白妙

 どこかでカラスが啼いている。七つの子が待つ山に帰るところなのだろうか。
 夕暮れ差し迫る空を窓から見上げ、小首を傾げた綱吉は冷えたガラスに顔を近づけようとしたところで、思いとどまって足を引っ込めた。
 眼下のグラウンドでは陸上部が幅を利かせ、スタートの合図となる笛の音が高らかと鳴り響いていた。
「あー、あぁ」
 一方綱吉が立つ校舎内部は人気に乏しく、寒々とした光景が広がっていた。廊下に在るのは彼ひとりで、居並ぶ教室はどこもひっそりと静まり返っていた。
 いくら放課後に相当する時間とはいえ、平日ならばこの静けさはありえない。どこかで女子生徒が何人か居残り、輪になって談笑を楽しむ姿がひとつくらいあってもいいはずなのに、話し声ひとつ聞こえてこなかった。
 耳に届くのはグラウンドの歓声と、自分の呼吸する音ばかり。胸を締め付ける息苦しさに喘ぎ、綱吉は胸元に添えるだけだった手をぎゅっと握り締めた。
 今し方出て来たばかりの自分の教室を振り返り、そっと溜息を零す。緩く首を振ると、夕日に透けた蜂蜜色の髪が少し遅れてついてきた。
「なんで、こんな日に」
 今日は土曜日。週休二日制を採択する並盛中学校では本来、授業は予定されていなかった。
 ところが彼はここにいる。朝十時前から、この時間まで、弁当持参でみっちり特別授業が行われたからだ。
 あまりにもあんまりな成績しか残せない彼の為に、先生方が奮起してくれたのはとても有り難い。感謝の言葉も無いくらいだ。このままでは進級さえ危うい状況にある彼の平均点を、何とかして上昇させようという意気込みや熱意には、涙さえ出てくる。
 ただ彼が問題にしているのは、そこではなかった。
 土曜日が潰れるのは、別段構わない。いや、良くは無いが元を辿れば自分の理解力不足が原因なのだから、仕方が無いと諦めはついた。気に病んでいるのは、特別補習が二月の丁度真ん中に当たる今日、行われたことだ。
 カレンダーを見る限り日程と被るのは分かっていたことだけれど、愚痴のひとつも零したくなるのは否めない。せめて十四日が平日だったなら、こんなに気落ちすることも無かったろうに。
「やんなっちゃうよ、もう」
 そう、今日はバレンタイン。
 通常通り授業があり、校舎に生徒が溢れかえっている日だったなら、まだお情けで義理チョコを頂戴する機会に恵まれる可能性もあっただろう。京子からも、優しい彼女のことだから、用意してくれていたに違いない。
 ところがどっこい、今日は土曜日。こちらから出向かなければ、顔を合わせるチャンスは無いに等しい。しかも陽が高い時間帯は特別授業に費やされ、漸く終わりを迎えたこれから、どんどん暗くなっていく一方だ。
 今日綱吉が学校に呼び出されていることは、クラスのみんなが知っている。ただ彼を指さして笑いものにしこそすれ、わざわざ義理チョコひとつを渡しに来てくれる物好きはいなかった。
 奈々が持たせてくれた弁当のデザートは、甘いチョコレートをコーティングした苺だった。彼女なりの慰めのつもりだったのだろうが、ひとり寂しく食べる弁当の切なさが増大しただけだった。
 美味しかったけれど、心は寒い。廊下を流れる隙間風に身を竦ませ、綱吉は再度溜息を零してトボトボと歩き始めた。
 階段を降りて、正面玄関で靴を履き替えて、さっさと帰ろう。肩に担いだ鞄は辞書も入っているのでずっしり重く、姿勢はつい猫背になりがちだった。
 脇腹に当たる硬い鞄の感触に顔を顰め、視界を横切る薄茶の髪を指で抓む。軽く引っ張りながら一階への階段を降りていると、下からガタゴトという、なにやら騒々しい音が聞こえて来た。
「ん?」
 聞き覚えがあるような、ないような、微妙な音だ。重く、震動を伴う騒音に眉根を寄せて下ろそうとしていた足を戻す。もっとも残りはあと二段しか残っていなかったので、彼は一瞬下を向いてから思い切って三十センチ足らずの高さから飛び降りた。
 着地すると同時に音の発生源が視界に入った。左から近付いてくるのは、段ボールを乗せた台車だった。
「な……んだ?」
 思わず声が出たのは、その青と白の台車を押しているのが、黒い詰襟を身に纏ったリーゼントヘアの男だったからだ。中学生でありながらとてもそうは思えない厳つい顔つきをして、他者を圧倒する眼光を放って一直線に近付いてくる。しかも台車を押すのは、ひとりではなかった。
 呆然と見送る綱吉の前を、合計して三人、どれも似たような出で立ちの男達が通り過ぎていく。黙々と、脇目も振らずに直進する様は異様と表現するほかない。
 一瞬で遠ざかった集団を間抜け顔で見送り、いつの間にかずり下がっていた鞄を担ぎ直す。あれは他でもない、この学校の風紀委員で、向かう先は方向からして、応接室と思って良さそうだ。
「なんだったんだ?」
「没収物だよ」
「ひえっ!」
 事情は良く分からないが、自分から積極的に聞きに行きたいものでもない。首を傾げたまま呟くが、どうでもいいかと気を取り直して体を反転させようとしたところ、目の前が暗くなり、一緒に声が降って来た。
 綱吉の進路を塞ぐ形で立っていた人物に驚き、反射的に飛びあがって距離を取る。いったいいつの間に近付いたのか、まるで気配を感じなかった自分の迂闊さを呪い、綱吉は一瞬で爆発した心臓を宥めて冷や汗を額に浮かべた。
 再び肘まで下がった鞄を担ぐのは諦める。腕を伸ばして両手で握り、猫背を強めた彼は仰々しく立っている恐る恐る人物を見上げた。
 先ほど通った風紀委員とは違い、詰襟の学生服は肩から羽織るだけ。まだまだ寒い季節だというのに、薄手の白いワイシャツ姿を惜しげもなく晒す人物に、綱吉は若干引きつった愛想笑いを浮かべた。
「ひ、ヒバリさん」
「今日は土曜だよ。何してるの」
 綱吉が部活に所属していないのを知っている彼の問いに、睨み下ろされた綱吉は途端に萎縮して肩を丸めた。ずっしり来る鞄で膝を叩き、俯いて答を渋る。
 別段悪い事をしているわけではないのだが、他人に説明するのは恥かしい。このままでは進級できそうにないので、特別補習授業を受けたその帰りだというのは、男として、というよりも人間として情けなさの極みだ。
 もじもじと握る鞄の持ち手を揉み、体を揺らして丁度良い言い訳を探すがなかなか思い浮かばない。そうしているうちに時間は過ぎて行き、沈黙が一分を越えようとした辺りで雲雀は我慢の限界が来たのか、組んでいた腕を解いて右手を腰に当てた。
「沢田綱吉」
「は……はひっ」
「登校の理由は?」
 ゆったりしたリズムでフルネームを紡がれ、勝手に背筋が伸びた。ピンと胸を反らせた彼に淡く笑み、雲雀が重ねて質問を繰り出す。
 一見楽しそうにしている雲雀ではあるが、これは彼が怒る一歩手前の表情だ。全く知らない間柄ではない為、彼の複雑な性格も少しずつではあるが理解出来るようになって来た。態度が変容する直前の、微妙な揺らぎも。
 大人しく降参の白旗を振った方が得策。色々と案を練っていた頭は結局最もシンプルな答を導き出し、綱吉は強張らせていた頬を緩め、そっと息を吐いた。
「補習、です」
 正直に本当のことを話して、睫を伏す。小声ながらはっきりと聞こえる発音の彼を見下ろし、雲雀は左手で顎を撫でて視線を斜めに投げた。
 そういえば、そんな報告も受けていた気がする。土曜日に教室をひとつ使わせてもらうと学年主任から申請があって、その使用理由が確か特別講習だった。
 あの時は深く考えもせず、最上級生の受験対策講義でもやるのかと思って許可を出したのだが、雲雀の予想は大幅に外れた。
「他には?」
「俺だけです」
「君だけ?」
 しかしそれにしても、静か過ぎる。風紀委員以外は綱吉としかすれ違わなかったと言う雲雀に、綱吉はやや声のトーンを落として告げた。即座に雲雀の、少しばかりの驚きを含んだ声が返された。
 だから言いたくなかったのだ。
 ちっぽけなプライドを傷つけ、下向いたまま唇を尖らせた綱吉に雲雀が苦笑する。なるほど、と呆れ気味の声で相槌を打ち、小さく肩を竦めた。
 拗ねていると直ぐに分かる子供っぽい態度に相好を崩し、持ち上げたままだった手を下ろす――綱吉の頭へと。
「わっ」
 今日も元気良く爆発している甘い色の髪をかき回せば、見た目に反して柔らかな感触が掌を覆った。いきなり上から押さえ込まれた綱吉は短い悲鳴をあげ、鞄を右手一本に任せて左肩を跳ね上げた。
 止めてくれるよう懇願しても、雲雀の手は引っ込まない。手首を掴まえて強引に引き剥がして、やっと押し潰そうとする圧力が消えてホッと息を吐く。ただでさえくしゃくしゃの頭が、一回り酷い状態になってしまった。
 そうでなくとも精神的に落ち込んでいるのに、踏んだり蹴ったりとはこの事だ。帰り道まで不幸が待ち受けているとは夢にも思わず、疲れ果てた顔で首を振れば、綱吉が掴んだ場所を撫でる雲雀がじっと人の顔を見下ろしていた。
 そんなに強く握ったつもりはなかったのだが、爪でも立ててしまっただろうか。頻りに手首を気にしている雲雀に不安な目を向けると、彼は一瞬の間を置いて、下に視線をずらした。
「ヒバリさん?」
「持ち物検査」
「はい?」
 唐突に鞄の持ち手を横から攫われ、引っ張り返した綱吉が裏返った声を出した。
 急にまた、どうして。
 やること成すこと全て唐突な彼に面食らい、奪われてなるものかと鞄を胸に抱え込んだ綱吉はぽかんと口を開いて黒髪の青年を凝視した。行き場を失った左手を下ろした雲雀は、反抗的な態度を示した綱吉を睨みつけ、諦め悪くまたも手を伸ばして来た。
 今度は腰を捻って身体で庇い、理由の説明を求めて綱吉は背中を丸めた。
「持ち物検査だって、言ってるだろう」
「だから、なんでですか!」
 肩を掴んで無理矢理振り向かせようとする彼に抗い、大声を張り上げた瞬間、瞼を閉じた綱吉の脳裏に先ほど通り過ぎて行った一団が蘇った。
 段ボールを積んだ台車を押す、風紀委員。箱の中身を雲雀は、没収物だと言った。
 そして今日は、土曜日ではあるけれど――
「持ってるなら大人しく出しなよ」
 必死に鞄を守ろうとする綱吉の姿に、雲雀は完全に勘違いしている。頭の中で複数の事柄がひとつに結びつき、ハッとした綱吉は声を荒げる彼の腕を振り払って半歩退いた。
 自然と息が上がり、肩を上下させて呼吸を整えて苦い唾を飲み込む。振り向いた先の雲雀は、右手を浮かせた状態で少し怒った顔をしていた。
「沢田綱吉」
「も、……持ってません!」
 彼が何を探しているのかは、今日という日がどういう記念日かを思い出せば、即座に理解出来た。
 低い声で名を呼ぶ彼の、今にもトンファーを取り出しそうな雰囲気に、綱吉は声を震わせて慌てて叫んだ。両手でしっかり鞄を抱き締めた状態では説得力などないに等しいが、それは人を怯えさせる雲雀が悪いのだ。
「持ってない?」
 嘘をつくなと言われても、本当なのだから仕方が無い。チョコレートなど、昼間に食べた苺を包んでいた分しかなく、それもとっくに胃袋の中だ。
 そもそも、考えてもみろ。朝からずっと、綱吉は教師とマンツーマンで補習を受けていたのだ。休憩は昼食時以外殆ど無く、訪ねてくるのは先生ばかり。授業があるわけでもない日に、わざわざ綱吉にチョコレートを渡しに来る奇特な人が果たしていると思うのか。
 怒鳴っているうちに感極まって涙が滲んで、潤んだ瞳で睨み返す綱吉に、雲雀は口を閉ざし、艶やかな黒髪を掻き上げた。
「それ、自分で言ってて哀しくないの」
「五月蝿い!」
 人が気にしている所を突き刺す質問に、綱吉はひと際大きい声を張り上げた。
 直後、誰に向かって怒鳴ったのかを思い出して顔を青褪めさせる。もっとも雲雀は、コロコロと切り替わる綱吉の表情を楽しんでおり、気を悪くするようなことはなかった。
 口から短く息を吐き、鼻から吸い込む。間際に上唇を舐めた綱吉は力の抜けた腕の間から鞄を下ろし、引きずられた肩を前に倒した。
「ああ、もう……」
 何が哀しくて、いかに自分がモテないかを説明しなければならないのか。悲壮感滲ませて俯いた彼に雲雀は笑みを噛み殺し、僅かに浮かんだ哀れみの感情を指で弾き飛ばした。
「なら、恵んであげようか?」
「ふぇ?」
 変な声を出し、雲雀が今し方言い放った言葉に首を傾げた綱吉が顔を上げた。きょとんと目を丸くしている姿は小動物を思わせ、雲雀は切れ長の目を細めて天井に向かって指を立てた。
 つられて綱吉も上を見るが、別段変わったところはなにもない。一秒半考えて、彼は応接室を指差しているつもりのだと理解して、姿勢を戻した。
 それでもまだ、良く解らない。怪訝な目つきで見返した雲雀は、伸ばしていた人差し指を丸めて唇の真下に押し当てていた。
「没収物」
「あー……って、え?」
 しっとりと濡れた声で囁かれ、思わず頷きかけた綱吉は直前でまた疑問符を頭に浮かべた。
 没収物とは即ち、学校内に持ち込まれたバレンタインデーのチョコレートのことだろう。風紀を乱すものを厳しく取り締まる雲雀たちの行動は、在校生にとって恐怖の対象だ。土曜日だから大丈夫、と安易に考えるのは危険すぎる。
「今年は土曜日の所為で不作だったけど、運動部目的のは、結構集まったからね」
「は、はぁ」
 風紀委員にチョコレートを没収された面々を思い浮かべ、間違っても「可哀想」とは声に出さず、綱吉は緩慢な相槌で場を誤魔化した。
 横を見れば、窓の外は少し暗くなり、足元に落ちる影は角度を強めている。運動部の掛け声は、いつの間にか完全に聞こえなくなった。
 山本へチョコを贈ろうとした女子も、被害にあったのだろうか。そんな事をぼんやり考えていたら、意識を他所向けているのがばれて雲雀に頭を小突かれた。
「で?」
「はい?」
 どうするのか聞かれ、何のことか咄嗟に理解出来なかった綱吉が聞き返す。途端、もう一発、今度は痛い拳が落ちてきた。
 目の前に星が散り、衝撃で話の流れを思い出した。台車三台分のチョコレート、確かに魅力的な誘いではあるが正直、引き取るのは心苦しい。そもそもそれらは、綱吉の胃袋を満たすために用意されたものではない。
「ヒバリさん、は。……あのチョコ、どうするんですか」
 没収された、真心が詰まった甘いお菓子。本当の宛先に届けられることなく廃棄処分されるのは、あまりにも哀しい。
 自分だったら嫌だ。渡したい人の手に渡らず、無関係の人に横取りされるのは、気分が悪い。
 捨てるつもりなのだろうか。それとも、風紀委員で食べてしまうのか。雲雀はあまり、チョコレートなどの菓子類に執着が無さそうにも見えるけれど、本当のところは知らない。いぶかしむ綱吉の視線に、彼は口角を持ち上げて笑った。
「並盛の養護施設に寄付」
 燃やして捨てる、という答えを予想していたが、外れた。
 思いがけない雲雀の台詞に、綱吉は目を丸くして驚きを素直に表現した。
「意外?」
「はい」
 あまりにも露骨な表情の変化に、雲雀が笑ったまま聞いてくる。反射的に頷き返してしまい、しまったと後から気付いたがもう遅い。
 けれど雲雀は笑っていた。思っても見なかった彼の姿に、綱吉は降りてきた手でまた髪の毛を掻き回されても、すぐには反応を返せなかった。
 捨てるのではなく、寄付。裏に色々な策略が隠れているような気がしないでもないが、食べ物を粗末にするのではないと分かっただけでも、ホッとした。本来の目的を逸脱しているが、少なくともお菓子を分け与えられた子供たちは幸せを感じて、笑顔になるだろう。
「そっか。良かった」
 無駄な抵抗はせず、雲雀の手を頭で受け止めたまま綱吉がはにかむ。心から安堵した笑顔に、雲雀の手は一瞬止まった。
「……君は」
「あー、でも、だったらやっぱり、駄目ですね」
 口の中でなにかを呟きかけた彼に気付かず、言葉を遮って綱吉は視線を右に流した。
 接尾語を変な風に並べ、雲雀の手を頭に乗せたまま握った鞄を揺らす。ふたりの足の間を往復する振り子に目をやり、雲雀は綱吉の次の言葉を待って肘を戻した。
「なにが」
「ん。おすそ分け」
 つい親しい友人と喋っている気分で呟いた綱吉だったが、本人は気付かなかった。僅かに雲雀が右の眉を持ち上げたが、もとより表情筋が硬いと揶揄される彼なので、微細すぎる変化を察するのも難しい。
 綱吉は前にぶら下げていた鞄を背中側へ回し、照れ臭そうに笑った。
 本当はちょっとだけ心が揺れた。一日で沢山頭を働かせたから、糖分が足りていない。昼食だけでは到底足りず、チョコレートの話題が出てからは空腹感が強まって仕方が無かった。
 だが今の話を聞いてしまった以上、風紀委員が没収した菓子においそれと手を出せない。たとえ委員長である雲雀が許可したとしても、自分の心が認めはしないだろう。
 きっぱりと言い切った綱吉をまじまじと見詰め、雲雀は彼の体温が微かに残る手を握り締めた。
「君は」
「はい」
「意外に真面目だね」
「……それは、どういう意味でしょう」
 感心した風情の雲雀の感想に、綱吉は複雑な気持ちになった。悪気は無いのだろうが、ひと言多い。上目遣いに問えば、雲雀は目尻を下げて笑った。
 今まで彼にどう思われていたのだろう。確かに遅刻も多く、成績は下から数えた方が圧倒的に早いけれど。
「本当にいいの」
「そう言ってるじゃないですか」
 折角の申し出であるが、雲雀の重ねての確認に、綱吉はきっぱり辞退を表明した。
 勿体無い気持ちが全く無いわけではないが、そもそも風紀委員とは無関係の自分が割り込むのはルール違反であろう。何の苦労もなく美味しい蜜だけを頂戴するのは、宜しく無い。
 どこまでも正直に考えを打ち明ける綱吉に、雲雀は肩の力を抜いて表情を緩めた。いつに無く優しい顔をする彼を西日の中に見て、一瞬綱吉の息が止まる。
「あ……」
「なに?」
「あっ、いえ、なんでも!」
 無意識に感嘆の声が漏れて、聞こえた雲雀が小首を傾げた。なんでもないと言いながら、とてもそうとは思えない慌てぶりで否定されて、彼は眉間に浅く皺を刻み、綱吉は胸に抱え込んだ鞄に顔を伏した。
 どうしてだか、急に目を合わせるのが恥かしくてならなかった。
「そう?」
 だのに雲雀は、綱吉の気持ちなどまるでお構いなしで軽く膝を屈め、下から覗きこんできた。具合でも悪いのか案ずる声色に、頬がカーッと熱くなる。
 心は一秒でも早く此処から立ち去りたがるのに、身体は思いに反して動かない。心臓が破れそうな勢いで激しく脈打ち、かみ合わない奥歯がカチカチと五月蝿く音を立てた。鞄の中にある辞書の角が肉の薄い腹筋を抉り、胃に残っていた空気が圧迫される。
 ぐぅぅぅぅぅ、と。
 実にのんびりとした、しかし雲雀を唖然とさせるには充分な音量で、綱吉の腹の虫が鳴った。
「っ!」
「……ふ」
 はっきりと聞こえた音に綱吉は瞬時に顔を真っ赤に染めた。雲雀は僅かに身を引き、堪えきれず噴き出した口元を慌てて丸めた手で覆い隠す。表情は半分隠れてしまったが、眇められた目が笑いを懸命に押し殺しているのだと如実に語っていた。
 不可抗力とはいえ、なんというタイミングであろう。恥かしくてならず、綱吉は全身に鳥肌を立てて竦み上がった。
「ほんとに、要らないんだ?」
「うあぁー!」
 幾許か笑いを含んだ声で再度聞かれ、じたばたとその場で地団太を踏んだ彼は意味不明な雄叫びを発した。
 穴があったら入りたいというのは、こういう場合の事を指すのだろう。瞬時に自分の存在を消してしまえたら、どんなにか良かったか。まだ肩を小刻みに震わせている雲雀を涙目で睨み、綱吉は元凶となった英語の辞書を鞄の上から叩いた。
 ものに八つ当たりしている彼を笑って、雲雀は唇をなぞった指を学生服のポケットに突き刺した。中身のない袖が反動で前に流れ込み、臙脂色の腕章が胸元で揺れた。
「はい」
 彼が左胸のポケットから取り出したのは、アルミ包装が成された携帯食品だった。
 一日に必要な栄養素の何分の一かが含まれる、簡易栄養補助食品でもある。ブロック状の固形物だというのは包装の上からでも分かり、簡単に押し潰してしまえそうな柔らかさに、綱吉は受け止めると同時に握り締めた手を慌てて広げた。
 毎日奈々が手料理を用意してくれる綱吉には、あまり縁がない食べ物でもある。
「あ、の」
「あげる。昼の余り」
 それは誰かから没収したものではないと暗に告げ、雲雀は呆然とする綱吉の手元を指差した。
 彼から視線を逸らし、掌に転がる、見るからに味気ない彼の昼食を見詰める。土曜日に関わらず早起きした奈々が作ってくれた弁当とは、到底比べ物にならない。
「ヒバリさんて、……いつもこんなの、食べてるんですか」
「うん?」
 彼が優雅に食事をする光景は、想像出来ない。むしろ日頃から何を食べているのか疑問に思うくらい、彼には生活感というものがなかった。
 こんな無味乾燥の補助食品を片手間に食べて終わりだなんて、なんだか寂しい。無意識に口に出して呟いていた彼の言葉を聞き、用は済んだとばかりに歩き出そうとしていた雲雀は、持ち上げた足を止めた。
 床を叩く冷たい音に、ハッと綱吉が我に返る。振り仰いだ先の雲雀の顔は、逆光の所為で綺麗に見えなかった。
「あ、いえ。別に……」
 咄嗟に弁解の言葉を並べようとするが、巧く繋がってくれない。落ち着き無く瞳を泳がせた彼の、夕日を受けて赤らんだ頬に手を伸ばし、雲雀は気まぐれに指の背で形をなぞった。
 冷えた他者の肌が触れる感触に、綱吉は息を止めた。
「なら、作ってくれる?」
 斜めから見詰めてくる視線が、探るように琥珀を射抜く。初めて聞く彼の甘えた彼の声に、綱吉は凍りついた。
 指先が痙攣を起こす。瞬きさえ出来なくて、茫然自失と相手を見返すのが精一杯の綱吉に更に笑いかけ、雲雀は耳に掛かる蜂蜜色の髪を擽って離れた。
「ぇ……」
「来月も、土曜日だしね」
 悪戯っぽく言い、彼は伸ばしたままの指で綱吉の手の中のものを小突いた。
 促されて下を見る。簡易包装の表面には、商品名のほかに何種類かある味のうちのひとつが印刷されていた。
 チョコレート味、と。
「へ?」
「ハンバーグね」
 理解が追いつかず、声を裏返した綱吉の前で雲雀は悠然と手を振った。楽しみにしている、とだけ言い残してさっさと歩き出してしまう。
 階段を登る背中はじきに見えなくなり、ひとり取り残された静かな空間で彼はじっと手元に残されたものを見つめた。
「えーと……」
 これは、チョコレート味で。
 今日は、バレンタインデーで。
 即ち、そういう事であり。
 来月とは、いわゆるひとつの、あれだ。
「…………え、ええええぇぇぇぇええーーー!?」
 長い沈黙を挟み、やっと彼の言葉の意味を悟った綱吉は、詰まるところ雲雀が求める意味を想像し、林檎よりも赤い顔を両手で隠して学校中に響き渡る声で悲鳴をあげた。

2009/02/10 脱稿