仰望

 ちりりん、と涼しげな風鈴の音がひとつ、五月蝿い蝉の鳴き声に紛れて軽やかに響き渡った。
 ジッとしていても汗が溢れ出し、白い木綿のシャツに次々と吸い込まれていく。湿った布は肌に張り付き、特に背中から肩に掛かる一帯が、絞れば水が滴り落ちるのでは、というくらいの酷さだった。
「ヒバリさん」
「うん」
「えっと、非常に言いづらいんですけども」
「なに?」
「あのぉ……重いんですけど」
「そう?」
 伸ばした両足の膝を軽く曲げた綱吉が、呻くように訴える。けれど非難を耳にしても雲雀は飄々とした態度を崩さず、むしろどことなく楽しげな声で相槌ばかりを返した。
 おまけに背中に掛かる荷重を増やされて、余計前のめりの姿勢を強要された綱吉は、腹筋への圧迫感に悶え、奥歯をカチリと鳴らした。
「ヒバリさん」
「僕は重くないよ」
「当たり前じゃないですか」
 少し前まで綱吉は、自室でひとり、のんびりと読書を楽しんでいた。否、楽しくは無い。夏休みの宿題で、どうしても本を一冊以上読まなければならないので、仕方なく、だ。
 読書感想文の為、長期休暇突入直前に学校の図書室で借りた本の、若干色がくすんだ本のページを捲り、綱吉は大きな溜息を零した。
 流石に中学生にもなろうと、児童文学に分類されるファンタジー系の読み物では恥かしい。だからと、明治時代の文豪と言われている人の本を選んでみたのだが、これが非常に難解で、綱吉の持てる知識を総動員しても分からない単語だらけだった。
 読めない漢字も、多い。だから足元には国語辞典が置かれ、ノートも広げて逐一書き留めて調べられるように準備していた。
 そこへ訪ねて来たのが、いつだって気まぐれで身勝手で、我が儘な人。
「……もう」
 今忙しいから構ってあげられないと言ったのに、全くお構いなし。例の如く窓から入り込んで、どん、と居座ってしまった。
 客に茶も出さないのかと言われて、渋々自分の分も一緒に冷たい麦茶を用意する。どうせ喉が渇いたから立ち寄っただけだろうと高を括っていたのだが、氷たっぷりの麦茶を飲み干しても、彼は動こうとしなかった。
 綱吉は宿題があり、雲雀の相手をしている暇はない。好きに寛いでいいが、邪魔だけはしないでくれと頼み込んで、面倒臭いことこの上ない読書を再開させたわけだが。
 床に直に座っていた綱吉の背中に、彼はあろう事か、寄りかかって来た。
 そして現在進行形で、雲雀は綱吉に背中を預け、居眠りの体勢に突入していた。
「ヒバリさんが重くないのは、当たり前じゃないですか」
「どうして?」
「……こなくそっ」
 首から上だけを、動く範囲で振り向かせて怒鳴るが、雲雀は易々と受け流して聞き返してくる。言葉尻に嘲りが混じっており、どうやら綱吉が猫背なのが悪い、と言いたいらしい。
 表情は見えないが、雲雀が笑っているのは圧し掛かってくる背中の揺れで感じ取れて、綱吉は忌々しげに叫ぶと、ぐっと腹筋に力を入れて身を起こした。
 背筋を真っ直ぐ伸ばし、雲雀を押し返す。
「ちょっと」
 だのに、急に不機嫌な声を出されてしまった。
「動かないでよ」
「はあぁ!?」
 天井を見上げたまま、雲雀がそんな事を言う。人に体重を押し付けてきている身分で、その言い草は無いだろうに。思わず素っ頓狂な声をあげた綱吉は、膝に広げた本を危うく落とすところだった。
 慌てて端を握り締め、何ページ分かの角を折り曲げてしまってまた慌てる。彼は薄ら走った筋を擦って伸ばし、ぐぐぐ、と人を押し潰そうとする男に臍を噛んだ。
 邪魔をしないでくれと言ったのに、この有様だ。雲雀には人の話を聞く、というスキルが足りていないのではなかろうか。
 もうひとつ、深々と溜息をついて綱吉は紙面に目を落とした。前のページの最後まで読んだはずなのに、内容が今のやり取りですっ飛んでしまった。折角頭に入れたのに、と悔しげに唇を噛み、一ページ戻って記憶を辿りながら文章に目を走らせる。
 ちりん、とまた風鈴が鳴った。
 雲雀が来る前から開けっ放しの窓、そこから吹き込む風は夏の日中をありありと感じさせる熱風だった。
 気温は三十度を越え、夏日を記録している。三十五度を越えれば冷房を入れても良いと言われているが、残念ながら今日はそのレベルに到達しなかった。
 傍らのテーブルに置いた麦茶を入れていたグラスからも、カラン、と微かな音が響いた。顔を正面に向けたまま、瞳だけをそちらにやる。残っていた氷の角が溶けたのだろう、底に水が五ミリほど溜まっていた。
「ヒバリさん、暑いです」
「夏だからね」
 この体勢では、後ろの彼の姿はまるで見えない。振り向こうとすれば、凭れかかっている雲雀の頭に頭がぶつかってしまう。
 さっきもそれで耳の後ろをゴツンとやってしまい、雲雀の肩ぐらいしか見るのが叶わなかった。夏季休暇中だというのに、風紀委員の仕事があったのだろう、制服にネクタイ、腕章は相変わらずだった。
 風鈴がまた鳴く。透明なガラスを通り抜けた光が、フローリングの上でやけに明るく輝いていた。
「夏だけが理由じゃないんですけど」
「じゃあ、なに?」
「ヒバリさんが、くっついてくるから」
 これではちっとも読書に集中できない。
 身体中のあちこちから汗は滲み出て、綱吉の体力をこれでもか、というくらいに奪い取っていく。いつもは元気一杯に爆発している髪の毛も、今は湿り気を帯びた毛先が重そうに垂れ下がっていた。
 枯れた柳のようだ。眇めた琥珀の瞳を上向けて、乾いた唇をぺろりと舐める。流れた汗がしみこんでいたのか、少しだけ塩辛かった。
「こうしてるのは、嫌?」
「嫌っていうか、邪魔しないで欲しいっていうか」
「僕は邪魔?」
「だから、そうじゃないんですけど、えっと……」
 雲雀が伸び上がり、言葉を連ねる。シャツ越しに彼の背骨が動く、ごつごつとした感触が伝わってきて、綱吉は反射的に振り返ろうとして、視界三分の一を埋めた黒髪に慌てて顔を戻した。
 広げた本の上で、汗ばんだ掌を広げては丸め、小突き合わせる。インクを載せた紙面にも汗は吸い込まれ、手の形に皺が出来ていると知って彼は舌打ちした。
 邪魔かと聞かれたら、その通りだ。彼が来てから、たった二ページしか読書が進んでいない。午前中は調子よく読めていたのに、一気に詰まってしまった。
 計画では今日中にこれを終わらせて、明日からはまた違う宿題に取り掛かる予定だった。ところが、雲雀の登場で全て台無しだ。
「重い~」
 こういう文句なら簡単に言えるのに、邪魔だから帰れとはどうしても言えない自分が悔しくてならなかった。
 雲雀とて暇な身分ではなく、綱吉が学校に出向く理由がない休み期間中は、特に顔を合わせるタイミングが掴みづらい。彼の方から出向いてくれたのだと考えると、胸がほんのり温かくなって、顔が勝手に緩むのも止められない。
 背中を合わせてくる、そんな些細な触れあいも、嫌ではない。むしろ嬉しい。
 ただ、矢張り少し邪魔なのは否めない。
 宿題はしたい、けれど雲雀と一緒に居たい。背中合わせではなく、肩を並べる座り方だったら、また少しは違っただろうに。
「ふぁ、あぁ……」
 どうしてこの姿勢なのだろうかと下唇を突き出して考えていると、見計らったかのように後ろから欠伸が聞こえて来た。
 その心底眠そうな声に、綱吉は瞬きを二度繰り返して肩を引いた。後ろを窺い、雲雀の腕が顔の辺りに向けて持ち上げられているのに気付く。口元を覆うのに使ったのだろう。
「眠いんですか?」
「うん」
 少し昼寝をするつもりで寄ったのだと、彼は事も無げに言った。
 更にもうひとつ欠伸を繰り返し、目尻を擦る。見えないが、背中で身じろがれると、なんとなくだけれど彼が今どんな仕草をしているのかが分かった。
「だったら、ベッドに」
 ただ本当に眠くて、ちょっとの間でも睡眠を取りたいのであれば、綱吉の背中に寄りかかるような不安定な体勢ではなく、全身を伸ばせるベッドに横になった方がずっといいのは確かだ。
 布団だってある、枕だって。冷房は入れてあげられないが、上に何も被らなければ問題なかろう。この室温なら寝冷えする心配も少ない。
 肩を揺らし、右手にある自分のパイプベッドを指し示した綱吉の台詞に、けれど雲雀は首を振った。動いてから、背中合わせの綱吉には通じていないかもしれないと思い至って、声にも出して拒否を表明する。
「やだ」
「なんでまた」
 きっぱりと言い切られて、綱吉は困り果てた様子で聞き返した。
 最早本を読み続けられる状態ではなく、栞を挟んでページを閉じる。辞書の上に重ねて置き、自由になった両手の平を床に添えた。依然として体重をかけてくる雲雀を、両手両足使って押し返し、ずっと前屈みに曲げていた腰を伸ばす。
 途中で骨がボキッと鳴った。雲雀の背中に張り付いたシャツが引っ張られ、腰との間に隙間が出来あがる。直接肌を擽った温い空気に舌打ちして、彼は抵抗を止めない雲雀に懸命に抗った。
 雲雀は両手を軽く結び合わせて腿の上に置き、唸り声をあげて自分を押し返す綱吉に目を細めた。
「ほら、もっと頑張らないと」
「だったら、退いてください」
「嫌だね」
「どうしてですか」
 僅かしかない体力を無駄遣いさせられて、綱吉は既に息も絶え絶えだった。どうして部屋にいるのに、全力疾走した後のような疲れを覚えなければいけないのか。
 不満げに頬を膨らませ、腕の力を抜いて肩を落とした彼にまた凭れかかり、雲雀は喉を鳴らした。
 そうして不意に、真面目な顔を作る。
「此処が良いから」
 少しだけ首を右に倒し、綱吉の汗ばんだ肩に頬を寄せる。その状態で息を吸えば、一緒になって綱吉の汗の匂いも鼻腔に流れてきた。
 彼が体勢を変えたのは綱吉にも伝わって、益々居心地が悪くなった綱吉は膝の角度を強めた。ハーフパンツから伸びる細い脚を引き寄せ、三角の頂点に両肘を置いて、その間に顎を置く。窪みに顎の尖りがすっぽり収まって、その分猫背が強まった。
 雲雀の背中が重い。
 重なり合う背中が熱い。
「此処、って」
「このままがいい」
「ベッドの方が楽ですよ?」
 人の背中に凭れかかるのに固執する彼に、少し呆れた声で返す。だのに雲雀は受け流し、ゆるゆる首を振った。
「だって、君は忙しいんだろう?」
 綱吉が読書の継続を諦めた事実は、反対側を向いたままだった雲雀には知られていなかったらしい。僅かに拗ねていると分かる口調で言われ、一瞬きょとんとした綱吉は、ややしてから小さく噴き出した。
 珍しい。
「……なにがおかしいの」
「だって、ヒバリさんが、変なの。拗ねてる」
 これが彼なりの甘え方なのだと分かった途端、胸の奥がくすぐったくなった。
 どうしても笑いを堪えきれず、目を細めてクスクスと声を零す。雲雀は苦虫を噛み潰したような顔をして、預けっ放しだった体重を自分の方へ戻した。
 瞬時に前のめりにした上半身を腰で捻り、両手を床に衝き立てて綱吉を下から覗き込む。目尻に流れた涙を拭った綱吉は、唇を噛み締めている彼に相好を崩して小刻みに肩を震わせた。
 その膝に本がないと今頃悟った雲雀が、途端に顔を赤くしてそっぽを向いた。
「読まないの、本」
「読みますよー」
 鬼家庭教師のお仕置きが怖いので、言われずとも宿題はちゃんとやる。けれど雲雀が居ては集中できないし、読んでも頭の中に文章が入って来ない。
 真剣に取り組めない。
 ふたり分の体重と体温を一手に引き受けて、その上でほかの事に意識を注げるほど、綱吉は器用な性格をしていない。いつだって一点集中、雑念が混じると途端に意気消沈。
 ケラケラ笑って、今度は綱吉が彼の背中に寄りかかった。腕を後ろに這わせ、手探りで雲雀の手を見つけ出す。握り締めると、骨張った指がピクリと痙攣したのが分かった。
「沢田」
「見付かったら、一緒に怒られてくれますか?」
 背筋を後ろに反らして上半身を完全に彼に預け、綱吉は白い天井を見詰めて言った。
 誰に、の部分が欠けていたが、綱吉の笑みを含んだ口調からすぐに想像できて、雲雀は嬉しげに微笑み、頷いた。
 彼が動いた分だけ、預けた体が沈む。
 今の雲雀がどんな表情をしているかを想像し、綱吉は目を細め、そのまま瞼を下ろした。

2009/08/02 脱稿