喫烟

 雨の日の獄寺は、少し、機嫌が悪い。
「おはよー」
 鉛色の雲が空を覆い隠す朝、無事に始業時間前に教室に辿り着けた綱吉は、クラスメイトへ高らかに挨拶を送り、窓際の自分の席へ急いだ。
 鞄を置き、ファスナーを広げて中に手を入れる。彼が最初に取り出したのは、教科書でも弁当箱でもなくて、やや色落ちしたオレンジのフェイスタオルだった。
 四月の雨は、暖かな陽気に包まれる晴れの日とは大きく違って、まだ冬の欠片が染み込んで冷たい。雨脚が強くなかった分、傘でかなり防げたものの、学校に来るまでの道程だけで綱吉の左肩は水気を吸い、ブレザーの色を濃くしていた。
 制服の上からタオルを押し当て、水分を移し変えた後は鞄に付着している水滴も払いのける。中身は幸いにも無事だったが、ズボンの裾が水浸しで、膝に近い位置まで泥が跳ねていた。
 朝から散々だ。薄暗い曇天を雨に濡れた窓越しに見上げ、綱吉は肩を落としてタオルを畳んだ。
「おーっす、ツナ。今日は早いのな」
「山本、お早う」
 まだ制服は乾くに至らないが、時間が経てば落ち着くだろう。ジャケットを脱いでもう一度濡れた箇所にタオルを押し当てていると、斜め後方から声がして、振り返れば其処には、にこやかな笑顔を浮かべた親友の姿があった。
 軽く手を挙げて、白い歯を見せた山本が大股で近付いてくる。彼は野球部の早朝練習があるので、遅刻とはほとほと無縁の存在だ。
「雨だね」
「そだな。桜、もう終わりだな」
 綱吉の肩越しに窓の向こうを覗き込み、校庭の片隅に植えられている樹木を見下ろして呟く。山本の言葉に頷いて同じ場所に視線を向けた綱吉は、緑の若葉の方が目立つようになっている桜に目を細め、辛うじて残っていた薄紅色の花の最期に思いを馳せた。
 せめて週末まで持ち堪えてくれたら、もう一度くらい花見が出来ただろうに。この雨で残っていた花は全部散ってしまうだろう、放課後の道路はきっと、花びらが絨毯さながらに敷き詰められているに違いない。
 それはそれで綺麗だが、人に踏まれてしまった花びらほど無惨なものもない。折角綺麗に咲いたのに勿体無いと思いながら、綱吉は椅子を引いて座り、上着を膝に広げた。
 中に着ているシャツ一枚では肌寒い。両腕を胸の前で交差させて身体を撫でさすった彼を笑って、山本は湿気ている綱吉の頭をやや乱暴に叩いて去っていった。
 程無くして予鈴のチャイムが鳴り響き、慌てて駆け込む生徒を迎え入れて教室はにわかに騒がしさを増す。もっとも、それも前方のドアから一時間目担当の教員が入ってくるまでで、日直の号令を合図に起立した生徒は、一斉に礼をして着席し、無駄口をやめて授業に集中し始めた。
 綱吉も御多分に漏れず、鞄から取り出した教科書とノートを広げ、残りは鞄ごと机のフックへ引っ掛けた。
 左側からは雨の降る音が絶え間なく続き、ややぎこちない日本語発音の英語を読み上げた先生が、此処の文法は、と説明を開始してチョークを握った。カツカツと細かな白文字が黒板に記されるのを書き写し、時折眠気を殺して欠伸を零しながら、淡々と過ぎていく退屈な時間に綱吉は背筋を伸ばした。
 猫背で机にかじりつく多くの生徒の中で、山本のピンと伸びた背筋だけが異様に目立つ。欠席者は少なく、三十人少々の教室で無人の机はひとつきりだった。
 その机の主は、綱吉以上に遅刻の常習犯で、なんと一時間目の出席率は五割を切っている。
 転校してきた当初はなにかと教員に注意されていた彼だが、最近は先生方も諦めてしまったのか、口煩く言われることはなくなってしまっていた。
 授業に出なくても、教科書を読めば大方そこに書かれている内容は理解して、問題を解いてしまう。更に英語は、生まれ育ちが海外のお陰で苦労も無くて、先生よりも――多少スラングが強いものの――発音は上手だ。唯一不得手にしているのは国語だが、それも最初だけで、日本での生活に馴染むに従って克服しつつある。
 彼を見ていると、真面目に毎日学校に通うのが馬鹿らしく思えてくる。だが学校とは、勉強に勤しむための場所でもないから、何もかもが無駄だと綱吉は思わなかった。
「獄寺君は、今日もサボり、かな」
 教室の一番後ろ、ドアに近い空席に目をやって、綱吉は握ったシャープペンシルを揺らした。
 彼は雨の日の遅刻率が際立って高かった。一日来ない場合もある。過去に理由を聞いた時は、雨が降っていたから、というそのままの言い訳をしてくれた。
 何故雨が嫌なのか聞けば、口を噤まれてしまった。あまり言いたくなさそうだったのでそのまま放置してしまった綱吉であるが、もっとちゃんと聞いておけばよかったかと、今頃後悔して彼は鼻の下をペンの尻で小突いた。
「沢田、此処に入る単語を答えてみろ」
 ぼんやりと雨の音に耳を傾け、身体を起こしたまま斜め後ろばかり見ていたからだろう。不意に近い場所から大人の男性の声が響いて、綱吉は指の隙間からシャープペンシルを落とした。
「え……?」
「先生の話は、そんなにつまらないか?」
 ぎょっとして背筋を震わせ、油の切れたブリキの玩具宜しくギギギ……と前に向き直る。いったいいつの間に移動を果たしたのか、四十台手前の英語教諭は、広げた教科書を片手に、綱吉のすぐ前で天井からの光を反射する眼鏡を輝かせていた。
 ノートから顔を上げた多くの生徒が、振り向いて槍玉に挙げられてしまった綱吉に同情の目を向けていた。何人かの女子はクスクスと忍び笑いを零し、目が合った山本は「馬鹿だな」と表情だけで告げた。
 首を窄め、真っ赤になった綱吉が椅子の上で小さく身を丸める。
「沢田?」
「わ、分かりません」
 正直に告白すると、今度こそ教室内にドッと笑いが巻き起こった。
 英語教諭は呆れた顔で綱吉の頭を小突き、ちゃんと集中するように注意して教壇へ戻っていった。笑い声は先生の注意が挟まるまでやまなくて、綱吉は穴があったら入りたい気分で耳まで赤く染め、俯いて額を机にこすりつけた。
 これも全部、獄寺が悪い。他人に責任をなすり付けて火照った肌を冷まし、綱吉は膝にかけたままだった自分の上着を握り締めた。
 雨の匂いの染みこんだ制服はまだ湿り気を残し、当分乾いてくれそうに無かった。

 結局、獄寺が教室に姿を現したのは、三時間目の授業が始まる直前だった。
 彼の重役出勤ぶりを何人かの男子生徒が茶化し、何名かの女子は彼の元気な姿にホッと胸を撫で下ろす。当の獄寺はやや渋い表情をして薄っぺいらい鞄を自席に投げ出すと、山本と雑談を交わしていた綱吉のところで一目散に駆けて来た。
 走り寄ってくる最中に、彼の表情からは不機嫌さが影を潜め、満面の笑みに取って代わられた。ただ綱吉の隣に山本が居ることに気付くと、途端に唇を尖らせて拗ね、彼を追い払う仕草で無理矢理空間に割り込んでくる。
「おはようございます、十代目!」
「もうじきお昼だよ、獄寺君」
 午前十時をとっくに回っているのに、その挨拶は如何なものか。にこやかな笑顔で挨拶してきた彼に苦笑で返し、綱吉は雨を吸って重そうな色をしている彼のカーディガンに目を細めた。
 傘を使ったのだろうか、濡れ方が酷い。
「獄寺君、傘差してきた?」
「え? ああ、はい。折り畳みの奴っスけど」
 姿勢を低くして、鞄からオレンジのタオルを引っ張りだした綱吉が、それを差し出してやりつつ問いかける。彼は一瞬きょとんとしてから、頭を下げて両手で受け取って、肩から袖にかかる一帯を撫でて拭いた。
 彼の答えに、綱吉の表情は途端渋くなる。何故大きい傘を使わなかったのかと咎める表情を向けると、言われずとも察したらしい獄寺は、タオルを持ったままの手で頬を掻いた。
「うち今、傘、ないんで」
「なんでさ?」
「お前に言ってねえよ!」
 小さいサイズのものしか持ち合わせていないのだと獄寺が言えば、疑問を抱いた山本が横から話に割り込んでくる。綱吉に喋りかけていた獄寺は、茶々を入れるなと怒鳴って山本に突っかかり、綱吉のタオルを思い切り握りつぶした。
 喧嘩をする前に、濡れた身体を先に拭けばいいのに。膝に広げた自分のジャケットを指で抓み、繊維の湿り具合を確かめた綱吉は、ぎゃんぎゃんと騒がしい獄寺に、大仰に肩を落とした。
 彼ひとりの登場で、教室内が急に騒々しさを増した。望まずともその喧騒さの中心に置かれてしまった綱吉は、頭が痛くなる思いでこめかみに指を置き、眉間の皺を深くした。
「いい加減にしなよ。山本も、獄寺君も」
 机を指の背で叩いて音を響かせ、怒鳴るように注意をした綱吉の声を掻き消してチャイムが鳴り響く。何がどうしてそうなっているのか、山本の胸倉を掴んでいた獄寺はぴたりと動きを止め、気まずげにして綱吉に借りたタオルを返そうとした。
 が、彼はまだ濡れたままだ。あの鞄ではどうせタオルなんて持ってきてもいないだろうから、昼休みに返してくれればいいと首を振って、綱吉は早く席に戻るよう手を振った。
 数学の先生は既に入ってきていて、席を立ったままなのは山本と獄寺だけ。じろりと睨みを利かせているベテラン教師をこれ以上不機嫌にさせるのは好ましくなく、綱吉はふたりの腰を乱暴に押した。
 獄寺は不満げに、山本と、次いで教卓にいる頭の天辺が禿げている先生を睨んで廊下側の机に戻っていく。静まり返った空間では彼の立てる足音が必要以上に大きく響き、矢張り彼は今日もどこか機嫌が悪そうだ、と背中を見送った綱吉は意識の片隅で思った。
 淡々と過ぎる授業、刻々と過ぎていく時間。三時間目の開始直後に居眠りを開始した獄寺は、一行もノートにメモを書き記す事無く午前を終えた。
 雨はやまない。窓から見下ろすグラウンドには大きな水溜りが幾つも出来上がり、たとえ今夜雨があがったとしても、ぬかるんだ大地は綱吉の上着以上に、簡単に乾きはしないだろう。
 植物にとっては恵みの雨も、人の心には憂鬱な気分しか齎さない。早く止めばいいのに、と切ない祈りを込めて瞑目した綱吉は、漸く終わった四時間目の授業に大きくのびをし、首を振って肩の疲れを癒した。
 賑わいを取り戻した教室は、食堂で食べるか、それとも教室で食べるかと相談しあう生徒の声で溢れ返る。綱吉も、鞄を取って口を広げ、奈々が持たせてくれた弁当箱を取り出して嬉しげに頬を緩ませた。今日はなんだろうか、毎日美味しいものを用意してくれる母親に感謝の意を心の中で表明し、綱吉は後ろを振り返って獄寺を呼ぼうと背筋を伸ばした。
 が、
「あれ……?」
 いない。
 肝心の獄寺は机を留守にして、見回した教室内にも姿は見当たらなかった。
「さっきまで寝てたのに」
 授業中全く動かなかった彼が、チャイムが鳴るとほぼ同時に教室を出て行ったというのなら、あれは狸寝入りだったのか。机に対して斜めに向いて放置されている彼の椅子を遠巻きに眺め、綱吉は手の中の弁当箱を左右に揺らしながら首を傾げた。
「ツナ、飯食おうぜ」
「あ、うん」
 ひょっとすれば昼食を買いに購買部へ行っただけかもしれない。外は雨なので、いつものように屋上で食べるわけにもいかないから、きっと直ぐに戻って来るだろう。綱吉は呼びかけた山本に慌てて頷き返し、椅子の向きを正面に直して座りを深くした。
 山本が前の席の椅子を勝手に拝借して、二段重ねの大きな弁当箱をどん、と置く。重箱かと笑ってしまいたくなる大きさに、ご飯とおかずがそれぞれびっしり詰め込まれた中身は、ボリュームがありすぎてみているだけでゲップが出てしまいそう。綱吉の二人前はあるだろうその量を、山本は部活動で消費カロリーが多い為か、ひとりでぺろりと平らげてしまう。
 豪快に箸で口にご飯を運びこむ様は壮観で、彼に食べられるのなら穀物も動物も、きっと満足だろう。好き嫌いもなく均等に箸を運ぶ彼の食いっぷりに感心しながら、綱吉も忙しく弁当の中身を平らげた。
 しかし昼休憩が半分を過ぎ、ふたりの食事が終了しても、獄寺は教室に戻ってこなかった。
 会話は自然、この場に居ない人物に集中する。何処へ行ったのだろうという綱吉の独白めいた疑問に、山本は暢気で、そのうち帰ってくるさ、と取り合わない。
「ちょっと、探してこようかな」
「もうじき昼休み終わるぜ」
「それまでには戻るよ」
 傍にいるとあれこれ五月蝿くて鬱陶しいけれど、居なければ居ないで、なんだか落ち着かない。獄寺は度々学校側とトラブルを起こしてもいるから、またどこかで風紀委員とドンパチやっている可能性も否定できなくて、綱吉は空っぽになった弁当箱を片付けると同時に立ち上がった。
 以前目を離した隙に風紀委員長と一触即発の事態を引き起こし、止めに入った綱吉が何故か雲雀のトンファーに殴られて気絶する、という事もあったので、獄寺には視界に入る範囲に居て、且つ大人しくしていて欲しい。
 何かと手間の掛かる彼だから、目に付く場所に居てもらわないと困る。なんだか言い訳がましいことを心の中で繰り返し、綱吉は教室を出て左右に視線を振った。
 獄寺が行きそうな場所といえば、シャマルの居る保健室か、誰も来ない屋上か。ただ屋上は雨空なのと、獄寺の折り畳み傘が教室前の傘立てに残されていたことから、違うだろうと綱吉は判断した。
 だから真っ先に保健室へ向かって階段を下りたのだが、予想は外れてそこには髭面の男しか居なかった。
「隼人?」
「来てない?」
 呼びかけてドアを開ければ、怪訝な顔でシャマルに振り返られたので、訪問の理由を告げると彼は黙って首を横へ振った。
 無精髭を撫でてじっと綱吉の顔を見てくるので、居心地悪さを覚えて綱吉はドアの手前で足踏みする。中には入らず、廊下側に立ったまま、居ないのならば構わないと曖昧に笑って返し、邪魔をした事を詫びて早々に立ち去ろうと右足で床を強く蹴った。
 身体を反転させて視線を逸らした綱吉だったが、丁度その瞬間にシャマルは「だったら」と喋り始めてしまって、綱吉は進もうとする勢いと、留まろうとする力の両方に引っ張られてつんのめった。
 転びそうになって、両手をばたつかせてしゃがみ込む。心臓がどきどきと跳ねて、涙まで出てきた。
「おーい、だいじょぶか?」
「いきなり喋りだすな!」
 扉の影に身体半分が隠れた綱吉に向かって、椅子に座ったままのシャマルが変な顔をする。わざとやったのではないので怒鳴られるいわれはないのだが、反応が面白かったと笑って、シャマルは上機嫌に咥えていた火のついていない煙草を抓んで揺らした。
 特別に教えてやる、と白衣を揺らしてふんぞり返る彼の顔は、どこか怪しい。だが休憩時間終了まで余裕は無いし、他に頼るべきものを持たない綱吉は、渋々といった感じで起き上がり、ズボンについた埃を叩いて払った。
「それで?」
「コレだろ」
 手に白い筒状の物体を、器用に指先で回転させたシャマルが呟く。だがコレ、と言われても綱吉には、特別シャマルが何かを新しく取り出した風には見えなくて、何を指して言っているのか理解出来ず、クエスチョンマークを頭に浮かべて首を傾げた。
 きょとんとした彼の反応に、肩を揺らして尚も笑って、シャマルは黄土色のフィルム部分を唇に差し込んだ。
「煙草だろ。どうせ屋上手前の踊り場辺りじゃねーのか」
「え、でも」
「雨が降ってると、外で吸えねえからな」
 結論だけを言ったシャマルは、左手を壁にしてライターから煙草に火を移し変えた。
 紫煙を燻らせ、ふーっと息を吐く。
「ただのニコチン切れだろ」
 屋外でなければ、煙が充満して体に臭いが張り付く度合いは酷くなる。一応あれでも遠慮しているのだと、シャマルは理解の悪い綱吉の為に懇切丁寧解説してくれた。
 トイレは他の生徒が来るし、風紀委員の目もある。人気の少ない、誰も来ない場所でこっそりと吸って補充しているはずだと、彼は灰を薄ら積もらせた煙草を振って、特別教室棟のある方角を指し示した。
 身を乗り出し、上半身だけを保健室に入れた綱吉が、其処からでは壁しかない方向に目を向けて瞬きする。室内に設置されたスピーカーと廊下から、ほぼ同時に予鈴が鳴り響いた。
「あ、やば」
「隼人なら心配いらねーから、授業行ってこい」
「そういうわけにもいかないよ」
 行き先と、行方をくらました理由は分かったが、納得したわけではない。そもそも綱吉は、獄寺の喫煙に反対の立場なのだから。
 吸っているのなら止めなければならない。煙草の害毒がどのようなものなのか散々説明して、今後は控えていずれ完全にやめると約束させたのに、まだ禁煙に成功していないとは。
 目の前で吸う姿を最近見ていなかったから、油断した。しかも自分に隠れてこそこそ吸っていたというのが、余計に腹立たしい。
「ありがと、シャマル!」
 地団太を踏んで悔しさを表明した綱吉が、キッと目力を込めて天を睨んだ。その鬼気迫る険しい表情に、当事者ではないシャマルでさえひやりと冷たい汗を背中に流し、獄寺に悪い事をしてしまったかとこれから彼を見舞う筈の惨事を思って、同情を禁じえなかった。
 綱吉は大声で礼を叫ぶと、慌しく廊下を駆け抜けて出て行った。途中で風紀委員に見付かるなよ、と心の中で声援を送り、果たして自分はどちらの見方だろうかと考えて、肩を竦める。
「そりゃ当然、可愛い方だよなあ」
 綱吉と獄寺の両方を並べて思い浮かべ、伸びていた煙草の灰を灰皿に落とした彼は喉を鳴らして笑い、開けっ放しのドアを閉めるべく腰を浮かせた。

 予鈴が鳴ったからだろう、人気がぐんと減った廊下を駆け抜けた綱吉は、一階部分から特別教室棟へ入り、階段を二段飛ばしで駆け上がった。
 途中で音楽教室へ移動しようとしていた集団と遭遇し、危うくぶつかるところだったのを寸前で避ける。驚いた顔をする下級生に苦笑して謝罪し、深く突っ込まれる前に慌てて踊り場で飛び跳ねて、上に続く階段を蟹歩きで登っていった。
 そこから上は、図書室と視聴覚教室しかない。日頃用事が無い所為で滅多に足を向けぬ場所に出向いて、静寂に包まれる通路に目を見張った綱吉は、心臓をシャツの上から撫でて乱れた呼吸を整えた。
 背後で本鈴が鳴り響き、その音の大きさにどきりとして思わず仰け反る。後ろに誰も居ないのは分かっているのに不安でならず、振り返ってわざわざ確認して唾を飲んだ彼は、深呼吸を展開して全身の力を抜いた。
 微かに、本当に微かに、臭いがした。
「やっぱり……」
 しとしと降り注ぐ雨の匂いに紛れて分かりづらいが、煙草特有の苦い臭いが空気を伝って綱吉の鼻腔を弱く擽っていく。シャマルに教えられていなければ、気付かなかったかもしれない。雨だというのに廊下の窓が数センチ開けられているのも、酷く作為的だ。
 けれどもし、これで相手が獄寺でなかった場合、どうしようか。一瞬その可能性を考えたが、雲雀率いる風紀委員が幅を利かせる学内で、それでも喫煙を強行するような生徒は、殆ど居ない。いるとしたら、相当な腕自慢か、相当な馬鹿か、どちらかだ。
 獄寺は果たしてどちらに分類されるだろう。考えて、きっと後者だろうな、と学内随一の頭脳の持ち主を捕まえてこき下ろし、綱吉は再度深呼吸してから屋上へ続く暗い階段に一歩踏み出した。
 廊下に面している部分はまだ外の薄明かりも手伝ってそれ程暗くないものの、踊り場を挟んでその先は、分からない。窺っても物音は聞こえず、綱吉は息を殺して注意深く、一段ずつをゆっくりと登っていった。
 気配は。
「誰だ!」
 向こうが勘付くのが速かった。
「うあっ!」
 矢を射るような声が上から降ってきて、咄嗟に身を竦めた綱吉は上履きの底を滑らせてガクンと膝を折った。重心が急激に下がり、残っていた足がバランスを崩して後ろへずり落ちる。
 辛うじて左足が一段分だけ位置をずらしただけで済んだが、足元に続く段数を数えて綱吉は冷や汗を流した。全段滑り落ちていたら、全身打撲くらいの怪我は負っていただろう。
 飛び跳ねた心臓を宥め、肩で息をする。危なかった、と乾いた口腔に唾を呼んで飲み込み、熱っぽい息を吐いた綱吉は、其処に来てやっと、ドタドタ駆け下りてきた獄寺が踊り場の手前で手摺りに寄りかかり、ほぼ真上から綱吉を見下ろしているのに気がついた。
 ぽろりと彼の口から零れ落ちた煙草が、濁った赤い炎を灯したまま沈んでいく。
「煙草!」
「へ? うわ、げ、や……ば!」
 このままでは手摺りを越えて吹き抜け部分を抜け、地上階まで落ちて行ってしまう。悲鳴をあげた綱吉の声で瞬時に我に返り、獄寺は足を伸ばして上履きで落下するそれを神業的に蹴り上げ、自分の足元に戻して思い切り踏み潰した。
 薄い煙が断末魔の代わりに揺れて、静かに消える。その上にホッとした様子で蹲った獄寺に代わり、立ち上がった綱吉は、本当にシャマルの予想通りだったことに驚き、そして脱力した。
 怒りが沸き起こるには少し時間がかかって、残る階段を登った彼は、顔をあげた獄寺の目の前に立ち、上を見た。
 さっきよりも強くなった煙草の臭い。食べ終えた惣菜パンの袋とコーヒーの缶が最上段に並べられて、ふたりをじっと見下ろしていた。
「獄寺君」
「……はい」
「俺、言わなかったっけ」
 何を言ったかについての説明は丸ごと省いたが、獄寺も充分分かっているようで、しおしおと項垂れて小さくなった。
「言い訳は、聞きたくないし」
「はい」
「うそつきは嫌いだし」
「……」
 返す言葉が無い獄寺はついに返事もせず沈黙し、ズドーンという効果音が似合いそうな影を背負って完全に丸くなった。両膝を抱いて顔を伏し、下手をすれば泣いているのかもしれなかったが、甘やかすと付け上がるので、綱吉は心を鬼にして彼を睨み続けた。
 怒られる理由が自分にあると、獄寺は重々承知している。禁煙出来る自信は正直無かったが、綱吉が嫌がるので一応努力してみたのだ。
 しかし、丸一日ニコチンなしで過ごす辛さに耐えられず、こっそり吸っているうちに、減らしたはずの本数は気付けば元に戻っていた。
 これではまずいと分かっていても、どうにもやめられない。晴れの日はトイレと偽って屋外で吸えばどうにか誤魔化せたが、雨の日はそうもいかなくて、我慢出来なくなった時はこうやって隠れるようにこそこそと。
 良くないのは分かっている、煙草がいかに身体に悪いのか切々と語って聞かせた綱吉の真剣さも。彼がどれだけ自分の身を案じてくれているのかも、十二分に理解している。
 だが、既に身体に馴染んでしまったものは、そう簡単にやめられない。綱吉だって好物のスナック菓子をやめられるか、と言われたら難しいのと同じことだ。
「……それとこれとは別だよ」
 一瞬ギクッとした綱吉だが、獄寺がさりげなく話の論点をすり替えようとしているのに勘付き、声を弱めて怒らせた肩を落とした。
「どうしても、無理?」
「すみません」
 力なく問いかけると、張りの無い声で獄寺が謝る。授業はとっくに始まっていて、階下の音楽室からはピアノの音がいつもより重い調子で聞こえて来た。
 雨はまだ止みそうにない。屋上に続く鉄製の扉から流れ込む冷やされた空気がふたりを包む。
 やがて、綱吉は長々と溜息を零して階段上で膝を折り、蹲ったままの獄寺に視線を合わせてしゃがみ込んだ。
 上着を教室に置いてきてしまったので、肌寒い。教室よりも体感温度の低い空間に鳥肌を立てて腕をさすった彼は、摩擦で熱を呼び起こして、相変わらず沈痛な面持ちのまま落ち込んでいる獄寺の銀髪に肩を竦めた。
 獄寺と言えば煙草、煙草といえば獄寺。そんな連想が当たり前に出来てしまうくらいに、彼にとってなくてはならないアイテムと化しているものを、そう簡単に奪い取ってしまうのも可哀想な気がする。無論、やめてくれるに越した事は無いが、今すぐに、というのが難しいようなら、少しずつ進めて行くしかあるまい。
 頭の中で色々な案を出し、妥協できるものを見つけたところで、綱吉は小首を傾げ、獄寺を下から覗きこんだ。
「おーい」
 さっきからちっとも反応しない獄寺に呼びかけ、顔をあげるよう促す。それでもなかなか応じてくれない彼に痺れを切らし、綱吉は元から狭い距離を更に詰めた。
 額が擦れ合うくらいに近付いて、実際頭を小突き合わせて彼の注意を誘う。
「十代目」
「せめて、学校の中では、我慢しようよ」
 やめろ、とはもう言わない。でも量を減らす努力は続けて欲しい。第一歩として、学校にいる間は吸わないと約束してくれるなら、今回は大目に見る。
 一言一句ずつ区切ってゆっくり提案した綱吉に、獄寺は目を瞬き、驚いた顔を隠しもせず、ぽかんと口を開いて目の前の存在を見詰め返した。
「出来る?」
「努力……します」
「それじゃ駄目」
 緩慢に頷いた獄寺に、真剣みが足りないと綱吉は注文をつける。びしっと伸ばした人差し指を彼の鼻先につきつけ、訂正を求めた彼に漸く獄寺は苦笑し、目尻を下げていつもの彼らしい表情を作った。
「やってみせます」
「ならばよし」
 深呼吸の末に胸を叩いて言い切った獄寺に、綱吉もまた柔和な表情を作ってはにかんだ。
 先に綱吉が立ち上がり、僅かに遅れて獄寺が続く。段差の所為もあるが途端に彼の方が背が高くなって、不満気味に綱吉は頬を膨らませ、吸殻と食べかすを片付けに行った獄寺に向かって殴る仕草だけしてみせた。
 持ち上げた拳、肩の横から袈裟懸けに振り下ろそうとした瞬間。
 前だけを見ていたはずの獄寺が、不意に振り向いた。
「え?」
 何をしているのか、他人には分からないポーズをとっていた綱吉は虚を衝かれて目を瞬く。獄寺もどこかきょとんとした様子で綱吉を見下ろし、はて、と首を真横へ倒した。
「十代目?」
「いや、あ、その……なんでもない!」
 パッと握った手を広げて背中へ回して隠し、同時に赤い顔も逸らしてそっぽを向く。本気で殴るつもりはなかったし、ましてやまだ腕を掲げただけだったのだが、なんとなく気まずさが否めず、綱吉は必要以上に狼狽して唇を噛んだ。
 気付くのが早すぎる。心の中で悪態をついて、綱吉はカッカッと熱を吐き出す胸の拍動に軽い眩暈を覚えた。
「十代目」
「なにー」
 他所を向いたまま返事をした綱吉は、もう獄寺がゴミを片付けて傍まで戻って来ていたのにまるで気付かなかった。
 空の袋が潰れるカサカサという音が近くから聞こえたので、其処に来て初めて彼の存在を思い出し、綱吉は彼を仰ぎ見た。
 薄明かりの中に銀色の髪がキラキラと輝いて、そこにだけ太陽が戻って来たようだった。にこやかな笑顔がその印象を後押しして、眩さに目を細めた綱吉は、両腕に荷物を抱えた獄寺から仄かに漂う煙草の匂いに我知らず唾を飲んだ。
 矢張り彼には、この匂いだとも思う。彼から煙草の匂いが完全に消えてしまったら、獄寺らしさも一緒に何処かへ消えてしまいそうで、それが少し怖い。
「授業、もう遅刻ですね」
「うん。誰かさんの所為で」
「すみません」
 何も無い天井を仰ぎ見た獄寺の呟きに嫌味で返し、真顔で謝られた綱吉は、これでは自分の方が悪者のような気がしてむすっと頬を膨らませた。
 苦笑した獄寺が小さく肩を竦め、小さく丸めて畳んだ袋ゴミを制服のポケットへ捻じ込む。空き缶はプルタブの周辺に黒い灰がこびり付いており、このままでは学内のゴミ箱に捨てられない。
 どうするのかと目で問えば、悔しいがシャマルに処分を任せると言われた。
「ふーん」
 あの男にはなんでも話すのかと、そもそも煙草を隠れて吸っていたことも黙っていられた綱吉は不貞腐れた返事をして、足を振り上げて一段下に降りた。
 今戻っても授業中だし、獄寺は煙草の臭いが抜けていない。このまま此処で時間を潰すにしても、何も持ってきていないからすることが無くて退屈だ。図書室は近いが司書の先生は常駐しているので変に思われるだろうし、不用意に校内をうろついていたら風紀委員に見つかってしまう。
 自分も獄寺と一緒に、こっそり保健室辺りに逃げ込むのが無難な策か。色々と案を考えて、綱吉は薄く漂う獄寺の匂いに小鼻をヒクつかせた。
「染み付いちゃってるね」
「はい?」
「煙草の匂い」
「そりゃ、長いですし」
「消える?」
「吸わなければいつかは」
 短い会話の応酬を展開させ、ふぅん、と綱吉が相槌を打ったところで途切れる。顎を撫でて考え込んだ綱吉は、矢張りそれも寂しいかなと上目遣いに獄寺を窺って、即座に首を振った。
 こんな考え方をしていたら、いつまで経っても獄寺に煙草をやめさせられないではないか。自分が音頭を取ってやらなければ、彼は今日みたいに隠れてこっそり吸いに走るに決まっている。
 獄寺から煙草の臭いを取り払うのが自分の責務だと勝手に決めつけて、綱吉は百面相の末にむん、と鼻息荒く力んだ。
「でも、煙草の匂いがないと落ち着かないんですよね」
「だから、そういうところがまず駄目なんだってば」
 口寂しいとか、物足りないだとか、そういう事を考えるから良くないのだと綱吉は声を荒げ、勢い任せに背後の獄寺を振り返った。
 そして、思いの外近い場所に彼が立っている事実に驚く。獄寺はまさしくその台詞を待っていたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべ、目を細めた。
「な、なに……」
「ですから、代わりをください」
 獄寺だって、さっきから綱吉に一方的に言われっ放しで結構落ち込んでいるのだ。自分ばかりが責められて、怒られて、貶されるのは、たとえ相手が綱吉で遭っても少々癪に障る。
 だからこれは仕返しなのだ。それから、喫煙に成功した際の報酬として。
「代わり?」
 怪訝にしながら疑りの目を向けてくる綱吉に、はっきりと頷き返して、獄寺はバランスが崩れない程度に姿勢を前倒しにした。
 綱吉の丸く、暖かく、ふっくらとして、柔らかな頬に。
 そっと、唇を押し当てる。
「っ!!!」
 目を見開いた綱吉が、恐怖に竦んだ猫のように全身を毛羽立たせた。
 悲鳴さえ出ないらしい。ぱくぱくと開閉する口は無音で渦を巻く目は混乱の極みに落ちて焦点が定まっていない。冷や汗が額を埋め尽くし、気が動転しているのはひと目で分かった。
「な、な、な……なっ」
 触れてすぐ離れた獄寺に、綱吉が何か懸命に言おうとするが、呂律が回っておらず日本語にならない。両手をばたばたと動かす彼の慌てぶりを楽しげに見詰め、獄寺は楽しげに笑った。
「煙草の代わりに、今度は十代目の匂い、俺にください」
「はあ!?」
「約束しましたからねー」
 言われた瞬間、素っ頓狂な声をあげた綱吉に高らかに宣言して、獄寺は三段分を一気に飛び降りて距離を稼いだ。位置的に上になった綱吉に手を振り、先に保健室へ行っていると告げてさっさと去って行ってしまう。
 フォローも、言い訳も、全く無かった。言いたいことだけを言って、あっさりと。
「ちょっと待ってよ……」
 そんな約束、出来るわけがない。
 遠ざかる獄寺の足音を追いかけることも出来ず、綱吉は呆然と呟き、真っ赤に染まった頬を両手で隠して蹲った。
 顔が熱い。胸の中はもっと熱い。恥ずかし過ぎて頭の中が沸騰しそうだ。
 してやられたと思っても、後の祭りで。
「やっぱり禁煙しなくていいー!」
 もう此処に居ない獄寺に向かって叫び、綱吉は途方に暮れた。

2008/04/13 脱稿
2008/8/23 一部修正