遠見

 甘い匂いのする桜だと呟いたら、それは桜ではないと後ろから言われた。
「アーモンドですよ」
「へえ……」
 即座にチョコレート菓子に入っている焦げ茶色の豆が脳裏に思い浮かび、そういえば長いこと食べていないと自然と喉が鳴った。
 口腔に溢れた唾液を飲みこんでいると、何を想像したのか悟られてしまって、横から忍び笑いが聞こえて来る。見れば案の定口元に手をやった彼が、半分だけ表情を隠して目を細めていた。
「笑わないでよ」
「ああ、いえ。すみません」
 ひとつ咳き込んでから手を下ろした彼が、光の加減によっては銀にも見える薄茶色の髪を揺らして軽く頭を下げた。再び持ち上げられた瞳は柔らかく優しい色をしており、白く澄んだ肌は陶器のようでもある。
 けれど彼は立派な人間で、間違っても綺麗なお人形ではない。
「桜にしちゃ早いと思ったけど、違うんだ」
 薄い花弁を少女の頬のように薄紅に染め上げ、太い枝にびっしりと隙間が無いくらいに埋め尽くしているアーモンドの花を見上げる。鼻腔を甘く擽る匂いを楽しみつつ、綱吉は傍にあった木の幹に手を置いた。
 真下から仰ぎ見ると空がすっぽり覆われてまるで見えず、季節を彩る花が見事に咲き誇る様が視界一面を埋め尽くした。満開手前なのか風が吹いても花びらは散らず、枝を微かに揺らすのみだ。
 なだらかな傾斜を利用した敷地には、綱吉が今見上げているものと同じ木が沢山植えられていた。つい満開の花に誘われて車を降り、土地の持ち主に許可を得て入らせてもらったわけだが、矢張り遠くから眺めるのと近くから見上げるのとでは、迫力が随分と違う。
「見事ですね」
「うん」
 隣に並んで、綱吉と同じ歩幅で歩くバジルが素直な感想を述べ、綱吉も深く頷く。指先に僅かに残った幹の感触を名残惜しみ、顔の前まで垂れ下がっている太い枝を避けて身を屈めた彼は、その間に一歩半分先に行ったバジルに、何故だか振り向くと同時にまた笑われて、頬を膨らませた。
 子供みたいにムキになって睨みつけると、また彼は遠慮がちに笑って「すみません」と謝る。ならばもっと真剣な顔をしてみせろと憤慨していたら、戻って来た彼の手が伸びて綱吉の頭に触れた。
 左側、こめかみよりも若干上の位置。唐突だったので緊張してしまい、髪の毛を引っ張られる微かな痛みに眉を寄せると、すぐさま離れていった彼の手から薄い小さな膜が落ちていった。
「ついてましたので」
 足元にひらひらと沈んでいく花弁を目で追い、バジルが呟く。
 綱吉も瞬きをして、今彼の手から零れたものを探したが、他に地面に散っていたものらと同化してしまって分からない。仕方なく上を向いた綱吉は、枝の隙間から覗く青空に溜飲を下げて一緒に肩を落とした。
 先に言ってくれればいいのに、そう呟くとバジルはまた笑いながら謝ってくる。
 春の日差しにも似た穏やかな表情に、綱吉は膨らませた頬を凹ませ、顔の筋肉を緩ませていった。怒っている時間が勿体無くて、折角だからと気を取り直しアーモンドの花々に視線を向け直す。
「やっぱり、桜に似てる」
「そうですね」
「見たことあるんだ?」
「写真だけですが」
 懐かしい景色が目の前に薄く重なって現れ、その中にどんちゃん騒ぎを展開させる幼い仲間たちの姿が見えては消えていく。楽しい思い出は大抵誰かと一緒で、賑やかな時間は思い返す度に綱吉の胸を暖かく包み、心を緩く締め上げた。
 日本ももうじき桜が満開になる季節。目を細めて呟いた綱吉に同意したバジルだが、彼が日本に居たのは秋で桜の頃ではない。些か驚いた様子で首を向けた彼に、バジルははにかんだ表情で短く告げた。
 家光の持っていた家族写真にも、桜の下で花見をする沢田一家の絵があったらしい。綱吉がまだ三つかそれくらいの頃だとかで、自分の記憶に無い事を、当時一緒ではなかった相手から言われるのは不思議な感じがした。
「父さんってば」
「大事にされていましたよ」
 他にもアルバム何冊分もの写真をイタリアに持ち込んでいたらしい。家族愛溢れる男ではあるが、若干行き過ぎの傾向がある実父を思い浮かべ、綱吉は渋い顔をしてバジルの苦笑を誘った。
 彼が自分を、そして綱吉の母であり家光の妻である奈々を大事にしてくれているのは、知っている。彼が綱吉の為にあらゆる手段を影で講じてくれていたことも、無論。
 綱吉が何も知らなかった頃から、家光が裏で様々に手を回してくれたお陰で随分と救われた。彼が居てくれたからこそ、今の綱吉があるのだ。
 幼い頃は、素直にその彼の気持ちを受け止められなかった部分も多いが、今となってはすべてがただ懐かしい。感謝もしているし、嬉しいと思っている。
「お花見、したいな」
 ぽつり囁けば、今度はバジルも何も言わなかった。
 故郷を遠く離れ、幼い日々を過ごした街の記憶は徐々に薄れようとしている。けれど桜が日本の原風景だというのならば、瞼の裏に焼きついた花吹雪はきっと一生消えることは無いだろう。
 こんな異郷の地で似た光景を目に出来るとは思わなかった。
 感慨深げに呟き、足を止めた綱吉に気付いて先を行くバジルも振り返る。
 薄紅の嵐の中に佇む彼は、今にも消えてしまいそうなくらいに儚い。木漏れ日を浴びて柔らかな髪を揺らすその姿に、バジルは一瞬だけ息を飲み、それから彼が間違ってもこのまま風に浚われて消えてしまう存在ではないと首を振った。
 彼は強い。強いから、今もこうして此処に在る。
「沢田殿」
「うん?」
 呼びかければ直ぐに現実が戻って来て、綱吉は零れ落ちそうな大粒の瞳を瞬き、バジルを正面に見た。
 降り注ぐ花弁に手を添え、握り締める。木々の隙間を縫って、灰色の岩肌を抱く火山が遠くに聳えていた。
「アーモンドの花言葉は、ご存知ですか」
 拳を裏返し、掌を下にして開く。捕まえた時の姿のまま、アーモンドの花びらはひらひらと蝶の羽根の如く左右に頼りなく揺れて消えていった。
 バジルの問いかけに綱吉は眉目を顰め、唇を軽く突き出し考え込む仕草を見せた。どことなく拗ねた感じもする表情は、中学生当初から幾許か伸びはしたものの、平均レベルには遠く及ばない身長も手伝って、かなり幼い印象を見る側に与えた。
 感情を隠しもせず、公に晒す。頭の中身と表情とが直結しており、人を騙すには凡そ不向きな性格はマイナスになる面も多い。けれど、彼にはそれを補って余りあるほどの人望と、意思の強さがあった。
 決して揺るがない信念、誰も傷つけたくないという想い。彼は誰よりも優しいから、誰よりも深く傷つくことも多いけれど、彼を支える多くの人々がいる限り、彼が折れることは絶対にない。
 願わくはその柱の中に、自分の名前があればいいと思う。
 瞳を伏したバジルの前では依然綱吉が考え込み、十数秒の間を置いてお手上げだと首を振った。降参、と両手を挙げて万歳のポーズをとった彼にまた笑い、バジルは風に煽られた髪の毛を指で梳いた。
「沢田殿そのものですよ」
「俺?」
「はい」
 彼の返事に、綱吉は自分を指差して目を丸くした。
 予想が外れた顔をして、頻りに首を捻ってまた考え込んでいる。バジルの説明はあまりに抽象的過ぎて、核心は遠く遥か。どうやら綱吉は想像にも及ばないらしい。
「まさか、馬鹿とかって意味じゃ」
 挙句、昨今は随分と形を潜めていた卑屈な精神が息を吹き返したようで、顔を青褪めさせた彼は想定外の結論を導き出し、バジルを驚かせた。
「違いますよ」
「じゃあ、何さ」
 その返答こそ、バジルの想像し得ないもの。呆れた様子で肩を落とした彼が真正面から否定するのを受け、綱吉は教えてくれてもいいだろうに、と悔しげに歯軋りをして拳を上下に振った。
 沸き起こった風に下から頬を嬲られ、バジルが目を細める。
「そうですねえ」
 遠く、車のクラクションが耳に届くか届かないかの音量で響き、言いかけたバジルは顔を顰めて音の発生源を探し、視線を巡らせた。
 綱吉も気付き、向かって右斜め後方を振り返る。
「ああ、いけません。時間が」
「嘘、もう?」
 プー、プー、と何かに合図を送っているのか、間を置かずに響くクラクションにハッとしたバジルが、大急ぎでジャケットの袖を捲くり、左腕に巻いた時計を見た。そして綺麗な顔をにわかに顰め、しまった、と舌打ちと共に焦りを含んだ声で言う。
 今日はこれから大事な会合が控えていて、けれど予定していたよりもずっと早く目的地に着けそうだったので、ついつい寄り道を許してしまった。こんなことで遅刻をして、取引を棒に振るわけにはいかない。
 折角のアーモンドの花見はこれでお開きとするしかない、まだ全然見足りないけれど。
 名残惜しいが、生きてさえいれば、また満開の花を見上げる事も出来よう。
 クラクションの音は止んで、静寂が舞い落ちる。目の前で軽やかなステップを刻んだ花弁に目尻を下げた綱吉は、どうするか伺いを立てる目で自分を見詰めるバジルににっこりと微笑んだ。
「行こうか」
「はい」
 逃げ出したりはしない、そう瞳が告げている。
 心の裏側に隠された綱吉の本音を読み解き、バジルは迷う事無く頷いて文字盤を指で弾き、腕を下ろした。
 この人は強い。だからこそアーモンドの花言葉のように、すべての人を遍く照らせるのだ。
「お供します」
 たとえ何が起ころうと、何が待っていようと。
 彼の傍で、彼が拒んだとしても、彼を守る盾として。
 失わせたりはしない、この命の灯火は。
 絶対に。
「いつか、日本で本当の桜も見に行きたいですね」
「そうだね。みんなも一緒に、並盛の公園で、またあの時みたいに」
 獄寺が居て、山本が居て、了平がいて、雲雀がいて。ランボ、イーピンに、フゥ太、ビアンキやシャマルも勿論。奈々、家光、骸と髑髏に、犬や千種。
 忘れてはいけないリボーンに、コロネロやヴァリアーのみんな。たくさん、沢山の仲間たち。
 バジルだって。
「大騒ぎになりますよ」
「それも楽しいよ」
 指折り数え、次々に名前を挙げていく綱吉に肩を竦め、バジルが想像して苦笑する。
 近所から苦情がひっきりなしに来そうだ、雲と霧はきっと花見など無関係に喧嘩を始めるだろうし、ヴァリアーが大人しく花見に興じるとは考え難い。ビアンキの毒料理で救急車は欠かせない筈だし、医者は役に立たないし、子供たちは一頃よりは成長したとはいえ、まだまだ遊びたい盛りだ。
 綱吉も情景を頭に思い描き、騒々しかった当時を思い出して小さく噴出す。途中からは堪えきれず、歩きながら腹を抱えて笑い始め、バジルはきょとんとしてから久方ぶりに声を出して笑っている綱吉に安堵の表情を浮かべた。
「料理が追いつかない気もします」
「お酒も、準備してもし足りないだろうなー」
 年輪を重ね、皆大人になった。飲酒解禁、ヴァリアーの数人は特に酒豪だ。山本も負けていない、家光も半端じゃないくらいに飲む。
 酔っ払いの集団の完成図を予想し、それはちょっと遠慮願いたいかもしれないと綱吉は呻いた。アルコールを受け付けない体質の彼は、必然的に飲んで酔った面々の世話を押し付けられる。ボンゴレ十代目に看病をさせるなんてとんでもない、と知らない人は言うかもしれないが、あの濃い人員の中では綱吉は極端なまでの苦労人だ。
 アーモンドの花の香りを心行くまで吸い込んで、空想するだけで疲れてしまった身体を慰める。肩を交互に回して解しているうちに、薄紅色の樹林は終わりを迎え、敷地を囲む木製の柵が見えた。
 道路に接する門の手前で黒塗りの車が停車し、運転席の傍で厳しい体格の男が、手持ち無沙汰気味に車体に寄りかかって空を見上げている。
「遅くなってしまいましたね」
「うん。急がないと」
 余裕はすっかりなくなってしまった。相手方を待たせるのは失礼であり、残り時間を気にしてバジルが袖を捲ると、綱吉が横から覗き込んで来た。
 色素の薄いバジルの髪が、それよりは幾許か濃い綱吉の髪に混じり、不可思議な彩を作り出す。
「沢田殿」
 微かに甘い香りが鼻腔を伝って、バジルは目の前を音もなく流れていった綱吉の気配に息を止めた。無意識に右手を伸ばし、離れ行こうとする彼の手首を捕まえる。
 駆け出そうとしていたところを後ろから引っ張られ、綱吉は怪訝な表情で振り返った。
「バジル君?」
「あ、いえ……なんでもありません。急ぎましょう」
 今引きとめたのは間違いなく自分なのに、バジルは瞳を泳がせて綱吉から顔を逸らし、取り繕うように言った。
 指の力を抜き、彼を放す。けれど綱吉は動かず、バジルが促しても足を踏み出さない。
 運転手が気付いて手を振るのが見えて、気まずい空気の中バジルは相手に会釈だけを返して綱吉に向き直った。
「沢田殿」
「また来よう」
「はい、皆さんと一緒に」
「ちがうよ」
 桜の花見は皆とやりたい、けれどアーモンドの花見は。
 来年も。
「……期待してしまいますよ」
「いいよ、してて」
 約束。そう言って笑い、綱吉は小指を差し出した。
 バジルも迷う事無く左の手を持ち上げる。
 アーモンドの花の中、契った約束はキラキラと輝いて、静かに消えた。

2008/02/27 脱稿