連綿

 たとえ其処が、本来自分たちが帰るべき「我が家」ではないとはいえ、仲間と共同生活を送った場所は矢張り温かい、優しさに溢れる場所だった。
 空を臨めない、地下深くに設けられた、目下の状況では身を守るに最適といえる施設。入江正一との、実は自分たちを鍛える為に仕組まれていた戦いを終えてアジトに戻った時に抱いた安心感は、ザンザスとの苦闘を終えた瞬間の安堵感にも似ていた。
 しばしの休憩を挟み、そこで再び巡り合った仲間。
 十年後の未来でも山本や獄寺、そして大人になった雲雀や了平などといった沢山の人と共に過ごしていた綱吉とは違い、たったひとり孤独に耐えながら戦い抜いて合流を果たしたバジル。先行き不透明な状況に再度放り込まれてしまった最中にあって、彼の登場は非常に嬉しく、頼もしかった。
 騒がしい歓迎会を終えた後は、しばしの休息が与えられた。ただ心の底から安らぐには、口に出せない不安要素が大きかった。
「寝間着、本当にそんなのでいいの?」
「はい。この方が落ち着きます」
 苦労の末に日本に渡ってきたバジルだけれど、所持金はとうに底を尽き、長期間ろくに食事を摂っていなかった。気の休まるところもなかったのだろう、なにせひとりきりの長旅だ。アジトに招き入れられ、久方ぶりの食事を味わう最中で眠ってしまった彼は、着の身着のままで、荷物らしいものは匣と指輪くらいしか所持していなかった。
 綱吉と背丈がほぼ同じなので、彼には草壁やフゥ太が、以前から綱吉の為に用意してくれていた衣服を貸し与えることになった。風呂上りで全身から湯気を立て、まだ髪も濡れたままの彼は、いつだったか草壁から借りてそのままになっていた浴衣を羽織り、嬉しそうに顔を綻ばせた。
 藍と白の縦縞模様で、帯は紺一色。日本人の綱吉でさえ、羽織って適当に帯を結ぶだけしか出来なかったものを、イタリア出身であるバジルは颯爽と着こなしていた。
 いったい何処で覚えたのかと考えて、父である家光の屈託なく笑う姿が思い浮かんだ。どうにも間違った日本の知識を教え込んでいる彼だけれど、こういうところはしっかりと、基本から叩き込んでいたようだ。
「凄いね」
「はい?」
「浴衣。父さんに教わったんだよね」
「ああ、いえ。これは、本を見て自分で勉強しました」
 前言撤回する。家光は矢張り、家光だ。
 一瞬だけ尊敬しかかった父親の顔を遠くへ弾き飛ばし、綱吉は苦笑した。
 肩に被せていたタオルを取り、彼はそれで毛先から垂れ下がっていた水滴を拭い取った。暫く会わない間に、綱吉よりももっと薄い、黄金色にも似た稲穂色の髪は少し伸びていた。顔に掛かる前髪を後ろへ流し、少し雑な手つきでガシガシと頭皮を擦って水分を布に移し変えていく。
 立ったままでは遣り辛かろうと、綱吉は座るように促して、自分もベッドの枕側に腰を落ち着けた。
「失礼します」
 両手を頭に乗せたまま会釈し、バジルは綱吉のすぐ右に座った。
 彼が動くと、微かに水の匂いが漂った。鼻腔を擽る優しい香りに綱吉はふっと息を吐き、行き場の無い両手を持て余して肩幅に広げた足の間に落とした。
「……ごめんね」
「はい?」
「あ、いや。その、色々と」
 綱吉が修行の合間に仲間らと談笑して過ごしていた時も、彼はひとり、暗闇からの襲撃を警戒して神経を張り詰めさせていたに違いない。前触れもなくいきなり十年後に飛ばされて、どんなにか混乱しただろう。たとえその場に、状況を記して道筋を示す書があったとしても。
 自分だったら錯乱して、逃げ出していたに違いない。キングモスカや死茎隊との戦闘を思い返し、綱吉はぎゅっと両手を握り締めた。
 ひとりだったら、越えられなかった。偶然の奇跡により、スパナという協力者を得てイクスバーナーは完成したけれど、それだって雲雀との特訓にハルの助言がなければ、日の目を見ることはなかった。
 綱吉はまだ恵まれている。支えてくれる存在の大きさを改めて思い知ると共に、ひとりだけ並々ならぬ苦労をかけてしまったバジルに申し訳なさが募った。
 視線を足元に落とした綱吉の謝罪に、タオルを剥ぎ取ったバジルは小首を傾げた。湿ったそれを傍らに置き、僅かに身を乗り出して隣に座る人物を注視する。そうして、小刻みに震える傷だらけの手を見つけて、嘆息と同時に柔和な笑みを浮かべた。
「沢田殿が謝る必要など、どこにもありませんよ」
 幾許か声のトーンを高くして、バジルは浴衣の袂を揺らした。左手を伸ばして綱吉の拳に重ね、震えを押さえ込んで閉じ込めてしまう。
 身長は殆ど同じなのに、手の大きさは彼の方がずっと上だ。そして綱吉に負けず劣らず、あちこちに治り切っていない傷跡が散らばっていた。
 触れられた事に綱吉は肩を強張らせ、怯えた顔をして首を振った。伏せていた視線を上向かせ、探るようにバジルを窺う。目が合った彼はニコリと微笑み、撫でるように綱吉の手を二度叩いて、間に指を捻じ込んで強張った拳を解いてしまった。
 悴んだ手をもう一度、力強く握って離れていく。姿勢を戻したバジルから胸元に目を向け、不思議と震えが止まっている自分に驚き、綱吉は白みを帯びた掌を見詰めた。
 奇異なものを見る目を右に向けると、はにかんだバジルがまだ湿り気を残す髪を揺らした。肌に張り付くのを嫌がって、前髪を掬い上げて耳に引っ掛けている。お陰でいつもは隠れがちの右目も、しっかり見えた。
 琥珀の瞳を丸くした綱吉は、今一度自身の手を膝の上に見下ろし、緩く握った。
「だけど、俺の所為で」
 彼にだって仕事があったはずだ。
 バジルは綱吉の実父である家光の所属する、門外顧問の一員だ。ボンゴレの外部機関ではあるが、彼自身はマフィアではない。
 その彼を、ミルフィオーレが主導するマフィアの――裏社会の争いに巻き込むのは、甚だ心苦しい。そうでなくとも、綱吉に関わったというだけで大勢が身の危険に晒されて、避難を余儀なくされている。本来無関係であったハルや京子の両親もそうで、彼らが無事でいるように祈るしか、巻き込んでしまった綱吉に出来ることはなかった。
 無人だったハルの家を思い出す。十年前にも何度か訪ねた事があるが、あの頃とは違って屋内は空恐ろしいほど静まり返り、冷たい空気に満ち溢れていた。
 ハルは強い。京子も。彼女らの強さが、直ぐに弱りたがる綱吉の心にブレーキをかけ、支えてくれている。
 誰かに頼らなければ、ひとりで立っているのさえ難しい。相変わらずのダメダメっぷりな自分を悔やんで、折角バジルが解いた手を、彼はまた、固く強張らせた。
「沢田殿」
 肩を丸めて小さくなった綱吉に、バジルは困った風に顔を顰めた。
 どう言っても悪い方向にしか考えない彼の後ろ向きな姿に嘆息し、一瞬だけ遠くを見てからそっと瞼を下ろした。
「沢田殿、ちょっと失礼します」
 深く、長い息を吐いて全身の力を抜き、彼は囁いた。座っていたパイプベッドを降りて素足で床に立ち、綱吉の真正面へ移動して、膝を折る。屈んだ彼を視界の端に見て、綱吉は顔を上げようとした。
 その頬を。
「イッ」
 ぺちん、とバジルが叩いた。
 広げた両手で挟まれ、潰される。軽い衝撃に綱吉は舌を引っ込め、喉を引き攣らせた。
 タコの口に作りかえられた唇を上下させ、何をするのかと咎めようとしたが巧く発音できない。意味の分からない音を連発させた彼の生気満ちる瞳を見上げ、バジルは楽しげに笑ってグニグニと綱吉の頬をこね回した。
「ふふふ」
「ふぁに、にゅ……っ」
「良いですか、沢田殿」
 子供の笑顔を浮かべた彼の手を払い除けたら、不意に低くなった声が続いた。スッと後ろに避けて躱したバジルが、稲穂色の髪を揺らめかせて険しい表情で綱吉を睨んだ。
 瞬きの間に変容した彼の気配に息を呑み、バジルもまた歴戦の勇士というのを思い出す。
 綱吉とは比べ物にならないくらいに、彼は実戦経験を積んでいるのだ。
「バジ……」
「拙者は、嬉しかったのです」
 名を呼びかけたが遮られ、予想外の台詞に綱吉は目を見開いた。吐き出そうとしていた息を間違って飲み込んでしまい、気道を逆流した二酸化炭素にしゃっくりが引き起こされる。
 反射的に背筋を伸ばし、綱吉はベッド上で畏まった。
「へ?」
「拙者は、この時代に喚ばれて、嬉しかったと言ったのです」
 分かっていない顔をして首を右に倒した綱吉に、バジルは語気を強めて言い重ねた。
 真剣な眼差しに気圧され、綱吉は僅かに仰け反った。解いた手でベッドを握り、腰の位置を奥へとずらす。
 追い縋って顔を近づけたバジルは、伝わらないことのもどかしさに唇を噛み、最後は諦めたかのように深い溜息を吐いて乾き始めた髪を掻き回した。
「沢田殿が、十年を経てもなお、拙者を頼ってくださったことが、嬉しいのです」
 若干苛立たしげに、顔を背けた彼は早口に告げた。
 一方言われた方の綱吉はきょとんとして、益々ワケが分からないとばかりに首を傾げ続けた。
「嬉しいって……なんでさ。バジル君、あんなにお腹空かせて、疲れて、いっぱい敵にも襲われて。それって、全部俺の所為じゃないか」
「でーすーかーら!」
 十年後の沢田綱吉が非力であったばかりに、時を隔てた過去から綱吉当人や守護者らを、ボンゴレリングごと連れて来た。
 白蘭を倒せるのがこの時代限定であり、それにはボンゴレリングの力が必要不可欠。ただしこの時代のリングを破棄したのも、この時代の沢田綱吉本人の意思。
 複雑に組み立てられ、張り巡らされた計画は、綱吉と雲雀と、入江正一によるものだという。その計画遂行のパーツとして、バジルも選ばれた。
 綱吉と関わらなければ、彼は今も在るべき十年前にいて、命の危険と隣り合わせの状況に放り出されるなんてこともなかったはずだ。
 全てにおいて、自分が悪い。そう言い切る綱吉に目尻を吊り上げ、バジルはもう一発、今度はさっきよりも強い力で綱吉の頬を挟み、叩いた。
 閉ざされた室内に響き渡る、乾いた音。ぱしん、と肌に走った電流に顔を顰め、綱吉はなかなか放してくれないバジルを負けじと睨み返した。
「バジル君」
「いいですか、沢田殿。よく聞いて、考えてください」
 彼の手首を掴み、引き剥がそうとするが叶わない。信じ難い力で押さえつけられ、首を振るのも難しかった。
 抵抗できず、肩を衝かれてベッドに倒れこむ。真上に圧し掛かられて、元から薄暗かった視界が更に陰った。
 覗きこんでくるバジルの顔は、どこか悔しげだ。それでいて、哀しげでもある。本当は怒鳴り散らしたい感情を懸命に押し殺して、綱吉を傷つけない言葉を捜し、奥歯を噛み締めていた。
「バジル君……?」
「こんなこと、二度と言いません」
 今だけだと熱を含んだ息で告げ、彼は持ち上がろうとしていた綱吉の手を布団に縫い付けた。
 目に見えて分かる深呼吸を二度繰り返し、一旦瞼を閉ざして残る手で自分の胸を撫でている。前屈みの姿勢が苦しいようで、腰を支えるべく左膝をベッドに乗せた彼は、澄み渡る空に似た瞳に力を込め、呆然としている綱吉を射た。
 苦々しい感情が伝わってきて、圧倒された綱吉は抵抗も忘れて彼の瞳の色に見入った。
 稲穂色の髪が、サラサラと彼の白い首の両側を流れて行く。他よりも少し長い数本が綱吉の頬にまで垂れてきて、くすぐったさに身を捩っていたら、逃げようとしていると誤解されてしまった。
「バジル君」
 握り締める手に力をこめられ、骨が軋む。微かな痛みに首を振り、綱吉は自由の利く手で彼の腕を取った。
「拙者は、沢田殿の守護者でも、なんでもありません」
「え」
「ボンゴレの一員でもありません。沢田殿に何かあったとしても、直ぐに駆けつけられる立場にもありません」
 バジルの身の置き場は、あくまでも門外顧問。故にボンゴレ本体と――言い換えるならその次期首魁となる綱吉と、深く縁を繋ぐことは許されない。
 中立を保つ義務があり、偏ってはいけない。母胎が同じとはいえ、ボンゴレが間違った方向に進もうとした時にこれを正すのが、彼の組織の存在意義だ。だから積極的に連絡を取り合うのも、本当は禁じられている。
 ザンザスの反逆から始まった十代目継承権を賭けたリング争奪戦は、ボンゴレがふたつに割れるという異常事態を憂慮し、門外顧問は積極的に介入した。しかし事が終わってしまえば、綱吉とバジルの接点も消え去って然るべきだった。
「そんな」
 そこまで深く考えて居なかったと綱吉は率直に驚き、身を起こそうとしてバジルに封じられた。後頭部をベッドに押し当て、真上を仰ぐ。バジルは未だ苦しげな表情で、暗い影を背負って唇を噛んでいた。
 彼が告げる言葉の意味は、即ち二度と会えない可能性もあったと、そういう事だ。顔を合わせる機会があろうとも、親しい友人として接することは叶わない、と。
 想像を巡らせ、零れ落ちんばかりに琥珀を見開いた綱吉に、彼は僅かながら肩の力を抜いた。押さえつけていた細い手を解放し、身を引く。
 彼が譲った場所に上半身を起こして座り直した綱吉に背を向けて、バジルは乱れた裾を手早く直した。
「ですから、……拙者は、嬉しかったです」
 十年後に喚ばれたこと。
 不条理かつ不可解な戦いに巻き込まれたことが、では無い。新しい力を手に入れ、強くなったことが、でもない。
 苦難の末に綱吉と合流できたことは嬉しい。彼の無事が知れたのは、この上ない喜びだった。
 しかしそれを上回る感慨があった。他ならぬ、この時間に飛ばされた直後に。
 ひとりきり、見知らぬ場所に倒れていた。意識を取り戻して、十年後のバジルが所持していた匣と指輪を手に入れた。パスポートに貼られていた自分の写真を見て驚き、渡航履歴から此処が未来だと教えられ、最後に助太刀の書を見つけて、ページを開いた。
 そこに書かれていた名前に、驚愕した。
 自分が十年後の未来に存在する意味と目的と、達成すべき事項を目にして、魂が震えた。
 沢田綱吉と共に闘い、彼を助けよ――と。
 指輪争奪戦から十年目の節目に再び訪れた、ボンゴレの危機。これに門外顧問が関わらないわけがない。
 堂々と綱吉に会いにいけること、綱吉と再び手を取り合って戦えること。彼を守れること、一緒に居られること、傍にいけること。
 なにより、この時代の綱吉が、バジルを必要としてくれたこと。
 十年を経ても、綱吉とバジルの間に何らかの縁が結ばれていたこと。
「――……」
 背中を向けて言い連ねる彼に、綱吉は緩く握った拳を胸に押し当てて顔を伏した。
 浴衣の襟から覗く彼の首は、ほんの少し赤かった。喋りながらのジェスチャーも、覚えている穏やかな彼からは想像出来ないくらいに大袈裟で、少しもじっとしていなかった。
 綱吉が浅く唇を噛んだのは、胸が苦しかったからではない。心が罪の意識から痛んだわけでもない。
 言われて初めて気付いたのが、恥かしかったのでもない。
 動悸がして、心臓の辺りが締め付けられた所為だ。
「拙者は――」
「バジル君」
 どう言葉を駆使すれば、伝わるのだろう。後ろにいる綱吉の反応を知らず、バジルは固く握った拳を震わせて、巧く纏められない自分に苛立ちを募らせた。
 だから綱吉が両手を伸ばし、ベッドの上から彼に体当たりを仕掛けてきた時も、避けることが出来ずに前にふらついて、危うく倒れそうになった。
 脇をすり抜けた綱吉の腕が、傾いた彼の腰を抱いて後ろから引っ張った。それでどうにかバランスを維持した彼は、反射的に振り向こうとして綱吉の頭を肘で殴ってしまい、固い感触に驚いて肩を高く掲げた。
 半端に上体を捻った彼の華奢な背中に顔を埋め、綱吉が首を振る。浴衣の上から擦られて、くすぐったさにバジルは喉を引き攣らせた。
「さわだ、どのっ」
「ごめん」
 裏返った声で名前を呼び、振り返ろうとするがさせてもらえない。腰に回った腕に力をこめられ、内臓が狭まる感覚に彼は背筋を粟立てた。
 膝立ちでベッドから上半身を乗り出した綱吉は、あと数センチ前に出れば床に落ちてしまう。それも分かるだけに迂闊なことは出来ず、彼は呼吸を整えて自制を働かせ、跳ね上がった鼓動を宥めた。
 触れ合ったところから、綱吉の震えが伝わってくる。それは間違っても、不安定な体勢から来るものではない。
「沢田殿」
「ごめん、バジル君。お願いだから、もうちょっとこのまま」
 今にも崩れそうな苦しい姿勢でありながら、綱吉はそう願い出て紺色の角帯を握り締めた。
 衿が乱され、胸元を幾らか広げたバジルが傷だらけの手を見下ろす。小さくて、まだほんの子供なのに、沢山の重い荷物を背負わされた手だ。
 この強張ってしまった指先が、少しでも軽くなればいい。バジルは肩の力を抜き、祈りをこめて綱吉の手に手を重ねた。
「沢田殿、苦しいですよ」
 筋張ってカサついている肌をなぞり、視線を浮かせる。何も無い天井を仰ぎ、薄明かりの照明に目を細める。
「っあ、ごめん。でも」
「三秒で良いです、緩めてください」
 勢い任せだったので後先考えていなかった綱吉が、バジルの願いに声を上擦らせた。しかし今手を放すと床面に真っ逆さまだ。躊躇した彼に小さく笑って、バジルは大丈夫だから、と引っ張られた所為で僅かに緩んだ帯から、綱吉の手を剥がしにかかった。
 指の関節を無理矢理捻じ曲げられて、綱吉は慌てて顔を上げて、思っていたよりも広い背中と、その足元を交互に見た。続けて自分が正座しているベッドに目をやり、真下の冷たい床が迫り来る恐怖にすくみ上がる。
 直後、ぺりっ、と糊でも剥がすみたいに、バジルの帯を掴んでいた人差し指は押し退けられた。
「ひぃっ!」
 咄嗟に落下の衝撃を頭に思い浮かべ、顔を引き攣らせて綱吉は悲鳴を上げた。しかし重力に引っ張られる前に何かに突き飛ばされ、宙に舞い上がる錯覚に陥る。即座に背中に柔らかな感触が来たのでそれはただの思い込みでしかなかったのだが、無意識に息を止めていた彼は、上半身が弾んだ瞬間に息を吐き、また止めた。
 なにかが、綱吉に圧し掛かって押し潰そうと蠢いている。
「うっ」
「三秒経ちましたよ」
 肺を圧迫されて呼吸困難に陥った綱吉を笑い、バジルが言った。右の耳元、吐息が掛かるくらいの近さで。
 忍び笑いの台詞に顔を赤くし、綱吉は瞑っていた目を開いた。それなのに視界は真っ暗で、何事かと思って瞬きを繰り返しているうちに、ぼやけていた輪郭は鋭さを取り戻した。
 淡い色合いの髪に、空色の瞳。薄ら彼を包む水色のオーラが見えたのは、気のせいだろうか。
「バジル、くん?」
「はい」
 凛々しさの増した精悍な顔立ちの青年が、綱吉を見詰めている。一瞬そんな気がして目を瞬き、綱吉は柔らかく微笑むいつも通りのバジルの姿に、サッと頬に朱を走らせた。
 見間違いだと自分に言い聞かせ、押し返そうと足掻く。だけれどどっかり全体重で圧し掛かられているので、なかなか思うようにいかなかった。
 逃げようとする綱吉を見下ろし、バジルが悪戯っぽく笑った。クスクス言う声が耳元に反響して、重なり合った胸からは互いの鼓動が相手に向かって溢れていった。
「もうちょっと、の制限時間はあとどれくらいですか?」
 綱吉からの懇願を揶揄され、頭から湯気を噴いて彼は凍りついた。引き攣り笑いのまま頬を硬直させ、目尻を下げたバジルの無邪気な――裏を返せばとても計算高い微笑みに、息を呑む。
 背中とベッドの間に潜り込んだ彼の腕が、綱吉の腰を抱いた。背中を丸めた彼が、右の耳を綱吉の心臓に押し当てて目を閉じる。
 肌に触れた他者の体温にどきりとしたら、丸々伝わってしまったようで、バジルは笑った。
「ちょっと、え、バジル君」
「すみません、沢田殿。もう暫く、このままで」
 先ほどの自分の台詞を言い返されて、ぐうの音も出ない。吐き出そうとしていた息を飲み込んで、綱吉は赤い顔を隠し、視線を上向けた末に瞼を閉ざした。
 誰かにこんな風に触れたのも久しぶりだと、彼は言った。
 今思い返してみれば、矢張り少し心細く、寂しかった、とも。
 だから綱吉の顔を見た時は安心感から力が抜けて、空腹に耐え切れ無くなった。
 食事をしながら、生きていることの幸せを噛み締めた。目覚めた時に知っている顔がある事に、安らぎを抱いた。
 こうやって綱吉に触れられる現実が、たまらなく幸せだった。
 出会ってから十年が過ぎ去った自分たちは、いったいどんな関係にあったのだろう。そんな遠い未来のことなんて分かるわけが無いけれど、確かなのは、繋がりは保たれていたということ。
 非常時に助けを求め、応じられる信頼関係が築かれていたこと。
 一緒にいられなくても、傍にいられなくても、心は互いに寄り添いあっていたこと。
「拙者は、幸せ者です」
 心底嬉しそうに目を細めて告げた彼の言葉に、綱吉は奥歯を擦り合わせて視線を泳がせた。持ち上げた両手で顔を覆い、照れも臆面もなく恥かしい言葉を連ねる彼に、高まる心音を持て余す。
 隠そうとしても、左胸の上には彼が居るので筒抜けだ。
「うあぁ、もう。バジル君!」
 こういう場合、どう返事をすればいいのか分からない。十五年に満たない人生経験しか持たない綱吉は、癇癪を起こして逆ギレ気味に叫び、折り重ねていた腕を伸ばして天を殴った。
 あまりの怒号に驚いたバジルの顔を下に見て、拳を振り翳す。
 殴られるのを警戒して身を固くした彼だったが、途中で失速し、バジルの肩に落ちた時には殆どスピードは出ていなかった。
「沢田殿」
「まだ、もうちょっと、だよ」
 拗ねた声を出し、彼の首に回した手を握り締めて綱吉は言った。
 真っ直ぐに喜びを訴えてくる彼に、どう報いれば良いのかが分からなくて、結局他に術が見付からない。こうすることで少しでも、彼の思いを自分も嬉しく感じ、意外に早く巡ってきた再会に喜んでいると伝われば良い。
 言葉にするには恥かしくて、態度でしか表せない綱吉の無言の抱擁にバジルは顔をほころばせた。
「では、もう少しだけ」
 背中に回した腕に力を込め、彼は膝をベッドに沈めて上半身を上にずらした。負担にならぬよう重心を綱吉の上からずらし、上腕をクッションに埋める。
 呼吸が楽になった綱吉はホッとした様子で息を吐き、はにかんだ。
「バジル君」
「はい」
「……あ、やっぱいい」
 呼びかけて、正面に彼を見る。生真面目な表情で返事が成されて、綱吉は口篭もり、視線を泳がせた。
 言いかけて止められると、気持ちが悪い。唇を尖らせたバジルを窺い見て、険のある目つきに綱吉は苦笑した。
 そうたいした話では無いと首を振る。
「ありがとう、って」
 それから。
 彼は満面の笑みを浮かべ、つられてバジルも目を綻ばせた。

「また会えて、嬉しい」

2009/04/11 脱稿