企図

 そのドアを目前に控え、沢田綱吉はごくりと喉を鳴らした。
 否応なく緊張が高まり、心臓の音がどくん、どくんと激しさを増していくのが分かる。耳鳴りに首を振って胸元に手を置き、深呼吸を三度ばかり繰り返して懸命に心落ち着かせた彼は、最後に口から長く息を吐いて手を下ろした。
 拳を硬く握り締め、臆して逃げ出そうとする己を奮い立たせて、最後の一歩を廊下に刻み込む。沈黙する空間に自分の足音が大きく響き渡り、肝を冷やした彼は直後、周囲に何も変化が無い事に安堵し、肩を落とした。
 冷や汗が滲み出るが、袖が長い所為で拭うのもままならない。ハルが手作りした衣装は布をたっぷりと使っているので重く、裾も引きずるほど長いので歩きづらかった。
「いるよね?」
 授業が終わったばかりの放課後、西に傾いた太陽はまだ明るい。ホームルームを終えると同時に鞄と巨大な紙袋を抱えて教室を飛び出した綱吉は、一般教室棟を抜けて人気の少ない特別教室棟に駆け込み、同じく誰も居ないトイレに立て篭もって忙しく着替えを済ませた。
 こんな格好、他の人に見られたら恥かしくて仕方が無い。此処に辿り着くまで、誰ともすれ違わなかった奇跡に、彼はひたすら感謝した。
 もう一度深呼吸をして心を静め、こげ茶のドアを挑むように睨み付ける。あとは覚悟を決めるだけで、黒い布で全身を覆った綱吉は、被っていた帽子の鍔を掴むと俯き、表情を隠した。
 頭の中で数字を一から十までゆっくり数え、八に至ったところで右手をドアノブに伸ばす。強く握り締めると、金属の冷たい感触が肌を刺した。
 慎重に右に捻る。
 鍵は掛かっていなかった
「ト……」
 何かに引っかかるような手応えを覚えることなく、すんなりノブは動いた。
 ホッと息が漏れて、危惧していた最初の難関を突破できたことに安堵し、綱吉の表情は少し綻んだ。が、直ぐに気持ちを引き締め、眼力を強めて押し開かれるドアの向こうに構えを取った。
 扉一枚で隔てられていた応接室内部が綱吉の前に現れ出て、視界の端にちらりと人の姿が映し出される。けれど綱吉はその人物の顔を確かめることなく、ぎゅっと瞼をきつく閉ざして前屈みに膝を曲げ、肩を丸めた。
 息を吸い込み、留めて、廊下に対して七十五度の角度を持ったドアに向かい、突っ込む勢いで前に飛び出る。
「トリック・オア・トリート!」
 そうして彼は、大声で中に居た雲雀に向かって叫んだ。
「……は?」
 風紀委員長の間抜けな声が聞こえた。
 彼が手にしていたのであろう書類が落ちる、乾いた音が聞こえて来て、綱吉は言ってやったという達成感に浸りながら顔を上げた。
 両肩を上下させて息をして、興奮に頬を赤らめる。対して雲雀は、応接室奥に置かれた机を前に腰掛け、何かを掴んでいたと分かる、指を曲げた、しかし空っぽの手の形を維持したまま、慌しい瞬きを繰り返していた。
 邪魔になる重い帽子を押し上げ、綱吉が顔を晒す。油断するとすぐに落ちてくるそれは、黒の地色にオレンジの縁取りがされた、三角錐のとんがり帽子だ。
 それのみならず、綱吉の現在の服装は、着慣れた並盛中の制服ではなく、海外のファンタジー系小説などに頻繁に登場する、魔法使いのそれに準じていた。
 黒いマントは長く、廊下の掃除をしながら来たので砂埃が付着し、端の方だけが白い。下に着込んでいる衣装のうち、ズボンは黒と濃い灰色の縦縞模様で、太股から膝にかかる一帯が丸みを帯びて膨らんでいた。靴は爪先が長く、上を向いて尖っている。シャツは灰色がかった白で、マントを固定する黒い紐が、大きめの襟の内側を通り、喉の前で蝶々結びにされていた。
 奇抜な出で立ちの彼に絶句した雲雀が、十秒間唖然としたまま硬直し続ける。秋の冷たい風が廊下から流れ込んで、帽子に潰された綱吉の毛先が首裏を擽った。
「なに……?」
 やっと、それだけが彼の口から発せられ、目を丸くしている雲雀に綱吉も段々居た堪れない気持ちになってきた。
 やり遂げた瞬間は興奮の絶頂にあったのが、時間を置くに連れて薄ら寒い心境に落ちていく。ブレーキ無しに坂道を駆け下りたら、止まらなくなって壁に激突した気分で、綱吉はドアを押してノブから手を離し、半歩前に出て先ほどと同じ台詞を繰り返した。
「トリック・オア・トリート!」
 若干やけくそ気味に発せられた声に、雲雀が益々怪訝な表情をする。
 自動的に閉まろうとしたドアにマントを踏まれ、前に出ようとしていたのを邪魔された綱吉は、後ろから衣装に首を絞められて蛙が潰れるような声をあげた。
 右足が宙を泳ぎ、左手が天を掻く。右手で喉の締め付けを緩めようと足掻き、左足は倒れようとする身体を懸命に支えた。
 滑稽なひとり芝居を展開した彼に、長い間忘れていた瞬きを再開した雲雀が、ようやく自分の両手が空っぽになっていると気付き、椅子を引いた。
 床に散らばった書類を手早く集め、番号順に並べ直す。曲がってしまった角を指で撫でて伸ばし、表面に付着した埃を軽く叩き落として机に戻してもまだ、綱吉は茶番を続けていた。
 ドアが噛んでいるマントを引っ張り、外れた衝撃に今度は応接室の中央目掛けてたたらを踏む。おっとっと、と片足立ちで器用に飛び跳ねた彼は、音を立てて閉まった扉に涙目を向け、位置が随分左にずれた蝶々結びを元の場所に戻した。
 波立つ布の表面には引っ掻き傷が残り、レンタル品だからだろうか、怒られると肩を落として嘆いている。コロコロと入れ替わる表情は眺めていてまるで飽きないが、つばの広い帽子が邪魔をして、雲雀からは半分も見えなかった。
「うぅ、ハルになんて言おう」
 布に走る複数の筋は、地色が黒い所為で非常によく目立つ。たくし上げた肉厚の布を両手で広げ、千切れてしまった繊維に溜息を零す彼の横顔は、斜めに傾いた帽子の所為で、首筋の白いラインしか解らない。
 ノックも無しにいきなり部屋に入って来たかと思えば、ひとりで勝手に騒動を起こして落ち込んでいる。寸劇を披露するにしては観客無視も良いところで、雲雀は指を浮かせると爪の先で強く机を叩いた。
 コン、という、軽い、けれど鋭い音が響く。綱吉の耳にも届いたその音に、彼はハッとして顔を上げ、ずり落ちた帽子に顔面を塞がれて両手を泳がせた。
 柔らかい鍔を掴んで真上に押し上げ、頭から外す。呼吸が苦しかったのか鼻と頬を膨らませ、唇を尖らせて息を吐いた彼は、部分的に凹んだ頭を振り、汗で額に張り付いていた前髪を払い除けた。
 ホッとした様子で胸を撫で下ろし、手にしたもので風を扇いで赤らんだ顔を冷やす。視界良好となった彼はまたしても其処に居る存在を忘れ去っており、雲雀は苛々しながら机を二度、立て続けに叩いた。
 最後に拳で殴りつけて、置いてあったペン立てが甲高い音を立てて踊った。倒れないが底が数ミリ浮き上がって、同じく数センチ飛び上がった綱吉が履き慣れないヒールでマントの裾を踏み、今度こそ後ろに倒れた。
 ペン立ては転ばなかった。
「君は何がしたいの。用が無いなら出ていって」
 こめかみに青筋を薄ら浮かべ、怖い笑顔を浮かべた雲雀の底冷えする声に、綱吉はぶつけた頭を撫でつつ、床の上で蹲った。膝から先を外向くように曲げて、マントの海に沈み込む。
 大きな瞳に涙の粒が数滴浮かべた彼は、折れ曲がった帽子の先を胸に押し当てた。
 椅子から立ち上がった雲雀との間には、重量のある机がある。軽く押した程度では動かないが、雲雀の脚力なら蹴り飛ばすのも或いは可能かもしれなかった。
 あんなものが飛んできたら、さしもの綱吉も敵わない。
「いえ、あ、や、その。と……とりっ」
「ハロウィンならまだ先だよ」
「そっ、それは、そうなんですけど!」
 声を上擦らせ、腰を抜かしたまま上半身だけをひょこひょこ動かした綱吉が叫ぶ。無様だが、必死な様子が窺えて、雲雀は一瞬沸きあがった怒りを即座に引っ込めると、椅子を引き寄せ、浅く腰を下ろした。
 目線の高さが変化し、今度は机が彼の視界の邪魔をする。元気に跳ねた髪の毛の先ばかりが目に付いて、雲雀は失敗したかと心の中で舌打ちした。
 だが今更立ち上がるのも格好悪い気がして、机にぎりぎり近付いて背筋を伸ばす。やっと互いの顔が見える場所に至って、雲雀は不敵な笑みを浮かべて綱吉の次の言葉を待った。
 綱吉はといえば、雲雀がこの格好と合言葉だけで、西洋のイベントであるハロウィンを的確に指摘するとはあまり考えておらず、内心焦りを感じていた。乾いた唇を舐め、返答に窮して瞳を泳がせる。
 雲雀はその間無言で、人が困っているのを見て楽しんでいるのが伝わってきた。
 悔しいと思いつつ、抱き潰した帽子を膝に置いて右手を差し出す。
「兎に角、分かってるのなら、何かください」
 ハロウィンというイベントについて、最初から事細かに説明するのさえ覚悟していただけに、拍子抜けだった。こういう季節の催し物には、全く関心がないとばかり思っていたのに。
 微かな苛立ちを込めて差し出された綱吉の手をじっと見据え、雲雀は肘を立てて重ねていた両手を解いた。しかし、動いた手も横倒しにされただけで終わり。引き出しを開ける、席から立ち上がる、等の行動に移る気配は全くもって、無かった。
 綱吉がぐっと肩を前に突き出してせっつくが、雲雀は涼しい目をして懸命な彼を見下ろすばかりだ。
「どうして?」
 早く、と促しても雲雀の反応はすこぶる悪い。痺れを切らした綱吉が、マントを踏まぬよう慎重に膝を立て、立ち上がった。机の前まで恐る恐る進み出るが、矢張りかなり歩きづらそうだった。
 細かいところは粗が目立つものの、子供向けのイベントでは充分活躍できそうな格好だ。丈が余っている所為で全体的にだぼっとだらしない印象を受けるが、中性的な容姿が手助けして、随分と可愛らしく仕上がっている。
 最初は意表を衝く姿に驚かされたが、見慣れてくるとこういう格好の綱吉も悪くないと思えるから、不思議だ。
 自分の贔屓目を自覚しつつ、雲雀はわざと意地悪く問い返して背中を丸めた。再び重ねた両手に顎を置き、頬杖を作って机の前に来た彼を見詰める。頬を丸く膨らませた綱吉がにらみ返してきたが、迫力が無いのでまるで怖くなかった。
 ハロウィンは月末のイベントで、まだ二週間以上残されている。そそっかしいところがある綱吉だが、今回は輪にかけて気が早い。確かに町並みは明るいオレンジ色に飾られているものの、扮装してまでお菓子をねだりに来るのは、もっと先で良いはずで。
 だから当然、雲雀は彼に渡すものなど用意していなかった。
 奇を衒ったつもりなのか。壁に吊るしたカレンダーを見ても、今年の月末は平日なので、休日で会えないからという理由ではなさそうだ。
 それに、こういうイベント事に際しては、大抵綱吉は巻き込まれる側であり、自分から率先してやろうとはしない。彼は出来るだけ地味に、目立たず、平々凡々とした日常を送りたがる傾向があった。
 ドッキリを仕掛けるにしても、ドアの向こうで人が待機している気配は感じない。窓の外も同じく。天井は解らないが、そこまでして観察したがる人がいるとも思えない。
 視線を四方に投げて確認し、最後に溜息をついた雲雀の前で、綱吉はもぞもぞと膝を捏ねた。落ち着きなく分厚い帽子を弄り回し、ついていた蝙蝠の飾りを外してしまって慌てている。
「どうしてって……だって、ハロウィン」
「まだ時期じゃないよ?」
「でも、ハロウィンなんです」
 さっきと内容が全く同じ問答を繰り返し、綱吉は唇を浅く噛んで空っぽの手を雲雀に向けて伸ばした。
 何があっても貰うまで帰らない、そういう意思表示に、今一度カレンダーを見た雲雀は、ある事に気付いて右の眉を僅かに持ち上げた。
 なんとなくではあるが、綱吉が仮装までして応接室にひとり乗り込んできた意味が理解できて、彼は内心ほくそ笑んだ。但し顔には一切出さず、だから綱吉は気付かない。
 淡白な視線を投げかける雲雀の無反応ぶりに、綱吉は踵を鳴らして音を立てた。
「だから、お菓子をくれなきゃ、い……悪戯しますよ!?」
 説明は一切なしに、ついに机の上にまで手を伸ばした綱吉の強気な言葉に、雲雀は我慢出来ずに喉を鳴らして笑った。
 顎を置いていた場所に今度は額を載せ、顔を伏して肩を小刻みに震わせる。本人は堪えているつもりでも、しっかり、はっきりと聞こえてくる笑い声に、綱吉は右手を出したまま頬を染める赤を強めた。
 恥かしさがカーッとこみ上げてきて、大きく見開いた琥珀も色身を増して艶を放った。引き締められた唇が横一文字に伸び、帽子を抱えていた左手がそれを原型解らないまで潰して掻き毟った。
「わ、笑わないでください!」
 俺は本気なんです、と声高に叫ぶのがまたおかしくて、雲雀は奥歯を噛み締めて苦しい呼吸を繰り返した。
 こんな風に笑う彼は珍しいが、なにも笑う雲雀を見る為だけに、恥を忍んでこんな格好を選んだわけではない。少しでもイベント事にかこつければ、自分の強引さが多少薄れるかと思った作戦は、見事に失敗した。
 インパクトの強さが裏目に出てしまった。これならばいける、と思いついた時は自画自賛だったのに、今はどうしてこんな馬鹿な計画を実行したのだろうと、綱吉の頭の中は、今や激しい後悔の嵐に襲われていた。
 鼻の奥がつんと来て、目尻にじわりと熱が浮かぶ。
 みんな、リボーンの分は覚えているのに、自分の分はすっかり忘れ去って蚊帳の外。必死に話題を振ってみるが、誰一人として気付いてくれなくて、やさぐれていたのは確かだ。
 ワンセットで祝ってもらっていると思えばいいのだろうが、おめでとうと言ってもらえないのは正直辛い。部屋の飾りつけも当日のうちに外されてしまって、沢田家のリビングはすっかり元通り。
 月末のハロウィンも楽しみだね、とハルや京子が楽しげに衣装を縫っていて、忘れていった服をこっそり持ち出して博打を打ってみたものの、雲雀にまで忘れられているようでは、もう駄目だ。落ち込む。
 みっともなく泣くのは嫌だったが、体は正直に心を反映する。ずび、と音を立てて鼻を啜った綱吉に、雲雀は少し驚いた様子で細い目を見開いた。
「もういいです!」
 やけっぱちになって怒鳴り、綱吉はかぶりを振った。目を閉じたまま方向転換し、応接室を出ようと大股に一歩を踏み出す。
 しかし、長すぎるマントの裾は彼の動きについていけず、弛んで床に広がったままだった。前方、及び足元不注意だった彼の左足は、案の定肌触り柔らかい布を踏みしめる。踵の高い靴に慣れていない綱吉は、咄嗟にバランスを取ることが出来ずにズルッと滑った。
「ふえ?」
 足元がいきなり右に流れ、上半身が振り子の要領で左に傾ぐ。両腕も右に吹き飛び、綱吉は瞼を開いた途端斜めになった視界に間抜けな声を出した。
「綱吉!」
 見ていた雲雀が叫んで椅子を後ろに蹴り飛ばす。勢い任せに立ち上がっても、間にある障害物の所為で庇いに行くのは不可能だった。
 せめてもの足掻きと腕を伸ばすが、当然届くわけもない。目の前で派手に倒れた綱吉に遅れ、彼の足跡を刻んだマントが波打って沈んだ。
 痛い音に雲雀が肩を窄め、首を引っ込める。しかし一番の被害者は綱吉本人であり、「ぎゃふ」というくぐもった悲鳴が聞こえた後は完全に沈黙し、動かなくなった。
 痛打した頭を抱え、丸くなる。ぷるぷる震えて、痛みか、羞恥か、もしくは両方を堪えている様は実に哀れだった。
「綱吉……」
 もう少し考えて行動するようにと、散々言い聞かせているもののまるで効果が無い。こういう人間なのだと諦めるしかなさそうで、雲雀は背中を上にして蹲っている綱吉に嘆息し、こちらも倒れた椅子を起こして机を回り込んだ。
 移動を果たし、膝を折って手を伸ばす。見た目通りの滑らかな肌触りをしたマントに、これなら踏んで転ぶのも無理ないと彼は脱力した。
「もう……もうやだ!」
 何をやっても空回りで、みっともないったらありゃしない。
 自暴自棄に叫んで雲雀の手を払い除け、がばっと起き上がった彼は腰を落としたまま大声で吼えた。涙をいっぱいに貯め、零すものかと懸命に耐えて唇を噛み締める。しかし表面張力の限界を超えた雫は堰を切って呆気なく頬にあふれ出し、赤い肌を濡らした。
 雲雀には笑われるし、何度も転んで頭を打つし。これ以上馬鹿になったらどうしてくれるのだ。
 怒りがこみ上げてくるが、それを吐き出す場所がない。ぼろぼろに涙を零して鼻を啜り、嗚咽を堪えて膝の間に落ちた帽子を殴りつける。八つ当たりをされたそれは吹っ飛んで、雲雀の前に落ちた。
 拾い上げ、汚れを落とし、崩れた形を簡単に整えて持ち上げる。被せてやろうとしたが、綱吉は頭を振って嫌がった。
 みんなから忘れられた誕生日、今年こそは盛大に祝ってもらえるかと密かに期待していた。だのに見事裏切られて、奈々にまで忘れられて、まるで自分は産まれてこなくて良かったようにも感じた。
 真夜中、十四日に日付が変わるときも、カーテンをあけて窓の鍵を外して、ひたすら待った。待ち疲れて眠ってしまって、朝になって無用心だとリボーンに怒られて目を覚ました。
 もそもそと味気ない朝食を食べて、学校へ行く準備をする中で見つけた、完成前のハロウィンの衣装。後は刺繍を入れて完成だとハルが言っていたのを思い出して、咄嗟に鞄と一緒に抱えて家を出た。
 教室でも朝から夕方まで、誰も話題にしなかった誕生日。これだけ綺麗さっぱり忘れ去られていると、むしろ潔くてせいせいした。
 ただひとつ、どうしても諦め切れなかったもの。
「おれだって、ひとつくらい、プレゼント、欲しい、よっ」
 我侭な子供の言い訳を口走り、綱吉はぐしゃぐしゃになった顔を拭った。両手を額の前で交差させ、どうやっても止まらない涙にしゃくりをあげる。
 誕生日だから。でも、他のみんなと同じく、忘れられていたら哀しいから。
 ハロウィンにかこつけて、飴玉ひとつでもいい、欲しかった。
 彼から。
 雲雀から。
「…………」
 我慢するのを忘れ、わんわん声をあげて泣き喚く綱吉を前に、雲雀は肩を竦めた。前日が誕生日のリボーンだけが祝われた、昨年の出来事が、どうやら彼には相当トラウマになっているらしい。
 二年連続で同じ事をされれば、打たれ強い彼でもショックだろう。自分の誕生日には殊更頓着しない雲雀だが、綱吉がどれだけ深く傷ついているかは、今の泣き様を見れば充分に伝わった。
 もう一度手を伸ばすと、今度は避けられなかった。
 頭を撫でる雲雀に僅かに首を傾け、俯いて小さな子供に戻ったみたいに涙を零す。大声を出し続けて喉が枯れたらしく、今はひっく、ひっく、と細かく震えるばかり。
「早く帰りなよ。君が此処に居ると知れたら、僕が文句を言われるのに」
「ヒバリさん、まで、そんなこと言うっ」
 言葉を細切れにした綱吉が、力任せに雲雀の胸を叩いた。
 最後の寄る辺だった彼にまで拒絶されたら、綱吉には本当に何も残らない。折角止まりかけていた涙が新たに浮かんで、潤んだ琥珀に睨まれた雲雀は苦笑した。
 そうではないと言葉にはせず、首を横へ振り、片膝立てた状態で綱吉の頭を引き寄せる。涙でシャツが濡れるとか、鼻水で汚れるとは一切考えなかった。
 ささやかに抵抗してみせるが、優しさに飢えていた綱吉は、最終的に彼に逆らうのを止めて項垂れた。寄りかかり、ぐじ、と鼻を鳴らして涙を堪える。いつもと跳ね方が少し違っている彼の髪を梳き、雲雀はもう一方の手で綱吉の背中を撫でた。
 少し落ち着くように諭し、呼吸が整うまで辛抱強く待つ。雲雀の袖を握り締めた綱吉は、その下に隠れている肌が鬱血して黒ずんでしまうまで力を込めていたのだが、この時にはまだその事実に気付かなかった。
「夜中に行かなかったのは、赤ん坊の分の騒ぎで、君が疲れていると思ってたからで」
 肩を揺らした綱吉が、静かに語りだした雲雀に顔を上げる。大きな瞳は涙に濡れ、今にも零れ落ちそうな輝きを放っていた。
「ヒバリさん?」
「皆が何も言わないのは、忘れているわけじゃなくて、話題にしないように口裏を合わせていたからだと思うよ」
 顔を寄せ、柔らかな肌を滑り落ちようとしていた涙を唇で掬い取る。舌を使って舐めると、擽ったかった綱吉は肩を震わせて身を捩った。
 山本や獄寺たちと馴れ合うつもりのない雲雀は、計画に関わっていない為に仔細を聞いていない。しかしリボーン直々に、一枚噛むように頼まれているので、雲雀もここ最近は、出来る限り綱吉との接触も控えるようにしていた。
「え……?」
「多分今頃、君の家で待ち草臥れてると思うよ」
 綱吉は、ホームルームが終わると同時に、脇目も振らずに教室を飛び出した。当然、彼の目には、綱吉を呼び止めようとする親友らの姿は映らなかった。
 誰も話題にしなかったのも、朝から素っ気無かったのも、全部。リボーンの誕生日パーティーの残骸を全部片付けたのだって、なにもかも綱吉を驚かせる為に彼らが仕組んだ大掛かりな罠。
 目を丸くした綱吉が、信じられないと息を呑む。
 雲雀だって、リボーンから綱吉の誕生日は当日まで気付かないフリをしろ、と言われただけで、確信があるわけではない。けれど、雲雀に負けず劣らず綱吉を大切に思っている彼らが、全員揃ってその綱吉の大事な日を忘れるとは、とても思えなかった。
「うそ」
「そう思うなら、確かめに帰れば?」
 リボーンに口止めされていたが、この際止むを得ない。折角玄関で派手に出迎えて驚かせようとしている彼らには悪いが、綱吉を泣き止ませるためだ、諦めてもらおう。
 優しい仕草と告げられた事実に綱吉は涙もすっかり引っ込んで、ただぼんやりと雲雀を眺め続けた。
 未だショックから完全に立ち直ったとは言い難いものの、哀しい気持ちはガスの抜けた風船のように萎んでいった。ただ凹んで空いた部分に詰め込むのに、気持ちが少し足りないだけ。
 立つように促され、手を引かれて従う。力が入らない膝はふらついて、よろけていたら今度はちゃんと雲雀が庇って支えてくれた。
「すみません」
「いいよ」
 どこまでも情け無い事この上なく、恥かしさに顔を伏していたらまた雲雀に笑われた。
 悔し紛れに彼の上腕を爪で抓んで捻り、渋い表情をした彼に小さく舌を出す。随分と落ち込んだ心も浮上してきて、自分の足だけで立てるようになったところで綱吉はふと、ある事に気付いた。
「ヒバリさんは?」
「なに」
「……来てくれないんですか?」
 彼の口ぶりでは、綱吉ひとりを帰らせる気が窺えた。もし本当にリボーンたちがどっきりパーティーを仕込んでいるとしても、そこに彼が居ないのなら、綱吉の喜びは半減、いや八割方消えてしまう。
 急に心細くなり、先ほど抓った場所を撫でた綱吉に、彼は何故か不機嫌そうに唇を尖らせた。
「僕に、彼らと群れろって?」
 賑やか過ぎる沢田家は、確かに集団を嫌う雲雀とは相容れない。獄寺は雲雀をとても目の敵にしているし、イーピンもいるので、雲雀が訪ねて行ったら確実に騒ぎが起きる。そうなればパーティーどころではなくなるし、騒がしいのが好きでない雲雀も楽しく無いに決まっている。
 言ってから思い出した綱吉は、それでも諦めきれないのか寂しげに睫を揺らして彼に縋った。
「だから、……言わないと納得しないみたいだから言うけど」
 本当はこっちも黙っておきたかったのだと苦々しい様子で呟き、雲雀は綱吉の俯いた頭を広げた手で叩いた。ぼふっ、と間に挟まれた空気が外に逃げ、柔らかい毛足が彼の手首を擽った。
 顔を上げられなくなった綱吉が、嫌がって首を振る。けれど雲雀は、どうやっても手を退けてくれなかった。
「赤ん坊と、今日の事を黙っている代わりに、約束したんだよ」
「リボーンと?」
「そう」
 自分と雲雀の足ばかり見詰めた綱吉が、腹立たしげに言葉を発する彼に首を傾げる。
 パーティーの件を秘して、綱吉に誕生日に絡む話題を提供しない代わりに、雲雀がリボーンに提示した交換条件。
 今晩リボーンは、ランボたちと一緒に奈々の部屋で眠る。綱吉の部屋は、彼ひとりきり。
 早口にまくし立てた雲雀が、一呼吸置いて唇を舐めた。やっと綱吉の頭から手を外し、上向いた彼の目を、ぶつかる近さで覗き込む。
 口元には意地悪い笑みを。

「だから今夜も、窓の鍵は外しておいて」

2008/10/12 脱稿