ざわついた空気が教室内に漂っている。
もうじき授業開始のチャイムが鳴るというのに、廊下にまで飛び出してお喋りに興じる人の姿は絶えない。空腹を訴えて休憩時間開始と同時に購買部へ駆け出して行った男子生徒の騒々しい足音が戻って来て、半端に閉まっていた後方の扉が勢いよく横に開かれた。
むしろ勢い良すぎてドアは壁にぶつかってレールの上を跳ね返り、通り過ぎようとした彼の横っ面にぶつかっていく。驚いて目を丸くした彼が、ちぇ、と足でまたドアを蹴って、その様を目撃したクラスメイトが一斉に声を立てて笑った。
当の本人も、一瞬だけ唇を尖らせて拗ねた表情を見せたものの、また直ぐに幼さを残す笑顔を前面に振り撒いて、戦利品だと購買に残っていた惣菜パンを大事に両手で抱え直すと、横から伸びてくる無粋な手を肘で払いのけて自席へと慌しく戻っていった。
体格が小さい割によく食べる彼は、三つ、四つあるそれらを机に山盛りにすると、すかさず傍へ寄って来たチームメイトの好奇の視線にも構わず、最初のひとつを破いて取り出し、大口開けてかぶりついた。
「田島、一個」
「ふぁふぇー」
口の中を一杯にしているから、発音がおかしい。泉の物欲しげな視線を突っぱね、田島は恐らく「ダメ」と言いながら残るパン三つを自分の側へと引き寄せた。
もごもごと忙しく口を動かし、あまり咀嚼もせずに飲み込んでいく。途中で塊が大きすぎたのか一度盛大に噎せて、咳込んだ時の唾が散って泉は慌てて後ろに跳んで避けた。
頭上で、午後最後の授業の開始を告げるチャイムが鳴り響き始める。
「次、自習だってー」
「まじでー?」
「センセ、出張だってさ」
職員室から戻って来たであろう別の生徒の言葉に、一瞬静まり返った教室が再び活気を取り戻した。
「課題のプリント貰ってきた~」
「えー、やっぱあんのかよ」
「図書室行く奴~」
けれど二言目に発せられた彼の言葉にブーイングが発生し、その横ではマイペースな生徒が素早くクラス内を仕切り始める。
三橋はそれを、ぼんやりと窓辺の自席で聞き、眺めていた。
田島はパンを食べる速度を若干緩め、泉はまだ彼から戦利品を奪い取るのを諦めていない。浜田が欠伸を噛み殺しながらそのふたりへ課題のプリントを運んでやり、最後に三橋の方へ近づいて来た。
間近で響いた足音にびくっ、と肩を大仰過ぎるくらいに震わせた彼だが、接近する影が幼馴染と気づいて安堵に表情を和らげる。浜田はそんな彼の頭に被さるように、持ってきたプリントを置いた。
「うひゃ」
「三橋も図書室行く?」
教室とは違い、図書室は空調が利いている。見れば既にクラスメイトの半数は、各々筆記用具と課題を手に移動を開始していた。教室に居残っても勿論構わないのだが、クラス全体の空気からして移動する方に傾いているのは一目瞭然だった。
しかし三橋は、自分のひよこ頭からプリントを掴んで下ろし、首を横に振った。
「そっかー?」
ひとりで出来るか? と自分の分のプリントを見た浜田に、コクンと三橋は首肯して机に薄いわら半紙を置く。さっきの授業で使ったノートがまだ開いた状態で残っていて、その真っ白な紙面に心配げな表情を作った浜田ではあるが、後ろから泉に呼ばれて急ぎ振り返った。
「みはしはー?」
「残るってさ」
「なあなあ、グラウンドいかねー?」
「お前、課題はどーすんだよ」
一秒でも早く外へ走り回りたいと疼いている田島の頭を小突き、泉が筆記用具を手にその他大勢のクラスメイトに追随する。彼らが出て行った後の教室は、人気がすっかり失せてシンと静まり返り、薄ら寒い空気さえも感じて三橋はそっと自分の腕を抱き締めた。
図書館へ行かなかった数人が、机を寄せ集めて一箇所に固まり、早速課題のプリントに取り掛かっている。ひとりきりで居残っているのは三橋だけで、彼は僅かに焦点がぶれた瞳を何も書かれていない正面の黒板に向けてから、自分の手元を見下ろした。
教室を出る間際、泉はいつでも追いかけて来い、と言ってくれた。田島はどことなく覇気が感じられない三橋の態度に、腹が空いたのかと菓子パンをひとつ恵んでくれた。浜田は、分からなかったらいつでも聞けよ、と癖っ毛の頭を撫でてくれた。
両端を指で摘み、軽く持ち上げたプリントに視線を走らせる。
社会、は、少し……苦手。でも、数学や英語より、は、……まだ、大丈夫。
心の中で呟いて、三橋は広げたノート上に転がしていたシャープペンシルを握った。銀色のスチール製のそれには、もう殆ど読めない白い文字が刻まれている。使い込みすぎて剥げてしまったアルファベットの名残に一度目を向けた彼は、下唇を口腔に巻き込んで浅く噛み、首を振った。
カリカリというペンを走らせる音が静かな教室に、水紋のように広がっていく。誰かが解らないと呟き、答えを教えあうクラスメイトの背中を見やって、また激しく、或いは挙動不審気味に頭を振り回した三橋は、気づいて振り返った生徒に笑われて顔を赤くし、慌てて縦にしたプリントで顔を隠した。
開け放った窓からは、他所のクラスの音が幾つも混ざり合って流れてくる。普段は自分の教室で行われている授業の音声が勝るので、感じたことは無かった。だから妙に目新しく不思議な感じがして、既に第二問目で行き詰っていた三橋は、シャープペンシルの尻で顎を小突きながら目線だけを斜め上向けた。
大きな綿雲の隙間から顔を出した飛行機が、音もなく青空に軌跡を残して消えていく。跳ね返った光は眩くて、三橋は左手を持ち上げて庇にして空を見上げ続けた。
吹き抜けた風がカーテンを膨らませ、そんな彼から空を奪い去る。
「うっ」
バサバサと音を立てて暴れるカーテンに襲われ、右手も咄嗟に持ち上げて顔を庇う。きつく閉ざした瞼には飛行機の残影が薄ら残り、鼻腔を擽る匂いは空と大地と、懐かしい景色に彩られた。
『れーん』
微かに、遠く。
『部活いくぞー』
『うぁ、う……ご、ごめっ』
『どした?』
『先、行って……俺。ま、まだ』
『あー? なに、英語? どれ。どれがわかんない?』
制服、ブレザー。成長期だからと大きめに作ってもらって、けれどまだまだ袖が余る。鞄、肩に担いで左手には部活用の荷物を入れて膨らんだ巾着。
誰も残っていない教室、窓から差し込む光は鮮やかな夕焼け色に染まったオレンジ。
床には長く伸びた机の影が幾つも。天井の照明は消されて、横から浴びる陽光だけが唯一の光源。入り口を振り返った彼は、仕方が無いなという素振りで鞄を足元へ下ろした。
誰の机かは知らない、適当に近くにあった椅子を引いて腰を下ろす。
『うえっ』
『どれだよ、教えてやるから。んで、さっさと終わらせて、一緒に部活行くぞ』
『うぁ、で、でも』
『いーから! 分かんないの、教えろって』
『ぁ、えと……これ』
『これだけ?』
『……あと、これ、と……』
これも、と指差した穴だらけのプリント。彼の顔が次第に呆れた表情に変わっていくのが分かって、見たくなくて俯いた。
ピッチャーとしての技量も全然なくて、それでも投げる執着心だけは人一倍で。県外から進学してきた理事長の孫で、教師達は腫れ物に触るみたいに扱ってきて、クラスメイトもどことなく距離をおきたがって、あまつさえ救いようがない頭の悪さ。
馬鹿にされこそすれ、人に好かれる要素がひとつもない自分が悲しくて、握り締めたシャープペンシルが折れてしまいそうだった。
『んー……ちょっと待ってな』
身を低くした彼が、床に置いた自分の鞄を広げて筆記用具を取り出す。ペンケースから出て来た銀色のシャープペンシル、二回ノックをしてプリントを人の手から強引に奪い取った彼は、背中を丸めて机に寄りかかり、眉間に皺を寄せた。
先に行っても良いと言ったのに聞いてくれなくて、解らないところが多すぎと匙を投げると思ったのにそうじゃなくて。
大丈夫、といいたいのに「だ」の音しか発音できない自分の額を、彼は笑いながら指で小突いた。
半泣きでぐしゃぐしゃになった顔が、余計に締まりが悪くなる。首筋を撫でた夕方の生温い風に身を竦ませれば、素早く一問目に回答を書き込んだ彼が顔を上げて白い歯を見せて笑った。
『レンは、ほんと、泣き虫なんだから』
やっぱり俺が傍に居てやらないとダメだな、と。
夕焼けよりもずっと眩しい笑顔で、彼は。
視界がオレンジから白に、そして青に舞い戻る。ハッと我に返った三橋は、ゆっくりと窓辺に戻っていくカーテンの動きを首ごと追いかけ、忘れていた息を吐いた。
「あ……れ」
不意に蘇った懐かしい記憶に、目を瞬かせる。行き場を失った視線を手元に戻せば、握り締めていた銀色のシャープペンシルが掌の上から転がり落ちていった。
「あっ」
慌てて手を伸ばし、机から落ちていこうとするのを寸前で止める。ホッと安堵の息を吐けば、風が揺らしたカーテンが優しく手の甲を撫でていった。
掠れて読み取るのさえ困難になった文字、耳を澄ませてももう聞こえない彼の声。
親指でなぞった白が残る銀色のペンを一層強く握り締める。あの時、自分は果たして、彼になんと答えたのだろう。
三橋は俯き、そして静かに顔をあげた。
「だいじょ、ぶ、……だ、よっ」
たとえ傍に居なくても。彼がくれた思いは確かに、自分のこの胸の中に。
深く、深く、息づいて。
それでもまだ、もし君が、不安に感じているのだとしたら。
どうか、夕暮れの風よ。
この声を、彼へ。
届けて――――
2007/8/28 脱稿