寒天

 目が覚めた時、窓は真っ白だった。
 とはいえ、雪が降り積もったわけではない。単に家の内外で温度差が激しく、結露を起こしていただけだ。
 天気予報では夜半の冷え込み厳しく、雪がちらつく可能性を示唆していたが、読みは外れたらしい。山間部は分からないものの、少なくとも自分が暮らす住宅地に白雪の恵みは齎されなかった。
「さっむ」
 寝起きでぼやけていた頭も、布団を出た瞬間に肌を刺す冷気で即座にしゃんと引き締まる。体の中心部で沈殿していた血液が、あまりの寒さに驚いた心臓から慌てて吐き出される感覚に打ち震え、綱吉は両腕で身体を抱き締めると素足を床へ下ろした。
 絨毯まで冷えていて、指の隙間に潜り込んだ起毛に背筋が凍る。ひぃ、という情けない悲鳴が前歯の隙間から溢れて、竦みあがった彼は大慌てで空調のスイッチを入れた。
 暖房の設定温度を心持ち高めに設定し、唸り声をあげて動き出した天井間際の電気製品にホッと胸を撫で下ろす。じきに暖かな風が綱吉の顔を撫で、漸く生きた心地を取り戻した彼は、白く靄の掛かった窓に目を向けて首を傾けた。
 分厚い雲が空一面を覆い、太陽を完全に隠してしまっている。陽射しは望むべくもなく、二階から見渡す限り、町並みもどことなく灰色に沈んで頭が重そうだ。
 雨を運ぶ雲とは違い、色は薄い。冷たい窓ガラスに額を押し付けて地表を見下ろせば、その手前にあるベランダの手摺りに大粒の雫が幾つも連なって俯いていた。アスファルトは濡れて色を濃くし、向かいの家の軒先にも水滴が垂れている。
 ならば、今上空にあるのは雪になり損ねた雨を降らせた後の雲か。再び上空に視線を転じて横倒しにしていた首を真っ直ぐに戻した彼は、形に変化がなく白色一辺倒の雲が、流れているのか、停滞しているのかも分からなくて溜息に似た吐息を零した。
 ガラスが一瞬だけ曇り、綱吉の手になぞられて線が走った。
「あ、やば」
 ぼうっとしていたら時間の経過を忘れていた。
 今頃目覚まし時計が鳴り響き、予定よりも早く勝手に目が覚めていた自分を思い出して綱吉は部屋の中央に向き直った。
 室内は暖房のお陰ですっかり温くなっている。枕元で喧しいベルを止めて急いでパジャマを脱ぎ捨て、昨晩のうちに用意しておいた制服に袖を通す。暖かくなっているとはいえ、流石にそれまで着ていた服を脱ぎ捨てた瞬間だけはひんやりした感覚が襲い、鳥肌が立った。
 大急ぎで着替えを終えた彼は、丸めてひとつにしたパジャマの塊を右脇腹に抱えて暖房のスイッチを切った。部屋のドアを開ける間際に見上げたハンモックでは、相も変わらず針山のような黒髪の赤ん坊が、すやすやと気持ち良さそうに鼻ちょうちんを膨らませていた。
「いいよな、リボーンは」
 学校に行かなくても良いし、勉強もしないで好きなだけ眠っていられるのだから。肩を竦め、学生は辛いと自嘲気味に呟いて綱吉は廊下に出る。後ろ手にドアを閉めて階下へ向かい、台所を覗き込んで奈々に「おはよう」とだけ声をかけた。
「あら、今日は早いのね」
「そう、でもないと思う」
 いつもこの時期は、寒いからとなかなか布団から出たがらないのに、珍しい。包丁片手に微笑んだ奈々に曖昧に言い返し、綱吉は持ち上げていた暖簾を下ろして洗面所へ向かった。
 蛇口を捻って出てくる水は冷たく、ぞんざいに顔を洗ってから嗽をして髪の毛も少しだけ濡らす。櫛を通しても無駄なのは分かっているのだが、ドライヤーも片手に鏡の前で悪戦苦闘してから再び台所に戻れば、丁度トースターが甲高い音を立てて焦げ色も鮮やかな食パンを吐き出すところだった。
「早く食べちゃってね」
「ツナー、雪はー?」
 奈々が綱吉用の椅子を引いてくれるのを受け、今日は座って食事が出来るのを嬉しく思い腰を落とす。すると早速、左斜め前の椅子に座ってイチゴジャムで顔をべちゃべちゃにしたランボが、子供特有の甘ったるい舌足らずな声で話しかけてきた。
「雪?」
「降るって言った」
「ああ」
 握り締めたフォークの柄でドンドンとテーブルを叩く幼子に、綱吉はちょっとだけ考え込んでから手を叩いた。
 自分も食事を始めないと時間的に危ないと焦げ目が鮮やかなトーストを手に取り、ジャムを端に少し載せて齧りつく。
 確かに昨日、ランボと一緒に見ていたテレビ番組の合間にあった天気予報のキャスターが、夜間の降雪の可能性を口にしていた。けれどそれはあくまでも可能性であって、確定された情報ではない。
 五歳児はその違いが分からず、雪が降るものだと勝手に思い込んでしまっているらしい。
「夜のうちに降って、溶けちゃったんだよ」
 とはいえ、そんな面白みのない事実を教えてやっても、彼は納得しないだろうし、理解も出来ないだろう。だから綱吉は言葉を選び、子供の夢を壊さないよう気を配りながら、唇にこびり付いたパンくずを親指で摘み取った。
 それでもランボは、両手両足を行儀悪くじたばた暴れさせ、最後には中身を残していたホットミルクのマグカップを倒してしまった。
 乳白色の液体が途端にテーブルを汚し、端に伝った雫が糸を引いて床にまで溢れ返る。
「ああ、もう」
 綱吉は頭を抱え、隣に居たイーピンも袖に一部が掛かったらしく、早口でなにかをまくし立てている。つるんとした卵型の顔のパーツが中央に寄り集まり、渋い表情を作っているので、怒っているのは間違いない。
 それでもどこか愛嬌を感じられるのは、彼女もまたランボ同様に幼いからだろう。綱吉は何処となく微笑ましい気持ちに至りつつ、急ぎ立ち上がって雑巾を取りに洗面所へ向かった。
 使い古したタオルを再利用した雑巾を持って戻って来ると、ランボは半泣き状態でイーピンに頭を叩かれている。奈々が困った様子で綱吉から雑巾を受け取り、白い水溜りを形成している牛乳を吸い取るべく床に膝をついた。
 席を外している数秒間で何があったかは分からないが、想像はつく。いつも通り、ランボはとことん彼女に頭が上がらない。
「ツッ君、そろそろ出ないと」
「やば、本当だ」
 今日はのんびり出来ると思っていたら、のんびりし過ぎてしまった。奈々に言われて顔を上げ、壁に吊るされた時計の示す現在時刻を読み取って綱吉は慌てた。
 もうそろそろ出かける準備をしなければ、折角目覚ましより早く起きたのに意味がない。大急ぎで立ったままトーストの残りを噛み千切り、一緒にトマトを飲み込んで牛乳で口を漱ぎ、足音を響かせて廊下へ飛び出す。
 背中ではランボの「雪」と駄々を捏ねる声がまた聞こえてきたが、幾ら綱吉でも自然現象相手ではどうにもしてやれない。苦笑を禁じえず、手早く歯磨きを済ませた綱吉は階段を駆け上って自室のドアを引いた。
 部屋はまだ先ほどの暖房効果が僅かに残っているのか暖かく、リボーンも自然と目を覚ましたようでレオンを片手に身支度を整えているところだった。
「ノックくらいしろ」
 生意気なことを言われ、綱吉は自分の部屋を勝手に使っているのはそっちだろう、と口には出せない文句を喉元で飲み込んだ。
 ハンガーに吊るしていたベージュ色のジャケットを引っぺがし、机の前面に貼り付けた時間割を素早く確認する。椅子の上に立てた鞄を開けて中に入っている教科書と照らし合わせ、昨日やった課題のプリントを忘れずに折り畳んで間に捻じ込んだ。
 準備はものの五分もあれば充分で、着替えを終えたリボーンに「行って来ます」の一言を投げた彼は、入って来た時同様に慌しく足音を響かせて階段を駆け下りていった。
 玄関前で奈々から弁当の包みを受け取り、それを鞄の隙間に押し込んでファスナーを閉める。ジャケットに袖を通してからマフラーと手袋を装着し、踵が潰れかけている靴を履いて、準備は完了。重たいドアを開けると、寒波吹き荒ぶ冬の朝が彼を歓迎した。
「ひぃぃぃ」
 寒い。
 咄嗟に両手を引いてドアを閉めてしまいたくなったが、振り向けば鬼のような家庭教師が一段ずつ階段を下りてくるところで、自然視線が合って綱吉は急ぎ顔を逸らした。
「い、行って来ます」
 寒いので学校を休みます、なんて理由が許される筈もない。綱吉はリボーンの鉄槌を食らうのと、冷たい風が頬を撫でる外を駆けるのと、どちらが良いだろうかと天秤に架けて即座に後者を選び取った。
 風の冷たさは我慢出来る、それに学校目指して走っているうちに体も温まるに違いない。
 そう自分を勇気付け、彼はドアを押し開けて外へ飛び出した。途端に肌を刺す冷気に竦み上がるが、ジッとしていると余計に風を感じてしまい、綱吉は鞄を抱きかかえると急いで濡れた道路へと足を運んだ。
 起きた時点では割に余裕があったのに、気づけばいつも通りの出発時間。走らなければ遅刻してしまう、と綱吉は白い息を吐いて曇り空の下でアスファルトの大地を蹴り飛ばした。
 学校の門を滑り込んだときにはもう息も絶え絶えで、このまま酸欠で死んでしまいそうなくらいに呼吸も荒くなっていた。ぜいぜいと肩を大きく上下させ、額に浮いた汗を手袋の上から拭い取る。マフラーの起毛が首に張り付いてちくちくと痛み、気持ち悪さもあって彼は上履きに履き替える直前に青色のそれを解いた。
 鞄に引っ掛け、教室へ急ぐ。振り回すと弁当箱と一緒に入れている箸が揺すられて音を立て、実に騒々しい。そのあまりのけたたましさに辟易しつつ、階段を二段飛ばしで駆け上った彼は、前ばかりを見ていた所為で外したマフラーを落としたのにも気付かなかった。
 手で持つには荷物の邪魔、首に架けるのは嫌。だからと鞄に巻きつけるようにして引っ掛けていたのだが、飛び跳ねているうちに結びが緩み、結果的に解けてしまったらしい。
 教室の後ろのドアを開けたと同時に始業のチャイムが鳴り響き、直後に先生が前のドアから入ってくる。立っていたのは綱吉だけで、早く席に着くよう鋭い視線だけで命じられた彼は、窓際にある自席の椅子を引いたところでマフラーが無い事に気付いたが、探しに戻るのはさっさと授業を始めてしまった先生の手前、不可能だった。
 しまった、と顔を顰めるが後の祭り。誰かが拾って、落し物として職員室に届けてくれているのを祈るしかない。
「結構気に入ってたのにな」
 見付からなかったら悲しい。色合いが好きで気に入って、少ない小遣いを出して買ったものだけに、もっと気をつけておけばよかったと後悔が募る。けれど授業は淡々と進められ、綱吉は心臓の拍動が落ち着くにつれて戻って来る寒気にくしゃみをし、鞄からテキストを取り出して机に並べた。
 窓の外は依然として曇り空。太陽は遠く、今何処にあるのかもまるで見えない。
 時折強く風が吹いているようで、校庭の木々が大きく枝を撓らせて波打っていた。
 見るからに寒そうな景色に、隙間風を感じて綱吉はもうひとつくしゃみをした。
「沢田、くしゃみもいいが授業も聞けよ」
 腕をさすって摩擦熱を呼んで縮こまっていると、目敏い教師に見つかって怒られる。静まり返っていた教室全体に笑い声が起きて、綱吉は顔を赤くして鼻の下を指で擦った。
 やたらと長く感じた一時間目の授業が終わると、綱吉は居ても立っても居られなくて教室を抜け出し、賑わう廊下を抜けて職員室に顔を出した。
 普段は自分から絶対に足を向けたくない場所のひとつなのだが、背に腹は変えられない。青いマフラーの落し物が届けられていないかを、近場に居た顔しか知らない先生に訊ねてみたが、先ほど戻って来たばかりの彼は綱吉の問いに、分からないと首を横へ振った。
 一時間目を職員室で過ごした別の先生を捕まえて質問しても、答えは同じ。誰も訪ねて来ていないし、落し物も一切届いていない、とのこと。
 素っ気無い回答に綱吉は脱力頻りで、その落胆振りを流石に可哀想と思ったのだろう、届けられたら連絡してくれると先生は約束してくれた。だから綱吉はマフラーの特徴と自分の名前、クラスをメモ紙に書き記し、後を託して職員室を出た。
 なんだか今日は、調子が良いようで、ついていない。
「あーああ」
 階段を登る最中に盛大なため息が漏れて、ついつい足も止めてしまった綱吉は、右手を手摺りに寄りかからせたまま項垂れた。
 巧く行っているフリをして、そうではない現実に眩暈がする。早起きしても遅刻寸前だし、ランボには変に責められるし、くしゃみをしたのだってわざとではないのに集中していないと先生には怒られるし、挙句落としたマフラーは行方不明。
 職員室へ向かう道中、教室へ駆け上った時と逆のルートを使ってみたのだが、探し物は見付からなかった。一応正面玄関の周囲も回ってみたのだが、何処にもそれらしきものは落ちていない。
 既に誰かが拾った後なのだろう、そして職員室へも届けてくれていない。
 なんて心の狭い奴に拾われてしまったのか、己の不運さを嘆き、綱吉は力なく首を振った。
 額に手を置き、僅かに湿っている前髪を掻き上げる。同時に首を上向けて灰色の天井を見上げ、残る階段の段数を数えながら綱吉は半眼した。
 二時間目の授業は間もなく始まってしまう、休み時間などあっという間だ。
 けれど教室に戻る気になれなくて、動き出した彼の足は七段目を踏みしめたところで再び止まった。薄汚れた上履きの底で滑り止めの溝を擦り、手抜き掃除の所為で残されている砂粒の細かな感触を受け止める。
 溜息がもうひとつ落ちて、風が埃を吹き飛ばした。
「ちぇ」
 どうせなら良い事のひとつやふたつ、落ちていないだろうか。
 残り少なくなった階段の先では、移動教室に向かう別クラスの生徒が数人のグループで歩いていた。
 次は確か英語だったよな、だるいよな、予習やってないから当てられたらどうしよう、また笑われるのかな。色々な事をいっぺんに思い浮かべ、どれを思っても憂鬱な気分にしかならない想像力に肩を落とした綱吉は、行きたくないという意思表示で鉛よりも重くなった両足に頭を掻いた。
 こんなことをしている間にも、どんどん時間は過ぎていく。先の授業の教科書やノートも広げたままで出てきたから、片付けもしなければならないのに、自分からその準備期間を放棄して、綱吉は階段半ばで佇み続けた。
 手摺りを握り締めた指先が、そろそろ冷えて固まって感覚を失おうとしている。痺れを発しているその手を緩慢に見下ろし、再度頭上を仰ぎ、どうしたものか、と本調子が出ない自分に嫌気が差して綱吉はのろのろと右足を持ち上げた。
 無理矢理金属製の手摺りから手を引き剥がし、一段上に登るべく姿勢を前に傾ける。
 むき出しになった項に、冷たいものが落ちた。
「ひぇうふゃえぉうわっ!」
 この世のものとは思えぬ声が即座に綱吉の口から突き抜けて、飛び上がらんばかりに驚いた彼は、首の後ろを撫でた氷よりも冷たいものを思い切り跳ね除けた。
 右足を掲げるという非常に危うい姿勢のまま、しかも身体を支える為の手摺りも手放してしまっている。反射的に腰を捻って肘打ちの要領で身体を半回転させた彼は、二段低い位置に居る青年の姿にまず驚き、彼が弾かれた左手を顔よりも高い位置に投げて綱吉以上に驚いた顔をしているのに、二度仰天した。
 三度目の驚愕は、ぐらりとバランスを取り損ねた右足が前後にぶれ、左足が滑り止めなど無意味だと嘲笑いながら靴底を滑らせたこと。足首がカクリと左に折れて、一気に体が沈んだ。
「っ!」
 右手が咄嗟に前に伸びるが、中指の爪が冷たい銀を掠っただけで届かない。広げた指は虚空を掴み、重力に引っ張られた綱吉の身体は呆気ないほど簡単に宙を舞った。
「――!」
 悲鳴を飲み込み、綱吉が襲い来るはずの衝撃を覚悟してぎゅっと目を瞑る。
 直後にドスン、と硬いものに弾かれて前に跳ね返されそうになった身体を引っ張られた。背中が再び触れたものへ今度は吸い込まれ、階段の角に引っかかっていた右足が落ちた。爪先がコンクリート製のそれに触れ、半身が垂直に沈み込む。
「っつ……」
 耳の後ろから低い呻きが聞こえ、首筋に熱っぽい風が触れた。産毛を擽られる感触に身動ぎし、綱吉は半端なバランスの上で辛うじて立っている自分の身体を怖々見下ろして、肩幅に広げた脚の間に何かがつっかえている様に目を見開いた。
 琥珀色の瞳が喫驚に彩られ、頬にカーッと熱が走った。
「ひぁ!」
「くっ」
 飛び退こうとするが、足元不如意で巧くいかない。それどころかより深く脚を差し入れられる結果となり、他人の太股を跨ぐ体勢に綱吉は赤い顔を振った。
 頭上で呑気なチャイムが、二時間目の始業を告げる。
「危ない、から」
 暴れるな。
 胸を抱く腕がより強く綱吉の身体に巻きつけられ、関節の伸びきった彼の右腕が手摺りの上を僅かに滑る。綱吉以上に姿勢を斜めに傾けている雲雀の声に我に返り、綱吉はひくっと喉を鳴らして、一歩間違えればふたりして踊り場へ真っ逆さまの現状に息を呑んだ。
 ずるっと音もなく雲雀の右手がまた手摺りを掴んだまま滑って、ふたり分の体重を支えるのに限界があるのを知らせる。雲雀の右足が何処にあるのかと落とした視線で探せば、一段下に爪先立ちになって震えているのが体に隠れて半分だけ見えた。
「ご、ごめっ」
「いいから、退く」
「はいぃ!」
 ごめんなさいと口走ろうとしたが、途中で舌が引っかかってしまった。狼狽する綱吉の顔に雲雀は表情を歪め、そろそろ本格的にバランスを保つのが危うくなっていることを無言のうちに教えた。
 意地悪をしたわけではなかろうが、綱吉の太股に挟まれている左足を大きく揺らす。際どい部分を掠めた彼の脚に心臓が鳴り、綱吉は赤い顔を俯かせてそそくさと彼の腕から脱出した。
 ひとりで立ち上がると、何故かふらつく。眩暈に綱吉は頭を抱え、腰から手摺りにぶつかっていった。今度は落ちないよう気をつけるが、雲雀は一瞬ひやりとしたようで、見開かれた漆黒の瞳が揺らいだのが分かった。
「……まったく」
 何をやっているのだと呆れ口調で言われ、拍動を五月蝿くしている心臓を撫でた綱吉は、途端にムッと頬を膨らませた。
 最初に原因を作ったのは、雲雀ではないか。確かに階段途中でぼんやりしていたのは認めるが、いきなり冷たい手で首を撫でられたら、誰だって驚く。
 一方的に怒られる謂れは無いと声を大にして言えば、ではどうすればよかったのかと逆に聞き返されて綱吉は言葉を詰まらせた。
 声をかけるにしても、肩を叩かれるにしても、油断しきっていた背後からやられたら驚くのはどれも同じ。多少の度合いはあれど、まさか上に回りこんで正面向き合ってから声をかけろともいえなくて、綱吉は悔しげに唇を噛んだ。
 その子供じみた反抗的態度に、雲雀は肩を竦めて赤くなった右手の平をズボンに押し当てた。
「……あれ?」
 黒の学生服に、臙脂色の腕章。袖が通されていないのでぶらぶらと当て所なく揺れるばかりのその下。一時は綱吉の細腰を抱きかかえていた彼の左腕に見覚えのある青色の物体を見出し、綱吉はなんだっただろうかと眉間に皺を寄せた。
 綱吉が見ているのと同じものに視線を落とした雲雀が、手首へ二重に絡みつかせているマフラーの端を揺らした。
 少し埃を被って薄汚れているものの、色合いといい、形といい、綱吉が探していたマフラーに酷似している。
 殆ど同じ、と言って良い。
「授業」
「それ」
「始まってるよ」
「俺の」
 会話がかみ合わない。
 お互いに言いたいことを同時に口に出したため、相手の声を聞きそびれた。
 重なり合った自分たちの台詞に、己の声が分からなくなる。間でぶつかり合った吐息はそこで砕け、両者の前髪を微かに膨らませて散っていった。
 チャイムの余韻が、耳の奥にこだまする。
「授業、いいの?」
「よかないです、よ」
 平坦な発音で問われ、綱吉は下唇を尖らせて目線を上向ける。並んでいた顔の高さは、彼が一段上に登ることで呆気なくバランスが崩された。それは年齢差もあるし、個体差もあるのだから仕方がないこととはいえ、未だ中学二年生男子の平均に遠く至らない自分の身長を、どうしても恨めしく思ってしまう。
 不満げに顔を歪めた綱吉に、雲雀は左手を掲げて白いシャツの袖に絡みつく青い蛇を解いた。
 抵抗もせずに素直に応じた布の蛇は、慌てて綱吉が差し出した両手の中にするすると吸い込まれていく。先端に掌を擽られたかと思えば、本当に蛇がとぐろを巻くみたいに立体から平面へ形を変えた。
 重さはさほどでないけれど、綱吉の肩が少しだけ前に傾いた。
「君の?」
「ですよ」
 雲雀の手から完全に解放されるのを待って、両手で抱き締めて横に広げる。だらんと真ん中が垂れ下がった幅二十センチ程度の布は、小さな糸くずが表面に何個か絡まり、砂粒が布目にもぐりこんでいるものの、概ね綺麗で傷もなかった。
 それにしても、何故彼がこれを持っていたのか。拾ったにしても、ならば何故届けてくれなかったのだろう。
 疑念の目でマフラーの埃を払いつつ彼を見据えると、雲雀は腰に手を当てて階下を向いている。視線は絡まず、何を見ているのだろうかと気になって階段から僅かに身を乗り出すと、耳を打った第三者の足音に彼はひくりと喉を鳴らした。
「授業……あー、もういいか」
 面倒だし。
 投げやりな気持ちで呟き、綱吉は青色のマフラーを指で捏ねると斜めに引き伸ばし、自分の首に巻きつけた。
 間違っても、学内を取り仕切る風紀委員長の前で口に出すべき台詞ではない。分かっているのだが思ったことがストレートに出てしまって、自分の失言に綱吉は舌を出し、じろりと睨んだ雲雀の前で首を竦めた。
「良い度胸してるね」
「ヒバリさんほどじゃないですよ」
 謙遜するつもりではなく、ただの嫌味だ。しかし雲雀は綱吉の切り返しが気に入ったようで、険しかった表情を一瞬で緩めて癖だらけの彼の頭を小突くだけで終わらせた。
 見逃して貰えるようだ。けれど、どうせならついでに匿って欲しい。
 誰かの足音はひとつ下の三年生の階で止まり、遠くなっていった。手摺りから階下を窺い見た綱吉は、登ってくる人の影が無いのに安堵して直ぐに端を垂れ下げるマフラーを後ろへ跳ね返す。
 バランスが悪いのか、また直ぐに胸元に垂れ落ちてきた。
 しつこくもう一度挑戦するが、結果は同じ。落とした時に短くなったのではなかろうか、などと在り得ないことを脳裏に思い浮かべ、綱吉は傍らの雲雀を見た。
「なに」
「ていうか。なんでヒバリさんが俺のマフラー持ってたんですか」
「落ちてたよ」
「落としたんです」
 最後の悪足掻きで、喉元で交差させたマフラー両端を左右に押し流す。もう戻って来るな、とその布が交錯する場所を握り締めると、握った分の布だけ短くなって、マフラーは今度こそだらりと腰元まで垂れ下がった。
 何をやっているのか、と不毛な行動を繰り返している綱吉を見て雲雀が肩を竦める。
「ヒバリさんが拾って?」
「僕じゃないけどね。届いたから」
 別の風紀委員が見つけてくれたらしい。だが彼は何故か職員室へ届けるのではなく、委員長の雲雀に拾遺物として預けていった。
 雲雀はその見覚えがあるマフラーを渡されて、綱吉を真っ先に思い浮かべた。けれどもう既に授業が始まっている時間の為、後で確認しようとして、休憩時間を待ち二年生の教室を覗いたところ、その綱吉が居ない。
 山本から、終礼と同時に飛び出していったと教えられ、職員室を訪ねたらまたしても綱吉は立ち去った後。
 つまるところ、入れ違いの連続。なんてタイミングの悪い。
「君がじっとしていないから」
「俺の所為なんですか?」
 もう少し落ち着きを持てと言われ、綱吉は膨れっ面でそれはなんだか違う気がすると言い返した。
 上目遣いに睨まれても、迫力を感じない。むしろ可愛らしく思えて、雲雀は綱吉の前髪を指の背でそっと掬い上げると、むき出しになったおでこを撫でて小ぶりの鼻を小突いた。
 反動を利用して引き戻されようとした彼の腕は、しかし指で空を掻き、綱吉の胸元へ戻った。肌触りも柔らかな青色を抓み、持ち上げる。
「でも、君のところには戻って来ただろう?」
 遠回りはしたけれど、ちゃんと本来の持ち主のところへと。
 サラサラと爪の先を滑る布を掌で受け止め、下から支えた彼が広げた布地に顔を寄せる。そっと口付けられて、綱吉は咄嗟に動けなくて顔を赤くした。
 目の前を流れた彼の黒髪が、天井から落ちる鈍い蛍光灯の光を受けて淡く輝いている。何故だか直接キスされるより恥かしい気がして、綱吉は瞳を泳がせると反り返った指をぎゅっと握り締めた。
「ひ、ばり、さん」
「君も」
 マフラーを握る位置を上にずらし、距離を狭めた雲雀が囁く。無意識に目は彼の唇を追いかけてしまって、綱吉は居心地悪そうに踵を後ろへ滑らせた。
 だが十センチも行かぬうちに階段を仕切る手摺りに腰が当たり、それ以上向こうへは進めない。
「ヒバリさん」
 たどたどしく名前を呼べば、先に瞼を伏してしまった彼に続けようとした言葉を飲み込まれる。柔らかくも暖かな感触に綱吉は琥珀色の瞳を一瞬だけ大きく見開き、僅かに遅れてゆっくりと閉ざした。
 おずおず腕を持ち上げ、雲雀の肘に触れる。手の甲に腕章の角が擦れて、薄手のシャツの皺が深くなった。
「ン……」
 鼻呼吸をすれば甘える声が一緒に漏れて、恥かしい。遠くリコーダーの合奏が聞こえて来て、授業時間中の廊下の静かさに背筋が震えた。
 細く糸を引いた舌先が彼の咥内に引き戻される様まで間近で見てしまって、綱吉は言葉を紡げなくて俯きながら自由になったマフラーを頻りに弄った。胸元で交差させたり、緩く結んでは解いたりと、非常に落ち着きがない。
「来る?」
 そんな綱吉の右手を取って、暖かい肌の感触を楽しんだ彼が囁く。上を向けばすぐ其処に彼の顔があって、綱吉はどきりと心臓を跳ね上げて返事に窮し、背中を手摺りに押し当てた。
 首に引っ掛けていただけのマフラーも引っ張られる。
 反射的に残る片側を捕まえて抵抗すれば、雲雀は面白い遊びを見つけたと言わんばかりに力を入れ直して来て、綱吉の上半身はバランスを崩されて前に傾いだ。左足をつっかえ棒代わりに前に出して踏ん張るが、勢いつけていた頭は雲雀の胸にぶつかって彼の羽織る学生服を波立たせた。
 背中に回された腕にがっちり固定されては、逃げ出そうにも、もう無理。
「行かない、て言ったらどうするんですか?」
「言わないだろう?」
 逃げ道を塞いだ状態で問う彼の意地悪さに反発してやれば、綱吉の底の浅い考えなどお見通しだと雲雀が瞳を眇めて笑う。その不遜具合が悔しくて、綱吉は通用しないと知りながら彼を睨みつけた。
「どーせっ」
 確かに授業が終わるまで匿って欲しいと頼んだのは綱吉で、彼の誘いは願ったり叶ったり。
 けれど素直に頷くのは癪だから、彼は踵を浮かせて壁を押すと、捕まえた彼の腕に爪を立てて背筋を伸ばした。
 直前で目を閉じた所為で狙いがずれたキスが、彼の右口端を掠めて行過ぎる。
「下手」
「ほっといてください!」
 素っ気無くさらりと断言され、余計に恥かしくて綱吉は地団太を踏んだ。雲雀が、手にしたままだった綱吉のマフラーをその喧しい口に押し当てて塞ぐ。
 それでもまだジト目で睨んでいたら、呆れ果てた雲雀は肩を竦めると同時に階段をひとりで下り始めた。
「あ、待って」
 唇で咥えていたマフラーを外し、すたすた進んでいく彼の背中を追いかける。
「早く来ないと、鍵、閉めるよ」
「だからー、待ってくださいってば」
 冬場の学校、廊下は冷えていてマフラーをしていても寒気がする。陽射しも望めないような天気の日に、一時間も外にいたらきっと凍えてしまう。
 頼りにしていた応接室を締め出されるのは、遠慮願いたい。早足で雲雀を追って、綱吉は残る階段を飛び降りた。
 青いマフラーが弾みで浮き上がり、ふわりと風に攫われる。
 空を覆う雲からは、ひらひらと花びらに似たものが静かに舞い降り始めていた。

2008/02/15 脱稿