不撓

 特訓の後は身も心も疲れ果て、まさに満身創痍という言葉がぴったり来る状態になった。
 雲雀も、ラル・ミルチも、容赦が無い。鍛えられているというよりは、いたぶられているという状況の方がよっぽど的確なのではないかと思えるくらいに、ふたりはスパルタだった。
 短い休憩を挟み、ほぼ一日中。雲雀との修行は基礎体力云々をすっ飛ばして、ひたすら綱吉に最も足りない部分――戦闘経験の蓄積を目的に、実戦形式での組み手が主体だった。
 ラル・ミルチとは、イクスグローブとの適応度と、死ぬ気の炎の純度アップを狙っての鍛錬がメイン。
 共通しているのは、弱音を吐く暇さえ与えてもらえない、という事だろうか。
「つ、かれたぁ」
 ふたりの鬼コーチからやっと解放され、夕食前の自由時間に辿り着いて、綱吉はガクリと首を前に折って呟いた。
 全身の筋肉が悲鳴を上げて、一歩進むだけでも激痛が走る。歩くのがやっとで、ここでもし全速力でダッシュしろと言われたら、三歩と行かぬうちに倒れてしまいそうだった。
 ともあれ、今日も無事に生き延びることが出来た。それだけは確かで、素直に喜びたい。今のところ実感は無いけれど、こうやって日々鍛錬に励むことで、少しずつ自分のレベルが上がっていると信じよう。
 壁伝いに進み、時々立ち止まって呼吸を整えながら、綱吉は傷だらけの右手を強く握り締めた。
 巻き込んでしまった小さな子供達や、女子を、早く安全で優しい時間に返してあげたい。自分に関わったばかりに大勢の人を不幸にしてしまった未来を、一秒でも早く変えたい。
 昔は、強さというものは暴力にしか使い道の無い、無益なものだと思っていた。
 けれど、今は違う。強さがあれば、力があれば――使い方さえ間違えなければ、沢山の人を守れるものだと気付いた。
 手に入れた力は、誰かを守る為だけにふるおう。そう心に誓って、綱吉は閉じた瞼を開いた。
 眩い光を避けて、表情を和らげる。肩の力を抜いて深く息を吐き、彼は壁に預けていた体重を自分の足に移し変えた。
 台所兼食堂まで、もう少しだ。ハルや京子たちが、今日もみんなの夕食の支度をしているに違いなく、彼女らに余計な不安を与えないためにも、綱吉は疲れを隠して凝り固まった顔の筋肉を軽く揉み解した。
 最後に深呼吸をして心を落ち着かせ、準備を整えてからドアを開けて敷居を跨ぐ。鼻は詰まり気味だったけれど、それでも分かる芳しい匂いがすきっ腹に染みて、咥内に唾が溢れた。
「お腹空いたー」
 本音を呟き、綱吉は忙しく動き回る少女らの背中を順に眺めた。
 コンロの前ではイーピンが大きな中華鍋を巧みに操り、炒め物をしていた。ハルたちも、最初の頃こそは不慣れさが目立ったものの、最近ではすっかりお手の物で、効率よく食事の支度に精を出していた。
「まだ準備中?」
「はひぃ、ツナさん、いつの間に!」
 話しかけるのも憚られるような戦争状態のキッチンに、少々圧倒されながら綱吉は頬を掻いた。果たして声をかけてよいものかどうか迷いつつも、おいしそうな匂いで腹の虫はさっきから鳴りっ放しだ。
 昼食べたものも完全に消化されてしまい、服の上からぺたんこの腹部を撫でた綱吉に、振り返ったハルが今まさに気づいたという顔をして悲鳴を上げた。
 それでやっと京子やイーピンも彼の存在に気付き、皆揃って驚いてくれた。
 まるで自分が此処に居るのが罪のような気分にさせられて、ひとりポツンと佇んでいた綱吉は困った顔で頭を掻き回した。
「え、と……」
「ごめんね、ツナ君。もうちょっとかかりそう」
「そっか。ううん、こっちこそ、邪魔してごめん」
 この場合はどう言うのが的確なのだろう。全員が動きを止めてしまい、居心地の悪さに綱吉は視線を泳がせた。そこへ非常に申し訳無さそうな京子の言葉が加わって、益々身の置き場が無い現実に、綱吉は視線を伏した。
 一度退散して、暫く経ってから戻ってこよう。空腹感は絶頂だが、座って食事が出来る段階まで到達していないのなら、我慢するほかあるまい。
 肩を落として小さく溜息をつき、じゃあ、と気を取り直して彼は顔を上げた。
 その視線の先に居たハルが、不意にピン、と背筋を伸ばした。
「そうだ、ツナさん。時間ありますか?」
「うん?」
 食器を拭いていた彼女が、白い布巾を片手に身を乗り出した。急に何を言い出すのかと、踵を返そうとしていた綱吉は動きを止めて彼女を見詰め返す。しかしハルは速攻視線を京子に移し変えてしまい、目線は絡まなかった。
 どうしたのかと小首を傾げていると、彼女は持っていた皿を盾にして声が漏れないようにしながら、なにやらヒソヒソ話を展開させた。綱吉が見ている前で秘密の相談をされるのは、正直あまり気分がいいものではない。踏み台の上のイーピンは、若干焦げてしまった炒め物に慌て、鍋を前後に揺らしていた。
 表情を険しくさせていると、話し合いが終わったようで、ハルから皿を受け取った京子が真剣な眼差しで綱吉を見詰めた。
 キラキラ輝く彼女の瞳が、若干哀しげに伏せられる。物憂げな色合いに綱吉はどきりとして、心臓を跳ね上げた。
「あのね、ツナ君。ちょっと、お願いがあるの」
「そうなんです。ツナさん、お願いします」
 彼女の隣に並ぶハルも、布巾を両手で挟み潰して祈るポーズを作った。
 ふたりから同時に迫られて、内心ドギマギしながら綱吉は目を泳がせた。彼女らからこんな熱烈な視線を浴びせられるなど初めてで、ひょっとして自分はモテモテなのではなかろうかとか、そんな不謹慎な夢想まで頭の片隅を駆け巡って行った。
 勿論、空想だったわけだが。
「な、なにかな?」
 動揺を悟られぬよう極力声を絞り、低めの格好いいトーンを目指して問い返した綱吉だったが、顔を見合わせたふたりはそんな事はお構い無しで、互いに頷いて確かめ合い、一歩彼の方へ歩み出た。
 そしてとても真剣な眼差しで、
「レタス、採って来てください!」
 悲痛なハルの叫びに、綱吉は最初、なんだそんな事か、と思った。
 直後、彼女の台詞をもう一度頭の中で繰り返し、あれ? と首を傾げた。
「レタス?」
「そうなの。今日の晩御飯のサラダに、と思ってたんだけど、古かったみたいで」
「だから、ツナさん。下の畑に行って、採れたて新鮮なレタスをひとつ、お願いします!」
 いったい彼女らは、何の話をしているのか。すぐには理解が追いつかず、目を点にした彼にふたりが交互に訴えた。
 下の畑とは、即ちアジト内部に設けられた巨大な農場の事だろう。ワンフロアの大半を使用して、様々な農作物を育成している。地下でありながら、十年前にはまだ開発途上だった植物育成用LED照明を利用しているお陰で、季節や天候に左右されない、安定した食糧の供給が維持できるようになっていた。
 科学の発展を体感させられる場所だが、そういう小難しいことは綱吉たちにはさっぱり分からない。
「レタス……」
 日々修行、特訓の綱吉にはあまり縁がない場所であるが、これがあるお陰で、外部から遮断された地下空間でも一日三食、満足できる量を食べることが出来た。
 畑の手入れは専らハルたちの仕事で、良いストレス発散にもなっていると聞く。最初はおっかなびっくりだったが、やってみると意外に楽しいというのが、彼女らの弁だ。
「そうです、レタスです」
「お願い、ツナ君」
 徐々に迫り来る二人から後退し、綱吉は顔を引き攣らせた。
 なるほど、最初に時間があるか確認してきたのは、これの為だったのか。分かってしまうとなんてことはなくて、小間使いを任せられた彼は逆らうことも出来ず、項垂れるように頷いた。
 自分がこの後食べる夕食に必要だというのなら、従うしかあるまい。薄茶色の髪を掻き上げて吐息を零した綱吉は、機嫌よく喜んでいる彼女らに肩を竦めた。
「ま、いっか」
 彼女らが手が離せないと言うなら、暇な自分がひとっ走りしてくるのが適材適所と言えよう。それくらいの労働なら、残り少ない体力でもなんとかなる。
 分かったと改めて頷き、綱吉は現在時刻を確認してから台所を出た。
 自動で閉まるドアを背中に、肩を回して骨を鳴らす。気持ちを切り替え、地下に通じているエレベーターへ向かおうとした彼だったが、
「あれ、ツナ?」
 前から来る人影に、弾かれて顔を上げた。
 聞き覚えのある声は高い位置から放たれ、綱吉は自然と背筋を伸ばして猫背を正した。近付いてくる山本に丸い目を見開く。
 夕食時も近いというのに、台所を出て行こうとする彼が不思議なのだろう。リボーンとの特訓を終えたばかりと思われる、胴着姿の親友に綱吉は苦笑した。
「頼まれごと」
「笹川の?」
「そう、畑に。レタスだって」
 肩を竦めて両手を広げ、悔し紛れにわざと呆れた調子を気取って綱吉は言った。その頃にはもう山本は直ぐ目の前まで来ており、肩に担いだリボーンを床に下ろすべく屈んでいた。
 姿勢を正した山本が、あまり興味無さそうに相槌を打って、傷の無い顎を撫でた。
「じゃあ、晩飯はまだなのか」
「うん、もうちょっとかかるって」
 低い位置からリボーンに聞かれて、綱吉は右足を後ろにずらして答えた。最近は黒い帽子に黒いスーツの、見慣れた格好をするようになった彼に頷き、自分は用があるからと、ふたりを避けて右にずれる。
 その背中を追いかけ、山本が草履で床を蹴った。
「俺も行こうっと」
「山本?」
 両腕を頭の後ろへ回し、肘を外向きに衝き立てた山本が、綱吉に半歩遅れてついてくる。
 彼だって疲れているだろうに、ゆっくり休まなくて良いのだろうか。ヒタヒタ言う靴とは違う足音を聞きながら振り返り、綱吉は上目遣いに問うたが、山本は呑気に笑うばかりだ。
 リボーンは最初から興味がないようで、綱吉が出て来たばかりの台所にひとり入って行った。一瞬だけ鼻腔を擽る良い香りがして、ドアが閉まると同時に途絶えた。
「いいの?」
「問題ない」
 重ねて聞けば、山本は白い歯を見せて笑った。
 腹は減っているが、動けなくなるほどではない。それに、今台所に居ても手伝えることは何もないし、匂いだけ嗅がされては余計に空腹感が酷くなって、ノイローゼになってしまいそうだ。
 明るい口調で告げた彼に、綱吉は堪えきれず噴き出した。
 それは自分も感じていたことだ。似たような思考回路の彼に嬉しくなって、綱吉は危うくエレベーター前を行き過ぎるところだった。
「獄寺君は、まだ下かな」
「途中で会わなかったし、そうじゃねえ?」
 姿の見えない嵐の守護者は、依然ビアンキから逃げ回っているのだろうか。誰よりも複雑な家庭事情の上で育った彼を思うと綱吉まで落ち込んでしまって、沈んだ表情を浮かべた綱吉に、山本は嘆息した。
 両手を腰に当てて胸を反らし、努めて明るい声を出してエレベーターが到着したと綱吉に教える。肩を叩くと一瞬ビクリとした彼だが、其処に居るのが山本と思い出してか、ホッとした表情を浮かべた。
 緊張を解き、柔和な笑みを浮かべて開いたドアの隙間から小さな箱に滑り込む。山本が後ろに続き、扉は勝手に閉まった。
「何階だっけ」
「えーと、確か」
 問いかけに綱吉は一瞬迷い、ボタンを押そうとした手を泳がせて視線を浮かせた。デパートならばドアの上に、どの階に何の売り場があるかの説明が出ているのだが、アジトにはそんな丁寧な細工はされていなかった。
 万が一侵入者があった場合、どのフロアに何があるのかをわざわざ教えてやる必要は無い。内部は複雑だが、十日も過ごせば綱吉たちはアジトの環境にも慣れた。
 立ち入り禁止区画は多いが、毎日特訓に忙しない彼らには、敷地内を探検する余裕も無かった。
 そう時間も掛からず、エレベーターは地下を潜って地下十一階に彼らを導いた。開いたドアから外に出て、更にもうひとつ、ふたつドアを潜る。全身に空気を噴射して埃を払い、特殊な光を浴びて滅菌を済ませれば、ようやく目的地たる農場への道が現れた。
「何回来ても、凄いなあ」
「だなー」
 天井に並ぶ照明は、他のフロアと同じようで、そうではない。幾つかの区画に分かれた内部は、それぞれに設定されている温度や湿度が違い、機械で細かく制御されていた。
 ビニールハウスほど熱気はこもらないが、外に比べると少し蒸し暑い。着ていたトレーナーの襟を抓んで引っ張った綱吉は、頼まれたレタスが育つ区画を探し、左右を見渡した。
「どこだろ」
 此処くらいは、配置図が用意されていても良いのに。
 なかなか見付からないのに苛立ち、綱吉は色の濃い土を爪先で蹴り上げた。
 植物の育て方も千差万別で、本物の土に苗から育てているものもあれば、水耕栽培も見受けられた。最新技術を余すところなく取り入れていると、設計したジャンニーニは胸を張って自慢していたが、どの辺に工夫がなされているのか、見ただけではさっぱり分からない。
 山本は木屑を混ぜ込んでいる土を手で掬って指で捏ね、ずんずん奥に進んで行く綱吉に苦笑した。
「ツナ、迷うぞ」
「平気だって。山本はそっち、探して」
 銀色の外壁がなかったなら、此処が屋内だというのを忘れてしまいそうな空間だった。どこかで鶏の鳴く声まで聞こえて来て、山本はそちらに顔を向け、穿いている袴の裾を持ち上げた。
 ズボンと違い、布をたっぷり使っているので植物が引っかかり易いのだ。紐があれば野袴のように足首で結んでしまうのだが、見たところ、使えそうな道具は無さそうだ。
「レタス、ね」
 これだけ広いと探し出すのも大変だと、彼は段々遠くなる綱吉を見送り、仕方なく言われた方角に足を向けた。
 山本も綱吉と同じく、農業区画にはほとほと縁がなかった。アジトの構造の説明を受けた時に話は聞いていたし、中を案内された時に農場の入り口までは来たけれど、それきりだ。
 だから当然、どこに何が植えられていて、どれが収穫期を迎えているのかも分からない。
 手当たり次第歩き回るのは、骨が折れそうだ。山本はどこか懐かしい、牧歌的な景色を眺めながら、やはり壁が邪魔だと高い天井を仰いだ。
「太陽、見えねえな」
 ずっと地下にいると、青空が恋しくなる。毎日のように飽きもせずランニングに励み、白球を追いかけていた記憶が不意に脳裏を過ぎり、胸に刺さった。
 鼻の奥がツンと来て、思いがけず涙が滲んだ。首を戻すと零れてしまいそうで、山本は奥歯を噛み締め、上を向いたまま瞼をきつく閉ざした。
「くそっ」
 こんなところで郷愁に襲われるとは思わなかった。広げた掌で額の周辺を覆い隠し、嗚咽を堪えて首を振る。こんな弱いところを人に見られたくなくて、彼は残る手で肩を抱き、背の高いとうもろこしの陰に隠れて目尻を擦った。
 綱吉にでも見られたら、余計な心配をかけてしまう。それだけは避けたくて、彼は近くに人の気配が無い事に酷く安堵した。
「あったー!」
 体全部を使って呼吸を整え、苦い唾を飲んで背筋を伸ばす。折った膝を伸ばしてまだ固いモロコシを右に押し退けると、遥か彼方で綱吉が両手を振り回して飛び跳ねているのが見えた。
 小躍りしている彼のはしゃぎ具合相好を崩し、山本は胸につかえていたものを追い払って茂みから出た。
 人がひとり通れるだけの幅しかない畦を大股に進み、歓喜に舞い上がっている綱吉に近付く。彼の足元には確かに緑色の、球体となった植物が行儀良く一列に並んでいた。
 しかし。
「……ツナ」
「うん?」
「それ、違うぞ」
 視線を下向けた山本は、地面を覆い隠すほどに濃い緑の葉を外向きに広げ、その真ん中にちょこんと球体を乗せた植物を指差し、言った。
 握り拳を胸に押し当て、先に見つけたと自信満々だった綱吉は、きょとんとして大きな目を丸くした。
「違う?」
「ああ」
「レタスじゃ?」
「キャベツだって、それ」
 確かにどちらも丸くなった葉を食べるものだけれど、外見や色合いは、かなり違う。何故気付かないのかと不思議そうに首を傾げた山本に対し、綱吉は真剣な表情で眉間に皺を寄せ、何度も首を左右に倒しながら考え込んだ。
 しゃがみ込み、何枚もの葉が重なり合ったキャベツを撫でて、外側の一枚を引っ張る。引き千切ったものを顔の前にやって、厚みや肌触り、果ては匂いまで嗅いで、彼は唇を尖らせた。
「ほんとだ。キャベツだ」
「……だろ?」
 今の今まで気づかなかったのかと山本は呆れ、乾いた笑いを零して落ち込んでいる綱吉の頭を撫でた。
「えー。じゃあ、レタスって、どれ」
「それを探してんじゃねーか」
 その手を払い除けて綱吉が勢いよく立ち上がり、不満げな声で喚き散らした。
 少なくとも山本が辿った道程の途中には、無かった。後ろを向いて確かめ、頷いた彼に、綱吉は納得が行かないという顔をして、キャベツをサッカーボールのように蹴る仕草をとった。
 本当に蹴りはしない。食べ物を粗末にしてはいけないと、彼は奈々に厳しく躾けられている。
「レタス、なあ」
 不貞腐れている彼に目を細め、山本は顎を掻きながら近くを見回した。
 隣の区画には恐らくジャガイモと思われる蔓草、その横はサツマイモだろうか。なんだか分からないものが一本、間からひょろりと伸びている。背が低いものの中に聳えているものだから、やけに目立った。
「山本、これは?」
 まるで見当つかなくて、困り果てた山本の耳に、素早く場所を移動した綱吉の声が響いた。
 気落ちしていたのが嘘のような立ち直りの早さに苦笑いし、呼ばれた山本がそちらを目指す。彼が指差していたのは、細長い緑の葉が群生成している一画だった。
「それ、大根だろ」
「え。嘘」
 どこをどう見れば、それがレタスに見えるのか。
 背筋をピンと伸ばし、三十センチばかりの葉を伸ばしている植物の名を出すと、綱吉は何故か素っ頓狂な声を出した。
 綱吉が何を大仰に驚いているのか分からなくて、山本は怪訝に眉を寄せた。そんな彼を前にして、
「大根って、白いじゃん」
 綱吉は両手を広げ、緑濃い葉を引っ張った。
「そりゃ」
 地面に埋まっている根っこの部分は、白くて当然だ。当たり前すぎる理屈を言おうとして、山本ははて、と首を捻った。
 どうにも話がかみ合っていない気がして、じっと綱吉の目を見詰める。彼の表情は、至って真剣だった。
「なあ、ツナ。お前さ、大根がどうやって育つか、……知ってる?」
「え」
 もしかして、と背中に冷たいものを感じながら、山本は問うた。瞬間、綱吉は吃驚したように目を見開き、ドキリと胸を鳴らして横を向いた。
 心持ち赤い顔をして、腹や胸やらを頻りに手でいじりまわす。捲れ上がったトレーナーの下から臍が見えて、山本がワザとらしく咳払いをすると、綱吉は慌てて裾を引っ張って肌を隠した。
 ちょっと勿体無かったかと思いつつ、山本は首を振って短い前髪を掻き上げた。
「ツナ。こっちは何か、分かるか?」
「えっと、……あ、アスパラガス?」
「人参だよ」
「嘘。こんな風に生えてるの?」
 隣の畝に伸びていた、大根よりも細い緑の葉を突いた山本の問いかけへの答えも、不正解。しかも、知らなかったと正直な感想を述べて感嘆の息まで漏らすものだから、山本は心底驚き、また空恐ろしいものを感じて遠くを見た。
 確かに並盛町には、自然が少ない。郊外に出ればその限りではないが、綱吉の家がある一帯は住宅ばかりで、田畑は皆無と言ってよかった。
 地方に祖父母がいるわけでもなく、野良仕事にも無縁。食事の支度も奈々がひとりでやっていた沢田家では、綱吉が一緒にスーパーに行く機会も少なかろう。
 連れ立って買い物に行くにしたって、店で売られているものは綺麗に洗って、一部加工されたものばかり。大根や人参も、一般的に良く食べられる部位だけを残し、他は切り捨てられている場合が大半だ。
 馴染みが無いから、知らない。知る必要が無いから、知ろうともしない。
 見事な悪循環に陥っているな、と想像を働かせ、物珍しそうに土に生えている人参を眺めている綱吉に肩を竦めた。
「山本、じゃあ、これは?」
「どれだ?」
 山本は、父親が寿司屋を経営している手前、裏方としてあれこれ手伝っているうちに自然と覚えた。頻繁に買出しにも行かされたし、あちこち連れ回されもしたので、意識しないまま知識として蓄積されていった。
 こんなところで役に立つとは思っておらず、意外な特技になりそうだと心の中で苦笑して、彼は興味津々に畝を指差す綱吉の横に進み出た。
「ん、ブロッコリー」
「あ、そうか」
 キャベツのような平たい葉の真ん中に、太い茎が伸びている。小さなぶつぶつが集まって大きな塊を成しており、言われて思い出したと綱吉は頷いた。
 これもまた、彼の目には新鮮に映るのだろう。売られているものを買うだけでは、畑の様子がどうなっているのかなどさっぱり想像がつかない。
「へえ、こんな風に……あれ、なんだこれ」
 初めて見る光景に綱吉は目を輝かせ、好奇心たっぷりに顔をほころばせた。久方ぶりに見る彼の、純粋に物事を楽しんでいる姿に山本は相好を崩し、一緒に来て良かったと思いながら、綱吉が見つけたものに視線を向けた。
 それはブロッコリーに似て、非なるものだった。
 まず、色が違う。大地に根を下ろしているものは、瑞々しい緑色をしていた。しかし地面に沈み込むように転がっているそれは黒く、粒の塊も非常に大雑把だった。
 見たことの無い植物に山本も眉根を寄せ、膝に手を置いて身を屈め、綱吉の後ろから覗き込んだ。
「なんだろう」
 こんな不味そうな色の野菜は、知らない。正直に告白した彼に頷き、綱吉は恐々利き手を伸ばしてそれに触れた。
 ゴワゴワしていて、少し固い。
「……ん?」
 どこかで触った経験があるような気がして、綱吉は右の眉を持ち上げた。目線を上にして、もうひと撫でしてみる。触覚だけを頼りに記憶を手繰ると、直ぐに思い出せないものの、確かに過去、どこかでこれと同じものを、今と同じように掻き回した事がある。
 なんだっただろうか。喉元まできているのにそこで引っかかり、出てこない。小骨が突き刺さっているようで気持ちが悪くて、綱吉は渋い顔をした。
「ツナ、どうした」
「んー、なんだっけ、これ」
 つい最近も触った気がするのに、思い出せない。山本の問いかけにも中途半端な返事しかせず、彼は改めて視線を伏し、足元に転がっている黒い物体に目を凝らした。
 もじゃもじゃの間から、白い尖ったものがふたつ、左右に飛び出ている。別の場所からは、白と黒の斑模様が伸びて地面に横たわっていた。
「うん?」
 山本も感じるところがあったのか、素早い瞬きを二度連続させた。
 見覚えのある物体だった。しかしあまりにもこの場にそぐわない存在の為、記憶が巧く合致してくれない。
 綱吉は飽きもせずわしゃわしゃと黒い塊を掻き回し、山本はそれが時折痙攣を起こしてピクピク動く様を視界に収めた。
「うぬ、うーん……?」
 そうしているうちに、やがてそれは、人の言葉を発して小さく、丸くなった。
「う」
 綱吉が顔を強張らせて慌てて肘を引っ込める。勢い余って真後ろにいた山本の足にぶつかり、当てられた方は僅かに後ろへふらついて、畝に踵を乗り上げたところでぎりぎり転倒を回避した。
 まさか動くとは、そして喋るとは夢にも思わず、吃驚仰天している綱吉を下に見て、山本はハッとした。ようやく思い当たる節に行き着いて、綱吉の肩を掴んで乱暴に揺さぶった。
「ツナ」
「う、わ」
「んん~、なに~」
 後ろから身体を揺すられた方に鳥肌を立て、綱吉が上擦った声で悲鳴を上げた。動揺激しい彼らを他所に、綱吉が散々引っ掻き回していたものはむくりと起き上がり、寝ぼけ眼を擦って鼻水に張り付いた土を払い落とした。
 それは間違っても巨大ブロッコリー、ではなく。
「らん、ぼ……?」
 恐々呟いた綱吉の後ろで、山本は声を立てて笑った。
 そういえば姿を見かけなかったと、いつになく静かだった台所を思い出し、綱吉は脱力した。足を横に広げて地面に腰を落とし、がっくり項垂れる。少し前の怯えていた自分が恥かしいのか、顔を赤く染めて両手で隠した。
「もー、脅かすなよ」
 わざとらしく大声を張り上げ、まだ半分眠っている幼子に怒鳴りつける。照れ隠しで虚勢を張る彼が面白くて、山本は益々腹を抱えて笑い転げ、綱吉に脛を殴られて悶絶した。
 骨にまで響くいい音がして、片足立ちを強要された山本がその場でぴょんぴょん飛び跳ねる。それで気が済んだらしい綱吉は、ブロッコリーの群生に埋もれていたランボの髪の毛を掻き回し、深々と溜息をついた。
「なんだってこんなところで」
「んー、ツナァ?」
「こんなとこで寝てたら、風邪引くだろ。もう晩御飯なんだから、帰るぞ」
「ごはん!」
 恐らくかくれんぼをしていたか、昼間にハルたちと野菜を収穫に来てそのまま遊び疲れて寝てしまったか、どちらかだろう。その両方の気がして、綱吉はまだ痛がっている山本を横目に、肩を落とした。
 台所を出る間際に見た時計の数字を思い出し、眠そうにしているランボに話しかけると、途端に彼の目が輝いた。
 分かり易いまでの反応に苦笑し、立つように促して綱吉も膝を伸ばした。やっと静かになった山本の袴は土まみれだったから、着地に失敗して一度転んだのだろう。
「かえろっか」
「だなー、腹減った」
 ランボに言い聞かせていたら、忘れていた空腹が蘇ってきた。泣き虫な腹を押さえて笑った綱吉に同意し、汚れを叩き落しながら山本も白い歯を見せた。
 問題なのはランボで、
「ツナー、抱っこ。おんぶー」
「こら、ちゃんと自分で立って歩け」
「やーだー。おんぶー、おんぶしてくれなきゃやだー!」
 彼お得意の駄々をこね始め、折角立ち上がった彼はまた仰向けに寝転がり、両手両脚を振り回してじたばた暴れ始めた。
 泣きじゃくり、鼻水を垂らして、汚いことこの上ない。生意気で手の掛かる幼子に辟易しつつも、放っておくわけにいかず、最後は折れて綱吉は右膝を立てて屈んだ。
 ほら、と背中を向けてやると、ランボは一瞬で泣き止んで嬉しそうに笑った。両手を挙げて綱吉にしがみつき、小さな背中をよじ登って首にしがみつく。
 綱吉は腰に回した手でランボの尻を支え、安定したところで立ち上がった。傍で心配そうにしている山本に気付いて、微笑む。
「大丈夫だよ」
「けど、ツナだって疲れてんのに」
「これくらいは、どうって事無いから」
 前に出そうとして、中途半端なところで停止している彼の両手を見下ろし、綱吉が首を振る。修行で疲れているのは山本だって同じだと、なんでもないことのように言い、彼はゴロゴロ喉を鳴らして甘えて擦り寄る幼子を背負い、先に立って歩き出した。
 これが十年前の――即ち彼らが居るべき本来の時間の、夕暮れの公園であったなら、仲が良いのひと言で片付けてしまっていたかもしれない。しかし今の山本には、綱吉が他の誰にも譲り渡すことの出来ない大きな重い荷物を、自分から率先して背負おうとしている風にしか見えなかった。
 無理をして、無茶をして、我慢している。誰にも弱音を吐かず、自分を犠牲にして、押し潰されそうな重圧に耐えている。
 そうとしか思えなかった。
「ツナ」
 ぼうっとしているうちに距離が開き、山本は慌てて彼を追いかけた。
「やっぱ、俺が」
「平気だって。そんなに頼りなく見えるかな、俺」
 エレベーターホールで振り返った綱吉が、しつこい山本に少々不機嫌になって唇を尖らせた。
 そうではない、と肩で息を整えて山本が首を振る。しかし続きを言おうとしたらエレベーターが来てしまい、ドアが開く音に彼は息を呑んだ。
 閉ざされていた壁が左右に吸い込まれ、四角形の箱が三人を出迎える。一足先に乗り込んだ綱吉がくるりと反転して、そこに立ち尽くしている山本に変な顔をした。
「山本」
 乗らないのかと呼びかけるが、返事が無い。重ねて名前を呼ぶと、彼はやっと顔をあげ、握り締めた拳を震わせて今にも泣きそうにしながら唇を噛み締めた。
 急な表情の変化に驚き、綱吉は閉まりかけたドアに慌てて身を乗り出した。センサーが反応し、首が挟まる寸前で左右に戻っていく。悲鳴を上げたランボを無視し、綱吉は片手で顔を覆った彼の前に戻った。
 一瞬で跳ね上がった呼吸を整え、滲み出た汗をそのままに、山本を見詰める。
「なあ、ツナ」
「……なに」
「お前が重いって感じたら、俺はいつでも――代わるから」
 無人のエレベーターが、ドアを閉めて上の階を目指して登っていく。誰かが通り掛かったら、きっと驚くに違いない。
 自分の事を言われたと勘違いしたランボが、自分の感情を押し殺した山本に「自分は重くない」と怒鳴った。背中で暴れられて、我に返った綱吉が急いで彼を下ろして抱きかかえる。床に膝をつき、窺う目を上に向ければ、山本はいつになく静かで、穏やかな、それでいて哀しげな微笑みを浮かべていた。
 薄ら汚れた袴を床に広げ、彼もまた姿勢を低くした。直ぐ近くに彼の呼気を感じ取り、綱吉は苦々しい気持ちを隠して首を横に振る。嫌がるランボを両手で押さえ込み、目を覆って自分の胸に引き寄せた。
 額に触れた柔らかな感触と温かな熱。一瞬で離れて行った気配に、彼は泣きそうになった。
「ツナ」
「大丈夫だよ」
 出来るか、出来ないかではない。やらねばならないのだと言い聞かせて、折れそうな心を必死に支えている。
 今此処で弱い部分を曝け出したら、誤魔化せなくなってしまう。
「ああ、……分かった」
 だからこれ以上、自分の努力を否定しないで欲しい。そう少ない言葉で伝えようとした綱吉の上を、山本の優しい声が通り過ぎて行った。
 瞬きひとつし、目を見開いて彼を仰ぐ。穏やかな眼差しを浴びせられて、あまりの眩さに綱吉は奥歯を噛んだ。
「分かってる。だから、さ」
 伸びてきた手が、癖だらけの薄茶の髪を撫でた。ぐしゃぐしゃと、綱吉がランボにしたように掻き回して、最後にぽんぽん、と二度叩いて去っていった。
「山本」
「倒れそうになったら、言ってくれ。後ろから俺が支えてやる」
 それくらいなら構わないだろうと、そう言って彼は急に茶目っ気たっぷりに片目を閉じた。
 ウィンクされて、綱吉は口をぽかんと開いた。呆気に取られ、ランボの拘束が緩む。呼吸困難を起こしかけていた彼は大声で綱吉の暴挙を責め、ぽかすかと痛くないパンチを繰り出して綱吉の膝に圧し掛かった。
 抱っこしてくれないと許さない、という彼の我が儘に破顔し、よじ登ってきた幼子を丁寧に両腕で包み込む。
「山本」
「ん」
 呼ぶと、彼は短い返事で視線を上げた。ランボを見ていた彼の表情が、何処となく羨ましそうにしているのが可笑しくて、綱吉は目を細めると彼の肩に頬を寄せた。
 寄りかかり、伝わってくる体温と心音に心地よさを覚え、目を閉じる。
「じゃあ、その時は」
 後ろで見ていて欲しい、自分の戦い様を。
 そしてどうか。
「よろしく」
 共に、最後の一瞬まで。

2009/09/26 脱稿