花泥棒

 並盛町は平和だった。
 平和の、筈だった。
「あら、やだわ。これ、うちの近所じゃない?」
 朝、新聞を広げていた奈々が急に甲高い声をあげたかと思うと、灰色の薄い紙面をばさりと揺らした。
「ん?」
 たっぷりと杏のジャムを塗ったトーストに齧りついていた綱吉が視線を上げ、テーブルを挟んで斜め向かいにいた彼女に首を傾げる。横並びのランボは彼女の声など構わずに、口の周りをジャムでべとべとに汚していた。
 どうかしたのか、と紙面越しに目で問いかけると、息子の疑問を瞬時に理解した彼女は、椅子を引いて立ち上がり、一緒に新聞の一部を畳んで内側だった部分を外に向けた。
 綱吉も腰を浮かせて伸び上がり、彼女が指差している箇所を覗き込んだ。
 三分の一以下になっていた食パンを一気に口に押し込み、指に付着したジャムを舐める。どこだろう、と斜めになっている文面に目を走らせた綱吉は、ややしてから非常に見慣れた地名を見つけ、目を瞬かせた。
「並盛商店街?」
「あそこのことよね?」
 綱吉が疑問符を頭に浮かべるのとタイミングを同じくして、奈々が不安げに眉を寄せて愛息子に問いかける。表情を曇らせた彼女に目をやった綱吉は、再び皺の多い紙の表面から情報を読み取り、僅かな逡巡の後、首を縦に振った。
 地域面の片隅に小さく記された文面は、他でもない此処、並盛に関する事件を報じていた。あまりにも短く、簡潔な文章で飾られていたので、きっと綱吉では読み飛ばして気付きもしなかったろう。だが書かれていた内容はとても見逃せるものではなく、現場を想像すると怒りと悲しみがセットになって腹の底から沸きあがってきた。
「酷いことする人がいるわね」
「本当だよ」
 左手を頬に押し当て、もう良いだろうと新聞を引いて奈々が座り直す。綱吉も腰を落とし、生温くなってしまっていた牛乳を一気に飲み干した。
「どしたのー?」
 此処に至ってようやく、年長者が額をつき合わせて渋い顔をしているのに気付いたランボが、のんびりとした調子で首を傾げて訊いて来た。顔の下半分はジャムでぐしゃぐしゃで、鼻水も混じっているので非常に汚らしい。
 綱吉は肩を竦めると、コップを置いたその手で布巾を取り、大雑把に汚れを拭い取ってやった。
「たいした事じゃないよ」
 こんな小さな子の心まで痛める必要は無い。とは言え、どの道ランボは昼には奈々と一緒に買い物に出て、現場を目撃するのだろう。
 重苦しい息を吐き、綱吉は最後に彼の頭をよしよしと二度撫でた。
 壁を見上げると、丸い時計は午前八時に至る少し手前を指し示していた。そろそろ歯を磨き、登校の準備を整えなければ間に合わない。
「ご馳走様」
 綱吉は両手を顔の前で合わせて黙礼すると、床を踏みしめて立ち上がった。椅子を後ろに引いて空間を広げ、毎日欠かさず食事の支度をしてくれる奈々に感謝しつつ、台所を出る。先に歯磨きをしよう、とネクタイを結んでいない以外は問題ない制服姿の彼は、何処にもジャムが付着していないのを確かめて洗面所へ急いだ。
 鏡の前で今日も元気に爆発している髪を相手に無駄な足掻きをし、口の中を泡だらけにして水で漱ぐ。全自動洗濯機が絶えず隣で唸り声をあげて、解放された窓からは朝の清々しい空気が紛れ込んで彼の襟足を撫でた。
 しかし綱吉の頭の中には、先ほど読んだ記事がこびり付き、離れない。
「むぅ……」
 未だに巧くならないネクタイを結んで、鞄の中身を確かめて部屋を出る。玄関で弁当箱を渡してくれた奈々も、見た目はいつもと変わらぬ朗らかさだったが、綱吉が靴を履き終えた直後に「気をつけて」といつもは言わないことを口にしたので、矢張り気にしているようだった。
 外は快晴、初夏の陽気が一面に広がって陽射しは非常に眩しい。
 アスファルトの照り返しに目を細め、額に手を翳して庇にする。直射日光に立ち眩みを覚えた彼は、鞄を慌てて握り直して靴の裏で固い大地を蹴り飛ばした。
 

「それ、知ってる。酷いことするよね」
 無事に遅刻を免れたその日の昼、食事を済ませて余った時間を自堕落に教室で過ごしていた綱吉は、なんとなしに今朝、奈々に教えられた新聞記事について話題に出した。すると即座に、車座になっていた京子から声があがり、彼女の横で主不在の机に寄りかかっていた黒川も神妙な顔をして深く頷いた。
「山本は?」
 獄寺は知らなかったと顔に出ていたので、左に首を回して綱吉が親友の顔を仰ぎ見る。椅子に座ったままの綱吉と、立っている彼とでは随分な身長差が出来ていて、見上げ続けていると首が疲れた。
「あれなあ……結構、自治会で問題になってる」
「自治会?」
「商店街の、な」
 黒川同様、今は誰も座っていない机に腰を半分預け、膝を軽く曲げた山本が苦々しい表情と声で言った。肩幅に広げた脚の間に両手を置き、指を互い違いに絡ませて軽く握った彼は、光景を思い浮かべているのか、眉間に深い皺を何本も刻み込んだ。
 山本は父親が商売をしている関係で、自宅も商店街の一画にある。そこに飾られているプランターや、花壇の世話は、一部ボランティアに頼っているところもあるが、苗の購入から水遣りの殆どは其処に店を構える人々の手で行われていた。
 今はパンジーをメインに、季節の花が町並みに彩を添えている。綱吉も日頃から頻繁に買い物に行く場所なので目にする機会は多く、丹精込めて手入れされた花々が咲く様は非常に誇らしげだった。
 それが、だ。
 根こそぎ土から引き抜かれ、路上に投げ捨てられていたと、今朝の記事は伝えていた。
「実はさ、これが初めてじゃないんだ」
 重ねた拳を上下に揺らし、机の角を叩いた山本が沈んだ表情で早口に告げる。彼にしては珍しい、掠れた、歯切れの悪い言葉に、居合わせた面々は即座に内容を理解出来ず、珍妙な間が合計五人の間に流れていった。
 最初に我に返ったのは黒川で、ちょっと待って、と身を乗り出して踵で机の脚を蹴ってしまう。床を擦る音がいやに大きく響いて、残る三人も揃ってハッとし、山本の顔を一斉に見上げた。
 八つの目に同時に見詰められ、山本が照れたような、困ったような、曖昧な表情を作って柔和な目を細めた。やり場に困った右手で短い髪の毛を掻き回し、左に姿勢を傾けた彼は、笑って誤魔化せるような状況で無いと悟ると、諦めた風に肩を落とした。
 再び膝の上で両手をこね合わせ、完全に机に腰を乗り上げさせて足を宙に浮かせた。
「春先から、ちょこちょこと小さい被害はあったんだ。最初は花びらがむしり取られるとか、鉢植えが一個だけひっくり返されるとか、その程度だったんだけど。連休が終わった頃からかな、酷くなって来たのは」
 しかも山本曰く、被害は商店街だけに留まらないらしい。並盛中学が直接被害に遭ったわけではなく、小学生の弟や妹がいない面々ばかりだったので誰も知らなかったのだが、並盛小学校の花壇も、夜中に侵入した誰かに踏み荒らされたのだそうだ。
 いつの話かと黒川が訊けば、少し迷ってから四日前だと山本が言う。
「そんな事になってたんだ」
 事態は綱吉が思っていた以上に深刻で、商店街の花壇が本格的に荒らされた一昨日、ついに警察へ被害届を出すに至ったという。新聞の取材が入ったのはその所為なのだが、現実問題として警察が動いてくれるかどうかは、分からない。
「どうして?」
 京子が素直な疑問を口に出し、丸い目を見開いて山本に食って掛かった。
 折角大事に育てた花を台無しにされて、哀しんでいる人が居るのに、警察が動かないなんて。理解出来ないとこちらも珍しく声を荒げた彼女に、山本は肩を竦め、獄寺と綱吉は答えを求めて彼を窺い見た。
 黒川だけが、部外者であるのにひとり責められている山本に同情的な視線を投げかけ、興奮気味の京子の肩を叩いて彼女を宥めた。
「山本?」
「いや、さ。器物損壊程度じゃな、やっぱり」
 言い渋っている親友の膝を小突き、綱吉が名前を呼ぶ。肺の奥底に溜まっていた息を一斉に吐き出した彼は、緩く首を振り、左のこめかみから耳の周囲を掌で覆った。
 そのまま下へ手をずらし、力なくぶらんと垂らす。
「器物損壊って」
「法律上は、そういう扱いなんだよ」
 俺だって納得がいかない。そう付け足して山本は、握った拳で己の腿を叩いた。
「被害はあちこちに飛び火してるから、見回りくらいは強化してくれると思う。でも、商店街だけ一晩中見張ってろってのは、やっぱり無理な相談なんだってさ」
 寝ずの番をして自衛するにしても、花壇のひとつやふたつで大騒ぎすることではないだろう、という意見もある。夜起きていて、日中の仕事に支障が出た場合、誰が保証してくれるのか云々と、昨日も商店街の面々が集まって相談しあったらしいが、結論は最後まで出なかったそうだ。
 こういう時に何も出来ない自分が悔しい。そう言った山本の顔は、無理に笑おうとして失敗して、却って寂しげだった。
「新聞にも出たし、これで被害が減ってくれればいいんだけどな」
 机の縁を握り、上半身を揺らして山本が期待の眼差しを遠くへ投げた。それまでずっと黙って聞いていた獄寺は、綱吉の右側でしゃがみ込んだまま頬杖をつき、そんな巧くいくわけがないと唐突に呟く。
「獄寺君」
「大体、そういう奴は、自己顕示欲が強いんスよ、十代目。新聞なんかに出ちまったら、余計調子に乗ってでかいことしようとするに決まってるんです」
「……そう、なの?」
 咎めようとして呼びかけた綱吉だが、やっと自分も話題に入れると踏んだのか、獄寺は急に声を大きくして綱吉の椅子の背凭れにしがみついた。膝を床に落として背筋を伸ばし、顔を近づけて力説する様に、思わず尻込みした綱吉は左側に腰の場所を移し変えて逃げた。
 詰めた距離を広げられ、落胆した風情の獄寺が頬を膨らませる。
「最初はコソコソやってたのが、段々派手になってってるのが、その証拠っす。やってることはチンケなんですけど、本人はそうと思っちゃいない。小学校を荒らした犯人が同じなら、そのうち中学も狙ってくるかもしれないっすね」
「なんか、異様に詳しいね」
「なんですか十代目、その目は!」
 昼休憩終了が近付き、外に出ていた生徒も多くが教室に戻って来ていた。黒川がまず机を返却し、山本も前方のドアに座っている机の使用者を見つけて踵を潰した上履きで床に降り立った。
 犯人の心理に詳しい所為で綱吉から疑いの目を向けられた獄寺もまた、いつまでも其処に居るわけにいかず、渋々立ち上がってズボンの裾を払った。
「でも、中学は大丈夫なんじゃないかな」
 最後に綱吉が、自分の椅子の上で居住まいを正しながら呟く。
「どうして?」
「だって、ほら」
 京子の質問に、彼は苦笑しながら天井に向けた人差し指を回した。
「ヒバリさんがいるし」
 並盛中をこよなく愛し、同じくらいこの町を愛し、風紀の乱れを決して許しはしない。近隣の不良の総元締めでありながら風紀委員長という役職にある、実年齢不詳のあの青年を例に出した綱吉に、納得したと言わんばかりに京子は両手を叩き合わせた。
 聞いていた山本は苦笑し、獄寺は露骨に嫌そうな顔をしたが、綱吉は見なかったことにする。
「だと良いけどねえ」
 黒川だけが興味なさそうに嘆息交じりに言って、綱吉が反論する前に予鈴のチャイムが高らかに鳴り響いた。
 会話は中途半端なところで途切れ、その先は続かない。自席に戻ろうとするクラスメイトに間を分断され、真っ先に女子が踵を返した。続けて山本も、大仰に肩を竦めてから綱吉に手を振って、獄寺も不貞腐れた表情のまま去っていった。
 釈然としない気持ちだけが、綱吉の中に残される。しかしそれが何故であるのかが本人にも分からず、緩く握った拳を机に押し当て、彼は本鈴が鳴るまでの数分間、ずっとそうやって座っていた。

「ハル、その犯人見たかもしれないです」
「はい?」
 一度は忘れられた話題が再燃したのは、夕方、綱吉の家にハルが遊びに来て暫くしてから。
 部活の無かった山本と、いつも暇にしている獄寺も一緒で、狭い部屋が更に狭くなっていたところに、買い物から帰って来たランボが勢い良く突撃してきたのがきっかけだった。
 矢張り商店街の花壇は荒らされたままで、掃除こそされていたが一昨日まで綺麗に咲いていたパンジーはほぼ全滅だったらしい。
 事情も何も知らなかったランボが奈々にどうして? と聞いたようで、悪い人が引っこ抜いてしまったのだと知った彼はその場で大泣きし、大変だったそうだ。
 家に帰ってからもランボは泣き止まずぐずったままで、夕飯の支度がある奈々は息子とその友人に手間の掛かる子供の世話を押し付けていった。宜しく、とにこやかな笑顔でドアを閉めた母親に溜息を零し、綱吉はランボの鼻にティッシュを押し当てる。
 泣いている理由を事細かに聞いた上で、事情の説明も受けたハルは、綱吉と交代でランボを引き取り、優しい仕草の反面真剣な表情をして、出来うる限りの低い声を出してそう呟いたのだ。
「だからハルは、その犯人、見たのですよ」
「犯人って、花壇を荒らした奴か?」
「ですです~」
 むずがるランボを抱きかかえ、学校が終わってそのまま来たらしい制服姿の彼女は、獄寺の質問に首肯して嬉しげに目を細めた。
 ベッドに座っていた山本が、興味深そうに脚を組みかえる。窓際で椅子に腰掛けていた綱吉は、自分ひとりだけが着替え終えて私服な事を少々気にしながら、右膝を横に倒して踝を左の腿に被せた。
 二点が重なって厚みを増した場所に両手を置いて更に分厚くし、肩を窄めて背中を丸める。床に直接腰を落としている獄寺は、両腕を後ろに伸ばして斜めにし、上半身を支えた状態でハルに疑わしげな目線を投げていた。
「ほんとかよ」
「ぬっ、獄寺さんひどいです。ハルの言うこと信じられないですか!」
 日頃からハルの突拍子も無い思い込みによる暴走ぶりを知っているだけに、彼女の言葉は確かににわかには信じがたかった。しかし唇を尖らせて頭からぷんすかと煙を立てて怒る彼女の言葉を、まるきり嘘だと断言してしまうにも早計過ぎる。
 右手でランボを支えたまま、左手を上下に振り回して風を起こした彼女に、山本も話くらいは聞いてやれよ、と爪先で獄寺の脛を突いた。ただそれは、普段何かと山本に対して突っかかる傾向にある獄寺には逆効果で、彼は益々頑なになるばかり。
 これではちっとも話が進まない。獄寺はまたしても足で蹴ってくる山本に暴言を吐き捨てて、ハルは自分の話を聞けと騒ぐ。折角泣き止んだランボまでもが、場の空気の不味さに大きな目を歪め始めて、どうして自分の周りにはこんな面子ばかりが揃うのだろうか、と綱吉は己が置かれた状況を深く嘆いた。
「獄寺君も、山本も、やめなよ。ハルも。ランボが怖がってる」
 仕方なく椅子のコマを軋ませ、カーペットの縁ぎりぎりまで進み出てふたりの間に割って入る。疲れた様子で肩を落とした彼は、それでも食って掛かろうとする獄寺をひとつ睨み、山本にもあまり獄寺で遊ばないよう忠告して、椅子から降りた。
 もうさっきのようなことが起きぬよう、両者の中間地点に居場所を移し変え、真向かいにハルを置く。腕を伸ばしてテーブル越しにランボの頭も撫でてやって、やっと静かになった室内に、彼は再度息を吐いた。
「それで、ハル。本当に見たの?」
「ツナさんまで、ハルの言うこと信じてないですか!」
「そうじゃないよ」
 一旦抱いた疑念はなかなか消えない。ぎゅむ、とランボを抱き潰すハルの勢いに綱吉は苦笑を禁じえず、苦しがっているから、と彼女をどうにか宥め、テーブルに置いているコップにジュースを注いで差し出した。
 鼻息荒くしていた彼女は乱暴に綱吉の手からオレンジ色の液体を奪い取り、一気に飲み干してどこぞのオヤジのようにぷはー、と息巻いた。
 年頃の少女が、同じく年頃の男子の前で取る態度ではないと思うのだが、それだけ彼女もこの場に馴染んでいる証拠だろう。
「すげーな」
「ああ」
 両側でこそこそ言い合っているふたりを肘で小突いて黙らせ、綱吉はランボにも同じくジュースを渡してやり、部屋から追い払う。
 流石に遊んでもらえない雰囲気は感じ取ったようで、幼子は綱吉の言葉に大人しく頷き、三分の二まで注がれたコップを持ってちょこまかと廊下へ出て行った。
 階下にはイーピンも奈々もいるから、退屈はしないだろう。足音が遠ざかるのを待って自分も喉を潤し、綱吉は居住まいを正してハルに向き直った。
「信じてないわけじゃないよ、ハル。何処で見たの」
 膝を揃えて座り直した彼女は、綱吉の眼差しを受けて僅かに頬を赤らめる。そのまま暫く待ってもボーっとしたままで、気を揉んだ獄寺が咳払いする音を聞き、やっと我に返って慌てて意味もなく両手を振り回した。
「ふぇっ、は、はひ! えっと、ですね。商店街です!」
「あー……」
 期待して損をした気分になったのは、綱吉だけではなかったらしい。ほぼ同時に山本と獄寺からも同様の声が漏れて、張り切って言ったハルはあまりの反応の鈍さにきょとんとした。
「はひ?」
「うん。そうだね、商店街だよね……」
 犯人を見たと言ったのだから、その可能性は十二分にあった。悟れなかった自分たちが悪いのかと揃ってこめかみに指を置いた彼らに、ハルはなおも首を傾げた。
 商店街の花壇が荒らされたのは、一昨日。その日、彼女は駅前にある塾で遅くなって、早く家に帰るべく薄暗い道を急いでいた。
 夜十時を軽く回っていた為、商店も軒並みシャッターを閉めて灯りは乏しい。人気の無い区画は物寂しく不気味で、暖かくなって来た所為で不審者も多く目撃されているとあって、ハルは少々ビクビクしながら半ば走るように家に向かっていた。
「テメーみたいなの襲う物好きなんか居るかよ」
「失礼な!」
 誰も聞いていないのに勝手に語りだしたハルに、頬杖をついて姿勢を崩した獄寺が茶々を入れる。途端にまた彼女は頭で薬缶を沸騰させ、山本が笑い、綱吉が余計な真似をするなと獄寺を叱る破目に。
 そんな事ないから、怖かったね、と懸命に怒るハルを落ち着かせて続きを促し、彼女にばかり構う所為で拗ねている獄寺の三角になっている膝を叩いた。
 膨れっ面の彼を横に置き、こちらも風船に負けないくらい顔を丸くしているハルに曖昧に笑いかけ、綱吉は自分の家なのに何故か早く帰りたい気分になった。
「商店街の、どの辺?」
「えっと、確か……はんこ屋さんの近くだったと思います」
「どんな人だった?」
 犯人を見つけてどうこうしよう、という気はあまりない。しかしこのまま放っておくわけにもいかない。ハルが見たという人物が本当に花壇を荒らしまわっているのならば、警察に情報提供という形で申告するくらいは叶うだろう。
 ランボのように泣く子がもう二度と出ないようにしたいと、綱吉は真剣な顔つきでハルの次の句を待った。
 しかし。
「それがですね、暗くてよく分かんないです」
 えへへ、と頭を掻いて屈託なく笑った彼女に、綱吉に負けず劣らず神妙な顔をして聞いていたふたりまでもが一様に、ずっこけた。
「ハル!」
「ごめんなさ~~~い!」
 散々人に気を持たせておいて、それはないだろう。思わず怒鳴り声をあげた綱吉に、彼女は萎縮して両腕で頭を抱え込んだ。
 それでは目撃したとは言えないではないか。憤懣やるかたなしに肩を落とした綱吉は、浮かせた腰を床に沈めてコップの縁を伝っていた水滴を指で弾いた。獄寺も完全にあきれ返っている、山本は最初からあまり期待していなかったようだ。
「そんなに簡単に犯人が見付かってたら、とっくに捕まえてるよ」
 たとえ寝静まった深夜だとはいえ、大きな物音がたてば住民に気付く人も出る。それが全く無かったという事は、極力目撃者が出ないよう犯人が注意を払っているということだ。
「そりゃまあ、そうかもしれないけど」
「あっ。ひとつ思い出したです」
 山本を見上げ、綱吉は依然納得がいかない自分自身を持て余して唇を噛んだ。そこへハルが甲高い声で割り込んできて、今度はなんだ、ともう彼女の言葉は話半分にしか聞かない姿勢で、綱吉は振り返った。
 わくわくした気配のハルの瞳の輝きに若干辟易しつつ、言葉を待つ。
「あの人に、似てました」
「誰」
 彼女の記憶ほど当てにならぬものはない、と思いつつも、ついつい反射的に聞き返してしまう。己の軽率さを嘆きたくなった綱吉を他所に、よくぞ聞いてくれたとハルは胸を張った。
 しかしいざ言おうとして、彼女は言葉を詰まらせた。
「えっと、ですね。あ、あれえ?」
 顔や姿は脳裏に浮かぶのに、肝心の名前が出てこないというところか。三人分の視線を集めた彼女は、次第に額に汗を浮かべ、焦りを滲ませて指を意味もなくくるくると回して空中に幾つもの円を描いた。
 視線が絶えず上を向き、天井を走る。最初に諦めたのは獄寺で、次いで山本と綱吉もほぼ同時に、彼女から答えを得るのは難しそうだと溜息を吐いた。
 その露骨な態度が気に食わなかったらしい。ハルは拳を作るとまたしても空気をポカスカ殴り始めた。
「ちょ、ちょっと忘れてるだけなんです、待ってくれたっていいじゃないですかー」
「いいよ、お前。もう帰れ」
 しっしっ、と犬猫を追い払う仕草で手を振った獄寺に憤慨しながら、ハルは座ったまま頻りに身体を揺らし、眉間の皺の数を増やして渋面を作った。
 梅干でも食べたのかという顔をして、唇を噛んだ彼女は両手の人差し指をこめかみに押し付けた。どこの小坊主だとつい失笑してしまった綱吉だったが、数秒の沈黙の後、急に目を輝かせて顔を上げた彼女に驚き、後ろ向きに姿勢を崩して尻餅をついた。
「思い出しました、雲雀さんです!」
「は?」
「ですよね、ツナさんところの風紀委員長さん」
「あ、ああ。確かにヒバリだけど」
 物凄い剣幕でまくし立てた彼女に圧倒され、綱吉に代わって山本が首肯する。だが表情は驚きに染まっていて、次に続く言葉が誰の口からも出てこなかった。
 綱吉は呆然とし、獄寺に目で問うたが彼もまた同じ視線を綱吉に向ける。最後に並んで見上げた山本も、まさか、という顔をして頬を掻いていた。
「……それ、本当にヒバリさんだった?」
「ほひぃ! ツナさん、やっぱりハルの事信じてないですかー!」
 無意識に疑わしげな目を向けてしまったらしい。綱吉の質問にハルが大袈裟なまでに反応して、酷い、と今度は涙ぐむ始末。いい加減頭が痛くなってきて、彼は肩を落とすと崩れた脚を組み直した。
 悪かった、とハルに小声で謝罪して泣き止ませ、反面冷えていく心の中で今までの会話を順序だてて整理しようと試みる。けれどあまりにも彼女の放った爆弾発言の威力が凄すぎて、冷静さを取り戻すには至れなかった。
「けど、ヒバリがってのは、ちょっとな」
 山本も綱吉と同じところに引っかかりを覚えている。呟いた彼に頷いて、胡坐を掻いた綱吉は今一度真剣にハルに疑問の目を向けた。
「本当ですよぉ。だって、変じゃありませんか? あんな真っ暗なところに、ひとりでうろうろしてたんですよ」
 自分の劣勢を感じ取ったハルが懸命に訴えかけるが、どれも綱吉の耳を左から右へ素通りしていく。
 雲雀がそんな事をするわけがない、という気持ちがまず彼の念頭にあって、否定したい感情がハルを信じてやろうとする気概よりも勝っているからだ。そもそも雲雀は、並盛を守る事こそすれ、壊そうなどという概念は持ち合わせていない筈だ。あんなにも中学校に固執し、風紀の乱れを一切許そうとしない彼が、果たして商店街や小学校の花壇を荒らしたりするだろうか。
「それってさ、雲雀の奴、見回りとかだったんじゃねーの?」
「む~」
 段々沈んでいく綱吉の気配を敏感に感じ取った山本が、助け舟のつもりかベッドの上で引き寄せた自分の足を捕まえて言う。ハルは納得し難い顔をしていたが、可能性としては山本の言葉の方が高かろう。
「そ、だよね」
「いーや、犯人は雲雀のヤローに違いありません」
 ホッとした綱吉が傍らの親友に力の無い笑顔を向けた瞬間、反対側で唐突に獄寺が立ち上がり、拳を高く掲げて大声で宣言した。
「獄寺君!?」
「あのヤロー、風紀を守れって言っておきながら、自分が一番乱してやがるじゃないですか。きっと、花が群れてるのを見てむかついたから、とかいう理由で蹴散らしたに決まってます」
「その理屈は、ちょっと強引じゃないかな」
「十代目は俺の言うこと信じてくれないんですか!」
 鼻息荒く、日頃の恨みもあわせて怒鳴るように叫んだ獄寺に気圧されて、綱吉は強く出られない。しかもハルと同じことを彼まで言い始めて、どうしたらよいものやら、彼は途方に暮れて苦笑した。
 完全に他人事を決め込んでいる山本は、乾いた笑いを表面に浮かべてことの成り行きを見守っている。大変だな、と言われてもちっとも慰めにならなくて、綱吉の方が泣きたい気分になりながら頭を抱え込んだ。
「十代目!」
「だからって、証拠もないのに決め付けるのは」
 結論を急がせたがる獄寺の唾を避け、綱吉は及び腰のまま薄い唇を咬む。
 目撃証言だけでは、説得力が無いのは確かだ。日が暮れて薄暗い中で、雲雀を詳しく知らないハルが似た格好をしている人を見たというだけで、犯人が彼だと断定するのは危険すぎる。警察だって信じないだろう。
 それに獄寺は、どちらかといえば個人的感情が先に立って雲雀を糾弾しているとしか思えなかった。常日頃からなにかと風紀委員相手に突っかかり、または咎められて騒動を巻き起こしている彼だから、かなりの鬱憤と不満が溜まっていたようだ。
「なら、確かめりゃいいじゃねーか」
 結論が出ず、間に挟まれた綱吉が重いため息を吐く。いい加減にして欲しいとやるせなさに身を浸していた綱吉の後ろから急に第三者の声がして、振り返ればいつ、どこから潜り込んだのか、リボーンが相変わらずの格好で綱吉の椅子に座っていた。
 短い脚を組み、鍔広の帽子に緑色のカメレオンを載せて、不遜な態度で部屋にいる四人をひとつの視界に収める。彼は口角を歪めて不敵に笑い、混乱で収集がつかなくなっている現場に新たな風を強引に吹かせた。
「リボーン」
「本当に犯人が雲雀なのかどうか、確かめてくればいい」
 中腰になって反対に膝を床に落とし、踵を浮かせた綱吉が怪訝に彼を呼ぶ。だが無視した赤ん坊は、残る三人をぐるりと見回して先ほどの台詞に幾つかの単語を追加して、全く同じ内容を口にした。
「そうですね、それいいです! ツナさんが犯人を捕まえて並盛に平和が戻る、ツナさんは一躍ヒーローになるのです」
「あ、いや。ちょっと、ハル?」
「やりましょう、十代目。雲雀のヤローを現行犯でとっ捕まえて、今度こそぎゃふんといわせてやりましょう!」
「獄寺君まで……」
「おもしろそーだな。どの道、犯人は捕まえなきゃなんねーんだ。いっちょやってみるか」
「山本!」
 最後の砦にしていた山本まで呆気なくリボーンの言葉に同調し、陥落してしまう。ついムキになって怒鳴り声をあげた綱吉だが、形勢は完全にリボーンに傾き、彼ひとりを置いて話はどんどん先へと進んでいく。
 次に狙われそうな場所をピックアップし、並盛の地図まで何処からか引っ張りだしてきて広げ、印を入れていく。ハルは女の子なのでひとり夜に出歩かせるのは危険という事で、気が付けば残る三人で見当をつけた場所を巡回する算段になっていた。
 綱吉は最後まで渋ったが、既に他がやる気満々で、逆らい続けるのも不可能。結局押し切られる形で承諾してしまって、集合は夜九時に山本の家の前と決まった。
 言いだしっぺのリボーンは、当然ながらその時間はとうに就寝していると、赤ん坊である身分を前面に出して欠席の構えを。それはあんまりだと思うのだが、周りの空気に押し流される格好で綱吉は何も言わせてもらえなかった。
「で、結局こうなるわけだ」
 懐中電灯を片手に、綱吉はトホホと言わんばかりに肩を落として薄暗い町並みに目を細めた。
 奈々にあまり遅くなりすぎないように言われて送り出された綱吉は、獄寺が張り切って作った並盛町警戒マップなるものの皺を指で押し潰しながら、足元に転がっていた小石を思い切り蹴り飛ばした。
 明日も平日で学校がある為、見回りは夜十一時までの約束。それでもし、自分たちが帰った後に事件が起こるようなことがあれば、金曜日、もしくは土曜日の深夜にも巡回しようという話さえ出て来ていて、綱吉は何故ああも張り切れるのかと仲間の元気の良さに辟易しつつ、マップを照らしていたライトのスイッチを切った。
 灯りが近くにあると、犯人が警戒して近付かない可能性もある。頼るのは細々と輝く街灯のオレンジ色をした光だけで、さながら誘蛾灯の如く虫を呼び寄せている電柱の傍に立ち、綱吉はこの近辺でも中堅クラスの広さを持つ公園を見詰めた。
 不審者を見つければ、即座に携帯電話で連絡すること。無理をして取り押さえようとはせず、援軍を待つように、など等。出発前に取り交わした約束事項を指折り数えて頭の中で諳んじ、綱吉は再度獄寺作成の地図に目を落とした。
 さっきよりも頼りない光の中で、ぼんやりと浮かぶ手書きの線。サインペンだと直ぐに分かる太いラインは並盛町を縦横無尽に走る道路を現していて、各所に書き込まれた三角や四角、丸などの記号が公園や建物を表現している。短時間で作った所為で大雑把でしかないが、大まかな配置さえ分かってしまえば、住み慣れた町なので特別困ることもなさそうだ。
 綱吉が今いるのも、そんな地図に記された場所のひとつ。分担して巡回する上で獄寺は三つの経路を用意してくれて、じゃんけんで負けた綱吉が託されたのは、商店街から最も遠い、町外れに程近い一帯だった。
 中学校からは歩いて十五分ほど、商店街からだと三十分程度掛かる。この移動時間の間に犯人が、と思うと気も急いたが、一通り見て回った限りでは被害が出ている花壇もプランターも無くて、ホッとさせられた。
 ズボンのポケットに押し込んでいた携帯電話で時間を確認すると、夜の十時を少し過ぎたところ。歩き回っている間に結構な時間が過ぎていたらしい。
 メールの着信も入っていて、開いてみればハルからの応援メッセージだった。可愛らしい絵文字で飾られた文面には女の子らしさが滲み出ていたが、最後まで読む気も起こらなくて、綱吉は長文過ぎる励ましの言葉の最初にだけ目に通し、画面を消した。
 人工の灯りがひとつ途絶え、周囲は静か過ぎる闇に飲み込まれていく。頭上で羽虫が飛び交う音だけが耳を打ち、自分の心音が鼓膜を打つ回数を数えながら、綱吉はこの後どうしようかとぼんやり考えた。
 預けられた経路はこの場所が最後で、もう一巡すべきか否かで迷う。一箇所に留まっていればいいのか、それとも絶えず動いておけばいいのか。その辺も聞いておけばよかったと後悔しながら、残るふたりは無事だろうかと緩く握った携帯電話を気にしつつ、綱吉は遠くを見ようと背伸びをした。
 爪先立ちになり、左肩を電柱にぶつけ、公園内部を窺う。知らぬ人が通り掛かれば綱吉こそが不審者なのだが、気にも留めず、彼は変化無い空間に溜息をひとつ吐き、踵でアスファルトを擦った。
 ジッとしていたら、もう初夏と言っても差し支えない季節であるに関わらず、寒さを覚えた。ポケットに携帯電話を戻した手で反対の腕をさすり、膝も擦り合わせて摩擦熱を呼び起こした彼は、もう一度長い息を吐いて首を振った。
 移動しよう、此処に居てもきっと何も起こらない。
 公園の入り口は二箇所あって、ひとつは綱吉が居る道路側に、もうひとつは住宅の間を走る路地に直結している。そちらの方が灯りは少なく、人々が寝静まるような時間帯であれば特に人目にもつきにくい。しかも其処は丁度綱吉の立ち位置からでは木の陰に隠れてしまって、まるで見えなかった。
「ん……?」
 肌を撫でる空気が、風も無いのに揺れた気がした。
 後ろ髪を引かれるような気分で、綱吉が振り返る。だが気配は感じ取れず、気のせいだったのかと彼は首を左に倒すだけで終わらせた。
「んー」
 公園の入り口に近付いて念の為中を確かめてみるが、自分以外で人がいる様子は矢張り無かった。広場の中央にある照明が寂しげに佇むだけで、それを取り囲むように作られた円形の花壇の花々も、一様に頭を垂れ、夢の世界に落ちていた。
 点在するベンチにも、ブランコや滑り台といった遊具にも変化は見られない。矢張り思い過ごしだったとチリチリする首の後ろを撫で、綱吉はくすんだ銀色の車止めの前から離れた。
 記憶を頼りに、地図にある次の場所へ向かう。三十分程前にも訪れたばかりの大通り沿いでも、先と変わる事無く茶色のプランターが行儀良く並んで、公園の花と同様静かに眠りに就いていた。
「異常なし、と」
 なにか変化があったらどうしよう、と少々胸をどきどきさせて緊張していたのだが、杞憂に終わった。良かったと胸を撫で下ろし、綱吉は昼とはまた違う顔を見せている花々に強張っていた表情を綻ばせた。
 太陽の下で誇らしげに咲いている時とは違い、どこか儚げな印象を抱かされる。鮮やかな黄色の花弁も、月明かりの中では派手さが薄れて厳かな風格を醸し出していた。
 こんな風に、夜の植物を間近からじっと観察した事もなくて、綱吉は興味津々にプランターを覗き込んだ。
 右に握った懐中電灯ごと手を膝に載せ、軽く角度を持たせて屈む。真上から覗き込んでいたのを、若干視点を前にずらして、匂いがするのかどうか確かめようと鼻を近づける。
 交錯する街灯のぼんやりとした明かりの中で、綱吉の影が三つから四つに増えた。
「っ――!」
 瞬間、危険を察知した綱吉は咄嗟に首を亀の如く引っ込め、腿と踝がくっつきあうくらいにまで膝の角度を強めた。
 逃げ遅れた髪の毛が宙に逆立ち、何かに弾き飛ばされて数本が夜空に舞う。唸りを発した風が耳を打って、吐き出そうとした息を呑んだ彼はつま先立ちからバランスを崩し、咄嗟に持ち上げた右手を解いて握っていた懐中電灯を放り投げた。
 ゴン、と硬いものが角からアスファルトに落ちる音がして、コンマ三秒後には左へ腰を捻った状態の綱吉が尻餅をつく。庇おうとした掌が凹凸激しい地面で小石に肌を抉られ、鋭い痛みに彼は悲鳴をあげた。
 最初の一撃は回避できたが、如何せんその後の体勢が悪すぎる。即座に身体を裏返して両手を使えたならばまだ良かったのだが、下半身が右を向き、上半身が左を向いている状態では到底叶わない。
 すぐ上を再び風が渦巻いて、閉じてしまった瞼の隙間から見えた襲撃者の脚に綱吉は身を硬くした。
「ひ……っ」
 身構えた相手が、辛うじて放たれた綱吉の声にビクリと震える。しかし寸前に込められた力を散逸させるのは彼であっても難しく、既に動き始めていたトンファーは銀の光を反射して一直線に空を切り裂き、綱吉の脳天目掛け振り下ろされた。
 逃げようにも、身体が覚えこんでしまっている恐怖心から綱吉は動けない。咄嗟に両手両足を丸めて頭を抱きかかえて小さくなるしか出来ず、唇を噛んだ相手もまた懸命に衝動に抗って、狙い定めた地点からトンファーの軌道の修正を試みた。
「くっ!」
「ひぃぃ!」
 綱吉のシャツを掠め、直後にけたたましい金属音が彼の鼓膜を貫いた。
 細かな破片が飛び、半袖の綱吉の腕を乱暴に叩く。小さくなった彼の直ぐ脇のアスファルトが抉れ、表面に小さくだが穴が開いていた。突き刺さる微かな痛みから身を庇った肘を持ち上げ、そろりと様子を窺った綱吉は、微かな焦げ臭さと立ち上る白煙に再び身を竦ませ、これが直撃していたらと想像して肝を冷やした。
 萎縮した筋肉が尿意を齎して、懸命に腹筋に力を入れて我慢する。代わりに鼻水が垂れて、情けない顔で目尻に涙を浮かべた彼は、ゆっくりとトンファーを引いていった相手を見上げ、今度こそ全身から力を抜いて地面に倒れこんだ。
「ひど、い……」
 いきなり後ろから攻撃を仕掛けてくるなんて、あり得ない。世の中にはやって良い事と、そうでない事がある。そもそもこんな目に遭わされる謂われだって綱吉にはなくて、心の底からの本心を呟いたのだが、言われた雲雀はそれこそ不本意だと不機嫌に顔を顰め、立ち上がれずに居る綱吉にトンファーの切っ先を差し向けた。
 こちらも少々焦げ臭い金属の棍棒に心臓を竦ませ、綱吉は己の失言に慌てて首を振った。顔の前で広げた両手で壁を作り、後ろ向きに這って彼との距離を広げる。
 だが実際は、その場で身動ぎしただけで、殆ど移動できていなかった。
「君じゃないの」
「こわかった……って、はい?」
「花荒しの犯人」
「なんで!」
 右手に握ったトンファーを引き、雲雀が嘆息交じりに言う。鳥肌が立った己を抱き締めていた綱吉は、独り言の最中に声を聞き、即座に反論して腰を浮かせた。
 が、現実には、一センチも身体は浮き上がらなかった。
「覗いてたでしょ」
「……見てただけですよ」
 仕込みトンファーを畳んで小さくし、隠し場所に戻した雲雀が顎で綱吉の背後に並ぶプランターを示す。首から上だけを捻った彼は、今の騒動でもびくともせずに眠ったままでいる植物に表情を緩め、無事だったことを素直に喜んだ。
 それから雲雀に向き直り、目尻を吊り上げて彼を睨む。
 珍しく強気な綱吉の態度に、雲雀は肘を軽く曲げて、身軽になった両手を腰に押し当てた。肩には相変わらず黒の学生服を羽織り、ネクタイは結ばずに喉元のボタンをひとつだけ外している。白いシャツは襟まできっちりアイロンが当てられて皺も少なく、裾はちゃんとスラックスの中に納められていた。
 日中に学校で見かける姿と、寸分違わない。彼には私服というものがないのかと呆れつつ、綱吉は掌に食い込んだままだった小石を弾き飛ばした。
 懐中電灯は何処へ行ったかと探せば、プランターの足元にぶつかって止まっていた。拾い上げると角が案の定へこんでいて、奈々に知れたら怒られるだろうかと不安になった。
 壊れていないかどうかだけ確かめ、ライトを点けて直ぐに消す。一瞬だけ明るく照らし出された綱吉に雲雀は顔を顰め、右手を腰から外すといい加減立つように促した。
「あ、はい」
 点灯面を下にして懐中電灯を地面に立てた綱吉が、其処には反論せず下半身に力を込めた。
 日常生活のうえで苦もなく出来る起立をすべく、上半身を真っ直ぐ縦に伸ばす。遅れて膝が持ち上がり、二本の足で地面を踏みしめるイメージが綱吉の脳裏に描き出された。
 但し、
「れ?」
 それは空想の産物で終わった。
 身体が上下に揺れただけで、視線の高さは変わらない。可笑しいな、と首を捻った綱吉は、もう一度同じイメージで身体を起こし、立ち上がろうとした。
 結果は先ほどと同じく、頭がぴょこん、と跳ねただけ。
「なにしてるの」
「あれ、おっかしいな。あれ、あれ?」
 見守る雲雀も流石に可笑しいと気付き、眉間の皺を深くする。構わずに綱吉は幾度もチャレンジを繰り返すが、期待した結果はひとつとして得られなかった。
 ぺたんと地面に腰を落としたまま、膝で曲げて外向きに広げた脚も微動だにせず。
「腰でも抜けた?」
 雲雀のあまりにも的確すぎる一言に、綱吉の顔がにわかにカーッと赤く染まった。
「そ、んなっ」
 そんなわけが無い。咄嗟に言い訳をしようとした綱吉だったが、半分も行かぬうちに言葉は途切れた。
 幾ら大声を張り上げて否定したところで、今の彼の状況からして説得力が皆無なのは火を見るより明らか。実際問題、立ち上がろうとしても下半身にまるで力が入らなかった。
 自分の体なのに、思うようにいかない。神経が断絶されてしまったみたいで、確かに各パーツは繋がっているのに、脳からの信号が下肢に全く伝わっていかないのだ。
「どうなの」
 唇を噛み締めた綱吉の悔しげな表情を見下ろし、雲雀が淡々と聞く。
 綱吉は上目遣いに闇に融けてしまいそうな黒髪の青年を睨み、降参だと肩の力を抜いて地面に横たわる脚に指を下ろした。
 ズボンの上から肌を撫で、試しに爪を立てれば痛覚は生きていた。それなのにもう一度立ち上がろうと試みても結果は変わらなくて、頭の上から雲雀の呆れた声が降ってくるのにあわせ、綱吉はがっくりと頭を垂れた。
「……立てません」
「そう」
 大人しく負けを認めれば、無感慨な声が追加で落ちてきて綱吉の後頭部で跳ねた。ぐっ、と喉で息を詰まらせて屈辱に耐えた彼だが、そもそもこうなったのは、果たして誰の所為か。問答無用で綱吉を後ろから攻撃した雲雀は、一度として彼に謝罪していない。
 第一、こんな時間に何故彼がこんな場所にいるのか。駅からも遠く、人通りが途絶えて久しい夜の道でふたりがめぐり合う確率を計算し、あまりの奇遇さに綱吉は心の中で舌を巻いた。
 渋面を崩さない綱吉をじっと見詰め続ける雲雀は、薄明かりの中で艶やかな黒髪を掻き上げて首を振った。
「ここで、なにをしていたの」
「それは、こっちの台詞です」
 依然腰を抜かしてしゃがみ込んだままの綱吉が、せめて声だけはと語気に力を込めて聞き返す。この暗さの中でも鮮やかな琥珀の彩を際立たせている彼の目をじっと見やり、雲雀は彼の傍らに置かれた懐中電灯に気を逸らした。
 綱吉の後ろには、こげ茶色のプランター。花弁を閉ざすパンジーはそよそよと風に揺られるばかりで、幸運なことに彼らの喋り声はなんら花々の安眠の妨げになっていなかった。
 他者の気配はなく、薄雲に光を落とす上弦の月ばかりがふたりを眺めている。
「……花泥棒」
 やがて数秒の間をおき、雲雀が小さな声で言った。
 冷たい夜気に肌を震わせ、両腕で身体を抱き締めた綱吉は危うく聞き逃しかけて、慌てて目を瞬き、凛と佇む雲雀を見上げた。
「え?」
「見回りだよ」
 雲雀にとても似つかわしくない言葉を告げられた気がしたので驚いていたのに、一旦唇を閉ざした彼は直ぐに言い直してしまった。
「みまわり……」
「最近、物騒になってきているみたいだからね」
 もう一度さっきのことばを聞きたかったのに。残念がっている自分を内側に隠し、たどたどしく舌の上で音を転がした綱吉に、とってつけたような雲雀の説明が重なる。彼は腰に手を当てたままそっぽ向いており、緩い風に煽られて学生服の裾が僅かにはためいた。
 鳥肌が立った腕を交互にさすり、綱吉は無意識にまた立ち上がろうとして失敗した。いつになれば治るのかと、初めての経験に戸惑いながら彼は己の太股を二度叩いた。
 昔のテレビみたいな方法で治るのなら、苦労はしない。どうやって家まで帰ろうかと、彼は其処まで想像して途方に暮れた。
 手っ取り早く確実なのは、獄寺と山本を呼んで助けを請うことだ。
 もしくは。
 ちらりと見た雲雀は、まだ他所を見たままだった。
「ヒバリさん、ひょっとして昨日と一昨日も見回りしてました?」
「してたよ」
「商店街の方も?」
「次の場所に向かった後で荒らされたからね、あれは悔しかったよ」
 思い出したのか眉間に皺を寄せて言った雲雀の台詞を聞いた瞬間、綱吉は元から脱力気味だった身体を更にしな垂らし、身体を前に傾けた。
 塾帰りのハルが見たというのは、どうやら雲雀で間違いなさそうだ。しかし目的が、獄寺が言っていたような趣旨ではなく、その真逆だったことに激しく安堵する。
「それで」
 君は此処で、何をしていたの。
 再度問いかけられて、綱吉は丸めた背中を伸ばしながら締まりの無い顔をして笑った。
「えっと、……ヒバリさんの無実を晴らしに」
「僕の、なに」
「こっちの話です」
 雲雀が怪訝にする前で、良かった、と呟く。意味が分からないと彼は拗ねたが、綱吉は笑って誤魔化すばかりで、昼間の仲間たちとのやり取りは胸の中にしまいこんだ。
 言っても雲雀を不機嫌にさせるだけだと分かっている。彼が花を荒らして回っている犯人でないことが分かっただけでも、綱吉は充分だった。
 胸の前で指を広げた両手をつき合わせ、掌の部分を広げたり閉じたりしながら、彼はアスファルトに体温を奪われて、いい加減寒くなってきている身体をもぞもぞと揺らした。ジッとしていると熱がどんどん失われていくので、本人も意識しないうちに動きは大きくなっていた。
「まあ、いいけどね。どうせ君の五月蝿い取り巻きが、風紀委員より先に捕まえるだとかで騒いだんだろう」
「う」
 半分当たっている。
 当てずっぽうの雲雀の推測に、即座に獄寺の顔が浮かんで綱吉は言葉を詰まらせた。
 なんだかんだで、雲雀はそれなりに綱吉の人間関係と力関係を見ている。彼が流され易い性格をしているのも、人にあまり強く出られなくて妥協の末に無茶な行動に付き合わされて、振り回されていることも。
 けれど獄寺たちはまだ、あれで可愛い方なのだ。
「それで、前と後ろ、どっちがいいの」
「はい?」
 この世の中で一番綱吉を振り回している人物が低い声で問い、意味を理解出来なかった彼は小首をかしげた。
 真顔を向ける相手を見返し、不思議そうに大きな瞳を丸く形作る。右のこめかみに人差し指を置いて暫く考え込んで、雲雀が先を続けないかどうか少し待ち、何も補足説明が無いのを悟ってから姿勢を戻した。
「ん、と……うしろ?」
「本当に後ろでいいの」
「え。あ、じゃあ前で」
 何のことだかさっぱり想像がつかないが、二者択一という事で片方を選び取れば確認の質問が即座に。それを受けてふと嫌な予感を覚えた綱吉は、咄嗟に両手を前に突き出し、意味不明に上下に動かしながら別の選択肢に選び変えた。
「前?」
「だめ、なんですか?」
 雲雀は表情を変えずに綱吉を見詰め、相変わらず抑揚に乏しい声でまたしても確認を。
 後ろが駄目で前も駄目なら、もうどうすればいいのか。自分の選択に問題があるのかと不安に駆られた綱吉が聞き返せば、彼は緩やかに首を振り、右膝を立てて左足を引き、腰を真っ直ぐに落とした。
 視線の高さが近付いて、首もいい加減疲れてきていた綱吉はホッとしながら彼の動きを見守る。羽織られた学生服の裾がアスファルトに着いて弛み、光の加減で濃い灰色に見えるシャツが目の前に落ちた。
「万歳」
「へ?」
「万歳のポーズ」
 端正な顔立ちを間近からぼんやり見ていたら、急に言われて面食らう。
 感極まった時などに喜びを表現する単語を無愛想に告げられ、何事かと思えば綱吉に両腕を挙げるよう命じただけだった。
「紛らわしい」
 彼とこの場の雰囲気に今の単語が全くそぐわないと分かっていてもどきりとしてしまって、損をした気分になった綱吉はつい頬を膨らませて小声で吐き捨てた。
「なにが」
「なんでもありませんっ」
 けれど距離が近かった所為でしっかり雲雀に聞かれていて、同じく不機嫌に顔を顰めた彼に訊かれてしまう。
 答えたくなくてぶっきらぼうに声を荒立てた綱吉だが、彼の両腕は雲雀が求めた通りに動き、地面に対して垂直になるよう高く掲げられていた。
 むくれた様子に雲雀が薄く笑う気配がする。それが余計に恥かしく、また悔しくもあって、綱吉は咥内に残していた空気を全部吐き出すとそっぽを向き、瞼も下ろして雲雀から目を逸らした。
 衣擦れが聞こえて、耳朶に息を吹きかけられる。わざとなのか偶然なのか、兎も角肌を擽る他人の熱に綱吉が寒さからではない鳥肌を立てた瞬間、腰をぐっと抱かれて力任せに引っ張られた。
「う、わ」
「暴れない」
 咄嗟に逃げの姿勢に入った綱吉を牽制し、雲雀が耳元で鋭く囁く。思わず声をあげそうになった綱吉が唇を噛んで堪えている間に、彼は綱吉の背中で交差させた両腕を上下にずらし、アスファルトから引き剥がした臀部を右手で鷲掴みにした。
 硬いズボンの布越しに柔らかな肉を感じ取って、狙っていたわけではないものの結果的にそうなった雲雀が役得かとほくそ笑む。反対に身を硬くした綱吉は、雲雀の許可が下りる前に腕を下ろして彼の首に絡みつかせ、力いっぱいしがみついた。
「くっ」
 喉の奥にあった息を無理に飲み込み、丹田に力を込めた雲雀が前に傾いた姿勢を一気に後ろに倒した。
 屈んでいた体勢を修正し、肩幅より少し広めに両足を広げて大地を踏みしめる。奥歯を噛み締めて立ち上がろうとしている雲雀を肌で感じ取って、綱吉はずり落ちそうになっていた彼の学生服を慌てて捕まえた。
 下から上へ急激に移動した為か、頭がくらりと来て眩暈がした。雲雀の左肩に顎を沈め、左右に揺れてバランスを取っている彼に振り落とされないよう身を縮める。きゅっと小さくなった心臓は一秒と待たずに拍動を強めて五月蝿く鳴り響き、恐怖と緊張で綱吉の全身は茹蛸のように赤く染まった。
 下半身を弄る雲雀の腕が、安定させられる位置を探して絶えず動き回る。布越しとは言え不躾かつ無遠慮な手つきを懸命にやり過ごすが、どうやってもずり下がっていく綱吉の下肢を前に蹴り上げた膝で弾き、上向きに引っ張られたときだけは、彼は喉を擦って悲鳴をあげ、全身を戦慄かせた。
「あ……」
 気付いた雲雀が申し訳なさそうに、綱吉にだけ聞こえる音量で謝罪する。だが居た堪れない気持ちが増幅しただけで、綱吉は自分の浅ましさに穴があったら入りたい気分に陥った。
 漸く右腕で綱吉の身体を下から支え、左手を背中に回して抱きかかえるのに成功した雲雀が、肩口で顔を伏し、息を乱している彼の背中を頻りに撫でて軽く叩く。
「だ、っこするなら、先に言ってください」
 内腿で雲雀の腰を挟み、胸をぴったりと密着させて乱れた呼吸を整えた綱吉が早口に文句を言った。それなのに雲雀は笑って、先に聞いたではないかと綱吉の苦情を取り合わない。
「聞いてません」
「言ったよ」
 自力で立てない綱吉を腕の中に閉じ込めた雲雀が、機嫌を直せと背中の窪みを撫でてから腕を下ろしていく。
 右腕一本では矢張り心もとないと思ったのだろう、二本揃えて綱吉の臀部と腿の深い位置を支えた彼は、沈みかかっていた綱吉の身体を上下に揺すって持ち上げ、上に来た琥珀の瞳に目を細めた。
「先に聞いただろう。前か、後ろか」
 さらりと言い放たれた彼の台詞に、綱吉は絶句し、返す言葉を見失って金魚のように口をパクパクさせた。
 あの、意味が分からなかった質問。脳内で再生された数分前のやり取りも、今なら理解出来た。
「……変えなきゃ良かった」
 最初の選択を貫いていれば、こんな破目に陥らずに済んだのだ。後悔が胸を過ぎるが時既に遅く、力の抜けた体躯を雲雀に預け綱吉は嘆いた。
「今から変える?」
「もー、いいです。このままで」
 あまりの落胆ぶりを見て雲雀が聞いてくるが、綱吉は首を振ると一時は緩めた腕の力を戻し、雲雀に抱きついた。
 耳元から首に掛かる一帯に柔らかな黒髪が触れて、擽られる。重ね合わせた肌からは直接相手の心音が聞こえてきて、暖かなその音色が心地よく、綱吉はつい眠ってしまいそうになった。
 静かに瞼をおろす。その瞬間、世界が揺れた。
「う、や……っ」
 艶がかった声が唐突に綱吉の唇から飛び出し、自分の耳を疑った雲雀が目を丸くする。咄嗟に彼の首から離れて身を起こした綱吉は、気付いた雲雀が右足を前に踏み出さなければ、そのまま後ろ向きに頭から落ちていくところだった。
 空中を泳いだ両腕が雲雀のシャツを引っ掻いて爪に絡ませる。紅色に染まった頬が仄明るい月と細い街灯の光に照らされ、情欲的な色を瞳の奥に翳らせた彼は桜色の唇を小刻みに震わせた。
 何が起きたのか分からないが、思わず生唾を飲んでしまった雲雀の呆然とした顔を叱り、綱吉は左手を捻って彼の肩甲骨を叩いた。
「ヒバリ、さ……鳴ってる!」
 後ろ向きに数歩よろめいた彼に怒鳴りつけ、綱吉が切羽詰った様子でもう一発拳を宙に振り翳す。
 金切り声を上げて涙まで浮かべた琥珀にハッとし、雲雀は一秒半考えて綱吉の右腿が押し当てられている箇所に視線を落とした。
 肩を殴られ、綱吉を落としそうになった雲雀が原因に思い至って苦笑した。
「取れない、君が出て」
 スラックスのポケットの中で、言われれば確かに、聞き覚えのあるメロディーが鳴っている。しかもバイブ機能も一緒に作動していた。
 ヒクリと喉を鳴らした綱吉が嫌だと首を振るものの、雲雀の両腕はその綱吉を抱えるだけで手一杯だ。やれば片腕でも出来ないことはないが、この状態からだと難しい上に、綱吉落下の危険が付きまとう。
 早くしないと切れてしまう。目力だけで急ぐよう綱吉を説得し、雲雀は綱吉がやり易いように彼を抱え直した。
「うぅ……」
 どうしてこんなことに。涙目で唇を噛んだ彼は、渋々右腕を下に伸ばして自分の腿の下に外から潜らせた。
 布の重ね目を手探りで見つけ、隙間に指を差し入れる。だが奥行きは深く、なかなか目当てのものに行き当たらない。その間も電話は、余程火急の用件なのか鳴り続ける。
 綱吉は無意識に雲雀との隙間を詰めて身体を揺さぶりながら必死に雲雀のポケットを探った。
「あ、った」
 段々と急かされて焦りが先に立ち、心底泣きたい気持ちで狭い空間に指を這わせる。いっそ下ろしてくれればいいのにと思いながら、綱吉は雲雀の首に残した左腕に力を込めた。
 どうにか見つけた黒いフォルムの携帯電話を引き抜き、二週目に突入している校歌を止める。二つ折りのそれを勢い良く開いた彼は、
『委員長!』
「はい、もしもし! ……って、ちがーう!」
 つい癖で、自分の耳に押し当てて応対に出てしまった。
「綱吉」
 電話口の向こうの人が絶句しているのが分かる。雲雀も呆れていて、ついついノリと勢いだけで自分の行動にツッコミまでしてしまった綱吉は、もう消えてしまいたい気持ちに浸りながら通話中の端末を彼に差し出した。
 そのまま自分も一緒に、彼の肩に埋もれていく。
「僕だよ。どうしたの」
 雲雀の左耳に電話を掲げ、首を傾けてずれないようにそちらに顔を向けた綱吉は、日頃自分に向けるのとは違う表情をしている彼を不思議な目で見詰めた。
 彼が仕事をしている時は、邪魔にならないようあまり近付かないことにしている。だからこんな至近距離から職務中の顔をする雲雀を見るのは初めてで、そのギャップに驚きつつ、水を差してくれた電話の相手の無粋さにほんの少し拗ねて、感謝した。
 それにしても、電話から聞こえてくる声は実に騒々しい。大声で叫ぶように話しかけて来ているので、綱吉にも風紀委員の声ははっきりと聞こえた。
 更にその後ろで喚いている誰かの声も、マイクはしっかりと拾いあげ、離れた場所にいる彼らの耳に届けてくれた。
 とても聞き覚えがある人の、声だった。
『怪しい輩を発見しまして、捕獲完了いたしました。ひとりは中年男性で、プランターを放り投げようとしていたところを現行犯で捕まえました。もうひとりは』
『うっせー、放せこの馬鹿野郎!』
『委員長もよくご存知かと』
「そうだね、よく知ってる」
 ちらりと黒目を横に流した雲雀が、顔の筋肉を硬直させて引き攣り笑いを浮かべている綱吉に微笑んだ。
「いいよ、両方とも捕まえておいて。これから咬み殺しに行くから。何処?」
「だ、駄目です、獄寺君は関係ないですから!」
 どういう状況からそうなったのかは分からないが、花荒らしの犯人と一緒に獄寺が風紀委員に捕まっている。綱吉が雲雀と遭遇したくらいだ、ひょっとしたら山本も、連絡が無いだけでどこかで風紀委員と鉢合わせしている可能性が非常に高い。
 想像して、綱吉の背中に冷たい汗が流れた。
「彼の行動は日頃から目に余っているからね。一度、徹底的に咬み殺してやろうと思ってたところだから、丁度良かったよ」
「駄目です、ヒバリさん、それは絶対にだめー!」
『じゅ、十代目? 何処ですか、ご無事ですか!』
 雲雀の耳から携帯電話を剥ぎ取って自分の顔の前に持って行き、力いっぱい叫ぶ。聞こえたらしい獄寺の元気そうな声にホッとしていたら、側頭部が引っ張られて頭皮が痛んだ。
 両手が使えないからと、よりによって人の髪の毛を噛んだ雲雀が、不貞腐れた顔で綱吉を睨んでいた。
『あの、委員長……』
「ちょっと待って」
 聞こえるはずのない第三者の声が雲雀の携帯電話から聞こえてくる現実に、彼に電話をかけた張本人である風紀委員の困惑は否めない。痛みから渋々電話を戻した綱吉の視線を横に感じつつ、雲雀は短い嘆息に混ぜて指示を出し、綱吉に向き直った。
 声が拾われぬよう電話を伏して遠ざけるように言い、彼が従うのを待ってから、綱吉を包む腕にひとつの明確な意思を宿して動かした。
「……ぅ」
「なら、君が代わりに、僕に咬み殺されてくれる?」
 ズボンの上から敏感になっている綱吉の腿に触れ、蠢かせる。さっきからばくばくと五月蠅い心臓に、高まりを覚えて疼く身体へ追い打ちをかけ、耳元で熱く密やかに囁いた雲雀に。
 綱吉は。
「お手柔らかに御願いします、よ?」
 甘える声で聞き返し、唇を塞いだ熱に目を閉じた。

2008/05/18 脱稿