戯言

 電線に群れを作った雀が、互いに寄り添いあいながら囀っている。
 彼らが俯瞰するは並盛町、並盛中学校の正門。今は登校時間帯を少し過ぎ、後一歩チャイムに間に合わなかった生徒が萎縮して、小さくなっている姿だった。
「沢田綱吉」
「はいいっ」
 フルネームで呼ばれた男子生徒が、瞬間、ビシッと背筋を立てて起立のポーズを作った。その見事なまでに歪みの無い姿勢に、呼んだ側の青年は何が楽しいのか、切れ長の目を一層細めた。
 予鈴はとっくに過ぎ、一分ほど前に本鈴も鳴り終えた。この学校に在席する生徒の大半は既に登校を終え、教室でめいめいの席に座って授業の開始を待っていることだろう。
 だから一刻も早く、沢田綱吉もこの場を立ち去らなければならない。しかしそれを許さない空気が場に溢れ、彼を束縛していた。
 綱吉の前に仁王立ちする青年は、肩に羽織った学生服の袖を揺らして小首を傾がせた。どうして、と問う視線を投げられ、綱吉は竦みあがり、慌てて目を逸らして鞄を抱える両手に力をこめた。
 弁当箱が逆さを向いているだろうが、気にも留めない。その余裕すら、今の彼には残されていなかった。
 だらだらと脂汗があらゆる汗腺から噴き出し、体温が奪い取られて指先から冷えていく。彼らの周囲では朝の仕事を終えた風紀委員が、チェックシートや没収物などを持って校舎内に引き上げようとしていた。
「委員長、その者は」
「僕が見るから、もう行って良いよ」
「はっ」
 妙に芝居がかった返事をし、黒の学生服にリーゼントという時代錯誤の出で立ちをしたその委員は去っていった。最後にちらりと綱吉の顔を盗み見て、どこか呆れた表情をしていたのは、気のせいではないだろう。
 ぞろぞろと列を成して校舎に消えていく強面顔の男らを見送り、捻っていた腰を戻した雲雀は改めて綱吉に向き直った。
 溜息の最中に腕を組み、肩を上下させて、俯いている所為で見える綱吉のつむじを見詰める。
「今日で何日連続?」
「えっと、……九日、ですっけ?」
「残念、外れ」
 静かに問えば、身じろいだ綱吉がおずおず言葉を紡いだ。上目遣いに大きな琥珀で雲雀を映し出したと知ると、雲雀は不敵に笑って口角を歪め、つれなく言い放った。
 実際に殴られたわけではないが、ガツン、と拳で叩かれた気分になって、綱吉はまたも下向き、唇を噛んだ。
「十日だよ。ちょっと弛みすぎじゃない?」
 差し出された生徒手帳を受け取り、それで綱吉の頭を叩いた雲雀が、呆れ半分に呟く。すっかり癖がついてしまったページを開くと、大半が赤文字で埋め尽くされていた。
 遅刻、罰掃除一階南トイレ。
 遅刻、罰掃除裏庭。
 遅刻、罰掃除……
 罰則の掃除がエンドレスで続く予定表の最後尾に、雲雀はポケットから抜き取った赤ペンで丸を入れた。横に遅刻、と新たに書き加え、続きをどうしようかと思い悩んでペン先で紙面を擦る。
 気がつけば小さな点が三つばかり出来上がっており、雲雀は溜息をついてペンを引っ込めた。
「反省してるのかどうか、甚だ怪しいね」
「今日はちゃんと、起きたのに」
「何か言った?」
「いいえ、別に」
 どれだけ罰を与えても、なんの抑制にもなっていない。まるで懲りていないと呟けば、綱吉は唇を尖らせてボソリ言った。
 聞こえていたが、聞こえなかったフリをした雲雀に、綱吉もツンとした態度を取って素っ気無く言い捨てた。
 今朝はしっかり目覚まし通りの、本鈴に間に合う時間に起床出来たのだ。ところがこういう日に限ってランボが馬鹿をして、綱吉の制服にイチゴジャムを瓶ごとぶちまけてくれた。
 拭き取ってもべたべたするし、常時香る甘ったるい匂いには吐き気がした。そのままではとても学校に着ていけず、仕方なく洗濯してあった予備に着替えているうちに時間が足りなくて、この有様だ。
 たった一分の遅刻くらい、許してくれてもいいではないか。融通の利かない風紀委員長を精一杯の眼力で睨み、綱吉は足元の地面を蹴った。
 薄い埃が立ち上り、直ぐに消えてなくなる。運動靴の先にほんの僅かに汚れが残って、出来上がった斑模様に彼は緩く首を振った。
 溜息をつきたいのは、こちらの方だ。むしろ泣きたい。ランボの騒動が無ければ、こんな恥晒しな記録を更新せずに済んだし、朝っぱらから雲雀の説教を喰らうこともなかったのだ。
 帰ったらただではおかない。まだ分別のつかない五歳児相手に本気で怒りを抱き、綱吉は背中に回した鞄で腰を叩いた。
「沢田綱吉」
「はい」
「本当に反省してるの?」
「してますよ」
 ぶっきらぼうに言い返すが、信じてもらえたとは到底思えない。流石に似たようなやり取りを十日も続けていれば、お互い何を考えているのかも、微妙にだが空気から感じ取れた。
 それに、何も綱吉の遅刻は、十日前から始まったわけではない。数日置きに何度か、人よりも若干――とは言えない頻度で連発している。寝坊が理由のことも多いが、今朝のようにランボやリボーンの悪戯で間に合わない日も、それなりにあった。
 しかし雲雀にしてみれば、遅刻は遅刻。もっと余裕を持って起床しない綱吉が悪い、の一点張りだ。
「本当に?」
「ほんとですってば」
「だったら、どうして今日もまたなのかな」
 しつこく聞いてくる雲雀に痺れを切らし、語気を荒げた綱吉だったが、即座に上向いた気勢を叩き落されてしまった。
 小さい子供の悪戯に振り回されていたと正直に話しても、彼の事だから「年下に振り回される方が悪い」と一蹴してしまうに違いない。それに雲雀は、リボーン贔屓だから、綱吉がいかにあの極悪家庭教師の赤ん坊の悪事を訴えても、耳を貸さないはずだ。
 垂れ下がる前髪を掻き上げ、肩を落として盛大に溜息をつく。
 もう体育館でもなんでも、掃除してやろうではないか。諦めの境地を通り越し、開き直って顔を上げた彼は、何故か同情めいた視線を投げている雲雀に気付いてムッとした。
「いいじゃないですか、遅刻の一回や十回」
「立派な風紀違反だよ」
「ヒバリさんが頑固過ぎるんです」
 規則で雁字搦めにされる生活は、ただ窮屈なだけだ。学校の長を気取るのなら、少しの失敗は許すくらいのおおらかさを持って、どん、と構えておくべきではないのか。そう声高に主張し、自分の胸を叩いた彼はふん、と鼻を鳴らした。
 完全に居直ってしまった彼に肩を竦め、雲雀はどうしたものかと晴れ渡る頭上を仰いだ。電線で羽根を休めていた雀はいつの間にか姿を消し、その向こうにぽっかり浮かぶ雲が、西から東へ呑気に流れていった。
 首を振り、反らしていた胸を戻して黒髪を掻き上げる。涼やかな瞳が綱吉を射て、一瞬どきりとしてしまった彼は、高鳴った心臓に手を押し当てて自分に首を捻った。
「ヒバリさん?」
「君は、罰掃除をどれだけ命じても、ちっとも反省しないからね」
 どうしたものかと口ずさみ、理由も分からずに動揺している綱吉を知らず、彼は顎を撫でた。
 上から下へ目の前の存在を眺め、再び上に戻って赤い顔を見詰める。瞬きをせずに五秒ばかりじっと見ていたら、堪えきれなくなったのか綱吉が先に目を逸らした。
 大粒の琥珀がそっぽ向き、雲雀から外れて遠く校舎の影を映し出した。窓ガラスに快晴の空が反射して、眩しい。授業はとっくに開始されており、今から行っても一時間目の内容はさっぱりだろう。
 また誰かにノートを頼まなければ。しかし綱吉の知り合いのうち、そういうマメな事をしている男子はいない。山本は基本居眠りだし、獄寺も教科書を読めば内容が理解出来てしまうため、先生の話は真面目に聞いてさえいなかった。
 リボーンに知れたら、こっぴどく怒られそうだ。雲雀と果たしてどちらが怖いだろう、天秤に載せるのさえ恐ろしい想像に震え、綱吉は黙り込んでいる雲雀の様子をそっと窺った。
 視線がこちら向いたと直ぐに気付いた彼が、瞬きひとつの末に組んでいた腕を解いた。
 遅刻魔へのお仕置きを考えていたのだろう。眉間に寄っていた皺が消えて、一歩近付いてきた彼に綱吉は反射的に仰け反った。
「沢田綱吉」
「はい」
 果たしてこのやり取りは、本日だけで何度目になるのか。上擦った声で返事をし、行儀良く両手を脚に添えて揃えた綱吉をしげしげと見詰め、彼は腰に手を当てた。
「今日は、別の罰を与えることにするよ」
「……別の?」
「そう。特別に」
 立てた人差し指を唇に押し当て、雲雀が意地悪く笑う。いったいどんな内容なのか、まるで想像がつかなくて、綱吉は首を捻った。
 特別、というからにはそれなりの苦痛を伴うものなのだろうか。トンファーを両手に握り、不良たちを滅多打ちにしている彼を想像して、綱吉はぼろぼろのサンドバックを自分に置き換えて震え上がった。
 露骨に怯える彼を嘲笑い、雲雀は更に距離を詰めてずい、と動けずにいる綱吉の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、目を閉じて五秒待って」
 冴えた黒水晶の瞳に、綱吉がいっぱいに映し出される。鏡よりも鮮やかな映像に思わず見惚れてしまい、綱吉は危うく彼の言葉を聞き損ねるところだった。
「え?」
「早く」
 急かされて瞬きを繰り返し、綱吉は頭の片隅に残っていた台詞を反芻させた。
 目を閉じろ、と。五秒、という時間制限が気に掛かるが、さてはその間にトンファーを引き抜いて構えるつもりなのだろう。
「え、あの」
「聞こえなかった?」
「い、いえ!」
 矢張り暴力に訴え出るつもりなのだと悟り、綱吉は竦みあがった。ぎゅっと鞄を抱き締め、嫌々と首を振るが雲雀の有無を言わせぬ語気に圧倒され、拒否できなかった。
 半泣きになりながら唇を噛み締め、言われた通り目を閉じる。
 当然ながら訪れた一面の闇に、光の残影がチラチラ泳いだ。若干俯き加減にして、息を殺す。呼吸の回数を減らすと否応なしに緊張が高まり、心臓の脈打つ音がやたら大きく頭に響いた。
 唾を飲めば、その音も全身に行き渡る。鳥の鳴き声がどこかから聞こえた。自分の呼吸音がやたらと耳障りに感じられる。雲雀の気配を探ろうとしても、瞼の裏に残る蛍火に注意が向いてしまい、どうにもならなかった。
 殴られるのだろうか。痛いのは嫌だから、これまで大人しく罰掃除を受け入れて来たのに。
 肩を強張らせてくるだろう衝撃を想像し、構えを取って綱吉は非常に長い五秒をひたすら待った。奥歯を噛み締め、悲痛な表情で事が終わるまでじっと耐える。
 けれど彼が考えていたようなものは、ついにやってこなかった。
「……ん?」
 その代わりに、ちょん、と何かが綱吉の唇に触れて、離れて行った。
 あまりにも一瞬だったので、それが柔らかかったか、硬かったのかどうかも分からなかった。ただ触れられたと、目を閉じていた所為でそれくらいしか解らない。
「終わったよ」
 雲雀に言われて初めて時間の経過を知り、綱吉は重い瞼を持ち上げた。途端に眩い光がいっぱいに飛び込んできて、網膜を焼かれる痛みに怯えた彼は、掲げた右手で影を作り出した。
 指の隙間から恐る恐る覗いた雲雀は、相変わらず考えていることが読めない顔をして、目だけ笑っていた。
「……え?」
 今彼は、何をしたのだろう。
 自分は今、何をされたのだろう。
 思考が停止している。綱吉は数秒前の記憶を掘り返し、何かが掠めた自分の唇に指を這わせた。
 爪で軽く引っ掻き、小突き、惚けたまま雲雀を見る。
 意味深に歪められた唇に、無意識に目が行った。
「え?」
「したことないんだ?」
 きょとんとしていたら、いきなり訊かれた。
 質問内容が咄嗟に理解出来ず、綱吉はもう一度自分の唇を掻き毟った。雲雀が顎に手をやり、トントン、と人差し指で自身を小突く。
 ふたり同時に、同じ場所を叩いた。
 綱吉が目を見張った。
「え――」
「なら、次からはこれを罰にしようかな」
「え」
 楽しそうに笑って言った彼に、綱吉が絶句する。口元にあった手は握られて、手の甲が唇に押し当てられた。
 まさかとは思うが、雲雀は。
 この男は。
「明日、もし遅刻したら、キ――」
「うわぁぁぁぁ!」
 理解した瞬間、綱吉は大声を張り上げて雲雀の台詞を遮っていた。
 言わせたくないし、聞きたくない。瞬間的に茹蛸よりも真っ赤になって、綱吉は慌てふためいてその場で足踏みを繰り返した。
 虚を衝かれた雲雀が、一瞬後に肩を揺らして笑い出す。益々綱吉は頬を赤らめ、色鮮やかな琥珀の瞳に涙まで滲ませた。
「ひ、ひ、ひば、ひ……ヒバリさんの馬鹿ー!」
 鼓膜が破れそうな怒号をあげ、綱吉は頭から湯気を吐いて駆け出した。一路校舎を目指し、転びそうになりながら逃げていく。
 見送り、雲雀は頬を撫でた涼やかな風に淡く微笑んだ。
「なんだ、本当にした事ないんだ」
 ちょっとからかっただけなのに、本気にされてしまった。
 面白いくらいに反応した綱吉を笑い、雲雀は曲げた指の背を自分の唇に押し当てた。丁度綱吉が、一瞬だけ感じ取った衝撃そのままに。
 紅色に染まった頬を思い出す。触ってみたかった、きっと温かくて、柔らかいだろう。
「明日は、どうなるかな」
 楽しみだと肩を揺らし、雲雀は舞い降りた雀を避けて歩き出した。

2009/04/27 脱稿