腕時計をひとつも持っていないと聞いた彼の顔は、表現する言葉が無いほどに、それはもう、酷いものだった。
「なんで持ってねーんだ」
「だって、必要ないじゃん」
そんな顔を向けられるのは不本意だと言い返し、綱吉は思索を巡らせて広げた手を人差し指から順に折っていった。
小学校時代は、家と学校とを往復するだけの毎日で、週末に外出する時だって大抵家族と一緒だった。ひとりで遊びに行くにしても、公園には大時計があるし、そもそも一緒に遊ぶような友人が少なかった彼は、休みの日も自宅に引き篭もりがちだった。
中学にあがって、友人が増えてあちこち遊びに行く機会が増えてからは、携帯電話が時計の役割を担った。電源の残量にさえ気を配っておけば、画面を開けばいつだって時間が確認出来る。中学校への持ち込みは禁止されているけれど、その学校の各所に時計が設置されているのは、小学校の頃となんら変わり無い。
放課後に寄り道するにしたって、コンビニエンスストアを覗けばどこかに時計がある。わざわざ自分の手首を拘束してまで、腕時計に固執する必要性を綱吉は感じなかった。
ひと通りつらつらと理由を述べた彼に、しかしリボーンは納得しかねる表情を崩さない。
「大体、どうしたんだよ、急に。
目覚まし時計の電池が夜中に切れてしまい、セットした時間に針が到達しなくてベルが鳴らず、お陰で今日も寝坊して遅刻した。その事で説教されていたはずなのだが、と綱吉は先ほど思い切り殴られた際に出来たタンコブを撫で、小首を傾げた。
床に正座を強要されている彼の前方、ベッドの縁に座って短い両足を泳がせているリボーンは、いつも通りの黒服と黒い帽子姿に黄色いおしゃぶりを首から提げ、ペットのレオンが頭の上でうろうろするのに任せて腕組みをしていた。つるっとした顔は皺と無縁だけれど、中央に寄った縦に細長い瞳は険を強めており、内面に秘めた感情の厳しさを物語っていた。
そろそろこの息苦しい時間から脱出したいのだが。綱吉は沈黙する彼を窺う目で見上げ、浅い呼吸を繰り返して緊張から乾いた喉に大量の唾を流し込んだ。
「だからお前は、ダメツナなんだ」
「なっ」
そんな最中に紡がれた彼の言葉に、だからどうしてそうなるのか、と綱吉は声を荒げた。
腕時計ひとつで駄目と決め付けられたくない。思わず腰を浮かせて膝で床を叩いた綱吉に、リボーンは冷めた目を向けて小さく溜息を零した。
帽子の鍔を取り、くいっと手首の動きで先端を下げる。それだけで表情が隠されてしまい、上から見下ろせなくなった綱吉は、渋々、唇を尖らせて不満を露にしながらも、その場に座り直した。
行く手を阻まれたレオンがすぐさま方向転換をして、リボーンの丸くて大きな頭の後ろへ回り込む。首から先がまず見えなくなり、輪を作る尻尾だけになったかと思えば、今度は左右に離れた目玉が反対側から現れた。
人間様の都合などそ知らぬ顔で、マイペースを崩さない緑色のカメレオンに肩の力を抜く。長い舌がちろちろと伸びて、愛嬌のある顔が綱吉を見た。
同時にリボーンも彼を見詰め、引き結んだ口を開く。
「ツナ、いいか。一人前の男って奴には、一人前の格好ってのがある。身だしなみってのは、お前が思ってる以上に重要なんだ」
初対面の人間と会う時、真っ先に目が行くのは顔、そして服装。ただ顔の造詣に関しては生まれ持ったものであり、簡単に変更できるものではない。
ならば、重点を置くべきは何処か。
「そんな事言ったって」
「ボスにはボスの服装ってのがある。ボンゴレ十代目を継ごうって奴が、腕時計のひとつも持っていなくてどうする」
「だ~か~ら~」
自分はマフィアのボスになどならない、と拳を作って主張するが、リボーンは聞く耳を持たずにさらりと無視してくれた。代わりに持論を切々と、いかに男の服装が社会において重要なポジションを占めているかを説いていく。
最早何を言ったところで聞き入れられないと諦め、綱吉は溜息と共に前髪を掻き毟った。
リボーン曰く、まずは清潔感が大事。襟の裏に皮脂汚れが付着しているのは論外で、裾が解れていたり、ボタンが外れていたりするのもまた話にならない。常にピシッと糊が利いたシャツで身を引き締め、折々にあわせて上着もフォーマル、カジュアルと使い分ける。スラックスの丈は短すぎず、長すぎず、体型に合ったものを。靴も同じで、カフスやネクタイピンは派手すぎてはならず、かといって地味すぎては目立たずに役目を果たさない。
そして肝心なのが、握手を交わす際などで特に目が行く手首の装飾品。そう、腕時計。
「手首ががら空きなのは格好悪いぞ」
「……そうかなあ」
こだわりの無い綱吉にはピンと来ないことで、視線を浮かせて天井を見上げた彼は、次いでリボーンの袖口を眺め、最後に持ち上げた自分の利き腕に見入った。
リボーンの体型に合う腕時計など市販されていないので、当然ながら特注品。ジャンニーニの技術が込められているだとかなんだとかで、彼は袖を軽く捲くると自慢げに綱吉に見せびらかした。
表向きは普通の、シンプルなアナログ時計にしか見えない。だが側面に配置されたボタンを押すと、隠されている色々な機能が発動する仕組みだそうだ。
「麻酔銃や音声変換機能もあるぞ」
自分が作ったわけではないのに、誇らしげに語る彼に、お前はどこの少年探偵だと内心ツッコミを入れ、綱吉は苦笑した。
しかしそういう珍しいものを見せられると、少年心が擽られて綱吉も腕時計に興味を抱く。そこまで多機能なものは、どうせ使いこなせないだろうから不要だけれど、確かにいちいちポケットから携帯電話を取り出して時間を確認するのは、手間が掛かる分面倒だ。
腕時計なら、ちょっと袖を捲って肘を曲げるだけで時刻が分かる。デザインも色々なものが販売されているので、今度探してみようか。
そんな事をちらりと脳裏に思い浮かべていたら、心を読み取ったリボーンがにやりと不敵な笑みを浮かべ、勢いつけてベッドから飛び降りた。
足が痺れて正座を崩していた綱吉の膝元に着地し、偏平足で蹴りつける。あまり痛くは無いがよそ事に思い耽っていた綱吉は驚き、身を捩って座ったまま後退した。
上半身が斜め後ろに傾いで仰け反った彼の前で、両手を腰に当てたリボーンが小さな鼻を丸く膨らませている。
「リボーン?」
「分かったなら、行くぞ」
「行くって、何処へ」
「決まってんだろ」
ぐいっと綱吉の袖を引っ張り、立ち上がるよう促してリボーンが物分りの悪い彼の頭を小突く。ベッドに振り落とされたレオンを拾って帽子に戻し、黒服の赤ん坊は悪巧みをしている顔で笑った。
絶対自分が不利益を被ると分かる雰囲気に、綱吉は及び腰で彼に抵抗を示した。が、この小さな体のどこにこんな怪力が潜んでいるのか、左手を取られたと思ったら即座に背側に捻られて、苦痛に悲鳴をあげた彼は呆気なく陥落した。
財布と携帯電話を持ち、薄手の上着を引っ掛けて、それだけで準備は完了。リボーンに急かされて靴を履いた綱吉は、洗濯物を畳んでいた奈々に外出する旨を伝え、家を出た。
てっきり並盛商店街にある時計屋に出向くと思いきや、バスに乗るよう指示される。リボーンは赤ん坊なので料金は掛からないが、綱吉は中学生なので立派に乗車賃を徴収されるわけで、それも勿論彼の自腹だ。
見た目の幼さを利用して、小学生料金で乗ってやろうかと一瞬考えるが、己の沽券に関わると諦める。
着いた先は、大勢の人で賑わう繁華街だった。
「こっちだぞ」
「リボーン」
デパートにでも行くつもりか。大袈裟なことになってきたと内心焦りを覚え、綱吉は背中に流れた冷たい汗に鳥肌を立てる。しかしリボーンはお構いなしで、雑踏ひしめく中をするするとすり抜けていった。
置いていかれてはたまらないと、綱吉が直ぐに人ごみに紛れてしまう小さな背中を追いかける。
ガラス張りの自動ドア、看板も見ずにボーンにつられて入った店内はひんやりとした空気に包まれ、外とは明らかに違う色合いを醸し出していた。
「え……」
微かなざわめきが、彼らの登場と共に立ち消える。水を打ったような静けさに綱吉は目を瞬き、下向いていた視線を持ち上げて左右に泳がせた。
高い天井、瀟洒な照明デザイン。並べられたガラス張りのショーケース、客数に反してやけに多い店員は皆、ダークグレーのスーツで衣装が統一されていた。
光溢れる店内は清潔感に満ち、モノクロで固められたインテリアはシンプルでありながら優雅で、上品な趣を作り出して見事に調和している。外に比べて嫌に明るく感じられるのは、ケース内部を照らすライトと鏡が多く用いられているからだ。
厳かなクラシックが静かに流れる中、綱吉は前のめりだった姿勢を戻し、カチリと奥歯を鳴らした。
「さって、どれにすっかな」
「リボーン!」
明らかに貧乏中学生には縁が無い、あまりにも彼に不釣合いな店だ。店員も、先客も、綱吉本人でさえ直感的にそう感じている。だのにリボーンは平然として、店の奥へ進もうと革靴を履いた足を持ち上げた。
まさかこんな店に連れて来られると思っていなかった綱吉は、裏返った声で悲鳴をあげ、突き刺さる視線に居た堪れなくなって背中を丸めた。
「なにしてる、ツナ」
「なにって……お前こそ何考えてるんだよ」
こんな高級時計店に入ったところで、綱吉が買えるものなどない。財布の残高は微々たるもので、小銭を合計しても此処に売られている商品にはゼロがふたつ、いや、みっつは足りないはずだ。
両手を広げ、低い位置にいるリボーンに懸命に訴えかける。彼の焦り具合を見て、傍に居た初老の男性が声を殺して笑った。
笑いの波は伝染し、瞬く間に店中に広がっていく。羞恥に喘いだ綱吉は全身から脂汗を流し、泣きそうに顔を歪めて不満げにしているリボーンを睨んだ。
「言ったろう。男は身だしなみからだって」
「だからって、こんなお店、無理に決まってるじゃないか!」
敷居が高過ぎると綱吉は怒鳴り、聞こえて来た沢山の忍び笑いに顔を真っ赤に染め上げた。
毎月、親から貰うお小遣いでどうにかやりくりして、それでも赤字続きで困窮している彼には、見上げるのもおこがましいほどの高級店だ。明らかに裕福な人たちが居並ぶ中、Tシャツにコットンジャケット、ジーンズにスニーカーという出で立ちの少年は異様でしかない。
此処はお子様が遊びに来るような店ではないのだと、フロアマネージャーらしき人に睨みつけられ、綱吉は何も悪い事をしていないのに頭を下げて謝った。
リボーンはそんな弱腰の彼と、高慢ちきな店員の態度が気に入らなかったようだが、綱吉としては一秒でも早くこの針の筵から脱出したい。まだこの店に拘る赤ん坊を残し、くるりと方向転換して大股に出口へ向かっていった。
置いていかれたリボーンが、やれやれと肩を竦めて溜息を零す。お前も出て行けと言わんばかりの店員を鋭く睨み返した彼は、胸元に潜ませた拳銃をジャケットの上から確かめた。
「この店は、長くないな」
だが法治国家であるこの国で、人目につくような派手な行動は控えなければならない。負け惜しみにも聞こえる不吉な予言を残し、黒服の赤ん坊は駆け足で逃げていった綱吉を追いかけて店を出た。
果たして彼の予言が当たったのか、それとも単にめぐり合わせだったのか、半年後に資金繰りが悪化したこの店が本当に倒産の憂き目にあったのは、綱吉には全く関係の無い話である。
晴れ渡る秋空の下、噴き出た汗を拭った綱吉は深呼吸を繰り返し、服の上から左胸を頻りに撫でた。
「心臓に悪いよ」
あらゆる意味で常識が通用しない奴だと思っていたが、ここまで酷いとは思わなかった。赤っ恥をかかされたと額を撫で、長い息を吐いて肩を落とした綱吉は、自分に遅れる事三分後に店を出てきたリボーンを睨み、もたれかかっていた街路樹から背中を浮かせた。
紅葉はまだ始まっていなくて、緑色のままの葉が何枚も路面に散っている。上着を着たままだと暑くてならず、袖を抜いた綱吉は半分に折り畳んだそれを左腕に引っ掛けた。
「根性無しめ」
「そんな事言われたって」
あんな店で、冷やかしだけ済ませて帰る勇気なんて綱吉には無い。見世物にされたようなもので、気分が悪いと頬を膨らませ、彼はふてぶてしい態度を崩さない赤ん坊を睥睨した。
しかし視線に屈することなく、受け流して無視したリボーンは、次に行くぞと言い放ってまたひとり、勝手に歩き出した。
どこまでも、どんな状況に陥っても、マイペースを貫く。それは彼が確固たる信念を持っており、それを基準にして動いているからで、そういったものがまだ見出せない綱吉にとっては、羨ましくあり、妬ましくもあった。
次に向かったのは老舗デパートだったが、こちらも綱吉からすれば充分敷居が高い。店員はにこやかに迎えてくれたが、展示されている時計はどれも高額で、銀行に預けている残金を全部下ろしても、手の届く範囲ではなかった。
それに、並べられている腕時計はどれも装飾が眩しく、煌びやかで、綱吉の男にしては細い腕には不釣合いだった。
宝石をふんだんにあしらった時計など、実用性に乏しい。それに重い。あまり活動的な方ではない綱吉でも、動き回るのに邪魔だというのは楽に想像できた。万が一何かにぶつけて壊したり、紛失したりする危険性も伴う。そんな事にビクビクしてまで、腕時計を装着したいとは思わない。
三軒目は、若者系中心のショップが多数入った、おしゃれな感じのする大型ショッピングセンターだった。
「最初から、此処にくればよかったのに」
「そういうな」
漸く自分の身の丈にあった店が現れて、綱吉はホッとすると同時に散々自分を振り回してくれた赤ん坊を睨んだ。
お前に、大人の世界というものを見せてやったんだと言い返され、余計なお世話だと頬を膨らませる。一歳児にそんな心配などされてたまるものか、と腹立たしさに唇を噛んだ彼は、ふとある事に気付き、騒がしい店内から足元へ視線を落とした。
今は十月、その真ん中少し手前。もうじきだな、と思い浮かべたカレンダーに印をつけた綱吉は、ひょっとして、とにわかに沸き起こった期待に胸を膨らませた。
「ツナ、これなんかどうだ」
「どれ?」
商談用に置かれていた椅子を引っ張ってきたリボーンが、それを踏み台にして陳列棚を覗き込む。今までの店舗とは違い、カジュアルで多機能な時計が所狭しと並べられている中で、彼が指差したのは銀色の、厚みがあるシンプルなものだった。
確かに社会人が持つのなら、そういった当たり障りが無いものが良いと思う。しかしあまりにも個性が無さ過ぎて、面白みが足りないと綱吉は不満を露にした。
リボーンは彼がこの手のタイプを気に入らないとあらかじめ予想していたのか、やっぱり、と言わんばかりの顔をしてにやりと笑い、ならば、と椅子から飛び降りて隣のケースに移動した。
逐一椅子を動かさなければならない彼の手間を惜しみ、綱吉が頼まれてもいないのに手を伸ばす。胸に抱きかかえようとしたが、一足遅く腕を踏み台にして肩によじ登られ、急にガクンと左に体が傾いた綱吉は、不敵な表情を浮かべている赤ん坊を横目で睨み、仕方が無いと膝を伸ばした。
赤ん坊を肩に載せた中学生、という一風変わった組み合わせは、他の店でもそうだったが、かなり目立つ。否応なしに注目を集めて、何処へ行っても結果は同じだったかと彼は溜息をついた。
髪の毛を引っ張られ、集中するよう命じられる。指で示されたショーケースには、さっき覗いたものとはまた異なるブランドの時計が並んでいた。
配置の方法なども一気に変化し、岩場と海を模したデザインが施され、その合間を縫う形で、ごつごつとした見た目の腕時計が顔を覗かせている。色は黒が中心だが、勿論そればかりではない。デザインも細かい部分が違っていて、見ているだけでも楽しかった。
「こっちの奴とか、カッコイイ」
厚みが一センチほどありそうな本体部分に、最初から輪になったベルトが付随している。そのベルトも厚みがあり、硬そうな印象を見る側に与えた。
「お前の腕じゃあ、なあ」
「これから大きくなるの!」
モヤシのような細腕を揶揄され、ムキになって言い返す。赤くなった綱吉はリボーンが落ちる可能性を考慮せずにケースを覗き込み、よく見えるように目を大きく見開いた。
そんな彼を観察していた店員が、朗らかに笑ってケースの鍵を開け、実物を出して手に持たせてくれた。二十台半ばの若い男性で、今まで巡り合った店員の中で、一番綱吉に親切だった。
リボーン愛用の時計のような、怪しい機能は無いけれど、世界時計やストップウォッチ、温度計や高度計といった、とても使いこなせそうにないシステムまでもが組み込まれた大型の時計は、リボーンの読み通り綱吉の腕には大きすぎた。けれど、上下二段に別れている時計表示や、文字盤を囲むどっしりとしたフレームの手応えが綱吉には新鮮だった。
「お前なら、……そうだな。こっちの方がいいぞ」
「うん?」
同じメーカーで、文字盤のデザインが違うものを指差してリボーンが言う。身を乗り出した綱吉は、続けて出してもらった時計に殊更目を輝かせた。
文字盤は丸く、縁取りは二重。内側の黒いフレームに白抜きでブランド名が記され、外側のフレームは金属で、色はシルバー。デジタル表示ではなく、馴染みのあるアナログタイプの時間表示を採用しており、左右と下部に配置された丸いフレームの中にも細かなメモリが刻まれ、針が回っていた。
どの文字盤の針も、動きは同一では無い。非常に早いものもあれば、ゆっくりと動いているものまで様々。一秒で一回転、一分で一回転、一時間で一回転と別個になっていると教えられ、ボタンを押せばそれは即座にストップウォッチに切り替わるという。試しに店員がやってみせ、興奮した綱吉はついにリボーンを振り落とした。
別段珍しい機能ではないと、彼のあまりの驚きようを店員が笑う。けれど今まで、時計など時間が知れたらそれだけでいいと考えていた彼にとっては、目新しさも手伝い、面白くて仕方が無かった。
当然ながらアラームもついており、目覚まし代わりにも使える。防水対策もばっちり施されているし、衝撃にも強い。これだったら多少乱暴に扱っても、直ぐに壊れることはなさそうだ。
「リボーン、俺、これがいい」
さっき自分で選んだものよりも、こっちの方が気に入って、綱吉は落とした帽子を拾って埃を叩き落としていた赤ん坊に、赤ら顔で振り返った。
爛々と輝いた目に見詰められ、リボーンは満足げに口元を歪めて手を伸ばした。抱き上げるように合図されて、綱吉が調子よく応じる。再び肩に乗った彼に、店員はじゃあ、と紐に結ばれた値札を表返した。
五桁の数字が並んでいる。綱吉は完全にリボーンが支払いを済ませてくれるものと思い込んでおり、うきうきとしながら次を待った。
が、赤ん坊は何も言わない。店員も何も言わない。
微妙に気まずい空気が場に流れ、綱吉は「あれ?」と首を捻った。
「リボーン?」
「なにやってる、ツナ。さっさと支払い済ませろ」
「えっ、ちょっと待って。リボーンが出してくれるんじゃなかったの」
「なんで俺が」
そんな話は一度も出なかったが、もう間もなく綱吉は誕生日を迎える。てっきりその祝いの品だと思い込んでいた彼は、いぶかみ、ムッとした表情を作ったリボーンを前に凍り付いた。
完璧に自分の思い込み、勘違いだとこんなところで指摘され、綱吉の頬がヒクリと痙攣する。
店員が乾いた笑いを浮かべ、どうするか綱吉に訊いた。しかし直ぐには答えられず、彼は視線を泳がせるのみ。
値段を見る。お年玉の残りを使えば、ぎりぎり届くかどうかの範囲だ。しかしこの先、年末を控え、出費もかさむのは目に見えている。今使ってしまうと、後で困るのは明らかだ。
「これ、海外販売限定モデルだから、数があんまり無くてね。今出てるのが最後なんだよ」
ベルトの部分が日本流通モデルと違うのだと、店員がこっちだよと別のものを出してくれた。
メタルベルトに樹脂コーティングが施されたものと、そうでないもの。見た目の違いははっきりとしており、最初に見たものがレア品だった所為か、綱吉はどうにも国内モデルが気に入らなくて、口をへの字に曲げた。
値段もそう変わらないが、在庫の量が違うとはっきり言われてしまうと、迷う。
「うう」
「他にも色々あるから、ゆっくり考えるといいよ」
そう言って商品を棚に戻した店員に、綱吉は唇を噛んだ。
次に来た時にはもう、あの時計は無いかもしれない。しかし今手を出すと、今後の遊びの計画に支障が出る。
「どうしよう……」
「何迷ってんだ、ツナ。欲しけりゃ買えばいいじゃね-か」
「だから、買いたいけどお金が!」
「けちけちすんな。男だろうが」
「他人事だと思って!」
髪の毛を引っ張られ、人の気も知らないで勝手なことばかり言うリボーンに痺れを切らす。こうなればやけくそだと、綱吉は地団太を踏んで場を離れようとした店員を呼び止めた。
ちょっと待っていてくれと頼み込み、財布の中に忍ばせていたキャッシュカードを握り締めてATMを探し回る。複雑に入り組んだ通路を幾つも横断し、駆け回って漸く見つけた出張所で有り金全部を取り出した彼は、鬼の形相で先ほどの店に戻り、鼻息荒くあの店員を呼んだ。
笑いながら出てきた彼に、改めてこれで良いかと時計を示され、何度もしつこく頷いて目尻に浮いた涙を拭い取る。なんだってこんなことに、と嬉しいような悔しいような、複雑な気持ちで待っていると、商品を入れた袋と釣銭を手に、男性店員が戻って来た。
品物を受け取ったのは、リボーンだった。
「ほれ」
釣銭を財布にいれ、すっかり寂しくなってしまった残金に肩を落とす。白い紙袋を差し出されて、綱吉は視線を下に流した。
「俺からの誕生日プレゼントだ」
「……お金出したの、俺なんですけど」
ちゃっかりとアピールをするリボーンを睨みつけ、袋を受け取って右手に握り締める。ただ、ずっしりと来た重みは、不思議なことにあまり不快ではなかった。
いい買い物をしたなと言われ、無言で頷く。
「俺が選んでやったんだ、ありがたく思え」
立て続けに言われ、綱吉は彼が言った誕生日プレゼントの意味を理解し、溜息を零した。
綱吉が気に入るような時計を選んでやった、それがリボーンの贈り物。ならば綱吉は、リボーンの言う立派な身だしなみが出来る男への階段を一歩登った、というのが、彼に対する誕生日プレゼント、という事になるのだろうか。
「変なの」
率直な感想を呟き、夕暮れに彩られた街で再びバスに乗り、家路へ急ぐ。
「今日の晩御飯、なにかな」
「きっと豪華だぞ」
「だといいな」
奈々の料理はなんだって美味しい。あちこち歩き回った所為でお腹が空いたと腹筋を撫で、綱吉は暮れる太陽に目を閉じた。
朝の日射しがカーテン越しに部屋を照らしている。最近続いていた冬も間際の冷え込みは一段落したようで、穏やかな陽気が窓の向こうに広がっていた。
寝癖のついた頭を丁寧に櫛で梳き、ドライヤーの熱を当てながら整えていく。生まれながらの強烈な癖毛はこの程度で直るものではないが、少しは見た目の悪さを訂正出来たかと、彼は鏡の中の自分をじっくりと眺めた。
父親と違って薄い髭を気にして、顎を撫でる。殆ど無いに等しいが念のためと髭剃りを当て、もう一度綺麗に洗顔してから、よく乾いたタオルでしっかりと顔を拭った。
洗面所での作業を終えた後は部屋に戻り、次は着替えに取り掛かる。
絹のパジャマを勢い良く脱ぎ捨てた彼は、糊がビシッと利いて気持ちが良い白さのシャツに袖を通し、上から順にボタンを嵌めていった。最後に袖を抓み、カフスボタンを通して留めて、完成。続けてクローゼットを開け、中に吊したネクタイの列を見上げた彼は、目についた二本を手にとってどちらにしようかと首を傾げた。
「うーん……」
「十代目、お車の準備が出来ました」
「あ、はーい」
ドアの向こうから獄寺の呼ぶ声が聞こえ、綱吉は身を後ろに仰け反らせて閉まったままの扉に目を向けた。まだ彼が準備中と知ってか、入ってくる様子はない。
折角だからアドバイスを貰いたかったのだが、と左右の手にそれぞれ持ったネクタイに苦笑し、右で捕まえた方を選んでもう片方は元に戻す。襟を立てて首の後ろから細長い布を押し当てた彼は、姿見の前に移動して素早く結び目を整えた。
中学時代はこれを結ぶのさえ四苦八苦させられたが、それも随分と古い話だ。毎日やっていれば嫌でも身体が覚えてしまって、今ではそれなりに立派な形を作り出せるようになった。
当時に比べれば背も伸びた。体格も幾らかは男らしくなった。方々に跳ねた髪型は相変わらずだけれど、この頭ではないと自分も周囲も落ち着かない。
髭の剃り残しはないかと今一度しっかり確認し、問題無いと判断して両手を叩き合わせる。
「十代目?」
「もうちょっとー。先に行ってていいよ」
後は上着を着て、それでおしまい。綱吉はベッドサイドのテーブルに並べられた、朝食の残骸を眺めてから冷めてしまった紅茶を飲み干し、ご馳走様と口の中で呟いて濡れた唇を拭った。
のんびり準備を整える綱吉に対し、姿は見えないが、獄寺はきっと、時間を気にしてやきもきしているに違いない。
「あ、そうだ」
もうひとつ、とても大事な事を忘れていた。
ソファの背もたれに置きっぱなしにしていた上着を取り、皺になっていないか気にして表面を撫でた綱吉は、ふととある事を思い出し、顔を上げて広すぎる室内を見回した。
南に面する窓辺に歩み寄り、影に隠れるような形で置かれたチェストに近付く。
上に置かれているのは、縁取りの無いシンプルな写真立てがひとつだけ。
収められているのは仲間が一堂に会した写真だ。大勢に囲まれた中心に綱吉がしゃがみ込み、その膝には黒服の赤ん坊が抱き締められている。
彼はフレームの中で微笑むかつての自分たちに笑いかけ、一番上の引き出しを開けた。真っ先に目に入った銀色の腕時計を取り出し、左手首に装着させる。時刻がずれていないかどうかを別の置き時計と比較して確かめてから、彼は時計ごと己の腕を胸に抱いた。
引き出しの奥には、電池が切れてもう動かない、写真の中の綱吉がつけていると同じ、当時の彼には少しサイズが大きすぎる腕時計。
「行ってきます」
今の自分は、あの日彼が言っていたような一人前の大人に、少しは近づけただろうか。
物言わぬ写真に問いかけ、綱吉は静かに引き出しを閉めた。
2008/10/11 脱稿