船遊山

 通りの角を曲がった辺りから、既に子供たちのはしゃぐ声が聞こえていた。
 じりじりと照りつける陽光に、アスファルトは熱を持って下からも獄寺の肌を焦がす。サンダルからはみ出た指先が擦れると、それだけで水ぶくれが出来てしまいそうだった。
 灼熱地獄とはこういう事を言うのだろう。額に浮いた汗を拭い、雲の少ない空を恨めしげに睨んで彼は長い息を吐き出した。
 犬のように舌を出して一緒に体内の熱を外へ追い遣り、髪を結んで出てきて正解だったと、露出しているだけまだ幾らか涼しい首を労って撫でてやる。つむじがある辺りと襟足のほぼ中間点に、長い髪を縛れる分だけ集めたゴムが四重に巻き付けられていた。
 家を出た時は上向いていた毛先も、今はすっかり萎れて下を向いている。両サイドの髪は長さが足りずに耳朶を覆い隠しているが、何もしないでいるよりはマシと言えた。
 袖の無い黒のタンクトップに、各所擦り切れて破れているジーンズ。ジャラジャラと音を立てて五月蝿いアクセサリー関係は、重さと暑苦しさの理由から今日は控えめだった。
 変な日焼けの跡が出来るのが嫌で、指輪さえしていない。お陰で至極身軽、ただ軽すぎて逆に不安になるところが自分の臆病さなのだろう。
 狭い道に車が走りぬけ、排気ガスの熱風をまともに浴びせられた彼は露骨に顔を顰めた。運転手に怒鳴りつけてやりたいところだが、速度を緩めない白のワンボックスカーはあっという間に視界から消えて、やり場の無い怒りを舌打ちすることで無理矢理押し殺した。
 握り締めた拳を腰の高さで震わせ、数秒間停止してどうにか溜飲を下げる。折角綱吉の顔を拝みに行くというのに、不機嫌な顔を彼に晒すのは避けたい。だから笑顔で、笑顔で、と自分に念じて深呼吸し、肺を焼く熱風を耐えて彼は心を落ち着かせた。
 見慣れた屋根はもう目の前で、ブロック塀で囲われた庭からは依然子供たちの甲高い歓声が響いている。
 住宅地のど真ん中にあって、他に人の話し声や騒ぐ音が聞こえてこないのは、皆暑さに参って日中は屋内で過ごそうという意識の現われだろう。自分だって、綱吉に会いたいという気持ちが無かったなら、一日中家でゴロゴロしていたに違いない。
 学校があれば、毎日のように顔を合わせられるのに、長期休暇となるとそうはいかない。遊ぶ予定を立ててなるべく一緒にいられるよう心がけてはいるが、イベントをするにしたって、経費は嵩む。
 自分の金は自分で管理している獄寺だが、綱吉は毎月の小遣いでやりくりせねばならず、足りない分を獄寺が援助しようとしても、悪いからと受け取ってもらえない。
 会いに行くには用事が必要で、夏休み前半は宿題だのなんだのとあれこれ言い訳がましく押しかけもしたが、お盆も過ぎて後半戦に入ると呆気ないほど簡単にネタは尽きた。
 宿題はとっくに終わってしまって、貸してもらったゲームもクリア済み。一昨日そのゲームを返却してからは、電話で話をしたものの、それだけだ。
 たった一日顔を見なかっただけで、我慢の限界を迎えてしまった自分も大概どうにかしている。獄寺は猫背の姿勢から顔をあげ、あと三歩で辿り着ける一軒家を見詰めた。
 用事は何も無かった。
 ただ会いたかった、顔を見たかった。
 直接会って話がしたかった。
 けれどそれを正面切って言えるほど自分は強くなくて、頭の中では必死に、綱吉への言い訳を考えている。
 近くまで来たから、ちょっと様子を覗きに。それくらいが一番妥当で、怪しまれることのない理由だろうか。けれどこの辺りは本当に住宅しかなくて、綱吉の家を訪ねる以外の目的が、獄寺にないのも実情だった。
 簡単に見抜かれてしまいそうで、それはそれで格好悪い。どうしようかと頭を抱え、煙草を咥えていない口寂しさに奥歯を噛む。熱を吸収して蒸れた髪の毛を指で掻き回し、折角ゴムで固定していたものがバラバラに解けてしまった。
「あ、やべ」
 指が感じ取る抵抗がいつもより強いことで思い出し、獄寺は手を下ろしたが時既に遅し。半端にゴムに拘束された髪の毛が曲線を描き、頭の上であらぬ方向を向いて阿波踊りを踊っていた。
 彼の行動を馬鹿にするかの如く、右頬を毛先が叩く。膨れっ面をした彼は仕方なく腕を後ろから回し、緩んでいたゴムを外して癖が残る髪の毛を風に晒した。
 首周りが一気に暑くなって、溜息と一緒に心の中のもやもやした物をまとめて吐き出す。
「あっちー」
 手で風を作っても効果は芳しくなく、影の無い道路では逃げ場もない。湿って重くなった髪の毛が首に貼り付き、払いのけてもまたすぐ戻って来る鬱陶しさに負けて、彼は渋々両手を使って銀髪を掻き集めた。
 子供たちの――ランボの笑い声がこだまする。
 楽しそうな様子がそこから伝わってきた。水の音もする、ばしゃばしゃと跳ね飛ばすような、そんな音が。
「何やってんだか、あのアホ牛」
 綱吉にまた迷惑をかけているのではなかろうかと、そちらが真っ先に気になって彼は頭を弄りながら休めていた足を前に繰り出した。
 薄いサンダルの底でアスファルトを踏み潰し、前から押し寄せる熱波に負けずに体を動かす。息をする度に肺胞が熱に焼かれて痛みを放ち、小麦色の腕には珠の汗が幾つも浮かんだ。
 フライパンの上で焦がされているみたいだ。
 こんな天気の中で水浴びが出来たなら、さぞ気持ちよかろう。考えると即座に冷たい水に飛び込む無邪気な綱吉の姿が見えて、獄寺はそのほのぼのとした光景にだらしなく目尻を下げた。
「あれ、獄寺君」
 どうやら暑さで頭の神経回路も焼ききれてしまったらしい。幻聴まで聞こえてきて、彼は幸せな気分に浸ったまましばし彼方の世界へ意識を飛ばした。
「獄寺君? ごーくでーらくーん。おーい、もしもーし」
「ツナ、お水ー! ばしゃばしゃするー」
 ブロック塀の向こうで水色のホースを握った綱吉が、左手を口の横に添えて拡声器代わりにして叫んでいたところ、びしょ濡れのランボが足元で飛び跳ねて飛沫を散らした。
 幼子はいつもの牛柄ベビー服を脱ぎ、パンツ一枚。綱吉も薄いブルーのパーカーに膝丈の半ズボンという軽装で、獄寺と同じくビーチサンダルを履いて足元だけが水に濡れていた。
「もう、ランボ。お前が暴れるから、水が減っちゃうんじゃないか」
 庭先に置かれた子供向けのビニールプール。その縁に両手をついて身を乗り出した五歳児にあきれ返り、綱吉は腰に手を置いて肩を竦め、握っていたホースをプールの中に落とした。
 傍にはイーピンもいて、彼女だけはちゃんと水着に着替えていた。
「え、へ? あ、じゅ、十代目?」
「あ、戻って来た。おはよ……じゃないな。こんにちは、獄寺君」
 地面を這うホースの先、縁側の下にある蛇口を捻りに行こうとした綱吉に、やっと我に返った獄寺が呼びかける。歩みは止めずに振り向いた綱吉は、膝を折って屈みながら目を細めて笑った。
 濡れた膝小僧から雫が滴り、陽光を反射して獄寺の瞳を炙る。日焼けして健康的な太股が半ズボンから覗いて、ついつい魅了されてしまった獄寺は、自分たちの間にブロック塀があるのも忘れてふらふらと近付こうとし、敢え無く壁に激突した。
 みっともなく弾き返された彼に、見ていたランボがぎゃはは、と腹を抱えて笑った。
「イーピン、そっち押さえてて。獄寺君、前はちゃんと見ないと危ないよ」
 今蛇口を解放したら、流れ出た水の勢いでホースの先が跳ね上がってしまう。水だって無限ではないのだからと、笑い転げて喧しいランボに肘鉄を入れて大人しくさせていた少女に頼み、綱吉は蹲った所為で視界から消えた獄寺に苦笑した。
 程無くして門柱の間を抜け、獄寺がよろよろしたまま庭に入って来た。近付いてくる姿に目を細め、居場所を改めた綱吉は、徐々に嵩を増して行くプールの水に両手を浸した。
 火照った身体から熱が逃げていくのが分かって、気持ちが良い。
「それー、水鉄砲!」
 先日の夏祭りで手に入れた玩具を使い、ランボはイーピンにさっきの仕返しだとトリガーを引いた。だが呆気なく避けられ、直線の軌道を描いた水は途中で失速し、庭の芝に吸い込まれていった。
 今日は水遣りをせずに済みそうだと子供たちのはしゃぎように微笑み、肘の辺りまで水が溜まったのを見て綱吉が腕を引く。獄寺が左斜め後ろに立って、どこかぼんやりとした目を彼に向けた。
「十代目」
「毎日暑いねー。どうしたの? 今日は」
 上機嫌に遊んでいる子供たちを残し、喋りかけると同時に踵を返して蛇口を閉めに行く。その綱吉の揺れる髪を眺め、獄寺は先ほどぶつけた膝をズボンの上からさすった。
 何か約束事があったろうか、と不安がる背中に首を振り、予め用意しておいた――結局他に思いつかなかった言い訳を舌に転がす。
「いいえ。たまたま、その、近くまで来たので」
 腹筋の辺りでもぞもぞと指を絡ませ言った獄寺に、綱吉は深く意に介さず、ふぅん、と相槌を打つに留めた。
 獄寺が気にかけていたような、近所への用事に対しての追求は一切無い。そういう事もあるのだな、程度にしか受け止められておらず、助かったと思うと同時に、あまり気にしてもらえていない事が若干哀しかった。
 燦々と照りつける日差しの下で、子供たちの笑い声がけたたましく住宅街に響いていく。ちりん、と涼しげな音が聞こえたのは、綱吉の部屋の軒先に吊るされた風鈴だろうか。
「獄寺君も入っていく?」
「え?」
「プール」
 用を終えたホースを引き抜き、中に残っていた水を庭に撒いた綱吉が呵々と笑って言った。
 彼が指差した先にあるのは、直径一メートル少々の子供用家庭向けプール。五歳児のランボやイーピンには丁度よいサイズであるが、自称身長百七十センチ以上ある獄寺では、足を伸ばすのもやっとだろう。
 真顔で綱吉と、水遊びに興じる子供たちとを交互に見た獄寺は、自分がからかわれたことに五秒後に気付いて顔を赤くした。綱吉が肩を小刻みに震わせて必死に笑いを噛み殺し、獄寺はそんな事はしない、と拳を胸の前で振って懸命に否定する。
「分かってるってば。言ってみただけだよ」
 そんなにムキにならないでも良いのに、と過剰に反応した獄寺を前に綱吉は涙目を作り、苦しげに喉を鳴らして腹を抱えた。
 底の浅いプールでバタ足をしていたランボたちも、動きを止めて何事かとふたりを見やる。息も絶え絶えになってひーひー言って、綱吉はそう怒るなと獄寺を宥めて顔の前で手を振った。
「だからって、そんな、笑わなくても良いじゃありませんか」
「そうなんだけどねー。獄寺君の顔、おっかし……っ」
 不満たらたらと文句を言った獄寺に、漸く笑いが収まった綱吉がまた思い出したらしく声を押し殺す。手の甲を唇に押し当てて噴出しそうになったのを堪えた彼に、獄寺は頬を膨らませて大股にプールへ近付いた。
 きょとんとしているランボの斜め向かいにしゃがみ込み、両手をそろえて水を掬う。
「それっ!」
 掌を受け皿にして薄い膜を作ったそれを、彼は振り向きざまに綱吉目掛けて投げ放った。
「わっ」
 全く警戒していなかった綱吉が、突然顔から胸元を襲った冷たさに悲鳴を上げた。十センチばかり飛び上がって後退し、濡れた手と前髪に目を丸くする。
 したり顔を作った獄寺の横で、ランボもまた目を輝かせた。新しい遊びを見つけたと、水鉄砲の蓋を外して沈め、空気と入れ替えに中に弾丸代わりの水をいそいそと装填する。
 満タンになる手前で引き上げ、素早く両手で構えて狙いを定め、
「それー!」
 引き金を引く標的は当然、綱吉。
「ちょっ、こら。ランボまで、止めろって」
「へへーんだ。ばきゅーん、ばきゅーん」
 本物の拳銃を撃った時の効果音を口で真似て、ランボは綱吉目掛けて水鉄砲を乱射した。
 避けきるには限度があって、しかも獄寺や、面白がったイーピンまでもが加勢するものだから、綱吉の服はあっという間に水浸しになった。
 乾いていた髪の毛にも無数の雫が滴り、重くなった毛先が垂れ下がって綱吉の視界を覆った。
「ばきゅーん、ばきゅー……あり?」
 調子に乗って連射しているうちに、勢いをなくした鉄砲にランボが首を傾げた。半透明の鉄砲を傾けて覗き込み、弾切れだと気付いて慌てて蓋を開けて膝元に沈める。が、三人が一斉に、後先考えずにばら撒いた所為で、プールに溜め込んでいた水はすっかりなくなってしまっていた。
 結構な量があったはずなのに、いつの間にかランボの足の表面を薄く覆う程度しか残されていない。この事実には、的にされた一名を除くこの場に居合わせた全員が愕然とした。
 プールの底に着地していたホースの先端が、ずりずりと音もなく引っ込んでいく。
 僅かに内部に残っていた水が溢れて、その冷たさに飛び上がったイーピンが、遠ざかっていく細長い物体を指差して何かを言った。が、彼女の言葉を聞き取れなかった男ふたりはまるで動けず、獄寺は両腕を、ランボは全身を濡らしたまま、青い蛇が綱吉に引き寄せられていく様を見送った。
 彼は縁側に屈みこみ、右手だけで器用にホースを手繰っていた。
 濡れ鼠状態のまま、不敵な笑みを口元に浮かべる。彼の左手は後ろに回り、ホースの根っこに繋がる金属製の蛇口を掴んでいた。
 いつでも捻られるように待ち構えた綱吉の右手に、ホースの先端が到達する。
「げっ」
 やっと我に返った獄寺が、狙い澄ます彼の視線の先に誰がいるのかを知って慄いた。
 隣のランボも悪い笑顔を浮かべる綱吉にビクッと全身を強張らせ、降参とばかりに両手を持ち上げた。力の抜けた指先からは空っぽになった水鉄砲が落ち、緑色も鮮やかな芝の上に横たわった。
 けれど綱吉はにこにこと菩薩のように微笑み続け、丸いホースの先端中央を親指の腹で押し潰した。
 水圧に負けぬように腰を低く落として構えを取り、左手を添えた蛇口を思い切り、一度でいけるところまで捻って栓を解放する。
「それ!」
 鋭い掛け声と共に吐き出された水は、細かな飛沫を撒き散らし、獄寺たちに向かって一直線に宙を奔った。
「いで!」
 ふたつに別たれた水は、速度に乗ってそれだけで凶器と化す。第一撃を食らって悲鳴をあげた獄寺を前に、綱吉はにやりと不遜に笑ってゆっくり体を起こした。
 ホースの向かう先は変えず、巧みに操作して獄寺のみならず、ランボにも攻撃の矛先を向ける。イーピンだけは、反撃が怖いのと可哀想という理由で標的から外しておいた。
 これだけ水で濡らしてやれば、獄寺のダイナマイトもふやけて使い物になるまい。彼は両腕を顔の前で交差させて直撃だけは回避させているが、じわじわと後退して綱吉から距離を取り、逃げの体勢に入っていた。
 ランボは最初の一撃でプールにひっくり返り、ぎゃあぎゃあ喚いて両手両足をばたつかせている。水嵩が減っているので沈んで溺れるという心配もなく、早くも戦線離脱した彼に綱吉は満足げに笑みを零した。
 残るは、獄寺のみ。
「じゅ、十代目? 落ち着きましょう、話し合いましょう。話せば分かり合えます」
「へえ~? そうなんだ、君っていつからそんな平和主義者になったのかな~?」
 いつもなら我先に、相手の言い分も、綱吉の制止すら聞かずに突撃していくくせに、こんな時だけ及び腰になるのは臆病すぎやしないか。
 自分のしでかした事への報いくらい、正々堂々受けとめてみせろ。ゆらりと怒りのオーラを背後に揺らめかせ、綱吉は一旦指の力を抜いてホースから溢れる水をぼたぼたと足元に垂らした。
 地面に染み込み損ねた水が草の上に溜まり、柔らかくなってぬかるむ。サンダルの裏で泥水が跳ね、踝が濃い茶色に汚れたが綱吉は気にも留めなかった。
 じわじわ獄寺を壁際に追い遣り、にっこり相好を崩す。悪意がまるでない天使のような笑みだからこそ余計に恐ろしく感じられて、獄寺はぞぞっと背筋に悪寒を走らせて全身を竦ませた。
 日頃温厚な人ほど怒らせると怖いと言うが、全くもってその通りだ。
 ランボと一緒になって調子に乗って、彼をここまで怒らせるような真似をした自分が一番悪いわけだが、なにもそこまで、と思わずにもいられない。後退するにも限界があり、ブロック塀手前にある小規模な花壇の煉瓦に踵が乗り上げた獄寺は、思わぬ段差に驚いて大仰に肩を震わせ、恐々後ろを振り向いた姿を鼻で笑われた。
 逃げ場を失い、途方に暮れた彼に綱吉がにじり寄る。水を溢れ返すホースを上向きに構え、満面の笑みで彼は太陽が輝く中、琥珀色の瞳を細めた。
 獄寺もまた頬を引き攣らせた状態でぎこちなく笑い返し、落ち着くよう促して胸の前で重ねた手を綱吉に向かって押し出すポーズを取った。が、この程度で許してもらえるのなら、ここまで追い込まれる前にとっくに許されているはずで。
「獄寺君、暑そうだね。俺が涼しくしてあげるよ」
「いえ、十代目にそこまでしてもらうのは、自分としてはちょっと」
「俺の好意が受け取れないって?」
「決してそういうわけではないのですが、結構、若干、かなり、お気持ちが重く感じられるんですよ、ね?」
「へ~? 君ってば、そういう事言っちゃうんだ」
 馬を宥めるような手つきにこめかみの青筋を深め、綱吉が口角を歪める。ぴき、と彼が背負う空気に罅が入る音が聞こえて、獄寺は自分で地雷を踏みに行ったことに今更気がついた。
 大人しく負けを認め、素直に謝っておけばよかったのだ。それを、言い訳がましく取り繕うとしたから。
 頬をヒクヒクさせた綱吉の力が入った笑顔に凍りつき、獄寺はずい、と寄せられた青色のホースに硬直した。
 いくら水とはいえ、至近距離からあの勢いで顔面に叩きつけられたら、痛いだけでは済まされない。なんとか逃げおおせようにも、後ろは壁で、前には綱吉。左右は開いているものの、不審な動きを見せれば即綱吉は攻撃を繰り出してくるだろう。
 にっちもさっちも行かず、万事休すの状況に獄寺は天を仰いだ。
 ちりん、と呑気な風鈴の音が聞こえる。ダイヤモンドの輝きを放つ太陽は、相も変わらず気持ち良さそうに空に浮かんでいた。
 諦めの境地に浸り、再び綱吉に向き直った獄寺の視界の片隅に、白と黒と赤っぽいものが見えた。
「獄寺君、覚悟!」
「え、あ、いや。待ってください十代目!」
 心なしかホースから溢れる水の勢いが衰えていて、しかし気付いていない綱吉は呼号してホースの先端を親指で押し潰した。
 獄寺が瞬時に悟り、彼を止めるべく両腕を伸ばす。五十センチばかりあった距離を一気に詰めて、真剣な眼差しで綱吉の顔を覗き込んだ。
 左手を獄寺の両手に包まれ、冷えていた肌を覆った体温に綱吉の心臓がドキリと跳ね上がた。濡れて重くなった銀髪を頬に張り付かせ、前屈みになった所為で影を背負った獄寺の気迫に呑まれて綱吉が喉を鳴らす。
 ホースから流れる水が、完全に止まった。
「ご、獄寺君?」
「十代目、自分は」
 至近距離から覗き込んだ琥珀の艶を独占した瞬間、綱吉同様に心臓を高鳴らせた獄寺は、自分が言いたかったことを一瞬で思考から消し飛ばした。頭の中が真っ白になってしまい、綱吉の手ごと握ったホースから水が途絶えた現実を忘れて彼を凝視し続ける。
 そもそも、彼が今日此処に来た理由は、綱吉と喧嘩をする為ではない。顔を見に、――会いたかったから足を向けたのだ。
「俺は……」
 今ならその気持ちを言えるような気がした。普段は恥かしさが勝り、綱吉も逃げてしまうのでなかなか面と向かって言えないでいる正直な心のうちを、この場でならはっきり告げられると。
 冴え冴えとした中に熱を宿す視線を浴びせられ、綱吉も二の句が継げず硬直した。
 とても大事な事を忘れて、彼の瞳に見入る。影の中にあっても眩い銀髪から雫が滴り落ち、ぽたりと握り合った両手の間に落ちて沈んでいった。
 少女特有の甲高い、しかし呻くような声が、響いた。
「――え?」
「あ」
 掌を伝う震動に、綱吉が声を裏返した。その声にハッとした獄寺が手元を見て、先ほど綱吉の背後で展開されていた光景を思い出した。
 赤い水着を着た辮髪の少女が、喧嘩をやめない綱吉と獄寺を止めようと、あろう事か。
 あろうことか。
「あれ、俺、水……」
 ホースから滲み出る水の量が可笑しいことに今頃疑問を抱いて、綱吉が首を捻りながら直径一センチ強の丸い先端を覗き込んだ。
 後ろで膨れ上がっているホースに恐れおののき、獄寺がこのままでは失明の危険性がある綱吉を思い切り突き飛ばす。
 瞬間。
「哇哇!」
 膨れ上がったホースの圧力に耐え切れなくなったイーピンが、裏返った悲鳴と共に丸っこい体を宙に飛ばした。
 彼女の足で堰き止められていた水が、出口を求めて怒濤の勢いで走り出す。綱吉の手の中でぶるぶると震えたそれは、瞬きをする間も与えずに濁流を吐き出して空に虹を描き出した。
 顎に直撃を食らった獄寺がつんのめり、衝撃に驚いた綱吉の手を離れたホースが回転しながら庭中に水を撒き散らす。綱吉や、当然獄寺にもその被害は及んで、突発的な間欠泉から降り注ぐスコールにふたりは呆然と立ち尽くした。
 やがて、獄寺がぬかるんで泥だらけの地面に倒れこみ、その上に勢い萎えた青いホースが落ちた。
「び……びっく、りし、た……」
 あまりのことに半歩引いた状態で凍りついた綱吉は、上下ともにびしょ濡れの状態のまま息を切らして呟き、庭に伏した獄寺はすっかりズタボロの状態で呻いて顔だけを持ち上げた。
 泥に汚れた銀髪に、白い肌。美男子が台無しだけれど、情けないその格好がいかにも彼らしくて、瞬きをした綱吉は深呼吸を二度繰り返した末、ぶっ、と思い切り噴き出した。
 プールの縁によじ登ったランボも、丸くした目をもっと大きくして笑い転げた。仰向けに転がっていたイーピンもまた、ぶつけた頭を撫でて起き上がり、笑っているふたりにつられる形でけらけらと可愛らしい声をあげた。
 三人から揃って指差された獄寺が、苦々しい顔で緑の草を貼り付けた頭をかき回す。
「笑わないでくださいよ……」
 綱吉を庇ったはずなのに、その功績が正しく評価されていない。蚊の泣く声で訴えた彼の気持ちなど露知らず、綱吉たち三人は声が枯れるまで、笑い続けた。
 

2008/08/20 脱稿