目を開ければ、そこは一面の闇だった。
「う……ん」
小さく喉の奥で呻き、寝返りを打つ。体の動きに合わせて被さっている毛布も一緒に動き、丈が足りなくなった背中部分から冷たい夜気が流れ込んだ。
ひんやりとした感触に肌を撫でられ、何度も寝返りを打つ間に着ていたパジャマ代わりのシャツが捲れ上がっていたことを知る。もぞもぞと上に来た右腕を後ろへ回し、彼は裾を手探りで見つけて下へとぞんざいに引っ張った。
けれど目を開けていても、閉じていても、見えるのはただ深淵の闇ばかり。指先の感覚は弱く、遠く、内側に折れ曲がった裾を捕まえるのさえままならない。
「くぅ」
焦れったさに丸まっていた身体を真っ直ぐに伸ばし、最終的には海老反りに。そこまで来てやっと、肌寒さから逃れられた彼だったが、代わりにまどろんでいた意識が覚醒の一途を辿ってしまった。
僅かに身体に宿っていた眠気は去り、怠さだけが残される。
毛布を抱き込んで再び小さくなるが、冴えてしまった意識はなかなか睡魔を呼び込まない。何度か闇の中、変化のない世界に向かって瞬きを繰り返し、寝返りを二度、三度と連続させるが、効果は芳しくなかった。
「羊が一匹、羊が二匹……」
古典的な芸当にも考えが及ぶが、益々覚醒が促されていくばかりだ。夕方に少し眠ったのが悪かったのだろうか、それとも別の要因か。
沢田綱吉は羊を三十七まで数えたところで面倒臭さに負け、硬いベッドの上で仰向けに姿勢を変えた。
そのままじっと、今度は心臓が鳴動する回数を数え始め、静かに呼吸を整えながら何も無い天井を見詰める。目がこの暗さに慣れて来たのか、やがて薄らながら物の凹凸くらいは見分けがつくようになり、瞬きを重ねるにつれ、朧だった物体の輪郭は立体に形を変えていった。
ふっ、と唇を窄ませて息を吐く。
自ら作り出した風は、けれど部屋中の空気をかき回す程の力を持ちえずに消えた。行方を追うことさえ出来ず、綱吉は己の童顔の原因となっている瞳を大きく広げ、肺呼吸する身体がベッドと一体化した感覚に囚われた。
「なんで……」
昼寝をしたのは確かだが、それだって子供たちと一緒に小一時間ほど、うつらうつらした程度でしかない。炎の強化特訓は連日続いていて、その疲れだって完全に取れていない。休息は必要不可欠だと、なにより綱吉の肉体が一番よく分かっているだろうに。
意識は冴え渡り、今なら部屋に蠢くものがあれば即座に察知できてしまえそうだ。
持ち上げた左腕を額に載せ、視界を物理的に遮って閉ざす。布の感触越しに自分の体温を感じて、若干の気持ち悪さを覚えた綱吉は、深く吸い込んだ息を長い時間かけて吐き出し、再びごろんと身体を横向きに倒した。
毛布から足の先がはみ出し、爪先がシーツの皺を蹴り飛ばすが気にも留めない。傾いた所為で落ちた左腕を顔の前に投げ出した彼は、くっきりとまではいかないものの、存在を確かに気取れる近さにある己の手を胸に抱きこんだ。
膝を曲げ、背中を丸め、胎児のポーズを作り出す。けれど今この場所には、綱吉を優しく包んでくれる母胎は何処にも存在しないのだ。
「眠れない、や」
瞼を下ろしてきつく閉ざし、その姿勢のまま十秒数える。けれど今度は眠らなければいけない、という強迫観念に苛まれ、少しも眠くならなかった。
二度瞬きし、握り締めていた左手を解く。ぽつりと呟けば言葉は闇に飲み込まれ、静かに溶けてなくなった。
声に出すと、よりはっきりと目覚めている己を自覚させられた。
今、いったい何時だろうか。日の光が届かない地下での生活は、最初こそ戸惑いが大きかったが、数日過ごすうちに段々と慣れて来てしまっていた。
太陽の巡航が見えないので、時間の経過は時計を頼らざるを得ない。一応アジト内の照明は、時間ごとに少しずつ明度を変えているようだけれど、それだって微細な違いでしかない。
お日様を仰ぎたいという我侭と、自分たちの身の安全と天秤にかけた場合、どちらに針が傾くか。
考えるまでもない。
それでも、見えない青空に焦がれて、いつになれば自分たちはこの狭苦しい地底から出られるのかと、考えずにいられない。
暗がりの中でひとり息を潜めているから、こんなことばかり考えて、余計に眠れなくなるのだ。広げた両手の指が見える近さまで顔に寄せて息を吹きかけた綱吉は、肘を腹に食い込ませてより身体を小さくした。
眠れ。眠ってしまえ。夢さえ見ないほど深く。
祈り、願う。しかし思いに反して睡魔は一向に訪れず、綱吉は喘ぐように喉を広げて枕の上の頭を振った。
再び仰向けになり、反対に身体を倒して、今度はうつ伏せに。
光の下では白さが際立つ枕カバーも、この状態では闇色一色。気温は低いけれど換気が足りていない室内の空気は濁って重く圧し掛かり、綱吉は寝苦しさに負け、ついに布団を跳ね除けて身体を起こした。
「あー、もう。駄目だー」
その勢いのまま、ぐしゃぐしゃに頭を掻き毟り、変な癖がついている髪の毛を益々芸術的な造詣に仕上げていく。一頻り首を振り回して座ったまま暴れた後、疲れたと息を切らして肩を上下させ、綱吉は濡れた口元を拭って膝に蟠っていた毛布を横へ追い遣った。
右太股に残っている角だけを握り、柔らかい肌触りに溜息を零す。周囲の暗さはさっきから変化を見せておらず、窓のない部屋は静かで、落ち着かなかった。
耳を澄ませば地鳴りのような換気扇の回る音がするが、小さなノイズでしかない。生活音――人が生きているときに起こす様々な音がこの場所には欠けていて、それが彼を不安にさせる原因のひとつなのは間違いなかった。
例えば蛇口を捻る音、水の流れる音。誰かが歩く足音、スリッパが床を擦る摩擦音。衣擦れ、呼気、影を引いて融けて行く残響。
車のクラクション、自転車のベル、子供のはしゃぐ声、誰かの笑う声。
色々な、そこかしこに、当たり前のように身近にあった音が、この閉鎖空間ではごく限られた場所にしか響かない。
今まで傍にあった空さえも遠い。人工的に生み出された太陽に、なんの恵みが与えられようか。
「……眠れない」
静か過ぎて、気持ちが悪い。胸がむかむかして、表現し辛い感覚に襲われて、綱吉は身体を半分に折り畳み膝に額を埋めた。
昨日まではこんなことがなかったのに、どうして急に。昼寝だけが原因ではないのはもうはっきりしていて、ならばその理由は何かと思案に瞳を翳らせた綱吉ではあったが、実際は、凡その見当がついていた。
怖いのだ。
闇が、ではない。闇の続く先に光が見えてこないのが、怖いのだ。
先行き不透明、現状を打破するだけの決定打が足りないまま、我武者羅に今は足掻く他なく。それとて、結果どうなるかはまるで想像がつかない。
「……」
伏した顔を上げ、腕に抱えていた膝をずらしてベッドから下ろす。素足が触れた床は予想以上に冷えていて、猛スピードで踝から背中まで登って来た悪寒に、綱吉は小さく悲鳴をあげた。
全身を戦慄かせ、震えを耐える。ぎゅっと窄まった心臓が再び拍動を開始するのに数秒かかって、停滞した血流が再開したと知った綱吉はホッと胸を撫で下ろし、瞬時に浮かせていた足をそっと、先ほどよりずっと慎重におろした。
土踏まず以外の全面を押し当て、少しずつ体温を床に移し変えていく。覚悟があったお陰で冷たさはそう強く感じずに済み、彼は何をこんなにもビクビクしているのかと己の肝の小ささに肩を竦め、立ち上がった。
角が腰に引っかかっていた毛布はベッドに残すか迷って、夜間の肌寒さに腕をさすった綱吉は、半袖のシャツ一枚では心もとないと大判のそれを肩に被せた。横に広げ、マントのように羽織る。首の後ろから膝下まで覆う簡易コートは直ぐにずり下がるので、綱吉は胸の前で肘を曲げ、互い違いに左右の端を握り締めた。
なんだか乞食にでもなった気分だ。濃い黄土色の毛布を被っている様は、傍目から見れば非常に貧乏人臭い。
それでも暖かいのだから、文句は言えない。ズボンに引っかかって弛んでいた箇所を、身体を揺らすことで真っ直ぐに伸ばし、綱吉は靴を探して視線を左右に彷徨わせた。
しかし闇の海に沈んだ床にそれらしき物体は見えず、むしろ自分自身の爪先さえあやふやにしか見えない状態では、目的のものを見つけ出すのは至難の業と言えた。靴下くらい履いて寝転がればよかったかと、本末転倒な事を思い浮かべた彼は、何もない天井を見上げ、深々と溜息を零した。
何かしたいわけではないが、あのままベッドに寝転がって眠れないまま悶々と過ごすのも嫌だ。気分転換でもして、ひょんなところから眠気が降って来ないかと淡く期待し、綱吉は毛布を被り直して寝台から直線上にあるはずの扉を目指した。
目を開けていても闇しか見えないのだから、と途中から瞼を下ろす。聴覚と嗅覚を頼りに足を進めた彼だったが、この場合一番需要なのは触覚だという事実は、毛布を落とさぬようにしっかり握り締めることを優先させていたため、まるで思い至らなかった。
「あでっ」
案の定右足の爪先が垂直にそそり立つ壁にぶつかったかと思うと、僅かにタイミングを遅らせて額が、ゴチン、と楽しくない音を立てた。
骨に響く衝撃に目の前で星が散って、瞑っていた瞼にぎゅっと力を込めた彼は、もうちょっと距離があったはずなのに、と頼りにならない昼の記憶に文句を言って左手で今しがたぶつけた箇所を撫でた。
半歩下がり、右足を前に蹴りだす。膝が九十度曲がる前に爪先が壁に当たって、斜めにおろして行くうちに出っ張りに出くわした。
「あった」
視覚が頼りにならないというのは、なんと不便なのか。左手を壁に伝わせた綱吉は、足が見つけた扉と壁の境界線付近を弄り、手探りでドアの開閉スイッチを見つけ出した。
押せばシュッ、と音を立てて壁の一角が右に流れて行く。
廊下は、明るかった。
否、薄暗い。単に綱吉がそれまで立ち止まっていた空間よりは光が溢れていた為、闇にすっかり慣れてしまった目に眩しく感じられただけだ。
彼はボタンを押した手を額に翳し、直接目に入って来た光を遮って肩を引いた。その反応を受けてドアが勝手に閉まろうとしたので、慌てて再度スイッチを押す。半分閉まった扉は再び右のドアポケットに吸い込まれ、沸き起こった風に前髪が掬われた。
細く目を開けて徐々に光ある世界に身体を馴染ませ、舞い降りてきた前髪を見上げる。天井に埋め込まれた照明は足元を照らすぎりぎりの明度まで絞られて、それが五メートルほど間隔で繋がっていた。
綱吉はドアを跨いだどころで立ち止まったまま、他に誰もいない事を確かめて安堵すると同時に、一抹の寂しさを覚えて乾いた唇を舐めた。
相変わらず聞こえてくるのは、空気を循環させ通気口の低い唸り声と、自分の呼吸する音ばかり。毛布の巻きつけを強くして、足元から競り上がってくる寒気から逃れようと彼は足早に、目的地も決めずに歩き出した。
人の気配が皆無の廊下に、綱吉の足音ばかりが響き渡る。やや湿った肌は冷たい床に張り付いて、前に踏み出そうとする度に皮膚が取り残される感覚に襲われた。
息を吐けば白く濁る気がして、顔をあげられない。確かにドアを隔てた室内には獄寺や山本が寝入っているというのに、誰も居なくなってしまった気がして、彼は起きている人が他にいないか懸命に探して回った。
食堂、台所。近付くなと言われているけれど女性陣の寝所の前も通り過ぎ、聞き耳を立てて自分以外の動く存在を必死に求める。だが時間が時間なだけに、綱吉の希望はそうそう叶えられない。静まり返ったアジトに、彼の乱れた呼吸ばかりが吸い込まれていく。
いつもは遅くまで整備作業に追われているジャンニーニの姿さえ、見付からなかった。
「……はっ」
疲れ切って足を止めた時には額に汗さえ滲んでいて、身体に巻きつけた毛布は邪魔なだけ。剥ぎ取って足元に落とせば、スッと肌を撫でた冷気が今度は心地よくて仕方がなかった。
身に着けたシャツの裾を抓んで揺らし、風を直接送り込んで呼吸を整える。背筋を伸ばした綱吉は、そこに至ってやっと自分の現在位置を確認した。
ちょっとした気晴らしのつもりが、本気であちこち走り回っていたらしい。住居区は遥か彼方、上下階への移動も繰り返したから、パッと見ただけでは此処がどこだかさっぱり分からなかった。
「えっと」
何処だろう。心の中で呟いて、落とした毛布を拾い上げる。再び羽織る気にはなれなくて、雑に四等分に折り畳んで右脇に抱えた彼は、目印を探して視線を浮かせ、すっかり暖まった身体を前へ運んだ。
眠気が云々という気持ちは完全に吹き飛んで、好奇心が先に立つ。この辺に来た事はなかっただろうか、それとも照明の差で抱く印象が違うだけか。左右を落ち着きなく見回して、綱吉は曲がり角を右に進んだ。
「あ、此処……か」
それまで歩いてきた廊下とは違い、昼と変わらない明るさを維持していたその一画には見覚えがあった。思わず声を出してしまった綱吉は、知った光景に出くわした安心感からホッと息を吐き、緊張で皺だらけにしていた毛布を胸から下ろした。
そこは、応接室のある一帯だった。
地味で簡素な構造が連なる中にあって、この扉の内側だけは豪華な造りが成されている。最初にこのアジトに来た時、十年後の山本に案内された部屋だ。
「誰かいるのかな……」
微かに違和感を覚えるのは、綱吉以外の何かが空気を掻き回した形跡が窺えるからだ。ただ、誰がいつ、どういう理由でといった具体的なところまでは、なにも分からない。
けれど本当に微細な、肌にちくちく刺さる棘のようなものが空気に混じって感じ取れて、綱吉は無意識に生唾を飲み、緊張に背筋を伸ばした。
よく見れば応接室のドアは僅かに開いていて、廊下の眩い照明に紛れているものの、内側から光が漏れていた。
「……だれ」
まさか泥棒なんて事はあるまい。ならば仲間のうちの誰かだろうが、こんな夜半に用がある場所でもなかろう。
自分の事は棚に上げ、綱吉は息を潜めて気配を殺し、そうっと廊下の上に足を滑らせて距離を詰めた。十センチにも満たない隙間から内部を覗きこもうと肩を窄めて壁に身体を寄せ、顔のパーツも左側に寄せて目を眇める。
影が見えた。長い、背の高い影。
一瞬雲雀かと思ったが、違う。流れ出ている雰囲気は、鋭利な刃物を思わせる元風紀委員長の匂いとは明らかに異なっていた。
ならば、いったい。
もっと良く見ようと綱吉は身体を捻り、益々壁に身体を押し当てた。肘で毛布を支え、右手を壁に添える。ドアに向かって歪んで伸びる影の形には覚えがある気がして、何処で見たものだろうかと彼は頭の中で懸命に記憶の引き出しを掻き回した。
長い脚、すらりとした体躯。頭には鍔広の帽子を被り、右肩に奇妙なものを載せている――
「え」
「何やってんだ、ツナ」
「ええ?」
頭の中でふたつの点がひとつの線で結ばれた時、真ん中を鋏でちょん切る声が室内から響いた。
癖の強い、鼻から抜けたような声。人をからかう口調、綱吉の耳によく馴染んだ。
リボーンの。
「あ……れ?」
いつ気付かれたのだろうか。不思議に思いながらも、隠れ続ける理由もなくて、綱吉は細い隙間に指を差し入れてドアを押した。
溢れる光に一瞬だけ目を細め、床を見る。だが光の当たる角度が先ほどと変わってしまったからか、部屋の中に佇む赤ん坊の足元には、体型相応の小さな影しか残っていなかった。
見間違いだったのだろうか。思わず空いている手で目を擦り、綱吉は何度も瞬きをして自分の視覚が正常なのを確かめた。
照明は高い位置にひとつ、そして本棚の角に設置された読書用の手元明り用がひとつ。恐らく低い位置にある後者の光を浴びて影が伸びていたのだろうが、それにしては若干の違和感が胸の中に残された。
綱吉はしっくり来ない感覚に首を傾げ、腕を下ろし落としかけた毛布を抱き直す。
リボーンはソファには座らず、本棚の仕切りに背中を預ける形で立っていた。
「なにやってんだ、ツナ」
「えっ、あ……そういうリボーンこそ」
「おねしょでもしたか?」
「なっ」
大事に胸に抱きこんでいる毛布にちらりと目をやって、リボーンが帽子の下に隠れがちの黒目を眇めて意地悪く笑った。聞いた瞬間、顔を真っ赤にして布団に回した腕に力を込めた綱吉は、その行動が余計に、濡れた毛布を隠そうとしている風に見えると気付いて慌てて首を振った。
違う、と早口にまくし立てて寒かったからだ、と必死に主張する。良く見ろと畳んでいたそれを顔の前で広げれば、波打った裾が乾いた床を擦って埃を巻き上げた。
ククク、と直後にくぐもった笑い声が聞こえてきて、綱吉が視界を埋めた毛布の端から前を覗き込む。そこでは予想通り、二頭身半の赤ん坊が腹を抱えて笑いを噛み殺しているところだった。
からかわれたのだと漸く思い至った綱吉が、自分の必死具合も思い出して耳の先どころか首の後ろまで赤く染め上げる。
「リボーン!」
上擦って裏返った声で怒鳴るが、彼は益々声を立てて笑うばかりで、綱吉は恥かしさを募らせると最後にぷいっ、と頬を膨らませてそっぽを向いた。地団太を踏み、広げた毛布を茣蓙のように丸めて畳んでいく。
リボーンが一頻り笑って満足するまで、たっぷり三分は掛かった。彼は自然に浮いた涙を指で弾くと、音を立てながら呼吸を整えて、今度はまだ拗ねている綱吉を宥めにかかる。怒るな、と小さな紅葉の手を揺らして入り口直ぐの地点に立ったままでいる彼を手招いた。
渋々綱吉は頬をへこませて横目で彼を見るが、謝罪の言葉が足りないと言って動かない。強情を張る綱吉に肩を竦め、リボーンはやれやれと首を振った。
「眠れないか」
「……そんなとこ」
今度はちゃんと、夜遅くまで起きている理由を言い当てられて、流石に我を張り続けるのも疲れた綱吉が全身から力を抜いた。
走った分の汗と、先ほどの羞恥心からの汗は同時に引いて、肌寒さが舞い戻ってくる。彼はもぞ、と身体を捻ってから縦長サイズになっていた毛布をまた広げ、最初にそうしていたように肩から羽織った。
胸の前に来た角を手で握って交差させ、首から下をすっぽり覆い隠す。その状態で、こうやっていたのだとリボーンに示すと、不恰好な彼を笑って赤ん坊は口角を持ち上げた。
「リボーンこそ、こんなところで何してたのさ」
皆が寝静まった時間に、ひとりでこそこそと。調べ物があるのなら、日中の活動時間帯にやれば済む話だ。怪訝に顔を顰めて話を戻した綱吉の問いに、彼はああ、と頷いて天井高くまである本棚を仰ぎ見た。
綱吉もつられて、そちらに目を向ける。こげ茶色をもっと黒くした本棚には、びっしりと分厚い背表紙が並べられていた。
いったい誰が読むのか――将来の自分を想像して、違うだろうな、と己の事ながら情けない結論に至った綱吉の心情を読み取り、リボーンは首の向きを戻してまた笑った。
「お前のじゃないのは、確かだろうな」
「む……」
あっさり断言されて、綱吉はむくれた。
今しがた自分でも、こんな本を読まないだろうと思い至ったくせに、真っ向から他人に肯定されると何故だか悔しい。
ひょっとしたら、ある日突然天才になっているかもしれないのに。おおよそありえない発想をして声を荒げた彼に、リボーンは表現し様がない顔をして視線を外した。小馬鹿にされているのだけは間違いなくて、綱吉は乱暴に右足で床を蹴り、靴底から伝わった振動に鳥肌を立てた。
「読んでたの?」
「何を」
「それ」
全身に広がった震えをやり過ごし、肩を落として毛布に包まった綱吉が気を取り直して問いかける。リボーンの質問に、顎で本棚を示すと、再び上を見た彼はその状態で違う、と首を横へ振った。
何故だという問いかけへの回答は、時がそれを許しはしないから、と。
「トキ……」
「この本はこの十年で書かれたものだ。無論それ以前の本も納められているが、どれも十年前の俺の手元にはない」
「未来を知ることになる、って、そういう?」
「それもあるがな。過去に持ち得ない知識を未来から持ち帰るのは、大きな矛盾だろう」
「……」
ならば自分たちは、この時間で手に入れたあらゆる知識を、過去に戻る時に捨て去らなければならないのか。
指輪のことも、匣の事も、ミルフィオーレのことも。
この時代でリボーンが、綱吉が、死亡済みであるという事も。
だがそもそも、本来自分たちが属していた世界に本当に戻れるのかどうかも、保証はないのだ。
あるのは今だけ。十年前から来た綱吉たちは、この『十年』という過去すら持ち得ない。
複雑な表情をして俯いた綱吉を下から見上げ、リボーンはそうと知られぬよう嘆息して肩の上で居眠りしているレオンの頭を人差し指で撫でた。途端、小さな鼻ちょうちんをパチンと弾いたカメレオンは、丸い瞳を瞬かせて主の顔をじっと見詰めた。
何故未来の自分たちは死ななければならなかったのか、どうして過去の自分たちがこの時間に居るのか。何を成せばいいのかも分からぬまま、無為に過ぎる時を過ごして、このままで良い訳がないのに、脱出口が見付からない。
深遠の闇に続くトンネルの終わりは、どこに繋がっているのだろう。
「リボーンは」
奥歯を噛み締めた力を抜いて、唇を舐めた綱吉が顔を上げる。鈍い光を放つ手元明りはまだスイッチが入ったまま、床に楕円を浮き上がらせていた。
矢張りこの光の当たり具合では、あんなにも長い影が出来ると思えない。綱吉が知らぬ間に、リボーンが角度を変えたのだろうか。可動式のアーム部分に視線を走らせ、綱吉はそっと息を吐いた。
「この先どうなるか、分かる?」
おずおずと吐き出された問いかけは、先行き不透明な未来に対しての不安を反映してか、震えて掠れていた。
綱吉には元々ネガティブ思考に走る傾向があって、前向きに進むという選択肢は彼本人の意思ひとつではなかなかに選び取り難い。誰かに背中を押してもらわなければ、飛び込み台の手前でいつまでも足踏みをしたままだ。
最近でこそ、後ろ向きの性格は改善されて来ていたのに、此処に来てまた逆戻り。日中は周囲の目もあるので影を潜めていたものが、今はリボーンだけしか居ないからだろう、むくりと起き上がって綱吉の背中に覆い被さっていた。
毛布を握り締め、狭い内側に己を閉じ込める。そんな防壁など敵の前では一秒ともたないだろうに、今の彼にはそれに縋るしか道は残されていなかった。
素足の爪先から冷えて、感覚が失われていく。ボロボロに崩れていく自分を想像し、綱吉は下唇を噛み締めた。
やがて。一秒しか経っていないのか、それとも五分以上が経過していたのか。不意にリボーンが口を開いた。
「さあな」
「……リボーン?」
「俺の知ったことじゃねー」
「ちょっ」
投げやり的な返事が白い光の注ぐ室内に反響し、壁に吸い込まれていった。
綱吉が目を剥き、驚愕に表情を染める。反射的に前に出かかった身体は、しかし床に足の裏が張り付いていた所為でまるで動かなかった。
興味なげなカメレオンは、細長い舌を丸めて全身を伸ばし、くたりと頭を落としてリボーンの肩に持たれた。再び寝入る姿勢に入ったそれに一瞬だけ気を取られ、綱吉は言葉を吐いた際にリボーンがどんな表情をしていたのか、見るのは叶わなかった。
「リボーン」
自分の命に関わることだと、分かっているのか。あまりにもやる気のない彼の返事は大いに不満で、綱吉は己が抱く不安もあってか、ボリュームを上げて姿勢を前に傾けた。
今度こそ床から別れた足が、前に踏み出される。そのまま近付こうとした綱吉であったが、帽子の鍔から覗いた大粒の瞳に気圧されて声を詰まらせた。
「……リボーン」
「なんだ」
「リボーンは、こわく……いい。なんでもない」
どうせ聞いたところでまともに答えてなどくれないのだ。諦めが先に立ち、綱吉は言いかけた言葉を飲み込んで顔を逸らした。
前を広げていた毛布を再び閉ざし、身体を隠す。感情を内に篭もらせて、誰にも明かさないのも綱吉の悪い癖のひとつだ。いい子を演じようとして、自分に無理を強いる。誰にも嫌われたくないから、自分を偽るのさえ厭わずに。
自分自身が、自分の一番嫌いな人間になっているのにも気付かないで。
「ツナ。言いたいことは言わねーと、わかんねーぞ」
「だって、……いいよ、もう。おやすみ」
レオンが落ちぬよう片手を添えてやった赤ん坊が、一際明るい中で彼の行動を咎める。だのに綱吉は聞かず、首を横に振り、本当は潜り抜けたいドアを自ら閉めてしまった。
やる前から諦める。無理だと決め込んで、挑戦しない。割り切ったつもりになって自分を誤魔化して、物分りが良い人間を演出して、自分がどんどん暗い方向へ落ちていく事実にさえ目を逸らす。
流されるまま、周囲にとって都合がいいだけの存在に成り下がっている自分に、満足したフリをして。
「ツナ」
「だって!」
リボーンはいつだって、肝心なことは何も教えてくれない。ノックをしても返事さえなく、開きもしないドアを前に待ち続けるのに疲れてしまった。
かぶりを振った綱吉の腕が伸び、毛布が横へ薙ぎ払われる。空気を含んで膨れ上がった一枚布は、やがて自重に負けて床に沈んだ。
「だって……お、……リボーンだって、死んじゃうかもしれないのに」
この世界に飛ばされて、何がなんだか分からぬままいきなりつきつけられた現実。自身の、そして今目の前に在る赤ん坊の死という報せを聞いて、冷静で居られる方が可笑しいのだ。
いや、綱吉個人は、自分が死んだと聞かされても妙に冷静だった。流石に驚いたし、ショックもあったが、どうせ自分の事だ、馬鹿な真似をしでかしたのだろうと乾いた笑いで受け流すだけの平静さはなんとか維持できた。
しかし、リボーンは。
綱吉にとってリボーンとは、出会った当初こそいけ好かない生意気ばかり言う変な赤ん坊という印象でしかなかった。それが徐々に、色々なトラブルに巻き込まれる中で信頼出来る存在という認識に変わり、常に隣に居る存在となり、彼が傍に居ない未来を思い描けなくなっていった。
その彼が、未来の世界にいない。
いつ、どうして、どんな風に。仔細は伝えられぬまま、結果だけを突きつけられた。信じ難い真実を受け入れるのは至難の業であり、彼が居ないのならば或いは未来の沢田綱吉もまた死して当然だとさえ、思えてしまう。
「死ぬだろうな」
「リ……」
「このまま、今の未来が俺たちの時間の先にあるのだとしたら」
未来を変えられなければ、此処で綱吉たちが行動を起こして何らかの変化を呼び起こさなければ、リボーンと綱吉が消失した時間が行く末として迎え入れられてしまう。
だけれど、なにをどうすればいいのか、綱吉には分からない。いくら十年後の獄寺のメッセージがあるとはいえ、それを成せば本当に変化が訪れるのかという保証は、ないのに。
「まっ、なんとかなるんじゃねーか」
「そんな悠長な」
それなのに、リボーンは至って呑気に言い放ち、呵々と喉を鳴らして笑った。
背伸びをして、熱を持ったライトを消す。部屋の照明が一段階落ちて、不意に訪れた静寂に綱吉は緊張した。
前傾姿勢を戻し、落ち着かなくて腰を屈めて自分で落とした毛布を拾い上げる。端を抓んで捲りあげても中には何もなくて、それは最初から分かっている事なのに、何故か妙な安心を覚えて綱吉は冷え切って感覚の遠い足に毛布を被せた。
「ツナ。物事はなんだって、なるようにしか、ならねーぞ」
世の中を達観し尽したかのような言葉を紡ぎだし、リボーンはふふん、と鼻を鳴らして今は未だ上にある綱吉の顔を見詰めた。
返す言葉を持たず、ただ不貞腐れた表情で唇を尖らせた教え子に歩み寄って距離を狭め、床にだらしなく広がっている毛布の片隅を蹴り上げる。ただ目測を誤ったのかあまり浮き上がり方は宜しくなくて、そういう幼い行動に綱吉は少しだけ、気が紛れたのか頬を緩めた。
「そんな事、言っても」
「心配しなくても、時が来れば向こうから一気に色々と押し寄せてくるもんだ。その時に、おたおたせず堂々と構えて迎え撃ってやればいい。慌てたところで、良いことなんざひとつもねーからな」
どれだけ落ち着いて、冷静に物事を対処できるかによって、行く末は大きく変動する。目先のことに囚われていては、大局を見誤る。だから何があっても動じず、怯えず、斜に構えて受け流すくらいの気構えでいれば、悪い事柄は大抵自らの不利を悟って尻尾を巻いて逃げていく。後は残った幸運を拾い集めて行けばいい。
簡単に言ってのけ、リボーンは返した掌を天井に向けた。
聞いていた綱吉は、段々と真剣に考えていた自分こそが馬鹿らしく思えてきて、額に手を当てて天井を仰いだ。
「なんかもう、こんがらがってきた……」
「ダメツナの頭で考えたところで、何も出てきやしねーからな」
「悪かったな。どうせ俺は、頭が悪いよ」
「分かってんなら、考えるな」
「あいたっ」
ぐるぐると煙をあげた頭を撫でて熱を冷ましていたら、リボーンが今度は綱吉の脛を直接蹴ってきた。
弁慶の泣き所を攻撃され、みっともなく悲鳴をあげた彼は一本足でぴょんぴょんと飛び上がった。そして着地の瞬間、床に落ちていた毛布に乗り上げてずるっと滑り、尻から落ちて床に倒れた。
声にならぬ声で喘ぎ、ぶつけた後頭部を抱きかかえてのた打ち回る。なにをひとり芝居をしているのか、と傍らのリボーンからは呆れた目を向けられ、生理的に浮かんだ涙を目尻に溜めた彼は、誰の所為だ、と大声で叫び、脳内に走る痛みを酷くして悶絶した。
「ツナ」
「もういい、ここで寝る」
床は固くて冷たいが、毛布に包まってしまえば気にならない。リボーンとの会話でほとほと疲れてしまって、ベッドに戻る気力も萎えた。
あんなに目が冴えて仕方が無かったのに、今なら瞼を閉じて五秒数えないうちに眠れる気がした。
「ツナ」
「いい。此処で寝る」
こんな場所で、と綱吉を毛布の上から再度蹴りつけたリボーンだが、彼は益々強固に布団を引き寄せ、簀巻き状態で床に身を投げ出した。
せめてソファに上がればいいものを、何を好んで床に直接横たわるのか。もう少し右に寄れば絨毯だって敷かれているというのに。
此処に置き去りにしても良いが、この調子で本当に朝まで過ごして風邪を引かれるのも困る。体調管理は自己責任だが、気になって夢見は悪くなりそうだ。
天秤を左右に揺らし、数秒で結論を得たリボーンはやれやれと肩を竦めた。その呆れの矛先は、応接の床で眠ろうとしている綱吉に対してか、それとも彼を放っておけない自分に対してか、本人でも分からなかった。
彼は被っていた帽子を取り、その上にレオンを移動させた。そっと応接セットに歩み寄り、傾けないようテーブルに置いて手を離す。
形状記憶カメレオンはすやすやと気持ち良さそうに眠ったままで、リボーンは穏やかな寝顔に微かに笑みを零し、背中と膝を丸めて芋虫のように横になっている綱吉を振り返った。
最初はぎゅっと握られていた手も、眠りに入った途端に力が抜けて緩んでいる。だらしなく開いた口からは涎が垂れ、僅かに上向いた顔はあどけない子供そのままだった。
決して寝心地が良い場所でもなかろうに、苦にする様子もない。明日目覚めた時全身が筋肉痛になっている可能性を、これっぽっちも考慮していない単純さは愚かしいとしか言い表しようがないが、こういう愚直さが彼の良い点でもあった。
リボーンは綱吉に負けない棘だらけの黒髪を軽く撫で、やおら背後を振り返った。
書棚に並べられた、無数の蔵書。それらは確かに赤ん坊姿のリボーンが持ち得ないものであり、十四歳の綱吉が一行目で挫折してしまいそうな内容で埋め尽くされている。
が、リボーンにはこれら希覯本のタイトルに、覚えがあった。
理化学的な根拠による生命理論、そして全く相反する系統に属するはずの、宗教や哲学と言った側面からの命脈の循環。
非科学的でナンセンスだと一蹴されて当然のオカルトから、真剣に輪廻転生の哲学を論述した文献まで、実に多種多様な書籍が揃っていた。
一貫して共通するのは、どれもが生命にまつわる何らかの理論を奏でているという事。
誰が何を求め、何を望み、何を思って、これら希書を集め、読みふけっていたか。
「未来なんざ、誰にも分かりゃしねーんだぞ」
いくらそんな黴臭い本を探しても、欲しいものは見付からない。きっと当人も分かっていただろうに、捜さずに居られなかったのか。
「ツナ。俺は、此処に居るぞ」
眠る綱吉の傍へ戻り、膝を折って尚も近付く。指先に落ち着いた寝息を感じ取って、リボーンは密やかな声で囁いた。
「俺は、此処だぞ」
夢の中で聞こえたのか、綱吉の頬が緩む。垂れ下がった目尻に、むにゃむにゃと聞き取れない寝言を呟いて、彼は毛布からはみ出た手を動かし、宙を掻いた。
指先がリボーンの袖に触れ、掴み取り、引っ張る。僅かに広がった空間に赤ん坊の姿をした男は心地よく眠る綱吉に目を細め、自分も丸くなったものだと苦笑して身体を横に倒した。
毛布の端を引っ張り、居場所を確保して綱吉の胸元に潜り込む。背中を覆うものが何も無くて、肌寒さを覚えていたら庇うように綱吉の腕が勝手に降りてきた。
抱き締められて、心臓の音が間近から聞こえた。
「なるように、なるさ」
この時代の綱吉の傍に、リボーンは居なかった。
けれどこの綱吉の隣には、リボーンが居る。
これまでひとりでは越えられなかった壁も、ふたりで難なく突破して来たではないか。
だから、今度だって。
「なるように、してやるさ」
嘯き、リボーンは静かに目を閉じた。
2008/04/21 脱稿