湿気が肌にまとわりつく。不快指数は最高潮に達し、雲雀は知れず、舌打ちした。
梅雨時はどうしても仕方が無いとはいえ、応接室を一歩出た途端にムッとした空気を浴びせられるのは、はっきり言って気分が悪い。冷房設備が整った場所から、そうでない場所へ移動したのだから当然なのだが、一気に噴き出た温い汗に、彼は露骨に顔を顰めた。
傍らを行く草壁の暑苦しい格好も、体感温度を助長している。かといって彼に脱げ、と言うわけにもいかず、雲雀は味も何も無い唾を飲み込み、咥内の渇きを癒すことで気分を誤魔化した。
半袖シャツ姿の雲雀がこれだけ暑いのだから、長ランに身を包んでいる草壁はもっと暑かろう。その他大勢の風紀委員も、同じだ。
雲雀ひとり涼しい格好をしておいて、彼らの前で蒸し暑さに愚痴を零していては委員長としての体面に関わる。痩せ我慢のつもりはないが、「暑い」というひと言は固く心の奥底に封印して、彼は昼休憩中の巡回をすべく、教室棟に足を運んだ。
並盛中学校に給食はないので、弁当持参者が大半を占める。そうで無い生徒は購買でパンかおにぎりを購入、或いは道すがらの店で弁当を買って学校内に持ち込んでいた。
廊下を歩きながら窓から見下ろすグラウンドには、昨晩の雨の名残で水溜りがそこかしこに点在していた。にも関わらず、早々に食事を終えた生徒が何人か、サッカーを敢行して泥水を蹴り飛ばしている。元気の良いはしゃぎ声は、じめじめとした空気を追い払う格好の材料だった。
「今夜から、また雨だそうです」
「そう」
雲雀がなにを見ているのかを察し、草壁が晴れ渡る空に目をやって言った。
夜中に雨が降り、日中は晴れ。無難に毎日を過ごす人間にしてみれば、これ程都合の良い天候も無かろう。なにせ活動時間帯に、傘を広げる必要が無いのだから。
もっとも、そうやって地面に染み込んだ水分が、太陽の熱を受けて蒸発し、地表の湿度を上昇させているのだとしたら、それはそれで迷惑な話だ。
肌に張り付くシャツを引っ張り、きつく結んだネクタイを僅かに緩めて雲雀は唇を舐めた。
後ろにまたぞろついて回る風紀委員をちらりと見て、肩を竦める。見た目が黒一色なのは仕方が無いとして、そもそも委員会を構成するメンバーの大半はガタイの良い、体育会系の男子ばかりだ。集団で固まられると、それだけで場に熱気が立ち込める。
「恭さん?」
副委員長を任せられている草壁を指で招き、雲雀は眉間の皺を深めた。
「群れるなって、何度も言ってるはずだけど」
「はっ」
腰を屈めて耳を寄せた彼に低い声で囁くと、瞬時に背筋を伸ばした彼は、雲雀が睨む中急ぎ振り向いた。
集まっているメンバーに向かって手を叩き、散会を宣言する。雲雀の腰ぎんちゃくよろしく、後ろをついて回るだけではなくて、独自に風紀を取り締まるよう、リーゼントの青年は声高に叫んだ。
一瞬ざわついた空気も、雲雀のひと睨みによってあっという間に静まった。
「ほんと、役に立たないね」
蜘蛛の子を散らすように方々へ走っていた風紀委員たちに雲雀は肩を竦め、草壁は苦笑した。
「誰もが、恭さんのように強くはないですので」
自分で良し悪しを判別し、他者に頼る事無く行動を起こすには勇気が要る。雲雀が簡単に出来ることも、他人にはそうではないと言外に諭した彼をちらりと見やり、雲雀は嘆息した。
それでも、誰かの後ろに金魚の糞よろしくついて回るしか能の無い人間は、風紀委員には不要だ。それに、廊下は走ってはならないと規定されている。取り締まるべき立場の人間が破ってどうするかと、彼の憤慨はなかなか治まらなかった。
それをどうにか宥め、草壁は頭を掻いた。
「ねえ」
「はい?」
「その頭」
ぽりぽりと、特徴的過ぎるリーゼントを揺らした彼から視線を外し、雲雀は開けっ放しの窓辺に寄った。
三階なので幾らか涼しい風が吹き込み、雲雀の艶やかな黒髪を揺らす。しかしカチカチに固められた草壁の髪は、そうはならなかった。
「なんでしょ……ああ」
不思議そうな眼差しが戻って来て、草壁は問い返す途中で理解した。言葉を切り、額の真上に鎮座する頭髪を見上げる。
簡単に崩れないように固定しているそれの形が、いつもと若干違うのだ。家を出る前、この形に整えるのに掛かった時間を思い出し、草壁は強面の顔に不釣合いな笑顔を浮かべた。
「今日は湿気が凄いですから」
髪が空気中の水分を吸って膨張し、なかなか形が綺麗にならなかった。一応それなりに整えては来たものの、湿度の低い日と比べると、雲雀が微細な違和感を抱くのも無理ないことだった。
草壁と日頃接する機会が少ない人間であれば分からなかっただろうが、雲雀は毎日のように顔を合わせている。気付くのは流石だと感心しながら、草壁は仰々しくお辞儀をし、自分も巡回に向かうと告げて踵を返した。
黒々しかった廊下が一気に閑散として、取り残された格好となった雲雀は胸に抱いた妙な空虚さに苦笑した。
草壁が去っていった方角とは逆に爪先を向け、歩き出す。応接室のある特別教室棟と教室棟とを繋ぐ渡り廊下に出ると、壁が一部無いために一層強い風を浴びせられた。
横殴りの突風をやり過ごし、乱れた黒髪を右手で尾さえ、梳きあげる。指の隙間をサラサラと流れて行く絹の糸は、草壁のような湿気とは無縁で、いつもと変わらず途中で絡みもしなかった。
目に入りそうになった毛先に嫌な顔をして、抓んだそれを左右に揺らす。癖の無い真っ直ぐな質感で、引っ張ると腰があって硬い。頭皮深くまで根を張っているようで、ちょっとの力では抜けなかった。
「ふぅん」
自分がそんなだから、湿気の所為で髪型が決まらないという草壁の話は、意外だった。今まで考えても見なかったことで、ならばあの子の髪の毛がいつも爆発しているのも、これが原因かと思うに至った。
頭の中に浮かび上がった、蜂蜜色の髪をした少年。地球の重力を無視した毛先が四方八方を向いて跳ねているその様は、さながらハリネズミだ。
顔のサイズに比較して、大きすぎる琥珀色の瞳に、コロコロとよく変わる表情。少しもじっとしていられない、落ち着きの無い性格をして、年下にはとびきり対応が甘い。以前はおどおどしてばかりだったが、最近は活発になり、良く笑い、良く拗ね、よく怒る。なにかとトラブルを巻き起こすようにもなって、雲雀との接点は急激に増えた。
最初は彼と行動を共にする赤ん坊に興味を持ったが、今は少し違っている。赤ん坊は無論気になる存在のひとりだが、トランクス一枚で学校、或いは並盛町内を縦横無尽に駆け回る沢田綱吉も、見ていて非常に厭きない人間として、雲雀の心に強く印象付けられていた。
一秒として同じ表情をせず、反応はいつも過剰、かつ過敏。
からかってこれ程面白い相手は、初めてだ。
その沢田綱吉の髪の毛が、常に爆発していた。見た目に反して意外に柔らかくて、だからどうしてそんな風に癖だらけで跳ね放題なのかは、本人にも分からないらしい。濡らして櫛を入れて、ドライヤーで整えても、ちっとも真っ直ぐにならないのだと、いつだったか聞いた時、そう言っていた。
ヒバリさんの髪の毛が羨ましい、とも。
特別手入れをしているわけではないが、雲雀の黒髪は綺麗なストレートだ。
あの時の自分は、なんと答えたのだろう。思い出せない。
当たり障りの無い返事をしたつもりで、何故か綱吉は怒った。酷いだの、あんまりだ、だの、散々な言葉で詰られた気がする。
「なんだったかな」
ボソリと呟き、雲雀は教室棟を前にして渡り廊下に立ち尽くした。
ふわりとまた風が泳ぎ、彼の頬を優しく撫でる。燦々と照る太陽は地上を温め、大量の紫外線をそこに生きる人々に放り投げていた。
「暑いな」
周囲に誰も居ないのを確かめ、掠れるほどの小声で呟く。校舎の継ぎ目にあたる場所にいるので、外に居る人間からは雲雀が佇んでいる様が辛うじて見えても、唇がどんな言葉を発しているのかまでは、分かるわけがなかった。
ネクタイの結び目をもうひとつ緩め、襟を広げる。ペンキが剥げ掛けた細い柱に背中を預け、彼は南の空高くにある太陽を睨みつけた。
風が吹いても、肌に絡みつく鬱陶しいまでの湿気は完全に除去するのは難しい。こんなじめじめした不快な環境に耐えながら、綱吉は教室で机に向かい、勉学に勤しんでいるのだ。
昼からはまた気温が上がるのだろうか、雲の少ない空を見上げて彼は小首を傾げた。
「冷房、切ってみようか」
綱吉と同じ環境に自分も身を置いて、彼の辛さを少し体感してみよう。そもそも冷房に体が慣れすぎているから、外が余計に暑く感じるのだ。
今からこの調子では、八月に入った時熱射病で倒れかねない。それは格好悪いと自分に言い聞かせ、彼は柱から背中を浮かせた。
額に浮いた汗を払い除け、ゆっくりと歩き出す。昼休憩は残り少なくなっており、殆どの生徒が食事を終えてそれぞれの時間を楽しんでいた。
雲雀の姿を見つけた途端、廊下で雑談に興じていた生徒が一斉に口を閉ざしてサッと左右に避ける。出来上がった空間を、さも当然の如く歩きながら、雲雀は怯える面々を尻目にひとりの生徒を探して視線を泳がせた。
二年A組の教室の前で僅かに速度を緩め、開けっ放しの後部ドアから中を覗きこむ。しかし通り過ぎるまでの二秒足らずの時間では、その姿を見つけ出すことは叶わなかった。
中を覗きこんだわけではないので、居るか居ないのかの判別もままならない。居たとしても、廊下側の壁際に寄られていたら、雲雀の視界には入らないからだ。
「……外かな」
ふと、耳にグラウンドで駆け回る生徒らの声が大きく響いた。
その中に綱吉らしきものは混じっていなかったが、雲雀は興味を惹かれ、ふらり、反対側の窓辺に近付いた。
見下ろすが、矢張りそれらしき姿は無い。水溜りを境目にして、幾つかのグループが各々遊びに興じている。サッカー以外にも、キャッチボールや、バレーボールのトスをひたすら繋げる女子の群れもあった。
どの学生も、元気が有り余っている。期末試験までもう間もないので、今のうちに存分に遊んでおきたいのだろう。
雲雀は爪先で廊下を二度叩くと、向かいからやって来た風紀委員が立ち止まって一礼するのを、手を払って構うなと合図した。自分は歩みを再開させ、黒服の委員が登って来たばかりの階段を降りて行く。
怪訝にする彼らに見送られ、逸る心を留めつつ、階下へ急ぐ。向かう先に綱吉が居るとも限らないのに、彼はそうあるものと決め付けていた。
自分が間違えることはありえないと、自信に満ち溢れた顔をして、最後の一段を下りきる。微かに甘い匂いが鼻腔を掠め、彼は視線を上向け、右、続けて左に目をやった。
一階には正面玄関以外には、職員室や保健室等が点在している。学校に登校した際、誰もが通る場所でありながら、玄関以外であまり生徒らに人気があるフロアではなかった。
素通りしてしまう生徒が大半なので、この時間であっても人通りは乏しい。雲雀は漂う埃臭さを手で払い除け、先ほど一瞬感じた気配を探して左に進路を取った。
そちらには、体育館がある。先ほど彼が通った渡り廊下とは、本校舎を挟んでほぼ反対側だ。
運動部の部室が傍に並び、プールも近い。教室ではなく、部室で食事を摂る生徒もいるので、この一帯はそれなりに賑わっていた。
雲雀は校舎と外との境界線で立ち止まり、温い風を浴びて元から細い目を更に眇めた。
複数の歓声が響き渡り、ひとつの大きな渦を作り出す中、上履きのまま彼はむき出しの地面に足を向けた。他の生徒がちゃんと下足に履き替えている中、風紀を遵守すべき彼が、その事も忘れて一直線に体育館脇を目指す。
背の低い緑の木立の隙間から覗いた薄茶色の髪が、盛大に水滴を撒き散らした。
水飲み場は他に人気なく、横長に五つ並ぶ蛇口の真ん中を占領して、沢田綱吉は首から上だけの水浴びに興じていた。
「あっちー」
雲雀にも聞こえる音量で独白し、飛沫が散って濡れたシャツの襟を引っ張る。犬のように舌を出して熱を吐き出し、彼はくしゃくしゃになった髪の毛に合計十本の指を差し込んだ。
頭を下に向けて、髪の毛に絡みついた余計な水分を削ぎ落としていく。しかし完全ではなくて、姿勢を戻した瞬間に垂れ下がった無数の水滴が、細い首筋を遍く濡らした。
雫が陽光を反射して、キラキラと輝く。まるでスポットライトが当たっているかのようで、雲雀は視界を邪魔する枝を押し退けて歩を進め、湿り気を残す土の大地を踏みしめた。
落ちていた小枝が、彼の体重に耐え切れずに真ん中で折れた。その音に、流水に両手を浸していた綱吉もハッとして、顔をあげた。
「あ、れ」
距離にして五メートル弱、ここまで接近されるまで全く存在を気取れなかった綱吉は、其処に佇む黒髪の青年に琥珀の目を丸くして、直後力の抜けた笑みを浮かべた。
ふにゃりと、今にも蕩けてしまいそうな微笑に、雲雀の険しかった表情も角が崩れ落ちた。
「ヒバリさん、どうかしました?」
「ううん」
無数の雫を顔に垂らしたまま、綱吉が小首を傾げた。雲雀は緩やかに首を振り、姿が見えたから、とさらりと嘘を誤魔化した。
顔が見たくなったから探していた、とは言わない。それでも綱吉は、彼がわざわざ自分の方へ出向いてくれたのが嬉しいのか、益々表情を綻ばせて目尻を下げた。
「巡回、お疲れ様です」
風紀委員長として、学校内の見回りをしている途中なのだと勝手に結論付け、濡れたままの両手を背中に隠す。彼は爪先立ちから踵を下ろし、今度は爪先を浮かせて頭をひょこひょこさせた。
水分を吸った為か、いつもは威勢よく跳ねている髪も今は大人しい。乾いていれば彼の動きに合わせ、ふわふわと綿毛のように軽やかに舞い踊るのだが、今は互いにくっつきあい、重そうに毛先を垂れ下げていた。
「水」
「おおっと」
雲雀が顎をしゃくり、蛇口から迸る水を示す。思い出して綱吉は慌て、両手で銀色の栓を回して閉めた。
大きな水滴がぽとん、とコンクリートの流し台に落ちる。綱吉が使っていたので、あたり一面水浸しだった。
「君は?」
「はい?」
「こんなところで」
「ああ」
学校内の設備であるから、並盛中学校の生徒の綱吉が此処の水道を使っていても、なんらおかしくはない。しかし教室から遠く離れ、正直あまり運動神経が良いともいえない彼が、体育館脇の水飲み場にいることは、少々奇妙な印象を抱かせた。
怪訝にしている雲雀がなにを疑問に感じているかを悟り、彼は小さく舌を出した。
「山本たちと、キャッチボールしてたんです」
綱吉が常々親友だと公言している人物の名前が出て、雲雀の眉が片方、ピクリと動いた。
ふたりの仲が良いのは、無論雲雀とて知っている。しかし山本の、少々度が過ぎるスキンシップも過去幾度となく目撃しているため、個人的に彼の存在はあまり心安くなかった。
だが綱吉自身は、あまり気にしている様子は無い。それが不満で、雲雀は相手にそうと知られぬよう、ひっそりと眉根を寄せた。
鼻筋を伝った水滴を拭い、顎から雫が垂れ落ちるのを見送った綱吉が、背筋を伸ばして水飲み場の向こう側に身を乗り出した。額に手を翳して陽光を遮り、どこかに居る友人の姿を探す。雲雀も同じ方角に目を向けて、遠く、やたらと剛速球を投げあうふたり組みに顔を顰めた。
ただのキャッチボールなのに、本気になっている。そのうち消える魔球でも出て来るのではないかと思われるラリーに肩を竦め、綱吉がついていけなくなったのも無理は無いと苦笑した。
獄寺は綱吉に馴れ馴れしい山本に対して、異様なまでの対抗心を持っている。今回もその延長線上だろうと想像して、雲雀は笑っている綱吉に向き直った。
「俺は、早々にリタイアしちゃいました」
「だろうね」
あの迫力に、綱吉がついていけるわけがない。野球部所属の山本に獄寺があそこまで食い下がるのも、綱吉への執念が成せる業だろう。
最も罪深い人物を見下ろし、雲雀は手を伸ばした。
「ん?」
迫る影に気付いて、彼が首を回す。琥珀色の目が雲雀を映し出す寸前、ボスッと半乾きの頭を撫でられ、綱吉は咄嗟に首を竦めた。
わしゃわしゃと無遠慮にかき回され、亀のように引っ込めた頭を戻すタイミングが掴めない。なにがしたいのかと前方を窺えば、雲雀はいやに真剣な顔つきをして、顎に残る手をやって考え込んでいた。
陽射しを浴びて髪の表面は乾きかけていたが、毛根に近い部分はまだ湿っている。櫛を入れたわけではないので毛先は好き勝手な方向に向き、互いに絡み合って時折雲雀の指を阻んだ。
「イテ」
その度に綱吉は顔を顰め、小さな悲鳴をあげた。声を聞いた瞬間だけ雲雀の手つきは緩むのだが、また直ぐに犬でも撫でているつもりなのか、容赦なく髪を乱された。
「量、多いね」
「そうですよ……あいって」
また毛が引っ張られ、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をして雲雀を睨んだ。
今更な感想を口ずさんだ雲雀の真意が読めず、やられっぱなしも癪で、綱吉は両腕を前に出して雲雀の手首を掴んだ。しかし彼も負けじと指先を丸め、人の髪を鷲掴みにしてしまう。
引き剥がそうとすれば髪の毛も引っ張られて、力勝負は早々に、綱吉の敗北で終了を見た。
「いってぇ……」
押し返す力を緩めると、ようやく雲雀の手は離れて行った。彼の指の隙間には、何本か、光に透かすと透明にも見える髪の毛が引っかかっていた。
毟られた箇所を撫で、唇を尖らせた綱吉が湿気った頭を撫でた。雲雀が一本ずつ抓んで、顔の前に翳して珍しげにするのがどうにも気に入らない。
「なんなんですか、もう」
「濡れてると、分からない」
「はい?」
「湿気で、髪の毛は膨らむ方?」
話があちこち飛んで、なにが言いたいのかさっぱり理解出来ず、綱吉は首を右に倒した。雲雀は最後の一本を風に預け、自分の黒髪をゆっくりと掻き上げた。
艶を帯びた黒い絹糸が、サラサラと零れ落ちていく。淀みないその動きを羨ましげに見詰め、綱吉は頬を膨らませた。
「そうですよ」
「そうなんだ?」
「ですよ」
しつこく聞き返され、綱吉はつっけんどんに言い返した後、ぷいっとそっぽを向いた。
なにを今更な質問をしてくるのだろうかと、実に腹立たしくて仕方がない。
いつだったか、雨の日に顔を合わせた時、いつもより髪の毛にボリュームがあると言われた事もあるので、ずっと前から気づいているものとばかり思っていたのに。
今日も朝から鏡を前に悪戦苦闘させられて、お陰で遅刻ぎりぎりだった。
「ふぅん」
分かっているのか、いないのか、緩慢な相槌をひとつ打って、雲雀は顎を撫でた。物珍しげに見下ろされて、また右手が伸びてきたので慌てて後ろに飛んで逃げる。空を切った指先に目をやり、綱吉はざまあみろ、と笑った。
不満げに唇を歪めた雲雀と一定の距離を保ち、昼休みの残り時間を気にして視線を上向ける。けれど此処からでは、校舎外側に設置された大時計は見えなかった。
山本と獄寺は、相変わらず剛速球の応酬を続けていた。そろそろ止めてやらないと、命が尽きるまで延々やっていそうだ。
小さく嘆息し、雲雀に向き直る。人の苦労も知らず、嫌味なくらいに綺麗な髪をした青年に、思わずムッとなった。
「いいですよね、ヒバリさんは。羨ましいですよ、ほんと。何にもしなくても真っ直ぐストレートなんだから」
同じ意味の単語を重複させて吐き捨てた彼に、雲雀は頭の片隅で引っかかっていた記憶を釣り上げた。
これと殆ど同一の会話を、以前にもしている。雨の日、ハリネズミが小型のライオンになっていた日の事だ。
「俺も、髪切っちゃおうかな」
山本のようなスポーツ刈りにすれば、毎日ドライヤー片手に奮起する時間も減る。朝寝坊をしても、今ほど焦らなくて良くなる。
山型に戻り始めた自分の髪を抓んで下向きに引っ張っても、手を離した瞬間またピーン、と背筋を立てて天を指す。元気の良すぎる自身の髪質に辟易しながら呟いた彼に、雲雀は脳内に蘇った台詞を、そっくりそのまま舌の上に転がした。
「けど、そうしたら君じゃなくなるね」
「俺のアイデティっ、ティンって、髪の毛だけですか!」
また間違えた。
前も正しく言えず、そして途中で舌を噛んだ。綱吉も覚えているのかと、二度繰り返された言葉のやり取りに雲雀は喉を鳴らし、肩を揺らして笑った。
相好を崩した雲雀を前に、決まりが悪い顔をして綱吉も口を閉ざした。
「アイディ、ンテ?」
「アイデンティティ」
「アイデンティっ、チ?」
言い直そうとしてまた間違え、雲雀に教えられても復唱できずに彼は唇を尖らせた。ムスッとして、小難しい英単語を使おうとした過去の自分に対して拗ねる。
「もうなんでもいい」
こんな言葉ひとつ知らなかったところで人生困らないと嘯き、雲雀にまた笑われて、彼は顔を赤くした。
高い位置から休憩時間終了を告げるチャイムが響く。これは予鈴で、五分後に五時間目の授業開始の合図となる本鈴が鳴り響く手はずだ。
顔を上げ、綱吉はまだ笑っている雲雀を思い切り睨んだ。
「じゃあ、俺、もう行きますからね」
「うん」
結局雲雀はなにがしたかったのだろう。最後までわからぬまま、綱吉は教室に戻るべくくるりと彼に背を向けた。
その後どうなったかと見た山本と獄寺は、勝負に水を差されたのを怒っているのか、今度は口論を開始していた。矢張り自分が出向き、仲裁に入る必要がありそうだ。
「沢田綱吉」
「はい?」
水飲み場を回り込み、緑に囲われた区画から出ようとした彼を、雲雀が呼び止める。他の人が口にすれば違和感が生じるフルネーム呼びも、彼がすると堂に入っているから不思議だ。
すんなり胸に染み込んだ心地よい低音に、出し掛けた足を引っ込めて綱吉は振り返った。
不敵な笑みを崩し、僅かに表情を綻ばせ、彼は目を細めた。
「けど僕は、君がどんなであれ、君が好きだよ」
丸坊主でも、長髪でも。見た目は今の綱吉と随分違ってしまうだろうが、綱吉の中身までもが変化してしまうわけではない。
根本が変わっていなければ、雲雀の想いも変わらない。
さらりと告げられた思いも寄らぬ告白に、一瞬停止した綱吉は直後、ぼふん、と耳から盛大に湯気を吐いた。
「んなっ、な――」
「授業、遅れるよ」
狼狽する綱吉を他所に、爆弾発言をした当人が平然と顎をしゃくった。含み笑いを零し、綱吉が慌てふためく様を楽しげに眺めてまた笑う。
その意地悪くも綺麗な顔に、綱吉は息を呑んで。
「十代目!」
「ツナ、授業!」
向こうから響いた獄寺達の声に、ハッと我に返った。
雲雀はまだ笑っていた。
「行かないの?」
促されて、悔しげに地団駄を踏む。山本達の急かす声は続いており、次第に焦りを覚えた彼は視線を右往左往させた。
言い負かしたと不遜に鼻を鳴らした彼を上目遣いに睨み、
「ひ……ヒバリさんなんか、将来禿げちゃえ!」
「君が好きでいてくれるなら、それでも良いよ?」
負け惜しみを怒鳴ったのに揚げ足を取られて、今度こそ何も言えなくなった綱吉は、真っ赤な顔をして馬鹿と叫び。
逃げ出した。
2009/06/27 脱稿