左胸に手を添えて、荒立つ鼓動を鎮めた。前歯の裏側を舐めて、二度、三度と瞬きを連発させた。
 目を閉じて、開いても、小夜左文字の姿は消えない。勝手な妄想が生んだ幻ではないのを再確認して、意を決して橋の袂に近付いた。
 短刀は逃げなかった。太い欄干に身を寄せて、大人しく打刀を待った。
「眠れなくてね」
 あと数歩で並ぶというところで呟けば、小夜左文字は首を竦めた。寒さから来る仕草ではなく、噴き出しかけたのを堪えたらしかった。
 きゅっと引き結んだ唇を解いて、本丸の中でも際立って背が低い刀剣男士は仰け反るように背筋を伸ばした。どことなく呆れたような、困った雰囲気を漂わせて、スッと目を逸らした。
 歌仙兼定を見たかと思えば、地獄の入り口を想起させる池の水面に視線を向けた。釣られて同じものを視界に入れれば、吸い込まれそうになった。
 身を乗り出しすぎると、落ちてしまう。それはあまりにも間抜けが過ぎて、実行に移すわけにはいかなかった。
 冷や汗を拭い、体内に残る熱を息と一緒に放出した。身長差を考え、真横に並ぶのではなく手前で足を止めて、目線の高さが近くなるよう配慮した。
 その心遣いを汲み取ったのか、違うのか、小夜左文字は肩を竦めて首を右に傾けた。
「僕も、です」
 真夜中の散策の理由を語り、目尻を下げた。しかし淡い微笑みの裏側に、言葉に表した以外の理由が隠れているのは明白だった。
 肉体が睡眠を拒んだ打刀とは、根本的に違う。彼の場合は、心が拒んでいると言うべきだろう。
 小夜左文字が連れているという黒い澱みは、他の刀剣男士には認識出来ない。本当に存在しているのかと疑いたくなるが、当の刀が言うのだから、信じるしかなかった。
 その黒い澱みが、小夜左文字にしか聞こえない声で、囁く。
 憎しみを。
 恨みを。
 怨嗟の声の主は、判然としない。山賊に殺された身重の女性か、短刀を手にした山賊に殺された無辜の人々か、はたまた研ぎ師になってまで復讐を遂げた男のものか。
 或いはその全てか。
 持ち主を守るべき短刀は、長く憎悪に晒されたことで、自責の念から復讐を志した。刀の身でありながら、与えられた逸話の通りに役目を果たそうとして、過ぎた時間に固執した。
 それを憐れと思う者もある。
 けれど歌仙兼定は、それだけとは思わない。
 彼の執念を、信念を、誰が否定出来るだろう。『小夜左文字』という短刀の美しさは、叶えられない願いを抱き続ける虚しさ、哀しさを伴ってこそのものだ。
「そう」
「はい」
 二本の足でしっかり地面を踏みしめる短刀は、凛とした眼差しで前を見ている。ただその瞳に映る景色が、他の刀たちと違っていたとしても。
 それが彼の世界であるなら、尊重するだけだ。
「冷えているね」
 手を伸ばし、小さな掌を掬い取れば、意外にも小夜左文字は拒まなかった。
 珍しいことだったが、なにもこれが初めてではない。久しぶりに触れるのを許された手を撫でて、打刀は氷のような冷たさに眉を顰めた。
 いったいいつから、彼はここにいたのだろう。
 己が引き連れる黒い澱みが、仲間の夢に悪影響を与えるのを恐れて、たったひと振りで。
 孤独には慣れていると言っても、辛くないわけではない。以前なら兎も角、今の本丸は大所帯であり、昼も夜も、嫌になるくらいの賑やかさだった。
 喧噪を常に隣に置く現状では、ひっそりと静まり返ったこの今の状態こそが異質だ。歌仙兼定はそれを分かった上で散策に出て、夜の光景を楽しんでいたけれど、小夜左文字は事情が違った。
「歌仙だって、冷たいです」
 細かな傷が無数に残る手の甲を親指で捏ねていたら、不意に言われた。
 先ほどと比べたら幾ばくか、声の調子が高い。己の登場により彼の心境に変化が生じ、気が楽になったのだとしたら、これ程嬉しいことはなかった。
「おや。ではもうしばらく、こうしていても?」
 だからなのか、つい調子に乗った。
 小首を傾げながら囁いた打刀に、短刀は一瞬きょとんとしてから、呆れ顔で肩を竦めた。
「片手だけで、足りるのなら。どうぞ」
「むう」
 思わぬ形で幸運に恵まれたと喜んでいたら、見透かされた。
 嘲笑めいた眼差しを斜め下から投げかけられて、歌仙兼定は喉の奥で唸った。
 我が儘を言えば、両手とも握らせてくれたのだろうか。それともこれ以上は有料だとでも言って、振り払われてしまっただろうか。
 どちらにしても、あまり良い結果にはならない。
 ならば贅沢は言わず、今の状況で満足しておくべきだ。これだけでも過分なまでの幸福なのだから、二兎を追うのは愚かしすぎる。
 ほんの一瞬の間に様々な葛藤を抱き、現状維持を決めた。向こうから申し出てこない限り、絶対に手放さないと密かに誓って、痛ましくも勇ましい手を包み込んだ。
 この胸の奥底に宿る炎が、彼に届けば良い。繋いだ場所から流れて、冷え切った小さな体躯が少しでも安らぐのなら、いくらでも差し出すつもりだった。
 痛くない程度に指先に力を込めて、尖り出ている指関節を順繰りに撫でた。
 小夜左文字は黙って打刀の好きにさせて、遠くを見たかと思えば、一瞬のうちに視線を戻した。
 交錯したかと思えば、脇へ逸れ、やがて定位置に収まった。
「お小夜?」
「いえ。花の……躑躅……?」
「躑躅? ああ、うん。向こうに咲いているね」
 戸惑いが垣間見える表情と台詞に、歌仙兼定は嗚呼、と頷いた。自信なさげな少年の弁を補足して、顎をしゃくり、己が来た方角を示した。
 池を迂回する格好で庭を巡ってきたので、歩いた距離はなかなかだが、躑躅が植えられた場所は存外ここから近い。
 自らは嗅ぎ取れなかったが、花の香りとは得てしてそういうものだ。顔を寄せて匂いを堪能しようとしても、思った通りに薫ってくれない気まぐれさは、まるで生きている人間のようでもあった。
 植物でさえ思うままにならないのだから、心を持つ相手ならば、尚更に。
「難しいね」
「歌仙?」
「こちらのことだよ」
 ままならない事ばかりと愚痴を零して、拾われた。
 なにか言いたげな少年に先手を打って、歌仙兼定は自分に向かって苦笑した。
「見にいくかい?」
「なにを、ですか」
「躑躅を」
「ああ……」
 一度途切れた会話を再開させようとして、巧く通じなかった。慌てて言い足せば、小夜左文字は緩慢に頷き、あまり興味なさそうに顔を背けた。
 最初に話題を振ってきたのは彼なのに、意外だ。
 執着があったわけではなく、偶々そよ風に乗って流れてきた匂いに疑問を抱いただけ。その程度だったとひとり結論づけて、打刀は次に放つ一手を探して口を噤んだ。
 左手で口元を覆い隠し、引っ張られた気がして右手に視線を落とす。
 中途半端な位置を泳ぐ指先越しに見た少年は、気のせいか拗ねているようだった。
「お小夜?」
「いえ、別に」
 素っ気なく言われて、突然の不機嫌ぶりに驚きを隠せない。
 なにが気に障ったのか懸命に考えるが、心当たりはひとつも浮かんでこなかった。
 躑躅を見に行くか、どうかというやり取りしかしていない。それで臍を曲げられるとは夢にも思わないし、この先だってそうだろう。
「別に、って」
「綺麗でしたか」
「ん?」
「躑躅」
「ああ」
 話の腰を折られて尻込みしていたら、一度は終わったはずの話題が帰って来た。
 花の話を出されて、一度だけ首を縦に振った。まずは合いの手を挟んで、目を細めて、照れ臭さから口元を緩めた。
「どうやら振られてしまったみたいでね。見付けられなくて。匂いだけ、楽しんで来たよ」
「そうなんですか」
 格好を付けたいところだけれど、小夜左文字相手に虚勢を張っても仕方が無い。
 正直に本当のことを告白したら、不思議と尖っていた短刀の気配が和らいだ。
 何故か今のひと言で、彼の機嫌が直ったようだ。理屈がさっぱり分からなくて、謎だらけだったけれど、指摘すればまた気分を害してしまいそうで、言わずにおいた。
 本当にままならず、厄介この上ない。
 しかしだからこそ面白くて、興味が尽きなかった。
「風が、出て来たかな」
 上空は相変わらず雲が広がって、螺鈿の如く煌めく星々を隠していた。ただその雲の流れが、屋敷を出た直後に比べると、いくらか速まっていた。
 雨は降らないだろうが、風のお蔭で些か寒い。
 そろそろ撤収の頃合いだと独り言を呟けば、呼応するかのように、短刀の方から橋を降りてきた。
 斜めに伸びていた肘がゆっくり下がり、角度を持った。ちゃっかり風よけに使われて、歌仙兼定は失笑せずにはいられなかった。
「寒いかい?」
「少しだけ、ですが」
 懸命に耐えて問いかければ、小夜左文字はムッとしつつも頷いた。
 強がって否定に走るかと思いきや、逆だった。素直に認めたのには吃驚したが、眠いのだとしたら、あり得る話だった。
 ならばこの後行く先は、ひとつだ。
「戻ろうか。そうだ。なんなら、今夜は一緒に寝るかい?」
 思いつきで、つい口走った。
 言ってから、あまりにも傲慢が過ぎる申し出だと気付き、はっと息を呑んだ。背筋が凍えるような寒気を覚えて、歌仙兼定は頬を引き攣らせた。
 小夜左文字はきっと、吹雪を招く雪女よりも冷たい眼差しと、表情で、こちらを見ているに違いなかった。馬鹿にして、憐れんで、見下すような視線で眉間に皺を寄せているに違いなかった。
 片手ではとうに足りない過去の記憶を一気に振り返って、前に出そうとした足を凍らせた。浮いていた爪先を戻し、すん、と鼻から息を吸って、誤魔化すべく雅とは程遠い笑みを無理矢理形作った。
「ははは。なんて、ね」
 冗談を言った体を装うとして、声が上擦った。
 とても巧く出来たとは言い難いけれど、今の打刀にはこれが精一杯だった。
 無理矢理絞り出した笑い声に、外的な要因から右手が大きく震えた。解けかけた指先を小夜左文字の方から繋ぎ直して、一瞬険のある眼差しを作ったかと思えば、直後に伏して深々とため息を吐いた。
「…………」
 はぁ、と聞こえる音量でやられて、これ以上の気まずさは他にない。
 分かり易すぎる失態に、歌仙兼定は天を仰いだ。
 もっと良いやり方があっただろうに、どうしてそちらを選び取れなかったのか。
 他に思いつかなかったし、今も思いついていない。だがもっと時間があり、心に余裕があれば或いは、と勝手に期待して、絶望して、目頭を熱くした矢先だ。
 繋いだ手を強引にぶん、と前後に振って、小夜左文字がへの字に曲げた口を開いた。
「嘘なんですか?」
 低い、凄みのある声だった。
 見た目にそぐわない、およそ子供らしからぬ声にぎゅっと心の臓を握られて、歌仙兼定は背中を伝った汗に肝を冷やした。
 怒らせた。
 誰が見てもそうだと分かる反応に鳥肌を立てて、男はぎこちない動きで短刀を見た。
 ギギギ、と変な音が聞こえそうな歪さで振り向いて、声の調子に反して殊の外幼い拗ね顔に息を呑んだ。
 小夜左文字は口をぎゅっと噤み、頬をぷっくり膨らませていた。やや俯き加減で、瞳だけを上向かせて、歌仙兼定の反応を窺っていた。
 あまりにも愛らしい――愛くるしい姿だった。
「お小夜」
「なんでもありません」
 途端にきゅう、と別の意味で心臓が締めつけられた。
 心が時めく、とはまさにこういう瞬間を指すのだろう。まるでお手本のような感覚を実際に体験して、打刀はふいっとそっぽを向いた少年に肩を震わせた。
 口元が勝手にほころび、笑いがこみ上げてきた。
 懸命に堰き止めるものの、「くうっ」と耐えているのが分かる息が漏れた。聞き逃さなかった短刀はギッ、と仇に相対した時のような鋭い眼差しを作り、一秒後には明後日の方向を向いて殊更大きく腕を振った。
「もういいです」
 愛想を尽かし、一方的に話を切り上げた。これ以上は時間の無駄と断じて、打刀を置いて、ひとりで立ち去ろうとした。
 橋を渡り切って、その先に進もうとして、振り解いたつもりだった手を強く握り締められて、苦々しい表情を作った。
 舌打ちが聞こえた。
 およそ小夜左文字らしからぬ苛立ち具合に、却って心が和らぎ、胸が熱くなった。
「嘘なものか」
 声は驚くほど自然に、滞ることなく溢れ出た。
 静謐に包まれた闇を裂き、打刀は腹の底から響かせた。
 威風堂々と胸を張って、尊大と受け取られかねないくらいに背筋を伸ばした。凛と声を響かせて、逃げようとする少年を引き留めた。
 悪足掻きを止めない体躯を力技で引き寄せて、後ろ向きに倒れそうになったのを受け止めた。胸で支え、右後ろ側から包み込む如く、抱え込んだ。
 そうと悟られぬ程度に拘束した。長く繋いだままだった手を一度離し、向きを変えてすぐに繋ぎ直して、その上から残る手を重ねて蓋をした。
「嘘なものか」
 同じ台詞を繰り返して、祈るように目を閉じた。
 むしろこちらが、嘘に翻弄されて、騙されている気分だった。
 甘い花の香りに誘われながら、結局辿り着けなかった愚かな男になりたくなかった。
 縋るように抱きついた格好悪さに、頭の片隅では悪態を吐いていた。それでも離れ難くて止まらない震えに耐えていたら、慰めるかのようにトントン、と緩い束縛に合図を送られた。
 恐る恐る目を開ければ、首から上だけ振り返った少年が苦笑していた。
「冗談です」
 風に攫われそうな程の小声で囁いて、自分から打刀に体重を預けた。寄りかかり、しなだれかかって、喉の奥でくくっ、と笑った。
 どこまでが本気で、どこからが冗談だったのか、まるで分からない。
 振り回される一方の男は困惑をありありと顔に浮かべて、短刀を解き放った。
 すかさず前に出て、逃亡を成功された少年がくるりと身体を反転させた。
「寒いから、ですよ」
 悪戯っぽく言って、深い意図はないと釘を刺した。
 それ以上でも、それ以下もない理由だと念を押されて、歌仙兼定は不満も露わに口を尖らせた。
「僕が湯たんぽなのか」
「いやなんですか?」
 不満を声に出せば、瞬時に合いの手が返って来た。
 暗闇から放たれたかにも思える質問に、打刀は大慌てで首を振った。
「いいや。光栄だね」
 力みすぎて、声が異様に高くなった。
 無理をしていると丸分かりの台詞に、軽やかに地面を蹴った小夜左文字が藍色の髪を踊らせた。
 白い湯帷子の裾がふわりと舞い上がり、華奢な太腿が一瞬だけ夜闇に浮かび上がった。
 目が吸い寄せられて、直後に布で覆い隠されたのに軽く傷ついた。そういう部分に心惹かれてしまう貪欲ぶりにも衝撃を受けて、発作的に額を叩いていた。
 ぺちん、と乾いた音が水面に広がった。
「歌仙、置いて行きますよ」
「待ってくれ。今行く」
 悪い虫には、この先も当分、なれそうにない。
 いいように手玉に取られているのを感じつつ、それも悪くないと思っている。つくづく悪人になりきれない自分に臍を噛んで、歌仙兼定は小走りに駆ける背中を必死に追いかけた。

やすらはん大方の夜は明けぬとも 闇とかこへる霧にこもりて
山家集 588

2019/05/18 脱稿

春鶯

「うわっ」
 突然吹いた突風に、綱吉は咄嗟に腕を頭上に掲げた。
 それで防御出来るわけではないが、無意識に身体が動いていた。舞い上がる埃や細かな塵を避けて目を瞑り、直後に耳元で大きく響いた物音にびくりと肩を震わせた。
 煽られて逆さを向いた前髪が額に戻り、薄い皮膚を擽る。ホッと息を吐いて瞼を持ち上げて、彼は顔のすぐ横で揺れるビニール袋に苦笑した。
 中身は近所のコンビニエンスストアではなく、駅前の商店街まで足を伸ばした大事な成果だ。
 これしきの衝撃では、潰れたりしない。柔らかなものなので不安に駆られたが、無事であるのを確認して、深く長い息を吐いた。
「っと。やばい」
 路上で安堵していると、向かい側から自転車が走ってきた。
 慌てて邪魔にならない場所へ避けて、現在時刻を確認して奥歯をカチカチと噛み鳴らす。
 まだまだ余裕はあるが、急ぐに越した事は無い。綱吉は前方に広がる光景に一度小さく頷いて、力強くアスファルトを蹴った。
 今のところ、計画は順調に進んでいる。一番のネックであった家に居候中の子供達は、フゥ太とビアンキが揃って外に連れ出してくれたお蔭で、なんとかなりそうだった。
 もうひとつの懸案事項であるリボーンも、コロネロに誘われたとかで、出かけている。行き先までは聞いていないが、ちらりと見えた彼の携帯画面には、スカルという名前が表示されていた。
 あのふたりに絡まれれば、不死身を自称する彼もただでは済むまい。
 天にも届きそうな悲鳴を想像したら、ぶるりと震えが来た。暖かな陽射しが照りつける中、鳥肌立った腕を交互に撫でさすって、自宅までの道を小走りに駆けた。
 途中で小鳥のさえずりが聞こえて、視線を上げたがそれらしき影は無い。
 そもそもその鳥が、例の風紀委員長が連れているものである保証だってないのだ。雀や鳩は、この辺りでも頻繁に見かける。カラスだって、あちこちに巣を張り巡らせていた。「そういえば、ヒバリさん。カラス駆除も始めたって噂、本当かな」
 ゴミを荒らすだけでなく、子猫や小動物さえ襲う獰猛さを秘めた鳥だ。自分だって黒ずくめの、カラスのような側面があるというのに、風紀委員の活動に害鳥駆除が加わったというのは、なんとも奇妙な話だった。
 けれどあの男は、あれで小さい生き物を可愛がっている。ずんぐりむっくりした黄色い鳥を、常に連れ回しているのが、その証拠だ。
 するとカラス退治も、ヒバードを守るため、なのだろう。
 噂の域を出ていない話なのに、こう考えると妙に信憑性が高く感じられるから、不思議だ。
 まったくもって、あの男はよく分からない。
 恐ろしく気まぐれで、恐ろしく我が儘で、恐ろしく身勝手で、驚くほど強い。
 その強さに臆し、怯え、そして憧れた。
 彼のような存在は、綱吉の世界にいなかった。彼の知る中で、あの男は紛れもない絶対強者であり、決して手が届く存在ではなかった。
 だというのに、だ。
 数奇な巡り合わせが、断崖絶壁よりも遙かに遠い両者の距離を一気に狭めた。よもやあの男に、『沢田綱吉』という一個人として認識して貰える日が来るなど、夢にも思わなかった。
 とはいえ、それで綱吉自身が強くなったわけではない。むしろ己の弱さを思い知らされてばかりだ。
 いつか堂々と、肩を並べて歩けるようになるだろうか。
 貧弱な拳を何気なく眺めて、彼は脳裏に描き出された妄想を慌てて打ち消した。
「そもそも、オレは。マフィアになんか、ならないってば」
 黒ずくめの美丈夫と背中合わせに佇む未来の自分を想像し、その格好良さにくすぐったさを覚えた。うっかり悪くない、と思ってしまったのを瞬時に否定して、ようやく見えた自宅の屋根にホッと息を吐いた。
 走ったからか、それとも違う理由か、バクバク言う心臓を宥め、門扉を潜った。
「ただいまー」
 不用心だと思うのだが、玄関の鍵は掛かっていない。声を上げて帰宅の旨を伝えると、僅かに遅れて台所から奈々が姿を現した。
「おかえり。早かったわね」
「うん」
 なにをしていたのか、エプロンは着けていなかった。耳を澄ませば複数の話し声が聞こるので、テレビでも見ていたようだ。
 奈々は階段に上がって自室に向かうのではなく、廊下を進んで近付いてきた息子を迎え入れ、道を譲った。台所に入った綱吉は、案の定見知らぬ光景を映し出すテレビを真っ先に見た。
 シンクは綺麗に片付けられ、昼食の残り香が微かに鼻を擽った。ランボたちはまだ戻っていないようで、他に物音は聞こえてこなかった。
 食事を終えてすぐに出かけた時と、状況は殆ど変わっていない。その事実に胸を撫で下ろし、買って来たものを中央のテーブルに置いた。
「手伝う?」
「大丈夫」
 プラスチック製の容器がビニール袋と擦れ合い、ガサガサと歪な音を立てた。斜め後ろから覗き込むように迫って来た母の問いに短く答えて、彼は袋の口を大きく広げた。
 真っ先に出て来たのは、真っ赤な宝石――もとい、苺だ。
 大粒だが数が少ないものと、小粒だけれど内容量が多いものとで悩んだ結果、見栄えが悪くならない程度に大きいものが、それなりに入っているものを選択した。そういう中途半端さが良くないとは思うのだが、悩みすぎて結局選びきれないよりは良い、と自分に言い聞かせた。
 まだ今月は始まったばかりなので、小遣いには余裕があった。それ以外の材料も、あまり値段を気にせず手に入れることが出来た。
 これが月末迫る時期だったなら、こうはいかない。祝日で学校が休みで、時間に余裕があるのも有り難かった。
 条件は全て綱吉に有利。あまりに都合が良すぎる展開で、逆に心配になってくるくらいだった。
「あら、本当に?」
 椅子の背凭れに引っかけられていた奈々のエプロンを取り、もたつきながらも装着する。だが後ろに手を回して紐を結ぼうとしたところで、見かねた母に口と手を挟まれた。
 見えないところで結ぼうとしては失敗する息子に呆れつつ、声はどこか楽しそうだ。
 手際よく蝶々結びを作られて、綱吉はむすっと口を尖らせた。
「大丈夫だってば」
 このまま彼女の勝手を許せば、ずるずると最後まで居座られてしまう。
 自分でやる、と決めていたことまで、母に奪われてしまいかねなかった。
 それでは何の為に、ビアンキたちに頼んでランボやイーピンを連れ出してもらったか、分かったものではない。
 こんなところで計画を台無しにされるのは御免だった。
 奈々の手を借りた方が、より美味しいものが出来るのは分かっている。しかし甘えてばかりもいられない。傍で見ているだけ、というのは、自分が作ったものと胸を張って言えないではないか。
 それでは、己の力ひとつで世界に挑んでいるあの男に誇れない。
 ちっぽけなプライドを振りかざして、綱吉はくるりと身体を反転させ、奈々の肩を両手で押した。
「いいから、出てってよ」
 声高に叫び、力技で母を追い出しにかかる。
 乱暴な仕草ではあるけれど、そこまで力を使っていない。奈々は最初こそふらついたが、すぐに体勢を立て直した。
「はいはい。じゃあ、頑張ってね。手はちゃんと洗うのよ?」
「子供じゃないんだから、それくらい分かってるよ」
 軽く突き飛ばされた格好だが、機嫌を損ねたりしなかった。逆にカラコロと喉を鳴らして笑って、自分から率先して歩き出した。
 テレビのリモコンを弄って誰も見ていないテレビを消し、忠告を残して去って行く。洗濯物でも取り込みに行ったのか、しばらくすると玄関のドアを開閉する音がした。
 これで奈々も、当分邪魔しに来ないはずだ。
「まったく……」
 お節介にも程があると、自分の母に向かって深々溜め息を零した。けれどその人の良さで救われている部分も、間違いなく存在した。
 もっともリボーンという厄介な家庭教師が沢田家にやってきたのは、彼女が原因なわけだが。
 それが良かったのか、悪かったのかは、簡単に断じきれない。しかしあの赤子の登場が、閉塞状態に陥っていた綱吉の環境を転換させたのは、紛れもない事実だった。
 今頃コロネロと楽しくやっているだろう赤ん坊を頭から追い出し、今成すべきことと向かい合う。
「よし」
 決意を込めた眼差しで苺のパックを見詰めて、彼は早速封を破こうとした。
 だがいざ指先に力を加えたところで、直前に残された母の助言を思い出した。
「そうだった、そうだった」
 うっかり忘れるところだったが、まだ手を洗っていない。ついでにうがいも台所で済ませて、綱吉はシンク下の引き出しから必要な道具類を引っ張り出した。
 銀色のボウルに、泡立て器。バターを溶かす湯煎用のボウルも別に用意して、水を張った鍋をコンロに据えた。
「あと、なんだっけ」
 苺は最後だからと冷蔵庫に保管して、入れ替わりに卵と牛乳を取り出した。奈々が菓子を作るために常時ストックされているバターも出して、秤を使って必要な分だけ取り、残りは元あった場所に戻した。
 沸騰を開始した鍋の火を止めてバターを溶かし、大きめのボウルに卵と牛乳、そして砂糖を入れ、掻き混ぜ始めた。
「うわっちゃ」
 ただ先を急ぐあまりボウルががちゃがちゃ揺れ、中身が跳ねて手や顔にまで飛んでくる。
 少しずつ量が減っていく中身に不安になるが、ここで下手に分量を増やせば、失敗するのは目に見えていた。
 あくまでも、レシピ通りに。
 無用な手を加えてアレンジする、という考えは持たない。やり直している暇はないと己を戒めて、綱吉は一心不乱に泡立て器を動かした。
「これくらいかな?」
 ようやく満足がいくところまで混ぜたところで、ベタベタに汚れた手をタオルで拭った。 次に、苺とセットで買って来たホットケーキミックスの封を切り、どさっとボウルに流し込んだ。砂煙のようなものが局地的に巻き起こったが、くしゃみで吹き飛ばす醜態は晒さず、最後まで我慢した。
「へくちっ」
 代わりに余所を向いて小さくくしゃみをして、思い切り鼻を啜って作業を再開させた。ちらりと壁の時計を見て、窓の外の陽気に小さく舌打ちした。
 本当は獄寺や山本たちから、遊びに誘われていた。京子にハルも一緒で、少し遠出をして海の方へ行かないか、と言われていた。
 最初はそれも悪くないと思っていた。折角の長い休みなのだから、ちょっとくらい帰りが遅くなっても構わないと、心を時めかせた。
 しかしカレンダーを見て、ふと思い出してしまった。おそらく家族からも、仲間からも祝われることのないだろう人の誕生日を。
 せめて自分くらいは、と傲慢にも思ったのが、運の尽き。そこまでしてやるほど親密な関係ではないのに、日頃の感謝だとかなんだとか、あれこれ理由を作ってしまった。
 仲間達には別の言い訳を用意して、粘る獄寺を説得し、丁寧に断った。ただ結局、彼らの計画は、綱吉の不参加により流れてしまったらしいので、その点は申し訳ないとしか言いようがない。
 遠出は出来ないけれど、次の週末辺りに自分から誘ってみようか。
 彼らとならどこに行っても、なにをしても楽しい。妙なトラブルは御免だけれど、ドタバタ劇も後から振り返れば良い思い出だ。
 簡単には忘れられそうにない出来事の数々を振り返り、粉と液体と混ぜていく。小さな塊を見付け次第潰して、綱吉はボウルがすっ飛んで行かないよう、左腕でしっかりと押さえ込んだ。
 ある程度混ざったところで溶かしバターを足し、更に混ぜた。一方で使い込まれたオーブンに火を入れて、余熱を入れるのも忘れない。
「よっ、と。……どうかな」
 真っ白だった粉は卵の色が混ざり、ほんのりクリーム色になっていた。
 溶け残った粉がないのを丹念に確認して、役目を終えた泡立て器を労う。怠さを訴える右腕をぐるりと回し、こちらも慰めて、最後に両腕を揃って高く掲げた。
「ん~」
 まだ行程の半分しか終わっていないのに、心の中で満足しかかっている。
 本番はここからだと己を鼓舞して、綱吉は壁際に吊されていたお玉を取った。
 泡立て器と入れ替わりにボウルに添えて、ぐるりと円を描くように掻き混ぜた。しつこいくらいにしっかり混ざり合っているのを確認して、前々から見繕っておいた紙製の容器を一個ずつバラし、鉄板へと並べていった。
 バレンタインの時に、京子たちに売り場へ連れ回されたのを思い出した。男である自分が何故、と思いつつ、手作りが貰えるのならばと喜んでお供したものだ。
 勿論貰えたが、獄寺や山本、了平たちにも同じ物が渡されていたので、その辺は深く考えない方がいいだろう。更にはビアンキの毒入りチョコレートまでもが紛れ込んでおり、その日の夜から翌日にかけて、かなりの地獄が展開された。
 獄寺などは、トイレで朝を迎えたと言っていた。山本はちゃっかりポイズンクッキングを免れていたそうで、さすがとしか言いようがなかった。
 物騒だが賑やかな過去に、自然と口元が緩んだ。お蔭で目測を誤って、綱吉は大きく傾いたお玉にはっとなった。
 容器の端から鉄板に向けて、液が零れていた。
「あっちゃー」
 気付くのが早くて少量で済んだが、うっかりにも程がある。
 すぐ気が抜けてしまう欠点に臍を噛んで、彼は改めて、花の形をした入れ物に意識を傾けた。
 入れ過ぎないよう、六分目か七分目まで注ぎ込んで、次のカップへと移る。計算では並べた器全てが埋まるはずだったが、作業中に零して減ってしまった余波か、一個分余ってしまった。
「ま、いっか」
 空のまま残されている紙容器に肩を竦め、素早く頭を切り替えた。
 まさか鉄板に零した分を掻き集めるわけにもいかず、潔く諦めた。数が減るのは残念だが、嘆いたところで戻って来るわけではないのだから。
 それよりも大事なのは、この先だ。余熱で充分温まったオーブンの戸を開けて、綱吉は慎重に、重い鉄板を差し込んだ。
 テーブルから持ち上げる際も水平を保ち、慎重を期した。ここで躓いて、転んだら一巻の終わりと忍び足でそろそろ進み、無事扉を閉めたところで止まっていた呼吸を再開させた。
「はあー……」
 こんなことで、心臓が破裂しそうだ。ドキドキ言っている左胸をエプロンの上から撫でて、彼は暗記するまで読み込んだレシピの記述を諳んじた。
「ええと。確か、百八十度で、二十五分だから」
 ずっとこの家で暮らしているが、オーブンを自分で使った回数はごく僅か。それこそ片手で足りるレベルだった。
 そもそも使う必要がないではないか。食事は母の奈々が全て用意してくれる。自宅にある様々な機械や設備の中で、彼が実際に操作したことがないものは、山ほどあった。
 そんな彼の日常が変わったのは、リボーンが家に来てからだ。
 中学校に入学したばかりの頃には、まさか自分が手作り菓子に挑戦する日が来るなど、夢にも思わなかった。
 今でも時々、これは妄想が過ぎる夢では、と疑うことがある。
 心の片隅で抱いていた理想や、憧れが再現されているのではと、ベッドに入って目を瞑った時など、特に強く思った。
 しかし夢と片付けてしまうにはあまりにリアルだし、綱吉の得になる出来事ばかりでもなかった。命を狙われ、幾度も死にそうな目に遭いたいとは、断じて願ったことはない。
「これでよし、と」
 念の為キッチンタイマーも用意して、綱吉は折り曲げていた膝を伸ばした。そのまま数回屈伸運動をして、用済みとなったボウルやお玉を流し台に移動させた。
 後は無事焼き上がるのを期待して、飾り付けの用意をするのみ。
 焦げて真っ黒にならないよう祈り、壁の時計を仰ぎ見た。思ったよりも針は進んでおらず、遊び疲れた子供達が戻って来るまで、もうしばらく猶予が残されていた。
 正直テキパキ進められたとは言い難いが、初めて挑んだ時よりは着実に上達している。「ふふん」
 自画自賛して鼻を高くした彼は、使い終えたボウルと泡立て器を上機嫌に洗い始めた。
 鼻歌交じりに汚れを落とし、泡を全て水に流した。乾いた布巾で水気を吸い取り、ピカピカに磨かれた仕上がり具合に満面の笑みを浮かべた。
 料理は決して得意ではなく、むしろ苦手な部類に入るが、それを言ったら他の事だって全部そうだ。
 運動も、勉強も、これといって人に自慢出来るものはなにもない。なにをやってもダメダメの、ダメツナ。それがあの日までの沢田綱吉の評価だった。
 周囲は勿論そう思っていたし、綱吉自身もそう決めつけていた。
 その重くて分厚い扉を、リボーンは力技でぶち破った。けれどその根っこの部分を引っ張り上げてみれば、出て来るのは奈々のお節介な笑顔だった。
 彼女が胡散臭いチラシを真に受けなければ、リボーンとの出会いはもう少し遅れていたはずだ。
「母さんにも、……母の日の前倒しってことで。良いかな」
 数年前の自分からは想像も付かない現在の立ち位置を見返して、綱吉は首を竦めた。照れ臭さから赤くなった頬を銀色のボウルに映して、小さく舌を出した。
 どうせ出来上がったもの全部、ひとりで食べきれるわけがないのだ。味見代わりに一個くらい譲っても、構わないだろう。
「よーし」
 残りの準備も頑張るべく気合いを入れて、綱吉は洗い終えた道具を順番に収納していった。テーブルの上がすっきりしたところで満足げに胸を張っていたら、オーブンの方から小麦粉の焦げる良い匂いが漂って来た。
 否応なしに食欲を擽られ、たまらず涎が咥内に溢れた。
「どうかな?」
 焼き具合を気にして様子を見にいったが、扉を開けて覗き込むわけにはいかない。ぐっと我慢して、好奇心に蓋をした。
 美味しい香りが漂っているというのは、順調に熱が通っているという証しだ。設定した時間がどれくらい残っているかを調べて、綱吉はいそいそと冷蔵庫へ向かった。
 吟味に吟味を重ねて選んで来た苺を取り、大事に胸に抱え込んだ。そしてもうひとつ、昨日のうちから母に頼んで買ってきてもらったものを、奥の方から引っ張り出した。
 子供達に見つかったら大騒ぎになりかねないものだから、隠しておいたのだ。既に泡立て済みで、開封後すぐに使える生クリームは、綱吉にとって救世主にも等しかった。
 これがあると、近いうちに菓子作りが行われると思われてしまう。そうなったら彼らは外出するなど絶対言わず、奈々の後ろをついて回るに決まっていた。
 特に食いしん坊のランボなどは、スッポンよりも厄介だ。
 あいつにだけは、知られるわけにはいかない。日頃はビアンキに感謝などしないのだが、今日だけは特別と心を広くして、彼は一層強くなった焼き菓子の匂いにクン、と鼻を鳴らした。
「うん」
 これなら出来映えを心配することもなさそうだ。
 逸る心を抑えつつ、焼き上がりまでの残り時間を数えた。椅子に座ってソワソワしながら、目を瞑ってはすぐに開き、時計とキッチンタイマーを交互に見比べた。
 落ち着きをなくして、貧乏揺すりが止まらない。局地的な地震を断続的に繰り広げて、居ても立ってもいられなくなり、勢い良く立ち上がった直後だ。
 チーンとベルがひとつ鳴って、世界が切り替わった。ようやく、と心を躍らせて、彼は勝手に緩む頬を慌てて引き上げた。
 最後の仕上げを急いで済ませ、余ったホイップクリームと、失敗気味のカップケーキ一個は奈々に委ねた。汚れたエプロンは洗濯機に放り込んで、矢張りあらかじめ用意しておいた四角い箱に、出来たものを詰められるだけ詰め込んだ。
 駆け足で向かった学校は、祝日なだけあって静まり返っていた。誰もいないのなら門扉も施錠されているのでは、とここに来て不安になったが、意外にも通用口は開いていた。
 見つかったら不法侵入で訴えられそうだけれど、綱吉は一応、この学校の生徒。
 それを証明する生徒手帳は忘れてきたし、制服も着用していないが、この際構っていられなかった。
 細かい事を気にしていたら、キリがない。
 ままよ、と腹を括って校内に入り、勢いのままに校舎内へと足を踏み入れた。
 誰かに見つかって、咎められるのは不味い。最悪、つまみ出されてしまう危険があった。
 昇降口で靴を脱ぎ、律儀に上履きに履き替えてから廊下を駆けた。息を殺し、気配を探りながら階段を上るが、シンとしている空気に足音は思ったより大きく響いた。
 反響する音にビクビクしながらも着実に一歩を重ね、目的地のある階まで到達した。登り切ったところで左胸に手を添えて深呼吸して、綱吉は乾いてヒリヒリする唇を舐めた。
 どうしてこんなに頑張っているのだろうかと、ふと疑問に思ったが、即座に頭から追い出した。
 理由などない。
 理屈などない。
 ただ祝いたかった。それだけだ。
 喜んでくれるかどうかも、関係無い。むしろあの男のことだから、嫌がるかもしれない。パイナップルのような髪型をした男なら、大喜びしてサンバのひとつでも踊り出しそうだが。
 どこかでくしゃみをしている骸を想像したら、肩の力が抜けた。
 要するにこれは、綱吉のただの我が儘だ。自分がどこまで出来るかの証明を兼ねた、自己満足の結晶でしかない。
 ダメツナなりに努力した姿を見せて、誇りたい。出会った時から今に至るまで、最強の名を戴いている男に、示したい。
「やっぱり、嫌がられそうだなあ」
 応接室と冠されてはいるけれど、実質そうではない部屋の前に佇めば、自然と苦笑が漏れた。
 それをすぐに引き締めて、ここまで来て引き返すわけにはいかないと、胸の中で握り拳を作った。
 在室であるのを信じて、遠慮がちにノックを二回。続けてもう一度、小さめのノックをすれば、数秒の間を置いて「どうぞ」との声が聞こえた。
 覚悟をしていたとはいえ、その声を耳にした途端に痺れが走った。ドアノブを掴もうとした指がぴくりと震え、虚空を握り潰した。
 面白味に欠けるドアをじっと見詰めて、忘れかけていた呼吸をはっと再開させた。
 このままだと、怪しまれてしまう。焦ってドアノブを回した時には、緊張などという概念はすっかり忘れ去っていた。
「失礼します!」
 開けてから叫んで、勢い良く一歩を踏み出した。
 正面やや左方向に顔を向ければ、いつものように雲雀が机に座っていた。
 窓が開けられ、春の爽やかな風が吹き込んでいた。白いカーテンがゆらゆら揺れて、ワルツを踊っているようだった。
 清楚な少女の白ワンピースを連想したくなるけれど、生憎そんな純真な存在はこの場にありはしない。居るのは暴虐という名に形を与えたかのような、並盛中学校の絶対君主たる男だけだ。
 草壁や、ヒバードの姿はなかった。近くに控えているのだろうが、綱吉の来訪を知っていたかのように、室内には見当たらなかった。
「……なに?」
 入室は許可したものの、雲雀からは出迎える姿勢が一切感じられなかった。
 今も書類から目を離さず、ペンを器用にくるくる回しながら、綱吉を見ようとしない。一瞥さえくれようとせず、来訪者に興味が無い、と言いたげな態度だった。
 もっともそれは、今に始まった事ではない。
 最初のうちこそ戸惑ったが、もうすっかり慣れてしまった。むしろ彼が両手を広げて歓迎してくれたら、槍の雨でも降るのではと怯えなければならない。
 口元を緩めていたら、不審がった雲雀がペンを机に置いた。眉を顰め、剣呑な目つきでこちらを一瞬睨み付けた。
 それで我に返って、綱吉はドアを尻で締めた。トン、と押して後は成り行きに任せ、反動を利用して執務机へと歩み寄った。
 大事に抱えてきた箱を掲げて、距離が狭まるにつれて胡乱げな眼差しを強くする男の前にそっと置く。すると雲雀は何らかの危機感を覚えたのか、背筋を伸ばして椅子に深く座り直した。
「なに?」
 先ほどと同じ質問を繰り出し、顎をしゃくって綱吉を示す。
 棘のある口調と視線に微笑みで返して、大空を継承する少年は小さなシールで封をしただけの箱を開けた。
 ホールケーキを作るだけの技量はない。見栄えがするデコレーションなど、尚更だ。
 だから小さなカップケーキを並べて、その頂点に苺を飾った。螺旋を描いた生クリームを土台にして、赤色の宝石がまるで蝋燭の炎の如く輝いてくれるのを期待した。
 結論を言えば、思い描いていた通りの図にはならなかったけれど。。
 きつね色を通り越し、やや焦げ目が付きすぎているカップケーキ。
 巧く円になってくれず、歪んだ楕円になった生クリーム。
 蔕が付いていた方を下にして、尖っている方を上にしたものの、移動中の振動やらなにやらで悉く倒れてしまった苺の数々。
「う……」
 もう少し畏まって、格好良く登場させたかったのに、叶わない。
 所詮はダメツナのやることか、と自虐思考が戻ってきたところで、箱を覗き込んだ雲雀が深々とため息を吐いた。
「どういうつもり?」
 今日が何の日か、さすがに忘れていなかったらしい。
 自分の誕生日に、ケーキを持って現れた相手が何を目的としているか、想像は難くなかろう。それでも敢えて問うた風紀委員長に、綱吉は少々ぎこちない笑顔で応えた。
「オレが、作りたかっただけです」
 恩を売ろうだとか、そんなことは全く無い。
 率直な思いを素直に吐き出せば、雲雀はなにを考えているのか、背凭れに身を預けて椅子をギシギシ鳴らした。
「ふうん?」
 やがて鼻から息を吐き、立ち上がった。膝の裏で椅子を遠くへ追いやって、分厚くて頑丈な机に尻の位置を移した。
 重要な書類だろうに乱暴に脇へ退かして、左腕を支えに身を乗り出した。高い位置から綱吉ごとケーキを見下ろして、何度か小さく頷き、最後に口角を歪めて笑った。
「僕が甘いもの、好きじゃないの、分かっててやってる?」
「それは、まぁ……でも、誕生日ってそういうものじゃないですか」
 嫌がらせを疑われて、綱吉は思わず目を逸らした。壁に吊された五月のカレンダーの数字を上から順に数えて、胸の前で両手の指をもぞもぞ蠢かせた。
 雲雀があまりこういう類を好まないのは、承知の上だ。それでも他に思いつかなかったし、綱吉の財力ではこれが限界だった。
 案の定だったと冷や汗を流し、笑顔を引き攣らせる。最悪トンファーの一撃が飛んでくるかと覚悟して、防御に走るべきかと悩んだ。
 そうして雲雀の利き手がすっと宙を撫でた途端、警戒しすぎてビクッと首を竦めて小さくなった。
「で、これは君が?」
 しかし飛んで来たのは質問であり、拳ではなかった。
「はえ……?」
 予想が違えて、間抜けな声が漏れた。半信半疑のままぎゅっと閉ざした瞼を開ければ、雲雀がカップケーキを詰めた箱に指を向けていた。
 惚けたまま頷き返せば、彼はまた「ふうん」と息を漏らした。への字に曲がった唇を徐々に緩めて、ちょうど真ん中に陣取っている、一番出来が良かったものへと手を伸ばした。
 そのまま容器ごと持ち上げるのかと思いきや、箱から出て来たのは苺だけ。
「あの」
「まぁ、いいよ。くれるなら、貰ってあげる。残り滓は、鳥の餌にもなるしね」
「えええ~……?」
 思わぬことに動揺を隠しきれない。話しかけようとしたら遮られて、些か酷い発言に心が砕けそうになった。
 雲雀の為を思って作ったのに、鳥の餌にされるのは傷つく。
 そんなに食べるに値しない代物なのか。あまりにも切なくて、涙しそうになったところで、脳内で反芻した彼の言葉にはっとなった。
 下向けていた視線を正面に戻せば、雲雀は苺に付いた生クリームを、舌を伸ばして舐めているところだった。
 鮮やかな緋色がちろりと顔を出して、なんとも艶めかしい仕草にゾクッと背筋が震える。
 なんというタイミングだと顔を赤くした綱吉は、再び俯きたくなるのを必死に我慢した。
 彼は残り滓は、と言った。今からこれを砕いて、鳥の前にばらまくとは言っていない。
「ヒバリさん、オレ」
「それにしても、君。僕にこんなに沢山、食べさせるつもりだったの?」
「こっ、これでも。減らしたんですけど」
「そう。哲、お茶」
「畏まりました」
「うわあ!」
 もしやとの思いで気が逸り、後方への注意が疎かになっていたのは否定しない。
 それでも超直感が働かない速度で、いつの間にやら現れたリーゼントの風紀副委員長に、綱吉は心底驚かされた。
 みっともなく悲鳴を上げて、その場でぴょん、と飛び跳ねる。
「うるさいよ」
「スミマセン!」
 向かいから叱責されて、反射的に謝った。背筋を伸ばし、九十度に腰を曲げて頭を下げたところで、いきなり唇になにかを押しつけられた。
 それがクリームを舐め取られた後の苺だと気付くのに、二秒か、三秒必要だった。
「変な小動物」
 クク、と喉の奥で笑った雲雀のひと言に、かあっと顔が熱を持った。
 苺は退いてくれない。払い除けることも出来ず、押し返すのも憚られ、困った挙げ句、恐る恐る口を開いた。
「むぐ」
 もれなく、容赦なく押し込まれて、塊が舌の上に転がった。無意識に雲雀が舐めたであろう場所を探してしまう自分に首を竦めて、綱吉はしおしおと小さくなった。
 これではどちらがプレゼントをもらったか、分かったものではない。
「コーヒーに砂糖とミルクたっぷりで、宜しいですか?」
「うん。僕はブラックね」
「心得ております」
 頭上では、何事も無かったように雲雀と草壁の会話が行き交った。
 当分顔を上げられそうになくて、綱吉は妙に甘ったるい苺をもぐもぐと噛み砕いた。

2019/04/30 脱稿

命にかへて 逢う世なりせば

 歌仙兼定とくちづけた。
 ほんの一瞬だった。互いの唇と、唇とが微かに重なり合い、そして離れた。
 表面を触れ合わせただけの、例えるなら爪先が掠めただけのようなもの。ただそれが、唇だったというだけで。
 戯れではなかった。
 かといって、真剣に向き合っての結果でもなかった。
 そもそも小夜左文字は、彼に対して格別な感情は抱いていない。向こうもそうだろう。それがどうして、このような結果を迎えたかと言われたら、答えに詰まらざるを得なかった。
 理由など、ない。
 分からない。
 何故あんなことをしたのか。あんな真似を許したのか。自分のことだというのに、小夜左文字にはさっぱり見当が付かなかった。
 驚いた。
 驚いた顔をしていた。
 終わってから、今し方自分達の身に起きた事象を知って、お互いに吃驚して固まってしまった。
 言葉が出なかった。
 語る言葉を持ち合わせていなかった。
 花見の宴の声は遠く、鳥の囀りの方が五月蠅い。それにも増して、ど、ど、ど、と脈打つ鼓動が喧しかった。
 春の陽射しが暖かく、柔らかな午後だった。
 朝から――否、昨夜から延々と続く宴会は、未だ終わるを知らず、酒飲みたちの喧噪は途切れることがなかった。
 食べるものがなくなり、酒すらも補充が追い付かない状況で、歌い、踊り、果ては格闘技の実践が展開されて。
 とても制御出来ているとは言い難い環境で、正直居心地が悪かった。
 もとより、騒がしいのは得意ではない。本丸での生活で多少は慣れたし、耐性がついてはいたけれど、毎年繰り返されるこの乱痴気騒ぎだけは、どうしても好きになれなかった。 厳しかった冬が終わり、日ごとに気温が高くなっていくのが分かる。日の出は早くなり、日暮れはすっかり遅くなった。西の空を彩る夕暮れの鮮やかさには目を見張るものがあり、ほんの少し前まで真っ白だった大地は、今や若緑色に溢れていた。
 季節の変わり目というものを目の当たりにして、声なく立ち竦んだのは、顕現して最初に迎えた春のこと。
 あまりにも劇的な変化を前にして、ただひたすら圧倒されて、震えるのが精一杯だった。
 そこから何度か同じような経験を繰り返し、さすがにもう慣れたと思いたかったけれど、そうはならなかった。
 今年もまた、色鮮やかな変遷に目を奪われた。一日、一日と膨らんでいく蕾に心を躍らせて、ついに綻び、花開いた時は感動もひとしおだった。
 ただの刀の付喪神であった頃は、無為に時を過ごしていた。この刀身に染みついた仇討ちへの執念と、失われた数多の魂の呪詛が、季節の彩りを体感させる目を、耳を、完全に塞いでいた。
 こうしている今も、全てが取り払われたわけではない。黒い澱みは未だ足元に蠢き、隙を見ては耳元で復讐を囁いていた。
 刀剣男士として仮初めの身体を得た事で、閉じていた感覚は強引に開放された。それでも俯き続ける小夜左文字の視線を、今一度強引な手腕で持ち上げさせたのは、他ならぬ歌仙兼定だった。
 彼が顕現した時、本丸にはあの打刀しかいなかった。
 必然的に話し相手は限られて、出陣しているときも、そうでない時も、つかず離れず一緒だった。
 だからもしかしたら、彼に対して、他の刀には抱かない親近感めいた感情は、あったのかもしれない。
 第一、彼とはこれが初対面ではない。『小夜左文字』とは細川幽斎が名付けた号だ。そして『歌仙兼定』の命名者は、細川三斎と言われていた。
 刀が打たれてから現在に至るまでのうち、本当にごく僅かな期間でしかないけれど、このふた振りは共にあった。当時は号もなく、付喪神として未成熟であった打刀は、幾らか年嵩の短刀の後ろを雛のようについて回り、無邪気に振る舞っては度々騒動を引き起こしてくれた。
 本丸で再会した打刀は、見てくれこそ大きくなったけれど、頭の中身は当時とさして変わっていなかった。
 思えば六百年の昔から、彼は季節の移り変わりに敏感だった。
 元の主がそうであったように、風流に親しみ、和歌や茶道に精通していた。小さな変化にも敏感で、美しく咲き誇る花々だけでなく、病を得て萎び、枯れ行こうとしている植物にまで心を砕く男だった。
 そんな刀と、宴で盛り上がる席から遠く離れた場所で遭遇したのは、思えば必然だった。
 料理上手としても知られ、台所に陣取る機会が多い打刀だけれど、いい加減休憩が欲しいと強請ったらしい。開口一番、「疲れた」と、本当に疲れた顔で呟かれて、危うく噴き出すところだった。
 咄嗟に右手で口を塞いだけれど、漏れ出る息を全て堰き止めるのは不可能だった。
 笑われたのに機嫌を損ねて、右の眉を僅かに持ち上げた歌仙兼定は、深い溜め息の末に傍らをぽんぽん、と二度叩いた。
 隣に座るよう、暗に促された。逆らう道理はなくて、素直に従った。
 この時点で彼の提案に乗っていなければ、後であれこれ思い悩み、悶々とさせられることもなかった。
 けれど過去は、変えられない。あの段階で、小夜左文字はああするのが最良だと判断した。それが全てだった。
 あそこでああしておけば良かった。こうしておけば良かった。
 記憶や経験はあくまで過去の蓄積であり、今更変えようのないものを引っ張り出して、どうこう論議するのは、無意味であると思っていた。だから小夜左文字は復讐を嘆くのではなく、求める刀となったのだ。
 だというのに、顕現してからこの方、不思議なことに後悔ばかりしている。もっと巧く出来た、避けられたのではないか云々と、つまらないことを引き合いに出しては、己の不甲斐なさを悔やみ続けていた。
 歌仙兼定とくちづけたことだって、そう。
 あれからもう軽く数刻は経過しているのに、目を閉じてじっとしているだけで、あの一瞬のやり取りが何度となく蘇った。
 しかもただ蘇るだけではない。頭の中にある記憶と、肉体に宿る経験が重なり合って、とうに終わった時間にまで意識が遡るのだ。
 限定的な時間遡行とも受け取れる行為で、過去を反芻する。もう数十回、否、百回を超えたかもしれない。たった一度の接触を、小夜左文字は心の中で際限なく積み重ねていた。
 こんなのは変だ。おかしい。
 頭の片隅から、必死に急き立てる声が聞こえる。
 それなのに止められないし、止めようがなかった。
 無意識に思い出して、意識すれば記憶はより鮮明になった。色を伴い、音を引き連れ、熱の再現を試みては、気付かぬうちに唇を触っていた。
 微かに濡れたような、それでいて乾いているような感触。
 熱くもなく、かといって冷たくもない、程よく心地よい微熱具合。
 肌を掠めた呼気からは、ほんの少し酒の匂いがした。
 けれど彼は直前まで台所に立っていたと言うし、桃の木の足元には徳利などの酒器はなかった。代わりに焼き魚の切り身と、生姜と、春野菜の天麩羅が、内側を十字に区切った箱に盛り付けられていた。
 その魚が食べかけだったので、恐らくあれが、匂いの発生源だろう。
 鰆の粕漬けは、美味しそうだった。強請れば譲って貰えただろうが、今となっては無理な相談だ。
 この先ずっと、鰆の粕漬け焼きが食膳に上がる度に、今日のことを思い出す。
 なんとも厄介で、悩ましい未来予想図だった。
「はあ……」
 意図せず溜め息が漏れた。その理由が歌仙兼定にあるのか、自分自身にあるのか、小夜左文字には判断がつかなかった。
 物憂げな表情で右を向けば、灰色の壁が一面に広がっていた。
 部屋に戻る気になれず、かといって盛り上がりが続く宴に混じるつもりもない。花咲き誇る庭を離れた彼の足は、自然と蔵に向かっていた。
 少々湿った空気が鼻腔を擽る。年季の入った埃と、収蔵されている野菜に付着した土やらなにやらが混じり合った、実に複雑怪奇な臭いが、後を追うようにして続いた。
 とても静かで、だからこそ落ち着かない。こんな所に引きこもって何をしているのかと、自分を叱りたくなる衝動に襲われては、意気地のない部分がむくりと首を擡げた。
 その都度地面から立ちあがる、という単純作業が阻害された。蔵を出て屋敷に帰る機会を無限に逸したまま、息を殺して時間が過ぎるのを無意味に待ち続けていた。
 あれが幻であれば、と何度願ったことだろう。
 しかし間違いであったとは、奇妙にも思わない。あの時はああするのが自然の流れで、ああなるのは当然だったのだ。
 彼とは、互いを慰め合うような関係ではない。それはない。そのような過ちは、一度だって犯したことはなかった。
 だというのに、くちづけは必然だったとの確信がある。そのような行為に至る間柄ではない、と断言出来るのに、あの一瞬は決して不快ではなかった。
 でなければこんなにも繰り返し、繰り返し、飽きることなく反芻し続けるなどあり得ない。
「歌仙……かせん。……之定……」
 ならばどうして、自分はこんな辛気臭い場所で膝を抱え、丸くなっているのだろう。
 いつの間にか唇に触れる指にはっとして、振り払っては、またなぞってしまう真似を性懲りもなく繰り返して。
 何度目か分からない溜め息を零し、三角に折り畳んだ膝に頬を転がした。陽の光が遠い屋内に風はなく、目を閉じても、開いても、明るさにさほど違いは無かった。
 ここに閉じこもって、それなりの時間が過ぎた。
 大典太光世もことある毎に蔵に逃げ込むが、頃合いを見て前田藤四郎が連れ出していた。しかし今の小夜左文字に、そのような相手は存在し得なかった。
 大体、彼が此処に居ると知っている刀はいない。ならば外に誘いに来る刀があるはずもなかった。
 そこまで思考が回ったところで、ひとつの可能性に行き当たる。
「僕は、……探して、欲しがってる……?」
 これまで思い至りもしなかった発想に心底驚き、愕然となった。外れそうになった顎を慌てて閉じた際、必要以上に力を込めたからか、奥の方でガチッと嫌な音がした。
 周辺に響く鈍い痛みに鼻を啜って堪え、呼吸を止めて二秒後、ゆっくりと息を吐いた。
 過剰に熱を含んだ呼気が、冷えた蔵の中に吸い込まれていく。その行方を追いもせず、彼は恐る恐る、蔵の出入り口を見た。
 閂は掛けていない。屋敷に暮らす誰もが自由に出入り出来るようにと、四六時中鍵など掛けられていなかった。
 結界に覆われた空間に位置する本丸だから、外敵の侵入を警戒する必要もない。泥棒を図る存在があるとするなら、夜中に腹を空かせた刀剣男士か、近隣の山里に暮らす動物くらいだろう。
 もっとも蔵の扉は相応に重量があるので、野生の獣が簡単に開けられるものではない。
 そしてそれは、短刀の膂力でも同様だった。
 完全に閉めたつもりで、ほんの少し隙間が残っていた。そこから漏れ入る陽射しの弱さと、角度で、もう夕暮れ時が近いのだと察しが付いた。
 かれこれ二刻近く、この場で過ごした計算だ。
「ああ」
 感嘆の息を漏らし、あれだけ躊躇していたのを忘れて、腰を浮かせて立ち上がった。しかし膝が真っ直ぐ伸びきるより早く、肢体は力を失って床へ崩れ落ちた。
 みっともなく尻餅をついて、熱を持つ頬を両手で挟み込んだ。俯いて、膝と膝の間に鼻先を埋めて、湧き起こる羞恥心に身を焦がした。
 くちづけあった一瞬よりも、今の方が余程恥ずかしい。何事もなかったかのような顔をしてあの場を立ち去ったのは、いったいどこの誰だと糾弾したかった。
 自然に振る舞えていると信じていたけれど、後から思えば不自然極まりない態度だった。遠ざかる唇に追い縋るべく顎が揺れて、直後に追いつけないと悟って、上半身ごと退いた。なにか言おうとする打刀を遮る形で立ち上がって、「じゃあ」のひと言だけを残して踵を返した。
 これのどこが、自然な流れと言えるのか。
 あまりにも唐突過ぎる展開に、歌仙兼定は絶句していた。中途半端なところで右手を浮かせて、物言いたげな顔で目を泳がせていたではないか。
 平静なつもりで、動揺していた。
 そんなことに今頃になって気がついて、穴があったら入りたかった。
 いや、すでに穴蔵もとい、蔵には入っている。
 己が置かれた状況と、環境を高いところから俯瞰して、小夜左文字は積み上げられた米俵に背中を預けた。
 力を抜いて寄りかかり、薄暗い天井を何するでもなく眺めて過ごす。
 投げ出した両足の間に両手を並べていると、冷たい床に体温が持って行かれ、肉体としての形まで失われていくようだった。
 咲き誇る桜の下での宴会は、賑やかで、騒々しく、誰も彼もが楽しそうだった。
 仲間の笑顔も満開で、見ていて飽きなかった。けれど黒い澱みを背負い、これと共に歩む道を選択した短刀には、あまりに眩し過ぎる光景だった。
 少しの間ならば平気だけれど、長時間に亘って眺めていると、瞳を焼かれた。直視するのが辛くなった。自分は此処に居るべき存在ではないと強く意識させられて、責め立てられている錯覚に陥った。
 ここでは彼を、誰も忌避しない。不幸を招き、不運を呼ぶ刀だと蔑んだりしない。
 それでも耳元で、何者かが囁くのだ。
 耐えられなくて、席を外した。不満を口にし、引き留めようとするいくつもの手を拒んで、芝に広げられた茣蓙から逃げ出した。
 花見として設けられた宴なのに、花を愛でている刀は少なかった。分かっていた事だが、彼らの目的は酒と料理が七割で、残りの二割は、顕現して日が浅い刀たちとの親睦を深めることだった。
 そうして僅かに残った一割が、花を眺めることなのだが。
 こうなってしまうと、『花見』の意味合いは逆に感じられた。これは最早花を見るのではなく、花に見られる宴ではないか、と。
 憤りにも似た感情を打ち消すべく、淡い色合いが目映い世界をひたすら歩いた。枝垂れ桜が咲き乱れる場所を離れて少し行くと、同じように春を彩りながらも、あまり注目を受ける機会が少ない花に巡り会った。
 桃だ。
 咲くのは梅よりずっと遅く、桜よりは幾ばくか早い。色合いは紅梅ほど強くなく、桜と比べると艶やかさが勝った。
 それが一本だけ、ぽつんと。
 好んで植えられ、集められている桜と対比させるかのように、静かに佇んでいた。
 その樹下に男が在ると、すぐには気付かなかった。
 遠くからでも分かる鮮やかな色彩に、まず目を奪われた。盛りを僅かに過ぎて、明日、明後日にも散ってしまうと分かる儚さに心を打たれた。
 凛とした佇まいが緑の中でよく映えて、美しかった。微かに甘い香りが漂って、蜜を集め終えたらしき蜂とすれ違った。
 向こうに攻撃する意思はなく、小夜左文字も無闇に命を奪う考えはない。余韻を残して消えた羽音を目で追って、次に桃の木に視線を戻したところで、ようやく青草を尻に敷いた男に気がついた。
 距離があったが、目が合ったと分かった。避ける理由がないので歩み寄ったところで、いきなり「疲れた」と愚痴を零されたので、笑ってしまった。
 それから誘われるまま傍らに座り、松花堂弁当の中身を覗き込んだ。花見の席には見なかった料理が殆どで、そういうことをしているから余分に疲れるのだと、茶化さずにはいられなかった。
 指摘したら彼はばつが悪そうな顔をして、仕方が無いのだ云々と言い訳を始めた。
 曰く、自分が食べたいものと、酒飲み連中から来る要望がかけ離れているだとか。
 曰く、彼らは時間を掛けて丹念に作った料理も、さっと短時間で簡単に作った料理も、食べれば同じと同列に扱っている、だとか。
 挙げ句日頃の感謝が足りない、と不満を爆発させたので、代表として謝った。次からはじっくり味わって食べる旨を表明したら、彼は慌てて、そんなつもりはなかったと頭を下げた。
 そんな他愛ない話をだらだら続けているうちに、風が吹いた。
 頭上の桃の枝が一斉にざわめき、左右に大きく撓った。煽られて上を向く枝先と、抵抗してどっしり構える幹と、上空に攫われていく花弁の織りなす光景は見事と称するより他になく、言葉を失うには充分だった。
 会話が途中で途切れたのも忘れて、ふた振り揃って春のざわめきに見入った。
 戯れが過ぎる風の御使いに感謝して、ひらひらと揺れ踊りながら落ちてくる花びらを追いかけた。捕まえようとして巧く行かず、両手を使って何度も挑戦したが、一度として成功しなかった。
 横で見ていた打刀は、こちらが失敗する度に苦笑を漏らし、終いにはくく、と喉を鳴らして俯いた。
 表情を隠しても、肩が震えているので笑っているのが分かる。気分を害した短刀はぶすっと頬を膨らませ、嫌がらせ目的で右肩から男に体当たりした。
 悔しいことに、あちらは微動だにしなかった。
 勿論一寸は揺れたけれど、反対側にひっくり返るだとか、よろめいて姿勢が崩れるだとか、期待した事はなにも起きなかった。
 背筋を伸ばした彼は、距離が近くなった短刀に顔を綻ばせた。意地悪をされたのに何故か嬉しそうな顔をして、満開の花を思わせる笑顔を浮かべた。
 目映かった。
 そんな風に見詰められるのが、どうしようもなく面映ゆかった。
 途切れた会話は再開されなかった。視線を逸らすことも出来ず、ただ呆然と見詰め返すのみ。
 向こうから何か言ってくれれば助かるのに、歌仙兼定は馬鹿みたいにニコニコする一方で、言葉を発しようとしなかった。
 奇妙な時間だった。
 花見の宴席とは異なる居心地の悪さに、小夜左文字は耐えきれず俯いた。失礼にならない程度にゆっくりと視線を外して、横に並んだ自分たちの手を何気なく眺めた。
 大きさがまるで違っていた。あんなにも柔らかく、小さかった掌は、長くしなやかな、大人の手に変わっていた。
 対する自分はどうかと比較して、あまりの貧相さに絶望めいた感情を抱きたくなった。
 悲惨な現実に落胆して、それが身動ぎとして表に出た。僅かに揺れた肩が打刀の上腕を掠めて、袖と袖とが交錯した。
 吐息よりも微かな衣擦れの音に、何故かふた振り同時に反応した。
 はっとして、顔を上げた先に歌仙兼定がいた。当たり前のことなのに驚いて、意識してこなかった距離の近さに気付かされた。
 体当たりを喰らわせて、そのまま居座っている自分にも驚愕した。
 それを許した歌仙兼定にも、唖然となった。
 これまでの日々の中、当然の如く享受してきた相手の存在の大きさを痛感した。
 思えば彼とは、長い付き合いだ。本丸で最初に選ばれた打刀と、最初に鍛刀された短刀というだけでなく。遠い過去から現在に至るまで、共に居た時間はごく僅かだったにも関わらず。
 兄弟刀よりも兄弟らしい、と評されたこともあった。誰に言われたかは忘れたが、その後どちらが兄で、弟かと軽く揉めたのはよく覚えている。
 人見知りが強い打刀にとって、小夜左文字は数少ない心許せる相手だったのは確かだ。他の刀剣男士を前にしては絶対見せない表情をして、審神者相手でも絶対に吐かないだろう愚痴や弱音も、散々聞かされてきた。
 両者の間には最初から壁などなく、故にこうして肌触れ合う距離でも違和感を抱かない。小夜左文字自身、宗三左文字や江雪左文字相手には緊張させられることでも、歌仙兼定にはまるで臆するところがなかった。
 顕現直後――否、本丸に顕現する以前からこの調子だったから、この関係を特別なものだとは意識してこなかった。
 認識していなかった。
 だのに、理由は不明ながら、この瞬間に悟らされた。
 振り返れば、過去に幾度か指摘されて来た事だった。お前達は付き合っているのかと、若干茶化し気味にではあったものの、直接的な表現で問われたことさえあった。
 不意に思い出したとある日の出来事に、かぁっ、と頬が熱くなった。
 この場に鏡がなくて良かったと、心の底から安堵した。とても見られたものではない筈で、蔵に自分以外誰もいなかったのは幸いだった。
「ああ……」
 これから先、どんな顔をして彼と会い、話をすれば良いのだろう。
 起きた事を思い返すばかりで、これから先のことをあまり考えてこなかった。憂鬱な想像をしてしまい、一度は天を向いた眼差しが、再度地の底に向いてしまった。
 目を閉じれば数刻前の出来事がありありと蘇る。
 衣擦れに引きずられる格好で顔を見合わせた後、今度はふた振りとも、すぐに目を逸らした。歌仙兼定の表情からは笑みが消えて、どこか戸惑ったような雰囲気を漂わせていた。
 それが何に起因しているのか、小夜左文字には今でも分からない。不信感や、軽い疑念といったものがあったようだが、彼の心の内を読み解くのは易くなかった。
 会話のきっかけを見出せず、肩を寄せ合い、時間が過ぎゆくのをただ眺めていた。
 折角時間を費やして作っただろう弁当は放置され、打刀は箸を取ろうともしない。申し訳ないことをしたと後から思ったが、当時の短刀はそこまで頭が回らなかった。
 布越しに感じる微かな熱と、断続的に聞こえて来る男の呼吸音と。
 耳を澄ませば鼓動さえ聞こえるのでは、という距離で、過去に覚えたことのない強い緊張感に見舞われた。
 自分に聞こえているのなら、彼にだって聞こえているはず。
 それが余計に緊張を膨らませ、四肢を強張らせた。透明な縄でぐるぐる巻きにされた心境で、かちこちに固まった筋肉は、やがて思いがけない反応を引き起こした。
 ぴくりと、右の中指が勝手に動いた。
 それだけだ。そう、たったそれだけなのに、全身の発条が一気に爆発したかのような衝撃が走った。
 ビクッと、震えたのだと思う。
 直後に歌仙兼定がこちらを向いて、何事かという表情をした。小首を傾げ、流麗な眉を僅かに潜ませ、探る眼でこちらを覗き込んで来た。
 名前を呼ばれた気がする。
 いや、呼ばれたのだろう。だけれど声は聞こえなかった。頭の中は真っ白で、聴覚どころか、色々な感覚がすっかり麻痺していた。
 他にもひと言、ふた言質問された覚えがあるが、なんと答えたかは覚えていない。もしかしたら、答えてすらいないのかもしれなかった。
 首を振った、のは確かだ。それだけははっきりと記憶している。しかしそれ以外は、部分的に欠落していたり、前後が入れ替わったりして、判然としなかった。
 足りない部分を空想で補っている気配すらあった。
 どこまでが現実に起きたことで、どこからが妄想に端を欲するものなのか。両者が混ざり合い、ぐちゃぐちゃになってしまった以上、分離して整理するのは不可能に近かった。
 どこかの時点で、笑いかけられた。
 ふっ、と窄めた口から漏れた吐息が、緊張の行き過ぎから来る混乱に陥っていた短刀の鼻先を擽った。
 彼がなにを見て笑ったのか、咄嗟に理解出来なかった。
 けれど同じところをぐるぐる回っていた思考が、それで一段落した。ゆっくり減速して、凍り付いていた四肢に熱が戻った。
 打刀はぽかんとする短刀に目を細め、左耳の辺りを指差した。なにかと思って怪訝にしていたら、花びらが付いている、と教えられた。
 それは頭上に戴く桃の花ではなく、薄紅色の桜の花弁だった。
 どこで拾って来たかなど、考えるまでもない。花見の宴は枝垂れ桜の足元だったから、あの場に居た刀の多くは、身体のどこかしらに花弁を付着させていた。
 小夜左文字も御多分に漏れず、そのひと振りに含まれていた。
 陽が昇る直前、夜明けの空にも似た色の髪に、淡い色の花弁が一枚。
 これが兄刀の宗三左文字だったなら、髪色に埋もれて区別がつかなかったに違いない。指摘を受けて真っ先に思ったのはそんなことで、お蔭で男の手が接近しているのに気がつかなかった。
 意識が余所を向いている隙に、忍び寄られた。いいや、小夜左文字がそう感じただけであり、歌仙兼定にすればこうするのは自然の成り行きだった。
 長く、しなやかな指が藍色の髪に触れた。
 癖のある頭髪に埋もれ、絡まる花弁を取り除かんとして、爪先を僅かに揺り動かした。
 引きずられる格好で、中空にあった毛先が、華奢な短刀の頬を掠めた。
「!」
 記憶を辿るうちに、連動して今現在の小夜左文字までもがビクッと肩を震わせた。背後に誰かいる予感を抱いて振り向いたが、さすがにそれはあり得なかった。
 薄暗い空間には、伸びる影すら存在しない。
 入り口から漏れ入る光の形も、先ほどから殆ど変わっていなかった。
 その事実にホッとして、同時にがっかりした。本丸の誰も、自身の不在を疑問に思わないのだと、悪い方向に思考が傾いた。
 きっとそんなことはないと思うのだが、楽観的に構える余裕もなかった。精神的にゆとりが無く、何もしていないにも拘わらず疲弊しているのが実感出来た。
 歌仙兼定がそうしたように、小夜左文字は己の頬を撫でた。顎の下から耳元に抜けるようにして指を沿わせ、輪郭を確かめながら、人差し指だけを上に向かわせた。
 絡みついていた桜は、たった一弁のみ。その割には随分と大袈裟な仕草であるが、文系を気取る男はいつも大体、こんな感じだった。
 単に抓み取れば済む話なのに、ひと手間足して、わざわざ触れようとする。
 他の刀剣男士相手には、しない。小夜左文字にだけ、そうする。
 深く考えたことはなかった。あれらに何らかの意図が含まれていたのかどうかは、この場では調べようがなかった。
 ただ想像するだけなら、容易い。自らが願う結論にも、至りたい放題だった。
 かあっと顔が熱くなり、胸の奥の疼きが酷くなる。耳元で鼓動が鳴り響き、まさにあの瞬間の再現だった。
 頬に手を添えられて、彼ははっと息を呑んだ。驚いて視線を戻せば、予想だにしなかった近さに打刀が居た。
 鼻先を吐息が掠めた。
 彼の呼気が唇を撫でた。
 目を見張った。
 至近距離で視線が交錯した。
 火花が散った。
 咄嗟に目を閉じた。首を竦め、脇を締めてぎゅっと力を込めた。
 顔の各部位が一斉に中央に集まった。眉間に皺が寄って、顰め面が面白い事になっていたはずだ。
 もっと良い顔が出来なかったものか。激しい後悔に見舞われるが、過去の自分を叱り飛ばしたところで栓ない話だった。
 歌仙兼定はしばらく動かなかった。桜を抓み取るのも忘れて、息を殺していた。
 この時彼がどんな表情を浮かべ、なにを思っていたのか、見当も付かない。盗み見ておけば良かったと悔やむが、今更だ。
 彼の立場になって考えてみるが、行き着く先は常に真っ暗闇。手持ち無沙汰に自分で頬を撫でて、小夜左文字は細すぎて頼りない肩をがっくり落とした。
 同時に右手も頬から落として、すぐに取って返して耳朶に被さる髪を掻き上げた。
 桜の花びらはもう残っていなかった。
 どの時点で落ちたかは、はっきりとしない。気がつけば失われていた。歌仙兼定が取ってくれたと信じたいが、そんな暇はなかったはずだ。
 互いに固まったまま数秒を過ごして、小夜左文字が先に動いた。沈黙に耐えかねて、そろりと片方の瞼を持ち上げた。
 僅かに遅れて、反対側の瞼も。
 けれど視界は真っ暗で、なにも見えなかった。丁度今居る、蔵の中のような具合だった。
 昼間の、満開を過ぎようとしている桃の木の下だったのだ。屋外でそれは通常、あり得ない。しかし本当に、そうだったとしか言いようがなかった。
 目の前にいる男の貌すら、はっきりと映らなかった。輪郭が滲んで、ぼやけて見えた。
 焦点が合わないくらい近くにあったのだと、今なら分かる。けれどあの瞬間は、何が起きているのかさっぱりだった。
 戸惑った。
 困った。
 次にどうすべきか分からず、肉体も、思考も、完全に硬直した。
 なんとか視覚を取り戻そうと瞬きを繰り返して、ようやく藤色の髪に紛れた男の瞳を見付けた直後。
 縹色をした双眸がスッと、優しく、それでいて鋭く眇められた。
 射貫かれた。
 唇が重なった。
 打刀に花びらの存在を指摘されてから、ほんの数秒間の出来事だった。
 とてつもなく長く感じられたが、実際はそうでもない。永遠に終わりが来ないのでは、と惑わされたが、過ぎてしまえば呆気ないものだった。
 動揺してはいけない。その一心で彼を見詰め返して、平静を装って立ち上がった。
 彼とは、こういうことをする関係ではなかった、はずだ。
 つかず離れずの距離を保って、お互いを気遣いながら、巧くやっていたつもりだった。
 兆候がまるでなかったとは、言い切れない。しかし踏み越えてはならない一線というものがあると悟って、極力見ないようにしてきた。
 それなのに今回、躓いた。
 うっかり転んで、その拍子に飛び越えてしまったようなものだった。
「……歌仙」
 拒む時間はあった。
 歌仙兼定が耐える選択肢もあった。
 本当は、知っていた。けれど気がついていない振りをしてきた。そうすることで、平穏を保っていた。
 自分達は刀剣男士。審神者の命に従って時間遡行軍と戦い、歴史修正主義者の目論見を挫くのが存在理由であり、役割だ。武器として、力を振るう物として、刃を敵の首に突き立てるだけが、求められる全てであるべきだった。
 この感情は、そこから逸脱している。
 戦う武器でしかない存在にとって、明らかに不自然であり、不必要なものだった。
 それを自分が抱いていると、認めたくなかった。自分に向けて抱かれていると、信じたくなかった。
 まるで人の子のように。
 恨みを呼び、憎しみを育てる土壌が自分自身にも宿っていると、考えたくなかった。
 短刀『小夜左文字』は不幸を招く刀。だが結局のところ、不幸を招いたのは所有者自身であり、刀はただそこに在っただけだ。
 ところが刀剣男士として現身を得た彼自身が、愛憎といった感情を抱き、育てていくとなると話は別だ。
 そうなれば今度こそ、本当に、彼自らが不幸を呼び込むことになる。
「かせん」
 首を擡げた不安に連動し、黒い澱みが蠢いていた。小夜左文字は思わず口元を押さえて、無意識に中指で唇を撫でた。
 あまりにもなぞり過ぎた所為か、一部分だけ乾いてカサカサになっていた。一瞬の邂逅の記憶は徐々に薄れ、他のものに取って代わろうとしていた。
 嗚呼、どうして彼はあんな真似をしてくれたのだろう。あそこで触れ合ったりしなければ、これほどの恐怖を覚え、身を竦ませる事にはならなかったのに。
 恨み言が心の奥から溢れた。現実に言葉に発していないか心配になって、息を止めて口を噤んだ。
 更にその上から両手を重ね、二重の鍵を掛けて身を捩る。
 空気が動いた気がして、身体を大きく揺すった。顔を上げ、急に増した明るさに、一秒遅れて目を閉じた。
 重い扉を開く、鈍い音がした。短刀の腕力では少ししか動かせないものが、難なく操られ、出入りに不自由ない空間があっという間に作られた。
「そこにいるのは、お小夜かい?」
 呼び声は低く、しかし伸びやか。
 高い天井に吸い込まれ、僅かに反響する音色に、咄嗟に応じることが出来なかった。
 無言を貫き、素知らぬふりをして隠れ続ける道もあった。けれど残念ながら、座り込んでいる場所が悪かった。
 出入り口を楽に見通せる場所というのは、裏を返せば向こうからも良く見える、ということに他ならない。
 余程の節穴でなければ、見逃すはずがなかった。そして歌仙兼定がそんななまくら刀でないのは、小夜左文字自身が一番よく分かっていた。
 逃げ切れないと悟って大人しくしていたら、光を背負った男が大仰に肩を竦めた。両手を腰に当てて首を振り、この距離でもはっきり聞こえる音量でため息を吐いた。
「もうじき、夕餉の時間だよ」
 花見の宴は、どうなったのだろう。今宵も外で、車座になっての食事だろうか。
 打刀はあれから、台所に戻ったのか。それとも別の場所で、別のことをしていたのだろうか。
 あのことを、どう思っているのか。
 疑問は次々降って湧いて、尽きる事がない。だがそのひとつとして、選んで声に出せなかった。
 ただ黙って、男が穏やかな足取りで近付いて来るのを待つ。
 立ち上がるのを促し、手が差し伸べられた。綺麗に並んだ五本の指と、そこから広がる大きな掌越しに見上げた顔立ちは、優美で、秀麗で、少し寂しげだった。
「お小夜」
「……すみません」
 催促して二度、三度と揺らされて、辛うじてそれだけを絞り出した。
 短い謝罪がどれほど多くの感情を内包しているものか、歌仙兼定には分かるまい。ひとり懊悩し、苦しんでいたか、この打刀は知る由もないのだ。
 心の隙間からぽろりと零れ落ちた憎しみが、足元をころころと転がっていく。
 奥歯を噛んで漏れ出かけた嗚咽を磨り潰した短刀に、歌仙兼定は出した手を引っ込めた。
 代わりに彼は、膝を折った。急いで右膝で地面を叩いて、蹲る小夜左文字と目線の高さを揃えようとした。
 身を屈めて、猫背になって。
「お小夜」
 先ほどより近いところから声を発して、幾ばくか薄まった暗がりから覗き込んで来た。
 真っ直ぐに突き刺さる眼差しは、くちづけを交わす直前に見たものと相違なかった。
「……っ」
 思わず警戒し、肩が跳ね上がった。蛙を真似て後ろに飛び退こうとしたけれど、人を模したこの体躯では叶わなかった。
 距離を詰めようとして果たせなかった男は、僅かに眉を顰めた。思案するかのように瞳を揺らして、前のめりになった身体を支えるべく、右手を地面に突き立てた。
 小夜左文字の爪先すぐ脇に拳を置いて、言葉を選んでいるのか、無言で口を開閉させた。やがて深く息を吸い込み、唇を真一文字に引き結んだ。
 告げる決心が整ったと、そういう表情だった。
「僕は――」
「だめです」
 それを、直前で制した。
 両者の声がごく僅かな差で重なり合った。邪魔が入ると予想していなかった男は呆気にとられ、二の句が継げず、惚けたまま目を点にした。
 お蔭でこちらも、気まずい。咄嗟に放った台詞を補うのも忘れて、小夜左文字は両手の指を意味も無く蠢かせた。
 空を掴み、握り、均して、ぽとんと膝に落とした。
 一緒に視線を沈めて、戸惑う男の方へ首を傾けた。
「僕は、……だめです。歌仙。あなたを、不幸にしてしまう」
 一度堰を切ってしまえば、あとはなし崩しだった。
 喉の奥に閊えていた物が、一気に溢れた。これまでの穏やかで、和やかで、柔らかな日々が瓦解し、壊れてしまうのがなにより恐ろしかった。
 本丸で共に居て、時を過ごす。それだけで良いではないか。醜悪な感情を引き寄せる関係は、望まない。今まで通り、可も不可もない生活を過ごすのでは駄目なのだろうか。
 短刀として世の中を渡り歩く中で、人と人の営みを間近で眺めて来た。ちょっとしたきっかけで平穏が砕け散る様をつぶさに見て来ただけに、昨日までの関係が一変するような状況は受け入れ難かった。
「不幸……?」
 しかしあちらは、違う考えを有していた。
 鸚鵡返しに呟いて、歌仙兼定はスッと背筋を伸ばした。一度天を仰いでゆるゆる首を振って、地面に押しつけていた利き腕を持ち上げた。
 指の背に貼り付いた汚れを振って落とし、更には袴に擦りつけて拭って、関節を伸ばした。二度、三度と軽く空気を掻き混ぜて、上目遣いに様子を窺う短刀へと差し向けた。
 ぽすん、と大きな手が落ちて来た。わしゃわしゃと容赦なく掻き回されて、準備が出来ていなかった細い首が落ちそうになった。
「か、歌仙」
「なにを、今更。君に置いて行かれたあの時から、僕はとっくに、不幸だ。お小夜」
「それは。そんな……」
 抗ったが、許されない。物理的に顔を上げられなくて、打刀がどんな顔をしているのか、見て確かめることが出来なかった。
 指先に籠められた力具合といい、彼が怒っているのは間違いない。
 それをどう宥め、謝罪すれば良いか思いつかなくて、小夜左文字は黙って撫でられ続けるしかなかった。
 歌仙兼定は昔、小夜左文字と一緒だった。
 同じ主の下に在った。打刀はその頃まだ号がなかったけれど、実利に特化した片手持ちの刀として、重宝されていた。
 ふた振りが離れたのは、時代の流れ上、やむを得ないことだった。
 飢饉で餓える領民を救うために、金銭の工面は急務。当時の持ち主が手っ取り早くこれを得る為に、売れるものを売りに出すのは当然の選択だった。
 その元の主の決断を、歌仙兼定は非難した。その結果己は不幸になったと、物でしかない刀が言い切った。
 刀剣男士として顕現する以前の彼らは、自身で考え、行動する権利を有していなかった。
 物は物であり、持ち主に依存することでのみ存在を許される。こちらから何かを訴えかけるには、それこそ夢で語りかけるくらいしか術が無かった。
「そんなこと、言ったって……」
 間接的に、大人しく売られて行った小夜左文字まで責められた気分だ。
 あの時は他に道がなく、そうするのが最良だと短刀も納得した。結果として打刀を細川の屋敷に置き去りにしたのは否定しないが、抗って覆せるものではなかった。
 それくらい、この男だって分かっているはずだ。
 だのに恨みがましく言われて、気が滅入った。益々落ち込んで、嫌になったところで、頭上にあった手が引っ込められた。
 首に掛けられていた負荷が消えても、顔を上げられない。
 湧き起こる悔しさと、不条理さから来る腹立たしさが混じり合う。醜悪な感情がむくむくと膨らんで、無意識に拳を硬くしていた。
 何かの弾みで爆発して、殴りかかってしまいそうだ。
 そうならないよう枷を掛け、唇を噛んで、腹に力を込めた。
「だから、お小夜には。僕を幸せにする義務がある」
「――はい?」
「拒否権はない。だって、そうだろう?」
 そんなこちらの苦労を足蹴にして、突然、凛とした声で言い張られた。
 唖然とし、目をぱちくりさせて、不遜に笑いかけてくる男を疑わしげに見る。
「意味が、分かりません」
 声は掠れていた。音になったかどうかも怪しかった。
 惚けて固まっていたら、あの時のように頬を撫でられた。顎の輪郭をなぞり、もみあげを擽って、癖の強い藍色の髪を軽く掬い上げた。
 棘のように硬い毛先を指先で梳いて、朗らかに笑いかけられた。
「だから、まずは言わせてくれ。お小夜。言わせても貰えないのだって、不幸極まりない話だろう?」
「それは。僕は、不幸を招きますから」
「なら、その不幸を断ち切ってみせよう」
 自信満々に告げられて、益々困惑が否めない。なにを根拠に断言しているのか、それすら読めなかった。
 ふふん、と鼻を鳴らして口角を持ち上げ、歌仙兼定が指を走らせた。薄い耳朶を包むように掌を広げて、小夜左文字の後れ毛を梳いた。
 滑らかな動きを、ピリリとくる痺れが追いかけて走る。背筋がぞわっとして、産毛が一斉に逆立った。
 爪先がぴくりと弾んで、じんわり染み込んで来る他者の熱に心が疼いた。先ほどまで確かにあった苛立ちは霞のように消え失せて、黒く染まった感情は見事にひっくり返った。
 これまで目にする機会のなかった色が現れて、四肢の隅々に広がって行くのが分かる。「だめ、です」
 暖かかった。
 心地よかった。
 だからこそ恐ろしくて、逃げたかったのに、果たせない。
「聞いてくれ、お小夜」
 甘美な音色は透明な縄と化し、華奢な体躯を優しく縛り上げた。耳に馴染む掠れた低音は、頑なだった短刀を甘く蕩かした。
 全身を包む微熱は穏やかで、泣きたくなるほど優しくて。
 幸福というもののあまりの居心地の悪さに、小夜左文字は顔を顰めて目を閉じた。

何ゆゑか今日までものを思はまし 命にかへて逢う世なりせば
山家集 659
2019/04/14 脱稿

梅が香とめん 人親しまん

 微かに香る甘い匂いに誘われて、目白が梅の木にやって来た。
 緑色の艶やかな羽に、細長い嘴、愛嬌のある眼。小さな花に顔を突っ込み、蜜を集めて枝から枝へ飛び移る姿は忙しなく、ふっくらとした体躯もあって、実に可愛らしかった。
 油断すればすぐに見失ってしまう素早さで、目で追うのも一苦労。
 思わず首を伸ばし、前のめりになって、小夜左文字は着実に迫る春の足音に耳を澄ませた。
「おっと」
 危うく行きすぎて、縁側から落ちるところだった。
 前傾姿勢を強くし過ぎたのを反省し、軒下に垂らした両脚を誤魔化しにぶらぶら動かす。腋の下を流れた冷や汗にぶるっと身震いして、彼は周囲に悟られぬよう吐息を零した。
 ホッと胸を撫で下ろし、そうっと後ろを窺い見る。
 穏やかな日差しが差し込む縁側にて、弟刀が絶賛百面相中とも知らず、座卓に向き合う男は巧みに筆を操っていた。
 凛と背筋を伸ばし、姿勢はお手本のように良い。長い髪を無造作に背に垂らして、紙面に注ぐ眼差しは真剣だった。
 美しく装飾が施された料紙には、定規と篦を使って細い筋が等間隔に刻まれている。その罫線の隙間を縫うようにして、流麗な文字が丁寧に書き連ねられていた。
 一言一句として間違えないよう、手本として広げた経典をじっくり眺め、頭の中で何度も書く練習をして。
 お蔭で一行進めるだけでも、相当な時間がかかる。その分仕上がりは折り紙付きだが、だからといって書写したものが役に立つとは思えない。
 数年に渡って彼が一振りで成してきた偉業は、誰に評価されることもなく終わりを迎えるのだろう。虚しくないのかと不思議に思うが、江雪左文字にとって、こうやって過ごす時間は決して無駄ではない。
 だから飽きもせず、今日も励んでいる。
 小一時間ひと言も発せず、足を崩すこともせずに佇んでいる兄刀から視線を逸らし、小夜左文字は梅の木が幅を利かせた坪庭に視線を戻した。
 交互に動かしていた脚を揃え、並べた膝の隙間に両手を埋めた。退屈しのぎに両手の指を弄り、ふと思い出して視線を上げた先に、もう目白の姿は無かった。
 腹を満たして、どこかへ飛び立ってしまったようだ。
「ああ……」
 もっと見ていたかったのに、叶わなかった。折角やって来た春の気配を掴み損ねた気分で、短刀の付喪神は落胆に肩を落とした。
「お小夜?」
 その溜め息が、江雪左文字の耳に届いてしまった。
 なんと間が悪いのだろう。どうせなら他のところで気付いて欲しかったと、もやもやする気持ちを内側に隠して、彼は今一度兄刀を振り返った。
「はい」
「……退屈、では……、ありませんか……?」
 爪先は軒下に垂らしたまま腰を捻り、上半身だけを江雪左文字へと向ける。
 縁側に面した障子を開き、差し込む天然光を頼りに写経していた太刀の身体は、詰まるところ小夜左文字と同じ方角を向いていた。必然的に両者は正面から顔を突き合わせる事になったが、身長に差があるのも手伝い、視線は巧く絡まなかった。
「いいえ」
 それに幾ばくか安堵して、躊躇なく首を横に振った。
 確かにここにいても、特別なにか起きることはない。ただ静かで、無為な時間が過ぎていくだけだ。
 けれどそれが決して無駄だと、小夜左文字は思わない。江雪左文字が毎日せっせと机に向かい、写経に務めるのと、そう大きな違いがあるようには感じられなかった。
 それに、例えば先ほどのように、目白が花を訪ねてやって来る事もある。
 遠くからは馬の嘶き、鍛練に汗を流す雄々しき掛け声も、途絶えることなく響いていた。
 時間が動いている証拠を、あらゆる場所から見出し、己の存在をその中心に据える。
 四方に注意を向け、意識を研ぎ澄ましていた。退屈している暇など無かった。
「手持ち無沙汰、では、ありますが……」
 もっともじっとしている時間が長い分、この身体は動きを欲していた。
 その一点だけを抜き出して言うのであれば、左文字の長兄たる太刀の指摘は、あながち間違いとも言い切れなかった。
 そんな複雑な心境が、少しでも顔に出ていたのだろうか。
「私と、いても……楽しくは、ないでしょう……?」
 江雪左文字は小さく肩を竦め、控えめに微笑んだ。どこか自虐的にも映る表情を見せられた方は、言葉の選択を誤ったと悟り、己の失態に下唇を噛んだ。
 だが言ってしまった以上、もう取り戻せない。
 傷つけてしまったのでは、と後悔する余裕があるのなら、さっさと否定すべきだ。内向きになりたがる自らを奮起して、小夜左文字は兄刀の方へ身体を乗り出した。
 だらしなく垂らしていた利き足を回収し、固い縁側の床に膝小僧を擦りつけた。そのまま四つん這いで敷居の向こうに座す男の元へ向かおうとして、不意に流れてきた姦しい騒ぎ声に眉を顰めた。
「待って、待ってってば~!」
「急げよ。おいてっちまうぞ」
「なんでもっと早く教えてくれなかったのさ!」
 粟田口の短刀たちだろうか、混ざり合った声はどれが誰のものか分からない。
 複数のドタドタという足音と共に、一瞬のうちに静かになった。まるで小規模な嵐で、迷惑極まりなかった。
 短刀たちの住まう区画は、太刀たちの部屋がある区画からはかなり離れている。
 だというのに、壁一枚隔てただけのように聞こえた。いったい何の騒ぎなのかと気になったが、追いかけて問い質すのも馬鹿らしかった。
 静かで穏やかな環境を好む江雪左文字も、さぞや気分を害したことだろう。
 出鼻を挫かれたのもあり、眉間に皺を寄せ、小夜左文字は改めて兄刀に視線を投げた。
 思い描いていたのは、同じように渋面を作って不機嫌を隠さない姿。しかし実際そこにあったのは、どこか嬉しそうな、柔らかな笑顔だった。
 口角が僅かに持ち上がり、目尻は下がっていた。白い肌は微かながら朱を帯びて、ほんの少しであるけれど、血色が良くなっていた。
 切れ長の双眸は遠くを見据え、ここではない場所を見ている。
 予想とあまりに違う現実に愕然としていたら、視線に気付いた太刀がスッ、と表から感情を消した。
「どうか、しましたか?」
「いえ……」
 能面とまではいかないが、微笑にも届かない表情で問われて、戸惑いが隠せない。
 俯いて首を横に振った短刀に、太刀が怪訝に目を眇めた時だった。
「江雪、いいかな?」
「はい?」
 閉め切った襖の向こうから、呼び声があった。やや低めながら伸びがある、太刀相手にも遠慮のない、砕けた口調だった。
 それが日向正宗のものだと気付くのに、小夜左文字は三秒と少し必要だった。
 答えに辿り着いた時にはもう、彼は右手で襖を開き、顔を覗かせていた。
 屋内だからか、帽子は被っていない。動きの邪魔にならないようにか、衿の上に捲いた黒に白の線が走る飾り布の先は、着衣の第一釦と第二釦の隙間に捩じ込まれていた。
 床に置いていた盆を手に取り、胸元に掲げて敷居を跨ぐ。ここに至って、彼は小夜左文字の存在に気がついた。
「あれ、小夜もいたんだ。じゃあ、どうしよう。ちょっと足りないな」
 襖の前で立ち止まって、困った風に呟かれた。独り言だったようだが、充分に聞こえる音量で、それで彼の目的が半分以上判明した。
 日向正宗が運んで来たのは、急須と湯飲み。そしてささやかな茶菓子だった。
 それらを丸形の盆に行儀良く並べ、炊事場からここまで運んで来たらしい。但し小夜左文字が一緒、という可能性は念頭になかったようで、湯飲みはふたつしか用意されていなかった。
 彼と、江雪左文字の分だ。
 右手一本で重い荷物を支え、丸めた左手を頬に添えて悩む彼に、長髪の太刀がゆっくり立ち上がった。筆を置き、墨を磨るのに使う水滴を持って、僅かに乱れた袈裟を軽く整えた。
「であれば、私が。……もらって来ましょう……」
 水を補充するついでだと言って、部屋の主自ら出て行こうとする。
「あああ、いいよ、いいって。梅干し茶、おいしく出来たと思うんだ。ゆっくりしててよ。小夜もね」
 それを慌てて制したのは、日向正宗だった。
 入れ替わりに敷居を跨ごうとする太刀を急ぎ引き留めて、左手で陶器の水滴を引き受け、代わりに盆ごと茶器一式を押しつけた。
 少々強引なやり方に、形良く並んでいた湯飲みと急須がぶつかった。
 不穏な音が聞こえて、やり取りを遠巻きに見ていた小夜左文字は慌てて身体を起こした。
 半端な姿勢を改めて、二本の足で床に立った。緩んでいた尻端折りを歩きながら引っ張り上げて、戸惑う江雪左文字から盆を譲り受けた。
「ですが」
「勝手に来たのはこっちだし。いいから、いいから」
 太刀は太刀で、日向正宗の決定が不満らしい。なんとか食い下がろうとするものの、早口で窘められて、結局敵わないと口を噤んだ。
 ようやく大人しくなった彼に肩を竦め、目尻に朱を入れた短刀が、小夜左文字に向かってにこりと微笑んだ。
「根を詰め過ぎると、良くないからね。見張り、よろしく」
「え? あ、はい」
 星の明るい夜を閉じ込めたような瞳だった。
 きらきら輝く目を眇め、飾り気に乏しい丸い水滴を手に、日向正宗は踵を返した。
 これは仕事を押しつけられた、と思って良いのだろうか。預かった盆の重みを両腕で支えつつ、彼は開けっぱなしで放置された襖の向こうへと目を泳がせた。
 急にやって来た短刀は、立ち去る際も素早かった。振り返りもせず行ってしまった少年に困惑したまま傍らを伺えば、江雪左文字も似たような顔をして溜め息をついた。
「いただきましょうか……」
 日向正宗の戻りを待っていたら、折角用意してくれた茶が冷めてしまう。
 行き場を失った手で襖を閉めた長兄の言葉に頷いて、小夜左文字は渡されたものを傾けぬよう、慎重に足を進めた。
 畳の縁を踏まぬよう戻って、積み上げられた経典の手前で膝を折った。丸盆を大事に置いて、好奇心から急須の蓋をそうっと持ち上げた。
 細い湯気が数本揺らめき、鼻先を甘く擽った。
「梅干し?」
 緑茶の中に、見慣れぬものが沈んでいる。くすんだ赤色の塊をよくよく注意して見れば、焼き目が付いた梅干しだった。
 そんなものが、どうして茶の中に放り込まれているのか。
 訳が分からず戸惑っていたら、横から覗き込んで来た江雪左文字が、嗚呼、という風に頷いた。
「疲労回復に、良いと。そう……聞いています」
「そうなんですか?」
 太刀は特段驚いた様子もなく、当たり前のものとして受け取っていた。いつかの日に、誰かから教えられたのであろう知識を披露して、委ねられた急須を傾け、京焼の湯飲みに茶を注いだ。
 派手で華やかな文様が焼き付けられた器を中心に、香ばしくも少々酸っぱい匂いが広がって行く。
「いただきます」
 味が破綻することはないのか。あまり聞かない組み合わせに、恐る恐る口を付ければ、意外にも両者は反発する事もなく、自然と中和し、程よく混じり合っていた。
 どちらか片方が勝ることもなく、互いに譲り合って、良い塩梅を醸し出している。
「美味しい」
 屋外の風に当たって冷えた身体にじんわり馴染み、内側から身体を温めてくれた。
 お節介が過ぎない、心地よい配分に、勝手に表情が和らいでいく。それは江雪左文字も同じなようで、右手で湯飲みを抱く彼は心底嬉しそうだった。
「日向も喜びましょう」
 混じりけのない、心からの感想を述べた弟刀に相好を崩し、美しく色づけされた急須の蓋に指を添える。
 円形の輪郭に沿って人差し指を一周させた彼は、戦への出陣を命じられた時とはまるで違う表情をしていた。
 机に向かって寡黙に筆を動かし、写経に励む時ともまるで違う。
 これまで滅多に見るのが叶わなかった姿を目の当たりにして、小夜左文字は自覚のないまま、ぶるり、と大きく身震いした。
 本丸に来るまで、この太刀を兄刀と意識したことはない。同じ刀工の手によって生み出されたとはいえ、来歴はまるで異なり、境涯を共にした経験はないに等しかった。
 だから小夜左文字は、江雪左文字の事をあまり知らない。四年近い時を本丸で過ごして来た仲であっても、本音をじっくり語り合える関係だとは、お世辞にも言えなかった。
 日向正宗とも、そこまで親しいわけではない。それが兄刀のところにふらっと茶を持って現れて、あんな風に慌ただしく去って行く関係だとは、今日まで知らなかった。
「日向正宗さん、とは」
「ええ。紀州で、少し」
 水を向ければ、長兄は照れ臭さを押し隠すように言った。
 ふた振りが紀州徳川家で共に在ったのは事実であり、その話は聞き及んでいる。だが具体的にどんな生活を送っていたか、訊ねたことはなかった。
 そんなふた振りの関係性が、あの短いやり取りから嗅ぎ取れた。
 小夜左文字が今日、江雪左文字を訪ねたのは偶々だ。出陣も遠征も言い渡されておらず、出かける用事もなく、台所仕事も人数が充分足りていた。手伝いに入っても却って邪魔になるだけと弁えて、ならばと久しぶりに長兄の懐に潜り込もうと画策した。
 とはいっても、兄刀の膝は簡単には空かない。写経が一段落するのを待つべく縁側に出て、邪魔をしないよう、時間が過ぎるのを待っていた。
 小休止しないかと、声を掛けるのさえ憚っていた。
 彼の手を患わせるのは良くないことと、頭の片隅で勝手に思い、決めつけていた。
 退屈ではないか、と問いかけられたのを思い出し、胸の奥がちくりと痛む。小さな棘が刺さったかのような、ささやかだが断続的に続く疼きに身動ぎ、尻をもぞもぞさせて、彼は二杯目を湯飲みに注ごうとする兄刀に視線を移した。
「あの」
「お小夜も、飲みますか?」
 話しかけようとして、先手を取られた。思わずぐっと息を呑んだ途端、なにを喋ろうとしていたのか、内容は霞の如く消えてしまった。
 江雪左文字としても、弟刀がそのような事態に陥っていると、微塵も感じていないに違いない。どこかのほほん、とした、浮き足立っているような雰囲気が、彼の全身から湧き出ていた。
 戦嫌いで、喧噪を苦手とし、酒宴の席にも全くと言って良いほど参加しない太刀は、気難しくて扱い辛いと評されてきた。だというのに目の前にいる男は、出陣を命じられて渋る時とは別人だった。
 これは本当に、何かにつけて『不幸』の二文字が付きまとう左文字三兄弟の長兄か。
 穏やかで、菩薩と表現しても過言ではなさそうな姿を見せられて、小夜左文字は開いた口が塞がらなかった。
 呆気に取られて固まっていたら、返事が無いのを訝った太刀が首を捻った。
「お小夜?」
 急須を盆に置き、長い髪で畳を擦りながら顔を覗き込もうと近付いてきた。
「あ、いえ。いただきます」
 端正で美しい顔立ちが静かに迫ってくるのにはっとして、短刀は急ぎ、湯飲みに残っていた茶を飲み干した。
 空になった器から、仄かに梅の香りが漂った。
 昨年の初夏に、青梅の収穫を手伝った。急須の中に沈んでいる梅干しは、その時のものかもしれなかった。
「日向正宗さんの、梅干し……美味しいです」
「ええ。ですが次は、もっと、美味く作る、と」
 食事の席でも、あの短刀が作った梅干しは大人気だ。一年分は余裕で作ったはずなのに、気がつけばもう残り少ないと嘆いていたのは、頻繁に台所に立つ昔馴染みの打刀だ。
 その事を知っているのだろうか。江雪左文字はふっ、と口元を綻ばせた。
 小夜左文字が知らないところで、彼らは言葉を交わしていた。部屋を訪ねるのは各自の勝手だが、それくらい気を許した相手が居たのは驚きだった。
 けれど考えてみれば、この太刀だってもう本丸で四年を過ごしている。単に気がつかなかっただけで、彼が独自の交友関係を築いていても不思議ではなかった。
「知らなかった」
 兄刀のことはなんでもお見通し、と変な自負を抱いていたが、打ち砕かれた。
 これでは弟として失格だ。そんな風にさえ思えてきて、密かに傷つき、悔しさに上唇を噛んだ。
「おや……? 帰って来たのでしょうか……」
 そうとは知らない太刀が暢気に急須を取り、弟の為に茶を注いで、振り返る。
 聞こえた足音に短刀も反応して、まだ温かい茶に口を付けぬまま首を捻った。
 足音はひと振り分だけれど、それにしては少々調子が荒っぽい。日向正宗ならもっと軽やかで、小刻みに拍子を刻みそうなものなのに、これは些か騒々しかった。
 小柄な少年のものではない。
 思い違いに気がついて、別の可能性に思い至った直後だ。
「江雪左文字、いるか!」
 どおん! と勢い任せに襖を開いて、山姥切長義が大声を響かせた。
 壁を貫かんばかりの、実に凛々しい雄叫びだった。
 二度続けて大きな音に晒されて、室内にいたふた振りは揃って目を丸くした。もう少しで湯飲みを取りこぼすところだった小夜左文字は冷や汗を拭い、唖然としている兄刀越しに、戸口で仁王立ちの打刀を見た。
 山姥切国広の本歌にして、備前長船と相州両方の特徴を有する刀は、時の政府から派遣された監査官として現れた。
 しかし諸処の事情を経て、今では頼りになる本丸の仲間だ。小夜左文字たちと同様、審神者に忠誠を誓い、歴史修正主義者の目論見を挫くべく、日夜戦いに挑んでいた。
 但し今は、出陣を命じられてはいないようだ。
 それを証拠に、彼は戦装束を解いていた。長船派の刀たちと同じ紺色の内番着に身を包み、袖を捲って、骨太い肘を露出していた。
 汚れの少ない軍手を左手で握り締めているので、これから畑仕事か、馬当番か。
 ただそのような状態で、どうしてこの部屋にやって来たのか、事情はさっぱり分からない。
 開口一番、名前を呼ばれた太刀も困惑が否めず、細長い眉を真ん中に寄せた。
「長義。もう少し……静か、には。……出来ませんか……?」
 辛うじて絞り出した叱責は、しかしあっさり無視された。打刀は惚けている短刀たちを一瞥すると、何故か一旦廊下に戻り、周囲を窺ってから室内に上がり込んだ。
 乱暴に襖を閉め、こちらの当惑を余所にずんずん進んで、太刀の手前で膝を折った。
 爪先と膝頭で体重を支え、両手は腿の上に。どことなく緊張した面持ちで、唇は真一文字に引き結ばれていた。
「長義」
 訪ねて来た理由を語らぬまま、居座るつもりでいるらしい。
 どんな状況下でも居丈高に構え、誰に対しても不遜な態度を崩さない青年は、江雪左文字に名前を呼ばれて僅かに眉の形を崩した。
 元々多弁ではない太刀は、自ら切り出す真似をしなかった。向こうが用件を告げるのをじっと待ち、長く艶やかな髪をほんの少し左右に踊らせた。
 緩く首を振った兄を盗み見て、小夜左文字は妙な息苦しさに息を呑んだ。
 兄刀に代わって話を振るべきか悩んだが、お節介が過ぎるだろうか。
 けれどこのまま放っておいても、沈黙が無駄に長く続くだけだ。
 完全に切り出す機会を逸してしまい、山姥切長義は苦々しげな表情で右の頬を引き攣らせた。助けを求める風に短刀に一瞬目をやって、直後に深々とため息を吐いた。
「頼みが、ある」
「私に、……ですか……?」
「ああ」
 彼はひょっとしたら、小夜左文字がここにいるのを想定していなかったのかもしれない。
 自分と江雪左文字のふた振りだけの秘密にしておきたかったのが、短刀が場に居合わせた為に予定が狂った。それで葛藤していたのだとすれば、あの沈黙も頷けた。
 そして覚悟を決めて喋り出した、ということは、小夜左文字が秘密を他者に言いふらすような刀ではない、と彼が認めた事に他ならない。
 山姥切国広を自らの偽物と評し、時に威圧的な態度も辞さない彼が、こうして江雪左文字の前で膝を折って頭を下げている。
 これだけでも、驚くべきことだ。あまりにも珍しい光景に、小夜左文字は息をするのも忘れて打刀に見入った。
 その突き刺さる眼差しが不快だったのか、軽く睨まれた。但し上目遣い気味だった為か、迫力というものは皆無だった。
 日頃の勝ち気で、生意気な彼の姿からは想像が付かない。この場に堀川国広がいたら、意外過ぎて顎を外すのではなかろうか。
 兄弟刀を大事に思うあまり、あの脇差は山姥切長義に敵意を隠さない。当の打刀が『自分は自分』と言って、飄々と受け流しているにもかかわらず、だ。
 何かにつけて本歌と写しを比較したがる打刀は、一部の刀からも若干煙たがられていた。
 長船派の面々や、南泉一文字と一緒にいるところは頻繁に目撃されたが、江雪左文字とも親しくしていたとは知らなかった。
 今日は兄刀に関して、新たな発見の連続だ。
 関心を寄せていたつもりで、現実には知らない事だらけだったと痛感させられる。
 これで落ち込まない方が無理な話で、口惜しさに拳を作っていたら、深呼吸した山姥切長義が爪先を寝かせ、跪座から正座に姿勢を作り替えた。
 居住まいを正し、正面から太刀と向き合った。それで江雪左文字も急須を下ろし、膝の上で包み込むように持って、聞く体勢を作った。
 居心地の悪さを覚えた短刀は、席を外そうかと尻をもぞもぞさせた。あまりにも場違いな空気に居たたまれなくなって、逃げ出したい衝動に駆られたが、時間がそれを許さなかった。
「江雪は、その。……畑仕事が、得意だと。聞いた」
「……いいえ。そのような、ことは。決して……」
「いいや、お前が作った野菜が一番美味いと、皆が褒め称える。それもひと振りやふた振りだけじゃない。あれは、世辞なんかじゃなかった」
 短刀が立ち上がるより僅かに早く、山姥切長義が堰を切ったかのように喋り出した。
 何に急き立てられているのか、早口に、一気に捲し立てて、太刀の謙遜を薙ぎ払った。
 大袈裟に右腕を振り回し、虚空を斬った後に拳を作った。間違い無い、と息巻きながら告げて、聞き役のふた振りを唖然とさせた。
 なぜ野菜作りの才に関してで、そこまで興奮出来るのかが分からない。第一野良仕事は、刀本来の役目ではないと嫌う刀剣男士もかなりいる。そこの打刀だって例外ではなかった。
 戦道具が称賛されるべきは、戦場での活躍ぶりだ。それが血濡れた仕事ではなく、畑での仕事ぶりが褒められるというのは、裏を返せば、武の面で貶されているにも等しい。
 とはいえ、江雪左文字は戦嫌いで有名だ。この称賛も、彼にとってはなにより嬉しいものだろう。
 兄刀には強くあって欲しいと思う反面、手放しに褒められているのを聞くと、胸が熱くなるのは否めない。
 弟刀として、複雑な心境に陥っている小夜左文字を知らず、山姥切長義はふた呼吸ほど間を取って、拳を前に滑らせた。
 固く握って利き手を畳に衝き立て、前傾姿勢を作って距離を幾ばくか詰めた。真剣な眼差しで江雪左文字を見詰めて、一瞬の逡巡を乗り越えて、本題を切り出した。
「……どうか、俺に。畑仕事の極意を、伝授しては貰えないか」
 高すぎる矜恃が邪魔をして、挫けそうになったのを、ぎりぎりのところで踏み止まった。 無事に要望を告げ終えた彼は、それで一定の満足を得たらしい。曇りがちだった表情は明るくなり、自信を取り戻した様子だった。
 一方で請われた方は、当惑を隠さない。
「そのように、言われましても……」
 江雪左文字にとって、畑仕事は土いじりの一環だ。元々庭造りが好きだった手前、農作業にも抵抗がなかった。彼は顕現直後から一貫して、戦に出るより植物を相手にする方がずっと良い、という方針だった。
 そういう背景があって、彼は手間暇を惜しまない。地道で終わりのない作業に対し、愚痴や弱音を吐かない。黙々と、淡々と、惜しみない愛情を農作物に注ぎ続けた。
 それが結果として、野菜の味の向上に繋がった。
 極意もなにも、あったものではない。けれど顕現してまだ数ヶ月の山姥切長義は、その事に気付かない。
「頼む、江雪。本歌として、俺は絶対に、あいつにだけは、負けるわけにいかないんだ」 放っておけば額を畳に擦りつけ、土下座しそうな勢いだ。
 切羽詰まった様子で重ねて求められて、江雪左文字は困った顔で小夜左文字に視線を投げた。
 どうしたものかと、眇められた眼差しが雄弁に語っている。
「そんなこと、言ったって」
 どこでどういう話になったのかは知らないが、山姥切長義はまた勝手に、山姥切国広に対して対抗心を抱いたらしい。どんなことでも写しを上回っていないと気が済まない性質というのは、なかなかに厄介だ。
 兄刀の心情をぼそりと代弁して、小夜左文字は深く肩を落とした。中身が残る湯飲みを盆に置き、続けて太刀の掌中で温められていた急須を引き取った。
 両手を自由にした江雪左文字が、控えめな笑みを浮かべてすうっと背筋を伸ばした。
 滑らかな動きで立ち上がれば、山姥切長義の視線もゆっくりと上に移動した。必死の形相は俄に活気づき、明るく冴え渡って、はち切れんばかりだった。
 実に分かり易い変化が面白く、危うく噴き出すところだった。
 まるで雨に濡れる捨て猫が、新たな飼い主に巡り会い、喜びを爆発させているかのようだった。
「仕方がありませんね……」
 江雪左文字も勿論気付いているはずだ。抑揚に乏しい口調ではあるが、内心面白がっているのが端々から感じられた。
 誰だって、頼られたら嬉しいに決まっている。それが自分自身ではなく、兄刀であっても。
「本当か!」
「私で、お役に立てるのでしたら……ええ」
 歓喜を膨らませる山姥切長義に頷き、江雪左文字は胸元をさっと撫でた。纏わり付いていた墨の匂いを払い落とし、まずは袈裟姿から着替えようと、鈍いながらも行動を開始した。
 ところがそれを、気が急いた打刀が遮った。
「よし、ではすぐに向かうぞ」
「長義……」
 威儀を肩から外そうとした太刀の手を、先走った山姥切長義が掴み、引っ張った。
 それをよろめきもせずに叱責して、江雪左文字は取り戻した手できょとんとする青年の額を弾いた。
「あだっ」
 ぴん、と伸ばした人差し指で攻撃し、焦りすぎだと窘める。
 思いがけない一打に驚いたのは、なにも山姥切長義だけではなかった。
「兄様」
 そんな叱り方、小夜左文字はされたことがなかった。
 せいぜい、軽く小突かれる程度だ。だが、よく考えてみれば、宗三左文字はよくああやって怒られていた。
 相手によって使い分けている、というのが正しかろう。そしてこの打刀は、次兄と同等の扱いを受けていた。
 それくらい気を許した間柄、ということだ。
「このままでは、なにも……出来ません。分かりますね……?」
 出陣時は防具にもなる重い袈裟を身に纏っていては、鍬を立て続けに振るうのは難しい。裾を上げて、小夜左文字のような尻端折りも出来ないので、機動性は格段に落ちた。
 それでも構わないのかと言外に問われて、冷静さを欠いていた打刀は反省して頭を垂れた。
 だが落ち込んでいたのは一瞬だけで、すぐに気を取り直し、顔を上げた。
「急げよ」
「ええ。先に、準備を……お願いしますね……」
「任せろ」
 自信満々に胸を張り、短く言って踵を返す。そして彼は畳の上を大股に進み、襖の引き手に指を掛けたところで、電撃を受けたかのように動かなくなった。
 これまでの勇ましさが鳴りを潜め、部屋から出て行こうとしない。
 振り返りもせず畑へ向かうものと決め込んでいた小夜左文字は、打刀の心理が読めず、首を捻った。
 江雪左文字はといえば、構うことなく着替えを続行していた。だが動きは緩慢で、いつ準備が完了するのか、想像もつかなかった。
 両者を交互に見比べているうちに、胸の内でなにかに折り合いを付けた山姥切長義が、不意に言葉を発した。
「小夜左文字」
「え? あ、はい」
 まさか自分が呼ばれると思っておらず、寝耳に水だった短刀はビクッと背筋を震わせた。
 必要以上に畏まり、胸の前で両手を擦り合わせた。何を言われるのかと警戒し、怯えた表情を浮かべた彼だが、打刀は振り返らなかったので、その姿が視界に入ることはなかった。
「このこと、……分かっているな」
「ああ。はあ。はい」
 低めの声で凄まれたが、前ほど怖いとは思わない。
 むしろこの、徹底的に人前で弱い部分を見せたがらない誇り高さに、訳もなく親しみを覚えた。
 秋の頃、顕現したての彼は栗の渋皮向きに悪戦苦闘していた。お節介かと思いつつ手伝いを買って出れば、彼は案外素直に耳を傾けてくれた。
 へそ曲がりを発揮するのは、一部の刀にだけ。
 兄刀だけでなく、自分をも頼ってくれるようになったのが、兎にも角にも嬉しくて、くすぐったかった。
「分かってます」
 山姥切国広にだけ発揮される負けん気は、こうやって裏で支える存在があってこそ、成立しているのかもしれない。
 江雪左文字は存外に交友関係が広く、孤立しがちに見えた山姥切長義も、実際のところそうとは言い切れない。
 今日だけで、随分と色々な一面を垣間見た。それこそ知らなかったと拗ねて、落ち込んでいる暇などないくらいに、次々と。
「畑に行って、待っているぞ」
「ええ。すぐに……よいしょ、私も、……向かいます……おっと」
「頼むから、もう少し急いでくれ」
「……失敬な」
 黙ってやり取りを見守っていたら、無言の圧を感じた。
 視線の主は、言わずもがな。襖の手前から睨まれて、小夜左文字は深々とため息を吐いた。
 当の刀は急いでいるつもりでも、江雪左文字の動きは総じて鈍い。ゆったりし過ぎる所作は、時間を惜しむ刀からすると、苛々して仕方が無いものだった。
 顎をしゃくって指示されて、短刀は命じられるままに立ち上がった。兄刀の着替えを手伝うべく歩み寄れば、山姥切長義は見るからにホッとした顔になった。
「お小夜、私は……そんなに……?」
 鈍すぎるのを指摘された太刀は、言われたのはこれが初めてではないだろうに、傷ついたらしい。打刀が出て行った後の襖を振り返り見ながら訊ねられて、苦笑を禁じ得なかった。
「兄様は、兄様です」
 事実を否定するのは難しく、かといって肯定したら、兄刀の動きが余計に鈍りかねない。
 妥当なところで相槌を打って、小夜左文字はこの話題を終わらせた。
 江雪左文字が着物を脱いでいる間に、内番着を行李から出し、袈裟を畳んだ。最後に長い髪が邪魔にならないよう、結ぶ手伝いをしていたところで、合図もなしに襖が開いた。
「あれ?」
 中の様子を見て、日向正宗が素っ頓狂な声を上げた。右手に湯飲みと水滴、左手に小ぶりの薬缶をぶら下げていた彼は、状況の変化に理解が追い付かず、星空のような眼をパチパチさせた。
 呆気にとられて惚けている短刀のことを、小夜左文字たちもすっかり忘れていた。
 山姥切長義がいきなり訪ねて来たなど、彼は知る由もない。三振りで茶を飲みながら寛ぐ計画は、戻ってみればご破算寸前だった。
「……すみません。長義に、……呼ばれてしまいました……」
 順番的には、日向正宗の方が先約に当たる。しかしあの打刀の懇願を見てしまうと、無碍に断ることなど出来なかった。
 申し訳なさそうに首を竦めた太刀を見上げ、天下に名が知れ渡る名工の短刀は二度、三度と頷いた。少ない情報から事情を察して、急に目を細めてクスクス笑い出した。
「へえ、良かったじゃない。また、長義さんに構ってもらえてさ」
「そのような……ことは……」
「また?」
 訳知り顔での呟きだが、小夜左文字には事情が飲み込めない。
 引っかかりを覚えたものの、答えを聞く余裕はなかった。
 理由は、簡単だ。
「江雪左文字、いるかーっ!」
 前にも増して勇ましい足音が轟いたかと思えば、山姥切長義を上回る音量と、勢いで、山姥切国広が部屋に飛び込んで来たからだ。
 元から開いていた襖を、必要もないのに更に押し広げ、敷居の手前で仁王立ち。またしてもの突然過ぎる来訪に驚き、日向正宗が湯の入った薬缶を落とさなかったのは幸運だった。
 三振り揃ってぎょっとして、左文字ふた振りはどこかで見た光景と、少し前の記憶を反芻した。対する山姥切国広はそうとも知らず、荒い息を肩で整え、羽織った布で顎の汗を雑に拭った。
「あなたも、ですか。もう少し……行儀良くは……できませんか……」
 分かり辛いが上機嫌だった江雪左文字も、これは看過できなかったようだ。審神者から出陣を命じられた時並の渋面を披露して、比較的低めの声で囁いた。
 それでも若干間延びした、おっとりした口調であるが故に、威圧感はないに等しい。
 山姥切国広も馬耳東風と受け流し、問答無用で部屋に入ってきた。
 背筋はぴんと伸びて、足取りに迷いは無かった。修行に出る前の、擦り切れた布を被って自虐的な発言を連発していた頃とは違い、自分に自信を抱いているのが傍目からも伝わってきた。
 威風堂々とした姿や態度は、『山姥切』という刀に共通するもののようだ。もっとも方向性に関しては、似ているようで、実のところは真逆も良いところだった。
「その様子……。さては、本歌か」
 溜め息を数えている江雪左文字にピンときたらしく、金髪の打刀が右の眉を僅かに持ち上げた。
 思い当たる節があるのか、口元に手をやって数秒黙り、確認を求めて太刀ではなく短刀に目を向ける。
 日向正宗は怪訝に首を傾げて、小夜左文字は咄嗟にぱっと目を逸らした。
 誤魔化そうとして、墓穴を掘った。
 秘密だと約束したのに、うっかり襤褸を出してしまった。
「そうか。やっぱりか」
「い、いえ。ちが、ちっ、違います」
「お小夜」
 慌てて否定しようとしたが、頭が真っ白になって言葉が巧く出て来ない。
 何度も息を詰まらせて、両手を右往左往させていたら、見かねた江雪左文字が左手を伸ばし、彼を制した。
 先を越されたと悔しがり、舌打ちする山姥切国広もやんわり宥めて、結い終わっていない髪を背に垂らした。
 静かに立ち上がり、髪以外は準備を終えたと目を細めた。当惑する弟刀から結い紐を引き受けて、編まず、首の後ろで一括りにまとめて縛り上げた。
「畑の、ことを……教えてくれ、と。あなたも、ご一緒に。……いかがですか……?」
 眠くなりそうなのんびりした口調で告げて、打刀に利き手を差し出す。
 小夜左文字は驚き、背筋を寒くした。
 山姥切長義との約束を、こんなに簡単に破っていいのか。
「兄様」
「私は、……言われていませんので。ね?」
 裏切りにも等しい行為だと焦って声を上擦らせれば、太刀はふわりと優しく微笑み、弟刀に頷いた。
 あの場で取り交わされた約束に、江雪左文字は関与していない。山姥切長義が名指ししたのは小夜左文字だけで、そこの太刀には一切言及しなかった。
 だから構わないのだと、彼は言う。知られてしまった責任は自分にあるから、思い悩まなくて良いというのだ。
 あまりにもご都合主義な発想だが、今はその配慮に感謝するしかなかった。
 山姥切長義も、まさか江雪左文字が暴露するとは思っていなかったに違いない。だからこそ彼はあそこで、短刀にだけ釘を刺した。
 後で揉めることはないのだろうか。心配になったが、今からとやかく言ったところで、どうにかなる問題でもなかった。
 ここは江雪左文字の技量に期待するしかない。
「良いのか? 俺が、行っても」
「はい。……人数が、多い方が。捗りますので」
 左文字ふた振りのやり取りを見聞きして、山姥切国広が声を潜めた。来てはいけなかったのでは、と思い始めていた矢先だったので、戸惑いが全体に現れていた。
 それを笑顔で押し切って、支度を済ませた太刀が打刀を誘う。
 彼はしばらく躊躇していたが、五、六秒が過ぎた辺りで力強く頷いた。
「感謝する。本歌相手だからといって、負けてばかりはいられないからな」
 毎日のように突っかかってくる山姥切長義に、彼も多少思うところはあるようだ。
 自分は自分だから、比較し、劣等感を抱く必要は無い。とはいえ競争になったら負けたくない、との気持ちは誰しもが等しく持っている。
 後はこれを表に出すか、出さないか。
 対極線上にありながら、根っこが繋がっているふた振りを頭の中で並べて、小夜左文字は目を眇めた。
「力仕事なら任せてくれ」
「期待……しています。では、お小夜。……日向も。すみませんが……」
「はい。行ってらっしゃい」
「いってらっしゃい」
 得意げに力瘤を作った打刀に、太刀が穏やかに微笑んだ。すれ違いになってしまった短刀には小さく頭を下げて、連れ立って部屋を出ていった。
 和やかな談笑がしばらくの間聞こえて、柔らかな空気が残された少年の頬を撫でた。
 置いていかれた格好だが、不思議と不満や、寂しさは覚えなかった。
「やれやれ。江雪も、人気者だね」
「兄様は、山姥切さんたちとは」
「小田原で一緒だったって、そう聞いてるよ。彼らがまだ、北条と共に在った頃だね。すっごく賑やかだったって」
「ああ……」
 短いが要点を押さえた日向正宗の説明に、納得するより他にない。
 打刀たちがあれほどに兄刀を慕うのも、道理だ。この本丸で兄弟ごっこを開始した小夜左文字とは、年季が違う。
 過去に共に過ごしたことがある、というだけで無条件に慕ってくれる打刀が、小夜左文字にも在った。それと同じだ。
 目が合うだけで、満面の笑顔を浮かべてくれる。出撃中はさすがに控えているけれど、終わった途端に怪我を案じて駆け寄ってくるのは、心配性が過ぎるのではなかろうか。
 大声と共に現れた山姥切たちを出迎えた時の江雪左文字は、これと似た心境だったのだろう。
 親近感が湧いて、頬が勝手に緩んだ。
 それを日向正宗にしっかり見られて、小夜左文字はかあっ、と顔を赤くした。
「な、なんでも、ないです」
「へえ。うん。さて、このお茶、どうしようかな」
「ああ、そうですね……」
 ひとり慌てふためいて、案外気にされていないのに安堵するやら、少し切なくなるやら。 薬缶を顔の高さで揺らした彼の独白に、ちゃぷちゃぷと水の音が重なり合った。
 合いの手を挟みはしたものの、妙案が浮かばずに困っていたら、見かねた少年がクク、と喉を鳴らして笑った。
「じゃあ、行こっか」
「どこにですか?」
「畑だよ。湯飲み、あとふたつかみっつ、追加しないとね」
「どうして……?」
 いたずらっ子な表情で告げられて、咄嗟に意味が掴めない。
 ぽかんとしながら問い返した小夜左文字に、日向正宗は梅干し茶の急須、続けて太刀らが出ていった廊下を指差した。
「江雪も言ってたじゃない。人手は、多い方が捗る、ってね」
 最後に自分自身を指し示し、白い歯を覗かせた。
 同意を求めて首を傾げられ、それでようやく、小夜左文字ははっとなった。
 どうして気がつかなかったのだろう。あの場で、自分も行くと言わなかったのだろう。
 邪魔をしてはいけない気がしていた。そんなことはなかった。
 過去がどうであろうと、兄弟刀であろうと、なかろうと。彼らは同じ本丸に集った、かけがえのない仲間だ。
 広大な畑を耕すのに、協力し合わない道理はなかった。
 目から鱗が落ちて、視界が急激に明るくなった。眩しさに何度も瞬きを繰り返して、小夜左文字はとくん、とくんと小刻みに震える鼓動に息を呑んだ。
「そう、ですね。はい。その通りです」
 緩く握った拳を胸に添え、一度だけ深く頷く。
 彷徨っていた視線が一点に集中するのを見届けて、日向正宗は薬缶を差し出した。
「ねえ。僕が来るまでの間の、江雪の話、聞かせてよ」
「僕も、兄様の……紀州の頃の話、聞きたいです」
「分かった。約束だね」
 荷物を分担して持とうと提案され、即座に同意した。火傷しないよう注意しながら引き受けて、短刀間で交わした指切りに心を躍らせた。
 世界が広がった気がした。
 もう昼だけれど、新しい一日が始まった予感を覚えて、彼はくすぐったさに首を竦めた。

この春は賤が垣根に触ればひて 梅が香とめん人親しまん
山家集 春37

2019/03/17 脱稿 

色づきそむる 櫨の立枝

 薄雲が空を覆い、地上は明るいのに太陽が見えない。
 目映い光球の行方を捜して頭上を仰ぎ、小夜左文字は項を擽る後れ毛を右手で押さえ込んだ。
 そのまま意味も無く皮膚を掻き、当て所なく視線を彷徨わせる。格別注視すべきものがない状態で踵を上下させ、行き先を定めようと右足を地面から浮かせた。
 もれなく薄い草履が彼に付き従い、足元の砂利を後方へ弾き飛ばした。ぺたん、と地面に貼り付いては剥がれる、を繰り返した後、それは程なくして動きを鈍くし、やがて停止した。
 歩みを止めた短刀は、それが見間違いだと信じ込み、一瞬躊躇した後に通り過ぎた景色に意識を戻した。振り返り、そこに在るものが紛う事なき現実であると確かめて、深く息を吸い、二度に分けて吐き出した。
 四度、五度と瞬きを連続させて、俄には信じ難い光景にごくりと息を呑んだ。乾いた唇を舐めてドクドク言っている鼓動を確かめ、左胸を撫でた腕を降ろした。
 どれだけじっくり眺めようとも、左斜め前方に座る男の姿は消えたりしない。まだこちらには気付いていないようで、熱心に己の手元を見詰めては、指先を細かく動かしていた。
 作業に没頭して、他に気を向ける余裕がないのだろう。熱心に仕事をこなす姿は、布で顔を覆い、正体を隠していた時期の彼を連想させた。
 しかしあの頃と、今とでは状況がかなり違う。山姥切長義が手にしているのは、時の政府へ提出する報告書ではなく、掌ほどの小刀と、小さな栗だった。
 本丸に顕現して長い山姥切国広の本歌にして、政府側から派遣され、そのまま本丸に居着いた刀剣男士。その出自は、審神者の力によって顕現した小夜左文字を含む他の刀剣男士たちと比べると、明らかに異質だった。
 それでも審神者は彼を受け入れ、仲間として認めるよう、自らが呼び起こした刀剣男子達に求めた。
 一部からは反発があったが、それも早い段階で沈静化した。結局この本丸では、審神者の命令こそがすべて。首魁たる存在が決めたことに、その従者である刀剣男士らが背けるはずなどないのだ。
 ただしわだかまりが全て解消したかと言われたら、そうとも限らない。
 山姥切長義もその辺りは承知しているようで、自ら他の刀たちの懐に入り込もう、という雰囲気はなかった。
 山姥切国広に対しては当たりが強く、なにかと下に見る発言が多い。それが国広の刀たちには気に入らない様子で、特に脇差の堀川国広は、彼らが一緒にならないよう度々妨害行動を取り、それでも避けられなかった場合は兄弟刀を庇うような行動が多々見られた。
 もっとも当の山姥切国広は修行を経て、自分に自信を持ったようだ。兄弟刀の心配を嬉しく思いつつ、山姥切長義の発言はどこ吹く風と受け流していた。
 そういうわけで後からやって来た本歌の方が高飛車で、礼儀のなっていない不躾な刀に見えてならない。
「……ん?」
 他者を頼らず、他者に頼られることもなく、孤独で、それでも我を押し通している。
 誇り高くあるのは構わないが、高すぎるのも困りものだ。
 迂闊に近付けば、どんな罵詈雑言が飛んでくるか分からない。まるで毛を逆立てて常にこちらを威嚇している猫だ、と表したのは、小夜左文字の昔馴染みだ。
 どうすれば彼と腹を割って話が出来るようになるのだろう。
 そんな話題を昨日の夕餉でしたばかりなのを思い出して、短刀の付喪神は背筋を伸ばした。
 穴が空くほど見詰めていたからだろう、気付かれた。
 集中力が途切れた瞬間、はっと顔を上げた打刀と目が合って、小夜左文字はきゅう、と内臓が縮こまった感覚に陥った。
「なんだ」
「いえ、べつに」
 立ち尽くしていたら、声を掛けられた。機嫌が悪そうな顔で、不満げな眼差しを向けられた。
 咄嗟に顔を背けてしまったが、不思議と立ち去ろうという気持ちにはならない。足が動かないのは緊張の為ではなく、ましてや竦んでしまったわけでもなかった。
 決して笑っているわけではない膝が向かったのは、山姥切長義が座る縁台だった。
 台所の勝手口を出たすぐ脇に設置されたそれは、薪割りや、畑仕事から帰った男士たちが休憩するのを目的として設置されたものだ。
 勿論そういった理由以外で使っても構わない。現に銀髪の打刀は、見るからに仕事中だった。
 三振りは余裕で座れる縁台の真ん中に陣取り、右側に笊を、左側に水を張った桶を置いていた。足元には削り滓を入れるための籠があり、余所へ逃げないよう両膝で挟んで固定していた。
 紺色の内番着の袖を肘まで捲って、手袋はしていない。綺麗に整えられた爪から雫がひとつ垂れ下がり、濃い影が彩る地面へと落ちた。
 透明な水滴の行方を見送って、小夜左文字は視線を上げた。山姥切長義は胡乱げな表情を崩さず、近付いてくる少年に小首を傾げた。
「どうした。俺になにか用か」
「今日の台所当番は」
「燭台切光忠と、大般若長光と、あとは謙信景光と。……それがどうかしたか」
 口調はぶっきらぼうで、愛想がない。淡々としており、感情の起伏に乏しく、気の弱い刀であればたちまち臆してしまいそうだった。
 しかし小夜左文字は構わず質問を投げかけ、返ってきた言葉に嗚呼、と頷いた。
 今日の食事当番に、山姥切長義の名前は含まれていなかった。それで不思議に思っていたのだが、教えられた数振りの名前で疑問は解決した。
 この打刀は相州風が強く表れているけれど、長船の系統に属する刀工の作だ。光忠、長光、景光という長船派の直系からは外れているものの、あちらはどうして、仲間意識が強い様子だった。
 国広たちからは煙たがられている彼を、燭台切光忠たちが代わりに構い倒している光景は、これまでにも何度か見た。今回もその一環なのだと解釈して、短刀は無意識にホッと息を吐いた。
「そんなに珍しいか」
「え?」
「憑き物が落ちたような顔をしている」
「え、と……すみません」
 途端に低い声で呟かれ、きょとんとしていたら小刀の先を向けられた。勿論届きはしないが、空気を撫で斬るような動きをされて、小夜左文字は首を竦めた。
 脇を締め、内股になり、臍の前で両手を結び合わせる。恐縮して半歩後退した彼に、山姥切長義は深々とため息を吐いた。
「謝るな。俺だって、好きでやっているわけじゃない」
 彼自身も、この労働は不本意だったようだ。
 猫背になって腕を下ろし、絞り出すように吐き捨てられた。切っ先が地面を向いた小刀が今にも落ちそうだったが、そうなったとしても、咄嗟に手を伸ばして掴むわけにはいかなかった。
 自分自身が傷つく展開を恐れ、前に出られない。
 注意すべきかと躊躇しているうちに、打刀は自分で小刀の状態に気付き、顔を上げて握り直した。
 事なきを得たのに安堵して、興味本位で桶を覗き込む。
 好奇心に抗えなかった短刀は、途端に横から飛んで来た鋭い視線に冷や汗を掻いた。
「がんばってください」
「うるさい」
 彼がどれくらいの時間、ここで悪戦苦闘していたかは分からない。しかし作業風景を見る限り、捗っているとはお世辞にも言えなかった。
 水を張った桶に沈んでいる栗は、どれもこれも形が歪だ。鬼皮を剥いた段階の栗は笊に山盛りなのに、渋皮を剥き終わった分は本当にごく僅かだった。
 桶の底が見えている。足元の籠の中身も、立ち上がって捨てに行くほどの量ではなかった。
 ぎこちない笑顔で声援を浮かべれば、間髪入れずに不機嫌な声が飛んで来た。
 それにたまらず苦笑して、小夜左文字は彼の右側に回り込んだ。
「貸してください」
 言いながら右手を出し、小刀を渡すよう、暗に示した。
 一方で左手は笊の山に伸ばして、天辺に陣取っていた大ぶりの栗をひとつ掴んだ。
 山姥切長義は最初こそ怪訝にしていたが、逆らう理由も見つからないと、素直に応じてくれた。
 柄の部分をくるりと反転させ、切っ先を自分自身に向けてから、短刀へと手渡す。
 借り受けた小刀はよく使い込まれており、柄の中央、やや刃寄りの部分が若干すり減っていた。
 飾り細工をしたり、小さい芋類などを扱ったりする時は、包丁よりもこちらの方が便利だ。
 握り癖がついており、持ち主の手の大きさがこれだけで想像出来た。
「燭台切光忠さんの、ですね」
「分かるのか」
「使い易そうです」
 長い間、愛用しているのだろう。繰り返し研いでいるうちに段々磨り減って、元の形や大きさは最早想像がつかなかった。
 それでも使い続けているものを、山姥切長義に迷う事なく貸し出した。
 料理好きの太刀の顔を思い浮かべて、小夜左文字は頬を緩めた。
 今頃は壁の向こう側で、忙しく夕餉の支度をしているに違いない。一緒に台所を任せられた大般若長光は、放っておくと勝手に一振りで晩酌を初めてしまうので、苦労は絶えないだろう。
 謙信景光がいるのなら、小豆長光もいるかもしれない。
 わいわい賑やかな長船派のやり取りを思い浮かべて、彼は屑籠を脚の間から抜いた打刀に頷いた。
「座るか」
「ありがとうございます」
 ついでに山姥切長義は栗入りの笊を持ち上げて、桶の横に移動させた。出来上がった空間にすかさず潜り込んで、小夜左文字は草臥れ気味の草履ごと足をぽーん、と宙に蹴り上げた。
 縁台は短刀でも足が楽に着く高さしかないが、例えば広縁や、打刀や太刀の体格に合わせて作られた椅子だと、爪先が浮いてしまう。それらに座る時の癖が無意識に発動してしまって、短刀は人知れず顔を赤らめた。
 伏し目がちに隣を窺えば、本丸に来てまだ日が浅い打刀は、特に気にする様子もなく座っていた。
 これが慣れた刀であれば、たちまち短刀をからかう言葉を投げかけてきたに違いない。 滑稽だ、と面白がられなかったのにひっそり胸を撫で下ろして、小夜左文字は右手に小刀を握り直した。
 左手で持った栗をくるくる回し、平らに切り取られた尻の部分に刃を衝き立てた。
 栗はあらかじめぬるま湯に漬けてふやかし、外側の固い殻は剥かれていた。後に残ったのは薄い渋皮で、これを完全に取り除くことが山姥切長義に与えられた使命だった。
 ただこれが、簡単なように見えて、思いのほか難しい。
 表層だけを剥ぎ取れたら良いのだが、軽く薙いだ程度では残ってしまう。かといってごっそり削ぎ落としていたら、食べられる部分がどんどん減っていく。
 この匙加減が巧く行かず、山姥切長義がやり終えた分はどれも凸凹していた。
 彼に任せていたら、大事な食料が量を減らす一方だ。手際が悪いのでひとつ仕上げるのにも時間がかかり、夕餉に間に合わなくなる可能性も高い。
 だがそれを言えば、打刀の矜恃に傷が付く。
 燭台切光忠もやり方の説明くらいはしているだろうが、目の前で実践してみせたかどうかは怪しかった。
「ええと。こっちの、平らな方から、頭の方へ刃を入れて。こう……ぐるりと」
 以前、昔馴染みの料理好きな打刀に教えてもらった方法が、こんなところで役に立った。
 世の中、なにがどう転ぶか分からない。覚えておいて損することはひとつもないのだと痛感して、小夜左文字は刃を添えた栗をくるりと捻った。
 小刀を握る右手は動かさず、剥かれる側を操り、焦げ茶色をした渋皮を削ぐ。すると下から真っ白い、無垢な艶肌が表れた。
「ほう……」
「あとは残った部分を、面取りしながら削っていくだけです」
 最初に削った頭から、尻に向かって刃を流す。この時も先ほどと同じく小刀は極力動かさず、栗の方をゆっくりと押し出した。
 隣に座る男はその仕草ひとつひとつを丹念に観察し、時折感嘆の息を漏らして頷いた。 腕組みするではなく、両手は膝の上だった。視覚から得た情報を頭の中で精査し、経験として取り込もうとしているのか、指先はなにかをなぞるように、常に動き回っていた。
 慣れた小夜左文字なら、一個の栗を片付けるのにものの一分とかからない。
 その三倍の時間をかけて説明して、彼はふと心配そうに山姥切長義を窺い見た。
 これで伝わっただろうか。
 言葉足らずで誤解を受ける経験は、短刀にも覚えがあった。
 分かり合えないのは、哀しい。同じ屋敷で、同じ釜で炊いた飯を食べていても、相手を受け入れる心境が定まっていなければ、結局は相容れない関係のままだ。
 かといって無理に閉まっている扉をこじ開けようとしても、誇り高い刀は意固地になる一方。
 それに彼に関しては、もうひとつ気がかりがある。
「なるほど。よく分かった」
「出来そうですか」
「やってやるさ」
 満足そうに首肯した打刀に小刀を返し、小夜左文字は膝に集めていた渋皮の削り滓を屑籠に入れた。小さな破片も抓んで落とし、身綺麗にしたところで、根拠のない自信に溢れた男に苦笑した。
 あまり話したことがなかったので不安だったが、杞憂だった。
 他の刀剣男士たちと同様、変に構える必要などなかった。肩の荷がひとつ下りたと頬を緩めた少年は、早速教えられたことを実践する刀に目を細めた。
 とはいえ、いきなり思いのまま、理想通りの動きが出来るはずもなく。
「ああ、くそ。くそっ」
 教わる前よりは多少良くなったものの、あくまでも多少だ。
 なかなか思い描く通りにいかないのに腹を立て、山姥切長義が何度も悪態を吐く。その度に噴き出したくなるのを堪えて、小夜左文字はひょい、と縁台から飛び降りた。
「どこへ行く」
 途端に打刀が顔を上げ、不安そうな声を出した。
 雨の日に屋外に放り出された猫のような、心細げな姿を見せられて、短刀の付喪神は堪らず肩を震わせた。
「続けていてください」
 ひと言告げて、勝手口を押し開けた。中で作業中だった燭台切光忠たちにひと言断り、もう一本小刀を借り受けて外に戻れば、山姥切長義は先ほどとほぼ同じ体勢のまま固まっていた。
 剥きかけの栗を中途半端なところで踊らせて、行き場のない小刀を小刻みに揺らしていた。小夜左文字がすぐに戻ってきたのを見て精悍な顔立ちを一瞬だけ緩め、大きく目を見開いたかと思えば、慌てたように作業を再開させた。
 惚けていたのを悟られないよう、取り繕おうと必死だけれど、隠し切れていない。
「あの。中でやっても良いと、燭台切光忠さんが」
「俺がいては、邪魔だろう」
「そうでもないと思いますが」
 そんな彼に語りかけ、台所の状況を振り返る。
 調理当番たちは忙しそうにしていたけれど、まだ慌てるような時間ではない。のんびり、ゆっくり作業を進めており、そこに山姥切長義が混じったところでなんの支障もないはずだった。
 だというのに屋外でちまちま栗を剥く道を選んだのは、彼なりの遠慮だ。それとも仲が良い長船派の刀たちに対して抱いている、引け目のようなものだろうか。
 長船に連なりながらも長船には含まれず、刀工堀川国広の最高傑作と謳われる山姥切国広との間には覆し難い溝がある。
 他者との接触を最小限に控え、馴れ合いめいたものからも距離を置いている彼の立ち方は、仲間としての扱いに苦慮すると同時に、ひとつの疑念を抱かせた。
「手伝います」
 借りて来た小刀を見せ、囁く。
「そうか」
 たちまち山姥切長義は嬉しそうな、ホッとした表情を浮かべた。脱力した声で小さく呟いて、三秒が過ぎた辺りで我に返り、背筋を伸ばした。
 弛緩した肢体に力を注ぎ込み、少々仰々しい動きで尻を浮かせ、立ち上がった。一度動かした栗入りの笊を元の位置に戻し、空いた場所に腰を据えた。
 渋皮を剥く前と、剥いた後の栗を縁台の真ん中に並べ、その足元に屑籠を。
 これらを左右から囲む形でふた振りの刀剣男士が座り、作業の遅れを取り戻すべく手を動かした。
 初めのうちは山姥切長義が一個終わらせる間に、小夜左文字は三個か、四個剥き終わらせて。
 負けず嫌いの打刀が歯軋りしながら繰り返していくうちに、両者の間隔は徐々に狭まっていった。
「……慣れているんだな」
 それでもなかなか追いつけないのを悔しがり、山姥切長義が長い息を吐きながら嘯く。
「この身体を得てから、長いですから」
「そうか。ああ、いや。期間だけなら、俺もそう違わないはずなんだがな」
「え?」
 本丸での経験値はこちらが多いのだから、簡単には負けてやれない。そう言い返した短刀は、成る程と首を縦に振った男が続けた何気ないひと言に驚き、握っていた栗を危うく落としかけた。
 膝から滑り落ちる寸前で捕まえて、どっと噴き出た汗を拭った。熱を含んだ呼気を手元に吹きかけて、瞬きを連発させて山姥切長義に向き直った。
 打刀の方は驚かれた事に驚いた顔をして、しばらくぱちくりと目を丸くした後、得心がいった様子で肩を竦めた。
「なにか誤解があるようだが。俺は、お前達と同じ審神者から顕現した刀だぞ」
「それは、え……だって」
「少し休むか。ずっと同じ姿勢でいると、肩が凝る」
 小夜左文字の認識では、彼は時の政府から派遣されてきた刀だ。監査官として聚楽第に出撃する刀剣男士らに同行し、その力量を見定めて報告する役を任されていた。
 それが任務を終えた途端、政府の下に戻るのではなく、本丸に居座った。しかも山姥切国広の本歌である、山姥切長義として。
 思わぬ事態に気が動転し、困惑が否めない短刀を一瞥して、銀髪の打刀は小刀を笊の隅に置いた。空になった両手を揃って天に向かって伸ばし、前傾姿勢のまま固まっていた関節を解した。
 ボキボキと骨が鳴るのが、小夜左文字の耳にまで響いた。
 落としかけた栗の処遇に困っていた少年は開きっ放しだった口を閉じ、隣に倣って小刀と一緒に笊へ預けた。
 刃物の棟に添えていた人差し指が、その形通りに窪んでいた。血流が悪くなっている指先を揉んで、解して、視線を感じて傍らを盗み見た。
 山姥切長義は頬杖をつき、不敵な笑みを浮かべていた。ほんの少し子供じみた、悪戯っぽい表情で口角を持ち上げて、左手で高慢な態度で空中を小突いた。
「考えてもみろ。俺は山姥切長義――山姥切国広の本歌だ。どちらが先で、どちらが後か、子供でも分かる理屈だろう?」
「はあ……」
 人差し指で円を描いたかと思えば、掌を上にして空気を押し上げる。偉そうな口ぶりは他者を威圧するものだが、不思議と以前ほど嫌悪感を覚え無かった。
 彼だって、なにも誰彼構わず威圧的な振る舞いをしたいわけではない。ただ単にそういう性格で、そういう言い方しか出来ないだけなのだ。
 それが分かってしまえば、もう怖いとは思わない。
 それよりも気にすべきは、彼が口にした内容だ。
 彼は今、この本丸を指揮する審神者によって顕現させられた刀だと言った。しかし本丸内に設置された鍛冶場で、山姥切長義という刀が顕現したという事実はない。小夜左文字は初期刀である歌仙兼定に続き、この地に降臨した短刀だ。彼が知らないのだから、他の刀だって勿論承知しているわけがなかった。
 だからといって冗談を言っている風にも見えなくて、訳が分からない。
 短刀の困惑を嗅ぎ取って、打刀は喉の奥でくくっ、と笑った。なにが面白いのかと頬を膨らませていたら、山姥切長義は大仰な仕草で肩を竦め、察しが悪い旨を鼻で笑い飛ばした。
「山姥切長義さん」
「なに、簡単な話だよ。写しである山姥切国広が顕現した以上、その本歌である俺が地上に顕現しないのは、ひと言で言って道理に合わない。本歌が先で、写しが後である純然たる事実が存在する以上、顕現順で俺が後になるというのは、歴史に反する。違うか?」
 睨まれても意に介さず、一気に捲し立てた彼は長い足を片方、前に繰り出した。膝を完全に伸ばしてから高く掲げて足を組んで、堂々とした佇まいで両手を広げた。
 なにかの高説を聞かされている気分だった。
 自信満々に言われると、咄嗟には否定しづらい。喉まで出掛かった反論を呑み込んで、小夜左文字は半信半疑のまま相槌代わりに頷いた。
 彼の言いたいことは、大雑把だが理解出来る。同時に、何もかも山姥切国広を上回りたい心理が働いているだけでは、という気持ちも湧いてきた。
 本歌が先で写しが後、という言い分は認めるが、どれだけ記憶を遡っても、彼が山姥切国広に先んじて顕現した過去は出てこない。それこそ歴史改変ではないかと言いかけた短刀は、不意に打刀が遠くを見た、その横顔に息を呑んだ。
 悔しさと悲しみ、それに諦めめいたものが入り交じり、複雑に絡み合っていた。
「つまるところ、俺は山姥切国広と同時に顕現した、ということだ。しかしあの写しというものの気性は、小夜左文字、お前もよく知っているだろう」
 彼方を見詰めながら、山姥切長義がぽつりと呟く。
 途中で水を向けられた少年は一瞬きょとんとしてから、修行に出る前の山姥切国広を思い浮かべ、嗚呼と両手を重ね合わせた。
 今でこそ襤褸布を取り払い、堂々とした佇まいを見せる打刀だけれど、以前はなにかと自分を卑下し、二言目には「どうせ俺は写しだ」と口にする青年だった。
 そのような刀が、自信に満ち溢れて威風堂々としている本歌と早い段階から共にあったら、どうなる。
 比較対象が傍に居ない状況でも、ああだったのだ。
 もし山姥切長義が、顔を上げればすぐ目に入る位置にいたら、彼はきっと自分を保てない。何の為に己は顕現したのかと、本歌だけ在れば良かったのではないかと懊悩し、自らの意思で折れていたかもしれない。
 勿論そうならない可能性だってあるが、彼が揺るぎない自信を手に入れるのは、相当先になっていただろう。
 長い付き合いだ、楽に想像がつく。
 直接言葉にしなかった打刀の意図を汲んで、小夜左文字は語られなかった内容を呑み込んだ。
 山姥切長義は高くした左膝に頬杖をつき直し、僅かに愁いを帯びた眼差しを前方に投げた。
「そういうわけで、俺は顕現間際に政府に回収された、というわけだ」
 写しが顕現すれば、本歌も顕現する。
 だが本丸に現れたのは、写しの側のみ。
 消えた本歌は、審神者ですら把握しないうちに時の政府が預かり、存在を隠した。それならば彼が先に言ったことも、充分に納得出来る。
 ただそれは、山姥切長義にとってあまりにも不本意で、堪え難い屈辱だっただろう。
「そんな……」
「俺と写しのどちらが即戦力になるか、言うまでもなかろう。だが政府は逆の判断を下した」
 抑揚なく語られる内容に衝撃を受け、深く係わり合いを持たないくせに傷ついた顔をする短刀に、打刀は一瞥もくれない。
 淡々と語られる言葉は彼自身のことでありながら、彼自身もどこか他人事のように感じている雰囲気だった。
 だからこそ余計に憐れで、哀しくなる。山姥切国広はそこまで弱くない、と言いたいのに言える空気ではないし、なによりこれは、とうに過ぎた時間の出来事だった。
 今更なにをどう言ったところで、過去が覆ることはない。それこそ山姥切長義が言うように、写しが本歌を先んずるなど得ない、ということのように。
「政府の連中は、時間遡行軍との戦いが長期戦になると、最初から見越していたということだな」
 打刀は最後、自嘲気味に吐き捨てて、腕を解き、足を降ろした。
 返す言葉を持たない少年はしばらく押し黙り、地面すれすれのところで両足をぶらぶらと踊らせた。
 後方の台所では、なにかが完成したらしい。謙信景光の可愛らしい歓声と、控えめな拍手が同時に聞こえてきた。
 あまりにも間が悪いとしか言いようがないが、事情を知らない彼らを責めるのは酷というもの。
 怯えた顔で恐る恐る隣を窺えば、山姥切長義は壁に凭れかかり、やるせない表情で空を仰いでいた。
「あの、……」
「慰めは無用だ。この本丸は、俺が存在するに足るものと、他ならぬ俺が認定したんだ。貴様らはそれを誇ればいい」
 あの大それた調査任務は、結論だけを言えば山姥切国広の成長を計る試金石だった。彼が本歌と共にあっても腐ることなく前を向き、己は己だと立っていられるだけの精神性を手に入れられたかどうか、調べるための試験だった。
 そしてこの本丸で暮らす山姥切国広は、時の政府側の懸念を見事ねじ伏せ、はじき返した。
「あなたは、山姥切国広さんのことが、嫌い、なのだと……思ってました」
「はあ? 嫌いに決まっているだろう」
 もっとも試された側は、きっとそう思っていない。
 試した側がなにを思い、どんな想いを抱いて監査官として振る舞っていたかも、恐らく。
 何気ないひと言に存外大きな声で反論して、山姥切長義は忌ま忌ましげに舌打ちした。
 言うのではなかった、と表情が告げている。彼は思っていた以上に、表情が豊かだった。
 そしてきっとこれから先、もっと色々な顔を見せてくれるようになるだろう。
「よかった」
「俺が偽物君を嫌いなのが、か?」
「いいえ、そうではなくて」
 心配事がひとつ消えて、心から安堵した。
 ぽつりと漏れた本音に素早く反応した打刀に、小夜左文字は目尻を下げて首を振った。
 青年は予想が外れて目を丸くし、直後に口をへの字に曲げた。分かり易いくらいに機嫌を悪くして、意味深な表情の少年を睨み付けた。
 反面、残っている栗を剥くかどうかで、右手が迷っている。
 笊の傍を行ったり来たりする彼の手を視界の隅に置き、短刀が一足先に小刀を取った。
 半分剥いた状態で放置していた栗も一緒に掴んで、なだらかな曲線を描く面に素早く刃を走らせた。
 躊躇せず、途中で迷いもしない。
 するりと滑り抜けた刃を追いかけ、渋皮がするりと滑り落ちていく。
 それを膝に集め、一定の量に至ったところで屑籠へ。気がつけば手付かずの栗は数をかなり減らし、残り僅かとなっていた。
「くそ、この……痛っ」
「大丈夫ですか?」
 彼だけにやらせるわけにもいかず、山姥切長義も渋々作業を再開させた。しかしささくれだった気持ちが小刀に乗り移り、荒っぽい動きは彼自身を傷つけた。
 今回だけでなく、小夜左文字が来る以前に作っていた傷も、多数指に残っている。
「心配ない」
 身を案ずる言葉を一蹴して、打刀は平気だと強がった。じんわり血が滲む指先を唇に押し当て、密閉して、痛みが通り過ぎるのを辛抱強く待った。
 自然と目尻に浮かんだ涙も、瞬く間に消え失せた。
 そのあまりに人間くさい仕草は、監査官としてやって来た頃には当然無かったし、正体を明かして本丸で暮らすようになった直後にも見られなかったものだ。
 彼は長い間、本来在るべき場所に居られず、不遇な環境を嘆いて性格が捻くれてしまったのかもしれない。だがそれを挽回するだけの時間は、充分用意されていた。
 時の政府が長期戦を覚悟しているのなら、尚更に。
 今は山姥切国広に対して当たりが強くても、今後どうなるかは誰にも分からない。小夜左文字が抱えていた懸念も、開花することなく萎んで消えた。
「なにがおかしい」
 控えめに笑っていたら、咎められた。
 不満ありありの表情でねめつけられて、本丸古参の付喪神は剥き終えた栗を桶の水に落とした。
「山姥切長義さんが、この本丸の刀で良かった」
 彼が政府側の用意した刀であったなら、いつかこの本丸を去ってしまうかもしれない。今は良くとも、心の底から嫌になったら、見切りを付けて政府の元へ帰ってしまうのではないかと危惧していた。
 その心配はなさそうだ。
 これから先もずっと、彼は同じ審神者に仕える刀として、小夜左文字たちと共に戦い続けてくれる。
「嬉しいです」
 正直な気持ちを吐露し、次の栗に手を伸ばす。
 面と向かって告げられた青年は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、数秒してから栗の頭に小刀を添えた。
「ああ、……そうか。なら、いい」
 若干強張った、ぎこちない口調で呟いて、二度、三度と頷き、渋皮を削り落とすべく左手を動かす。
 だが勢い余ってつるりと滑り、鋭い刃は彼の親指の爪を掠めた。
 ざっくり刺さっていたら、大量出血は免れない。一気に跳ね上がった鼓動に顔を赤くして、彼はばつが悪い様子で小夜左文字を睨んだ。
 調子を狂わせた責任を取るよう、目で訴えられて、苦笑を禁じ得なかった。
「練習する時間は、沢山あります」
 栗の皮剥きも、効率の良い掃除の手順も、美味しい料理の作り方も。
 戦いと一緒で、どんどん経験して、学んでいけばいい。
「あと四年は、頑張りましょう」
 自分と同じだけの時を本丸で過ごせば、否応なしに巧くなれる。
 もっとも小夜左文字が、今のまま待っていてやる保証はないのだが。
「……長いな……」
 屈託なく言ってのけた少年に、山姥切長義は至極嫌そうに顔を歪め、心からのひと言をぼそりと吐き捨てた。

2019/02/24 脱稿

山深み窓のつれづれ訪ふものは 色づきそむる櫨の立枝
山家集 雑 1200

木ごとの花は 雪まさりけり

 弱い風が吹いていた。
 カタカタ鳴る障子の向こう側を気にして首を伸ばした小夜左文字は、心を読んだかの如く響いた別の物音にはっとなった。
 背筋を伸ばし、居住まいを正す。ギイギイ床板を軋ませる誰かの足音は、夜の静けさも手伝い、いやに大きく聞こえた。
 昼間ならきっと気にも留めなかった。縫い物の手を休め、深呼吸を二度繰り返し、貧乏性の付喪神は乾いていた唇を舐めた。
 行燈の灯りだけでは心許ないが、日中はなにかと忙しい。
 糸が解れて穴が空いてしまった肌着を膝に広げて、彼は今日の出来事をざっと振り返った。
 寒さは相変わらず厳しく、水仕事を任された刀たちの苦しみは言葉に表しきれない。馬当番もこの時期は苦行で、ただでさえ大変なものが輪をかけて大変なものになっていた。
 一方で山籠もりを生業としているような刀だけは、何故か元気だ。山伏国広は祢々切丸という心強い仲間を得た事で以前にも増して張り切り、あらゆる刀剣男士に声を掛け、修行に行こうと誘っていた。
 とどのつまりどのような時節であっても、この本丸は朝から晩まで賑やかだ。騒動が起きない日などない。たとえどれだけ、皆が平穏を願ったとしても。
 時間遡行軍との戦いも継続中で、争いを厭う左文字の長兄の嘆きが尽きる事もない。今日も数珠丸恒次と膝をつき合わせては、どうすれば歴史修正主義者を説得できるのかと、終わりのない討論を繰り広げていた。
 結論が出ることのない問答に終始する彼らを横目に、小夜左文字は台所仕事の手伝いに、掃除、洗濯と休む暇もないくらいだった。
 但し悪い事ばかりだったとは言えない。殊に料理当番の燭台切光忠から、小豆長光の新作菓子の味見を頼まれたは僥倖だった。
 洋風の焼き菓子には乾燥させた果物が混ぜ込まれており、食感が面白かった。洋酒を使っているとかで、その癖のある匂いが気になった以外は、概ね満足だった。
 思い返していたら涎が出て、無意識に口が動いた。
 空気を咀嚼し、呑み込んで、小夜左文字は若干の虚しさに苦笑した。
 この事は歌仙兼定には内緒だ。
「お小夜?」
「は、い!」
 西洋かぶれを嫌う打刀の顔を想像し、秘密だと笑っていた長船派の太刀を思い出して首を竦めた少年は、直後聞こえた声に座ったまま飛び跳ねた。
 声が上擦り、動揺を隠しきれない。
 完全に油断していた短刀は右往左往しながら辺りを確かめ、二秒と少々過ぎた辺りで障子を振り返った。
 行燈の炎が揺れて、畳に伸びる影が泳いだ。
 細い腕をその上にすい、と伸ばして、彼は部屋の外にいるだろう男に眉を顰めた。
「お小夜?」
「歌仙、どうしたんですか」
 瞬きを繰り返し、心を落ち着かせながら問いかける。
 先ほどの素っ頓狂な声が嘘だったかのような落ち着きぶりに、訪ねて来た男はホッとした様子で言葉を紡いだ。
「入っていいかな」
 言いながらも、すでに彼の手は動いていた。
 断られることはないとの前提で、打刀の付喪神は短刀の部屋の障子をするりと開けた。
 僅かに横に引いて隙間を作り、そこに指を差し入れて、一気に押した。広がった空間に現れた歌仙兼定は、内番着でもなければ、華やかな紫の衣装でもなかった。
 寝間着としている湯帷子に、綿を入れて厚みを持たせた褞袍を着ていた。図柄は一切なく、濃香一色に染めた布を用いて、衿や裾の縁取りは二藍だった。
 この季節にしか着ないものだから、この配色を選んだのだろう。
 地味な風に見えて、こういうところに己の美意識を差し込んでくる。気付く者の方が少なかろうに、当の刀は一切気にしていないらしい。
 そういうところがいかにも彼らしくて、小夜左文字は肩を竦めた。
「道の露けさとならずに済んで、良かったですね」
「……うん?」
 こんな夜更けに訪ねて来ると、思ってもみなかった。
 約束はしていなかったはずだ。直近の記憶をざっと振り返って、彼は自分に向かって頷いた。
 歌仙兼定は告げられた台詞の内容を吟味しているらしく、顎に手をやって数秒沈黙し、やがて半眼を解いて口元に笑みを浮かべた。
「苔の庵は、僕の方だろう?」
 重ね色目に掛けてのひと言だと気付き、わざとらしく両手を広げておどけてみせる。
 苔の庵を訪れはしたが、相手が不在だったので涙に暮れながら山道を引き返すと歌に詠んだのは、中古三十六歌仙に数えられる恵慶だ。
 小夜左文字がもし部屋に居なければ、歌仙兼定もまた彼のようにとぼとぼと来た道を帰らねばならないところだった。
 しかしこの部屋は、苔生してなどいない。
 得意げに胸を張った男に苦笑を漏らして、小夜左文字は途中だった縫い物を脇へ追いやった。
 縫い糸がついたままの針を針山に預け、他と絡まらないよう注意しながら危なくない場所まで避難させた。その上で膝を起こし、立ち上がろうとした短刀を制して、打刀は素早く敷居を跨いだ。
 後ろ手に戸を閉めて、流れ込む外気を遮断した。もっとも障子戸一枚では、隙間風を防ぎ切れない。じんわり染み込んで来る冷気に身震いして、足早に小夜左文字へと近付いた。
「眠れないんですか?」
「子供じゃないんだ」
 あと一歩半のところまで迫って膝を折り、着ているものの裾を片手で押さえて正座を作る。日頃は胡座の方が多い彼にしては、珍しいことだった。
 それでからかって面白がれば、外見上は立派な成人男子が頬を膨らませた。
 こう見えて、彼は小夜左文字より生まれが遅い。付喪神として未熟極まりなかった頃を知っている短刀にとって、この之定の一振りは、いつまで経っても世話の焼ける子供同然だった。
 数百年の時を経て再会した打刀は、その点が不満でならないらしい。
 ことあるごとに大人ぶり、自分こそが短刀の保護者たらんとする振る舞いは、端から見ていて滑稽だった。
 そんな刀剣男士が、日が暮れて久しい時間帯に訪ねて来た。
 もう少ししたら床に入ろうか考えていた少年は、寝支度を整え終えている男に首を傾げた。
「ああ、いや」
 斜め下からじっと見詰めれば、照れたのか、歌仙兼定は途端に口籠もった。
 なにを躊躇するところがあるのかと、不思議でならない。本当に添い寝を求めに来たのかと勘繰って、小夜左文字は自分の足の裏を擽った。
 冷えて血流が悪くなり、痛いような、痒いような微妙な感覚を抱いている指を抓んで、ぐりぐりと回す。
 もぞもぞ身動いでいる少年をちらりと盗み見て、打刀は覚悟を決めたのか、背筋を伸ばした。両手は緩く握って膝に揃え、緊張した面持ちで短刀に向き直った。
 真剣な眼差しは怖いくらいで、雰囲気は異様だ。
 どんな無理難題を求めてくるか分かったものではなくて、小夜左文字まで無意識に表情を硬くした。
 互いに黙り込み、見つめ合ったまましばらく停止する。
「お小夜、あの」
「はい」
「明日、なんだが」
「はあ」
 そうしてようやく切り出したかと思えば、歯切れが悪く、また黙られた。
 呼吸が巧く出来ないのか、歌仙兼定の唇はひっきりなしに動いていた。ぱくぱくと餌を求める鯉のように開閉を繰り返し、そのうち顎を反らして唾を飲み込んだかと思えば、前のめりになって深く息を吐き出した。
 少しもじっとしておらず、落ち着きが足りない。
 人見知りを発揮されるような間柄ではないはずだ。仲間相手に虚勢を張り、無駄に偉そうな振る舞いを見せる彼を頭の片隅に思い浮かべて、小夜左文字は目の前の男を上から下へと眺めた。
 怪訝にしていたら、気取られた。
 彼は膝にあった手を胸元に持って行き、左右の指を弄りながら、一旦外した視線を戻した。
「朝、時間はあるかい?」
 そうして恐る恐る問われて、短刀は目を丸くした。
「朝?」
 鸚鵡返しに問うて、首を右に傾がせる。
 打刀は一度だけ頷き、行き場を失っていた手を畳に下ろした。
 藺草の目をなぞって弧を描き、脇から膝元へ移動させた手を腿に引き上げた。きゅっと固く握って姿勢を正して、胡乱げな少年に目元を綻ばせた。
 ようやく緊張が解けたらしく、表情は穏やかだ。しっとり露に濡れた花のような淡い笑みを浮かべ、もう一度深く首肯した。
「朝、は……ええと、ああ。駄目です。宗三兄様と不動行光と、万屋に行く約束が」
 見惚れそうになった微笑に照れて顔を背け、鼻の頭から口元を右手で覆い隠す。
 なにも無い空間に視線を這わせ、小夜左文字はずり落ちていく手を胸元で握り締めた。
 拳で膝を軽く叩き、ゆるゆる首を振って視線を戻した。
 歌仙兼定は意外にも傷ついた様子なく、平然としていた。
「違うさ、お小夜」
「はい?」
 そうして泰然と言い放ち、なにが面白いのか破顔一笑した。
 一瞬だけ白い前歯を覗かせて、すぐに我に返ったのか、表情を改めた。ゴホン、とわざとらしく咳払いして、顔の前で右手を振った。
「朝餉の前なんだ。そう、出来れば……陽が昇るより早く」
「それは、随分と」
 朝、という言葉が当てはまる範囲は広い。小夜左文字が言われて想像したのは、朝餉を終えてから午後に至るまでだった。
 ところが歌仙兼定が思い浮かべていたのは、それよりもっと早い時間帯だ。
 認識の間違いを指摘し、補足した彼の眼差しに、短刀は当惑を隠せなかった。
 目を眇め、左人差し指で顎を撫でた。心の内を表すかのように左右に何度か往復させて、屈託なく笑いながら返事を待つ男を盗み見た。
 なにを企んでいるかは分からないが、悪事を画策しているとは思えない。
 けれど冬の早朝の、特に冷え込みが激しい頃合いに、いったい何の用があるのだろう。
 考えてみるが、さっぱり見当が付かなかった。お手上げだと降参して白旗を振る構えを作ったところで、歌仙兼定が急に後ろに首を巡らせた。
「歌仙?」
「降ってきたかな」
「ああ。雪ですか」
 突然余所を向かれて驚いていたら、ぽつりと呟かれた。
 独り言同然だったものに相槌を打って、小夜左文字は身体を右に傾けた。
 男の向こう側に意識を向けるが、障子に写るのは自分達の影ばかり。
 比較的大きめの影法師の横に、小さめの影法師が揺らいでいる。長くなったり、短くなったりを繰り返すそれは、眺め続けていると眠気を催しそうだった。
 打刀が言うような雪の気配は感じられないが、夕暮れ前から、空模様はずっと怪しかった。
 夜中に降るのではないかと、夕餉の席でも話題に出ていた。大量に積もられたら雪かきが大変だと、昨年やその前を知る刀たちは苦い顔をしていた。
 特に屋根に積もった分を降ろすのは、身体が大きくて力のある槍や、太刀らの仕事だ。やってもやっても終わらない作業は苦痛でしかなくて、年間通して最も嫌われる仕事のひとつと言えた。
 これなら畑仕事の方が百倍楽だと言っていたのは、日本号だ。
 酔っ払ったまま屋根に上がり、足を滑らせて地面に落ちた回数が片手では足りない彼は、そろそろどの時点で間違っているかに気付くべきだ。
 騒々しいくらいだった今夜の夕餉の記憶に蓋をして、目の前の男に向き直る。
 歌仙兼定は足を崩し、胡座に作り替えて、右肘を立てて頬杖をついた。
「なんですか?」
 てっきり会話が再開されると思いきや、不敵な笑みを浮かべたまま何も喋らない。
 穴が空くほど見詰められて、小夜左文字は困惑に眉を顰めた。
 仰け反り、彼との距離を若干広げて、問いかける。
 露骨な態度を取られて、今度は傷ついたらしい。打刀は窄めた口から息を吐き、頬杖を解いて小さく首を振った。
「いや、なに。お小夜に見せたいものがあって」
「僕に、ですか」
「そう。一緒に見にいかないか」
 ようやく途切れていた会話を再開させて、早朝の予定の有無を訪ねて来た理由を明かした。
 途中からずい、と身体を拳三つ分ほど前に出し、なにを想像してか、興奮気味に頬を赤らめる。
 きらきら輝く双眸で問いかけられて、小夜左文字は返事を一瞬躊躇した。
 朝餉の前の時間になにかするつもりなど、毛頭なかった。起床時間次第で食事当番を手伝いに行くかどうか決めようだとか、その程度しか考えていなかった。
 だからこの誘いに対し、断る理由はひとつもない。
 敢えて挙げるとするなら、寒いから嫌だとか、そういう理屈だけだった。
 それなのに即答しなかったのは、どこへ、何を見に連れて行かれるのか、肝心な説明が一切なかったことだ。
 最も重要な部分が省かれている。
 打刀自身はそれに気付いているのか、いないのか。
 怪しむ素振りを見せた短刀に、歌仙兼定はにぃ、と口角を持ち上げた。
「行き先は、秘密だよ」
 右の人差し指を一本だけ立て、唇に沿わせて右目を器用に閉じる。
 どこかの伊達男にも通じる仕草は、顕現した直後の彼なら絶対やりたがらないものだった。
 四年を超える本丸生活の中で、自然と馴染み、身に付いたのだろう。
 偶然か否か、昼間に同じような仕草を本家本元にされた短刀は、堪えきれずに噴き出した。
「どうして笑うんだい、お小夜」
「いえ、なんでも……すみません」
 両者を見比べると、やはり本物の伊達男の方が堂に入っている。
 どことなくぎこちなさが残る打刀に慌てて首を振って、小夜左文字は止まらない笑いを両手で封じ込めた。
 息を止めて三秒数え、肩の震えが収まるのを待った。呼吸を再開させた後も、不意に蘇る衝動を懸命に制して、横隔膜の痙攣を最小限に抑えた。
 そんな短刀に歌仙兼定は口を尖らせ、そのうち拗ねるのに飽きたのか、頭を掻きつつ余所を向いた。
「とまあ、そういうわけだ。どうだろう」
 この期に及んで臆病な振りをして、控えめに問いかけて来た。
 泣き虫の甘えん坊だった時代の彼を不意に思い出して、短刀はまたもや噴き出しそうになったのを堪えた。
「……僕は、構いませんが」
「そうかい!」
 無事哄笑を回避して、小さな声で告げる。
 途端に打刀は嬉しそうに声を上げ、畳を蹴って膝立ちになった。
 満面の笑みを浮かべて握り拳を作ったかと思えば、興奮が収まらないのか何度も膝で畳を叩いた。その度に埃が舞い上がり、振動が壁にまで伝わって、近隣から苦情が来ないか冷や冷やさせられた。
 もっとも小夜左文字の部屋の両隣は大抵、部屋の主は不在にしている。今剣は岩融のところで寝起きしているし、愛染国俊も蛍丸か、明石国行の部屋で過ごす方が多かった。
 怒鳴り込んでくるとすれば更にその向こう側の不動行光か、廊下を挟んで斜向かいの粟田口たちか。
 どれが来ても面倒臭いことになりそうだが、幸いにして足音は聞こえて来なかった。
 代わりに凛とした空気が頬を打つ。
 口から息を吐けば、一瞬だけだが目の前が霞んだ。
「雪は、……大丈夫なんですか?」
 耳を澄ませば、雪降る音がごく微かに耳朶を打った。
 それは皆が寝静まっているこの時間でなければ、きっと耳にすることもなかった音だ。意識を他に向けた途端、己の鼓動や呼吸音に紛れて消えてしまうほどの、本当に儚く淡い音だった。
 歌仙兼定がやってこなければ、小夜左文字も今頃は床に潜り込んでいた。
 昔から彼は、短刀が気に留めてこなかったものを指し示し、気付かせてくれた。季節が変わる度に咲く花の美しさや、彩り、その時期でなければ嗅ぐことの叶わない匂い、等など。
 こうやって雪降る音に耳を澄ませる日が来るなど、復讐に胸を焦がして呪詛を吐いていた当時では考えられなかったことだ。
「雪は、心配ない。むしろ降ってくれないと」
「よく分かりません」
「明日になれば分かるよ」
 大人びた風貌をしておきながら、いたずらっ子の笑みを浮かべてクスクス笑われても、意味が分からない。
 こちらを驚かせたい気持ちは伝わってきたが、影でこそこそ企まれるのは快いものではなかった。
 それでもきっと、彼は直前になるまで目論見を白状しないのだろう。
 変なところで意固地で、我が儘な男の性格にひっそり嘆息して、小夜左文字は羽織っていた褞袍の衿をなぞった。
 様々な端布を縫い合わせて作ってあるので、歌仙兼定の着用しているものと比べると図柄は派手だ。しかし褪せた色合いが落ち着いた趣を醸し出しており、短刀自身も気に入っていた。
 心配性の兄が沢山用意してくれた綿を詰めているので、冬の寒さもあまり労することなく過ごせていた。
 他に篭手切江が万屋で見かけたから、と買って来てくれた耳当てや、歌仙兼定が色違いで揃えてくれた襟巻きなどがある。
 そこに手製の雪沓を履けば、完璧だ。
 着膨れするのは動き辛いから嫌なのだが、背に腹は代えられない。日暮れ時より格段に下がった気温に身震いして、彼はちょこん、と座り直した男に目を細めた。
「お小夜?」
 優しげな眼差しを向けられて、男が不思議そうに首を捻る。
 夜更けの訪問にも嫌な顔をされず、提案に乗ってくれたのに安堵している雰囲気に相好を崩して、小夜左文字はゆっくり起き上がった。
「そうと決まれば、もう寝ましょう。明日は早いんでしょう」
「そうだね。それじゃあ、僕はお暇しようかな」
「え?」
「え?」
 膝を立て、右から順に足を伸ばした。そのまま布団に向かおうとした彼に、歌仙兼定も続けて立ち上がろうとして、変なところから声を出した。
 ふた振り揃って驚愕に固まって、口をあんぐり開けて凍り付く。
 ここでも両者の考えに齟齬があったと判明して、小夜左文字はひくりと頬を引き攣らせた。
 打刀も額に冷や汗を浮かべ、瞬きを繰り返した後にぶんぶん首を横に振った。頬をぺちりと右手で叩き、肩を数回上下させて、上唇を舐めて障子の向こう側を指差した。
「泊まっていかないんですか?」
 仕草でなにかを伝えようとする彼に、痺れを切らした短刀が問いかける。
 それで疑念を確信に変えて、歌仙兼定は益々勢い良く首を振った。
「そんな、まさか。帰るよ」
「てっきり、そのつもりなのだとばかり」
「そ、そりゃあ願ったり叶ったりだけど!」
 焦って声が上擦り、動揺で音は震えていた。
 寝間着に上着を一枚羽織っただけの格好でやって来たから、小夜左文字は打刀が最初からここに居座るつもりでいたと解釈した。早朝から共に出かけるのであれば、その方がなにかと都合が良いとも思っていた。
 だのに帰ると言い出すから、驚いた。
 正直な感想に引きずられたか、本音がちらりと顔を出した男は、にわかに気まずそうに顔色を悪くした。
 感情の起伏が激しく、表情がころころ入れ替わるのも、この男の特徴だ。
 復讐に縛られ、笑うことを忘れてしまった短刀には、決して真似出来ないことだ。
 それでも最近は表情が豊かになってきた、と周囲が揃って口にする。ならば一番の影響を与えてくれたのは、紛れもなくこの男だろう。
「なら、泊まって行きませんか」
「お小夜」
「それに、外は寒いです」
 雪は降り続けており、世界は白一色に染まりつつある。障子を開閉するだけでも、部屋の気温は一変した。
 更にその中を歩いて部屋まで戻ると、この男は言うのだ。
 短刀は、現状からの変化を望まない。それを叶える一番良い選択肢がなんであるか、答えは自ずと定まった。
「……分かった」
 観念して、歌仙兼定はその場に座り直した。気まずげな表情は崩さないまま、頭を右手で掻き毟り、天井を向いて深く息を吐いた。
 葛藤と向き合っている男に苦笑を漏らし、小夜左文字は部屋の隅に片付けていた布団を抱え上げた。その状態でくるりと反転して、未だ思い悩んでいる男の臑を蹴った。
「邪魔です」
「お小夜」
「狭いでしょうが、我慢してください。あと、明日の朝はくれぐれも、早いので」
「わ、分かっているさ」
 布団を敷く場所を譲るよう急かし、変な気を起こさないように、と釘を刺すのも忘れない。
 指摘を受けた男はちらりとでも邪なことを考えていたらしく、急に声を荒らげた。
「図星を指されると、ひとは怒ると言いますから」
「なんの話だい!?」
 聞こえるように独り言を呟けば、過剰反応した男が地団駄を踏む。
 それを冷めた眼差しひとつで黙らせて、短刀の付喪神は広げた布団の端を叩いた。
 凹凸を潰して平らに均し、ひとつしかない枕は歌仙兼定の方へ押しやった。足元が寒いと早速中に潜り込んだ彼に、打刀は苦虫を噛み潰したような顔を作った。
「夜明け前だよ」
「起こしてくれるのを期待します」
「お互い様だ、それは」
 暗に腕枕を所望されたと、言われる前に察したらしい。
 ここは無事意思疎通が叶ったと満足して、小夜左文字は渋る男を急かした。
「失礼するよ」
 押し問答を続けるだけ、時間の無駄だ。潔く決意を固めた打刀はひと言断りを入れて、せんべいよりは厚みがある布団を捲った。
 小柄な短刀の体格に合わせられているそれは、当然彼の背丈からするとかなり小さい。
 足を伸ばせば余裕で臑から先がはみ出るので、着て来た褞袍を脱ぎ、そちらに被せた。上半身側には小夜左文字の褞袍を広げて、少しでも温もりが逃げないよう工夫した。
 けれど矢張り、一番の温もりは傍らで横になる男士の体温に他ならない。
 寒い冬はなかなか寝付けない夜が多いのだが、この時ばかりはすんなり睡魔が降りてきた。
 隣で悶々としている男に気付かない振りをして、目を閉じる。ほっとする匂いを嗅ぎながら数字を数えているうちに、呼吸の間隔は徐々に長くなっていった。
 気がつけば歌仙兼定の左腕を枕に眠っていたようで、覚えている時よりも彼の胸が間近にあった。視線を上げれば長い睫毛がすぐそこに見えて、すぅすぅと淀みない呼気が聞こえてきた。
 あれだけ不満そうにしていたのが嘘のように、穏やかな寝顔で眠っている。
 これが戦場では凛々しくもあり、地獄の鬼よりも恐ろしくある男と同一だとは、俄には信じ難い。
 それは小夜左文字も同様だと言われるが、彼ほど凄まじい変貌を見せているつもりはなかった。
「……朝?」
 部屋には時計がないので、どれくらい眠っていたか、具体的には分からない。
 体感的にはそれほど経っていない気がするが、当てになるものではなかった。
 手っ取り早いのが外の様子を見にいくことで、障子の先を気にして肩を引き、肘を支えに頭を持ち上げる。
 充分注意したつもりだったが、身動ぐ気配を間近に受けて、眠っていた男が眉を顰めた。
「お小夜?」
「すみません、起こしました」
「いや、構わない。夜は……明けてないか」
 目覚めた直後であるが、意識ははっきりしていた。同じ布団に小夜左文字がいる事に驚きもせず、ごく自然と受け止めていた。
 理由を忘れて慌てふためくところも見てみたかったが、そうやって遊んでいる時間も惜しいらしい。彼は短刀が躊躇していたことを造作もなくやってのけ、被っていた布団から抜け出した。
 立ち上がる仕草の途中で乱れていた己の褞袍を引っ掴み、袖を通しながら数歩進んで障子を開けた。
「うっ」
 たちまち冷たい空気が流れ込んできて、小夜左文字も片側に寄っていた褞袍を引き寄せた。急いで身に着けて、両手を擦り合わせながら爪先立ちで畳を進んだ。
 男を風よけにして斜め後ろに立ち、白く濁る息越しに中庭の景色を確かめた。
「積もってる」
 四方を建物に囲まれた庭園は雪化粧が施され、茶色かった地面は白に染め変えられていた。
 軒先に吊された灯篭も雪を被り、向かいの屋根の瓦は本来の色を失っていた。但しもう降ってはおらず、空は濃い藍色だった。
 月は出ていないのにそこまで暗く感じないのは、地表を埋める雪のお蔭だろうか。
「よし。お小夜、出かける準備だ」
 この状況は、打刀にとって好ましいものだったらしい。
 握り拳を作り、嬉しそうに声を弾ませた。眠気など微塵も残っていないようで、肌色は艶々していた。
 寒さをものともせず、短刀よりも元気いっぱいだ。
 まるで雪にはしゃぐ犬だと内心呆れつつ、頷いて、小夜左文字は足取りも軽く駆けていく男の背中を見送った。
「さて、と」
 陽が昇る気配はなく、朝餉を担当している刀たちが起き出している雰囲気でもない。
 一番鶏が鳴くまで、今しばらく時間が掛かりそうだ。そんな中で彼はどこへ行こうというのだろう。
 これでつまらない場所に連れて行かれたら、無駄になった時間分だけ彼に復讐しなければならない。
 それはそれで楽しそうだと悪い顔をして、小夜左文字は急ぎ身支度を調えた。
 寝間着を脱いで素早く着替え、継ぎ接ぎだらけの褞袍の上から襟巻きを二重に巻き付けた。篭手切江が選んでくれた耳当てを取り、毛玉だらけの手袋と一緒に持って、玄関へ向かった。
 集合場所を取り決めていなかったけれど、迷わなかった。
 どうせ外に出るには、必ず通らなければならない場所だ。そう思って待っていたら、さほどしないうちに歌仙兼定が現れた。
「お待たせ」
「いえ」
 褞袍の上から白色の襟巻きを着け、いつもの行燈袴ではなく、裾を絞った野袴を履いていた。なにかと身なりを気にする彼には珍しい選択だが、雪道でも足捌きが悪くならないように、そしてなにより寒さ対策らしかった。
 奇異な目を向けていたら、照れ笑いを浮かべられた。そこまでする必要がある場所へ行くのだと悟って、些か身軽過ぎたかと、小夜左文字は無言で眉を顰めた。
「山の上まで行くわけじゃないさ」
「でも、登るんですね」
「少しだけだよ」
 不安に表情を曇らせていたら、見抜かれた。
 心配事を口にした彼を呵々と笑って、歌仙兼定は軽く肩を竦めた。問題ないとひらひら手を振り、雑多に並べられた履き物の中から自身のものを見付け、爪先を押し込んだ。
 但しそれは、彼が普段から出陣時に履いているものでなければ、内番の時に愛用しているものでもなかった。
 爪先部分に爪掛という覆いがされた下駄で、下駄の歯も通常の物より幾ばくか高さがあった。防寒機能を高める目的で毛皮が用いられており、片側だけこんもりと膨らんだ外見はどことなく愛嬌があった。
「少し急ごうか」
 もたもたしていたら、夜が明けてしまう。
 日の出を見にいくつもりなのかと想像して、小夜左文字は冷えて固くなった頬を手袋の上から擦った。
「わふっ」
 重い板戸を明けて外に出れば、途端にびゅうっ、と鋭く冷たい風が襲って来た。
 反射的に首を竦めた短刀に、先を急ぎたがる男が苦笑を漏らす。言葉はなく、けれど視線で心配する素振りを示されて、玄関先で立ち竦んでいた少年はムッと口を尖らせた。
 これでは年上としての面目が立たない。
 打刀の付喪神が幼かった頃を知っているだけに、彼に世話される立場に回るのだけは避けたかった。自分こそが保護者だと、表にしないだけで密かに抱いてきた自負で心を奮い立たせて、勢い勇んで足を踏み出した。
 臑まですっぽり覆う雪沓で新雪を踏み、まだ明け切らない夜の庭を突き進む。
 目の前には打刀が作った下駄の跡が連なって、まるで等間隔に苗を植えた後のような景色だった。
 あと半年もしないうちに巡り会える光景だが、遙か先の事に思えてならない。
 俯き、先人が創り上げた道を辿ることだけを考えて、黙々と足を動かした。
 はっとなって気付いた時にはもう、本丸の屋敷はかなり小さくなっていた。
「寒い」
 深く吸い込んだ息を吐き、ぼそりと呟く。
 防寒具をどれだけ重ねようとも防ぎ切れない寒さに耐え、見上げた空は、静かに闇から光へ移り変わろうとしていた。
 深かった藍色が徐々に薄まり、東の地平線が淡く輝き出していた。仄かに朱色を帯びた光が大地と空との境界線を彩り、その中心に煌々と照る光球を掲げようとしていた。
 夜明けが近い。
「お小夜、ほら」
 呆然としながら東に連なる稜線を眺めていたら、緩い斜面の上方に居た男が突然声を高くした。
 足元に広がる景色を指し示し、目を凝らして良く見るように促す。
 考え事に没入して周囲を見る余裕など、持ち合わせていなかった。言われて初めて自分の居場所を思い出して、小夜左文字は慌てて左右を見回した。
 雪で覆われてはいるものの、そこに元から在ったものは消えていない。
 おぼろげに残っている記憶を頼りに現在地を把握して、彼はこの場に広がる本来の景色に、今の状況を重ね合わせた。
 なにもかもが、白かった。
 それ故に際立つものが、確かに存在していた。
「……さくら……」
 覚えている限りの情報を引きずり出し、この季節にはあり得ないものをこの場に見出す。
 もっとも完全に合致したりはしない。最大の相違点は色彩だった。
 彼が知っているのは、淡い紅色の花吹雪。ほんのり色づいた花弁が風に踊り、空へと消えていく光景だった。
 けれど今、短刀の足元に広がっているのは、穢れを知らない純白の花々。
 全ての葉を落とし、来る季節に備えて寒さに耐え忍ぶ桜だった。
「これは」
 何が起きているのか、一瞬理解が出来ない。
 己の知識を総動員して状況を整理すべく試みる短刀に苦笑して、歌仙兼定は得意げに胸を張った。
「どうだい、素晴らしいだろう?」
 それは一見枯れたようにも見える木々に降り積もった、雪の結晶だった。
 枝の上に層を重ね、次第に隣の枝との隙間を埋めていく。限られた空間で居場所を確保し、己の存在を際立たせていく姿は、春の到来を告げて香しく咲き乱れる花をも連想させた。
 枯れ色一色だった山肌は、昨夜の降雪に濡れて銀白に染められていた。
 その中でも凛と背筋を伸ばす木々は一際艶やかに、美しく白の衣を纏って輝いていた。
「夜明けだ」
 東の稜線をすり抜けて、太陽がじわり、じわりと顔を出す。
 その目映く、神々しい光を受けて、冷たく凍えた木々に積もる雪が白々と瞬いた。
 桃源郷の幻を見た。
 隣まで降りてきた男の気配に身動ぐ事も忘れて、小夜左文字は眼前で繰り広げられる奇跡のような光景に見入った。
 夜明け前までは白く霞むだけだった世界が、日の出と共に一斉に活力を取り戻した。重く沈んでいたものが浮き上がり、空へと消化していく。地表にあったものは光を受けてきらきらと乱反射を繰り返し、立ち竦む少年の瞳を容赦なく焦がした。
 昨日までは色を失い、つまらなく、見る価値もないと無視され続けていた場所が、たった一晩の間に激変した。
 細い枝に積もった雪は日の出を受けて益々白さを際立たせ、その色を緩やかに透明へと変えて行った。
 日の出と共に生じる気温の変化など、ほんの僅かな差でしかない。けれど短刀が思うよりも、言葉を持たない植物たちはずっと繊細だった。
 ほんの僅かな時間のうちに、春の訪れより一足先に咲き誇った白い花々が散っていく。
 まるでここで見たもの全てが幻であったかのように、雪は溶け、水となって枯れ色の枝を伝っていった。
 なぜ歌仙兼定がああも夜明け前に拘ったのか、ようやく分かった。
 空が明るくなってからでは、到底間に合わない。夜のうちに雪が降り、日の出より早く止む風の弱い天候でなければ、巡り会えない景色だった。
 寝入る直前に、もしくは床に入った直後に条件が揃いそうだと気付いて、急いで小夜左文字の部屋を訪ねたに違いない。
 彼の慌てぶりを想像するのは容易かった。
 思わずふっ、と口元を綻ばせて、着膨れしてもこもこの短刀は緩む表情を襟巻きで隠した。
「気に入ってくれたかな?」
「はい。とても」
 これもまた、誰かに教わらなければ気がつくことなく過ぎ去っていた光景だ。
 知らなかった世界の扉をまたひとつ押し開けて、小夜左文字は明るく照りつける太陽に目を細めた。

2019/02/16 脱稿
山ざくら思ひよそへてながむれば 木ごとの花は雪まさりけり
山家集 冬 567

月は見るやと 訪ふ人もがな

 ふっ、と吐息を零したところで、はたと我に返った。
 否、眠りの時が終わりを告げた。漆黒の闇に濡れた瞼を持ち上げて、小夜左文字は己の置かれた状況を正しく理解した。
「まだ、……うん」
 目覚めたとはいえ、視界に写るのは暗闇ばかり。未だ夜明けには至っていないのだと瞬時に判断して、か細い息を吐いた。
 咥内に残っていた唾液を飲み干して、胸元にあった右手を頭上に移した。額に散らばる前髪を掻き上げて視野を広くし、傍らから聞こえて来る寝息に耳を澄ませた。
 瞳だけを脇に流して、暗がりにぼんやり浮かぶ輪郭を確かめる。
 良い夢でも見ているのか、枕を共にする男の寝顔は穏やかだ。
「ふふ」
 日の出もまだの時間に起こしてやるのは忍びなく、短刀の付喪神はしばし考え、目を泳がせた。
 もう一度眠るのが最良の選択だと分かっていても、肝心の睡魔がするりと手元から抜け落ちてしまった。ならば、と思考を巡らせて、彼はもぞりと身動いだ。
 健やかな寝息を立てる男に気取られないよう注意を払い、息を殺して身を起こした。刀剣男士として与えられた能力を、こんなところで存分に発揮して、慎重に慎重を期して布団から抜け出した。
「寒い」
 己を守ってくれていた綿入りの温もりを失った途端、冷気が全身に突き刺さった。
 たまらず呟き、肩を抱きしめて、小夜左文字は徐々に明らかとなる室内の様子に目をこらした。
 羽織る物がないかと探したが、生憎と手近なところに見当たらない。
 早々に諦めて両腕をだらりと垂らし、ゆっくりと立ち上がった。寝間着代わりの湯帷子の裾をサッと払って整えて、ひんやり冷たい畳を踏みしめた。
 夜の間に空気は乾き、藺草の匂いが鼻についた。それ以外にも色々と、なんだか分からない匂いが混じっていた。
 中でも最も色濃く感じられるのが、そこで枕を高くしている男の匂い。
「また、兄様に言われそう……」
 それが自身にまで強く染みついてしまっているのを自覚して、小夜左文字は自然頬を赤くした。
 念の為と左腕を掲げ、湯帷子の上から嗅いでみたが、自分では分からない。
 歌仙兼定がどうしても、と離してくれなかったのが悪いのだ。
 部屋へ戻ろうとする短刀の手を掴み、赤子のように駄々を捏ねた男を軽く睨み付けて、見た目は幼い少年は畳の縁に沿って足を動かした。
 雑多に積まれている調度品や、何が入っているかも分からない小さな行李を避けて、次第に強まっていく寒さに抗って障子に手を伸ばした。
 細い桟に指を掛け、右に滑らせようとしたが巧く行かない。
「蝋を塗らないと」
 動きが固く、軽く力を加えた程度では動かなかった。
 滑りが悪くなっている障子に心の中で舌打ちして、彼は二度目の挑戦で無事、すり抜けられるだけの空間を確保した。
 たちまちひやりとした空気が強まって、反射的に首が竦んだ。
 音立てて障子を閉めて、暖かな布団に舞い戻りたい衝動に駆られた。布団だけでなく、すやすや眠る男の体温を直に感じて、内側まで冷え切った身体に熱を取り戻したい欲望にさえ駆られた。
 一瞬のうちに様々な思惑が脳裏を過ぎり、駆け抜けて行った。
 最後まで残ったのは、布団を出る直前に抱いた想いひとつだけだった。
「はー……」
 両手を口元にやって、感覚が薄まった指先に息を吹きかけた。
 今一度後ろを見て、寝具に包まれた打刀の付喪神に変化がないのを確認する。そして思い切って、畳以上に体温を奪う床板に足を伸ばした。
 喉まで出掛かった悲鳴を堪え、脇を締めた。素早く後ろ手に障子を閉めて、胸元を掻き毟って衿を合わせた。
 冷たい、というよりも痛いくらいの縁側で数回足踏みし、覚悟を決めて前に出る。
 軒下から覗き込んだ空は濃い藍色をして、月の姿は見当たらなかった。
 星々が淡い光を放っているが、地表を照らすにはかなり弱い。それでも手元を明るくするには充分と、彼はしつこいくらいに両手を擦り合わせ、そこに向かって息を吐いた。
 白く煙る呼気は、繰り返す度に徐々に色を薄くしていった。
 初めのうちはあれだけ寒かったというのに、この身体は順応が早い。とても長居できない、と感じたのが嘘のように、気温の低さを受け入れていた。
「さむ」
 但し温かくなった、というのではなく、寒さに抗うのを諦めた、というのが正しい。
 意図せずして口から零れた不満に苦笑して、小夜左文字は再び頭上を仰ぎ見た。
 星の名前には明るくないので、どれがどう、というのは分からない。秋田藤四郎が図鑑片手に説明してくれたことがあるが、とても覚えきれなかった。
 そもそもこの縁側が面しているのは、そこまで広くない中庭だ。向かいには別の刀剣男士の寝所があり、建物の屋根が視界の邪魔をした。
 他に起き出している刀はいないようで、見える範囲の部屋はどこも真っ暗だ。
 どこからともなく聞こえて来る鼾の主を想像して、小柄な付喪神は首を竦めた。
「ああ、でも」
 空は暗いが、真夜中というわけではない。
 無意識に目が醒めたのは、この時間に起床する習慣が抜けきっていないからだ。
 歴史修正主義者が過去への介入を開始し、既に四年。いつ終わるともしれない闘いに明け暮れる刀剣男士の生活も、同じだけに達していた。
 当初は限られた資源に、数少ない仲間だけで悪戦苦闘する毎日だった。
 そこから徐々に仲間を増やし、本丸は次第に大きく、広くなっていった。付喪神なのに睡眠と食事が必要な状況には閉口させられ、あまりの不便さに、慣れるまで時間が掛かった。
 中でも食事に関しては、一段と苦労させられた。
 ただでさえ人数が少ないというのに、料理が出来る刀は更に限定されていた。食事当番は重労働を強いられ、朝早くから夜遅くまで炊事場に入り浸り。特にそこの短気な打刀は大変だった。
 少しでも手助けをしてやりたくて、小夜左文字も協力した。
 お蔭でついた早起きの癖が、四年が過ぎた今も染みついたままだ。
 最近は包丁を握る刀剣男士が増えたお蔭で、燭台切光忠や堀川国広ら、初期から台所を支えていた刀はお役御免となった。
 そこで眠っている歌仙兼定も、そう。
 ほかの刀たちが起き出すより早く寝所を抜け出して、台所に駆けつけていた日々が懐かしい。
 今日は誰が当番だっただろう。
 目を細め、緩く首を振って、小夜左文字は上腕をさすりながら視線を上げた。
 深い藍色に染まっていたはずの空の色合いが、ほんの少しだけ変わっていた。
 どこがどう、と具体的には説明出来ない。しかし確かに、時間の経過がそこに現れていた。
「あと少し」
 日の出が近付いている。
 独白し、腕を撫でさする指先に力を込めて、彼はもう半歩前に出た。
 これ以上進めば庭に落ちる、というところで立ち止まって、夜闇に研がれた空気を吸い込んだ。肺胞のひとつひとつに突き刺さる冷気を現身に馴染ませて、そっと目を閉じ、ゆっくり五秒数えた。
 それから静かに目を開けて、沈黙を続ける夜空を仰ぐ。
 なにも変わっていない。
 けれど記憶に残る五秒前と、今とでは、空の彩りは微少に異なっていた。
 ほんの僅かな時間、目を離しただけで、こうも景色は変わってしまう。
 復讐を追い求め長い歳月を漂っていた短刀にとって、夜明けはあまり嬉しくないものだった。
 朝がやってくるということは、新たな一日がやってくるということ。
 だが小夜左文字には、輝ける未来など存在しない。この刀身に染みついた激しい恩讐だけが、彼の全てだった。
 新たな一日が始まる、ということは、復讐を遂げられないまま一日が過ぎた、ということだ。そして復讐相手を捜し求め、徒労に終わる一日を再び迎える、ということにも繋がった。
 昔は、日の出の瞬間が嫌いだった。
 空が明らみ、地表が明るく照らし出される。それによって黒い澱みは輪郭をいよいよ濃くし、存在を強固なものへと変えていった。
 前に進みたいのに、過去が彼を縛り付ける。太い茨が全身に巻き付いて、鋭い棘が腕に、足に、胸に、腹に、あらゆる箇所に突き刺さった。
 早く終われば良いのにと願いながら、終わらない復讐をひたすら追い求めていた。
 夜明けに気を許す余裕は無かった。日の出の目映さは瞳を焼くだけと、顔を背け、見ないようにしていた。
 だから空がこんなにも繊細に色を変え、移りゆくものだと知らなかった。
 気がついたのは、いつだろう。
 天上を指差し、教えてくれたのは誰だろう。
 目を細め、ふふ、と口角を持ち上げる。
 声もなく笑った彼を知ってか知らずか、静寂を保っていた空間が突如ふたつに割れた。
 滑りの悪い障子がカタカタ音を立て、横に開いた。光の届かない暗い室内から、怠そうな表情で現れたのは歌仙兼定だ。
「お小夜?」
 半分眠ったままなのか、目元はとろんと弛んでいた。寝癖が残り、普段は一本だけの跳ねた毛は、三本に増えていた。
 寝間着も乱れたままで、だらりなく広がった衿元が目に毒だ。
 さすがに腹をボリボリ掻く真似はしなかったが、やりかねない雰囲気に苦笑して、小夜左文字は寝起き顔の男に頷いた。
「まだ眠っていても良いんですよ」
 今日の食事当番は、今頃台所に集合を終え、忙しく支度を開始しているだろう。
 起きたのだから手伝いに行ってもいいが、今しばらくこのまま、陽が昇るのを待ちたい欲が勝った。
 打刀には大人しく布団へ戻るようやんわり促して、室内を掌で示す。
 風流を愛し、雅なものを好む刀は鈍い動きで後方に目をやって、口元に手を添え、欠伸を隠した。
「ふぁ、ああ……んむ、ん。ん。なにしてたんだい?」
 片手では誤魔化せないくらい大きく口を開け、空気を咀嚼して顎をもごもごさせる。
 急に滑舌が良くなったのは、この欠伸で居残っていた眠気を追い払ったからだ。
 ぼんやりしていた頭の中をすっきりさせて、布団に戻る理由を打ち消した。無駄としか思えない意地を発揮されて、小夜左文字は失笑を禁じ得なかった。
 そうまでする意味が分からないが、そうさせたのは紛れもなく短刀の存在だ。
 そこは有り難く受け取ることにして、彼は掌を返し、こちらに来るよう手招いた。
 途端に歌仙兼定はぱあっと目を輝かせ、大股で距離を詰めてきた。二歩もあれば充分なところを、一歩半で済ませて、隣に並ぶと思わせて背後に陣取った。
「冷たいじゃないか」
 当然のように後ろから寄り添い、抱きしめてきた。
 華奢な体躯を二本の腕で引き寄せ、閉じ込めて、許しも得ないまま紅葉のような手を握り締めた。
 掌に親指を押し当て、円を描くように動かす打刀の身勝手さは、今に始まったことではない。
 最初に抵抗しなかった自分が悪い、と諦めて、小夜左文字は冷え切った指で男の小指を引っ張った。
「歌仙は、温かいですね」
「それは、嫌味かい」
 短刀が寒空の下に佇んでいる間、布団の中でぬくぬく眠っていた件を責められている、と受け取ったらしい。
 ふて腐れた声が頭上から降って来たが、否定の言葉は咄嗟に出なかった。
 なんと返せば良いか迷っている間に、この話はうやむやになった。打刀も深く追求しては来ず、明け行く空へと投げ捨てた。
 そうやって少しの間、互いに黙ってなにをするでもなく時間を過ごした。
「あ」
 やり場のない手を胸元に集め、緩く編まれた男の指先を弄っていた時。
 はっとなって空に瞳を転じた時にはもう、藍色は緩やかに薄まり、白々としたものが東から広がり初めていた。
 夜の帳が開かれ、太陽が地平に迫ろうとしている。
 今日こそは空が白み始める一瞬を見届けるのだと、密かに決めていた。
 あの時間に目が醒めたのは、なにかしら意味がある思っていた。
 一番鶏の声が聞こえたわけでも、台所へ急ぐ誰かの足音に意識を揺らされたわけでもなく。ごく自然に覚醒した理由を、どこかに求めていた。
 それ故に、空を仰いだ。温かな褥を抜け出して、寒空の下に身を晒した。
 かつて嫌いだったものに向き合い、目を逸らさぬよう働きかけた。
 だというのに、だ。今日もまた、肝心の瞬間を見逃した。思わぬ邪魔が入り、そちらに気を許してしまったばかりに。
 かといって歌仙兼定を責める気は起こらなかった。油断していたのは他ならぬ小夜左文字自身。起き抜けの打刀が事情を知るはずもなく、怒るのは道理から外れていた。
「まあ、いいか」
 機会ならこれから先、いくらでも巡ってくる。
 次の好機を待つことにして、短刀は窄めた口から息を吐いた。
 力を抜き、体重の半分を真後ろに控える男に委ねた。凭れかかり、鼻腔を擽る微かな体臭を吸い込んで、甘えるように分厚い胸に額の左半分を擦りつけた。
「夜が明ける、か」
「はい」
 猫を真似た短刀の仕草に、打刀は笑ったらしかった。
 顔が見えないので気配だけでそう察して、小夜左文字は頭上を仰いでいる男の姿を瞼の裏に思い描いた。
「お小夜の色だね」
「え?」
 そこに不意打ちで囁かれて、彼はぱっと目を見開いた。
 一瞬意味が分からず、前のめりになった。委ねていた体重を取り戻し、二本足で床を踏みしめて、腰を捻って高い場所にある男の貌を覗き込んだ。
 歌仙兼定としても、こんな反応をされると思っていなかったようだ。
 予想外の態度に吃驚して、彼は笑顔を引き攣らせた。
「変なことを、言ったかな?」
 深い意図も、考えもなく口にしたらしい。
 右手で頬を掻きながら問われて、小夜左文字は嗚呼、と目を細めた。
 こうしている間にも、夜空はどんどん色を薄め、西の彼方へ追いやられようとしていた。東から迫り来る目映い光が頂上で混じり合い、深く沈んだ藍色は群青へと変わろうとしていた。
 ほんの一瞬鮮やかに輝いて、同じだけれど違うものへと姿を変える。
 照れ臭そうに微笑む男をじっと見詰めて、小夜左文字は顔を伏した。
「前にも、……そう言いました」
「僕が?」
「はい」
 夜明けを待つのは嫌いだった。
 眠れない夜を過ごし、一晩中膝を抱えて丸まって、容赦なく押し寄せる時の流れにじっと耐えるばかりの日々だった。
 空の色がどんどん移り変わっていくことに、さしたる関心を抱いたことはなかった。どうでも良いものと受け流し、見過ごしてきた。
 あの日、あの時、教えられなければ、今でも興味を示すことはなかった。
 空が白み始める一瞬の変容をこの目に留めたいなどと、奇怪な望みを抱くことだってなかったはずだ。
「覚えてないな」
 驚愕に染まる眼差しを受けて、歌仙兼定は首を捻った。顎に手をやり、眉を顰めて口をへの字に曲げたが、心当たりが浮かんで来た気配はなかった。
 それもそうだろう。彼のこの態度に、心の何処かで納得していた。
 反面、もしかしたら思い出せるのではと、儚い望みを胸に抱いた。
「そうでしょうね。もうずっと前ですし」
「もしや三斉様のところにいた頃かい?」
「歌仙は僕より小さくて、可愛らしかったです」
「うっ。そんな、ことは……」
 多くは語らず、自ら思い出すよう水を向けた。
 愛らしかったと評された男は途端に苦々しい表情を浮かべて、奥歯を数回噛み鳴らした。
 カチカチ音を響かせ、虚空に視線を彷徨わせる。鼻から吸った息を口から吐いて、落ち着かないのか小夜左文字の肩を意味も無く揉んで、捏ねた。
 凝ってもない場所を解されて、くすぐったかった。逃げようと藻掻いたが許されず、離れようとする動きを制して、却って強く拘束された。
「本当に、僕が?」
 身を屈めた男に耳元で尋ねられ、吐息が耳朶を擽った。
 声を潜めた打刀にクスクス声を漏らして、小夜左文字は鷹揚に頷いた。
 首を傾けて振り向き、意地悪く口角を歪めて目を眇める。
 歌仙兼定は面白くない、と言わんばかりに顔を顰め、短刀の次の言葉を待った。
 食い入るように見詰めて来る眼差しは、記憶にない過去を暴かれる恐怖と、不安と、僅かな期待が入り乱れていた。
 この本丸で出会った他の刀たちには、決して見せない表情だ。
 それがたまらなく愛おしくあり、特別な関係というのを強く意識させられた。
 優越感めいたものを心の片隅に抱いて、小夜左文字は深々と頷いた。
「くう。思い出せない」
 打刀は悔しそうに呻き、左手で額をぺちりと叩いた。そのまま腕を後ろにやって藤色の髪を掻き回し、手櫛で寝癖を整えた。
 跳ねている分は濡らして、櫛を通さなければ直らない。それでも何もしないよりは、と数回繰り返して、観念したのか溜め息を零した。
「お小夜」
 低く掠れた小声で名前を呼んで、もっと詳しく説明するよう求めて来た。
 頭の中を柔く擽る声色は、中毒性のある麻薬かなにかを想起させた。向こうも一定の効果があると確信しての行動であり、始末が悪いことこの上なかった。
 純粋無垢を絵に描いたような幼い付喪神が、どうしてこうなったのだろう。
 半分は自分の所為、と浮かんだ疑問に回答して、小夜左文字はひっそり肩を落とした。
 抱きしめて離そうとしない男の手に手を重ね、ゴツゴツして男らしい指をなぞり、握り締める。
 脳裏に蘇ったのは、この指がまだふくよかで、柔らかかった時代の打刀の姿だ。
 その瞳は宝石の如くきらきら輝き、目にするもの全てが新鮮だと語っていた。毎日が驚きの連続で、逐一大袈裟に騒いでは、感動したと口にしていた。
 いや、その辺りは今もあまり変わっていない。大人しく次を待っている男を盗み見て、小夜左文字は噴き出しそうになったのを堪えた。
「そうですね……」
 その頃の短刀は闇に潜むのを常として、陽の暖かさを嫌っていた。夜明けが来るのを愁い、日が沈んだ後の時間をひたすら嘆いていた。
 暗がりで息を殺す毎日だった短刀を外に連れ出した存在こそ、そこの世間知らずの打刀だった。
 産まれたばかりで世の常識を知らず、あらゆる物に関心を示した。
 申し出たつもりなどないのに世話役を押しつけられて、彼に構われてあちこち連れ回されるようになって、己の無知蒙昧ぶりを思い知った。
 己が持ち合わせてした知識の多くが、単に知ったつもりでいただけのものと気付かされた。
 その点、前知識さえなかった打刀の方が、遙かに物知りだった。
 時間毎に移り変わる空の色も、彼に指摘されるまで気に留めようとすらしなかった。
 ある朝、いつもより早起きだった彼は短刀を訪ねてくるなり、興奮気味にこう語った。
 空がお小夜の色だった、と。
 それだけでは何のことだか、さっぱり見当が付かない。よくよく説明を求め、推測から補完した結果、彼は空が白み始める瞬間に遭遇したらしかった。
 天頂を覆っていた藍色が緩み、淡く厳かに輝くのを、目の当たりにしたらしかった。
 知識をどんどん吸収しながらも、語彙が少ない幼い付喪神は、これの彩りの美しさをどう表現すべきか分からなかった。そこで咄嗟に思い浮かんだのが、小夜左文字だったと言うのだ。
 聞いた時は意味が分からなかった。
 なにを馬鹿な事をと一笑に付した。
 けれど妙に心に引っかかり、意識に強く刻まれた。翌朝、眠れない夜をいつも通り過ごし、日の出の直前に外に出たのは気まぐれだった。
 間違っても騒々しいばかりの付喪神に触発されたわけではない。
 あくまで偶然だと自分に言い訳をして見上げた空は、美しかった。
 鈍色が霞み、緩やかに解けていく。昼間は鮮烈な輝きを放つ太陽も、この時はまだまだ穏やかで、勢いに欠けている分、光は柔らかかった。
 夜闇は急かされながらも名残惜しげに、西の空へと去って行く。だがそれも横並びで一気にではなく、一部は居残り、朝の気配に紛れ込んだ。
 溶け合い、混じり合い、時に反発して、変わっていく。
 あれが自分の色だとはとても思えなかった。
 思えなかったからこそ、次こそは確かめてやるとの決意を抱かせた。
「お小夜?」
 懐かしい思い出に浸っていたら、時間だけが過ぎ去った。
 黙りこくった短刀に痺れを切らし、歌仙兼定が細い肩を前後に揺らした。
 上半身から地震に襲われた短刀は内股になって姿勢を維持し、乱暴な男を軽くねめつけた。
 無理矢理意識を引き戻されて、不満げに口を尖らせるものの、文句があるのはあちらも同じ。
 露骨に拗ねた表情を見せられて、小夜左文字は堪えきれなかった。
「ふふっ」
 口を手で押さえたが、すんでの所で間に合わない。
 肩を震わせ笑う少年に目をぱちくりさせて、歌仙兼定は諦め悪く声を絞り出した。
「お小夜、意地悪をしないでくれ」
 その甘えた台詞を、昨夜の彼に聞かせてやりたい。
 意地の悪さではどちらが上かと、結論の出ない論争は一先ず脇に追いやって、短刀は朝に染まり行く空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 相変わらず冷たく冴えているが、胸の奥深くに突き刺さることはなかった。
「あたたかい」
「ええ? なんだって?」
「内緒です」
 独り言に反応し、大袈裟に訊き返して来た男が滑稽だった。
 折角落ち着いていた笑いが蘇り、腹筋が引き攣る。懸命に耐えながら答えて、小夜左文字は肩越しに顔を覗き込もうとする男の額を押し返した。
「さあ、歌仙。着替えて、顔を洗いに行きましょう」
 いつの間にか空は明るさを増していた。どこかあやふやだった物の輪郭は鮮明になり、夢から覚めた刀たちによる生活音がそこかしこから聞こえて来た。
 朝餉の支度は順調だろうか。
 結局手伝いに行けなかったと反省して、夜明けの色に例えられた少年が笑った。
 巧くはぐらかされた打刀は今しばらく不服そうに頬を膨らませ、やがて癖が残る髪を押し潰した。
「承知した」
 深々とため息を吐き、俯いて二秒弱停止した後、顔を上げた。
 恨みがましい感情は足元に捨てて、踏み潰したようだ。妙に晴れ晴れとした表情を見せられて、小夜左文字はもう一度噴き出しそうになったのを、急いで堪えた。

霜さゆる庭の木の葉を踏み分けて 月は見るやと訪ふ人もがな
山家集 冬 521

2019/01/20 脱稿

繰るとも見えぬ 滝の白糸

 ぱしゃぱしゃと水の跳ねる音が止んで、小夜左文字は顔を上げた。
 それまでほぼ一定の間隔で続いていた音色が、不意に静かになった。なにかが起きたのは間違い無くて、彼はひっそりと眉を顰めた。
「歌仙?」
 壁から伸びる竹の筒からは、清らかな水がさらさらと流れ落ちていた。横幅が広い洗い台のほぼ真ん中に滝を作り、奥に設けられた穴へと吸い込まれていった。
 本丸の増築時に、一緒に改築された台所は、初期に比べると格段に使いやすくなっていた。隣にあった納戸を取り払って拡張されて、大勢が一度に動き回れるようになっていた。
 竈の数が増え、鍋やなにやらも新調された。小夜左文字が愛用していた足台も、つい最近新しくなった。
 上に立つとガタガタ言って倒れそうになり、危なかったのだが、これでもう心配はいらない。
 作業もずっとやり易くなると喜んで使っている、その台の上で、小柄な短刀は首を捻った。
「どうかしましたか」
 本丸でも際立って背が低い短刀は、他の刀が難なく届く場所に、背伸びしても届かない。
 洗い場で片付けを手伝う時も、三段ある足台がなければ、手で触れるどころか見るのさえ叶わなかった。
 台に上って身長を補って、ようやく皆と並んで作業が出来る。だがその一緒に洗い物を進めていた相方が、急に動きを止めてしまった。
 流れ続ける水が勿体なくて、小夜左文字は腕を伸ばして栓を閉めた。
 ここの水は、無限ではない。外に設置された貯水槽に、槍や薙刀が毎朝水を溜めてくれていた。
 無駄に放水し続けるのは、彼らの努力を、文字通り水に流してしまいかねない。あまり褒められた行為ではなかった。
 竹筒の流れを堰き止めて、短刀は改めて傍らに目を向けた。
「ああ、いや。いたた」
 視線を受け、指先から雫を滴らせた男が首を振った。掴んでいたものを割らないようそっと置いて、奥歯で悲鳴を磨り潰した。
 彼の手元には濯ぎ途中の鍋があり、調理中に使った箸や小皿が脇に積まれていた。表面には細かな泡が付着して、洗い流されるのを待っていた。
 竹を編んで作った水切り籠は半分弱埋まって、ぽたぽた落ちる雫は土間に作られた溝へ集められる。洗い場から出た水もそこを通り、屋外の用水路に合流した。
「怪我ですか」
 ざあざあ五月蠅かった水音が途絶え、台所は一気に静かになった。
 窓の向こうで乾いた風が吹いたが、打刀の声をかき消すには足りなかった。
「いや、そこまでたいしたものではないよ」
 顰め面を覗きこんだ短刀に、歌仙兼定は早口に言った。痛みを誤魔化し、平静を装おうとして、心配させないように振る舞った。
 けれどそれが、却って痛々しく思える時もある。
 小夜左文字は緩く丸められた打刀の手を見て、異様に赤くなった部分に渋面を作った。
「痛みますか」
 平気だと言われても、到底信じられない。
 目にしただけで、痛みが想像出来た。ぶるっと震えが来る傷の具合に、彼は眉間の皺を深くした。
 だというのに、歌仙兼定は尚も問題ない素振りを見せた。意地を張って、にこやかに微笑んで、心配する短刀に頬を緩めた。
「ちょっと沁みただけだよ」
 手首を振って絡みつく水気を払い、掌を裏返しにして患部を隠す。普段ならばなんとも思わないその仕草さえも、今は余計な気遣いをさせないための配慮としか思えなかった。
 我慢することはないのに、どうして平気なふりをするのか。
 彼の心理が分からなくて、小夜左文字は口を尖らせた。
 自分だって多少の傷は平然と無視し、手当ては不要と跳ね除けるのに、こういう時だけ都合よく忘れている。
 臍を曲げて顰め面を酷くして、藍色の髪の短刀は肩を怒らせた。
「残りは、僕がやります」
 肘を突っ張らせ、打刀の脇腹を小突きながら言った。
 語気を荒らげて主張した少年に目尻を下げて、歌仙兼定はゆるゆる首を横に振った。
「心配はいらないよ、お小夜」
「ですが」
「これしきで音を上げていては、主に顔向けできないからね」
 水仕事が連続して、肌が荒れてしまったのだろう。特に出番の多い中指、人差し指の第二関節がぱっくり裂けて、内側から血が滲んでいた。
 表面を覆う皮が破れ、中の肉が覗いていた。冷たい空気に触れるだけでも沁みて、動かせばズキズキする痛みが酷くなった。
 それでも耐えられないほどではないと、細川の打刀は言い張った。
 この程度の傷、戦場に出れば当たり前だ。もっと酷い怪我をしたことだって数えきれないのだから、充分我慢出来る。
 そう信じ、そう願った。先ほどはうっかり擦ってしまって痛みが増したが、今日はずっとこの手で仕事をこなしてきたのだから、最後までやり通せるはずだ。
 やせ我慢ではないのだと教えるべく、彼は傷が悪化した方の手をひらひら振った。実際は依然じくじく疼いていたが、顔には出さなかった。
 優雅に、余裕がある風を装って、小夜左文字が閉めた水道の栓を外した。
 直後にちょろちょろと水が流れ出して、菜箸に残る泡をそこに浸した。
「うっ」
 当然のようにズキッ、と骨まで沁みる痛みが走り、歌仙兼定は歯を食い縛った。
 奥歯を擦り合わせ、喉から出かかった呻き声を防いだ。息を止めて痛覚の遮断を試みて、平常心を保つべく感情を消した。
 無我の境地に至り、能面のまま次々に洗い物を片付けていく。
 カチャカチャと皿や鍋が擦れあう音が続いて、隣で見ていた小夜左文字は呆れた顔で肩を竦めた。
「ここにいてください」
 短刀が手伝っていた仕事まで、意識していないのか、彼は奪っていた。
 洗い終えた皿類を水切り籠に入れるのが、台座に立つ少年の役目だ。だのに男はそれを押し退け、次々と籠を埋めて行った。
 お蔭で小夜左文字はやることがなくなってしまい、手持ち無沙汰だ。
 それもこれも打刀の手の傷が悪いのだと腹を立てて、見目幼い少年はは一尺三寸はある足台から飛び降りた。
「お小夜?」
「薬研藤四郎に、薬をもらってきます」
 瞬時に振り返った男に告げて、言うが早いか駆け出した。呼び止める声は聞かず、土間から板敷きの間へ上がり、そこから更に廊下へ出た。
 お節介が迷惑と思われるかもしれないが、放っておけなかった。
 頭の中で地図を広げ、記憶の通りに道を進んだ。幾度となく増改築を重ねた本丸の屋敷は半ば迷路化しており、景色を確認しながらでないと、簡単に現在地を見失いかねなかった。
 早い時期に顕現した小夜左文字でこうなのだから、最近やって来たばかりの刀は、もっと大変だ。
 先日も祢々切丸が迷子になって、声はするのに姿は見えず、ということがあった。最悪、中庭に面した建物の壁をぶち抜くか、という話になったが、ぎりぎりのところで今剣が大太刀の元に辿り着き、無事帰還を果たしていた。
 ああいう騒動の中心に、自分は立ちたくない。
 道を違えないよう細心の注意を払い、小夜左文字は人通りの絶えた廊下を曲がった。
 突き当たりの床にはぽっかり穴が開いており、暗闇が待ち構えていた。そこには最初から板が張られておらず、覗き込めば急こう配の階段があった。
 奈落まで続きそうな雰囲気があるけれど、実際はそこまで深くない。
 屋敷の中心部にほど近い場所に作られた半地下空間は、医薬品を保管する収蔵庫だった。
「相変わらず、ここは」
 陽の光はあまり届かず、下り切ったところに蝋燭の火が小さく見えるだけ。
 足を滑らせると真っ逆さまに転げ落ちるしかなく、ここを行く時は否応なしに緊張させられた。
 ごくりと喉を鳴らし、恐る恐る足を前に出した。手すりの類は一切なく、頼りにしようと触れた壁はひんやり冷たかった。
 階段はギシギシ言って、こちらも凍えるほどに冷たい。足の指の感覚が徐々に失われていく中、小夜左文字は最後の段差を降り終えたところでホッと息を吐いた。
 到達した先は半畳ほどの広さしかなく、正面は壁で、左右に扉がひとつずつ。
 その右側を軽く叩けば、間髪入れずに返事があった。
「あいてるぜ」
 反対側は、日光に当ててはいけない類の薬草や、貴重な品々が保管されているらしい。
 屋敷には沢山部屋があって、中には古株の短刀でさえ入ったことがない場所がいくつかあった。この重そうな扉の向こう側も、そのひとつだった。
 防火対策の為か、あちらだけは鉄製なのだ。一方これから入ろうとしている扉は木製で、蝶番が錆びかけていた。
 手前に引くとギィィ、と音がして、苦い臭いが鼻腔を刺した。反射的に唾液が溢れ、喉の奥でおえっ、と嘔吐きそうになった。
 薬の匂いだと分かってはいるけれど、なかなか慣れない。
 つーん、と来る刺激に急ぎ口と鼻を塞いで、小夜左文字は三畳半程度の室内に目を瞬いた。
 天井の高い位置に窓があり、薄く日が射しこんでいた。それだけでは足りないからと、この時間から行燈に火が入り、片隅には暖を取る為の手あぶり火鉢が置かれていた。
 ここは年中涼しいので、夏場は重宝がられた。しかし一度に大勢入れる場所でないし、どこを嗅いでも薬草の匂いしかしないので、近付きたがらない刀もそれなりに多かった。
 この中にいて平然としていられるのは、薬研藤四郎か、物吉貞宗くらい。
 その黒髪の方を見付けて、小夜左文字は恐る恐る顔を覆っていた手を下ろした。
「うう」
 苦い臭いにはまだ馴染めないけれど、入った直後よりは呼吸が楽になった。
 ほっと胸を撫で下ろして、彼は小型の火鉢に手を翳す短刀仲間の前で膝を折った。
「どうしたよ、小夜助。急病人か?」
 指先を温め、時々裏返したり、元に戻したり。
 そうやって手全体に熱を送り込んでいた少年は、入ってきた男士を見て楽しそうに声を響かせた。
 だが残念ながら、病人が出たわけではない。そもそも刀剣の付喪神である刀剣男士が罹患するなど、前代未聞だった。
 二日酔いで頭がくらくらする、睡眠不足で倒れる、といったことならあるが、それらは厳密には病気といえない。熱が出て、下痢をして、咳が止まらないといった症状は、誰一人として体感したことがなかった。
 身体が重く、怠いのは、疲労が蓄積しているか、或いは精神的なものが原因。
 薬研藤四郎は日々様々な薬草を採取し、調合していた。しかし彼手製の薬の大半は、この先もずっと薬棚の肥やしとなるだろう。
「いいえ。皮膚が割れて、血が出ているので、その薬を」
 しかし残り半分は、皆から重宝がられていた。
 特に台所仕事が多い刀は、手荒れとの戦いが避けられない。小夜左文字も冬場は皸に苦しめられ、保湿成分を高めた軟膏の世話になっていた。
 今回は、それよりも即効性が高いものがあればと思い、訪ねて来た。
「んん? 水仕事ご苦労さまってやつか」
「僕じゃないです」
 もみじの手を指差しながら言えば、眼鏡を掛けた少年はゆっくり立ち上がった。そうして壁を埋める薬棚でなく、小夜左文字の方に身を乗り出し、傷の具合を確認しようとした。
 それで慌てて言い足して、華奢な少年は両手を背中に隠した。言葉が不十分だったと反省して、目を丸くした短刀に小さく頭を下げた。
「ん? あー、んじゃ、歌仙の旦那か」
「はい」
 薬研藤四郎はそれで理解して、嗚呼、と緩慢に頷いた。
 本丸に集う刀剣男士のうち、小夜左文字と関わり合いが深く、それでいて水仕事に従事している男を絞って、見事正解を導き出した。
 左文字にはほかに太刀と打刀がいるけれど、どちらも浮き世離れしたところがあり、世俗にまみれた家事とは縁遠かった。
 しかも長兄の江雪左文字は菜食主義者で、度々調理当番を悩ませていた。また、次兄の宗三左文字は籠の鳥を自称し、部屋からあまり出て来ない。顕現したての頃と比べれば活動的になったとはいえ、外を駆け回るなどあり得ない話だった。
 そうなると、戦国大名細川家に所縁を持つ刀くらいしか残らない。
 簡単だと苦笑して、彼は真剣な面持ちの短刀に目を細めた。
「酷いのか?」
 柔和な表情がすっと消えて、医療従事者としての顔が現れた。
 声を潜めた少年に首肯して、小夜左文字は背中に回していた手を取り出した。
「ここ、と。ここに。罅割れが」
「ああ、関節のとこだな。小夜助も、去年の冬はよく作ってたな。前に渡したあれじゃ駄目か」
 具体的な場所を指し示して伝え、傷の程度も簡単に説明する。それにふんふん頷いて、薬研藤四郎は薬棚の一画を指差した。
 大きめの瓶に、たっぷり作った軟膏が入っていた。皆が大量に使うので、いちいち調合していたら間に合わないからと、先に多めに準備してあるのだ。
 見覚えのある色艶に目をやって、小夜左文字は一度首を縦に振り、続けて横に二度振った。
 これではどちらの意味か分からなくて、黒髪の少年は戸惑いがちに頬を掻いた。目を泳がせ、ひと呼吸間置いて、首を右に傾がせた。
「もっと、治りが早いものが、あるなら」
 それを見て、左文字の末弟が言葉を補った。
 相変わらず説明が下手だと苦笑して、薬研藤四郎は肩を竦めた。
 小夜左文字に限らず、本丸の皆が冬場使っていた軟膏は、どちらかと言えばこれ以上傷が悪くならない為のものだった。
 乾燥した肌に潤いを与え、水分を逃さない目的が大きい。塗る場所もぱっくり裂けてしまった箇所ではなく、放っておいたら割れてしまうだろう、という位置が中心だった。
 だから傷が悪化してからでは、あまり役に立たない。
「それもそうか」
 指摘された短刀は瞬時に認めて、ならば、と身体を反転させた。
 心当たりを思い出そうとして、視線を左右に躍らせる。左手を腰に据え、右の人差し指で顎を叩きながら、埋もれた記憶を掘り返した。
 自由に動き回るには不便な空間で、床に散らばる様々なものを器用に避けつつ、ぐるぐると円を描く。
 目が回ったりしないのだろうか。少し心配になって、小夜左文字は近付く彼を避けようと、中腰で後退した。
「お小夜」
「歌仙?」
 そこに、不意に声がした。思ってもみなかった刀の登場に、彼は吃驚して仰け反った。
 半端に開いていた扉の隙間が広がって、そこを埋める形で男がひと振り、立っていた。
 それを天地逆に確かめて、短刀は尻餅をつく形で床に座り直した。
 大急ぎで片付けを終え、追いかけて来たのだろう。打刀の肩は上下に揺れて、吐く息は乱れていた。
 場所が場所なら、彼の顔が白く霞んで見えたかもしれない。屋外の寒さを思い返し、小夜左文字は瞬きを繰り返した。
 薬研藤四郎は足を止め、息を整えてから入って来た男を出迎えた。ただでさえ狭い空間が更に窮屈になって、行き場を求めて摺り足で後退を図った。
「旦那のご登場、ってやつか」
 合間に嘯き、意味深に笑った。聞こえた小夜左文字は鋭く睨みつけ、聞こえなかったらしい男にはため息を零した。
「台所にいるよう、言いました」
 薬をもらって、すぐ戻るつもりだった。
 それなのに、どうしてわざわざ自分から来たのだろう。じっとしていても痛いのだから、動き回ればなおのこと、傷は悪化するというのに。
 愚かとしか言いようがない行為に呆れ、低い位置からねめつける。
 だが歌仙兼定は鷹揚に首を振り、先走った短刀を正面から見つめ返した。
「心配ないと、言っているだろう」
 一面赤く染まっている手を見せて、苛立ち気味に言い切った。どこからどう見ても痛そうとしか思えないものを示して、大事ないとの主張を繰り返した。
 それがやせ我慢に思えたから、小夜左文字はここに来たのだ。
 その配慮を蔑ろにされるのは面白くなくて、短刀は小鼻を膨らませた。
「悪いが、痴話げんかなら外でやってくれ」
「誰が!」
 険悪な空気が漂い、これを嫌った薬研藤四郎が軽口を叩く。
 反射的に怒鳴り返した短刀は、一秒置いてからハッと我に返り、どうにも気まずい雰囲気に首を竦めた。
 歌仙兼定の方も虚を衝かれた顔をして、なんとも言えない表情で目を逸らした。赤く染まった手で口元を隠して、一瞬だけ小夜左文字を窺い、小さな引き出しが並ぶ棚を、何をするでもなく眺めた。
 お互い、頬が赤い。
 鮮やかな朱色に染まっている自覚はあるのかと笑って、薬研藤四郎は抽斗の白い取っ手を引っ張った。
「歌仙の旦那が来たんなら、丁度良いや。新作があるんだ。試してってくれねえか」
 茶でも飲んでいけ、というくらいの気軽さで言って、彼が出したのは白っぽい小瓶だ。外から光が入らないよう密閉されて、大きさは掌にすっぽり収まる大きさだった。
 ちゃぷん、と水音がしたので、中身は軟膏ではないらしい。
 新作、という響きに若干の不安を覚え、小夜左文字は訝しげに短刀を窺った。
 胡乱な眼差しを向けられても、飄々とした短刀は態度を変えなかった。口角を僅かに持ち上げて、小瓶の蓋を右に回した。
「効果は保障するぜ。なあに。ちっと沁みるだけだ」
 疑念を抱かれていると承知して、最終判断は当事者に委ねる。それで安堵の息を吐き、小夜左文字は傍らを窺った。
 二方向から視線を受けた打刀は困った顔をして、遠くを見やり、やがて深く肩を落とした。
「そんなに信用ないのかな、僕は」
「歌仙」
「分かったよ。それでお小夜が安心するのなら」
 ため息混じりに呟いて、彼はゆったりした動作で腰を下ろした。膝を折って屈み、胡坐を組んで、痛みの発生源たる利き手を差し出した。
 ぱっくり割れた皮膚は、台所で小夜左文字が確認した時のままだ。痛々しい様相を呈しており、薬研藤四郎の眉も自然真ん中に寄った。
「こいつは酷えな。よしよし、今すぐ治してやるからな」
 ここまで酷いと、思っていなかったようだ。しかし顰め面はすぐに綻び、どこかウキウキした表情に切り替わった。
 新鮮な実験台を得て、嬉しそうだ。もしや判断を誤ったかと心配になって、小夜左文字は息を潜めた。
「よろしく頼む」
 だが顔に出しては、歌仙兼定の決意を挫くことになりかねない。
 ようやく治療を受ける気になった彼の意思を尊重すべく、短刀は背筋を這う嫌な感覚を振り払った。
 薬研藤四郎は軽く頭を下げられたのに破顔一笑して、瓶の蓋を置き、入れ替わりに取った小筆をそこに差し入れた。
 中の液体でほんの少し湿らせて、余分は瓶の縁でこそぎ落とした。雫が垂れないのを確認して引き抜いて、そうっと、中空に据えられた大きな手へと運んだ。
「沁みると思うが、我慢してくれよ」
 先ほどと同じ警告を繰り返し、赤黒く染まった傷口へ筆の先を落とす。
「ああ。多少の痛みは、覚悟のう――っ?」
 生真面目に返事した男は、最後まで言い切ることなく悶絶した。
 この状態で水仕事を難なく、とは言えないまでも、ひと通りやり遂げた男が、だ。
 それがたった一度、軽く表面を撫でられただけで絶叫した。声にならない声を響かせ、肘から床に倒れ込んだ。
 仰け反って起き上がろうと試みるけれど、立てず、崩れ落ちたまま。そのまま右肩を下にして転がって、背中を丸め、右手首を左手で押さえ付けた。
「く、うっ……うあ、あが、はっ」
「歌仙!」
 口からは苦悶の声が多数漏れ、聞いているだけで背筋が粟立った。
 いったい何が起きているのか分からなくて、小夜左文字は蒼白になり、足元で悶える男に詰め寄った。
「歌仙、どうしたんですか。しっかりしてください」
 新たな痛みに耐えてか、歌仙兼定の表情は険しい。額には大量の汗が滲んで、言葉を発するのさえ容易でない様子だった。
 奥歯を強く噛み締めて、前歯から漏れるのは呻き声ばかり。呼吸の間隔は平時の半分ほどまで狭まって、吐き出される熱は火傷しそうなほどだった。
 この反応は、尋常ではない。
 ろくに返事も出来ない打刀に騒然となって、小夜左文字は元凶を探ってハッとなった。
「薬研!」
 薬だと言ったのに、毒を盛られたのではないか。
 おおよそ有り得ない苦しみ方を目の当たりにして、頭に血が上り、冷静さは失われていた。
 激情のまま怒鳴りつけ、薬研藤四郎に掴みかかる。
「おっと。心配すんなって」
 それをひょい、と躱して、白衣の少年は呵々と笑った。
 この状況でどうしてそんな顔が出来るのか、小夜左文字には分からない。
 仲間だと信じていた相手に裏切られて、己の軽率さが憎らしかった。
「おさ、よ……」
「歌仙。歌仙、大丈夫ですか」
 このままだとその辺にある小刀を手に、薬研藤四郎に斬りかかりかねない。
 その雰囲気を嗅ぎ取って、歌仙兼定は掠れる声で名を呼んで、懸命に自身を奮い立たせた。
 生々しい色を露わにした傷口に、謎の液体が染み込んだ瞬間、猛烈な熱さに襲われた。
 痛い、というよりは、熱い。傷ついた箇所どころか身体全体が痺れて、骨から、肉から、どろどろに溶けてしまいそうだった。
 指先は麻痺して動かず、飲みこんだ唾は極端なほどに苦い。肺が圧迫されて呼吸がままならず、脂汗が止まらなかった。
「この、程度……どう、と。いう、ことは」
 それでも強がって、虚勢を張った。時間遡行軍に串刺し寸前に追い込まれた時よりはまだ楽と、過去に負った怪我の数々を引き合いに出した。
 あの時も、痛みより先に熱が来た。実際は炎などどこにもなかったのに、内側から焼かれるような感覚に襲われた。
 それを思えば、指の一本や二本で喘ぐのは情けない。
 武人としての矜持を焚きつけて吠えた彼に、短刀たちはそれぞれ別の表情を浮かべた。
「おっ、やるねえ。んじゃ残りの傷にも」
「薬研。それ、本当に薬なんですか」
 片方は遣り甲斐を感じて興奮し、片方は不安と恐怖に呑まれて真っ青だった。
 小夜左文字の早口の問いかけに、薬研藤四郎は自信満々に頷いた。まだ沢山残っている小瓶を揺らして、得意げに胸を張った。
「言ったろ。ちいっと沁みるが、効果は保証するってよ」
「ちょっと、どころではないです」
 身じろぐが起き上がれない打刀を庇い、小夜左文字は捲し立てた。背中に歌仙兼定を隠して、薬研藤四郎の接近を妨害した。
 怒りを露わにして、眼光は鋭い。もし視線だけで相手を射殺せるなら、眼鏡の少年はとっくに極楽へと旅立っているだろう。
 それくらい強い眼差しを浴びてもなお、薬研藤四郎は平然としていた。捕まえた蛙にいたずらするくらいの面持ちで、薬剤を染み込ませた筆を短刀に突き付けた。
「良薬は口に苦し、って言うだろ?」
 そこを退くよう促して、不遜に言い放つ。
「それは、飲み薬じゃないです」
 対抗して言い返した小夜左文字は、後ろから肩を掴まれてビクッとなった。
 ぐっと潰すように力を加えられて、心臓が口から出そうになった。前にばかり意識が行って、肝心の打刀への注意が疎かになっていた。
 油断していたので、驚いた。
 悶え苦しむ男が起き上がれるわけがないと、心のどこかで慢心していた。それを痛感して、少年は土気色になっている歌仙兼定に総毛立った。
「歌仙、休んでいてください。今、洗い流す水を」
「大事ないよ、お小夜。本当に。これくらいのこと」
 どうにか座り直したものの、そこから動けずにいる姿に涙が出そうになった。
 鼻を啜り、口から息を吐いて、外へ駆け出そうとした短刀を、打刀が噛み締めるように言って引き留めた。
 声を出すだけでも辛いだろうに、気丈に振る舞うのを止めようとしない。意地になっているのが傍目にも明らかで、小夜左文字は嫌々と首を振った。
「かせん」
 だがどれだけ言っても、打刀に声は届かない。
 覚悟を決めた男の顔に頷いて、薬研藤四郎は忘れていたと薬効を述べた。
「説明が遅れたが、これは体細胞を活性化させる効果がある。簡単に言えば、旦那の傷のところだけ、手入れ部屋に入ったみたいに時間が早送りになってんだ。んで、細胞が分裂するときには熱が生じる。運動したら身体が温まるのと、似たようなもんだな」
 小夜左文字にはぴんと来なかったが、歌仙兼定には思い当たる節があった。今も止まない汗を左手首で拭って、深く息を吐き、引き千切られそうな痛みに歯を食い縛った。
「まったく。手荒い治療、痛み入るよ」
「助かったぜ。弟たちで試すわけにはいかないからな」
 丹田に力を籠め、指先の感覚を意識から切り離した。
 己の身体の一部でありながら、別世界の別の存在だと認識させて、苦痛から逃れようと足掻いた。
 こんなに沁みるもの、泣き虫な短刀たちには使えない。今後これが実用化されるとしたら、もっと刺激が弱くなっているだろう。
 その分、効きが悪くなっているかもしれない。
 自分は幸運だったのか、不運だったのかと考えて、歌仙兼定は意味がないと首を振った。
「お小夜でなくて良かった」
 薬研藤四郎は薬効だけを追い求め、他は後回しにした。これを最初に試されるのが、他ならぬ自分で良かった。
 なにかと怪我が多いそこの短刀が、この凶悪な熱を体感せずに済んだのは、僥倖だ。そう思うことで己を慰めて、打刀は中指に圧し掛かった激痛に鼻息を荒くした。
 首を竦めて丸くなり、ぴくりとも動かない。
「歌仙?」
 まさか気を失ったのかと急いた短刀は、台所で見たよりも色が鮮明になった彼の傷口に眉を顰めた。
 本丸の医療担当の解説は、半分も理解出来なかった。
 あそこまで自信満々に豪語したのだから、明日の朝に傷が治っていなかったら、どうしてくれよう。
 その時は必ず復讐すると決めて、自信ありげな短刀を睨みつける。
「つうっ、く……ああ。これも、痛みに、耐える訓練だと、思えば」
 肘が擦れ合う近さにいた打刀は殺意を剥き出しにする昔馴染みに苦笑して、大粒の汗を顎に垂らし、負け惜しみを言って笑った。
 最後は気合いと根性で、耐え抜くつもりでいるらしい。精神論を持ち出された短刀は呆れかえり、ぴくぴくとひきつけを起こしている男の手に手を重ねた。
 患部には直接触れず、甲から手首までの一帯を撫でた。
 ゆっくり、優しく、慎重に。
 男が感じている痛みの一部でも引き受けようと、何十回となく繰り返した。
 出来れば代わってやりたいと願うが、叶わないのは最初から分かっている。こんなことをされても嬉しくないだろうと思いつつも、じっとしていられなかった。
 これくらいしかしてやれないのが悔しくて、やっているうちに虚しくなった。
「お小夜」
 それでも必死に我慢していたら、頭上から感極まった声が降って来た。
「歌仙、どうですか。具合は」
 名前を呼ばれ、間髪入れずに顔を上げた。
 土気色だった肌は、僅かながら血の気が戻っていた。流れる汗は相変わらずだけれど、険しかった表情は幾分緩んでいた。
 呼吸も僅かながら落ち着いており、それを証拠に、歌仙兼定はホッとした様子で微笑んだ。
「大事ないよ」
 本音を言えば傷だらけの手を握り締めてやりたかったけれど、怪我の悪化を懸念して、できなかった。
 薬研藤四郎お手製の薬に触れるのも、正直なところ、避けたかった。
 歌仙兼定にはやらせておいて、自分は臆病だ。戦うのは怖くない、傷つけられようとも気にしないと常から言っておきながら、目の前でのた打ち回られるのを見ると、心が竦んだ。
 打刀を実験台に使われて腹を立てているのに、それが自分でなかったのにほっとしている。
 なんと卑怯なのかと打ちのめされていた時に、優しく言われた。
「ありがとう。随分、楽になった」
「僕は、なにも」
 瞬時に否定して、小夜左文字はかぶりを振った。
 撫でる手の動きが止まった。その手の甲に左手を重ねて、歌仙兼定は表面を愛おしげになぞった。
 骨の隆起を擽り、窪みを爪で軽く削って、小指の爪を弄った。本物かと疑いたくなるような大きさしかないそれを包んで、自身の指を隣に並べ、比較して笑った。
「いいや。充分だよ」
 一時期に比べ、薬剤に起因する痛みは弱まっていた。
 罅割れの痛みを遥かに上回ってくれたので、元の痛みは恐ろしく軽く感じられた。ちょっとでも曲げようとしたらズキン、と電流が全身を駆け巡るが、骨と肉がどろどろに溶けていく幻はもう見えなかった。
 痛む部位を意識から切り離そうとしたが、無駄だった。傷ついているとしても己の一部分だ、否定出来るわけがなかった。
 そこに救いの手が差し伸べられた。
 ただ痛い、という認識しかなかった場所を何度も、何度も撫でられた。一極集中していた激痛がこれにより拡散して、体内だけでなく、空気中に流れていった。
 ひとりでじっと耐えているより、ずっと楽になれた。
 薬が与えてくる刺激に慣れた、という面は否定しないが、それが全てとは思えなかった。
 汗ばんだ肌には、髪が絡みついていた。それを払い除けてやって、小夜左文字は訝しげに打刀を見詰め返した。
「どんな感じだ?」
「出陣時に携帯しないことをおすすめするね」
 薬研藤四郎に感想を求められ、軽口で応じるだけの気力も復活した。
 真剣な面持ちで告げられた少年は一瞬惚けた後、成る程と頷いて腹を抱え込んだ。
 役目を終えた小瓶に蓋をして、聞き取った情報を書き記した紙を貼り付けた。改良すべき点がまだまだ多すぎると反省して、感謝を込めて頭を下げた。
「治らなかったら、復讐します」
「その必要はないって、信じてるぜ」
 ただし薬効についてだけは、彼は最後まで自信を失わなかった。
 きっぱり断言して、傷口に息を吹きかけている打刀を見る。その直後に睨んでくる短刀に視線を移して、相好を崩した。
「なんてったって、一番の特効薬がそこにあるわけだしな」
「……?」
 白い歯を見せながら告げて、薬研藤四郎は今一度、歌仙兼定を見た。
 小夜左文字が不思議そうにする中で、藤色の髪の打刀は顔を赤くして余所を向いた。

水上に水や氷や結ぶらん 繰るとも見えぬ滝の白糸
山家集 冬 555
2018/12/24 脱稿

長き眠りの 夢も覚べき

 水の上に立っていた。
 踵を揃え、爪先立ちだった。不安定な体勢であるのに、微動だにしなかった。
 不可思議な感覚だった。ふわふわしているのに、妙に安定感がある。ああ、これは夢かも知れないと、朧気な意識の片隅で考えた。
 宙に浮かんでいるようだったが、足元には一定間隔で水紋が広がっている。矢張り水の上、と表現するのが、最も的確なように思われた。
 あり得ない現実に、戸惑いは否めなかった。
 しかし慌てふためこうという気にもならない。変な話だが、これはこれ、とすんなり受け止めて、受け入れてしまっていた。
 ともすれば簡単に倒れ、水底へ沈んでしまいそうな状況だ。だのに小夜左文字は落ち着いて、果てが見えない水面をただじっと見詰め続けた。
 動こうという気すら起きなかった。
 どこかへ行きたい、逃げ出したいという衝動も産まれない。足に根が生えたようだ。それに下手に動けば、簡単に溺れてしまえる。教えてくれる存在はなかったが、本能がそう警句を発していた。
 水辺に生える葦のようにじっとして、瞬きすらしない。
 永遠に感じられ、或いは一瞬だったかもしれない時間が過ぎた。
 いつまでこうしていれば良いのか、何百回と繰り返し考えた頃だった。
 ぽこ。
 遙か先の水面で、小さな泡が弾けた。
 ぽこ。
 ぽこ、ぽこ。
 ぽこ、ぽこ、ぽこ。
 続けて三つ、更にまたいくつもの泡が、立て続けに爆ぜた。
 なにかしらの変化が起きていた。きっかけは分からないが、兎も角状況が変わろうとしていた。
 それでも小夜左文字は、ぴくりとも動かなかった。呆けているようで、集中している風でもある眼差しを、無数に現れては消える水泡に向け続けた。
 泡は段々大きくなり、短刀の拳ほどの大きさになった。沸騰する湯を連想させて、水面が盛り上がっていくようだった。
 そして不意に、ぷつりと途切れた。
 水面全体が波打ち、跳ね飛ばされそうになる危機は一瞬のうちに掻き消えた。
 残ったのは葦の葉と化した少年と、美しく咲く一輪の花だった。
 水面から若緑色の茎を伸ばし、白から薄紅へと変化する花弁を抱いていた。何枚も重なり合った花びらは雫の形をして、外側からゆっくり開かれようとしていた。
 蓮だ。
 泥の中で健気に育ち、水面下に広がる穢れから今まさに、解き放たれたのだ。
 太古の人はこの花を、極楽浄土から零れ落ちたものだと信じた。
 まさにその通りと思える美しさで、蓮の蕾は綻びようとしていた。
 小夜左文字は息を呑んだ。
 これほどに美しい花を、初めて見た。是非とも手に取って、間近で眺めたいと強く願った。
 しかし彼の足場は、非常に不安定だ。たった一歩を踏み出すだけでも、この体躯はずぷずぷと泥と穢れに満ちた水底目指して沈んでいくだろう。
 今こうして水上に佇んでいられるのは、奇跡に等しいことだ。
 なぜなら彼は付喪神、それも復讐の為に振るわれた血濡れた刀なのだから。
 その刀身は青く冴えた輝きを放ちながらも、赤い血で汚れていた。温かな体躯を貫き、数多の命を奪ってきた呪われた短刀だった。
 損な彼がどうして、あのような浄土を彩る花に手を伸ばせようか。
 けれど、欲しい。是が非でも、喉から手が出るほどに欲していた。
 あの花が手に入れば、きっと掬われる。根拠もなく、そう信じた。
 蓮の花の可憐さと、清廉さは、彼が引き連れる黒い澱みにとっても救いとなるはずだ。こびりつき、腐る傍から積み重なっていく罪や穢れを打ち払い、綺麗さっぱり浄化してくれるものと期待した。
 だが小夜左文字の背丈では、どれだけ頑張っても手が届かない。
 水底に沈むのを覚悟で飛び出して行くより他に、術がなかった。
 但しこの身体が沈みきる前に、蓮の花まで辿り着ける保証はない。可能性は五分五分どころか、距離的にほぼ不可能だった。
 されど試してもいないのに、どうして出来ないと言い切れるのか。
 もしかしたら、恐れているようなことにならないかもしれない。
 出した足が沈むかどうかすら、彼は確かめてもいないのだ。
 なにを怯える必要がある。
 こうやって恐れを抱き、身動きが取れないでいるうちに、花が枯れてしまうかもしれない。
 いつ終わるとも知れない孤独を耐え忍び続けるのと、どちらが良いか。
 耳元で悪魔が囁いていた。
 救われたければ、行動するしかない。だが選び取った道が正しく、望んだ結果通りになるとは限らなかった。
 このままじっとしていれば、少なくとも水中に没することはない。
 しかし時間は、刻々と過ぎて行く。満開を迎えた花が萎み、潰えてしまうまでの猶予はさほど残されていなかった。
 決断の時が迫っていた。
 蓮の花は紅色を濃くし、まさに今、盛りを迎えていた。
 そして程なくして、最初に開いた外側の花弁が端からじわじわと茶色く変色し始めた。 少しずつ内側に侵食し、鮮やかだった色が崩れていく。艶やかだった表面に細かな皺が走り、縮み、上を向いていたものがだらりと垂れ下がった。
 はらりと一枚、水面に落ちた。
 隠れていた中央のはちすが、次第に露わになっていく。だがその上に、菩薩の姿は無かった。
 誰も小夜左文字を迎えに来ない。来てくれない。
 だったら自分で行くしかない。
 けれど無事に行き着ける保証はない。
 迷えば迷うほど、蓮の花は朽ちていく。もう残り時間は長くなかった。
 胸が締めつけられるように痛んだ。息苦しくて、助けを求めて手を伸ばした。
「うう――」
 喉の奥で喘ぎ、空を掻き毟る。
 力任せに虚空を握り締めた彼は、斜めから差し込む明るい日差しに絶句し、目を瞬かせた。
 水上に佇んでいたはずが、背中に固い感触を覚えた。
 重力を感じた。だがそれだけでは終わらない。
「ぐへへ、うへ。むにゃ、……もう食べられない……」
「ううー……うぅん……」
 そこかしこから暢気な寝言や、苦しそうな呻き声が聞こえた。大柄な太刀に潰された秋田藤四郎の桃色頭を間近に見付けて、小夜左文字はぽかんとした後、嗚呼、と深くため息を吐いた。
 胸が苦しかったのは、他でもない。物理的に、ちゃんとした理由があった。
「重い」
 寝相の悪さに定評がある太鼓鐘貞宗の左脚を退かせ、彼は寝癖が酷い頭をボリボリ掻いた。
 息を吸えば、酒の臭いが鼻腔を焼いた。ほかにも何十種類もの食べ物の香りが混じり合い、なかなかの混迷ぶりだった。
 大広間に、布団などなかった。何十振りもの刀剣男士が思い思いに雑魚寝して、高鼾の真っ最中だった。
 昨晩の酒宴の盛り上がりようを伝えるかのように、あちこちに食べ物の残骸や、空の酒瓶が転がっている。足の踏み場もないとは、まさにこのことだった。
「はは……」
 一晩明けての惨状に、小夜左文字はたまらず頬を引き攣らせた。
 笑い事ではないが、笑うよりほかにない。
 後片付けが大変だ。酒焼けでひりひりする喉に唾液を送り込んで、彼はもそもそ起き上がった。
 新しい仲間が増えた翌日はいつもこうだが、今回は前にも増して酷い有様だ。
 普段は勧められても断り、一滴も酒を飲もうとしないへし切長谷部までもが、日本号の隣で酔い潰れていた。
 大きな槍に背中から抱きしめられて、悪夢でも見ているのか顰め面で眠っていた。もしかしたら渋面の原因は、日本号ではなく、彼の腹に蹴りを入れる格好で大の字になっている宗三左文字かもしれなかった。
 甘酒断ちを成功させた不動行光に、薬研藤四郎の寝姿も近くにあった。
 獅子王の鵺に半分埋もれる格好で、五虎退と日向正宗が丸くなっている。大典田光世が壁により掛かって舟を漕ぎ、その膝の上で前田藤四郎がすやすや寝息を立てていた。背高の太刀の横には鶯丸がいて、こちらは平野藤四郎を膝に抱いていた。
 大包平と鶯丸の間には、誰かいたであろう隙間が残されていた。
 昨夜の記憶が確かなら、声が大きい赤髪の太刀は異様な程に数珠丸恒次に絡んでいた。
 酒は飲まないと言い張る男を、どうにかして酔わせようと躍起になっていた。何十回と同じやり取りが繰り返されて、その度に鶯丸が愉快だと腹を抱えて笑っていた。
 その酒癖悪い男に絡まれていた天下五剣の一振りが、どこにも見当たらない。
 大半が眠ってしまった後にでも、部屋に戻ったのだろうか。
 飲酒や、過度に賑やかな場を嫌う江雪左文字も、座敷にいなかった。後は石切丸に、太郎太刀といった神刀たちの姿もなかった。
 もっとも次郎太刀は別だ。派手な身なりの大太刀は、座敷の中央に近い場所に陣取り、瓢箪形の徳利を抱いて眠っていた。頬はまだ赤みを帯びており、寝顔は至って上機嫌だった。
「昼まで、起きそうにないね」
 ごごご、と地鳴りのような鼾を掻いているのはソハヤノツルキだった。
 大の字になって横になり、かなりの面積を占領していた。その両手両足を枕にして、粟田口の短刀たちが各自楽な姿勢で転がっていた。
 包丁藤四郎に、信濃藤四郎、後藤藤四郎らの姿まである。
 藤四郎たちが飲み会に参加するのを、一期一振はあまり好ましく思っていない。けれど新しく仲間に加わった刀剣男士の歓迎会だけは別で、この時ばかりは無礼講だった。
 そんな粟田口の長兄はといえば、鳴狐の供の狐を抱きしめて、行儀良く仰向けで眠っていた。
 今となっては珍しくない光景だが、どことなく新鮮だった。
「おやあ、お目覚めかい?」
「うわっ」
 個性豊かな寝姿の観察に夢中で、油断していたところを話しかけられた。
 不意打ちを食らった小夜左文字はビクッと肩を竦めて、勢い良く振り返った。
 些か仰々しい彼の行動に、呵々と笑ったのは大般若長光だ。灰鼠色の長い髪を掻き上げて、長船派の太刀はしっとりと微笑んだ。
「おは、よう……ございます」
「ああ、おはよう。それじゃあ俺は、もうちょっと寝ることにするか。おやすみぃ」
「え? あ、はい。おやすみなさい……」
 この刀派固有の特徴なのか、妙に色気を含んだ仕草ながら、発せられた言葉は外見にそぐわない。
 語尾を伸ばしながら仰向けに倒れ込み、瞬く間に寝息を立てる。あまりの素早さに小夜左文字は唖然となった。
 あまり話したことがない太刀で、どう反応して良いか分からなかった。見えない何かを押しつけられた気がしたが、それが具体的になんなのか、さっぱり見当が付かなかった。
 胸に手を当てて首を捻り、しばらく待つが大般若長光は動かない。
 本当に眠ってしまったのだと首肯して、短刀は首の後ろを掻いた。
「ふあ、あ……」
 眠る仲間を見ていたら、欠伸が出た。
 睡魔に襲われたわけではないけれど、雰囲気に釣られた格好だった。
「どうしようか」
 外はもう明るいが、日の出からさほど時間が経っている風には見えなかった。
 座敷に姿がない刀も、それなりの数に上った。いったい誰がいないのか、探るのは謎かけを解く気分だった。
 背筋を伸ばし、小夜左文字は一瞬悩んで立ち上がった。
 太鼓鐘貞宗の臑を蹴って遠ざけて、捲れ上がっていた着物の裾を整えていた時だった。
「ああ、もう! やっぱり! 大般若君ってば。朝ご飯の支度があるから早起きしてって、僕、昨日ちゃんと言ったよね?」
 ドスドスドス、と勇ましい足音が響いたかと思えば、開けっぱなしの障子を越えて声が飛んできた。
 勢いつけすぎた燭台切光忠が廊下をすい、と滑って通り過ぎていく。そうして柱の向こう側に大きな身体が半分隠れたところで、蟹歩きで戻ってきた。
 敷居の手前で立ち止まって、隻眼を大きく見開いた。一瞬固まった後、額に手をやり、惨憺たる有様を前にしてがっくり肩を落とした。
「ああ」
 先ほどの違和感の正体が判明した。
 大般若長光に厄介ごとを押しつけられたという感覚は、間違いではなかった。
 一度起きた太刀は、たまたま目が合った短刀に全てを押しつけて、二度寝に入ってしまった。明確な言葉を用いなかったので小夜左文字は戸惑ったが、当の太刀はそれで伝わったと信じ切っていた。
 もっとも今やって来た燭台切光忠が、その事を知るはずがない。
 ここで黙ってやり過ごしておけば、短刀は食事当番など引き受けていない、としらを切るのも可能だった。
「朝早いんだから、飲み明かすのもほどほどにって、あれだけ言ったよね。言ったよね?」
 隻眼の太刀は死屍累々の座敷に入ると、大股で目当ての男に近付いた。そこに小夜左文字がいると気付いているのか、いないのか、兎も角大般若長光の胸倉を掴み、力技で起こそうと激しく揺り動かした。
 しかし今し方眠りに就いたばかりの太刀は、めぼしい反応を示さなかった。
 最初は狸寝入りを疑ったが、それにしては力の抜け具合が見事だ。頬を交互に打たれても、顔を顰めこそすれ、抵抗する素振りは一切見られなかった。
 もしこれが演技だとするなら、どんな激しい世間の荒波も、易々と乗り越えられるだろう。
 器用極まりない男を羨んで、小夜左文字はそうっと一歩を踏み出した。
 隙間を見付けて左右に渡りながら進み、必死の形相の男に忍び寄る。
 これだけ大騒ぎしているのに、大般若長光どころか、多くの刀剣男士がまるで目を覚まさない。
 中にはそれっぽい雰囲気を漂わせている刀もあったが、面倒事を引き受けたくないと、黙って息を潜めていた。
「僕が、やります。代わりに」
 だから小夜左文字がそう告げた時、ホッとした刀は多かっただろう。
 左手を胸に添えた短刀の申し出に、燭台切光忠は掴んでいた男の衿元をぱっと手放した。
「うっ」
 もれなくゴンッ、と後頭部を打った男が小さく呻いたが、些細なことと聞き流された。
「小夜ちゃん」
「時間、ないでしょう?」
 突然の申し出に唖然とする太刀に目を細め、小夜左文字は背中で両手を結んだ。踵を上げたり、下げたりしながら座敷全体を見回して、最後に首を左に倒した。
 自分達の朝食の用意だというのに、誰一振りとして自ら手を挙げて、動き出そうとしない。
 二日酔いで頭が痛いだとか、雑魚寝だったので身体が怠いだとか。叩き起こしたところで、そういう言い訳に終始されるのは目に見えていた。
 だったら眠気から解放された短刀が台所に立つ方が、寝起きの刀より余程役に立つ。
 燭台切光忠は昨夜の新入り歓迎会も、皆の為に裏方に徹していた。そんな尊い刀に対する感謝の心が足りていないと、短刀はひっそり溜め息を零した。
 ただ一振り、協力を申し出た少年に、黒髪の太刀はあんぐり開けていた口を閉じた。
 四方に散っていた意識を集約させて、唇を引き結んだ。一瞬の間に色々な事を考えたらしく、きりっと表情を引き締めて、浅く頷き、嬉しそうに相好を崩した。
「ありがとう、嬉しいよ」
「いえ」
「けど、大丈夫。当番は、当番だから。――そういうわけで、大般若君。起きてるよねえ~~?」
 ホッとひと息吐いて、爽やかな笑顔のまま寝こける男の髪の毛をむんず、と鷲掴みにした。
「ぎゃあ、やめろ。やめて。止めて下さい。お願いしま……痛い。痛い、やめて。剥げる。助け……いたたたた、やめて。剥げちゃうから!」
 親切心から申し出た短刀に礼を言ったかと思えば、力技で太刀を吊り上げた。艶やかで美しい髪が全部引っこ抜けても構わない、という勢いで引っ張って、寝たふりを続行していた男を無理矢理叩き起こした。
 容赦のない攻撃に、大般若長光もさすがに誤魔化しきれなかった。
 背後でザワッと空気が震えた。
 見せしめの如く連れ去られた男に同情し、次は自分かと恐れおののく刀たちを見回して、小夜左文字は苦笑を禁じ得なかった。
 声もなくざわめいている刀たちに視線を投げれば、たちまち部屋は静かになった。
 なんとも分かり易い反応に肩を竦めて、彼は一振り分空いた隙間を伝い、座敷を出た。
 大半の刀剣男士が屍の如く横になっている中でも、きちんと起きて活動している刀は、少なからず存在した。
 小烏丸が鶏を小屋から出し、餌をやっていた。物吉貞宗と堀川国広が大量の洗濯物を抱え、洗い場に向かって歩いていた。
 食事当番は、燭台切光忠と大般若長光だけではない。調理が進んでいるのか、微かに甘い匂いが鼻腔を楽しませた。
「顔を洗うのが、先、かな」
 どこへ行こうか迷って、小夜左文字は何気なく頬を擦った。
 かなり薄くなっているけれど、畳の跡が残っていた。触れるとざらざらして、お世辞にも清潔とは言い難かった。
 無精髭が生えていないだけ、まだ見苦しくないと思いたい。
 つるりとしている顎を無意識になぞって、彼は素足のまま庭に降りた。
 井戸で水を汲み、指先が凍えそうになるのを堪え、雑に顔を洗った。垂れる雫は袖に吸わせて、濡れた手で軽く髪を梳き、整えた。
 口も漱ぎ、最後に喉を潤した。余った分は地面にぶちまけようと考えたが、水の気配を察した五虎退のトラが躙り寄ってきたので、そちらに桶ごと譲り渡した。
 すっかり大きく育った虎は、見た目の厳つさに反して大人しい。
 ただ爪は鋭く、牙は太かった。なにかあってからでは遅いと、小夜左文字は極力近付かないようにしていた。
 黒い淀みの影響を受け、暴れられては困る。
 警戒心を残している虎から距離を取り、足の裏を軽く払って、屋敷へと戻った。
 座敷に寝転がる刀は、相変わらずの様相だった。
 けれど何振りか、いたはずの刀が見当たらない。
 幾分増えた隙間を数え、答え合わせをするのは難しそうだった。
「そういえば、歌仙も」
 酒は嗜むものであり、溺れるものではない。
 派手な酒宴を嫌っている知り合いの刀を思い出して、小夜小夜文字は左右を見回した。
 乾杯の時にはいたのに、今は影も形もなかった。早い時間帯に引き上げたらしく、存在した気配自体が嗅ぎ取れなかった。
 どこか別場所で静かに飲み直していたのかもしれないが、誘われていない。
 前回は誘ってもらえたのに、今回はなかった。急に思い出して、小柄な短刀は拗ねて頬を膨らませた。
「どうせ。べつに……」
 空を蹴り、踵を返した。酒は残っていないはずだが、なぜか真っ直ぐ進めなくて、千鳥足で台所を目指した。
 覗いた水屋に、長船の太刀らの姿は無かった。
 渋る大般若長光を説得して、着替えに連れていったのだろう。そのうち現れると勝手に納得して、彼は入り口に背を向けて立つ男に忍び寄った。
 調子良く包丁を扱い、目の前の事に集中して、振り返らない。
「歌仙」
「んー?」
 話しかけても、トントントン、と小気味よい包丁の音は続いた。
 味噌汁の具にするのか、大根を刻む手を休めてくれない。生返事ひとつで終わらせた打刀は、声の主が誰なのか、把握すら出来ていない様子だった。
 いつもなら瞬時に反応するのに、料理に意識が奪われていた。
 それもまた、面白く無い。
 むすっと頬を膨らませて、小夜左文字は男の無防備な臑を蹴り飛ばすべく、右足を後ろに引いた。
 だが実際に、攻撃するところまでは至らなかった。不意打ちに驚いた刀が包丁を投げ飛ばしでもしたら、短刀自身も危険だった。
 痛がる打刀の妄想で溜飲を下げて、真後ろから左斜め後ろへと居場所を移す。
「おや、お小夜だったのか」
「おはようございます」
「ああ、おはよう。よく眠れたかい?」
 それでやっと小夜左文字を認識した男が、ふんわりとした笑顔を浮かべた。屈託のない表情で頷いて、ほんの少しだけ首を右に泳がせた。
 その間も、彼の手は止まらない。視線もすぐに戻して、山盛りの大根を俎板から笊へ移し替えた。
 火の番をしていたのは、大倶利伽羅だった。竈の前に座り込んでいた青年は、一瞬だけ小夜左文字を見て、ぐつぐつ言っている釜に身体を向け直した。
 静かだったので、存在に気付くのが遅れた。
 それがなんだか気恥ずかしくて、短刀は無意識に打刀の袴を掴み取った。
「雑魚寝でしたので」
「雅じゃないね」
「……お蔭で変な夢を見ました」
「夢?」
 ゆとりのある袴を身に着けている男は、衣服を引っ張られていると気付いていないようだった。
 俯いた少年の返答に呆れた風に呟いて、続けられた言葉には眉を顰めた。
 ここでやっと短刀の指の位置を把握して、眇めた視線を脇へ流した。
「どんな?」
 合いの手に悩んでいる素振りを嗅ぎ取って、小夜左文字は顔を上げた。訊いて良いか、迷った上での問いかけと理解して、彼は声を潜めた打刀に苦笑した。
 気を遣われた。
 大倶利伽羅に、そして準備を終えてやって来た長船の刀たちに聞かれないようにとの、最大限の譲歩だった。
 優しいのか、そうでないのか、分からない。
 喉の奥でクツクツ音を鳴らして、小夜左文字は打刀の後ろに続き、ぐらぐら煮える鍋の前へ移動した。
「歌仙は、どうしても欲しいのに、手が届かなくて。見ているしかないものがあったら、どうしますか?」
「うん?」
 沸騰する湯から、白い湯気が何本も立ち上がっていた。
 忙しく支度する仲間達を邪魔しないよう、つかず離れずの距離を保ちながら、逆に問いかける。
 淡々とした口調だったので、歌仙兼定はそれが質問だと理解するのに時間が掛かったらしい。大根を鍋に流し落とす作業は、中途半端なところでピタリと止まった。
 傾けていた笊を水平にして、菜箸で空中に円を描き、目をぱちくりとさせる。
「どう、って」
「どうしますか?」
 夢の話をしていたはずが、話題がごっそり入れ替わった。
 事情を知らない男には、そう思えたことだろう。畳みかけるように短刀に急かされて、彼は首を捻り、頭上に疑問符を生やした。
 けれど変にはぐらかしたり、逃げたりはしない。
 他の刀が相手だったら、どうかは分からない。その辺りは自分だから、というある種の自負を抱いて、小夜左文字は男の袴を引っ張った。
 歌仙兼定は再び手を動かして、視線を鍋へと戻した。
「そうだねえ」
 小夜左文字は夢の世界で、見事に咲き誇る蓮の花を手に入れられなかった。
 喉から手が出るほど欲していたのに、傍に辿り着くことすら叶わなかった。
 見ているしか出来なかった。
 ただ遠巻きに眺めるしか許されなかった。
「状況がよく分からないけれど、僕としては、それはもう、自分のものになっていると思っていいんじゃないのかな?」
「はい?」
 悔し涙を流し、地団駄を踏むとの回答を予想していた。
 世の理不尽に腹を立て、抗議の声を上げるものと期待した。
 違った。
 まるで予想していなかった、想像と百八十度異なる返答を得て、小夜左文字の声がひっくり返った。
 呆気にとられて目を点にした少年に、鍋をぐるりとかき混ぜた男は、何故か楽しそうに笑った。
「だって、考えてもごらん、お小夜。誰にも邪魔されることなく、己が欲するものと対峙出来ているんだ。その時点でもう、それは君のものになっているよ」
 手に取って触れられるだけが、所有していることなのか。
 手元に置いていたところで、失われるものはいずれ消えてしまうのだ。それをどうして、『手に入れた』と言えるのだろう。
 目に触れた時点で、小夜左文字はそれを心に宿している。
「屁理屈を」
 考えたこともない発言に驚き、目から鱗が落ちた。
 逆立ちしたって導き出せない考えに、思わず悪態を吐いていた。
「ははは」
 歌仙兼定は呵々と声を響かせ、幅広の肩を震わせた。柔らかな眼差しで短刀を見下ろして、花が綻ぶ笑顔を浮かべた。
「さあ、お小夜。手伝ってはくれないか」
 直前の会話などなかったかのように告げて、料理を取り分ける皿の準備をするよう指示を出す。
 今日の食事当番ではない短刀を、当たり前のように顎で使う彼に小さく嘆息して、小夜左文字はきゅっと唇を引き結んだ。
 視線を感じて振り返れば、燭台切光忠が炊き上がった米を櫃に移している最中だった。
 目が合った途端、苦笑いを浮かべられた。盗み聞きしていたのを仕草で謝られて、彼はやれやれと肩を竦めた。
 座敷でどのようなやり取りがあったか、打刀は知るよしもない。
 なんだかんだで手伝うことになった小夜左文字は、やむなしと状況を受け入れた。
 図々しいほどに我が儘で、傲慢だが、それが嫌味にならないところが、歌仙兼定という刀の特徴だ。
 それに今更言ったところで、改まるものではない。
「今日の朝ご飯、何ですか」
「希望があれば、作るよ?」
「じゃあ、……卵焼き」
「分かった。甘いので良いんだね?」
「楽しみです」
 手伝う代わりに要望を出せば、打刀はあっさり承諾した。
 向こうで聞いていた大般若長光が途端に嫌そうな顔をし、忍び足で後退を図った。しかし逃亡は事前に察知され、にこやかな笑顔の燭台切光忠に阻止された。
 大倶利伽羅が無言で、卵を集める用にと編み籠を差し出す。
「さあ、大般若君。遅刻した罰だ。小夜ちゃんの期待に応える為にも、よろしくね」
「聞いてないんだけどなあ~~~?」
 問答無用で面倒事を押しつけられて、長髪の太刀が裏返った悲鳴を上げた。抵抗してじたばた暴れてみるけれど、勿論認められるはずがなかった。
 庭で放し飼いの鶏はとても凶暴で、無傷で卵を回収するのは至難の業だ。
 誰もが避けたがる仕事を押しつけられて、勝手口から出て行く男の背中は朝から哀愁を帯びていた。
 一部始終を見守って、たまらず噴き出しそうになった。口を尖らせ、踏ん張って、小夜左文字は頼まれたことをやり遂げるべく、食器棚へ向かった。

おどろかんと思ふ心のあらばやは 長き眠りの夢も覚べき
山家集 雑 845

2018/11/25 脱稿

月も澄みけり 秋の山里

 息を吸うと、苦いものが鼻の孔を抜けて行った。舌の上にざらっとした感触が生まれた気がして、歌仙兼定は眉目を顰めた。
「なんだ?」
 過去に繰り返し嗅いだ経験のある臭いは、この場に漂っていてはならないものだ。
 ものが焦げ、燃える際に発せられる特有の悪臭。一瞬気のせいかと首を振りかけた彼だけれど、次の呼吸でも問題の臭いは鼻孔を賑わせた。
 不快感が強まって、渋面が一段と厳しくなった。
「まさか」
 同時に嫌な予感を覚え、背中に冷たい汗が伝った。
 ひやりと内蔵が冷える感覚に肩を跳ね上げて、本丸で最古参の打刀は激しく床を踏み鳴らした。
 足踏みを数回繰り返し、左右を見回して、臭いの発生源を探し求める。
「こっちか」
 嗅覚を頼りに進路を定め、言うが速いか駆けだした。荒々しく床を蹴り、自慢の体躯を何度も空中に踊らせた。
 跳ねるように進んで、途中で庭に降りた。沓脱ぎ石の上に放置された、共用の下駄に足指を突っ込んで、転ばないよう注意しつつ先を目指した。
 やがて幾ばくもしないうちに、臭いの根源とも言うべきものが見えた。
 灰色がかった白い煙が、天空を目指してゆらゆら揺れていた。半ばまでは幅広だが、上に行くに従って細くなり、そのうち空の青さに溶けて消えた。
 だがそんな情緒的な風景を楽しんでいる場合ではない。
 最悪の事態を想定して、歌仙兼定は舌打ちした。場所的にそれはなさそうだ、との思いを途中から抱いたが、勢いよく飛び出してきた手前、黙って引き返すのは癪だった。
 せめて状況の確認だけはしよう。
 そんな風に考えて自分を慰めて、彼は乱れた息を整え、肩を数回上下させた。
「鯰尾藤四郎に、骨喰藤四郎、か」
 柴垣を抜けた先に、巨大な銀杏の木があった。特徴的な形状をした葉はどれも鮮やかな黄色に染まり、こうしている間も一枚、また一枚と風に煽られ散っていた。
 そんな立派な銀杏の樹下すぐそばに、脇差がふた振り、座り込んでいた。
 揃って風上に陣取っているので、いささか窮屈そうだ。つま先だけを地面に着け、尻は浮かせての蹲踞の姿勢で、一心にたき火を見つめていた。
「げふっ」
 白い煙越しに見えた彼らに近付こうとした途端、邪魔するかのように弱い風が吹いた。
 瞬く間に大量の煙に包まれた打刀は、咄嗟に顔を背け、袖で口と鼻と目を覆い隠した。
 それでもすべてを防ぎきるのは難しく、喉にイガイガしたものが残った。不味くてならない唾液は飲み込む気になれず、迷うことなく足下に吐き捨てた。
「あれ、歌仙さん。どうしたんですかー?」
 せき込む声が聞こえたのだろう。こちらが声をかける前に、存在に気付かれ、話しかけられた。
 長い枯れ枝を手にした鯰尾藤四郎が、もこもこ立ち上る煙を避けるようにして、身体を左に傾けた。お調子者の風貌で屈託なく笑って、涙目になっている男に首を捻った。
 骨喰藤四郎も兄弟刀に倣おうとしたけれど、たき火の煙を避けきれない。上半身を左右に踊らせ、一応努力はしたものの、すぐに諦めて煙ばかりのたき火に両手を翳した。
 暖が必要なほどの寒さではないけれど、日陰に入ると肌寒くはある。
 季節の移り変わりを受け止めて、歌仙兼定は気を取り直し、背筋を伸ばした。
 すすす、と横歩きで立ち位置を変え、風上へと移動する。
 途中、持ち手の付いた桶が見えた。光を受けて一瞬きらりと輝いたので、水が入っているのは間違いなかった。
 その一杯きりで消火活動が叶うとは思えないが、念のための用意はされていた。
 なんの懸案もなく焚き火を始めたのではないと知れて、説教する気が萎えてしまった。
 それでも初期刀として、聞いておかねばならない。
「許可はもらってあるんだろうね?」
 この本丸の家屋は、ほとんどが木と紙で出来ている。
 大事な資料などは防火対策が施された蔵に収納されているが、居住区はその限りではない。一度火が起こったら、消し去るのは容易ではなかった。
 彼らが焚き火をしていたのは、屋敷から十分離れた、ある程度開けた場所だ。ここなら多少強い風が吹いても、余程でない限り、飛び火することはあるまい。
「はあ~い。長谷部さんには、言ってあります」
「いち兄にも、許しは取った」
「そうかい」
 彼らだって、考えなしに仲間を危険な目に遭わせたりしない。
 確認を取って、歌仙兼定はほっと胸を撫で下ろした。
 早合点したのは恥ずかしいが、後悔はなかった。自分を安心させることは、ひいては本丸全体の安心にも繋がるからだ。
「君たちだけなのかい?」
 不審火や、火の不始末を疑ったが、そうでなかったのは喜ばしい。
 炊事場でしか嗅ぐ機会のない臭いを手で追い払って、打刀はしゃがみ込んでいる少年らに尋ねた。
 粟田口の刀は、数が多い。兄弟仲も十分で、いつも騒々しかった。
 しかし現在、この場には脇差のふた振りしか見当たらない。視線を巡らせてみるが、大勢在る短刀たちの姿はなかった。
 枯れ葉を拾いにいっているのかとも考えたが、乾いた砂の上に散る足跡は多くなかった。
 下駄の歯の跡をなぞって消して、歌仙兼定は返事を待った。
「ええと、はい」
「俺たちだけだ」
 この質問に、別段深い意図はなかった。
 だのに鯰尾藤四郎は妙に歯切れが悪かった。骨喰藤四郎がきっぱり断言したのも引っかかった。
 右の眉を僅かに持ち上げ、打刀は口をへの字に曲げた。不審なものを見る目を脇差らに投げて、胸の前で腕を組ませた。
「珍しいね」
 近くに竹箒がふたつ放置されているが、塵取りやくず入れの類はなかった。
 庭掃除のついでではなく、最初から焚き火をする前提だったというのが、状況から窺い知れた。
 疑念を向けられたと感じたのか、鯰尾藤四郎がさっと目を逸らした。
 それでいよいよ確信を深めて、歌仙兼定は深々とため息をついた。
「なにを隠しているんだい?」
 燃やしたいものがあったのか、それとも別の意図があるのか。
 証拠隠滅を図ったのだとしたら、調べなければならない。
 声を低くし、凄みを利かせた彼の言葉に、藤四郎たちは黙って顔を見合わせた。
 どうしようかと、目と目で会話している。
 兄弟刀としての、彼らの結びつきの強さをこんなところで再確認して、打刀は組んでいた腕を解いた。
 右手は腰に据え、左手は脇に垂らした。
 ぶすぶすと燻る煙に視線を流し、すぐに戻して、眉間の皺を深くする。
 相談が終わったようで、鯰尾藤四郎が踵を下ろして立ち上がった。一方で骨喰藤四郎は預かった枯れ枝を使い、焚き火の底をかき混ぜた。
「すみません、見逃してください」
 一気に煙が大きくなり、風上も、風下も関係なくなった。
 強い刺激臭に、勝手に涙が目尻に浮かぶ。そんな状況下で勢いよく両手を叩き合わせ、鯰尾藤四郎が深々と頭を下げた。
 やはり悪巧みをしていた。
 弟刀たちに知られてはいけないことをしていた。
 兄刀である一期一振や、本丸の政務大半を引き受けているへし切長谷部にも、本当の目的は伝えていないに違いない。
 読みが当たったのを喜び、歌仙兼定は思わず頬を緩めた。
 してやったりと興奮して、腹の底が熱くなりかけた時だ。
「あつっ」
「骨喰!?」
 もうもうと立ちこめる煙を格闘していた骨喰藤四郎が、短い悲鳴を上げた。
 聞こえた声に鯰尾藤四郎が大仰に反応して、打刀への説明も忘れてしゃがみ込んだ。
 先端の焦げた枝を奪い取り、黒ずんでいる軍手の状況を調べて、端から見ているだけでも分かるくらい大袈裟に安堵の息を吐いた。
「びっくりさせるなよ、も~」
「すまない。火の粉が飛んで、驚いただけだ」
 問題ないと知って、今度は過剰な心配が照れくさくなったらしい。
 バシバシ肩を叩いてくる鯰尾藤四郎に微笑んで、骨喰藤四郎は小さく頷いた。
 多少の荒っぽさは、許容範囲内のようだ。特に痛がらず、嫌がりもしない彼に苦笑して、歌仙兼定は肩を竦めた。
「それで?」
 話が途中になっているのは、忘れないでもらいたい。
 釘を刺すつもりで合いの手を挟んだ彼に、黒髪の脇差は嗚呼、と首肯した。
「これ、さしあげますんで。だから弟たちには、秘密にしてくれませんか」
 気を取り直し、鯰尾藤四郎は言った。
 にこやかな笑顔と共に差し出されたのは、真っ黒い塊だった。
 薄い煙を身にまとって、かなり焦げ臭い。直前まで焚き火の中にあっただけあって、相当熱そうだった。
 軍手があれば多少は耐えられるだろうが、素手で引き取るのは躊躇させられた。
 そもそも、こんな消し炭をもらっても困る。
 対応に苦慮して戸惑っていたら、こちらの心を読み解いたのだろう。鯰尾藤四郎が不遜に口角を歪めた。
「ああ、すみません。このままじゃ、分からないか」
 屈託なく言い放ち、彼は伸ばしていた腕を戻した。真っ黒い塊を直接地面に置いて、軍手をした指で表面を数回なぞった。
 外部からの刺激を受け、消し炭にひび割れが走った。その隙間を広げ、時に引き千切って、鯰尾藤四郎は内側に隠れていたものを暴いた。
 見覚えがある形状だった。
 台所を任されている歌仙兼定が、知らない筈がないものだった。
「……そういうことか」
 ここに来て、彼らが弟刀たちを呼ばなかった理由が判明した。
「内緒ですよ」
 悪戯っぽく笑った脇差に頷いて、打刀は脱力したまま苦笑した。
 消し炭の正体は、薩摩芋だった。
 この時期、畑で大量に収穫されるものだ。表面は紫色だが内側は黄色みを伴い、焼いても、蒸しても美味な野菜だ。
 今日も確か、収穫作業が行われているはず。
 朝早くから意気込んでいた短刀たちを思い浮かべて、歌仙兼定は小首を傾げた。
「しばらく置いてからの方が、よかったんじゃないのかい」
 薩摩芋は収穫直後より、少し時期を置いた方が甘くなる。
 この数年のうちに学んだ知識を披露すれば、脇差たちは揃って笑顔になった。
「知ってます」
「これは、俺たちが別で育てていたものだ」
 見た目相応の子供っぽい表情を作り、首を竦めてクスクス音を漏らしながら告げる。
 あら熱をとるべく、鯰尾藤四郎が手のひらで頃がしている薩摩芋を指さして、骨喰藤四郎は得意げだった。
「そんなことまで……」
 広大な敷地を有する本丸の畑以外に、こっそり耕作地をもうけていたらしい。彼らはそこで自分たちだけの作物を育て、収穫を楽しんでいた。
 確かに屋敷の畑で育てたものは、本丸全体の食料になるので、勝手に食べないよう定められていた。
 しかしこの身体は、じっとしていても腹が減るようにできている。つまみ食いをしたくなる日だって、当然あった。
「その向上心、もっと違うところに使ってみてはどうだい?」
「やだなあ。これ以上使い込んだら、時間遡行軍と戦えなくなっちゃいますって」
 けらけら笑って、鯰尾藤四郎が改めて蒸し焼きにした薩摩芋を差し出した。今度はありがたく受け取って、歌仙兼定はじんわり来る熱に頬を緩めた。
「火傷しないでくださいよ」
「あいつらに知られると、うるさい」
「気をつけよう」
 素手で握っていては、本当に火傷してしまう。
 悩んだ末、内番着の袖で包んでから掌に置き、頷いた。食べる場所も考えなければならなくて、なかなかに面倒だと苦笑を漏らした。
 秘密の暴露は、信頼されている証拠。
 責任重大だと目を細め、歌仙兼定は焚き火をいじる脇差らに小さく頭を下げた。
「そうそう、屋敷まで煙が来ていたよ」
「ええー? 風向き計算してたのになあ」
 最後に自分がここへ来た原因を伝えてやり、踵を返した。
 訪問客が増える可能性を示唆された脇差は嫌そうな顔をして、撤収を早めるためか、忙しく手を動かした。
 ふた振りだけでも十分騒々しい彼らに背を向けて、歌仙兼定は屋敷へ戻らずに歩き出した。
「どこか、休めるところはあったかな」
 焼き芋を食べているところを、誰かに見つかるのは避けたかった。
 鯰尾藤四郎たちが秘密にしてきたことを、自分が広めるわけにはいかない。一番は部屋に逃げ込むことだが、生憎と距離が遠すぎた。
 しかも部屋に戻るには、屋敷の中を通らねばならない。熱々の焼き芋を袖に隠したまま進むのは、少々危険だった。
 今のこの状態は、明らかになにか隠し持っています、と言わんばかりだ。
 布で包んでいても伝わってくる熱に目を眇め、打刀はすっかり秋色に染まった景色を眺めた。
「そうだ、あそこにしよう」
 紅や黄色に染まった落葉樹が、日の光を受けてきらきら眩しかった。
 せっかく美味しいものを手に入れたのだから、この雅やかな景色を眺めつつ、食べてみたい。
 それにふさわしい場所を脳裏に思い描いて、彼は下駄の歯で強く地面を叩いた。
 調子よく枯れ葉散る庭を行き、人気のない方角を目指した。
 常緑樹の下を抜け、葉が落ちて裸寸前になっている落葉樹を右に見て、太鼓橋を渡ってその先へ。
「おや」
 この時間、誰も使っていないと見込んで訪ねた茶室には、残念ながら先客があった。
 瓢箪型をした池に面した茶室の雨戸は、閉まっていた。ただし濡れ縁は何にも覆われておらず、室内に入らなくても使用出来た。
 寛ぐには些か手狭ながら、座って休むくらいなら問題ない。
 屋敷の縁側と比較すると奥行きが半分ほどしかないそこに座っていたのは、藍色の髪の少年だった。
 高い位置で結った毛束は根本で左右に割れて、まるで芽吹いたばかりの若葉だ。左目の下に十字の傷があり、反対側の頬には絆創膏が貼られていた。
 敵と相対した時には俄然鋭くなる眼差しは、最初こそ警戒していたものの、接近するのが歌仙兼定だと知った途端に緩んだ。
「歌仙」
「お邪魔だったかな?」
「いえ」
 ほっとしたような、とは言い切れないけれど、機嫌は悪くなさそうだ。
 橋の袂から続く緩い傾斜を登って、ゆっくりと歩み寄る。残り二歩に迫ったところで、小夜左文字は場所を譲ろうと左にずれた。
 西に面した濡れ縁は、この時間帯、とても日当たりが良い。
 屋敷からさほど離れていないはずなのに、間に枝を伸ばす緑の木々が緩衝材になっているようで、一帯は静かだった。
 風が上空を抜ける音がした。
 池の水が跳ねて、鳥の羽ばたきが聞こえた。
「休憩かい」
「はい。夕餉の支度まで、手が空いたので」
 いつからここに座って、流れゆく時を眺めていたのだろう。
 ぼんやり過ごすには最適の空間に首肯して、歌仙兼定は譲られた場所に腰を下ろした。
 迂闊にもこの時、彼は焼き芋のことを忘れていた。
 曲げた膝に両手を添えて、ほっと一息ついたところで、緩んだ袖からはみ出ている芋を思い出した。
「あっ」
「歌仙?」
 心地よい暖かさは、日差しのお陰だと錯覚した。
 そんなわけがなかったと声が上擦ったのを、真横に座る短刀が聞き逃すわけがなかった。
「あ、いや」
「それ、なんですか」
 軽率だったと後悔するが、今から走って逃げるわけにもいかない。
 その方が余程挙動不審だと自戒して、打刀は首を傾げる少年に視線を戻した。
 小夜左文字の目にも、焼き芋の一部は見えていた。しかし男が後生大事に抱き抱えているものが、脇差たちの秘密の詰まった食べ物だとは、思っていない様子だった。
 指を指しつつ、正体を暴こうとあれこれ想像を巡らせている雰囲気がある。
 正直に白状するか、誤魔化すか。
 どちらが良いか悩んで、時間を浪費しているうちに、聡い少年が先に答えに辿り着いた。
「唐芋ですか」
「はは、ははは……」
「歌仙?」
「食べるかい、お小夜。どこで得たものかは、聞かないでおくれ」
 独特な形状に色、そして微かに漂う焼けた芋の甘い匂い。
 これらを総合的に判断して、正解を導き出した。
 さすがは早い時期から台所を手伝い、食べ物の知識を多く有しているだけはある。
 歌仙兼定の手伝いとして活躍の機会が多い短刀に白旗を振って、打刀は潔く焼き芋を手に取った。
 移動している間にかなり冷めてしまって、直接触れてもあまり熱くない。
 一振りで食べるには少々大きかったそれを真ん中で割った彼の言葉に、小夜左文字は緩慢に頷いた。
 断面からもわっと白い湯気が溢れ、瞬く間に消えていった。
 中心まで熱が入り、十分過ぎるほどふっくら焼きあがっているのが、見ているだけで伝わって来た。
 美味しそうだ。
 藤四郎の脇差たちが丹精込めて作ったのが、しっかり感じられた。
「いいんですか、もらっても」
「ああ。このことを、誰にも漏らさないと約束してくれるなら、だけどね」
 右手に持った分を差し出せば、短刀は躊躇した。
 しかし小さな紅葉の手は、受け取りたそうにしているのが見え見えだ。
 隠しきれない本心を嗅ぎ取り、歌仙兼定は相好を崩した。鯰尾藤四郎たちとの約束を守るべく、条件を出せば、小夜左文字は怪訝にしつつも頷いた。
 熱さを警戒してか、慎重に両手を伸ばし、受け取った後は嬉しそうに目尻を下げた。
 これで片手が空になり、食べやすくなった。
 早速一口いただこうとした打刀は、油断していたところに飛び出した次の一言に、盛大に噎せた。
「もしかして、鯰尾藤四郎さんたち、ですか」
「んんっ」
 囓る前で良かったと、心底思わされた。
 ガチンと盛大に鳴った前歯の痛みにも耐え、苦しみを味わいながら前のめりで振り向けば、小夜左文字は明後日の方角を向いていた。
 頬が引き攣り気味なのは、歌仙兼定の反応を見て確信を抱いたからだろう。
 その上で、言わなければ良かったと悔やんでいる。秘密にしておきたかったものを暴いてしまった、という自覚があるのだ。
「どうして、そう思うんだい」
「さっき、焚き火をしているのを見かけたので」
「ああ……」
 念のために理由を聞けば、推測の起点は単純だった。
 焼き芋と来て、焚き火を思い出さない方がおかしい。連想はあまりにも容易だった。
「数がないみたいだったからね」
「全員分ないのは、不公平ですか」
「そういうことだ」
 たださすがの小夜左文字でも、秘密の畑までは知らないはず。
 全容を白状する必要はない。真実ではないが、嘘とも言い切れない理由で誤魔化した打刀を、短刀は疑わなかった。
 小さな罪悪感が芽生えたが、すぐに消えてなくなった。
「いただきます」
 皮をめくった小夜左文字が、大きく口を開け、程良く暖かな焼き芋を頬張った。
 がぶりと噛みつき、柔らかな表面に歯形を残して一部を削り取った。内側はまだ熱さが残っていたらしく、はふはふ言いながら塊を転がして、思い切ってごくりと飲み込んだ。
「おいしい」
 万感の思いを込めての呟きは、紛うことなき本音だ。
 深い息とともに吐き出された一言は、苦労して作物を育てた脇差への、なによりの褒美となるだろう。
「よかった」
 この焼き芋が出来上がるまで、なにひとつ関係してこなかったのに、我が事のように嬉しい。
 粟田口の兄弟刀でもなんでもないのに、なぜか誇らしく感じられた。
「今度、なにか作ってやるとするか」
 芋の礼は、芋で返す。
「すいーとぽてと、というお菓子が美味しいって、燭台切さんが言ってました」
 なにが良いか、焼き芋を食べつつ悩んでいたら、横から思わぬ合いの手が入った。
「なんだい、それは。聞いたことがないな」
 初耳の甘味に、嫌な予感が走った。辿々しい発音から、西洋風の食べ物が想起されて、胸騒ぎを覚えた。
「食べてみたいです」
「……お小夜が、そう言うのなら……」
 しかしなんと言っても、小夜左文字からの催促である。
 自発的な欲求に乏しく、復讐以外では状況に流されがちな少年が、最近は進んで希望を述べるようになった。
 これは喜ばしい変化だ。そこに水を差すような真似は出来ない。
 打刀と同様、台所を根城にしている隻眼の太刀を思い浮かべ、歌仙兼定は苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「楽しみです」
 それが分かっているのか、分かっていないのか、小夜左文字が無邪気に言う。
 ほくほくの焼き芋を無心で食べる少年は、愛おしい。
 その頬にこびりついた欠片を摘んでやって、歌仙兼定も甘い芋に舌鼓を打った。

鹿の音を垣根にこめて聞くのみか 月も澄みけり秋の山里
山家集 秋 302

2018/10/21 脱稿