緑陽

 緑の若葉が頭上で影を作り、そよそよと吹く風に揺られて木漏れ日を波立たせていた。
 人の往来が激しい道中でありながら、待ち合わせ用に設けられたこの一画は、他と比べてまだ幾分静かだった。中央に植えられた樹木は、この町が遂げる発展を逐一見詰め続けてきたのだろう。覚えている限り最初の記憶ではひょろっとして頼りなかったのに、今では充分枝ぶりも立派になり、胴回りも太くなった。
 ちょっとやそっとの嵐では折れそうにない。瞳だけを上向けて、丁度落ちてきた光に目を細めた綱吉は、右を上にして組んでいた脚を入れ替えて頬杖を崩した。
「ふぁー、ああ……」
 一緒に欠伸まで漏れて、生理的に浮いた涙を指で拭う。目の前を行き過ぎた人に笑われた気がして落ち着かず、横向いて視線を逸らした彼は、座っているブロック塀の上で居住まいを正した。
 目印ともなるこの木は、周囲が一メートルばかり土で覆われたその先でブロックに囲まれ、更に白い柵まで設けられていた。塀に座るのはいいが、中には入るなという無言の圧力で、その牽制通り、柔らかな土に触れられるのは鳥か、猫くらいだ。
 眩しい陽射しが木の葉で遮られ、柔らかさを増して綱吉に降り注ぐ。程よい陽気のお陰もあって、さっきから彼は眠気に襲われっ放しだった。
 人々の雑踏もまた、心地よいバックミュージックと化している。時折無粋なクラクションや大音響のカーステレオが聞こえて来るが、それだってずっとではない。もうひとつ欠伸をし、綱吉は顔を上げて少し先に建てられた細い時計塔の文字盤を見詰めた。
 光を反射して見えづらいが、午後二時を少し回った辺りを指し示している。昼食も終えて、昼寝をするには絶好の時間帯だ。だが流石に、人が大勢行き交うこの場所で居眠りをするのには、少々勇気が要る。
 手持ち無沙汰に肩を揺らし、浮かせた足先で空中に円を描いた彼は、こみ上げた欠伸を今度は寸前で噛み殺した。
「どうしよっかな」
 待ち合わせのメッカとなっている駅前広場は、人がひっきりなしに出入りして一秒と同じ顔をしていない。広げた手に顎を預けて背中を丸めた彼は、今もまた待ち人を迎えて嬉しそうに顔を綻ばせた少女に目をやり、深々と溜息を零した。
 綱吉がこの場所に来て、ベンチではなくブロック塀に居場所を定めてから、既に一時間と二十分が経過しようとしていた。
 約束があったわけではない。ついでに言えば、此処にくれば逢える相手でもない。
 むしろ、来ない確率はほぼ百パーセント。
「馬鹿だよなー、俺」
 人づての噂で話を聞き、期待に胸膨らませて電話の前で正座して待ったのは昨日のこと。しかしベルは一晩中鳴らず、朝に確認したメールでも、一通たりとも新着の連絡は無かった。ひょっとしてガセネタを掴まされたのかと憤慨したが、調べてみればどうやら嘘ではない模様。
 だから単純に、向こうが綱吉に連絡を寄越していないだけだ。
 その理由は、色々考えられるけれど。
「忙しいって事じゃん」
 仔細は兎も角として、つまり、電話の一本やメールの一通を出す暇もない程、相手が多忙を極めているという事だ。
 そもそも今回の来日だって、仕事の途中で立ち寄っただけに過ぎない。滞在時間だって極小で、私用で抜け出すなんて真似は、生真面目な彼の事だ、できるわけがない。
 連絡をしてくれなかったのは、綱吉をがっかりさせない為の彼なりの配慮。そう考えれば、一応理解出来る。
 ただ、納得は出来ない。
「声、くらいは、さ」
 幾ら国際電話料金が昔に比べれば安くなったとはいえ、そうそう長話も出来ない。時差もある。だからせめてこの国に立ち寄った時くらい、五分程度でも構わない、話をしたかった。
 頬を膨らませ、頬杖を解いた彼は膝に額を押し当てて踵を持ち上げた。ブロックの縁に引っ掛け、脚を抱えて丸くなる。
 宿泊先のホテルは知らない、どこへどんな用件での来日かも教えて貰えなかった。ただ仕事、というだけ。彼の同僚の女性は色々親切だが、話をはぐらかすのも巧くて、綱吉はいつも煙に巻かれてしまう。
 茶化して遊ばれているのは間違いなくて、こちらは真剣に喜んだり、落ち込んだりしているのだから、もうちょっと気遣いを見せてくれてもいいだろうに。思い出したら腹が立ってきて、綱吉はむすっと頬を膨らませると尖らせた膝の上に顎を置いた。
 肺の中にあった二酸化炭素も全部吐き出して、脱力と共に足を落とす。靴の裏が砂利を踏んで、くたっと潰れた綱吉の頭上を、知らない声が通り抜けて行った。
「ごめーん、待ったー?」
「ううん、全然」
 綱吉同様に一時間以上この広場に居た人は、漸く現れた待ち人に嬉しそうに立ち上がり、上手に嘘をついて白く塗られたベンチを去っていった。
 並んだ背中を追いかけて視線を流し、綱吉はもう一度時計を見上げ、溜息を零した。
 家に居れば何か連絡が入ったかもしれないのに、どうして出てきてしまったのだろう。自分の行動も理解出来ず、綱吉は身体を起こし、降ってきた木の葉を捕まえて手の中で遊ばせた。
 この場所を選んだのは、本当に、なんとなく、だった。
「待ち合わせですか?」
「そうでーす」
 視線は斜め右に固定。不貞腐れていた綱吉は、急に断りなく話しかけてきた人物に見向きもせず、木の葉をくるくる回してぶっきらぼうに言い返した。
「随分と長い間待っていらっしゃるようですが」
 すると、続けてぐさりと胸に突き刺さることを言われた。人の気も知らないで、平然と吐き出された失礼極まりない台詞に腹立たしさが募り、綱吉は思わず緑鮮やかな葉を手で握りつぶした。
 細かな繊維に絡みつく葉肉を掌から削ぎ落とす。恐らく街角アンケートか何かだろうが、こちらは傷心の身なのだ。そういうものは他の人に頼んで、自分は放っておいてくれないか。色々と頭の中で会話をシミュレーションさせた綱吉は、握り拳を戦慄かせ、ちっとも立ち去ろうとしない背後の気配に勢い勇み、振り返って睨みつけた――つもり、だった。
 実際には、ぽかんと間抜けな顔をして、其処に居た人物のあまりににこやかな笑顔に毒気を抜かれてしまった。
 暖かな陽射しを思わせる青の瞳に、日に透けると金色にも見える薄い茶の髪。整った鼻梁にすらりとした体躯は、通りすがりの女性の大半を振り返らせるに充分な要素を備えていた。
 チョコレート色のジャケットに、カーキ色のチノ・パンツ。アイボリーのシャツの襟を立てて外に出し、腰には昔のように厚みのある鎖を繋いだチェーンがぶら下がっている。ラフだけれど、雑になり過ぎない落ち着いた風合いは、幼さを僅かに残す顔立ちを引き締めて、彼の年齢を一回り上に見せていた。
「え、と……」
「待ち合わせ中ですか?」
 少年から青年への過渡期にある柔らかな中低音で繰り返された質問に、綱吉は目を瞬き、強張っていた表情筋を解して肩を落とした。
 苦笑を浮かべ、僅かに右に首を傾がせてから横へ振る。
「いーえ、違います」
 約束なんてしていない。ただ此処に居ればよいことがある気がして、ひとり日向ぼっこに興じていただけ。
 決して、誰か特定の人を待っていたなんて事はない。
 さっきとは正反対の返事をした綱吉に、バジルは相好を崩し、でしたら、と後ろにやっていた右手を彼に差し出した。
「お時間があるようでしたら、ご一緒にお茶でもどうですか?」
 優雅に、上品な仕草で指先を揃えて綱吉に向ける。淡い笑みは初夏の日射しの中、新緑に負けないくらいに鮮やかだった。
 伸ばされた腕を逆に辿り、意味深な微笑みを返した綱吉が喉を鳴らす。
「奢りですか?」
「勿論」
 悪戯っぽく聞いた彼に、にこやかな笑みを崩さずに応対してバジルが頷く。
 少しの間があって、綱吉が楽しげに肩を揺らして噴き出した。
「じゃ、折角だし。お願いしようかな」
 断るという選択肢は最初から持ち合わせていないくせに、もったいぶった態度を取って目配せした綱吉は、立ち上がるべく右手を伸ばし、漸く現れた待ち人の手を力一杯握りしめた。

2008/04/30 脱稿