行き先不明の道標

 投げたボールを受け取ったくせに敢えて投げ返さなかったり、わざと後ろに逸らして取りにも行かず、素知らぬ顔で無視を決め込んだりする奴は、沢山、いた。
 二倍にして投げ返してくる奴もいた、そうえば。
 だけど、受け止めたボールを投げ返して良いのかどうか、人の顔をちらちら見ながら迷い続けて、いつまでも投げ返してこない奴は、初めてだった。
 曲が終わる。慣れない歌を歌うのはやっぱり疲れると、俺は短くも長かった時間にふーっと息を吐いた。
 肩を落として力を抜いた俺の姿を認めて、居合わせたチームメイトはそれぞれに拍手を送ってくれた。悪のりして口笛を吹いているのは先輩で、俺はやめてくれと苦笑いしながら、そういえばずっと繋いだままだったミハシの手を思い出して指を開いた。
 締め付けていたものが急に無くなったからなのか、惚けたまま前ばかり見ていたミハシはハッと我に返って慌てた様子で俺の顔を見上げる。
「お前、結構歌、うまいじゃん」
 カラオケに初めて来たと言うから、いったいどんな音痴なのかと内心ドキドキしていたのに、予想外にこいつはちゃんとリズムも取れるし、音程にもそう狂いが無かった。ただ吹っ切るだけの勇気が足りないのか、全体的に声は小さかったけれど。
 それでもマイクに拾われたこいつの声は、俺の若干調子はずれの声に重なって、それなりに聞けるものになっていたように思う。
「…………」
 人が折角褒めてやったのに、ミハシはぼうっとしたまま自由になった手でもマイクを握って立ち尽くしている。瞬きの少なさに、大丈夫なのかと急に心配になった。
 拍手の音はやまず、逆に大きくなっていく。秋丸なんかはタンバリンを握ったまま手を叩いているので、むしろ耳障りなくらいにガシャガシャと騒々しく音を響かせていた。
 俺を見ている筈なのに遠くを見ている目をしたミハシの、髪の毛と同じように日本人にしては少し色素の薄い瞳。ガラス玉みたいなそれに映っている、俺。
 歌っている最中の興奮は少しずつ冷めて、上昇していた心拍数も平常値に戻りつつあった。乱れていた呼吸も落ち着いて、吐き出した熱がミハシの額にかかる髪を掠める。浮き上がった数本の毛先に視線を奪われて、俺は何の意図もなく奴に顔を近づけた。
「ミハシ?」
 腰を屈め、目線の高さを調整して正面からミハシを覗き込む。けれど即座に反応はなくて、俺はさっきまで繋いでいた手で再びこいつに触れようと肘を持ち上げた。
「……ぅあ!」
 けれど指先が甲の部分をかすった辺りで唐突にミハシは驚いた声をあげ、俺を見上げたまま後ろへ身体をよろめかせた。倒れるか、と思わせる激しい反応ぶりに、俺もまた背を伸ばして後ろに逸らし、ミハシとの距離を広げる。
「ミハシ……?」
 跳ね上げた肘を下ろして俺はマイクのスイッチを切った。ぽかんとしているのは俺だけでなく、他の連中も同じだった。
「は、は……はる、な、さんっ」
「どした? 具合悪い?」
 嫌がっていたのを無理矢理歌わせてしまったのだろうか。あまりにも色々と反応が鈍いミハシに不安が勝って、俺はまたミハシに顔を寄せて尋ねる。けれどミハシは視線を上下左右に振り回しながら、ちっとも俺と目を合わせようとしなかった。
 皆が俺たちの行動を見守っているのが分かる。拍手はいつの間にか止んで、代わりに次の曲のイントロが静かにスピーカーから流れ始めていた。
「榛名、マイクこっちー」
「あ。すんません」
 その曲を予約していた先輩が、二つしかないマイクを占領したままの俺に手を振って合図を送った。俺はミハシから視線を外し斜めに振り返ると、握る側を先にしてテーブルを挟んで向かい側にいたその人に差し出した。
「サンキュな」
 ウィンク付きで礼を言われ、俺は横に倒した身体を元に戻し背筋を反らせた。そしてまだ真横で、ミハシが座りもせず俺の方をやたら気にした様子で見ている事に気付く。
 奴はけれど、俺と視線が合いそうになると神業的にパッと目を逸らし、明後日の方を向いてしまう技を持っていた。
 なんなんだろう。さっきまでノリノリだったのに、不機嫌さが戻ってきて俺は腹立たしい気持ちを抑えながら肩を落とす。
 その俺の足にも。
 キーーーーン!! 
 直後、鼓膜を突き破って脳みそに突き刺さりそうな勢いの高音がスピーカーから轟いて、俺は足にぶつかったものに気を取られながら咄嗟に右手で右耳だけを押さえた。
 チームメイトの皆も、唐突に発生した高音域の渦に頭を抱えて身を低くする。何が起こったのかと何故か一緒に右目まで閉じていた俺は、残っている左側の視界に映る棒状の物体の正体を知って全てを理解した。
 マイクだった。しかも先ず間違いなく、スイッチが入ったままの。
 横を見ればミハシがひとり、呆然としたまま佇んでいる。しまった、と開きっぱなしの口と目が全てを物語っていて、俺は急ぎマイクを拾い胴体部分のスイッチを下にスライドさせた。
 金切り声は途切れ、再びバラード系の曲調が室内に復活する。俺は安堵の息を漏らし、耳を塞いでいた連中も総じて顔をあげた。
 真横のミハシだけが、空っぽの両手を胸の前で握りしめて乾いた瞳を限界まで広げ、口も開けたまま薄暗い部屋を見つめていた。
 皆が奴に向ける視線は、一気に冷たいものに変わる。普段なら俺も、その一員に加わっていたに違いない。
 けれど、別の意味での理由不明な苛立ちが俺を問答無用で動かした。
「なにやってんだよ、座れよ」
 歌い終わった奴がいつまでも立ってたら、次の奴がやりづらいだろう、なんてわざとらしく大きく言い放って。俺はミハシの腕を掴むと強引に、力の抜けた奴の身体を斜め後ろへと引っ張り込んだ。
 俺が先にソファへと腰を沈め、姿勢を崩したミハシの身体が僅かに遅れてついてくる。けれど奴はまだ、意識が完全に身体の隅々まで行き届いていなかったらしい。
「ぅ……うぁ、あ!」
 俺は最初に奴が座っていた場所に座るよう促したつもりだったのに、単純に俺が加えた力のままに俺の側へ身体を傾がせたミハシは、狼狽えた様子で右足を浮かせて背中から俺へ倒れ込んできた。
 ソファへ着地した俺の肩に背中をぶつけて、前へ小さく跳ねて、ミハシの身体が沈んでいく。咄嗟に解いた俺の手は予想外の事に驚いた俺をそのまま表現して宙を泳いで、ソファのクッションの固さに太股が悲鳴をあげた。
「……ぶっ」
 誰かの噴き出す声。
「ちょっと、何やってるのよー」
「お前ら、ばかくせーー」
 マネージャーが涙目になって笑い、マイクを使ってまでシャウトされた俺は、膝に乗っかった小柄な奴の重みに頬を引きつらせた。
 顔のすぐ下で、ミハシの薄い茶髪が泳いでいる。目をぱちくりさせているこいつは、二秒遅れで首から上だけを後ろ向けてやっと俺の存在に気がつくくらいの鈍感っぷりを発揮してくれた。その間俺は、こいつを膝に載せたまま、笑って良いのか怒って良いのかでひたすら迷っていた。
「……ふぁ、ひ、は、はっ……」
「や、驚くのは良いから……退いてくれ」
 丸く見開いた目を閉じて、また開いて。俺の姿が煙みたいに消えないのを確かめてから、ミハシは声を裏返らせて呼吸困難を起こした。先に人の膝から降りる、という発想はこいつにはないらしい。
 マネージャーは「苦しい」を連発して腹を抱えて丸くなっているし、他の連中も俺の足の上で鎮座している小動物めいた存在に堪えきれない笑いを漏らしている。いや、実際のところ笑われている対象は、こいつを膝に座らせている俺の方か?
 ミハシは苛立ちを募らせながら髪を掻きむしった俺の顔をじっと見据えて、ゆっくりと下へ視線を移し、そろりと動かした手が俺の制服に触れたところでピクリと肩を震わせた。
 こいつが軽いのは、少なくとも平均的な男子高校生よりは身長も体重も足りない――明らかに投手として未完成の身体をしているのは、知っていた。けれどこんな風に自分を秤にして確かめてみると、途中から降り出したとはいえ、雨の中のシーソーゲームをひとりで投げきった奴だとどうしても思えない。
 掴んだ手首は細く、こんな腕でどうやって投げているのかと不思議になる。最終目標をプロと定めて、十年後、二十年後をも視野に入れている俺との決定的な違いを感じる。
 いつか壊れるじゃないかと目を細めた俺を窺ったミハシが、小さく「ごめんなさい」と呟く声が聞こえた。
 ぴょん、とウサギが飛び跳ねる仕草で俺の上から退いた奴は、けれどまだ腿が密着するくらいの近さでソファに落ちていった。
 急激に体温、体重、人の気配――そういったものが俺の上から消え失せる。まるで煙に巻かれた顔をする俺の肩に身じろぎしたミハシの肩がぶつかって、もう一度謝る声が俺の左耳によって拾われた。
 バラードは終わろうとしていた。折角入れた曲の半分も歌えなかった先輩が、顔を逸らし合っている俺たちへの笑いを堪えながら残りの歌詞を根性で歌い上げる。しっとりと静かに、耳に優しいメロディーだけが俺たちの間を流れていった。
 どうして俺が、気まずさと居づらさを覚えなければならないのだろう。こんなのはおかしい、変だ。調子が狂う。
 段々と憤りめいた感情がふつふつとわき上がってきて、けれど皆の手前吐き出すわけにもいかず、俺はソファの上でわざとらしく浮かせた腰を沈めて振動を起こしながら座り直した。
 隣にいるミハシが、下を向いたまま背を震わせる。意地悪過ぎただろうかとこいつの小さくなっている姿を見ていたら、同じく気遣う様子を見せる秋丸と目があった。
「……んだよ」
 何か言われたわけではないのについ唇を尖らせて、俺は秋丸に悪態をつく。
 瞬間。あろうことかこの眼鏡、人の顔を見て吹き出しやがった。
「笑うなっつーの!」
「や、いやだって、榛名お前、顔……!」
 眼鏡の下に涙まで浮かべている秋丸に、ミハシの身体を乗り越えて殴りかかろうとして膝頭がミハシの脇腹を打った。
 笑われたのを恥ずかしがって、顔を赤くして何が悪いんだ。俺は、マネージャーの前で、ミハシの所為で赤っ恥を掻いたっていうのに。
 ぶつかられて顔を跳ね上げたミハシが、丁度俺の真下にいる。
「はいはい、そこ、痴話喧嘩しない」
 手を叩いて静かにするよう注意を促したのは副キャプテンで、マイクを握っているから次が彼の番なのだろう。実際曲は次のイントロに突入して、俺にも耳慣れた彼の十八番が緩やかに、そして徐々にスピードを上げて響きだそうとしていた。
 俺は秋丸に最後殴りかかる仕草だけをして、自分の場所と定めたソファに戻る。両手で頭を抱えたミハシは、そんな俺を不安げな顔で見ていた。
「なんだよ」
 気分を紛らわせようとテーブルに手を伸ばし、他のものがごちゃごちゃと積み重ねられている中から殆ど飲んでいないジンジャーエールのコップを引き寄せる。握ると指先を舐めるみたいに、表面を覆い尽くす水滴が指紋の隙間にさえ潜り込んできた。
 前を見たまま低い声を出した俺に、ミハシは咄嗟に視線を逸らして広げた膝の間に置いた両手をぎゅっと固く、それこそ血色悪くなった指が白く濁るくらいに握りしめる。
 俺がまだ不機嫌で、その原因が自分にあると思っているんだろうか。盗み見た横顔も色が優れていなくて、震えた唇が逆に可哀想なくらいだった。
「別に、……お前に怒ってんじゃねーよ」
 怒ったのは認めるが、今も継続中なのかと聞かれたら首を振るくらいには落ち着いている。ぶっきらぼうに言った俺に、ミハシは怖々顔を上げた。
 ゆっくり半透明のプラスチック製コップを傾け、生温く氷も大分溶けてしまって薄くなっているそれを喉に押し流す。久しぶりに補給した水分は、俺の身体が思っていた以上に乾いていたのを思い出させた。
 考えてみれば学校を出てから今まで、何も飲んでいない。カロリー計算しているから注文した料理も殆ど手を付けていなかった俺は、空きっ腹を片手で撫でてからもうひとくち、とコップの縁から下に落ちようとしている水滴に舌を這わせた。
「……っ」
 横のミハシが肩を強張らせる気配が伝わる。飲もうとしたコップをそのままで止めて、俺は親指の腹に温い水を感じながら奴を振り向いた。
 ああ、そういえばこいつも確か。
 料理は遠慮なしに食べていたけど。
「そういやお前、飲みモンなかったっけ」
 受付をした時、こいつは当然ながら居なかった。俺がトイレに行っている間に注文を頼んだ飲み物は、受付を済ませた時にいた人数分しか届いていない。ミハシはイレギュラー、予定外の飛び入り参加だから無くて当たり前なんだけれど。
 俺につられてシャウトまでして、息せき切らせていたのを思い出す。喉だって、乾いているはずだ。俺の顔――コップをじっと見ているくらいだから。
「ほら」
 素早く頭の中で考えを巡らせ、得た結論に、俺はひとり頷いて右に持っていたコップを左に持ち替えた。そうしてミハシの鼻先にちゃぷん、という水音と一緒に差し出してやる。
「ふぇ?」
 けれどミハシは。
 不思議そうな顔をして、俺に向けて首を横に倒した。
 なんだ、違うのか? 
「飲めよ」
 自分の喉仏を指さした俺の言葉に、ミハシはまた反対側に首を傾けて暫く停止した。きっと一所懸命考えているのだろう、天井に向いた瞳がビー玉みたいにコロコロと左右に動くのが面白くて、俺は瞬きの度に位置を変えている奴の眼に声を殺して笑った。
 左手のコップの中で波を感じる。三分の二くらいは残っているジンジャーエール、俺はミハシが返事をする前に喉を鳴らして、完全に溶けてしまう前の氷に唇を押し当てた。
「ん……」
 下唇でコップの縁を支え、上唇で水面を漂う氷を引き寄せて、前歯で軽く噛んで口の中へ。ひんやりと痺れた舌ではみ出た水滴を舐め取って顔から外し、俺は右手の甲でぐいっと横一文字に口を拭った。
 奥歯でかみ砕いた氷を飲み込む。旨い、と漏らすと横から「おっさんみたい」というツッコミが飛んできた。
「うっせぇな!」
「榛名って、絶対ビール腹になるよな」
「ならねーよ!」
 嫌な将来像を押しつけられそうになって、声を荒立てる。けれど振り上げかけた左手にコップを握ったままだと即座に思い出して、俺は憤然としたままソファに戻り、改めてほら、とミハシの前にそれを差し出した。
 だのにこいつはまた、変な顔をして俺と中身が半分以下になったコップとを交互に見つめるばかりだ。
「飲めって。喉、乾いてんだろ」
 どうせ飲み放題なのだ、無くなったら新しく注文すればいいだけの事。遠慮をする必要はないと早口に付け足して言ってやっても、ミハシは俺の顔をじっと見つめるばかりで両手は膝から太股の中間地点に落ちたまま、動かない。
 いい加減俺も、伸ばしたままの腕が痺れてくる。これしきの事で筋肉がイカレるような軟弱な鍛え方をしてはいないが、こんな無駄なところで体力を消費するのもバカらしい。俺はぐい、とミハシの前に再度コップを突きつけて軽く左右に揺らした。
 最早欠片でしかない氷が内壁にぶつかって軽い音を立てる。
 体調管理も投手として必要不可欠な要素だ。自分で自分の身体を調整出来ない奴に、あの神聖なマウンドに登る資格はないと、俺は思う。
 だからこんなところで下手に脱水症状を起こされても困るのだと、俺はミハシの鼻にぶつかるくらいにコップを前に出してやるのだが、こいつは益々目を見開いて、ふにゃふにゃに緩んだ口を金魚みたいに開閉させて首を振った。
 なんで大人しく俺の言う事聞かないんだよ、こいつは。
 タカヤもきっと苦労しているに違いない、この性格は正直投手向きじゃない。
 けれど、投げきったのだ。去年の優勝チームである桐青相手に、堂々と胸を張って。
 本当に同一人物なのか、その筈なのに急に信じられなくなって俺はコップを引く。明らかにほっとした顔をするミハシは、だから俺がこいつの脚へ握った手ごとコップを置いたのに大仰に驚いて背中をソファへ押しつけた。
 賑やかな曲が流れている所為で、奴の起こす物音になど誰も気付かない。挙動の大きな瞬きを二度連続させたミハシは、右の太股を濡らすグラスの湿りに唇を噛んでから息を呑む。
 見上げた先にいる俺がにやっと意地悪く笑う顔を見て、慌てて奴は首を窄めて自分の膝元に視線を動かした。俺はそのタイミングを狙って、人差し指から中指、薬指を順番に解いていく。
 このままでは倒れる。コップの中にはまだジンジャーエールが残っている。
 背筋を震わせたミハシが、大慌てで両腕を広げて俺の手元を離れようとしているコップに指を伸ばした。脚の形に添って斜めに傾き始めたそれを、寸前で食い止めて受け止める。飛沫は上がったが俺の親指の付け根を濡らしただけで、それ以上は散らなかった。
「ぅあぁう」
 悲鳴をあげたミハシがギリギリでひっくり返さずに済んだコップに脱力し、両手で大事に包み込んだそれに肩の力を抜いて安堵の息を吐く。俺も自由になった左手をぶらぶら振って筋肉の凝りをほぐし、ソファの上でふんぞり返った。
 多分次が、俺が自分で予約した曲だ。やっとここまで来たと、店に入ってから随分時間が掛かってしまった事に苦笑して、俺は少し上機嫌に左を上にして脚を組んだ。
 そうして何気なく目を向けた先のミハシが、コップを両手に抱いたままさっきと同じ姿勢、同じポーズで停止しているのを見つけた。
「ミハシ?」
「ひあ!」
 背もたれに置いていた腕をあげ、ミハシの肩を叩く。本当に軽くだったのに、触れられた瞬間こいつは大袈裟に座ったまま飛び上がった。
 驚いたのは俺も同じで、お互い顔を見合わせたまま凍り付く。
「あ、ぅ……は、はる、……っ」
「なんで?」
 コップが割れるんじゃないかと思えるくらいに強く握りしめて、ミハシは視線を周囲に当て所なく動かして肩を窄め小さくなる。俺はどうしてこいつが、遠慮しなくて良いと何度も言っているのに、氷が溶けるのに任せてそのままにしているのかがまるで分からなかった。
 量は減っていない。まさかジンジャーエールが嫌いだとでも言うつもりか、今更。
「なんで飲んでねーの。それともなに? お前、俺が飲んだ奴は嫌だって?」
「ち、ちがっ」
 どすん、と握った拳で固い背もたれを殴りつける。拳はピッチャーの生命線だと分かっていても、無意識に振り上げたそれを俺は止められなかった。
 音はそんなに大きく響かなかったし、振動も殆ど無かったけれど、勢いに気圧されたミハシは身を竦ませてコップごと胸元に両手を引き寄せて自分を庇う。俺との距離を広げようとするけれど、注意を逸らしていた秋丸にぶつかってそれ以上行けないと悟り、逃げ場を探して首を右往左往させた。
 だからその、言いたいことも言わずにすぐに逃げようとする態度が気に食わないんだ。
「ミハシ、てめっ、俺が聞いてんだから答えろよ」
 ブルブル首を振り回しているこいつの腕を取り、強引に俺の側に引っ張り戻す。こんな事をすれば流石に歌や曲選びに集中していた他のメンツも様子がおかしいのに気付いて、嫌になる注目が集まっているのが振り向かなくても分かった。
 けれど沸々と沸き上がる苛立ちは簡単に消えない。今にも泣き出しそうな顔をするミハシを前に置いて、俺はミハシに握られたままのコップを重ねて掴んだ。
 ぐっと力を入れて引っ張る。俺たちの中間で大きな波を立てたジンジャーエールが悲鳴をあげた。
「うぁ……!」
 短いミハシの甲高い声。堪えきれなかったミハシの両手を離れたコップ、――俺の指を滑ったコップ。
 薄い金色をした液体は、勢い負けしたミハシの側に強く傾いて飛び散った。
「わっ」
「きゃっ」
 後ろに倒れたミハシにのし掛かられた秋丸が、そして離れた場所にいたので直接的な被害は免れていたものの、勢いにつられたマネージャーの悲鳴が綺麗に重なった。
 俺はその場でたたらを踏んで、呆然と宙を舞った液体がミハシの上に降り注がれるのを見ていた。
「ひゃぅ!」
 他よりワンテンポ遅れたミハシの声にハッと我に返る。足下には僅かに水分をまとわりつかせたコップが横倒しに転がって、さっきはマイクだったなと、どうでも良いことが頭を過ぎった。
 副主将の歌が止まる。俺は半身を下向けてソファの前で蹲り俯いているミハシの、雫を弾く薄茶色の髪に一瞬見とれ、それから慌てて二歩前に出た。
 ミハシとの距離をゼロにして、動かないこいつの腕を取る。
 まさか怪我をさせた? 青ざめるのは顔も心も同じで、そういえば初めて会った時もこんな感じだったと、ぼんやり記憶の片隅に残っていた色の薄い光景と目の前の奴とを重ね合わせた。
 引っ張り上げた身体はやっぱり驚くくらいに軽くて、腕の下から覗きこむこいつの顔はあの時そのままだった。
「あ……」
 違うのはこいつの着ているシャツが水を浴びて濡れている事、と。
「榛名、タオル」
「来いよ」
 何も言えずに俺を見上げるだけのミハシの後ろで、素早く鞄を引き寄せ中からハンドタオルを取りだした秋丸を無視し、俺は捕まえたままのミハシの腕をぐっと強く握った。
 強引にテーブルとソファの隙間を広げて先に立って、ミハシを引っ張る。タオルを差し出した秋丸が、行き場を失った自分の手を見下ろしてからもう一度俺を呼んだが、俺は振り返らなかった。
 締め切っていたドアノブを下へ落とし、自分の側へ引き込む。
「榛名、お前の番!」
「誰か歌っててください」
 スピーカーからは俺のお気に入りの曲が聞こえ始めていたが、それでも俺は足を止めなかった。
 ミハシは大人しくついてくる。開けっ放しにしたドアは、きっと入り口に一番近い秋丸が気を利かせて閉めてくれただろう。
 廊下には人気もなく、天井に設置されたスピーカーに響く歌声は顔ばかりの下手なアイドルのものだった。
 不快感が増す。俺は腕を掴んだままのミハシを引いて廊下を進んだ。問答無用、反論は一切聞かないオーラを背中から放って。
 ミハシは時々呻くような小さな声を零すが、そのどれもが日本語として成立せずに足下に散らばって砕けていく。時々俺の歩調とミハシの歩調が巧く合わなくて、転びそうになったミハシの肘が俺の脇腹や上腕を擦った。
 明るく照らされた廊下から、段差を経て薄暗い階段へ。流石に此処じゃ腕を掴んだままは危ないかと思い直した俺は指の力を緩め、ミハシを振り返った。
 不安に揺れた瞳が思っていた以上に近くにある。右肩から胸元、腹部の一帯を湿らせたシャツは肌に貼り付いて、見た目ほど貧弱ではなさそうな筋肉をうっすら浮かび上がらせていた。
「は、るなさん……?」
「秋丸にタオル、借りてくりゃよかったな」
 けれど腰は女みたいに細くて、俺は自分で何処を見ているのかと心の中でツッコミを入れる。そんな俺を変に思ったのだろう、ミハシの辿々しい声に俺は取り繕うように壁の向こう側でもう見ない部屋を探した。
 既に四段ばかり階段を登っていた俺は、一段下にいるミハシがはにかんだ風に笑う様に安心している。
 きっとこいつは、俺がここでこいつに殴りかかったとしても、俺が悪いとは言わないんだろう。どんな不条理な事をされても、きっと。
 自分が悪い、全部自分の所為だと、自分ばかりを責め続けるのだ。
「トイレ、で、いいか?」
 あの場には女子マネージャーもいたから、と今更な言い訳を口にする俺に、ミハシは素直に頷いて返す。疑う気持ちなどこれっぽっちも持たず、純粋なくらいに俺を信じているこいつに、なんだか自分の方が恥ずかしくて俺はそそくさと背中を向けた。
 足音の響かない階段、踊り場を曲がって更に上へと。一段登るだけでも体力が削られていく俺は、目的地にたどり着いた途端どっと疲れに襲われた。
 四階の男子トイレは無人で、俺が使った時と殆ど変わらない状態で放置されていた。
 ひとり用の個室、正面に洋式便座があってその左側に白い陶器の洗面台と鏡。
「冷たいか?」
「へい、き、です」
 肌に貼り付くシャツを気にして皺を摘み、引っ張ったミハシに問う。奴はぴょん、とその場で飛び跳ねて首を振り、俺の横を駆け抜けて一足先にタイル張りの消臭剤の臭いが立ち込める個室に飛び込んだ。
 男ふたりが入っていく光景は、人が見たら滑稽というか、さぞかし異様だろう。俺だってそう思う。けれどドアノブを手にして待ちかまえているミハシの丸い顔を見ていると、そんな事どうでも良く感じるから不思議だ。
 ペースが乱されている、しかもこいつのペースに振り回されるのを、俺自身が楽しんでいる傾向は確かにあった。
 ミハシと壁の隙間に身体を横にして滑り込ませた俺の動きに合わせ、ミハシがドアを閉める。かしゃん、と軽い音が後ろで響いて振り返れば、鍵を閉められていた。
 妙な気分だ。そんな必要はないだろうと思うのに。というか、俺がこの場にいる必要は果たしてあるのか?
「あ、れ?」
 何の疑問も持たずに一緒に入ってしまったが、濡らした部分を拭くくらいミハシだってひとりで出来る。俺が居た方が邪魔になるし、狭いだろうに。
 だがミハシは俺が居合わせているのが当たり前な顔をして、次に俺が挙動を起こすのを待っている。まさか自宅では母親に服の着せ替えまでやって貰っているわけじゃあるまいな、と疑ってしまいそうになった。
「とりあえず、……拭け」
 やっぱり秋丸のタオルを奪ってくるべきだったと後悔しても、遅い。俺は自分のポケットを探ったが、ハンカチなんて気の利いたものは出てこない。小銭が何枚かと、家の鍵と、部室の鍵と、いったいいつのものか分からない映画の半券がごっちゃになって出てきただけ。
 ミハシも俺の動きを見て自分のズボンを探るが、向こうも同じらしい。そりゃそうか、こいつは最初トイレを出てきた時に手を拭いてなかった。
 ミハシのポケットにはあめ玉、チョコレートの包み紙、コンビニのレシート、グミにラムネ……食べ物に関わるものばかりが出てきた。どうやってその量を入れていたのか驚くくらいに両手いっぱいに出現したそれらに俺は閉口して、額に手をやって深々と溜息を吐いた。
 直後こみ上げてくる笑いは、止まらない。
「は、う……うぅぅ……」
 顔を伏せて小刻みに肩を震わせる俺を前に、恥ずかしそうに、カラオケルームにいたどの時よりも恥ずかしそうにするミハシ。真っ赤になって首をカメみたいに引っ込めて、上目遣いに若干恨めしげに俺を見て下唇を噛み締めて。
 あんまり笑ってやるのは悪いと分かっていても、そう簡単に制御できるなら最初から笑っていない。
「あー、くっそー。お前やっぱおもしれー」
 タカヤに独占させておくのは勿体ないな、と心底思いながら俺は出したものをしまえと肩を叩いてやる。
 目尻に浮いた涙を拭って腹の底に残っていた笑いたい気持ちは飲み込んで我慢し、俺はミハシの後ろにある洗面台横を確かめた。手ふきタオルくらい用意していないだろうかと思ったが、此処は手を差し入れて温風で水分を飛ばすマシンしかない。
 どこまでも使えない店だな、と今度は天井に視線を走らせるが、そこにも低い唸りをあげる換気扇くらいしか無かった。
 トイレットペーパーで良いかと、落とした包み紙を拾おうとするミハシに肩をぶつけられながら俺は後ろを向く。
「そういや、お前」
 素朴な疑問を口にしながら、俺は指に白い紙を巻き付けていった。
「ジンジャーエール嫌いだったのか?」
 思い出すのは、またしても此処に来なければならなくなった原因。ミハシの口には付けられなかった飲みかけのジンジャーエールのコップ。空っぽになったあれも、床に転がしたままにしてきてしまった。
 屈めていた腰を戻して振り向いた俺の問いかけに、ミハシはひっ、と喉を引きつらせて濡れたシャツを強く握りしめる。無数の皺の海を泳ぐ指を掴んで下ろして、そこに丸めたトイレットペーパーを押しつけた俺は、自分でやれと命じてミハシの返事を待った。
 指に絡ませた紙を弄って、ミハシはおどおどと下を向く。一応濡れた服のままでいるのは気持ち悪いのか、指示通りに湿気を移し替えようとシャツにボール状にしたそれを押し当てるが、布の表面を擦るとすぐに紙は傷んでぼろぼろになってしまった。
 役目を果たす前に屑となって足下に沈殿していくトイレットペーパーに痺れを切らし、結局途中からは何故か俺が、紙を奪い返してミハシの着たままのシャツを引っ張っていた。
 首が絞まって苦しいと言うので、ボタンを外せと言えばその通りに。本当に人に命じられなければ何も出来ないのかと辟易しつつ、なんだかんだで面倒を見ている俺も悪いのかと自己嫌悪まで募る始末だ。
 濡れている部分を持ち上げて浮かせて、手で支えながら反対側に折り畳んだトイレットペーパーを押し当てる。下手に擦るからだめなんだと染み抜きの要領でやれと言っても、分かっていないミハシはきょとんとするだけ。
 そもそもこいつは、さっきの俺の質問にもまだ答えていない。
「俺の飲み差しが嫌だったのか?」
「ふへ?」
「だーかーら」
 人の話を聞いていたのか、と本気で怒りそうになって俺は丁寧に布に押し当てていた薄いちり紙を握りつぶした。
 身を竦ませたミハシが背中を壁に押し当てて、逃げ場がないのを思い出す。正面には俺が居て、しかも左手はシャツの一部を捕まえたままだ。
「だから……結構俺としては、ショックなんだけどよ」
 あんな風に拒絶されるのは。
 ミハシから視線を外し一緒に首も横向けた俺の手が、奴の上着を滑り落ちる。そのまま脇に垂れ下がるかと思いきや、予想外に、その手をミハシが取った。
「ち、ちがっ」
「じゃー、なに」
 飲み物の種類が嫌だったのではなく、他人の飲みかけを譲られるのが嫌だったのでもないのなら。
 なんかもう色々と面倒くさくなって、投げやり気味に聞き返した俺にミハシはどもる。重ならない視線に苛々は上昇傾向、はっきりしろと怒鳴り声をあげたいのを堪えた俺の手を強く握り、ミハシは小さく首を振った。
「は、榛名さん、がっ……の、の……飲ん、でっ」
「だから、飲み放題なんだから足りなくなったらいくらでも追加すりゃいいんだって」
 カラオケに初めて来た奴なら実感が湧かないのかもしれないが、そういう条件で店に金を払っているんだから気にしなくていいと、いくら言えばこいつは理解するんだろう。
 皆がいた部屋でも説明した内容を繰り返した俺に、けれどミハシは首を横に回した。
「そう……じゃ、なくって」
 しどろもどろ、喋りながら一所懸命言葉を探しているミハシは、きっと無意識なのだろう、俺の手首を掴む手に強弱をつけながら上下に揺り動かした。
 しかし思っている事を的確に表現する言葉が見付からないのか、開閉を繰り返す口は息を吸っては吐き出し、時折俺をちらりと盗み見てはすぐに逸らす。
「ミハシ?」
「は、榛名さんの、に……お、お、お……俺はっ」
「は?」
「榛名さん、が……使ったの、は!」
 勢いよく顔を上げたミハシの顔は真っ赤で、勢い余って後頭部が壁に激突している。反動で痛みで奴はすぐ下を向いたが、一瞬でも俺の前を通り過ぎていったこいつの顔に引きずられて、俺までどうしてか頬がかぁっと赤く、熱くなった。
 ちょっと待て、なんだこれは。
 これは、なんだ。
「まさか、それって……お前、俺が使ったコップだから嫌だったとか?」
「そ……あ、でもち……がっ」
「どっちだよ」
 頷きかけたミハシが慌てて否定して、俺は脱力した肩で頭を抱えた。
 俺が使ったもの、俺が口をつけたものを使うのが嫌だったのなら、そこまで嫌われていたのかとかなりショックだ。呆然とする。けど、今のこいつの台詞と態度は、その「嫌」とは違う意味にも取れて、俺は混乱した。
 答えは真逆のふたつにひとつ。
「大体さ、お前らって、俺もだけど、部活中とか試合中とか、普通に共有のコップ使って水飲むだろ?」
「う……はい」
 うん、と頷こうとして俺が年上だと思い出したミハシが慌てて言い直す。
 その返事に嘘がないのだとしたら、こいつは他人が――チームメイトが使ったコップを自分も使う事に抵抗は無い筈だ。たとえ俺とこいつが別々の学校に通っていて、別々のチームに所属していたとしても、意識レベルには大差ない。ここまで抵抗感を示される謂われは、ない。
 それなのに、ミハシのこの態度。
 ひょっとして、と脳裏を過ぎった想像は随分と生々しくて、俺は違うよな、と心の中で必死に祈った。
 自由の利く手で口元を押さえ、声のトーンを落とし、音量もギリギリ聞こえる程度に絞る。赤い顔のまま横向いているミハシはまだ俺の手を握っていて、そろそろ鬱血して奴の指の跡が出来上がりそうだった。
 ひとり用のトイレの中で、片方の腕を捕まれたまま向かい合って、狭いからと言い訳しながら近い位置に顔を置いている俺たちは、客観的に見ればおかしい。後から考えても他に感想は思い浮かばない。何をやっているんだ、と俺だって思う。
 けれどこの時はそんな風に微塵も思えなくて、ただ俺は、宙を泳ぐミハシの視線が俺の顔でさっさと固定されてしまえば良いのになんて、本気で考えていた。
 こいつがいつまで経っても俺の顔を見ないのが、むかついた。
 だからつい、意地悪をしたくなる。聞かないつもりでいた事をわざと嘲るみたいに、鼻を鳴らして低く笑って。
「じゃあ、なに。お前、俺の……俺と、間接キスするのが嫌だった、とか?」
 意味は同じだ、ただ言い方を変えただけで。
 けれどミハシは。
「――――!」
 あからさま過ぎるくらいに、反応した。
 茹で上がったタコよりも赤い顔、瞬きを忘れた大きな目、閉じては開き、喘ぐように必死に息を吸っている口に、締まりの利かない頬。ぎゅっと握られた俺の腕が悲鳴をあげる、身を竦ませたミハシが背筋を伸ばしたのは、図星を指されて頭がショートしたからだ。
 けれど目の前が真っ白になったのは俺も同じで、だってそうだろう。俺も……こいつだって、同じ男だ。それにもう俺たちは、間接キス云々で盛り上がったり照れたりするような初々しい年齢じゃない。
 俺だってキスくらい、したことはある。中学の時につき合っていた彼女とが最初で、それからも何人かとつき合って、帰り道に戯れで口付けた事は一度や二度じゃない。
 そりゃ、初めての時は死ぬほど舞い上がって、今思えばへたくそだったと笑いたくなる恥ずかしい思い出のひとつだけれど。
 けれど。
 こんな風に、意味もなく赤くなって相手の前から逃げ出したくなる経験は、一度も無かった。だって俺はいつだってコクられる側で、相手の事を必死に考えたり、相手が俺を避けるのを懸命に追いかけたりなんか、一度だってしたことが無かったのに。
 これじゃ。
 これじゃ、まるで。
 こいつが、俺のことを。
 俺が、こいつのことを。
「……ミハシ?」
「ひぅあ!」
 呼べば竦み上がった奴がその場で小さく跳ね上がる。ひょこひょこ俺の前で揺れる髪の毛、薄茶色の綿帽子は生まれたてのヒヨコみたいに柔らかそうで――柔らかくて。
 がちがちに緊張していると分かる顔、まだ人の腕を握ったままの手。流石投手をしているだけあって、見た目の華奢さの割に握力は強い。いい加減血流が悪くなりそうな左手を振った俺は、そのミハシの腕を無理矢理に振り解いた。そして。
 逆に捕まえて、後ろの壁に縫いつけた。
「うあ!」
 裏返ったミハシの声がトイレの狭い空間に反響もせず吸い込まれていく。肩を捻るように上へ追いやった俺の左手に挟まれ、手の甲を思い切り壁にぶつけたミハシは瞬間痛そうに顔を顰めた。
 けれどその先そいつがどんな顔をしていたかを、俺は、知らない。
 一瞬間近で互いの目を覗きあった後、どちらが先に目を閉じたのかも、分からない。
 ただ口先に触れる熱が、吐き出される吐息が。
 俺たちの感覚を少しずつ麻痺させていったのは、間違いなかった。
 触れは――――しなかった。
「三橋~? ミハシ、いる~?」
 寸前、どこからともなく聞こえてきたミハシを呼ぶ声に、どっきーんとそのまま心臓が飛び出す効果音を体現したミハシが、俺を(軽くだったが)突き飛ばしたからだ。
 目を瞬かせた俺は、後ろ向きに数歩よろめいて反対側の壁にあった洗面台の縁に腰をぶつけた。ミハシは両手を前に突き出したまま暫く呆然と俺を見つめて、また聞こえて来た声に狼狽えながらその場で足踏みする。
 ぶつけた場所に手をやって低く唸った俺に触れようと伸ばしかけた手は、けれど近くなったり遠くなったりを繰り返す誰かの呼び声に邪魔され、結局宙を掻いて引っ込められた。
「あ……は、はるっ」
「行けって。呼ばれてんだろ」
 まともにミハシの顔を見られるわけがない。もう片手を額に押し当てて目元を隠した俺に、ミハシは何かを言いかけ、結局何も言わず、鍵を開けると爆弾みたいな勢いでトイレから駆け出していった。
「ミハシ! お前、何処行ってたんだよ」
「ご、ご、……さ、さか、さ……」
「あー、もう良いから。さっきから阿部が大変な事なってるんだって。とにかく戻ろう」
 半開きの扉越しにミハシと、もうひとりの会話が途切れ途切れに聞こえ、やがて完全に聞こえなくなった。
 俺は左手を下ろし、ふーっと息を吐きながら天井を仰ぎ見る。
 ちゃんと掃除されているんだろうかと思うような、薄汚い換気扇がただ無機質に回転して、流れてくる音楽は妙にしんみりさせるスローテンポの甘い女の声だった。
「なにやってんだろーな、俺」
 ぽつりと呟いた声の、あまりの覇気のなさに自分でも笑ってしまう。
 何を、しようとしたんだろうか。俺は。
 あいつに。
 ミハシに。
 泣いたり、笑ったり、コロコロ表情が変わって。突っつけばすぐにおどおどして、自信無さそうにするくせに芯には折れないものを持った、まっすぐな目をした。
 俺はあんな奴を知らない。
 瞼を閉じれば次々に浮かんでくる顔、ひとつとして同じ表情のない。赤くなって、青くなって、笑って、笑って、泣いて、泣かせて。
 黙らせて。
 俺だけを見るようにして。
「あーーー、くそっ!」
 訳が分からない。乱暴に髪を掻きむしった俺の叫びは虚しく響いて、戻りが遅いと心配して様子を見に来た秋丸に変な顔をされた。

 俺が投げたボールはまだ、あいつの両手の中。

2007/9/18 脱稿