紛擾

「ヒバリさんの分からず屋!」
 昼下がりの応接室に、沢田綱吉の罵声が窓を突き破らんばかりの勢いで轟いた。
 名指しで詰られた雲雀恭弥が、向かい側のソファに座ったままムッと顔を顰める。両手を顔の前で結び合わせ、剣呑な視線を眼前の人物に投げ返すが、睨まれた綱吉も負けじと応戦し、場は一気に険悪な空気に包まれた。
 小さなテーブルを挟み、綱吉は握り拳を高く掲げ、何も無い中空を殴りつけて足を踏み鳴らした。
 蹴られた床が甲高い音を響かせ、綱吉の蛮行を非難する。眉間の皺を増やした雲雀もまた、眼力を強めて綱吉を射抜いた。
 あらゆる生命体を圧倒する眼力に彼は拳を震わせ、自身の心を懸命に奮い立たせた。悔しげに唇を噛み締めて、またひとつ、床を蹴りつける。
「我が儘、聞かん坊、トウヘンボク! でくの坊、このろくでなし! お前の母ちゃんでーべーそ。あと、あと、えっと……いけず!」
 叫んでから、他になにがあっただろうかと、綱吉は顔を顰めて小首を傾げた。
 その、悪口を思いつく限り並べ立てようとしている綱吉の心意気は、雲雀にも充分過ぎる程伝わった。彼は厳しい表情を作り、ソファの上で肩を揺らした。
 背凭れに深く寄りかかり、長い溜息を零して両手を解く。投げやりに感じられる態度に綱吉は益々腹を立て、握り締めた両手を前後に激しく揺らした。
「なんで分かってくれないんですか」
「君こそ、どうして僕を分かろうとしないの」
 臼歯が磨耗するくらいにまで顎に力を込め、唸るように訴えかける。しかし雲雀は、今度は腰の前で両手の指を重ね合わせ、脱力頻りのやる気に欠ける声で言い返した。
 最早争論しあうのも面倒臭いと、そう言っているようだった。
 両者の主張は二極化し、妥協しあうという事を知らない。堂々巡りに陥って既に十分以上が経過しており、雲雀が疲れてしまうのも、ある意味仕方の無い事だった。
 ありきたりな罵詈雑言は怒鳴った後で、綱吉は必死に許容量も少ない脳みそをフル稼働して語彙を探して口に出す。最初こそは真正面から受け止めていた雲雀だが、今となってはやり返すのも億劫になっていた。
「馬鹿、間抜け、おたんこなす!」
「聞き飽きた」
「ぐ、むぅぅ」
 スタート地点に戻ってしまっている綱吉に呆れ半分に言って、雲雀は欠伸を咬み殺した。
 なにをそんなにムキになることがあるのかと、強固に雲雀の意見を認めようとしない彼の頑固さに、そろそろ愛想も尽きかけていた。
 呻き声を零して脛でテーブルを押した綱吉は、どうすればこの男を言い負かせられるのかと懸命に考えるのだが、妙案は思い浮かばない。そもそも雲雀に勝てる要素が、彼にはなにひとつ見付からないのだ。
 雲雀は顔良し、スタイル良し、頭良しで、腕力は言わずもがな。人望も、率いる風紀委員の数を見ればそれなりにあると言えよう。
 対する綱吉は、周囲からダメツナと呼ばれている通り、何をするにおいてもダメダメ。成績は最下位クラス、体力は皆無に等しく、気弱な性格が災いしてパシリにしか利用されない。友人は、最近こそ増えたものの、入学当初は弁当を食べるのもいつだってひとりだった。
 ソファに悠然と腰掛けた雲雀が、右を上にして脚を組む。背凭れに委ねていた上半身を起こしてテーブルとの距離を僅かに詰めれば、下から見上げられた綱吉は途端に息を詰まらせ、居心地の悪さから視線を逸らした。
「……馬鹿」
 小声でボソリと呟き、気まずさに喘いで膝を折る。後ろ向きに重心を傾ければ、身体は勝手に沈んでソファへと舞い戻った。
 跳ね上がった爪先でテーブルの脚をまたも押し出し、足元の空間を広げる。必然的に雲雀の側は狭まって、彼は口をへの字に曲げて、膝でこれ以上接近しないように押さえ込んだ。
 上に置かれている揃いのカップが、煽られてカチャカチャと音を立てた。陶器の皿と糸尻とが擦れ合う不快な音色に、双方の表情も険しさを増していく。
 どうして分かってくれないのか。自分の意見が絶対的に正しいとは流石に言わないが、こちらの方が、雲雀の主張よりも遥かに良い筈なのに。
「もう、いいです」
「なにが」
 投げやりに呟き、綱吉は両足を揃えて立ち上がった。脇に置いていた鞄を掴み、肩に担いで自分が使っていたコップに手を伸ばす。
 仲良く並んでいた一方を引き剥がし、胸に抱え込んで綱吉はそっぽを向いた。雲雀の問いかけにも答えず、唇を尖らせて不機嫌を隠さない。
「綱吉」
「いいです、もう。ヒバリさんなんか知りません」
 人の意見に耳を貸さず、一方的に押し付けるばかりの彼には、いい加減愛想が尽きた。今まで我慢に我慢を重ねて来たけれど、もう限界だ。彼の我が儘に付き合うのも、今日で終わりにしてやろう。
 心底うんざりした顔をして、横目で座っている雲雀を見下ろす。蔑む視線を投げやれば、彼はソファの上で身動ぎ、両手を皮のクッションに押し当てて腰を浮かせた。
 中途半端に立ち上がりかけている彼をねめつけ、綱吉はわざとらしい溜息を吐いて首を振った。
「ヒバリさんの分からず屋」
 苦々しく告げて、目尻を吊り上げる。普段は真ん丸く、愛嬌のある琥珀色の瞳が、今は相手を睨み殺す勢いで雲雀を貫いた。
 一瞬気圧され、雲雀が言葉を詰まらせる。伸ばしかけた手は宙ぶらりんに空を掻き、結局何処にも到達できずに脇に下ろされた。
 だが雲雀が綱吉に圧倒されたのも、数秒にも満たない僅かな時間でしかなかった。彼は直ぐに自分を取り戻し、拳を作って肩を怒らせた。
 今度こそ立ち上がり、両手を前に突き出してテーブルに思い切り叩きつける。跳ね上がった受け皿がひと際甲高い音を響かせ、あまりの衝撃に綱吉は咄嗟に身を竦ませた。
「そっちこそ」
 地の底から沸き起こったかのような低い声を発し、眦を強めて雲雀が綱吉に凄みかける。
 彼が綱吉にだけ見せる温和な表情は露と消え去り、残ったのは風紀委員長として絶対君主制を敷く、並盛中学校の強権者としての彼の姿だった。並み居る不良を駆逐し、跪かせる王者としての彼だった。
 こうなれば綱吉は、牙を剥くライオンの前に放り出された兎に等しい。口で分からないのなら腕力で従わせるのも厭わない雰囲気に震え上がり、彼は鞄を抱き締めて首を窄めた。
「違う。ヒバリさんが悪い」
「君だって、ちっとも僕の話を聞こうとしなかったじゃない」
「ヒバリさんが聞いてくれないのが、一番悪いんじゃないですか」
「なんでもかんでも君の好みに合わせろって言う方が、よっぽど横暴じゃないの」
「でも、同じがいい」
「だったら君が、僕に合わせればいいじゃないか」
「たまにはヒバリさんが、俺に合わせてくれてもいいじゃない!」
 ふたりして怒鳴りあうが、互いに意見を譲らない。袋小路に陥って抜け出せず、ただ苛立ちばかりが募っていく。
 息を切らして肩を上下させ、綱吉は目尻に涙さえ浮かべて、どうあっても妥協を示さない相手に唾を吐いた。
「ヒバリさんの馬鹿、もう知らない。絶交してやる!」
「それはこっちの台詞だよ」
 握っていたカップをテーブルに叩きつけ、勢い余って裏返った声で宣言した綱吉に、雲雀も流されるままに横柄に頷いた。胸を反らせて踏ん反り返り、歯軋りしている綱吉を睨みつける。
「「ふんっ」」
 二人揃って同じタイミングで、それぞれ右に首を捻って顔を逸らす。そうして綱吉は鞄を片手に応接室のドアを目指し、雲雀は空のコップをテーブルに置き去りに奥の執務机を目指して、各々大股で、やや荒っぽい足取りで歩き出した。
「ヒバリさんの、ばーっか!」
 最後に綱吉はそう叫んで、あっかんべー、と子供のように舌を出して出て行った。
 ドアを閉める手つきも乱暴で、物凄い騒音を撒き散らした一枚板は、結局きちんと閉まりきらずにぶらぶらと傷心を露に揺れ続けた。

「あー、もう。あー、もう。あーー!!」
 発狂したのかと思わせる大声で絶叫し、綱吉は自室のドアを開けた瞬間、持っていた鞄を壁目掛けて投げつけた。
 中にいたリボーンが、何事かと寝そべっていたハンモックから飛び起きる。弾き飛ばされたレオンが哀れにも床に落ちて、カメレオンの形状がゼリーのように潰れてしまった。
 胸元に添えるだけだった帽子を取って被り直した赤ん坊が、可愛いペットとは同じ轍を踏まぬようにしながら片側から身を乗り出す。その下を潜り抜け、綱吉は憤懣やるかたなしの表情で、無惨に上下逆に落ちた鞄へ歩み寄った。
 拾い上げてそれで終わりかと思いきや、先ほどの一発だけでは気がすまなかったらしい。もう一度、今度はベッドに鞄を叩きつけ、沈んだ部位に向かって己自身をも投げ出した。
 ぼふん、と押し出された空気が彼の周囲に波を立てた。スプリングに全身を弾ませて、うつ伏せに倒れこむ。腹の下に巻き込んだ鞄を横から引っ張りだし、床に滑り落した手で枕を掴んだ綱吉は、それを入れ替わりに胸元に捻じ込んで力いっぱい抱き締めた。
 横長の筒状だったものが、拉げて瓢箪型に変形してしまう。もう少し力を加えれば、布が破れて中身が飛び出てしまいそうだ。
「ツナ、どーした」
 地上に降り立ったリボーンが、レオンを拾い上げて帽子の鍔に戻して問いかけるが、返事は無い。不貞腐れた様子で寝転がり、膝を丸めて胎児のポーズを作った少年は、けだるげに視線だけを持ち上げ、直ぐに伏した。
 枕を抱き締め、益々丸くなって額を布団にこすり付ける。喋るのも億劫なのだろう、完全にダンマリを決め込んでいた。
 嘆息したリボーンは、キィ、と蝶番が軋む音に振り返った。見れば戸の隙間から、ランボとイーピンが部屋の中を窺っている。表情はどことなく怯えて、怖がっている様子が窺えた。
 怪訝に顔を顰めたリボーンが、再度綱吉を仰ぎ見るが、彼に目立った変化はない。子供らが覗いているのにも、気付いている様子は無かった。
 きっと家に帰って来たときも、部屋に入って来た時と同じような状態だったのだろう。いつものように彼の帰宅を歓迎したランボたちを邪険に扱い、「ただいま」の挨拶も無しに階段を登って来たに違いない。
 何に対して怒っているのかは知らないが、物や他人に当たるのはあまり良い心がけとはいえず、感情の制御が出来ていない綱吉に、黄色いおしゃぶりを首から吊るした赤ん坊は肩を竦めた。
「どーした、ツナ」
「……」
 ベッドサイドをよじ登り、狭いシングルベッドの真ん中を占領している綱吉の傍へ寄る。赤子の重み分だけ沈んだ空間を見詰め、琥珀の目を潤ませた彼は、肩を叩く手をぞんざいに振り払うと、構わないでくれと言わんばかりにリボーンに背中を向けた。
 枕は依然抱き込んだまま、壁に膝頭を押し当てて他者を拒絶する。
「ツナ」
「うっさい」
 それでもリボーンはしつこく彼を呼んだが、ようやく返された返答はそんな素っ気無いひと言だけだった。
 全身から自分に構うな、というオーラが滲み出ており、これは暫く相手にしないほうが良さそうだと判断したリボーンは、仕方なくベッドから飛び降りた。肩へ回り込んだレオンの頭を撫で、入ってこようかどうか迷っている五歳児を手で追い払う。
 ランボは自分がなにか、綱吉の気に障る事をして、それで彼が不機嫌になっていると思っているようだ。リボーンの仕草を受けて、今にも泣き出しそうなまで目を潤ませて渋ったが、無言で銃口を向けられた途端、逃げるように廊下を駆けて行った。
 取り残されたイーピンも、自分が此処に居ることで綱吉の機嫌が直るわけではないと悟り、すごすごと引き下がった。きちんとドアを閉じて、小さな足音を響かせて階段を駆け下りていく。
 あんな小さな子らにまで心配をかけておいて、綱吉は悪びれもしない。依然背中を向けたまま動かない中学二年生を見詰め、リボーンはやれやれと首を振った。
 そうして自分も部屋を出ようとして、何かが震えているのに気付いて自分の足元を見下ろした。
「ん?」
 地震ではない。上を向いても天井から吊るされたハンモックは揺れておらず、部屋の小物がカタカタ言っているわけではない。局地的になにかが、小刻みに震動しているのだ。
 円らな黒い瞳は沢田綱吉の部屋を一周した後、今し方離れたばかりの場所に向けられた――不貞寝を決め込んでいる綱吉ではなく、そこよりも更に下、ベッドの縁に寄りかかっている彼の鞄へと。
 ヴヴヴ、と何度か震えて一度止まり、また暫く置いて震え出す。不自然な動きに赤ん坊は眉目を顰め、直ぐさま上を向いて綱吉の薄茶色の髪に目線を置いた。
「ツナ」
 あまり反応がよろしくないとは予想しながらも、放っておくわけにいかずに呼びかけを再開する。案の定彼はなかなか動こうとしなかったが、あまりにしつこく連呼されるのと、最終的にパイプベッドの脚を蹴られたことで、渋々起き上がった。
 いつにも増してボサボサの髪を掻き毟り、抱き潰した枕で布団を殴って埃を撒き散らす。
「なんだよ、さっきから。五月蝿いな」
「鳴ってるぞ」
「えっ」
 放っておいて欲しいのに、何故こうも構うのか。八つ当たりに怒鳴り散らした綱吉をさらりと受け流し、リボーンは人差し指を立てた紅葉の手で、惨めに形を崩している鞄を指し示した。
 教科書やノートも、これではぐちゃぐちゃだろう。
「え、嘘」
「嘘ついてどーする」
 開きかけた鞄の口からは、テキストの角がはみ出ている。もっと丁重に扱うように苦言を呈し、リボーンは四つん這いでベッドサイドに擦り寄った綱吉から距離を取った。
 手を伸ばした彼が、慌てた様子で鞄をひっくり返した。溢れ出した中身を掻き回し、未だ震動し続けている赤色の携帯電話を掘り出す。学校への持ち込みは基本禁止されているのだが、彼は雲雀から特別に所持を許可されていた。
 但し基本は禁止の為、他の生徒との折り合いもあり、学校内での使用は限定的だ。誰かに見られない場所で――即ち応接室でしか使ってはいけないことになっている。
 着信メロディも無論消音設定で、着信があればバイブレーションが起動する。震え始めてからかなりの時間が経っているものの、綱吉の携帯電話は未だ小刻みに震えていた。
 早く出ろとばかりに、ランプが点滅している。急かされ、綱吉は大急ぎで二つ折りの本体を広げた。
 ライトが灯った液晶画面を見る事無く、通話ボタンを凹ませて左耳に押し当てる。
「も、もしもし!」
『ツナ? あー、良かった』
「……なんだ、山本か」
 物凄い勢いで、怒鳴るように応対に出た綱吉ではあったが、電話の向こうから親友の声が聞こえて来た途端、明らかにガッカリした態度で肩を落とした。
 思わず零れ落ちた声を機械はしっかり拾い上げ、受話器の向こうにいる山本が失礼な彼の発言を咎めた。
『なんだとは、随分とご挨拶だな』
「ごめん。ちょっと、……やっぱりなんでもない」
 別の人からの電話を期待していたのだが、外れてしまっただけだ。山本が悪いのではないと詫びて、理由を告げかけて途中で思い直す。彼は続きを聞きたがったが、綱吉は曖昧に答えを濁して誤魔化した。
 ちらりと下を見れば、リボーンも聞き耳を立てて笑っていた。
「本当、ごめんって。それで、なに?」
 わざとではないのだ。重ねて謝罪して、綱吉は電話をかけてきた用件を問いただす。リボーンには手首から先を振って、さながら犬を追い払うように向こうへ行かせた。
 部屋を出るつもりでいたが気が変わり、赤ん坊は面白そうだと綱吉の椅子に這い登った。駒を軋ませてえんこ座りし、興味津々にベッド上の綱吉を見守る体勢に入る。
 ばつが悪い顔をし、綱吉は声を潜めた。
『いやさ、明日なんだけど』
「ああ、うん。――大丈夫、分かった」
 口元に手を添え、なるべく外に声が漏れないようにしながら、電話越しの会話を続ける。幸いにも山本は、あまり物事に深く執着する性格ではなく、綱吉の失言にもさほど気を悪くした様子は無かった。
 一日で二度も喧嘩をしたくない。内心ホッとしながら、綱吉は背筋を伸ばして仰け反り、仰向けにベッドに倒れこんだ。
 両足を投げ出し、大の字になって白い天井を見詰める。
「じゃあ、明日。またね」
 相談がひと段落した頃合を見計らい、自分から電話を切る。トータルの通話時間を表示している画面を閉じて消し、腕も横に倒した彼は、まだ椅子から人を眺めているリボーンに顔を向け、苦笑した。
「なに」
「どーした」
「山本、明日野球部の朝練無いから、一緒に学校行かないかって」
「そっちじゃねー」
 放課後の部活動が終わり、直ぐに連絡をくれた親友との通話を思い返しながら、綱吉は幾許か元気を取り戻した声で告げた。
 今度はリボーンが不満顔をする番で、円形の椅子の上で胡坐を作り、緩やかに首を振った。
 彼が聞きたがっているものが何であるか、起き上がった綱吉は直ぐに理解した。一気に表情は翳り、暗い顔になる。伏した瞳は握り締めた己の拳を映し出し、やがて堪えきれなくなったのか瞼の奥に引っ込んだ。
 窓から差し込む西日が、室内に長い影を作り出す。そろそろ部屋の照明を点けなければ手元さえ暗くなるのに、ふたりして全く場から動こうとしなかった。
「ツナ」
「ヒバリさんと喧嘩、した」
「またか」
「悪かったな」
 言わなければ許してもらえそうにない空気に、綱吉は仕方なく深い溜息の末に呟いた。即座にリボーンの、呆れ混じりの声が響き、彼は視線だけを上向かせて唇を尖らせた。
 リボーンの言う通り、綱吉が雲雀と喧嘩をするのは、なにも今回が初めてではない。むしろ喧嘩もなく過ごす日の方が少ないくらいだ。
 発端は大抵、他人が聞けばどうでも良い内容ばかり。あとは、雲雀が綱吉との約束をすっぽかして風紀委員の仕事を優先させただの、雲雀が訪ねて来た時に丁度綱吉が留守にしていただの、ちょっとした行き違いから来るものが多かった。
 ただ喧嘩をしても、翌日には互いに忘れている場合が殆どだったので、今まであまり表面化してこなかった。一晩経てば頭も冷える。大体の場合、綱吉が己の大人げの無さを反省し、謝って、それで終わり。雲雀も言い過ぎを認め、綱吉を許してくれた。
 つかず、離れず。ふたりがそんな関係になってから、そろそろ三ヶ月が経過しようとしていた。
 毎日のようにこれだから、リボーンが呆れるのも当然だった。けれど今回に限って、どうにも毛色が悪い。
 彼は自分で投げ捨てた枕をまた膝に載せ、そこに両手を衝き立てた。
「絶交って、言って来た」
 肘を折り、額を伏す。背中を丸めて項垂れた彼が零したひと言に、リボーンは縦長の細い瞳を眇めた。
「それで、雲雀は」
「絶交、だって」
 売り言葉に買い言葉だったが、はっきりとそう言われた。その時は頭に血が上っていたのでなんとも思わなかったが、部屋に戻って思い返していくと、段々とその言葉の残酷さが身に染みて感じられるようになった。
 喧嘩した回数は数え切れないほどだが、関係を断ち切るような台詞を吐いたのは、これが初めてだ。
 掛かってきた電話が雲雀からでなかったのも、綱吉の心を絶望に叩き落すに充分だった。山本には悪いが、一瞬期待した。ひょっとして雲雀が、前言撤回して謝ろうとしているのではないか、と。
 だが綱吉の浅薄な考えは見事に裏切られた。ひとり先走り、蹴躓いて、ひとり痛がっている。但し自分から彼に頭を下げようという気分は、未だ起こらなかった。
「喧嘩の原因はなんだ」
「それがさ、聞いてよ。酷いんだよ、あの人」
 喋ることでガス抜きが出来るのなら、それも悪くない。真面目に相手をするのは疲れるが、適当に相槌を打つくらいはしてやろうと腹を括り、リボーンは居住まいを正して綱吉に向き直った。
 両腕で枕を抱き締めた彼が、胡坐を崩してベッドの上で飛び跳ねる。しかし喋ろうと口を開いたところで、またも捨て置いていた携帯電話が震えだした。
 今度の震動は短く、十秒と経たず切れた。点滅するランプは緑色、メールだ。
「ちがう」
 手を伸ばした綱吉は首を振り、気乗りしない様子で掌サイズの端末を持ち上げた。
 受信した瞬間に、背面の小さな液晶画面には送信者の名前が表示されていた。それは彼が期待する人物ではなく、先ほど電話を鳴らした親友の名でもなかった。
 折り畳んだ隙間に指を入れ、軽い力で割り開く。そのまま親指でボタンを押せば、一瞬で画面の映像が切り替わった。
「なにも今、こんなの、送ってこなくてもいいのに」
 添付されている写真を開けば、超特大のパフェが現れた。送り主はハルで、学校帰りに京子と待ち合わせをして、最近出来た喫茶店に来ているという旨がメール本文に綴られていた。
 可愛らしい絵文字を多用して、若干読みづらい文章に目を走らせる。喫茶店の名前や場所は無いけれど、値段と量と味に関する記述は事細かに記されており、最後はいつか一緒に行こう、という文句で〆られていた。
 余程誰かに教えたかったとみえる。宛先のアドレスには自分以外の複数の友人の名が連ねられていたので、同じものを受け取っただろう獄寺は、さぞや下らないメールを送るなと憤慨していることだろう。
 情景を想像し、綱吉は返信ボタンを押した。
「美味しそう、だ、ね。そのう、ち、奢って、くれるなら、……と。送信」
 そんな事をしても電波の感度が上がるわけではないのだが、腕を真っ直ぐ上に伸ばして送信ボタンを押す。液晶はすぐさま封筒のイラストに切り替わり、間もなく完了の文字が出て自然と待ち受け画面に戻った。
 出て来たのは、いつだったかふたりで撮った写真だ。綱吉が構えて、雲雀が怪訝にレンズを覗き込んでいる。頭がぶつかるくらいの近さで小さな画面に収まっている姿に、彼は寂しげな笑みを浮かべた。
「替えよ」
 今は雲雀の顔を見るのも辛い。怒りで気分が悪くなるというのではなく、自分の事を分かろうとしてくれない彼に、切なさがこみ上げるのだ。
 泣きたい気持ちをこらえ、ボタンを操作して設定を変更する。買った当初から携帯電話の中に登録されていた、無難な写真をひとつ選び、雲雀とのツーショットは写真フォルダの中に戻した。
 一瞬、そのフォルダごと消してしまおうかとも考えた。実際に決定ボタン直前まで持っていて、寸前で思いとどまる。上唇を噛み締めて最後の一押しに躊躇する自分に首を振り、彼は何もかも投げ出して携帯電話を閉じた。
 自分から絶交を切り出しておきながら、未練がまし過ぎる。
「ぐだぐだやってんなら、さっさと仲直りでもなんでもしてこい」
「やだ」
「ツナ」
「だって、俺は全然悪くないんだもん。ヒバリさんが謝るなら、許してあげてもいいけど」
 ぎゅむ、と枕を半分に潰して、綱吉は踵でベッドのフレームを蹴り飛ばした。
 応接室でのやり取りを思い出すと、それだけで胃がムカムカして、苛々が再発する。少し前まで胸の中の大半を占めていた哀愁はすっかり消え失せ、横暴すぎる雲雀への怒りがまたも燃え盛った。
 彼から頭を下げてこない限り、絶交は取り消さない。頑固に言い放ち、綱吉はリボーンにも舌を出してそっぽを向いた。
 流石のリボーンもこれには呆れ果て、帽子を目深に被り直すとお手上げだと両手を広げた。
 肩を竦めて身を揺らし、鼻を鳴らしてむくれている綱吉を笑い飛ばす。
「なら、勝手にしろ」
「言われなくても」
 どうして年端も行かぬ赤ん坊に、ここまで馬鹿にされなければならないのか。納得が行かないと表情を険しくし、綱吉は宙を蹴ってリボーンを跳ね飛ばす代わりにした。
 彼が出て行くと、いよいよ部屋は静まり返った。アナログ時計の針が時を刻むコチコチという音が嫌に大きく耳に響き、神経を逆なでする。枕を抱く腕に力を込め、制服のまま蹲った綱吉は、折り畳んだ膝の先で転がっている赤い携帯電話をじっと睨みつけた。
 メールの受信も、通話の着信も、今のところ無い。つまり携帯電話は動かない。
 先ほど彼が待ち受け画面を変更して以後、この小型端末はうんともすんとも言わなくなった。
「なんで」
 左足を起こして三角形を作り、爪先が少し汚れた靴下で端末を小突く。押された分だけ綱吉から離れて行ったそれは、もう少しでベッドから落ちるというところで停止した。
 今この場に、これを押し返してくれる人はいない。
「なんで、かけて来ないんだよ」
 非を謝罪する云々よりも、少しだけで構わない、綱吉の主張を受け入れる姿勢を見せてくれさえすれば、何もかも水に流して許すつもりでいるのに。
 ベッドの上で胡坐を組み、綱吉は黙り込んだ。苛々して落ち着きを失った両手は、枕を殴ったり、潰したり、抱きかかえたり、実に忙しない。と思えば全身を投げ出して仰向けに寝転がり、寝返りを打ってうつ伏せになって、また起き上がって布団に皺を増やしていく。
 西日は徐々に赤みを帯び、巣へ帰るカラスの声が並盛町にこだまする。子供の騒ぐ声も少なくなり、太陽が完全に西の地平線に消える頃になって、階下から呼ぶ声に彼は顔を上げた。
 依然、赤い端末は沈黙したままだ。
「はーい」
 夕食の支度が出来たから降りて来いとの呼びかけに数秒置いて返事し、彼は自分がまだ制服姿なのを思い出して急ぎクローゼットの扉を開いた。皺くちゃのジャケットを脱ぎ捨ててハンガーに吊るし、薄手のトレーナーとスウェットに着替える。
 内側に捲れ上がった裾を抓んで伸ばし、身繕いを整えて、彼は最後に小さく溜息をついた。
「なんでだよ」
 恨みがましく見詰めた先にあるのは、相変わらず静かな携帯電話だ。
 床に散乱するゴミを避けてベッドサイドへ戻り、今にも端から滑り落ちそうなところで寝そべっているそれを拾い上げる。縦長に広げて画面を呼び出すが、アナログ時計の数字が無機質に点滅を繰り返すばかりで、上部に居並ぶアイコンも格別変化は見られなかった。
「ツナー?」
「今行くってば」
 最初の呼びかけから既に五分が経過しているのに、未だ部屋から出てこない息子を案じて、奈々の声が家中に響き渡る。お節介な母親に愛想のない返事を返し、綱吉は迷っていたメール作成画面を呼び出すショートカットキーを、結局押さずに端末も閉じた。
 ベッドに捨てるように放り、急ぎ足で廊下に出る。階段を滑るように駆け下りて、綱吉は皆が待つ食堂へ向かった。
 食事を終えて、リビングでランボたちと一緒にテレビでバラエティ番組を見て、その流れで風呂に入って、歯を磨いて。濡れた髪をタオルで拭いながら久しぶりに二階に戻る頃には、綱吉の機嫌も幾許か元に戻ろうとしていた。
 不機嫌なまま食べる食事は、美味しくない。最初はもそもそと事務的に箸を動かしていた彼だけれど、毎度ながらランボが人のおかずを盗もうとするのを防ぎ、奈々お手製の唐揚げに舌鼓を打つうちに、鬱々とした気持ちも晴れていった。
 賑やかで、騒々しくて、けれど温かい食卓が心地よい。自然と会話が弾み、笑顔が零れて、開けっ放しのドアを潜り抜けて自室に入るまで、綱吉は完全に雲雀との喧嘩を忘れていた。
 思い出したのは、完全な闇に落ちた室内で明滅する、緑色の小さな光が見えたからだ。
「っ!」
 メールが来ている。
 彼は咄嗟に駆け出し、部屋の明かりも点けないままベッドに飛び込んだ。濡れた髪が大きく波打ち、雫があちこちに飛び散るがまるで気にしない。湿ったタオルを床に落とし、両手で端末を握って広げた。
 受信から時間が過ぎているので、誰からのものかは直ぐには表示されない。慣れているのに、どうにも不器用な手捌きでボタンを操作して受信ボックスを呼び出す。未読があると示す赤く塗られたフォルダを選択して、彼はその割り振りを思い出して動きを止めた。
「……ちがう」
 獄寺や山本たちからのものと混同しないよう、雲雀からのメールは個別のフォルダを作ってそこに収まるよう設定していた。しかし今赤く染まっているのは、彼の名前が記されたフォルダではなかった。
 膨れ上がった期待が、一気に萎んでいく。意気消沈したまま一件だけ届いていたメールを開けば、差出人は山本だった。
 内容は明日の朝、寝坊しないように電話を鳴らして起こしてやろうかという、提案だった。
 彼としては、気を利かせたつもりなのだろう。しかし、今の綱吉の精神状態からすれば、この心配りはむしろ鬱陶しい。有難迷惑だと彼は雫を垂らす髪を掻き上げ、液晶画面の細い灯りで足元に落としたタオルを探し出した。
 広げて頭に被せ、出入り口へ戻ってスイッチを押す。天井に設置された蛍光灯が一斉に灯り、部屋に沈殿していた暗がりを端へ追い払った。
 ただし綱吉の心を覆う暗雲は、これしきのことではビクともしなかった。
 返信画面に切り替えて、手短にコメントを入力する。心配不要の旨を記してボタンを押し、綱吉は送信完了画面が出る前に携帯電話を閉じた。
 そのままベッドにスライディングして、うつ伏せに倒れこむ。最初は大の字に広げていた両腕も、端末を握る左手だけを引き寄せて顔の前に持っていった。
 広げて、また閉じる。パカパカ言う音ばかりが耳障りに響く。吐息は敷布団に吸い込まれ、襟足を伝った水滴が彼の細い首を撫でた。
「馬鹿」
 小声で呟き、天井照明の眩しさを嫌がって、綱吉は額を布団に押し当てた。固く目を閉じ、同じくらい指に力をこめて携帯電話を握り締める。
「ヒバリさんの、馬鹿」
 なんでもかんでも頭ごなしに命令ばかりしてきて、綱吉の主義主張などまるでお構いなしだ。全てにおいて、絶対的に自分が正しいとでも思っているのだろうか。それは驕りだと、傲慢だと、何度言えば彼は理解するのだろう。
 綱吉にだって人権がある。自分なりの考えや、生き方や、信念がある。無論雲雀だってそうだ。だからぶつかり合う、お互いに譲ろうとしない所為で。
 今回の口論だって、ちょっとした意見のすれ違いから始まった。相手の意見を尊重し、それもまた良しとあの場で言えたならば、ここまで泥沼化することも無かったのに。
 どうしてあの時に限って、彼の言葉に耳を傾けられなかったのだろう。
 何故あんなにも、雲雀は綱吉の意見を跳ね除けたのだろう。
「ヒバリさんの、馬鹿。馬鹿。ばーか」
 悪口を並べるのにも飽きて、同じ単語ばかりを繰り返す。最初は元気があった声も徐々に覇気が失われ、掠れるようになっていった。
 やがて綱吉は、息を吐こうとして開いた唇を無言で閉じ、痛いくらい噛み締めた。
「俺の、馬鹿」
 呻くように呟き、冷たい機械で額を叩く。固い感触が骨を通じて脳に伝わり、彼は目尻に浮かんだ涙を袖に押し当てた。
 
 

 翌朝の目覚めは、最悪だった。
 よく髪を乾かさないまま、気付けば眠ってしまっており、最初に彼が目を覚ましたのは明け方の四時近くだった。
 布団さえろくに被っておらず、足元から登って来た冷気に全身が鳥肌を立ててくれた。部屋の電気は消されていた、犯人は間違いなくハンモックで鼻ちょうちんを膨らませているリボーンだろう。
「む、う」
 むくりと起き上がった後、力尽きて頭からスプリングに身を沈める。携帯電話が、重みを受けて凹んだ敷布団の斜面を滑り落ちて来て、半分眠った状態にあった彼の額を叩いた。
 手を伸ばして拾い上げ、広げる。それで現在時刻を知った彼は、面白みに欠ける待ち受け画面に首を傾げ、こんな設定だっただろうかと疑問符を飛ばした。
 思い出そうとするが、途中で面倒くさくなって考えるのを放棄して欠伸を噛み殺す。起床予定時間よりもまだ三時間近くあるので、かなり損をした気分で彼は瞼を閉ざした。
 けれどそこからなかなか寝付けず、夢うつつの境界線を彷徨っては、不意に水面下から意識が浮上して、彼は琥珀の目を眇めた。
 紅色の唇を歪め、昨日から散々な目に遭わされている枕を抱き締める。目が覚める度に携帯電話を広げて、着信の有無を確認するものだから、尚のこと眠れなかった。
「うう~」
 喉の奥で呻き声を押し潰し、綱吉は六時半を回ったところで観念して布団を払い除けた。
「ヒバリさんの馬鹿!」
 同じ部屋で眠っているリボーンなど忘れて声高に叫び、両手で携帯電話を挟み持つ。左右の親指を目にも留まらぬ速さで動かし、メール作成画面に勢い良く文字を刻んでいった。
 馬鹿に始まり、阿呆が続き、昨日の夕方に口に出して言った悪口をここでも並べ立てていく。とても言葉に出せないような卑猥な単語まで織り交ぜて、綱吉は胸の中にあるムカつきを全て文面に叩き込んだ。
「よしっ」
 横に表示されるスクロールバーがかなり短くなるところまで罵詈雑言を並べ立て、一頻り満足して彼は決定ボタンを押した。続けて過去の送信履歴を呼び出して、Hで始まる人物を指定する。
 これで、残る作業は送信ボタンを押すだけとなった。
 見た瞬間、雲雀はどんな顔をするだろう。綱吉がどんなに怒っているかを知って、少しは反省すればいいのだ。
 ざまあみろ、と溜飲を下げて彼は封筒のイラストが描かれたボタンに親指を添えた。咥内の唾を飲み、心臓を高鳴らせながら指先に力をこめる。
 しかし、押せなかった。
「……うん。これはちょっと、言いすぎかな」
 ふと目に入った単語が、あまりにも過激に思えてきた。これは削っておくべきかと思い直し、編集画面を引っ張りだしてふたつばかり、悪口を削った。
 今度こそ、と送信ボタンに指をやるが、削った分だけ前に繰り上げされて、画面上に現れた文面がまた気になってしまう。そんなこんなで、あれも、これも、と次々に削除していくうちに、気付けばメール本文は最初の三分の一以下になっていた。
 スクロールバーも長くなった。あくが抜けて、勢いもすっかり弱まってしまった。
「やっぱ、やめよう」
 こうなると送るだけ無駄に思えて、綱吉は強制的に画面を消した。保存するか否かの問いかけにも、いいえを選択する。
「もう」
 メールフォルダを開いても、雲雀から届いた新着メールはない。一昨日の夜の日付が最後だ。着信履歴にある名前も、山本が最新。
 口論の末に応接室を飛び出して以降、なんの音沙汰も無い。分かっているのに、改めて思い知らされて、綱吉は胸を締め付ける痛みに琥珀の目を潤ませた。
 勝手に涙が溢れてくる。頬を伝う前に拭おうとするが、それにも限度があった。
 声も無くしゃくりを上げ、鼻を啜る。ハンモックで呑気に眠るリボーンが恨めしくてならないが、かといって誰彼構わず当り散らす気分にもなれなかった。
 両手で頬から額を覆い隠す。嗚咽を必死に噛み殺しながら、綱吉は巧く出来ない呼吸を繰り返して喘いだ。喉が渇いて仕方が無い。だけれど冷たい水を飲んだところで、この渇きが癒されるわけではないことくらい、彼はとっくに理解していた。
 足りないのは、もっと違うもの。
「ヒバリさん」
 声が聞きたい。顔が見たい。触れたい。抱きつきたい。
 抱き締めて欲しい。
 絶対的に、雲雀が足りない。
 彼を意識するようになって、彼も自分を意識してくれていて。だのに互いの気持ちを確認したってからは、喧嘩をして、その場の勢いで別れて、時間が経ってから後悔する繰り返しだった。
 気落ちして、反省して、悔やんで、迷って、最終的に耐えられなくなって、彼を許してしまう。雲雀も自分の非をある程度認め、綱吉に謝罪して、それで関係は元通り。だのにちょっと間を置くと、また喧嘩を繰り広げている。
 何も学んでいない。リボーンが匙を投げるのも当然だ。
 そして綱吉は、彼と喧嘩をする度に強く思うことがあった。
「ヒバリさんの……ばーか」
 ベッドに身体を横たえ、うとうとと落ちて来る瞼を堪えながら赤い携帯電話を指で弾く。
 一度は遠くに行こうとしたものを捕まえて引きとめ、胸に抱きこみ、彼は目を閉じた。
「だいすき」
 そっと声に出して想いを囁き、膝を寄せて背中を丸める。引き寄せた布団を肩まで被せ、彼は今になって押し寄せてきた睡魔に抗う事無く身を委ねた。凪いだ水面に、意識が沈んでいく。
 程無く落ち着いた寝息が室内に満ち、代わってリボーンの鼻ちょうちんが破裂する音が小さく響いた。

 目覚ましが喧しくベルを叩き鳴らし、綱吉はもぞり、と芋虫のように身体をくねらせて布団から頭を出した。
 ありえない寝癖を作り上げた頭を掻き毟り、時計を叩いた手を真上に伸ばして背筋を反らす。二度続けて大きな欠伸をして寝ぼけ眼を擦った彼は、膝が踏んだ携帯電話に気付いてそれを脇へ追い払った。
 裾が出ていたパジャマを直し、床に下りてまた欠伸を。熟睡とは言いがたかったが、目覚めはいつになく穏やかだった。
 見上げたハンモックは既に空で、綱吉も支度を済ませるべくクローゼットへ向かった。並盛中学校指定の制服を取り出し、飛び跳ねながら靴下を履いて手早く着替えを終わらせる。脱いだ服と床に落ちていたタオルを拾って抱え、彼は勢い良くカーテンを引いて朝の陽射しを室内に招き入れた。
 眩い光が燦々と降り注ぐ。太陽は嫌味なくらいに大きくて、澄み渡る青空にはぽっかりと綿雲が浮かんでいた。
「んー、いい天気だ」
 雨が降る気配を微塵とも感じない。鍵も外して窓を開け、爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んで、綱吉は表情を綻ばせた。
 足音を響かせて階段を下り、洗面所に飛び込んで鏡に映った自分の姿に苦笑する。前衛的な造形美を放つ髪形に肩を竦めて頭から水を被り、乾いたタオルで雑に拭ってから丹念に櫛を通していった。
 ドライヤーも駆使して形を整えるが、形状記憶合金よろしくなかなか真っ直ぐになってくれない。見苦しい跳ねだけはどうにか修正して、手洗い嗽と洗顔を済ませ、彼は台所の暖簾を潜った。
 朝の早い子供らはとっくに食卓に陣取り、賑やかに食事を楽しんでいた。大口を開けたランボが食べているのはきつね色に焼けたトーストで、甘いイチゴジャムがたっぷりと塗られていた。
 傾いた端から零れて、テーブルを汚している。鼻の頭や口の周り、両手もべたべただ。
「おはよう、ツッくん。今日は早いのね」
「うん。山本と待ち合わせてるから」
 一緒に学校に行く約束をしているのだといえば、納得だと奈々は濡らしたタオルを絞ってランボに手渡した。もぐもぐ口を動かしつつ、自分の顔を擦って汚れを落とす。しかし完全ではなく、最終的には奈々の手を借りてやっと綺麗になった。
 自分専用の椅子を引き、綱吉は先に用意されていた朝食に目を走らせた。トーストはまだ焼いているので、そこだけが空っぽだが、他は全て揃っていた。
 よく冷えた牛乳に、レタスと胡瓜とトマトのサラダ。苺ジャムとマーマレードは好きな方を使え、と大瓶のまま並べられていた。焦げ色のついたベーコン、そして黄色が鮮やかな目玉焼き。
 チン、という音に顔を上げて、綱吉は腰を浮かせた。
 自動的にはじき出されたトーストを一枚引き抜いて皿に置き、一瞬迷ってからマーマレードの瓶を選ぶ。その横には塩や胡椒といった小瓶を乗せた、くるくると回転させられる調味料台があった。
 中央の棒を抓み、綱吉は目当てのものを取ろうとそれを半回転させた。白い粉が詰まった小瓶が消えて、間違えないように大きな文字で中身を記した陶器の入れ物が現れる。そのうちの、いつも使っている、右が固定位置の容器に手を伸ばしたところで、彼は動きを止めた。
「あら、珍しい」
 短い逡巡の後、彼は左側の容器を掴んで椅子に戻った。気付いた奈々が、今までどれだけ勧めても使おうとしなかったのに、と急な息子の変化に目を細めて笑った。
 しっかり見られていたのが恥かしく、ばつが悪い顔をして綱吉は上唇を舐めた。
「どうしたの?」
「ちょっと、ね。たまには良いかなって」
 曖昧に答えを濁し、さっさと用を済ませて調味料を元の場所に戻す。つい癖で右に置こうとしてしまい、ぶつかり合った小瓶が可愛らしい音を響かせた。
 箸を手に、両手を合わせて瞑目してから食事を開始する。先ずはサラダを口に運び、咀嚼しつつ、ランボに負けないくらいたっぷりと、マーマレードをトーストに塗りこめた。
 甘酸っぱい味を楽しみ、牛乳で口の中を漱いで後、もうひとつの皿を引き寄せる。ベーコンにかぶりつき、目玉焼きに箸を入れて半熟の黄身をふたつに切り裂いた。
「……ん」
 白身の部分を先に食べ、次に黄身を。咥内いっぱいに広がる、今までにない味わいに、彼はきょとんと目を丸くした。
「ふむ」
 箸の先を唇で挟んだまま、視線を浮かせてしばし考え込む。子供らがガチャガチャ食器を鳴かせる中、彼はもう一度椅子から腰を持ち上げ、左側の小瓶を手中に収めた。
 黒い液体を数滴垂らし、残る目玉焼きを口へ運ぶ。じっくり時間をかけて咀嚼し、飲み込んで、彼はほうっと息を吐いた。
「ふーん」
 興味があるようで、なさそうな、どっちつかずの感嘆詞を呟き、残る牛乳を飲み干して食事を終える。指にこびり付いていたパンくずを舐め取り、未だ遠くへ心を飛ばしていた彼は、奈々から差し出された弁当箱に気付いて瞬きを繰り返した。
 ぼうっとしていたと自分を笑い、有難く受け取って席を立つ。洗面所に戻って歯ブラシを咥え、弁当箱は下駄箱の上に置いて彼は鞄を取りに階段を駆け上った。
 行儀が悪いと思いつつも、時間が惜しいので歯を磨きながら部屋のドアを開ける。時間割をなにひとつ揃えていないことを、昨日の夕方、投げ捨てた時のまま逆さを向いていた通学バッグを見て思い出し、綱吉は泡まみれの口で笑った。
 雫が顎を伝って、制服を濡らしそうになって慌てて手で堰き止める。下向いた瞳が、真っ白に洗濯されたシャツを映し出した。
 ネクタイを結んでいない襟に、小さく黒い点が落ちている。爪で擦っても、消えない。逆に範囲が僅かに広がって、彼は首を傾げた。
「あ、あれか」
 食事中に飛ばした雫だろうと結論付け、綱吉は納得だと頷いた。
 幸いにも染みはそう大きくなく、遠目には分からない。近くから見下ろされれば、目立つのは否めないが。
 一滴で済んでよかったと胸を撫で下ろし、現在時刻を思い出して彼は落としかけた歯ブラシを噛み締めた。さっさと済ませないと山本が来てしまう、待たせるのは申し訳ない。
 机に駆け寄って鞄の中身をごっそり入れ替える途中で、口の中が辛くなって来て彼は廊下に戻った。洗面所へダッシュして流水で漱ぎ、さっぱりしてから部屋に戻る様は実に騒々しい。
 きちんと状況を整理して、順序だてて行動できないから不手際が生じるのだ。食後のエスプレッソを楽しんでいたリボーンは、廊下をどたばた喧しく往復する彼を鼻で笑った。
 必要な教科書とノートを整え、すっかり失念していた体操服を袋に押し込み、皺くちゃのネクタイを発掘して雑に結ぶ。風紀委員長に見付かったら怒られるだろうが、それはある意味願ったり叶ったりだ。
「よっし」
 準備が整ったところでタイミングよく呼び鈴が鳴り、山本が来たと知らせる奈々の大声に綱吉は振り返った。
 鏡の前で今一度服装をチェックして、相変わらず跳ね放題の髪の毛を抓んで引っ張り、苦笑する。どうにもならないのだから仕方が無いと諦め、ハリネズミみたいな自分の髪型がそれでも好きだと言ってくれた人を思い出し、綱吉は照れ臭そうに頬を掻いた。
 会ったらちゃんと言おう。心に誓い、彼は山本が待つ玄関に向かって駆け出した。
 少し多い荷物を抱え、靴を履いて外へ出る。カラッと晴れた空は見ているだけでも気持ちが良くて、今日みたいな日に早朝練習が出来ないのは勿体無さ過ぎる、と山本は歩きながら頻りに捲くし立てた。
 綱吉がメール相手の悪口に奮闘していた頃、彼は早々に寝床を抜け出してジョギングに励んでいたらしい。実に山本らしい行動に恐れ入って、綱吉は緩慢に笑い返して元気一杯の彼に目尻を下げた。
 一緒に居るだけなのに、彼から元気を貰っている。本当は学校を休んでしまおうかとも考えていただけに、山本の存在は心強く、頼もしかった。
 彼くらいの天真爛漫さがあれば、雲雀との関係もこんなにギクシャクしないで済むのだろうか。
「あ……」
 もうちょっと応用力と、対応力が欲しい。そっと溜息をついた綱吉は、ゆったりと流れ行く町の景色の中に浮き上がる、他とは若干趣の異なる色合いを視界の端に見出して声を零した。
 歩みが緩み、やがて止まる。
「ツナ?」
 彼を追い越し、距離を広げた山本が気付いて振り返った。戻って来ようとするのを手で制し、綱吉が首を振る。
「ごめん、山本。忘れ物思い出した」
「へ、なに。じゃあ戻るか」
「いいよ、山本まで遅れちゃう。先に行って」
 やんわりと申し出を断って、綱吉は早く行けとばかりに彼に手を振った。体操着袋と鞄とを抱き締め、完全に見送る体勢に入っている彼は、自分で忘れ物と言ったくせにあまり焦っていなかった。
 怪訝にしながらも、山本は彼の言葉を信じて学校への道を歩き出した。まだ気になるようで、途中でチラチラ振り返るものの、脚は止まらない。
 彼が角を曲がって姿が見えなくなるのを待ち、綱吉は手を下ろした。
「ヒバリさん」
 そしてやおら、右手の細い路地に向き直る。
 民家の間を走る、自転車が通るにも苦労しそうなほどの幅しかない道だ。高い壁に左右を囲まれており、陽射しも遮られて殆ど入らない。そんな、この時間であっても薄暗い中に、黒の学生服を羽織った男性がひとり佇んでいた。
 艶やかな黒髪に、冴え冴えとした黒水晶の瞳。不機嫌に結ばれた唇は僅かに前に突き出ており、腕を組んで片側の塀に寄りかかっていた。
 綱吉の呼びかけにも、無反応を決め込む。そのくせ、視線はじっと人の顔に向けたまま動かそうとしない。
 近付いて来いと言っているようなものだ。無精を決め込む彼に肩を竦め、相変わらずだと笑い飛ばせるくらいには余裕が戻っている自分に胸を撫で下ろし、綱吉はスキップを刻んだ。
 鞄を背中に回し、日陰に入る。薄暗い中に立つモノトーンカラーの雲雀は、まるで影に溶けてしまいそうだった。
「ヒバリさん」
「楽しそうだったね」
「む」
「僕には連絡のひとつも寄越さなかったのにね」
 棘のある口調に、綱吉の表情はにわかに翳った。
 息を止めてむっと頬を膨らませ、顎を引いて上目遣いに雲雀を睨みつける。尖った視線を感じ取った雲雀もまた、険のある目つきで目の前の存在を睥睨した。
 上昇気流に乗っていた機嫌が、乱気流に巻き込まれて急激に降下の一途を辿っていた。このままでは地上に激突、墜落の危機にあるのに、舵取りをする気も瞬時に失われた。綱吉は眉間の皺を深くして、奥歯を噛み締めた。
「だって、俺達、絶交中じゃないですか」
「ああ、そうだったね」
 言われて思い出したと、雲雀が相槌を打つ。淡々とした、感情の篭もらない彼の声に、綱吉は無意識に拳を固くしていた。
 日のあたる場所は心地よい温かさに包まれているのに、日陰に入った途端、ひんやりとした空気に肌を撫でられた。影が生み出す暗闇の所為で、雲雀の顔がきちんと見えない。
 こんな事を言いたくて、山本を先に行かせたわけではないのに。上手に気持ちを表せない自分が悔しくて、哀しかった。
 同時に、分かってくれない雲雀に怒りがこみ上げてきて、切なさに胸が引き裂かれそうだった。
「ヒバリさん、こそ」
「なに」
「連絡、……くれなかった」
 声が勝手に掠れて、途切れがちになる。呼吸が荒くなり、息継ぎが巧くできなくて、喉の奥で空気が弾け散る。鼻の奥がツンと来る痛みに襲われて、目頭が思わぬタイミングで熱を持った。
 癖だらけの前髪を掻き毟り、泣きたくなくて綱吉は唇を噛んだ。
「だってそれは、君が」
「俺、ずっと待ってたのに!」
 絶交と宣言された側が、いったいどんな顔をして、おめおめと撤回を求める連絡を入れられると言うのか。自分の負けを素直に認められる程、雲雀は寛容ではない。そして関係が断絶したまま、自然消滅を待てるほど辛抱強くも無い。
 女々しく綱吉の通学路脇で待ち構えて、綱吉から近付いてくるのを期待する。日頃の強権具合が嘘のように影を潜め、こういう姑息な手段にしか頼れない情けない男に成り下がるしかなかった。
 更には望み通りに綱吉が歩み寄って来たというのに、一晩考え抜いた会話の糸口を完璧に忘れ去り、減らず口ばかり叩いてしまう。
 綱吉の怒鳴り声に彼はハッとして、息を呑んだ。
「つな……」
「俺、ずっと、待ってたのに。ヒバリさんから、来るの。俺だって、やだよ。こんなの。絶交とか、そんなの、嫌なのに」
 感情が昂ぶっているからか、言葉が細切れになって、呂律もろくに回っていない。混乱する頭を抱え込み、必死に心の中で鬩ぎあう感情を吐露しようとするが、強く思えば思うほど、彼の唇は何の音も刻まなくなっていった。
 透明な雫が睫に弾かれ、瞼の隙間から頬へと零れ落ちていく。
「やだ、よ」
 鼻をぐずらせながらそれだけをどうにか告げ、後は嗚咽が全てを掻き消してしまう。顔に爪を立てて引っ掻き、赤い筋を何本も作り出した綱吉に驚いて、雲雀は手を伸ばした。
 細い手首を握り、引き剥がす。けれど綱吉は肩を揺さぶって抵抗した。
「いやだ、放して。ヒバリさんの馬鹿!」
 力任せに引き寄せようとして、脚を蹴られた。彼の手から落ちた鞄が裏路地の暗がりに、上下を逆にして転がる。体操着入れの袋が排水路を覆う汚れた蓋に向かって行くのが見えるのに、止めることが出来なかった。
 昨日と似たような罵倒を正面からぶつけられて、雲雀は形が歪むまで唇を噛み締めた。目尻に力を込め、射殺す勢いで睨み下ろす。けれど目を閉じてかぶりを振っている綱吉には、何の効果もなかった。
 腹が立つ。苛々する。折角人が妥協の末に、謝罪する機会を与えてやったというのに。
 待っていたのはこちらだと、そう怒鳴りつけようとして、綱吉の望み通り雲雀は小枝のような腕を放した。瞬時に握られた拳が、白いワイシャツの上から胸を衝く。
 肋骨をすり抜けて心臓にまで到達した衝撃に、雲雀は目を見開いた。
「ヒバリさんの馬鹿!」
 渾身の思いをこめて叫んだ綱吉が、潤んだ琥珀で真下から人を睨みつけた。
 赤らんだ頬は林檎色に染まり、唇はそれ以上に鮮やかな紅色をしていた。目尻には水晶の粒が、今にも零れ落ちそうなところで揺れている。艶を帯びた瞳は、いつになく綺麗だった。
 こんな時に、と率直に胸に抱いた感想に、雲雀は息を止めた。
 もう一発殴られる。縋りつく肩が小刻みに揺れており、押し当てられた拳から震動がダイレクトに伝わってきた。
「馬鹿。バカ……ヒバリさんなんか、ヒバリさんなんか」
 嫌いだと言いたいのに、その言葉が出てこない。何度も言い直す綱吉だけれど、その度に涙が溢れてきて声が喉に引っかかった。
 糊の利いた白いシャツを握って皺だらけにして、彼は雲雀の身体を前後に揺さぶった。されるがままになっている彼が、じっと人の顔を見詰めているのに首を振る。
 なにか言って欲しいのに、それすら貰えない。
 所詮自分はこの程度の存在でしかなかったのかと受け止めて、綱吉は丸い瞳を歪ませた。
「ヒバリさんなんか、き――っ」
 ありったけの感情を込めて、最後の関所を突き破った綱吉が叫ぶ。しかし皆まで言う暇を与えられる事無く、彼の顔は温かな胸と逞しい腕によって敢え無く押し潰された。
 吐き出そうとしていた息が目の前で膨らんで弾け、見開いた視界が真っ暗闇に染まる。眼球が圧迫されて咄嗟に瞼を閉ざし、綱吉は折り曲げていた肘を伸ばして彼を突っぱねた。
 だが許されない。必死に抗うのに、雲雀の腕力は彼の遥か上を行って、行動の自由を完全に奪い取ってしまっていた。
「ヒバリさんっ」
 息が苦しい。押さえ込む彼の腕の力は半端無くて、首の骨が折れてしまいそうだった。
 懸命に抵抗するが、まるで効果がない。それどころか、却って彼の束縛を強化させてしまう。身動きが取れず、壁に背中を押し当てられて、綱吉は小さく呻いて彼を非難した。
 目を閉じて痛みをやり過ごし、ふと弱まった拘束に恐る恐る瞼を持ち上げる。覆い被さっている彼を斜め上に見て、綱吉は怒鳴ろうと開いた口を慌てて閉じた。
 濃い影を背負った雲雀が、怒っているのと泣いているのと、半分ずつ混ざり合った顔をしていた。
 長く正面から彼を見返していなかったので、全く気付かなかった。
「駄目だよ」
「ひば……」
「僕を嫌いになるなんて、そんな事、許さない」
 真っ直ぐ目を覗き込んで告げられる。有無を言わせぬ迫力に絶句し、綱吉は胸を高鳴らせた。
 真剣な眼差しが、目を逸らすのを許さない。瞬きさえずに彼を見詰め返し、綱吉は握っていた手を解き、彼のシャツを放した。
 引っ張りだされた裾が、腰の辺りで撓んでいる。隙間から肌色がちらりと覗いて、思わず赤くなった綱吉は行き場に困った手で彼の肩を叩いた。
「ヒバリさんの、バカ」
「君だって」
「でも好き」
「知ってる」
 さらりと切り返され、綱吉は唇を尖らせた。
 上目遣いに睨み、ふいっと顔を逸らそうとしたところを止められる。顎を捕まれ、逆らう暇もなく上向かされた。
 影が降って来る。鼻先に熱を感じて、反射的に目を閉じた綱吉は、上唇を舐めて遠ざかった濡れた感触に背筋を粟立て、内股気味に膝を叩き合わせた。
 背中に壁があって良かったと、今になって思った。でなければ、今の一瞬で完全に膝が砕けてしゃがみ込んでいたに違いない。重心を斜め後ろにずらすことで、数センチ頭の位置が下がっただけで済んだ。
 恐る恐る前を窺い、瞼を半分持ち上げる。皺くちゃのシャツが真っ先に視界に飛び込んできて、暗い所為で灰色にも見える布を掴む自分の手が見えた。
 濃い影が戻って来る。綱吉は顔を上げた。
 強張っていた指を解き、ひと際大きな皺の表面を撫でて潰す。掌で雲雀の鼓動を探す。左胸に添えて、悔し紛れに爪を立ててやる。
 彼は笑った。
「君の泣き顔も、笑顔も、全部僕のものだ。誰にも渡さない。君が好きなのは、僕ひとりでいい」
 我が儘を全開にした雲雀の声が、耳にくすぐったい。
「君ひとりが居ればそれでいい」
 最大限の彼の表現に恥かしくなって、綱吉は思わず噴出した。真面目に告白していたのに笑われて、雲雀がムッとする。
「あ、ちがうの」
 面白くて笑ったのではないのだと急いで弁解しようとしたが、雲雀は聞く耳を持とうとしなかった。乱暴に胸倉を掴まれて、頭を前後に揺さぶられる。三半規管が狂って吐き気がして、綱吉は目を回した。
 その状態で唇を割り広げ、雲雀の舌が潜り込んで来る。
「んっ」
 問答無用で咥内を荒らし回り、綱吉から呼吸を奪い取っていく。歯列を左から右になぞり、奥に引っ込んだ舌を絡め取って引っ張りだし、きつく吸い上げて合わさりを深める。
 荒々しい、いかにも彼らしいくちづけに眩暈がして、胸からぶつかってくる彼に縋って綱吉はさっきまでとは違う涙に琥珀を濡らした。
 全身で好きだと訴えかけてくる彼に目を細め、逞しい肩に両腕を回す。首にしがみつくと距離がより狭まって、いつしか鼓動は同じリズムを刻んでいた。
 雲雀の手が綱吉の頬を撫で、髪を梳き、背中へと回された。きつく抱き締められる。融けてしまいそうな熱に頭がくらくらして、遠くから聞こえて来たチャイムさえ気にならなかった。
「はっ、んン……ヒバリさん」
 散々人の唇を蹂躙し、長く伸びた唾液の糸を噛み千切った雲雀を見詰める。彼の瞳もまた熱を帯び、艶を増して綱吉を映し出していた。
 しっとりと濡れた唇が色を強め、それが恥かしい。覗き込まれて目を逸らした綱吉に微笑み、雲雀は何気なしに彼の襟を抓んで引っ張った。
 押し合いへしあいの中で、最初から緩かったネクタイの結び目が余計に変形してしまっていた。前後で長さの揃わない不恰好な姿に苦笑し、虫でも停まっているのかと彼は黒い点を爪で擦った。
 繊維を削る指先に視線を向け、綱吉は首を竦めた。
「これ、は、その」
「なに?」
「……お醤油」
 問う目に言葉を濁し、数秒置いてから小声で返す。告げた瞬間、思い当たる節があったのか、雲雀の瞳が大きく見開かれた。
 様子を窺い、綱吉は右の爪先でコンクリートの地面を叩いた。踵を浮かせて足の裏を壁に押し当て、小さく舌を出す。
「なんていうか、その……うん。美味しかったです」
「そう」
「最初はちょっと変な感じがしたけど、悪くなかったっていうか、これはヒバリさんが好きそうだなって」
「僕も」
「ん?」
「案外悪くなかった、ソース」
「でしょう?」
 ほらやっぱり、と綱吉が嬉しそうに表情を綻ばせた。
 爪先立ちで身体を上下に揺らし、雲雀の学生服を引っ張って目尻を下げる。どん、とぶつかって来た彼を受け止め、雲雀は苦笑いを浮かべた。
「目玉焼きにソースは、ほんと美味しいんですってば」
「醤油だって良かっただろう」
 昨日、喧々囂々で散々論議し合い、平行線を辿った話題が、一夜明けてようやく交わった。
「悪くないけど、俺はやっぱりソースかなあ」
「僕は断然醤油だけどね」
 相手の好みに理解を示しつつ、自分の主張は曲げない。声を揃えて言ったふたりは、一瞬互いを見詰め合って停止し、二秒後にほぼ同時に噴出した。
 肩を震わせ、目を細め、声を立てて、腹を抱えて。
「ヒバリさんが来る時は、お醤油、補充しておきますね」
「ソースなんだけど、沢山余ってるんだよね。僕は使わないし」
 涙まで浮かんで、目尻を擦って綱吉が呟く。雲雀が僅かに声のトーンを上げて、意味深言った。
 見詰められてドキリとして、綱吉は無意識に左胸に手を添えた。頬が自然と赤くなるのを見て、雲雀が楽しげに笑う。
「今度、食べにおいで」
 襟足を擽る彼の微笑みに、綱吉は頭から真っ白い湯気を吐いた。

2009/05/17 脱稿