夕暮れが西の空一面に広がり、真昼に比べて影は随分と長くなった。
カラスの鳴き声が何処からともなく響き、気の早い鈴虫の、少し物寂しげな、けれどちょっぴり喧しい合唱が合間に挟まった。
友人一同揃って宿題を見せ合い、教えあって片付けようという約束は、あまり芳しい成果を見せる事無く終了を余儀なくされた。予定していた時間を大幅に過ぎても一向に終わる気配がなく、日暮れが近いとあって午後五時を回った辺りでお開きとなった。
場所を提供してくれた山本の家を出て、自宅へと急ぐ。己の影に追い越されそうになりながら、信号の無い交差点で車が行き過ぎるのを待ち、慌しく道路を横断する。
「よっ、と」
一旦停止の白いラインを跨いで越えて、綱吉は教科書やノートで重いリュックサックを背負い直した。
目的は勉強会だったけれど、なんだかんだで大勢集まると、ついつい雑談に夢中になってしまうから困る。テレビをつければ日頃見るのも叶わないワイドショーが満載で、面白おかしく繰り返されるトークにも、意識を持っていかれた。
右手で握っていたはずのシャープペンシルは、いつの間にかノートの上で居眠りを。そのうち家主の山本がテレビゲームを引っ張りだして来て、ちょっとしたものを賭けての勝負が展開された。
金銭のやり取りは無い、せいぜい次の問題を解いて皆に教えるだとか、綱吉の隣の席に座るだとか、そういう程度だ。
綱吉はリズムに乗る音楽ゲームは好きだし得意だが、反射神経を要求される格闘ゲームは苦手だ。いつも、「あ、あ」と戸惑っているうちにボタンを押し間違えて、負けてしまう。だからプレイヤーは主に山本と、獄寺の両名だった。
それにしても自分の隣を奪い合って、なにが楽しいのだろう。よく分からないまま景品に祭り上げられてしまって、綱吉は困惑が隠せなかった。
そんなわけで本日の勉強会は、なし崩し的にゲーム大会に切り替わって終わりを迎えた。このままでは秋の連休最終日になっても、大量の宿題は全く片付いていないような気がする。リボーンの雷が落ちるのは確実で、想像した綱吉は歩きながら亀のように首を引っ込めた。
「うー、桑原、桑原」
昔から雷避けとして唱えられていた呪文を口ずさみ、彼はリュックサックのベルトを握って指の太さ分だけ身体から浮かせた。
荷物が重いので、鞄は自然下にずり下がる。細身のベルトは肩に食い込み、その部分だけが汗をかいて濡れていた。
「晩御飯、なんだろ」
今日最後の楽しみを想像し、あれこれメニューを思い浮かべていると勝手に咥内に唾が溢れた。昼ごはんは、寿司だった。山本のお父さんが、余り物のネタで寿司飯を握ってくれたのだ。
余り物と言っておきながら、充分過ぎる程に大きくて、美味しかった。毎日こんなに美味しいものが食べられる彼が羨ましいと思ったが、奈々の料理も負けてはいない。彼女が用意する食事はレパートリーに富み、毎日食べても飽きが来なかった。
「ハンバーグかな。スパゲティでもいいな。ちょっと早いけど、お鍋もいいかも」
去年は野菜たっぷりのカレー鍋が流行だった。翌日まで家中に匂いが残るものの、それを差し引いても充分の美味だ。家に帰ったら早速リクエストすることに決めて、綱吉は前から来た自転車を避けて道路の端に寄った。
西日を左に見て、眩しさに目を細める。左手を持ち上げて日除けにし、彼は指の隙間から見える僅かな景色に微笑んだ。
「うわっ!」
刹那、手で隠れていた部分から人が飛び出して来て、綱吉は見事に跳ね飛ばされた。
死角からの攻撃に避けることさえ出来ず、たたらを踏んだ末に尻餅をつく。左側の曲がり角から速度を緩めもせず走って来た男は、蹲った綱吉にまで聞こえる音量で舌打ちし、謝りもせず去っていった。
「いってぇ……」
折角楽しい気分でいたのに、全部吹っ飛んでしまった。倒れた際に道路で打った尻が痛いし、アスファルトで削られた右掌がジンジンする。肘を曲げて膝の上でひっくり返せば、案の定皮膚が擦り剥けて薄ら血が滲んでいた。
もうちょっとで家に着くというのに、何てことだろう。血の赤を見た途端目尻に涙が浮かんで、綱吉は歯を食いしばった。
運が悪い。今日一日楽しかった分、どこかに押しやられていた不幸が一度に戻って来た感じだ。鼻の奥がツンとするのを堪えて起き上がろうとした矢先、今度は複数人の怒鳴り声が聞こえて来た。
「どっちに行った」
「探せ!」
低いだみ声が、鈴虫の声を遮って綱吉の耳を貫く。なにが起きているのかさっぱり分からず、困惑に眉根を寄せた彼は、視線を右往左往させて左から駆け出して来た人物にまた轢かれそうになった。
向こうも蹴り飛ばそうとしたわけではなく、単純にそこに綱吉がいると知らなかっただけなのは分かっている。けれど恐怖心を抱かずにはいられず、咄嗟に身を竦ませた綱吉は、黒い学生服に身を包んだ男が驚き目を見開く様に呆然とした。
まだまだ暑さの残る季節であるに関わらず、どこの応援団かと思わせる長ランにリーゼントヘア。よくぞそんな格好で走り回れるものだと感心したくなる出で立ちのふたり組みは、驚いている綱吉に向かって無言で顎をしゃくった。
それでハッとして、彼は自分の後方――ぶつかってきながら謝罪もしなかった男が走り去った方向を指差した。
「行くぞ!」
互いの顔を見合い、深く頷いたふたりが掛け声ひとつを残して走り出す。綱吉はまたも置き去りにされたが、何故あの男があんなにも急いでいたのか、その理由が分かっただけ、幾らか心がスッとした。
あの制服には見覚えがある。左腕には馴染み深い腕章が、安全ピンで固定されていた。
「風紀委員に追いかけられてちゃ、ねえ」
苦心の末に立ち上がって呟き、綱吉は電信柱に左肩を預けて右掌を見詰めた。
手首に近い部分が擦り切れて、小石が幾つか汗ばんだ肌に張り付いていた。それらを丁寧に右手の爪で削ぎ落とし、傷口を露にする。血は止まったが、痛みはなかなか引いてくれなかった。
「洗った方がいいな」
包帯を巻く云々の大袈裟な怪我ではないが、消毒は必須だ。転んだ場所が場所なので、変な雑菌が付着しているかもしれない。
家に帰ってからにすべきか、それとも。並盛の地図を思い浮かべ、綱吉は視線を左に流した。
風紀委員らが何処から来たのか、正確なことは分からないものの、ある程度予想はつく。彼は小さく頷くと、持ち前の好奇心にも背中を押されて、自宅への最短経路を外れて角を曲がった。
若干小走りに、車両一方通行に指定されている道を行く。そのまま真っ直ぐ進むとやがてT字路にぶつかり、正面に小さな公園が現れた。
入り口もまた、正面に。車止めの銀の柵の間を潜り抜けて敷地内に入ると、建物に邪魔されて見えなかった夕日が綱吉の横顔を照らした。
「あー、やっぱり」
そんな気はしたのだ。予想は違えず、苦笑した彼は声に出して呟いた。
昼間は子供達の笑い声がひしめく公園内も、黄昏時を迎えれば不良たちのたまり場となる。特に今は休み期間中とあって、彼らの活動は活発だった。
そして必然的に、そういった存在を取り締まる立場の人たちも、大々的に行動を起こす。最たる存在が、並盛中学校の、強いては並盛町全体の風紀を守るのに命を賭けている、風紀委員の皆様、及び委員長様だ。
公園入り口の反対側、敷地が隣接する工場の壁が聳え立つその手前に、見慣れた人が立っていた。携帯電話を熱心に操作しているため、綱吉にはまだ気付いていない。
長ランだった先ほどの風紀委員とは違い、白い長袖シャツにネクタイ、臙脂の腕章と、幾らか涼しげな格好をしている。中央に寄った長い前髪を掻き上げて、液晶画面を睨む瞳もまた黒く、冴え冴えとしていた。
遠目からでも誰であるかは一目瞭然で、綱吉は肩を竦めた。
「相変わらずだなあ」
青年の足元には、人間がうず高く積み上げられて山となっていた。気絶中なのか、動く人はいない。
逃げていたのは、あそこで転がっている男達の仲間なのだろう。風紀委員に見つかって、ボコボコにされそうになったので、慌てて撤退を決めたのだ。
捕まったら、即座に連行されて咬み殺されるに違いない。だから死ぬ気で走っていたところ、道を曲がったところで綱吉とぶつかった、という事だ。
風紀委員長の冷徹さは知らないわけでもないので、深い同情を禁じえない。しかし雲雀恭弥に目を付けられ、処罰されたということは、それなりに理由があるわけで。
矢張り同情出来ないと五秒前の自分を否定して、綱吉は右手の痛みを思い出した。
「いちち」
忙しそうであるし、声は掛けないでおこう。俯き加減に、慌しく右の親指を動かしている彼から顔を逸らし、西日が赤く照らす中、綱吉は公園に設置されている水飲み場目指して小走りに駆けた。
傷を洗って汚れを落とし、見付かる前に帰ろう。そう決めて、小さな子にも届くようにと、背の低い水道の栓を捻ると、途端上向きに一本の白い線が走った。途中で勢いを失い、下降に転じる。泡を吐いて流れて行く水に目尻を下げ、彼は掌を下にして右手を伸ばした。
溢れ出る水流に押し当てると、肌を擽る感触は気持ちよさ半分、痛さ半分だった。外に設置されているだけあって、生温い。だがあまり冷たすぎると却って痛いので、これはこれでちょうど良かった。
傷口を抉る水の感触におっかなびっくり顔を顰め、直ぐに引っ込みたがる肘を意識して伸ばし続ける。無事な左手も使って表面の汚れを洗い流すと、他に比べてちょっと赤くなっただけの皮膚が顔を出した。
思ったよりも酷くない。ホッとして、綱吉は水道を止めた。
「タオル、タオルっと」
リュックサックを右肩だけで担ぎ、左手を回して中からハンドタオルを引っ張り出す。
今日は過ぎた夏を思わせる陽気だった。
山本の部屋は冷房どころか扇風機さえなく、そこにゲーム機の放熱も加わるので、室温はどうしても高くなる。何時の間にやら全身汗だくで、最初こそこのタオルでこまめに拭っていたものの、途中から疲れてやめてしまった。
だから今の綱吉は、そこそこ汗臭い。鼻の近くに来た袖からも、ぷわん、と特有の汗の臭いが漂った。
タオル自体も、若干臭う。手を拭いた後に興味本位で顔を近づけ、やるんじゃなかったと即座に後悔した彼は、タオルを戻すのに手間取り、仕方なく鞄を地面に下ろした。
「よいしょ、と」
一緒に膝を折ってしゃがみ、中を漁る。
昼間よりは幾分周囲も暗くなってはいるものの、巨大な太陽はまだ地表すれすれのところを漂っている。白い雲が朱色に染まって、優美な風景を演出していた。
手元を探るにも不便無い明るさは確保されていて、綱吉は難なく右手に目的のものを取り出した。
「みっけ」
小さなものだから、他に紛れてしまわないようにと、内ポケットに入れておいたのが功を奏した。拳にすっぽり隠れてしまうような厚みのそれを握ったまま、嬉しげに声を弾ませる。その音に紛れて、乾いた大地を踏む音がひとつ、間近で響いた。
ぱんっ、と硬い音も聞こえて、反射的に綱吉は身を硬くして上を向いた。
「あ……」
水飲み台の影に半分隠れていた綱吉は、その向こう側から注がれる視線に気まずい顔をして、悪いことをしていないにも関わらず、少々恐怖心を抱いて及び腰になった。
「ど、どうも」
「やあ」
ぎこちない挨拶を口にして、視線を逸らす。左を向いた綱吉を睥睨し、雲雀は右手に持った携帯電話をポケットに押し込んだ。
気付かぬうちに接近を許していたことに些かショックを覚え、綱吉は胸を撫でた。その様をありありと見詰め、雲雀は後方の、山積みとなった不良たちの残骸にふいっと顔を向けた。
「毎日、えっと、お疲れ様です」
「本当だよ」
雲雀の視線が外れたことで緊張が解け、ホッと息を吐いた綱吉がさっきよりかは流暢に言葉を並べた。相槌を打って頷いた雲雀が、性懲りもなく並盛で群れを作っていた男達に怒りを露にし、両手を腰に当てて踏ん反り返る。
弱いくせに、群れになった途端に強くなったと思い込む馬鹿な手合いが、なんと多いことだろう。夏休みが終わってからも、このように徒党を組んだ連中が町を闊歩して風紀を乱すので、雲雀も引く手数多の大忙しだった。
たとえどんな小さな群れであろうと、全力で潰す。彼の本気を垣間見て、綱吉は苦笑した。
まだまだ気絶中の不良らは兎も角として、雲雀本人は無傷のようだった。彼の強さは充分知っているので特に心配はしていないが、外見上特に問題が無いと確認して、胸を撫で下ろす。
そして彼は、握り締めたままだったものの存在を思い出して手を広げた。
「うわ、皺くちゃ」
声に出して呟き、端を抓んで持ち上げる。雲雀も振り返り、視線を向けた。
両者の見詰める先にあるもの、それは絆創膏だった。
「怪我?」
「ちょっと転んじゃって」
「ふぅん」
絆創膏が必要な状況など、限られている。水飲み場という場所柄からも、綱吉がどこか傷を負っていると推測させるに足りた。
雲雀の言葉に舌を出した綱吉は、返された緩慢な相槌にムッとした。どうも声色に、馬鹿にした気配を感じたからだ。
「どうせ、どん臭いですよ」
だが転んだのは、実質綱吉の責任ではない。誰かさんが此処で大暴れをしでかして、そこから逃げてきた男に跳ね飛ばされたのだ。
直接の原因ではないものの、間接的に雲雀のせい。頬を膨らませて非難を口にして、綱吉は小分け包装されている絆創膏の包みを破いた。中身を引き抜き、傷の場所を確かめるべく右手を裏返す。
手首との境界線近く、生命線の終わり辺り。擦り切れて赤くなった皮膚は、絆創膏のガーゼ面よりも若干幅広だった。
何もしないよりはマシ、お守り代わりだと大きさを比較して肩を竦めた綱吉は、糊面を覆うシールを片方外し、左手にぶら下げた。
雲雀が無言で見守る中、やりにくさを感じながら傷口近くにゆっくりと糊面を下ろしていく。だが利き腕ではないのも手伝い、なかなかうまくいかなかった。
「あ、っちぇ」
上手に出来たかと思えば、途中で折れ曲がって筋が出来てしまう。貼っては剥がす、を繰り返すうちに、粘着力は確実に下がっていった。
見かねた雲雀が、呆れ顔で溜息をついた。
「貸してご覧」
「うぅ」
ぶらん、と先を垂らして揺れる絆創膏を差し出せば、雲雀は横から掻っ攫っていった。そして彼に右手の人差し指、及び中指を握られて、自分のものとは違う体温に綱吉の背筋は戦慄いた。
シャツに隠れて見えない場所に鳥肌を立て、咥内の唾を飲み込む。掌を上向かされた綱吉は、恐る恐る雲雀を下から窺い見た。
視線は絡まない。彼はじっと綱吉の怪我の具合を見詰めて、粘着力が弱まった絆創膏を慎重に肌へと下ろした。隙間が出来ないように上から親指で押さえつけ、空気を追い出して茶色い表面を撫でる。
「いっ」
「男だろう」
「分かってますよ」
我慢しろ、と言外に言われ、綱吉は出かかった悲鳴を反論に置き換えた。頬を膨らませ、腹の底に息を溜めて腕に走った電流をやり過ごす。片側分残っていたテープも外した雲雀は、ガーゼで傷口を跨がせ、矢張り親指で糊を肌に密着させた。
簡単には外れないと確認した上で、雲雀は手を放した。白いテープの残骸をクシャリと握りつぶし、ごく自然な動きで自分のスラックスのポケットへと捻じ込む。
視界の端でそれを見送った綱吉は、嬉しいような、照れ臭いような気持ちで頭を下げた。
「有難う御座います」
「準備良いね」
素直に感謝の意を述べると、どうやっても人の揚げ足を取りたがる雲雀に言われた。
カチンと来て、綱吉の顔が引きつる。
「そうですね。俺、そそっかしいんで」
「うん」
自虐的な台詞を吐けば、即座に肯定して頷かれた。そこは否定してくれよ、と空気を読まない彼に心の中で突っ込みを入れて、綱吉はひとつ、小さく息を吐いた。
それで気持ちを鎮めた彼は、手首を自分に向け、雲雀が貼ってくれた絆創膏を、傷の無い部分に限って人差し指でなぞった。
「しょっちゅう怪我するから、持ってろって」
「うん?」
「山本がくれたんです」
実は昼間にも山本の部屋で転んで、積まれていた野球雑誌の山に頭から突っ込んだ。その時に作った傷は肘に残っており、絆創膏がしっかりと貼られている。
元々二枚綴りで箱に入っていた物を片方使って、残りを予備としてもらったのだ。まさかこんなにも早く出番が来るとは思っていなかったと、綱吉は当時を振り返って苦笑した。
だが雲雀は、笑い返してくれなかった。
「ヒバリさん?」
無言で、ムスッと口をへの字に曲げて、機嫌悪く険しい表情をしている。なにか気に障ることがあったのだろうかと周囲を見回すが、特別変わったところは何処にも見付からなかった。
せいぜい、不良らの後始末に集められた風紀委員が、入り口から集団で入ってこようとしているくらいだ。雲雀からは何の指示も出ていないので、委員会の面々は草壁の命令に従って動いていた。
首を伸ばしてそちらを窺ってから、眉間に皺寄せている青年を上目遣いに見やる。
「ヒバリさーん?」
「山本武?」
「うん?」
意識が他所に飛んで行ってしまったか。惚けているようにも映る彼の前で試しに手を振れば、やっと口を開いた。と思えば、いきなり綱吉の親友をフルネームで口ずさんで、じろりと人の事を睨んできた。
険のある目つきに怪訝にして、綱吉は半歩、彼から後退した。
「山本って、山本武? 野球部の?」
「ですよ?」
置きっ放しの鞄を蹴りそうになって、綱吉は慌ててそれを拾い上げた。ゴミを内ポケットに押し込み、口を締めて担ぎ上げる。
直前、中に収められていた品々に目をやって、雲雀は眉目を顰めた。綱吉ににじり寄り、不機嫌を露にして不穏なオーラを全身から放つ。臆した綱吉は、咄嗟に悲鳴を飲み込んだ。
「ヒバリさん?」
「今日、彼らと一緒だったの」
「彼らって……? あ、獄寺君と山本となら、一緒に、勉強会――」
という名のゲーム大会だったとまでは言わず、綱吉は尻すぼみに今日の出来事を語った。
雲雀の不機嫌の原因もなんとなく理解出来て、確かに彼が嫌な気分になるのも頷けると、己の愚昧さを呪いたくなった。
「いや、でも、全然、そんな、ヒバリさんが思うようなことは何にもなかったですし」
「当たり前だろう」
あってたまるものか。
しどろもどろに言い訳を口にした綱吉に怒鳴り、雲雀は苦々しい顔をして唇を噛んだ。大声に忙しく動き回っていた風紀委員が一斉に振り返るが、その場に綱吉も同席していると見ると、途端に何も聞かなかったことにして自分の作業に戻っていった。
教育が行き届いているというか、なんというか。気恥ずかしさに下を向き、綱吉はズボンの皺を押し潰した。
「手」
「はい?」
「手、出す。早く」
夕方になっても跳ね方の勢いが衰えない綱吉の頭を見下ろし、雲雀が荒っぽい語気で言う。何のことだか分からなかった綱吉は恐々顔を上げ、言い足されて慌てて左手を出した。
「逆」
「え、こっち?」
だのにそっちではないと首を振られて、綱吉はおろおろしながら左右の手の位置を入れ替えた。掌を上向けて差し出すと、ムッとしたまま雲雀は細い手首を掴んだ。
折れそうなくらいの力の入れ具合に慄き、取り戻そうとするが叶わない。力勝負で勝ち目など最初からなくて、綱吉は抵抗むなしく雲雀に押さえ込まれた。
「イッ、た……あぁ!」
そうして雲雀は右手人差し指の爪を立て、先ほど貼ってやったばかりの絆創膏の端を捲り、一気に引き剥がした。
赤い傷跡が露になって、綱吉は小さく丸められた絆創膏の行方を追って瞳を泳がせた。間抜けに開け放った口から悲鳴をあげ、衆目を浴びて亀のように首を引っ込める。
雲雀は綱吉の右手首を掴んだまま、二度と使えなくなった絆創膏を握り、満足げに頷いた。
「なにするんですか、ヒバリさん」
「分からないの」
「う、いや、でも……」
無体を働いた彼に怒鳴るが、低い声で問われて、綱吉は途端に言葉に行き詰った。
単純な話、これは雲雀のヤキモチだ。綱吉に対する独占欲を発揮して、綱吉の警戒心の無い行動を責めてもいる。
ただ、一番の被害者が綱吉であるのも忘れないで貰いたい。絆創膏は怪我した箇所を守り、治るまでの間外からの刺激を防いでくれるものだ。それを取り払われた今、長く忘れていた痛みまで共に蘇った。
じくじくする右手に臍を咬み、綱吉は肩を大きく揺らして雲雀から手を取り返した。自分の胸に、傷に触れぬように抱き込んで庇い、せめてもの抵抗と雲雀を睨み返す。
「あれ一個しかなかったのに」
「替えなんて、いくらでもあるだろう」
「今すぐ欲しいんです!」
家に帰れば、と言葉を補った雲雀に牙を剥き、綱吉は鈍痛を発する掌を彼の眼前に突きつけた。
押し出された空気に前髪を撫でられ、雲雀が唇を尖らせる。そんな表情には騙されず、綱吉は我が儘に我が儘で返し、どうだ、と鼻を膨らませた。
いつまでも雲雀に押し負けてばかりなのは悔しい。強気の眼差しを向けてくる少年に、やがて雲雀は嘆息した。肩を竦めてやれやれ、というポーズを作り、額を隠す黒髪を掻き上げる。
大胆不敵な笑みに、綱吉は僅かに怯んだ。
「な、んですか」
不遜な態度で見下ろされて、声が上擦る。しかし雲雀は答えず、黙って左手を前に繰り出した。
逃げ遅れた右手の中指を引っ張られ、掌を上どころか彼の方へと向けられた。手首が捻られ、そんな角度では曲がらないと骨が悲鳴をあげる。奥歯を鳴らして別の痛みを堪え、再び取り戻さんと肩を強張らせた矢先。
ふっと、指先に熱を感じた。
鼻から吐き出された呼気が綱吉の掌を擽る。あ、と思う間もなく生暖かなものが傷口を撫でて、一瞬で遠ざかった。
伏した顔をあげた雲雀が、意味深に唇を歪めて笑う。細められた黒水晶の瞳に己の琥珀が大きく映し出されて、綱吉は下から上に迫りあがってくる衝動に全身を震わせた。
背筋がゾワッと来て、頬が断りなく赤く染まる。顔の筋肉は一斉に引き攣り、雲雀が触れた箇所は灼熱の太陽のように熱を帯びた。
「ひっ、ひっ、ひっ」
「絆創膏代わり」
「ヒバリさん!?」
息が詰まってろくに発音できないでいる綱吉に微笑み、雲雀はようやく手を放した。
全身茹蛸状態の綱吉が、右に、左に視線を泳がせ、立ち止まって見ている風紀委員らに気付いて飛びあがった。自分のリュックサックを蹴り飛ばし、それで存在を思い出して両手に抱きかかえ、腹を抱えて声を殺して笑っている雲雀に涙ぐむ。
だがお陰で、痛みはすっかり何処かへ吹き飛んだ。
「ば、……馬鹿!」
但し、感謝など出来ない。
恥かしさを爆発させて叫び、踵を返して公園を駆け出す。
「転ばないようにね」
夕日に染まる並盛の町を全力疾走する背中に呼びかけ、雲雀は呵々と楽しげに笑った。
2009/09/20 脱稿