陽和

 昼と夜の寒暖差が一層激しくなった。街路樹は色付き、落ち葉が溝に溜まって水はけが悪くなるからと先日掃除をしたばかりなのに、もう排水溝が枯葉で埋まってしまっている。
 これで雨でも降れば益々寒くなるのだろうと思っていたら案の定で、少し前まで暖かかったからと油断していた身体が受けたダメージは思いの外大きかった。
「三十八度二分。風邪だね」
 ピッピッ、という電子音の末に渡された体温計の数字を読み取り、綱吉は目の前の布団に横たわる人物にそう告げた。
 途端枕に重そうな頭を押し付けていた彼は若干赤い顔を綱吉に向け、申し訳なさそうな顔をして静かに目を閉じた。
「すみません……」
 辛うじて開いた唇が弱々しい囁きを零し、持ち上げられた左腕は怠いのか、さして高さを持たないままに彼の額へと沈んでいった。現在の体温を聞いたからだろう、余計に身体が重くなったのか呼吸するのも随分と苦しそうだ。
 熱と咳、あとは喉の痛みを訴えたバジルを横に寝かせて体温を測ってみたら、予想通りの高熱。季節の変わり目なので致し方ないとは言え、体調不良に関わらずふらふらになるまで家事手伝いに勤しんでいたのかと思うと、何故もっと早く言ってくれなかったのかと小言のひとつも出そうになる。
「大丈夫?」
「は……い」
 体温計をケースに戻し、バジルの手を頭から退かせて肩まで布団をかけてやる。無理に返事をしてくれなくても構わないのに、つらそうに首を振ってから彼は律儀に目を開けて、横に座る綱吉の顔をじっと見てから言葉を返してくれた。
 真面目すぎるから熱が出るのだと、そんな事を考えながら、綱吉は自分が寝込んだ時に奈々がよくやってくれるみたいに、布団の上からぽんぽんと二度、彼の胸元を撫でるように叩いて立ち上がった。
 昼食も食欲が無いからと遠慮していた彼に、薬を飲ませるのは少々怖い。せめて粥でもあれば良いのだが、生憎と奈々は町内会の会合に呼ばれて夕方まで帰ってこない。あと二時間少々、果たしてどうやって過ごそうか。
「さわだど……けほっ」
「ああ、大人しく寝てていいから。母さんにはメールで知らせておくし、今はゆっくり休んで」
「でずが」
 鼻が詰まっている所為で、彼の発音は綱吉には若干濁って聞こえる。起き上がろうとしたのを手で制し、綱吉は救急箱を手に一旦部屋を出た。
 廊下に移動し、襖を閉めようと振り返ったところで、視線は半身を起こそうと身体を捻っているバジルに行き当たる。確かに奈々から言いつかった用事はまだ片付いていないのかもしれないが、それだって特に急ぐものではない筈だ。自分の身体の方がよっぽど大事だというのに、どうして分かってくれないのだろう。
「バジル君」
 少々語気を強めて名前を呼び、迫力が無いと散々揶揄される目で睨んで襖を閉める。わざと音が響くようにやったら、自分の方が驚いてしまって綱吉は肩を窄めた。
 丁度背後では昼寝を終えた子供たちが、遊び相手を求めて綱吉に期待の眼差しを向けている。ひょっとすればバジルは、彼らを気にしていたのだろうか。
 風邪なんてものとは凡そ縁遠そうな悪ガキの視線を浴び、綱吉は肩を竦めて腰に手を押し当てる。
「お前ら、バジル君は体調悪いんだから、大人しくな」
 俺も俺で忙しいんだ、と手で追い払う仕草をして綱吉は溜息を零す。これで言う事を素直に聞いてくれれば苦労はしない、と矢張り聞いちゃ居ない子供たちに絡みつかれ、綱吉はずるずる重い両足を引きずってひとまず救急箱を片付けに向かった。
「でもいつも、バジル君はやってくれてるんだよな」
 嫌な顔ひとつせずに奈々の手伝いを買って出て、いつも楽しそうに笑っている彼を思う。同時に赤い顔をして辛そうに咳をしている彼も。
 元気に動き回っている姿ばかり見てきたから、あんな風にふらふらして、立っているのもやっとという状態には驚かされた。綱吉が気付かなければ、どこかでいきなり倒れていた可能性は高い。
 正直、あんな風になっている彼は見たくない。早く元気になってもらいたいのに、どうすればいいのかが分からなくて綱吉は自分自身に苛立ちを募らせる。
「つ~な~、おなかすいた~」
「さっきお昼食べたばっかだろ」
「や~だ~、おなかすいた、ランボさんおなかすいたもんね~~!」
 静かにしろと言っているのにまるで聞き入れず、我侭ぶりを発揮するランボにも閉口させられる。じたばたと両手両足を振り乱して床に倒れこんだ赤ん坊の駄々に辟易して、毎日こんな子供を相手にして愚痴のひとつも零さないバジルに畏敬の念を抱きそうだった。
「もー……」
 放っておいたら益々暴れだしそうで、バジルが寝ている座敷を気にしながら綱吉はランボを抱き上げる。鼻水がでろん、と出ているがこれは風邪が理由でない分、安心だ。
「なんかあったかなー」
 仕方なく、台所へと。イーピンも遅れて後ろをついてきて、綱吉は何か甘いものはあっただろうかと、冷蔵庫の中身を思い返しながら深々と溜息をついた。

 カタン、という小さな物音に気がついてバジルは目を覚ました。
「あ、ごめん。寝てた?」
 気怠さの中で瞼を持ち上げ、瞳だけをどうにか動かして音がした方を見れば、其処には盆を片手にした綱吉が。もう片手は襖へと伸びていて、どうやら静かに開け閉めをするのに失敗したらしかった。
「いえ……」
 うつらうつらしていただけだと言葉足らずに告げ、肘を引いて上半身を起こす。いつの間にか額に載せられていた濡れタオルが傾き、前髪を巻き込みながら頬を滑っていった。
 まだ頭は半分眠ったままで、全体的に意識は靄に包まれた中にある感じだった。腕にも力が入らず、しっかり体を支えることも出来なくて勝手にふらつき、また布団へ逆戻りしそうになる。瞼も完全には開ききらず、薄く開いた唇から息を吸って吐く作業さえどこか他人事として認識された。
「どう?」
「はい……」
 近づいて来た綱吉に問われてもその意味するところを計り切れず、相槌を返すだけに終わる。持ってきた盆を枕元に置いた彼は、そんなバジルの背中に手を添わせると未だ揺れ動いて安定しない彼を支えて崩れないように座り直させた。枕を縦にして背中のつっかえ棒代わりにし、覚醒しきれて居ないバジルの額に手を当てて熱を測る。
 濡れたタオルは盆の空いているスペースに置き、顔を顰めやった綱吉は僅かに熱を持った指先を自分の額へと押し当てた。よく分からないが、多分バジルの熱はまだ下がっていない。
「飲める?」
「……?」
 半端に休ませた所為で逆に熱があがった気もする。早く奈々は帰って来ないかと壁時計を気にしてから、綱吉は盆で運んで来たものを両手に取った。落とさないように大事に包み込んでバジルの前に差し出せば、漸く意識がはっきりとし出した彼が何度か瞬きを繰り返した。
 何処と無く虚ろな視線を向けられ、綱吉は苦笑する。厚みのあるマグカップからは温かな湯気が立ち上り、彼らの間に乳白色のカーテンを作っていた。
「さわだどの?」
 ゆっくりとしか発音できない彼に頷き、綱吉は上向いて膝元に置かれていた彼の手にそっとカップを握らせる。握力も弱っているから大事に彼の手ごと包み込んで、彼が肘を持ち上げるのも手伝ってやった。
 湯気が近くなり、瞬きの回数を増やしたバジルが戸惑う風に綱吉を見返す。曖昧ながら笑って返した綱吉は、熱いから気をつけてとだけ告げて彼から手を離した。
 落とさぬよう注意しつつ、バジルはまだしっかりと働かない頭でこれはなんだろう、と考える。指先から伝わってくる熱は、三十八度を越える体温を内包している筈の肉体にも優しかった。
 促されるままに唇を寄せ、息をひとつ吹きかけてコップをゆっくり傾ける。けれど。
「っ!」
 冷ますのが充分でなかった。舌に雫を載せた途端に激しく咳込んだ彼に、綱吉が大慌てで横から手を伸ばしてマグカップを奪い取る。体を前倒しにしてバジルの両足に胸を乗り上げた彼は、激しく波立ちこそすれ中身がひっくり返らなかったコップの中身に肝を冷やした。
 体全部を震わせて咳き込む彼に顔を歪め、失敗しただろうかと綱吉は不安げに眉を寄せる。下から窺う風に視線を持ち上げると、口元を手で覆っていたバジルが気づいて無理に笑おうとした。
 大丈夫と言いたげにしているが、喉が焼けて声が出ないらしい。
「ごめん、もっと冷ましてからにすればよかった」
 暖かいものを、と気をつけたつもりが熱すぎた。人肌くらいの温さにしてから手渡すべきだったと後悔しても、もう遅い。
 注意が足りなかった自分に落ち込んで小さくなった綱吉に、呼吸をひと段落させたバジルが首を振る。両腕を伸ばし、姿勢を戻してコップを膝に載せた綱吉から温もりを引き取った。
「拙者も、配慮が足りませんでした」
 幾分喋るのも楽になった彼が、綱吉の所為ではないと呟いてコップに息を吹きかける。しかし幾ら楽になったとはいえまだ辛そうであり、時折小さく咳き込むのを見かねた綱吉もまた、彼の手の外側に手を添えて膝を寄せた。
 首を前に傾け、バジルが戸惑っているに構わず息を吸い、湯気を立てるマグカップに吹きかけて熱を冷ましていく。
「さわだどの……」
「え? ……あ、ごめっ」
 自然過ぎる彼の行動に呆気に取られ、バジルは弱々しく綱吉を呼ぶ。二秒後我に返った彼は、至極近い場所にある赤い顔のバジルに気づいて慌てて後ろへと飛び退いた。
 彼の顔までもが、バジルに負けない程赤く染まる。
「ごごご、ごめ……その、ランボとかにもやるから、つい」
 幼子相手にする時と同じ感覚でやってしまったのだと、しどろもどろに言い訳する綱吉にバジルは微笑む。そっと唇を寄せてカップに口をつけると、さっきより随分飲みやすい温度に変わった液体が彼の喉を優しく撫でていった。
 ホッとする暖かさだ。蜜でも入っているのだろうか、熱を加えられただけのただのミルクなのに、甘い。
「有難う御座います」
 もうひとくち、喉に流し込んで息を吐く。心持ち身体が軽くなって、バジルは心からの笑顔を浮かべた。
 照れたように頭を掻いた綱吉も、赤い顔のまま笑い返す。
「よかった」
 こんなもので彼の体調がよくなるとは思ってもいないが、少しでも楽にしてやれたのならばそれが嬉しい。安堵の息を零した綱吉の前で、バジルはほんの少し甘いミルクを最後の一滴まで飲み干した。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
 額を小突き合わせて言い合って、ふたりして笑う。
 戯れに触れたおやすみのキスは、溶かし損ねた蜂蜜の味がした。

2007/10/22 脱稿