影法師

 夕暮れが差し迫る時間帯、地面に落ちる影も長い。
「よっ、と」
 歩道と車道を隔てている、十五センチばかりの高さしかない車止めのブロックを渡っていた綱吉は、次のブロックへ飛び移るべく短い掛け声を発し、一瞬だけ地面に別れを告げた。
 首に巻いたマフラーの先が踊り、ベージュ色のジャケットの上で跳ねる。薄水色のそれは、澄み渡る空の色と同じだった。
「十代目、危ないです」
「平気だって」
 交通量はさほど多くない。だからなのか、たまに通り過ぎる車はどれも制限速度を無視して突っ走ってきて、下手に車道側にはみ出すと撥ね飛ばされる危険があった。
 心配する声を発した獄寺に、綱吉は肩越しに振り返ってケラケラと笑った。次のブロックにまた飛び移って、着地に失敗しかかってバランスを崩した彼は、後方から見守っていた獄寺の心臓に過負荷を与えた。
 靴底が滑り、丸みを持った角からずり落ちる。しかしもう片足は無事で、そちらに重心を預けることで転落を免れた綱吉は、我ながら大した反射神経だと自画自賛し、駆け寄って来た獄寺の青褪めた表情に肩を竦めた。
「大丈夫だって」
 ガチガチと奥歯を鳴らしている彼に溜息を零すが、どうあっても獄寺は首を振るばかりだ。このままでは俺の身が持ちません、と強く訴えられて、綱吉は仕方なく彼の言葉に従い、狭いコンクリートンの足場から歩道へ戻った。
 折角見下ろせていた存在が、またいつものように見上げなければならなくなって綱吉は不満だったが、獄寺はホッと胸を撫で下ろし、表情を緩めた。
 事故に遭う時は、どんな状況だっていきなりやってくるものだ。たとえ獄寺が言う安全な歩道にいたとしても、速度超過でカーブを曲がりきれなかった車は、其処に人が居るかどうかも無視して突っ込んでくるのだから。
 例を出して彼の心配性を指摘した綱吉だが、獄寺は逆に、そんな事を言っていると本当に起こるから止めてくれ、と懇願した。
「大丈夫なのに……」
 獄寺は綱吉限定で、非常に過保護だ。たとえランボが泣いて喚いて、ぐずっていても、男ならさっさと泣きやめのひと言で済ませてしまうのに、綱吉が埃の入った目を弄っているだけでも、十代目を泣かせた奴は誰だ、と声高に叫んで憚らない。
 気にかけてくれるのは嬉しいのだが、少々度が行き過ぎているのが悩みどころだ。しかも本人は真剣に綱吉を慮っており、悪気が無いだけに、強く文句を言うのも躊躇われる。
 どうしたものか、と嘆息して綱吉は前に回り込んできたマフラーの端を後ろへ放り投げた。
 夏場は青々と茂っていた街路樹の枝も、今は葉が全部落ちてしまって寒そうだった。路面は掃除されているものの、所々に枯葉が散らばり、殺風景さをより強調していた。
 夕焼けが西の空を赤く染める時間も、少しずつ前倒しされている。のんびり遠回りをしながらの帰り道が終わる頃には、日もとっぷり暮れて街灯の灯りに頼らなければならなくなるだろう。
 肩を並べ、ふたり特に目的地も定めぬまま気ままに道を行く。
 先ほど、車止めのブロックが続く方向に綱吉が曲がったので、進む先は沢田家とも、獄寺のマンションにも繋がっていない。どこかでまた曲がらなければ、地球を一周しないと帰り着けなくなってしまう。
 それも良いかな、と暮れ行く空を仰いだ綱吉は心の中で呟き、ジャケットの袖からはみ出た手を握り締めた。
「寒くなりましたね」
 不意に獄寺が呟き、虚を衝かれた綱吉が僅かに驚いた顔をした。
「十代目?」
 その反応は意外だったようで、獄寺は歩調を緩めて目を丸くしている綱吉を覗きこんだ。彼の長い銀色の髪が、西日を映してほんのりと赤く染まっていた。
 数秒遅れて目を瞬き、我に返った綱吉が慌てて彼から半歩退く。不自然に開いた空間に風が迷い込み、綱吉はぶるりと震え上がって鳥肌を立てた。
「ごめ、なんでもない」
 急ぎ首を振り、気にしないでくれと頼みこむが獄寺の表情は怪訝に歪んだままだ。眉間に浅く皺を刻み、僅かに開いた唇はゆっくりとへの字に曲がっていく。
「なんでもないようには」
「ほんと。ほんと、なんでもないよ」
 なおもしつこく食い下がる獄寺に同じ単語を繰り返し、接近する彼から逃げるように綱吉は固い地面を蹴り飛ばした。自分の影を追い越す勢いで、日頃あまり通ることのない道を駆ける。
 置いていかれた獄寺が甲高い声をひとつ上げ、待ってくれと叫びながら追いかけて来た。
 いつの間にか綱吉も全力で逃げて、獄寺が全速力で追いかける。マフラーが風に棚引き、端を掴まれて首を絞められたところで、綱吉のゲームオーバーが決まった。
「ぐえ」
「ああ、すみません十代目!」
 喉が圧迫されて呼吸が詰まり、足をもつれさせて倒れそうになったところで、気がついた獄寺がマフラーを手放す。即座に両腕を広げてふらついた綱吉を後ろから支えて、胸に抱き込んだ。
 真横から首を伸ばした彼に心配そうな目を向けられ、綱吉は走っている時以上に速まった心臓に顔を赤くした。
「だ、だだ、だっ、だいじょ、ぶっ」
 上擦った声でどもりながら返事をし、くるりと踵を軸にして獄寺に向き直る。案の定彼は酷く不安げな表情をしていて、いくら弾みだったからとはいえ綱吉を命の危険に晒してしまった事を深く憂いでいた。
 首が絞まったのは一瞬だけ。綱吉は五体満足無事で、呼吸器にも特に障害は起きていない。だからそんな顔はしてくれるなと、綱吉は気丈に振る舞って獄寺の肩を斜めに叩いた。
 大体彼は、いつだって大袈裟なのだ。もうちょっと気楽に構えてくれた方が、綱吉だって助かる。
「すみませんでした!」
「もう、良いって言ってるのに」
 深々と頭を下げられ、綱吉は苦笑して彼に顔を上げるよう言った。道路の真っ只中で、それこそ土下座する勢いの彼の扱いに苦慮しながら、綱吉は強まる夕焼けに目を細め、行こう、と促した。
 先に歩き出してしまえば、獄寺もついてこざるを得ない。
 走った所為で、寒気も何処かに消え去った。それに、別の意味でも心の中がほっこりとして温かい。
 冷たい風が正面から吹きぬけて、舞い上がった埃を避けて咄嗟に目を閉じる。煽られた前髪を押さえて息を止めた綱吉は、その間に横に並んだ獄寺を盗み見て苦笑した。
「寒くないですか?」
「全然」
 平気だよ、と返して彼の歩調に合わせ綱吉は右足を前に繰り出した。
 日が陰る。赤焼けた空は少しずつ範囲を狭め、東から迫る藍色の夜闇に追い遣られつつあった。
 四辻に差し掛かったところで、右から白塗りのトラックが近付いてくるのが見えた。運転席上部に据え付けられたスピーカーからは、のんびりとした口調で焼き芋は要らないか、という趣旨のメッセージが流されていた。
 コトコトとエンジンを噴かして進むトラックが行き過ぎるのを目で追っていたら、何を勘違いしたのか獄寺が身を乗り出す。
「食べますか?」
「へ?」
 単純に道路を横断するのに、トラックが通るのを待っていただけなのだが、獄寺の目にはそうは映らなかったらしい。若干頬を上気させて興奮気味に聞いてきた彼にきょとんとして、綱吉は間を置いてから緩慢に首を振った。
 欲しそうに見えたのだろうか。
「いいよ。お腹空いて無いし」
 家に帰ればそう時間を置かず、夕飯が待っている。今焼き芋を食べたら、折角奈々が愛情込めて作ってくれたのに、食べきれずに残してしまいそうだ。それは避けたい。
 静かな口調で言い切った綱吉に、獄寺はどこか寂しげだった。
「そうですか……」
「でも、獄寺君が食べたいのなら、遠慮なく買っておいでよ」
 俺に遠慮しなくても良いのだと背中を押せば、獄寺は斜めになった身体を戻しながら首を横に振った。
「いいです。俺も、特に食べたいってわけじゃないんで」
 ただ綱吉が見ていたから、ひょっとして食べたいのではないかと思っただけ。そう臆面もなく言った彼に相好を崩し、綱吉は交通の危険性が減った十字路を横断した。
 灰色のブロック塀に囲われた住宅地は、夕飯の支度に勤しむ匂いがそこかしこから漂っていた。
 この家はカレー、ここの家は魚を焼いている、等など。獄寺と他愛も無い話題を提供し合いながら、今夜のうちの夕食はなんだろうかと奈々の手料理を想像し、綱吉は咥内に沸いた唾を飲んだ。
「食べていく?」
「あ、いえ。俺は」
「遠慮しなくてもいいよ」
 いきなり訪ねて夕食だけありついて帰るのは、流石に失礼だと遠慮を申し出る獄寺に、綱吉は軽い足取りでくるりと体を反転させた。
 首に巻いたマフラーが少しだけ遅れてついて回る。陰影刻む綱吉の笑顔を見詰め、彼は小さくはにかんだ。
「なら、お言葉に甘えて」
「お礼は、宿題がいいなー」
「教えるだけですよ」
「当然答えを、だよね」
 気がつけば母と子ふたりだけだった家が、賑やかな大家族になっていた。今更ひとり増えたところで気にもならず、奈々も逆に喜ぶ。子供達も遊び相手が増えるし、ビアンキも弟に会えて嬉しかろう。
 ただ、獄寺が倒れられるのは困るので、ゴーグルを用意しておかなければ。そんな事を考えて、綱吉は鞄を握った手を前後に振った。
 一段と低くなった太陽が建物の影に見え隠れして、気の早い一番星が空に瞬く。その脇を、飛行機が東に向かって進んでいくのが見えた。
 揚げ足を取られた獄寺が、困ったように肩を竦めて綱吉を見返す。悪戯っぽく笑い返して、彼はぴょん、と高く跳び上がると五十センチばかり先に着地した。
 気ままに吹く風は、早く帰れとふたりを急かしているようだった。駆け足で太陽は西に沈み、薄暗さは五分刻みで度合いを強めている。綱吉はまだ白く濁らない吐息を零し、下から迫ってきた寒さに小さく震えて解けかけていたマフラーを握り締めた。
「寒いですか?」
 素早く獄寺が質問を飛ばして来て、前に回りこんだ彼に顔を覗き込まれた。心配そうに伏せられた睫が揺れているのが見えて、度を越えた心配性の彼に綱吉は肩を竦めた。
 ゆるりと首を振り、肩の力を抜く。獄寺が案じてくれる心が伝わってきて、それだけで心の中がほっこりと温かくなるから不思議だった。
「平気だよ」
「ですが」
「本当、平気だってば。たまには俺の言うことも信用してよね」
 しつこく食い下がる彼の鼻先に人差し指を突きつけ、少し強めの語気で言い放ち、綱吉は両手を腰に当てた。胸を反らして荒っぽく鼻息ひとつ吐き出せば、きょとんとした後に獄寺は照れ臭そうに笑い、すみません、と小声で謝罪する。
 左手を頭の上にやって、オレンジ色を反射する髪を雑に掻き回し、やや俯き加減に。叱られているのにどこか嬉しげに見えるのは、恐らく綱吉の目の錯覚ではない筈だ。
 いつだって綱吉を見詰めて、いつだって綱吉を思って、いつだって綱吉の為に一所懸命で。
 そんな彼だからこそ、お節介が過ぎるのもつい、許してしまう。
 我侭を言って、困らせたくなる。
「あー、でもちょっと寒いかな」
 本当は少しも寒さを感じていないけれど、綱吉はわざと大きめの声を出して視線を横へ流した。獄寺から顔を背け、制服のジャケットから覗く両手を胸元で結び合わせる。
 あからさまに獄寺が動揺するのが伝わって来る。きっと次に放たれる彼の言葉は「大丈夫ですか?」に違いない。
 情景を想像して目を閉じ、含み笑いを押し殺していた綱吉だったけれど。
「じゃあ、手、繋ぎますか?」
 予想していたのとは違う台詞が聞こえて、綱吉が驚き振り返った先で彼は笑っていた。右手を差し出し、どうぞと視線で促す。
 限りなく優しい笑顔を向けられ、綱吉はぐっと息を詰まらせた。
「十代目?」
 そんな顔をするのはずるい。ちょっと悪戯してみただけだったのに、獄寺にさらりと受け流された上にこんな風に言われたら、恥かしくて手など握れるわけがない。
 身体の中がカッカッとして、全体が熱い。汗まで掻きそうになっているのに、彼は綱吉の状態など全く意に介さず、早く、と急かして広げた掌を彼に突き出した。
「い、いいっ。やっぱり平気!」
「十代目?」
「ほら、もう暗くなってきてる。帰ろう」
「え、でも。寒いんじゃ」
「寒くない!」
 まるで分かっていない獄寺に怒鳴りつけ、綱吉は彼から逃げるように走り出した。
 獄寺の言葉、笑顔ひとつが、綱吉の寒さを取り払って温めてくれている、なんて。
 こんな事、恥かしくてとても言えるわけがなかった。

2008/10/31 脱稿