慮外

「……で?」
 ベッドを、さながら玉座のようにして頬杖をついた彼が低い声で問う。
 その前で床に正座をした綱吉は、この寒い時期なのに脂汗をダラダラと流しながら、落ち着きなく視線を彷徨わせて頭を垂れた。
「僕は、赤ん坊に呼ばれて来たんだけど」
 胡坐を崩したような姿勢で、左足だけは床に垂らし、横に倒した右膝に肘を置いて、更にその上に顎を置いていた彼がぼそりという。途端、綱吉はビクッと大袈裟に背筋を強張らせて顔を引き攣らせた。
「そ、のようです、ね」
 ひたすら視線を合わさぬよう、顔も背けて綱吉がぎこちなく返す。一方の彼は頬杖を崩して右足も床に下ろすと、床に色々なものが散乱していることもあって手狭感が否めない綱吉の部屋を、端から端までゆっくりと見渡していった。
 しかし目的のものが見つけ出せなかったようで、再び彼の冷たい視線は綱吉へと舞い戻る。
 ちくちくと突き刺さる感覚に身震いし、綱吉は膝の上で揃えた拳に力を込めた。
 ――あンのやろー……
 思い返すだけでも腹立たしい。しかし本を正せば自業自得に行き当たってしまって、怒りのやり場がない。
「赤ん坊は?」
 綱吉の部屋に足りないもの。長い脚を悠然と組んだ彼の質問に答えられず、綱吉は俯いて空気を流した。
 彼の堪忍袋の緒が切れるまであと何秒あるだろうか考える。そう遠くない未来だろうことだけは間違いなくて、首筋を伝った汗の冷たさに背中が粟立った。
「えっと、その。リボーンは、ですね」
 言わない限り彼は部屋から出て行かないに決まっている。いつも通り不意打ちで部屋の窓から乱入して来た彼は、綱吉の都合などお構いなしにリボーンの所在だけを問質し続けている。
 せめて靴は脱いで欲しいと、目の前で揺れている彼の爪先を上目遣いに見やって綱吉は下唇を噛んだ。
「赤ん坊は?」
「リボーンは、だからその」
 同じ台詞を繰り返した彼が会いたがっている、この場に居ないあの黄色いおしゃぶりを首に提げた、自称綱吉の家庭教師にして最強のヒットマンは。
 他でもない彼を沢田家に呼んだ張本人は。
「……所用で出かけてます……」
 ああ、俺は死んだかもしれない。ごくりと唾を飲んで掠れる声を絞り出した綱吉は、遠い目で絶望の崖の上に立ち、吹き荒ぶ北風に煽られる自分を想像して咽び泣いた。
「…………」
 沈黙する彼の表情が険しくなったのが、見ずとも分かる。身にまとう空気が明らかに一変した、綱吉の流す脂汗の量も半端なく増えた。圧倒的な威圧感に押し潰されそうで、綱吉は益々頭を深く垂らして彼の前で小さくなる。
 冬休みも残り少なくなり、逆に机の上に積み上げられた宿題は山のよう。冬期休暇中全くもって手をつけていなかったツケが、まっさらなカレンダーに切り替わった直後、一斉に綱吉に押し寄せて来ていた。
 しかも二学期の成績が散々だったこともあり、他の生徒よりも課題の量が多い。年末、三が日の間は極力見ないようにしていたものの、休みがもう指一本分しか残されていない今となっては、見ないわけにもいかないのが今の綱吉の状況だった。
 そんなときに限って、リボーンは外せない用事があるからと言って綱吉を見捨てた。否、救いの神を残して去っていったはずなのだ。
 どうせひとりだとなんだかんだで手を着けないだろうから、強力な助っ人を呼んでおいてやったぞ。出かける間際にリボーンが言い残していった言葉を振り返り、綱吉は一瞬でも彼をいい奴だと思った自分を呪いたくなった。
 あの極悪非道のスパルタ家庭教師が、綱吉に甘い顔をするわけがない。何か裏があると疑って然るべきだったのだ。てっきり獄寺辺りを呼んだのだろうと想像していたのに、そう時間を経ずに部屋を訪れたのは綱吉の予想を遥かに超える人物だった。
「へえ?」
 冬休み中だというのに相変わらず学生服姿の彼が、羽織っているだけの上着の袖を揺らして右の眉を僅かに持ち上げる。途端に竦みあがった綱吉は今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られ、しかし上から圧し掛かるプレッシャーの所為で立ち上がるのもままならず、右足が痺れているのも手伝って床に釘付けにされた。
 やっぱり死んだかもしれない。恐怖に駆られ、綱吉は心の中で思いつく限りの罵詈雑言をこの場に居ない赤ん坊に向かって吐き捨てる。
「そう。赤ん坊、いないんだ」
 その事実に結論に雲雀が至るまで、時間としてはそう長くはなかったはずだ。しかし綱吉には恐ろしく長く感じられ、その間まったく生きた心地がしなかった。
「……です」
 綱吉が重ねて肯定し、どっと押し寄せてきた疲れに背中を丸くする。目の前で脚を組み替えた雲雀は、そんな綱吉の少し元気をなくしている髪の毛の跳ねを見下ろし、ふぅん、と自分にしか分からない程度に頷いて瞳をその後方へ流した。
 部屋の中心部に置かれているテーブルには、十数枚はあろうかというプリントと、教科書、辞書が所狭しと並べられている。転がったシャープペンシルの芯は伸びたままで、消しゴムの滓は一箇所に集められて灰色の山を成していた。
 雲雀がこの部屋に入って来たとき、綱吉は丁度そのテーブルに向かって、床に直接腰を落としてプリントと向き合っていた。
「宿題?」
「へ?」
「それ」
 頭の中に素早く思い浮かべたカレンダーから、冬期休暇が目出度く本日最終日を迎えていた事を思い出す。ならばあれは、と類推を重ねた雲雀の声に、相変わらずリボーンへの悪口を心の中で並び立てていた綱吉は、ハッと我に返って顔をあげた。
 至近距離で目が合い、また先に綱吉が横へ逸らす。
「――ああ」
 しかし彼が首を振ったのは、雲雀が指差したものを確かめる為だった。真後ろにあるテーブルを占拠している勉強道具一式を目にした綱吉は、雲雀が何を言いたがっているのかを大体察し、姿勢を戻してから頷いた。
「順調?」
「そう見えますか……」
 とてもそうは思えない状況を前にして、無粋とも言える質問を繰り出す雲雀の度胸に感服させられる。泣きの入った表情で力なく肩を落とした綱吉の返事に、伸ばした指を丸めて顎に添えた彼は、なにやら含みのある笑みを薄ら口元に浮かべて目を細めた。
 それからやっと今頃になって、屋内に在るに関わらず自分がまだ靴を履いたままでいるのを思い出し、右の踵を浮かせて腰を屈めて順に脱いでいった。
「あ、靴」
 玄関に置いてきてくれとは言えず、綱吉も膝を伸ばして立ち上がった。
 無言で差し出された彼の革靴を受け取り、本棚の隙間に差し込んでいた大判の紙を引き抜いて広げる。窓の下に敷いたそれに靴を載せた綱吉は、数センチ残っていた隙間を閉めて鍵もかけた。
 カーテンを引かずとも、冬の陽射しは弱い。薄雲に覆われた空を一瞥して振り向いた綱吉を待っていたのは、中断させていた課題のプリントを手にしている、その中断する原因となった雲雀だった。
「ちょっ、なにしてるんですか!」
「ここ、間違ってるよ」
「分かってますよ!」
 見られて困るものではないが、恥かしい。瞬時に顔を真っ赤にさせた綱吉は慌てて手を伸ばして彼からプリントを奪い返すが、間違っていることが分かっているのに解答欄に書き込むのはおかしいのではないか、という冷静かつ的確なツッコミを背中に食らい、反論も出来ずにぐっと息を呑んだ。
 胸に抱き込んだ所為で皺が寄ったプリントを広げる。雲雀がどれを指して間違っていると言っていたのかは分からないが、改めて眺めていると全部の回答が不正解のような気がして落ち込んだ。必死に数式を解いて自分なりに頑張ったのに、その努力が全部無駄だったみたいに言われて、傷つく。
「これ全部、今日中に?」
「そうですよ」
 しかし綱吉の傷心具合などお構いなしに、雲雀はベッドを降りるとテーブルに近付いてまだ手付かずだったプリント類をまとめて持ち上げた。一枚ずつ捲って紙面に素早く目を走らせ、内容を確かめてもとあった場所に戻す。ムキになって語気を強めた綱吉の頭を軽く撫でた指先が、まだ握られたままだったプリントの上辺を摘んだ。
 引っ張りあげられ、逆らう意味も無いので綱吉は素直にプリントを手放す。それは下辺を当て所なく揺らして綱吉の前を行き過ぎ、テーブルの縁を泳いで反対側へ降りていった。
「ヒバリさん?」
 正方形の小さな机にプリントを置き、そこに掌をついてゆっくり屈んでいく。一連の流れるような彼の行動を見守り、最後に綱吉は首を傾げて彼の名を呼んだ。
 頭の位置を低くした雲雀が、立ったまま惚けた顔をしている綱吉を見返す。
「赤ん坊、まだ当分帰ってこないんだろう」
「はい」
 正確な時間は聞いていないが、夕飯は外で済ませてくると奈々に言っていたので、リボーンの帰りはかなり遅くなるだろう。雲雀の質問に頷いた綱吉は、テーブルを挟んで正面に腰を落ち着けた彼の真意を読み取れず、自分もまた座っていいものかどうか迷って指で空を掻いた。
 気まずい沈黙が流れる。てっきりリボーンが居ないのなら帰ると言い出すと思っていたのに、雲雀のこの態度は明らかに居座るつもりだ。
 目の前には宿題の山、刻々と流れていく時間は少しも無駄に出来ないというのに。
「あの、ヒバリさん……?」
 返事の無い彼を再度呼んで、綱吉は摺り足でテーブルに近付いた。しかし彼は戸惑いの声を発する綱吉に見向きもしないで、転がっていたペンを拾い上げると右耳の横で揺らし、綱吉が途中まで手をつけていたプリントにいきなり加筆し始めた。
「わっ」
「ここの数式の用法が間違っている。数学苦手?」
 綱吉の乱雑な文字の横に、雲雀の角張った小さめの文字が並ぶ。何をするのかと身を乗り出してテーブルに屈みこんだ綱吉を前にして、しかし雲雀はどこまでも冷静に計算式の間違いを指摘していった。
 これも違う、ここは計算自体が間違っている。君の頭は飾り? とまで言われ、本当に回答済み分すべてに駄目出しされた綱吉は、涙目になりながら突き返されたプリントに頭を押し当てた。
 苦手もなにも、数学なんてさっぱり分からない。数字が踊っているのを見ると途端に眠くなって、授業で最後まで起きていられた例がないくらいに。
「手間の掛かる子だね、本当に」
「ぐ」
「まあ、いいけど」
 何が良いというのか。頬杖をついた雲雀がシャープペンシルの尻を向けるので、渋々受け取って綱吉はその場に腰を落とす。向き合う格好で座ると、何故か笑われた。
 だから頬を膨らませて唇を尖らせ、彼を睨み返す。
 雲雀の爪が、カツリと天板を削った。
「赤ん坊が帰ってくるまで、君で暇潰ししてあげる」
 その音に気を取られていた綱吉の耳に流れ込む、笑みを含んだ低い声。
「は?」
「手伝ってあげるよ、宿題。並盛中の規律を乱されるのも、困るしね」
 思わず素っ頓狂な声を出して目を丸くした綱吉に、まだ手付かずのプリントをはらりと持ち上げた雲雀が不遜に言い放った。
 信じがたい台詞を聞いたと目を瞬かせて綱吉は彼を凝視し、本気なのかどうかをまず確認する。だが雲雀の瞳は揺らぎもせず綱吉を一直線に見返していて、傍目には見詰め合っている状況に気付いた綱吉はばつが悪そうに顔を俯かせた。
 さっきよりも顔が熱い。綱吉は赤みが増したであろう頬に左手を添え、状況を整理しようとこんがらがっている頭を一旦真っ白に戻した。
「えっと、あの」
「得意教科はあったかな、君。数学はひとまず後回しにしよう、出来るものから終わらせないと今日中に片付かないね」
 まだ困惑している綱吉を置いて、雲雀は乱雑に積まれているテキストとプリントを、教科ごとに篩い分けて行く。
 返事を期待してはいなさそうな彼の呟きを聞き、これは本当に救いの神の到来になるのではないかという気持ち半分、真面目にやらないと絶対に酷い目に遭うという恐怖半分で、綱吉は綺麗な字で訂正された数学のプリントに目を落とした。
 手助けをしてくれるのは正直有り難いし、助かる。だがよりによって綱吉の一日家庭教師役に任命されたのが、並盛中にその名を響かせる極悪非道の風紀委員長、雲雀恭弥だというところが、リボーンのいやらしさだ。
 彼を前にして、綱吉が逃げおおせるわけがない。獄寺ならば下手に甘やかしてしまうようなところも、雲雀は絶対に許しはしないだろう。
 袋のネズミだ、まさに。これで宿題が片付かなかったら、風紀を乱したと称してどんな罰が待っていることやら。それこそ死ぬ気で宿題を終わらせるほか、綱吉に生存の道は残されていない。
「聞いてる?」
「うあ、はい!」
「得意教科は?」
「……ありません」
 ぼやっとしていたら机に肘を置いて身を乗り出した雲雀にきつい目で問われ、質問を再度繰り返される。若干の間を置いて返事をすると、絶句されてしまった。
 居た堪れない。
「そう。なら、仕方が無いね。社会科から終わらせようか」
 丁度目の前にあったプリントを拾い上げ、雲雀が綱吉へ差し出す。上下逆になっていたものを怖々受け取ってひっくり返し、綱吉は早々に溜息を零した。
 二学期分の復習に当たる穴埋め問題は、設問の数が無駄に多かった。
「う……」
 見ただけでやる気が削げる紙面に渋い顔をしていると、厚みのある教科書を引っ張りだした雲雀が素早く該当箇所を探し出し、ページを広げて綱吉の前に置いた。筆入れを取って本が閉じてしまわぬように重石代わりにし、てきぱきと進めていく雲雀の手際の良さには驚かされる。
 答えは調べれば直ぐに分かるのだから、早く空欄を埋めて行くように言われ、綱吉は仕方なしに彼の言葉に従い、教科書を自分の側へ引き寄せた。
 気がつけばすっかり雲雀のペースだ。リボーンと違い、反抗する気が起きないのも良い方向に動いている。更に雲雀は無駄な口を一切挟まず、必要とおぼしき部分は随時的確に指示を出し、綱吉の集中力を邪魔することもなかった。
 暴力沙汰の話題が多い人なので、意外な感じがする。だが考えてみれば、彼はよく応接室でひとり事務仕事もこなしていたから、慣れざるを得なかったのかもしれない。
 雲雀のアドバイスは実に効率的で、予想外に短時間で社会科の宿題は終わってしまった。今までの自分はなんだったのかと思うくらいで、彼の存在ひとつでこんなにも違うのかと驚きが隠せない。
「ヒバリさん」
「終わった?」
「はい」
 消しゴム滓を手で払いのけ、顔を上げた雲雀に頷く。だが馴染みある彼の顔に僅かな違和感を覚え、綱吉は眉間に皺を寄せてしまった。
 さっきまでと何処かが違っている。
「なに」
「いえ、あの、ヒバリさん?」
 プリントとシャープペンシルを置き、綱吉が右手を挙げる。怪訝に顔を顰めた彼の額に向けた人差し指を僅かにずらし、確かにさっきまでは無かったものに首を傾げた。
 黒のフレームは細く、長方形の角を丸く削った形状をしている。下辺が少し短めで、鼻の上にちょこんと鎮座しているそれは他でもない、眼鏡だ。
 けれど、綱吉のどの記憶を引っ張りだして漁ってみても、彼が眼鏡を愛用していたというデータは出てこない。
「かけてましたっけ……眼鏡」
 初めて見る彼の姿に、綱吉は困ったように眦を下げた。
 持っていたテキストを下ろした雲雀は、握っていたシャープペンシルを前に揺らして綱吉の人差し指を上から押した。いつまでも人を指差しているんじゃないと態度で示され、肘の力を解いた綱吉は大人しく彼に従って腕を下ろす。
 広げた掌をテーブルに添え、軽く握り、しかし視線だけは雲雀の顔の中心に注ぎ続ける綱吉に、彼はやや不機嫌に唇を尖らせた。
「僕が眼鏡をかけちゃいけないって、誰が決めたの?」
 そういう問題ではないのに、と言い返したくなる気持ちをぐっと堪え、綱吉は曖昧に笑って誤魔化した。
 レンズ越しに睨まれ、肝が冷える。
「似合わないって?」
「そういうわけじゃ」
 ただ初めて眼鏡をかけているところを見たから、驚いただけであって。決して悪い意味で聞いたのではないと弁明し、綱吉は渡された次のプリントに取り掛かろうと下を向いた。
 だが一旦気になってしまうと、なかなか頭から離れてくれない。雲雀の視力は決して悪くなかったはずで、応接室で事務仕事中にも使っていないものをこの場で用いるのにどんな意味があるのか、考え出すと止まらなかった。
 次にやるよう指示されたのは、国語。数行の文章を読んで設問に答えるよう、プリント最上部に書かれていた。
「うぐ」
 こういう読解力を求められる問題も、苦手だった。他人の考えていることなんか分かるわけがない、自分の気持ちさえきちんと掴めていないのに。
 苦虫を噛み潰した顔を作って唸った綱吉に、雲雀がちらりと視線を流した。両手で持った紙を前にしてひとり百面相している彼を小さく笑い、馴染みがない所為で邪魔でしかない眼鏡を気にしてフレームを押し上げる。
 途端上向いた綱吉と目が合った。
「う」
「なに」
 一瞬バチッとふたりの間で火花が散って、顔を赤くした綱吉が瞬時に俯く。あからさまに反応されたのが癪で、雲雀は表情を険しくさせて下向いている綱吉を睨んだ。
「やる気あるの?」
 勉強を始めてから、一時間と経っていない。その上で、まだ一教科しか片付かない状況で投げ出すようなら、愛想も尽きると雲雀は肩を落として抑揚に乏しい声で言った。
 萎縮して身を小さくした綱吉が、ちらちらと上目遣いに何度も雲雀に目を向けては逸らす仕草を繰り返す。集中力が切れているのは明白で、何がそんなに落ち着かないのかと雲雀は姿勢を崩し、右の膝を立てて腰の後ろに手を置いた。
 身体を斜めに傾かせ、欠伸を噛み殺す。やる気が無い相手に真剣になるのは馬鹿らしいと、今の綱吉に相応する態度を取った彼に綱吉は上唇を舐め、膝に落とした手を握り締めた。
「だって」
 気になって、どうしても意識がそちらに向いてしまうのだ。
「ヒバリさん、いつも眼鏡なんてしてないじゃないですか」
「そうだけど?」
 しっくり来ない異物に指を置いた雲雀が、淡々と言葉を返す。綱吉の声には熱が篭もっているというのに両者の落差は酷く、痛いくらいに指を軋ませた彼は、今の感情を説明する言葉を持たない自分に苛立ちながら奥歯を噛み締めた。
 綱吉が勉強に集中出来ないのは、雲雀が普段と違って見慣れない姿をしているからだ。眼鏡ひとつで何をそんなに、と人は言うかもしれないけれど、兎も角落ち着かない。だから綱吉を邪魔しているのは他ならぬ雲雀なのだけれど、気にしなければ良いではないかと言われたらそれまで。
 本末転倒だ。
 刻一刻と過ぎていく時間に背中を押され、綱吉は深い溜息を吐き出して首を振った。
「俺、ヒバリさんが眼鏡必要な視力だって、知りませんでした」
「そう」
 それは僕も知らなかった。
 精一杯の皮肉のつもりで言った台詞に淡泊な相槌を返され、挙げ句付け足された独白。
 一瞬聞き流してしまいそうだった綱吉は、素早く瞬きを繰り返し、最後に限界まで目を見開いて、頭の上に超巨大なクエスチョンマークを浮かべた。
「はい?」
「僕は左右とも2.0はあるよ」
 再び素早く瞬きを。
 若干挙動不審気味に頭を揺らした綱吉の前で、黒フレームの眼鏡に指を置いた雲雀がさらりと言い放つ。
 意味が分からない。
 だって、眼鏡は視力を補うためのものだ。見えないものを見るために使うものだ。それなのに雲雀は、眼鏡が不必要な視力を有していると自分で断言した。
 道理に合わない。
「……はい?」
「今朝、赤ん坊から小包が届いていてね」
 其処に書かれていた手紙で今日呼び出されたのだと簡単に説明し、雲雀は人差し指を立ててテンプルを押し上げた。親指も使って摘み持ち、首を振ってゆっくりと外していく。
 黒髪が揺れて、綱吉の見慣れた雲雀が戻って来た。
 ガラスに邪魔されない彼の瞳に見詰められ、頭がぼうっとする。低く笑った彼は手にした眼鏡を裏返し、惚けて動けないでいる綱吉の顔にゆっくりと差し入れていった。
 モダン部分が皮膚を引っ掻き、首を振って逃げるが強引に捻じ込まれる。小ぶりな鼻の上に鎮座した眼鏡は、綱吉には小さかったようで少々きつい。
「ヒバリさん、なにを……あれ?」
 度の合わない眼鏡をかけると却って目に悪い。咄嗟に閉じてしまった瞼を恐々開けて、座り直した雲雀に文句を言おうとした綱吉だったが、ふと浮かんだ違和感に首を捻って眼鏡を外そうとしていた手を止めた。
 今度はちゃんと目を開けて、レンズ越しに雲雀を見る。意味ありげに笑っている彼を正面に据え、綱吉は広げた手を顔の前に翳した。
 手首を振り、指を曲げ、回答中のプリントも掲げて眼鏡をかけたまま問題を黙読する。
「これ、ヒバリさん」
「度は入ってないよ」
 まさか、と背中に冷や汗を一筋流した綱吉の疑問を、彼は呆気なく突き崩した。
 伊達眼鏡。度無しレンズ。ただの飾り、つまるところ実用性の無いただのアクセサリー。
「なんでまた……」
「赤ん坊が、一日家庭教師をやるなら形から入ったほうがいいだろう、ってね」
「え――」
 雲雀が眼鏡の必要ない人だというのはよく分かった。しかしそこを敢えて、伊達眼鏡だと知りながら着用した意味が分からない。
「ま……ちょっと待ってください!」
 ぼやいた綱吉の耳に再び聞き捨てなら無い台詞が飛び込んできて、綱吉は咄嗟に叫んで立ち上がろうとした。が、テーブル下に潜り込んでいた膝が天板の裏側に衝突し、痺れを伴った痛みに見舞われて悶絶する。
 机が大きく揺れて、載っていたプリントが何枚か宙を舞った。
「イ――っ!」
「待ったよ」
「たあ……って、じゃなくて! ヒバリさんは、じゃあリボーンが居ないの」
「それは知らなかったよ」
 しれっとした顔で告げ、雲雀が頬杖をつく。
 だが彼は、綱吉が冬休みの宿題に苦慮しているのを知っていたのだ。
 最初から、彼は。
「俺のこと、からかいに来たんですね!」
 全部、知っていたのだ。
 綱吉が宿題に追われており、にっちもさっちもいかなくなっている事を。到底自力ではクリア出来そうにないから手助けするようにと、リボーンがなにもかもお膳立てしていた事も。
 その上で知らないフリをして、綱吉を振り回した。さぞや滑稽だったろう、何も知らぬ綱吉がひとり狼狽し、慌てふためく様は。
 泣きたい気持ちで叫び、綱吉は涙を堪えて目を閉じ、かぶりを振った。噛み締めすぎた奥歯が痛い、けれどもっと別の場所がちくちくと針に突き刺されるような痛みを発していた。
 雲雀がやや不機嫌気味に表情を曇らせ、しゃくりをあげた綱吉を見詰める。涼やかで静かな瞳に映し出された綱吉の顔は、怒って良いのか悲しんで良いのかも分からない表情をしていて、大きく鼻を啜った彼はもうひとつ首を振り、浮かせた腰を落として唇を噛んだ。
 力なく脚を横に広げて床に座り込み、ぶつけた膝を撫でさすりながら小さく息を吐く。ずれた眼鏡が鼻の上で引っかかっている、正直邪魔で鬱陶しかったけれどどうしてだか自分で外す気にもなれなかった。
 どうせリボーンが、この方が面白いからという軽い気持ちで雲雀に渡したのだろう。あの赤ん坊が考えそうな悪戯だ、しかも雲雀までもがそれに乗ったことに驚きを隠せない。
 さらには引っかかってしまった自分自身にも腹が立つ。まぜこぜの感情に苛立ちながら綱吉は怒らせていた肩を落とし、カクリと首を落とした。
 その彼の前髪を、伸びてきた雲雀の指が掬い上げる。
「……?」
 ものを言う元気もない綱吉がけだるげに視線だけを持ち上げ、薄茶色に霞む視界越しに彼を見返した。
 額の中央を指でなぞり、下へずらしていく。斜めに傾いていた眼鏡を爪に引っ掛けたかと思うと、何をしたいのか、雲雀はそれを綱吉の顔の位置にあわせて掛け直した。
 元々サイズが小さめだから、頭を両側からレンチで締め上げられているみたいだ。こめかみを襲う微かな痛みに表情を歪め、綱吉は外そうと両手を持ち上げる。だが耳の上に指を添えたところで自分を見詰めている雲雀に気付き、彼はその状態で動きを止めた。
「あの、……ヒバリさん?」
「成る程ね」
 妙に納得がいったという風情で雲雀が独白し、綱吉は何のことだか分からずに首を捻る。外して良いだろうかと人差し指でフレームを小突いていると、自分で動くより先に雲雀が腕を伸ばし、ブリッジ部分を摘んで引き抜いていった。
 テンプルを折り畳み、小さくして机に置く。てっきりまた掛けてくれるのかと思っていた綱吉は、そうと知らずガッカリしている自分に顔を赤くした。
「確かに、見慣れなくて変な感じだね」
 膝に両手を揃えて俯いた綱吉の頭を、雲雀の声が小突く。笑っている気配に恐々上向けば、机上の眼鏡を弄っている雲雀が表情を緩めて綱吉を見ていた。
「う……」
 だからそう言ったではないか。普段と違うから、どうにも落ち着かなくて気になってしまうのだ、と。
 印象が眼鏡ひとつでこんなにも変わるとは思わなかったから、余計だ。ただでさえ雲雀とふたりだけでいると緊張するのに、その緊張を倍増させられたらこちらの心臓がもたない。
 けれどそれは、決して似合わないとか、そういう悪い意味で、ではないのだ。
 どう答えていいのか分からずに視線を泳がせ、綱吉は壁際のベッド、その枕元に置かれている目覚まし時計を見た。交差する三本の針が、着々と時間の経過を伝えている。
「悪かったね」
「いえ……。あ、えっと、その。よく、お似合い、でしたので……」
「そう?」
 とどのつまり、いつもと違った意味で格好良かったのだと赤い顔で告げれば、雲雀は少し意外そうに眉を上げて目を見開いた。
 ただ綱吉は恥かしさが祟って彼を直視できず、中断されたままのプリントに取り掛かろうとシャープペンシルを握り締めた。先端を紙面に押し当てて黒い点を刻み、深呼吸の末に作業を再開させる。
 カリカリと文字を書く音が小刻みに部屋に響き渡り、まだ熱を発している頭を必死に冷やそうとしている綱吉を見据え、雲雀は口端を持ち上げて笑うと膝を崩した。
 拾い上げた眼鏡の片側で顎を軽く叩き、この安物の眼鏡をどうしようか考える。
「ま、折角だしね」
 今は、綱吉の勉強をこれ以上邪魔するわけにもいかないから掛けるわけにはいかない。けれど。
「ヒバリさん、何か言いました?」
「そこ、漢字間違ってるよ」
「え? どれ、どれですか?」
 耳聡く顔を上げた綱吉に誤魔化し、本当に間違っていた漢字を指摘してから雲雀はそっと、折り畳んだ眼鏡を胸ポケットへ忍ばせた。
「もっと違う勉強のときに、使わせてもらうことにするよ」
「はい?」
 消しゴムに手を伸ばして聞いていなかった綱吉が首を傾げる。しかし雲雀は答えず、意味ありげに微笑んで別の間違いを指摘するべく、指を伸ばした。

2007/12/31 脱稿