隠微

 出かける時降っていた雨は、映画館を出る頃には止んでいた。
 元々小降りだったから、傘を持って行くかどうかでは随分悩んだのだ。しかし濡れた折り畳み傘を鞄に入れるのも嫌で、多少邪魔に感じるかもしれないが大きい傘を持って行く方が、万が一本降りになった時も困らないと判断し、そうした。
 迎えに来てくれた彼も同じ考えだったようで、外国製らしい藍色の傘は、全体的に地味ではあるけれど、金刺繍が随所に見られ、遠目からでも手の込んだ上級品だと直ぐに分かった。
 そういうものを平然と、当たり前のように身の回りに置いて使いこなす彼には、純粋に憧れる。自分なんて頻繁に失くすし、壊すので、これくらいで良いと奈々に買ってもらった千円程度の傘しか持っていない。
 並ぶと見劣りするのは否めず、恥かしさを覚えて傘を差しながら並んで歩いている時は終始俯いていた。
 身長差で彼の傘は綱吉の頭よりずっと高い位置にあり、そこから垂れた雫が綱吉の傘を叩く。トントン、トトン、と歩調に合わせてリズムを刻む雨音に耳を傾け、目的地までの道程をぼうっとしていた彼は急に横から伸びたディーノの腕に肩を引かれた。
「わっ」
 いきなりだったから驚いて、傘が傾く。陥没したアスファルトに出来た水溜りに大量の雫が流れていって、水滴の王冠が立て続けに地表を覆った。
「足元、注意な」
「あ、はい」
 左肩をさりげなく抱いてディーノが笑い、綱吉が顔を赤くして彼から視線を逸らす。道行く人に笑われた気がして、綱吉は道を急いだ。
「待てよ、ツナ。どうした?」
「映画、もう始まっちゃう」
 目の前には大きな複合型商業施設。下の階にはファッション関係の店舗が入り、上の方に飲食店、更に映画館という非常に巨大なビルだ。目的地はそこで、映画は綱吉のリクエストだった。
 テレビCM等で公開前の告知がされていた段階から、観たいと思っていた。けれどひとりで行くには少し気が引けて、どうせなら誰かと、と思っているうちにすっかり忘れていて、気付けばもう終了間際。慌てて周囲に予定を聞いて回ったけれど、誰も今日都合が良い人はいなくて、諦めかけていたのだ。
 偶々日本に遊びに来ていたディーノが、だったら、と誘いに乗ってくれて、今日の外出となった。空は生憎の雨模様だったけれど、出かける間際に見た天気予報は、午後から回復に向かうと言っていた。
 建物の前面に迫り出した庇の下で傘を畳み、半透明の細長い袋に傘を入れて水気が飛び散らないようにする。雨天を避け、外出を控える人が多いから、きっと空いていると予想してきたのだが、想像以上にビル内部は人でごった返していた。
 綱吉と同じ思惑の人が多いのか、映画のチケット販売階に向かうエレベータもぎゅうぎゅう詰めだ。目的階へ到達した時にはくたくたで、更には発券窓口に並ぶ人の多さに眩暈がする。
「ツナは此処で待ってな。俺が買ってきてやるよ。どれだ?」
「良いですよ、悪いし」
 ディーノひとりに行かせると、どんな失敗をしでかすか分からないから。とは流石に口に出さず、綱吉はにこやかに微笑んでディーノを見上げ、想定していた上映時間に果たして間に合うだろうかと時計を探した。
 けれど広いロビーには見当たらず、上映中の映画と席の残り具合を示す液晶画面がひっきりなしに点滅するのが目立つくらい。行列の最後尾に加わると人の壁に囲まれてしまって益々薄暗くなって、腕時計くらいしてくるべきだったと後悔するが遅い。
 すると横からスッと白いものが伸びてきて、何かと思えばディーノの腕だ。手首に巻かれた銀色のベルトに、黒い文字盤が固定されている。
「間に合いそうか?」
「ちょっと微妙かも」
 考えていた内容を読まれ、綱吉は苦笑する。けれど予想外にチケット購入の行列ははけるのが早く、覚悟していた程待たされずに済んだ。
 大人一枚、中学生一枚でどうにか無くなりかけていた空席を横並びで無事確保し、会場へ急ぐ。映画は本当にタッチの差で始まるところで、照明が落とされた薄暗い劇場内部に、ディーノは案の定、階段で躓いて転んだ。
 映画の後は同じビルで軽く食事を済ませ、エスカレーターで階を降りるついでにぶらぶらと店を覗いて回る。CDショップで視聴し、靴屋でディーノの足に合うサイズが無いと言われて大笑いし、気に入ったけれど少し高いと購入を諦めかけた服を買ってもらって、地上階に戻った頃には随分と時間が経過していた。
 久方ぶりに見上げた空は蒼一色で、雨をもたらした暗雲は遠い彼方。顔を覗かせた太陽は燦々と地表を照らし、路面は日陰部分以外ほぼ乾いていた。
「あー、やっぱり傘要らなかったかなあ」
 肘に引っ掛けた傘を揺らし、綱吉が折角の晴天に不満げな表情で呟いた。
 映画のパンフレットと服を入れた袋とあわせると、結構な荷物だ。矢張り折り畳みで事足りた気がする、右足を高く蹴りだした彼にディーノは苦笑して、それからふと、両手が自由な自分に気付いて首を傾げた。
 何かが足りないと、今頃気付く。
「あれ?」
「ディーノさん?」
「ツナ、俺の傘知らないか?」
 変な声を出した彼に、綱吉が顔を上げる。空っぽの手を握って広げたディーノは、映画を観る前は確かに持っていたはずの傘を捜して視線を泳がせた。
「え?」
 綱吉も目を瞬かせ、手に何も持っていないディーノの格好を凝視した。
 劇場で転んで、席に着いた時はまだ持っていたように思う。観終わって会場を出て、ロビー手前でゴミを捨てた時も確かにあった、しかしその後の記憶が曖昧だ。昼食を食べたレストランではどうだったろう、傘立てに預けてそのままにしたか、それとも道中覗いた店で置き忘れたか。
 思い出せない。
「まー、いっか」
「良くないですよ!」
 雨はあがり、晴れている。傘はもう必要ない。呑気に自分の失敗を笑ったディーノに、綱吉は憤って声を荒立てた。
 勢い余って傘の先端が地面を擦る。反動で肩を弾かれた綱吉は、茶色のブロックに落としてしまった自分の傘に首を振ってから、ディーノに探しに行こうと提案した。
「いいよ、面倒だろ」
「だから良くないですって。落としたのなら、届けられてるかもしれないし」
 あんな高そうな傘をなくしたのに、そのまま放置するなんて勿体無さ過ぎる。渋る彼の腕を取り、傘と袋を一抱えに持った綱吉は、ディーノを半ば引きずるようにしてビル内へと戻った。再び人でごった返すエレベータに乗って、映画館入り口から自分たちの通った道筋を辿り返す。だが、受付の人に聞いても、レストランの傘立てを覗いても、目当てのものは見付からなかった。
 他の店でも同様、店員に聞いても知らないと首を振られる。最後の期待を込めてインフォメーションセンターに問い合わせてみたが、それらしき傘は届いていないという返事だった。
「なんでさー」
 再度地上に舞い戻った綱吉は脱力感に苛まれ、折角の映画の感想も何もかも頭から吹き飛ばした。疲れた顔で待ち合わせ広場のベンチに腰掛けた彼に、ディーノは苦笑しきりだ。
 一応誰かが届け出てくれるかもしれないので、傘の色形と、連絡先として綱吉の電話番号はセンターに預けて来たけれど、あまり期待は出来そうにない。みんな心が狭い、憤慨して地団太を踏む綱吉を、傘を失くした側のディーノが宥めて癖毛の頭を撫でてやる。
「別にいいって、傘の一本くらい」
「けど」
 折角遊びに来たのに、寂しい思い出を残すのは嫌ではないか。顔を上げた綱吉が、逆光の最中に佇む彼を見返して悔しげに唇を噛んだ。
 今後此処へきた時に、ディーノと過ごした今日を振り返る機会もあるだろう。そして彼が傘を紛失した出来事は、一生そこについて回る。
 哀しい記憶は、楽しい思い出を容易に塗り潰してしまえる。重いため息を零した綱吉に、ディーノはどうしたものかと苦笑して顎を掻いた。
 綱吉はこう言うが、彼にしてみれば傘の一本や二本、なくしたところで痛くも痒くもない。頓着しない性格だし、何より失くしたのはこれが初めてではない。綱吉の知らないところで度々彼は色々なものを置き忘れ、盗まれ、何れも戻って来た試しが無い。
 今日の一件だってロマーリオに言わせればまたか、と呆れられるだけで終わるので、綱吉がこんなにも過敏な反応をする方が彼には驚きだった。
 同時に嬉しくもある、彼がこんなにも自分の事を思ってくれているのだと。
「本当、いいってば。一番大事なものは、ちゃんと此処にあるし」
「え?」
 ニカッと歯を見せて笑い、ディーノが空を飾る太陽に負けない顔をする。袖から伸びる刺青の入った腕で綱吉の頭をやや乱暴に撫で回し、最後に二度大きく叩いてふわふわの髪の毛を指先に楽しんでから離れた。
 不可思議そうに目を丸くした綱吉に尚も笑いかけ、ディーノは悪戯っぽく目を細めた。
「だってツナは、ちゃんと俺の前にいるだろ?」
「ばっ――!」
 素早く右目を閉じてウィンクをして、口に立てた人差し指を押し当てる。潜められた、けれどはっきりと聞き取れる声で告げられ、綱吉は途端に頭を噴火させて真っ赤になった。
「ひ、ひとをものみたいにいわらいれく……いたっ」
 狼狽して呂律が回りきらず、挙句舌を噛んでしまい、綱吉は涙目で彼を睨んだ。ディーノは相変わらず、陽気な笑顔で綱吉を見下ろしている。
「じゃあ、言い直す。ツナは、ずっと俺の傍に居てくれるんだろ?」
「知りません!」
 涼やかな目元で告げられて、綱吉は反射的に怒鳴った。
 高らかに笑ったディーノが、お構い無しに綱吉を思い切り抱き締める。公衆の面前だというのも忘れている彼に、綱吉は赤い顔をして深々と溜息をついた。

2008/02/06 脱稿