靴音

 赤く色付いた紅葉が、ひらひらと風にそよいで揺れている。
 赤子の手にも似た形状が一斉に波を打ち、そのうち何枚かが親である木に別れを告げて空を舞う姿を見送り、綱吉は白い息を吐き出した。
 街路にはみ出ている他所の家の庭木をいつまでも見上げていては、不審がられてしまう。休めていた足を前に繰り出し、重くも軽くも無い鞄を振り回しながら、綱吉は制服の前を反対の手で握り締めた。
 ベージュ色のジャケットを着ていても、布の合間から隙間風は紛れ込んでくる。身に沁みる寒さに奥歯を鳴らし、鼻を啜って、彼は帰り道を急いだ。
 今日のおやつはなんだろうか。味気ない冬の町並みを駆けるのはそれだけで気が滅入り、少しでも明るい話題を探そうと意図的に思考を切り替える。浮かせた視線の先では、綿菓子に似たおいしそうな雲がぷかぷかと空を泳いでいた。
 けれど綿菓子では腹が膨れない。今日は寒いから、出来れば温かい、例えば揚げたてのドーナツがいい。それとも、暖房が入った部屋で、炬燵に足を突っ込んだ状態で冷たいアイスクリームに舌鼓を打つか。
 どちらも捨て難く、どうしようか悩んでしまう。結果を確かめる為にも、一秒でも早く家に帰らなければ。思わず咥内に溢れた唾液を飲み干し、綱吉は赤信号が青に切り替わった瞬間、ゼブラの横断歩道を飛び出した。
 今日は面倒な宿題もないし、授業中に当てられて恥をかくなんてことも起こらなかった。これでおやつが大好きなメニューだったら最高すぎて、逆に明日が怖い。息を弾ませて見慣れた景色に微笑みを返し、郵便受けが空っぽなのを確かめてから門を押し開けた綱吉は、急ぎ足で玄関のポーチに駆け込んだ。
「ただいまー」
 冷えた空気の中を走ったからだろう、頬に赤みを帯びた綱吉は勢い良くドアを開けた。途端、彼の元気いっぱいの声に反応して複数人の「おかえり」が同時に、様々な方向から聞こえて来た。
 以前は奈々の声しか響かなかったのが、今ではこの様だ。すっかり大人数での生活にも慣れてしまい、照れ臭いような、嬉しいような気持ちを感じて綱吉は擽ったそうにはにかんだ。
 子供達が脱いだ靴が狭い空間に散乱しており、ランボのそれなど特にひっくり返ってドアの前まで転がっていた。危うく踏み潰してしまうところで、仕方が無い子だと呆れ半分に腰を屈めた綱吉は、拾い上げて左右揃えて隅に片付けた。
 自分も靴を脱ごうと前に出て、ドアには鍵をかける。泥棒や強盗は、リボーンが撃退してくれるだろうからあまり心配していないが、施錠せずにおくのはやはり無用心だ。
「あれ」
 薄汚れたスニーカーから踵を抜き、爪先立ちになった彼はそこで初めて、見慣れない靴が並んでいるのに気がついた。黒とこげ茶の、艶を放つ革靴だ。二足あるので、当然来客はふたりと思われる。
 誰だろうか。泥臭い男の代表格である家光ではないのは確かで、首を傾げつつ綱吉は靴下で廊下にあがり、鞄を抱え直して今一度玄関を振り返った。
 横並びになった革靴は、綱吉の二十四センチのスニーカーから比べても、一回り大きい。ランボやイーピンの足とでは、まさに巨人と小人だ。
「誰かな」
 思い当たる節は、何人か。真っ先に思い浮かんだ異国の青年の姿に、胸の中でもぞもぞしたものを覚えながら、綱吉は制服のまま台所に顔を出した。
「ただいま」
「お帰り」
「おかえりー」
「おかえりなさい、ツナ」
 暖簾を押し上げて首から上を先に潜らせる。途端に一斉に、同じ意味合いながら十人十色の言葉が投げ返されて、そのあまりの多重音声ぶりに綱吉は目を細め、苦笑した。
 台所は満員御礼、椅子も全て先客に占領されていた。
「おかえり、ツナ」
「ただいま。えっと、いらっしゃい、ディーノさん」
 その綱吉の椅子に座っていたディーノが、顔の横で手を上げて軽く挨拶をしてくれた。綱吉は鞄を下ろしつつ言葉を返し、ディーノと、その向こうに座っていた髭面のロマーリオに会釈した。
 人好きのする笑顔で同じく頭を下げた彼から視線を外し、コンロの前で忙しそうに手を動かしている奈々を見る。彼女の足元には小さな子供たちが集い、期待に満ちた眼差しを浮かべて彼女の手元を見上げていた。
「ホットケーキ?」
「ランボさん、蜂蜜いーっぱいかけるんだもんね!」
 奈々がフライパンをぽーん、と跳ね上げれば、きつね色に焼けた円盤が空中に浮かび上がった後、くるん、とひっくり返ってまたフライパンへ戻っていった。慣れた手つきに感嘆の息を漏らし、鼻腔を擽る甘い匂いに喉を鳴らした彼は、そうだ、と右肩に担いだままでいた鞄を机に下ろした。
 ファスナーを開けて、中から紺色の包みを取り出す。揺らすとカタカタ音がするのは、役目を終えた間仕切りが中で滑っているからだ。
「お弁当、美味しかった」
 米粒ひとつ残さずに食べきったと報告し、包みを解いて中身だけを流し台に持っていく。奈々の横に並ぶとホットケーキの匂いが強まって、ランボの言うような蜂蜜ではなく、たっぷりのバターでもきっと美味しいだろうと綱吉は心の中で頷いた。
 両手を空にしてテーブルに戻り、視線を感じて顔を上げる。瞬時にディーノと目が合って、綱吉は首を傾げた。
「そういえば、ディーノさんはなんで?」
 来訪の予定は聞いていない。いつもなら、彼は訪ねてくる時は前もって連絡をくれる。
 日頃はイタリアで生活しているディーノが、地球を半周して日本まで来るのは珍しい。靴を見た段階で予想はしていたが、まさか本当に彼が来ているとは思わなかったので、不意打ちもいいところだ。
 微かに頬を赤らめて問うた綱吉に、ディーノはにこやかな笑顔を返し、テーブルの上で肘を立てた。結び合わせた両手の上に顎を置き、焼きあがったホットケーキに歓声をあげる子供達に目を細める。
「ちょっと、香港に用事があってさ。近いし、折角だから」
 他の部下は先に帰らせて、自分とロマーリオだけが日本行きの飛行機に乗ったのだと、彼はなんでもないことのように言ってのけた。
 しかしいくら同じアジア圏内とはいえ、香港とここ日本は近くても、遠い。彼の言う用事とは、即ちディーノが社長を務めている輸入会社の業務に関わる内容に他ならず、忙しい合間を縫ってわざわざ足を向けてくれたのだ。
「そう、ですか。でも疲れてるんじゃ?」
「ツナの顔見たら吹っ飛んだから、平気」
 朗らかな笑顔と一緒に、人を赤面させることを平然と言い放ったディーノに面くらい、綱吉は返答に窮して瞳を泳がせた。
 ディーノといい、獄寺といい、どうしてこうも恥かしげもなく、照れ臭い台詞を吐くのだろう。もじもじと手の中に残っていたナフキンを弄った彼は、自分がまだ帰って来た当初の制服のままだというのを思い出し、踵で床を踏み鳴らした。
「あ、俺、着替えてくる」
「ちゃんと石鹸で手を洗って、嗽もしてきなさいよ」
「分かってるよ」
 寒くなり、風邪を引く人が増えてきた。学校でも何人か咳をしたり、喉の痛みを訴えたりする生徒が出ている。インフルエンザ対策の予防接種の告知も出ており、考えると憂鬱な気分にさせられた。
 外から戻ってきたら手洗い、嗽を徹底する。幼少時から躾けられている内容を改めて奈々に言われ、綱吉は軽い反感を抱いて唇を尖らせ、手ぶらで台所を出て行こうとした。
 そして暖簾を潜る手前で思い出し、二歩戻って鞄を引っつかんで、今度こそ出て行った。
 慌しい彼の仕草を台所にいた全員が笑って、どっと沸き起こった声の嵐に綱吉は首を窄め、ばつが悪い顔を後ろに向けた。洗濯籠にナフキンを放り込み、洗面所で言われた通り入念に手を洗う。冷水で口を濯いでからタオルで湿り気を拭い取り、鏡の中の自分が拗ねた顔をしているのを見てムッとして、口の横に人差し指を置いて持ち上げてみた。
 出来上がったあまりに不自然な笑顔にぷっと吹き出して、気持ちを切り替えて廊下に舞い戻る。談笑を続けている台所の様子は気になるが、着替えてくると言って出て来た手前、立ち入るのは憚られた。
 腹に力を入れて我慢して、急ぎ気味に階段を駆け上がる。玄関で再び目の当たりにした行儀良く並ぶ靴は、仕事をする大人の男性の色香を匂わせていた。
 ディーノは、スーツだった。
 綱吉の前に現れる時の彼はラフな服装が多く、気さくな年上の男の人、というイメージが出来上がっていたのだが、今日会った彼はちょっと違った印象を抱かせた。家光があまりああいった格好をしない人だったのもあるが、見慣れない所為で、どうにも落ち着かない。
「格好良かった、な」
 ぼそりと感想を述べてドアを開け、自分の部屋に入る。内部は知っての通り、ゴミの巣窟と化していて、ハッとした彼は着替えより先にする事を思い出して慌てた。
 こんな汚い部屋をディーノに見られたら、一大事だ。綱吉のずぼらな性格を彼が知らないわけがないのだが、足の踏み場にも困るこの状況を知られるのは、やはり恥かしい。
 ファスナーが開いたままの鞄をベッドに投げ捨て、中身が飛び出して転がったのも構わず、綱吉は手近なところに落ちていた紙くずを拾ってゴミ箱に押し込んだ。お菓子の空箱、飲み終えたペットボトル、読み終えた漫画雑誌、等など。
 ゴミ箱ひとつでは収まりきらなくて、隣の部屋に駆け込んでそちらのゴミ箱にも不要物を押し込んでいく。溜まっていた洗濯物を両手に抱えて、それも隣の奈々の寝室へ。後で怒られるかもしれないが、この場を凌ぐには形振り構っていられなかった。
 クローゼットに雑誌を押し込み、机の上の埃を払って窓を全開にする。途端に吹き込んだ冷風に前髪を煽られ、直撃を食らった綱吉は目に沁みる寒さに悲鳴をあげた。
 両手で顔を覆って首を振り、視界が閉ざされた中で後退した彼は、見事床とカーペットの僅かな段差に足を取られ、背中から撃沈した。
「うぎゃ!」
 泣きっ面に蜂とはこの事か。ごちん、と凄まじい音を響かせて目の前に星を散らした綱吉は、みっともない悲鳴をあげて大の字に横たわり、じんじん来る痛みに涙を呑んだ。
 なんと格好悪いのだろう。上辺だけ取り繕おうとした結果だと神様に言われたような気がして、綱吉は白い天井を見上げて暫くの間頭を抱え続けた。
「ツナー、入っていいか?」
 そうして数分後、やっと痛みが薄まろうとした頃、不意に締め切っていたドアが外からノックされた。
 一緒に聞こえて来たディーノの声に飛びあがり、綱吉は床に這いつくばったまま、まだ残っていたゴミを掴んで急ぎ制服のポケットに押し込んだ。
「ツナ?」
 物音はするのに返事がないのをいぶかしみ、ディーノがノックを重ねてくる。もう一個、離れた場所に見つけたゴミに手を伸ばしていた綱吉は、掴むのを諦めて立ち上がり、ドアへ駆け寄る最中に机の下目掛けて蹴り飛ばした。
 銀色のノブを回して自分でドアを開け、愛想笑いを浮かべてそこに居る人物を見上げる。
「ごめんなさい、どうぞ」
「ん、まだ制服?」
「あ、あははは、ははー」
 並盛中学指定のブレザー姿のままの綱吉にディーノは首を傾げたが、綱吉が微妙に頬を引きつらせていたので、敢えて聞かないことにした。内側に開かれたドアを抜け、整理できているようで、微妙に汚い部屋に足を踏み入れる。
 どたばたと足音が階下にも響いていたので、きっと大慌てで片付けていたのだろう。だから着替える暇も無かったのだと判断して、ディーノは続けて入って来たロマーリオと一緒に肩を竦めた。
 ふたりだけで秘密の会話をされて、疎外感を覚えた綱吉が僅かに頬を膨らませる。すかさずディーノの大きな手が伸びて、癖だらけの彼の髪をぐしゃぐしゃに掻き回した。
「わっ」
「ツナ、ハンガーある?」
 首を窄めて下向いた綱吉に豪快に笑いかけ、ディーノは中途半端に片付いている部屋をぐるりと見回した。
 入り口で止まったままのふたりの脇を、丸盆を抱えたロマーリオが通り過ぎて、手にしていたものを中央のテーブルに置いた。白い皿に五枚ほど重ねられたホットケーキには四角形に切ったバターが載せられ、熱で既に解け始めていた。
 他にも、マグカップがふたつ。中身の色が異なっており、色の薄い方が綱吉のものだと容易に知れた。
「ハンガー?」
「そ。皺になるから」
 苦労の末ディーノの手から脱出した綱吉が、ボサボサ具合を増した頭を撫でて聞き返す。頷いたディーノは、右手に抱えた深い藍色のコートを軽く持ち上げて示した。
 半分に折り畳まれたチェスターフィールドコートに視線を向け、綱吉はなるほどと納得行った様子で頷いた。自分もいい加減制服のジャケットくらいは脱ごうと決めてクローゼットに向かった彼は、先ほどそこに雑誌を詰め込んだばかりだというのも忘れて戸を引いて、案の定雪崩を起こして悲壮な表情を浮かべた。
 日頃から整理整頓していないからだ、とディーノが高らかに笑い、滑って転んでまた頭を痛打した綱吉に自由の利く左手を差し出してやった。
「いったた……」
「平気か?」
「う、だいじょぶ」
 同じ場所を二度打つ羽目に陥るとは思っておらず、苦痛を訴えた涙目の綱吉を覗きこみ、ディーノが眉間に皺を寄せた。タンコブでも出来ていやしないかと撫でようとしたら、触るだけで痛かったらしい綱吉の手が無意識に彼を跳ね返した。
 ぱちん、と軽い音が響き、お互いに吃驚してしまって顔を見合わせて停止する。
「ボス、では俺はこれで」
「あ、ああ。頼むな」
 瞬きも忘れて見詰め合ったままでいたところ、コホンとわざとらしい咳払いが聞こえてふたり揃ってハッと我に返る。話し掛けられたディーノが苦笑しながら振り向いて、鼻の下に髭を蓄えたロマーリオに短く頷いた。
 分厚い、その上ウール地の為に非常に重いコートを受け取った綱吉は、その重さに驚きながら、踵を返すロマーリオの背中に首を傾げた。
「あれ、帰っちゃうんですか?」
 彼もてっきり、ディーノと一緒にゆっくりしていくとばかり思っていた。慌しく出て行こうとする彼に呼びかけた綱吉に答をくれたのは、スーツの上着も脱ごうとボタンを外していたディーノだった。
 コートと同じネイビーのスーツの下から現れたのは、深い赤。渋みのある臙脂に近い落ち着いた色合いのシャツで、ネクタイは原色に近い黄色をメインにしたストライプ柄。派手な組み合わせなのに、それが不思議と似合ってしまうところが、ディーノの特徴だろう。
 肩に掛かる長く伸びた金髪を後ろへ払い除け、ロマーリオの足音が遠ざかっていくのを待ってから袖を引き抜く。
「ホテルの手配とか、飛行機の予約とか、色々とな。あるんだ」
「泊まっていかないんですか?」
「いきなり押しかけてんのに、これ以上は迷惑かけられねーって」
 胸に抱えたコートに上にジャケットを載せられ、前屈みになった綱吉が慌てて両足を踏ん張らせる。両手が塞がってしまってハンガーに架けるどころではなくて、肩を竦めたディーノは仕方なく自分でそれらをひとつにまとめた。
 重みから解放された綱吉が、暇を持て余して窓を閉め、空調のスイッチを押す。温い風が直ぐに流れ出て、ディーノがクローゼット前を離れるのを待って制服の上着だけを脱いだ。
「いっただっきまーす」
 ひとり先にテーブルに陣取り、日本式に両手を叩き合わせたディーノの明るい声に肩を竦める。相変わらずのお気楽調子で、馬子にも衣装という言葉がつい頭に浮かんで消えた。
 頼りになる部下の姿が見えなくなったからだろう、積み重ねて塔になったホットケーキにフォークを突き刺した彼は、ひとくちサイズに切ろうとして四苦八苦していた。
「貸してください」
 こういう時だけは、自分がディーノより年上になった気分になれる。綱吉は手を差し伸べながら言い、彼の向かい側に腰を下ろした。
「いや、ちょっと待ってくれよ。もうちょっと……と、うぁ!」
「ああ、もう!」
 大人しく従ってくれればいいものを、出来ると我を張ったディーノが綱吉の申し出を突っぱね、横にしたフォークで勢い良く五枚全部に切れ目を入れようとした。しかし勢いが余ってしまい、最下層まで達した瞬間、縁が浮いている皿を倒してしまう。
 載っていたホットケーキまで吹っ飛んでいくところだったが、それは辛うじてディーノの手がつっかえ棒代わりになり、事なきを得た。もっとも、彼の右手にはべったりと、溶けたバターがこびり付いてしまったが。
 なにをやっているのかと、綱吉は盛大に溜息を吐いて手間のかかる大人に肩を落とした。座ろうと中腰になっていた姿勢を立て、テーブルを素通りして壁際の棚に向かう。ティッシュボックスごと掴んで戻った彼は、二枚ばかり引き抜いてしょんぼりしているディーノに差し出した。
 フォークにも油分が滴り、テーブルのガラス面に小さな水溜りが出来上がっていた。
「すまねえ」
「いいから、拭いて下さい。俺が切っちゃってもいいですか?」
 これでは図体だけがでかい子供と変わりない。ランボもこんな風に育ったら嫌だな、と目下一番手間のかかる幼子を思い浮かべ、綱吉は自分用のフォークを抓んで傾いたホットケーキを真っ直ぐにそろえた。
 少なくともディーノよりは手際よく、切れ目を入れて小分けにしていく。そもそも、一気に五枚全部をやろうとするから失敗するのだ。
 手間を省こうとするのは良くないと偉そうに言い聞かせ、切り終えたホットケーキの半分を自分の側へ引き寄せる。皿がひとつしかないので隙間は僅かだが、取られないようにあらかじめ確保しておく必要があった。
 やっと食べられると思うと、涎が出る。ミルクティーで喉を潤した綱吉を恨めしげに見やり、ディーノはティッシュで汚れを拭き取ったフォークを、乱暴にケーキに突き刺した。
 豪快にがぶりと噛み付き、黙々と食べていく。不機嫌の極みにあった彼は最初、食べるのが仕事のような顔をしていたが、残量が減るに従って、表情は和らいでいった。
「やっぱ、ツナのママンの料理は最高だな」
 臆面もなく人を褒めるのは、どうやら彼の国生まれの共通点らしい。にこにこと笑顔を絶やさないディーノの言葉を聞いて、綱吉は照れつつも、誇らしい気持ちを覚えて少し冷めたホットケーキを噛み千切った。
 温かいうちは勿論美味しかったが、時間が経っても充分柔らかくておいしい。彼女の愛情の深さを感じて微笑み、綱吉は上機嫌におやつを口に運ぶディーノを見た。
 折角人が、食べ易い大きさに切り分けてやったというのに、彼の手元は既にパンくずでいっぱいだった。
 きちんと口を閉じて咀嚼しないものだから、隙間からボロボロと食べかすが零れていく。音を立てないだけまだマシだが、汚い食べ方であるのは間違いなかった。
 ロマーリオが居てくれたなら、こんなことにはならないというのに。部下が居ないと本当に綱吉の上を行くダメダメっぷりに、しょうがない人だと呆れた彼は口元を手で拭って立ち上がった。
「ん?」
「布巾取って来ます。食べてて良いですよ」
 逆手に握ったフォークで残り少なくなったホットケーキを串刺しにし、口の周囲をバターでべたべたに汚しているディーノに肩を竦めて告げる。なにもそういうところまで、ランボを真似てくれなくてもいいのに、この人は本当に手間がかかって仕方が無い。
 ついてますよ、と自分の頬を小突いて指摘してやって、綱吉は言われずともむしゃむしゃ食べているディーノの脇をすり抜けた。
 上着を脱いでおいて、正解だったと思う。今やディーノは、顔のみならず、赤いシャツのあちこちに汚れを撒き散らし、果てはネクタイをナプキン代わりに使っていた。
 あんな高そうなスーツを汚したら、目も当てられない。クリーニング代だって馬鹿にならないのに、と背中を丸めて一心不乱にホットケーキにかぶりついている年上の青年をドアの前で振り返り、綱吉は台所に向かうべく廊下に出た。
 室内とは違い、涼しい空気に満ち溢れて気持ちが引き締まり、背筋が自然と伸びる。滑り落ちないよう慎重に階段を降りて暖簾を潜れば、こちらも食い意地が張った子供たちが、残るホットケーキを取り合い、喧々囂々の騒ぎだった。
 最後の一枚が載った白い皿を、ランボ、イーピン、フゥ太の三人が奪い合う様は壮絶を極める。リボーンひとりがビアンキの膝でのんびり傍観の構えを取っており、奈々は子供達の争乱を、元気が良いのひとことで片付けてしまっていた。
 ランボが食べた後と思しき皿は、ディーノに負けないくらいにぐちゃぐちゃになって、テーブルに放置されている。床に落ちていた欠片を踏んでしまった綱吉は、靴下越しに覚えたにゅるっとした感触に背筋を粟立て、まだ喧嘩している三人に向かい、いい加減にしろ、と大声で怒鳴った。
「なんで取り合うんだよ。三人で分け合えばいいだろ」
 均等に分けるのは、子供の手では難しいかもしれないが、この場で最も公平な奈々に頼めば万事解決。使った器具を洗っていた奈々は、いきなり話を振られて少し驚いた様子で振り返り、綱吉の言葉に同意して緩慢に頷いた。
「みんな、仲良くね」
 綱吉に頭ごなしに怒られた時は、反感を抱いて露骨に顔を顰めるくせに、奈々に優しく諭された途端、頬を赤らめて素直に応じる彼らは、いったい人をなんだと思っているのだろう。
 彼女は自分だけの母親なのに、と幼子に奈々を取られた気分で頬を膨らませた彼は、包丁片手にテーブルに向かった彼女と入れ替わりに流し台に立ち、干されていた布巾を一枚取って半分に折り畳んだ。
 蛇口を捻って水を吸わせ、適度な湿り気を残して余分は搾り出す。捻った布を広げて形を整えている間に、後方からは子供達から歓声があがったので、奈々の裁定は彼らに受け入れられたようだ。
 手に散った水分を弾き飛ばし、捲ったシャツの袖を戻していたら、くるりと向き直って包丁に流水を浴びせた奈々が、何故か綱吉を見て笑った。
「なに?」
「ううん。ツナもお兄ちゃんになったわねー」
「なに、それ」
 手間のかかる弟、妹は、ちっともその兄の言う事を聞かないのだが。
 クスクス笑みを零している奈々に反論して、綱吉は丸めた布巾を手に二階へ戻ろうとした。その背中に声がかかって、まだなにか用かと母を振り返る。
「ディーノ君に、お夕飯食べていくか聞いておいてくれるかしら」
「今日はうちじゃなくて、ホテルに泊まるって言ってたよ」
「あら、そう? でもお夕飯くらいは、大勢のほうが楽しいでしょう?」
 エプロンで手を拭う奈々に聞かれ、素直に答える。奈々は片頬に手を添え、遠慮しなくてもいいのにと小声で愚痴を零した。
「聞いておく」
「よろしくね」
 ディーノが夕飯を沢田家で食べていくようなら、流れで泊まっていくことにもなりそうだ。そうなると、折角ロマーリオが手配しに行ったホテルが無駄になってしまうので、それはそれで申し訳ない気がする。ただ、折角遠くから訪ねて来てくれたのだから、一秒でも長く一緒に居たい。
 これは我が儘で勝手な言い分だろうか。視線を泳がせて天井を眺め、綱吉は姦しい子供達に背を向けて廊下を急いだ。
 奈々の手料理は、ホテルでのフルコースに負けないくらい美味しい。ディーノだって彼女の作る食事を気に入っているし、誘えば絶対に頷いてくれるに違いない。
 嬉しそうなディーノの顔を思い浮かべ、頬を緩めた綱吉は、二段飛ばしに階段を駆け上って勢い良く自室のドアを開けた。
「ディーノさん!」
 駆け込んでいの一番に叫ぶ。
 だが、返事は無かった。
「あれ……」
 彼は先ほど同じく、テーブルの前にいた。入り口に背中を向ける形で、身体を丸めて。
 右手はフォークを握ったまま、ガラス面の上に放り出されている。左手は脇にだらんと下がり、床にぶつかった手首が外向きに曲がっていた。
 腕を枕に、顔は左に向けて、彼は眠っていた。
 恐らく食べている最中に睡魔に襲われて、暖房の心地よい空気に抵抗力を奪われて、そのまま寝入ってしまったらしい。胡坐を崩した状態で、腹部が圧迫されて苦しい姿勢であるに関わらず、綱吉の大声にも全く反応しなかった。
 折角暖めた空気が逃げてしまう。綱吉はドアを開けて中に入り、そろりと忍び足でディーノの横に座った。
 布巾をテーブルに置き、自分も首を前に倒して彼の顔を覗き込む。
 瞼は閉ざされ、長い前髪が額を斜めに横切っていた。端正な顔立ちは、規則正しい寝息が発せられていなければ、彫像と見紛うほど。ただ目の周囲には、薄く隈が出来ていた。
 矢張り、強行軍で疲れていたのだ。無邪気に彼の来訪を喜んでいた少し前の自分を恥じ、綱吉は短い吐息と共に立ち上がった。
 握られたままのフォークをそっと抜き取り、空っぽになった皿に戻す。彼が動いた時にぶつからないよう、コップを含めた食器類を反対側に集め、このままでは寒かろうと視線を巡らせた。
 暖房で快適温度は維持されているとはいえ、身体が冷えてしまっては元も子もない。この体勢も、関節に負担がかかって後で痛い思いをするのではないか。
 出来るならベッドに運んでやりたいところだが、綱吉とディーノとでは体格差がありすぎる。足の大きさからして、あんなにも違うのだ。玄関で並んだ靴を思い出し、綱吉はせめて毛布だけでも、とパイプベッドに放置していた鞄を床に下ろした。
 朝起きた時のまま、ぐしゃぐしゃになっているクリーム色の毛布を引き剥がし、両手に抱えて振り返る。ディーノはまだ眠っており、起きる気配は少しも感じられなかった。
 たった五分ほどで、こんなにも人は熟睡できるものなのか。それも、あんな無理のある体勢で。
「よっぽど、だったのかな」
 人前では元気に振舞っていたけれど、実は相当疲れがたまっていたのだろう。イタリアとこちらとでは時差もかなりあるので、眠らずに過ごしていたのかもしれない。
 それなのに、わざわざ遠回りをして訪ねて来てくれた。
 毛布を床に擦りつつ、彼の傍に寄る。後ろから広げた端を肩にかけてやると、余った布が自然と丸まって彼を包み込んだ。
「ん……」
 この時だけ彼は鼻から息を吐き、声を零したが、睫が揺れただけで瞼は開かなかった。
 一抹の期待と、不安と。このまま寝かせてやりたい気持ちと、もっと彼と喋って、甘えたいという気持ちが半々。まぜこぜになった綱吉は、複雑な面持ちで寝入る彼を眺めた。
「ディーノさーん」
 小声で呼びかけても、返事はない。彼の斜め前で正座をした綱吉は、もう一度彼の名前を口ずさんで、無反応ぶりに肩を落とした。
「ちぇ」
 嬉しいけど、つまらない。相反する感情が胸の中で鬩ぎあい、綱吉は唇を尖らせて舌打ちした。
 床に広がる毛布を抓んで軽く引っ張れば、ディーノの肩が少しだけ傾いた。元々不安定な姿勢だったので、他所から力を加えられれば簡単に倒れてしまう。
「む」
 このままでは本当に横倒しになって、今度は彼が頭を床に激突させることになりかねない。既に遠ざかった痛みを思い出し、後頭部を撫でた綱吉は、右に沈もうとしているディーノをじっと見詰め、腰を浮かせて膝で体を支えた。
 ずりずりと床を磨きながら近付き、毛布の片側を持ち上げる。少し手狭だけれど、潜り込む余裕は充分だった。
「お邪魔しまーす」
 小声で呟き、綱吉は素早く向きを反転させてディーノの横に並んだ。机に放置されていた彼の腕を取り、それでも起きないのを確かめ、前屈みになった自分の首の後ろへ場所を置き換える。
 だらんとしな垂れた手が、綱吉の右肩から前に落ちた。
「えへへ」
 無理矢理にだが、彼に肩を抱かれる形になったのが嬉しくて、つい声に出して笑ってしまった。左からそっとディーノを盗み見れば、前屈みだった姿勢を少し真っ直ぐに修正した彼の整った顔が直ぐそこにあった。
 眠っていると、さっきまでのダメッぷりが全く感じられない。部下を引き連れて立派なボスをやっている彼は申し分ないくらい格好いいが、綱吉に無邪気に甘えてくる彼も、たまらなく愛しい。
「おつかれさま」
 彼の眠りの邪魔にならないように囁き、凭れかかりやすいように肩の高さを調整して、ディーノの頭をそこに置く。普段は綱吉が彼に寄りかかる方だから、妙に新鮮な気がした。
 毛布を引っ張って、右肩にあるディーノの手も覆ってやる。これで少しは姿勢が楽になっていればいいのにと願いつつ、綱吉は調子よく刻まれるディーノの寝息に呼吸を合わせ、暖風が誘うまま自分も静かに目を閉じた。

2009/01/04 脱稿
2009/10/10 一部修正