恋花・萌芽

 くしゅん。
 鼻の奥にむず痒さを感じた瞬間、綱吉は右手を掲げて口の前を塞いだ。肩を窄め、首を前に倒す最中に小さなくしゃみをひとつ零す。
 掌を濡らした唾液を制服のズボンにこすり付けて深呼吸していたら、晴れ渡った秋空の中に浮かぶ羊雲が見えた。
「十代目、まだお休みになられた方が」
 隣を行く獄寺が心配そうな声を出し、前屈みに下から人の顔を覗きこんでくる。銀色の髪の毛が柔らかな日差しの中でキラキラ輝き、眩しさに苦笑して綱吉は首を振った。
 平気だと主張するが、体調の悪さは否めない。獄寺もそれを分かっているから、さっきから何度も同じ台詞を口にするのだ。
 嵐に襲われた放課後、傘も差さずにびしょ濡れで学校から帰って来た綱吉は、当然の如く風邪を引き、高熱を出して二日間も寝込んでしまった。リボーンやビアンキには「馬鹿でも風邪を引く」と散々からかわれたが、頭はボーっとするし、体は重いし、喉や関節のあちこちが痛いしで、綱吉はろくすっぽ反論できなかった。
 あの日は土砂降りの豪雨で、傘はあっても殆ど役に立たなかった。けれど、だからといって敢えて使わずに突っ走り、濡れ鼠になる必要も無かったのではないか。そう言って看病してくれた奈々にもこっぴどく叱られたが、熱のある頭に吸収できたかどうかは甚だ疑問だ。
 たっぷり二日をベッドの上で過ごし、三日目の朝にようやく熱は引いた。
 大事を取って今日も休むべきではないかと奈々も言ってくれたのだが、あまり長期間休むとだらけるから駄目だ、と自称敏腕家庭教師のリボーンに尻を蹴られ、綱吉は渋々制服に袖を通した。本当は学校に行きたくなかったのだが、彼には逆らえないので、諦めるしかない。
 迎えに来た獄寺に伴われ、若干千鳥足気味に道を行く。陽射しは温かく、数日前のあの大雨がまるで嘘のようだ。
「……」
 無意識に唇を掻き、直射日光を避けて俯いた綱吉は、まだ心配そうにしている獄寺に、もう一度大丈夫だと力なく告げて首を振った。
 あの日。綱吉が居残りで特別補習を受けていた夕方。
 豪雨と共に現れた大音響の雷に驚いた綱吉は、偶々其処に居た雲雀に無我夢中で抱きついた。中学校からかなり近い場所に落ちたと分かる凄まじさに、我を忘れて彼に縋った。
 勢い余り、雲雀を押し倒すような形になったのはわざとではない。恐怖に竦んで、この恐ろしい落雷の恐怖から逃れるのに必死だったから、相手が誰であるのかもまるで考えなかった。
 彼に庇われた――ようにも思う、今振り返ってみれば。彼の反射神経なら、綱吉を即座に跳ね除けるなり、投げ飛ばすなり出来ただろうに。
 それが、人の下敷きになるのを甘んじて許容し、あまつさえ震えて小さくなる綱吉を宥めるかの如く抱き締め返してくれた。優しく背中を、頭を撫でた手は大きかった。
 重ねあった胸から伝わる鼓動は、温かかった。
「っ!」
 思い出し、綱吉はボッと顔から火が出る勢いで頬を赤く染めた。また右手が唇を掻き毟り、乾燥した皮膚がチリリと痛む。
 掠めたような気がするのだ、此処に。
 柔らかなものが、一瞬だけ。
 けれど綱吉は、その時にはもう硬く目を閉じて何も見えなかったし、雲雀も何も言わなかった。
 鼻の頭、顎、頬、もしかしたら瞼。綱吉が想像するのとは異なる場所に触れたのだ、きっと。だからこれは自分の勝手な思い込みで、気のせい。それに、やろうとして狙ったわけではない。言うなればあれは、不幸な事故だ。
「事故だ、うん」
「十代目?」
 心の中のみならず、声にまで出して頷いた綱吉に、傍らの獄寺が怪訝な目を向けた。
「ん? なんでもない」
 事の仔細を彼に話すわけにもいかず、綱吉は自分に言い聞かせるようにして答えてはにかんだ。
 柔らかな笑顔に獄寺は簡単に誤魔化され、つられてへらりと締まりの無い顔で笑い返す。目尻を下げた彼と並んで足を進め、綱吉は秋の気配が色濃く感じられるようになった通学路を急いだ。
 起床が早かった分、遅刻の心配が無い時間に正門を潜った綱吉は、久方ぶりに顔を合わせたクラスメイトからも、馬鹿なのに風邪かと一斉にからかわれた。
 揶揄する声はあちこちから飛んで、その度に何故か獄寺がいきり立って拳を振り上げる。もっとも、言っている側も茶化しているだけで本気で無いと分かっているので、彼が暴力行為に訴え出ることもない。
 綱吉は三日ぶりの自席に鞄を下ろし、机がきちんと黒板に向いて真っ直ぐ並べられているのに複雑な顔をした。
 椅子を引いて、座ろうとして一瞬躊躇する。また勝手に右手が唇を撫でて、ハッとした彼は慌てて脳裏に蘇った光景を追い払った。
 真っ暗闇の中、雲雀に圧し掛かる形で彼にしがみつき、また抱き締められた。思いの外優しい手つきと直接響いてくる彼の心音が安心感を呼び起こし、雷が遠ざかって小さくなる頃には、綱吉はかなり落ち着いていた。
 だからこそ余計に、居た堪れない気持ちになる。
 ブレーカーが復活し、教室の蛍光灯が細かな明滅の末に灯された時、真下にいた雲雀がどんな顔をしていたか。
 どうしてだか、思い出せない。
 状況に驚いた綱吉は、上半身を起こして呆然と下敷きになっている雲雀を見た。雲雀も、人を両側から支えるようにして腰に手を添えて、斜め上に居る綱吉を見上げていたはずだ。
 奇妙な光景だったと、後から考えてもそれしか感想が出てこない。
 あの天下無敵の暴君に抱きつき、押し倒し、のし掛かって潰した挙げ句、直ぐに退きもせず上に座ったまま見下ろすなんて。
 リボーンに死ぬ気弾を撃たれて彼の頭をスリッパで叩いたのと、負けず劣らずの無礼を働いていたと自覚している。けれど彼は、何故か反撃してこなかった。
 綱吉が呆然としていたように、雲雀も些か自分に驚いて唖然としている様子だった。下に落とした両手は雲雀のベストの端を握り締めていて、指の形に凹んだそれは引っ張られた分だけ布地が伸びていた。
 下に着込んでいる白のシャツさえ巻き込んで、強張って硬く握られた指は、綱吉が感じた恐怖の大きさを物語っていた。
 丸めた状態で固まってしまい、簡単に元に戻らない自分の手にハッと我に返った綱吉の前で、腰回りにあった雲雀の左手がふらりと泳いだ。
 喧嘩で作ったのだろう、怪我の痕がうっすら残る指が伸びてくる。長い、細い、しなやかな。
 何をするでもなく左右に漂い、綱吉の瞳がその動きを追う。口から吐いた息が彼の肌を擽り、触れた呼気に指先はヒクリと痙攣した。
 降りてくる、真っ直ぐに。
 明らかに触れようという意図を持って。
 唇に――
「はよーっす、ツナ」
「ふぎゃっ」
 止めようにも消えない邂逅に、綱吉は唇を添えた指ごと舐めた。吐息が濡れた皮膚に絡み、なかなか感触が消えない。
 生々しい記憶にぼうっと頬を赤めていた綱吉を現実に引き戻したのは、後ろから背中を思い切り叩いた山本だった。いつも通りの明るい声で、綱吉が登校して来たのを純粋に喜んでいる。
 だが他に意識を向けていた綱吉は、背骨へ平手打ちを食らわされ、前のめりに倒れて咳込んだ。
「あ、あれ?」
「こらっ、山本。テメー、十代目は病み上がりなんだぞ」
 呆気なく撃沈した綱吉の苦しそうな咳に、手加減したつもりでいた山本は右腕を振り抜いた姿勢で停止する。目を丸くしてきょとんとしていたら、すかさず一部始終を見ていた獄寺が怒声を上げ、平素から見られる賑やかな光景が教室に展開した。
 心臓の辺りを撫でて己を宥めた綱吉は、自然と浮いた涙を目尻に残したまま、中腰の姿勢を崩して椅子に雪崩れ込んだ。頭上で展開している騒々しい口論に肩を落とし、まだ残っていた息苦しさを飲み込んで全身の力を抜く。
 背凭れに体重を預け、あの日とまるで変わっていない天井を仰いだ。
「悪い、わりぃ。ツナ、大丈夫か?」
「十代目、なんでしたら今から保健室にでも」
 肩を上下させて呼吸を整えている綱吉を見て、諍いを中断させたふたりから同時に声をかけられた。
 左右から響くステレオに、苦笑が漏れる。驚いて噎せただけだから、大騒ぎするようなことではない。丸めた拳の背で唇を拭った綱吉は、交互にふたりに視線を投げて、最後に黒板正面上にある丸時計を見た。
 タイミング良く予鈴がスピーカーから響いてくる。登校してきていた生徒も一斉に顔を上げ、先生が来る前に自分の席へ戻るべく動き出した。
「ほら、ふたりとも。授業始まるよ」
 いつまでも自分の周りに居ないで、ちゃんと席に着いて授業を受けよう。そう早口にまくし立てた綱吉に従い、ふたりは各々に宛がわれた机に歩いていった。
 大人しく着席したふたりに胸を撫で下ろし、綱吉は椅子の天板を掴んで体の向きを正面に直した。自分も早く筆記用具などを鞄から取り出し、授業の開始に備えなければ。
「あ」
 ファスナーを開き、弁当以外の荷物を取り出して一旦机の上に。邪魔になる鞄を横のホックに引っ掛けた綱吉は、端を揃えたノート類を机の引き出しに移し変えようとして、先頭が異物に引っかかったのを感じて手を止めた。
 何か入っている。怪訝に眉を顰めた綱吉は、取り出そうと邪魔になるそれに手を伸ばした。
 休んでいる間に配られたプリント類は、獄寺がまとめて届けてくれていた。だが、漏れがあったのかもしれない。
 しかし出てきたのは、予想に反し一冊のノートだった。丸められ、捻じ込まれていたそれは、綱吉に顔を見せた瞬間、捩れを振り解いて幅を広げた。
「……俺のだ」
 両端に少し癖が残っているそれは、間違いなく綱吉の所持品だった。それもあの日に、紛失したとばかり思っていたものだ。
 雲雀の手が顔の前を泳ぎ、綱吉の呼気に触れて停止した瞬間、破裂しそうなくらいに心臓が音を立てて襲いかかってきた。身体中で熱が暴走して、羞恥に心が悲鳴をあげる。咄嗟に後ろに仰け反った綱吉は、転がるようにして体を反転させて雲雀の上から退き、落ちていた鞄と目に付いた筆記用具を拾い上げて教室を駆け出した。
 どうしてだか解らない。兎に角雲雀に自分の顔を見られるのが嫌で、雲雀の顔を見ることも出来なかった。
 一秒でも早くこの場から逃げ出したい。その一心で、薄暗い廊下を校則無視で走り抜ける。廊下に響き渡っているのは自分の足音だけなのに、雲雀が後ろから追いかけてきている気がして、振り向くことさえ出来なかった。
 階段を駆け下り、角を曲がって玄関を目指す。薄明かりに照らされた下駄箱が見えたところでホッと一息ついた綱吉は、同時に耳に復活した雨音に顔を青褪めさせた。
 鞄は胸に抱いているものの、傘を持ってくるのを忘れた。あれは教室前にある傘立てに置いてあるので、取りに戻るという事は即ち、逃げてきたばかりの雲雀と顔を合わせる可能性が非常に高いということだ。
 あんな風に飛び出しておいて、すごすご戻るのは気が引ける。なにより、この状況で彼と向き合う勇気が無かった。
 だから仕方なく、綱吉は鞄を頭に掲げて家に帰った。そんなものであの横殴りの豪雨を防ぎきれるわけもなく、結局ずぶ濡れになって体を冷やし、風邪を引いてしまった。
 つまり今回の病欠は、雲雀の所為だ。しかしもとを正せば、補習で居残りをさせられていた自分が悪い。
 家で寝込んでいる間、彼からの接触は一切無かった。当然だろう、自分たちの関係は、同じ中学に通う先輩と後輩という間柄でしかない。
 一応次に会った時にはお礼を言った方が良さそうだが、なんと切り出すべきだろう。わざわざこちらから出向くのも、微妙に気まずい。
 唇を爪で掻き、綱吉は膝に落ちたノートに見入った。獄寺は一昨日に、机の中に残っていたものもまとめて全部持ってきてくれたから、これはその後で押し込められていたことになる。失くした状況やぶっきらぼうな突っ込み方からして、犯人はひとりしか思いつかない。
「ヒバリさん……?」
 ただ確信には至らず、小声で呟くにも疑問符がつきまとう。こんな真似をするなんて、雲雀らしくないと感じたからだ。
 テキスト類を引き出しに入れて、ノートを両手で握る。恐る恐るページを捲っても、自分の汚い字が隙間多く並んでいるだけで、特別変わったところは見受けられなかった。
 しかし、
「ん」
 違和感を覚える箇所を見つけ、綱吉は手を止めた。
 広げる。頭上で本鈴のチャイムが鳴ったが、綱吉はまるで気付かなかった。
 印刷された罫線と、綱吉の汗の跡が薄ら残る白い紙。紛れもなくあの日、綱吉が突っ伏していたページの隅っこに、綱吉のものではない綺麗な字が並んでいた。
 全体的に丸みを帯びて、画数の多い漢字になればなる程字が大きくなっていく綱吉とは異なる、几帳面さを感じさせる、右肩上がりの角張った文字。
 均整の取れた漢字に対し、平仮名は若干崩れ気味。シャープペンシルではなくボールペンで書かれた文面を撫で、綱吉は息を呑んだ。
「勉強、ちゃんと、しな、よ……」
 耳に痛い忠告を読み上げて、ぐっと喉に力を込める。じんわりと胸の中に広がった熱は、きっと風邪の余波に違いない。顔が赤く染まり、鼻が詰まって呼吸が苦しく、口で息をしなければならないのだって。
 肩を上下に揺らし、綱吉は咥内に溢れた唾液を飲み込んで唇を閉ざした。前歯で噛んだ下唇は、表面の皮が捲れかかっている所為でひりひりと痛んだ。
 左から右へ、利き手の人差し指をずらしていく。下から現れ出る文字は、インクが繊維に染み込んでしまっているので、軽く擦る程度では消えたりはしない。
 どういう気まぐれが彼に働いたのだろう。雲雀にとって綱吉は、彼が最も嫌う、群れ成す弱い人間だというのに。
 胸の中がざわめく。目に見えない質量が腹の奥底から迫ってきて、わけもなく叫びだしたくなった綱吉は、必死に唇を引き結んで衝動を堪えた。
「起立」
 いつの間にか一時間目担当の教師が教卓の前に立っていて、日直の号令が高らかと響き渡った。
 動悸に喘いでいた綱吉もハッとして、急ぎノートを閉じて引き出しの中に押し込む。ガタガタとひとりだけワンテンポ遅れて立ち上がったが、椅子が足に絡んで危うく転ぶところだった。
 庇って受け止めてくれる人は、此処には居ない。
 クラスメイトの忍び笑いが聞こえてくる。けれど綱吉は違う理由から下を向き、礼が出来ぬまま椅子に座り直した。
 まだ本調子に戻るには程遠い自覚はある。三十八度近くあった熱が下がったとはいえ、喉の痛みはまだ続いているし、体のだるさも完全に消えたわけではない。
「ツナ君、大丈夫?」
 午後ひとつめの授業を終えたところで精根尽き果て、机に寄りかかった綱吉に声をかけたのは京子だった。
 山本は同じクラスの野球部の面子と雑談に興じており、獄寺は食後の昼寝の真っ最中。授業を受けずとも試験で好成績を修められる彼だからこそ許される所業に、羨ましいと苦笑した綱吉は、心配そうに眉根を寄せる彼女にも同じ表情を向けた。
 心遣いはとてもありがたくて、それだけでほんわかと胸が温かくなった。
 リボーンが家にやって来る以前は、こうやって親しく会話を交わすどころか、挨拶をするのさえ不可能に近かった憧れの存在が、今では当たり前のように自分の身を案じてくれている。これほど嬉しいことは無い。
 肘から先を机に張り付け、姿勢はやや前屈みに。京子が近くに来てくれたお陰で、沈殿していた気持ちも少し浮上した。
「大丈夫だよ。あと一時間だし」
 病み上がりで疲れたのは事実だが、ここまで来た以上意地でも最後まで授業を受けるつもりだった。
 不安要素だった補習は、綱吉本人の体調不良の影響で当面中止と決まった。再開時期は未定で、少し今までと遣り方を変えるようなことも先生は口にしていたが、具体的にどう変わるかはまだ解らない。
 右手を軽く顔の前で振り、重苦しくなりがちの空気を攪拌して追い払う。その仕上げに人差し指が上を向いて、乾燥してカサついた唇をなぞった。
 細かく罅割れた表皮に、指紋の溝が引っかかる。ちりっと焼けるような痛みはもう何度も経験していて、慣れてしまったのかあまり気にならなかった。
 けれど美容に敏感な女の子だけあって、目敏く綱吉の行動に気付いた京子は、瞬時に険しい顔つきを作って身を乗り出した。両手を机に叩きつけ、バシン、と音を響かせる。
「ツナ君、その唇どうしたの?」
 肘を外に広げて椅子の上で慄いた綱吉に、早口で問いかける。口調もまた厳しい。
 真剣な眼差しを向けられて、綱吉は弾みで横にずれた自分の指を最初に見た。握っていた残る四本の指を広げて、掌を下にして机に載せる。入れ替わりに持ち上げた左手で自分の顔を指差せば、彼女は力強い目つきで深く頷いた。
 どうしたと聞かれても、返答に困る。どうにもこの数日――あの日からなのだが、無意識に触る癖がついてしまったらしく、気がつけば指が其処を弄っていた。
 原因は、言うまでも無い。雲雀のどこかに触れたそこを、意識しないところで意識してしまっている。だから触ってしまうのだが、それを彼女に赤裸々に報告するのは恥かしくて無理だ。
 此処は教室であり、休憩時間とはいえのんびりと自席で過ごしている生徒も多い。誰に聞かれるか分かったものではなく、そもそも相手が相手だけに、気軽に言える内容でもない。
「なにもないよ?」
「うそ」
 下手な誤魔化しだと知りつつも、取り繕うように小首を傾げながら言葉を返す。即座に鋭い声が返されて、見抜かれた綱吉はぎくりと肩を震わせた。
 頬が引きつり、笑顔が凍りつく。心の動揺がまともに顔に出た彼だったが、京子はそこには言及せず、もうひとつ机を叩いて騒音をまき散らし、立てた人差し指を人の顔に突きつけて珍しく声を荒げた。
「ツナ君、駄目だよ。唇、切れちゃってる」
 連続した京子の大声に、周囲も何事かと視線を向けてくる。居た堪れない気持ちになった綱吉だが、彼女は構いもせずに怒鳴った。
「はい?」
「痛くない? ちゃんとお手入れしないからだよ」
 目を丸くし、声を裏返した綱吉を無視して、京子は自分の世界に浸っているのか、姿勢を戻すと頻りに自分の言葉に頷いた。腕組みまでして、右手を顎に置いている彼女の迫力に綱吉は呆気に取られ、自分が考えていたものと、彼女が気に留めたものに大きな隔たりがあるのを十秒近くかけてやっと理解した。
 綱吉は唇を触る理由が頭にあったが、彼女は結果荒れてしまった唇そのものに意識を傾けたのだ。理解の齟齬に綱吉は脱力し、肩を落として椅子の背凭れに寄りかかった。
「ツナ君?」
「そっか、そうだねー……」
 もっと別の事を聞かれると思って戦々恐々としていたのに、肩透かしを食らった。乾いた笑いが自然と浮かんで、横隔膜を震わせた綱吉に京子が不思議そうな顔をした。
「うーん、ちょっと痛いかも。そんなに目立つかな」
「血も出てるよ。気付かなかったの?」
 事情が理解出来ると、気が抜けた影響もあって途端饒舌になる。綱吉は頬を掻き、若干困った風に聞き返した。
 即座に京子に言われ、確認するべく触れようとしたら、「駄目!」のひと言が飛んできた。
「触ったら余計に酷くなっちゃう。あ、そうだ。ちょっと待っててね」
 その大声にビクッとして、全身を痙攣させて綱吉は硬直した。反して京子は相変わらずのマイペースぶりで、不意に何かを思い出したかと思うと、両手を叩き合わせて彼に背を向けた。教室内でスキップしながら、自分の席へ戻っていく。
「あんたも大変ね」
「……黒川ほどじゃないと思う」
 いつもニコニコと笑っており、天真爛漫を絵に描いたような京子だが、天然であるが故にそのペースはかなり独特だ。慣れないと容易く振り回されてしまい、気疲れするのは否めない。
 そんな京子の親友を自他共に認める黒川に言われ、綱吉はなにやら鞄をガサゴソやっている少女の背中に苦笑した。
 自分が話題に出ているとも知らず、京子は花柄が可愛らしいポーチを取り出すと、そのまま胸に抱えて戻って来た。
「あのね、これ」
「なに?」
 いそいそとポーチのファスナーを空け、取り出したものを綱吉に見せて笑う。小さな掌に転がっていたのは、まだ梱包されたままのリップクリームだった。
 薄いピンクで色付けされた、細長いスティックタイプ。派手さはないが、可愛らしさは全面に押し出されている。どこからどうみても、女性向けに販売されている代物だ。
 いきなりこれを差し出されて、綱吉はきょとんとして京子を見返した。隣では黒川が呆れ気味に頬杖つき、自分は関係ないとばかりに他所向いている。助け舟を期待するだけ無駄と知り、綱吉はだから何、と目を細めて笑っている彼女の手を指差した。
「これは?」
「リップクリームだよ」
 それは見れば分かる。思わず口に出そうになって慌てて止めて、彼は幾許か表情を引きつらせた。
 だのに、
「唇のお手入れ、大事だよ。口開けた時に痛かったら、美味しいものも美味しくなくなっちゃうもんね」
 自分の顔、口端を指差して言う彼女は真剣そのものだ。
 言わんとしている事は綱吉にだって分かる、ひりひりする痛みは出来れば長くつきあいたいものではない。
 だが、わざわざそれを言うために彼女はこれを持ち出して来たのか。ハルもそうだが、綱吉とはテンポが違う女子の考え方や行動に、彼は頭を抱えた。
「だからね、はい」
「京子ちゃん?」
「あげるね」
 顔を上げた綱吉の前で、屈託なく笑った彼女が、厚紙の台紙を下にして綱吉の机にそれを置いた。どうぞ、と端を押し出されて面食らい、突拍子も無い行動に出た彼女に唖然と口を開いた。
 これは彼女が、自分の為に購入したものではないのか。唇が切れているからといって、死ぬわけではない。ちょっと我慢すれば良いだけで、ここまで彼女に面倒を見てもらう義理は綱吉に無い。
「い、いいよ。そんな」
「だーめ。ツナ君は、病み上がりなんだから」
 それは関係ないように思うが、京子の中では違うのだろうか。ごり押ししてくる彼女の説得に、黒川が腹を抱えて笑いを噛み殺している。思わずムッとして彼女を横目で睨んだ綱吉は、自分と京子の間にある新品のリップクリームに困惑の目を向けた。
 言葉尻を拾って独自に解釈してみせたところ、どうやらこれを使ってしっかり手入れをしろ、という事らしい。余計なお節介という言葉が脳裏に浮かんだが、折角彼女が気を遣ってくれたのだから、有り難く受け止めておくべきなのだろう、多分。
「あ……りがとう。そうだ、お金」
「いいよ。安かったから沢山買っただけだもん」
 腰を浮かせ、鞄の中に幾らか入っていたと記憶を掘り返した綱吉に、京子は笑顔を崩さずに言った。
 無償で頂戴するのは憚られて、綱吉も粘る。だが結局、病み上がりなんだから、という道理に合わない理屈で押し切られ、綱吉は封を破いたスティックを前に沈黙した。
 今すぐ此処で塗れ、と言わんばかりの視線を浴びせられ、自ずと顔は赤くなる。クラスメイトも、事の成り行きに興味津々で、ちらちらと様子を窺っているのが手に取るように分かった。
 離れた場所にいる山本まで、背筋を伸ばしてこちらを眺めている。目が合って白い歯を見せて笑われて、綱吉は針の筵状態に泣きたくなった。
 リップクリームとは言えど、形は口紅のそれに等しい。男である自分がこれを、公衆の面前で唇に塗りたくるというのは、少々どころか、かなり恥かしい行為だ。
 だのに京子は何を勘違いしているのか、わくわく、と期待に胸を膨らませているし、黒川は完全に面白がって傍観に徹している。クラスメイトの大勢もそうだ。獄寺が惰眠を貪っているのが唯一の救いか。
 まさか唇のあかぎれ程度で、こうも注目を集めることになろうとは。これもひとえに、クラスのアイドルたる京子の存在から来るものだろう。
 綱吉も彼女のこの、人を惹き付けて止まない魅力に憧れたわけだが、今に限って言えばはた迷惑極まりない。肩をすぼめて萎縮した彼は、ぷるぷると小動物めいた動きで震え、我慢の臨界点を超えた瞬間に椅子を蹴り倒して立ち上がった。
 授業開始まであと五分も無い。が、その五分が恐ろしいほど長い。
「トイレ、トイレ行って来るね!」
 取ってつけた言い訳を口にし、綱吉は冷や汗で襟を濡らして京子たちと距離を取った。後ろ向きに数歩進み、ぽかんとしている彼女が言葉を発する前に踵を返して駆け出す。右手にはしっかり、まだ蓋を外しもしていないリップクリームを握り締めて。
 こんな場所で恥を晒すのは御免だった。そうでなくとも、綱吉は周囲から色々とからかわれるネタに溢れているのだ。自分から新しい材料を提供してやるほど、彼の心は広くない。
 恥かしさに負けて敵前逃亡しただけでも、充分笑いの種になるのだが、そこには一切考えが及ばなかった。
 綱吉が去った後の教室は、一瞬の静寂の後にドッと湧き上がったのだが、それは彼の知るところではない。兎も角彼は誰も居ない場所、人の来ない場所、とそればかりを頭の中で繰り返していた。
 一年の教室がある階のトイレは、綱吉が所属するA組から程近い。ちゃんと口紅、もといリップクリームを塗ってくるか確かめてやると、余計なお世話を申し出たクラスメイトに囃し立てられ、綱吉は扉に手を掛けたところで泣きそうに顔を歪めた。
「お前らなあ!」
 人で遊ぶなと怒鳴りつけ、彼は地団太を踏み半端に開いていたドアから手を放した。耳の先まで真っ赤に染めて大きな琥珀の瞳を潤ませ、悔しさに気を取られてまた唇を噛んでしまい、歯が触れた箇所から生じた痛みに眉を顰めた。
 散々だ。折角風邪引きでだるい体を押して学校に来たのに、最後の最後でこんなとばっちりが待っていようとは。
 大人しく保健室で休むか、早退すればよかった。意地を張って学校に居残ったことを後悔し、綱吉は騒ぎ立てる級友を睨みつけると、彼らを振り切って階段へ向かった。
 足音を大きく響かせ、踵を潰した上履きで滑り落ちそうになりつつ、下を目指す。
 流石に他所の階まで追いかけてくるつもりはないようで、声は直ぐに聞こえなくなった。だが二年生の階に移動しても気持ちは落ち着かず、常に誰かに見られている気がして綱吉はそこからも逃げた。
 他人の視線を振り払い、人気が無い方向へどんどん進む。もっとも、ただでさえ体力が無い上に病み上がりとあって、息は直ぐに切れて足は鉛のように重くなった。
 ぜいぜいと喘ぎ、痛い喉を慰めて唾を飲む。窓枠のアルミサッシが冷たくて気持ちよく、膝に手を置いて寄りかかって休んでいるうちに、頭上でチャイムが鳴り響いた。
 もう五分経ってしまったのかと視線だけを持ち上げ、どこか他人事のように聞こえるメロディーを心の中で繰り返す。教室に戻らなければ、と汗で湿った肌を拭って身を起こした綱吉は、現在地を確かめようと視線を巡らせた。
 周囲に人の気配は皆無で、シンと静まり返った空気は沈殿して重い。西に傾いた陽射しがガラス越しに廊下を照らしているが、照明は点っていないので全体的に薄暗かった。
 いつの間にか特別教室棟に潜り込んでいたようで、彼は肩で息をしつつ、自分が走った距離を計算して苦笑した。
 握り締めた手が硬く強張っており、なんだと思って反対の手を使って解いていけば、中から出てきたのは京子がくれたリップクリームだ。騒ぎの発端となった優しい色使いの筒に脱力し、どうしたものかと首を振る。
 正直使いたくないが、京子の親切を無碍にも出来ない。授業中の教室であれば何も言われないだろうが、ホームルーム後に問い詰められるのは必至だ。
「参ったな」
 さっき噛んだ時に生じた痛みはまだ消えていない。指で触ってみると、カサついた皮に同じく乾燥した皮膚が引っかかった。
 痛みを大きくしただけで、綱吉は自分の愚考に舌打ちしてスティックを指で弾いた。空中に投げ、くるくると回転しながら落ちてくるところを横から掴み取る。
 巧く行ったことに安堵しつつ、今一度自分のいる場所を見回した彼は、ちょうど斜め向かいにひっそりと、この時間では誰も使っていないはずのトイレがあるのに気がついた。
 教室近くでは、誰かに見付かるかもしれない。けれどここなら、少なくとも近い場所にある特別教室に人気が無いので、大丈夫だろうと決め込む。
 既に荒れている状態で使って効果があるのかは疑問だが、何もしないよりは良い。もう一度慎重に唇を撫でた綱吉は、不意に蘇った指とは異なる感触に顔を赤らめ、頭から追い出そうと百面相しながら首を振った。
「あれは、だから、違うんだって」
 雲雀との接触は事故であって、故意ではない。
 唇同士が触れ合った確証だって、ない。
 そういえば彼はどうしているだろう。振り向いた先、陽射しを反射する応接室の札に目を細め、綱吉は下を向いた。
 これといった用事があるわけでもなし、本人に直接聞いて問いただすのも、自分が意識していると教えるようなものだから嫌だ。顔を合わせないで済むなら、それに越した事は無い。
 第一、どんな顔をすればいい。キスしたかどうかは解らないけれど、彼に抱きつき、抱き締め返されたのは間違いないのに。
 気がつけばまた指が唇に触れている。ハッとした綱吉は見詰める先のドアが開けられる前にと、右足と右手を同時に出してトイレに向かった。
 中は電気が消され、換気扇さえ回っていない。冷たい空気が埋める空間に身を滑らせた彼は、手探りで三つ並んだスイッチを押した。パッと光が点り、同時にヴン、と低い唸り声が前方から流れて来る。
 微かながら空気が循環して生まれる風を感じ取り、篭もっていた臭いが薄れていくのに安堵して、綱吉は左に身体ごと向き直った。そこには銀色の蛇口が等間隔で三つ並び、青緑色をしたタイル張りの洗面台が下で水を受け止めるべく構えていた。
 鏡もまた三つ、蛇口の上に固定されている。全部に濡れ雑巾で拭き、そのままにしたと分かる白っぽい筋が刻み込まれていた。
 手抜き掃除もいいところだが、トイレの鏡を熱心に磨く男子生徒もちょっと想像つかない。自分だって手っ取り早く終わらせようと同じことをするはずで、肩を竦めて笑みを零した彼は、数歩の距離を一息に詰めた。
 洗面台のタイルに両手を置き、鏡を覗き込む。下唇をぐっと前に押し出せば、切れていると言われた箇所は直ぐに見付かった。
 真っ先に目に入るところ、真ん中だ。
「あちゃぁ……」
 見るからに痛そう、というか実際痛いのだが、こんなになるまで放置していた自分の無頓着さに、綱吉は今更ながら呆れた。
 これなら京子が気に留めるのも無理はなく、鏡の中に映る自分の姿に辟易して身を引く。視線は、握り締め続けた所為で温くなっているリップクリームへと向いた。
 これに頼るほか無さそうだ。諦めの境地で溜息を零し、蓋を抓んで外す。隙間なくぎっしり詰め込まれた棒状のそれは、底を捻ることで少しずつ頭を出す仕組みだ。
「こんなもん?」
 あまり出しすぎても塗り難いと考え、先を五ミリ程度覗かせたところで止める。左右に揺らして角度を変えて眺めるが、答をくれる人が居合わせていないので自分で決めるしかない。
 使い方に特別なコツがあるわけでもなし、と妥協して、身を乗り出し鏡に顔を近づける。
 だが、いざ塗ろうと唇に先端を近づけたところで彼の動きは止まった。
「…………」
 なんだかこれでは、気合を入れて口紅を塗ろうとする、ちょっと背伸びをしたい年頃の女の子ではないか。
 頭を過ぎったイメージに、我知らず狼狽して綱吉は瞳を泳がせた。
 違う。そんなつもりは微塵も無い。単に唇がちょっと荒れているだけで、京子の親切心に報いようとしているだけだ。深い意味は無い、間違っても誰かとの何かを期待しているわけでは。
「ああ、もう!」
 蘇った記憶と、浮かび上がった黒髪の青年の姿に綱吉は叫び、片足を持ち上げて床を踏み鳴らした。
 嫌にリアルに見える雲雀の姿が、不愉快に歪められる。
「なにやってるの」
「なんで俺がこんな目に……って、うひゃぁわわぁ!」
 真っ直ぐ綱吉を向いて放たれた言葉に、数秒遅れで反応した彼は素っ頓狂な声をあげ、本当にその場で飛び上がった。
 百八十度体を反転させて腰を洗面台に押し当てる。振り向いた先にも変わらず、涼やかな表情の雲雀が立っていた。
 彼の後ろで、トイレのドアが音もなく閉ざされていく。夢や幻などではなく、正真正銘、本物の雲雀恭弥が其処に居た。
 なんというタイミングであろうか。運の悪さは天下一品と自負している綱吉だけれど、なにもこんな時にまで発揮しなくてもいいのに。神様に恨み言を吐き捨て、綱吉は勝手に赤くなる顔を横向け、じり、と後退した。
 もっとも背後は洗面台と壁なので、それ以上進めるはずも無い。ただ心理的に雲雀から逃げたいのは山々で、じっと見詰めてくる彼の黒々とした瞳を避けて横向いて黙っていたら、彼は綱吉に興味を失ったのか、当初の目的を遂行しようと歩き出した。
 綱吉の前を素通りし、並んでいる縦長の男性用トイレに向かう。奥から二番目を選んだ彼をじっと見送った綱吉は、最後にじろりと厳しい目で睨まれて慌てて顔を逸らした。
 確かに人が小用を済ませようとしているのを、横からじろじろ見るのは礼儀に反する。雲雀が機嫌を損ねるのも道理で、自分は何をやっているのかと火照る顔を撫で、唇を舐めた綱吉は、途端に響いた痛みに首を引っ込めた。
 雲雀とこんな場所でふたりきりという環境は、息苦しい。圧迫感を感じた心臓がやたらと拍動を強めており、落ち着かないとそわそわ膝を捏ねた彼は、さっさと用事を済ませて此処を出ることにして、鏡に向き直った。
 改めて顔を寄せ、薄く開いた唇にリップスティックの先を近づける。僅かに先を覗かせる白色の固形クリームからは、ほんの微かだけれど良い匂いがした。
 舐めたら甘いだろうか。そんな事を想像しつつ、鏡の中の自分に真剣な眼差しを向けた綱吉の脇を、スッと黒いものが流れて行く。
「……」
 硬直し、瞳だけを横向ける。もっとも見て確かめるまでもなく、そこに現れたのは用を済ませた雲雀以外に考えられないわけだが。
 蛇口を捻って水を出し、流れに浸して手を洗う。音ばかりが大きく響いて、綱吉は冷や汗を滲ませながら居た堪れない様子で俯いた。
 まともに顔を見られないし、見られたくない。心拍数は上昇一途で、鼓膜を内側から破りそうなくらいに大きく響き渡っている。出来るものなら今すぐ此処から逃げ出したい、だけれどそれではこの前の繰り返しだし、何より雲雀は変に思うだろう。
 自分ですら、いきなり逃げるのは可笑しいと分かっている。けれど膝が震えて、緊張が綱吉の心を締め上げた。
「塗らないの」
 ポケットからハンカチを取り出した雲雀が、濡れた手を拭きつつ問う。呼吸を止めていた綱吉はその声でハッと我に返り、きつく閉ざした瞼を開いて横を見た。
 綺麗にアイロンがかけられた灰色のハンカチを握った雲雀が、感情の起伏に乏しい目で綱吉を見下ろしていた。
 自分の手には、新品のリップクリーム。
 明らかに塗ろうとしていながら、赤い顔を伏して動かない。これもまた雲雀の目には奇異な光景として映ったはずで、綱吉は喉を震わせてそこまで出かかっていた悲鳴を急ぎ飲み込むと、自分と違って何も感じていない様子の彼に微かな怒りを抱いた。
 ああ、そうだ。この人はこういう人だった。
 自分ばかりが意識させられていたと知り、非常に腹立たしい。そもそも雲雀はとても気まぐれな性格をしており、他人の気持ちにだって無頓着だ。
 憤慨する影で心の一部が傷ついているには気付かず、綱吉は全身を毛羽立てて、やり場の無い怒りを薙ぎ払うと、
「塗ろうとしてたんですよ!」
 苛立ちを隠しもせず声を大にして怒鳴り、ふいっと彼から顔を逸らして鏡を覗き込んだ。
 さっきまであんなにも騒々しかった心臓は静かになり、代わりに雲雀の溜息が聞こえて来た。けれど彼は雑音の一切を無視し、雲雀が横からじっと見詰めている気配も意識の外に放り出し、散々躊躇していたリップスティックを唇に押し当てた。
 線を引くように横へ流し、往復させた後、上唇も同様になぞっていく。傷口に触れた時には当然ながら痛みが生じ、臆して肘を震わせた彼だが、我慢してやり過ごした。
 横っ面に雲雀の痛烈な視線を感じる。言いたい事があるならさっさと言えばいいのにと、自分を棚に上げた綱吉は、女性が紅を塗った後にするように、唇を重ね合わせて内側に折込み、左右に軽く震わせて艶を表面に馴染ませた。
 力を抜いて口を広げようとすると、貼り付いた互いが引っ張られてワンテンポ遅れて剥がれた。無色のクリームなので顔に変化は無いものの、なんだか妙に照れ臭く、綱吉はごまかし笑いを浮かべてほんの少し減ったスティックの先を引っ込めた。
 身を引き、浮かせていた踵を下ろして右を見る。綱吉の動きに合わせたかの如く、雲雀は彼に向けていた視線を流して行った。
 綱吉の目は無意識に、雲雀の唇へ向く。横顔全体が視界に広がるものの、意識が集中しているからか、カサついた口元がズームアップされた。荒れ方は綱吉と似て、表面の薄皮が捲れて毛羽立っていた。
「あ」
 つい声が出たのは、彼が手を持ち上げて唇を撫でたからだ。
「なに」
 雲雀が抑揚に乏しい声を出す。喋るついでに赤い舌が一瞬唇を舐めて行ったが、唾液で誤魔化せるような程度ではない気がして、綱吉は眇められた彼の細い瞳から逃げて下を向いた。
 急な季節の変わり目で、空気は乾燥している。京子がこれを購入したのだって、敏感に湿度の変化を感じ取ったからだ。
「あ、えと。つ……使います?」
 自分でさえこうなのだから、雲雀も保湿クリームなど用いているわけがない。そう決め付けて、綱吉は蓋を閉めたスティックを彼に示した。
 瞬間、雲雀の目つきが鋭さを増す。威圧感が増大して、この提案は失言だったかと綱吉は震え上がった。
 先に先日の礼を言えばよかったか。しかしこの状況でそれも可笑しな気がしたのだ、そして今更話題を変えるのはもっと変で。
 慌てふためき、綱吉は怯え切った心臓を懸命に宥め、言葉を捜して奥歯を鳴らした。
「や、あの。まだ新品で、さっきあけたばっかりですし。って、あ、俺今使っちゃいましたけど、でも角が減ってないところもあるから、大丈夫ですって。それに、えっと、そう。そうです、唇が荒れてたら、美味しいものも美味しくなくなっちゃいますから」
 教室で京子が持ち出した理論をなぞり、綱吉は若干上擦った声で早口にまくし立てた。
 うんくさそうに顔を歪めた雲雀が、必死に訴えかける綱吉とその手に握られたものを交互に見る。への字に曲げた唇は、確かに先日から荒れが目立ち、今では喋るだけでも少しひりひりするくらいだった。
 原因は、分かっている。無意識に触れて、爪で引っ掻いてしまうからだ。
 あの嵐の日。偶然か否か、一瞬だけ掠めた感触が嫌に脳裏にこびり付き、離れない。それは非常に不愉快且つ不可解な状況で、どれほど他に気を向けようとしても気がつけば元に戻っている、その繰り返しだった。
 日を追うごとに感覚は遠ざかり、忘れていくはずなのに、そうならない。むしろ段々と強まって、比例して不快感もが上昇していく。
 正体を探りたいが、肝心の事の発端となった綱吉は風邪を引いたとかで連日学校を休んでおり、顔を見るのは叶わなかった。ならばと家の前まで出向いてみたものの、外気を遮断するためか窓は常に閉ざされていて、以前のようにベランダから侵入という手段は取りづらかった。
 そして数日振りに顔を見た相手は、雲雀を視野に入れた瞬間に怯えた顔をして視線を逸らした。雷が鳴り響いている間は人をもみくちゃにするくらいしがみついてきたくせに、その態度の変化にも腹が立った。
 苛々する。気分が悪い。
 だのに彼に話しかけられて、心の一部が浮き足立つ。
 我知らず奥歯を噛み、雲雀は名前も知らない感情に焦燥感を募らせた。胸の奥がもやもやして、むかむかする。さっきから心臓が落ち着かない。
 いっそ咬み殺してやろうか。不可解な感情の揺らぎの中で不意に現れた言葉に、雲雀はギリッと鳴った臼歯への力を解いた。
「ヒバリさん?」
 黙りこんだ彼を怪訝に見上げ、綱吉が小首を傾げる。
 使わないのならば、雲雀への用事はもう無い。授業はとっくに始まっているので、教室に一刻も早く帰らなければならない。怒られるだろうが、風紀委員に捕まっていたと、嘘ではないが本当でもない言い訳をすれば、きっと大目に見てもらえる筈だ。
 人差し指ほどの長さがあるスティックを引っ込めるか否かで迷い、綱吉は胸元に漂う自分の手を見た。俯いた彼の首筋が雲雀の眼下に晒され、汗に湿る肌が露になる。
 幾らか赤みを残し、熱を持っていたと分かる色と艶。華奢で細く、掴んで握れば簡単に折れてしまいそうだった。
 蜂蜜色の髪がふわふわと揺れている。癖だらけであちこちに向かって跳ねているけれど、思いの外手触りが良いのを雲雀は既に知っていた。
 脆弱な体ながら、内側に秘められた力が存外に強いことも。腕に抱けばすっぽりと納まってしまうほどに小さく、心地よく響く心臓の音は人を酷く安心させる。触れた体温は少し高めで、雨に冷えた空気の中では気持ちが良かった。
 琥珀色の瞳は甘そうで、丸い頬はふっくらとして柔らかい。
 今は塗りたてのリップクリームの所為だろう、桜色の唇は照明を浴びて艶を帯びていた。
 雲雀は乾いた唇を舐め、自分を見詰めている小さな存在に見入った。
「ヒバリさん、あの」
 薄紅色の唇が雲雀の名前を呼ぶ。吸い込まれそうな錯覚に彼は瞬きし、困惑を浮かべている綱吉の顔を凝視した。
 戸惑いを前面に押し出している表情は、あの日見た雷に怯える姿に似ていた。
 行く先に迷った瞳は絶えず揺れ動き、それが琥珀の鮮やかさをより強める。艶めいた唇は開閉を繰り返し、一箇所だけ他よりも赤い傷口にどうしても視線が向いた。
「あの、俺、そろそろ」
 逃げの体勢に入り、及び腰の彼が戸口を気にして首を巡らせる。余分な肉を持たない骨と皮ばかりが目立つ体躯は、さっきよりもずっと赤みを強めていた。
 目を逸らせない。自分はこんなにも彼に囚われているのに、彼が自分から逃げるなんて許さない。
 不意に獰猛な肉食獣の囁きが内側から聞こえて来て、雲雀は怯えを強めた綱吉に意味ありげな笑みを返した。
「……そうだね、貰おうかな」
 思いがけない台詞に、提案した本人が驚いて目を丸くする。零れ落ちそうな琥珀に雲雀は満足げに頷き、彼との間にあった距離を半歩分残して詰めた。
 まさか頷かれると思わなかった綱吉は、慌てて自分の手の中のものを握り直し、キャップが嵌められている先端を彼に差し向けた。どうぞ、と取り易いように指の力を調整する。ただ上半身は臆して後ろに傾いていた。
 不穏な空気を感じ取るが、雲雀は表面上至って穏やかであり、暴力を振るおうとしている様子はない。錯覚だろうかと嫌な予感を打ち消し、綱吉は自分に向かって伸ばされる雲雀の手を目で追った。
 一歩踏み込まれ、距離が狭まる。斜め上に向いていた綱吉の手首は、雲雀の動きに合わせてより角度を強めた。
 けれど。
 彼の手は綱吉の思惑を外れ、直径一センチのスティックを素通りした。
「え」
 手首を掴まれる。ぐっと力を込めて、雲雀は彼を引っ張った。
 自分の方へと。
「え……?」
 状況判断が追いつかず、何が起きているのかを理解し損ねた綱吉が上を見る。雲雀の顔が存外に近い、そう思っている間に伸びたもう片方の手が綱吉の顎を捉えた。
 指で挟まれた。クッと下から持ち上げるようにして、親指で押し出される。
 雲雀の睫は、見た目よりもずっと長い。
 視界が捉えた映像にぼんやりと感想を思い浮かべた綱吉は、次いで降って来た柔らかく温かな感触を自然と受け止め、飲み込んだ。
 掬い上げるように攫われた唇の、閉じ損ねた隙間から熱を持った吐息が流れ込んでくる。綱吉の唇を覆う油膜を掠め取り、自身へ移し変える雲雀の顔が視界いっぱいに広がって、綱吉は初めて己を見舞った出来事を理解し、目を瞬いた。
 瞼を閉じた雲雀の黒髪が、自分の前髪に紛れ込んでいる。咄嗟に悲鳴をあげようとしたが、開こうとした唇は塞がれている所為で動かなかった。
 重なり合った部分が熱を発し、痺れが生まれる。神経を通って全身に広がる電流に身もだえ、綱吉は瞬きも出来ずに自分を貪っている男を呆然と見詰めた。
 表面を舐め、あわせた唇で捏ねて擽り、人が苦心の末に塗ったリップクリームを奪い取っていく。
「んっ」
 キスされているのだと。
 理解するのにたっぷり十秒は必要で。
「ふっ……」
 鼻から抜ける吐息を間近で聞いて、顔を赤くする頃にはとっくに雲雀は綱吉を解放し、涼しい顔をしてそこに佇んでいた。
 目を瞬き、呆気に取られた綱吉がぽかんと口を開く。
 もう一度、吸い寄せられるように雲雀は顔を寄せた。綱吉の濡れた傷口に舌を絡ませ、チリッとした痛みと熱を残し、離れていく。
 同時に手首の拘束を解かれ、支えを失った格好の綱吉は茫然自失のまま、膝から力が抜けるに任せてぺたん、とトイレの床に腰を落とした。
 自分の身に何が起きたのか、まだよく分からない。けれど確かに、嘘ではなく、錯覚でもなく、偶然が招いた事故でもなんでもなく。
 雲雀に触れられた。
 雲雀にキスされた。
 雲雀と、キスをした。
 その唇が放つ熱にうかされ、身体中が震えている。綱吉は握ったままだったリップクリームを落とし、その手で口元を覆った。
「確かに貰ったよ」
 何を言われたのかも解らない。瞬きを忘れた綱吉が顔を上げるのと、雲雀が歩き始めるのはほぼ同時だった。
 音もなくドアを開け、出て行く。綱吉を助け起こすどころか、振り返りもしない。
 唖然と見送る中、扉が閉まる。微かな音も直ぐに消え失せ、換気扇が回る低音だけが綱吉の耳を打った。
「な、な……」
 足元に転がるのはキャップがされたリップクリーム。一度だけ使われたそれは、綱吉の唇を乾燥から守るという役目を全うする事なく、全部拭い取られてしまった。
 残るのは雲雀の匂い、感触。そして、熱。
「なんなんだ、よ……」
 彼は頭を抱えた。今し方己に降りかかった出来事はにわかに信じがたく、しかしはっきりと体が記憶した鼓動が今も奥深くで根付き、蠢いている。
 目を閉じれば蘇る、雲雀の唇が。
「なんなんだよぉ……」
 どうしてこんなことになったのか、分かるのなら誰か教えて欲しい。
 濡れた口元を覆い、綱吉は泣きそうに顔を歪めた。けれど涙は出てこない。
 ただ赤い顔と、納まらない熱が、彼から立ち上がる力を奪い去った。

2008/10/16 脱稿