処暑

 カラカラと扇風機が回る音が湿った空気をかき回す。
 三枚のプロペラが唸りを上げて風を起こし、渦を巻いたそれが触れる箇所だけが一瞬だけ熱を奪い去られ、微かな涼を皮膚に呼び込んだ。
 しかし、所詮は一時しのぎ。左右に首を振る扇風機がそっぽを向いた途端、じっとりと振り払うのも億劫な汗が乾いたばかりの肌に浮かび上がり、絡み付いて離れない。
「あつ……」
 暦上は二十四節の処暑を過ぎ、少しずつ涼しさを取り戻しつつある、というのが建前。しかしまだまだ暑い盛りは続き、とてもではないが秋の気配など微塵も感じられない。確かに日の出の時間は少し遅くなり、日の入りは早くなろうとしている。だが昼間の気温は八月上旬と大差なく、何もせずにぼんやりしているだけでも全身から汗が噴出して止まらない。
 年々記録更新が続く最高気温には辟易させられる。地球温暖化防止を歌ってエコだ、クールビズだなんだのというけれど、開け放った窓につるされた風鈴の音と団扇、それから年季の入った扇風機くらいしか頼るものがなく、一日中半袖半パン姿で過ごす自分は、その基準からすれば随分と地球に優しい夏をすごしていることになりそうだ。
 広げた漫画雑誌も半分過ぎた辺りで集中力が途切れ、続きは日が暮れてからにしようと断念する。掌を濡らす汗が乗り移り、前半分の紙面は横側が湿って波打っている。広げた手は溶けたインクで薄らと汚れていた。
 雑誌をベッドの下へと滑らせて落とし、角が床と激突したらしき音さえも無視して両手両足をだらしなく四方へと投げ出す。重みを受け止めるスプリングが一度だけ面倒くさそうに音を響かせ、今朝方起きた時のまま端に追い遣られている布団の塊を左足が蹴り飛ばした。
 柔らかな布団は心地よいが、汗までは吸い込んでくれない。適度に温められたシーツの肌触りに複雑な表情を浮かべ、無機質で味気ない天井をぼんやりと見上げる。
 扇風機は時々ガガガと不機嫌な音を立てながらも、寿命の限り命じられた行動を繰り返そうと頑張っている。クーラーはリボーンから、暑さに慣れる特訓だなどという理由で使用を禁じられ、結局今夏は来客があったときくらいしか自室の冷房にスイッチを入れていない。奈々たちが階下のリビングで使用する分は構わないようだが、綱吉があそこに長時間居座ると容赦なく銃口を鼻先に突きつけて脅してきた。
 昔の人はよくこの炎天下を文明の利器無しで過ごしたものだ。江戸時代にでもタイムスリップしようものなら、きっと三日経たずに干乾びてしまうに違いない、とミイラになった自分を想像して吐き気を覚えた。
 何もやる気が起こらない。
 早く日が暮れてくれないだろうか、軽やかにゆれて透明な音を零す風鈴に耳を傾けて思う。
 もしくは、夕立でも来ないか。
 湿度が上がって余計に暑苦しく感じる可能性もあるが、間もなく夕方の四時に達しようとしているので、この時間から三十分だけでも雨が降れば、もうこれ以上気温は上がらずにむしろ涼しさは増すだろう。幸い今日はまだ風がある、気温が下がりさえすれば幾らかは今よりマシになる筈。
 耳の奥で扇風機が起こした風が唸る。ヴン、と脳みそを軽く横から小突かれた気分で、仰向けだった身体を勢い任せに俯けに返した綱吉は、顔面を自分の汗が染みこんだシーツに押し付けた。
 一歩も動きたくない。目を閉じれば焦げ付いたアスファルトに立ち上る陽炎が見えるようで、ジーゥジーゥと耳の奥に反響する蝉の声を意識の外から追い出す。こんな時は涼しくなることを考えようと思うのに、茹で上がる内臓が著しく機能を低下させることばかりが次々と頭に浮かんでは消えていく。
 アイスが食べたい、カキ氷でも良い。よく冷えた牛乳でも構わない、いっそただの氷の塊でも文句は言わない。何かこの身体に冷たいものが欲しい。
 ぐったりと、さながら死体の如くベッドに倒れ伏したまま動かない綱吉の耳に、風鈴の声だけが染み込んでいく。外では何かがあったのか、ヘリコプターが低空飛行するプロペラの音も一瞬だけ大きくなって、次第に小さくなっていった。
 夏休みも残り少ない、宿題は日数と反比例。けれどこの高温多湿ぶりではやる気も失せて、机に向かって座るだけでも頭が破裂してしまいそうだ。
 また最後の三日くらいは徹夜だろうか、壁につるしたカレンダーをちらりと横目で盗み見て考える。
「ツーくーん、居る~?」
 中途半端にふわふわと浮き上がった思考、それが一気に地に落ちる。首を持ち上げようとしていたのが、階下から奈々の呼び声が聞こえた途端顎からベッドへとまた沈んだ。
 両耳をいっそ手で塞いでしまいたい、奈々がこんな猫なで声を出すときは、大抵何か綱吉に頼み事をする時だ。この暑さの中、買い物の用事を言い付かるのだけは御免だ。
 けれど彼女の声は段々と大きくなって、そこに足音まで付随するようになった。最後は空気の通り道として、少しだけ隙間をあけていたドアを勢い良く開かれる。
「ツーくん! 居るなら返事なさい」
「うわっ」
 頭の上に二本の角を立てた奈々が、怒り心頭の様子で怒鳴り声を上げた。
 反射的に体を起こし、背中に壁が当たるところまで後退する。床に散乱したゴミや本、衣服類を足で押し退けながら接近する彼女から逃れようと視線を巡らせるが、元々狭い部屋なので逃げ場はない。引き攣った笑みを浮かべた綱吉は、腰に手を当ててずい、と顔を近づけてきた奈々のとてもとても優しい笑顔に、さっきまでの暑さを吹き飛ばして鳥肌をたてた。
「ツっ君?」
「はひっ」
「母さん、ちょっと買い物に出てくるから、お留守番お願いね」
「へ?」
「返事は?」
「は、はい! わかりました」
 思わずベッドの上で正座をしてしまい、膝に両手も揃えて畏まって返事をする。途端恐怖を抱かせる笑みからいつもの人懐っこい表情に戻った奈々は、よろしくね、と綱吉の肩を叩いて踵を返し、部屋を出て行った。
 触れられた場所から消え失せていた体温が戻って来る感じがして、綱吉はへなへなとその場に崩れ落ちる。奈々は普段滅多に怒らないだけに、こうやって怒りを露にされると兎に角恐ろしくて仕方が無い。なんでもはいはいと優しく返事をしてくれると思って調子に乗っていると、手痛いしっぺ返しを食らうのは生まれてからずっと一緒に生活している手前、よく分かっている。
 それにしても、買い物を命じられなくて本当に良かった。
 胸を撫で下ろし姿勢を戻した綱吉は、背中に張り付いているシャツを引っぺがして汗を含んだ前髪を後ろへと掻き上げた。
 奈々が全開にしてそのままになっているドアからは、ランボとイーピンがはしゃぐ声が聞こえて来る。それを宥める奈々の声も。
 一緒に出かけるのだろうか、この暑い最中。子供は元気でいいなと、自分もまだまだ子供の領域であるのを棚の上に追いやって綱吉は手を団扇に胸元へ風を送り、ベッドから床へ降り立って扇風機のスイッチを足で蹴り飛ばした。
 グゥン、と一瞬低い音を立てて回転がゆっくりに、数秒送れて完全に動きが停止する。途端生温い空気が天井から落ちてきて、追い遣られるように綱吉は自室から廊下に出た。
 廊下の空気も、換気が完全でないからだろう、熱気が篭もってむっとしている。首を撫でる汗は不快だが、今はそこに手をやるのさえ嫌だ。角を曲がった綱吉は手摺りに触れようとした肘を寸前で戻し、素足のまま幾分冷たい階段を降りていく。
 自分の足音と、鼻で吸って口から吐きだす呼吸音しか聞こえない。リボーンも奈々と一緒に出かけたのだろうか、人の気配が絶えた屋内は非常に淋しげで、取り残されたリビングの照明がやけに虚しく映った。
 扉の隙間から手を差し入れ、電気の無駄遣いだからと明かりを消す。日除けのカーテンが引かれているので、蛍光灯が消えた瞬間室内は薄い闇に覆われた。
「あちー」
 急激な明度の変化に目を瞬かせ、首を振って汗を飛ばそうと試みる。けれど無駄な動きに体力を消耗しただけに終わり、犬みたいに舌を出して熱を放出しながら綱吉は先ず台所へと向かった。
 こちらは電気が最初から消えていて、北向きというのもあってリビングより大分薄暗い。回しっ放しの換気扇が不機嫌に呻いている以外、動くものの気配も無い。
「なにか、無いかな」
 見やった時計の針は部屋で見た時とあまり変化のない、夕刻間近を指している。この時間からスーパーに出向けば、時間限定セールも開催されるのでお得なのだとか。けれどそれ目当てに押し寄せる主婦の大群が怖くて、綱吉はあまり近づきたくない。心底お使いを言い付からなくて良かったと思いながら、彼は床板を軋ませつつ台所の一番奥にある冷蔵庫前まで移動を果たした。
 表面にマグネットで色々なメモ書きが貼られている。ランボが描いた、なんだかよく分からないクレヨン画も飾られている。町内会の重要なお知らせ等は、小さな子の手が届かない場所に。居候が増えてエンゲル係数が上がった分、食糧保存のスペース確保にと買い換えたばかりの冷蔵庫は、小さな子供たちの悪戯を受けて下半分が傷だらけだった。
 表面の塗装が剥げて白い線が走っている扉を撫で、冷凍庫を引き開ける。途端に噴出される白く濁った冷気を浴び、汗が一瞬で引いていくのが分かった。
 だがそれも一瞬であり、綱吉は目を瞬かせると睫に乗った汗を避けて引き出しの中に手を入れた。ガサゴソとかき回すのは、子供たちが勝手に取り出して食べてしまわないよう、隠してあるからだ。
「あった」
 記憶が確かなら、まだ此処にアイスが残っているはず。舌なめずりをして乾いた唇に湿り気を与えながら手探りで引き出しを漁った綱吉は、固く冷たいものを指先に見つけると握りしめて引っ張りだした。ほぼ同時に音を響かせ引き出しを引っ込めて閉めれば、周囲に渦を巻いていた冷たい空気はあっという間に拡散して消えてしまった。
 勿体無かったかな、と心の中で呟いて手の中に残った氷菓の袋を破く。中に充満する空気を外へと押し出して入り口をこじ開けてやり、中央に突き刺さる槍を持って一気に引き抜く。表面に氷の粒をまとわりつかせた角柱形のバニラアイスは、綺麗な歯形を表面に刻まれてその一部を失った。
 舌の上で塊を転がし、喉へ送り出す。その頃にはもう大部分が熱で溶けてしまっていて、どろりとした感触が食道を滑り落ちていくのが実感できた。
「ふー」
 生き返った気分で息を吐き、今度は齧った部分に舌を這わせて表面を舐めていく。でこぼこだった箇所をなだらかに均しながら、今度は冷蔵庫の扉を開けて、綱吉はポケット部分に納められていた牛乳と、ペットボトルのブラックコーヒーを一緒に引き抜いた。
 アイスは口に挟み持ち、左右にそれぞれのボトルを握って、肩でドアを閉める。バタンと一際大きな音を響かせて冷気は遮られ、開け放たれた窓から響く微かな蝉の声が温い風を呼び起こした。
 ボトルを揃えてテーブルに置き、体を裏返してシンク脇の食器洗い機へ。蓋を開けて逆さまに干されているグラスをひとつだけ取ってまた蓋をし、ガラスの表面を撫でた水滴を指で弾いてテーブルへと戻った。
 一階分とはいえ、太陽から遠いからだろうか。自分の部屋にいる時よりも少し涼しい気がして、綱吉はアイスを舐めつつグラスにコーヒーと牛乳を一対一ずつ注ぎいれてアイスカフェオレを即席で作ると、バニラ味で染まった口の中へ喉の赴くままに流し込んだ。
 自分が座っている椅子の背を引き、けれど座るのは待って背凭れに腰を預けて寄りかかる。綺麗に片付いた台所の作業場に面する窓の外は、緑濃い色で溢れかえっていた。
 ただ、植物もこの暑さに相当参っているようで、特に背丈の低い草は葉先もしんなりとしてしな垂れている。
 コップを置いてまたアイスを前に出し、前歯を使って表層部分を、さながら鉋掛けするみたいに削る。細かな屑が歯茎を冷やし、低温火傷かじんじんと痛んだ。
 体重を片側ばかりに預けている為に椅子の足が片側浮き上がり、バランスを取ろうと動いた綱吉に合わせて床を擦る。不愉快な音を一瞬だけ奏でた後またシンと静まり返った台所で、綱吉はふと、この状況に似つかわしくない音を聞いた。
「あれ」
 空耳だろうか、と首を捻る。
 銀色のシンクに半歩近づき、後方で椅子がまたガタガタ鳴るのも無視して身を乗り出す。窓から窺い見た空は緑に遮られて全景は望めず、首を斜めに傾けて苦しい姿勢を取ってみても結果は同じだった。
 矢張り空耳だったのだろうかと、上から下へと転じた視界で地面に落ちる木漏れ日を確かめて綱吉は残り少なくなっていたアイスを棒から引き抜いた。
 かなり柔らかくなっている物体を噛み砕き、その感触の軟弱さに苦笑して用無しとなった平たい細長の棒は三角コーナーへ。生ゴミは片付けられていて、今そこには何も入っていなかった。
 換気扇の音が耳障りに響く。いっそ切ってしまいたいが、奈々がつけたまま放置しているのには何か意味があるのかもしれないと考えると、踏ん切りがつかなかった。
「どうしよっかな」
 留守番を任されたとはいえ、特別やることは無い。部屋に戻ってもだらだらするばかりだし、たまには新聞でも読もうかとテーブルの片隅に折り畳まれている今日の朝刊に手を伸ばした。そういえばそろそろ夕刊も届く頃か。
 顔を上げて再度時計を確認し、時間の進みの遅さに辟易しながら首を振る。広げた紙面はあまり面白いとはいえなくて、指で目の粗い紙をなぞりながらコップに残るアイスカフェオレを飲み干すべく綱吉は反対の手を伸ばした。
 その指先が空を掻く。
「あ、はーい」
 ぴんぽーん、と軽い調子で玄関のベルが鳴り、行き場を見失った手がテーブルの表面を削る。新聞からも顔を上げた彼は、今頃誰だろうかと聞こえもしない返事をして玄関へ急いだ。
 宅急便だろうか、印鑑を持ってくるのを玄関で奈々のサンダルに足を入れてから思い出す。だが今から戻るより、一旦ドアの向こうにいるのが誰かを確認してから、必要なら戻れば良いと考え直してドアの中央やや上よりに開けられた穴からポーチを窺い見た。
 誰も居ないように思われたが、向こうも綱吉が穴から外を窺い見ていると気づいたらしく、ごそごそと立ち位置を正面に移動させてレンズの前に顔を出した。
 色素の薄い髪、同じように白い肌。パッチリと見開かれた瞳は澄んだ海を思わせる青、小さめの鼻に鮮やかな赤をした唇が続く。レンズの所為で楕円に歪んだ姿ではあったが、綱吉は彼が誰かを理解する前に泳いだ手で錠を外していた。
 ドアを開けて道を譲ってやる、向こう側にいたバジルは瞬間、嬉しそうな顔をして両肩を落とした。
 見れば左右の手に重そうな荷物を抱えている。奈々お手製の布バッグは限界寸前まで膨れ上がり、ファスナーもボタンも無い上の口は涙型に広がっていた。中身が少しはみ出ている、乳白色をした半透明の袋。
 ぎっしりと詰め込まれた、白米だ。
「うわ、重そう」
「はい、流石に少し疲れました」
 後ろに飛び退いて場所を空けた綱吉に苦笑いを返し、バジルは左右それぞれに持っていた米袋を玄関に持ち上げた。重みから解放されたからか、盛大に息を吐いて吸い込む。交互に肩を回して自分の体を労う彼は、いったいどこからこれを運んで来たのだろう。
 奈々と一緒に買い物に出かけて、ひとり先に帰って来たのだろうか。玄関を閉めて再び施錠しながら考える。
 バジルは靴紐の結び目を解いて左足から家に上がり、手伝おうかと手を伸ばした綱吉を先回りして下ろしたばかりの袋をふたつとも、持ち上げた。
 決して軽いものではなく、本人も今さっき「疲れた」と言っていたくせに、そんな素振りをまるで表に出さずに。
「持つよ」
「大丈夫です、台所までですので」
 控えめながら申し出た綱吉に首を振り、彼はすたすたと廊下を歩き出した。
 いつもより水分を吸ってか重そうな髪が左右にリズム悪く揺れる。露になっている項には汗の粒が光り、また半袖シャツから覗く腕も日焼けの所為か僅かに赤みを帯びていた。
 タオルでも持ってきてやるべきだろうか。口をへの字に曲げた綱吉は何も持っていない自分よりもずっと前を早足で行くバジルの背中を眺め、彼が消えた台所ではなくその奥の洗面所へ先に足を向けた。
 幾つか並んだ籠の中から洗濯を済ませてあるタオルを一枚引き抜き、今度こそ台所へと。だが最初、入り口近くにしゃがみ込んでいたバジルの居場所が分からなくてきょろきょろしてしまって、足元に彼が居るのに気づくのが遅れた。
「っと、うぁ」
 危うく蹴り飛ばした上で転ぶところで、寸前で飛び退いた綱吉にバジルは不思議そうに首を傾げる。綱吉としても足元不如意でぶつかるところだったとは言えず、曖昧に笑って誤魔化そうと試みた。
 そこへ、再び。
 晴天下では滅多に起こり得ない轟音がふたりの鼓膜を激しく揺さぶった。
「わっ」
 今度こそ本当に驚きを前面に出し、綱吉は胸元でタオルを握りつぶす。見えもしないのに空を仰ごうと天井を見上げた彼に、バジルも米袋を棚に片付け終えて戸を閉めて立ち上がった。
 狭い台所、ふたりの肩がぶつかり合う。我に返って横向いた綱吉は、思いがけず近くにバジルの顔があってまた驚いた。
「あ、すみません」
「いや、えっと、ううん」
 ぶつかったことを謝罪するバジルに、何処と無く居心地の悪さを覚えて綱吉は控えめに首を振った。
 また轟音が空気を震わせ、変な風に向き合ったまま停止した綱吉は瞬間的に首を窄め、自分の体を抱き締めた。
「近い、ですね」
「うん」
 窓に視線をやったバジルが呟き、同意した綱吉が自分の上腕部を撫でさすりながら頷いて返す。そろりと摺り足で床を擦り窓から外を窺い見れば、さっきまで晴れていたはずの空が薄闇に包まれていた。庭の地面を濡らしていた木漏れ日も、姿を隠してしまっている。
「降る?」
「降りそうだったので、急いで戻って来ました」
 ずっと家の中、屋根のある場所にいた綱吉は気付かなかったが、バジル曰く西から入道雲が迫り空を覆い隠そうとしていたらしい。陽射しが遮られるのは嬉しい限りだが、夏場の積乱雲は少し危険だ。
 奈々に頼まれ、少し遠いスーパーまで大安売りしていた米を買いに行ったバジルは、その帰り道に雲の行方に不安を感じて走って戻って来たのだと言う。そうなると逆に、雲が広がる最中に出かけて行った奈々たちが心配になってくる。
 時間的にはもう駅前の商店街についている頃だろうか。流し台に手を置いて不安げに表情を曇らせた綱吉の視界に、ぽつりと何かが落ちた。
 雨だ。
「来た」
 雷鳴もまだ断続的に響き渡り、鼓膜を刺激し続けている。少しずつ距離が迫っているのが分かり、最初は十秒間に数滴だった雨粒も、瞬きの間に量を倍々ゲーム並みに増やしていった。
 バケツをひっくり返したような、とはこんな雨の事を言うのか。
 あまりの見事な降り具合に感心して、つい見入ってしまう。
 だがザーザーと耳を流れて行く雨音に聞き惚れている暇が無い事に、綱吉はたっぷり十秒後漸く気付いた。
 やばい、と叫んでタオルを握った手で口元を覆い隠す。横向いたバジルが怪訝な顔をして、綱吉の動転具合に彼もまたとても重要なことをひとつ思い出した。
「洗濯物!」
「窓!」
 ふたり同時に別々の事を叫ぶ、だが内容はどちらも似たり寄ったりだ。
 互いを指差して顔を付き合わせたふたりは、どうしようかとその場で足踏みした後弾かれたように別方向へ走り出した。
 綱吉はリビングへ続くドアを騒々しく開け放ち、バジルは台所から廊下へ飛び出して、階段へ。
「うひゃー」
 照明を消したリビングには子供たちが遊んだ玩具がそのまま放置され、足の踏み場も無い。だが進まなければ反対側の窓まで到達できなくて、綱吉は心の中でランボに謝りながら道を塞ぐ玩具の電車のレールを蹴り飛ばした。
 バラバラになったレールのひとつを踏んでしまい、表面の凹凸が足の裏に突き刺さって痛い。しかも汗ばんだ肌に張り付いて外れず、綱吉は苛立たしげに舌打ちすると右脚を振り回して慣性の法則任せに壁に弾き飛ばした。
 後で知られたら泣かれるだろうか、だが構ってもいられなくて、綱吉は仕切られていたカーテンを一気に右へ薙ぎ払い、銀色の錠を下に倒して窓を開けた。
 途端、風に煽られた無数の雨粒に襲われ、目も開けられない。両手で顔を庇って室内に押し戻そうとする風に抵抗した綱吉は、辛うじて雨を避けた左目で縁側前にあるはずの奈々のサンダルを探した。
 前方では物干しに引っかかった夏用の衣服が、ぐったりした様子で頭を垂れている。やっと見つけたサンダルに爪先を押し込み、綱吉は殆ど転がるようにして庭へ降り立った。バランスを崩して前のめりに倒れそうになったのを、クロールみたいに腕を振り回して回避して、すっかりぬかるんだ地面を踏みしめる。
 豪雨は止まらない、一瞬で真っ暗闇が押し寄せて雷光が時折世界を白く染める。轟音が響くたびに肩を竦めて身を小さくし、落ちないだろうかと不安に顔を歪めながら綱吉は懸命にハンガーから洗濯物を引き千切っていった。両手の中は直ぐにいっぱいになり、開けっ放しの窓に駆け戻って雨が被らない位置まで放り投げてからまた物干し台へと。往復すること合計三回、やっと竿に空っぽのハンガーしか残らなくなったときには、綱吉の方がびしょ濡れだった。
 雨を含んだ髪の毛が重い、着ている衣服もぐっしょりと濡れて肌に張り付いて簡単に剥がせそうにはなかった。
「ひやぁぁぁ」
 この状態で家の中にあがったら、折角回収した洗濯物を余計に濡らしてしまう。床に点々と水の跡を残すのも忍びない。
 手にしていたタオルは、気づけばなくなっていた。恐らく洗濯物を取り込んでいる最中に、他のものと一緒に紛れたのだろう。顔を拭くことも出来なくて、綱吉は縁側前の軒下に逃げ込むと白く濁った息を吐き出した。腕で顔を拭うが、腕自体が濡れているのであまり意味は無い。
 見上げた空はまだ暗いが、上空は風があるのか雲の動きは随分と速かった。西を向けば、薄ら光が舞い戻りつつあるのも見て取れた。
 雫を垂らす前髪を指で弾き、綱吉はぼんやりと晴れ空が次第に面積を広げていく様を見やる。
「沢田殿、大丈夫ですか」
 まだ雨は振り続けていたが、雨脚は一時の激しさを失って急速に勢いを弱めつつあった。庭を囲む樹木や草花も、連日の炎天下で随分萎びた様相を呈していたのに、この夕立ですっかり勢いを取り戻して緑の瑞々しさを新たにしていた。
 後ろから声を掛けてきたバジルに、振り向いて淡く微笑む。
「うん、俺は平気」
 それよりも洗濯物が、と窓からかなり向こう側で乱雑に散らばっている衣服類に目をやれば、確認済みだったらしいバジルが大丈夫です、と矢張り胸が暖かくなる微笑みを浮かべた。
「沢田殿がご自分を顧みずに頑張ってくださったお陰です」
「そんな事、ないよ」
 無我夢中だっただけで、バジルが言うような立派な精神でやったわけではない。大袈裟に褒められると照れ臭くて、綱吉は小さく舌を出しながら濡れた髪の毛に指を入れて頭を掻き毟った。首を振ると絡みついた水滴が周囲に飛び散って、バジルが声を立てて笑った。
「タオル、持ってきますね」
「うん、ありがとう」
 彼の申し出に素直に礼を言い、視線は再び外の世界へ。
 降り始めも唐突だったが、降り止むのも唐突だ。空はすっかり明るさを取り戻し、今しがた豪雨に見舞われたなどとても信じ難い色をして太陽が雲間から顔を覗かせている。
 この様子ならば、奈々たちが帰って来る頃にはすっかり晴れ模様だ。傘を持って出て行ったとは思えないが、往復で雨に遭遇さえしなければ必要の無い代物に違いない。
「沢田殿、着替えないと風邪をひきますよ」
 後ろで手を結び、背筋を伸ばしてほんの少し下がった空気の流れに身を委ねる。乾いていた地面は潤いを取り戻し、力なく項垂れるばかりだった植物は皆そろいも揃って顔を上げ、過ぎ去る雲に礼をしている。長い緑の葉から零れ落ちた大きな水滴は、どんな宝石よりも綺麗な輝きを放った。
 舞い戻ったバジルに言われ、腰を捻って振り返る。膝を折って視線の高さを外にいる綱吉と揃えた彼は、バスタオル以外にも着替えとなるシャツとズボンまで持って来てくれていた。気を利かせてくれるのはありがたいが、しっかりと替えのトランクスまで渡されたときは流石に苦笑が零れた。
 樹木に水滴が跳ね、キラキラと世界が輝きだす。目を細めた綱吉の斜め後ろに膝をついてしゃがみ、バジルもまた窓に片手を添えて綱吉と同じ光景を瞳に映した。
 涼しい風が火照った体を冷やし、心地よい感覚を呼び覚ます。湿度は上がったがもう間もなく日も暮れて夜が来る、気温はもう上がらないだろう。
 今夜は久しぶりに、蒸し暑さに苦しむ事無く眠れそうだ。
 ホッとしたからか、急に寒気が舞い戻ってきて一斉に鳥肌が立った。優しく頬を撫でていた風も、いつしか体温を奪い去る無情な冷たい手を翻すようになっていた。
 両腕で身体を抱き締め、激しく擦る。肩に柔らかなものが落ちてきて、顔を上げれば立ち上がったバジルがそこにいた。
 広げたバスタオルに、髪から落ちた雨雫が吸い込まれていく。
「あ……りがと」
「どういたしまして」
 タオル地の上から左右の肩を叩かれ、綱吉は若干声を震わせたまま整ったバジルの顔を見上げた。蘇った西日を浴びる姿はある種神々しくも見えて、彫像めいた立ち姿に頭がボーっとなる。
「沢田殿、あそこ」
「――――」
「沢田殿?」
「へ?」
 意識が他に向きすぎていて、呼びかけられていたことにさえ気づけなかった。軽く抱かれるだけだった肩を叩かれ、ハッと我に返れば触れる寸前まで顔を近づけたバジルが、大きな瞳を不審げに翳らせていた。
 吸い込まれそうな透明な輝きに、息を呑む。
「な、なに?」
 吐息が互いの鼻先を掠めあい、その熱に冷えたはずの身体が体温上昇を開始する。胸の前でバスタオルの両端を握り締めた綱吉に、バジルは何処までも平静な態度を崩さずにこりと微笑んだ。
 そして徐に右手を持ち上げ、綱吉の肩越しに空の一角を指差す。
「あそこ、見えますか」
「なに?」
 ぎこちない動きで首を回し、バジルの指先を追いかけて綱吉は視線を持ち上げた。
 雨に洗われて澄んだ空気の向こうで、雲間から顔を出した太陽を跨ぐように虹の橋が架かっている。
 左側が少し薄く欠けているものの、ほぼ半円形。ちょうどそのアーチを潜る形で、飛行機が西の空に消えていった。
 言われているような七色ではないけれど、四、五色なら見分けがつく。リボーンのおしゃぶりの色である黄色も、微かに。
 瞳を細めて虹に見入った綱吉は、だからその嬉しげな横顔をバジルがじっと見詰めていたのを知らない。
「あー、消えちゃう」
 時間をおかずゆっくりと空に同化して霞んでいく虹に、残念だと唇を尖らせる彼に微笑んで、綱吉の肩に置いたままの手を彼の輪郭に添って下ろしていく。綱吉が気付くより早く、肘の先に到達したバジルの腕は、いとも呆気なく彼の体を捕らえて包み込んだ。
「バジル君?」
「消えません」
 後ろに軽く引っ張られ、綱吉は縁側の角に膝裏をぶつけて姿勢を崩す。上半身を斜めに寄りかからせた綱吉の声に、彼は静かにそんな事を口にした。
「消えませんから」
 耳元で囁かれ、熱に耳朶が擽られる。思わず首を窄めて息を呑んだ綱吉に、構わずバジルは腕の力を強めて綱吉を自分の側へ引き寄せた。
 綱吉の髪から滴った雫が、バジルの頬を濡らす。
「ほんとに?」
「はい」
 空も、虹も。
 望めばいつでも、直ぐ傍に。
 瞳に焼き付けた光景は、決して色褪せることなく。
「……そっか」
 胸元に回された手に己の手を重ね、綱吉が小さく笑む。
「んじゃ、いっか」
 再び仰ぎ見た空は、今度は緩やかに朱色に染まろうとしていた。

2007/8/13 脱稿