賞美

 白い飛行機雲が、四角形に切り抜かれた空を真っ直ぐに横切っていた。
 窓の向こう、澄み渡る青空。これで鬱陶しいくらいの湿度が無かったなら、どれほど良かったことか。
 誰も居ない教室の片隅で机に寄りかかり、反省文、と書かれてそれ以外は真っ白の方眼紙に手を伸ばす。薄いインクで印刷された升目を指で押して数え、縦横きっちり二十個ずつ並んでいるわら半紙に深々と溜息を吐き、綱吉は参ったな、と顔を顰めて前髪を掻き毟った。
 額を落とし、机にこすり付ける。高温多湿の最中にありながら、触れた天板は幾許か体温より冷たくて気持ちが良かった。
 このまま眠ってしまいたい気持ちに駆られるが、後で困るのは目に見えている。
「うぅ……お腹すいた」
 今日は午前中で授業、もといホームルームは終了。明日からは目出度く夏休みに突入だ。
 三学年揃っての集会と、大掃除と。教室に戻って通信簿を受け取り、解散。次にクラスメイトに会うのは一ヵ月半後だ。
 諸手を挙げて歓迎すべき日だ、これで長く苦しかった勉強の日々からしばし解放される。実際級友の大半は大喜びで、夏休みに遊びに行く計画を自慢げに宣言しては、いいなあという喝采を貰っていた。
 昼前にすべての行程は終了し、みんなは重い荷物を抱えながら苦にもならないとスキップして教室を出て行った。ただひとり、担任から居残りを命じられた綱吉は、そんな彼らの背中を恨みがましい目で見送った。
 山本さえもが同情と嘲笑が同居した顔をして、頑張れよと手を振って去っていった。習字道具と体操服に、技術の授業で作った椅子を一緒に抱えた彼の晴れ晴れとした笑顔は、今日一日忘れられそうに無い。
「ちっくしょー」
 全部自業自得と分かっていても、愚痴は零れる。額に被る前髪を梳き上げ、静寂に包まれる教室前方の黒板を睨み、綱吉はけだるい身体を投げ出して顎を机に落とした。
 ごん、とぶつけて痛い音が響いたが、精神的に受けた傷の方がよっぽど酷い。
 自分も昼で帰るつもりでいたから、当然弁当なんて用意してなくて、購買部だって早々と店じまい。今日は部活動も一切禁止なので、グラウンドにも人影は無く、学校内はまだ明るい時間帯ながら、人気が薄く寂しい限りだ。
 書いて提出してから帰るようにと、通信簿と一緒に渡された用紙、合計三枚。反省文、と最初の一枚の右上に先生の筆跡で書かれた文字が何を指してのものかは、想像に難くない。
 二つ折りの成績表を広げれば、並んでいたのは真っ赤な数字。お前はいったい、毎日学校に来て何をやっていたんだ、と言われても仕方が無い散々な結果には、ある程度覚悟していた綱吉も言葉を失った。
 唖然として、冗談だろうとその場で裏返したり、ひっくり返したり。閉じて、数字が入れ替わりやしないかと念じて広げてみるが、最初に目にした画面と全く同じものが再び視界に現れるだけ。一とニしか並んでいない一学期の欄の横には、赤いペンでもっと頑張るようにとの警句がしっかり書き込まれていた。
 こんなもの、奈々にも、リボーンにだって見せられるわけがない。
 確かに試験の結果は、悪かった。褒められたものではなかった。でもそれは、人が勉強している時に限って問題行動を起こしてくれる子供たちにだって、多少の責任があった。
 人の所為にするなんて最低だと思うが、事実だ。獄寺や山本、ハルも好意で勉強を手伝ってくれたが、彼らが揃って大人しく一日が過ぎた例はいまだ嘗て一度としてない。
 正直迷惑なのに、彼らの気持ちが嬉しくてつい首を縦に振ってしまう自分の八方美人さが悪いのか。
 両手で頭を抱えて髪の毛を掻き毟り、文章として書ける内容に至らない思考回路に舌打ちする。苦悶に顔を歪めた綱吉は机の上でひとりのた打ち回り、最後に思い切り額を天板に打ち付けてその反動で身体を起こした。
「……うわぁ!」
 そして意外な人物が傍にいる事実に気がついて、みっともなく悲鳴を上げた。
「なにやってるの」
 いったい、いつの間に。
 まるで気配を感じさせなかった相手に驚き、飛び上がって椅子をガタガタ言わせた綱吉に、雲雀は腕組みをゆっくり解いて呆れた声を出した。
 斜め前の机に腰を預けて寄りかかり、白シャツの半袖に臙脂の腕章を固定している。それ以外は綱吉とほぼ同じ服装で、中央に寄り気味の長い前髪の隙間から冴え冴えとした黒の瞳が覗いていた。
 綱吉は両手を顔の前で交差させ、珍妙な姿勢を作って硬直した。何かの変身ポーズに似ているが、左右の手のバランスが可笑しいので非常に滑稽だ。左足も膝が跳ね上がって踵が浮いており、一ヶ月間持ち帰りもせず、当然洗ってもない汚い上履きが足裏から剥がれた。
「な、なな……な!」
「僕はそんな名前じゃないよ」
「ヒバリさん!」
 目を零れ落ちそうなくらいに見開き、パクパクと金魚みたいに口を開閉させて息を吐く。呂律が回らなくて言いたいこともいえなくて、頭もショート寸前だったのだが、雲雀の冷静な一言にハッと我に返って、綱吉は大声で怒鳴った。
 右耳に指を差し込んで音を遮断した彼が、迷惑そうに口元を歪めて綱吉を見返す。
「そんなに大声出さなくても、聞こえる」
「すみません。……って、じゃなくて」
「なに? 反省文って」
 反射的に謝ってしまい、話題がどんどんずれていることに目を瞬いて綱吉は握った拳を上下に振った。浮いていた椅子の前足を下ろして体勢を安定させ、若干上擦り気味の声で必死に言葉を捜してまくし立てる。
 その間に伸びた雲雀の手が、綱吉の机から手付かずのわら半紙を引き抜いた。
 一文字も記入されていない真っ白い升目に視線を走らせ、顔をあげた雲雀は心持ち、笑っていた。
「君、何かやった?」
 自省を促す意味での命令文を指で弾き、薄っぺらな紙を揺らした雲雀が質問を重ねる。彼の表情は鉄面皮すぎてなかなか読み取りづらいが、面白がっている気配は濃密に感じられて、綱吉は椅子の上で居住まいを正し、臍を噛んだ。
 綱吉自身、反省文にはほとほと縁がある。特に風紀委員絡みで、一週間に一度は必ず提出させられていると言っても過言ではない。
 暗にその事を揶揄する彼の言葉に、綱吉は顔の上半分に手を添えて力なく首を振った。
「それは、えっと、だから」
 けれど、言うには恥かしすぎる。どう誤魔化そうかと懸命に考えるが、この状況で妙案が浮かぶ方が奇跡だ。雲雀はこの間もじっと綱吉を見詰め続け、涼やかな瞳に映る自分の姿に居た堪れなくなった彼は結局両手を膝に揃え、頭を垂れた。
「……成績の悪さを反省しろ、だそうです」
 通信簿を渡した時の、先生のなんともいえない顔が忘れられない。お前はこの先大丈夫なのかと、心の底から案じる視線だった。
 自分だって好き好んでこんな成績を残しているわけではない。一応努力はしているし、改善しようと心がけている面もあるのだ。
 ただ、結果が伴わないだけで。
「成績? ああ、オール一だっけ」
「ニもふたつありました!」
 綱吉の掠れた声での返事に、雲雀が顎に手をやって鷹揚に頷く。感嘆した様子で呟かれた台詞に、咄嗟に頭に血を上らせた綱吉は机を叩いて立ち上がった。
 勢い負けした椅子が後ろへ倒れ、盛大な音を立ててひっくり返る。脚部の根っこに踝を叩かれ、痛みに顔を顰めた綱吉は、目の前で不敵に笑う雲雀を見つけて途端、しまった、と顔を青褪めさせた。
 雲雀は当てずっぽうで言っただけだ。
 自分で恥を晒したことになり、綱吉の顔にサッと朱が走った。情けなくて、恥かしくて、穴があったら飛び込んで蓋をしたい気分に駆られる。
「へえ? なにと、なに?」
「こ、国語と社会、です」
「残りは全部一なんだ」
「悪かったですね!」
 馬鹿にされ、思い切り怒鳴り返して頬を膨らませる。カッカと頭から湯気を立てて綱吉は腰を捻り、自分で蹴り倒した椅子を起こしてどっかり座り直した。ぶつかるように思い切り屈んだので、固い天板にぶつけた尻が少し痛い。
 抓んでいたプリントを机に返し、ぷんすか怒っている綱吉に雲雀が肩を竦める。落ち着けと宥めて頭を撫でてやろうとしたが寸前で躱されてしまい、行き場の無くなった手は困ったように空気を握りつぶして戻って行った。
「俺だって、……一所懸命やってるのに」
「そう?」
「そうです!」
 いぶかしむ声をあげる雲雀に叫び、唇を尖らせて綱吉は広げた脚の間に両手を置いた。椅子を握り締めて座ったままガタガタ揺らし、踵で思い切り床を蹴りつける。
 跳ね上がった膝が机の裏側にぶつかって、置いてあるだけだったシャープペンシルが転がった。
 床に落ちたそれを雲雀が拾い、今度こそ逃げられる前に憤慨する綱吉の頭を撫でて離れていく。指で器用にくるくる回して、彼は丸くなったペンの頭部分で自分の顎を二度小突いた。
 無人の机に寄りかかり、浅く腰を下ろして膝を曲げる。楽な体勢を作り出し、右肘の内側に左手を置いて背中を丸めた。
「ヒバリさんこそ、どうだったんですか」
「僕? 僕は、オール五」
「嘘!」
「うそ」
 いつも応接室にいて、教室で授業を受けているところなんて一度も見た事が無い。そもそも彼は現在何年生なのか、根本的な疑問が次々に沸いて出て、声を荒げた綱吉の質問に、雲雀はいけしゃあしゃあと答えて舌を出した。
 危うく信じかけた綱吉が、突き出した右手の人差し指をくたっと曲げて唖然とする。
「う……うそつきー!」
「だから、嘘だって言ったじゃない」
「屁理屈!」
 ちゃんと嘘だと正直に告白したのだから、うそつきではない。ふんぞり返って偉そうに言った雲雀に地団太を踏んで、綱吉はすっかり彼のペースに巻き込まれている自分にはたと気がついた。
 こんなことをしている場合ではなかった。早く反省文を書き上げなければ、いつまで立っても自分の夏休みが始まらない。
 シャープペンシルを返してくれと掌を上にして差出し、雲雀を睨みつける。彼は不遜に口元を緩めて笑って、欲しければ取り返してみせろと綱吉が掴む直前に手を引っ込めてしまった。
 空気を掴むだけで終わり、広げても中は空っぽの手を見詰めて、綱吉が唇を噛み締めた。
「ヒバリさん」
「それにしても、二がふたつだけ、ね。並盛中学始まって以来の快挙じゃない?」
「返してください」
「教師陣も頭を抱えていたよ。君はどうしようもないって」
「シャーペン、返して」
「このままじゃ卒業、出来ないかもね」
「うぐっ」
 耳に痛い事を言われ、綱吉は椅子の上で伸び上がったまま硬直した。
 雲雀がどうしたの、と顔の横で赤いシャープペンシルを揺らす。ぶらぶらと細くなった先端を下に向けて左右に動かし、綱吉をからかって遊びながら彼は人様の机への座りを深くした。
 悠然と右を上にして脚を組み、高くなった膝に頬杖をついて楽しげに目を細める。ぎりぎりと奥歯を噛んで悔しさを堪えた綱吉は、なにも鉛筆はその一本だけではないと息巻いて、ふんっ、と鼻を鳴らしそっぽを向いた。
 途中で食って掛かるのを諦めた彼に、雲雀がやや気を削がれた顔で肩を浮かせた。猫背だった身体を真っ直ぐに伸ばし、筆箱を漁って別のシャープペンシルを取り出した綱吉の手元をじっと見詰める。
 つまらないな、と嘯く声が聞こえ、こっちは雲雀に構っている余裕など無いのだと綱吉は心の中で悪態をついた。
 だが原稿用紙を前にすると、途端頭の中は真白になって、此処に書き記すに相応しい文言が霧の中に消えてしまう。深々と溜息をついて項垂れた綱吉は、仕方なく右端の下段に自分の名前を書き込み、そこで筆を置いた。
「書かないの?」
 窓の向こうから聞こえる蝉時雨に耳を傾け、寂しい夏の学校から外を見詰める。現実逃避でしかない行動を取った彼にとって、雲雀の淡々とした問いかけは痛い。
「だって、何書いたらいいか、もう」
「二学期はがんばります、で良いんじゃないの」
「頑張ってどうにかなると思います?」
 自嘲気味に笑い、綱吉は雲雀を振り返った。
 その返事が意外だったのか、雲雀は珍しく切れ長の目を大きくして驚きを顔に出していた。滅多に見る機会も無い露骨に感情を表立たせた彼に肩を揺らし、綱吉はへへ、と乾いた笑いを浮かべて出したばかりの芯を引っ込めた。
 雲雀の手からも難なくシャープペンシルを引き抜き、握りしめられていた所為で少し温い表面をなぞる。
 これまでも色々と、頑張ってみた。
 頑張って、頑張って、それで今回の結果が、これ。
 もうこれ以上、何をどうすれば良いのか分からない。
「落ち込みますよ、いくら俺でも」
 怒られるのにもすっかり慣れた。やっぱり自分は、何をやってもダメダメの、ダメツナでしかないというのを思い知らされた。
 額を机に擦りつけ、拳をその両側に置く。足掻いても、抗っても、最下層から抜け出す方法は見付からなかった。
「何が駄目なんだろうなー」
「全部じゃない?」
「そうですねー……って、ひど!」
 ゴロゴロと固い骨を押し付けて頭の中に音を響かせていたら、あっさりと言われてしまった。
 そのあまりの自然さに思わず同調しかけ、綱吉は一秒半後、目を剥いて飛び起きた。即座に広げた両手を机に叩きつけ、ばんっ、と音を立てて眉を吊り上げて怒鳴る。
 自分が駄目なところだらけなのは認めるが、人に言われると腹立たしくて仕方が無い。ぎりぎりと歯軋りしていたら、雲雀が呵々と喉を鳴らして笑った。
「ヒバリさん!」
 またからかわれたのだと気付き、顔を真っ赤にして綱吉は思い切り彼をねめつけた。
 だが元から女顔の所為もあり、迫力があるとはとてもいえない。それも本人の認めるところで、飄々とした風情で雲雀は簡単に受け流してしまい、ぽん、と広げた手で綱吉の頭を押さえ込んだ。
 そのままぐりぐり撫で回され、巻き込まれた髪の毛が引っ張られて頭皮が痛んだ。 
「むう……」
「勉強の出来、不出来だけが君の価値じゃないだろう」
 それでも触れられるのは純粋に嬉しくて、こんなことで絆されてしまう自分が少し情けない。頬を膨らませて拗ねていると、雲雀の声が静かな教室内に響き渡った。
 瞬きをして、顔をあげる。不敵な笑みを口元に浮かべた彼は、ぼうっとしている綱吉の小鼻を抓み、斜め上に引っ張った。
「いひゃい」
 ぱちん、とクリップに挟まれたみたいに弾かれて、赤くなった鼻を撫でた綱吉が不満げに口を尖らせる。
「君はもう少し、自信を持って良いと思うけどね」
 不遜に言い切り、雲雀の指が今度は綱吉の額を小突いた。何度も机に激突させた所為でほんの少し色を持った薄い皮膚を撫で、上目遣いに睨みつけてくる綱吉に目尻を下げる。
 疑ってかかっている彼の、真意を探ろうとしている視線を手で払いのけ、雲雀は机から立ち上がると二歩もない距離を一気に詰めた。
 綱吉の机の前でくるりと半回転して、尻を突き出す。断りも無く文房具を押し退けて広げた空間に座り、つられて顔を上げた綱吉の髪を落ちてきた手が優しく梳いた。
 なんだか誤魔化されている気がして、綱吉が下唇を浅く咬む。
「自信なんて」
 勉強は駄目、運動も駄目。長いものに巻かれろ体質で、優柔不断。
 敵を作りたくなくて、いつだって相手に対し一歩引いた行動を取ってしまう。嫌われたくないから他人に心を開くのも苦手で、どうせ駄目なら最初からやらない方が傷つかないと、諦めが先に立つ。
 こんな自分のどこに、自信を持てと言うのか。
 反省文は白紙のまま。時間だけが過ぎて行き、いつの間にか空腹感さえも忘れてしまった。
 よしよしと小さな子をあやす仕草で頭を撫でられ、綱吉は下を向き、首を低くした。
「でも」
 自分の欠点を冷静に観察できるのは、長所ではないか。
 不意に雲雀が言った言葉に綱吉は驚き、目を瞬かせた。
 顔を上げる。雲雀の手は、振り払うより前に引っ込んでいった。
「人はなかなか、そんな風に自分の駄目な面を口に出せないものだよ」
 誰だって自分の駄目な部分を進んで認めたがらない。長所を全面に押し出して、短所は隠そうとする。綱吉の場合、前に出すべき長所が著しく少ないという面は否めないが。
 褒められたのか、貶されたのか。どっちつかずの言葉に綱吉は眉間に皺寄せ、首をかしげて怪訝に雲雀を見た。
 複雑な表情をする彼を笑い、まだ赤みが残る鼻を人差し指で突いてその下に這わせる。唇を押され、綱吉は咄嗟に彼の指を飲み込もうとして慌てて止めた。
「なら、君の最高の長所を教えてあげようか」
「え?」
 離れていった彼の指を目で追い、勿体無かっただろうかと思っている自分を頭から追い出す。直後斜め上から落ちてきた声に、彼はきょとんとした。
 長所、自分の。
 勉強、運動、何をやっても巧くいかない綱吉の。
 ダメダメのダメツナに対する、雲雀の評価。
「俺の?」
「うん」
 疑わしくてつい聞き返してしまう。はっきりと頷いた雲雀に、それでもまだ一抹の不安を覚えて綱吉は椅子の上で居心地悪く身体を揺らした。
 彼の前でもダメツナぶりは遺憾なく発揮され、毎日のように遅刻を繰り返し、服装チェックでも減点の連続。風紀委員の仕事を手伝えばミスだらけで、資料をまとめてホチキスで綴じるだけでも人の倍、時間がかかった。
 思えば彼は、何故自分を傍に置いているのだろう。
 考えれば考えるほど不思議でならず、また落ち込んでしまって、綱吉は膝の上に丸めた手を置き、聞く体勢を作ってゴクリと喉を鳴らした。
 生温い唾を飲み込んで、咥内の渇きを癒す。それでも足りなくて喘いでいたら、雲雀が笑う気配がした。
「ヒバリさん?」
「うん。やっぱり君は、見てて厭きない」
「へ?」
「君といると、退屈しない」
 それが、綱吉の最たる長所。
 彼が居るところ、なにかしらトラブルが起きる。騒動が発生する。賑やかに、他人を次々に巻き込んで。
 こんなトラブル体質の人間、他に知らない。ただ眺めているだけでも充分面白いのに、一緒にいればそれだけ予想外のトラブルに遭遇する確率も上昇する。
 つまらない日常を送っていた雲雀にとって、またとない刺激だ。
「そんなっ、俺は迷惑してるのに」
「そう? 結構楽しんでるように見えるよ」
「それはヒバリさんだけです!」
 そもそも、騒動を巻き起こすのは綱吉ではない。綱吉はむしろ、巻き込まれる側だ。望んで事を起こした事など、数えるくらいしかない。
 いつだってリボーンや、ランボや、獄寺たちが勝手に暴れまわって、その収拾にひたすら奔走させられるだけ。雲雀が此処に加わるともう手がつけられなくて、毎回苦労させられているというのに。
 過去の様々な出来事を思い返して頭が痛くなり、綱吉は片手でこめかみを押さえて俯いた。
 そんな苦労性なところを長所と言われても、ちっとも嬉しくない。それに、雲雀の目的が退屈な日常の気晴らしであるというのなら、綱吉本人にいったいどんな価値があるというのか。
 瞳を上向け、臙脂の腕章の先にある雲雀を見詰める。問う視線に彼は小首を傾げ、言葉で告げるようにと綱吉の唇を指の背で叩いた。
 その柔らかな仕草にまた俯いて、綱吉はもごもごと口を動かした。
「じゃあ、ヒバリさんは……俺の周りで何も起きなくなったら、俺のこと、いらないんだ」
「いらない?」
「だって、そういう事でしょう?」
 意味が分からないと雲雀が肩を引き、腰を捻って綱吉に顔を近づける。目を覗き込まれ、彼の黒く澄んだ瞳に自分が映るのが嫌で、綱吉は横を向いた。
 卑屈になっている自分が彼の綺麗な目を汚してしまう気がして、堪らなく嫌だった。
「俺が大人しくて、平々凡々で、空気みたいな存在だったら、ヒバリさんは俺のこと」
「気付かなかったかもね」
 リボーンが家庭教師としてやってくる前の、周囲の背景にまで溶け込んで目立たない、地味な存在だった頃の綱吉になど、雲雀は全く興味を示さなかった。
 風紀委員長と一生徒、その関係が壊れてからもう随分と経つ。
 やっぱり、と彼の返事に唇を舐めた綱吉は、続きを言おうとして先に口を開いた彼にタイミングを崩され、吐いた息を思い切り吸い込んだ。
「けど、もう僕は君を知ってる」
 ぐっと喉を詰まらせ、綱吉が瞬きひとつして振り返る。存外に近い場所にあった雲雀の細い目が、愉しげに眇められた。
 漆黒に濡れた双眸が、綱吉の琥珀を捉えて放さない。
 逃げる間もなくくちづけられて、触れた瞬間に吸われて響いた甘い音が耳の奥にこだまする。眩暈がして、綱吉は零れ落ちるくらいに大きく目を見開いた。
「ひば、りさっ」
「あと、君はちょっと誤解してる」
 これに関しては自分が言葉足らずだったと認め、詫びた雲雀が悪戯っぽく片目を閉じてもうひとつ、綱吉にキスをした。
 囁く声は柔らかく、芯に響いて融けて行く。
「君が面白いんじゃなくて、……君と一緒に居るのが、面白いんだよ」
 誰よりも近い存在として、綱吉の隣で、綱吉を見守るのが、愉しい。時に羽目を外して暴れても、必死になってついて来ようとするひたむきさが、特に気に入っている。
 それこそが、他でもない。
「僕を虜にした、君の長所だ」
 三度、くちづけて雲雀は目を閉じた。
 今までよりも深く、長く触れてくる。頭を圧され、首を後ろに逸らしかけた綱吉は思った以上に長い雲雀の睫に一瞬見惚れ、慌てて自分も瞼を下ろして、これ以上身体が後ろへ流れていかぬように机の端を捕まえた。
 蝉の鳴く声がする。
 夏はまだ、始まったばかりだ。

2008/07/18 脱稿