窓架

 リィン……と余韻を残す鈴の音が響く。
 音に誘われたわけではないが、読んでいた漫画雑誌から顔を上げた綱吉は、投げ出した足の左右を組み替えて一緒になって背筋を伸ばした。
 反り返った身体がベッドのフレームに擦れ、ぎしぎしと音を立てる。真上にやった腕を結んで斜め後ろに倒してやると、丸めた手の甲がベッドに敷いた布団に触れた。
「ん~」
 パッと両手を外し、左右へと勢い良く開く。喧しく床へと着地した掌は微かに痛んだが構いもせず、綱吉は膝の上でだらしなく口を広げている雑誌を脇へ押し退けて首を回した。動作の最中に見た時計は午後三時を過ぎた辺りを示していて、窓から差し込む光はカーテンの揺れ具合で量を増減させながらも、随分と斜めに傾いていた。
 小腹が空いたかな、とまだ凹みが足りない腹を撫でて心の中で舌を出す。おやつの呼びかけは無かったが、下に下りれば何かあるだろうか。
 今や幼い子供が多い沢田家は、四六時中騒がしいことこの上ないのだけれど、こういう定期的な食事に関わる時間帯は特に騒々しくなる。お腹を空かせた子供のエネルギーというものは壮絶で、綱吉ですら時に圧倒させられるほどだ。油断していると容赦なく箸が伸び、人の食糧を奪い取っていく。
 ドタバタ騒ぎの中心に居るのは当然ランボで、泣く、喚く、叫ぶ、の三拍子が揃ったあの子の相手ほど疲れるものはない。けれど時には可愛くいじらしい態度も見せるので、もう知らないと言いながらつい絆されて、結局面倒を見てしまう自分が居る。
「よっ、と」
 下ろしたばかりの腕をまた持ち上げ、反動を利用して体を起こす。立ち上がる最中にずっと放置していた関節の一部がボキボキと音を立てて、軽い痛みに顔を顰めた綱吉は年寄りみたいに腰に手を当て、膝をさすった。
 運動不足をどうにかしないと、リボーンに怒られる。ランボと違って冷徹非道、容赦、手加減という単語はきっと彼の辞書に登録されていないに違いない。どう考えても赤ん坊ではないものの考え方と実力には閉口させられっ放しで、思い出すだけで寒気がすると綱吉は両手で大事に身体を抱き締めた。
 震え上がった心臓を優しく撫でる、風鈴の音がまた響く。
「あ……そうだ」
 もう暦は秋に突入し、日中の暑さはまだまだ厳しいものの日没後の気温は徐々に低下の一途を辿っている。まだまだ暑いからとつい片づけを後回しにしていた風鈴も、いい加減軒下から外してやった方が良いだろう。
 透明の球体ガラスに描かれた金魚は二匹、まるで本物が水の中を泳いでいるようでもある。買ったばかりの頃はあまりにも絵柄が綺麗で、むしろ可愛らしすぎるくらいで恥かしかったのだが、今ではすっかり見慣れてしまって目に馴染み、特別何かを思うことはなくなった。
 存在自体つい忘れかけ、その度にまるで思い出してと言わんばかりに風に揺れた短冊が、球体の内側で幾つもの音を刻む。鼓膜を震わせる幾重にも折り重なった音色に、綱吉は都度ハッと意識を窓の外に向けるのだ。
 今もまた、白いカーテン越しに青空に浮かぶ風鈴の揺れる様をぼんやりと眺める。
 片付けなければと思うのに、まだいいよなとも思うのは、楽しかった夏の記憶が今も胸の中で喧騒と共に蘇るからだ。
 けれど。
「……」
 ぐっと握った拳を硬くして、唇も真一文字に引き結ぶと、綱吉は意を決した様子で右足を一歩前に送り出した。もう一歩、今度は左足を前へ。
 そうして時間をかけて辿り着いた窓辺に立ち、彼は半端に風に押し開かれるだけだったカーテンを一気にレールの端に追い遣った。シャッ、と涼しげな音が一瞬だけ部屋を走りぬけ、無数の襞を作った布が影を背負って色を濃くする。
 視界を遮るものを奪われた窓からは容赦ない太陽光が照りつけ、綱吉の顔を遠慮無しに射した。瞼の奥が焼ける感覚に目を閉ざし、息さえも止めて彼は眩さに慣れるようそっと、少しずつ瞼を開き瞳を馴染ませていった。
 最後は深々と息を吐いて胸の中に残っていた二酸化炭素を押しやり、新鮮な空気を吸い込んで熱を持った窓の桟に手を置く。夏休み中の大掃除、溝も掃除機と雑巾を駆使して綺麗にしたはずなのに、もう既に黒ずみが端から広がりだそうとしていて綱吉は思わず苦笑した。
「よっ、と」
 右足を前に出し、左足を下げる。右の膝が壁にぶつかるくらいに距離を狭め、掛け声ひとつと共に綱吉は左足を後ろに蹴り上げた。
 左手は窓枠を握り、右腕を上へと。真っ直ぐに伸ばした指先がまず短冊に触れ、自然が起こしたのではない音色が風鈴から零れ落ちた。
「っと、っと……く~」
 しかし綱吉が目指すのはそんな当て所なく揺れる短冊ではなく、もっと上の、軒先と風鈴を繋ぐ球体の上面だ。
 ただ勿論、屋根が手の届く範囲にあるなんていう事はなくて、いくら背伸びをしてもガラスに爪が触れるくらいが限界。膝を曲げて伸ばす力を利用して飛び上がってみたものの、下手に握れば風鈴を壊してしまうことになりかねず巧くいかない。
 椅子を持ってくるべきか、しかしコマつきの椅子は支えてくれる人がいないと不安定で、最悪窓から転落、などという間抜けなことも綱吉ならば充分想定の範囲内。
 ちりんちりん、可愛らしい音がひっきりなしに響き渡り、綱吉の頭の中では赤い金魚が目の前を悠然と泳ぎ回っている。
「くっそぉ」
「なにやってんだ?」
 届かない悔しさに歯軋りし、窓ガラスの側面に手の位置を動かして尚もしつこく手を伸ばす綱吉の真後ろから、実にのんびりとした柔らかな低音が彼の首筋を撫でた。
 その予想外の風の到来に、産毛を逆立てた綱吉の指先が金魚の尾を引っ掻いて宙を泳ぐ。
「うわっ、わああ!」
「っと、あぶね」
 そのまま腕はするりと何も無い空間を通り抜けて下へと。導かれるままに体までもが前へ傾ぎ、上半身の殆どが窓枠から外へ飛び出した綱吉の慌てぶりに、声の主もまた焦りを含んだ声を上げて手を伸ばした。
 咄嗟に掴んだのが綱吉の着ているシャツの、襟だったのは仕方が無いのだろう。首が絞まってぐえ、と潰れた蛙みたいな声を出した彼を室内へ引っ張り戻した山本は、音を立てて尻餅をついた綱吉に涙目で睨まれ、悪い、と舌を出した。
「あー、もう。吃驚した」
 強かに打ちつけた腰をさすり、どうにか立ち上がった綱吉が白のポロシャツにジーンズという出で立ちの山本を振り返って愚痴を零す。彼の後ろでは破壊を免れた風鈴が、己の無事を証明するかのように控えめな音を奏でた。
「悪い、悪い。けど、ツナ、呼んでも返事しねーんだもん」
 右手を縦にして顔の前で構え、瞳を細めた山本だけれど、自分ばかりが一方的に責められる謂れは無いと左手は腰に当てて胸は反り返す。今度は綱吉が「そうだっけ?」と首を傾げる番だ。そもそも彼は、いったいいつ、何処からやって来たのか。
「何処って、そこ」
「いや、ドアからってのは分かるけど」
 開けっ放しの扉を指差されるが、そういう問題ではないと綱吉は肩を落とした。
「歩いてたらお前が窓から身乗り出してるの見えたからさ。何やってんだろうな~、って思って」
 今日彼が訪ねてくる約束はしていない。いきなり現れた彼に綱吉は驚いたが、山本にはもっと前から綱吉の姿が見えていたのだ。確かに表通りに面した部屋だから、窓から顔を出していれば当然道から綱吉は丸見えだ。
 ただ風鈴の小ささと屋根が視界を邪魔して、彼が単に身を乗り出しているだけにしか見えなかったのが山本には疑問だったらしい。
 丁度暇だったし、と旧知の仲である奈々に頼んで家にあげてもらったが、肝心の綱吉は呼びかけても必死になっていた所為で反応しない。だから勝手に部屋に入ったのだが……と、ここまでが山本の弁。
 ちりん、と鈴がまた揺れる。
「外すのか?」
「あー、うん。でも」
 流石に室内まで来れば、綱吉が何をしたがっていたのかも分かる。山本の問いかけに、膝を伸ばした綱吉はまた窓に向き直って左手で揺れるガラス玉を指差した。
 届かないのだと苦笑いを浮かべる。
「椅子持ってくるし、山本、悪いけど支えててくれる?」
「ん? いーぜ。ちょっと待ってな」
 言いながら山本は、けれど綱吉の意思と本人の返事に反して窓辺の綱吉の後ろに立ち、彼の行動を阻害した。
 道を塞がれて移動が出来ず、困惑気味に綱吉は眉を潜めて上背のある彼を振り返る。整った顎のラインが見えて、その向こうに白が踊った。
 綱吉の左肩に、山本の手が乗る。軽く握られて、綱吉は咄嗟に前に向き直り顔を逸らした。
 爪先立ちになった彼の体重を背中に感じる。僅かに汗ばんだ肌を布越しに受け止めて、伝わってくる拍動の確かさに綱吉は僅かに顔を赤らめた。
「やま……」
「よっ」
 呼び慣れている彼の名前が舌の上で凍り付いている。息を詰まらせた綱吉だったが、当の本人は短い掛け声の後、ゆっくりと姿勢を戻し綱吉に預けていた体重を自分に戻していった。
 乾いたガラスの音色が右耳の直ぐ横に。
「取れたぜ?」
 ほら、と綱吉の顔の前まで風鈴を移動させた山本の、白い歯を見せて無邪気に笑うその顔がどうしてだか無性に悔しくて。
「うぉ?」
 綱吉は思いっきり、離れていこうとする山本の胸に、背中からぶつかっていった。

2007/8/28 脱稿