相思樹

 週末、土曜日。
 三月前半、梅の花が盛りを迎え、次いで桜前線の行方が気になりだした頃。
 日が出ている間は暖かいものの、朝方と夜の冷え込みは冬を思わせ、ぽかぽか陽気が続いたかと思えば急に寒の戻りに見舞われて、仕舞いかけていた冬物のコートを慌てて引っ張りだす、そんな時期の午後。
「ツッくーん」
「はーい?」
 階下から呼ぶ声に、綱吉は化学の問題集から顔を上げた。
 さっきから殆ど筆は動いておらず、中身も目を通しはするものの頭には入っていない。複雑な記号の羅列は暗号同然で、丸暗記するにしても記憶力に自信の無い彼は、やるだけ無駄だと諦めの境地に達しようとしていた。
 握って揺らすだけだったシャープペンシルを置き、椅子を引く。コマが絨毯の端を踏んで止まり、腰を上げた彼はハンモックで寝そべっているリボーンに一瞬だけ視線を投げ、部屋の中央を横断してドアへ向かった。
 銀色のノブを握って右に捻り、引く。身体半分が通る隙間を作った綱吉は胸から上だけを廊下に伸ばし、見えない一階に向かってもう一度声をあげた。
「なーにー?」
 間延びした声に返事は直ぐに返って来ず、奈々は反応が悪かった綱吉をとっくに諦めたのかもしれなかった。そう思って部屋に戻ろうとドアの隙間を広げかけた綱吉だったが、視点を足元に向けたところで慌しく奈々の呼ぶ声がまた聞こえてきて、今度こそ綱吉は廊下に足を踏み出した。
 母親が呼んでいるから席を外すのだ、と立派な言い訳をリボーンに主張して階段を降りる。滑り止めの硬い感触を土踏まずに受け止めつつ十数段を降り終えても、肝心の奈々の姿はそこになく、腰を捻って階段ではない背後を窺った彼は、なにやら賑わっている台所に眉を寄せた。
「なにー?」
 昼食を終えてから数時間が経過、そろそろおやつ時か。頭の中で時計を思い浮かべた綱吉の予想通り、キッチンでは子供たちの為にホットケーキが焼かれている最中だった。フライパンを片手に、コンロの前に立った奈々が器用にフライ返しを使って綺麗な狐色を操っており、ランボは彼女の後ろで楽しげに、意味の分からない歌を歌っている。
 フゥ太は食器を出す手伝いを買って出ていて、さながらキッチン周辺は小さな戦場だった。足元を駆け回る幼子を避け、暖簾を揺らした綱吉は母親に近付いた。
「呼んだ?」
「ああ、ごめんねー。ちょっとお買い物頼んでもいいかしら」
「えー」
 てっきり自分もおやつにありつけるものと思いきや、その正反対を行く彼女の返事に、即座に綱吉は嫌そうに顔を歪めた。露骨に表に出た感情に、奈々は一瞬だけムッとしてからいつもの笑顔を作った。
「お願いね、ツナおにいちゃん」
「ツナにぃ、よろしくー」
「よろしくだもんねー」
 にっこりと満面の笑みを浮かべて、はっきりと耳に響く大きな声で、おにいちゃん、の部分を強調されてしまう。途端に子供たちも顔を向け、声を揃えて飛び上がった。
 奈々が仕込んだのだろうか、この曲芸は。見事という他ないハモり具合に反論を封じ込められ、綱吉はがっくりと肩を落として頭を掻いた。薄茶色の髪を指の隙間から見詰め、何を買ってくれば良いのかと溜息混じりに問い返す。
 嬉しげに目を細めた彼女は、焼きあがったホットケーキを大皿に移し変え、コンロの青い火を消した。ぱん、と手を叩いて、いそいそと角の冷蔵庫へ向かう。
「ええっとね、牛乳でしょ。小麦粉も使っちゃってもうないの。あと、お醤油ももう切れちゃうから、お願いね」
「……重いものばっかりなんだけど」
「頑張ってね、ツナおにいちゃん」
「がんばれー」
 はい、と小銭で膨らんだ財布を渡され、屈託無い笑顔で両手を握られた。綱吉の苦情は最初から受け付ける気がない彼女の態度に、もう何を言っても無駄だと悟り、綱吉は仕方なく臙脂色のがま口をズボンのポケットへ押し込んだ。
 小麦粉はここのスーパーで、牛乳はどこの店が安い、等々。散々言われたが覚えきれるわけがなく、メモに手早くまとめてもらってそれも一緒にポケットへ入れ、一旦上着を取りに自室へ戻る。クローゼットを開けているとリボーンに出かけるのかと聞かれ、買い物を頼まれたのだと早口に言い返し、玄関へと。
 汚れてすっかり草臥れたスニーカーを見た奈々に、新しいのもついでに買ってきなさいと追加で多めに札を渡されて、綱吉は喜んで良いのか微妙な気持ちになりながら、四つに折り畳んで更に半分に折り、がま口へ捻じ込んだ。最後にレシートはきちんと貰ってくるように言われて、手を振って見送られる。
 玄関を開ければ眩い光がいっぱいに差し込み、キラキラとプリズムが筋を作って綱吉の目に襲い掛かった。
 掲げた掌で庇を作り、瞳を細める。温い春の空気を胸いっぱいに吸い込んで、綱吉は一足飛びに庭を駈け抜けた。
 足の裏に感じ取る感触は硬く、アスファルト故に一年中変わらない。啓蟄を過ぎて虫が這い出る時期なのだが、その地面がこんな風に固められてしまったら虫たちもゆっくり眠っていられないだろう。
 想像して背筋に寒気が走り、馬鹿なことを考えたと首を振って打ち消した彼は、最初に何処へ向かおうか考えて出しかけた足を引っ込めた。
 奈々が言ったスーパーはふたつ、商店街の店がひとつ。近い方から攻めたいところだが、そうなると醤油の瓶を抱えたまま残りニ箇所を巡らなければならなくなり、考え物だ。
「うーん」
 どう進路を取るのが最良だろうか。トータルの移動距離と、最終的な荷物の重量を対比させ、綱吉は顎を掻きながら呻いた。
 立ち止まっていても仕方がないから、歩きながら考えることにする。方向は大体同じなのだが、巡る順番次第で両腕への負担は相当変わってきそうだ。
 最初に買うのは牛乳か、小麦粉か。靴で見栄を張って残高が足りなくなって醤油が買えなかったとしても困るので、自分の買い物は最後にすべきか、否か。
 頭の中で色々とシミュレーションしてみるが妙案は浮かばず、眉間の皺ばかりが増えていく。学校では目に見えない原子の意味不明な構造図を教えるのに、こういう実生活に即した計算方法はなにも教えてくれないから困る。もうちょっと理に適った物事を中心にカリキュラムを組んでくれればいいのに、と全く別のことに思考を転換させ、綱吉は青に切り替わった信号を大急ぎで渡った。
 休日の午後だからか、人通りはそれなりに多い。のんびり散歩を楽しんでいる人に、綱吉と同じく買い物に勤しむ人、何処かへ遊びに行く途中らしき集団に、ただ集まって喋っているだけの人垣も。不法駐輪の自転車を避けて狭い歩道を進み、気がつけば結論が何も出ていないのに商店街近くまで来てしまっていた。
「あっちゃー……」
 道すがら考えようと決めていたのに、決まらなかった。しまった、と頭を掻いて首をすぼめた綱吉は、灰色に変色している靴紐の端を踏んで危うく転びそうになった。
 解けてしまった紐に舌打ちし、笑いながら脇を通り過ぎていく人に恥かしげに顔を伏せる。道端に寄って通行の邪魔にならぬように蹲り、不器用な手で不恰好な蝶々結びを完成させて、綱吉は裾の解れたジーンズの皺を指でなぞった。
 立ち上がって弛んだシャツも伸ばし、肩の位置がずれたコートを羽織り直す。布の継ぎ目を持ち上げて左右のバランスを揃えてから、彼は食料品を中心に扱っているスーパーを右に見て口をへの字に曲げた。
 ここで醤油を買うと、後々荷物になる。矢張り最後にしよう、決心つきかねている自分にそう言い聞かせ、綱吉は身体を九十度左に反転させた。
「あれ」
 そして商店街を通り抜け、通りをふたつほど挟んだ先にある別のスーパーへ向かおうとしたところで、彼は急に声を上げて足を止めた。
 見覚えのある人物の姿が見えた気がして、首を捻る。だが昔ながらの雰囲気が残る商店街は、あまりにもその人のイメージにそぐわなくて、綱吉は見間違いだったろうかと曲げた指を唇に押し当てた。
 けれど彼は綱吉が最初に見た地点から動かず、店の前で立ったまま、店員らしき人と話をしている。時折両手を広げて上下に揺らし、何かを説明しているようだが、流石に距離があるので声までは聞こえてこなかった。
「なんの店だったっけ」
 並盛の商店街も、大型のスーパーが出来てからは客が減ったとかで、閉店が相次いでいる。昔かたぎの人がまだまだ頑張ってくれているので、シャッター通りと呼ばれるような惨憺たる状況には陥っていないものの、確かに綱吉の幼少期に比べると、活気は減ってしまっていた。
 だが最近は、若い人がそういう空きスペースを借り受けて、新しい店を作ったという話も耳にするようになった。美容院であったり、雑貨店であったり。昔からある店とは若干色合いの異なる看板が出ているその店も、まだ出来てそう日が経っていないと思われる。
 いつの間に開店したのだろう、と綱吉は頼まれた買い物も忘れて歩き出した。
「そうですか、分かりました」
「ごめんなさいね」
 直後会話が耳に飛び込んできて、綱吉は自分にどきりとして心臓を竦ませた。
「ぅあ」
「あ」
 溜息混じりに肩を落とした彼が銀色の髪を掻き上げて顔を上げる。途端に目が合って、綱吉は不自然に緊張した顔を彼に向けてしまった。
 向こうも向こうで、綱吉がまさかこんなところにいるとは夢にも思っていなかったに違いない。切れ長の目を限界までめいいっぱい広げ、一緒にぽかんと開いた口から間抜けな声を零した。
 妙な間が生まれ、流れて行く。店に引っ込もうとしていた若い女性店員が、歩き出した直後に足を止めた彼に首を傾げつつも、そのまま中へ入っていった。
「ど、……うも」
「う、うん」
 なんと言っていいかも分からず、ふたりして変に意識してしまって言葉が出ない。いやに他人行儀に顔を向き合わせた後、揃って足元に視線を落としたふたりは、そこでも動きを揃えて困った風に頬を掻いた。
 獄寺は各所が擦り切れて糸を解れさせたジーンズに、銀のバックルで固定された黒のブーツ、同じく銀のアクセサリーを腰のベルトにじゃらじゃらとぶら下げ、袖なしのシャツに何処かの軍服に似せたジャケットを羽織っていた。
「ご無沙汰して、ます。十代目」
「昨日会ったばっかりなんだけどね」
 会話のきっかけが欲しかったのだろう、挨拶にしては不出来な台詞を呟いた彼に綱吉は苦笑する。ふたりは金曜日だった昨日、学校で机を並べて一緒に勉強したばかりなので、その文言は正直可笑しい。だが平日は朝から顔を合わせているのに今日はそれがなかったから、久しぶり、もある意味正しいのかもしれなかった。
 両手を腰の後ろに据えた綱吉の返事に、獄寺も曖昧に笑って頬に掛かる髪の毛を持ち上げて耳に引っ掛けた。だが長さが足りなかったようで、何本かはまた前に戻って彼の色が薄い皮膚を擽った。
「どうしたの、こんなところで」
 正面に立つ彼を避け、横から五メートルほど先にある店の看板を覗き込む。道路に面している大部分は壁もなく、開けた状態で、飾られた棚には沢山の鉢植えに、円筒に差し込まれた花が並べられていた。
「花屋さん?」
「いえ、あ、その、はい」
 言葉を濁し、咄嗟に否定しかけた獄寺は視線を泳がせた末、肯定に転じる。胸の前で重ねた指先をもじもじと動かし、照れ臭いのか、彼は横を向いて綱吉を見ようとしなかった。
 だが聞こえた一切れの会話と、手ぶらの獄寺とを合わせると、どうやら彼が欲しかったものはあの店になかったらしい。
 獄寺に、花。もしかしたら鉢植えかもしれないが、何を探していたのだろう。
 花を買い求めるシチュエーションは、大体相場が決まっている。誰かに贈る場合が殆どだろう、彼が自分の家を飾るのに購入するとは、あまり思えない。
 誰かの誕生日が近かったろうか。思いつかなくて、綱吉は首を傾げた。
「なかったの?」
「え、ええ。日本じゃあんまり、知られてないみたいで」
 邪魔になる髪の毛をひっきりなしに後ろへ梳き流し、獄寺が綱吉の問いかけに今度こそはっきり頷いて返す。振り向いて今しがた彼が出てきた花屋を見た彼は、仕方がないと言いたげな態度で肩を竦め、綱吉に向き直った。
「十代目こそ、どうされたんですか?」
「俺は、買い物頼まれて」
 人使いの荒い実母を暗に言葉尻に含ませ、苦笑した綱吉はズボンのポケットを上から撫でて、そこに財布がちゃんとあるかどうかを確かめた。
「なら、お手伝いします」
「いいよ、獄寺君は自分の用事があるでしょ」
「荷物持ちは多いほうがいいでしょう」
 言い出したら聞かない獄寺が、綱吉の遠慮を言葉通りに受け止める筈がない。自分はなにがなんでもついていくと言い張り、ついには行きましょうと、勝手に綱吉を人のペースに巻き込んで先に進みだしてしまった。
 追いかける綱吉が、何を買うか知りもしないで進路を決めてしまった彼を引きとめ、そっちじゃないと道を訂正する。だが正直なところ、重いものばかりを頼まれているので彼の申し出はありがたく、次は断らずに一緒に行くべく、綱吉は彼の歩調に速度を合わせた。
 物は重いがそれだけで、種類も多くないので綱吉の買い物は直ぐに終わってしまった。靴はというと、獄寺が色々とアドバイスをくれたものの、気に入ったものが見つけられなくて結局次回に持越しとなった。
 綱吉が牛乳の入った袋を持ち、獄寺は醤油と小麦粉を引きうける。手伝いの彼にばかり重い思いをさせるわけにはいかないと綱吉は粘ったのだが、自分が持つといって獄寺が最後まで抵抗してくれて、袋が破れそうになったので押し問答はそこで終わり。周囲に笑われているのに後から気付いて、ふたりして顔を赤く染めてそそくさと店を出た。
 陽射しは穏やかで、けれど眩しい。コートは要らなかったかもしれない、と冬物を着て来た事を今頃後悔して、綱吉は路面に反射する日光を恨めしげに見詰めた。
「暖かくなりましたね」
「うん」
 綱吉より幾許か薄着の獄寺が、ジャケットの裾を揺らして横を行く。綱吉よりも重いだろうに、少しも顔に出さずにいる彼はむしろ何処か嬉しそうで、見上げる綱吉もまた彼の笑顔に救われた思いで表情を綻ばせた。
 もうじき桜も咲く、終業式が終わればいよいよ春休みだ。
「期末試験、どうですか」
「……聞いちゃ駄目」
「すみません」
 週末を挟んで実施される、一年間の総決算たる試験の結果など、今更思い返したくもないし考えたくもない。
 答案用紙は返却されたら即座に焼却処分にしてしまいたい気持ちが満載で、永遠に月曜日が来なければいいのに、と祈ってしまいたくなる。
「いいよね、獄寺君は。頭良いんだから」
 教科書を読んだだけで内容を理解出来るなんて、羨ましくて仕方がない。綱吉の不貞腐れた物言いに、テキストで理解できなければ何を読めば良いのだろう、と生真面目に考えてしまった獄寺は、言いかけた言葉を寸前で飲み込んだ。
 足並みが乱れ、自然と止まる。気付かずに綱吉は五歩ばかり先を行ってしまって、追いかけてこない影に腰を捻った。
「獄寺君?」
「すみません、ちょっと」
 どうかしたのかと視線で問えば、彼は遠慮がちに断りを入れて方向転換を果たした。
 爪先が向いたのはスーパーの裏手にある小さな店で、こぢんまりとした佇まいからは何の店なのか直ぐに分からない。
 綱吉が不思議がっている間にも彼はそそくさと来た道を戻って、ガラス張りのドアから店内に入っていく。置いていかれた気分で足元を蹴り飛ばした綱吉は、最初に彼を見かけた店の種類を思い出し、もしや、と急ぎ足で彼の辿った道順をなぞった。
 厚みのあるガラスから中を覗きこむと、案の定ショーケースの中には沢山の花が所狭しと飾られていた。色鮮やかな花びらの向こう側に見え隠れする獄寺が、熱心に店員へ何かを訴えかけているのが見える。
 こんなところにも花屋があったのか、と物珍しげに見える範囲で店内を眺め、綱吉は少々臆しつつもドアを開けて中に入った。見た目よりも重い扉に苦労させられ、若干暗い店内に目を瞬く。
 暖房が働いているのか、中は随分と暖かかった。
 花の匂いが他種類互いに混ざり合い、自分を主張して潰しあっている。それは決して嫌な臭いではなく、少量ならばきっと心地よいのだろうが、慣れない綱吉には若干息苦しい。
「ごめんね、うちでは扱ってないんだ」
「そうっすか……」
 腕組みをしたエプロンの男性が、黒い鋏を片手にしたまま獄寺の前で唸っている。目に見えて落胆した背中の彼に声は掛けづらく、綱吉は入り口近くで足を止めたまま当て所なく視線を彷徨わせた。
 薔薇、百合、チューリップにスイートピーも。他に名前を知らない色々な花が種類、色別にバケツに入れられている。作業机の上にはピンクの幅広リボンが一メートルほどの長さで横になり、花束の作成途中だったのだろう、上に切花が並んでいた。
 小さな植物園みたいだと心の中で呟き、目の前に降った影に顔を上げる。
「すみません、十代目。行きましょう」
「あ、うん」
 いつの間にか接近していた獄寺に低い声で促され、綱吉はドキリとした心臓をコートの上から撫で下ろして頷いた。
「ごめんねー、またよろしく」
 もうひとつ謝った店員に見送られ、獄寺が開けてくれたドアを抜けて日に照らされた明るい世界へと舞い戻る。瞳を細めた彼は、先を行く獄寺の背を眺めて足元の小石を蹴り飛ばした。
「なにが欲しかったの?」
 最初に彼を見たのも花屋だった。日頃は前を素通りするだけで、興味もなさそうな店に二箇所も足を向けた彼、しかしどちらも目当てのものは手に入らず。
 花の種類を選んでいるのは確実で、しかもそれは見たところ、店ではあまり扱われていない花。ただ病院に見舞いに行く等ならば、そこまで拘る必要もないだろうに。贈る相手の好きな花を探しているのか。
 牛乳の入った袋を前後に揺らし、足を止めた彼に追いついて綱吉は横から獄寺を覗き込んだ。しかし彼は苦笑するばかりで、綱吉の疑問に答えをくれない。
「たいしたものじゃないんで、気にしないでください」
「気になるよ」
 誤魔化そうとする彼になおも問い詰めるが、袖を引いてもさりげなさを装って払われ、綱吉は空っぽの手を強く握り締めた。
 歩くペースはゆっくりで、気がつけば家を出てから結構な時間が過ぎていた。牛乳はすっかり温くなり、今が真夏の盛りでなくてよかったと思いながら、綱吉は事務的に足を交互に繰り出す獄寺の背中をぼんやりと見詰めた。
 本当に良いのだろうか、花は。
 何を探しているのかも分からないままでは、綱吉は彼を手助けしてやることさえ出来ない。せめて種類くらい教えてくれればいいのにと、不満を顔に出して頬を膨らませ、尖らせた唇から一気に吐き出した。
 花屋はもうこの辺にはなくて、あとは隣町にまで足を運ばなければならない。電車を乗り継ぐか、バスで行くか。徒歩では少し遠すぎて、きっと並盛に戻って来る頃には日も暮れてしまっている。
 隣町まで行けば獄寺の探し物が見付かる保証は、どこにもない。空振りに終われば交通費と時間の無駄遣いにしかならず、それでなくとも綱吉は試験勉強で切羽詰っている。リボーンの怒りを買う真似は極力避けたいが、獄寺の手助けもしてやりたい気持ちもあって、両者は心の中で喧々囂々と言い争いを展開していた。
 自分ばかりが彼の世話になるのは不公平だし、なんとかして手伝ってあげたいと強く思う。獄寺が笑えば自分も嬉しいし、獄寺が落ち込むと自分も悲しくなる。だが肝心の獄寺が口を開いてくれなければ、綱吉の思いは空回りする一方だ。
「獄寺君。あのさ」
 西に傾く太陽が路上に長い影を幾つも刻んでいる。永遠に追い越せない自分の影を追って右足を前に出した彼は、袋を握る手を左右持ち替えてオレンジ色に染まる彼の銀髪に瞳を眇めた。
「あ……」
 その綱吉の決意をそうと知らず受け流し、獄寺が何かに気付いて吐息を零した。
 彼の首がゆっくりと右に傾き、高い位置に向いて固定される。驚きと感動とに彩られた瞳はキラキラと子供みたいに輝いて、興奮したのか紅色に染まる頬は夕焼けも手伝っていつも以上に鮮やかだった。
 同じものへ綱吉の視線を向け、彼が何に見入っているのかを即座に理解する。
 花だ。もっと正確に言うなら、花を咲かせた木。
「凄い、真っ黄色だ」
 綱吉も思わず感嘆の言葉を漏らしてしまうほどに、鮮やかな黄色が枝を占領して甘い香りを一面に放っていた。綿毛を解したみたいな花びらは風にも揺れず、若緑の葉を押し退けて綱吉たちの視界いっぱいを埋め尽くした。
 羊歯植物に似た細かな筋を並べる葉は、完全に黄色に圧倒されて存在感がまるでない。灰色を濃くした幹はそう細くも無いのに頼りなげに映るのも、きっと花が多すぎて重そうに思えるからだ。
 綱吉の身長を越す塀を隔てた先で伸びた枝は、路上にはみ出さぬように気を遣って剪定されていた。それでも匂いや色は押し留められるものではなく、見る者を圧倒する威力を存分に発揮していた。
「ミモザ」
 ぽつり、獄寺が呟いた。
「え?」
「すみません、十代目。これ、ちょっとお願いします」
「は? え、あ、うおっ」
 なんと言ったのかうまく聞き取れず、目を丸くした綱吉に唐突に獄寺が振り返って距離を詰める。つかつかと目の前まで進み出た彼は、それまで大事に抱えていた小麦粉と醤油の入った袋を問答無用で押し付け、綱吉が構える前に両手を放した。
 虚を衝かれた綱吉は突然己を見舞った重みに膝を砕かれ、姿勢を低く崩した。荷物を落とすのだけは回避させたが、腰がグキッと嫌な音を立てた気がした。
 だが獄寺は綱吉の苦難を顧みず、壁沿いに駆け出していってしまう。
 住宅地のど真ん中、夕暮れ差し迫る道を走り、彼は程無く閉ざされた門を見つけた。表札は当然知らぬ人の名前が刻まれ、その向こうの窓からは仄かな明かりが漏れていた。
 爪先立ちになって邸内を覗き込み、彼は若干不審人物になりながら家人が在宅であるのを確かめ、表札下にある呼び鈴を鳴らした。
 彼の突拍子もない行動にはただ驚かされるばかりで、綱吉は目を丸くしたままその場に立ち尽くす。積極的というのか、後先考えないというのか、思い立ったが吉日を地でいく獄寺は唖然としている綱吉を置き去りに、インターホンで応対に出た姿なきこの家の住人に頭を下げた。
 両手を忙しなく動かし、必死に事情を説明しているのが窺える。なかなか思うように伝えられないのか、頻繁に言葉を詰まらせて、混乱したのかいきなりイタリア語に台詞が切り替わりもしていた。面食らったのは聞いていた綱吉だけでもないだろう、やがてどれくらい時間が過ぎたのか、狭い庭を挟んだ玄関がゆっくりと内側から開かれた。
 出てきたのは大学生くらいの青年と、その母親らしき女性。どちらも怪訝に表情を曇らせて、怪しいものを見る目で獄寺をうん臭そうに見ている。
 居た堪れない気持ちになって、綱吉は獄寺の斜め後ろに立って胸中の荷物を抱き締めた。だが獄寺はひとり空気を読まず、期待に満ちた眼差しを彼らに向け、行儀良く直角に腰を曲げた。
「宜しくお願いします!」
「いや、まあ……そりゃ、別にいいけどさ」
 女性を玄関に置き、青年が面倒くさそうに耳の後ろを掻きながら近付いてくる。よくよく見れば、彼の手には大きめの鋏が握られていた。形状からして、キッチン鋏か何かだろう。
「一本でいいの?」
「出来れば房の大きい、沢山ついてる奴でお願いします」
 門は開けてやらず、青年は獄寺を上から見下ろして確認する。彼らの傍に寄った綱吉は、さっぱり事情がつかめぬまま首を傾げた。
 そんな綱吉にも青年は視線を投げやり、今度は首を掻いて左に進路を取った。途端に獄寺は閉まっている門に両手をかけて庭を覗き込み、青年の後姿を追いかけた。
「これとかー?」
「はい、それで」
 女性は何も言わずに家の中へ戻って行ってしまったが、敷地の境界線を挟んで獄寺と青年のやり取りは続いた。綱吉は見ているだけで、抱えた荷物が重くて腕が痺れ始めた為、やることのない彼はブロック塀に情けなく寄りかかった。
 青年は獄寺から視線を戻して掴んだ鋏を枝に咬ませ、両手に力を込めた。そう太い枝ではないが、植物も簡単に断ち切られてはたまらないと抵抗を強めているのだろう。簡単にはいかないと即座に察した彼は苦心して表面に筋を刻み、最後は力任せに枝を握って下向きに折ってしまった。
 黄色い花が幾らか散り、青年の腕を覆い隠す。低い位置に伸びていた枝ではあったが、見事に咲き誇る花びらの群生に綱吉も目を見張り、身体を起こして鼻腔を擽った匂いに目を細めた。
 戻って来た青年から枝を受け取り、獄寺が再度深々と頭を下げる。
「有難う御座います」
「なんだっけ、それ。フェスタ・デ、デ……?」
「Festa della donna」
 流暢なイタリア語を舌に転がした彼に、青年は肩を揺らして苦笑した。
「そんなんでお役に立てるんなら、持ってっていいよ」
「はい、お心遣い感謝します」
 あまり立ち話を続けても、そのうち会話についていけなくなりそうだと思ったのだろう。興奮気味に鼻息荒くしている獄寺にひらりと手を振って、彼は赤くなっている指を鋏ごと背中に隠した。
 綱吉も獄寺に僅かに遅れて会釈を返すと、彼は照れ臭そうに頭を掻いて玄関へ戻っていった。
 ドアが開いて、閉まるのを待ち、綱吉が獄寺に向き直る。彼は嬉しげに黄色い花をつけた枝を顔の前に掲げ、どこか遠くを見ていた。
「獄寺君?」
 先ほど聞こえた呟き、ミモザというのがこの花の名前だろうか。
 問いかける視線を受け、獄寺が腕を下ろして綱吉を振り返る。
「すみません、お待たせしてしまって」
「それは、別にいいんだけど」
 空っぽの右手を上にして差し出され、綱吉は彼の好意に甘えて預かっていた荷物を彼に引き渡した。獄寺は袋の重みで一瞬だけ肩をガクンと落としたが、直ぐにバランスを整えてしっかりと握り直した。
 ふわりと鼻先に匂いが浮き上がる。
「……っしゅ」
 風邪でも引いただろうか。顔を擽られた気がして、予告もなくくしゃみが出た綱吉は、鼻の下を指で擦り、可笑しいなと視線を持ち上げた。
「ミモザ?」
「はい」
 その指を向けて聞けば、獄寺は笑顔のまま頷いて枝を揺らした。遅れて花が動きについて回り、黄色が綱吉の視界を泳ぐ。
「今日はIlgiorno della Mimosaなので」
「イル……?」
「ミモザの日です」
 花の表面を指でなぞり、獄寺は流暢な発音で耳慣れぬ単語を口にした。途端に綱吉の頭上ではクエスチョンマークが飛び交い、渋い顔をした綱吉は耳で追いきれなかった彼の言葉を途中までなぞって、あっさり諦めた。
 肩を揺らし、獄寺が歩き出して言い直す。日本語があるのならば、最初からそう言ってくれればいいのに。もったいぶった獄寺の言い回しに頬を膨らませ、綱吉は濃く、長くなった自分の影を蹴り飛ばした。
 ミモザの木があった家は遠ざかり、振り返ってももう見えない。住宅地をのんびりと抜け、次第に見慣れた景色が目の前に広がりだした頃、オレンジ色の屋根を間近に見上げて獄寺が足を止めた。
 沢田、と書かれた表札の前でぴたりと踵を揃え、夕暮れに髪の毛を透かして綱吉に微笑みかける。
「着きましたよ」
 言われなくても住み慣れた自宅を間違えたりはしない。綱吉は小さく頷いて返し、獄寺が差し出した荷物をまとめて引き取った。
 ずっしりとした重みが再度彼の両腕に圧し掛かるが、不覚を取られたさっきとは違って心構えも出来ていた分、それ程辛いとは思わなかった。落とさぬよう大事に胸に抱え込み、バランスを取って両足でしっかりと大地を踏みしめる。
 獄寺が開けてくれた門を抜け、微かな段差を乗り越えて敷地内へと。夕焼けが地平線に近い位置で濃く、遠い位置では薄く空を朱色に染め上げ、横から光を浴びた綱吉は眩しげに目を細めた。
 遅くまで付き合ってくれた獄寺に礼を言うべく腰を捻り、出しかけた足を留める。視界に揺らいだ自分の髪の毛の薄茶色に割り込んで、唐突に黄色が目の前を踊った。
「え?」
「どうぞ」
 丸い目を瞬かせ、綱吉が驚きに声を失う。獄寺が差し出したミモザの枝を前に、彼はどう反応してよいのか分からず硬直した。
「……俺に?」
「あ。いえ、あー……すみません、紛らわしかったです」
 数秒の間を置き、やっとのことで発した疑問に獄寺もきょとんとして、自分の言い間違いに気付き苦笑した。
 違う、と首を振る。
「十代目のお母様へ」
「母さんに?」
「はい。あと、その、えっと、……姉貴にも、と」
 若干気まずげに言葉を濁し、ごにょごにょと声を小さくして俯いた彼の様子に綱吉は首を捻る。獄寺の姉、となるとビアンキに他ならず、彼の頬が薄ら紅をさして見えるのは多分夕焼けの所為ではないだろう。
 沢田家に住まう年上の女性ふたりへのプレゼント、という事か。しかし、何故。
 わざわざ複数の花屋を探して回り、知らぬ人の家に咲いていたものを分けてもらってまで手に入れた花を、奈々やビアンキに捧げる彼の意図がつかめない。
「今日は、だから、……ミモザの日で」
「それは聞いたけど」
 具体的に今日、何をする日なのかを綱吉は知らないのだ。獄寺に言われた時は「ふぅん」と相槌を返すだけに終わらせたが、そういえば由来や意味を何も教えられていなかったのを今更思い出す。
 ふたりの間で開けっ放しの門が当て所なく揺れ、吹いた風にミモザが寒そうに身を震わせた。
「えっと、……フェスタ・デラ・ドンナだから」
「それじゃ分からないよ」
「……笑いませんか?」
「なにを」
 照れ臭いのか、恥かしいのか、珍しく歯切れの悪い獄寺の口調に、綱吉もいい加減腕が痺れてくる。結論を先に言えと言わんばかりに急かし、恐々瞳だけを上向けた獄寺に、綱吉は胸をふんぞり返らせた。
「今日は、女性の日です」
「はい?」
 咄嗟に獄寺が発した言葉の意味を理解出来ず、綱吉は目を点にして彼を見詰めた。
 益々顔を赤くした獄寺が、物分りの悪い綱吉を悔しげに睨みつける。いやに赤い顔をされて、どちらが苛められているのだかこれでは分からない。
「だから、今日は、女性に感謝する日なんです!」
 道端とはいえないが、人の家の前で大声で怒鳴られ、綱吉は面食らって間の抜けた顔をしてしまった。
 言った本人も荒く息を吐き、直後激高した自分を反省して肩を落とす。
「えーっと……」
 女性の日、女性に感謝する日。二ヶ月ほど先にも似たようなイベントがあったな、と脳裏を駆け巡ったカレンダーに手を打って、綱吉は困った風に左へ首を倒した。
「母の日みたいな?」
 助け船のつもりで赤、もしくは白いカーネーションを贈る日を例に出して聞き返せば、獄寺は視界を邪魔する銀髪をまとめて掬い上げ、後ろへ流し頷いた。だが言葉は態度とは裏腹に、少し違うと訂正を求める。
「母の日は、母親だけですが、今日は女性全般への感謝を表す日で。イタリアでは、ミモザの花を」
 春を告げる黄色い花を敬愛する女性へ贈るのが、今日。イタリアでは小さな男の子も、大好きな母親の為にミモザを用意する。街中ではこの愛らしい花だけを売る即席の屋台まで出るくらいに知られていて、どこもかしこも黄色で溢れかえるのだ。
 だから獄寺は、どうしても奈々の為にこの花を用意したかった。
 自分の母親へは、渡せなかったから。
「十代目のお母様には、いつもお世話になっていますので」
 それに、と何かを付け足そうとした彼だったが、穏やかな瞳はそこで綱吉をじっと見るめるだけに留まり、言葉の先は続けられなかった。
 綱吉に向かってはにかんで、照れ臭そうに頭を掻いて首を振り、終わらせる。彼がなにを言いたかったのか、それだけでなんとなく理解できて、聞いていた綱吉まで恥かしくなり、場を誤魔化すべく彼の差し出すミモザの枝を受け取ろうとした。
 しかし指先が彼の手に触れたところで思い止まり、急ぎ手を引っ込める。
「十代目?」
「だったら、直接渡しなよ」
 両腕で荷物を抱き締め、自分は受け取らない意思を表明して綱吉は笑った。
「えっ」
 その返事に獄寺はぎょっとして、半歩後ろへ下がり身体も思い切り仰け反らせた。
「だ、だだだ駄目ですよ十代目、俺は、そんな」
「でも母さんは、獄寺君から直接渡して貰った方が、喜ぶと思うな」
 それに、ビアンキだって。
 日頃から何かと文句ばかり言って、獄寺は一方的にビアンキを苦手とし、毛嫌いしている雰囲気があるのだが、今の彼の言葉からすると、一応は姉として、自分を見守ってくれている彼女に感謝しているようだ。
 その気持ちを表明するのならば、人づてなどではなく自分で直接伝えるべきだろう。彼女だって綱吉に仲介されるよりも、獄寺から手渡される方が嬉しいに決まっている。
 顔を真っ赤に染めた獄寺が、綱吉の熱意に押されつつも決心つきかねる様子で足元をこね回した。こんな獄寺も珍しくて、綱吉は少し得をした気分になりながら彼の腕を取り、引っ張った。
「ほら。ついでに夕飯も食べていけばいいよ、ひとりくらい増えたって平気だから」
 母子ふたりだけの家が、いつの間にか賑やかな大家族になっていた。その輪の中には彼も居る、招き入れるのは当然の帰結。
 力を込めて言った綱吉をじっと見詰め、獄寺は表情に逡巡を滲ませた後、ゆっくりと深く頷いた。
「では、これは俺と、十代目から、という事に」
「いいの?」
「もちろん」
 ひとりから贈られるより、ふたりから贈られた方が奈々もきっと嬉しいに違いない。
 綱吉の言い分を巧く言い換えた彼のことばに、綱吉が肩を竦ませる。
 ふたりの手の中で、黄色い花が零れんばかりに笑った。

2008/03/07 脱稿