喜色

 遊園地に行きたい、と言われた。
「無理だって、お金ないよ」
 そう反論したものの、一度火がついた子供の欲望は早々には消えてくれなかった。
「駄目だってば」
 それでも行きたいのだと駄々を捏ね続ける相手をなんとか宥めようとするものの、相手は全く聞く耳を貸してくれない。
 ぎゃあぎゃあと泣き喚き(そうすればこちらが諦めて妥協していう事を聞いてくれると思っている分、非常に厄介だ)、騒ぎ倒し、物を投げ、人に殴りかかり、引っ掻き、鼻水を撒き散らし、暴言を吐いて憚らない。そして目の前の存在が、それでも自分の我が儘を許容してくれないと悟ると、一瞬にして矛先を変え、新たな生け贄にしがみつく。
 次なる被害者は、最初の犠牲者よりももっと心優しく温和であればあるほど効果は倍増するのだと、彼は小さいながらに熟知していた。
「……沢田殿」
「だから~」
 ランボに縋りつかれたバジルが、心底困った顔で綱吉を見る。まだこれが奈々であったなら駄目だと突っぱね続けられたかもしれないが、よりにもよってそちらに動くとは。
 幼子なりに、我が儘に比較的寛容な存在を判別したらしい。更に付け加えるならば、綱吉が拒み難い相手を。
 がっくりと項垂れた綱吉は、参ったなと口の中で呟いて頭を利き腕で引っ掻いた。指に絡まった髪の毛を引っ張ってしまい、痛みに奥歯を噛んで解いていく。ひりひりとした感覚に、彼は二度立て続けに溜息を零した。
 いつまでもぐずり続けるランボを抱きかかえ、優しくあやしてやりながらバジルが目を細める。まだ鼻を鳴らしている五歳児――否、もう六歳か。大差ないが――は、彼の着ているシャツに遠慮なく涙と鼻水をこすりつけて「行きたい、行きたい」と小さな声で連呼し続けていた。
 とはいえ、遊園地などそう容易く行ける場所ではない。先ず問題として、高額の入場料をいったい誰が払うというのか。
 綱吉には無理だ、断言できる。自分ひとりが入るのさえ不可能な残高しか、今の彼の財布には残されていない。
 ランボは幼児料金で良いかもしれないが、中学生となった綱吉に割引は利かない。それに、場所によっては遊具に乗るためにも料金が発生する遊園地だってあるのだ。
 内部に入ってしまえば食事代も高い。ジュース一本で三百円、四百円は当たり前。しかもランボは見境というものがないので、興味を持ったものには何にだって特攻していく。それで遊具を壊したり、他のお客さんに迷惑をかけたりするので、目が離せず付き添いの人間はのんびりと楽しむ暇さえ与えられない。
 正直この子の相手は家の中だけで充分だ。
「俺はお金出してやれないし、それにもう、昼回ってるだろ。今から行っても直ぐ帰ってこなきゃならなくなるぞ」
 また、遊園地には身長制限を設けている遊具も多い。名物であるジェットコースターなどの絶叫系は勿論のこと、日本で言えば幼稚園児に当たるランボが遊べるものは、限られる。
 それでもこの子の性格を考えれば、現場で駄々を捏ねるのは目に見えているし、ランボをひとり残して綱吉たちだけでコースターに乗るわけにもいかない。
 遊びに来ているのに遊べないのは、綱吉だって嫌だ。
 だから我慢しろ、とバジルの胸の中で盛大に鼻を鳴らしている子の丸い頭を小突くけれど、恨めしげに涙で歪んだ目で睨まれるだけで、ランボはさも綱吉が悪いという顔をする。
 ランボほど自己主張が強くないイーピンも、綱吉が劣勢と見るやちゃっかり近くに控えておこぼれに預かろうとしている。ランボだけを連れて行くのは、一緒に暮らしている手前、不公平になってしまう。仲間外れにしないためにも、行くとなったら彼女の面倒も見ざるを得ない。
 頭痛の種がまたひとつ増えて、綱吉は盛大に肩を落としながら額に手を置いた。心持ち、熱があるようにも感じる。
「どうしましょう、沢田殿」
「俺に聞かれても」
 せめて遊園地ではなく、動物園くらいなら何とかしてやれるのだが。
 思っても、言えばランボは図に乗るので口に出さず、綱吉は何度目か知れないため息を零して壁の時計を見上げた。
 昼食を終えてから、もうじき二時間。最寄りの遊園地へ行くにも、電車とバスを乗り継いで軽く一時間半はかかるので、本当に行っても直ぐにとんぼ返りだ。夕食は家で、全員揃って食べることになっている。遊びに行った先で奢ってやれるような余裕は、何処にもない。
「とにかく、駄目なものは駄目。あきらめろ」
 大きな目を平らにして精一杯綱吉を睨むランボの額に人差し指を突きたて、こちらも負けずに睨みを利かせてランボに言い聞かせる。これで納得しないようであれば、お手上げ。見放すしかない。
 大体下手に構ってやるから、調子に乗るのだ。たまには一切相手をせずに放置しておく方が、ランボの教育上も良いはず。
 けれどいつまでも涙を零し、今では声も枯れたのか鼻を鳴らすばかりの幼子を見ていると、心苦しいというのだろうか、こちらがあくまでも正論なのに自分が間違っているような気分にさせられる。
 憂鬱だ。
 ずり落ちかけたランボを抱き直し、バジルが長めの前髪を手で梳いて耳に引っ掛ける。それでも柔らか過ぎる髪の一部は頬へ落ちて、サラサラと音が聞こえそうなくらいに彼の肌を擦っていった。
 日に透かすと鮮やかな琥珀色にさえ見える髪の毛の行方を目で追いかけ、最後に引き結ばれている唇に到達した綱吉は慌てたように目線を上向けて天井を見た。何故か一緒に背筋も伸びて行儀良く畏まってしまい、バジルには不思議そうにされてしまった。
「沢田殿?」
「な、なんでもない」
 名前を呼ばれ、返事がどもる。微妙に気恥ずかしくて正面から彼を見返せず、綱吉は首筋に熱が登ってくるのを感じ取ってそうと知られぬよう、彼との距離を踵半分だけ後ろへ広げた。
 しかしバジルが、折角広げた距離の五倍近くを、一気に詰め寄ってきた。
 間に挟まれたランボが、おや、という顔をしてふたりを交互に見上げる。
「ところで、沢田殿。拙者、良い事を思いついたのですが」
 あくまでも表面上はにこやかな笑顔を絶やさず、前髪に片目を隠して隻眼となったバジルが、赤くなっている綱吉の顔を更に赤くさせながら言った。
 彼の吐く息が鼻の頭にぶつかり、砕け散る。綱吉は「へ?」と目を丸くしつつ、強制的に視線を合わせられた現実に困惑した。
「なに?」
「行きましょう、遊園地」
 顔が至近距離過ぎる方に意識が向いていて、綱吉は咄嗟に彼が何を言ったのか頭の中で理解仕切れなかった。
 ランボもまた、急に話が展開を見せたことに見た目の割に中身が小さい頭が追いついていないようだ。指を咥え、ぽかんとしている。
「バジル君?」
「善は急げ、です。行きましょう、遊園地」
 満面の笑みを零す彼の無邪気さに圧倒され、反論の声を放つ隙も与えてもらえない。
 早く、早くと急かされる。まるでこの一秒が万金に値するかの如く。
 この頃にはもう、ランボですら事の見通しが明るくなったと理解したようで、それまでぐずっていたのが嘘のようにパッと表情に花を咲かせてバジルに礼を言いながら嬉しげに抱きつく。イーピンも跳ね上がって喜んでおり、状況としては綱吉だけが置いていかれている形だ。
「え、ちょっ」
「沢田殿、早く」
 イーピンを従え、ランボを抱き締めたまま、バジルは綱吉の部屋から廊下へ出るべく勢い良くドアを開けた。

「……で」
 風が吹き荒んでいる。
 地上より大分高い位置に来ているので、それも仕方がないだろう。付け加えるなら、周囲にはもっと空に近い高層ビルが立ち並び、細い隙間を駆け抜ける風がより速度を増しているので、時折身を攫われそうな突風さえ吹く始末。
 だが大人でも乗り越えるのに苦労するだろう頑丈なフェンスが周囲をしっかりと取り囲んでいるので、少なくとも地上へ落下する心配は今のところ、無さそうだ。むしろこの風がひとつのアトラクションと化しており、煽られて転ぶ寸前まで行く強風が吹くたびに、子供たちからは甲高い歓声があがっていた。
「確かに、遊園地、だね」
「でしょう?」
 沢田家から徒歩と電車で約三十分と少々。こんな都心部に遊園地なんてあっただろうか、と疑問符を浮かべる三人を引き連れてバジルが案内した先は、とあるデパートの屋上だった。
 つまるところ、屋上遊園地。昭和の懐かしさが微妙に残る、古いものと新しいものが混在する子供向けのスペースだ。
 広くは無い、あくまでも屋上の一角に設けられているだけで、アトラクションも、昔の映像で見た屋上観覧車なんてものはとっくに撤去されてしまっている。あるのはコインを入れると一定時間動く乗り物や、網で囲まれたスペースに大量のボールが入っているような遊戯施設、矢張りコインを入れればカードや玩具が出てくる販売機等々。
 綱吉からすれば子供だましに違いない設備であるのだが、ランボやイーピンにとっては、こういう場所自体が初体験だったようで、予想外に目をキラキラと輝かせていた。
 この考えはなかった。遊園地と言うとどうしても、広大な敷地に大型アトラクションが乱立し、高い入場料をせしめ取られて、乗り物に乗るのさえ一時間待ちも当たり前の空間ばかりが頭を過ぎる。しかし言われてみれば確かに、こんな風にデパートの屋上に設けられた施設も、小さいながら、遊園地の名前は確かに冠されている。
 しかも入園料はタダだ、遊具もちゃちなものばかりだが、お金を使うものにしたって千円あれば充分事足りる。
 基本的に幼児、子供向けのものばかりなので身長制限も気にする必要がない。幼稚園にも通わずに家の中で過ごすことが多いランボやイーピンにしてみれば、同年代の子供と一緒に遊べるだけでも充分に楽しいだろう。
 アイデアの勝利といったところか。綱吉は走り去った子供たちの背中を見送り、ふたりに手を振ったバジルに向き直って苦笑した。
 自分の固定観念でガチガチになっていた頭では、この解決策は出てこなかった。最初はどうなることかと思ったが、彼のお陰でランボの機嫌もよくなったし、綱吉の財布もそう痛まずに済んだ。
「ありがと」
「はい?」
 彼が居てくれてよかったと思う。心から礼を述べたつもりだったのだが、バジルは人の顔を見て何故か首を傾げた。
「え、だって」
「拙者はお礼を言われることなど、何もしていませんよ」
 彼が打開策を提案してくれなければ、綱吉は今頃ランボ共々不機嫌に家で時間を潰していただろう。けれど今のあの子は満足げに笑っているし、イーピンも楽しそうだ。綱吉もホッと胸を撫で下ろしている。
 それも全部、彼のお陰。綱吉としては礼を言う動機は充分あるのに、バジルはなかなか受け取ろうとしない。
 十人は越えるだろう子供たちの輪に飛び込んでいったランボが、一際大きな声で笑っているのが聞こえる。いつまでも入り口付近に突っ立っているわけにもいかず、綱吉はバジルに促されるままに端の方にある、背凭れが一部損壊しているもののまだ充分現役の長椅子へ腰を下ろした。
 いつものように調子のいい、どこか下品な笑い声を響かせ、ランボは手にしたボールを無茶苦茶に放り投げて遊んでいる。ぶつけられた子は負けじと彼に投げ返し、更に別の子が輪に加わって網の中はちょっとした騒動になっていた。
 怪我をしない程度にやってくれればいいんだけれど、と子供同士のじゃれあいを眺め、綱吉は膝に肘を置いて背中を丸める。
 ランボの親はイタリアだろうし(話を聞いた事もないけれど)、イーピンは中国だ(右に同じく)。今この場であの子達が問題を起こした場合、保護者として責任を問われるのは綱吉である。バジルも一緒だが、彼まで巻き込むのは正直心苦しい。
 だから何事もなく、彼らが遊び飽きるまで無事に過ぎてくれるといい。そう祈りつつ、綱吉は吹き荒ぶ風に嬲られる一方の髪の毛を片手で押さえ込んだ。
 周囲は建物に囲まれているが、比較的近くには背高のビルが少ない。風は強いものの、その分空も随分と地上より近く感じた。
 流れて行く雲の隙間に太陽が見え隠れし、弱い日差しが白いカーテンとなって地表を照らしている。気温は高めだけれど珍しく湿度は低く、風もあるのでこの場所は過ごし易い。毎日こんな天気だったらいいのにな、と思うのだがそう甘くないのが世の常だ。
 明日からはまた南から上昇してきた高気圧に覆われて、気温もぐんぐん上がって蒸し暑い日が始まるらしい。勢いもかなり強いようで、これを追い出す別の気圧も付近に観測されていないから、当分日本の上空に居座りそうだとかなんとか、言っていたのは今朝の天気予報士だ。
 言っている内容の半分も理解していないが、なんとなく印象に残って覚えている台詞を頭の中に繰り返し、綱吉は頬杖を作り直して肩の力を抜く。
 いつの間にか、隣に座っていたはずのバジルがいなくなっていた。
「あれ?」
 顔をあげ、同時に姿勢も真っ直ぐに戻した綱吉が慌しく周囲を見回す。けれど近くに異邦人の姿はなく、何処へ行ったのだろうとベンチから腰を浮かせかけ、彼はしかし考えを改めて再び椅子に深く腰掛けた。
 ランボやイーピンの姿が見えなくなるのは心配だが、バジルは綱吉と同年代であり、武術も嗜んでいるのでよっぽどでない限り大丈夫。子供たちの方へ行ったのかと思ったが、そこにはイーピンに反撃を食らっているランボの情けない姿しか見えず、相変わらずだなと苦笑が漏れて綱吉は肩を竦めた。
 中国舞踊を披露するイーピンの動きには、見守っていた保護者も拍手を送るほど。照れ臭そうに頭を下げた彼女の動きはあくまでもいじらしく、対してこてんぱにのされたランボは、情けないことこの上ない。
 余計な事をするからそうなるのだと、そろそろ教訓から学んでくれてもいいのだが。
「寝て起きたら、忘れるんだよな」
「何がですか?」
 いつまで経っても成長が見られないランボに辟易して呟いた独り言に、思いがけず質問が返される。頬杖ついた掌から顎がずり落ちるところで、吃驚させられた綱吉は大慌てで首を右に捻った。
 腰は前傾したままなので、若干姿勢が苦しい。腸が捻られる感触に気持ち悪さを覚え、向こうが後ろからベンチを回りこんで前に来るのに合わせ、綱吉も背筋を真っ直ぐに伸ばした。
「バジル君」
「どうぞ」
 何処へ行っていたのかと問おうとしたのだが、差し出されたもので聞くより前に答えが分かってしまった。
「有難う。あ、お金」
「いいですよ、これくらいなら」
 塔のように高く渦を巻いてそそり立つバニラアイスクリームをひとつ綱吉へ手渡して、バジルは隣に腰を落とす。
 子供たちに見付かったらまた大騒ぎになりそうだが、ちらりと盗み見たランボはウレタンのボードを振り回して遊ぶのに夢中になっており、綱吉たちが手にしている甘いものに気づくのにはまだ時間がかかりそうだった。
 飛びかかって来られる可能性が減って、安堵した綱吉は既に先端が汗をかき始めているそれに遠慮なくかみついて、冷たさと甘さに頬を緩めた。
「ん~~……」
 家ではアイスキャンディーが主たる氷菓だから、柔らかなソフトクリームを食べるのは随分と久しぶりだった。外へ出ても喉の渇きを癒すために飲み物を多く取るので、円錐の上にたっぷりととぐろを巻いたこれを食べる機会も、どちらかと言えば少ない。
 口の中いっぱいに広がっていく美味しさに肩を震わせる綱吉に苦笑し、バジルもまた自分の分に舌を伸ばした。口を大きくあけてかぶりつく綱吉に対し、彼はちょっとずつ表面を舐めて形を崩していく。
 遊戯施設とは距離があるのに、ランボのけたたましい笑い声はひっきりなしに綱吉たちの耳にまで届けられる。元気が有り余っている彼を連れ出したのは、ある意味正解だっただろう。あのエネルギーを家の中で発奮されてしまっては、壁の一枚くらい突き破られていたかもしれない。
 面倒をかけてしまったと、申し訳ない気持ちで盗み見たバジルの横顔はしかし、楽しげだ。
 アイスの減り具合は綱吉の方が早く、バジルの指には解けたクリームがコーンを伝って零れ落ちていた。早く食べなければいけないだろうに、彼の口は時々動きが止まる。視線の行く末を追えば、はしゃぎ回るランボとイーピンと余所の子供達に向けられていて、その瞳の色は限りなく優しい。
「バジル君、溶けてる」
「え? あ、本当ですね」
 このままではどんどん食べられる部分が減っていってしまう。声を掛けた綱吉に、バジルは一瞬身を硬くしてから我に返って自分の手元に目を向けた。
 腕を持ち上げて親指に流れていたクリームを舐め取り、コーンの表面に出来ていた川にも舌を辿らせる。最後に崩れかかった山にわざと雪崩を起こして口腔に招きいれ、小さな喉仏をゆっくりと二度に分けて上下させた。
 何故か一連の彼の動作から目が離せず、今度は綱吉が手にクリームを滴らせる。
「うわっ」
 指の股に潜り込んだ冷たさに驚いて、声を出した彼は周囲の人が振り返る様に顔を赤くして慌てて俯いた。
 隣ではバジルも笑っている。食べる速度よりも溶ける速度が上回っていると悟った彼は、今度こそ目の前の食べ物に集中することにしたらしい。
 綱吉も、大暴れ中のランボから出来る限り目を離さないようにしながら、黙々とアイスの処理に勤しんだ。
 デパート屋上のもっと高い中空には、ロープで固定されたアドバルーンが垂れ幕を揺らしながら漂っている。突風に煽られながらも懸命に地上を行く人へアピールしているその存在を、しかし果たしてどれくらいの人が目にし、気に掛けているのだろう。
 綱吉もこのベンチに座るまでは、殆ど気にもしなかった。
 考えてみれば、空を近くで、のんびりと見上げるのも久しぶりだ。
 何かと慌しかったし、余裕もなかった。目まぐるしく変わる世界に置いていかれないように必死で、周囲の景色に目を配る暇さえなかった。
 戻ってきた日常が、なんと心強い。
「ありがとうね」
 遠く離れていても、心配して探してくれていたのだと聞いている。彼も仕事があって忙しかっただろうに、休日も、寝る間も惜しんで綱吉を呼んでくれていたと風の噂で聞いた時は、申し訳なかったという気持ち半分、そして残り半分は、不謹慎ながらも嬉しい、と思った。
「はい?」
 けれど矢張り礼を言われる理由が分からない、とバジルはコーンの塊を噛み砕きながら首を傾げる。サラサラの髪の毛先が風に揺れ、綱吉の視界で波を打った。
 子供たちの声が、楽しげに狭い屋上に響き渡る。
「いや、だから」
 どう説明して良いものか分からず、綱吉は口の中に残るコーンの欠片を頻りに気にしながら言葉を捜して視線を浮かせる。目に付いた真っ赤なバルーンは当て所なく宙を彷徨い、翻った下に吊るされている広告は角度がきつすぎる所為で文字が読めなかった。
 両手を空にしたバジルが、ベンチにその手を投げ出す。左手の指先が綱吉の手首に当たり、跳ね返って手の甲へと落ちていった。
 どきりと跳ねた心臓に、綱吉は腰を浮かせようとして背中をベンチの背凭れから引き剥がす。けれど重くもない筈の彼の手を押し退けられなくて、綱吉は困った顔をしながら微笑んでいるバジルを見返した。
「拙者は、沢田殿に礼を言われるようなことはなにもしておりませんよ」
 細められた瞳に魅入られて、綱吉は左右に慌しく目線を動かした後、最後に首筋に汗を浮かべて項垂れるように俯いた。
 赤い顔をバジルからも、周囲からも隠して、奥歯の裏側に残っていたコーンを舌で穿り出す。
 生温い風が汗ばんだ肌に絡みつき、毛足を擽って逃げていく。重なり合った部位に僅かに力を込めたバジルの、直接感じ取る体温や息遣い、心音に逐一緊張して、綱吉はぎこちない動きで唾を呑んだ。
「拙者は、沢田殿が笑ってくださるのなら、それで」
 我が儘を言って聞かないランボのために、この場所へ案内したのも。
 何もしていないのに疲れた様子で、肩の力を抜けないで居る綱吉にアイスクリームを差し出したのも。
 行方不明となった綱吉が無事に戻って来た直後、仕事もあるだろうに強引に休みをもぎ取って日本まで駆けつけてきたのだって。
 全部が、全部。
 笑いたかったからだ。
 綱吉が笑っている姿を見て、自分も一緒に笑いたかったからだ。
「拙者は、こう見えてもランボ殿に負けない我が儘なんですよ」
 にこりと臆面なく笑いかけ、彼は綱吉の指を握った。掌をベンチの底板から少しばかり持ち上げて、親指を人の指の腹にこすり付けて撫でてくる。
 柔らかな感触は心地よくもあり、電流が走って痺れていく感覚もあり、混ざり合ってよく解らない。けれど確かにいえることは、この温もりが嘘偽りのものではなく、確かに自分たちは同じ時間を隣で共有しあっているという、そういう事。
「それって……自分で言うこと?」
「さあ」
 自慢げに我が儘を誇られても、笑えない。声を潜めやっとそれだけを言い返した綱吉に、バジルは笑みを崩さずに素早く綱吉の額に触れるぎりぎりの、跳ね上がった髪の先にキスをした。
 一瞬の突風に周囲の意識が攫われて、誰もふたりを見ていない。心臓を縮めた綱吉だったが、直後手の拘束も解かれてバジルが立ち上がって、思わず縋る目で彼の背中を追いかけてしまった。
 彼がこのまま、風に消えてしまいそうな。
 あり得ないと分かっていても伸ばした手は彼の白いジャケットの裾を掴み、遅れて立ち上がった綱吉を振り返った彼は大丈夫、と瞳を眇めた。
「拙者は、沢田殿を置いて行ったりはしませんよ」
 それは嫌味か、と直後綱吉は口元を歪めて視線を逸らしたが、声を立ててバジルが笑うので深く考えないことにする。
 力が抜けて布の隙間から零れていった綱吉の手は、完全に離れる寸前にバジルの左手に吸い込まれた。今度こそきつく握られて、引っ張られる。
「え、ちょっ」
「ランボ殿、イーピン殿、そろそろ休憩にしませんか?」
「ランボさん、オレンジジュース飲む!」
 虚を衝かれてつんのめった綱吉を他所に、そろそろ遊び疲れただろう子供たちに右手を振ってバジルは遠くに声をかけた。即座に顔を上げたランボが目を輝かせて叫び返し、横にいたイーピンもまた、聞き取れない言語でバジルに言葉を返した。
 置いていかないと言ったくせに、早々に綱吉を置き去りにしている。
「バジル君!」
「沢田殿、あれ」
 舌の根も乾かぬうちから、と怒鳴り声を上げた綱吉をかわし、頭上に何かを見つけたバジルが空を指差した。
 促されて見た西の空を覆う雲間から光が射し、幾重にも重なり合ったそれは、さながら白いオーロラ。神々しく輝く光の調べに、綱吉は怒りなど忘れて息を呑む。
 駆け込んできた子供たちがそんな綱吉の脚にタックルを仕掛けてきて、危うく転ぶところだった身体は正面からバジルにしがみつくことで守り抜いた。
「こら、お前ら!」
 危ないじゃないか、と鬼の形相で子供たちを叱り付けた綱吉だったが、その頃にはもう彼らはきゃー、という甲高い悲鳴と共に逃げ出しており、小さな背中がふたつ並んで遠くへ駆け抜けていく。
 行き場を失った感情を溜息と共に吐き出して、しがみついているものに寄りかかり、綱吉は首を振った。天地を逆転させた髪の毛がバジルの胸元を擽り、此処に来てやっと、自分が何を頼りに立っているのかを思い出した綱吉は、大慌てで彼から三歩距離を作る。
 苦笑を浮かべたバジルが、ずっと握られていた所為で痛かっただろう腕を交互にさすった。
「ごっ……」
 咄嗟に謝ろうとした綱吉の口に、バジルの細長い人差し指が押し当てられる。
 黙れ、の合図。不用意に唇を開けば噛んでしまう位置のそれに、綱吉は面食らった顔で吐き出そうとしていた息を飲み込んだ。
 下向いた瞳が正面に戻り、綱吉が自分を中心に見ているのを確認してから、彼は唇の形に添う格好で指を右にずらしていった。柔らかな赤い皮膚の上からはみ出て、上下に開くつなぎ目の角に落ち、そこよりも少し斜めにいった地点で動きは止まる。
 押し付けたまま動くので、引きずられた皮膚が彼の指の上で撓んでいた。
「謝るより」
 彼の指によって作り出された綱吉の表情が、少々強引であるものの、傍目から見たらどんな様子なのか。
 鏡を見なくてもなんとなく理解して、同時にバジルが言いたがっていることも読み取って、綱吉は怒らせ気味だった肩を落とし鼻から息を吐き出した。
 少しだけ首を前に倒して横に振り、彼の手を解く。大人しく引いていった彼のために、綱吉は数秒顔を伏したまま目を閉じた。
「沢田殿?」
「うん、大丈夫」
 小声で返事をして、それから瞼を持ち上げる。
 後ろではランボがジュースを強請る声が止まない。肩を竦めた綱吉は、ゆっくりと首も上向けてバジルに向き直った。
 心からの、笑顔と共に。

2007/7/15 脱稿