はー、と吐いた息は一瞬だけ白く濁り、背後から吹いた風に押されて霧散した。
冬模様の灰色の空とは裏腹の軽快な音楽が、自動ドアの向こう側に消えていく。暖房の利いた店内から冷え切った屋外に身の置き場を移した綱吉は、羽織ったコートの襟を立ててあまりの寒さに身震いした。
家でのんびりテレビを見ていたら、この冬限定の新作お菓子のコマーシャルが流れて、つい居ても立ってもいられずに出てきてしまった。もう少し待てばドラッグストアで安売りされると分かっていても、今直ぐ食べたくなったのだから、仕方が無い。財布がほんのり痛んだが、心と胃袋は満たされるので相殺だ。
乳白色のコンビニエンスストアの袋を揺らし、ガサガサ言う中を覗き込んで綱吉は嬉しげに目尻を下げた。早く家に帰って、温かい炬燵の中でゆっくりと味わおう。それとも、子供達に見付かると寄越せと五月蝿いので、部屋でこっそり抓む方が利巧か。
どちらにせよ、急いで帰ろう。
緑の葉が落ちてこげ茶色の枝ばかりになった街路樹を見上げ、彼は靴底でアスファルトを蹴って歩き出した。
午後も早い時間でありながら、この寒さの所為で人通りは少ない。買い物に出る主婦たちも疎らで、曇天の空は薄暗く、先行きが不安になってくる。通りに面した民家の軒先に干された洗濯物もどこか寒そうで、手袋くらいしてくればよかったと、綱吉はむき出しの首を庇うコートを揺らして頭を掻いた。
左手にビニールの袋を握り、前後に揺らして道を急ぐ。自宅から最寄りのコンビニエンスストアまでは、早足でも五分以上かかる距離にあって、もう少し近くに増えてくれてもいいのにと愚痴を零し、丁度赤に切り替わった直後の信号に苛立って、彼は袋ごと空気を殴り飛ばした。
「ん?」
此処の信号は、なかなか青になってくれないので有名だ。いつも痺れを切らし、車が来ないタイミングを見計らって赤の時でも横断してしまう場所なのだが、今日に限って交通量は多い。どうしてこうもタイミングが悪いのかと右親指の爪を噛んでいたら、反対側の道を覚えのある背中が通り過ぎるのが見えた。
寒そうに肩を丸め、猫背になっているが、あの後姿を見間違えるわけがない。
「獄寺君?」
雪のように白い銀髪は、散髪をサボっている所為か襟足が少し長い。それがこの季節は丁度風除けになっているのか、彼は首筋を覆う髪を気にする様子もなく歩いていた。
丈が短い黒色のダウンジャケットに色落ちが激しいジーンズを履いて、ベルトには例の如く銀のチェーンがジャラジャラと。銀のバックルがアクセントになった革のブーツを履いて、両手はジャケットのポケットの中。
綱吉に気付く事無く、彼は大通りを東に向かって進んでいく。通り過ぎる車の影に見え隠れしながら次第に小さくなる姿に、綱吉は小首を傾げ、呼びかけようか迷って背伸びを繰り返した。
そうしているうちに信号は切り替わり、五秒ばかり経ってから気付いて綱吉は慌てた。待ち時間は長いくせに、青いランプが点灯している猶予は非常に短い。不公平だと臍を咬み、最後の白いペンキを乗り越える頃、案の定人が歩くポーズを描いたランプは点滅を開始した。
「あ、れ」
渡り終えてホッと安堵の息を吐き、姿勢を戻して綱吉は左を見た。先ほどまであった獄寺の背中は、いつの間にかどこかに消え去っていた。
小首を傾げ、もう誰も歩いていない道をぼんやりと眺める。後ろでは赤が青になるのを待っていたトラックが、唸り声と排気ガスを撒き散らして走り過ぎて行った。
黒く濁った煙に襲われ、咳き込んで顔の前で手を振り回す。ちゃんと定期的に車体の点検をしているのかと疑いたくなる臭さに綱吉は奥歯を噛み締め、車道側から退いて激しく噎せた。
涙まで出てきて、目尻をなぞって彼は深呼吸を繰り返した。
温室効果ガス削減だ、なんだと謳われていても、市民レベルでの意識の低さはこの有様だ。これでは地球が死の星に変わるのもそう遠くはないと心の中で悪態をつき、彼は自分もその一因である事実に軽く落ち込んだ。
四角形の菓子箱ひとつしか入っていないビニール袋を揺らし、肩を竦める。
なんだか食欲自体も著しく減退してしまった。天を仰いで溜息を零した彼は、一瞬で正反対のベクトルを向いた気持ちに整理がつかず、乾いた指で頬を掻いて首を振った。
「んー」
かといって、買ったものを返却するのもいただけない。左手の僅かな重みに眉根を寄せた彼は、白い息を吐いて地面の小石を蹴り飛ばした。
東に目を向け、もう見えない姿を探して行く先を想像する。
「獄寺君は、何処、行ったのかな」
進行方向は彼の自宅と反対方向だった。綱吉の家も西方面にあるので、沢田家を訪ねる予定でないのは間違いない。
とすれば、買い物か。一人暮らしの彼は、食料品から生活用品まで、全て己で用意しなければならない。綱吉のように親と同居して、一から十まで世話してもらえる環境にはいない。
食事の準備ひとつにしたって大変なのに、洗濯や掃除と、日々の雑務は多岐に渡って尚且つ多忙だ。学生でもある彼は、あまりその大変ぶりを綱吉に見せないけれど、裏ではかなり苦労しているのではなかろうか。
想像し、綱吉はひとり路上に立ち尽くした。
思えば自分は、休日の彼の暮らしぶりを知らない。
隙あらばなにかと沢田家に押しかけ、綱吉に絡んで喧しい彼だけれど、私生活に関しては驚くほど口が堅い。獄寺はいつだって質問するばかりで、自分のことは殆ど、綱吉が無理に聞き出そうとしない限り、言葉を濁して場を誤魔化し、やり過ごしてしまう。
深く考えたことがなかったので、今まで気づかなかった。彼の巧妙さにまんまと引っかかり、考えることもしなかった。
獄寺の服やアクセサリーの趣味、食べ物の好みや得意科目といったものは分かるのに、例えば休みの日は何をしているのか、朝食はパンなのか米飯なのか、といった日常生活に深く関係する情報は一切与えられていないに等しかった。
無論、そんな知識を持っていなくても綱吉が損をすることはないし、気にしなければ良いだけの話だ。けれど、獄寺は綱吉が使う茶碗の柄さえ知っているのに、その逆はないというのは、どうにも不公平感が付きまとう。
「なんか、な」
それは、疎外感にも似ている。
一方的に丸裸にされて観察対象にされているのに、綱吉からはマジックミラーの向こうが見えないのだ。そう思うと急に胸の奥がもぞもぞしてきて、綱吉はだらしなく垂れ下がる袋を握り、踵を鳴らした。
もう一度青になった横断歩道を渡る男性が、立ち惚けている綱吉に不思議そうな目を向けて去っていった。その人が背中を向けた直後、彼は決意を秘めて顔をあげ、家とは反対方向に歩き始めた。
唇を真一文字に引き締め、やや早足で凹凸が激しい歩道を進む。
並盛町の東方面にはバスターミナルがあって、その近辺がちょっとした商業区画として発展していた。駅前ほどの賑やかさはないものの、土地が安いからか、若者向けの店舗が入ったビルも何軒があったはずだ。
綱吉が着ている服は、多くが奈々の買って来た安い品で、ファッション性で言えば正直あまり褒められたものではない。もっとも着られれば良いと考えるタイプの綱吉は、京子たちと遊びに行く時以外はこれで充分だと思っていた。
獄寺は普段着にも力を入れているから、あの辺の店の常連なのだろうか。外から眺めるだけで入った例のない綱吉は、彼ならば風景に溶け込んで遜色無いとおぼろげに想像し、姿を見失った辺りまで来て一旦足を止めた。
「多分、この辺」
きょろきょろ見回しても、探している人は見付からない。既に通り過ぎられた後で、犬ではなし、彼の残り香を辿るなんていうのも不可能だ。
綱吉は渋い顔をして唇を尖らせ、頭の中で並盛の地図を描き出した。
左に綱吉が横断したバス通りを置いて、道はニ方向に分岐していた。直進か、右折か。反対側の通りから眺めて、この地点で彼が消えたのだから、右に曲がったと考えて良さそうだ。問題なのは、その次。
ここで曲がってしまうと、バスターミナル方向から微妙にずれてしまう。
「違うのかな」
自分の予想とは異なる場所に向かっているのか、獄寺は。行き先に思い当たる節がなく、綱吉は頬を膨らませ、仕方なしに右に進路を切り替えた。
この先には、なにがあっただろう。あまり出向く用事も無く、通った経験もないに等しい道を直進しているうちに、綱吉は段々と心細さを覚えて視線を絶えず左右に揺らし始めた。
十年以上暮らし、慣れ親しんだ町であるに関わらず、一度も訪ねた事がない場所が意外に多い。見覚えの無い景色に戸惑いを隠せず、辿り着く先も想像つかなくて、出口のない迷路に紛れ込んだ気分だった。
太い枝を伸ばす、年輪を感じさせる木が聳えている。古い民家が密集し、立派な倉を持つ寺があった。
「へえ……」
こんな場所があったのかと感心しつつ、当初の目的を半ば忘れかけて綱吉は開きっぱなしになっていた口を慌てて閉じた。
十字路に何度かぶつかったが、何も考えぬまま直進する。最早獄寺の後姿などどうでも良くなりつつあった頃、はたと我に返った彼は大急ぎでそこにあった電信柱の影に紛れ込み、爪先立ちになって電柱と同化しようと試みた。
「くっ」
コンクリート製の柱と、民家の壁という僅かな隙間に潜り込み、身を隠す。あまりに不自然で珍妙な行動にでた彼の前方で、そうとは知らずに左右に首を振り、通りを渡ろうとする獄寺がいた。
接近する車がないのを確かめ、早足で片側一斜線ずつの道路を走りぬける。後ろにいる綱吉に気付いた様子はない。
首から上だけを出し、彼がまた曲がるのを見送ってから綱吉は電柱の後ろから出た。幸いにも車が一台やっと通れるだけの幅しかない道に人通りはなく、綱吉の不審すぎる行動を見咎めた人は居ない。変な汗をかいてしまった彼は大袈裟に肩で息をし、額を拭って獄寺が去った方に爪先を向けた。
若干小走りに住宅地の切れ目を越えると、そこは綱吉も知る道だった。先ほど横断したバス通りとは一本隔てた幅広の道で、急に開けた景色に彼は驚き、此処に出るのかと初めて知った事実に唖然となった。
いつもは別の道を通っていたのだが、そちらは大回りの迂回路だったらしい。こんな場所にショートカット出来る中道があったとは思わなくて、暫く呆然として綱吉はハッと息を呑んだ。
「獄寺君」
忘れるところだった友人の名前を呟き、左足を引いてそちらに首を巡らせる。三十メートル弱の距離があるだろうか、彼は相変わらず前だけを見て歩いていた。幾分背筋が伸びており、ポケットに押し込まれていた両手は外に出ていた。だらんとぶら下がった右手に、何かが握られている。
大きさと形状からして、缶コーヒーか何かだと思われた。道の途中にあった自動販売機で購入したのだろう、そういえば此処に至る手前に駄菓子屋が一軒あった。
「やっぱり、バスターミナルの方かな」
大きめの通りに出てからは、通行人の数も若干だが増えた。スーパーからの帰りらしき人がちらほら出始めて、歩道でありながら猛スピードで駆け抜けていく自転車もあり、ぼんやりしていると撥ね飛ばされてしまいそうだった。
ベルを掻き鳴らして突っ込んでくる二輪車を避け、緊張で跳ね上がった心臓を宥めた彼は、乱暴な運転をする自転車の主に向かって心の中で舌を出した。歩道は歩行者優先なのだから、もう少し配慮してくれなくては。自分はまだいいが、年寄りや子供には危険すぎる。
「っと、違う、ちがう」
一瞬で遠ざかった見知らぬ人に気を取られ、またしても獄寺の事が頭から抜け落ちた。首を振って気持ちを切り替え、綱吉は広がった彼との距離を詰めすぎないよう、慎重に硬い道を進んだ。
獄寺は時折立ち止まり、ショーウィンドに飾られたものを眺めてはまた歩き出す。飲み終えた空き缶は設置されているゴミ箱に捨て、歩き煙草はしない。ただ吸いたくなる瞬間はあるようで、ポケットを探っては煙草の箱を出し、一瞬考えて戻す仕草が二度ほど見られた。
喫煙量を減らすよう、ことある毎に口を酸っぱくして言い聞かせてきたが、少しは効果が出ているようだ。綱吉が見ていないところでもしっかり自制していると知って、嬉しくなる。
誇らしいような、ちょっと照れ臭い気持ちで鼻の頭を掻き、ひとり笑っていたら通りがかりの人に変な目で見られてしまった。
此処が公道のど真ん中だというのを思い出して、恥かしさから赤くなって端に寄る。獄寺はまた更に少し進み、急に立ち止まった。
「うわっ」
前触れもなく振り向いた彼に驚き、軒先を広げていた店に飛び込んでしゃがみ込む。物陰に隠れる綱吉を、店主らしき男性が奇異なものを見る目で見下ろす。彼は対応に困って愛想笑いを浮かべると、獄寺が前に向き直ったのを見計らって慌てて外に駆け出した。
今の行動は、かなり恥かしかった。
全身が赤く、熱くて仕方が無い。自分でも何をしているのかと問わずにいられず、適当なところで足を止めて汗を拭った彼は、さっきよりもずっと近くなった獄寺の姿に心臓を跳ね上げ、建物と建物の隙間に身を滑り込ませた。
こんな風にコソコソしないで、堂々と話しかければいいではないか。そう思うのに、タイミングを逸してしまってどうにもやりづらい。
個人のプライバシーを盗み見ているようで、あまり気分は良くないのに、踵を返して家に帰るのも気が引けるのは何故だろう。獄寺が何処へ行くのか、なにをしているのか、知りたいと思うのはそんなにもいけないことなのだろうか。
「もうちょっと、だけ」
彼が目指す店に入ったら、それで諦めよう。心に決め、唾を飲んだ綱吉は胸を撫でて呼吸を整えると、人ごみに紛れる獄寺を追ってゆっくり歩き出した。
食料品を扱っている店舗前は素通りし、輸入雑貨を取り扱っている小さな店の前で立ち止まる。ガラス戸で内部と区切られている店先にはワゴン台が置かれ、大安売りの札が一緒に設置されていた。
彼は雑多に並べられた品々を吟味するように目を細め、背中を丸めて僅かに前傾姿勢を取った。長く伸びた銀髪が首の動きに合わせてサラサラと流れ、店内から漏れる蛍光灯の光を受けて淡く輝いた。
こうやって遠目に見ていると、獄寺は、たとえ半分だけであっても異国の血が混じっているのだな、と痛感させられる。大勢の町行く人と比べると、その差は歴然としていた。顔立ちも、立ち姿も、ちょっとした仕草ひとつにしたって洗練され、優美さが滲みでている。
それに比べ、自分はどうだ。典型的な日本人体型で、童顔で、獄寺と並んで歩いていると自分の貧相さが際立って感じられてしまう。
卑屈になるつもりはないけれど、コンプレックスを抱かずにいられない。
「ちぇー」
獄寺が品物に興味を失い、視線を逸らしたところで綱吉は右足を高く蹴りだし、唇を尖らせた。
それにしても、彼はいったいどこまで行くのだろう。ウィンドーショッピングだけして、帰るつもりなのか。
冷えた指先は悴み、ビニール袋を握った状態で凝り固まってしまっていた。ゲームセンターから沸いて出た高校生の集団が前方に割り込んできて、一瞬獄寺の姿が視界から消える。綱吉は慌てて揉み解していた両手を下ろし、右に回りこんで人垣を避けた。
「あ、あれ?」
そこは一本道で、進路を分かつ交差点ではない。しかし僅かな時間で獄寺は姿を掻き消し、綱吉の前からいなくなった。
裏返った声を漏らす彼の傍らを、がやがやと騒々しく年上の少年らが通り過ぎていく。呆気に取られている綱吉を盗み見る人も何人かいたが、彼が何を驚いているのか気付く輩はひとりも居なかった。
ものの数秒で綱吉の前から人気が消え失せる。物寂しい冬の風が吹きぬけて、綱吉は乾いた咥内に唾を呼んで飲み込むと、胸の前でぎゅっと右手を握り締めた。
魔法使いではあるまいに、人が消失するなんて事、ありえるわけがない。しかし現に、獄寺は忽然といなくなった。
綱吉の存在を気取り、隠れたか。だが、もしそうだとしても、わざわざ彼が身を隠さなければならない理由が解らない。獄寺のことだから、綱吉が近くにいると知れば尻尾を振って駆け寄ってきそうなもの。
「うーん……」
まさかマンホールが外れていて、気付かずに上を跨ごうとして下水に落ちたとか。
そんな漫画みたいなことさえ想像して、綱吉は急ぎ首を振って否定した。いくらなんでも、ありえない。
「そんなわけないよ、うん」
きっとその辺にある店に入ったに違いない。楽観的に考え、綱吉は自分自身に頷くと元気良く両腕を前後に振り回した。冷たいビニール袋を掻き鳴らし、心持ち駆け足でアスファルトを蹴りつける。
直後。
「――っ!」
横から伸びた腕が綱吉の首根っこを掴み、反対から回り込んだ手が彼の口を塞いだ。
視界がぐわん、と伸びて歪み、景色が一変する。鈍色の空が瞬時に灰色のビルの壁に覆われ、背中から肩に掛けて衝撃が襲った。
「ぐっ」
「テメー、なにひ――」
口を覆う手の隙間から息を漏らし、短く呻いた綱吉に罵声が降りかかる。しかし中途半端なところで声は途切れ、珍妙な沈黙が場を埋め尽くした。
タイル張りのビル壁に打ち付けた部分がじんじん痛み、咄嗟に目を閉じて堪えた綱吉には何がなんだか解らない。ただ聞こえて来た声は間違いなく獄寺のもので、下水道に落下したのではなかったのだと分かって妙にホッとさせられた。
首を締め付けていた拘束が緩み、呼吸が楽になる。磔にしていた力も消え失せ、爪先立ちを強いられていた綱吉はその場で膝を折り、ガクリと蹲った。
「うっ……げほげほっ!」
呼吸するのを忘れていた身体が急激に酸素を求めて暴れだし、苦しさに喘いで激しく咳き込む。両手で胸元を抑えた綱吉は自分の作り出す影以外の暗さに直ぐに反応出来ず、涙目で滲む世界に向かって短い呼吸を繰り返した。
ぜいぜいと舌を出して空気を求める彼を前に、獄寺は呆然とした顔でしゃがみ込んだ。
「十代目、どうして」
「けほっ、はっ……あー」
下向いている綱吉の肩を押した彼が顔を覗き込んできて、悲痛な眼差しで問いかける。しかし綱吉は辛そうなのに笑顔を浮かべ、獄寺君だ、と呟きを零した。
目を瞬いた当の獄寺が、酷く申し訳無さそうにして口篭もり、深く頭を下げてまだ呼吸が苦しい綱吉を面食らわせた。
「すみませんでした!」
道端のアスファルトに正座して膝の前に両手をついて土下座の体勢を取る。その大声に、無関係の通行人が吃驚仰天して逃げていった。
綱吉もきょとんとして、乱れた胸元を整えて小首を傾げた。なにに対して謝っているのかが分からなくて、不思議そうな目で彼を見返す。すると獄寺は僅かに赤い顔をして、鮮やかな銀の髪を掻き毟った。
「獄寺君」
「いや、あの、ですから……ほんっと、すんませんでした!」
言い難そうにもごもごと口を動かし、結局他に言葉が見付からなかったようで、再び頭を下げる。勢いの良さに押されて背中を壁に押し当てた綱吉は、両手を広げて顔を上げてくれるよう頼み、何がどうなって、こうなっているのか整理しようと数分前の記憶を遡らせた。
獄寺を見失い、慌てて追いかけようとしたところ、横から――即ち、今ふたりがいる建物の合間から腕が伸びて、胸倉を掴まれて暗がりに引きずりこまれた。抵抗を封じられ、締め上げられて怒鳴りつけられたところで拘束が緩み、綱吉は今こうしてしゃがみ込んでいる。
綱吉に狼藉を働いたのは、他ならぬ獄寺だ。では何故、彼はそんな暴挙に出たのか。
じっと見詰めあげる綱吉の視線から逃げ、獄寺は膝を浮かせて両手で頭を抱きかかえた。
「ですから、俺ん事つけてる奴がいるなーってのは、ずっと感じてたんスよ」
「あ……」
「まさか十代目だなんて、思わないじゃないですか」
獄寺はその派手な外見と、短気で喧嘩っ早い性格が災いして、なにかと不良に絡まれやすい。敵も多く、並盛でもちょっとした有名人だ。
そんな彼だから、後ろから付回して隙を狙う不埒な輩がいると考えるのも致し方ないことだった。わざわざ襲われてやる義理はなく、ならば先手を打って脅かしておくに越した事はない。その結論に至り、自分を追い掛け回していた人間に攻撃を仕掛けたわけだが。
その相手が、まさかの綱吉で。
「俺、知らなかったとはいえ、十代目にとんでもない事を!」
深く反省の意を述べて悲壮な顔をする彼の方が、よっぽど被害者に見えてならない。綱吉は苦笑し、最後の咳をした喉を撫でた。
「そんな畏まらなくっても。俺は平気だよ、ちょっと吃驚したけど」
獄寺の力がそう強くなかったのと、素早く解いてくれたお陰で大事には至らなかった。呼吸は落ち着きを取り戻し、身体にも異常はみられない。
大丈夫だと繰り返し、綱吉は項垂れている獄寺の肩を叩いた。
そもそも、こうなった原因は綱吉が彼をこっそり付回したところにある。いわば自業自得、獄寺はなにも悪くない。
気落ちする彼を慰めてあれこれまくし立てるが、彼は意気消沈したままなかなか顔を上げようとしなかった。余程ショックだったようで、終いには泣き出す五秒前まで顔を歪める始末。
お手上げだと綱吉は嘆息し、ねじれていたコートの襟を直してビルの壁に凭れかかった。
狭い隙間から覗く空は重く、今にも地上を押し潰してしまいそうだ。雪でも降るのかと眉目を顰めるが、天気予報は真面目に見ていないので思い出せない。深く吸い込んだ息をまとめて吐き出すと、白い綿菓子が目の前に広がって直ぐに消えた。
このままでは埒が明かない。獄寺は自分が悪い、の一点張りで、綱吉の主張をどうしても聞き入れようとしない。頑固な性格が垣間見えて、再度肩を落とした綱吉は、困った様子でこめかみを爪で掻いた。
「獄寺君」
「本当、なんとお詫びすれば」
「獄寺くんってば」
話しかければ、全てを言い終える前に彼が謝罪を口にする。そこを押し切り、綱吉は身を乗り出して彼の頭に額からぶつかっていった。
少しは人の話を聞け。子供の頃に教わらなかったのだろうか、彼は。
痺れを切らした綱吉の頭突きに、彼は目を丸くして呆気に取られた表情を作った。そういえば彼は家族と折り合いが悪く、まだ幼い頃に実家を飛び出して以降全く帰っていないとかいう話を聞いた気がする。ならば他人と歩みを揃えるのが苦手なのも、納得がいく。
背後から来る人を警戒して、ピリピリしなければならない日常なんて、哀しすぎる。せめて自分と一緒に居る時くらいは、ゆったりと構えてくれていいのに。
「じゅうだいめ?」
一瞬目の前に星を散らした獄寺が吃驚して目を丸くし、唇を尖らせている綱吉を見詰めた。彼は前髪を挟み込んで額を擦り合わせたまま、至近距離から獄寺を睨んでいた。
それがある瞬間ふっと和らぎ、力の抜けた笑顔を浮かべて離れた。
「もう謝るの、禁止ね」
「ですが」
「禁止。これは命令」
裾の汚れを払って立ち上がった彼を追って視線を持ち上げた獄寺が、縋りつくような目をして言いよどむ。しかし綱吉はぴしゃりと言い切り、人差し指を立てて彼に突きつけた。
その強い語調に獄寺は息を呑み、渋々ながら頷いた。遅れて彼もまた立ちあがり、遠慮がちに傍らの綱吉を窺い見る。
綱吉はもう気にするなと笑って告げ、結び合わせた両腕を頭上に真っ直ぐ伸ばした。
「いいんだよ。俺が許してるんだから、獄寺君も自分のこと、ちゃんと許してあげて」
頭の天辺で指を解き、狭い中腕を広げて下ろした綱吉の言葉に、彼はぐっと迫るものを堪えて唇を閉ざした。
獄寺はどうにも、綱吉に関して遠慮がある。傍から見ればとてもそうは思えないかもしれないけれど、大袈裟な程綱吉に執着するのだって、彼から見放されたくない気持ちの裏返しだ。だのにどこまで踏み込んで良いのかが分からず、肝心なところで躊躇して後ろ向きに構えてしまう。綱吉からすれば、目の前まで押し寄せて来ておきながらいきなり遠ざかられるようなもので、心臓に悪いし、あまり嬉しくない。
もっとも、だからと言ってそのまま押し倒してくれても良いという話でもないのだが。
首を回し、斜めになっていた襟を立てて風を避けた綱吉が暗がりから道に顔を出す。行こう、と誘われて獄寺は頷き、半歩遅れて歩き出した。
そして二歩進んだところで止まり、三歩目になる筈だった足は綱吉を蹴り飛ばす寸前で戻された。
「十代目?」
「あ、や。……獄寺君って、何処に行くつもりだったのかなー、って」
綱吉個人は、この場所に何の用事も無い。帰り道で見かけた獄寺をこっそり追いかけて来ただけであって、彼が行く先があるとすればそれは自宅だけ。
中身の軽いビニール袋を揺らし、綱吉は困った顔で頭を掻いて後ろを振り返った。
面食らった獄寺が数秒沈黙し、肩の力を抜く。愛想笑いを浮かべて誤魔化そうとしている綱吉に目尻を下げ、とっくに通り過ぎたスーパーの建物を指し示した。
「晩飯を、買いに」
「そうなんだ?」
「下手な尾行の所為で行き過ぎちゃいましたけど」
嫌味を言えるくらいには復活した獄寺に、綱吉は頬を膨らませて地団太を踏んだ。
その子供っぽい拗ねた態度を呵々と笑い飛ばし、彼は憤慨している綱吉を追い越して前に出た。
「あ、ちょっと待って」
本来の目的を果たそうと歩き出した彼を引きとめ、綱吉は感じた震動に右手を上げた。コートのポケットを探り、お気に入りの歌手の歌を流す携帯電話を取り出して広げる。
液晶画面に表示された名前を見て、彼は即座に通話ボタンを押した。
「もしもし?」
自宅から掛かってきた電話に応対して、視線を泳がせた綱吉を獄寺が大人しく待つ。ただ手持ち無沙汰なのは否めず、横からじっと彼の姿を眺め、時折はにかんではわざとらしい咳払いを繰り返していた。
電話の相手は奈々で、早口に何かをまくし立てている。現在地を告げた綱吉がちらりと獄寺を盗み見て、気付いた彼はきょとんとしながら自分を指差し、小首を傾げた。
「あー、うん。分かった、待って。獄寺君」
聞き耳を立てるのは良くないと思い直し、背中を向けようとしていた彼を手招いて、綱吉は通話状態の電話を下ろした。いつの間にか一メートル少々距離が出来ていた彼を呼び寄せ、踵を浮かせて体を揺する。
なんだろうか、と目を瞬かせた彼に、
「母さんが、今日の夕飯に鍋するから、材料買って来いって言ってるんだけど」
「はあ。なら、一緒にスーパーに」
「そうじゃなくて」
今一度大きな箱型の建物を指差した彼に首を振り、説明するのもまどろっこしいと綱吉は前髪を掻き毟った。電話口からは奈々の急かす声が聞こえて、仕方なく耳に押し当てて適当な相槌を返してまた引き剥がす。
一連の動作を見守る獄寺が、急に苛立ち始めた綱吉に怪訝な目を向けた。
「だから。……獄寺君も一緒に、どうかって」
ひとりで食べるよりも、大勢で食べた方が美味しいし、楽しいに決まっている。沢田家は既に七人の大所帯だ、今更獄寺ひとりが増えたところでなんら問題ない。
ビアンキがいるので、ひと騒動起こるのは確実だが。
「えっ」
思いがけない綱吉の提案に、彼は大袈裟に驚いて声をあげた。開きっぱなしだった両手を握り、僅かに頬を興奮に紅潮させて鼻から息を吐く。返事は聞かずとも良さそうな雰囲気に綱吉は肩を竦め、電話料金を気にしている奈々にオッケーだと呼びかけた。
続けて鍋の具の注文を受け、忘れないよう指折り数えて繰り返し呟く。
「じゃあ、買って帰るね。お金、ちゃんと返してよ」
財布の中身に余裕があって良かった。念押しして電話を切った綱吉は、まだ惚けた顔をしている獄寺の胸を閉じた携帯電話で小突き、笑った。
「いこ」
「はいっ」
威勢の良い声で返事をし、敬礼のポーズを取った彼に破顔して、綱吉はポケットに携帯電話をしまった。自由になった左手が空を掻き、暖かなものに触れて動きを止める。
握り締められた手に驚いて顔を上げれば、傍らを行く獄寺が照れ臭そうに微笑んだ。
「まあ、いっか」
「十代目?」
「こっちのこと」
相変わらず獄寺の行動は突拍子がないけれど、そんな彼だからこそ獄寺隼人なのだろう。
含み笑いを零す綱吉に不思議そうにしながらも、獄寺は手を放そうとせず、人目も憚らずにどんどん進んでいく。
途中から引っ張られる形になった綱吉は大股に次の一歩を刻み、空から薄ら射す光に目を細めた。
2009/02/08 脱稿