夜も更けて、いい加減深夜だと言っても憚り無い時間だった。
そういう時間にまだ起きていたのかとも言われそうだが、先日発売されたばかりのゲームが思いの外面白く、先の展開が気になって止まらなくて、ついつい夜更かしをしてしまった。ただ、いい加減もう眠らないと翌日の学校に響くと、いつの間にか日付も変わって久しい壁時計を見上げて綱吉は欠伸を噛み殺した。
「ねむ……」
階下は子供達が多い事もあり、既に寝静まっている。リボーンもまた、煌々と部屋の明かりが灯る中で平然とハンモックに寝そべり、高いびきの真っ直中。こうなるともう、彼は朝日が昇るまで目を覚まさない。
歯磨きをして、もう寝よう。携帯型ゲーム機の電源をオフにし、掌サイズの画面が真っ暗になるのを確認して立ち上がる。胸元で弛んでいたパジャマの裾が皺だらけのまま下へと伸びて、綱吉は左腕を軽く回してから無音のゲーム機を机に置いた。
もうひとつ欠伸を零し、下ろすついでの左手で口元を覆い隠す。目尻に浮いた涙を爪先で弾き飛ばし、明日の授業は何があっただろうかぼんやり考えながら踵を返しかけた時。
ヴッ、ヴッ、と重低音を響かせて、置いたばかりのゲーム機が揺れた。否、その隣に置いてあった携帯電話のバイブが発動したのだ。
「ん?」
こんな時間に誰だろう、と首を傾げて半分捻っていた身体を元に戻す。早々に沈黙した本体ではメールの着信を告げる緑色のランプが明滅しており、二つ折りのそれの表面にある小さな画面では送信者の名前がゆっくりと流れていった。
反射的に綱吉は間に親指を挟み入れて弾き飛ばし、縦長に携帯電話を広げて目で見ずとも場所が分かるボタンを二度連続で押した。
『あけて』
たった三文字、それだけが液晶画面にでかでかと表示される。
「ちょっ――」
飛び込んできた簡潔すぎるメッセージに綱吉は目を剥く。眠気など一瞬で霧散してしまい、彼は電話を閉じると同時に窓辺へ駆け込んだ。慌てて鍵を外し、窓枠に手を添える。
だが彼が指先に力を入れるより早く、外側から窓は、綱吉に向かって左側へとスライドしていった。
「遅い」
「そんな事言われても」
目があって開口一番そう言われても、綱吉としては最高記録を更新できるような反応速度だったのだ。思わず頬を膨らませて拗ねると、夜闇を背負った雲雀が低く声を潜めて笑った。
そもそもこんな時間に、しかも窓から訪ねてくる人に文句を言われたくはない。つんと鼻を尖らせてそっぽを向け続けて正論を振りかざすと、彼はやれやれと首を振って肩に羽織った学生服の位置を直してから、なにやらごそごそとポケットを探り始めた。
「今日は、なんですか? リボーンならもう、寝ちゃってますけど」
「みたいだね」
身体は外に置いたまま、窓から若干身を乗り出す形で綱吉の脇から部屋を眺めた彼は、定位置にハンモックがつり下げられ、そこにさながら果実の如く垂れ下がっている小さな姿に頷いた。
相槌からは残念がる素振りは感じられない。ならば彼へ用事があったわけではないのかと綱吉はひとり勝手に納得し、ではこんな夜更けに何用かと改めて雲雀の綺麗な横顔に視線を向けた。
目当てのものは見付かったのか、彼は動きを止めて窓枠に寄り掛かる形で室内に首から上だけを入れている。今日は中に入ってこないのだと、靴のまま散々部屋を荒らされた過去があるだけに戦々恐々していた綱吉はホッと息を吐き、雲雀に怪訝な顔をされた。
だから綱吉はわざとらしく咳払いをひとつして、姿勢を正す。
「それじゃ、なんですか?」
「寝るところだった?」
訪問の理由を聞いているのに、答えをはぐらかされた上に逆に聞き返された。
しかも若干、綱吉が迷惑がっている色を感じ取った問いかけであり、向けられる黒水晶の瞳にぐっと息を詰まらせ、綱吉は返事に窮し視線を逸らした。
雲雀の質問には恐らく意味がない。常識的に考えても、明日も当たり前に学校がある中学生がふらふら出歩いていて良い時間ではない。眠る以外に何かする事があるのかと、左手の指を弄りながら綱吉は首を振った。
彼のペースに飲まれてはいけない、惑わされてはいけない。中指の爪を親指の腹に押し当てて表面を捏ね、綱吉は雲雀へ向き直る。彼は窓辺に寄り掛かって頬杖を付き、もう片手で赤い実をボールのように遊ばせていた。
「ヒバリさん?」
よくよく見れば赤いと思われたのはひび割れたその中身であり、外側は青緑色が濃い。完全な球体ではなく、片側に奇妙な足のような萼が付随しており、割れ目から覗く果実は部屋の明かりを浴びて赤色が妙に艶めかしく光って見えた。
あまり見ない果実で、綱吉は首を右側に傾がせながら彼を見つめ返す。
「なに」
「……だから」
こんな時間に訪ねてきた理由をそろそろ教えて欲しいのだけれど、と言葉尻に含ませて呟いた綱吉に向け、雲雀は空中に投げた果実を素早くキャッチしてその手を引っ込めた。
「ちょっとね」
どうせ彼の事だから、たいした用事もなく気まぐれを起こして通りがかっただけなのだろうけれど。期待していなかったら案の定で、一緒に外へ視線を投げた彼の態度に綱吉は明らかな落胆を表に出した。
けれど視線だけを持ち上げると、肘を窓枠に添えて外を見ている彼が指先だけで綱吉を招くから、何事かと綱吉は大人しく彼に従ってしまう。結局なんだかんだで彼に甘い自分を自覚しながら、綱吉は雲雀の肘に触れぬ位置に両手を置いて外を仰ぎ見た。
いつもとなんら変わらない空、町並み。少し雲が多くて星はあまり見えないが、他に何かあるのだろうかと雲雀の横顔を見下ろしてから、綱吉は彼の目が向いている方角に黙って視線を走らせた。
どこかで救急車がサイレンを鳴らしている、けれど遠い。段々小さくなっていく音を耳の片隅で聞いて、彼は薄く広がる雲の向こう側に隠れている月の朧気な輪郭に瞳を細めた。
「あ……」
綺麗な円を描くおぼろ月に綱吉は瞬きの末息を呑み、零した吐息に唇を閉ざすのも忘れてうっすら虹色を輝かせている幾重もの輪に見入った。
満月――けれど仲秋の名月は確か先日に終わっている筈だ。
口腔に溜まった唾を飲んで雲雀に顔を向ける。彼は綱吉の問いかける視線の意味をそれだけで理解し、意味ありげな笑みを口元に浮かべた。
「中秋の名月はそもそも、旧暦八月十五日の祭りで」
手にした果実を弄び、彼は踵でベランダのコンクリートを軽く蹴り飛ばした。音は響かない、ただ少し身を乗り出した綱吉が肩を竦めたくらいで。
「で?」
「旧暦が月の満ち欠けを基準にするものだというのは、知っているね?」
「……」
続きを勿体ぶる雲雀に促せば、彼はまた話の矛先を変えて綱吉に問い返す。
話に聞いてはいても正確に知るわけではない綱吉は、雲雀の質問に即座に頷けずに顎を引いた。上目遣いに外にいる彼を見つめると、呆れられたのか彼は肩を竦めて説明を再開させた。
「旧暦では、その月の第一日は朔……新月になる時間を含んでいる日が当てられる。一ヶ月は朔から望、満月を経て再び朔が訪れるまでの間を指す。けれど」
木の実を窓に落ちないよう置いた彼は、自由になった右手の人差し指と親指で輪を作った。綱吉に見える位置にまで掲げ、それを囲むようにして左手の人差し指を走らせる。丁度輪の外を泳ぐ輪のように。
指が描いた楕円を月の軌道、動かない指の輪を地球だと雲雀は言う。正確な円を描く事がない月は、朔から望を迎えるまでの日数も一定ではなく、ある程度ずれが生じるのだと。
「えっと……?」
「つまり、月はきっちり十五日で満月を迎えるとは限らない」
むしろずれる事の方が多いのだと淡々と言葉を紡いで、雲雀は指を解いた。
分かったような、分からなかったような顔をし、綱吉は自分たちの間に置かれた表面の割れた実に視線を落とす。艶々として瑞々しい果肉が隙間にぎっしりと詰め込まれているそれは、見覚えがあるようで思い当たるものが見付からず、なんだっただろうかとぼんやり考えるが答えは出なかった。
雲雀の説明は続いている。
「中秋の名月とは、旧暦八月十五日の名月を愛でる日の事。けれど月の満ち欠けの関係上、その日が完全な満月に当てはまる年は少ない。十五夜は満月と言うけれど、ね」
実際は、大体一日から二日遅れてしまう場合が多い。本当の満月は、祭りが終わった後にひっそりとやってくる。
「へえ……」
知らなかったと素直に感嘆の息を漏らした綱吉に肩を竦め、雲雀は青緑色をした肉厚の果実に指を置く。割れ目に傷をつけないようにそっと先を添えた彼につられて間に目を落とし、綱吉もまた人差し指を伸ばして表皮を小突いた。
「これは?」
「知らない?」
さっきから雲雀が手で遊ばせているもの。果物に違いないだろうが、ぱっくりと表面に罅が入って中身が覗いている姿は本当に食べられるのかどうかも怪しく思える。そもそも満月の夜とこれに何の関連があるのかも分からず、首を捻る綱吉に彼はまた質問で問い返して来た。
相変わらずの彼に辟易しつつ、知らないからこそ聞いているのだと唇を尖らせれば、一理あると頷いて雲雀は丸いそれを掌で転がした。
「石榴」
「ざ……?」
「名前くらいは知っているだろう?」
「あ、これが」
確かに耳覚えがある名前だ、言われてみればいつだったか何かで見た記憶と合致する。
もう一度指で小突いた綱吉が頷くのを待ち、彼は割れ目を上にして月に向けた。
「これは、十五夜に独りでに割れる、なんて言い伝えもあるらしくてね」
「え?」
何気なく呟かれた雲雀の声に、綱吉は前に出ようとして壁に膝をぶつけた。薄茶色の毛先が振動で震え、痛みに奥歯を噛んだ彼を雲雀が密やかに笑む。自由な左手で額に触れられ、前髪を梳きあげられた。
広がった視界では雲雀と赤い実と、雲から顔を覗かせた月が一枚の絵画となって銀色の光に浮かんでいる。対する綱吉は部屋の照明が照らす人工的な明かりに包まれていて、壁と窓で遮られた空間の違いが無性に悔しかった。
「本当、ですか?」
「さーね」
声を潜めて問えば、はぐらかされる。割れ目に親指を入れた雲雀は綱吉に背を向け、家の外壁に腰を預けた。その横に綱吉が頬杖着いて顔を覗かせる。
プッ、と果肉が弾ける音がして汁が飛んだ。
「庭の木に成っていたものだけれど、食べてみる?」
ふたつに割れた果実の小さい方を差し出され、綱吉はきょとんとしてから慌てて両手を揃えて差し出した。載せられたのは真っ赤な粒々が内側にびっしりと隙間無く詰め込まれていたが、それ程重みはない。雲雀が裂く時に潰れた実が露を零している、それさえも赤かった。
どうやって食べるのかと思えば、雲雀は直接果肉に口を寄せ、前歯で粒を削ぎ落としている。途中で割れる実も多く、月光の中に在る彼の唇は嫌に艶がかっていた。
滴った汁に舌を這わせる様を直視できず、綱吉は身を引いて下を向く。
種を吐き飛ばした雲雀が口元を拭い、大人しくなった綱吉を振り返った。両手に載せた石榴をどうすることも出来ずにいる彼に赤く濡れた指を向け、薄く開いて呼吸している唇にそっと触れる。
「嫌い?」
促して上向かせ、目線を合わせれば彼は首を横に振った。
実物を見せても、名前を教えるまでこれが石榴と分からなかった綱吉だ。無論食べた事もないのは雲雀にも想像がついたから、愚問だったかと彼は心の中で呟く。
「君には酸っぱいかもしれないね」
乾いている唇を親指で横に撫で、人差し指では喉仏の表面をそっと擽って手を離す。窓の外へ消えていく彼の半袖から覗く白い腕を追いかけ、綱吉は慌てた様子で膝を窓下の壁に打ち付けた。
「そ……んなの」
「人の肉の味だ」
一方的に決めないで欲しいと言いたかったのに、先を遮った雲雀の声に綱吉は言いかけた内容を忘れて目を瞬かせた。
手の中の石榴を見下ろす。軽く握ったそれは、ガーネットのような赤い鮮やかな色を放って光を反射していた。
その輝き、は別の方向から見れば、非常に毒々しくもある血を連想させる彩でもある。
「鬼子母神……ですっけ?」
ただその話は聞いた事があって、綱吉は懸命に記憶の引き出しを荒らして回った。
「知ってたの」
雲雀はやや目を丸くし、驚きを表情に表して綱吉の不評を買った。頬を膨らませて思い切り拗ねた表情をする彼に肩を窄めて笑い、雲雀はもうひとつ石榴に歯を押し当てる。
口端に零れた雫は、確かに血のように赤い。
鬼の女は己の子を大事にしながら、人の子を盗んで喰っていた。その彼女に心根を改めるよう諭した釈迦が彼女に人肉の代わりとして与えたのが、この石榴の実。
確かに雲雀が言うと妙に説得力がある気がして、綱吉は指の腹で大事に表面の皮を撫でた。
「美味しいですか?」
「肉の代わりに……としてなら、失格かな」
試しに問えばそんな返事で、綱吉は今度こそ噴き出した。窄めた唇から種を吐いた雲雀はそれが不満らしく、振り向きざまに額を小突かれる。ただそんな触れ合いが単純に嬉しくて、綱吉は目を細めてから雲雀に擦り寄っていった。
肩で肩にぶつかって、彼の身体を揺らしてやる。一瞬離れたものはまた戻ってきて、今度は綱吉が弾かれて右に上半身を傾がせた。姿勢を戻せば布の薄いパジャマに雲雀の学生服が引っかかり、ざらついた布地が直接肌に感じられた。
夏の残暑が尾を引いてまだ続いているとはいえ、それは昼間の話。日も暮れて闇の帳が下ろされれば、空気は冷えて秋の気配が色濃く顔を覗かせる。再び雲に隠れた月に目を向け、綱吉は僅かに感じた寒さに鼻を啜った。
ちらりと横目で盗み見た雲雀を知らず、綱吉は左手で右腕をさすって息を吐いた。白く濁るのはまだ当分先だろうが、唇に触れる自分の体温は夏場よりずっと強く感じられる。地球温暖化だとかで季節の変わり目が段々見えにくくなっているけれど、こんなところで変化が分かるのは純粋に面白かった。
「ヒバリさんの家、石榴の木があるんですね」
林檎狩りで行った果樹園の景色を想像した綱吉に雲雀は頷いてから首を振り、単純に庭木の一本として植えられているだけだと訂正を加える。
「昔からあったよ」
十五夜に実が割れるという話は、家に出入りしていた庭師から聞いた話のひとつだった筈だ。幼い頃は手が届かず、更に誰も食べようとしなかったので実っては落ちるに任せてばかりで、この鮮やかな赤色に焦がれる期間は随分長かったと雲雀は続ける。
他にも実のなる木は沢山あったのに、石榴に興味が向いたのはそれが一本だけ離れた場所にぽつんと育ち、誰にも見向きされぬのに背筋を伸ばして凛と立っていたからだろうか。それともひとりでに割れて果肉を散らす、地に落ちて砕けた後の姿は腸をぶちまけられた死骸を思わせる残酷さを感じたからか。
声を低くして笑った雲雀に、綱吉は身を寄せる。自嘲気味に囁く彼の言葉が悲しくて、首を傾けて彼の肩へ頬を押し当てれば触れた前髪が擽ったのか、雲雀は身動ぎしてから息を吐いた。動こうとした身体を意識してその場に押し止め、淡く輝く月の輪郭に目を閉じる。
横では綱吉が、左手に載せた石榴の実を爪で穿り、指先大のそれをひとつ摘み出すのに成功した。薄い赤に染まった指を口元に引き寄せ、そのまま舌で絡め取る。かみ砕けば中の種が思い切り挟まって、まさかそんなところに固形物が入っていると思っていなかった彼は途端、渋い顔をして指を吐いた。
しかも潰れた表皮から溢れ出た汁は、雲雀の言葉通り酸っぱかった。それも、相当に。
「うっ」
「ああ、ダメ?」
よくこんなモノを平然と食べられるな、と雲雀の味覚を疑いたくなった。砕き損ねた種を窓の外に吐き捨て、思わず浮いた涙で睫毛を濡らす。呻いた綱吉に身を起こした雲雀の声に頷いて、綱吉はよろよろと窓辺にもたれ掛かった。
両手を伸ばし、脇に窓枠の出っ張りが食い込むのも構わず身を委ねる。斜め下を向いた掌からは人肌に温められた石榴の実が滑り落ち、暗い水底にも似た雲雀の足下へ沈んでいった。
勿体ないとは思うが、身体が受け付けない味が舌の上にこびり付いているのでどうしようもなかった。懸命に唾を呼び出して表面を洗い、薄めて飲み込むだけで精一杯の彼を見下ろし、雲雀は平然と三口目を頬張る。
「……酸っぱくないんですか?」
喉を潤す水の流れる音が雲雀から聞こえる。逆に自分は乾いているのに、と辛うじて持ち上げた目線で雲雀に問えば、彼は突き出した唇の隙間から器用に種だけを吐き出した。
「慣れ、かな」
唇を濡らす赤い汁を拭い取った雲雀は、まだ歯の裏に貼り付いて残っていた種を最後に指に載せて足下へと落とす。
地面にまで落ちたものもいくつかあるだろうから、いつか芽吹いてこの家の庭にも石榴の木が育つのだろうか。闇に吸い込まれていく小さな粒を懸命に目で追って、綱吉は崩したままだった姿勢を戻し背筋を伸ばした。
窓枠を軽く握り、腰を引いて背中を後ろへと反らす。骨が軋んで音を立て、慰めるべく左手で頸部を揉みほぐしてやる。持ち上げた視線は雲が全体の半分近くを覆い尽くす夜空へ自然と向いた、月はうっすらと雲の影から存在を主張して輝いている。
欠けるところのない完全な円、優しく地表を照らして微笑む月のその姿。雲雀もまた果肉も残り少なくなった石榴を手に抱いてぽっかりとそこだけ穴が空いたかのような闇夜を仰いでいた。
音はもう殆ど聞こえない、人々は寝静まり夢の中を漂っている事だろう。
振り向いた室内でもリボーンがハンモックの中で鼻提灯を膨らませ、すやすやと穏やかな寝息をたてている。日頃は小憎らしいを軽々と飛び越えた強権ぶりを発揮する彼だけれど、ああやって眠っている時だけは年相応に見えるから不思議だ。
首を窄めて姿勢を低くし、声には出さずに笑って目を細めた綱吉の頬を擽って、外から伸びた雲雀の指が彼の顎をなぞる。僅かに湿った指先はまるで猫をあやすようであり、綱吉は益々首をカメみたいに引っ込めて膝を落とし、床にしゃがみ込んだ。
背中はまっすぐに伸ばして、ギリギリ届く窓に肘を置く。投げ出した足の先が散らかった部屋に寝転がる本の角に当たった、立ったままでいる雲雀との距離は遠い。
見下ろしてくる瞳は涼やかで、時として氷の刃よりも鋭い切れ味を誇る切れ長の眼に見つめられた綱吉は、頬を左の手に傾けて彼の側へ首を倒した。
「そういえば」
緩く吹いた風が雲雀の羽織る学生服を頼りなく揺らす。風呂から出て数時間が経過している、とうに乾いて爆発具合に拍車が掛かっている髪に触れる感覚があって、綱吉は一旦閉ざした目を開いて首を擡げた。
視線は絡まない。彼は再び、仄明るい月に白い肌を晒している。
「ヒバリさん?」
「蛇に唆されたアダムとイブが食べた果実も、石榴だったと」
楽園エデンの中央に育つ数多の果樹のうち、一本だけ特別な場所に背を伸ばしていた樹。神に決して触れてはならない、食べてはいけないと言われておきながら、狡猾な蛇の勧めるままにその果肉に歯を立て、溢れる果汁に喉を潤した愚かな人の始祖。
けれど綱吉は初耳だと口を開き、雲雀の手に宿る赤く熟れた宝石に視線を投げる。表皮を濡らす雫までもが赤く、ともすればとても淫靡だ。或いは彼の言うとおり、この見た目に麗しい果実に心惹かれて最初に生み出された女は禁断の実に手を伸ばしたのか。
けれど綱吉の知る旧約聖書の創世記は少し違っている。
「でもあれって、林檎じゃ?」
「そういう説もある、というだけだよ」
一般的に林檎が知られているだけで、旧約聖書自体には智慧の実の正体がなんであるかは明確に記されていない。ただ楽園の中心に聳える一本の樹、とだけ。
「ふぅん……」
無論綱吉は創世記を読んだ事があるわけでもなく、納得出来るような、出来ないような、曖昧な気持ちのまま相槌だけを打って自分の空っぽになった掌をなんとなしに眺めた。酸っぱさだけが記憶に焼き付いた赤い実は既にそこになく、明日の朝日が昇った後のベランダは、きっと惨憺たる光景になっているに違いない。
奈々にばれたら怒られるか、気付かれる前に学校に行ってしまった方が良さそうだ。
盗み見た雲雀は、けれど素知らぬ顔を貫いて残り僅かな果肉を指で抉り出している。手首にまで滴った汁に舌を這わせた彼の動きに喉が鳴り、綱吉の動く気配に彼は久方ぶりに下を見た。
そして綱吉がどんな顔をしているのかを知って、意地悪く口元に笑みを浮かべやる。
「な、んですか」
「物欲しそうな顔をしている」
「……!」
緊張が先に立って呂律が回りきらず、変なところで切れた綱吉に雲雀が笑った。
「そうそう」
まだ何かあるのか。石榴の実に負けない程に赤く色付いた頬を隠した綱吉に、彼は最後のひとくちを啜って青緑の果皮を捨てた。
音もなく闇に飲まれていくそれの末路を懸命に目で追った綱吉の頬を、濡れた雲雀の手が包み込む。上を向くように促され、朧気に、それこそ淡く照らされる月の如き丸い瞳を見開いた綱吉の額に影が落ちた。
頬を抱く手が、もうひとつ。ひんやりと感じたのは一瞬で、即座に発生した熱に綱吉は目眩を起こした。
「んっ……」
触れあった唇から流れ込む酸い雫に、喉が焼けるような痛みを発した。
赤い、血の色をした果汁が綱吉の唇を汚す。飲み下しきれなかった分が溢れ、無防備な幼く白い喉を撫でた。
上唇を吸われ、隙間から差し入れられた舌に歯の裏をなぞられる。こぼれ落ちた雫にも舌を這わせた雲雀の動きを無意識に意識が追いかけて、震える拳はやがて寄る辺を求めて彼の襟を掴んでいた。
「ゥ、ん……ちょ、ヒバ、っ」
紅色に色付いた舌の表面で首元を舐めあげられる。飲み込むのが追いつかない石榴をそのまま彼に向かって吐き出してしまいそうで、綱吉は上を向いて耐えた。そこへすかさず雲雀が指を繰り、露わになっている鎖骨の薄い皮膚をも撫でて綱吉の腰を掻き抱く。
強引に上に引きずりあげられ、重ね合わされた唇の甘さに乾いていた身体が疼いた。
けれど、此処は綱吉の部屋で。
階下には奈々たちが眠っている、後ろにはリボーンだって。
「待って、や……ンっ」
頭を振って合わさりを無理矢理外し息を吐くが、しつこく追い回す雲雀は諦めてくれない。首の後ろに回った手がかぶりを振りたがる綱吉の動きを邪魔して、背中に回された手は少しずつ下へ降りていって綱吉が来ているパジャマの裾を探し出す。
口腔に流れ込んでくる甘い匂いは痺れを伴って綱吉の力を奪い去っていく、ぼんやりと靄がかっていく思考を懸命に食い止めようとするけれど出来なくて、散々貪って去りゆこうとする雲雀の舌に綱吉は前歯を立てた。
軽く噛み付き、少なからず抵抗を示して潤んだ瞳で彼を睨む。
「ヒバリさん!」
「石榴はね」
それなのに彼はへこたれもせずに咬まれた場所を今度はすり寄せて来て、綱吉に舐めるよう強要してきた。
湿った音が耳殻に流れ込んで、全部が熱い。綱吉は仕方なく目を閉じて首を伸ばし、雲雀の胸板に寄り掛かりながら自分が歯を立てた場所に口付ける。
とても近い場所で雲雀が底意地の悪い笑みを浮かべ、赤く綺麗に熟した綱吉の頭を抱いた。髪を撫でる仕草はあくまでも優しく、穏やかで。
あと少しで窓から完全に引きずり出されてしまうところで引っかかっている綱吉は、彼に寄り掛かりながら触れあった場所から流れてくる彼の熱に安堵の息を漏らした。
その耳元で、彼が囁く。
「石榴は、多産の象徴」
「――!」
「おいで」
頭を爆発させた綱吉の狼狽をクスクスと笑い、雲雀は綱吉の手を引いて半歩ベランダを下がった。
彼の踵が石榴の種を踏み潰す、その音が闇に溶けていく。
「で、も」
辿々しく反論を口にしようとして、綱吉はちらりと後ろを窺う。ただ其処には彼を止める人の声は無い。静寂だけが、闇の帳の中で甘い匂いを放っている。
握られた指の強さ、伝わってくる熱に綱吉は唇を噛み締めた。仰ぎ見た空には雲間から照る月が、今も昔も変わる事無く玲瓏と輝いていた。
月は潮の満ち引きに関わり、人の歴史に多く影響を与え、今もそれは連綿と続いている。
今夜は、満月。
望の月は、言う。
「ヒバリ、さん」
知っていますか、と。
綱吉は自分から膝を折り窓枠に押し当て、床に残る爪先で地を蹴った。跳ね上がった小さな四肢は、難なく出迎える雲雀によって受け止められる。その衝撃の最中、綱吉は彼の耳朶に鼻梁を押し当てた。
背中に回された両手が温かい。爪先は宙に浮いたまま、懸念していた石榴を踏み潰す事は無かった。
「なに」
「満月は、ですね」
今日みたいな綺麗な、特に綺麗な満月に人は魅入られる。それは時に人の心に潜む狂気を呼び起こすのだ、と。
吐息を混ぜて囁き返せば、彼は綱吉の決して軽くはない身体を大事に抱えながらベランダの手すりに腰を落とした。
部屋の明かりが薄くなり、至近距離の彼の輪郭さえぼやけて綱吉は急に不安になる。
「知ってるよ」
だから来たのだと、そう呟き返す声だけが今の綱吉にとっての全て。
ぎゅっと抱きつけば、落とさぬように細心の注意を払いながら、綱吉を彼の家から連れ出す事に意識を尖らせる。
窓から覗く銃口は最後まで火を噴かず、雲雀の意味深な笑みの示すところを知る影は何処にもなかった。
翌朝枕元に添えられていた石榴の実は、甘くもなく、また酸っぱくもなく。
ただ、ほんの少しヒトの味がした。
2007/9/25 脱稿