家を出た時から、降り出しそうな空模様だとは思っていた。
けれどさほど距離も離れていないし、行ってすぐ帰って来るだけだから時間も掛からないと期待を込めて、荷物になる傘は持たなかった。
レンタルビデオ店に、期限切れで滞納間近だったビデオを慌てて返却に行ったその帰り。新作がないかな、と適度に広い店内を興味本位で見て回ってしまったのが、運の尽きだった。
予想以上に時間を使ってしまい、自動ドアを潜り抜けた先で待ち構えていたのは鉛色の厚い雲。くすんだ藍色だったアスファルトは濡れて紺色を強め、地表に潜り込む術がない雨粒は何箇所かで身を寄せ合い、水溜りを形成していた。
店先の狭い軒を打つ雨音は絶えることを知らず、飛沫を撒き散らして走り去る車のエンジン音も幾らか重みを増していた。
「あちゃー……」
失敗した、と思っている内容を素直に顔に出し、綱吉は濡れそぼる灰色の町並みに目を凝らして肩を落とした。
こんなことなら、多少の荷物と惜しまずに傘を持ってくればよかった。後悔しても既に時遅しで、結構な勢いを持つ雨模様に彼は湿った唇を舐め、後ろで閉まる扉の音を聞いた。
ぱらぱらと降る程度ならば、濡れるのを覚悟で走って帰るのだが、今の勢いではそれも少々気が引ける。帰り着く頃には全身ずぶ濡れになっていそうな気配がありありで、試しに掌を軒から差し出して大きな雫を受け止めると、思っていたよりも冷たくて、彼は即座に肩を竦めて身を引いた。
跳ねた水滴が顎のラインにまで飛んで、嫌そうに顔を顰める。薄汚れたスニーカーにも雫は飛んでいて、黒い点々が段々と幅を利かせていく様に、綱吉はどうしたものか、と溜息を零した。
窺い見た背後の店内は、明るい色に染まって屋外とは対照的。レンタルショップではあるが、流石に傘の貸出まではやっていないと再度肩を竦めた彼は、何も借りてこなくて良かったと空っぽの両手をズボンに押し当てた。
指先が感じ取ったのは、ポケットの中に押し込んだ財布の僅かな厚み。残高の心細さから、観たかった映画のレンタルが始まっていたけれど、諦めたのだ。故にコンビニエンスストアで傘を買って、等という選択肢は最初から綱吉の頭にはない。
「どうしよう」
都合よく友人、知人に遭遇しないか。周囲を見回して通り掛かる人の顔を観察していると、後ろで音がして、邪魔だといわんばかりに肩からぶつかられた。
尤も出入り口を塞いでいたのは綱吉の方なので、大っぴらに文句も言えない。右によろけた彼を押し退けた男性は、戸口脇の傘立てから迷わず濃紺の傘を引き抜き、慣れた手つきで広げて去っていった。
傘立てにはまだ三本ばかり、誰かの傘が残されていた。濡れているものがニ本、濡れていないものが一本。何れも使い込まれていて、再度窺い見た店内には持ち主らしき人の姿。
黙って借りて帰るわけにもいくまい、そんな事をすれば自分の沽券に関わる。
一瞬脳裏を過ぎった悪い考えを打ち消し、綱吉は湿り気を帯びた前髪を掻いて低い位置にある雲を見上げた。
「しょうがない、か」
此処でこうしていても、仕方が無い。止む気配は一向に感じられず、雨宿りをするにも限界がある。家に帰って即座に風呂に飛び込めば、風邪を引くなんて間抜けなことにもなるまい。
脳内で簡単な計画を思い描き、他に道もなさそうだと綱吉は諦めに近い心境で首を振った。一旦目を閉じて肩の力を抜き、次に見開いた時には力強さをそこに潜ませる。
だが実際には、彼が勢い勇んで軒先から駆け出そうとした瞬間。
出鼻を挫く形で、彼の前を黒い影が走った。
「っ……」
スタートダッシュを決め込もうとしていた綱吉が、思いがけない他者の乱入に目を見開いて場を退く。背中が冷たいガラス戸にぶつかりかけて、先に彼を探知したドアが自動的に横へスライドしていった。
「わっ」
あると思った壁がなくなり、後ろ向きに倒れかけた綱吉は必死にバランスを掻き集めて両手を振り回した。片足で飛び跳ね、カウンターの店員に怪訝な顔をされて真っ赤になり、おっとっと、と今度は前に重心をやりすぎて最後にしゃがみ込む。
ひとり滑稽な芝居を演じた彼には、軒下に乱入して来た人物も不審な目を向けた。
「なに、やってるの」
「ほっといてください」
こんな時に限って、出会う知り合いが彼とは。しかも綱吉が期待していた傘を持たないで。
黒髪を濡らし、雫を飛ばした雲雀が、学生服の肩に浮き上がった粒を指で弾き飛ばしながら低い声を奏でる。まだ恥かしさから立ち直れない綱吉は、並べた膝に額をこすりつけて近くなった水の匂いを嗅いだ。
雲雀の濡れ方は、酷くもないが易しくもない。雨宿りが出来そうな軒下を幾つか経由して、距離を稼いで此処まで来た様子が窺えた。
「傘は」
「持ってないから、此処に居るんじゃないですか」
「そうだろうね」
今度は袖を交互に払った雲雀の問いに、ぶっきらぼうに言い返す。呆気なく肯定されて、負け惜しみで睨みつけてやると、雲雀は小さく笑った。
最後に腰周りを両手で叩き、軽く水分を飛ばした彼は、目の前を横切った己の前髪を邪魔そうに梳き上げて後ろへ流した。普段は隠れている額が一瞬だけ表に出て、たったそれだけでも随分と見た目の印象が変わることに驚き、綱吉は無意識に腰を浮かせて膝を伸ばした。
「あっ」
「ん?」
そして体重移動に失敗し、前によろけた際に声が漏れて、雲雀に変な顔をされてしまった。
「なんでもない、です……」
自分の事は気にしないでくれ、と拗ねた声を返し、そっぽを向いて赤い顔を隠す。その言葉通り、雲雀は綱吉に構う事無く降り続く雨の行方に意識を向け、落ちてきた前髪を再び後ろへ流した。
吐く息も僅かに白く濁って見える。蹲ったままでいると路面で跳ねた水滴がぶつかってくる量も多く、濡れるのを嫌った綱吉は抱いていた膝を解いて腕を下ろし、立ち上がった。
肩が並び、雲雀が居場所を譲って左へと避ける。ドアが開いて、中に居た人が青色の袋を手に傘を捜して手を泳がせた。
「あ、すみません」
雲雀が立ち位置をずらした理由を悟り、綱吉もまた彼を追って広がった分の距離を詰めた。軒から垂れた大きい雫が足元に沈んで、会釈して出て行った女性を見送り綱吉は気怠げに目を細めた。
「止まないですね」
「そうだね」
返事を期待しない独り言だったのに、相槌が挟まって、些か驚く。目を丸くして傍らを見上げれば、不本意そうな雲雀の顔にぶつかった。
彼の肌色は、少々優れない。綱吉と違ってこの雨の中を走って来た分、体温が奪われたのだろう。
そういえば以前、入院した先で風邪をこじらせた雲雀と同室になった事があった。暴力的で頑丈なイメージがある彼だが、案外繊細なのかもしれない。今日も、このままでいたら身体を冷やして熱を出す可能性がある。
思い巡らせ、綱吉は再び雲雀を見た。
「なに」
「寒くないです?」
気付いた雲雀も首を傾けて綱吉を見下ろす。黒髪は重く垂れ下がり、いつもより艶が増していた。
「どうして?」
「いや、その……風邪でも引いてまた入院したら、て」
何故そんな事を気にするのか。質問で返されて、綱吉は視線を逸らし、もごもごと言い辛そうに口篭もった。
もう少し遠回しに聞けばよかった。直接的過ぎて、これでは自分が彼を心配しているようではないか。
実際はそうなのだが、気恥ずかしさから認めたくなくて、綱吉は斜め上を向いたまま胸の前で左右の人差し指を寄り合わせた。
仕草を目で追って、雲雀がふむ、と何故か頷く。
「そうなったら、ちゃんと見舞いに来てよね」
「う、わ……」
「鉢植えなんか持って来たら、咬み殺すよ」
入院患者へ持って行ってはならないものの筆頭を例に挙げ、雲雀は緩く曲げた指の背で顎を撫でた。流し目気味に綱吉を窺い見て、決定事項なのかと唖然としている彼に不遜な笑みを浮かべる。
その婀娜っぽい瞳にドキリと心臓を跳ね上げ、綱吉はなんとか場を誤魔化そうと必死に頭の中で日頃使わない知恵を振り絞った。
この場に相応しい返答は、なんだろう。懸命に頭を捻り、短く唸った彼は、ぽんっ、と前触れもなく脳裏に浮かんだ単語に柏手を打った。
「そうですね、ヒバリさんって根無し草ですもんね」
自分としては絶妙な合いの手だと疑わなかった綱吉だが、言われた方は若干心証を悪くした様子で顔を顰めた。
「え……と」
「君、意味知らずに使ってるね」
不機嫌になった雲雀の表情に不安を覚えた綱吉の額を小突き、幾許か小降りになろうとしている雨空を仰いで雲雀が言った。
どうやら失敗だったらしい。打たれた箇所を両手で庇い、綱吉もまた西から明るくなり始めた空に目を向けた。なんだかんだで時間が過ぎて、雨雲は東へと移動を開始していた。もう少し待てば、雨も完全に止むだろう。
洗われた空気を吸い込み、綱吉は小さく舌を出して腕を下ろした。
「それに、僕はもう、根を張ってるだろう」
湿っている学生服を気にして、生地を揉んだ雲雀が不機嫌さを継続させたままの声で続けた。
話は終わったとばかり思っていた綱吉が、首を傾げて彼を見る。意味深な笑みを口元に浮かべた彼は、きょとんとしている綱吉の左胸に立てた指を突きつけた。
「此処に」
トン、と軽く押して雲雀が肘を引く。
離れていく彼の指を目で追った綱吉は、二秒後に愉しげに笑っている雲雀の意図するところを知り、噴火の如く頭から湯気を立てた。
2008/04/30 脱稿