奇譚

 夕食後の穏やかなひと時、一家団欒のリビングで主役の座を不動のものにしていたテレビが、突然砂嵐を巻き上げた。
「あ、れ?」
 チリチリとノイズが画面に現れては消えるな、と思っていた途端の出来事に、綱吉は目を丸くして、右に左に細波を立てる無数の色のついたラインを見詰めた。
 一緒に座ってテレビを見ていた子供たちも、揃って立ち上がって不思議そうに口をぽかんと開けている。ランボなど垂れ下がった鼻水を拭うのも忘れ、口の中に入って来てから慌てて咳込んだ。
「うわっ、汚いなあ」
 飛んできた涎と鼻水に綱吉は顔を露骨に顰め、四つん這いになって棚へ手を伸ばした。箱型のティッシュケースから薄い紙を二枚引き抜き、真っ先に自分の腕を拭って、次に乾いた部分で、懸命に鼻を啜っているランボの口元を拭いてやる。
 その間もテレビ画面は乱れたままで、声は聞こえるのに画像は見えないというちぐはぐな状態が続いていた。
「どうしちゃったのかなあ」
 普通に考えて、故障したと見るべきか。綱吉は丸めたティッシュペーパーをゴミ箱に投げ、丸い形状の縁に当たって跳ね返ったのを見て仕方なく立ち上がった。
 イーピンがぴょんぴょん飛び跳ね、映像が映像で無くなったテレビになにやら話しかけていた。
 機嫌を損ねるようなことをしていたら謝るとか、そういう事を言っているのだと大雑把に理解して綱吉は苦笑した。どうやら子供たちにとっては、ただの機械であるテレビも大事な友人らしい。
 濡れたティッシュペーパーを拾い、今度こそゴミ箱に落として軽く手を叩き合わせた綱吉は、さてどうしようと首を捻り、音声にも時折ザザザ、という乱れた電子音が混じるテレビを振り返った。
 昨今は薄型だ、大型だ、液晶だなどと、なにかと騒がしい家電製品業界であるが、沢田家のリビングの一角を占拠するテレビは、未だに厚みのあるどっしりとしたブラウン管だった。
 将来デジタル放送が云々で、アナログ放送がどうだこうだ、という話は聞いているが、どうにも理解力に乏しい綱吉には何がなんだかさっぱりだ。いずれ近いうちにこのテレビが映らなくなると言われた時は、大変だと大騒ぎしたものの、其処から先の、ではどうするかという話題にまでは至らなかった。
 そうなった時に考えようと、結論を先送りして楽観視する傾向は、確実に奈々からの遺伝だ。
「テレビさん、壊れちゃった?」
 自分でもティッシュペーパーを取り、鼻を噛んだランボが舌足らずな声で聞く。リビングのほぼ中央で立ち尽くしていた綱吉は、ああ、と我に返って頷き、そして首を傾げた。
「なのかな」
 試しにリモコンに手を伸ばし、チャンネルを切り替えてみる。もしかしたらこのテレビ局の電波が乱れただけかもしれないと考えたのだが、他のどのチャンネルも同じ状況だった。
 電源を切り、再度入れても変化は無い。本体側の電源を押して、コンセントや壁から伸びるアンテナの抜き差しもやってみたが、何をしても状況は改善しなかった。それどころか、背面を色々と弄っている間に変なところを触ったらしく、はっきり聞き取れていた音声まで乱れ始めた。
 ノイズが強くなり、あまりにも耳障りな音に綱吉は顔を顰め、音量を最小限にまで絞った。
「沢田殿? どうかしましたか」
「バジル君」
 奈々について夕食の片付けを手伝っていたバジルが、なにやら騒々しくなったリビングを気にかけてエプロンをしたまま顔を出した。
 綱吉よりも薄い茶色の髪に、涼やかな青い瞳。整った顔立ちは綱吉以上に中性的で、遠目からでは尚更男女の区別が付きづらい容姿をしている。
 だがそれはあくまでも見た目の話で、頭の中は普通の男子と変わらない。その上、家光についてあちこちを転々としていたこともあり、語学に堪能でかつ体力は充分、腕力も綱吉のそれをはるかに上回っている。
 但し日本語は若干珍妙で、考え方もいやに古臭かったりする。
 埃まみれになってテレビ台と壁の間に腕を差し込んでいた綱吉は、現れた彼に苦笑して頬を引き攣らせた。
「テレビが、……どうかしましたか」
「あのね、ツナと喧嘩中なの」
「はい?」
 素早く彼の足元に駆け寄ったランボの、要領を得ない方向性を間違った説明に彼は首を傾げ、改めて綱吉を見る。視線が直線上で交差して、綱吉は苦笑いを強めた。
 イーピンも説明に加わるが、ふたりが一所懸命になればなるほどバジルの頭は混乱していくようで、彼は助けを求めて壁に張り付いている綱吉に歩み寄った。
 奥行きが五十センチはあるだろう古めかしい大型ブラウン管テレビに寄りかかり、綱吉の手がある先を真上から覗き込む。だが自分の頭が影を生み出して、暗すぎて全くと言って良いほど何も見えなかった。
「沢田殿?」
「なんかさ、急に映らなくなって」
 一応映ることは映るが、乱れすぎて元の画がさっぱり分からない。あの状態でモニターを見詰め続けていたら、眩暈と頭痛を同時に引き起こすだろう。
 触ったケーブルがしっかり根元まで本体にささっているのを確かめ、綱吉は身を引いて真っ黒に汚れた指先に舌を出した。こびり付いた無数の埃をひとつに集めて縒り、塊を大きくしてからゴミ箱へと落とす。彼について部屋を横断したバジルは、沈黙しているテレビを振り返り、ふむ、と相槌と共に頷いた。
 手を洗いに一旦場を離れた綱吉が戻ると、どうやら彼も綱吉と同じ事を考えていたようで、彼が先ほどやっていたのと同じ行動を丸々そっくりなぞっていた。
 チャンネルの切り替えに、電源の確認。しかし何をやっても状況に変化は訪れず、画面は相変わらず色とりどりの砂嵐。
 最初は騒いでいた子供たちも飽きたようで、奈々に呼ばれてお風呂に入るべく、綱吉と入れ替わりにリビングを出て行った。
「もういいよ、本当に壊れちゃったみたいだし」
「ですが、もしかしたら」
 ひとり残り、悪戦苦闘しているバジルの斜め後ろにしゃがみ込んだ綱吉が言う。しかし床に仰向けになるよう寝転がり、何処からか持ち込んだ懐中電灯まで使ってテレビの裏側を確かめている彼は、諦め悪く言い返して伸ばした右手で端子のひとつを指で抓んだ。
 抜いて、身体を起こして前に戻り、画面が変化していないかどうかを確かめる。彼が弄ったのは音声ケーブルだったようで、右側のスピーカーから音が聞こえなくなっただけだった。
 綱吉以上に埃にまみれ、顔を汚すバジルの額には薄ら汗が浮かんでいた。
 張り付いた髪の毛を梳いてやり、綱吉は肩を竦める。
「いいよ、もう。かなりお爺ちゃんだったし」
 きっと寿命だったのだ。労うように撫でて雑音を発するテレビに目を細めた綱吉だが、バジルは納得しかねる顔をして服装を整え、むん、と唸って頬を膨らませた。
 彼にしては珍しく、ムキになっている様子が窺える。確かに修理すれば直るかもしれないし、壊れたからと言って簡単に新しいものに買い換えて、古いものを廃棄するのは傲慢ではあろうが。
 綱吉とて、小さな頃からお世話になってきているだけに、愛着はある。子供たちが来てからはよじ登られたり、ものをぶつけられたりと散々な目に遭わされてもいたが、健気に今日まで頑張ってくれた。
 お疲れ様と言ってあげるのが相応しいと思う。優しい目をした綱吉につられ、バジルも汚れてしまった顔を擦り、小さく笑った。
「叩けば直る、って言うけどねえ。幾らなんでもそれはちょっと」
「……叩くのですか?」
 先ほど撫でた箇所をぺしぺしと指先だけで叩き、綱吉はそういえば、とどこかで聞きかじった話を例に出して肩を竦めた。初耳だったのだろう、バジルがきょとんとして聞き返す。
「うん、おばあちゃんの知恵袋とかで。言わない?」
 それを再度聞き返した綱吉に、彼は不思議そうに目を眇めて首を横に振った。顎に手を置き、真剣な顔をして考え込む。
 真に受けた彼の様子に、綱吉はそんな事あるわけないのにね、と言い足して電源を切ろうとリモコンに手を伸ばした。膝を曲げて屈み、床に直接置いていたものを拾い上げる。
 その彼の頭上で。
 バンッ!
 固く重いものを叩く音が一度、高らかと響いた。
「え」
 反射的に顔を上げた綱吉の前で、バジルが、今まさにテレビを殴りましたとばかりに広げた手を角形の側面上方に押し当てていた。
 綱吉はぽかんとし、本当にやると思わなかった相手をまじまじと見詰める。一発で直らなかったと知ると、彼はもう一度と右手を肩よりも高く掲げ、勢いをつけてテレビを叩いた。
 バシン!
 自分が殴られたわけではないのに思わず首を引っ込めた綱吉の前で、ザザ、とノイズが一段階大きくなった。恐々目を開けて、急に音が切れたテレビに驚く。
 直後、それまで全く聞き取れなかった軽快なメロディーが、か細くリビングに響き渡った。
「……へ?」
「沢田殿、直りました!」
 嬉しげなバジルの声に目を瞬かせ、綱吉はあんぐり顎が外れんばかりに口を開いた。力が抜けた手からは、拾ったばかりのリモコンが滑り落ちる。
 にこにこと屈託なく笑うバジルが寄りかかったその下で、ブラウン管は見事に復活を遂げていた。
「沢田殿のお婆様の言う通りでしたね」
 凄いです、といもしない人に尊敬の眼差しを向け、彼は賑やかさを取り戻したテレビから綱吉に向き直って言った。
「そ、そうだね……」
 凄いのは君の方だとは言えず、綱吉は無邪気に喜んでいるバジルを前に、どう答えてよいものやら分からずに苦笑した。
 そして翌日。 
 また映らなくなったところを無遠慮にバジルが叩き、今度こそ本当に、沢田家のテレビは修復不能なところまで破壊された。

2008/08/02 脱稿