恋花・生育

 頭の中で繰り返し紡がれる、同じ疑問。
 何故、という問いかけ。
 導き出される答えもまた決まっていて、ひとつきりしか浮かばない。
 触れてみたかった、と。
 その腕に、その髪に、その胸に、その瞳に。
 唇に。
 ならば相手は他の誰か――見目麗しい絶世の美女でも良かったのではなかったのかと、これもまた飽きもせず繰り返される自問だ。どうせくちづけるのなら、豊満な体躯をした触り心地の良い女性を選べばよかったのに。
 しかしこれにも、決まって得られる答えは同じだった。
 あの子の唇で確かめたかったのだ。
 背が低く、痩せていて、肉付きの悪い、同性で年下の、目ばかりが大きい、あの子が良かったのだ。
 では、どうしてあの子だったのか。
 その答えだけが、未だに見付からない。
 貧相で貧弱で、おおよそ自分の興味を引くような存在ではなかったのに。彼に注目するとしたら、それはあの正体不明の赤ん坊によって、額に不可解且つ鮮やかなオレンジの炎が宿された時くらいだったというのに。
 自分が不思議でならない。半月前までは当然の如く此処に、確固たる理念と共に存在していた自分自身というものが、突然あやふやになって行方不明になってしまった気分だ。信念とでも言うべきものの一部が急に反旗を翻し、何処かへ逃げ遂せてしまったような、そんな錯覚さえ抱かされる。
 草壁からぼんやりしているとの指摘は受けなくなったが、それは何度忠言しても直らないことからの諦めに起因しているとみていいだろう。
 あの子が自分を避けているのは、気付いていた。わざと大回りをして、応接室近辺に近付かないようにしている。遅刻の回数も大幅に減っているが、これを良い傾向と捉えるのは少々不本意だった。
 本人は目立たず地味に活動しているつもりかもしれないが、その彼の周囲がとかく賑やかなので、存在が目立つのは以前と大差ない。ただそこに風紀委員が介入する機会は確実に減っていて、必然的に傍に行く事も少なくなった。
 遠巻きに姿を見かけることはあっても、向こうがこちらに気付いた途端、脱兎の如く逃げ出してしまう。何もしていないのに後を追いかけるのは不自然で、出しかけた足はいつも一歩目を刻む事無く戻された。
 気がつけば姿を探している。見つけたら、目で追っている。逃げられたら、捕まえたくなる。
 苛々する。
 他の連中には気さくに話しかけ、笑顔で応じているくせに、自分の顔を見た瞬間に表情を凍りつかせ、背を向けて遠くへと逃げ出す。もしくは視線を合わせないように目を逸らし、下を向いてその場で硬直するか。
 どちらにせよ、気に入らない。
 嵐の日、縋り付いてきた腕は何処へ消えたのか。もしあそこにいたのが自分でなかったとしても、彼はその誰かにしがみつき、暗闇の恐怖をやり過ごしたのだろうか。
 それを考えると、また胸の中のもやもやが大きくなり、腹立たしさがこみ上げてきた。
 やり場の無い、理由不明の怒りを、近くにあったゴミ箱を蹴り飛ばすことで誤魔化す。派手な音を立て、プラスチック製の青い筒は蓋と分離して横倒しに転がった。
 中身は空だったようで、手応えは軽かった。縁で地面を削った蓋がコロコロと遠くに転がっていき、やがてバランスを崩して裏を上にして倒れる。目で追いかけた先、乾いた地面の上に複数の足が見えて、雲雀は眉間に皺を刻んだ。
 自分以外の誰かに笑いかけているのが癪だった。
 群れの中で楽しそうにしているのを見るのが苦痛だった。
 その視線は大勢に向けられるのに、何故か自分にだけは届かない。それが、たまらなく嫌だった。
 だから仕掛けた、自分を見るように。他の誰でもない、自分だけに目が向くように。
 左指で触れようとして、寸前で見開かれた琥珀が自分だけを映し出すのが嬉しかった。あの日と同じ鮮やかな、僅かに潤んで熱を帯びた輝きが、自分に固定されたのが満足だった。
 けれどそれも、あの瞬間だけ。一緒に居たクラスメイトの少女が大声で名前を呼び、激しい足音がそこに重なった。また逃げられたのだと思うと、わけもなく胸が痛んだ。
 弱いくせに、時々驚くほど強い。入学当初は本当に目立たない子だったのに、いつのまにか人の輪の中心に、当たり前のように佇む存在と化していた。
 強いのなら、弱い連中と群れてはいけない。そんな場所にいたら、折角の強さが脆く崩れてしまう。あの子は、あんなところにいてはいけない。自分と同じ、強者の側に来なければ。
 音を立てて奥歯を噛み締め、雲雀は続々と群れだって現れる集団に険のある視線を向けた。総勢で十二、三人はいるだろうか。どれもが制服を着崩し、校則違反の髪色をして、下品な笑いを口元に浮かべていた。バッドなどの武器を手にしている輩も混ざっており、彼らの狙いがなんであるかは明白だった。
 対する雲雀は、裏庭にひとりきり。見た感じは丸腰のようだが、隠し持ったトンファーはいつでも取り出せるように仕込んでいる。
「いけねーなぁ、風紀委員長様が学校の備品に乱暴なことしちゃ」
 先頭に立つドレッド頭の男が、耳に吊るしたピアスをじゃらじゃらと鳴らして笑った。偉そうに踏ん反り返り、後ろに続く連中に同意を求めて一斉に不愉快な声を響かせる。最近稀に見る不良集団に、雲雀は嫌悪感も隠さずに溜息を零した。
 面白くなさそうに肩を落とし、相手にするのも馬鹿らしいと無視を決め込む。それが気に入らなかったのだろう、不良のひとりが転がっていたゴミ箱の蓋を、彼に向けて蹴り飛ばした。
 平らな円盤が高速回転しながら向かって来るのを難なく躱し、雲雀は欠伸を堪えていきり立っている集団に目を眇めた。いつもなら自分から殲滅に向かうのだが、今日に限ってそんな気分になれなかった。
 こんな奴らを蹴散らしたところで、何の利にもならない。歯応えに欠けるつまらない人間を咬み殺したところで、この胸の中に蓄積する鬱憤が晴れるとは、到底思えなかった。
 だが向こうは完全に雲雀を敵と認識し、目を血走らせていた。
「仕方ないね」
 大人しくやられるのを待ってやるほど、雲雀は心が広く無い。それに、あちらから折角出向いてくれたのだから、相応のお礼というものをしなければ、失礼に当たる。
 好きなだけ暴れれば、多少は気が紛れて楽になるかもしれない。戦っている間は、あの子の顔も思い浮かべずに済む。
「覚悟しなよ。僕は今日、機嫌が悪いんだ」
 抜き取ったトンファーを素早く構え、雲雀が低い声で呟く。聞こえたかどうかは解らないが、それが合図となり、不良たちは一斉に彼に向かって突進を開始した。

 薄曇の空の下を、冷たい風が時折吹き抜けていく。思わず身震いし、己を抱き締めた綱吉は乱された髪の毛ごと頭を振り、校舎の隙間から見える狭い灰色の空を仰ぎ見た。
 ほうっと息を吐いて肩を落とし、強張りを解いて力を抜く。頬に貼り付いて最後まで残っていた髪を後ろへ流し、額を露にした彼は、日が当たらない所為で湿っている地面を上履きのまま蹴り飛ばし、物陰に隠れているかもしれない存在を探して視線を巡らせた。
「ランボ、ランボー? どこだー」
 口の横に手を添え、拡声器代わりにして呼びかける。しかし返事はなくて、シンと静まり返った校舎裏は沈黙を保ち続けた。反響せずに消えていく自分の声に溜息を零し、苛立ちを隠しもせずに髪の毛を掻き毟る。舌打ちが漏れ、浅く噛んだ唇の感触に綱吉は息を止めた。
 あのトラブルメーカーの五歳児が学校に潜り込んだと知ったのは、つい十五分ほど前の事だ。午前中の授業が全部終わり、漸く昼休みに突入したと喜んだ矢先、教室の窓から顔を出したリボーンから教えられて、彼は悲鳴を上げた。
 非常識の塊であるあの子が、綱吉の迷惑顧みずにこれまでに引き起こした騒動は、片手では到底足りない。窓ガラスを割り、ロッカーを破壊し、靴箱を倒し、女子のスカートを捲る。その度に飼い主、もとい保護者代わりの綱吉は教員、生徒それぞれに頭を下げて回らなければならなかった。
 リボーンも、学校に着く前に彼を止めてくれればいいのに、面白がって放置するものだから始末が悪い。
 何か手酷い悪戯をしでかす前に、探し出さなければ。獄寺や山本、京子たちにも手伝ってもらい、こうしてランボ捕獲作戦が決行されたわけであるが、今のところ発見に至ったという連絡は入っていなかった。
 ランボの頭の中にある手榴弾が万が一爆発でもしたら、それこそ大騒ぎだ。怪我人が出るかもしれない。校舎も吹っ飛びはしないが、どこかしら壊れるだろう。そうなったら登場するのは、風紀委員のご一行様だ。
 確実に雲雀が顔を出すのは目に見えていて、綱吉は想像して震え上がり、同時に言い表しようの無い感情を胸に抱いて唇を引っ掻いた。
 京子に貰ったリップクリームは、使っていない。今も大事に、家の机の引き出しの中にしまっている。現在愛用しているのは、奈々に頼んで買ってきてもらった薬用の、見た目も素っ気無い安いものだ。
 荒れ放題だった唇は、カサつきも治まって綺麗になった。痛みももう残ってない。皮膚に引っかかることもなくなって、指先は柔らかな感触を静かに受け止めた。
 けれど、どうにも落ち着かない。無意識に触る癖はまだ抜けなくて、折角塗っても直ぐに拭い取ってしまうこともあり、買ったばかりのリップクリームの減りは異様に早かった。
「…………」
 思い浮かぶ背中。艶やかな黒髪に、涼やかな瞳はそれだけで鋭いナイフで、振り返って見詰められた瞬間に綱吉の動きは止まり、胸を抉られるような錯覚に陥った。
 想像するだけでもこうなのだから、本人を前にしたらそれこそ心臓が止まりかねない。だから逃げ回っていたのにと、拍動を強める胸元に右手を添え、綱吉は左の人差し指に浅く歯を立てた。
 触れるか否かという距離を通り抜けていた、雲雀の指。あの瞬間、自分はホッとしたのだろうか。それとも、残念に感じたのだろうか。
 恥かしくて、居ても立っていられなくて駆け出した。周囲から見れば単に雲雀が指を向けた先に綱吉がいただけで、行動になんらかの意味があるとは受け止めなかったはずだ。
 しかし、そんなわけがない。
 彼は綱吉に手を伸ばす直前、唇に触れる仕草をした。何を意味しているかは明らかで、しかし彼が何を意図してそんな真似をしたのかが、綱吉には分からなかった。
 自分たちがくちづけを交わした事を揶揄して、なんになろう。
 忘れるなという事か、それとも。
 またするよ、という合図か。
「……そんなの」
 広げた掌で口元全体を覆い隠し、綱吉は赤くなった顔を伏して首を振った。
 思い出すだけで鼓動が早くなる。体温があがる。息が苦しくなる。胸が締め付けられる。
 雲雀を前にして平静でいられない。こんな自分は、自分ではない。
 彼が怖かった。彼が本当の自分を盗んでしまったのだ。だから今此処に居る沢田綱吉は、雲雀恭弥によって作りかえられてしまった全くの偽者に他ならない。肉体も、記憶も、なにも変わっていないけれど、心だけが入れ替わってしまっている。
 では本来の自分は何処へ行ってしまったのだろう。何処へ行けば取り戻せるのだろう。
「……やだな」
 動悸がして、眩暈が止まらない。瞼を閉じれば、どんなに振り払っても雲雀の姿が浮かんで消えなかった。
 心の中が常にざわざわと風が吹き荒れて、大きな波が寄せては引いてを繰り返している。寝ても醒めてもこの調子だから、授業に集中するのだってどだい無理な話だ。食欲の秋だというのに、胃袋が小さくなってしまったのか箸の進みも悪くなった。気がつけば唇を弄っているか、溜息を零しているかで、風邪がまだ治りきっていないのかと周囲も異変に気付き始めている。
 落ち着かない。
「なんなんだよ、もう」
 半分やけくそ気味に呟いて、綱吉は自分の額を叩いた。ぺちん、と乾いた音がして、痛みのお陰で脳内を占領していた雲雀はどこかに飛んでいった。
 彼よりも、今はランボだ。
「お昼休み終わっちゃうよ」
 弁当の包みを解く前に教室を飛び出して来たので、腹の虫もそろそろ我慢の限界に至ろうとしている。この状態で五時間目の授業に突入するのだけは、遠慮願いたかった。
 その為にも、一刻も早くあのブロッコリー頭を探して捕獲しなければ。獄寺や山本からの連絡は、依然届かない。
 一瞬、本当にランボは学校に潜り込んだのか疑問に感じた。あの子のことだから、誰にも構ってもらえない時間が長くなればなるほど、暇を持て余して退屈に耐え切れなくなり、自分で騒動を引き起こして居場所を知らせそうなものだ。
 しかし今のところ、そういった様子は見られない。校舎の裏側しか視界に入らないので、綱吉が気付いていないだけかもしれないが。
「ランボ、居るなら返事しろー。おーい」
 もう一度大声で呼びかけ、返事を待つが結果はさっきと同じだ。リボーンがわざわざ嘘を知らせに来る理由はないので、信用しても良いと思うのだが、人をからかって面白がる彼だから、念のため覚悟はしておいた方がいいかもしれない。
 それにしても、どうしてあの子はこんなにも学校が好きなのだろう。遊んでくれる人間が沢山居るからだろうか。
 脱力しつつ綱吉は歩みを進めた。ふと思った内容に、またしても雲雀の影がちらついて見えて、彼は自分が知る中で一番学校大好きな人の姿に顔を引きつらせた。
 日陰から日向に伸びたつま先が、むぎゅ、と柔らかいけれど芯が硬いものを踏んだ。
「へ」
 地面に転がる立体物。それが人の腕であり、上履きの底で思い切り踏み潰している事実に気付くまでに、綱吉は瞬きを合計八回繰り返した。
 なんだってこんなところに人が、と妙に冷静な頭で考えた彼は、きょとんとして、白昼夢でも見ている気分に浸りながら下方から前方に視線を移し変えた。
 さっき一瞬見えた気がした雲雀が、変わらずに同じ場所に立っていた。
 丸い目を見開いた綱吉の瞳に、驚愕に切れ長の眼を大きくした黒髪の青年の姿が映し出される。
「え……」
 踏みつけた誰かの腕から足を外し、後ろへ引く。倒れていたのは、ひとりだけではなかった。
 合計して十人以上、並盛中学の制服を着崩した生徒が、顔面や四肢ををぼこぼこにされた状態で転がされている。裏庭の一画で折り重なったそれは、戦場で力尽きた戦士の映像を綱吉に想起させた。
 立っていたのは雲雀だけだ。いつも通り息ひとつ乱さず、汗もかかず、握り締めたトンファーに鈍い陽射しを反射させて、残酷な勝者の笑みを浮かべていたのに。
 その顔が、綱吉を視界に認めた瞬間凍りついた。
「なっ、え……え、え?」
 一方の綱吉は、全くの予想外な現場に出くわして混乱していた。
 ランボを探していたのに、見つけたのは人の死体、ではなく気絶した不良たち。雲雀が無傷でいるところからして、喧嘩があったのはほぼ確実だ。相変わらずの鬼の強さを発揮して、群れているところを見つけて駆逐したか、襲われたのを撃退したかのどちらかだろう。
 不良たちは揃って失神中のようで、意識がある人は見当たらない。どの顔も原型が解らないまで滅茶苦茶にされており、体の隅々にまで打撲痕が見受けられた。
 雲雀の強さと、容赦のなさは綱吉も身を持って体感済みだ。しかも喧嘩を終えた直後の彼は、気分が高揚しているからか凶悪さに磨きが掛かっており、無関係な綱吉にも見境なく襲い掛かる危険があった。
 逃げなくては。
 本能がそう警告を発し、綱吉は抗う事無くその言葉に従った。
「ひっ!」
 喉を引きつらせて悲鳴をあげ、さっきまで倒れている人の腕を踏んでいた足を軸にして身体を反転させる。そのまま一目散に、綱吉は来た道を戻って駆け出した。
「沢田!」
 後ろから雲雀の声が飛ぶ。どこか必死な彼の呼びかけに心がズキンと痛んだが、綱吉は構わずに奥歯を噛み締めて迫ってくる感情を振り払い、風を切って走った。
 呼吸が苦しく、足がもつれる。上履きの踵は踏んで潰して、スリッパに近い形状をして履いているので、地面を強く蹴ると底が滑ってすっぽ抜けていきそうになった。
 そんなだから当然速度は出なくて、きちんと外履き用の靴で身を固めた雲雀に追いつかれるのもまた、必然だった。
 伸びた腕が綱吉の肘を捕まえる。ぐっと引っ張られ、前に出ようとしていた脚はそのままに、上半身だけが後ろ向きに傾いた。
「うあっ」
 両手が宙を泳ぎ、虚空を引っ掻き回す。すんでのところで踏み止まろうと足掻き、払い除けようと腰を捻った彼だけれど、叩き込む前に裏拳は封じられ、バランスを崩した身体は呆気ないほど簡単に拘束された。
 背中に回った腕が綱吉の紺のベストを掻き毟る。踵が浮いて、右の上履きが地面に落ちた。
「う――ンっ」
 強引な遣り方で体を反転させられ、捩られた肩が痛い。変な方向に肘が向き、苦痛を訴えて文句を口走ろうとした彼は、直後降って来た影に驚いて恐怖に身を竦ませた。
 ぶつかる、と咄嗟に瞼を閉じて衝撃に備える。けれど落ちてきたのは予想と異なる、柔らかな熱だった。
 唇を押し潰し、啄んで直ぐに離れていく。くちづけられたと知ったのは、雲雀が顔を離し、無理のある体勢になっていた綱吉の一部を解放してからだった。
 半回転した腕が本来の形に戻り、痙攣した指が乾いた空気を握りしめる。白い靴下で地表を擦った綱吉は、冷たい感触に驚いてから肩で息をした。
 逃げられないよう背を拘束されて、腰を引き寄せて下半身をくっつけあう格好になっていた。お互いが呼吸する鳴動が直接伝わってきて、いつの間にかタイミングが重なり合うようになり、綱吉は呆然と、自分の身に起きた出来事を頭の中で繰り返した。
 ランボを探して校舎裏を歩いていたら、偶々不良グループの喧嘩後の現場に出くわした。咄嗟に逃げて、追いつかれて、捕まった。
 そしてまた、雲雀の腕に抱かれている。嵐の日、自らが縋った腕に、今度は無理矢理閉じ込められている。
 一瞬で触れて離れた唇は、あの時だけなら事故で終わらせられたはずだ。だのに雲雀は綱吉から二度目を奪い、三度目まで。
「は……放して!」
 どうして。
 どうして自分なのか。
 我に返った綱吉は裏返った声で叫び、自由が利く右手を振り上げて雲雀の肩を強く押した。背中に回っている彼の腕を解こうとして、肘を真っ直ぐに伸ばして肩を突っ張らせ、つっかえ棒にして身を仰け反らせる。
 左肩はさっき捻られた時に関節が外れたか、力が入らなかった。だらんとぶら下がり、動く度に前後左右に頼りなく揺れ動いた。
 懸命の反撃に、雲雀が顔を顰める。奥歯を噛んだ彼は、じたばた暴れる綱吉を片腕で押さえ込み、何故か綱吉以上に辛そうな顔をして人を睨みつけた。
 そんな顔をするのはずるい。痛い思いをして、苦しい気持ちを抱えて、行き場のない感情を持て余しているのは、自分だって同じなのに。
 不意に浮かんだ涙を堪え、鼻を鳴らした綱吉が大きくかぶりを振った。雲雀を突っぱねきれないのなら、別の手段を講じるまで。力で対抗しても敵わない相手だとは分かっている、だから綱吉は広げていた指を丸め、爪を立てた。
「はなし、て。放せ!」
 力任せに叫んで、彼は高く掲げた手を雲雀の顔面目掛けて振り下ろした。
「――っ」
 指先にザリッという、あまり気持ちの良いものではない感触が伝わり、目の前の存在が息を呑む気配がした。背を束縛していた力が緩み、真下に落とした腕ごと後ろによろめいた綱吉は、咄嗟に閉じた瞼を持ち上げて恐々前方を窺い、身を戦慄かせた。
 爪の間に雲雀の皮膚組織が残っている感じがする。実際肌を抉ったのは中指一本分だけで、後は引っ掻いた痕の蚯蚓腫れが走っているだけだったが、それでも赤い筋が三本、くっきりと雲雀の頬に残っているのは、綱吉にとって衝撃だった。
 真ん中の筋の色が一番濃くて、部分的に血が滲んでいた。細い筋を割り、液体がじわりと溢れ出す様をつぶさに見詰め、彼は唖然とし、瞬きを忘れて痛そうに顔を歪めた雲雀に声を失った。
 唇が震え、心が冷えていく。ガチガチと歯が鳴って、傷口をなぞった雲雀の視線が己に向くのが、なによりも恐ろしくてならなかった。
「つっ……」
 本人は呟くつもりなど無かったが、赤い血を拭った瞬間に痛みは深まり、雲雀は声を潰し損ねて小さく舌打ちした。
 出血はごく微量で、傷も浅い。じんじんと痺れるような痛みが熱を伴って襲ってきたが、我慢出来ないほどのものではなかった。
 だが綱吉は自分がしでかした事に酷く動揺して、彼を引っ掻いた手を丸めて胸に抱え込んだ。その瞬間が忘れられないのか、指先は絶えず空気を掻いて潰し、蠢いていた。
 肩を上下させて息を吐き、雲雀が冷めた目を綱吉に流す。左を向いた彼は青紫の唇を小刻みに震わせ、時折浅く噛んでは舌で舐めた。
 早く何かを言わなければ。謝るのだ、傷つけるつもりはなかったのだと弁解すれば、ひょっとしたら雲雀は見逃してくれるかもしれない。いや、だけれど。
「ひっ、ヒバリさん、がっ、わ、悪いんです!」
 逃げたのは確かに失礼だったかもしれない。だけれど、身の危険を感じたのは本当だし、あんな場面に出くわして、冷静で居られる方がよっぽど神経が可笑しい。無視をしてランボを探し続けるなんて綱吉には無理な話だったし、あそこは逃げるのが正解だったと今でも思う。
 雲雀が追いかけてくる可能性は考えていなかった。
「僕が?」
 低く冷たい声が発せられる。綱吉はビクリと肩を震わせ、益々小さくなって背中を丸めた。
 靴下が汚れるのも構わずに地面を削り、後ろへと下がる。距離を広げようとしての行動だが、雲雀はその努力をあっさりと打ち消した。
 大股に踏み込んでこられて、暗い視界に彼の爪先を見た綱吉は顔を上げた。怯え切った小動物の瞳に、怜悧に澄んだ肉食獣の姿が大きく映し出される。
「僕が、どうして?」
 呼び止めて、それで止まってくれなかったから捕まえただけだ。今この場には、雲雀の行動を見咎める存在も、彼らを邪魔する無粋な視線も存在していない。好きなように雲雀は動ける、だから綱吉を追いかけた。
 琥珀の輝きが自分にだけ向けばそれで満足だったのに、歯車がかみ合わない。引っかかれた傷は熱を強め、雲雀の苛立ちを募らせる。
 綱吉は牙を剥いて睨みを強める彼に萎縮し、大粒の瞳に涙を浮かべて首を振った。また下を向いて、真下へピンと伸ばした腕に力を込めて拳を作る。殴りかかりはしない、ただやり場の無い感情をそうやって押し殺すだけ。
「じゃあ……じゃあ、なんで。なんで、あんな」
 ついに堪えきれなくなった涙が頬を伝い、赤く色付いた肌を流れて行った。雫が辿った跡は微かに艶を帯び、色を強めて雲雀の前に現れる。
 息を呑んだ彼をそこに置き、綱吉は嗚咽を堪えて両手で虚空を叩いた。
「なんで、俺にあんなことするんですか!」
 新しい涙を目尻に浮かべ、腹の底から声を出して彼は怒鳴った。
 勢いに気圧され、雲雀が瞳に宿した剣呑な色を強める。あんなこと、と彼が指す内容を脳裏に思い描き、不愉快だと言わんばかりの表情をして下唇を噛んだ。
「あんなこと?」
「あん、な……の、だって、あれは好きな人とすることじゃないんですか!」
 テレビや映画で見るキスは、大概が恋人同士の甘い雰囲気の中で交わされている。好きあって、心通い合わせた間柄のふたりが、お互いの気持ちを確かめ合う為にするものだ。
 だけれど、自分たちのそれは違う。一方的で強引で、無理矢理の形で繰り返されて。しかも相手は同性で。
 最悪だ。綱吉は心の中で雲雀を罵り、どこか惚けている彼を思い切りねめつけた。
 堰を切ったかのように、言葉が溢れて止まらない。どこでブレーキを踏めば良いのかも分からず、綱吉は息が苦しくなるのも無視して、ずっと胸の中に沈殿していたものをまとめて吐き出した。
「俺を、俺のこと、からかって楽しいですか。俺が、どんな気持ちになったか考えたことありますか。俺が馬鹿みたいに慌てるの見て、いいように振り回されてるのを見て、面白かったですか。ふざけるのもいい加減にしてください、俺はヒバリさんの玩具じゃない!」
 自分の胸を思い切り叩き、綱吉は僅かに身を乗り出して雲雀との距離を詰めた。呆気に取られている彼に勢いのままに畳みかけ、反論を挟む余地を与えず、一気にまくし立てて次の涙を頬に落とす。
「なんで俺なんですか、俺がそんなに嫌いですか。俺で遊んで、慌てふためくの見て笑ってたんでしょ。俺がどんなに……どんなに苦しかったか知らないくせに。痛いんですよ、もういやなんです。ヒバリさんの所為で、俺はどんどん変になっていく。こんなの、俺じゃない。返して。返してください、俺の……俺の気持ち、返してください!」
 雲雀の前に立つと冷静でいられない。雲雀の姿を見つけると動けなくなる。雲雀の夢ばかりを見る。雲雀のことばかり考えてしまう。
 雲雀と交わしたキスが消えない。
 こんな自分は自分じゃない。
 こんなのは嫌だ、と。
 彼はずっと黙って聞いていた。綱吉が思いの丈をぶちまけて、続ける言葉を失って荒く肩を上下させて黙るのを待ち、引っ掻かれて出来た傷に手の甲を重ね、消えかけていた痛みを敢えて呼び戻す。
 濡れた手の甲に引きずられ、滲み出た血は傷口から大きく外れて彼の頬全体を赤く染めた。
「先に仕掛けたのは君だよ」
「っ!」
 抑揚に欠ける平坦な声。吐き捨てられた一言に綱吉はぐっと息を呑み、表情を引きつらせた。
 綱吉が興奮すればするほど、雲雀の心は冷えていく。感情が遠退いていく。
「あれは、その、だってあれは、事故で。俺はそんな、そんなつもりは、全然」
「無かった?」
 言葉尻を取られ、綱吉は横を向いた。雲雀の手が伸びて、顎に触れようと指が動く。彼はそれを払い除けたが、直ぐに戻って来て、二度目は逆らえなかった。
 正面を向かされ、視線が合わさる。物憂げな黒水晶の瞳が綱吉を見下ろし、潤んで艶を帯びた琥珀の瞳が雲雀を見上げた。怯えを含む彩に見入り、彼の指は綱吉の唇すぐ下をなぞった。左右に往復して、もう一段階力を入れて上向かされる。
 くちづけられるかと咄嗟に身構えた綱吉だったが、雲雀は近付いてこなかった。
「う……」
 ただ爪先立ちを強いられ、姿勢が苦しい。涙目で凄んでも雲雀は淡々としたままで、解放してくれる気配は微塵も無かった。
「触ってみたかっただけだよ」
 ふと、雲雀が言った。
 彼の親指が綱吉の唇を縦に塞ぐ。隆起する桜色の感触を、まるで観察するかの如くゆっくりと撫でて通り過ぎて行った。
 言われた内容を即座に理解出来ず、綱吉は呆然と立ち尽くした。
「触って、確かめたかっただけだよ」
 それ以外、深い意味は無い。繰り返された言葉は、雲雀にとって真理だった。
 そして綱吉にとっては、自分でも驚くほどにショックを受ける言葉だった。
「それ、だけ……?」
「なに」
「そんな理由で、俺に?」
 あの日以降、綱吉は眠りが浅くなった。ひとりで居ても、誰かと居ても落ち着かず、学校に通っている間は特に気が休まらなかった。
 雲雀を思うと胸が苦しくて、彼に悩まされる自分が嫌だった。痛いのだ、心が。
 だのに彼は、興味本位だったと言った。自分は実験材料だったと聞かされて、冷静なままでいられるわけがない。
「そんなの……酷いよ。それって、じゃあ、俺じゃなくても良かったって事じゃないか!」
 彼の行動理念を読み解こうとした綱吉は、可能性を幾つか考えていた。そのうちのひとつには、確かに、全部雲雀の気まぐれで意味など無いという結論も含まれていた。
 ただ階段での仕草が、その憶測を忘れさせた。一番あり得ないと思われた、雲雀の自分に対する好意が上位に押し出されたばかりだというのに。
 崖からどん底に突き落とされた気分で、綱吉は鼻を啜り、溢れる涙をボロボロと零した。
「最低だ。最悪だ。なんで俺なんだよ、なんで……こんなの酷いよ!」
「!」
 声を荒げ、綱吉は雲雀の手を叩き落した。力加減が成されない暴力に彼は顔を顰め、反射的に殴り返そうと動いた腕を寸前で止めた。
 懸命に涙を堪え、それでも溢れて止まらない透明な雫で頬を、顔中をぐしゃぐしゃに濡らし、歪ませ、綱吉はしゃくりをあげて唇を噛み締めた。
 強く雲雀を睨む瞳には、憎しみに似た炎が宿っている。燃え滾るその熱量に圧倒されて、雲雀は言葉を失い、息を呑んだ。
「俺のこと振り回して、俺が、俺がどんなっ……」
 少しは自分の事を好いてくれているのかと、自惚れに似た感情を抱きさえした。木っ端微塵に砕かれた心が、棘となって綱吉に、雲雀にさえ飛び散り、突き刺さる。
 痛い。
 痛くてたまらない。
「……らい……」
 両腕を交差させて顔を隠し、綱吉は鼻を鳴らした。息が詰まる中、搾り出した声が雲雀の胸をを打つ。
「きらい……きらい。ヒバリさんなんか、だいっきらい!」
 こんな風に泣いている自分が嫌だ。雲雀の言葉にショックを受けている自分も嫌だ。
 それなのに涙は後から、あとから溢れて止まらない。
 自分で自分の制御が利かない。
 苦しい。
 切ない。
 哀しい。
 自分を苦しめる雲雀が嫌い。自分をこんなに弱い人間に作り変えてしまった雲雀が、憎らしい。
 力の限り叫んだ綱吉に、雲雀は瞠目して立ち尽くした。
 渾身の力で突き飛ばし、彼がよろけるのを尻目に綱吉は走り出した。転がしていた自分の上履きを拾い、履かずに手に持ったまま、校舎裏からあっという間に姿を消してしまう。
 今までの長くも短い彼の人生の中で、一番足が速い瞬間だった。
 呆然とする雲雀が顔を上げる事も出来ず、誰も居なくなった空間を見詰めていた事実も知らない。綱吉はまだ止まらない涙に袖を押し当てて拭い、赤い顔を伏して、彼から逃げた。
 悔しかった。ただ哀しかった。
 ずっと解らないで悶々としていた答えを、本人から直接もらえたのに、予想通りのその内容に傷ついている。突きつけられた雲雀の本音が、綱吉をより一層苦しめる。
 スピーカーからは昼休みの終了を告げるチャイムが高らかと鳴り響いて、校舎内に戻った綱吉は息を切らし、人の少ない廊下に奥歯を噛んだ。
 こんな顔と精神状態では、とてもではないが教室に戻れない。獄寺や山本も心配するだろうし、いきなり予告もなく溢れる涙は、自分の意思で止めることさえ困難を極めた。
 どうしよう。肩で息をした綱吉は迷い、偶々目に付いたプレートに喉を引きつらせた。
 保健室の文字を見た瞬間、ひっく、と呼吸が詰まって、ぼろぼろと零れた涙に彼は視界を濁らせた。
 泥だらけの靴下が、一歩進むたびに廊下に張り付いて気持ちが悪い。足取りは非常に重く、さっきまでの全速力が嘘のようだった。
 ノックをすればのんびりとした返事が聞こえて来て、綱吉は左手でドアを横にスライドさせ、白一色の室内に顔を歪ませた。奥の机に座っていたシャマルが、咥え煙草のまま椅子を軋ませ振り返る。
 大泣きしている綱吉の姿に、彼はその煙草を落としかけ、慌てて灰皿に押し込んだ。
「なっ。おい、どうしたんだ、小僧」
「シャマル……」
 よれよれの白衣を揺らし、椅子から立ち上がったシャマルが小さな目を大きくし、驚きを露にして綱吉に歩み寄った。知った顔を見て安堵を覚えた綱吉もまた、よろよろと汚れた靴下で前に出て、伸びてくる彼の腕を避けて煙草の匂いが染みこんだ胸元に自分から飛び込んで行った。
 白衣の皺を握り締め、冷たいネクタイピンに額を押し当ててぐっと息を止める。だけれど我慢できなくて、彼は鼻を膨らませ、瞼を閉ざし、睫を濡らして、嗚咽を漏らした。
 堰を切り、声が溢れ出す。
 静寂に包まれた保健室に、校舎の一角に、綱吉の大きな鳴き声がこだまする。
 何が起きたのかさっぱり解らないシャマルは、兎も角彼を落ち着かせようと自分に縋りつく小さな存在の背を撫で、ごつごつした太い指で綱吉の頭を支えた。髪の毛を掻き回し、優しい仕草で苦しくない程度に抱き締める。
 あの日の雲雀と、やっている事は殆ど同じだ。だのに彼の時のように、胸が張り裂けそうな動悸は起こらなかった。
「うっ、うぁ、うあああぁぁぁ……!!」
 声にならない叫びを繰り返し、綱吉は白衣が濡れて灰色になるまで泣き続けた。
 雲雀を嫌いだと言った。形だけなら、綱吉が雲雀を振ったことになる筈だった。
 それなのに、これではまるで、綱吉が雲雀に想いを拒絶されたに等しかった。

2008/11/07 脱稿