隘路

 吐く息が白く濁ることは少なくなった。
 朝、蛇口を捻った時に出る最初の水の冷たさに、全身に鳥肌を立てる日も減った。
 暖かくなったかと思えば寒さが戻って来て、いつまでもマフラーと手袋は手放せない。折角膨らみ始めた桜の蕾がまた固い殻に閉じこもってしまいそうで、名残を惜しむ冬がいつまでも上空で居座る現状に、綱吉は溜息とも取れる吐息を零した。
「どーした?」
 それが丁度真横を歩いていた人物にも聞こえたようで、高い位置から声が降ってくる。足元ばかりを見ていた綱吉は、薄汚れた運動靴の爪先から視線を蹴り上げて脇を見た。
 好奇心旺盛な腕白小僧という表現がぴったり来る表情が其処にはあって、綱吉は頬を緩めてなんでもない、と呟いた。しかしそれで彼は納得してくれなくて、仕方なく通学鞄を左肩に担ぎ直してから綱吉は吸った息を大きく吐き出した。
 一瞬白くなった気がしたが、錯覚だったかも分からないくらいに二酸化炭素は大気に溶けていく。
「まだ寒いなー、って思って」
「なる」
 ベージュのジャケットの下にしっかりと紺色のベストも着込んでいる綱吉の言葉に、山本は前方へ視線を戻して頷いた。
 綱吉と同じ学校指定鞄以外に、部活で使うユニフォームなどを入れた袋を肩に担いでいる彼は、綱吉にはにわかに信じ難い薄着をしている。そんな格好で寒いと言われても信じられない、と半分茶化した声で指摘すると、山本は右腕を持ち上げて肘を直角に持ち上げた。
 上腕を左手で、ジャケットの上から撫でる。布に覆われて見えないものの、力瘤を自慢したいのだろう彼の顔に、綱吉は苦笑して肩を竦めた。
「鍛えてるからな」
「どうせ、俺は帰宅部ですよーだ」
 野球部に所属し、チームの時期主将候補として忙しくしている彼は、今日は珍しくその部活が休みの為普段よりずっと早い帰宅時間だった。お陰でこうして、久方ぶりにふたり肩を並べて帰路につけたわけだが、それを山本は純粋に嬉しいと笑うので、綱吉にとっては非常にこそばゆかった。
 彼は思ったことを包み隠さず、また、遠まわしな表現を使って曖昧に濁すこともなく、実直に口に出す。綱吉も大概思ったことが即座に口に出る方だが、照れ臭い台詞などはいつも誤魔化してしまって、なかなか言えずにいる。
 こういう山本の飾らないところは、羨ましく好ましいが、時折とても心臓に悪かったりする。獄寺や京子もいる前でいきなり「ツナは俺のこと好きだよな」と聞かれた時は、正直どう答えればいいか分からなくて、かなり焦ってしまった。
 この時は京子が、ふたりとも仲が良いね、のひとことで片付けてくれたわけだが、山本はもう少し空気を読んで、時と場合を考えて欲しいと、綱吉は常々思っている。
 蘇った記憶に頭を抱えていると、歩幅を揃えてくれていた山本が怪訝な表情を向けてくる。なんでもない、ともう一度首を振って、今更に結び目が緩んでいたマフラーを気にしてみせた。
 それを、寒いのだと勝手に解釈した山本が、人懐っこい笑みを目元に浮かべて遠くを見る。斜め上、薄雲が陽射しを幾許か弱めている霞んだ水色の空を仰いだ彼は、黒い電線が交錯するその向こう側に見つけたものに相好を崩した。
「ツナ、寄ってこうぜ」
「ん?」
 唐突に明るい声で腕をつかまれ、引っ張られる。殆ど力が入っていなかったのでつんのめるなんて真似もせずに受け流した綱吉は、半歩分大きく足を前に踏み出して、山本の顔から彼の指先、更にその向かう先へ視線を流した。
 家の形を模した看板が、高い位置でくるくると回っている。非常にゆっくりとした速度で、ずっと見詰めていると眠くなってしまいそうなその形状には、綱吉も過去幾度となくお世話になった記憶が付きまとう。本当は寄り道、買い食いは校則で禁止されているのだが、律儀に守っている生徒はそんなに多くないだろう。
 風紀委員が近くを巡回していないのかだけに注意して、山本が我先にと駐車場もない小さなコンビニエンスストアを目指した。綱吉も断る理由が特にない為、同じく周囲への警戒を怠らずに自動ドアを潜り抜ける。店内は暖房が効いているのか、吹き曝しの外よりもずっと暖かかった。
 手袋を外して鞄に押し込み、どうしようかと入り口付近で足を止めたまま綱吉は視線だけを左右へ流す。山本は店に入る前から既に何を買うか決めていたようで、柔和な笑みを浮かべて迎えてくれた女性店員がいるカウンターへ真っ直ぐ進んでいった。
「山本?」
「すみません、これと、あとこっちと……ツナはー? 何にする?」
 手早く注文を行う彼の素早さに呆れ、綱吉は彼の大声に苦笑する。女性店員の注意は自然と綱吉に流れ、目が合ったところで彼ははにかんだ。
 そそくさと山本の隣へ移動し、彼の前にあるものを覗きこむ。湯気で内部が少し曇っているそれは、保温器だ。
「肉まん?」
「どれにする?」
 綱吉もそこに並べられている中から選ぶものと、山本の脳内では決定済らしい。選択肢をいきなり狭められてしまって、相変わらずの彼のマイペースさに巻き込まれた綱吉は、どうしたものか、とそうと知られぬように肩を落とした。
 カウンター内部側のドアを前に、女性店員も包み紙を片手に待ち構えている。既に二個、山本が選んだものが白地に赤線で彩られた紙に包まれており、早く選ばなければ冷めてしまう。無言で急かされている気分で、綱吉はもぞもぞと運動靴の底で蛍光灯の灯りを跳ね返す床を捏ねた。
「じゃあ、これ」
「はい、どうも有難うね」
 たっぷり十数秒かけて迷ってから、三段目の棚に入れられている饅頭を指差す。この程度なら財布も痛まないから大丈夫だろう、と鞄から小銭入れを取り出した綱吉に、けれど山本は白い歯を見せて笑って、札入れから一枚取り出した。
「これでー」
「山本、いいよ。払えるから」
「気にすんなって。昨日親父の手伝いして、臨時収入あったんだ」
 綱吉より先に受け皿へ千円札を置いた山本の袖を引くが、あっさり封じ込められて綱吉は唇を尖らせる。反論を続けようとしたものの、ふたりのやり取りを完全に無視した店員がさっさと会計を済ませてしまって、半分以下になった釣銭が彼の手に戻された。一緒に差し出された合計みっつの包み紙のうち、ひとつが綱吉に手渡される。
 ぶすっと頬を膨らませた彼に、山本は呵々と声を立てて愉快そうに笑った。
 レシートは要らないと店を出た彼を急ぎ追いかけ、横に並ぶ。既にひとくち目を齧っていた彼は、何が不満なのかと不思議そうに拗ねている綱吉に首を傾げた。
 驕ってもらったのだから、感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはない。喜んでくれてよいはずなのに、と更にもうひとくち、大口を開けて柔らかな厚みのある皮にかぶりついた山本を横目で睨んだ綱吉も、暖かい饅頭に我慢出来ず、表面を覆う包装紙の先を抓んで手前に折った。
 辛子はつけずに、そのまま頬張る。ふわっと顔に暖かい湯気が掛かり、外に出た瞬間から冷え始めていた体温が急に元気を取り戻すのが分かった。
 噛み千切ったのは皮ばかりで、具は少しも咥内に届かない。唾液を含ませると途端に萎んでいくその感触を舌の上で転がしながら、綱吉は両手で持ったその肉まんをじっと見詰めた。
「だって、これくらいなら俺、自分で払えるよ」
 確かに日頃から貧乏だ、お金がない、と事ある毎に言っている綱吉だが、肉まんのひとつくらいなら購入する代金に困らない。山本だって結構な浪費家で(彼の場合は野球に絡む出費が多いのだが)、所持金は綱吉と競える程なのに。
 いくら家の手伝いをして臨時収入があったとはいえ、それは彼が働いて手に入れたお金であるから、綱吉が甘えるのは可笑しい。ほかほかと湯気で包み紙を濡らす肉まんを敵みたいに睨んだ綱吉の言葉に、山本は既に残り少なくなった一つ目の中華まんに齧りつこうとしていたのをやめ、きょとんとした顔で綱吉を見下ろした。
「……なに」
 なにかついているのか、自分の顔に。
 思い切り不機嫌な声を出してやると、山本は自分の顎を小突いた。
 まさか本当に付いているのか、と焦った綱吉が喉から唇にかかる一帯を手で覆って拭うが、指先は顔を構成するパーツ以外何も触れない。そんなわけはない、と何度も同じ箇所を撫でていると、間を置いて隣を行く山本がぶっ、と勢い良く噴出した。
 真剣に焦っている綱吉に腹を抱えて笑い、残っていた塊を一気に口へ放り込む。まだかなりのサイズがあったというのにお構い無しで、忙しく口を動かしている彼を見ていると、なんだか怒る気力も段々と失せていった。
 頭を片手で抱えた綱吉が溜息を深々と吐き出す様を見て、彼は指に残った油分を舐め取った。
「……俺で遊ばないでよ」
「悪い、悪い。つい、な」
 お前の反応は面白いから、と悪びれた様子もなく言ってのけた山本が、空っぽになった包み紙を丸めて、処分に困り、首を左右に振り回した。だが自動販売機の影さえない住宅地のど真ん中とあって、ゴミ箱は何処にも転がっていなかった。
 仕方なく小さく握りつぶした紙を制服の胸ポケットに押し込んだ彼は、もうひとつも食べようと包み紙を解いていく。
「良く食べるね」
「成長期だしな」
 早速味の異なる饅頭に食らいついた山本が、熱心に顎を動かし続けて言う。食べながら喋るのは行儀が悪い、と綱吉が説教垂れる様には恐縮した素振りを見せたが、あまり深く気にする様子もなく、更にもうひとつ噛み付いた。
 食べる速度も、綱吉よりずっと速い。がっしりとした体格だし、なにより運動部に所属しているから、胃袋の頑丈さも段違いなのだろう。それに比べて、と己の貧相さを見下ろして、まだ半分近く残っている手の中の肉まんに綱吉は溜息を零した。
 驕ってもらった件は、結局有耶無耶にされてしまった。確かに今月の残高を思うと彼の心配りは非常にありがたかったが、不公平感は否めず納得いかない。
「今度は俺が驕るから」
「いいって、気にしなくて」
「気にするよ」
 彼とはいつだって対等の関係でいたいのだ。おんぶに抱っこは、嫌だ。
 多少背伸びをしてでも、彼に追いつきたいと思う。誰よりも高い位置から物事を見ている彼だからこそ、同じ視点に立ちたくて綱吉は悪あがきをやめられない。
 もっと頼ってくれても良いと山本は笑うけれど、自分の甘えで彼を潰してしまいそうで、出来ない。山本が目指しているものを応援して、背中を押してやるのが親友たる自分の役目だと分かっているのに、自分から離れて欲しくないとも思っている、この曖昧で答えの出ない今だからこそ。
 少しでも彼に負担をかける真似はしたくなかった。自分が最後にどんな結論を導き出すにしても、山本が綱吉の結果をどう受け止めるかも、まだ先のこと過ぎてまるで見えないが。
 少しでも禍根の残る別れ方はしたくない。さようならは、笑って言いたい。
「次は俺が払う、決めた」
「頑固だな~、ツナは」
「そんなこ……っわ!」
 むん、と脇を締めて力んだ綱吉は鼻息荒く宣言し、山本の苦笑を誘う。危うく握りつぶしかけた肉まんの存在を思い出し、しまったと思いつつ反論しようとした綱吉は、その時点で完全に足元不如意だった。
 たいした段差ではない、アスファルトに覆われた地面に埋め込まれたマンホール。その重い金属の蓋の縁に、丁度運がいいのか悪いのか、靴の爪先が引っかかった。
 恐らく十人中十人が、問題なく通り過ぎられる地点だったに違いない。此処で転べる人間など、百人中ひとりいるか、居ないかの確率だ。
 だが、綱吉は天才的に運が悪い。こういう引きの強さだけは絶対で、本人にしてみれば嬉しくない才能だった。
 見事なまでに蹴躓き、両手を放り出した彼は前方に姿勢を傾がせる。倒れこそしないが片足立ちでおっとっと、と斜めに何度も飛び上がり、驚いた山本が唖然とする前で、最後に膝をカクリと折って蹲った。
 鞄が肩からずり下がり、肘より僅かに低い位置で腿にぶつかって止まる。心臓に手を当てて吐き出しそうになった胃を含む内臓を落ち着かせた綱吉は、荒々しく肩を上下させて滲んだ脂汗を拭い取った。脈拍は一気に上昇して未だ治まらず、バクバクと内側から鼓膜を打って頭に響く。
「大丈夫か、ツナ」
「び、……っくりした~」
 最初の一音で息が喉に詰まり、遅れて残りを吐き出した綱吉に山本が駆け寄る。大股で二歩の距離、しかし後ろに跳ね上げた足を着地させる手前で動きを緩めた彼は、低い位置にある綱吉ではなく、その後ろに視線を落とした。
 包み紙から飛び出し、くすんだ藍色の上に転がった食べかけの肉まん。中身ははみ出て、白い皮の表面は砂粒で汚れている。
 これではもう食べられない。
「あー!」
 なんとか胸を撫でさすって呼吸を整えた綱吉が、膝に力を込めて立ち上がる。そして今更に両手が空っぽになっているのに気付き、くるりと振り返って情けない声を出した。
 視線が向く先は、山本が見ているものと同じ。見事に駄目になってしまった肉まんの残骸に、彼はへなへなと力を抜いて、立ち上がったばかりだというのにまた膝を抱えて小さくなってしまった。
 汚れを払い落とせばまだ平気、という可愛らしいレベルではない。恐らく途中、跳ねた時に踏んでしまったのだろう。白い皮の一部はくっきりと靴底が刻まれ、その形に凹んでいた。
 酷い、と自分の不注意が原因なのに、運命の神様へ文句を言って綱吉は涙を飲んだ。
「ツナ、ツナー? おーい」
 山本が頻りに彼を呼ぶが反応出来なくて、悔しいと目尻を袖で擦って顔を隠す。
 巧くいかない自分がもどかしくて、唇を噛んで彼は首を振った。こんなところで泣いたら、それこそ山本は変に思うだろうに。
「ツナー?」
 山本は動こうとしない綱吉をしつこく、飽きもせずに呼んで、それから腰を手に肩を竦めた。通り過ぎる人の視線を感じて心の中で舌を出し、落ち込んでいる彼の背を叩く。
 軽く、のつもりだったのに、力加減は思ったよりも難しい。痛みに息を呑んだ綱吉が顔を歪めて膝をアスファルトに叩きつけ、益々不細工な顔を作って山本を驚かせた。
 二重の痛みに見舞われて、今度こそ本当に涙目になった綱吉が山本を睨み上げる。瞳に力が戻ったのを見て安堵の表情を浮かべ、山本は先ほど彼の背中を叩いた手を伸ばし、綱吉に立つよう促した。
 まだ文句を言いたげにしている綱吉だったが、確かに公道のど真ん中を占領し続けるのは宜しく無い。ただ素直に彼の手を握り返すのも癪で、横に叩き払ってから自力で膝を伸ばす。打った骨が痛んだが、無視してズボンの汚れを落とした。
 最後に見るも無残な状態に陥っている肉まんを確かめ、盛大に溜息を零す。
 折角の山本の好意を無駄にしてしまったのが悔しくてならず、自分の注意力のなさに辟易する。なにもこんな時に転ばなくてもいいのに、と恨み言を心の中で絶えず繰り返していたところ、不意に横から山本の手が伸びた。
 至近距離に差し出された所為でピントも合わず、驚いて綱吉は身を引く。瞬きひとつでフォーカスを切り替えた彼は、もうひとつ瞬きをしてから真横で笑っている山本を大仰に見詰め返した。
「でも」
「いいって。俺の食べかけだけど」
 これは山本が、自分の為に買ったものだ。こんなところまで甘えるわけにいかないと、綱吉は押し付けようとする彼の手を懸命に押し返した。
 きっとさっき綱吉が脱力したのも、お腹が空いていて、もっと食べたかったからだと誤解したのだろう。確かにその点も否めないが、食い意地が張って落ち込んでいたのではないとどれだけ声を荒げても、山本は理解してくれない。
 いいから、と最後は殆ど力押しで両手に柔らかなそれを押し込まれてしまう。
「でも、もう冷めてるかもな」
 自分の事は二の次で、綱吉を優先させようとする彼だから、一歩引いてしまう。こんなことでは自分も彼も、いずれは駄目になってしまうと分かっているのに。
 結局綱吉は、彼の優しさを拒みきれない。
「ううん」
 大事に抱き締めて、外見も黄色い饅頭を見下ろす。落としてしまった分も山本が、膝を折って手早く片付けてしまった。
 目尻が熱くなるのを必死に我慢して、綱吉は首を振る。
「あったかいよ」
 汚れた袋を手に起き上がった山本が、疑い深げに「そうか?」と聞いてくるのにも頷いて、薄い包み紙を抱く手に力を込めた。
 小さく口を開け、彼が食べた跡を引き継いで齧り付く。
 少しだけ辛い具に涙を誤魔化して、綱吉は無理に笑った。
「美味しいね」
 無邪気に微笑み返してくれる彼が嬉しくて、寂しくて。自分の気持ちを振り払うように、綱吉は硬い具を奥歯でかみ砕いた。
 今少し、このままで。
 もう暫く、このままで。
 いつか選択のその時が来るまで。
 どうか。

 君が好いてくれている俺のままで、いさせてください。

2008/3/2 初稿
2008/11/25 脱稿