玻璃

 年の瀬が迫る中、家の中も必然的に色々と慌しい。
 正月の支度もそうだが、特に大掃除では、日常の掃除で滅多に手を出さない窓拭きや押入れの整理もやるので、いつもは遊んでばかりの子供たちも手伝いに借り出されている。
 とはいってもまだ小さいランボやイーピンにとっては、掃除も遊びのひとつなのだろう。奈々からハタキを渡されたランボは、それを手にイーピンを追い回し、いつも通り彼女に撃退されて泣きっ面を冬空に晒していた。
「あーああ、もう」
 喧しく泣きじゃくるランボの声を下に聞き、自室の窓を拭いていた綱吉は肌寒さに身震いして苦笑した。
 ベランダの外側に立ち、三段分の脚立に乗って雑巾で汚れを削ぎ落としていく。上にはしっかりとダウンジャケットを羽織って防寒対策も行っているものの、それでも時折気まぐれに首筋を撫でる風は冷たく、鋭い。身動きし易いようにとマフラーなんかの小物は装着していないし、雑巾は濡れているので手袋も嵌められない。冷え切った指先に息を吹きかけて足元のバケツに雑巾を放り込んだ彼は、水を交換しようと脚立を降りると青色のそれを持ち上げた。
 中身を零してしまうと掃除をする場所が増えてしまう。だから慎重な足取りで屋内に戻り、非常にゆっくりと階段を一歩ずつ下りていく。
 玄関には靴箱を掃除しているフゥ太がいた。中身を一旦全部取り出して、棚を丁寧に雑巾で拭いている。ドアは換気のためか開けっ放しにされており、冷たい風が廊下に絶えず流れ込んで寒かった。
「頑張ってるな」
「うん! ピカピカにするんだー」
 すれ違い様に背中に声をかけると、振り返ったフゥ太が元気良く笑って言った。
 一年分の汚れを取り払うのだから、かなりの根気が必要だろう。特にランボたちは泥で汚れていても平気で靴箱に靴を放り込むから、彼らのスペースは殊に半端ない汚れ方をしていた。
 それをピカピカにする、と言い放つフゥ太のやる気に感動さえ覚える。自分も負けていられないと、綱吉は緩みかけていたバケツを持つ手に力を入れ直し、期待しているぞ、と言い残して洗面所へ向かった。
 汚れた水を流し、雑巾を洗って新しく水を足して再び二階へ。布団を干す奈々の姿がベランダから下に見える、イーピンが布団叩きを持って軽快に飛び回り、ランボは空っぽの洗濯籠を逆向きにして頭に被って、奈々の足元で踊っていた。
 晴れ空が広がり、太陽が顔を覗かせているので日向にいれば少しは暖かい。だが気温自体が低いので気休め程度にしかならず、身震いして鳥肌を立てた綱吉は、先ほどの続きをしようとバケツを下ろして濡れ雑巾を力いっぱい絞った。
 今日は一日、家中がどたばたしっ放しだろう。窓を拭いたら後は押入れの整理をして、不要物をゴミ袋にまとめて、もう読まない雑誌も紐で縛って廃品回収に。大体毎年、掃除の途中で懐かしい品を見つけて思い出に浸っている間に時間が過ぎ、気がつけば夕方になっているなんて事が起きるから、今年こそしっかりと日中に掃除を終わらせてしまおう。
 誓いを新たにし、腕まくりをして窓拭きを再開する。
 濡れ雑巾で汚れを取り、乾いた雑巾で二度拭きして水気を取る。窓ガラスが透明な輝きを取り戻していくのは見ていても気持ちが良く、もう片側の汚れと比較すると一目瞭然だ。他にも窓枠に潜り込んでいた汚れも綺麗にして、一頻り終わったと満足出来るレベルに到達する頃には、すっかり日も高く登り昼ごはんの時間になっていた。
「ツっくーん」
「今いくー」
 すっかり真っ黒になった雑巾をバケツに投げ入れ、片付けは後にしようと綱吉はベランダから急ぎ家の中へ。足音を響かせて台所に駆け込むと、暫く姿を見かけていなかったバジルがテーブルの上に惣菜を並べているところだった。
 台所ももれなく大掃除の対象になるから、今日の昼ご飯は外で買って来たもので済ませるらしい。
「ごめんね、忙しいのに」
「いえ、そんなことは」
 奈々が彼に買い物を頼んだのだろう、皿を出している母親の背中をちらりと見てから袋を畳んでいる彼に言うと、バジルは日に透けた薄茶色の髪を揺らしてはにかんだ。
 彼だって忙しいだろうに、年の瀬に駆けつけて沢田家の大掃除を色々と手伝ってくれている。このまま日本で年越しまで過ごすらしい、クリスマス休暇なのだそうだ。
 日本ではクリスマスが終われば即大晦日、お正月で、未だにクリスマスと言われると変な感じがするが、海外ではクリスマスの期間は日本と比べて随分と長いらしい。
 冬休みみたいなものか、と言えば説明が面倒くさかったのか頷いて返されたのを思い出す。
 けれど折角休みを使って遊びに来ているのに、面倒ごとを頼み込むのは申し訳ない気がしてならない。だがバジル本人は気にした様子も無く、以前、短期間ではあったが一緒に生活していた頃と同じように、奈々の手伝いを買って出て色々と世話を焼いてくれる。
 日本が好きだから、日本文化を勉強するのにも丁度いいのだと笑いながら言っていたのを思い出し、綱吉は席に着いて皿に盛られた稲荷寿司を手に取った。
 騒々しく昼食会が終わり、大掃除へ戻る。家中の窓が開け放たれているので風の通りが良く、屋内なのに外にいる気分だ。
 埃まみれの本棚を拭き、雑誌を整理し、引き出しの中も片付けて最後にクローゼット。どたばたと廊下を駆け回る足音を聞きながら扉を全開にした綱吉は、吊るしてある服を一旦全部取り出してベッドに並べ、下に積み重ねている段ボール箱を前に苦笑した。
 雑多に、色々と、使い道が無いのに捨てるのが勿体無くて残してきたものが詰め込まれている箱だ。毎年これの前で悪戦苦闘させられるわけで、去年の出来事を振り返りつつ彼は頬を掻き、四つばかりある同じ色の箱を表に引っ張りだした。
 表面に降り積もった埃を息で吹き飛ばし、軽く手で払って蓋を外す。出てきたのは小学校時代の文集だったり、アルバムだったりと、本当に統一感が無い。
 だが思い出の品には違いなく、溜まっていく一方だからいつかは処分しないといけないと分かっているのに、なかなか捨てる踏ん切りがつかない。
 小学校時代なんて、たいして良い記憶もないし、楽しかった思い出もそう多くないというのに。
「こっちは、なんだったかな」
 もうひとつの箱を開け、中を覗きこむ。こちらも古いものばかりだ、ただガラクタが大半で、実用的なものはひとつとして見付からない。
 しかも、いったいこれはなんなのかと思いたくなるゴミも詰め込まれていて、首を傾げながら綱吉は苦笑した。
「沢田殿、ゴミはありますか」
 別の部屋の掃除がひと段落したのだろうか、半透明の大袋を手にバジルがドアから顔を覗かせる。背を向けて座っていた綱吉は呼ばれたのに直ぐに気付かず、二度目に名前を呼ばれて慌てて後ろを振り向いた。
「え、あ、ごめん。なに?」
「どうかしたのですか?」
 箱の中身に夢中になっていて、バジルの声が届いていなかった。早口に謝罪した綱吉に、彼は口を結んだゴミ袋を抱えて首を傾げた。
 散らかっている部屋に足を踏み込み、綱吉の背後から彼もまた箱を覗き込んでくる。中に入っているものは、綱吉にとっては理由があるが、他の人が見たらまるで意味不明のものに違いない。益々不思議そうに首の角度を強める彼に、綱吉は照れ臭そうにしながら手にしていた赤い空き瓶で膝を叩いた。
 多分低学年の頃に、どこかで拾ってきたのだと思う。こんな物を後生大事にしまっているなんて、恥かしい。
 曖昧に笑って箱に瓶を戻した綱吉に、ゴミ袋を床に置いたバジルは姿勢を戻し、片付け途中で放置していた雑誌の山に手を添えた。これは不要物かと確認を取ってから、廊下へ紐でまとめてある分を運び出していく。
「あ、いいのに」
「ついでですので」
 後から自分でやるつもりでいたのに、彼の手を煩わせてしまった。謝って自分も手伝おうと立ち上がりかけた綱吉を手で制し、彼はにこにこしながら積み重ねている箱を指差す。
「それに、なんだか楽しそうでしたので」
 それは君の事ではないのか、と笑顔を絶やさないバジルの言葉に言い返そうとして、綱吉は口を噤む。そんな顔をしていただろうか、と掌で右の頬を叩けば軽い音がして、小さく声を立ててバジルが笑った。
 後ろに戻ってきた彼が両膝を軽く曲げてそこに手を添え、本格的に身を屈めて箱の中を覗き込んでくる。長めの前髪が斜めに垂れ下がり、普段隠れている彼の右目が横からだと辛うじて見えた。
「これは、なんですか?」
「うん。なんていうか、がらくた?」
 自分で言うのもなんだけれど、と手を入れて中身をかき混ぜて綱吉が笑った。
「でも、大切なものなのでしょう」
「どうして?」
「だって、沢田殿がこれらを見る目は、とても優しかったです」
 丁寧に箱にしまってあるから、という理由ならば分かるが、そんな解釈で結論を持ってこられるとは思わなかった。思いがけない彼の言葉に綱吉は返す言葉を見つけられず、口をポカンと開いたままバジルの横顔を凝視してしまった。
 視界の邪魔になる髪を掻き上げて耳に引っ掛けた彼が、視線に気付いて横を向く。至近距離から目が合って、綱吉は咄嗟に下を向いてしまった。
「沢田殿?」
「そんな、変な顔してたかな」
 両手を頬に添え、叩いた方の右だけ撫で動かしながら綱吉が呟く。妙に顔が熱く感じるのは、恥かしくて赤くなっているからだ。
「変な顔ではありませんよ?」
 不思議そうにバジルが綱吉の台詞を訂正し、中腰だった姿勢を一旦真っ直ぐに戻した。それから横にあった雑誌の束を少しだけ脇へずらし、綱吉の左隣に膝をついて座り込む。
 狭いので互いの肩がぶつかり、すみませんと謝る彼の声で綱吉も視線を前に向け直した。
 並んでいる、小ぶりの箱。中に詰め込まれた、無数のがらくたたち。
 人が見ればゴミ同然だろう、角に転がっていたビー玉を拾い上げ、綱吉は光に透かして色を覗き込んだ。
 鮮やかな赤色が肌に落ち、キラキラと光の欠片が瞳を飾る。興味深そうにしているバジルに手渡してやると、彼は両手を広げ、転がり落ちてしまいそうになるのを慌てて胸で堰き止めた。
 そんなに大層なものではないよ、と彼の大袈裟な仕草を笑うけれど、バジルはそう思っていないようで、ゆっくりと首を振りちっぽけなガラス玉を愛おしそうに見詰めた。綱吉に負けないくらい大きい瞳を柔らかく細め、何が嬉しいのか見ている方が照れてしまいそうなくらいに微笑んでいる。
「欲しかったら、あげるよ」
「ですが」
「いいんだ」
 どこで拾ってきたのかも分からないものだ。誰かから貰ったものかもしれない、けれどもう、思い出せない。
 ビー玉という形あるものだけが残って、記憶という曖昧なものは日々の気忙しさに押し流されて跡形も無く消え失せた。だが綱吉はそれを悲しいとは思わない、思い出せないのは大それた出来事だったのではなかったからだと、諦めもつく。
 ただ、そんな綱吉の思いとは無関係なところで、赤いビー玉は今日も光の中で燃えるような色合いを醸し出している。
 この箱の中にあるものは、全部、そういった思い出せない記憶の残骸。積み重ねるだけ積み重ねて、新しいものが上に来たら下にあるものから潰れていく、薄れていく。
 そうしていつか、そう遠くない未来に、置き場所に困ってまとめて捨てられてしまう、そういう軽い、けれど重いもの。
 腕の取れてしまっている人形を取り出して、稼動部分を指で摘んで持ち上げる。これは確か、一昔前に流行ったロボットもののひとつの筈だ。変形合体したら足の部分になるのだが、他の部位はあったはずなのに残されていない。これだけあっても意味が無い上に壊れているのに、どうして捨てずに此処に押し込められているのか、当時の自分の考えが分からなくて綱吉は肩を竦める。
 バジルはまだ、赤いビー玉に魅入られたまま何かを考え込んでいた。
 なにか小難しいことでも思案しているのだろうか。眉間に皺が寄っているのに気付いて、綱吉は小さく吐息を零す。
 良い機会だから、まとめて捨ててしまおうか。けれど、理由を問われたらなんとなく、でしかないけれど、捨てがたい気がして躊躇する。引き寄せたゴミ袋の口を広げつつ、綱吉は結局手にしていたロボットの人形を箱へ戻した。
 今年もこの箱は、このまま押し入れへ逆戻りになりそうだ。逆向いていた蓋を拾い、平らな面で自分の頭を叩いて綱吉は自分にあきれ返る。
 窓の外を向けば太陽は随分と西へ傾き、長い影が壁に向かって伸びている。雲が朱色のグラデーションを作り出し、自然が作り出す造形美に綱吉は肩の力を抜いた。
 この夕焼けと同じ色をした、ビー玉。出所も、由来も分からない、ひとつだけあっても意味が無いのにひとつきりしかない、ただの、綺麗なだけの、ガラス玉。
 バジルは右の掌でこの小さな球体を転がし、飛び出そうとしたところを寸前で握り締めた。
「沢田殿、矢張り拙者は」
「貰ってくれないかな」
 受け取れません、と言おうとした彼の先手を打ち、綱吉が笑う。
 日の光を浴びて前髪の影を額に落とした彼は、緩く握られたバジルの右手を小突いた。
「俺はこのビー玉をどうして持っているのか、もう思い出せない」
 抜け落ちた思い出、忘れ去られてしまった記憶。どれだけ地中深くまで地面を掘り続けても、きっと取り戻せない。無くなってしまったものを新しく作り出すのは、ニセモノを作り出すことに他ならない。
 でも。
「バジル君が受け取ってくれたら、君にこのビー玉をあげたっていう思い出が、新しく俺の中に生まれる」
 全く別の、違う、思い出が。
 だから貰って欲しい。バジルの掌に手を重ね、綱吉は頭を垂らして彼に寄りかかった。
 隠された表情が、やや自嘲気味に笑みを模る。
「沢田殿」
「ゴミを押し付けるつもりじゃないんだ。気に入らなかったら、捨ててくれていい」
 選択肢は、このビー玉が綱吉からバジルの手に移された段階で、バジルのものとなる。
 俺はずるいかな。そう呟き、綱吉は彼の肩に額を押し当てて目を閉じた。
「そのようなことは」
「ううん」
 バジルは優しいから、いつだって誰かを気遣って言葉を選んで喋ろうとする。今だって、綱吉がどうすれば浮上してくれるかを懸命に頭の中でシミュレートしているはずだ。
 それに甘えている。だから自分は、ずるい。
 彼が優しいと知って、彼がこれを棄てるはずがないと分かって、彼に想いを押し付けようとしている自分が。
「忘れないで」
「沢田殿?」
「俺を」
 伏した瞼を開き、色褪せた絨毯の上に落ちる陽光を見詰める。窓枠の濃い影に、洗濯したてのカーテンがゆらゆらと揺れて重なり合っていた。
 バジルが身動ぎし、足の横に垂らしていた左手を持ち上げた。綱吉の肩に指先で触れて、直ぐに引き剥がしたが、綱吉が拒む態度を一切取らなかったのを受けておずおずとではあるけれど、ゆっくり背中に腕を回し自分の側へ彼を引き寄せた。
 抵抗せずに綱吉は彼の胸に寄りかかり、膝の間にもぐりこむ。
 体格的にはそう大差ないふたりだけれど、こうしていると綱吉の方がよっぽど幼く、小さな存在だった。
「沢田殿……」
 右腕も使って綱吉の身体を抱き締め、上半身を揺り動かして綱吉との空間を詰めていく。肘を引いて胸の前で手を丸めた彼は、頚部に触れるバジルの柔らかな髪の感触にくすぐったそうにしただけで、再び目を閉じると浅く息を吐いた。
 ビー玉を目にする度に、バジルはこの先ずっと、綱吉を思い浮かべる。ビー玉と綱吉とが、彼の記憶の中で一本の糸で繋がれる。
 そうやって、綱吉は誰かの――彼の中に、自分の種を植えつける。時間という栄養を得て、少しずつ成長し、彼の心を雁字搦めにしてしまう思い出という名の鎖の種を。
 けれどそれは、綱吉とて同じこと。
 綱吉もまた、同じものを目にする毎にバジルを思い返す。あげた側として、彼がまだ持っていてくれているか危惧したり、もう棄てた頃だろうかと苦笑したりして、自分の中に彼という存在が残る。
 忘れてしまわぬように。
 忘れ去られぬように。
「ごめんね」
 冷たい風が夕暮れの街を駆け抜けていく。押し流されて消えてしまいそうな謝罪は、バジルの耳に届いただろうか。
「忘れません」
 ビー玉なんてなくったって、何も手元に形として残らなくたっても。
 彼は綱吉の細い身体を強く抱いたまま、力を込めて呟いた。
「絶対に」
 だからそんな哀しいことは言わないでください、と。
 体温を吸い込んで暖かくなった緋色をきつく握り締める。
「うん」
 緩慢に頷いた綱吉に「ありがとう」といわせたくなくて、バジルはひとり、唇を噛み締めた。

2007/12/22 脱稿