茨の牢に閉じ込められた気分だった。
道は無い、前にも後ろにも進めない。動けば身体中に棘が刺さって血が流れる、けれど動かなければ其処からは永遠に抜け出せないのだ。
足掻き、抗う。身体中は傷だらけで、痛みは熱となり全身を苛む。息を吸うだけで喉が焼けるようで、乾ききった目は光を捉える術を忘れて涙さえ枯れた。肉は裂けて骨が砕け、最早自分が人としての形を保ち続けているのかさえあやふやであり、立っているのか座っているのか、生きているのか、死んでいるのか、それさえも分からない。
それでも心は懸命に出口を求め、藻掻き続ける。
自分が道を作らなければ、他の誰も後ろを通れない。
この暗く苦しい牢獄に囚われているのが自分だけならば、早々に諦めもついただろう。けれど後ろには、大勢の、道にはぐれた仲間がいる。
だから、決して歩みを止めてはならないのだ。
自分に言い聞かせ、腕を前に伸ばす。何かを掴んだ気がして、その瞬間に掌を貫いた熱に悲鳴をあげた。
でも、でも行かなければ。進まなければ。闘わなければ。守らなければ。
心が辛いと叫んでいる、身体が痛いと泣き喚いている、魂が寒いと震えている。それでも。
行こう、行かなければ。やらなければ、走らなければ。抜け出さなければ、帰してやらなければ。
皆を、自分が。俺が。
だから傷つくことは畏れない、怖くは無い。
怖くは無い、怖くは無いんだ。
こわくは――
目の前を駆け抜けた光の螺旋に、僅かに遅れて鼓膜を破る寸前の爆裂音が轟く。
「ぐぁっ!」
一瞬の隙を狙って背後に回りこんだはずなのにあっさり見抜かれ、痛烈なカウンターを浴びた綱吉の体はくるくると輪を描いて対面の壁に激突した。連日の特訓ですっかりボロボロになっていた壁材は綱吉の身体を支えきれず、バラバラに砕けながら頭を下にした彼ごと床へ落下する。
背骨に続いて頭まで痛打して、危うく首の骨まで折れるところだった。激突した瞬間星が散り、集中力が切れたのだろう。それまでか細くも灯り続けていた額の炎は、音もなく掻き消えた。
「う……いっつー」
頭、首に続いて上半身、下半身も横倒し状態で床に転落し、綱吉は立て続けに自分を見舞った激痛に苦悶の声を上げる。頭にはきっと瘤が出来ているだろう、首の後ろがじんじんと痛むし、背中もずっと痺れたままだ。
声を出すのもやっとで、吸い込んだ空気が肺を内側から刺してこれも痛い。息を吐くのも一苦労で、喉の手前で引っかかり咳き込むことでやっと呼吸が繋がる調子だ。
カウンターで繰り出された彼の肘は、容赦なく左の頬を突いてくれた。唾を飲むと錆びた味がして、吐き出せば案の定赤い。
幾度となく殴られ、蹴られ、弾き飛ばされて、遠慮の欠片も見当たらない攻撃にいい加減痛覚も麻痺しそうなのに、そうならない。綱吉は濡れた唇を手の甲で拭い、しかしそこも擦り切れて血が滲んでいるのを後から知って、結局痛みを増幅させた上に顔を汚しただけに終わった行為に舌打ちした。
よろめきながらも右腕に力を込め、残っている僅かな力を振り絞って起き上がる。だが床面に対して垂直に身体を伸ばした瞬間、バランスを崩して左側へ大きくふらついてしまった。
肩が壁に当たり、衝撃に耐えられなかった壁材が崩れていく。凭れ掛かることでどうにか状態を維持した綱吉は、荒く乱れた呼吸に四苦八苦しながら奥歯を噛み締め、前方で涼しい顔をしている雲雀を睨みつけた。
悔しいが、これまで一度として彼に一撃を与えられずにいる。いつも一方的に嬲られるばかりで、綱吉の繰り出す拳は常に彼の周囲を空回りし続けた。
こんなところで、歩みを止めている時間は無いというのに。
「っく……そ!」
いつまで経っても進歩らしい進歩が見られない。速度は最初に比べて格段に上がっているし、攻撃の精密さも増しているはずなのに、どうしてだか雲雀の髪の毛にすら拳は掠らない。トリッキーな動きを展開して見切られないように試行錯誤しても、結果は常に同じだった。
自分と彼とでいったい何が違うのか。雲雀は最初の立ち位置から殆ど移動していない。
「終わり?」
「まだまだ!」
冷々とした声で問うた雲雀に向けて気合を振り絞って叫び、綱吉は霧散していた意識を集中させた。途端に両手の拳を包むグローブが温かな熱に覆われ、やがてそれは焼け焦げるまでの熱量を放った。
「くうっ」
いつもならここで拳に炎を集約させられるのに、そうならない。手首まで伸びた炎が逆に綱吉を飲み込もうと蛇の舌をちらつかせている、呻いて表情を険しくさせた綱吉を見据え、雲雀は握ったトンファーをくるりと回した。
斜め横を見た彼の瞳には、失望の色さえ浮かんでいる。
「っそぉ!」
そんな表情は見たくなくて、彼にそんな顔をさせる自分も嫌で、綱吉は渾身の力を込めて拳を強く握り締めた。
いっそ折れてしまえ、半ばやけくそ気味に念じ涙を浮かべそうになる心を堪える。
と。
「つまらないね」
ぽつり、零れ落ちた雲雀の声。
虚を衝かれ、綱吉の集中が再び途切れる。
「う、あ!」
本当に一瞬の間だった。しかし一度制御を離れた炎は暴走を開始し、主である綱吉に襲い掛かる。落ち着いてやれば全く問題ないことなのに、日頃の特訓疲れに予断を許さない状況に対する緊張感、慣れない生活での疲労は蓄積されるばかりだった上に、此処に来て重要な決断を迫られた影響もあるのだろう。迫り来る赤い舌に怯えた表情を浮かべた彼は、自分を忘れて狼狽し己を包む炎から逃れようと身を捻った。
しかし逃げ場など、何処にもありは無い。
「うわっ、あ、あああ!」
「見苦しいね」
炎の勢いは徐々に弱まっていくのに、綱吉の心理状態は混乱の一途を辿って錯綜する。完全に我を忘れて恐怖に呑まれようとしている彼に肩を落とし、雲雀は数歩で埋まる距離を一気に詰めた。
右手を伸ばし、指を広げる。綱吉は炎の幻に囚われ、雲雀の接近に気づかない。
空を掻いた彼の指先は中指だけが壁に触れ、それを合図に肘が外側に向いて角度を作った。掌に柔らかな髪の毛を受け止め、雲雀は何も言わずに綱吉の頭を自分の胸へと抱きこむ。
ぼすっと軽い音が空気を押し出し、思いがけず触れた他者の熱に綱吉は目を見開き、そして閉じた。
「う……」
「情けないね」
雲雀に頭を撫でられて漸く落ち着きを取り戻し、正常な呼吸を取り戻した綱吉に雲雀が冷淡な感想を呟く。しかし否定出来なくて、綱吉は苦い唇を舐めて頭を垂らした。
「今日はここまでだね」
体力的にも限界に来ている、ひとりで立つのもやっとな状態で雲雀に一矢報いるなど出来るわけがない。死ぬ気の炎さえろくに扱えぬようでは、己の寿命を縮めるだけだ。
淡々と抑揚に乏しい声で事実だけを展開させる雲雀に、抱えられるばかりの綱吉が身動ぎする。肩を揺らして後頭部を抑えている雲雀の手から逃れようとして、気づいた彼の腕が離れていった瞬間、膝が折れてまた床へ逆戻りだったが。
ぺたんと力なく崩れる身体に、綱吉は悔しげな表情を浮かべて拳を作る。
「まだ、です」
震えは治まらず、痙攣する指先は硬い。しかしのんびりしてなどいられない、こうして座り込んでいる時間さえ惜しい。
だから、綱吉は襤褸布に等しい自分を顧みようともせずに顔を上げ、雲雀を睨んだ。
涼やかな、決して揺らぐことのない深い闇がそんな綱吉をじっと見下ろしている。
何の感情もそこに宿らず、故にただ冷たいだけの視線。ぞっとする静かさに綱吉は瞬間声を詰まらせ、全身を震えあげさせた。
怖い、敵わない、太刀打ち出来ない。
今立ち上がれば彼は容赦なく、綱吉の頚椎を打ち砕くだろう。
声さえも出せず魂を萎縮させた綱吉に嘆息し、雲雀は僅かながら瞳に色を持たせた。引き結ばれた唇は不機嫌なままだったが、世界の全てを否定して打ち壊す覚悟さえ感じさせる雲雀の冷たさに、綱吉はまだ立ち直るきっかけを見出せず呆然とするほか無かった。
この人はこんなにも。
こんな絶望を上回る凍えた瞳をしていただろうか。
「今日はここまでだ」
「ま、ってください!」
「ここまでだよ、沢田綱吉」
「ヒバリさん!」
トンファーをしまうべく内ポケットから匣を取り出した雲雀の姿に、綱吉は咄嗟に甲高い声をあげた。前に出ようとするが膝は動かず、上半身だけが傾いで倒れ行こうとする。慌てて前に突き出した右手をつっかえ棒にしてなんとか耐えるが、その頃にはもう彼の武器は掌大の匣の中だった。
特訓開始時とまるで変化の無い、服の皺のひとつさえ増えていない彼に、綱吉は唇を震わせて嗚咽を呑んだ。
こちらは着ていたシャツの袖は破れ、右肩は露出している。ズボンもあちこちに亀裂が入り、解れた糸に血が滲んで黒ずんでいた。最初は白無地だったシャツも今では黒と灰色と赤が入り混じった斑模様が形成されていて、洗って繕ってもきっともう着られない。
対照的過ぎて、勝敗の結果は問うまでもなく一目瞭然。
だがそれではだめなのだ、このままでは。
残り数日、その限られた時間の中で雲雀に勝てる術を見つけなければ。
皆が。
「つまらない子」
心底そう思っていると分かる口調で雲雀が呟き、黒スーツの内ポケットへ匣を片付ける。腹立たしげに顔を歪め、自分の非力さに落胆を隠せない綱吉を前にしても、彼には綱吉を慰めようという気持ちは一ミリとして持ち合わせていないようだった。
「まだ……まだやれます!」
気が急く、雲雀にまで見捨てられたら最早なす術がない。
ラル・ミルチには頼れない、今の彼女にこれ以上負担をかけるわけにはいかないのだ。リボーンは山本の相手で手一杯だし、皆が皆、自分の事だけで必死で。だから是が非でも、雲雀にはもう少し付き合ってもらわなければ困るのだ。
なのに。
「やれます、だから!」
「嘘つきは嫌いだよ」
震える足を叱り付け、丹田に力を込めて立ち上がる。よろよろと頼りない状態ではあるがなんとか壁の存在も借りて起き上がった綱吉の訴えに、雲雀は冷徹な視線を投げた。
掲げられた彼の指が綱吉の眉間に触れる。たいした力も加えられていなくて、弾かれるのかと思ったがそうではなく、ただ単純に、押された。軽く。
しかしたったそれだけの事で綱吉の体は後ろへと傾き、腰から背中、次いで頭が順繰りに崩れていった。
埃が舞い上がり、天井から射す照明の中でキラキラと場違いなまでに綺麗に光を反射させる。苦痛に悶え苦しむしかない綱吉は気管に刺さったその細かな塵に咳き込み、身体を横倒しにして膝を丸めた。
「げほっ、カッ、ハ……!」
涙が浮かび、視界が滲む。惨めな自分を意識させられ、喉を両手で押さえ込んで綱吉は唇を噛み締めた。
どうして、分かってくれないのだろう。一刻一秒でも時間が惜しいことくらい、雲雀だって充分分かっているはずなのに。
それなのに。
「格好悪いね、沢田綱吉」
「ケホッ、ッァ――イっ!」
呼吸をする度に喉が引き裂かれる痛みに襲われる。肺が炎症を起こしているのか、逆流しようとする胃液も苦くて辛さを増長させる。もんどりうってうつ伏せになると、堪えきれずに今日食べたものがその形状を辛うじて留めた状態で吐き出された。
のみならずどろっとした感触が舌の表面を撫でて、ゼリー状の赤黒い塊さえもが綱吉の両手の間に生れ落ちる。ぬらつく表面に新たな吐き気を覚え、綱吉は今しがた自分の体から出てきたばかりの、親指大の凝固した血塊から目を逸らした。
一歩間違えば死ぬ、雲雀はその加減を熟知している。ぎりぎりで死なない境界線、綱吉の致命傷を薄皮一枚のところで避けて攻撃を繰り出して、綱吉を追い込む。
「それでもまだやるの?」
息も絶え絶えに口元を真っ赤に染めている綱吉の、力の入らない四肢を見下ろして雲雀が問う。当たり前だと言い返したいが、肉体は限界を訴えて憚らない。頷き返すのさえ激痛が伴い、綱吉は首肯しようとして逆に痛みに身を仰け反らせた。
膝を折った雲雀が、綱吉の痣になっている頬に触れる。
「っ!」
声にならない悲鳴に綱吉が身を固くし、口の中いっぱいに広がった血の味に涙を零す。その透明な雫を掬い上げた彼の指は、空中に放物線を描いて閉ざされた綱吉の瞼に落ちた。
否、正確にはその下にある隈に、だ。
急激な状況の変化、理解を越えた戦術、非戦闘員さえも巻き込んだ非情なる敵。
目まぐるしく変わる世界、急に背負わされた責任、つきつけられた現実。
心休まる暇もなく、猶予もなく、逼迫する現状を打破する為の策さえもなく、力も無い。
なにひとつ、綱吉には与えられず、残されておらず。
足掻き苦しみ、懸命に掴み取ろうとしているものからも蹴り返され、なす術もなく朽ちていく事しか許されないとでも言うのか。
「い、や……だ……」
泣きたくない、哀しくもないのに。
それなのに嗚咽は止まらず、涙は目尻を伝って次から次に溢れていく。
守れず、救えず、貫けない。根元からぽっきりと折れてしまった心が鮮血を噴いて枯れていく。
「いや?」
雲雀の声は静かだ、どこまでも。
或いは彼の心もまた、十年後の自分がこの世を去った日に一緒に喪われてしまったのか。
「なにがいや?」
問いかけが風のない湖面に波をもたらす。
綱吉の目尻までを撫でた彼は、ゆっくりと指を外して涙に濡れる彼の両瞼を覆い隠した。綱吉は鼻を啜り、口を開いて息を吸って、懸命に吐き出した。
「このままなら、君は負けて、死ぬ」
あくまでも静かに。
淡々と。
演劇の台本を読み上げるように、つらつらと、淀みなく、ただ真実だけを告げる彼を黙らせる術を、綱吉は持ち得なかった。
「皆、死ぬ」
「……っ」
慟哭が胸を支配する。恐れている現実が目の前に横たわる、瞼の裏に広がるは血濡れた道だ。
雲雀が掌を上にずらし、綱吉の汚れた前髪を掬い上げた。無数の傷痕が残るその肌をそっと愛おしむようにして撫で、髪の毛を梳いて去っていくのを、綱吉は辛うじて開いた右の瞳で見送った。
仕草はあの頃の、綱吉が知る雲雀そのままなのに、彼の瞳だけが暗い。
深い、闇。底知れぬ哀しみが沈んで、綱吉が彼の為に泣くことさえ拒んでいる。
「ぅ……」
「痛い?」
身を起こそうとして力を入れて、失敗する。肘が外側に倒れて、壁材の欠片が手首を打った。
彼の低い声での問いかけに、綱吉は頷こうとして途中で止めた。残る片目も開き、黒を纏う雲雀を見上げる。
「へ、……き」
乾ききった唇に新たな血を呼ぶと分かっていても、言わずにはいられなかった。
痩せ我慢だと誰が見ても思うだろうことを、とても平気だとは言えない状態にありながら、それでも綱吉は言葉を選び、告げた。
正直言えば痛いし、今すぐ気を失って楽になりたい。けれどそんな事をしても、安らぎはやってこない。
自分がやらなければ、闘わなければ。たとえその先に待っているのが明確な死であっても、それでも尚。
皆を。
「そう」
すっと視界を縦に過ぎ去った雲雀の指が、綱吉の頚部に触れた。そこへの攻撃は致命傷となりやすい為雲雀も意図的に避けていたからか、他の箇所に比べて傷も少なく、綺麗なままの肌が残されている。とはいっても今は随分と埃と血にまみれ、灰色に汚れてはいたが。
彼の指は幼い喉仏を擽り、親指を左へ、残る四本の指は揃えて右側へずらした。ぴたり、と指の股が綱吉の細い首に張り付く。
差し込まれる感覚に綱吉は喘ぎ、心臓を竦ませた。
見上げる雲雀の表情は先ほどからまるで変化が無い、能面のようで、下手に綺麗な顔立ちのお陰で余計に不気味さが募る。なにをされるのか分からず、しかし巡る思考はひとつしか答えを導き出さない。
怯えに揺れる綱吉の瞳を無感動に見詰め、雲雀は利き腕に力を込めた。
「ぅぁっ」
絞めつけられ、骨が軋んだ。直後にあがった綱吉のしゃがれた声に、しかし雲雀は手を緩めようとせず、喉仏を容赦なく潰し、気管を遮り、動脈の流れを阻害する。脳への酸素供給を減らし、白目を大きくさせて瞳孔を広げた綱吉に対して、雲雀はどこまでも無表情を貫いた。
苦しさに呻き、綱吉が辛うじて動く左手で雲雀の手首に触れる。しかし握り、引き剥がすところまでには至らず、爪先が虚しく彼の袖を引っ掻いただけに終わった。
それでも懸命に抗い、綱吉は彼の袖のカフスを弱々しく掴んで引っ張る。細い糸は元から弱かったのか綱吉の肘が落ちると同時に千切れ、彼の手の中には銀色の、小さく十字架が刻まれたボタンだけが残された。
「どうせ死ぬのなら、今此処で、僕が」
朗々と語る雲雀の声が遠くなる。意識が暗がりに沈み、無数の水泡に視界が閉ざされようとして綱吉は絶望に涙する。
「殺してあげるよ」
望まない椅子に座らされ、分不相応な立場に置かれて苦しむくらいなら。
争いごとは嫌いだと公言しながらも周囲がその日和見を許さずに、ただ巻き込まれるままに己の道を見失って行くくらいなら。
敵に蹂躙され、誰も知らぬ場所で惨めな末路を辿らせるくらいならば。
あの子と同じ道を歩むというのなら。
今度こそ、この手で。
誰かに奪われる前に。
囚われている君を。
自由に。
ぎりぎりと、雲雀の指は少しずつ締め付けを強めていく。手放しかけた意識を必死に繋ぎとめ、綱吉は虚空に歪む彼の姿を懸命に網膜に焼き付けた。
どうして、と。
「ひ……り、さ……」
弱り行く唇で彼の名を刻んだその瞬間だけ、雲雀の拘束は僅かに緩まった。しかし直ぐに、初めて感情らしい感情を露にして、彼は奥歯を噛み締めてより強く綱吉を締め上げた。
苦しめられているはずの綱吉よりも、苦しめている側の筈の雲雀の方が、よっぽど苦しげな表情をして。
「……だ……」
握る力も失せた綱吉の手から、雲雀のカフスが零れ落ちる。床の上で跳ね返りもせずに静かに揺れてやがて止まったそれを視界の端で捕らえ、雲雀は辛そうに眉間の皺を深め、首を振った。
「……して」
静かに、微笑みにさえ見える表情で、綱吉が。
「……め……」
「どうして君は!」
そっと、重ねられるだけの掌の温もりに雲雀が肩を怒らせ、激高する。
瞬間解放され、綱吉は急激に喉を焼いた酸素に噎せ返った。停滞していた血流が瞬時に加速する、首のみならず全身が熱を発して生きながら焦がされる感覚に綱吉はのた打ち回った。
膝を引いて立ち上がった雲雀が、左右に大きくふらつきながら自分の右手を呆然と見下ろす。細かく震える肘から先を左手で押さえつけ、彼は鈍い輝きを放つ天井を仰いだ。
「……して、君はいつも……」
彼方を見上げたまま、雲雀が酷く頼りない声を搾り出す。喉元を抑えながら裏返った体を少しだけ持ち上げた綱吉が、薄明かりの中で影を作り出す雲雀の、恐らくは今の綱吉に向けてではないことばを聞いた。
「どうして君はいつも、いつだって! 大丈夫だと言って笑うんだ!」
握り締めた右の拳で壁を殴りつけ、その手に傷を自ら作り出して、雲雀は。
苛立ちと哀しみと、怒りと嘆きに満ちた表情で綱吉を、綱吉の後ろにいる人物を睨みつけた。
「あの日も、君は、君はそう言って出て行った。そしてどうなった、大丈夫な筈がないと分かっていたのに、どうして君は止まらなかった。どうして! どうして僕は、あの日の君を、君を……」
血を滴らせる手で額を覆い、雲雀が深く項垂れる。
ああ、茨だ、と。
雲雀の周りに、彼を取り込んで傷を負わせる茨が見える。
「り……さ、ん……」
膝を折った彼に手を伸ばす、しかし限界を超えた体は思う通りには動いてくれず、たった一センチ位置をずらすだけでも走る激痛に綱吉は新たな涙を零した。
雲雀が顔をあげる。
「君を」
腕を伸ばし、彼が綱吉の地に落ちた手を掴む。乱暴に引っ張り上げ、抱え込み、背中に腕を回して、綱吉の体の痛みになど全く気を配りもせず。
けれどその一方的なところが彼らしいと綱吉を安堵させて。
「どうして」
笑うな、と怒られて綱吉はぐしゃぐしゃの顔を更に皺くちゃに丸めた。
「今度こそ」
頭を抱えられ、強く抱き締められる。
久しぶりに聞く、自信に溢れた彼の声。今彼の目の前にいる綱吉に向かって言い放たれた、彼のことば。
「失わせない」
綱吉が居なくなった世界が、今のこの状況を作り出したのであれば。この混乱を、招いたのであれば。
もう二度と、彼の居ない時間を作り出さないためにも。
綱吉が雲雀の上着を握る。弱々しく引っ張って、頭を抱く腕から力を抜かせた。
呼吸が少し楽になって、ケホッと咳き込んでから綱吉が顔を上げる。屈託なく笑うその姿に、一瞬虚を衝かれた雲雀は目を丸くした。
「かえってきます」
だから、大丈夫。
大丈夫、こわくない。
ひとりでは抜け出せない茨の牢も、ふたりでならきっと平気。
ひとりじゃないから、こわくない。
「つなよし……?」
「ヒバリさんの時間に、俺は、ぜったい、かえってきます」
ね? と微笑んで。
「……ああ」
気を失った綱吉の体を、雲雀はそっと、抱き締めた。
2007/11/15