微漣

 排気ガスを吐き散らし、乗客数も少ないバスが地響きと共に遠ざかっていく。
 唸り声はやがて遠くなり、頭上を泳ぐ鳥の影が、足元を駆け抜けて高台の方へ消えていった。
 海風が頬を撫で、潮の匂いが鼻腔を擽る。首筋を撫でた空気は春先の気配薄く、まだまだ冷たかった。
「流石に、誰もいねーな」
 右手を庇にして陽射しを遮り、背伸びをした山本が左右に広がる海岸線を眺め、そんな感想を漏らした。
 首を引っ込めて予想以上の寒さに身を震わせていた綱吉は、自分よりもずっと薄着であるに関わらず平然としている親友の顔を見上げ、肩を竦め、首を振った。
「そりゃ、時期じゃないし」
「でも、サーフィンならもうこの季節からやってるだろ?」
 腕を下ろした山本の言葉に、綱吉は頷きかけてそのまま首を横に倒した。彼の言い分も分かるが、綱吉の見る限り、目の前に広がる海はとても穏やかで、波乗りに適した激しさは影を潜めていた。
 遠く、緩やかに湾曲した水平線に大型貨物船が浮かび、ゆっくりと東に向かって航路を取って進んでいる。
 青みの抜けたアスファルトを踏みしめ、横断歩道のない道路を渡るべく山本が先に歩き出した。追って綱吉も進もうとしたが、対向車線を轟音と共に一台のバイクが走って来て、彼は慌てて後ろへ飛んで道を譲った。
 ブレーキをかけもせずに低音を響かせて通り過ぎたバイクを見送り、溜息と同時に肩を落とした綱吉は、顔を上げて向こう側で手を振っている山本に苦笑した。今度は左右に目を向け、接近するものがないのをきちんと確認してから、オレンジ色のセンターラインを跨いで二車線しかない道を横切った。
 誰も居ない反対側のバス停を素通りし、アスファルトの大地と海岸線を分断している二メートルほどの段差を前にして足を止める。腰ほどの高さがあるコンクリートの壁には、等間隔で隙間が作られて階段が設けられ、砂浜へ降りる道となっていた。
 一足先に、落ちたら危ないというのにそのコンクリート製の防波堤に登った山本が、幾度か角にぶつかって折れ曲がった影を地表に投げて綱吉に笑いかけた。
「危ないよ」
「平気だって。ツナも来いよ」
「俺は……いいや」
 道路の反対側は開けた空間で、下を覗き込めば砂に覆われた地面が遥か下にあった。綱吉が立っている地点が二階だとすると、砂浜は一階部分に相当する。万が一転落でもしたら、怪我をするだけでは済まされないかもしれない。
 そう思うと恐怖から全身に鳥肌が立ち、足がすくんで綱吉はもれなく心の底から遠慮を表明した。瞬間、彼の臆病を山本は呵々と笑い飛ばし、平素よりもずっと広がった自分たちの身長差を眇めた目で確かめて、彼方の水平線へ顔を向けた。
 吹き付ける潮風に短い髪を揺らし、気持ち良さそうに瞼を閉ざす。
「う」
 あんな不安定な立ち位置で、よく目を閉じられるものだ。想像して綱吉は両腕で身体を抱き締め、目を開けた山本は楽しげに口元を綻ばせて胸いっぱいに海の匂いを吸い込んだ。
「せっ!」
 吐き出す、気合の声。
 瞬間、綱吉の視界から山本の姿が消えた。
「――え」
 目を見開き、僅かに間を置いて瞬かせ、ぽかんと間抜けに開いた口を閉ざした綱吉は、もうひとつ瞬きをして、誰も居なくなったコンクリートの塊を見詰めた。
 たっぷり五秒ほどかけて、喉の手前で停止していた空気を飲み込んで、
「え、ええええぇえええええええぇぇええ!?」
 けたたましい悲鳴をあげ、半歩もない距離を詰めてざらざらしたコンクリート壁を両手で掴んだ。
 身を乗り出し、下方を凝視する。黒い頭がひとつ、低い位置に沈んでいるのが見えた。
「ツーナー」
 声が聞こえたのだろう、首を後ろに倒した山本がひらりと手を振って白い歯を見せる。
 無事そうなその姿にホッとするも、着地地点から動かずに蹲っている山本に綱吉は冷や汗を流し、焦燥感に心臓を掻き鳴らして身を引いた。掌に残るざらつき感をズボンに押し付けて擦り落とし、左右を忙しく見回して防波堤の割れ目を探し駆け出した。
 五メートル少々離れた場所に階段を見つけ、足をもつれさせながら駆け下りる。途中で切り返しの為に折れ曲がっている硬い段差にもたもたさせられ、痺れを切らした彼は残り三段分をまとめて飛び降りた。
 着地の衝撃で靴の先が砂に埋まり、勢いで身体が前倒しになって左足を持っていかれそうになったのを、力任せに引きぬく。
「山本!」
「あはは、わりー。ちょっと痺れた」
 四つん這い状態から姿勢を立て直し、大声で名前を呼んで駆け寄ると、彼は砂の上で尻餅をついて両足を前に投げ出していた。怪我は無さそうだが、膝を頻りにさすっているところからして、衝撃を吸収できずに後ろへ倒れてしまい、そこから動けずにいるらしい。立ち上がれるかという綱吉の問いかけに、彼は一瞬だけ迷って首を横へ振った。
 足の指は曲がるので、骨に影響は無いだろうと山本は心配げに眉を寄せた綱吉を見上げ、近づいた彼の柔らかな頬を撫でた。触れた体温が一瞬で離れていくのが嫌で、綱吉は退こうとする彼の手を取ると、指を絡めて握り横へ腰を落とした。
 波の音だけが五月蝿く耳に響く。
「馬鹿じゃない」
 肩がぶつかり合い、互いの体温が布越しに感じられる近さに座り込んだ綱吉が、行動とは裏腹にぶっきらぼうな声で呟いた。
 繋がったままの手から視線を斜め上にずらした山本が、前ばかりを睨んで仄かに赤い頬を誤魔化している綱吉を眺め、体内に残っていた二酸化炭素を一気に吐き出す。
「そう。知らなかった?」
 自分もまた右手に力を込め、綱吉の左手を握り返した。
「知ってる、けど」
 まさかいきなり、あそこで飛ぶとは思わなかった。
 相変わらず前方に広がる海辺を睨んだまま、綱吉がさっきよりかは幾分語調を弱めた声で言った。揺れるその声に、山本はまた拗ねられては困るからと心の中でだけ笑って、悪い、と唇で音を刻む。
 それでやっと綱吉は瞳を伏して力を抜き、傍らの彼にしな垂れかかった。
 右肩に重みを受け止め、山本が苦笑する。
「痛む?」
「いや、結構引いて来た。大丈夫だろ」
 後先考えない山本を案じて問えば、彼は飄々としたまま左手で自分の膝を叩いた。擦り切れたジーンズから肌色が覗き、解けた糸に砂粒が紛れ込んでいた。
 綱吉もまた思い出して、足裏に充満するざらついた感触に顔を顰めた。先ほど思い切り砂に足を突っ込んだから、その時に靴の中へ潜り込まれたのだろう。脱いで逆さにして振ってみると、予想通り細かな粒子が靴底を舐めて溢れた。
「あー。俺もだ」
 隣で見ていた山本も、綱吉の渋い顔を受けて膝を折り曲げ、左足を右太股の上に置いた。手で捻ってスニーカーを脱ぎ、逆さまに掲げ持つ。彼の靴からは、綱吉のそれよりもずっと大量の砂が飛び出した。
 靴下にも無数にこびり付いていて、手で叩いて払い落とす。指の爪の隙間にさえ潜り込んで来るそれらに肩を竦め、息吹きかけて飛ばし、絶えず響き渡る波音に耳を傾けてふたり、笑った。
 履き直した靴、解いた紐はそのままにして、何をするでもなく彼らは冷たいコンクリートの壁に凭れ掛かり、或いは相手に体重を預け、ぼんやりと時間が過ぎ去るのをただ待った。
 細波が押し寄せては引き返し、全体は変わらないものの、一秒として同じ形にはならない海辺を、半分落ちそうな瞼の向こう側で見続ける。けれどついに堪え切れなかった欠伸を綱吉が零し、身動ぎして凝り固まった背骨を鳴らしたことで、山本は軽く笑いながら左手に付着した砂を払った。
 膝の痺れは鎮まり、立ち上がるのも問題ない。綱吉の手を揺らすと彼はあっさりと力を抜いて解放してくれて、節々が痛むのを耐えてゆっくり時間をかけて起き上がった。
 ぱらぱらと砂が落ちていく。綱吉も少し遅れて立ち上がり、尻にこびり付いている大量の砂を追い払った。
「どーする?」
「どうしよう」
 ほぼ同時に相手に質問して、顔を向き合わせたふたりは一秒後、一斉に吹き出した。
 海に行こうと決めたのは、今日の朝だった。暇を持て余し、何処かへ遊びに行かないかと誘ったのは山本。同じく今日の予定が空白だった綱吉は、ならばと獄寺や京子、ハルにも誘いをかけたのだけれど、獄寺は長期休暇を利用してダイナマイトの補充に出かけ、ハルは模擬試験、京子は了平の試合の応援と、それぞれ既に先立つ用事を持っていた。
 だから、今日はお流れにしようか、とも言い合ったのだが、折角だから矢張り何処かへ出かけようという話に落ち着き、迷った末に選ばれた行き先が、海。
 泳ぐにはまだまだ早すぎるけれど、眺める分には問題ないだろうから、行くだけ行ってみて、どこかで昼食を取って、日が暮れる前に帰ってこよう。それだけの当てずっぽうな計画を実行してみたのだけれど、このままでは本当に、何もしないで一日が終わってしまいそうだった。
 バスの中では座っていられたし、今もずっと座っていたので空腹感はまだない。しかし時計を見れば、いつの間にか午後一時を回っていた。
「お昼ごはんにする?」
 試しに問えば、山本は一瞬考え込んだ後首を横へ振った。
「まだいいや。ツナは? 腹減った?」
 自分の腹筋を撫でて感想を述べた山本に聞き返され、綱吉もまた彼の動きに倣った。後ろへ回した両手を結び合わせ、軽く腰を叩いて柔らかな砂地に爪先で円を描く。
「そっか」
「でも、この辺あんまりお店無さそうだし、ちょっと歩かないと……あれ」
 高い灰色の壁を見上げて言葉を並べ立てた綱吉だったが、動かし続けていた足が、硬いけれど次の瞬間には柔らかいものにぶつかって、裏返った声が漏れた。
 山本が即座に反応し、下を向いて顔を顰める。俯いた綱吉もまた、彼が表情を険しくさせた理由を察し、呆れと怒りが混ざり合った複雑な気持ちに襲われて臍を噛んだ。
 ゴミだ。空っぽになった、蓋もされていないペットボトル。
 見つかり難いようにしたつもりか、それとも海から吹く風に撒かれた砂の悪戯か、ボトルの大半は砂に埋もれて頭だけが覗いている。綱吉が足元を掘り返さなければ、彼らも気付かぬまま上を通り過ぎていただろう。
 腰を屈めた山本が嘆息と共に誰が捨てたか分からないそのペットボトルを引き抜き、表面を覆う砂を叩いた。
「結構古いな」
 随分前から此処に埋もれていたらしい外観にそんな感想を漏らし、山本は肩を竦める。
「こっちにもあるな」
 山本が靴の裏を使って傍の砂を横へ払えば、確かに彼の言う通りそこには捨てられたゴミが埋もれていた。今度は袋、図柄からはポテトチップスかなにかだと思われるものだった。
 当然中身は空で、拾い上げるべきかで綱吉は迷い、問う視線を山本に投げる。
 彼は苦笑するだけだった。
「なんか、袋、ねーかな」
 ゴミ袋か、もしくはその目的で使える袋が。
 捜し求める視線を周囲に向けた山本に、綱吉は自分が恥かしくなって俯いた。そして砂と、潮風にも強い雑草が疎らに生える足元を見詰めて、思いの外この場所が汚れている事実に気付く。
 遠目からでは分からないが、砂浜は心無い人々が捨てて行ったゴミで溢れかえっていた。
「酷いや」
「だなあ」
 底が拉げて潰れている空のペットボトルを投げては受け止め、手の中で遊ばせながら山本が同意を示す。綱吉は悲しげに睫を伏し、どうしてこんなことが出来るのだろうかと、姿なき人々へ答えの返されない問いかけをして、唇を噛んだ。
 雲の多い空から射す光が、海原を淡く輝かせている。砂浜の右手奥には岩肌を露出させた崖が臨み、頭部には緑の木々が限界ぎりぎりまで葉を茂らせている様が見えた。
 人の姿は最初の頃と同じで全く見えず、広いけれど狭い海岸に綱吉と山本の影だけが、世間から取り残されたかのように黒く伸びていた。
「……」
 丸めた指の背を顎に押し当て、綱吉が深くまで意識を沈めて考え込む。苦々しい表情は変わらず、ペットボトルを掴み損ねて落とした山本が膝を伸ばしたまま腕を下向けた時、彼は長い息を吐くと共に背筋を伸ばして空を仰いだ。
 天地を逆さまにして砂に突き刺さったボトルを掴んだ山本が、視線を交わさぬまま言った。
「拾うか」
「コンビニ、あったと思う」
 雲間から覗く薄い太陽に目を細め、綱吉がバスの窓から見た景色を思い返して呟く。ほぼ同時に、彼は先ほど自分が駆け下りた階段に向かって動き出していた。
「俺、集めてるな」
「直ぐ戻る」
 何かをするつもりで海に来たのではない。何かがしたくて、此処に居るのではない。
 けれど、何かが出来るのなら、それをやれるのが自分たちしかいないのなら、理由なんて要らない。
 一足飛びに階段を登り、排気ガスの臭いが漂う陸にあがって綱吉は左右に忙しなく首を動かした。道路を挟んで向かい側、並ぶくすんだ色の屋根瓦を幾つか越えたところで、駐車場を大きく取った空間を見つけると、靴底が噛んだ砂をアスファルトに散らし、急ぎ足で道路を横断した。
 鳴ったクラクションに山本は一瞬だけ顔を上げ、爪先で掘った穴から薄汚れた菓子袋を引っこ抜く。畑仕事をしているみたいだ、と前屈みに両手を使って踏ん張っている自分の姿を客観的に見て笑い、こういう御伽噺があったよな、と大きな蕪を前に格闘する人々の様を思い描いた。
 探せば探すだけ、海岸に埋もれたゴミは存在を主張して山本の目に映し出された。此処だよ、と呼びかけられているみたいで、彼らも捨てられたことを哀しんでいるのだろうか、などとつい無生物に憐憫の情を寄せたくなってしまう。
 五分と少しを過ぎた頃に、息せき切らせた綱吉が戻って来た。彼の手には、半透明の業務用ポリ袋がふたつ、折り畳んだ状態から更に丸めて握られていた。
「コンビニの店長さんに言ったら、くれた」
 拾い集めたゴミも、店まで持ってくれば収集に出しておいてくれるのだという。綱吉の説明を聞き、いきなり現れた中学生の頼みを信用してくれた大人に感謝の意を表して、山本は恐らくこの方向だった筈だとコンクリートの壁に向かって深々と頭を下げた。
 今日の出来事を誰かに言ったら、馬鹿じゃないのかと笑われるかもしれない。そんな事をしてなんになる、どうせ拾ってもまたごみは直ぐに捨てられてしまう。時間の無駄、無用な体力を消費しただけだと、言う人は蔑むだろう。
 確かにそうかもしれない。たったふたり、海岸の一角に埋まるゴミを拾った程度で此処が綺麗になるわけでは無い事くらい、ふたりだってちゃんと分かっている。
 それでも、気付いてしまったのだ。だからもう、何もしないで、見なかったフリをして、知らなかったことにしてしまうなんて、出来ない。
 ゴミ袋はすぐに一杯になって、綱吉の方など尖った枝が表面を突き破って穴まで空いていた。小さな軽いものでも、大量に集まれば十二分に重くなる。口を絞って持ち上げようとしても、簡単にはいかなかった。
 全然終わりそうにない疲れと、動き回った分から来る空腹感が一緒くたになって綱吉を見舞う。膝を折って波打ち際近くに座り、自嘲気味に笑ってゴミ袋に寄りかかった彼の上に、薄い影が落ちた。
「なんか、すげーな」
「うん」
 他に表現の方法が見当たらないと、山本は肩を竦めて苦笑する。見上げた綱吉も似た表情を作って返し、砂浜を舐める波から逃げて腰を浮かせた。
 これだけやっても、ちっとも綺麗になった気がしない。やるだけ無駄、という単語がこれほど脳裏にちらついたことは無かった。
 膝に付着した湿り気を帯びた砂を、布を捏ねて落とし、潮風に煽られた所為で変な癖がついてしまった髪の毛を掻き上げる。疲れたという言葉は出てこなかったが、充実感にも程遠くて複雑な気持ちだった。
 山本のゴミ袋もいっぱいまで膨らんでおり、口を結ぶのも一苦労だった。贅沢をして詰め込みすぎたと、何度も袋を持ち上げて上下に揺すった彼は、どうにか中身が零れない程度に口を引き絞り、最後に額に浮いた汗をシャツの袖で拭った。
 鴎が鳴く声を頭上に聞き、過ぎるのも忘れていた時間を思い出してふたり、笑う。
「行くか」
「うん」
 誰かに褒めて欲しくてやったのではない。退屈しのぎで片手間にやったつもりもない。
「あ、ちょっと待った」
 重い袋を引きずるようにして、大股に歩き出した綱吉を山本が呼び止める。砂浜に一メートル弱程の太い線を引いた彼は、不意打ちの声に驚いて、つんのめって前向きに転びかけ袋の端を踏み潰した。
「なに、急に!」
 既に一箇所穴が空いてしまっているのだ。これ以上傷口を増やして、もし底が破れでもしたら、折角集めたゴミがまた砂浜に散らばってしまう。
 声を荒立てて振り向いた綱吉だったが、山本は別の方向を見ていて視線はかみ合わない。いったいなんなのか、と荷物になるゴミはその場に置いて、彼は腹立たしさを堪えつつ濡れて色の濃い砂を踏みしめた。
 靴跡を刻み込み、背高の山本の脇に立つ。彼が見下ろす先に目を向けるより早く、山本は爪先で均した大地に手を伸ばした。
 またゴミが埋もれているのを見つけたのかと思われたが、綱吉が見守る前で掴んだものを広げた山本は、その表面にこびり付いた砂を軽く払うと、波打ち際に足を向けた。
「山本?」
「ん」
 布製のスニーカーに塩水が染み込むのも気にせず、彼は拾ったものを波で洗い、軽く腕を振って水気を切った。
 綱吉の怪訝な呼び声に身体ごと向き直り、屈託無い笑顔を浮かべて右手を差し出す。反射的に左手を伸ばしていた綱吉の掌に添えられたのは、小さな巻貝だった。
 三センチ程の大きさで、桜色をして、光の加減では内側が虹色に輝いても見える。
「……えっと」
 ゴミといわれれば、ゴミだろう。中を覗きこんでみれば蛻の空で、握り締めて力を込めれば簡単に砕けてしまえそう。
 渡された綱吉は対処に困り、山本を窺い見て首を傾げた。
「山本?」
「ご褒美」
「は?」
「耳に当てたら、波の音がするんだってさ」
 目を丸くして素っ頓狂な声を出した綱吉を置き去りにして、こんな風に、と何も持たない手で聞き耳を覆った山本が白い歯を見せて笑った。
 無邪気な子供の笑顔に、難しく考えていた綱吉がぷっ、と小さく噴出す。
「知ってるよ、そんな事」
 何を自信満々に言い出すかと思えば、そんな事。空いた手を丸めて口元にやった綱吉は、さっきまで捨てるかどうかで迷う薄汚れた貝殻が、急に眩しく輝いた宝石めいたものに思えて目尻を下げた。
 綱吉の態度に不満げに唇を尖らせた山本が、だったら、と彼の右手を掴んで肩の高さまで持ち上げる。あわせて膝を折り、姿勢を低くした山本が、綱吉の手に握らせたまま、貝を左耳に押し当てた。
「聞こえる?」
「……本物の波の音が、する」
 急に押し黙った彼に向け、綱吉が恐々問えばそんな返事が。
「そりゃあ、海だし」
「だな」
 海に来ていて、波の音が聞こえないなんて、詐欺だ。
 軽口を叩いた綱吉に、目を閉じた山本が笑って頷き、「ああ」と不意に感嘆詞を零した。
 その、妙に意味深な彼の呟きに、左手を奪われたままの綱吉が首を傾げる。
「なに?」
「海以外の音も、聞こえる」
「へえ?」
 囁かれた彼の言葉にどきりとして、綱吉は感情を表に出さぬよう務めながら彼を見返した。
 眇められた黒い瞳が、波打ち際で綱吉を射抜く。
「ツナ、どきどきしてる」
 心臓の音が、今にも破れてしまいそうなくらいに響いて、伝わってくるのだと。
 言外に告げる瞳に竦んで、綱吉は咄嗟に動けなかった。
「……わ、悪い!?」
「いんやー」
 辛うじて動く舌がぎこちなく音を発し、つっけんどんなその声に山本の楽しげな笑い声が重なる。

「すげー、嬉しい」

2008/04/02 脱稿
2008/05/31 一部修正