小春空

 空の高い位置に大きな雲が浮かんでいる。そう思った時にはもう、部屋の狭い窓から見える景色は一変し、雲の塊は半分以上が屋根の向こうに消えてしまった。
 と同時に窓ガラスが外から勢い良く殴られて、欠伸を噛み殺していた綱吉はビクッ、と大袈裟に肩を震わせた。
 以前、そこから不法侵入してきた人物を反射的に思い出してしまい、身構えるが以後反応は続かない。窓は沈黙して大人しいもので、どうやら吹いた風が正面から家にぶつかってきただけのようだ。
「なーんだ……」
 たっぷり五秒は硬直した後、ホッと胸を撫で下ろした綱吉が小さな声で呟く。自動的に視線も下を向いて、彼は膝に広げていた漫画雑誌を閉じた。
 読む気が削がれてしまい、彼は若干苦いものを抱えたまま唇を舐めた。季節柄か乾燥が目立つ皮膚は表面がささくれ立ち、上下で擦り合わせると引っ掛かりを覚えて、なかなか思うように動いてくれなかった。
 外は綺麗に晴れ渡っているが、どうにも風が強い様子だ。
 先ほどのような強い一撃は来ないものの、不定期に窓枠が外からの圧力を受けてカタカタと音を立てて震えている。家の中にいる綱吉に代わって、寒さに耐え忍んでくれているのだろう。お陰で彼は冷気の直撃を受けることなく、こうして暖かく過ごせている。
 自宅というものは実にありがたいもので、暑さ寒さを凌ぐだけでなく、空腹を満たし、毎日の風呂で清潔感も保たせてくれる。それもこれも家主である家光と、家事を一手に引き受けてくれている奈々の努力の賜物だ。
 たまには親孝行をしなければ、と思うのだが、なにをすればよいのかが解らない。奈々の手伝いを買って出ても、邪魔をしただけに終わるのが常だし、そもそも家光は現在絶賛行方不明中で、連絡のひとつも寄越さないのだから、肩揉みのひとつもしてやれない。
 もうちょっと器用に生まれて来ればよかったのに。空っぽの右手を何気なく見下ろし、軽く握って拳を作った綱吉は、またカタン、と音を立てた窓に顔を向け、肩を竦めた。
 天気予報は見ていないから、今日の最高気温が何度と告知されていたか知らない。ただ十二月に入り、街中がクリスマスカラーに染まる中で、気候も順次真冬に向かっている。雪はまだ降らないが、外に居て吐く息が白く濁る頻度は増えた。
「寒そうだな」
 口に出して呟き、不意に覚えた悪寒に身震いして綱吉は伸ばしていた膝を寄せた。カーペットの上で身を縮こませ、鳥肌立った腕をさすって摩擦熱を呼び起こす。
「子供は風の子だろ」
「お前にだけは言われたくないよ」
 もうひとり、この部屋の住人に後ろから嫌味を言われ、綱吉は即座に切り返して部屋の片隅に吊るされたハンモックを仰ぎ見た。
 黒服の赤ん坊が、そこで横になっていた。
 横に少し潰れ気味の大きな頭部にはいつもの帽子がなく、代わりに軍用品を扱う物騒な雑誌が広げられている。殆ど被っていると言っても良いその近さからでは、ろくに掲載されている記事も読めないのではなかろうか。
 そんなどうでも良い心配を思い浮かべ、綱吉は視線が絡まないリボーンに不服げに頬を膨らませた。
 赤ん坊に子ども扱いされるのは心外で、お前こそ暖房の利いた快適な部屋で過ごさずに、外に出て元気に走り回ってきてはどうか。反論を声高に唱えた彼だったが、リボーンがランボたちと一緒になって、元気良く外でサッカーボールを転がしている様を想像したら、さっきとは違う理由で寒気が襲って来た。
 彼が子供らしく振舞うのも、それはそれで空恐ろしい気がする。理由は解らないが直感が働いて、綱吉はちらりと横目で赤ん坊を窺い見た。
 考えていたことが口から出ていたのではないと信じたいが、リボーンが雑誌を持ち上げて隙間から大きな黒い瞳を覗かせていた。左手に雑誌を、右手には拳銃を。小さくて丸い指が引き金に架けられていると知り、綱吉は途端に竦みあがって座ったまま後ろへ飛び退いた。
「そんなに遊んで欲しいなら、相手になってやるぞ」
 彼の体格からすれば大きすぎるそれを軽々と操り、標準を定めて告げられたリボーンのひと言に大慌てで首を横へ振る。あまりの勢いの良さに、引き千切れて頭がどこかに飛んで行ってしまうのではないかと思うほどで、すっかり怯えきった綱吉の態度に満足したのか、リボーンは音もなく拳銃を雑誌の下に引っ込めた。
 あそこに装填されている弾丸は、死ぬ気弾ではない。本物の鉛弾だ。当たれば命に関わる。
 物騒なものから解放され、綱吉は冷や汗を拭って萎縮しきった心臓を撫でた。身体中の血液が熱を持ち、寒気はすっかり何処かへ吹き飛んでしまい、むしろこの室温では暑いくらいだった。
「まったく、もう」
 元はといえば自分の失言が発端なのだが、恨めしげにそ知らぬ顔を決め込んでいるリボーンを睨んだ彼は、このまま部屋に居続けるのも気分が悪いと、重い腰を上げて立ち上がった。
 雑誌をテーブルに置き、入れ替わりにグラスを取って、飲み残していたコーラを一気に煽る。炭酸は既に抜け切っており、生温い液体が喉を通り抜けていく様はあまり気持ちが良いものではなかった。
 濡れた唇を指で拭い、ふぅ、と短い息を零した彼の視線が向かう先は、窓の向こうだ。
 青空はこうして眺めている分には小春日和を思わせ、暖かそうであるに関わらず、実際は極寒の風が吹き荒れる冬模様。
 どこからか飛んできた枯葉が一枚、空中を漂って視界の外に消えた。あの葉の速度からして、風の強さは相当なものと楽に予想がついた。
 綱吉は部活動に所属していないので、こうして休日の午後もだらだらと、なにをするでもなく時間を浪費出来るけれど、世の中にはそうでない人の方がずっと沢山存在しているはずで。外で活動しなければならない人たちは、今頃さぞや寒さに震えていることだろう。
 あの人も、寒波吹き抜ける町をひとり見回っているのだろうか。
 思い浮かんだ姿に直後、綱吉はハッと息を詰まらせて首を振った。
 しかし追い出そうにも、一旦瞼の裏に現れ出た人物は、なかなか綱吉の思うように消え去ってくれない。黒髪、黒い瞳、黒い学生服を背負って、黒のスラックスに黒い靴。下に着込んでいるシャツと、露になっている肌だけが白く、腕の通らない学生服の袖に固定された腕章だけが、唯一のアクセントとなる臙脂色。
 一瞬で隅々まで再生された映像は、背中を向けていたところからゆっくり振り返ろうとするところで途切れた。
 ぎゅうっと強く瞼を閉ざし、心臓を両腕で抱き込んで悲鳴を堪える。視界一面を真っ黒く塗り潰して誤魔化した彼は、限界寸前まで膨らんだ胸の鼓動がまだ爆発していないのに安堵して、強張らせていた肩の力を抜いた。
 この近くまで来ていやしないか。そんな淡い期待を抱いて窓に近付き、綱吉は外を覗きこんだ。額を冷たいガラスに押し当てると、吐いた息がぶつかってその箇所だけが白く曇った。
 周囲の冷気を受け、即座に霞んだ視界は晴れていく。名残惜しくその曇りを指でなぞり、水滴がこびり付いた肌を捏ねて、綱吉はもうひとつ溜息を零してから力なく窓にしな垂れかかった。
 冷えたガラスが、一瞬で火照った身体に心地よい。あの人の姿を思い返すだけでこうなってしまう自分に呆れつつ、出来るものなら本物に会いたいと願っている自分の都合のよさに彼は苦笑した。
 本人を前にしたら、今の緊張の比ではないくらいに凍り付いてしまうというのに。ろくに喋れず、相手に不信感を抱かせるだけだと分かっていながらも、遠くからでいい、顔を見たかった。
「今、どの辺かな」
 風紀委員の活動予定なんて、知る由もない。学校が休みの日は校外の見回りに重点を置いている、というのはなんとなく理解しているものの、巡回コースを調べた例はなく、余程運が良くない限り遭遇できるものではないと弁えている。
 唯一分かるのは、彼が並盛の外には絶対に出ないという事くらい。
「時間、ある……な」
 昼ごはんを食べ終え、次は午後のおやつ。夕食までならば、まだ五時間近く猶予が残されている。
 壁時計を見上げた綱吉の呟きに、リボーンは雑誌を持ち上げて視線だけを床へ流した。だが特に何も言わず、彼が出て行ってくれるのであれば静かに過ごせるな、とだけ感想を抱いてハンモックを揺らした。
 一大決心を簡単に下した綱吉は、指折り数えてもう一度残り時間を計算し、寄りかかっていた窓を押して体を引き剥がした。床を滑るように部屋を横断し、ベッド脇のクローゼットを開けて中に頭をもぐりこませる。
 出て来た彼が手にしていたのは、この冬新調したばかりの、オレンジ色のダウンジャケットだ。
 少し色合いが派手な気がしたが、デザインが気に入ったので買ってしまった。小柄な綱吉には市販の既製品だとサイズが少なく、故に種類が限られてしまうので、自分の趣味に合致するものを探し当てることの方が難しかった。
 彼はまだ新品の匂いが消えないそれを右脇に抱えると、扉を閉めて踵を返した。机の前に戻って携帯電話と財布を持ち、空っぽになったガラスのコップと一緒にして部屋の出入り口へと向かう。
 ドアを開けようとしたところで、彼は思い出してハンモックを見上げた。リボーンは昼寝の体勢に入っているようで、こちらを見ようともしない。
「暖房、入れとく?」
 念のために訊くが返事はなくて、仕方の無い奴だと彼は肩を竦め、部屋の明りだけを消して廊下に出た。
 尻でドアを閉め、階段を降りる最中にズボンのポケットへ財布を押し込む。携帯電話はその反対側に。玄関の靴箱の上にジャケットを載せ、一気に身軽になった彼は、最後に残ったグラスを片付けるべく台所へ向かった。
「母さん?」
 呼びかけるが返事はなく、中を覗きこんでみれば案の定キッチンは無人だった。電気も消され、換気扇だけが物寂しげに空回りを続けている。
 昼食に使った食器は洗われて、乾燥用の棚にきちんと並べられていた。綱吉はその横にある銀色の流し台にコーラが入っていたコップを置き、人気が耐えて薄ら寒い台所を見回した。
 ドア一枚を隔てたリビングから子供達の甲高い笑い声が聞こえるので、彼女もそちらに居るのだろうか。それとも子供たちを残し、ひとり買い物に出かけたのか。
 この状況だけから正解を導き出すのは難しく、綱吉は微妙な疎外感を抱きつつ緩く首を振った。前髪を掻き上げて視界を広げ、磨りガラスの向こう側に広がるだろう冬空を脳裏に呼び起こす。
 台所は暖房に守られた部屋とは違い、肌寒い。外はもっと寒いのだろうと考えるだけで、背筋が震えた。
「あ、……そうだ」
 手を放した途端に凹んでいた髪の毛が膨らみ、もとの状態に戻ってしまう。どれだけ櫛を入れても直らないので、半分以上諦めている癖毛をそのままに、綱吉は両手を叩き合わせた。
 ぽっと沸いて出た妙案に二度頷き、背伸びをして心当たりを求め天井からぶら下がる戸棚の扉を開けて行く。普段使わない食器等が行儀良く並ぶ中、程無くして綱吉は目的のものを見つけ出し、両手で大事に取り出した。
 洗ってから収納されているだろうが、記憶が正しければ前回これを使ったのは、まだ初秋の連休ではなかったか。
 それから数えるともう結構な日数で、数えようとして途中で放棄した彼は、洗った方がいいよな、との判断の元、流し台に置いて、入れ替わりにコンロの上に放置されていたヤカンを持ち上げた。
 こちらは昼食時に使ったばかりなので、このままでも問題なかろう。蓋を外して蛇口の下へ持って行き、勢い良く空っぽの内部へ水を注ぎ足していく。
 たっぷりの湯が沸くまでの間に、先ほど取り出したものと、自分が使ったコップとを洗って水気を切るべく、並んだ食器の隙間に押し込んで乾かす。綱吉があれこれ動き回り、がちゃがちゃ喧しい音を立てている間も、リビングに居る人が気付いて台所に入ってくる気配はなかった。
 奈々はやはり、買い物に出たのだろう。支度を済ませて玄関に戻った綱吉が、雑に置かれている沢山の靴から、奈々の分だけを見つけ出せなかったのがなによりの証拠だ。
 ダウンジャケットを着込み、肩から斜めに紐を提げる。左脇腹に感じる重みに小さく頷き、彼は右足からスニーカーに爪先を突っ込んだ。
「ちょっと出かけてくる。鍵、閉めといてー」
「はーい」
 閉まっているリビングのドア目掛け叫べば、元気の良いフゥ太の返事がした。数秒置いてノブが回転し、中から頭が三つ、一斉に飛び出して来て思わず苦笑してしまう。
「おでかけ?」
「うん」
「気をつけてねー」
「ありがと。戸締り頼むな。いってきます」
 鍵は持っていかないからと、綱吉は留守番を子供達に頼んでドアを開けた。途端に突風が隙間から流れ込んできて、あまりの空気の冷たさにランボが悲鳴を上げてリビングに駆け込んでいった。
 露骨なまでの彼の反応に肩を竦め、綱吉は頬に感じた冷気を堪えて外に出た。直ぐにドアを閉め、鍵が掛けられる音が聞こえるのを待ってから狭いポーチを飛び出す。
 陽射しはあるのに、強く吹く風が体感温度を著しく下げている。分厚いジャケットを着こんでも感じる寒さに震え、綱吉は少しでも体温をあげようと、小走りに駆けた。

 日増しに厳しさを増す寒さに相俟ってか、屋外で時間を過ごす人の数も段々と目減りしているように感じられる。
 人気の無い公園を遠巻きに眺め、雲雀はそんな感想を抱いた。
 少し前まで、この時間であれば幼稚園から小学生くらいの子供が公園に溢れ、ブランコや滑り台の順番を取り合う光景もよく見られた。日向ぼっこする老人や、談笑する主婦の姿も多かったのだが、今ではあんなにも群れていた人影は皆無に等しい。
 夏場は緑生い茂る木が、冬場はすっかり裸になってしまうようなものだ。今頃人々は、暖かな家の中でのんびりと過ごしているに違いない。
 それはそれで、風紀が乱れないで済むのでありがたいことではあるのだが。いまひとつ面白みに欠けるのも否めなくて、相反する境地の真っ只中に立ち、雲雀は首を振った。
 考えたところで詮無い。それに彼の獲物になるような人間は、三寒四温が続こうと、続かずとも、居るところには居て、騒動を起こすものだ。
 そういう場所に巡回先を切り替えようと歩き出し、しかし数分も行かずに雲雀の脚はまた止まった。それも今度は見るべきものがなにもない、住宅地の合間を走る細い道路の只中で。
 オレンジ色の屋根が陽射しを跳ね返し、柔らかな色合いで空に浮かび上がっている。窓の一切は閉ざされ、その多くはカーテンが引かれて内部を窺うのは容易ではない。敷地を囲む灰色のブロックは実に味気なく、春ならば花も咲き乱れていよう小さな庭も、今は一面茶色に覆われていた。
 洗濯物が軒先の物干し竿に吊るされたままになっている。量は随分と多く、子供用の衣服が目立った。
 閉じられている門の脇、柱に横書きで固定されている表札にある名前は、この国では別段珍しくも無い苗字のひとつ。
「さわだ」
 それを諳んじ、雲雀は黒地に掘り込まれた文字を指でなぞった。
 視線を持ち上げても、ベランダの柵が邪魔をして二階の窓は大半が見えない。一階からは子供のけたたましい笑い声が聞こえてくるが、そこにあの子の声が混じっているとはどうしても思えなかった。
 この季節だし、なにより今日は風が強いから、間違ってもあの子の部屋の窓は開いていないに違いない。それが分かっていながら何故ここに足を向けてしまったのかと、無意識の己の行動に肩を竦めた彼は、些か自嘲気味な笑みを口元に浮かべて踵を返した。
 これといった用事もない。赤ん坊相手に遊ぶのもいいが、今日に限ってそんな気分にもなれなかった。
 それもきっと、風が強いのがいけないのだ。自然現象に対して不条理なまでの不満を抱き、彼は流れの速い雲を見上げて突風に攫われた黒髪を片手で押さえ込んだ。
 羽織っているだけの学生服がばたばたと裾を揺らし、音を立てる。シャツの薄布一枚では到底防ぎ切れない冷気に彼は小さく身震いし、舌打ちして右手を脇に下ろした。
 風に持っていかれないよう、左肩を押さえて遠くを見据える。眩い陽射しの中に鳥の影が一瞬だけ走り、後を追いかけてまた突風が吹きぬけていく。
「っ」
 真正面からぶつかってきたそれに唇を噛み、雲雀はバタつく前髪に紛れて瞳に潜り込もうとする細かい塵を避け、目を閉じた。しかし僅かに遅く、ごく小さい粒子が眼球に果敢なアタックを仕掛けてきた。
 鈍い痛みに顔を顰め、雲雀は行き過ぎた風の行方を探して左目を閉じたまま後ろを振り返る。しかし目に見えない旅人の影はとうになく、彼は苦々しい思いで舌打ちし、疼く左目を手で覆った。
 擦れば悪化するだろうから、自然と溢れる涙で洗い流されるのを大人しく待つのが得策だろう。けれどそういう姿を他人に見られるのも癪な気がして、彼は顔半分を手で隠したまま大股に歩き出した。
 道行く人は多くなく、早足で通り過ぎていく雲雀に怪訝な目を向ける存在は無い。どこかで石焼芋の販売が行われているようで、のんびりとした客寄せの音声は彼の歩調にまるでそぐわなかった。
 途中で手を下ろしてみるが、違和感は拭えない。視力は充分確保できているものの、どうやら塵は眼球の裏側に回りこんでしまったようで、ずきずきする痛みは未だ続いていた。
 目尻から溢れた一粒限りの涙を指で払い落とし、どこか洗える場所はないだろうかと周囲を窺う。学校に戻れば事足りるのだが、それまでに我慢の限界がきてしまいそうだった。
「まったく」
 忌々しいったら、ありゃしない。
 更に滲んだ涙を拭い、顔を歪めた雲雀は車道を横断して歩道の段差を踏み越えた。
 風は止まず、常緑樹の葉を揺らしてガサガサと不快な音を奏で続ける。ささくれ立った神経に更なる刺激を与えられ、雲雀は意味も無く苛立ちを抱えたまま並盛の町を歩き続けた。
 歩調が緩んだのは、目の前に大きく枝を伸ばす常緑樹の木が見えた頃だった。
 それは先ほど、人気が無いなと彼が眺めていた公園に他ならない。どうやら地区を一周して、スタート地点に戻ってしまったようだ。
 こんもりとした丸い丘のような木を仰ぎ見て、彼はしばし眉間に皺を寄せて考え込んだ。此処ならば目を洗浄するに適した水飲み場もあるし、さっき眺めた時と同じく内部は静かなので、依然人気は無いように思われた。ならば迷う理由などどこにもなく、雲雀は即決すると爪先を敷地に向け、コンクリートの歩道から土の地面へと身の置き場を移し変えた。
 記憶に間違いなく、誰も居ない水飲み場は閑散としていて、夏の頃は子供たちが取り合いをしていたのが嘘のような静けさだった。
 雲雀は学生服が邪魔にならないよう袖を後ろに払い除け、前髪を横にした手で梳き上げて蛇口の先に顔を近づけた。金属製の冷たいコックを捻り、勢いを調整して瞳に水流を押し当てる。
「っ――」
 直後見舞った冷水の一撃に、彼は息を殺して声を堪え、これで痛みが消えるのならば、と腹に力を込めた。
 砕け散った水が飛び、口元や果ては喉まで濡らしてくれる。洗い終えて前屈みの姿勢を戻す頃には、蛇口を持っていた手も、避けていたはずの前髪さえ水浸しだった。
 そこへすかさず、嫌なタイミングで風が吹き荒れる。
 後ろから流れてきた空気の塊に背中を叩かれ、雲雀はタオル系統を持ち合わせていない自分の失態に地団太を踏んだ。
 ただでさえ気温が低いというのに、冷たい水に濡れた箇所からは容赦なく体温が奪われていく。仕方なくシャツの袖で顔を拭い、水気を吸い取らせはしたが、表面温度は下がったまま容易く元には戻らない。
「……まったく」
 湿った髪の毛を掻き上げ、悪態をついて雲雀は遠くを見据えた。
 この風さえなければ日向ぼっこくらいは出来ただろう公園のベンチに、先ほどは無かった人の頭を見つけ、切れ長の目をそっと眇める。同時に歪めた唇に指を添え、彼は五秒間静止した。
 彼はあんなところで、ひとりで、何をしているのだろう。
 もう時刻は夕方に近く、太陽は西に大きく傾こうとしている。この季節の日暮れは早く、闇の足音は程無くして大きく耳元で響くだろう。
 彼のことだから、あの暖かな家で大人しく、或いは騒々しく、気ままに過ごしているだろうとばかり考えていた。邪魔をしては悪いだろうからと、敢えて窓をノックもせずに引き返してきたというのに。
「なにしてるの」
 届かない問いかけを声に出し、雲雀はまだ濡れている左目を軽く擦った。
 時季外れの蜃気楼か何かかと勘繰ったが、瞬きをしても姿は消えない。こちらに背中を向ける形でベンチに腰掛けている存在は、遠目ではあるものの、非常に特徴的な髪型をしていて、それだけで誰であるか特定できた。
 明るい向日葵のような色をして、ハリネズミのように毛先を方々に伸ばして爆発させている。その割に触ってみると意外な程柔らかくて、見た目とのギャップの大きさにいつも驚かされてしまう。
 こちらが手を伸ばせば、おっかなびっくり震え上がって、噛み付きやしないのに全身を硬直させて待ち構える。そのくせ、髪の毛をかき回された直後にはもう緊張は解けており、ふにゃりと気の抜けた笑顔を浮かべる様がおかしかった。
 何も言わずに不意打ちで触れるのと、予告した上で手を伸ばすのとでは、反応が違っていて面白い。ころころ表情が変わるのは見ていて少しも飽きず、かと思えば人がじっと見詰めていると急に不機嫌になって、拗ねたりもする。
 そっちだって隙あらば人の横顔ばかり眺めているくせに、気付いていないとでも思っているのだろうか。
「まあ、いいか」
 深く考えるのはやめて、雲雀は唇を撫でていた手を下ろした。濡れて額に張り付く前髪もそのままに、底冷えする空気に身震いしてから脚を前に繰り出す。
 公園の中央を走る灰色の芝生を直進し、くすんだ青色のベンチの後ろへ。枯れた芝を踏むたびにカサカサと乾いた音が立ち上がるが、他に気が向いているのか、ベンチ上の人物は雲雀の接近にまるで気付こうとしなかった。
「なにしてるの」
「うぎゃぁ!」
 先ほど遠くから投げた質問を繰り返し、雲雀は予告無しに低い背凭れ越しに前を覗き込んだ。
 案の定、全く背後に意識を向けていなかった綱吉が、裏返った悲鳴を上げて両手を真上に突上げた。
 持っていたものが中に浮き、泳ぐ。支えを失った銀色い円柱状のものは、雲雀が見上げる中でゆっくりと下降に転じ、更に綱吉を慌てさせた。
「うわっ、わ、わわっ……わ、あぢっ!」
 尋常ならない綱吉の慌て様に、雲雀は生まれつき細い目を限界まで見開いて身を仰け反らせた。ベンチ上で跳ねた綱吉が急ぎ手を引っ込め、傾いて中身が飛び出した水筒のコップを胸に抱く。悲鳴はその最中に生まれた。
「沢田」
「うひゃっ、はっ、あぶ……なー」
 三オクターブ程高い声を上げた後、息をついて力を抜いて背中を丸める。ホッと胸を撫で下ろした綱吉の足元は、他の地面と違って僅かに黒く変色していた。
 オレンジのダウンジャケットにジーンズ姿、ベンチの背凭れに寄りかからせているのは蓋の無い保温性も高い水筒。そして両手の中で大事に握っているものが、他ならぬ水筒の蓋、兼コップだ。
 黒く塗られた内側で飛沫が上がり、全部が零れたわけではないようだ。見たところ、綱吉のズボンにも濡れた形跡は見られない。熱い、と口走りはしたが、手を火傷した様子もなかった。
「沢田」
 いきなり話しかけたものだから、驚かせてしまった。よもや熱い飲み物を口に運んでいるところだったとは、背後から見ただけでは予想できなかった。
 すまない、と謝ろうとしたが喉に息が引っかかり、音になって出て行かない。名前を呼んだところで変に言葉が途切れてしまって、落ち着きを取り戻した綱吉が浅い呼吸を繰り返して振り向くまで、雲雀は指一本も動かせなかった。
「あー、もう。びっくり……わっ、ひ、ヒバリさん!?」
 肩を落として溜息を零し、無事だった液体を口に運んだ綱吉は、どうやら此処でやっと、自分を驚かせた犯人が雲雀であると意識したようだ。幾らなんでも気付くのが遅過ぎると、呆気に取られていた雲雀が首を振る。掻き毟った前髪は、毛先が少し乾き始めていた。
 ずずず、と音を立ててコップの中身を啜り、顔を顰めた彼を見下ろして雲雀が三度目の質問を投げかける。見たところ彼はひとりで、沢田家に居候中の子供達が一緒というのではなさそうだ。
 公園内部を目の届く範囲で見回した雲雀に、彼がなにを探しているのかを察した綱吉は小さく舌を出した。苦心の末に飲み干したコップを逆さにして、黒ずんだ地面に向かって雫を落とし、水気を切って水筒に戻す。
「特に、なにも。ヒバリさんは、今日は見回りですか?」
「うん」
 こんな寒い日にわざわざ家から出て、ひとりきり、誰も居ない公園のベンチに座って、水筒片手に茶を啜る。それで特に何もしていないとはとても思えないのだが、話を振られてしまったので雲雀は仕方なく頷き、四人は座れるベンチの前に回り込んだ。
 綱吉が視線で動きを追うのを感じながら、水筒を挟んで横に腰を下ろす。横幅は充分あるので、中学生の男子がふたりでも充分なスペースが確保できた。
「ひとり?」
「あ、はい。……ヒバリさんも?」
「群れるのは嫌いだよ」
「そうでしたね。はは、そうでした」
 愚問だったと綱吉はわざとらしく笑い、日に透ける薄い色の髪を弄った。前髪を何本か抓み、下向きに引っ張ってくるくる捩っては、手を放して元に戻る様をぼんやりと眺める。
 時折人の機嫌を窺うように横目で見詰めてきては、こちらが視線を動かすと知るとパッと逸らして誤魔化そうとする。大型犬を前にした小型犬の反応に近い。
 会話は途切れ、ふたりの間に冷たい風が吹いた。
 何か言わなければ。分かっているけれど、気の利いた台詞のひとつも思い浮かばない。そもそも共通の話題など無いに等しくて、無理矢理挙げるとしても、あの自称綱吉の家庭教師であるヒットマンくらいしかでてこない。
 それはそれで、話の流れに困る。首を右に揺らした綱吉は視線を浮かせ、背中を丸めて頬杖をついた雲雀は自分の爪先ばかりを睨んだ。
 沈黙が支配して、数分。
 横で居心地悪げにもじもじと腰を揺らした綱吉が、結び合わせた手を捏ねて冷え切った指先に息を吹きかけた。
「きょ、今日は……えと、その。寒いですね」
「そうだね」
「冬、って感じですね」
「冬だからね」
「……そうですね」
 折角綱吉が話を振ってくるのに、愛想のない返事しか出来ない自分が嫌いになりそうだった。雲雀は立てた右肘で自分の太股を抉り、反省しろと自戒を込めて苦々しい表情を作り出す。
 一方綱吉も、素っ気無い態度を崩さない雲雀を若干もてあまし気味にしながら、益々落ち着き無く体を揺らして横に置いていた水筒を胸に抱きこんだ。
「えっと、あ、あの。さ、寒くないですか?」
「そりゃ、寒いよ」
 今し方その話題を終えたばかりではなかったのか。急に声を大きくした綱吉に怪訝な目を向け、雲雀は幾らか興奮気味に頬を赤く染めている彼に首を傾げた。
 キラキラと琥珀の瞳が艶を放ち、夕暮れ前の陽射しを反射して眩しく輝いている。夜にはまだ少し猶予があるというのに、彼の目の中に瞬く星を見つけた気がして、雲雀は自分のつれない返事にもへこたれない綱吉の意気込みに、僅かに身を引いた。
 すかさず綱吉が開いた分の空間を詰めて、更に声を大きくする。
「じゃあ、あの、あの。こ、コーヒーあるんです。だから、の、のの、飲み、みっ、飲みませんか?」
 吃音気味に声を発し、呆気に取られる雲雀を無視して、彼は叫ぶと同時に銀色の水筒を前に突き出した。
 危うく顎に激突するところで、再度身を引いた雲雀は、ぎゅっと目を閉じて全身を震わせている綱吉に怪訝な顔を向けた。
「コーヒー?」
 鸚鵡返しに問うた彼に、顔を上げた綱吉はコクコクとしつこいくらいに頷く。
 横に流れた雲雀の目が、一部分だけ色が濃い地面を映し出した。その色も、単なる茶ではなく、コーヒーだったからこそ出来上がった水溜まりなのだと思えば、納得がいく。
 再び綱吉を正面に見て、しかし何故また、コーヒーなのかと彼は唇を歪めた。
「はい。なんていうか、その、いっぱい作っちゃって、俺ひとりだと、その。飲みきれないんで」
 寸胴な水筒を撫で、下向いた綱吉が言い訳がましく言葉を連ねていく。
 果たしてコーヒーなど、作りすぎるものなのだろうか。大量に消費する家ならばありえるだろうが、雲雀の記憶の限りでは、沢田家でコーヒーを愛飲するのはリボーンと、強いていうなればビアンキくらい。それに、大事に水筒を抱えている本人があまりこの嗜好品に愛着を持っていないことを、雲雀は知っている。
 子供の味覚しか持っていない綱吉は、苦味が強いコーヒーを不得手としていたはずだ。それをわざわざ、保温容器に入れてまで彼が屋外で飲む理由が、いったいどこにあるのか。
 疑問は尽きないが、綱吉は雲雀のいぶかしむ目線を避けていそいそと蓋を外した。
 内蓋の中央にあるボタンを押し、注ぎ口を開いて裏返したコップに添える。見るからに分厚く、重たそうな水筒を斜めに傾けた綱吉は、零さぬよう慎重に、丁寧すぎるくらいの手つきで中身を注い入れた。
 とぷとぷと微かな音がふたりの間を流れ、微かに香りよいコーヒーの匂いが雲雀の鼻腔を擽った。
「どうぞ」
 七分目で止めて、先に水筒を置いた綱吉が両手で抱いたコップを差し出す。先程彼が使っていたのと全く同じ容器を前にして、雲雀は一瞬躊躇し、三秒迷って手を伸ばした。
 受け取り、細い湯気を立てる液体に息を吹きかける。
「ちょっと、冷めちゃってるかも。あと、少し薄いかも、しれませんけど」
「そう」
 丸い形状には特徴らしい特徴が見当たらず、綱吉が先程唇をつけていた箇所も分からない。気付いているのかと勘ぐる視線を返すが、綱吉は間接キスなどというものは一切頭に無い様子で、ひたすら雲雀の手元ばかりを見つめていた。
 そわそわ落ち着かない様子に苦笑し、飲みやすい温度まで下がった黒い液体を口に流し込む。
 心地よい香りと、ほんのりとした苦みが咥内いっぱいに広がり、するりと喉を通っていった。行き過ぎた場所から熱が生まれ、冷え切った身体が内側から暖められていくのが分かった。
 ほうっと息を吐き、続けて二口目、三口目を飲み込んで、残りを一気に煽って飲み干す。どうやら自分は、思っていた以上に寒さにやられていたらしい。すっかり乾いた髪の毛を揺らし、雲雀はコップの底に数滴だけ残る液体に苦笑した。
 ミルクも砂糖も入っていない、綱吉には苦すぎる味付けだった。どう考えてもこれは、彼が自分で飲む為に用意したものではない。
 瞬きの末に瞳だけを持ち上げると、目があった綱吉は恥ずかしげにパッと視線を逸らして下を向いた。膝に抱えられた水筒が、手持ち無沙汰気味に左右に揺れていた。
 そういえば、コップを受け取る時に触れた彼の指先は冷たかった。
 どれくらいの時間外に居れば、あんな冷たさになるのだろう。同じように冷えている自分の手を握って広げ、雲雀は頬を赤く染めている綱吉を見つめた。
 ひょっとしなくても、これは、自分の為に用意されたものなのだろうか。
 自分が近所を巡回していると予想して、方々を歩いて探し回った末に見つけられず、疲れ果ててベンチで休んでいた。そこへたまたま、雲雀が先に綱吉を見つけて声をかけて。
 憶測でしかない。だが、充分あり得る可能性だった。
 無意識に笑みが零れ、コーヒーの熱以外の理由で雲雀は胸がほんのり温かくなるのを感じた。
 人を盗み見ていた綱吉に笑いかければ、彼はビクッと怯えた猫のように全身を毛羽立てて人の視線から逃げてしまう。そういういじらしい態度が可愛らしくてならず、雲雀は癖だらけの彼の髪に手を伸ばし、跳ねている一房を撫でた。
「ねえ」
 甘く誘う声で囁き、耳まで赤くなった綱吉が怖々振り向くのを待って、
「これ、まだある?」
 空になったコップを顔の横で揺らし、静かに問う。
 綱吉は一瞬きょとんとして、
「は……はい!」
 すぐに春爛漫の笑顔で頷いた。

2008/12/01 脱稿