和気

 暗闇が広がっている。
 足元はぬかるみ、まとわりつく湿気は幾ら払っても消えない。
 ずぶずぶと自重に負けて沈んでいく両足、抜け出そうと藻掻けば藻掻くほど体は自由を失っていった。
 抗う術は残されず、助けてと叫ぶ声に返事はない。
 どこまでも続く闇、聞こえるのは自分の呼吸と鼻を啜る音ばかりだ。
 いいや、違う。
 聞こえる、聞こえている。沢山の人の声が。
 泥の中から沸き起こる無数の泡が弾け飛び、呪詛を吐いて毒を撒き散らす。悪臭に顔を背けても息は吸わねばならず、鼻を抓むことさえ出来ずにただ顔を顰めることしか出来ない。
 囚われ、逃げられない。
 泥の腕が頬を撫でる。人の形を模したそれは、にたりと不気味に微笑んで再び泥の海に消えていった。
 口の中に酸っぱいものが広がり、不快感で顔が強張る。振り払いたいのに両腕の自由は利かず、後ろから伸びた別の手が綱吉の首を冷たく絡め取った。
 絞められる。伴うのは、一族を根絶やしにされた恨みの声だ。
 知らない。その時代に自分はまだ産まれてもいなかった。
 必死に叫んで救いを求めるけれど、お前に流れる血そのものが罪なのだと声は責め続ける。
 生温い泥が全身を覆い尽くし、濡れた感触が肌を伝う。ボンゴレが犯した罪を長々と語り、末裔たる存在が裁きを受けよと宣する声が天を劈く。
 吐き気がする。寒気がする。
 苦しい、息が出来ない。
 頭が痛い。喉が焼ける。全身の骨が軋み、圧迫された内臓が引き千切られる。
 罪は背負うと決めた。ボンゴレの罪過は決して許されるものではないと認める。
 ただもう少し時間を。せめて今、この時間を覆そうとしている暗雲をすべて断ちるだけの猶予を。
 白い漆黒を脳裏に描き、握り締めた拳で懸命に泥を払いのける。このまま自分は沈んでしまうわけにはいかないのだ。まだやるべき事は残されている、だから。
 だから、どうか。
 胸を掻き毟り、苦悶に顔を歪め、針の先もない光に縋る。手を伸ばして掴み取ろうとして、指先が掠りもしないその儚い蛍火に最後の希望を見る。
 苦しい。
 苦しい。
 苦しい。
 誰か。誰でもいい、誰か。
 瞼を閉ざし、恐怖を耐えて救いの手を求めて空を掻いた。
 喉が渇く。
 心が乾く。
 心臓が破れそうだ。
 

   ぴちゃー……ん…………

 微かに、水音。
 同時に額を撫でた泥の手とは違う冷たい感触に、綱吉は呼吸を止め、瞠目した。
 唖然と口を開き、闇に目を凝らす。肌を伝う水の気配にやがて彼は静かに息を吸い、吐き出した。
 瞼を閉ざし、上ばかり見ていた顔を俯かせる。泥に囚われていた身体はいつの間にか綺麗になり、彼を取り巻いていた死肉の海は何処かへと消え去った。
 耳を覆っても聞こえていた呪詛さえ、もう響かない。穏やかな湖面に落ち着きを取り戻す己を意識し、綱吉は再び清らかな水を滴らせる天を仰いだ。
 額に、瞼に、鼻梁に。
 唇に。
 心さえも鎮める雨が降る。
 優しく、丁寧に。綱吉を気遣うようにして。
 凪の雨が降る。
「う……」
 喉に詰まった息を吐き出し、首を左右に振った彼はゆっくりと自身が浮上するのを感じ取った。不思議と怖くはない。このまま流れに従っても平気だと、本能が綱吉にそう教えてくれる。
 両手を広げ、心地よさに笑みを零す。強張っていた筋肉が弛み、綱吉は瞼の向こうに眩い光を見た。
 額を撫でていた手が、ゆっくりと離れていく。
「沢田殿?」
 心配そうに顔を覗き込むバジルの声に、綱吉は最初自分の居場所を正確に把握できず、開いたばかりの目を瞬かせた。
「あ、れ」
 なんだかいつもと寝心地が違う。目覚めと同時に生じた違和感の正体は直ぐに判明して、身を引いたバジルを追いかける形で上半身を起こした綱吉は、ビロードで覆われた三人掛けのソファの上でバランスを崩し、ふらつく頭を左手で支えた。
 身に纏う着衣も昨日のままで、辛うじて上着は脱ぎ捨ててあったがスラックスは見事に皺だらけ。シャツは例に挙げるまでもなく、ネクタイの結び目は緩んでいたが形は残されていたので、恐らくその辺りで綱吉は力尽きたのだろう。ベッドまでもう少しだったのに、惜しい。
 眠るには適さない場所で、不自然な体勢で横になっていた所為で身体中がボキボキと痛む。動く度にどこかの関節が素敵な音を響かせて、特に首から肩にかかる一帯の凝り具合が酷い。頭痛がするのはその余波だと楽に想像が付いた。
「うう……」
「大丈夫ですか、沢田殿」
 苦痛に呻き、顔を顰める綱吉を案じてバジルが彼の足元に膝をついた。
 気分が悪そうに背中を丸める綱吉の肩を軽く押しあげ、下から覗きこむ。浅く眉間に刻まれた皺の具合からも、彼がとても綱吉を心配しているのが伝わって来た。
 前傾姿勢を取っていた背筋を後ろへ倒し、視界を広げた綱吉が瞳を焼く朝日に片目を手で塞いだ。バジルも膝を伸ばして立ち上がり、目覚め直後よりは幾らか綱吉が回復しているのを見て取って肩の力を抜いた。
 水を飲むかと聞かれ、綱吉が黙ったまま頷く。
「よく冷えてますよ」
「ありがと」
 グラスにアイスボックスから取り出した氷を入れ、そこにミネラルウォーターを注ぎ込む。綱吉が熱の籠もった息を吐き出し、差し出されたガラスの器を受け取って口に運ぶと、確かに水はキンキンに冷えていた。
 カキ氷を食べたときみたいなキーンとした痛みがこめかみに生じ、奥歯を噛んで堪える。渋面を作った綱吉にバジルは何か失敗したかと自分の行動を振り返って焦りを滲ませたが、今のは誰かが悪いわけではないと綱吉は苦笑を浮かべ、改めて氷の浮かぶグラスを傾けた。
 ひんやりした液体が喉を潤し、乾いていた身体に満ちていく。人心地ついたと息を吐いた彼は、まだ半分程残っている水をバジルに返し、左手を右肩に添えてぐるぐると回した。
 左肩も同じく回転させ、疲れを取り除く。続けて腰を左右に捻れば、背骨がボキボキと大きな音を響かせた。
「ソファで寝るもんじゃないねー」
 慣れないことはすべきでない。最後に両手の指を絡めて頭上へ真っ直ぐ伸ばした綱吉は、背筋を大きく反らして後頭部をソファの背凭れに押し付けた。
「揉みましょうか」
「ありがと。後でお願い」
 先に着替えてしまう、と寝汗を吸ってべたつくシャツを気にして、綱吉は半端に緩んでいたネクタイを外して立ち上がった。
 靴は床の上にきちんと左右揃って並んでいた。自分で脱いだ記憶はないので、気付いたバジルが脱がせてくれたか、もしくは転がしていたものを拾ってくれたと思われる。下向かせた目を横に流すと、彼はにこりと無邪気に微笑んだ。
「会合、紛糾しているようですね」
 綱吉が寝室へ移動するのについて来て、脱いだものを預かりながらバジルが言う。
 自室に戻りながらシャワーも浴びず、ベッドにすら辿り着けずにソファで寝入る羽目に陥った原因を気に病む声色に、彼はシャツのボタンを外す手を止めた。クローゼットの鏡越しに後ろに控えるバジルの姿を見て、返事に窮し誤魔化すように袖から腕を抜いた。
 俯いている彼の頭目掛けて脱いだ服を放り投げ、彼が慌てて両手を伸ばす様を笑う。つい意地悪をしてしまうのは、自分の心がすさんだままだからだろうか。
 深夜まで及んだ会合の議題は、着々と勢力を拡大していくミルフィオーレを今後どう扱うか、だった。
 他のファミリーを吸収合併し、労せずして実力を蓄える急進先鋭の勢力を危険視する声は高い。元々血の気が多いボンゴレの下部組織には徹底抗戦を訴える輩が多く、穏健派の九代目も説得に随分と苦労していた。
 とはいえ歴史を連ねるボンゴレが、簡単に調和の道を選んでも良いものか。少しばかり痛めつけた後に、ボンゴレこそがマフィアの頂点に立つ存在だと認めさせた上で協定を結び形で落ち着かせるのがベストではないか。やるならばいつか、こちらから攻め入るのか、それとも待つのか。
 喧々囂々、一向に終わりが見えない談義に毎回付き合わされる方はたまったものではなく、他にも色々と仕事が立て込んでいる綱吉は、もれなく睡眠時間を犠牲にした。
 今は糸がピンと張り詰めているからどうにかなっているが、そのうち引っ張りすぎて真ん中で千切れてしまいそうだ。見ている側が冷や冷やさせられるばかりで、獄寺も山本も敢えて口を挟まないでいるものの、バジル同様綱吉を心配していた。
 上半身裸のまま低い位置でシャツを受け止めたバジルを振り返り、肩を竦める。拗ねた目で睨まれて、ごめん、と舌を出して謝った彼は、クローゼットのドアを開けたままその場を離れ、ベッドへ向かって歩き出した。
 もう一眠りするつもりなのか。今日の彼の予定はどうなっていただろうと前々から組まれていたスケジュールを頭のモニターに映し出したバジルを他所に、綱吉は両足を肩幅に広げ、適度に固く、適度に柔らかいベッドに腰を下ろした。
「バジル君」
 皺くちゃの服を手に考え込んでいるバジルを呼び、手招く。
「はい?」
「ちょっと」
 ひょいひょい、と右手の指先だけを揃えて動かす綱吉に首を傾げつつ、呼ばれた以上応じないわけにはいかないと、バジルは綱吉のシャツを雑に折り畳んで胸に抱き、ベッドまでの短い距離を大股に進んだ。
 座っている綱吉のほぼ正面に立ち、なんでしょうか、といつもながら丁寧な口調で問いかける。さっき身体の凝りを解すマッサージの約束をしたのでそれだろうか、とぼんやり考えているバジルをじっと見上げ、綱吉は腕を下ろして膝に転がした。
「バジル君て、雨、だったよね」
「え? あ、はい。そうですね」
 意識が他所に向いていた所為で反応が若干遅れ、少しばかり上擦った声で返事をした彼が慌てて綱吉に向き直る。
 綱吉の炎は鮮やかなオレンジだが、バジルのそれは冴え冴えとした水色に近い青だった。
 初めて出会った時、綱吉は自分以外に死ぬ気の炎を出せる存在を知らなかったので、お互いの色が違うことに純粋に驚いた。が、後から個々人に流れる波動の違いが色に現れると聞かされて、成る程と納得した。
 そして雨の属性が司るものが何であるかを知り、彼の色が何故青なのか合点がいって、物凄く得心したのを覚えている。
「あのさ、俺……ひょっとしなくても、魘されてたよね」
 暗く、重い、嫌な夢を見た。
 内容は目覚めとともに靄の向こうに消えて漠然としたイメージでしか残っていない。ただとても不快で、薄気味悪く、恐ろしかったという体感的な記憶は未だはっきりと刻まれ、不意に蘇って綱吉に悪寒を齎した。
 あのまま眠っていたら、どうなっていただろう。想像するだけでも恐ろしく、ぶるりと身震いして綱吉は膝の上の手を握り締めた。
 バジルは返事をせず、それが却って肯定を意味していた。綱吉は自嘲気味に笑い、解いた手で変な風に癖がついた前髪を梳き上げる。一瞬だけ露になった額は、彼が手を放すと同時に再び甘茶色の髪に隠された。
 琥珀の瞳が翳りを帯び、バジルを見詰める。
「それで、バジル君は。ひょっとして、俺が起きるまでずっと」
 前髪を押し潰し、額を撫でる。其処に宿っていた感触を思い出そうとしているかのように目を閉じ、数秒の間を挟んで綱吉は唇を舐めた後薄く広げた。
 沈黙を保っていたバジルが胸に抱いたシャツを左に持ち替え、右手を遠慮がちに伸ばした。綱吉が迷っている何かを告げる前に、彼の冷えた指先は綱吉の指を避けて前髪を掬い取った。
 薄い皮膚を慈しむようにそっと撫で、離れていく。
「こうして」
 伸びた指を曲げて丸め、手首で円を描くように動かす。下弦をなぞった手は上昇に転じると同時にまた伸びて、綱吉の額に触れた。
 一定のリズムを保ち、繰り返される仕草。澱む事無く流れ続ける水の気配を思わせる彼の手に、綱吉は胸の中の凝りがストンと音を立てて落ち、融けて行く錯覚を抱いた。
 気持ちよさに目を閉じ、猫みたいに甘えて喉を鳴らす。彼の体は勝手に前に傾ぎ、バジルの胸に顔を押し付けて止まった。
 両腕をもぞもぞ持ち上げ、脇を通り越して背に回す。表情を見られないようにしたまま、綱吉は彼にしがみついた。
「沢田殿」
「ごめん。もうちょっとこのまま」
 矢張り彼は雨の属性なのだな、と痛感させられて、そんな理由で彼に縋っている自分が哀しかった。
 突然の事に最初驚いたバジルだったが、綱吉のくぐもった声を聞き跳ね除けようとしていた手を止める。力を抜いてゆっくり下ろして行き、綱吉の肩に落として右手は彼の後頭部を梳いた。
 バジルの心音に耳を傾け、綱吉は安堵感に浸りながらその回数を数えた。抱きついた直後は弾んで早くなった拍動も、直ぐに落ち着きを取り戻して綱吉に安らぎを与えてくれる。激しさや荒々しさとは無縁の穏やかな波に包まれ、綱吉はまた眠ってしまいそうだと笑った。
「お疲れですね」
「うん……」
 綱吉の髪を飽きもせず梳いてそっと囁いた彼に頷き、綱吉は彼の背で結び合わせた手に力を込めた。
 束縛を強くして、左頬を摺り寄せる。チャコールブラウンのスーツに皺が寄って、肌触りも良くないだろうにとバジルは苦笑と共に肩を竦めた。
 それを、何と勘違いしたのだろう。触れ合わせた肌越しに感じたバジルの呆れ具合に反応した綱吉が、ごめん、と急に呟いた。
「沢田殿?」
「俺、やっぱ汗臭いよね」
「そんな事はありませんよ」
 昨日は風呂に入る元気もなかった。眠っている間に嫌な汗もたっぷり掻いたので、体臭は強くなっているに違いない。過剰に気にする綱吉に首を振って、バジルはやんわりと否定の言葉を口にした。
 彼の後頭部を支え、自分から胸に押し込んで抱き締める。
 近付いた距離に不快感は存在せず、バジルの心音がなんら変化しないのをみて綱吉は頬に走らせた強張りを解いた。
「平気ですよ。沢田殿はそもそも、普段からとても清潔を心がけていらっしゃる」
「んー、なんか、癖? 日本に居た時は毎日お風呂入ってたし」
 シャワーで簡単に済ませるのではなく、バスタブにお湯を張って肩までしっかり浸かり、温まるよう心がけている。そうしなければ疲れはなかなか取れないし、風呂に入ったという気分になれないのだ。
 日本から持ち込んだ習慣に苦笑し、肩を揺らした。一緒にバジルも揺さぶられて、目を細めて優しい表情を作り出す。
「んー、やっぱり落ち着く」
 額をバジルの胸に押し当てたままでいるので、綱吉には彼が今どんな顔をしているのか解らない。けれど伝わってくる波動は心地よく、綱吉を落ち着かせてくれた。
 山本に抱きついても似たような効果があるけれど、彼にはスクアーロ同様に闘いの波紋が強く出て、外側は穏やかでも内側は荒くれる海を思わせるものがあった。
 それを口に出して言うと、初めてバジルの感情が乱れ、ムスッと拗ねた顔で彼は頬を膨らませた。
「それでは拙者がまるで、戦闘に関しては非力みたいではありませんか」
「え? あ、ごめん。そういう意味で言ったんじゃないんだ」
 外見は確かに優男のバジルだが、指輪継承戦の際は綱吉の特訓相手として活躍した。
 ボンゴレリングを所有し、継承の試練を潜り抜けた綱吉や剣帝と称されるようになったスクアーロ、そのスクアーロが認める山本が比較相手になった場合、今の彼では太刀打ち出来ないのは自他共に認める事実だけれど、それでも彼は並みの戦闘員よりも遥かに強い。
 決してその実力を軽んじていたわけではないと慌てて弁明し、顔をあげた綱吉に笑いかけ、バジルは分かっていると深く頷いた。
 綱吉が誰かを蹴り落としたり、卑下したりしない人物である事くらい、バジルはとっくに見抜いている。
「……ちぇ」
 優しい手つきで頬を撫でられ、今度は綱吉が頬を膨らませた。唇を尖らせて悪態をつき、ボスッと勢い良く彼の胸に舞い戻る。腕を回し、さっきよりも強くしがみついた。
 胴回りを圧迫され、踵を浮かせたバジルが爪先立ちのまま引きずられてベッド側に近付いた。
「沢田殿」
「やっぱこうしてると落ち着く」
「拙者は清涼剤かなにかですか」
「うん」
 山本やスクアーロでは、こうはいかない。身勝手な綱吉の行動を非難する声を上げたバジルに即答した綱吉は、からからと笑って猫背気味だった背中を伸び上がらせた。
 スーツに鼻を押し当て、微かな香水の匂いを嗅ぐ。グリーン系のそれに彼の体臭が混じり、独特の香りを形勢して、布地に甘く染み付いていた。
「バジル君の匂い、好きだな、俺」
 今や彼は、煙草も酒もやらない綱吉にとって欠かせない心の安定剤。
 呟いた彼の髪を撫で、バジルは初めて出会った頃から何も変わっていないのに、とても遠くなってしまった存在に目を細めた。
 綱吉の肩に載せていた左手をずらし、肘を押して背中から引き剥がす。空中を掻いた指先を探り出して捕まえ、指を絡めて握り締めた。
「匂いだけですか?」
 自分でも意地悪だと思う質問を投げかけ、顔を上げた彼のこめかみにそっとキスを落とす。
 友達や家族に贈るのと同じ、敬愛や親愛を込めた挨拶でしかないキスを。
「えー」
 ちゅ、と軽い音が一度だけ響き、直後に綱吉の不満げな声があがってバジルは苦笑した。
 クスクスと堪えきれない笑みを零し、口元を丸めた手で覆った彼は綱吉の肩を二度、ぽんぽんと叩いて離れた。早く着替えて支度を済ませてしまわないと、時間が足りなくなってしまう。ベッドサイドに置かれたアンティークの大時計が指し示す時間は、客観的に見ても朝早いとはとても言えない頃合だった。
 窓から差し込む光は眩く、影の角度から太陽はもう高い。促され、綱吉は膨れっ面のまま余裕綽々とするバジルを睨んだ。
「食事はどうされますか? なんでしたら此処まで運びますが」
「その前にシャワー浴びるよ、やっぱり気持ち悪い」
 シャツを畳み直し、ドア横のインターホンを持ち上げたバジルが聞いて、綱吉が答える。靴下を右から脱いだ彼は、それを後ろに向かって投げ捨てて立ち上がった。
 そうやって着ていたものをあちこちに放り出すのも、日本に居た頃からの彼の癖だ。片付けが大変なのに、と心の中で嘆息して、バジルは仕方なくインターホンを戻してベッドの後ろへ回り込んだ。入れ替わりにドアに向かった綱吉が、金色のノブを捻ろうとしたところで動きを止める。
 肩越しに振り返り、屈めた腰を真っ直ぐに戻したバジルを視界の中心に置く。
「あとね、マッサージ」
「はい。シャワー後で良いですね?」
「ううん、時間ないし」
 畳んだシャツの上に靴下を並べたバジルの返事に、綱吉は首を振った。
 急がなければならないのは綱吉も承知だ。シャワーを浴びて、着替えを済ませ、髪の毛を乾かし、朝食を摂って、また会議。身内ばかりなので多少の時間なら融通は利くかもしれないが、ボンゴレ十代目が遅刻とあっては格好がつかないのもまた事実。
 のんびり寝転がって筋肉の凝りを解してもらっている時間は、とてもではないが作れない。
「では」
 今回はやめておくか、とまた数時間椅子の上で同じ姿勢を強要される綱吉を案じ、バジルが眉目を顰める。
 その翳りのある表情に、綱吉がいきなり屈託なく笑った。
「ん。だからさ、シャワー浴びつつ、やって」
「はい?」
 バジルらしくない、と言おうか。感情をあまりむき出しにしないよう心がけている彼が、唐突に頭の上から素っ頓狂な声を出して目を見開いた。
 舌を出した綱吉が呵々と笑ってベッドルームを出て行く。
 今、とてつもない爆弾発言を聞いた気がする。慌てて追いかけ、ドアに身を寄り掛からせたバジルは、ソファの脇で黒のローファーを蹴り飛ばした綱吉に向かって声を荒げた。
「さ、沢田殿! ちょっと待ってください」
「だって、それが一番手っ取り早いじゃん」
 過剰に焦っているバジルに対し、飄々とした綱吉が狼狽している彼に平然と言った。
 確かに綱吉の言い分も一理あるし、時間の節約になるのも理解出来る。多少楽になったとはいえ綱吉の身体の節々はまだ凝り固まったままで、シャワー程度では蓄積された疲れも消えてくれない。
 自分でやるには限度があるし、バジルなら慣れているので綱吉も気が楽だ。今更裸が恥かしいという間柄でもない。
 振り向いて流し目を向ける綱吉の誘いに、バジルは心底困り果てた顔で頭を抱えた。
「マッサージだけで済まなくなりますよ……」
「だろうねえ」
「会議にも間に合わなくなります」
「どうせ話が進むと思わないし。俺がいなくても、問題ないんじゃないかな」
「どう言い訳するおつもりですか」
「そりゃ、正直に?」
 立てた人差し指を顎に押し当て、天井を見上げた綱吉が空恐ろしいことを言ってバジルを落胆させた。
「……沢田殿は昨今の疲れが祟って熱を出されたと、後で連絡を入れておきます」
「ありがと」
 脂汗が浮かんだ額を手で押さえ、呻くように吐き出された彼の台詞に綱吉が両手を叩き合わせた。
 本気で嬉しがっている様子が窺えて、苦々しい表情を自重したバジルが顔をあげる。諦めの心境で溜息を零し、気持ちを切り替えるべく首を振った。最後にもう一度深々と息を吐いて、肩を落とす。
 ちょっと申し訳なかったかと不安になった綱吉へ数歩で近付き、さっきまでの強気の色を消した琥珀を見下ろす。両腕を伸ばして今度は彼が綱吉の背を抱き、胸に閉じ込めた。
 出会った当初殆ど同じだった身長は、気がつけばかなりの差が出来上がってしまっていた。
「ちぇ」
 それが悔しくて、綱吉は拗ねた声を出してバジルに笑われた。
「沢田殿」
「ん?」
「さっき、沢田殿は拙者に抱きついて、落ち着くと、そう仰っておられましたが」
「うん」
 ぎゅっと締め付け、体を密着させる。微かに香る程度だった彼の匂いが鼻腔いっぱいに広がり、綱吉はバジルが言わんとしていることを察して顔を赤らめた。
 おずおず持ち上げた手で彼の上着を掴み、下へ引っ張る。顔を伏して色を隠そうとしたものの、甘茶の髪からはみ出ている耳まで赤く染まっているのであまり意味はなかった。
 肌を通して伝わる相手の心音が耳に五月蝿い。
「まだ安心しますか?」
「……さっきから意地悪だ」
「仕返しですよ」
 やられたら、倍返し。無邪気に笑って言ったバジルの靴を素足で踏んだ綱吉の顎を取り、バジルは鮮やかな琥珀を間近から覗き込んだ。
 穏やかに笑む、ただ少しだけ艶を増した瞳が綱吉だけを映し出している。
「沢田殿」
 大人びた顔をして、彼は両手で綱吉の頬を包んだ。答えを求める視線と声に、綱吉は益々恥かしくなって瞳を横へ逸らした。
「ど……どきどき、する」
 ぎこちなくことばを発し、腕を持ち上げて彼の手首を捕まえる。時間をかけておずおずと視線を元に戻せば、バジルは変わることのない笑顔を浮かべ、綱吉を見詰めていた。
 嬉しそうに花咲かせているところがまた、無性に悔しい。
 彼ほど素直に感情を表に出せなくて、綱吉はせめて気持ちだけは伝えようと背伸びをする。直前に気付いたバジルが目を閉じるのもまた悔しくて、綱吉は狙いをずらし、彼の鼻に思い切り歯を立てた。

2008/07/11 脱稿