太陽が水平線の向こうに消え、細波が寄せては帰る海は深い闇に飲み込まれた。
遠く、航海中の船の明りがゆっくりと流れて消えていく。月は細く、星明りは眩い。
ドアがノックされる音に気付いて振り返るが、風に揺れるカーテンと石組みの柱の所為で扉は見えない。どうせ返事をせずとも勝手に入ってくるだろうと、板一枚を隔てた先に居る人物を想像して、綱吉は肩を竦めた。
「沢田殿?」
案の定三十秒と経たないうちに呼びかけの声が聞こえ、同時に扉と壁を繋ぐ蝶番が軋んだ。
古い建物なので、設備もそれなりに年季が入っている。そろそろ油を差してやらないと駄目かと苦笑し、入ってくる人影を読み取って彼は視線を戻した。
仰ぎ見る夜空に瞬く三連の星は、その道に造詣が深いとは言い難い綱吉であっても、名前くらいは知っている。それはオリオン座の一部だ。
大昔、ともいえないが、中学生の頃に理科で習った内容を頭の中で反芻し、彼は首を巡らせて冬の第三角形と言われる星を探した。北極星、ならびに柄杓の形をしている北斗七星は、建物の影に隠れてしまって此処からでは見えない。
吐けば白く濁る息を風に流し、綱吉は気配が真後ろに近付くまで首を斜め上に向け続けた。
「沢田殿、このような場所に」
二重ガラスの窓から身を乗り出したバジルが、ベランダに佇む綱吉を見つけて声を荒立てた。矢張り怒った、と予想通りの彼に呵々と声立てて笑い、大丈夫だと目尻を下げて振り返る。だが窓辺に立つ彼からは、暗がりに居る綱吉の表情など殆ど見えないに等しい。
冬の夜だ、当然寒い。しかも綱吉は、つい先ほどシャワーを浴びたばかりで、髪の毛はまだ完全に乾ききっていなかった。着ているものも防寒具の類ではなく、今すぐにでもベッドに飛びこめるスウェットのパジャマだ。上着は羽織らず、スリッパに素足。
肩にタオルを掛けてはいるものの、それ自体が湿っているので、逆に体温を下げる役割を果たしている。バジルが血相を変えるのも当然だった。
「そんな格好でいたら、風邪を引きます」
「平気だって。まだあったかいよ」
バスタブに湯を張り、のぼせる直前までゆったり浸かったので、体は芯まで温まってほかほかだ。心配性な彼に笑顔で言い返した彼だけれど、バジルは聞き入れず、自分が着ているジャケットを急いで脱ぐと大股に近づいて来た。
肩のところを掴んで左右に広げ、綱吉のタオルを奪うと入れ替わりにそこに引っ掛けていく。
「冷えているではありませんか」
「そうかな?」
最中、偶々触れた綱吉の襟足の体温に彼は眉目を顰め、早口にまくし立てて濡れたタオルを折り畳んだ。綱吉はずり下がる濃紺のジャケットに右手を添え、かすかに残るバジルの熱に照れ臭そうに微笑んだ。
早く部屋に戻れと彼は急かすが、綱吉はなかなか動こうとしない。痺れを切らしたバジルが手を伸ばすものの、拒んだ綱吉はふっと力の抜けた表情を作って空を仰いだ。
つられる形でバジルも闇夜を見詰め、輝く星に目を細めた。
「綺麗じゃない?」
横から綱吉が楽しげに囁いて、つい頷いて返そうとしたバジルは慌てて毅然と首を振った。
確かに綱吉の言う通り、空気が凛と冷える冬場ならば尚更星は綺麗に見える。けれど、鑑賞会をするならば、そんな薄手の寒そうな格好ではなく、コートを羽織るなどして防寒対策をしっかり施してからやるべきだ。
面白みに欠ける正論を声高に叱るバジルに、綱吉は興醒めだといわんばかりに唇を尖らせた。
「えー」
「沢田殿に何かあったら、困るのです」
不満げに声を出した綱吉を軽く睨み、溜息混じりに呟いてバジルは肩を落とした。
ボンゴレ十代目を継承した綱吉は、今や彼ひとりの身体ではない。これからの時代を支えて行く大事な柱であり、万が一病気で寝込みでもしたら、城の老人らから何を言われるか分かったものではない。尤もバジルの一番の気苦労は、腰が重い老獪な年寄り達ではなく、綱吉を過剰なまでに溺愛している彼の守護者達の方なのだが。
特に嵐の守護者は口喧しく、なにかとこちらを攻撃してくる傾向にあるので憂鬱だ。バジルが家光の推薦で綱吉の世話係に任命されたのが、余程気に食わないらしい。
見目愛らしい綱吉は、一部からは頼りないと非常に不評であるが、反面仲間内からは強く支持されていた。ボンゴレと同盟関係にあるキャバッローネの現ボスが、綱吉を大変気に入っているのも大きい。
彼を小動物扱いしようものなら、途端に後ろに控える獰猛な獣が一斉に牙を剥く。歴代最強とも揶揄される守護者たちの手綱を握っているのが綱吉である限り、彼の地位はある意味安泰といえた。
その分、綱吉の健康を預かる身であるバジルの責任は重い。
分かってくれるよう懇願し、彼は今度こそ綱吉の腕を取った。服の上からでもはっきりと分かる体温の低下具合に、眉間の皺が深まる。
「ケチ」
「なんとでも」
口を窄めて文句を言う綱吉を半ば引きずる格好で、彼は開けっ放しの窓に向かって歩を進めた。ベランダと部屋とを仕切る段差を踏み越え、間接照明がもたらす柔らかな光の中に綱吉を連れ戻す。
背中で窓が閉まる音を聞き、綱吉は明るすぎる室内に顔を顰めた。
ベランダに繋がる窓はそのひとつだけで、反対側の壁には暖炉が設置されている。吹き込んでいた風のお陰で弱まっていた炎が息を吹き返し、乾燥した薪を弾いて硬い音を響かせた。
「髪の毛、まだ濡れてますよ」
「ちゃんと乾かしたよ」
「沢田殿のちゃんと、は信用できません」
畳んだタオルを広げたバジルがそれを綱吉の頭に載せ、問答無用で掻き回し始める。合間に挟まった彼の小言に反論すれば、手厳しいひと言でぴしゃりと切捨てられてしまった。
出会ったばかりの頃は控えめで穏やかな性格をしていたのに、年を経るごとに彼は綱吉に対してあれこれ厳しくなっていく。口喧しい奈々とどっこいどっこいで、彼女に叱られている気分で綱吉は頬を膨らませた。
ほぼ同じだったはずの身長も、気付けばバジルに見下ろされるようになっていた。綱吉にだって一応、少しはイタリア人の血が混じっているのに、母親に似すぎた所為で殆ど伸びなかった。骨格も華奢なままで、守護者面々と並ぶと明らかに見劣りする。
「はい、いいですよ」
ぐしゃぐしゃに掻き乱された頭からタオルが外され、バジルの軽快な声が続く。閉じていた瞼を持ち上げて逆立つ髪を撫でた綱吉は、未だバジルの上着を羽織ったままであるのを思い出した。
「バジル君」
返そうと呼びかけるが、彼は部屋に隣接する洗面所に向かっており、綱吉の声は届かない。出しかけた手を引っ込め、綱吉は肩を竦めると同時に胸の前で腕を交差させた。
垂れ下がる袖を互い違いに掴み、今頃になって寒気を覚えた身体を包み込む。バジルの体温はもう殆ど残っていないが、彼がつけている香水の微かな匂いが鼻腔を擽った。
甘い、春に咲く花を思わせる匂いだ。
強すぎず、弱すぎず、前面に出て主張するような真似はしない、この優しい香りの名前がなんであったか、咄嗟に思い出せない。後で聞いておこうとバジルが消えた洗面所のドアに相好を崩し、綱吉はスリッパで床を擦って暖炉へ近付いた。
膝を折って屈み、燃え盛る炎の揺らぎを眺める。
「沢田殿」
「うん?」
「お休み前のところ、申し訳ないのですが」
一分とせぬうちに戻って来たバジルの手には、十枚程度の紙の束が握られていた。恐らくそれが、部屋を訪ねて来た本来の目的なのだろう。綱吉は膝を抱いて浮かせた腰を揺らし、すまなさそうにしている彼を見上げた。
時計の針は午後十時を半分過ぎたところを指し示している。ベッドに入るには少し早いが、仕事をするにはちょっと遅い時間だ。
差し出された書類の表紙にざっと目を通し、綱吉は両手を伸ばした。受け取って一枚捲り、素早く左から右へと文字を追って行く。
リボーンのスパルタのお陰で、どうにかイタリア語にも多少慣れて来た。まだペラペラとまではいかないが、日常会話程度ならば不便はない。読み書きも、学び始めた頃に比べれば格段にスキルは上がっている。
ただ、完璧とまではいかない。未だに辞書は手放せないし、正しく意味を解せなくてバジルや獄寺に通訳を頼む場合もしばしばだ。
「えーっと、……いつまで?」
「クリスマス休暇が終わるまでに、と」
言い辛そうにしながらバジルが告げ、綱吉はがっくりと肩を落とした。折角の休みなのに、これでは何の意味もない。丸めた束で額を叩いた彼は、深い溜息を零して腰を落とした。
両足を広げて前方に投げ出し、背中を丸めて頬を冷たい床に押し当てる。
「折角のお正月なのに~」
クリスマスを経て、新年を迎え、心機一転仕事に励む。その為にも休養は大事で、苦労の末にもぎ取ったというのに、これでは水の泡だ。日本に一時帰国するのは時間的に難しいので諦めざるを得ず、ならば何もせずにゴロゴロ過ごそうと決めていたのだが、大晦日の晩にまさかの残業追加とは。
神様は自分が嫌いなのだと嘆いた綱吉に、バジルは苦笑した。
「山本殿と笹川殿は、帰国されたのですよね」
「そうそう。いいよな~。おせち、俺も食べたかった」
右手に紙束を握ったまま、大の字で寝転がった。驚いたバジルが飛び退き、一気に広がった景色に綱吉は気持ち良さそうに伸びをする。暖炉の火で床も仄かに暖められており、背中が痛いこと以外は非常に快適だった。
バジルの上着を下敷きに、ごろんごろん、と身体を左右に揺らす。最近成長具合が著しいランボにも負けない幼い行動に、バジルは嘆息の後に皺になるからと資料を取り上げた。
綱吉にぶつからない距離を保ち、彼もまた暖炉前に腰を下ろした。
「おせち、ですか」
「うん。知らない?」
興味深そうな彼の声に、綱吉は動きを止めて首を倒した。斜めになったバジルはたおやかな笑みを浮かべ、こめかみに指を置いて考える仕草を取った。
綱吉の父親である家光に師事し、彼から様々に日本の知識を教え込まれている彼だから、どこかで聞いた記憶があるのだろう。だが普段は話題にもならないことので、すぐに思い出せないに違いない。
首を傾げる彼を待ち、綱吉は上半身を起こして座り直した。皺だらけにしてしまった上物の上着を取り、表面を撫でて軽く埃を取り払う。
暖炉の中で薪が爆ぜ、比較的大きな音が響いた。
「それは、ええと……鯛や平目の舞踊り?」
「なんで浦島太郎?」
おぼろげな記憶を引き出したバジルに、綱吉は頭を抱えて脱力した。
いったい家光は、彼に何を教えていたのだろう。聞いてみたいが、それはそれで怖い気がする。なにせバジルは、文明の利器が発展した時代にあっても洗濯板を愛用していたような少年だったのだから。
綱吉の反応から違うと察したバジルが、何故かすみませんと謝って頬を掻いた。
「いいよ、謝らなくて。どうせ、父さんが変な風に教えたのが悪いんだから」
この場に居ない男を思い浮かべ、幼い当時に受けた手酷い悪戯の数々を振り返って綱吉は頷いた。あの男ならば、間違った知識を教え込むくらい、笑いながらやってのけそうである。
日本文化を誤解したままでいて欲しくないが、実際のところ綱吉もあまり詳しくない。毎年正月に食べる縁起物とだけ言って、果たして通じるだろうか。
「縁起物、ですか?」
「そそ。例えば、レンコンはいっぱい穴が開いてるでしょ?」
案の定疑問符を頭に浮かべたバジルに、綱吉は両手を広げて胸の前で揺らした。言われ、頷いた彼に綱吉は乾いた唇を舐め、古い記憶を掘り返して眉間に皺を寄せた。
レンコンはその穴から向こうを見渡せることから、先を見通せるように、との願いが込められている。
海老は腰が曲がった老人に見立てられ、長寿の願掛けが。数の子は子宝に恵まれるようにとの祈りからであり、昆布巻きは喜ぶの、尾頭付きの鯛は目出度いの語呂合わせだ。大きな芽が出ている慈姑は出世を祈願し、田作りは豊作への願いだ。
それらを重箱に詰め、正月の三が日で家族揃って食べる。此処に餅が加われば完璧だ。
思い出して思わず涎が出て、喉を鳴らした綱吉は胡坐を崩した姿勢で膝を抱え込んだ。
「やっぱり帰ればよかったかなあ」
久しく食べていない母の手料理が恋しくなり、身体を前後に揺さぶりながら呟く。聞いていたバジルは複雑な表情を浮かべ、膝を揃えて床に正座した。
綱吉が帰国出来なかったのは、ボンゴレ十代目という立場が枷になったからだ。九代目を支える重鎮らも、クリスマス休暇を利用して日本へ戻ろうとする彼にあまり良い顔をしなかった。
本来は家族と過ごすべきクリスマスの夜も、綱吉は同盟関係にある組織主催のパーティーで過ごした。朝から晩まで何件もハシゴして、ボンゴレの後継者としての役割に徹した。
家族を大事にする気風があるこの国にいながら、綱吉は愛する家族と共に過ごすべき時間を削っている。そんな彼を庇ってやれず、見ているしか出来ないのは非常に歯痒い。
「山本、お餅くらいお土産で持って帰ってきてくれないかな」
いくら長期保存の利く品が多いおせち料理でも、流石に空港の検疫で引っかかってしまう。お陰で家庭の味はすっかり遠退いてしまった。
城のシェフが腕をふるう料理はすこぶる美味しいが、たまに奈々の作る料理が無性に食べたくなるから困る。
頬杖をつき、炬燵に蜜柑だった冬の我が家を懐かしく思い返す。ホームシックとまではいかないが、自堕落に過ごせていた日々がたまらなく愛おしい。
「沢田殿」
「あ、ごめん。なんでもないよ」
ぼうっとしていた。バジルの呼びかけにハッとした彼は、こんな話をしても楽しくなかろうと肩を竦めて小さく舌を出した。
彼に預けていた資料を引き取り、残りのページにも目を走らせる。
「明日って、新年のパーティー何時からだっけ」
「十一時からです。それまでは、恐らくゆっくりできるかと」
「夜も確か、えーっと、どこだっけ」
「ポモドーロファミリーのパーティーに」
「そうそう、それ。面倒臭いよねー」
なかなか思い出せない予定を横から差し出され、何度も頷いた綱吉が率直過ぎる感想を述べる。クリスマスにも会ったばかりだというのに、こうも頻繁に会合を開く必要は何処にあるのだろう。単にお祭り騒ぎがしたいだけではないかとぶつぶつ文句を述べ、綱吉は次第に資料に没頭していった。
暖炉の炎が揺れるたびに、綱吉の顔に落ちる影が踊る。暖かな風を頬に受け、真剣な眼差しで手元を睨む彼の横顔にバジルは嘆息した。
「おせち料理、ですか」
何度か日本には行ったが、季節が合わずに食べたことがない。綱吉が言うのだからきっと美味しいのだろうと肩の力を抜いた彼は、相変わらずパジャマの上に人の上着を羽織っただけの人に目を眇めた。
膝が寒そうなので、ブランケットでも取ってこよう。後は冷えた身体に暖かな飲み物でも。
「そうだ」
綱吉の邪魔をせぬように退こうとしたバジルだったが、身を起こす最中にふとある事を思い出し、つい声に出してしまった。
集中を乱された綱吉が、目を丸くして傍らの彼を見上げる。どうかしたかと視線で問われ、バジルは困った様子で長く伸びた前髪に隠れがちの頬を掻いた。
「沢田殿。豆は、お嫌いではないですよね?」
「ん? うん。食べるよ。おせち料理にも入ってる」
先ほどの話の続きかと勘違いし、綱吉は読みかけの資料を膝に置いて言った。
甘く煮た黒豆も、この季節くらいでしか食べない。一年に一度の楽しみだったと嬉しげに目尻を下げた彼に、バジルは一瞬だけ表情を険しくさせてから相好を崩した。
「イタリアには、そういうのって無いんだね」
「そう、ですね」
微妙に言葉を濁したバジルがふいっと視線を逸らし、綱吉に背を向けた。靴音を響かせて場を離れ、暫くしてから両手にこげ茶色のブランケットを抱えて戻って来る。
後ろから近付いた彼に広げた布を掛けられ、膝と一緒に両手もブランケットに埋もれた綱吉は小さく笑った。
「ありがと」
「あまり無理はしないでください」
ついでに羽織る上着も形を直してやり、バジルは綱吉の頬にキスをしてから軽く頭を下げた。用事は終わったと態度で教えられ、部屋を出て行く彼の背中を綱吉が寂しげに見送る。
ドアは静かに閉ざされて、部屋に響くのは暖炉の炎が踊る音だけになった。
背筋を伸ばし、波打つ火の影を眺めて綱吉は力なく首を振った。
時計は間もなく午後十一時を指す。もうじき、波乱万丈だった今年が終わる。
去年はまだ日本に居て、仲間で集まって新年の瞬間を祝った。除夜の鐘を聞いて、初詣に出かけて、初日の出を拝もうと頑張ってみたものの、睡魔に負けてダウンしたのが懐かしい。
あれからまだ一年しか経っていないというのに、もう何十年も前の出来事のような気がしてならない。こちらに渡ってきてからは、目の前に広がる道をただ我武者羅に突っ走るばかりで、ゆっくりと日々を振り返るなんて余裕も無かった。
いつも獄寺や山本や、大勢の仲間が傍にいてくれたからなんとかやってこられた。しかし今は、傍にいるのはバジルくらいだ。
与えられた短いクリスマス休暇を利用して、山本と了平は日本に帰国し、獄寺は渋々ながらビアンキに引っ張られて父親の実家に戻っている。ランボも育ての親であるファミリーに里帰りしており、綱吉だけが出遅れてぽつん、とひとりぼっち。
バジルは帰らないのかと聞いたら、彼は帰る場所が無いのだと笑っていた。
「俺も、迷子みたいなもんかな」
ぽつりと呟けば寂しさが身に沁みて、ちくりと針で心臓を刺された気分で綱吉は俯いた。
ブランケットの柔らかな肌触りに慰められて、そこに頬を寄せる。バジルにもう少し此処に居てもらえば良かったかとも思うが、これ以上彼に甘えるのも悪い気がする。そうでなくとも、彼には十二分に迷惑を掛けているのに。
星を見ていたのは、その瞬きが地球のどこから見上げても同じだからだ。遠く離れていても繋がっていると、そう思いたかったからだ。
「なんか、静か過ぎてつまんないな」
資料に目を通し終えたら、今日はもう寝てしまおう。のんびりできるのは、今夜限りだ。
バジルの上着に袖を通し、ブランケットをたくし上げて爪先から腰までを覆い隠した彼は、ひたひたと迫り来る睡魔を振り払って暖炉に向かって斜めになるよう座り直した。頬杖をつき、左手で資料を捲って文字を追って行く。空腹感は募ったが、部屋にはこれといって食べるものは置いておらず、台所に行って抓んでくるのも億劫だ。誰かを呼んで作らせるのも、時間的に申し訳なさが先に立つ。
小さな抗議の声を上げた腹の虫を宥め、綱吉は最後の一枚を読み終えてぐーっと背筋を伸ばした。
両腕を真っ直ぐ頭上に伸ばし、床に倒れこむ。仰向けから見上げた天井は白く、吊るされたシャンデリアのガラスが反射する光は星の瞬きに似ていた。
「沢田殿?」
「うわぁ!」
そこへにゅっと伸びた影。
逆さまのバジルが真上に現れて、予想していなかったことに驚き、綱吉は裏返った悲鳴を上げた。
横になったまま飛び跳ね、ひっくり返って膝から着地する。衝撃が全身に走り、指先を痙攣させてのたうちまわった綱吉は、ワゴンを押すバジルに不思議な顔をされてしまった。
いったいいつから其処に居たのだろう、全く気付かなかった。
「すみません。ノックはしたのですが」
ぼんやりしていた綱吉が聞き逃していただけであり、バジルに非はない。しかし律儀に謝ってみせる彼に綱吉は苦笑し、大丈夫だと手を振ってから跳ね飛ばしたブランケットを拾い上げた。
暖を求めて抱きかかえ、銀色のワゴンに載せられたものに首を傾げる。
「それは?」
「夜食にと」
視線を持ち上げてバジルに問えば、彼は長い前髪を掻き上げてはにかんだ。
保温用の半円の盆を被せられ、中身は見えない。時計を見れば、彼が出て行ってからまだ三十分程度しか経っていないので、そう手間のかかる料理でないのは確かだろう。
丁度空腹を覚えていただけに、彼の申し出は有り難い。素直に礼を言い、綱吉はワゴンに膝を寄せた。
「開けていい?」
食べるならテーブルに行くべきだろうが、見るだけなら此処でも構わないだろう。期待の眼差しで問えばバジルは即座に首肯して、右手で蓋を持ち上げた。
出て来たのは、くすんだ灰色の手鍋だった。湯気がいっぱいに広がり、柔らかな匂いが否応無しに人の食欲を刺激する。
コンソメベースなのか、茶色っぽい透明なスープの底に、小さな粒々がいっぱい敷き詰められていた。水面にパセリのみじん切りが泳ぎ、具は他に見当たらない。
バジルは膝を折り、ワゴンの下段から底の浅い皿を二枚取り出した。スプーンを添え、鍋の中身を掻き回して掬い取っていく。
転がり落ちる沢山の粒は、豆だ。指先ほどの大きさで、丸く平らな。
「レンズ豆?」
「はい」
スープを注いだ皿を渡され、綱吉は底で踊る褐色の豆を見詰めた。
暖炉の前で渡されても困ると、綱吉は窺う目線を彼に向ける。バジルは構わず、もう一枚の皿にもスープを注ぎ入れ、スプーンを縁から差し込んだ。
「時間が無かったので、味は保証できないのですが」
彼もまた、ここで綱吉と共に時間を過ごす気で居るのだ。暖炉前にしゃがみ込んだバジルに一瞬惚けた顔をして、綱吉は慌てて彼の隣に座ってブランケットを広げた。
ちょっとだけ迷い、一人用のそれの端をバジルに預ける。
「有難う御座います」
彼は綱吉に、風邪を引くから温かい格好をしろと言ったくせに、自分は上着を脱いでそのままだ。城で働いている面々も多くが休暇で帰省しており、台所だってきっと寒かったに違いないのに。
そう思うと、手の中のスープがとても熱く感じられた。
「その案件、拙者も手伝いますね」
「え、いいよ」
「その方が早く片付くでしょう?」
断ったのに、有無を言わせぬ勢いでバジルが畳みかけ、にっこりと微笑んだ。
無邪気な彼の姿に、綱吉は居心地悪く肩を揺らし、俯く。誤魔化しにスープに刺さったスプーンを操れば、どこか懐かしい素朴な味が口の中いっぱいに広がった。
赤い顔を暖炉の炎で誤魔化し、柔らかなレンズ豆を奥歯で噛み砕く。返事がないのは承諾の意味だと勝手に解釈し、綱吉の横顔を眺めていたバジルもまた、スープに息を吹きかけてコンソメの海に波を立てた。
この国では大晦日にレンズ豆の料理を家族揃って食べると聞いたのは、それから暫く経ってのことだった。
2008/12/30 脱稿