姫彼岸

 潮騒が聞こえる。
 ザァ……と寄せては戻る波が岩に砕かれ、散り散りになりながら母なる海へ呼び戻される音だ。
 風が吹いてきたのだろうか、締め切っている窓がカタカタと小刻みに揺れて、床に伸びる星明かりの影にも細波が降り立っている。
 部屋の照明は消され、薄絹のカーテン越しに映える星々の煌めきだけがこの場で唯一の頼りだった。時計は間もなく午前零時を指し示そうとしており、丑三つ時には遠いながらも深夜と呼んで差し支えない時間帯としては、月も殆ど無いに関わらず空は思いの外明るかった。
 照明器具も無い昔は、人々は月と星の明るさを頼りに夜を過ごしたのだ。知りもしない時代に思いを軽く馳せ、重厚な執務室の前に腰を下ろした彼は頬杖を解いて椅子の背凭れへ身を預けた。
 初めてこの椅子に座らされた時は、身長に比べて遥かに大きすぎて、まるで椅子を負ぶっているみたいだと揶揄されたのも懐かしい。あの時は懸命に足を伸ばしても、深く座ってしまうとつま先さえ床に届かなかった。
 今はどうだろうか、背凭れに直角になるよう腰を沈め直して膝から下を揺らす。靴の踵が床に当たり、摩擦を受けて足の裏全体が触れる前に止まってしまった。
 思わず苦笑が漏れたのは、実感の沸かない時間の流れをこんなところで感じたからだ。
「はやいなー」
 ぽつり呟けば他に誰もいない部屋に声が融けて行く。潮騒はまだ止まない、もうそろそろ大潮の季節だったように思い出す。
 学生時分には皆で海水浴にも行った、潮干狩りにも。あの頃はただ我武者羅に走るばかりで、後ろを振り返る時間さえ惜しんでいた。気の置けない仲間が周りにいて、お互い笑い合って過ごすだけで充分幸せだった。
 今は、どうだろう。
 柔らかなクッションに深々と頭を埋め、彼は見上げた天井にゆらゆらと反射する微かな光を見た。まるでそこに新しい海が生まれたようだと、星明りを反射する床と揺らぎを産んでいるカーテンの気まぐれに表情を緩める。
 そのままゆっくりと瞼を下ろし、胸いっぱいまで吸い込んだ息を静かに吐き出した。
「あっという間だったな」
 感慨深く呟いても合いの手を返してくれる存在は無い。それが少し寂しくて、誰か近くに呼んでおくべきだったかと一瞬胸を過ぎる。
 けれどそれは出来ない相談だと自分に言い聞かせ、存外淋しがりやらしい自分に肩を竦めた。
 時計の針は間もなく零時に至ろうとしている。
 その時だった。不意に彼を包む静寂を破り、無粋な電子音が室内に鳴り響く。予告も無く唐突に彼の思考を遮った呼び出し音は、城の各部屋を繋ぐインターホンで、内線専用の端末から発せられていた。
 赤いランプがこまめに明滅し、早く取れと彼にせがんでいる。喧しく喚きたてる内線電話に彼は途端不機嫌に顔を歪め、気持ちよく体を委ねていた椅子から背中を浮かせた。
 柔らかな革に着込んでいるシャツが張り付いて、彼の身体から少し遅れて引き剥がされる。名残惜しげに別れを告げて揺れた白いシャツが再び彼の背中にぴったりと合わさる頃、右腕を気怠げに伸ばした彼の指先は、受話器ではなく、本体に付随している楕円形のボタンを押していた。
 プッ、という音と共に、耳障りでしかなかった呼び出し音が止まった。
「なに?」
『十代目』
 不機嫌を隠そうともしないで、彼は内線を鳴らした相手に問いかける。通話は音声のみで、本体上部にせり出している小型モニターは沈黙したままだ。真っ暗の画面を見詰めた彼は、やや陰鬱な気持ちで聞こえて来た電子処理された声に溜息をついた。
 姿を見ずともそれだけで相手が誰なのかが分かる。今、どんな顔をしているのかさえ。
「なに? 獄寺君」
 彼はもうひとつ溜息をつくと、両手を顔の前に掲げて肘を机に載せた。指を交差させて組んだ台に顎を置き、モニターから視線を下へとずらしていく。
『十代目……あの、えっと』
「用がないなら、切るよ」
 彼の声が低く冷たいことに驚いたのだろうか、電話口の向こうで獄寺は若干狼狽気味に言葉を揺らした。言いたいことは確かにあっただろうに、今の一瞬で頭から抜け落ちてしまったらしい。
 下らない獄寺とのやり取りで貴重な時間を浪費するつもりは無くて、彼は三度溜息を手元に吐き捨てて腕組みを解いた。伸ばした人差し指で、通話を終わらせるボタンに触れようとする。
 だが急にはっきりとした声がスピーカーから流れて、彼の指はそこで止まった。
『待ってください』
 焦りを感じさせる獄寺の声を受け、益々眉間に皺を寄せた彼は力無く首を振った。
「だから、何」
『もう、お休みになられたほうが』
 行き場を失った指で内線の本体を引っ掻く。カリカリと硬いもの同士が触れ合う神経質な音に苛々しながら、彼は再び声量を小さくした獄寺に舌打ちした。
 時計は程なく、日付変更のラインを跨ぐ。今日という日は今日しかなくて、時間が切り替わるタイミングも一度きりしか訪れない。今日を逃せば二度と戻らない日を、彼とのつまらないやり取りで無駄に終わらせたくは無かった。
 けれど獄寺の心配も、理解出来るのだ。
 そう、心配させている。他ならぬ自分自身が。
 だから彼は罵りたい気持ちをぐっと堪えて内側に押し戻し、深呼吸をして黒く汚れた心を洗い流した。緩く首を振り、観念した様子で俯く。
「あと二時間したら、休むよ」
 普段人前で喋る時に使う、無理に作った低い声ではなくて。恐らく獄寺にとっても馴染み深い、同年代の青年と比較しても少しだけトーンの高い声で彼は告げた。
 声色の変化は獄寺にも通じたらしい、受話器の向こうで彼は押し黙り、やがて「分かりました」と短く呟く。
 通話は向こうから切れて、部屋は静寂が戻った。波の音が背中から彼の元へ押し寄せて、戻ってはまた迫り、砕かれて沈んでいく。
 ごめん、と乾いた唇が紡いだ言葉は音にならなかった。壁に据えた大きな柱時計は、静かに、厳かに、午前零時の到達を彼に告げる。耳に心地よいボーンという重低音が一度だけ、まるで時の到来を歓迎するが如く部屋に波紋を広げた。
 この瞬間を見計らっていたかのように、電話の呼び鈴が鳴り響く。
 彼は机に伏していた顔を持ち上げ、唇を色が悪くなるまで噛み締めてから先ほどとは違う、もうひとつ机に設置された、外線にのみ反応する電話に視線を投げた。
 内線よりももっと甲高い、言うなれば癇に障る音だ。それが間断を挟む事無く轟き渡り、部屋中に溢れかえっている。
 彼は首を振った、そして鉛のように重い腕を懸命に持ち上げた。震える指先を叱咤激励して、のろのろと並んでいる丸いボタンのひとつへ指を伸ばす。
 今度も音は、唐突に止んだ。
『遅い』
 聞こえてきたのは獄寺とはまた違う、低い声。
 彼に輪をかけて不機嫌だと表明している口調とトーンだったが、聞こえた瞬間、彼はホッとした表情で強張っていた頬の筋肉を緩めた。
 痙攣していた指が平常に戻り、力が抜けて机にへばりつく。そのまま彼も身体を前に倒して、左の頬を冷たい机に押し当てた。僅かに火照っていた身体から熱が適度に奪われていって、気持ちが良い。
「ごめん」
 脱力仕切ったまま彼は謝罪を口にするが、流石にこの程度では機嫌を直してくれない。俺からの電話なのだから三コール以内に取れだとか、そんな無茶まで言い放っている。
 たとえ怒っていても、久方ぶりに聞くこの声は心が安らぐ。もうずっと長い間耳にしていなかったので、忘れてしまっているかもしれないと少々不安だったのだが、杞憂に終わった。
 大丈夫、ちゃんとまだ覚えている。
「だから、ごめんってば」
『反省したか?』
「したした、すんごいした」
 声に元気を取り戻した彼が、横にしていた顔を縦に戻して今度は右肘によりかかる。真っ直ぐ伸ばした腕は外線電話の本体へ伸び、スピーカーの音量をあげるべく上向きの矢印がついているボタンを押した。
 雑音が酷くなり、ノイズが若干入り混じる。後ろで微かに聞こえて来る音楽はジャズだ、どこかの店の中らしくがやがやとした人の気配も伝わってくる。
 見えない場所にいる彼の、明るすぎる反省の弁は到底信じられるものではなかったのだろう。電話口からは呆れた調子の長いため息が聞こえて、彼は後ろへずり下がっていた椅子を戻して座り直した。姿勢を正し、揃えた膝に両手を添える。
『……元気そうだな』
「うん」
 間をおいて聞こえた口調はさっきよりもずっと落ち着いていて、心にすんなりと染みこんで来た。
 ああ、間違いなくこれはあの人の声だ。彼は祈るような気持ちで目を閉じ、温かなものが胸の中に溢れてくるのを感じた。心地よい波に揺られ、そこに思いを委ねる。
『ちゃんと寝てるのか』
「寝てるよ~」
 獄寺君みたいなこと言わないで欲しい、目を閉じたままの彼がコロコロと喉を鳴らして笑う。すると電話の相手も微笑んだようで、両者の間にある空気が和らぐのを感じた。
 この人が自分の事をこんなに心配するなんて、珍しい。天変地異でも起こるのではないかと胸の中のざわついたものを取り除いて、彼は言わずにことばを飲み込んだ。
『怪我の具合は、どうだ』
「もう治ったから、心配いらないよ」
 シャツの上から右腕を撫で、力瘤を作る仕草をして彼は言った。見えないと分かっていながら肘を伸ばしてまた曲げて、問題なく動いていると伝えようとする。実際痛みももう感じないし、心配された神経も無事に繋がった。
 利き腕が使えないという不便な生活を二ヶ月以上強いられたが、リハビリも終わって今は昔通りに動かせている。後遺症は無かった、本当にもう心配するところは何処にも残されていない。
 それもこれも、ボンゴレの粋を集めた医療チームが頑張ってくれたお陰だ。死線を彷徨うような真似は二度としてくれるなと、目覚めた時勢ぞろいしていた守護者からこっぴどく怒られたのももう過去の話。
 思えばあれ以降、守護者も一堂に会した事がない。皆、散り散りだ。それは仕方が無いと分かっていても、時折寂しくなる。
 会いたいな、そう呟いたところで声は届かない。
『あんまり無茶はするな』
「分かってるよ。今日は心配ばっかりだね、リボーン」
『誰の所為だと思ってる』
 からかう声で言い返せば即座に不貞腐れた声が聞こえて、彼はそうだね、と口の中でだけ相槌を打った。
 思い返せば昔から彼に迷惑をかけっぱなしだった。リボーンがいなければ何も出来ないダメダメな自分を返上したくて色々と頑張ってみたけれど、未だに彼の存在は大きすぎて、独り立ちできているとはとても言えない。
 傍に居ないと分かっていても、つい姿を探してしまう。自分ひとりではとても動けそうに無い時、無意識に何度も名前を呼んでしまう。声が聞こえた気がして、励まされて背中を押された気がして、そうやって乗り越えてきた苦難はひとつやふたつだけの話ではない。そしてそれは、これからも増え続けるだろう。
 リボーンならどうするか、リボーンならどう動くか、誰を動かすか。判断の基準はすべてそこにある、それを笑う人やけなす人もいるけれど、すっかり身体に馴染んでしまっているから今更変えることなど出来そうに無かった。
 もっと自分らしさを前面に出して良いとも言われる。けれど、では自分らしさとはなんだろう。
 リボーンと出会って、芋づる式に色々なことが立て続けに起きて、それまでの自分が知っていた世界はこの地球の砂粒ひとつにも満たない広さでしかなかったと教えられた。
 何度も死にそうな目に遭ったし、逃げ出したい日もあった。実際逃げ出したこともある。
 沢山傷ついたし、沢山の人を傷つけた。
 それでも自分はリボーンの手を借りながらだったけれど、どうにか倒れる事なくここまで来ることが出来た。
 今の自分があるのは彼のお陰に他ならず、だから自分の中には今でも常に彼の存在がある。
 彼を否定してしまったら、きっと何も残らない。
『どうした』
 黙りこくっていたからだろう、電話口からいぶかしむ声がする。
 我に返った彼はハッとしながら首を振り、暗く沈みかけていた気持ちを無理矢理に押し上げた。なんでもない、と務めて明るい声で返事をする。けれどこの微妙な間に気まずさを覚え、彼は泣きたい気持ちを堪えて膝の上の両手を強く握り締めた。
 大腿骨に食い込むくらい上から強く腕を突き立てて、その痛みでどうにか自分を保つ。泣いたところでどうにもならない事くらい、過去の経験から思い知っているから、だから絶対に泣くものかと心の中で誓いを立てた。
『ツナ』
「うん、いるよ」
『泣いてるのか』
「泣いてないよ」
 間髪入れずに返事をして、持ち上げた左手で乱暴に目尻を拭う。袖のカフスが当たって痛い、けれど痛いのは生きている証拠なのだと自分に懸命に言い聞かせる。
 綱吉は赤くなった鼻を思い切り啜った。
「ごめん、大丈夫。久しぶりに声聞いたから、なんか気が抜けちゃったみたい」
 嘘をついても彼は直ぐ見抜いてしまうから、足掻くだけ無駄なのだ。はっきりと認めてしまった方が後々楽なのは、教訓として自分の中で生きている。誤魔化しが利かないのは、今も昔も、ずっと変わらない。
『ならいいが。で?』
「……」
 いまいち釈然としない様子ではあるが、リボーンは納得してくれた。そして徐に話題を変えてくる。
 綱吉は返事をしなかった。いや、出来なかった。
『ツナ?』
「聞こえてる」
『今日は何の用かと聞いてるんだ』
 机の上を綱吉の指が意味も無く徘徊する。転がしていた万年筆に爪先が触れ、足掻くようにそれを握り締める。丸みを帯びたフォルムは美しいが、今は黒々とした闇の中にあるだけに冷たい印象しか見る側に与えなかった。
『聞こえてるのか、ツナ。俺だって暇じゃないんだぞ』
「聞こえてるってば」
 だからそんなに怒鳴らないでくれと懇願して、綱吉は握り箸の要領で掴んだ万年筆の先端を机に叩きつけた。
 この程度で折れる軟弱さではないが、反動は掌にも伝わってそちらの方が痛い。
 苛立ちと焦燥感に苛まれながら、綱吉はどうにか顔を上げてかぶりを振った。乱雑に広げた手で額を押さえ、前髪を弄りながらスピーカーのボリュームをもう一段階あげる。
 微かに聞こえるピアノの曲。タイトルはなんだっただろう、未だに思い出せない。
 綱吉は返す手で腕時計を見た。薄明かりに照らされたそれは乳白色に数字の部分が光っており、刻々と進む秒針が今の時間を教えている。
 日付は越えた、少なくとも綱吉が今地に足をつけている国では。
「誕生日おめでとう、リボーン」
 深呼吸を繰り返し、胸の中に渦巻く様々な感情を置き去りにして、綱吉はともかくそれだけは絶対に言わねばならぬと覚悟を決めた。生唾を飲み込み、その緊張の音が電話口の相手に伝わるのを恐れ、出来るだけ平静を装って。
 どうにか紡ぎだした言葉のぎこちなさに自分で笑う。巧く言えただろうか、今年も。
『はあ?』
 しかし却って来たのは素っ頓狂な声で、綱吉はやや憤然としながら自分の健気な頑張りを蔑ろにする相手に腹立ちを覚えた。
『今日のこの時間に電話をかけてこいって言うから、なにかと思えば』
「だって」
 直接会うのが叶わないのだから、せめて声だけでも聞きたいと思ったのだ。彼の電話は固定ではなく、時々によって幾つもの番号を使い分けているから、どれが今なら通じるのかどうかは綱吉にさえ解らない。
 彼の声を聞くには、彼から電話をかけて来てもらうしか術がないのだ。
 だから出立の前夜、しつこいくらいに念押しした。この国で日付が変わり、今日という日になった瞬間、自分の執務室宛に電話をかけてくるように、と。
 必ず三コール内に受話器を取るから、という約束で。
 その綱吉との約束を覚えてくれていたのは単純に嬉しいが、何の為に綱吉が寝る間を惜しんで電話を待ち続けていたのかは忘れていたらしい。世界中あちこち飛びまわっていると、カレンダーの予定は仕事に埋まってプライベートが二の次になってしまうのは仕方ないにしても、せめて自分の記念日くらいは覚えておいて欲しかった。
 ぶつくさと愚痴を並べ立てると、リボーンは仕方が無いだろう、と呟く。肩を竦めて愛用の帽子に手をかけて視線は伏している、そんな姿が綱吉の瞼に浮かび上がる。
『こっちは、明日までまだ二時間も残ってるぞ』
 心底呆れ果てた様子で呟かれた彼の言葉に綱吉は苦笑した。
「そうだっけ?」
『ああ』
 まだ夜の十時を少し回ったところだ、そう告げる彼の声に女性ボーカルの声がしっとりと覆いかぶさった。
 綱吉は壁の時計を見る。手首に巻いたものよりも文字盤が大きなそれは、リボーンが教えてくれたのよりも二時間先を指し示している。
 止まる事無く、日々刻々と、無限とも思える時間を未来に向かって誘い続けて、休みもせずに。
「でもこっちじゃ、零時回ってるんだよ」
 日付が変わったのだから、君の誕生日。そう主張してもリボーンは納得してくれない。
『こっちはまだ十二日だからな、フライングだぞ、ツナ』
 綱吉の今日は、リボーンにとってまだ明日。リボーンの今は、綱吉にとっての昨日。
 同じ時間にいるはずなのに、ずれた昨日今日明日。
「むぅ……」
 ならばどうすれば良いというのか。頬を膨らませて拗ねた綱吉の表情が想像できたのだろう、リボーンは低く笑った。
 電話口から他人の声が混ざって聞こえてくる。相席を求める声、店内は夜も良い頃合だというのにまだ混みあっているのか、雑踏はさっきから綱吉の耳を擽って消えそうに無い。音楽はノイズに掻き消されながらもゆるやかに漂って、目を閉じれば綱吉も賑やかな夜のバーに居合わせている気分になった。
 見知らぬ誰かが乾杯の音頭を取っている。軽やかに響きあうグラスの音、ひとり暗がりに身を委ねてちびちびとアルコールを口に運ぶ男もいるのだろう。歌声は終わりを見ずにピアノは次の曲を奏で出す。
 綱吉は無意識に爪で机の表面を削った。
『なら』
 沈黙に飽きたのか、リボーンは不意に大きな声を出して綱吉を驚かせた。
 彼の後方で若い女性のものらしき歓声と拍手が渦を巻く。対する綱吉は潮騒だけが響く静かな夜の一室で、ひとりきりだ。抱き締めてくれる腕が欲しくて、彼は椅子をさらに机に近づけて狭い空間に体を閉じ込めた。
 暗がりに、リボーンの声が溶けていく。
『二時間後に、こっちの日付が変わったら、また電話してやる』
 綱吉は一瞬だけ顔を上げ、そして俯いて自分自身の身体を抱き締めた。指から零れた万年筆が転がり、机の角にある僅かな段差に引っかかって止まる。星明りが翳り、雲が広がった余波で綱吉の部屋にも闇が落ちた。
 吸い込んだ息を吐き出すその短い時間が、どれだけ長く感じられただろう。
「……ほんとに?」
『そんなに嬉しがることか?』
 おずおずと問いかける綱吉の震える声に、リボーンは笑いながら合いの手を返す。周囲のざわめきが大きくなったからだろう、彼は携帯電話を顔に密着させたらしく少しだけ音量があがる。
 この声が彼にちゃんと届いているか不安になって、綱吉は両腕を抑えたまま机に身を乗り出した。
「嬉しいに決まってるだろ。約束だからね、約束したからね!」
 声を張り上げ、必死に、リボーンに届くように綱吉は叫んだ。
 電話口で彼は笑っている。よしよしと頭を撫でられている気分になる。
 まだ綱吉よりもずっとずっと小さかった彼が、その紅葉のような手で跳ね上がった髪の毛を押し潰し、よく出来たなと褒めてくれた時を思い出す。
「明日は……帰って来る?」
『そのつもりだ。何も無ければ、な』
 飛行機のチケットはもう予約したから、天候が荒れるなんてことでもない限り、十数時間後にリボーンは島の空港に降り立つと言う。ならば綱吉の分と合同の誕生日晩餐会には充分間に合うと、綱吉は嬉しそうに言った。
『またやるのか』
「やるよ、みんな張り切ってる」
 ビアンキは特に気合を入れてキッチンに篭もってしまい、屋敷中のコックが仕事場を追い出されててんやわんやだ。彼女に料理を作らせるな、というのはヴァリアーも含め、ボンゴレファミリー全体に課せられた最大の任務となりつつある。
 飾りつけはランボやフゥ太に任せているが、そちらもガラスが割れたりシャンデリアが墜落したり、色々と騒動が勃発しているらしい。更に男性陣と女性陣とで飾りつけの対立があったらしく、気づけば妙に緊迫した空気が屋敷内部に立ち込めていて、もう一波乱ありそうな雰囲気に綱吉は気が気でない。
 早口に今の屋敷の状況を説明すれば、リボーンは逐一相槌を返して楽しそうに笑ってくれる。
 だから綱吉も笑った、心から。
 久しぶりに。
「リボーン宛のメッセージもいっぱい届いてるんだから。勿論、プレゼントも」
 玄関に山積みにされた贈呈物を思い浮かべる。そんなもので懐柔を計る連中がいるのも否めないが、純粋な気持ちで祝おうとしてくれている人からの贈り物だって当然あるわけで、後片付けやお礼のメールが大変だとリボーンの翌日に誕生日を迎える綱吉は、椅子のクッションにもたれかかって天井を仰いだ。
 けれどどんな相手であっても、礼のひとつでも送り返しておかなければ失礼に当たる。たとえとてもつまらない品を贈られたとしても、気持ちが篭もってさえいれば二十カラットのダイヤなんかよりもよっぽど綺麗に輝くのだ。
 実は日本からも届いているんだと、綱吉は声を低くした。上目遣いに電話を、リボーンの顔を思い浮かべながら見詰め、綱吉は照れくさそうに鼻を擦った。
「母さんから。マフラーと、手袋。まただよ、懲りないよねあの人も」
 これからの時期は寒くなるからと、奈々は毎年手編みのセーターや帽子も贈ってくれるのだ。もうそんなもので喜ぶ年齢でもないのに、彼女は飽きもせず、毎年欠かさず愛情を注いでくれている。
 綱吉とリボーンの分を、セットで揃えて。
「だから、受け取りに来て」
 本当は奈々も直接手渡したいだろうに、出来ないから綱吉を経由するしかない。編み物と一緒に送られて来るカードには手書きのメッセージが添えられていて、それが綱吉の一年を繋ぐ元気の源のひとつでもあった。
 読めばきっと、リボーンだって感動するに違いない。力を込めた綱吉のことばに、彼は曖昧に頷くだけで答えをはぐらかした。
 ポーン、と軽い鐘の音。潮騒に紛れ、一瞬だけ星が放つのとは色を異にする光が綱吉の部屋を走り抜けた。
 人々も寝静まっているだろう夜中に、来訪者。車のライトは綱吉には眩し過ぎて、今頃誰だろうかと考えながら瞼を閉ざす。闇に濡れた視界は何もかもがおぼろげで、電話口から聞こえる音声はラジオを思わせた。
『ツナ』
 再び背筋を伸ばした綱吉に、リボーンが一瞬間をおいて名前を呼ぶ。
 耳慣れた、幾度と無く頭の中で繰り返した彼の呼び声。出会った当初は甲高いその声が多少癇に障っていたのに、いつの間にかこの声が聞こえないと不安で仕方が無くなった。
 逆を言えば、どんなに綱吉が苦境に立たされ、困難にぶつかったとしても、彼がいてくれさえすればどんな状況だって潜り抜けられる自信になった。
 未だにリボーンがいなければ、沢田綱吉はダメツナのままなのだ。そこから一歩も抜け出せない、同じ場所をぐるぐると回り続けている。
「なに?」
 珍しく言うのを躊躇している感じがするリボーンの反応に、綱吉は居住まいを正して瞳を眇めた。口元は淡い笑みを浮かべ、ほんの少し寂しさを浮かべながらも優しい表情を作っている。
 揃えた膝の上に両手を乗せ、僅かに右側へ身体を傾けた綱吉に向かい、リボーンはややあってから首を振った。
 正確には、そんな気がした。
『いや。二時間したら、またかける。その時に』
「そか。分かった」
 彼のいる大地で日付が変わる頃にまた、もう一度話が出来る。だから綱吉は頷き返し、目を閉じた。
『寝るなよ?』
「起きてるよ」
 あと二時間だ、たったの。それくらいなら眠くても、我慢する。
『どうだか』
 お前は横になって五秒で眠れるからな、と揶揄するリボーンに、綱吉は目を閉じて俯いたまま声もなく笑った。
 閉ざしていた唇を僅かに開き、息を吸い込んで、吐き出す。
「待ってる」
 意を決して、そう言って。
『そうか』
 幾分低い声でリボーンが返す。
「待ってる。ずっと、二時間だって、三時間だって、二日だって、二年だって、二十年だって、ずっと、ずっと」
 堪えきれない涙が綱吉の頬を伝い、彼は一ミリとて自分からは動かない電話機に向かって言い続けた。
 リボーンの声は聞こえない、代わりに彼の心を慰める静かな歌声がざわめきの中で一際大きく花を咲かせるのみ。
「待ってるから。だから、教えて」
 貴方は何を、言おうとしていたの。
『切るぞ』
 素っ気無く言い放った彼に、綱吉は真っ赤に泣き腫らした瞳を持ち上げた。
 待って、そう言いたいのに言葉が喉に引っかかって出てこない。もがきながら伸ばした手は空を掴む、風さえも起こらずに唐突に部屋は再び沈黙した。
 綱吉の嗚咽が潮騒に掻き消されていく。
 彼は両手で顔を覆い、途方に暮れる心の在り処を懸命に探した。
「待つよ、待ってる。待ってるから……」
 ずっと、いつまでも。
 約束をした電話が鳴るまで。
 再び貴方の声が聞けるまで。

 貴方が約束を果たしてくれる、その時まで。 
 

2007/10/7 脱稿